釈迦堂口切通~瑞泉寺~頼朝の墓~宝戒寺(4)
頼朝の死には謎が多いようだが、兎にも角にも建久10年(1199)1月に死去したことは間違いがないようだ。そして、現在の白旗神社になっているところが、大倉法華堂であり、そこに葬られたそうだ。そして、江戸になって、島津氏によって、現在の場所に墓が建てられたという。
建久9年(1199)12月27日源頼朝は、御家人の稲毛重成の亡妻の供養のために、相模川にかけた橋の完成祝いに出掛け、その帰り稲村ガ崎で落馬した。その落馬が原因で、翌年の建久10年(1199)1月13日に53歳で亡くなった。大倉法華堂(現在の白旗神社)に葬むられた。現在の墓は白旗神社のすぐ横の階段を登った所にあり、江戸時代に島津氏によって建てられたもので、高さ186cmの五層の石塔である。
建久6年(1196)から頼朝が亡くなった正治元年(1199)までの3年間、鎌倉幕府の公式記録「吾妻鏡」から頼朝の死亡に関する記録が抜けている(仏事の記録はあり)。頼朝の死は謎に包まれていると言われている。
頼朝の墓




白旗神社

源頼朝顕彰碑
『君出でて 民もしづまり 九重の 塵もをさまる 世とはなりにけり』とあった

「法華堂跡」の石碑

「法華堂跡」は、大倉幕府跡の裏山にある源頼朝墓を中心とする史跡。
「法華堂」とは、1189年(文治5年)、源頼朝が聖観音像を本尊として建立した持仏堂のことで、1191年(建久2年)には、文覚に命じて京都で描かせた阿弥陀三尊像が掛けられた。
平治の乱で源頼朝が帯びていたという源氏重代の太刀「髭切」)も持仏堂に納められていたという(現在は京都の北野天満宮の所蔵(一条戻橋の伝説))。
持仏堂は、頼朝の死後「法華堂」と呼ばれるようになり、現在、源頼朝墓が建てられている場所が法華堂の跡だといわれている。
『吾妻鏡』によれば、本尊の聖観音像は、頼朝が京都の清水寺から下されたもので、挙兵の際、髷の中に納めていたものだという。
『元祖島津豊後守忠久石塔道』
表示の石塔
頼朝の墓の脇にこれが建っていた。『元祖島津豊後守忠久石塔道』と書かれてあった。どう考えても元々の道標のようだ。

ちょっと厳しい道
見回してみると道らしきものはこれしか無い。『えーっ、これを上るの』と思ったが、確かめない訳にはいかない。仕方がないので、上った。
手すりも何も無い急な階段。露出している木の根を掴みながら、この坂を登り切った。そうすると、獣道のような道があった。崖下には少し広い平坦な土地があり、その先には最初に鎌倉幕府が置かれた『大蔵幕府』の辺りが見える。



大江広元、島津忠久、毛利季光の墓と思しきやぐら
キジバトらしき鳥が道案内をしてくれた。心細い思いで歩いた先にやぐらが見えた。大江広元、島津忠久、毛利季光の墓だろう。よく見ると、下から、かなり長い階段が伸びてきているではないか。何も危ない思いをする必要はなかったようだ。
