再び浦賀を歩く(2)
源氏再興の願いが成就した頼朝が、文治2年(1186年)に『叶大明神』と尊称したと伝えられる神社か。本当に縁起が良い神社なんだなあ。拝殿の彫刻装飾も社務所の鏝絵も出色のものだ。旧郷社の社格だというのに、この豪華さは何なのだろうか。
社務所入口の鏝絵
こちらは石川善吉の作品。『司馬温公の甕割り』を描いたものだそうだ。鏝で仕上げたとは思えぬほどの精細な作品なのに、本当に感心する。
西浦賀の西叶神社社務所玄関欄間壁には「司馬温公」の鏝絵があります。司馬温公は中国北宋の人。ある日、友人と遊んでいる時、友人が誤って瓶の中に落ちたのを、温公が直ちに石で瓶を壊したという故事を、二間にわたって表したものである。昭和5年(1930年)に社務所建立の際、石川善吉が制作したという。
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干鰯問屋(ほしか)と廻船問屋で栄えた浦賀には、土蔵造りが盛んであったことから漆喰壁を塗る左官職人も多く、中でも川間(西浦賀)に住む石川善吉は「三浦の善吉」として「伊豆の長八(入江長八)」とともに、全国的に知られる漆喰細工の名人でした。浦賀には善吉とその息子吉蔵(9代目)、梅尾(10代目)の作品が残っています。また、岩田辰之助、岩田徳太郎兄弟の作品も残っています。



拝殿と向拝の龍
向拝の龍などは、後藤利兵衛義光の代表作と言われる。この人も、幕末から明治にかけて活躍した名工だったようだ。見どころは『向拝の龍』だけではない。うっかり撮り漏らしてしまった。



遊廓の主人で僧侶に転身した江戸屋半五郎が寄進した水屋の石の漱盤
江戸屋半五郎は、この地で娼家を経営していたが、世の無常を知り、芸妓、娼婦を解放。深本と名乗って諸国の霊場をめぐった人物。晩年、浦賀に戻り文化六年(1809)四月、念仏を唱えつつ、この世を去ったそうだ。

叶神社(西浦賀)は、誉田別尊と、比売大神、息長帯比売命(神功皇后)を祭神とする。
伊豆国で配流の身だった源頼朝と知遇を得た北面武士出身の僧・文覚が、源氏再興のために養和元年(1181年)石清水八幡宮を当地に勧請し創建、源氏再興成就した頼朝が文治2年(1186年)に叶大明神と尊称したと伝えられる。
現在の社殿は、天保8年(1837年)に焼失し、天保13年(1842年)に再建された。権現造で、彫刻装飾は安房国千倉の代表的な彫刻師であった後藤利兵衛義光の作。
東福寺
鏝絵
こちらの鏝絵は、西叶神社に飾られている鏝絵の作者石川善吉の弟子に当たる岩田辰之助の作品。こちらも見事な出来栄えだ。
本堂の外壁に鶴、龍、唐獅子、亀などのみごとな鏝絵8点があります。昭和7(1932)年に岩田辰之助(1893-1955年)が制作したものです。
一見すると彩色された木彫とみまごう出来ですが、これは漆喰細工です。辰之助37歳の時の傑作になります。
辰之助は、喜兵衛を父に代々左官を家業としてきた家系に生まれています。
喜兵衛は石川善吉(1855-1945年)と同時代に浦賀で活躍していました。また、兄に徳太郎(1893-1955年)がいて、辰之助は兄弟で東浦賀の法幢寺(ほうだいじ)に「唐獅子」の鏝絵を遺しています。
徳太郎、辰之助兄弟の鏝絵の師匠は石川善吉と言われます。







八重咲きニホンズイセン
こういうのもあるんだ。いっぱい水仙を見てきたのに、今まで気づかなかった。同行したこの方に教えてもらった。そういえば、以前にmakiraさんのブログで拝見したような。



こんな石像も

このお寺は、徳川家康が江戸に入城した折に、三浦半島の代官となった長谷川七左衛門長綱によって改宗され、禅宗のお寺になりました。
江戸幕府から御朱印地二石をもらっており、浦賀奉行も就任すると必ず仏参しました。
本堂には江戸時代中期を代表する画家・酒井抱一が描いた大きな「亀」の絵馬があります。
本堂より一段低いところある観音堂の観音菩薩は「海難よけの観音様」として信仰されており、次のような伝説があります。
江戸時代の初期、西浦賀紺屋町にあった淡路屋治兵衛の回船が上方から荷物を積んで浦賀に向かっている時に、時化にあい、船が沈みそうなりました。船頭はじめ乗組員が日頃から信仰する観音様に助けを求めていると、不思議なことに船の舳先に観音様が現れ、それと同時に海は穏やかになりました。船頭や乗組員は、観音様が自分たちの命を救ってくれたとして、浦賀に入港すると東福寺に観音像を安置しました。