善福寺から清正公まで(3)
麻布山善福寺
元麻布ヒルズに敷地を売却するなどした関係なのか、境内は狭隘な感じが否めなかったが、ものすごい歴史を秘めている寺院であると、改めて思い知らされた。浅草寺より中身が濃い感じに思える。
勅使門が前方に見えてきた
確かに見えてきたのだが、背後にそびえる元麻布ヒルズが巨大すぎて、主役の座を奪われそうな感じだ。

参道の途中にはハクモクレンの花が美しく咲いていた


改めて勅使門をしっかり見る
文永の役(1274年)で亀山天皇の勅使寺となった時以来の使用している呼び方なのか。鎌倉時代中期のことなので、鎌倉幕府に遠くも近くもないこの寺に白羽の矢が立ったのだろうか。惜しくも戦災で焼失し、昭和55年に再建されたそうだ。古いものがあったのに、戦災で焼失してしまったのが残念でならない。





本堂
さすがに貫禄がある。慶長12年(1607)に徳川家康が東本願寺八尾別院本堂として建立したもので、京都天明の大火の後、約10年間、東本願寺の御影堂の役も勤めた建物を移築 ・再建した由緒あるものか。普通に考えれば、国指定重要文化財になっていてもおかしくはなさそう。港区指定文化財のままなのが不思議。かなり改築を加えているなどの事情があるのだろうか。

『最初のアメリカ公使宿館跡』のプレート
本当にそうなのだ。それがために福沢諭吉先生も度々訪れていたのだろうか。



鐘楼
墓地内部は撮影禁止なので、境内側から撮った。

逆さイチョウ
推定樹齢750年以上、親鸞がみずから植えたとされるイチョウの古木。伝承によると、親鸞のついた杖から生えてきたという。名の由来は、枝か下のほうに伸びさかさになっているように見えることからきている。大戦時の空襲で被災しスケールが縮まったものの、現在でも都内最大のイチョウであり、国の天然記念物に指定されている。

墓地方向を写す
親鸞聖人像が目立つ

福沢先生の墓
夫婦名義の墓が開山堂の前にある。戒名は『大観院獨立自尊居士』だ。間違ってもお金にご縁ができますようにとお願いしてはいけないのだろう。
墓地の撮影は禁止されている。そのため、freeの画像を借用した。

越路吹雪の墓
墓地入口脇にある。すごく洒落たお墓だ。
墓地の撮影は禁止されている。そのため、freeの画像を借用した。

平安時代、唐で真言を極めて帰国された弘法大師は関東一円に真言宗を広めるために、高野山に模して麻布山善福寺を開山されました。天長元年(八二四年)のことで、都内では金竜山浅草寺につぐ最古の寺院です。
鎌倉時代になって、越後に流されていた親鸞聖人は、許されて京へ上る途中に善福寺を訪れました。迎えた了海上人は、七才で仏門に上り、比叡で顕密二法を修めた俊英の僧で、当時若冠十七才でした。
上人は、親鸞聖人の高徳に傾倒し、一山をあげて真言宗から浄土真宗に改宗しました。以後、上人は関東一円にわたって、浄土真宗を広め、『大谷遺跡録』によると、関東六老僧の一人として名を残しています。
また、二度にわたる蒙古来襲に際して、亀山天皇の勅願寺となりました。
時代がすすみ、浄土真宗は、庶民の間に根強く広まり、やがて一向一揆がおこり、石山本願寺で織田信長と戦火を交えるほどの勢力になりましたが、善福寺は籠城する僧に援軍を送りました。
乱後、豊臣秀吉は関東を平定しましたが、当寺には寺領保護を誓約しました。
江戸時代になると、特に三代将軍徳川家光は甲良豊後守に命じ当時の建築の粋を集めて本堂を建立し寄進しました。
又、東京の地名となっている虎ノ門は当時の善福寺の山門であり、杉並の善福寺池は当時の奥の院跡で当時の寺領の広さがわかります。
一八五九年になると善福寺は初代アメリカ合衆国公使館としてタウンゼント・ハリス公使以下の館員を迎えました。
その頃、壤夷を唱える人々の襲撃をうけ庫裡、書院などが焼失しましたが、僧たちの機転によって身をもって公使館員を守り、日米の友好の絆を深めました。
そのころより後に三井物産創始者の益田孝氏や古河市兵衛氏、福沢諭吉氏が当寺に出入りし、明治八年十二月八日まで公使館として使用されました。
現在の本堂は、慶長12年(1607)に徳川家康が東本願寺八尾別院本堂として建立したもので、京都天明の大火の後、約10年間、東本願寺の御影堂の役も勤めた建物を移築 ・再建した由緒あるものです。