散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

大内宿~鶴ケ城~相馬野馬追(6)

大内宿から北上し、城下町の会津若松市にやってきた。徹底して薩長勢と戦い名を馳せた会津藩。私が福島県を後にした頃に、天守閣の再建が為された。それなので、先に取り上げた大内宿を知らないばかりか、今春まで再建された天守閣も見たこともなかった。

鶴ケ城(1)
城内に入る
今年2度め、通算でも2度めの鶴ヶ城。前回は個人での訪問だったので、個人向けの駐車場に駐めた。そして廊下橋を渡ったアクセスだったが、今回は椿坂を登り、太鼓門を通る。感じがかなり変わる。どう違うのか説明しにくいので、案内図を参照されたい。
鶴ヶ城案内図
鶴ケ城案内図
城内に入る_1
城内に入る_2
城内に入る_3
城内に入る_4
天守閣右側面から鉄門の方に進む
この辺りはいわゆる城の外側。鉄壁の守りで敵を寄せ付けないようになっていた。官軍には、比較的守りにくかったのか、城の正面がやられたようだ。
天守閣右側面から鉄門の方に進む_1
天守閣右側面から鉄門の方に進む_2
天守閣右側面から鉄門の方に進む_3
天守閣右側面から鉄門の方に進む_4
天守閣右側面から鉄門の方に進む_5
天守閣右側面から鉄門の方に進む_6
天守閣右側面から鉄門の方に進む_7
鉄門を潜り本丸跡に入る
干飯櫓は兵糧庫だった。
干飯櫓
鉄門を潜り本丸跡に入る_1
鉄門を潜り本丸跡に入る_2
鉄門を潜り本丸跡に入る_3
鉄門を潜り本丸跡に入る_4
鉄門を潜り本丸跡に入る_5
鉄門を潜り本丸跡に入る_6
干飯櫓を出たすぐのところの濠は水面からの高さが凄い
干飯櫓を出たすぐのところの濠_1
干飯櫓を出たすぐのところの濠_2
干飯櫓を出たすぐのところの濠_3
干飯櫓を出たすぐのところの濠_4
荒城の月碑
土井晩翠作詞の『荒城の月』は、青葉城をイメージして作られたとされるが、実は、青葉城だけではなく、鶴ヶ城をもイメージしたものだったとする説があるようだ。その解釈のもとに、この一画に碑がある。確かに青葉城よりも鶴ケ城のほうが『荒城』のイメージが強かったのかもしれない。
荒城の月碑_1
荒城の月碑_2
茶室『麟閣』(1)
400年以上も前の茶道の世界のエポックメイキング的なエピソードである蒲生氏郷と千少庵との関わり。感謝してもしきれない恩義を感じた千少庵が蒲生氏郷のためにつくった茶室が『麟閣』。
この重要な建物が、未だに福島県指定重要文化財にとどまるのは何故だろうか。既に400年以上経過しているし、歴史的にも看過できない重さがある。
それほどまでに、長州は会津を憎んだのだろうか。現在のお役人は、そんな遺恨を水に流して、指定の見直しを行うべきではないかと思う。

茶室『麟閣』_1
寄付(よりつき)
茶室『麟閣』_2
中門
茶室『麟閣』_3
茶室『麟閣』_4
腰掛待合
茶室『麟閣』_5
豊臣秀吉の奥州仕置きによって天正18年(1590)蒲生氏郷が会津に入り(42万石のち92万石)、近世的支配を確立していきました。
氏郷は織田信長の娘婿であり、器がおおきく勇猛な武将であるうえ、この時代を代表する文化人で、特に茶道に親しみ、のち利休七哲の筆頭にあげられるほどでした。
天正19年(1591)2月28日、千利休が秀吉の怒りに触れて死を命じられ、千家が茶の湯の世界から追放された折り、氏郷は利休の茶道が途絶えるのを惜しんでその子、少庵を会津にかくまい、徳川家康とともに千家復興を秀吉に働きかけました。
その結果、文禄3年(1594)と推定される「少庵召出状」が出されたのです。
少庵は京都に帰って千家を再興し、千家茶道は一子、宗旦(そうたん)に引き継がれました。
そののち宗左、宗室、宗守の3人の孫によって表、裏、武者小路の3千家が興され、今日の茶道隆盛の基が築かれました。かくまわれている間、氏郷のために造ったと伝えられているのが「麟閣」であり、以来、鶴ヶ城(若松城)内で大切に使用されてきました。
しかし、戊辰戦争で会津藩が敗れ、明治初年、鶴ヶ城が取り壊される際、石州流会津怡渓派の森川善兵衛(指月庵宗久)は貴重な茶室の失われるのを惜しみ、明治5年(1872)5月、自宅へ移築し、以来百二十年にわたり、森川家はその保全に努めてこられました。
会津若松市では平成2年9月12日、市制90年を記念してこの氏郷少庵ゆかりの茶室を後世へ伝えるため、鶴ヶ城内の元の場所へ移築いたしました。

Comments

 
鶴ケ城はきれいに再興されましたね。
”荒城の月”もここだったのですね。
京都市内に千家の三流派が本家をおいているようですが、しかし、そこはさすが千家で、祇園祭とかではちゃんと交代で茶会を担当しているようです。
あまり詳しくは知りません~(^^)
AzTakさん 
こんにちは
荒城の月は、鶴ヶ城にこそ相応しいと思います。
歌詞には直接触れてはいませんが、まさの兵どもが戦った跡なんです。
鱗閣、400年以上も前の逸話が残るんですね。
戦いは、武士道に限らず、スポーツの様に勝負が着いたら、ノーサイドの考え方が出来ないものでしょうか?
とっくに国重文になっていてもいいと思います。
こんにちは。 
形の良い、立派な城ですよね。
この城へは何回も行っていますが、まだ桜の時期に行ったことがありません。
来年こそは!と思っています。
今日は 
今日は。。


いつもながらのご健脚、ご健筆。
うれしくもあり、羨ましくもあります。

ご心配頂きましたが、31日無事に山麓につきました。
涼しい環境で一難を逃れました。

まだ、カメラを持つ元気は出ませんが
平坦な小路の散歩や読書昼寝。
年寄りの徒然のままに時間は流れています。

暑さ厳しい折、ご自愛お過ごしください。
こんばんは。 
暑いなか、お城めぐりも大変ですね。木陰で休んでいる人の気持ちが分かりますよ~。復興前の鶴ヶ城、いかにも荒城と呼ぶにふさわしく、悲しいかな歌詞が情景に染み込みますね。
こんばんは 
鶴ヶ城、よいお城ですね~~
城好きにはたまりません!
行ってみたいな~~~
お茶室もあるんですね^^
こう言うのも大好きです^^
Re: タイトルなし 
cobo-feさん、こんばんは。

> 鶴ケ城はきれいに再興されましたね。

最初に復権の第一歩となったのは藩主の血を引く松平節子嬢が三笠宮妃になられたことだったのでしょう。それからも会津の茨の道は続いたのでしょう。完全に普通の地域となったのは、戦後のことだと思います。そして1965年にその象徴たる鶴ヶ城の再建がなったのです。落城から実に百年をも要したことになります。

> ”荒城の月”もここだったのですね。

メインは青葉城の方でしょうが、鶴ヶ城の荒廃の様子も土井晩翠にかなりの影響を与えたのだと思います。

> 京都市内に千家の三流派が本家をおいているようですが、しかし、そこはさすが千家で、祇園祭とかではちゃんと交代で茶会を担当しているようです。
> あまり詳しくは知りません~(^^)

千家の血筋が途絶えなくて良かったですね。会津の殿様も良いことをしたものです。
Re: AzTakさん 
> こんにちは

のんびり熊さん、こんばんは。

> 荒城の月は、鶴ヶ城にこそ相応しいと思います。
> 歌詞には直接触れてはいませんが、まさの兵どもが戦った跡なんです。

明治になっても暫くは壊れた惨めな姿のまま捨て置かれたようです。維新政府の会津憎しの気持ちは相当なものがあったようです。土井晩翠はその姿を直接は見ていなかったと思いますが、悲惨な様子を聞き及んだことでしょう。

> 鱗閣、400年以上も前の逸話が残るんですね。
> 戦いは、武士道に限らず、スポーツの様に勝負が着いたら、ノーサイドの考え方が出来ないものでしょうか?
> とっくに国重文になっていてもいいと思います。

重文どころか国宝に指定してもおかしくないと個人的には思います。会津若松市や福島県の担当者がもう少し積極的に動けば良いのにと思います。
Re: こんにちは。 
S-masaさん、こんばんは。

> 形の良い、立派な城ですよね。

そうですね。

> この城へは何回も行っていますが、まだ桜の時期に行ったことがありません。
> 来年こそは!と思っています。

私が今春に行った時はとき既に遅しでした。アッシー君の予定を都合してもらって、ぎりぎりサクラに間に合うと思ったのですが、異常気象で早く散ってしまいました。特に西出丸のサクラなどが見事なようです。
来春、素晴らしい写真を是非拝見したいと思います。よろしくお願い致します。私も行ってみたいものです。
Re: 今日は 
> 今日は。。

ijinさん、こんばんは。

> いつもながらのご健脚、ご健筆。
> うれしくもあり、羨ましくもあります。

おかげさまで、何とか行ってきました。その後、秩父にも間を置かずに行き、そこで疲れ果てましたが。(^_^;)

> ご心配頂きましたが、31日無事に山麓につきました。
> 涼しい環境で一難を逃れました。
>
> まだ、カメラを持つ元気は出ませんが
> 平坦な小路の散歩や読書昼寝。
> 年寄りの徒然のままに時間は流れています。
>
> 暑さ厳しい折、ご自愛お過ごしください。

元気を取り戻しつつあるようで何よりです。大先輩が元気を取り戻したのに情けない話ですが、こちらは数日引きこもっていますが、どうにも、体調が今ひとつです。いつまでのもうじうじしても始まらないので、明日から、少し出歩こうと考えています。
Re: こんばんは。 
HARUさん、こんばんは。

> 暑いなか、お城めぐりも大変ですね。木陰で休んでいる人の気持ちが分かりますよ~。復興前の鶴ヶ城、いかにも荒城と呼ぶにふさわしく、悲しいかな歌詞が情景に染み込みますね。

大内宿をうろちょろしていた時は、幸いにも薄曇りだったのですが、会津若松に近づくに連れ、雲間が少なくなり、カンカン照りの状況になってきました。暑さが猛烈に堪えました。
明治になっても暫くは破壊された状態で晒されていて、本当に暗い街の象徴だったようです。歌詞はなんとなく鶴ヶ城のことを歌っているかのように聞こえてきます。何とも不思議なことですが。
Re: こんばんは 
土佐けんさん、こんばんは。

> 鶴ヶ城、よいお城ですね~~
> 城好きにはたまりません!
> 行ってみたいな~~~

鉄筋コンクリート製の再建天守閣ですが、外観だけは昔の寸法通りにつくってあるようです。ただし、天辺の鯱鉾はなかったのではないかという話もありますが。

> お茶室もあるんですね^^
> こう言うのも大好きです^^

裏千家とか表千家になる前の千利休が自害を命じられ、その子である少庵の命も微妙だと言われた時のものです。秀吉の怒りが和らぐのを蒲生氏郷はじっと待ち、その間、匿ったのでしょう。そして、頃合いを見て、秀吉に千少庵の扱いの見直しを進言しました。
己が命の心配がなくなり、その上で家名再興が出来たわけです。その恩を千少庵は何より重く感じたのでしょう。その感謝の印が茶室麟閣だと言われています。『深いい話』です。

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