何度目かの川崎市立日本民家園(2)
奈良町屋の典型的な形式を備え、しかも現存する最古の部類に属するもので、奈良町の町屋の発展を知るうえで貴重な存在だそうだ。
油屋の時も線香屋の時も可燃物を扱っていたからだろうか。店や座敷には囲炉裏などは無い。土間でに炊きをしていたのでその暖気が多少はあるにしても、相当に寒かったのではないかと思う。



『通り土間』なのだろうが、非常に寒そう。何しろ火の気は竈の火のみだから。人ばかりでなく風もたくさん通り抜けそう。

神奈川県指定重要文化財
旧所在地:奈良県奈良市高畑町
建物区分:商家
構造形式:切妻造、桟瓦葺、一重、一部二階、桁行7.9m、梁行12.7m
建築年代:17世紀末期~18世紀初期
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
狭い間口を活かした奈良の商家
この建物は奈良の柳生街道に面した商家でした。古くは油屋を営み、のちに線香屋としてその製造販売を行っていました。
外観は正面に庇を設け、吊上げ式の大戸、格子、揚見世(あげみせ)を備えており、商家の面影を伝えています。また、柱などを塗り込んだ外壁や、瓦葺(かわらぶき)屋根は、防災を考慮した町屋の特徴をよく現しています。内部は一方を通り土間とし、居室部は土間に沿って縦一列に三室を並べ、「つし」と呼ばれる中二階(物置)を設けています。正面左側のミセは商いの場で、右側のシモミセは品物の取引に、折りたたみ式の揚見世は品物の陳列に使われました。
見どころポイント!
この家は囲炉裏がなく、かまどで生活をしていました。なお、中央の大かまどは荒神(火の神)を祭るもので、正月の餅つきのとき以外は使いません。
敷鴨居(しきがもい)の溝には、開閉に必要な分だけを彫る「突き止め」という古い手法が用いられています。
(3)佐地家の門・供待(さじけのもん・ともまち)《宿場》
ここは、宿場に組み入れるのはチョットなじまないような気がするが、大人の事情というものだろうか。
武家としては、当時の持ち主である石川家は尾張藩士として知行高250石を相続し、さらに幕末には御普請奉行として50石の加増を得ていたそうだ。そこそこの格式の武士ということになろう。尾張藩の中級武士の家だ。明治になってからの所有者が佐地家だったから、表題のように『佐地家』となっているようだ。違和感があるが、寄贈者の神経を逆なでするようなことは出来なかったのだろうか。
尾張藩の中級武家ということになれば、客人を迎えるにあたって、供待を用意するのは当然のことだったのかもしれない。外から見ればそれなりだが、中は手抜きで安っぽい。お供風情に、立派なものを用意する必要などないと考えたのかな。それにしても、なぜ、別棟にしたのだろうか。御普請奉行となったので、慌てて拵えたのだろうか。


手前左側の小さな間は、門番の部屋。これが私のカメラでは撮れないほど採光のよくない部屋だった。もう少し居住性を良くしても罰が当たらなかったのでは。




川崎市重要歴史記念物
旧所在地:愛知県名古屋市東区白壁
建物区分:武家屋敷付属建物
構造形式:門=棟門、桟瓦葺、塀=延長10.5m、桟瓦葺供待=入母屋造、桟瓦葺
桁行4.6m、梁行9.2m
建築年代:19世紀初期
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
お供が控えた武家屋敷の門
この建物は、もと名古屋城の東南にあり、禄高二百五十石の武家屋敷の出入口でした。主屋は名古屋に残されたため、現在は旧三澤家住宅を主屋に見立てて配置しています。
門は棟門(むなかど)と呼ばれる形式です。両袖部に突出している小屋根は、提灯を吊るすためのものです。供待(ともまち)はお供が主人の帰りを待つための施設で、内部は土間、門番部屋、囲炉裏のある板の間(供待)からなっています。供待が一つの建物として建てられるのは珍しい事例です。屋敷外は漆喰仕上げとして城郭風であるのに対し、内側は中塗りまでとして軒裏も木部を露出させた簡素な仕上げにするなど、体面を重んずる武士の家らしさが現れています。
見どころポイント!
屋敷の外は白い漆喰仕上げ、内側は漆喰を塗らず簡素な仕上げとなっています。
入口の小部屋は門番が使っていました。
(4)三澤家住宅(みさわけじゅうたく)《宿場》
日本民家園は、毎日3~5棟ずつ囲炉裏に火を入れての床上公開を行っているが、この日はここが対象になっておらず、床に上がってみることが出来なかった。結構見どころが多いのに残念。超胴長の体型を活かして、精一杯伸びをして撮ってみたが、…。
外観上の特色は、何と言っても石置板葺の屋根だろう。式台玄関が用意されている家屋だというのに。


薬箪笥や薬研など、薬種商を営んでいたなら必ず用意していただろうものが残されていた。我がことでもないのになぜか嬉しくなってしまう。しかし、薬学の知識はどうやって得たのだろうか。商っていた薬剤の種類は限定的だったようだが。




茅葺屋根でなくてもやはりこの屋根から自然に煙が抜ける。床上げの日だったらよくわかるのだが。


神奈川県指定重要文化財
旧所在地:長野県伊那市西町
建物区分:商家(薬種問屋→旅籠)
構造形式:切妻造、石置板葺、一重、一部二階、桁行13.6m、梁行12.7m
建築年代:19世紀中期
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
宿場で薬屋を営んだ板葺き屋根の家
この建物は、中山道から分かれる伊那街道の宿駅、伊那部宿(いなべじゅく)にありました。農業を主とし、代々組頭をつとめてきましたが、江戸時代の末に製薬・売薬業を始めて成功しました。
外観上の特徴は、石置板葺(いしおきいたぶき)のゆるい切妻造屋根と上手の門構え、それから式台玄関です。板葺の屋根は良材に恵まれた山間部の地域性によるものです。間取りにはこの宿場の半農半商的性格が現れています。通り土間で大戸口から敷地奥へつなぐのは町屋の特徴です。一方、土間後部をウマヤとし、囲炉裏のあるオオエを中心に構成する点はこの地方の農家と共通しています。
見どころポイント!
栗の板を使った屋根は横木と石だけで押さえてあります。
展示してある看板は、薬屋と旅館を営んでいたときのものです。