再び浦賀を歩く(4)
この川間ドックは、浦賀船渠の設立とほぼ同時期に東京石川島造船所が浦賀分工場として設立した施設。激しい受注合戦の展開がおき、それに伴う経営の悪化で共倒れが懸念される状況に陥った。その後、浦賀船渠が買収し、以後、同社の川間分工場になった経緯がある。
この経緯は、田町にあった千代田瓦斯と浜松町にあった東京瓦斯との関係に似ているかもしれない。
世界に4カ所しか現存していないとうレンガ積みドライドックの内の一つで、そのうちの2カ所が日本国内にあり、いずれも明治期に造られた横須賀市内の浦賀ドックとこの川間ドック跡とである。
マリーナに買収されて、水を入れた状態になっている
入渠及び出渠するときは、水がある状態にするが、その他の時は、水が抜かれた状態で作業を行う。だからこそのドライドックなのだが。大型船などがなかった明治半ばの構築物だが、それなりに大きなものだ。










レンガ積みのドライドックだということが一番わかるショット



マリーナ
優雅なマリン・ライフを楽しんでいる人も少なからずいるんだなあ


(株)東京石川島造船所が、大型船の建造修理のため、当時、取締役会長であった渋沢栄一の提案により、明治二十八年(1895)十月に浦賀分工場として建設に着手し、同三十一年に営業を開始しました。同三十五年には浦賀船渠(株)が買収し、以後、同社の川間分工場になりました。
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1894年(明治27年)に中島三郎助の意志を継ぎ、荒井郁之助・榎本武揚・塚原周造が中心となり、1897年(明治30年)に浦賀船渠が設立され、かつての浦賀造船所と同じ場所に工場が建設された。同時期に同じ浦賀に建設された東京石川島造船所の浦賀分工場との間で、艦船建造・修理の受注合戦が繰り広げられたという。この競争はダンピング合戦を生み、両社の経営を悪化させた。ほどなくして石川島の浦賀分工場を浦賀船渠が買収、自社工場とすることで決着した。
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