代官屋敷~豪徳寺~松陰神社~目青不動~駒沢給水塔(5)
勝國寺
旧御朱印寺と書かれてあった。徳川家康寄進状、徳川将軍朱印状がある寺ということだろうか。御朱印帳に書き認めてくれる寺という意味ではなさそうだ。
勝国寺は、吉良政忠(法号勝国寺照岳道旭)が開基となり、世田谷城の裏手鬼門除けとして丸香山薬師院と号しと創建。吉良家滅亡後も江戸幕府から12石の朱印状を与えられた御朱印寺として栄え、末寺6ヶ寺を擁した小本寺だったようだ。
世田谷区役所本庁舎
威風堂々たる庁舎だが、近々改築実施の方向で検討が進んでいるようだ。あの前川國男氏の設計作品なのか。日本建築学会関東支部から保存要望書が提出されているようだ。
区役所の向かいは国士舘大学
松陰神社
吉田松陰を刑死させた安政の大獄を起こした井伊直弼の菩提寺である豪徳寺は歩いてもさほどかからない距離にある。私も豪徳寺から歩いてきた。
昭和のはじめに社殿が大修理され、府社に昇格しているようだ。長州閥お手盛りの扱いだなあ。吉田松陰には申し訳ないが、再訪しようという気は全く起こらない印象だった。
拝殿と石灯籠
旧藩主や松陰の門下生であった明治新政府の重鎮たちが奉献したものがズラリと並ぶ
吉田松陰の墓
吉田寅次郎藤原矩方墓…松陰は号で、名前は矩方(のりかた)。通称は寅次郎と呼ばれていたようだ。
吉田松陰像
肖像画ほどは尖ってはいないようだ
吉田松陰の墓がある松陰神社は、豪徳寺から直線距離で700mほどの所にあります。この一角は江戸時代、大夫山(だいぶやま)あるいは長州山と呼ばれていました。これは、寛文12年(1672)、萩藩第2代藩主、毛利大膳大夫綱広が在府の折に同藩が若林村の百姓からこの地を購入して抱屋敷としたことによります。安政の大獄で死罪となった吉田松陰の遺骸は、当初、小塚原の回向院(かいこういん)に葬られましたが、文久3年(1863)正月に、高杉晋作、伊藤博文らの手により、この地に改葬されました。元治元年(1864)に禁門の変が起きると、幕府は長州に征伐軍を送り、若林村の抱屋敷は没収され、松陰の墓も破壊されました。しかし、その4年後には明治維新となり、明治元年(1868)、藩命を受けた木戸孝允が新たに墓碑を立て、明治15年(1882)には、毛利元徳や松陰の門人達が墓畔に社を築いてその霊を祀り、松陰神社となりました。