散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

九品仏浄真寺(1)

浄真寺の地は、もともとは世田谷吉良氏系の奥沢城であった。小田原征伐後、廃城となったが、寛文5年(1665年)に当地の名主七左衛門が寺地として貰い受け、延宝6年(1678年)、珂碩(かせき)が同地に浄真寺を開山した。wikipediaの受け売りだが、西暦の誤記があったので、訂正してある。
基本的に江戸時代は、新たに寺院を創設することは禁じられていた。それなのに、どういう話し合いがもたれたのか、増上寺などと同じ浄土宗の寺院ができたのだ。周辺一帯は、日蓮宗の不受不施派の強固な地盤とする地域であり、上の人たちの話し合いとは別に、下々の人たちの手打ちのための話し合いも持たれたようである。
今を時めく自由が丘駅もその昔は、『九品仏駅』だったのだ。
九品仏駅から始まる参道
駅の出口は踏切の中
左右どちらに行くにせよ踏切を渡る必要がある。こういう駅は珍しいと思う。如何だろうか?向かって右側すぐが参道だ。
駅の出口は踏切の中
参道に入る
ほぼ駅前から参道が始まる
参道に入る_1
参道はこんな風。並木が優しく迎えてくれる。
参道に入る_2
参道に入る_3
いつもびっくりさせられる石の柱。『禁銃獵 警視廳』と書かれてある。こんな住宅地のど真ん中で猟銃がぶっ放されていた時期があったんだ。当時の獲物は鴨だったのかな?明治32年頃は禁止された直後だったのかな?それとは別に、やくざと寺とのいざこざが勃発しての発砲事件もあったんだっけ。
参道に入る_4
参道に入る_5
石の塔が立ち並ぶ
こんな風に並んでいた
石の塔が立ち並ぶ_1
石の塔が立ち並ぶ_2
左端は『三界萬霊』の塔
石の塔が立ち並ぶ3_
これは三つの世界、すべての精霊に対して供養することの大切さを示すものです。三界とは、無色界、色界、欲界の三つをさします。
ひときわ高い塔。庚申塔のようだ。何故、こんなに細長くしたのかなあ。
石の塔が立ち並ぶ_4
真ん中も庚申塔。こちらはごく普通の庚申塔だ
石の塔が立ち並ぶ_5
総門
かなり立派な総門だ。『般舟場』の扁額がかかっている。意味合いについては、説明写真の記載を見ていただきたい。
総門_1
総門_2
総門_3
総門_4
内側から見るとこんなふう
総門_5
これは何の意味があるのかな?
総門_6
こちらは東門
こちらは東門_1
こちらは東門_2
扁額だが、私には読むことができない。『釈迦如来仏法…』と書かれてあるのかなあ。
こちらは東門_3

 

次大夫堀公園民家園(4)

旧加藤家住宅主屋
世田谷のごく普通に存在しただろう中規模以上の農家と思われる。もとの所在場所もすぐ近くだったようだ。その辺りの昔の様子を想定した展示内容になっている。が、実際は、趣味のグループの作業場所かな。
外観
ちょうど茅葺き屋根の葺き替え中だった。見た感じ一部、必要箇所のみの葺き替えのように見えたが、どうだったのだろうか?この作業も自分たちの手で行っているようだった。主に週末に行うのかな?
主屋
主屋_1
主屋_2
主屋_3
納屋
こちらは移築したものか、雰囲気に合わせて増設したものか不明。いわゆる納屋だろう。軒先には、収穫直後と思われる大麦が干してあった。
納屋_1
納屋_2
焙炉(ほいろ)もあった。お茶も自家製茶だったようだ。
納屋_3
納屋_4
家屋内部
見ての通り、趣味のグループの活動場所になっている。我々がそれを見させてもらうことができるのは当然のことだ。
昔の味噌部屋かな
こちらは藍染めの染料が入っている壺。『藍染めの会』が使用している。
昔の味噌部屋かな_1
昔の味噌部屋かな_2
昔の味噌部屋かな_3
土間
竈があるのは当然だろうが、その隣に石臼がある。豆腐でも作っていたのかなあ。
土間_1
立派な杵と臼も残されてあった
土間_2
炊飯用の竈以外に、大鍋で湯を沸かすための大型の竈があった。もち米をふかしたりしたのかなあ。
土間_3
居間
養蚕に取り組んでいた。お蚕さんは旺盛な食欲を見せていた。何をつまみ出しているのかと聞いたら、萎びた桑の葉をつまみ出しているとのことだった。
居間_1
居間_2
居間_3
居間_4
居間_5
屋外
屋根葺きの見本
屋根葺きのグループの手になるものかな?
屋外_1
屋外_2
こちらは土壁の見本
やはり担当のグループがあるようだ。
屋外_3

世田谷区指定有形文化財(建造物)
昭和56年5月20日指定
江戸時代
桁行7間(12.7m)、梁間4.5間(8.0m)、寄棟造、茅葺
物置付、間口1.5間(2.7m)、奥行4間(7.2m)

喜多見にあった加藤家の屋敷から移築した主屋は、江戸時代末の安政2年(1855)以前に建てられたと推定されています。間取りは整形四ッ間型といい、俗に田の字型とも呼ばれる形式で、関東地方では江戸時代後期の農家に一般的に見られた間取りです。
加藤家では明治期に養蚕を盛んに行なっていたので、主屋にはスノコ天井や煙出し櫓など、養蚕のための様々な工夫が見られるのも特徴の一つです。

 

江戸東京たてもの園に行った(3)

会水庵
宗徧流の茶人、山岸宗住(会水)が建てた三畳台目と勝手とからなる茶室。高橋是清邸の並びにある。そちらの付属茶室という趣にしてあるように見えるが、西川家別邸に付属茶室という趣にしてある。アクセスが許されている範囲での撮影なので、多少見難いかもしれない。宗徧流での名前は最初に『宗』の字がつく。私の祖母もそうだった。宇野信夫氏の名前もよく聞く名前だ。最初にどこで見聞きしたのかと考えたが、おそらく歌舞伎のプログラムで見かけたのが最初かな。
黄色い壁面部分のみが会水庵。母屋に見立てたのが、右側に写っている西川家別邸である。
会水庵_1
左側が三畳台目。右手前側が勝手。
会水庵_2
三畳台目
会水庵_3
躙り口から内部を見た。案外広く見える。
会水庵_4
腰掛。招待客はここで席主から声がかかるのを待ったのだろう。後出する西川家別邸の画は、この辺の様子を描いたものだろう。
会水庵_5
残念ながら障子が締め切られていた。会水庵と書かれてあった。
会水庵_6
西川家別邸との接続箇所
会水庵_7
宗徧流の茶人、山岸宗住(会水)が建てた茶室です。
1957年(昭和32)、劇作家の宇野信夫が買い取り、西荻窪に移築しました。本畳三枚と台目畳一枚からなる三畳台目の小間の茶室です。


西川家別邸
地元の実業家西川伊左衛門が隠居所及び接客用に建てた別邸だそうだ。見に行ったときは、これから耐震工事に取り掛かる準備作業中のようで、やや無粋な赤いものなどが目につくが、無視していただきたい。
内部は完全な和風の家屋だった。

ほぼ全景
なんだかソフトバンクのCMみたいで気に入らない響きだが、ほぼ全景だ。魚眼擬きを持参したのを思い出したが、ちょっとへばっていて、使用することなしに手抜きをした。玄関を挟んで向かって左側(西側)が客間で接客空間、右側(東側)が茶の間などの居住空間となっているようだ。
西川家別邸_1
西川家別邸_2
西川家別邸_3
もとは赤坂と昭島市とまったく違う場所に所在したが、今は高橋是清邸と隣接している。しかし、あのような凄い邸宅が隣家だったら、いつも卑下してしまいそうだ。
西川家別邸_4
西川家別邸_5
玄関を入ったあたり
西川家別邸_6
西川家別邸_7
すぐ右隣の部屋
簡単に応接するときに多用した部屋だそうだ
西川家別邸_8
『茶庭』という作品
会水庵での様子を描いた作品の複製だそうだ。こういう作品の複製まで用意するとは、お役所にしては芸が細かい。
西川家別邸_9
西川家別邸_10
西川家別邸_11
その他の部屋
薄暗かった。やむを得ず露出補正をしたのだが、やりすぎだった。大失敗。
西川家別邸_12
西川家別邸_13
西川家別邸_14
西川家別邸_15
西川家別邸_16
西川家別邸_17
庭の夏椿
西川家別邸_18
西川家別邸_19
西川家別邸_20
建築年代1922年(大正11)
所在地昭島市中神町二丁目
北多摩屈指の製糸会社を設立した実業家西川伊左衛門が隠居所及び接客用に建てたものです。
多摩地域の養蚕・製糸業が最盛期をむかえた時期(大正期から昭和初期)に建てられ、 よく吟味された部材が使われています。

 

« »

06 2018
SUN MON TUE WED THU FRI SAT
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
メッセージボードα
Information from AzTak

5月10日(木)-11日(金)は、所用で自宅に殆どいません。私からのアクセスはかなり遅くなると思います。大変申し訳ありません。m(_ _)m

-- E N D --
.
.
プロフィール

AzTak

Author:AzTak
FC2ブログへようこそ!

定年後の時間たっぷりの輩です。写真撮影やプログラミングが趣味です。

当ブログは、リンクフリーです。

カテゴリ
フリーエリア
リンク
検索フォーム
リンク
QRコード
QR