散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

皇居周辺をぶらぶら(3) 2017.01.29 22:03一部記載修正

皇居現存の櫓
江戸城には櫓が46棟(三重櫓6棟、二重櫓10棟、平櫓4棟、多門櫓26棟)あったが、現存するものは伏見櫓、富士見櫓、桜田巽櫓の三基の櫓だけ。今回はそのうちの二基の櫓を写真に撮った。

巽櫓(桜田二重櫓)
巽櫓は本丸から見て東南(辰巳)の濠の角にあることから名づけられた。この巽櫓も伏見櫓や富士見櫓と同様に、関東大震災で損壊したのちに解体して復元したもの。隅角に造られた現存する唯一の「隅櫓」。通りからもよく見える。濠は、桔梗濠。
巽櫓(桜田二重櫓)_1
石落としの備えは何故角の一方だけにしたのだろうか。もう片方は必要なかったのだろうか?
巽櫓(桜田二重櫓)_2
左奥に内桜田門が見える
巽櫓(桜田二重櫓)_3
富士見櫓
江戸城旧本丸の東南隅に位置する「富士見櫓」で、将軍もここから、品川の海や富士山を見たといわれている。現存の三重櫓は、万治2年(1659年)の再建で、江戸城本丸の遺構として富士見多聞とともに貴重な存在。明暦の大火(1657年)で、天守閣焼失後は、城下の復興が最優先で、その後再建はされなかった。その代役を果たしたのが、この富士見櫓と言われる。実際には徳川の天下が揺るがない状況にあったため、不要不急の天守閣の再建が見送られたのだろう。
富士見櫓_1
富士見櫓_2

大手門から入って東御苑・本丸跡などを見る

皇居の地図
皇居の地図_1
皇居の地図_2
大手門
高麗門と渡櫓型の櫓門とで構成された典型的な枡形門の形式で。櫓門は桁行22間(40m)、梁間4間2尺(7.9m)という大きさを誇る。
大手門_1
大手門_2
高麗門
ここで敵軍を防御するという考えはなかったと思われる。攻める方も守る方も真正面からの攻防は想定しないことなのだろう。万が一のときは、渡櫓門に後事を託す感じだったのだろう。
高麗門_1
高麗門_2
高麗門_3
渡櫓門
こちらは本格的な戦いになったときに耐えられる堅固な造りになっている。敵性勢力が下見をした段階で諦めさせる効果を狙っていたのかもしれない。
渡櫓門_1
渡櫓門_2
渡櫓門_3
渡櫓門_4
渡櫓門_5
渡櫓門_6
渡櫓門_7
渡櫓門_8
江戸城の正門。築城の名人として知られる藤堂高虎が基本設計し、慶長十一年(1606)から建設が始まった。江戸城大手門を枡形門としたのは、伊達政宗らである。
枡形門は、2つの門からなり、第一の門を「高麗門」、第二の門を「渡櫓門」という。諸大名はこの大手門から登城したため、警備も厳重で鉄砲30丁、弓10張、持弓2組、持筒2丁、長柄槍20筋が常備されていたという。高麗門は、石垣と鉄砲狭間に囲まれている。
かつて門前には大手門橋がかけられていたが、大正年間に埋め立てられた。


皇居三の丸施設の内の済寧館
大手門に入城して枡形内から渡櫓門を出て左に進むと右手に三の丸尚蔵館の白い屋根が見える。その左前方に青い屋根の済寧館、皇宮警察本部、旧枢密院の建物が見える。済寧館は皇宮警察の柔剣道場になっているようだ。
済寧館
済寧館は、明治天皇の命により明治16年(1883)山岡鉄舟ら10余名の剣術・槍術の指導者によって開かれた道場である。剣槍術大会や天覧武道大会には皇族・華族・政府高官が臨席し幾多の名試合が行われている。昭和8年(1933)皇宮警察の武道振興のため、三の丸の現在地に建坪300坪の切妻千鳥破風造りに玉座を設けた道場が建てられた。平成21年(2009)天皇陛下御即位二十周年記念武道大会が開催され、今上天皇、美智子皇后が臨席された。

Comments

 
こんばんは
いつもありがとうございます
江戸城は行ったことがないんです東京何回も行って
おりますが櫓が30ですか現存してたら凄いのに
残念ですね
高麗門 
門の内側からのビル群の眺めが タイムスリップしたような感覚になりました。
旧大手門渡櫓 昭和20年に戦災で焼失とありますが 皇居は爆撃は避けたと
思っていました。若いころ 友人が二重橋を見たいと言って 歩きましたが
とっても遠くに感じました。 その時に 出光美術館に行ったのを思い出しました。
おはようございます 
今は櫓が少ししか残っていないのですね。外から中に入るのはいいのですが、外の迫って来るようなビルディングにはかなりがっかりです。江戸時代の風景はきっと趣きがあったのでしょうね。
AzTakさん 
こんにちは
皇居の周りは、チャリンコや短い足で何回か周りましたが、中に入ったことは有りません。
こんな風になっているんですねえ。
?? 大奥とはどの辺でしょうか??
今日は! 
皇居東御苑ですね。
私も6回位行きましたが、皇居も良い所です。
昨年桜の季節に行きましたが、外国人が多いので驚きました。
特にアジア系の方が多かったです。
巽櫓は噴水公園から良く眺めていました。
東御苑は静かな所で良かったのですが、アジア系の方が大勢来ていて騒がしかったです。
以前の雰囲気が失われてしまった様に感じました。
 
こんにちは。
江戸城天守閣が明暦の大火後再建されなかったのは
とうじ将軍の補佐役だった会津藩の藩祖『保科正之』が
強行に反対し、復興を最優先させ、
武断政治から文治政治へ転換したからだそうで
様々な改革を断行し徳川中興を成し遂げたとされていますね。
福島県民として誇らしく思います。
でも引いてはそれが幕末の悲劇につながろうとは
『保科正之』も夢にも思わなかったでしょうね。

ryu
Re: タイトルなし 
> こんばんは

sanbarikiさん、こんばんは。

> いつもありがとうございます
> 江戸城は行ったことがないんです東京何回も行って
> おりますが櫓が30ですか現存してたら凄いのに
> 残念ですね

櫓の数を書き間違えていました。気になって調べたら、江戸城の櫓の数は46棟あったそうです。
ちなみに一番多い順から、広島城76棟、姫路城61棟、津山城60棟だったとか。江戸城が一番ではなかったようです。

櫓や多聞が全部残っていたら其れだけでヨーロッパの城塞都市のようですね。
江戸城の本丸御殿が残っていれば、其れこそ大変な歴史遺産なんでしょうね。
宮内庁所管の建物は国宝や重要文化財の指定外なんですね。おそらく、米軍横須賀基地内にある江戸時代に着工したドライドックなども、同様に指定外なんでしょう。
Re: 高麗門 
tugumi365さん、こんばんは。

> 門の内側からのビル群の眺めが タイムスリップしたような感覚になりました。

あれは複雑なものですね。評価する人も一部には居ますが、大体は嘆く方がほとんどのようです。

> 旧大手門渡櫓 昭和20年に戦災で焼失とありますが 皇居は爆撃は避けたと
> 思っていました。若いころ 友人が二重橋を見たいと言って 歩きましたが
> とっても遠くに感じました。 その時に 出光美術館に行ったのを思い出しました。

皇居そのものは爆撃を受けなかったのでしょうが、外に面している大手門は周辺の火をもらってしまったのでしょう。
明暦3年(1657年)の明暦の大火により天守を含めた城構の多くを焼失。町の復興を優先し、また経済的な理由から天守は再建されなかったこともありました。昔からもらい火には弱かったようです。

未だに皇居あたりの地理には疎く、今回も外人さんに道を聞かれて自信を持って答えたんですが、大間違いだったようです。申し訳ないことをしてしまったようです。
足腰の不調を抱えているから特にそう思うのかもしれませんが、皇居の外周はけっこうありますよねえ。

Re: おはようございます 
MTさん、こんばんは。

> 今は櫓が少ししか残っていないのですね。外から中に入るのはいいのですが、外の迫って来るようなビルディングにはかなりがっかりです。江戸時代の風景はきっと趣きがあったのでしょうね。

パリやロンドンのような町並みは望むべくもありませんよね。
江戸時代はすぐ近くまで入り江があったとか。新橋辺りから続いていたようです。二の丸から本丸に通じる潮見坂からは、その名の通り海が見え、本丸にあった富士見櫓からは富士山が見えたんですね。今と違って、ほぼ年中見えたんでしょうね。
Re: AzTakさん 
> こんにちは

のんびり熊さん、こんばんは。

> 皇居の周りは、チャリンコや短い足で何回か周りましたが、中に入ったことは有りません。
> こんな風になっているんですねえ。

そうなんですよ。これでも、江戸の昔とはだいぶ様相が変わってしまいましたが。

> ?? 大奥とはどの辺でしょうか??

あとから取り上げますが、本丸の櫓や多聞に囲まれて本丸御殿があり、その一番奥のあたりにあったようです。本丸御殿は1万1千坪ほどあったとか。凄いものですねえ。
Re: 今日は! 
yosaku03さん、こんばんは。

> 皇居東御苑ですね。
> 私も6回位行きましたが、皇居も良い所です。
> 昨年桜の季節に行きましたが、外国人が多いので驚きました。
> 特にアジア系の方が多かったです。
> 巽櫓は噴水公園から良く眺めていました。
> 東御苑は静かな所で良かったのですが、アジア系の方が大勢来ていて騒がしかったです。
> 以前の雰囲気が失われてしまった様に感じました。

今は、外国の人が増えましたねえ。特に中国や韓国の人などは、お国の歴史教育の歪みを反映しているのか、こういうところで騒ぎ立てるような輩も少なくないようですね。其れがなくても、公徳心にかけるきらいがあるようです。
Re: タイトルなし 
> こんにちは。

tgryuさん、こんばんは。

> 江戸城天守閣が明暦の大火後再建されなかったのは
> とうじ将軍の補佐役だった会津藩の藩祖『保科正之』が
> 強硬に反対し、復興を最優先させ、
> 武断政治から文治政治へ転換したからだそうで
> 様々な改革を断行し徳川中興を成し遂げたとされていますね。
> 福島県民として誇らしく思います。
> でも引いてはそれが幕末の悲劇につながろうとは
> 『保科正之』も夢にも思わなかったでしょうね。
>
> ryu

保科正之公の力量たるや凄いものがあったのでしょうね。異母兄で飛ぶ鳥を撃ち落とす勢いの家光に臆すること無く直言できたのは、保科正之公ならではのものがあったのでしょうね。
幕末の悲劇は運命だったのでしょう。会津は頑固な人の多い土地柄ですね。
こんばんは! 
AzTajさん、こんばんは!
東御苑によく撮影に行きますが
こんなに深く考えたことも、見たこともありませんでしたよ 汗)
背景の近代的なビルとの対比が面白いと感じてはいましたが・・・汗)
そういえば、東御苑にも暫く行ってないな~!
Re: こんばんは! 
> AzTajさん、こんばんは!

makiraさん、おはようございます。

> 東御苑によく撮影に行きますが
> こんなに深く考えたことも、見たこともありませんでしたよ 汗)
> 背景の近代的なビルとの対比が面白いと感じてはいましたが・・・汗)
> そういえば、東御苑にも暫く行ってないな~!

良からぬ考えを起こさせないように、江戸の初期までに陣容を整えていったのでしょうね。確かに白兵戦にはと良かったと思いますが、火に対する備えは十分とはいえず、明暦の大火などで天守閣まで炎上する程でした。
江戸城を攻めるには飛び道具で火器を主力に据えればということは学んだことでしょうね。

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