次大夫堀公園民家園~岡本公園民家園~岡本静嘉堂文庫(6)
旧加藤家住宅主屋
喜多見にあった加藤家の屋敷から移築した主屋だそうだ。ということは、この近辺の純然たる農家だったようだ。喜多見でも養蚕などが行われていたんだ。しかし、本当にお蚕さんを見た時は驚いた。もこもこ動いていた。子供の頃に見たきりだったので、60年ぶりくらいかな。
あれまあ、麦だ
別棟の小屋の軒には収穫したばかりの麦が干されていた。頃はまさしく麦秋だ。栽培中の蕎麦はそば打ち教室で使われるようだが、こちらは?

主屋外観
むちゃくちゃ大きな家屋というわけではない。昔の養蚕農家としては標準的な大きさだったのでは。

屋内の様子



あの石臼は何を碾いていたのだろうか。酒屋兼業の家でも見かけたが。



養蚕をしていた。次大夫堀公園民家園も岡本公園民家園も体験教室が盛んに行われているようだ。その面では充実している感じ。




もうまもなくお蚕さんはお役御免の時期かな。可愛そうだけど、仕方がないことだろう。それにしても幼虫の時にはあんなに大きかったのに、蛹になると小さくなるものだ。ダウンサイジングもいいところだ。

その他
藍染めのグループもいた。前に見たもろみをも使うのだろうか。

そばも栽培されていた。そば打ちのグループも存在するとのことだ。


唐箕が置かれていた。ひょっとして、これも現役選手?

ちょっと壊れた焙炉もあった。お茶をも作っていたのだろうか。

世田谷区指定有形文化財(建造物)
昭和56年5月20日指定
江戸時代
桁行7間(12.7m)、梁間4.5間(8.0m)、寄棟造、茅葺
物置付、間口1.5間(2.7m)、奥行4間(7.2m)
喜多見にあった加藤家の屋敷から移築した主屋は、江戸時代末の安政2年(1855)以前に建てられたと推定されています。間取りは整形四ッ間型といい、俗に田の字型とも呼ばれる形式で、関東地方では江戸時代後期の農家に一般的に見られた間取りです。
加藤家では明治期に養蚕を盛んに行なっていたので、主屋にはスノコ天井や煙出し櫓など、養蚕のための様々な工夫が見られるのも特徴の一つです。
村内の一般的な農家の屋敷として復元されています。
次大夫堀公園の様子
素人が手で植えたようだ。今どきは機械で植えたほうが整然と植えられるのかなあ。





次回は、岡本公園民家園を取り上げる前に、次太夫堀の下流にあたる二ヶ領用水の一部を取り上げてみたい。