称名寺ほかを歩く(4)
北条顕時・北条貞顕公御廟
御廟の前の平地
此処には何が建っていたのだろうか。三重塔が庫裏に近い辺りに建っていたようではあるが、それすらもはっきりとはしないようである。
そして、金沢山の斜面が迫るギリギリのところには、北条顕時・北条貞顕公御廟が残されている。

御廟のすぐ前にあった石像
御廟をお護りする意味合いがあったのだろうか



中世の隧道
鎌倉時代にあったという金沢文庫へ通じる隧道だったのかな。今は何とも殺風景で、現在の『金沢文庫』が見えている。ちょっとがっかりする感じ。通行止めにするにしても工事現場のような感じで、如何にもやっつけ仕事という感じが否めない。『重要な遺跡で、永久に文化財として保存されます』の説明が白々しく聞こえて仕方がない。


御廟に近づいた
ゆるい坂の先に御廟が見える


説明板
横浜市教育委員会の説明板は両人を呼び捨てにしている。他の絵図にあるように『北条顕時・北条貞顕公御廟』と表記すべきではなかろうか。

北条顕時公御廟
実時公とは違う場所なんだ。一歩下がってという感じなのだろうか。
北条顕時(ほうじょう あきとき)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将。北条氏の一門・金沢流北条氏の第3代当主。金沢顕時とも称される。父は第2代(実質的には初代)当主で鎌倉幕府の重職を歴任した北条実時。正室は安達泰盛の娘・千代野。
安達泰盛が霜月騒動で粛清されたことにより逼塞を余儀なくされたが、その後に第9代執権・北条貞時の信頼を回復して復権。顕時の代に、金沢流北条氏は全盛期を迎えた。



金沢貞顕公御廟
別名は確かに『金沢貞顕』ではあるが、あえて別名表記をする根拠は何なのか。市教育委員会の表記には納得出来かねる。
北条貞顕(ほうじょう さだあき)は、鎌倉時代末期の武将。北条氏の一門で鎌倉幕府第15代執権(在職:正中3年3月16日(1326年4月19日) - 正中3年3月26日(1326年4月29日))。
父は金沢流の北条顕時。母は摂津の御家人である遠藤為俊の娘・入殿。金沢文庫で有名な北条実時の孫に当たる。




御廟から見た浄土庭園
あの世に旅立っても、浄土庭園を眺めていたかったのだろうか
