帝釈天~山本亭~矢切の渡し~スカイツリー(3)
1912年(明治45年・大正元年)に出版された夏目漱石の『彼岸過迄』の『須永の話』の二と十三都に帝釈天絡みの話が出てくる。漱石が活躍していた頃の帝釈天はどんなだったのだろうか。帝釈天堂本殿は、胴羽目を除き、明治四十年の完成なので存在し、祖師堂や釈迦堂ももちろんあった。
それ以外は、まだ存在しなかったはずだが、どんな佇まいだったのだろうか。その『彼岸過迄』の出版前後から、帝釈天の堂宇は今のような形に大きく変わっていったようだ。
以下では漱石も一部は見たかもしれない今の様子をご覧いただく。
帝釈堂
帝釈天堂本殿は、胴羽目を除き、明治四十年の完成だそうだ。そして内殿が大正四年、胴羽目十枚は昭和九年の完成だそうだ。更に拝殿が、昭和四年の完成。わずかに昭和に食い込んではいるが、なかなか年数を経た堂宇になっている。彫刻の見事さが評価される寺院でもある。詳細については、末尾にあるURLで確認していただきたい。





帝釈堂の扁額『喜見城』
帝釈尊天がおわします帝釈堂の正面、堂々たる扁額に光る金文字は「喜見城」。遥かな高みの仏の天の忉利天にそびえる帝釈天の居城、喜見域を現世で拝礼する唯一の場が当山の帝釈堂に他ならない。




二天門を入った境内正面に位置する。手前の拝殿と奥の内殿から成り、ともに入母屋造瓦葺で、拝殿屋根には唐破風と大ぶりの千鳥破風を付す。内殿は大正4年(1915年)、拝殿は昭和4年(1929年)の完成。内殿には帝釈天の板本尊を安置し、左右に四天王のうちの持国天と多聞天(毘沙門天)を安置する(四天王の残り2体は二天門に安置)。内殿外側には全面に浮き彫りの装飾彫刻が施されている。
彫刻ギャラリー
これは次回以降に丁寧に取り上げさせていただく予定
祖師堂(本堂)
明治21年に建てられたそうだ。ちなみに祖師堂の奥殿も同年に建てられたそうだ。帝釈堂ができる以前は、こちらが帝釈堂だった。帝釈堂ができたあとに、大修理を施して祖師堂にしたとのこと。




帝釈堂の向かって右に建つ。帝釈堂と同様、入母屋造の拝殿と内殿が前後に並んで建つ。こちらが日蓮宗寺院としての本来の本堂であり、本尊は大曼荼羅である。
釈迦堂(開山堂)
このお寺にあって最古というが、江戸時代末期の事のようだ。他とそれほど差があるわけではなさそうだ。

江戸時代末期に建立された、寺内最古の建築であり、奈良時代作という釈迦如来立像と、開山日栄、中興の祖日敬の木像を安置する。
水舎(向かって右側)
この水舎は昭和初期の作だそうだ。さり気なくおかれているようだが、なかなか立派な設えになっている。すべての建物が手を抜かずに作ってあるのにびっくり。
なお、向かって左側には、明治時代に作られたと言われる御神水・浄行菩薩がある。こちらは撮り漏らしてしまった。

御神水
FREE画像を借用した

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