浅草寺~川治温泉~東武ワールドスクウェア(4)
なかなか撮った感じが良いので、被写体に選ぶ方が多いのではなかろうか





宝蔵門
浅草寺の山門にして、浅草寺の什宝物を収蔵する宝蔵門でもあるのか。ご本尊の観音像でさえ、かなりの焼損が有るようだ。他の仏像も推して知るべし。什宝物を収蔵する容れ物は立派なものの、中身はやや寂しいのではなかろうか。旧仁王門には、文殊菩薩像、多聞天・持国天、墨絵の雲龍(天井)、鳳凰及び迦陵頻伽があったようだ。これに対して、現在の宝蔵門には、釈迦如来像(平安時代)、四天王像 (持国天・増長天・広目天・多聞天)、風神・雷神像がある。
昭和37年に作られた仁王尊像をよく見ておくのだった。阿形像のモデルは力士の北の湖、吽形像のモデルは明武谷と言われているそうだ。
『応永縁起』によると、安房守平公雅(たいらのきんまさ)が武蔵守に補任された天慶5年(942)、その祈願成就の御礼として建立された。
以来、数度の火災により炎上するも、その都度再建された。
鎌倉時代から江戸初期にかけては、あまり変化はなかったが、その後、徳川家光により再度の寄進建立が行われ、本堂と仁王門が慶安2年(1649)12月23日落慶、元禄5年(1692)に京都の曼殊院門跡(まんしゅいんもんぜき)良尚法親王ご染筆の「浅草寺」の扁額がかけられた。その後、昭和20年(1945)3月10日の戦災に遭うまで平穏無事だった。
現在の門は浅草寺の山門として、内部三層のうち上部二層に近代的防災設備を施した収蔵室を設け、浅草寺の什宝物収蔵の宝蔵門として大谷重工業・ホテルニューオータニ創始者の大谷米太郎氏のご寄進により復興再建された。
大提灯
高さ 3.75m・幅 2.7m、重さ 450kg。 日本橋小舟町奉賛会より平成26年 (2014)10月奉納掛け換え(4回目)
吊灯籠
高さ 2.75m、重さ 1.000kg 銅製。魚がし講より昭和63年(1988)10月奉 納掛け換え(2回目)



大わらじ
高さ 4.5m・幅 1.5m、重さ 500kg、藁 2,500kg使用。山形県村山市有志より平成20年(2008)10月奉納〔昭和16年(1941)の初回以来、7回目〕。わらじは仁王さまのお力を表し、「この様な大きなわらじを履くものがこの寺を守っているのか」と驚いて魔が去っていくといわれている。
昭和16年、村山市出身の松岡俊三代議士が護国の象徴として納めたのが始まり。
同じく村山市出身の彫刻家村岡久作が宝蔵門復元時に仁王像を彫ったのを記念して2度目の奉納をしてから、ほぼ10年に一度ずつ奉納している。



五重塔
五重塔もまた、仏塔の一つか。塔の最上層にはスリランカ・アヌラーダプラのイスルムニヤ寺院から招来した仏舎利を安置しているとのこと。魂も入っているわけだ。
五重塔とは、お釈迦さまのご遺骨を奉安する仏塔の形式の一つである。
浅草寺の五重塔は、天慶5年(942)平公雅(たいらのきんまさ)が本堂と共に建立したのを初めとして、その後数度倒壊、炎上に遭ったが、その都度再建された。
徳川3代将軍家光により本堂・仁王門などと共に建立された国宝五重塔は、太平洋戦争の戦火により、昭和20年(1945)3月10日、他の伽藍とともに惜しくも焼失した。戦後、浅草寺は十方ご信徒各位のご信助を得て、本堂、雷門、宝蔵門と伽藍復興に邁進し、牌殿・書院・他付属施設を備えた新様式の五重塔院を再建するに至った。





ライトアップされた五重塔
Free画像を借用。非常に綺麗だ。
