釈迦堂口切通~瑞泉寺~頼朝の墓~宝戒寺(5)
墓が3つ並んでいる。左から、毛利季光、大江広元、島津忠久の墓だ。写真を丹念に見てもらえばわかると思うが、大江広元の墓と彼の四男の毛利季光の墓とは行き来が自由にできるが、島津忠久の墓はそういうわけにはいかない。階段も別である。下まで降りて登り直すのも業腹だから、蟹の横歩きをしたが、ちょっと冷たい扱いのように思えた。階段の下まで行くと、大江広元の墓と毛利季光の墓とに行くための階段には鳥居があり、島津忠久の墓に行くための階段には鳥居がない。毛利と島津とは仲が良くなかったのだろうか。
そう考えたのだが、これらの墓はすべて島津家が建造したようだ。相手を立てるそういう家風だったのかもしれない。
3つの墓の集合写真
かろうじて、3つの墓が写っている。これ以上は下がることができない。

大江広元の墓
亀趺(キフ)というらしい。時々見かけるが、格式が高い墓にしかないものなのだろう。


大江広元は、源頼朝の政務の側近として「政所別当(長官)」を務めた人物。この墓は、1823年(文政6年)、長州藩によって建てられたもの。十二所にも大江広元のものと伝わる墓がある。
毛利季光の墓


大江広元の四男季光は、愛甲郡毛利庄を相続しして「毛利氏」を名乗った。1247年(宝治元年)の宝治合戦で毛利氏はほとんど滅んでしまうが、季光の四男経光の家系が後世にのこり、戦国時代に中国地方を統一した毛利元就の祖となった。
島津忠久の墓
毛利家側にはあった亀趺が島津家側にはなかった。敢えて横並びにしなかったのは、考え方の相違によるものなのだろうか。

島津忠久は、九州島津氏の祖で、源頼朝の子ではないかとされているが定かではない。江戸時代には、島津藩主や家臣が墓参したという。現在の墓は、1779年(安永8年)に修造されたもの。源頼朝の墓とともに島津重豪が整備したといわれている。
島津忠久の墓の端から見た様子
邪魔が入り、向こう側との行き来ができない

島津忠久の肖像画…FREE画像を借用

階段も別々
『島津家の人達は怒らないのだろうか』と思ったが、この墓を作ったのは島津家だったようだ。大大名になっても、頭を低くしていたのだろうか。



北条義時法華堂跡
先ほどの崖の上から見えた平場。ここで三浦一族と共に島津忠久と毛利季光とが自刃したのか。この一角には、三浦一族のやぐらもあるようだ。wikipediaには、島津忠久は『安貞元年(1227年)6月18日の辰の刻、脚気と赤痢により死去(『吾妻鏡』)』と書かれている。
平成17年、源頼朝墓東隣の山の中腹から北条義時のものと考えられる法華堂跡が発掘された。調査の結果、1辺が8.4メートルの正方形の三間堂であったと推測されている。
義時の法華堂は、遺言によって建立されたとされ、『吾妻鏡』には、「故右大将家法華堂の東の山上をもって墳墓となす」と記載されている。故右大将家とは源頼朝のこと。




大蔵幕府の方へ下りる階段

室町、江戸を生き抜き、明治維新を成し遂げた薩長の祖が並んで眠る場所
鎌倉幕府の基盤整備に多大な貢献を果たした貴族、大江広元の墓と伝わるやぐらがあります。階段を登るとまず大きな平場があり、ここは北条義時の墓があったといわれる場所です。平場の左手には北条氏によって滅ぼされた三浦泰村一族の墓があります。
平場の奥、鳥居をくぐって急勾配の階段を登るとやぐらが3つ並んでいます。左から、毛利季光、大江広元、島津忠久の墓となっています。
大江広元は、兄である中原親能が源頼朝と親交があり早くから頼朝の臣下となった縁で京都より招かれました。
頼朝の右腕として活躍し、幕府制度の基盤整備や京男たちが渦巻く朝廷との交渉などに活躍しました。頼朝没後も北条氏を中心とする数多くの政変を巧みに避け、1148年に生まれ1225年に没するまで77歳という長寿を全うしました。
広元の墓と並んで右に島津忠久の墓もあります。島津氏の祖といわれる人物です。母は源頼朝の側室、比企能員の妹、丹後局。このことは頼朝の落胤であるという言い伝えが生まれる根拠になっていますが、この伝説は現在では真実ではないとされています。
大江広元の左隣に眠る毛利季光は大江広元の子。毛利元就を生んだ毛利氏の祖です。島津、毛利、明治維新を成し遂げる薩長の祖が並んで眠る場所でもあります。
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源頼朝の墓所の右奥の山腹に玉垣に囲まれて3つのやぐらの墓がある。真ん中に鎌倉幕府の要職を務めた大江広元の墓がある。左右には北条対三浦の戦い(宝治合戦)に、三浦に与して法華堂で三浦一族と共に自刃した島津忠久と毛利季光(大江広元の四男)の墓がある。島津も毛利も後にも手を結んで行く事になった。島津忠久は薩摩藩主・島津氏の祖である。比企義員の娘・丹後局(頼朝の愛妾とも言われた)が生んだといわれている。したがって、島津家の系譜も忠久を「頼朝の庶子」としている。墓の下方に三浦一族の墓もある。
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亀趺(キフ)とは台石の一種で、石碑を載せる台石を大亀の形にしたものである。
亀趺は、もともと中国の貴族階級の風習だったのが、江戸時代に日本でも取り入れられた。
亀趺は功績や功徳などを刻んだ石碑を載せるものが多いが、鳥取藩主池田家の墓碑のように墓石を載せるものもある。
亀趺の亀は贔屓(ひいき)といい、龍の九子のうち龍になれなかった一子で、巨大な亀の形に似た想像上の霊獣だとされる。
「贔屓(ひいき)」は「贔屓にする」などと用いられる「贔屓」である。
贔屓は「一生懸命努力して力を出すさま」を意味するとされるが、それが「特別に便宜を図ったり、力添えをする」意味に使われるようになった。