葉山と浦賀(1)
葉山(0)
実は1週間前のバレンタインデーにも葉山に出かけた。この時は、まれに見る好天だったのだが、予備の電池を忘れたり、事故があったりして、富士山の様子を記録したものがパーになってしまったりした。その後、天気の良い日が来ず、この失敗をリカバリできないままだ。
その時、撮った写真で何枚かかろうじて残ったものが次のもの。
田越川

瀟洒な建物

日影茶屋
ちょっと見ていたら、お客さんが続々詰めかける。ちょうど昼食時だということもあろうが、本当に人気のある食事処のようだ。建物も風格がある。一度は食事に寄ってみたいものだ。




鐙摺山にて
日影茶屋の真ん前の小山が鐙摺山(旗立山)。急勾配を上がっていくので、恐怖感がないわけではないが、非常に見晴らしが良い。
説明板があったので、漸く『伊東祐親入道供養塚』だと分かった次第。


富士山はこんなふうに見えた。望遠でも相当枚数撮ったのに、…。

旗立山(伊東祐親供養塔)
1180(治承4)年に源頼朝が挙兵。それに呼応した三浦党が小浜から出港し、その帰りに畠山軍と由比ヶ浜で小競り合いしたとき、この小山に旗を立てて気勢をあげたことから「旗立山」の名がついたという。
小田原北条氏と戦った三浦道寸がこの山から敵を偵察したので、軍見山ともいう。伊東祐親(すけちか)を祀ったとされる供養塔がある。
伊東祐親は、東国における親平家方豪族として平清盛からの信頼を受け、1159(平治元)年の平治の乱に敗れて伊豆に配流されてきた源頼朝の監視を任される。
頼朝が勢力を盛り返して坂東を制圧すると、逆に追われる身となり、富士川の戦いの後捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられる。頼朝の妻・北条政子が懐妊した機会を得て、助命嘆願があり、一時は一命を赦されたが、祐親はこれを潔しとせず「以前の行いを恥じる」と言い、自害して果てた。
子孫には、富士の巻狩りの場で仇討をした曾我兄弟がいる。