善福寺から清正公まで(5)
覚林寺
覚林寺は、小湊誕生寺十八世可観院日延上人が開山となり、寛永8年(1631)に創建した。可観院日延上人は、朝鮮の王族出身だが、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に加藤清正に捕えられ、後に小湊誕生寺十八世となり、この地に隠居、覚林寺を創建したという。捕えられ、異国の地に連れて来られたというのに、このようにお堂を造ってまで故人を偲ぶとは、加藤清正公を恨んでは居なかったようだ。
現代韓国人の対日感情とは随分違うようだ。国家間というよりも対人間の問題だからなのだろうか。
先ず目につく大石標『鎮守清正公大神儀』
黒ずんでよく見えないが、『鎮守清正公大神儀』と書かれてある。既に神格化しているのだろうか。境内に掲示された由緒書きには、『清正公大尊儀』と表記されている。由緒書きの方は、神仏分離後の言い方なのだろうか。

境内掲示の『略縁起』
『清正公大尊儀』と表記されているものの、内容からすると、神格化されているように読むことができる。それがいけないと言っているわけではなく、そういうものなんだなあと思った次第。
通称白金の清正公さまと呼ばれる当山は、最正山覚林寺と号し寛永8年(1631)可観院日延(韓国の王族)によって開創されたお寺であります。
開創と同時に上人によってご奉安申し上げられた清正公大尊儀は古く江戸時代より開運の神さまとして霊験まことにあらたかで広く庶民大衆に崇敬されてまいりました。
毎年五月四日五日の両日に行われる清正公大祭には人生の苦悩に打ち勝つお守りとして「しょうぶ入り御勝守」が授与され、東都における清正公信仰のみなもととしていまもなお各界の参詣祈願者でにぎわいます。

山門
簡素といえば簡素だが、なかなか風情がある感じ。



清正公堂
清正公大祭(毎年5月4・5日)では、清正公像が特別開帳され、「勝守り」が授与されるのか。武運の強かった清正公にちなんだ「勝守り」は、あらゆる勝負に勝つという意味を持つと解釈されているようだ。大祭に限り、菖蒲の入った勝守りを受けることができる。 菖蒲が、勝負や尚武に通じ、縁起がいいとされ、江戸時代から人気が高かったのか。う~~ん。
加藤家の本来の家紋は蛇の目紋。だが、桔梗の紋も使われていたそうだ。そこに人をうまく使った加藤清正の器量がありそうだ。
清正が肥後に赴くにあたり、秀吉は前年に改易した讃岐の尾藤知定の武具・調度一切を清正に与えました。侍大将から領主への大出世ですが、それに相応しい兵力も道具も当然不足します。秀吉が親心から配慮したものでしょう。
その尾藤家の紋が「桔梗」。清正は桔梗紋の入った武具・調度をそのまま使い、自分の家紋にしたのです。また、清正は旧尾藤家の家臣300名余りを、自分の家臣として召し抱えていましたので、彼等も誇りを傷つけられることなく存分に働いたと言われています。
また、清正はあとひとつ「折墨(おれずみ)」と呼ばれる家紋も使っていました。戦には「蛇の目」、慶事には「桔梗」、文化的な事には「折墨」というふうに、用途により3種類を使い分けていたそうです。

有栖川宮熾仁親王の書かれた「破魔軍」の大額










港区教育委員会の説明板

以上で、『善福寺から清正公まで』のシリーズは終了です。最後までご覧頂き有り難うございました。