称名寺ほかを歩く(1)
称名寺(1)
あまり目的地を決めないぶらぶら歩きだが、まずは称名寺を見てみることにした。
何度見ても素敵な佇まいであると思わされる。北条実時は、此処に居を構えたことから『称名寺殿』と称されていたようだ。
仁王門横の通用門を入ると、阿字ヶ池を中心に中之島・反橋・平橋を配した『浄土庭園』が広がる。これは長いこと放置されたままであったが、近年になって復原されたものだ。この浄土庭園だけでなく、往時は三重塔もあったという。伽藍ももっとあったようだ。タイムマシンがあれば、往時の繁栄ぶりを見てみたいものだ。
境内は、春の桜、初夏の黄菖蒲、秋の紅葉と四季折々の景観が美しいそうだ。そのいずれの時期も外してばかりだ。そして今になってわかったことだが、10日ほど後だと、桜が見頃だった。それを逃したのが、少し残念。
曲がり角はすぐ近く
駅から称名寺の境内まででも1km弱程度。膝を悪くする前ならば、走ってでも行ける近さだ。うっかりこの曲がり角を通りすぎてしまうとかなりの回り道になる。


山茱萸かな
道筋には綺麗に咲いていた。この時期には、黄色い鮮やかな花が咲き出すと、なんとなくもう少しだと勇気を分けてもらえるような気になる。

赤門
もちろん東大の赤門ではなく、称名寺の赤門だ。ここならば、私のような凡庸な人間でも入ることができる。明和8年(1771年)に建立されたそうだ。うーーん、古いような、そうでもないような微妙なところだなあ。
赤門というもの自体は、将軍家の子女が嫁ぎ先で住んだ場所である御守殿(御住居)の門として建てられたものらしい。東大の敷地にある赤門はその例だろう。而、こちらは。うーーん、微妙。徳川幕府から御朱印をもらった証らしいのだが。


これから数多く目にするだろう三つ鱗の紋
初代執権・北条時政が江ノ島弁財天に子孫繁栄を祈願したとき、美女変身した大蛇が神託を告げ、三枚の鱗を残して消えたことに因むという。

桜並木の参道
行きの時は何も飾りがなかった。朝一番で人も殆どいなかった。

称名寺塔頭光明寺表門
三渓園に移築したものを除けば、横浜市内で最古の建築物らしい。古いことは古いものだが、相応の扱いがなされていないことにもののあわれを覚える。
なお、こちらにある『大威徳明王像』は、運慶の真作と判明しているそうだ。拝見できるものか否かも知らない。称名寺を含めて、もう少しPRをしたほうが良さそうに思う。駐車場くらいにしか認識していないのは残念過ぎる。





山門(仁王門)
参道の突き当りには仁王門。周囲を圧倒するほどの迫力を誇る建物。文政元年(1818年)に建立。鎌倉時代に造られた高さ4mの大きな仁王像は県指定重要文化財。神奈川県教育委員会のホームページによれば、関東における最大の金剛力士像とのこと。胎内墨書により、1323年(元享3年)の院興らの作であることが判明している。うまく撮りたいのだが、金網が邪魔をしてなかなか上手く撮れたことがない。EOS M3が届いたら、再度挑戦してみようと思う。




山門から境内を見るとこんな感じ

北条氏の一族である金沢(かねさわ)北条氏の祖、北条実時(1224年 - 1276年)が開基した。創建時期については確実なことはわかっていないが、1258年(正嘉2年)実時が六浦荘金沢の居館内に建てた持仏堂(阿弥陀堂)がその起源とされる。のち1267年(文永4年)、鎌倉の極楽寺忍性の推薦により下野薬師寺の僧・審海を開山に招いて真言律宗の寺となった。金沢北条氏一族の菩提寺として鎌倉時代を通じて発展し、2代顕時、3代貞顕の代に伽藍や庭園が整備されたが、鎌倉幕府滅亡とともに金沢北条氏も滅び、以後寺運も衰退した。降って江戸時代に入ると大幅な復興が実現し、現存する建物が作られた。