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散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

母校が高校野球北神奈川大会を制した

高校野球北神奈川大会の決勝戦が昨30日に横浜スタジアムで行われた。負けたら絶対に取り上げないつもりでいたが、無駄にならなくてよかった。それにしても終盤桐光学園に追い上げられ、冷や汗ものの勝利だった。
準決勝戦は、キャノンの7Dmk2で撮影したが、今回はパナのDMC-G8で撮影してみた。大した変わらないのではないかと思ったが、カンカン照りの環境下だと、DMC-G8のファインダーに光が入り込みすぎて、うまく撮れているのか否か判断がつかない。没ショットが少なくなく、ピーカンの撮影には適さないことが良く分かった。

途中のシーン
3回表の廣瀬君のソロ本塁打
3回表の廣瀬君のソロ本塁打
最近は、こういう演出もしてくれるんだなあ
最近は、こういう演出もしてくれるんだなあ

得点経過
日スポ記事を参考にまとめさせてもらった
慶応は1回、2死一、二塁から根岸の内野安打と敵失が絡み、1点を先制した。桐光学園は3者凡退に終わった。
慶応は2回、1番宮尾の右翼席への2ランで追加点を挙げた。桐光学園は2回、初安打が生まれたものの無得点。
慶応は3回、4番広瀬のソロ本塁打と二死1-2塁で善波の左翼線適時二塁打で2得点。2死打者生井のところで、桐光のエース谷村降板。二本柱のもう一方である冨田に継投した。桐光は3回も無得点。慶応・生井に3回まで5三振を喫している。
桐光学園は4回、3番山田の適時打で1点を返し、1-5とした。
5回は両校とも3人で攻撃を終了。5回を終え、5-1で慶応がリードしている。
6回も両校無得点だった。ここまで慶応が7安打、桐光が3安打。
慶応は7回、石田の適時打で1点を追加した。
慶応は8回、広瀬の適時二塁打で1点追加。桐光学園は代打鵜沢の本塁打、1番唐橋の適時二塁打などで4点を返した。8回を終えて、7-5で慶応がリード。
慶応は9回表、無得点。2点差のまま、9回裏へ。桐光学園は9回裏、三者凡退に終わり、7-5で慶応の優勝が決まった。


試合の経過を画像で追う
ブルペンでの生井君の投球練習
疲れ果てない限り全国でも有数の左腕。見事な投球フォームだ。だが、慶應の二番手以下の投手が話にならないほど非力で、連投に次ぐ連投を強いている。なので、生井君の投球のすばらしさを知らない人が殆どだろう。
ブルペンでの生井君の投球練習_1
ブルペンでの生井君の投球練習_2
ブルペンでの生井君の投球練習_3
ブルペンでの生井君の投球練習_4
ブルペンでの生井君の投球練習_5
ブルペンでの生井君の投球練習_6
ブルペンでの生井君の投球練習_7
ブルペンでの生井君の投球練習_8
ブルペンでの生井君の投球練習_9
ブルペンでの生井君の投球練習_10
桐光のエース谷村君の投球フォーム
こちらも名門校のエースらしく堂々たるピッチング。だが、今大会終盤は調子を明らかに落とし、苦戦の連続。この試合でどのくらい回復しているか興味のあるところだった。彼の打順は7番。継投を考えているなら、後続の投手の打力を考えて9番にすべきだろうが、母校を少し見下した打順だったかもしれない。
桐光のエース谷村君の投球フォーム_1
桐光のエース谷村君の投球フォーム_2
桐光のエース谷村君の投球フォーム_3
桐光のエース谷村君の投球フォーム_4
桐光のエース谷村君の投球フォーム_5
桐光のエース谷村君の投球フォーム_6
桐光のエース谷村君の投球フォーム_7
桐光のエース谷村君の投球フォーム_8
桐光のエース谷村君の投球フォーム_9
桐光のエース谷村君の投球フォーム_10
先取点(1回表)
1回、2死一、二塁から根岸の内野安打と敵失が絡み、1点を先制した。簡単に二死を取ったのに、そこからアウトが取り切れず、走者をためた。谷村君の投球にいつもの威力が無さそうに見えた。画像がピンボケになってしまったが、やたらに打撃フォームがデカいが、その割には大した内容ではない根岸君が2塁への内野安打。これを桐光二塁山田君がファンブルし、その間に生還。山田君の二塁守備はその後も位置取りが良くないのではないかと思うシーンがいくつかあった。急造の二塁手だったのかなあ。
先取点(1回表)_1
先取点(1回表)_2
先取点(1回表)_3
追加点(2回表)
二死一塁で1番宮尾君の右翼席への2ランが飛び出した。下位打線で簡単に二死を取られ、谷村君に立ち直らせるアシストをしたかと思うほどの拙攻。これまでかと思ったのだが、生井君が粘って四球を選んだ。打順が1番に還り宮尾君が本塁打。もしかしたら、試合を方向づけた四球と本塁打だったかもしれない。
ここでもネットにピントが取られ、ボケた写真になってしまった。ファインダーがほとんど見えないので、確認しようがなかった。

追加点(2回表)_1
追加点(2回表)_2
追加点(2回表)_3
追加点(3回表)
桐光の谷村君の調子が今二つくらい。これなら、非力なわが母校打線でも捉えられるという確信が芽生えた。それを裏付ける会心の当たりが当たりが飛び出した。
追加点(3回表)_1
追加点(3回表)_2
追加点(3回表)_3
追加点(3回表)_4
追加点(3回表)_5
追加点(3回表)_6
アップアップしている谷村君を攻め立て、二死1-2塁で善波君の左翼線適時二塁打が飛び出す。こう書けばクリーンヒットのように思われるかもしれないが、ぼてぼてのフライがちょうど良いところに落ちたのだ。谷村君にはアンラッキーな当りが続く。が球威がないので、そういう結果になってしまったのだろう。
追加点(3回表)_7
追加点(3回表)_8
追加点(3回表)_9
追加点(3回表)_10
試合終了
8回途中からリリーフして惨憺たる出来だった渡部君。ところがイニングが変わった9回裏は、別人のような出来。三者凡退に抑えた。桐光学園の焦りに乗じることができたのかもしれない。
試合終了_1
試合終了_2
試合終了_3
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試合終了_8
試合終了_9

勝って兜の緒を締めよ。桐光学園の選手の悔し涙を心に刻み、まずは1勝し、センバツ高校野球1回戦敗退の屈辱を晴らさなくてはならない。甲子園の借りは甲子園で返すのが筋だろう。

 

京都と大阪とへの小旅行(9)

祇園祭・前祭(9)

今回は全体の18番目から20番目を取り上げる。今回分で山のくじは終了。残る3基はくじとらずで、山鉾巡行の最後を締める。その直前の山が3基。この籤番号は、どうしても前方の鉾三番と後方のくじとらず3基に囲まれて、委縮してしまいがちなポジションかもしれない。ここには入りたくはなかった順番だったかもしれない。
背後から迫りくる放下鉾、岩戸山
観客の関心はそちらに向いてしまいがちだ。そうなっても仕方がないほどの迫力だ。
背後から迫りくる放下鉾

保昌山(ほうしょうやま)
18番目:山十一番
丹後守平井保昌と和泉式部の恋物語はともかくとして、前懸、胴懸、見送、それぞれの見事さに圧倒された。これは凄いと思った。次回撮る機会があれば、気の利いたレンズで、しっかり写し撮りたいと唸ってしまった。
人形は全て顔面をこちらに向けている。絶対こちら側が撮影向きだと思う。
保昌山(ほうしょうやま)_1
保昌山(ほうしょうやま)_2
保昌山(ほうしょうやま)_3
保昌山(ほうしょうやま)_4
保昌山(ほうしょうやま)_5
保昌山(ほうしょうやま)_6
保昌山(ほうしょうやま)_7
保昌山(ほうしょうやま)_8
保昌山(ほうしょうやま)_9
保昌山(ほうしょうやま)_10
保昌山(ほうしょうやま)_12
直前を行く菊水鉾に圧倒されながらも、善戦している感じがした。あなたにはどう見えただろうか?
保昌山(ほうしょうやま)_13
丹後守平井保昌と和泉式部の恋物語に取材し、保昌が式部のために紫宸殿の紅梅を手折ってくる姿をあらわしている。御神体(人形)は緋縅の鎧に太刀をつけ、梨地蒔絵の台に紅梅を一杯にもってこれをささげている。頭は明応9年(1500)、胴は寛政(1789~1800)頃、町内に住んでいた彫刻師勇祐の作であるという。前懸の緋羅紗地に蘇武牧羊図、胴懸の張騫巨霊人に鳳凰虎を配した刺繍は円山応挙(1733~95)の下絵である。近年それらを復元新調している。下絵は別に屏風に仕立て保存している。見送は福禄寿、弁財天に唐子を配した綴錦で寛政10年(1798)の作、水引は雲龍波濤文様に鳳凰鶴虎を配し、特に孔雀の羽根を縫込んだ刺繍の逸品である。また、平成23年にご神体引敷が新調された。山の故事にちなみ宵山には「縁結び」の御守りが授与される。

郭巨山(かっきょやま)
19番目:山十二番
こちらも、錫杖のようなものをついて歩くのではなく、魚とりの仕掛けのようなものを持参している。あれがなになのか気になるなあ。史話二十四孝の釜掘りの話は、私には受け入れがたい話のような気がする。古の中国の人の価値観であり、現代の中国人には、そういう価値観はないだろうし、日本人にも受け入れがたい話のような気がする。
郭巨山(かっきょやま)_1
郭巨山(かっきょやま)_2
屋根があると暗くなってしまう。屋根なしの方がありがたいなあ。
郭巨山(かっきょやま)_3
郭巨山(かっきょやま)_4
郭巨山(かっきょやま)_5
郭巨山(かっきょやま)_6
郭巨山(かっきょやま)_7
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郭巨山(かっきょやま)_9
郭巨山(かっきょやま)_10
郭巨山(かっきょやま)_11
中国の史話二十四孝の一人郭巨釜掘りの故事にちなんで造られ「釜掘り山」ともいわれる。山に飾る御神体(人形)の郭巨と童子は寛政元年(1789)金勝亭九右衛門利恭の作で前懸は天明5年(1785)製の唐美人遊楽図の絽刺、胴懸は石田幽汀(1721~86)の下絵による呉道子描龍図と陳平飼虎図の刺繍で天明5年松屋源兵衛の作、見送は文化12年(1815)製で円山応震(1790~1838)の下絵による山水仙人図であったが、昭和58年から新しく上村松篁原画による秋草図前懸、花の汀図および春雪図胴懸、都の春図見送の綴織を順次新調した。後懸は阿国歌舞伎図綴織と古後懸に天明5年改修の黒ビロード地福禄寿図刺繍がある。この山に限って桐桜菊の欄縁の下に金地彩色宝相華文様の乳隠しが用いられ、また屋根覆いをかけている。

木賊山(とくさやま)
20番目:山十三番
福島県の南会津町に木賊(とくさ)温泉がある。そこには木賊がかなり自生しているのだとか。謡曲の世界でも、その木賊を刈る子攫いにあった哀れな老人が登場する。攫われた子とめでたく再会を果たすシーンがあるようだ。それがモチーフか。史話二十四孝の釜掘りの話よりは、日本人の情感に訴えるものがあるように思う。
我が子をさらわれたら、どんな気持ちになるだろうか。そんな寂しい日々の感じが良く出ていたように感じた。
木賊山(とくさやま)_1
木賊山(とくさやま)_2
木賊山(とくさやま)_3
木賊山(とくさやま)_5
木賊山(とくさやま)_6
木賊山(とくさやま)_7
謡曲「木賊」に取材し、我が子を人にさらわれて一人信濃国伏屋の里で木賊を刈る翁をあらわしている。御神体(人形)は腰に蓑をつけ、左手に木賊、右手に鎌を持つ。木彫彩色の頭は仏師春日の作といわれ、足台には「元禄五年(1692)六月吉日」の墨書銘がある。水引は日輪鳳凰文様の綴錦及び道釈人物刺繍、前懸は唐人交易図刺繍、左右の胴懸は平成11~13年に復元新調した中国故事人物図の綴織、見送は中国明代の牡丹双鳳文様綴錦である。欄縁金具は緻密な雲龍文様で、角金具は唐団扇、木賊と銀兎文様のものが用いられている。旧見送として仙人聞香図の綴錦があり、旧水引には中東幾何文様イギリス織絨毯、他に緑地草花文様の後懸などが保存されている。

 

京都と大阪とへの小旅行(8)

祇園祭・前祭(8)

今回は、全体の16-17番目の占出山と菊水鉾とを取り上げる。またちょっと長くなるので、印象的な画を先に見ていただく。
印象的な画_1
印象的な画_2

占出山(うらでやま)
全体の16番目で山十番は占出山だった。神功皇后が肥前国松浦で鮎を釣って戦勝の兆としたという説話によるのか。祖父母や母が長年暮らした唐津が絡む神話だが、恥ずかしながら知らなかった。わかりやすいデザインだ。三十六歌仙図の刺繍がなされた水引は、非常によく目立つ。見送りもまた、華やかなものだ。
これまでの山鉾では、錫杖のようなものを使用していたが、こちらは何だろうか?魚を捕るための仕掛けのように見えるのだが、…。
占出山(うらでやま)_1
占出山(うらでやま)_2
占出山(うらでやま)_3
占出山(うらでやま)_4
占出山(うらでやま)_5
占出山(うらでやま)_6
占出山(うらでやま)_7
占出山(うらでやま)_8
占出山(うらでやま)_9
「鮎釣山」ともいう。神功皇后が肥前国松浦で鮎を釣って戦勝の兆としたという説話による。御神体(人形)は金の烏帽子に太刀をはき、右手に釣竿、左手に釣り上げた鮎を持って立つ。神功皇后は古くから安産の神として祀られ、山鉾巡行の鬮順が早いとその年はお産が軽いといわれる。安産の神として公家の信仰も厚く女院や公卿の姫君などから寄進された小袖や打掛・水干などが多数御神体衣裳として保存されている。水引は三十六歌仙図の刺繍。前懸・胴懸は日本三景の綴錦で天保2年(1831)の制作。このうち山口素岳の松島図下絵は別に保存されている。見送には花鳥龍文様の綴錦が用いられ、近年それらを復元新調した。宵山には安産の御守りと腹帯とが授与される。

菊水鉾(きくすいほこ)
全体の17番目で鉾三番は、菊水鉾・鶏鉾・月鉾のいずれかになるが、今年は菊水鉾だった。いよいよ最後尾が近づいてきたぞ。
兵火で焼失し、後年再興されたという。幕末の元治元年(1864)の『蛤御門の変』の兵火で焼失したが、昭和27年に88年ぶりに再興されたのだそうだ。京都人の祇園祭を盛り立てるという底知れぬ執念を感じる。

鉾頭まで、長い真木がピンと立っている。思わず見上げてしまった。鉾頭は金色の透かし彫の菊花だそうだ。持参したレンズではそこまではっきりは撮れなかった。
菊水鉾(きくすいほこ)_1
菊水鉾(きくすいほこ)_2
菊水鉾(きくすいほこ)_3
菊水鉾(きくすいほこ)_4
菊水鉾(きくすいほこ)_5
菊水鉾(きくすいほこ)_6
菊水鉾(きくすいほこ)_7
菊水鉾(きくすいほこ)_8
菊水鉾(きくすいほこ)_9
菊水鉾(きくすいほこ)_10
屋根方は、真木をピンとさせるために腐心しているのだろうか?大変だなあ。
菊水鉾(きくすいほこ)_11
菊水鉾(きくすいほこ)_12
菊水鉾(きくすいほこ)_13
菊水鉾(きくすいほこ)_14
菊水鉾(きくすいほこ)_15
菊水鉾(きくすいほこ)_16
菊水鉾(きくすいほこ)_17
菊水鉾(きくすいほこ)_18
菊水鉾(きくすいほこ)_19
菊水鉾(きくすいほこ)_20
囃子方が腰から下げているものは何だろうか。画像整理をしていて、やっと気が付いた。
菊水鉾(きくすいほこ)_21
菊水鉾(きくすいほこ)_22
菊水鉾(きくすいほこ)_23
菊水鉾(きくすいほこ)_24
菊水鉾の縁起物
友人にお土産としたいただいたもの。有難いことだ。
菊水鉾(きくすいほこ)_25
町内に古くからあった井戸、菊水井にちなんで名付けられ、鉾頭には金色の透かし彫の菊花をつけている。真木のなかほどの「天王座」には彭祖像を祀る。元治元年(1864)の兵火で焼失したが昭和27年、88年ぶりに松本元治氏の熱意が実り再興され、28年6月完工祭が行われた。稚児人形は菊の露を飲んで長寿を保ったという枕慈童で能装束の舞姿である。屋根は唐破風造りで、彫師海老名峰彰作の鳳凰の懸魚を飾り、軒下に翠簾を掲げるところは特に他の鉾と異なっている。昭和29年には皆川月華作唐獅子図の胴懸、飛鶴図の前懸が作られ、30年には月華作孔雀図の豪華な見送が完成。その後山鹿清華作の下水引、皆川泰蔵作の二番水引が加えられ、38年には三輪晁勢筆天井絵が、近年、小林尚珉氏によって錺金具が製作された。また、最近晁勢筆の天水引、月華作の下水引、岩澤重夫筆の深山菊水図綴織見送があらたに完成した。このようにして、菊水鉾は年々装飾が充実し、「昭和の鉾」としての偉容を示してきている。

 

第100回全国高校野球選手権記念北神奈大会準決勝第1試合

圧倒的不利の下馬評を覆し、母校が東海大相模高校を撃破した。

慶応002 400 100 =7 H13 E1
東海010 010 002 =4 H12 E0

[慶]生井(8.2/3)、渡部(1/3) - 善波
[東]斎藤(3.2/3)、諸隈(2.1/3)、紫藤(2)、野ロ(1) - 井上
[本]
[三]生井(慶)
[二]井上2、小松、上杉(東)


得点経過
東海:2回裏二死一二塁で投飛を生井が捕球し損ねて、二死満塁。山田の左前適時打で先制! 慶0:1東
慶応:3回表一死満塁下山の右犠飛で同点!二死一三塁高瀬の峙、捕逸で勝ち越し。 慶2:1東
慶応:4回表一死満塁生井の右中間走者一掃三塁打!斎藤降板。大川の中前適時打。 慶6:1東
東海:5回裏一死一三塁吉田の右犠飛。  慶6:2東
慶応:7回表二死一二塁石田の左前適時打。 慶7:2東
東海:9回裏二死二三塁、生井利き手の左手の故障で、治療中断。再開後続投するが、井上に左中間二点二塁打を浴び、生井降板。 慶7:4東


チビッ子くんの始球式
なかなか良いフォーム。将来の高校球児候補かな。
チビッ子くんの始球式_1
チビッ子くんの始球式_2
チビッ子くんの始球式_3
チビッ子くんの始球式_4

1回表
先頭打者宮尾君は予想通り三振。こりゃまずいと思った。
1回表_1
3番下山君がヒットで出塁するも、盗塁死
1回表_2
1回表_3
1回表_4
1回表_5
1回表_6
俊敏で強肩の捕手だ。掻き回すつもりが、返り討ちにあってしまった。ボールをつかみ損ねた感じだったのに、すぐに修正したようだ。
1回表_7
1回表_8
1回表_9
まずは初回はお団子
1回表_10

2回表
この回先頭の廣瀬君。投手強襲の安打。まともに斎藤君の腹部に当たったようで、治療のため、試合しばし中断だ。
2回表_1
2回表_2
2回表_3
2回表_4
2回表_5
苦痛で蹲る斎藤君。しかし、10分ほどの治療を受けた後、何事もなかったかのように投球を続け、慶應の攻撃を抑えた。
2回表_6
2回表_7
2回表_8

2回裏
連続四球で、2死1-2塁。ここで次打者を投飛に。これで相手の攻撃終了かと思いきや、まさかの落球。触らなかったからヒット扱いかな?ごく普通の小飛球で、誰でも捕れるはずなのに。ということでマウンドに集まる。
2回裏_1
二死満塁に。好打者山田君の左前適時打で東海大相模高校が先制!撫でた様なバッティングだったが、ポトリと落ちた。やらずもがなの失点だった。生井君の完全な独り相撲だった。 慶0:1東
2回裏_2
2回裏_3

3回表
東海の斎藤君は、やはりダメージがあったようだ。簡単に見送られるような投球が続き、一死満塁のピンチを招く。主将の下山君の右犠飛で同点! 慶1:1東
3回表_1
3回表_2
3回表_3
3回表_4
3回表_5
二死一三塁で打者廣瀬君の峙、捕逸で勝ち越し。こういうこともあるんだ。エラーのお返しかな。この時は、斎藤君に運がないくらいに思えた。 慶2:1東
3回表_6
3回表_7
3回表_8

4回表
下位打者の打順なのに、斎藤君がどうもパッとせず。一死満塁のピンチを招く。ここで、1点をも与えないという浅めのシフトを敷いた。打順は9番でも打撃センスのある生井君。右中間を破る走者一掃の三塁打を放つ!まさかの相手エース斎藤君が降板した。 慶5:1東
4回表_1
4回表_2
4回表_3
4回表_4
4回表_5
4回表_6
チビッ子の善波君が生還する。もう少し親父殿に、薫陶を受けてほしいものだ。
4回表_7
4回表_8
4回表_9
大喜びの慶應応援席
4回表_10
4回表_11
二番手投手でもすごいレベルのはず。とにかく落ち着く前にかさにかかって攻めたてなければ。そう思っていた時に、大川君の中前適時打が出た。まったくタイミングが合わず、窮屈なスイングだったが、飛んだ位置が良かった。 慶6:1東
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4回表_13
4回表_14
4回表_15
4回表_16
4回表_17
4回表_18

試合終了
何故、母校が勝ち、強豪校の東海大相模高校が敗れたのかよくわからない試合だった。おそらく、東海大相模高校ナインは、負けた気がしないままの整列だったのだろう。
試合終了_1
試合終了_3
試合終了_4
試合終了_5
試合終了_6
試合終了_7

予定では、台風12号の影響で順延し、30日(月)に決勝戦か。西東京代表とともに全国で最後の決勝戦なんだ。エース生井君の怪我が癒えるには、1日でも間隔があいた方が良い。決勝戦も頑張ってほしいものだ。

 

京都と大阪とへの小旅行(7)

祇園祭・前祭(7)

今回は全体の13~15番目を取り上げる。うまい具合に鉾・山・笠鉾の3区分がそれぞれ登場してくる。見比べるのにちょうど良い組み合わせだ。枚数がかなり多くなるが、ご容赦いただきたい。

月鉾(つきほこ)
全体の13番目は鉾二番で、菊水鉾・鶏鉾・月鉾のいずれかだが、今年は月鉾だった。古い鉾頭と天王の持つ櫂とには、「元亀4年(1573)6月吉日大錺屋勘右衛門」の刻銘があるとか。古くから、連綿と続く鉾だとわかる。
こうやって見ると、見えるのは鉾ばかりのような感じ。大きいんだなあ。
月鉾(つきほこ)_1
月鉾(つきほこ)_2
鉾頭に新月型(みかづき)をつけている。キラキラ輝きが強いと思ったら、昭和56年から田辺勇蔵氏寄進の18金製の鉾頭にかえているそうだ。
月鉾(つきほこ)_3
月鉾(つきほこ)_4
月鉾(つきほこ)_5
月鉾(つきほこ)_6
月鉾(つきほこ)_7
月鉾(つきほこ)_8
月鉾(つきほこ)_9
月鉾(つきほこ)_10
かなり近づいてきた。大きさが実感できる。
月鉾(つきほこ)_11
月鉾(つきほこ)_12
月鉾(つきほこ)_13
月鉾(つきほこ)_14
月鉾(つきほこ)_15
月鉾(つきほこ)_17
月鉾(つきほこ)_18
月鉾(つきほこ)_19
端正な顔立ちのお人形さんだった。水引幕もすごいものだなあ。
月鉾(つきほこ)_20
月鉾(つきほこ)_21
月鉾(つきほこ)_22
くじ改めで相当待たされたようだった。漸く巡行再開だ。
月鉾(つきほこ)_23
月鉾(つきほこ)_24
月鉾(つきほこ)_25
月鉾(つきほこ)_26
鉾頭に新月型(みかづき)をつけているので、この名で呼ばれる。
真木のなかほどの「天王座」には月読尊を祀る。古い鉾頭と天王の持つ櫂には「元亀4年(1573)6月吉日大錺屋勘右衛門」の刻銘がある。また正徳4年(1714)の鉾頭もあるが昭和56年から田辺勇蔵氏寄進の18金製の鉾頭にかえている。屋根裏の金地彩色草花図は天明4年(1784)円山応挙(1733~95)の筆。天井の金地著彩源氏五十四帖扇面散図は天保6年(1835)に町内の住人岩城九右衛門の筆。破風蟇股の彫刻は左甚五郎の作と伝えられる立派なものである。軒桁貝尽しの錺金具は松村景文(1779~1843)の下絵、四本柱の錺金具、破風飾の金具などはいずれも華麗なもので山鉾のなかでも最高のものである。天水引の霊獣図刺繍は天保6年(1835)円山応震の下絵である。前懸、後懸は華麗なインド絨毯、胴懸はインドやトルコの絨毯を用いており、北面の「中東蓮花葉文様」は平成22年(2010)に、南面の「幾何菱文様」は平成23年(2011)に復元新調された。近年下水引は皆川月華作の花鳥図に、見送も同作の湖畔黎明図にかえている。また、平成12年(2000)には前懸のインド絨毯も復元された。


山伏山(やまぶしやま)
全体の14番目の山九番で、今年は山伏山だった。何をテーマにした山か誰でもわかることだろう。然らば、何故、山伏が登場するのか?八坂の法観寺の塔が傾いたとき、法力によってそれをなおしたという浄蔵貴所の大峯入りの姿をあらわしているからだそうだ。
八坂の塔の傾きを法力でなおしたのか。う~~ん、凄い。
山伏山(やまぶしやま)_1
詰まらないことかもしれないが、私にとっては大事なことに気づいた。それは正面を向いている人形以外は、進行方向に向かって左側を向いていたということ。たまたま決めた場所が大正解だったようだ。後ろ姿ばかり見るのでは詰まらないから。
山伏山(やまぶしやま)_2
山伏山(やまぶしやま)_3
山伏山(やまぶしやま)_4
山伏山(やまぶしやま)_5
山伏山(やまぶしやま)_6
山伏山(やまぶしやま)_7
山伏山(やまぶしやま)_8
山伏山(やまぶしやま)_9
山伏山(やまぶしやま)_10
この見送りには掛け値なしに圧倒された。本当にすごい。
山伏山(やまぶしやま)_11
この名は山に飾る御神体(人形)が山伏の姿をしているのでこう呼ばれる。昔八坂の法観寺の塔が傾いたとき法力によってそれをなおしたという浄蔵貴所の大峯入りの姿をあらわしている。左手に刺高数珠、右手には斧を持ち腰には法螺貝をつけている。欄縁金具は飛鶴、水引は機織図を描く綴錦、前懸は雲龍文様の刺繍、胴懸は花卉胡蝶文様の綴錦を用いている。見送は龍波濤文様の綴錦で、平成11年に復元された。巡行の数日前より聖護院の山伏たちの巡拝があり、また八坂神社からの清祓も行われ、神前に供える三宝も仏式の黒塗のものが用いられている。明治初年の神仏分離以前の姿をこの山にみることができる。

四条傘鉾(しじょうかさほこ)
全体の15番目は、傘鉾二番で四条傘鉾・綾傘鉾のいずれかだが、今年は四条傘鉾だった。まったく地味な笠鉾だと思ったら、棒ふりばやしが舞い踊られるようだ。今度こそ見られるかと思いきや、またもくじ改めのつかえで、急きょ給水タイムに。またもや見損ねてしまった。
四条傘鉾(しじょうかさほこ)_1
四条傘鉾(しじょうかさほこ)_2
年端のいかない子供たちだ。マメに給水を取らなくっちゃ。
四条傘鉾(しじょうかさほこ)_3
四条傘鉾(しじょうかさほこ)_4
四条傘鉾(しじょうかさほこ)_5
四条傘鉾(しじょうかさほこ)_6
四条傘鉾(しじょうかさほこ)_7
四条傘鉾(しじょうかさほこ)_9
四条傘鉾(しじょうかさほこ)_10
笠鉾が若干見劣りする分、賑やかしで盛り立てようとしているのかな?登場人数はかなりの数だ。
四条傘鉾(しじょうかさほこ)_11
四条傘鉾(しじょうかさほこ)_12
四条傘鉾(しじょうかさほこ)_13
四条傘鉾(しじょうかさほこ)_14
四条傘鉾(しじょうかさほこ)_15
四条傘鉾(しじょうかさほこ)_16
滋賀県の滝樹神社に伝わる「ケンケト踊」を参考に復元したものなのか。見たかったなあ。
四条傘鉾(しじょうかさほこ)_17
四条傘鉾(しじょうかさほこ)_18
四条傘鉾(しじょうかさほこ)_19
四条傘鉾(しじょうかさほこ)_20
四条傘鉾は、織物の垂りなどをつけた傘と棒ふりばやしが巡行する古い鉾の形態である傘鉾の一つで、応仁の乱以前に起源をもち、傘の上には御幣と若松を飾る。明治4年に巡行に加わって以降と絶えていたこの四条傘鉾も、昭和60年、町内の人々の努力が実り傘鉾の本体が再興され、昭和63年から巡行に欠かせない踊りとはやしが復元され、32番目の山鉾として巡行することになった。なお、踊りとはやしは、室町時代に京都から広まった風流踊で、今も滋賀県の滝樹神社に伝わる「ケンケト踊」を参考に復元したものである。垂りは鈴鹿雄次郎製作の麗光鳳舞之図である。

 

京都と大阪とへの小旅行(6)

祇園祭・前祭(6)

今回分では、山六~八番で全体の十~十二番目になる太子山、伯牙山、芦刈山を取り上げる。その直後には、月鉾が迫ってきていた。
直後には、月鉾が迫ってきていた

太子山(たいしやま)
聖徳太子を祀る山。他の山と違って真木に松ではなく杉を立てている。そして、そこに小さな如意輪観音像を奉戴している。確かに遠めからもそのように見えた。なので、近づいてきたらしっかり見ようと思ったのに、無粋な男たちが入ってきて、何やら調整を始めた。その間、如意輪観音像が外されてしまった。その調整が続くうちに目の前を通過していった。そういう調整は事前に念入りに行うべきで、本番で行うなんて最低の運用だ。
元画像を拡大してみると、太子像の顔面は能面を被ったかのような感じだった。それにしても、少年像だというのに、あまりのおじさん面で、お札の肖像画にもあまり似ていなかった。
2日目に天王寺地区をほっつき歩き、四天王寺のすぐ近くにいることを承知していたにもかかわらず、熱中症になりかかり、無念のパスをせざるを得なかった。今回は、聖徳太子とは縁が薄かった。宵山に行って、「知恵のお守り」を求めるんだった。
太子山(たいしやま)_1
太子山(たいしやま)_2
太子山(たいしやま)_3
無粋な男たちが入ってきて、何やら調整を始めた。その間、如意輪観音像が外されてしまった。『そりゃ、無いぜ!!』
太子山(たいしやま)_4
太子山(たいしやま)_5
太子山(たいしやま)_6
太子山(たいしやま)_7
太子山(たいしやま)_8
太子山(たいしやま)_9
太子山(たいしやま)_10
太子山(たいしやま)_11
太子山(たいしやま)_12
太子山(たいしやま)_13
聖徳太子を祀るのでこの名がある。聖徳太子が四天王寺建立にあたり、自ら山中に入って良材を求めたという所伝にもとづき、他の山がいずれも松を立てているのに対してこの山のみは真木に杉を立て、その樹に小さな如意輪観音像を奉戴している。太子は少年像で右手に斧、左手に衵扇を持つ。前懸は緋羅紗地に阿房宮の刺繍、胴懸は金地孔雀唐草図のインド刺繍、見送は平成15年新調の波濤に飛龍文様錦織を用いる。角金具には立派な飛龍が飾られ、水引には濃紺の房付き網目のものが用いられ胴懸とともにエキゾチックな気分を加えている。宵山には聖徳太子にちなんで知恵がさずかるという「杉守り」「知恵のお守り」が授与される。この山には舞台裏中釣幕という懸装品があり、平成19年に新調されている。

伯牙山(はくがやま)
新幹線の車中で鉈を振るうような凶悪な事件が発生したばかり。山の故事謂れを知らない身には、『いったいこれは何なんだ』と首をかしげたくなるテーマに思えた。本当のところは、親友同士の思いの深さを表現したのかなあ。
破壊シーンを題材にするのは、…。朴念仁の私にはどうにも合点がいかないものだった。
伯牙山(はくがやま)_1
伯牙山(はくがやま)_2
伯牙山(はくがやま)_3
伯牙山(はくがやま)_4
伯牙山(はくがやま)_5
伯牙山(はくがやま)_6
「琴破山」ともいわれる。山の御神体(人形)は中国の周時代、琴の名人伯牙とその友人鍾子期との物語に取材、伯牙が鍾子期の死を聞いてその琴の絃を断ったという故事をあらわしている。人形は手に斧を持ち前に琴が置かれている。人形には「金勝亭賽偃子」の墨書銘があり、天明以降の作と考えられている。前懸には上下詩文、中央に人物風景の有名な「慶寿裂」をかけその下に龍文様の錦を用い、さらに人物図の押絵切付の水引によって飾っている。胴懸は花卉尾長鳥文様の綴錦で、見送には「柳絲軒」在銘の仙人図刺繍を用いている。蝶型の角金具は珍しい意匠である。

芦刈山(あしかりやま)
謡曲「芦刈」に基づくのか。中国の題材からテーマを得るばかりでなく、日本文化にどっぷり根ざした山のテーマも面白いかな。
私にはしっくりくるテーマだった。前懸は山口華楊画伯原画の段通「凝視」か。史実的な絵柄も面白い。
芦刈山(あしかりやま)_1
芦刈山(あしかりやま)_2
芦刈山(あしかりやま)_3
芦刈山(あしかりやま)_4
背後に迫られれば、当然だが気になるはずだ
芦刈山(あしかりやま)_5
謡曲「芦刈」に基づく。故あって妻と離れて難波の浦で芦を刈る老翁が、やがて妻との再会をはたす夫婦和合の姿をあらわす。御神体(人形)の旧御頭は天文6年(1537)七条仏師運慶の流れをくむ康運作。天正17年(1589)銘をもつ重要文化財指定の「綾地締切蝶牡丹文片身替小袖」は山鉾最古の衣装。現在の前懸と見送は山口華楊原画の段通「凝視」(1986)と綴織「鶴図」(1985)、胴懸は尾形光琳原画の「燕子花図」(1994)。欄縁の彫金飛雁の錺金具は明治36年(1903)川辺華挙の下絵で藤原観教作。旧胴懸の「鶴亀蜀紅文絲錦裂」(江戸時代)をはじめ、「獅子蜀紅文繻珍小袖」(江戸時代)、古い見送など貴重な染織品を多く残している。

 

京都と大阪とへの小旅行(5)

祇園祭・前祭(5)

今回は全体の八~九番目での巡行の白楽天山と鶏鉾を取り上げる。また、最初に印象的なものを少しだけ見ておくことにする。
鶏が平和の象徴なのかなあ。逞しい生き物だから、騒乱の最中でも生きているように思うのだが。
印象的なものを少しだけ_1
天下の白楽天といえども、教えを乞う時は、こういう風に振舞ったものなのかな。また、余計なものが画面に入り込んでしまったが、後続の鶏鉾の突き出している部分の傾きが非常に気になる。
印象的なものを少しだけ_2

白楽天山(はくらくてんやま)
山五番、全体の八番目での巡行。唐の詩人白楽天が道林禅師に仏法の大意を問うシーンがテーマか。中国は、禅僧も偉そうに振舞うお国柄なのかなあ。日本ではあまり考えられない絵柄のように思った。真剣に見入ったが、強い日差しで十分には見えなかった。
白楽天山(はくらくてんやま)_1
白楽天山(はくらくてんやま)_2
白楽天山(はくらくてんやま)_3
白楽天山(はくらくてんやま)_4
白楽天山(はくらくてんやま)_5
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白楽天山(はくらくてんやま)_9
白楽天山(はくらくてんやま)_10
唐の詩人白楽天が道林禅師に仏法の大意を問うところである。道林禅師は、緞子地の紫衣を着け、藍色羅紗の帽子をかぶり手に数珠と払子を持ち松の枝の上に座し、白楽天は唐織白地狩衣の衣裳に唐冠をかぶり笏を持って立っている。旧水引は明治5年の調製で孔雀や麒麟などの禽獣を金絲で繍いつめた刺繍、また前懸は文化5年新調された紺地雲龍文様刺繍裂と、万延元年(1860)蟷螂山より買受けた毛綴の三点継もある。毛綴はトロイ城陥落のときアイネイアスが父を救出する図の優品であり、大津祭月宮殿山の見送と双幅である。見送はかつて麒麟龍鳳凰文様の綴錦であったが、昭和28年より山鹿清華作の北京万寿山図の毛織錦のものを用いている。また胴懸及び水引は昭和53年フランスから購入した17世紀製作の毛綴もある。

鶏鉾(にわとりほこ)
くじとらずの鉾のほかにくじを引く鉾が、前祭の場合、鶏鉾、菊水鉾、月鉾の3基がある。鉾一番が全体の9番目、鉾二番が全体の十三番目、鉾三番が全体の十五番目ということになっている。今年は、鉾一番で全体の9番目の籤を鶏鉾が引いた。
屋根の上に突き出ている部分が傾いているのが気になって仕方がなかった。関係者も気がついてはいたと思うが、もう修正するだけの時間がなかったのだろう。
鶏鉾(にわとりほこ)_1
白楽天山の最後尾の人たちも、羨ましそうな感じで見入っていた。さっさと先に行かないと邪魔になるぞ。
鶏鉾(にわとりほこ)_2
鶏鉾(にわとりほこ)_3
鶏鉾(にわとりほこ)_4
鶏鉾(にわとりほこ)_5
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鶏鉾(にわとりほこ)_9
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だいぶ近づいてきたぞ。肉眼でもよく見える。
鶏鉾(にわとりほこ)_11
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鶏鉾(にわとりほこ)_21
鶏鉾(にわとりほこ)_22
鶏鉾(にわとりほこ)_23
鶏鉾(にわとりほこ)_24
人形はいかにも優美な京人形という感じ。音頭取りの2人が使う扇子が非常に粋なものだった。
鶏鉾(にわとりほこ)_25
鶏鉾(にわとりほこ)_26
また、動き出した
鶏鉾(にわとりほこ)_27
鶏鉾(にわとりほこ)_28
鶏鉾(にわとりほこ)_29
鶏鉾(にわとりほこ)_30
鶏鉾(にわとりほこ)_31
見送は、トロイの皇子へクトールが妻子に別れをつげる図だそうだ。国の重要文化財なのか。
鶏鉾(にわとりほこ)_32
鶏鉾(にわとりほこ)_33
鶏鉾(にわとりほこ)_34
中国の史話より取材、昔、唐堯の時代に天下がよく治まり訴訟用の太鼓(諫鼓)も用がなく苔が生え鶏が宿ったという故事によって、その心をうつしたものという。鉾頭の三角形の中の円形は鶏卵が諫鼓の中にある意味で、鶏鉾の名の象徴となっているともいわれるが、はっきりしたことは不明である。真木のなかほどの「天王座」には航海の神といわれる住吉明神を祀る。天水引は下河辺玉鉉、下水引は松村呉春(1752~1811)、松村景文(1779~1843)など四条派画家の下絵になるものである。前懸のペルシャ絨毯、胴懸の草花文様インド絨毯は、近年復元新調されて用いる。見送は有名な毛綴で近年の調査によるとトロイの皇子へクトールが妻子に別れをつげる図であるという。この見送は、16世紀頃ベルギーで製作、江戸時代初期に輸入されたものと考えられ、国の重要文化財に指定されている。

北神奈川大会準々決勝(7月24日)
夏の大会に調子のピークを持ってくるのが大変なようだ。ヘロヘロ勝ちばかりの母校はともかくとして、東海大相模と桐光学園とがやや調子を落としているのが意外。もしかしたら、漁夫の利で母校が代表校になる可能性も出てきたかも。

慶應義塾(1st S)vs桐蔭学園(No S) 6:4
母校はいつものことだが、辛勝だった。
東海大相模(1st S)vs県立相模原(No S) 9X:8
1回表の5失点(得点)にはびっくり。その後一旦は同点に追いつくも、ロングリリーフのエース斎藤が7回に3点を取られ、KOされた。そのまま行くかと思われたが、さすがは第1シード校。最終回に2点差を跳ね返しての逆転勝ち。
桐光学園(1st S)vs弥栄高校(No S) 10:7
予想外の接戦。あわやのところまで桐光が追い込まれた。
県立白山(2nd S)vs横浜商大高(1st S) 1:2X
あと一歩まで有利に試合を進めていた白山だったが、拙攻がたたった。最後は投手力の差が出てしまった。

準決勝は、27日金曜日に、慶應義塾(1st S)vs東海大相模(1st S)、桐光学園(1st S)vs横浜商大高(1st S)の対戦ということになった。第1シードがすべて勝ち残ったので、順当といえば順当かもしれない。

 

京都と大阪とへの小旅行(4)

祇園祭・前祭(4)

今回は全体の六~八番目での巡行の孟宗山、綾傘鉾を取り上げる。前回分で、函谷鉾の後続の鶏鉾も見えていたが、順番はまだ先の九番目だった。地味な山鉾は、他ではあまり取り上げないかもしれない。当ブログでは、すべての山鉾を取り上げる予定なので、どんなだったのか確認することだけはできる。画像のレベルは残念な限りだが。
地味な画が続くので、鉾の勇ましい画を途中に挟む。
鉾の雄姿_1
鉾の雄姿_2
鉾の雄姿_3

孟宗山(もうそうやま)
山四番、全体の六番目での巡行。中国の史話二十四孝から取材した山で、平山郁夫画伯の筆になる胴懸で、それを和装の人たちが曳いていく。アンバランスすぎて、何とも不思議な光景に映った。孟宗竹の名前がここから来てるとは知らなかった。
孟宗山(もうそうやま)_1
孟宗山(もうそうやま)_2
孟宗山(もうそうやま)_3
孟宗山(もうそうやま)_4
孟宗山(もうそうやま)_5
孟宗山(もうそうやま)_6
孟宗山(もうそうやま)_7
孟宗山(もうそうやま)_8
タバコのキャメルのデザインをふと連想してしまった
孟宗山(もうそうやま)_9
孟宗山(もうそうやま)_10
「筍山」ともいう。山に飾る御神体(人形)は中国の史話二十四孝から取材。病身の母を養う孟宗が、雪の中で筍を掘りあてた姿をあらわしている。人形は七条大仏師康朝左京の作といわれ、唐人衣裳に笠をつけ右手に雪をかぶった筍、左手には鍬を肩にかついで立っている。欄縁の彫金群鳥図の金具は幸野楳嶺(1844~1895)の下絵、見送はかつて雲龍文様の綴錦を用いていたが、昭和15年以来竹内栖鳳筆の白地墨画竹林図のものが用いられている。この地味な墨画の見送は、極彩色豊かな他の山鉾のなかにあって、かえって異彩をはなっている。また、平山郁夫筆の胴懸「砂漠らくだ行(日)」「砂漠らくだ行(月)」は、平成20年、21年に新調された。

綾傘鉾(あやかさほこ)
傘一番、全体の七番目での巡行。なお、傘は二番までで、二番は全体の十五番目と決まっている。綾傘鉾と四条傘鉾とがこの『傘』のグループに仕分けられる。棒振り囃子が演じられると俄然面白くなりそうだが、残念ながら私の前は素通りだった。
綾傘鉾(あやかさほこ)_1
長刀鉾以外には稚児役が鉾に乗ることは無い。それは確かだが、このように行列で歩くのはありのようだ。出発地点から間もないのだが、早くも疲れて飽きてしまったようだ。幼い子供には、厳しいものかも知れない。
綾傘鉾(あやかさほこ)_2
綾傘鉾(あやかさほこ)_3
綾傘鉾(あやかさほこ)_4
綾傘鉾(あやかさほこ)_5
綾傘鉾(あやかさほこ)_6
綾傘鉾(あやかさほこ)_7
綾傘鉾(あやかさほこ)_8
綾傘鉾(あやかさほこ)_9
綾傘鉾(あやかさほこ)_10
『僕、草臥れた』という表情かなあ。まだ、先は長いけど頑張れ!!
綾傘鉾(あやかさほこ)_11
綾傘鉾(あやかさほこ)_12
綾傘鉾(あやかさほこ)_13
綾傘鉾(あやかさほこ)_14
綾傘鉾(あやかさほこ)_16
異様な風体で演じるだろう棒振り囃子とやらを見たかったのに、行列しただけで舞うこともなく通り過ぎて行ってしまった。残念無念。くじ改めに到達するまでは行わないのかもしれない。
綾傘鉾(あやかさほこ)_17
綾傘鉾(あやかさほこ)_18
綾傘鉾(あやかさほこ)_19
綾傘鉾(あやかさほこ)_20

綾傘鉾(あやかさほこ)_21
綾傘鉾(あやかさほこ)_22
綾傘鉾(あやかさほこ)_23
綾傘鉾(あやかさほこ)_24
綾傘鉾(あやかさほこ)_25
ちょっと見以上の内容なのだが、地味すぎるのかなあ。何故に2つなのか、よくわからない。ともあれ、前が綴錦「飛天の図」で、後ろが間国宝の染織家森口華弘氏の友禅「四季の花」だ。う~~ん。
綾傘鉾(あやかさほこ)_26
綾傘鉾(あやかさほこ)_27
綾傘鉾28(あやかさほこ)_28
綾傘鉾(あやかさほこ)_29
綾傘鉾は、山鉾の非常に古い形態を残している傘鉾の一つで、大きな傘と棒振り囃子の行列として巡行していた。この綾傘鉾も、江戸時代の天保5年(1834)、一時小型の鉾に改造されるが、元治元年の大火で、その大部分を焼失することになる。その後、明治12年から17年まで原型の徒歩ばやしの形で巡行したことがある。棒振り囃子は、赤熊をかぶり、棒をもった者が、鉦、太鼓、笛に合わせて踊るもので、壬生村の人々により奉仕されていた。この綾傘鉾も町内の人々の努力が実り、昭和54年から巡行することになった。なお、傘につける垂りは人間国宝の染織家森口華弘の友禅「四季の花」と平成4年に町在有志の寄贈になる綴錦「飛天の図」がある。

 

京都と大阪とへの小旅行(3) 2018.07.23 14:18記載一部訂正

祇園祭・前祭(3)

今回は全体の4、5番目に巡行する油天神山(あぶらてんじんやま)と函谷鉾(かんこほこ)とを取り上げる。その特徴が出ているカットを先に見ていただく。
生身の稚児さんに見える稚児人形。「嘉多丸」という稚児人形だそうだ。
「嘉多丸」という稚児人形
山も頑張っているが、この堂々とした鉾の風格は、圧倒的な迫力がある
堂々たる威容だ
こちらはかなり地味かな。自前の題材でまとめたのが素晴らしい。
自前の題材でまとめた

油天神山(あぶらてんじんやま)
山三番、全体の4番目での巡行。古くから町内(風早町)に祀られていた天神を勧請して作られた山だそうだ。油小路綾小路下ルにあるから、『油天神山』か。自前のエピソードで通した山か。微笑ましくて、好感が持てる。山は正面に朱の鳥居を立て金箔置の社殿には、もと風早家に伝来し後に町内の祠に祀っていた天神像〔寛永7年(1630)製作〕を安置したものか。う~~ん。
こちらの山も、前懸、胴懸、見送とも、他に負けない豪華なもののようだ。朴念仁の私には、よくわからない世界だ。

お兄さんだけがやけに気合が入っていた。私も真似したかったが、…。
油天神山(あぶらてんじんやま)_1
油天神山(あぶらてんじんやま)_2
油天神山(あぶらてんじんやま)_3
油天神山(あぶらてんじんやま)_4
油天神山(あぶらてんじんやま)_5
油天神山(あぶらてんじんやま)_6
油天神山(あぶらてんじんやま)_7
油天神山(あぶらてんじんやま)_8
油天神山(あぶらてんじんやま)_9
油天神山(あぶらてんじんやま)_10
油天神山(あぶらてんじんやま)_11
水引はパリのクリュニイ博物館所有のタピスリーを図案に用いて、新調したものか。そういうやり方もあるんだ。タピスリーはタペストリーのフランス語だそうだ。
油天神山(あぶらてんじんやま)_12
古くから町内(風早町)に祀られていた天神を勧請して作られた山で、油小路綾小路下ルにあるところから、「油天神山」とも、また勧請の日がちょうど丑の日にあたっていたので「牛天神山」とも呼ばれる。山は正面に朱の鳥居を立て金箔置の社殿にはもと風早家に伝来し後に町内の祠に祀っていた天神像〔寛永7年(1630)製作〕を安置する。真木の松の他に紅梅の枝をはなやかに立て鈴をつけている。水引はパリのクリュニイ博物館所有のタピスリーを図案に用いて、平成18年新調、前懸は雲龍文様の繻子地錦、宵飾りの胴懸は19世紀のカザフ絨毯、見送は毛綴の宮廷宴遊図であったが平成2年梅原龍三郎氏原画の「朝陽図」綴織を、前懸は平成6年に龍図錦織を新調、胴懸は左右共に前田青邨原画で、平成12年・13年新調の紅白梅を用いる。欄縁は、前部だけ凹形に切り込んだ社殿をはっきり見せたもので、天保4年(1833)製作の牛と梅の錺金具がついている。

函谷鉾(かんこほこ)
くじとらず、全体の5番目での巡行。前懸は、旧約聖書創世紀の場面を描いた16世紀末の毛綴で重要文化財に指定されているものを平成18年復元新調してものか。西洋の絵柄だなとはわかったのだが、カトリック信徒の端くれとして、創世記の場面を認識せずに終わってしまったことが残念でならない。「嘉多丸」という稚児人形の出来に注意を引き寄せられてしまったかな。
蒸し暑さが画面から滲み出るような感じだ。本当に暑かった。日向で撮っていたら、周囲に人がいなくなってしまった。暑さに耐えかねたのかなあ。
函谷鉾(かんこほこ)_1
後続の鉾も見えている。その光景は壮観だ。鶏鉾綾傘鉾の上部の傾きがやや気になった。
函谷鉾(かんこほこ)_2
函谷鉾(かんこほこ)_3
幟には『かんこくほこ』と記されていた。『かんこほこ』とどちらが正しいのだろうか?
函谷鉾(かんこほこ)_4
函谷鉾(かんこほこ)_5
函谷鉾(かんこほこ)_6
函谷鉾(かんこほこ)_7
函谷鉾(かんこほこ)_8
函谷鉾(かんこほこ)_9
函谷鉾(かんこほこ)_10
函谷鉾(かんこほこ)_11
函谷鉾(かんこほこ)_12
函谷鉾(かんこほこ)_13
函谷鉾(かんこほこ)_14
函谷鉾(かんこほこ)_15
函谷鉾(かんこほこ)_16
函谷鉾(かんこほこ)_17
日差しが強烈だ。カメラも私もダウン寸前だった。
函谷鉾(かんこほこ)_18
函谷鉾(かんこほこ)_19
函谷鉾(かんこほこ)_20
鉾の下部には方向転換時に使用する竹がたくさん積まれてあった
函谷鉾(かんこほこ)_21
函谷鉾(かんこほこ)_22
函谷鉾(かんこほこ)_23
函谷鉾(かんこほこ)_24
函谷鉾(かんこほこ)_25
函谷鉾(かんこほこ)_26
函谷鉾(かんこほこ)_27
函谷鉾(かんこほこ)_28
函谷鉾(かんこほこ)_29
函谷鉾(かんこほこ)_30
鉾の名は中国戦国時代(前403~221)斉の孟嘗君が鶏の声によって函谷関を脱出できたという故事にちなんで付けられている。鉾頭の月と山型とは山中の闇をあらわし、真木のなかほどの「天王座」には孟嘗君、その下に雌雄の鶏をそえている。屋根裏の金地著彩鶏鴉図は今尾景年(1845~1924)の筆、前懸は、旧約聖書創世紀の場面を描いた16世紀末の毛綴で重要文化財を平成18年復元新調している。水引は山鹿清華作の手織群鶏図、胴懸は梅に虎を織り出した17世紀李氏朝鮮絨毯、花文様インド絨毯、玉取獅子図中国絨毯の三枚である。見送は古く弘法大師筆と伝える紺地金泥の金剛界礼懺文と天保年間(1830~43)にこれを模織した立派なものがあるが最近に皆川泰蔵作「エジプト天空図」を新調した。この鉾は天明の大火(天明8年、1788)で焼失、50年後の天保10年(1839)に再興され、それ以後「嘉多丸」という稚児人形を用いている。

 

京都と大阪とへの小旅行(2) 2018.07.22 14:55 画像追加

祇園祭・前祭(2)
山鉾巡行の順番は、くじとらずの長刀鉾など(全部で9基が該当。前祭では、他に函谷鉾、放下鉾、岩戸山、船鉾の4基)以外は、7月2日に行われるくじ取り式で決められるのだそうだ。余分なことかもしれないが、私が居た場所のちょっと先で、順番が守られているかの確認するくじ改めを行う。
実に面白い儀式のようだ。興味のある方は、ここをクリックして確認されたい。
蟷螂山(とうろうやま)
霰天神山(あられてんじんやま)
と、ここまで書くと、『なんでお前はそんなつまらないところで見たのか』という話になるかもしれない。そこで見るのは大変なことなのだと思うので、普通に見ることができる位置を選択したのだ。
以下では順番に山鉾を紹介していく。

蟷螂山(とうろうやま)
山一番のくじを引いたのは、今年は蟷螂山。全体の二番目を巡行する。注目度の高いめでたい籤を引き当てたものだ。この町にかつて住んでいた公卿の四条隆資(1292~1352)の戦いぶりが「蟷螂の斧」のようだったことからできた
『とうろう』という音を聞くと『灯籠』を思い起こすかもしれないが、こちらはカマキリの方の『蟷螂』である。友人も言っていたが、カマキリの鎌が動く一種のからくりが用意された唯一の山だ。写真を見比べていただければ、確かに動いていることが確認できる。

遠目ではよくわからないかもしれないが、てっぺんにカマキリが載っている
蟷螂山(とうろうやま)_1
蟷螂山(とうろうやま)_2
蟷螂山(とうろうやま)_3
蟷螂山(とうろうやま)_4
カマキリがはっきり見えだした。鎌が動いているのがお分かりだろうか?その場では気が付かなかったのだが、上に載せられている御所車の黒い車輪も動くのだそうだ。2つのからくりがあったんだ。
蟷螂山(とうろうやま)_5
蟷螂山(とうろうやま)_6
蟷螂山(とうろうやま)_7
蟷螂山(とうろうやま)_8
蟷螂山(とうろうやま)_9
蟷螂山(とうろうやま)_10
クローズアップしたもの。カマキリの鎌と御所車の車輪とが動くのだ。
蟷螂山(とうろうやま)_11
蟷螂山(とうろうやま)_12
前懸、胴懸、見送は共に羽田登喜男氏作の友禅で統一されている。同じ作者の作品なので統一がとれていて、なかなか見応えだったように感じた。
蟷螂山(とうろうやま)_13
蟷螂山は、「蟷螂の斧を以て隆車の隧を禦がんと欲す」という中国の故事にちなんでいる。その起源は南北朝時代で、足利義詮軍に挑んで戦死した当町在住の公卿、四条隆資(1292~1352)の戦いぶりが「蟷螂の斧」のようであったことから、渡来人で当町居住の陳外郎大年宗奇が卿の死後25年目の永和二年(1376)、四条家の御所車にその蟷螂を乗せて巡行したのがはじまりといわれる。 
その後、蟷螂山は再三の戦火に遭うが、そのつど再興され、巡行を続けてきたのであるが、元治の大火(1864)でその大部分を焼失してしまい、昭和56年、117年ぶりに再興された。
蟷螂山の特徴は、かまきりと御所車の車輪が動くなど、祇園祭の山鉾としては、唯一のからくりが施されていることである。前懸、胴懸、見送は共に羽田登喜男作の友禅で、瑞苑浮遊図などがある。


霰天神山(あられてんじんやま)
山二番、全体の三番目を巡行するのは霰天神山だった。永正年間(1504~1520)、京都に大火のあったとき、時ならぬ霰が降り猛火はたちまちに消えたそうだ。ここまではある程度考えられる状況かな。そのとき一寸二分(約3.6センチ)の天神像が降ってきたので、これを祀ることにしたとか。まるで、聖書の逸話のような感じだなあ。
幟を持つのは外国人。ピーターパンが持っているような印象だった。
霰天神山(あられてんじんやま)_1
霰天神山(あら2れてんじんやま)_2
そのほかにも外国人が3人ほど。国際色豊かな祭礼になったことを喜ぶべきなのだろうか?
霰天神山(あられてんじんやま)_3
前懸は西欧のタペストリーだな。16世紀にどういうルートで入手したのだろうか?
霰天神山(あられてんじんやま)_4
くじ改めをしている影響なのか、待ちが目立つようになった。
霰天神山(あられてんじんやま)_5
左右の胴懸は上村松篁(昭和60年新調)、上村淳之(平成14年新調)親子の原画花鳥綴織で、後懸は「紅地雲龍宝尽図」(平成21年新調)が用いられているそうだ。新しいものでも手を抜かないんだなあ。くじ改めの際に一回転して懸装品を披露しても、恥ずかしくない内容だ。
霰天神山(あら6れてんじんやま)_6
霰天神山(あられてんじんやま)_7
霰天神山(あられてんじんやま)_8
錦小路通室町西入にあるので「錦天神山」または「火除天神山」ともいわれる。永正年間(1504~1520)京都に大火のあったとき、時ならぬ霰が降り猛火はたちまちに消えたが、そのとき一寸二分(約3.6センチ)の天神像が降ってきたのでこれを祀ったのがこの山の起こりであるという。山の上には欄縁にそって朱塗り極彩色の廻廊をめぐらし、中央に唐破風春日造の神殿を安置する。前懸は16世紀にベルギーで製作された「イーリアス」物語を描いた毛綴を用いているが(平成21年復元新調)、中国刺繍の太湖岩鳳凰図もある。左右の胴懸は上村松篁(昭和60年新調)、上村淳之(平成14年新調)親子の原画花鳥綴織で、後懸は「紅地雲龍宝尽図」(平成21年新調)が用いられている。山の縁起にちなみ宵山には「火防せ、雷除け」の御守が授与される。
祇園祭山鉾
京都八坂神社の大祭(前祭七月十七日、後祭二十四日)に巡行する山と鉾で、あわせて二十九基あるが、うち二十二基は山と称さられ、三基をのぞき人がかつぐもので、他の七基は鉾と称せられ車でひく。山のうち三基は鉾と同じように車でひき、形態も鉾に近いが、山の面影を残しているところに特色があり、舁山から曳山にうつりかわる過程を示すものと見ることができる。いずれも神霊を迎えるための要素をそなえているところに価値があるばかりでなく、よく古い習俗をつたえ、各地の祇園祭に影響をあたえたものとして重要である。

 

京都と大阪とへの小旅行(1)

夫婦旅行だったが、初日は完全な別行動。妻は、大阪で二日連続の歌舞伎鑑賞で、私は初日は京都で祇園祭の祇園祭・前祭(さきまつり)のハイライトである山鉾巡行などを楽しんだ
日本三大祭りの一つ、祇園祭・前祭(さきまつり)のハイライトとなる山鉾巡行が17日に京都市の中心部で行われた。08:02京都着の新幹線で駆け付け、京都在住の友人と合流した。友人が言うには、宵山のインタビューをみていたら、前祭のメインである山鉾巡行は、猛暑のため、敬遠する向きが多い印象だったと話していた。そんなものかと思っていたが、3連休明けの平日だったし、猛暑でもあったので、見物客は祝日だった昨年より5万5千人少ない16万5千人(午後1時、京都府警調べ)となったようだ。押し合いへし合いの混雑を覚悟していたのだが、そんなことは無かった。
稚児役の小林勇太朗くん
午前9時、長刀鉾を先頭に四条烏丸交差点を出発。長刀鉾が、私が見ている地点よりも先にある注連縄の張られた四条麸屋町交差点に差し掛かる。見たわけではないが、鉾に乗った稚児の小林勇太朗くんが太刀を抜き、注連縄を二つに切った。そこが辻廻しと並んで、一つのみどころなのだろう。
私がいる場所を、きらびやかな懸装品で彩られた23基の山と鉾が静々と進んで行った。


祇園祭・前祭(1)
長刀鉾
毎年、くじ引きによらずに先頭を進行する立場の鉾で、人形ではなく稚児が実際に乗る唯一の鉾だそうだ。祇園祭を代表する鉾だろう。
出発前の様子
四条烏丸での待機シーン。出発直前まで、注意しながらも車両の通行を認めているようだ。こんな時間帯にわざわざ通行せずともほかに方法があるように思うが。
出発前の様子_1
出発前の様子_2
出発前の様子_3
出発前の様子_4
出発前の様子_5
出発前の様子_6
出発前の様子_7
私の待機場所から見た様子
長刀鉾の前。祇園會の幟を先頭に何人かが先導する。
祇園会の幟を先頭に何人かが先導する_1
祇園会の幟を先頭に何人かが先導する_2
祇園会の幟を先頭に何人かが先導する_3
祇園会の幟を先頭に何人かが先導する_4
長刀鉾が見えてきた。シンボルの大長刀がわかるだろうか?
長刀鉾が見えてきた_1
長刀鉾が見えてきた_2
稚児が確かに乗っている
稚児が確かに乗っている_1
稚児が確かに乗っている_2
稚児が確かに乗っている_3
稚児が確かに乗っている_4
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稚児が確かに乗っている_7
近づいてきた
近づいてきた_1
近づいてきた_2
近づいてきた_3
近づいてきた_4
稚児役の小林勇太朗くんは大役を控えて緊張の表情をしていた
稚児役の小林勇太朗くんは大役を控えて緊張の表情をしていた_1
稚児役の小林勇太朗くんは大役を控えて緊張の表情をしていた_2
稚児役の小林勇太朗くんは大役を控えて緊張の表情をしていた_3
囃子方も一生懸命だ
囃子方も一生懸命だ
通り過ぎていった。見送りなどの幕が見事だ。ため息が出てしまう。前懸はペルシャじゅうたんで、見送りは平成17年に復元新調された雲龍波濤文様綴織か。う~~ん。
通り過ぎていった_1
通り過ぎていった_2
後続のサポート部隊かな
後続のサポート部隊かな
鉾先きに大長刀をつけているのでこの名で呼ばれる。長刀は疫病邪悪をはらうものとして、もと三条小鍛冶宗近の作が用いられていたが、現在は大永二年(1522)三条長吉作の長刀を保存し、複製品を鉾頭としている。この鉾は古来「くじとらず」といい毎年必ず巡行の先頭にたち、生稚児の乗るのも今ではこの鉾だけである。真木のなかほどの「天王座」には和泉小次郎親衡の衣裳着の人形を祀っている。屋根裏の金地著彩百鳥図は松村景文(1779~1843)の筆、破風蟇股の厭舞と小鍛冶宗近が神剣を造る姿の木彫胡粉彩色の彫刻は片岡友輔の作である。
前懸はペルシャ花文様絨毯、ペルシャ絹絨毯(古)、胴懸には中国玉取獅子図絨毯、十華図絨毯、梅樹図絨毯、中東連花葉文様インド絨毯など16世紀~18世紀の稀少な絨毯が用いられていたが、現在はその復元品を使用。見送は雲龍波濤文様綴織が平成17年に復元新調されている。平成20年度に下水引全面の新調が完了した。

 

『和のあかり×百段階段2018』を見に行った(3)

十畝の間
日本画家間島秀徳氏の作品など
部屋を余すところなく使って、展示がなされていた。幻想的な世界へいざなうものだった。
日本画家間島秀徳氏の作品など_1
日本画家間島秀徳氏の作品など_2
日本画家間島秀徳氏の作品など_3
日本画家間島秀徳氏の作品など_4
日本画家間島秀徳氏の作品など_5
日本画家間島秀徳氏の作品など_6
日本画家間島秀徳氏の作品など_7
日本画家間島秀徳氏の作品など_8
天井など
天井にはに荒木十畝による四季の花鳥画が描かれている。また、随所に螺鈿細工が施されてある。いつまで経っても、私の写真の腕前は上がらないなあ。
天井など_1
天井など_2
天井など_3
天井など_4
天井など_5
天井など_6
天井など_7
天井など_8
天井には前室に8面、本間に15面、合計23面の襖仕立ての鏡面に荒木十畝による四季の花鳥画が描かれています。黒漆の螺鈿細工が随所に見られる重厚な造りの部屋です。

十畝の間の向かいのスペース
長崎ランタン
ランタン・フェスティバルに行って見たいなあ
長崎ランタン_1
長崎ランタン_2
長崎ランタン_3

 

江戸東京たてもの園に行った(8)

子宝湯
何という立派な銭湯だったのだろうか。七福神の彫刻、脱衣所の折上格天井など贅沢すぎる造りだ。
外観ほか
子宝湯_外観ほか_1
子宝湯_外観ほか_2
七福神の彫刻だそうだ
子宝湯_外観ほか_3
子宝湯_外観ほか_4
子宝湯_外観ほか_5
子宝湯_外観ほか_6
子宝湯_外観ほか_7
男湯
子宝湯_男湯_1
子宝湯_男湯_2
子宝湯_男湯_3
女湯
ここ以外では、内部をしみじみと見たことがないので、興味津々。
子宝湯_女湯_1
少しはお色気を感じてもらえるだろうか?
子宝湯_女湯_2
子宝湯_女湯_3
子宝湯_女湯_4
子宝湯_女湯_5
子宝湯_女湯_6
子宝湯_女湯_7
番台はこんな風
番台はこんな風
名称:子宝湯(こだからゆ)
建築年代:1929年(昭和4)
所在地:足立区千住元町
解説:東京の銭湯を代表する建物です。神社仏閣を思わせる大型の唐破風や、玄関上の七福神の彫刻、脱衣所の折上格天井など贅をつくした造りとなっています。


鍵屋(居酒屋)
江戸末期に建てられた居酒屋さんの建物か。入りやすい建物だなあ。近くで営業していたら、すぐに入り浸ってしまいそうだ。
外観および店内の様子
鍵屋(居酒屋)_1
鍵屋(居酒屋)_2
鍵屋(居酒屋)_3
鍵屋(居酒屋)_4
鍵屋(居酒屋)_5
鍵屋(居酒屋)_6
鍵屋(居酒屋)_7
鍵屋(居酒屋)_8
鍵屋(居酒屋)_9
カブトビールは、かつて丸三麦酒によって、愛知県半田市に半田赤レンガ建物として整備されている工場で、1898年(明治31年)から1943年(昭和18年)まで製造されたビールなんだそうだ。
鍵屋(居酒屋)_10
「仏国機那葡萄酒」「機那鉄葡萄酒」について調べたページへjump
小上がりほか
二階も臨時の客席になったのかな?
鍵屋(居酒屋)_11
鍵屋(居酒屋)_12
名称:鍵屋(居酒屋)[旧武蔵野郷土館収集]
建築年代:1856年(安政3)
所在地:台東区下谷二丁目
解説:台東区下谷の言問通りにあった居酒屋です。
震災・戦災をまぬがれた鍵屋は、1856年(安政3)に建てられたと伝えられています。
建物と店内は1970年(昭和45)頃の姿に復元しています。

 

『和のあかり×百段階段2018』を見に行った(2)

行人坂をさらに下り、雅叙園に向かう。蒸し暑い日だったが、めげてなんかいられない。

鴟尾が見事だ
鴟尾が出迎えてくれた。鴟尾とは、宮殿・仏殿などの大建築の大棟の両端に取りつけた鳥の尾の形の飾り。沓形ともいう。先日訪ねた品川宿の品川寺にもあった。こちらのものは一段と立派なものだ。
鴟尾が見事だ_1
鴟尾が見事だ_2
鴟尾が見事だ_3
『和のあかり×百段階段2018』を見る前に
百段階段の風格に負けないホテル本館の装飾。こちらも忘れずに愛でたいものだ。
まずは彩色木彫板の作品を見ておこう
ずっと長いこと、鏝絵だと思っていた。だが、彩色木彫板の作品なのだそうだ。見事な出来栄えに、今回もうっとり。
彩色木彫板の作品_1
彩色木彫板の作品_2
彩色木彫板の作品_3
彩色木彫板の作品_4
彩色木彫板の作品_5
彩色木彫板の作品_6
彩色木彫板の作品_7
彩色木彫板の作品_8
彩色木彫板の作品_9
彩色木彫板の作品_10
彩色木彫板の作品_11
例のトイレの画
こちらは彩色木彫の絵ではなく、螺鈿による画だ。いま、制作を依頼したらどれくらいかかるのだろうか?
例のトイレの画_1
例のトイレの画_2
例のトイレの画_3
例のトイレの画_4
例のトイレの画_5
エレベータの扉と内部の画
初めてここに来られた方は、例外なく驚かれることと思う。こちらも螺鈿の画だ。どうやって内部の反射を抑えるべきか、何も道具がなくては手を拱くしかない。偏光フィルタを持参すべきだったかなあ。
エレベータの扉と内部の画_1
エレベータの扉と内部の画_2
エレベータの扉と内部の画_3
エレベータの扉と内部の画_4
エレベータの扉と内部の画_5
エレベータの扉と内部の画_6
エレベータの扉と内部の画_7

 

『和のあかり×百段階段2018』を見に行った(1)

7月17日(火)早朝から19日(木)夜まで、京都と大阪とに旅行をしています。そのため、この3日間、私からのアクセスはできません。m(__)m

雅叙園で開催中の『和のあかり×百段階段2018』を見に行った。いつも微妙なあかりの美しさを撮り切れずに失敗撮影を繰り返すのがわかっているので、いい加減にやめようかと思っている。そんな時、他の方のブログに素晴らしい画がUPされた。堪らず、私も参戦したのだが、彼我の差はとてつもなく大きかった。
当日はプロ写真家上田晃司氏の基礎講座を聞きに行ったのだが、ちょっと基礎知識を頭に入れただけで見違えるような画が撮れるわけではなかった。まあ、それでも、折角撮ったので、何回分かに分けて撮り上げることとする。まずは、雅叙園の手前の一角から。


西運上人関連のもの
ここに登場する西運上人こそが、八百屋お七の思われ人「寺小姓吉三」の、その後の姿だった。『私には一切かかわりあいのないこと』とシラを切りとおすことだってできたはずだ。なのに、一心に己の罪の大きさを感じて祈り精進の日々を送ったらしい。常人には真似できることではなかろう。
行人坂の勢至菩薩像
自分が罪を犯したわけではないが、感じるところがあったのだろう。下記の説明文にあるように、目黒不動と浅草観音に毎日参詣したのだそうだ。私でも、一日限りであれば、目黒不動と浅草観音とに徒歩で参詣できるかもしれない。そんな生易しいことではなく、来る日も来る日も毎日欠かさず続けたそうだ。その信念の強固さたるや、見上げたものだ。それで人々の喜捨を受け、それで目黒川に石橋をかけたのか。付近住民の上人に対するの感謝の気持ちが、この勢至菩薩像なんだ。
行人坂の勢至菩薩像_1
行人坂の勢至菩薩像_2
行人坂の勢至菩薩像_3
行人坂の勢至菩薩像_4
大円寺門前より行人坂を少し登ったところにある勢至堂に置かれています。台座97センチメートル、蓮華20センチメートル、勢至菩薩52センチメートルから成り、勢至菩薩は両手を合掌し、片膝を立てて座っています。
台座の前面と両側面には、江戸時代中期の目黒川架橋に関する銘文が刻まれています。銘文からは、宝永元年(1704年)に僧の西運が目黒不動と浅草観音に毎日参詣し、その途中で人々の報謝を受け、これをもとに目黒川の両岸に石壁を造り、石製の太鼓橋を架けたことがわかります。

阿弥陀堂
もともとは明王院にあった。その明王院が、明治13年に大円寺に吸収された。ということで、大円寺の境内に阿弥陀堂として祀られている。この中にお七地蔵と西運上人の像が祀られているそうだ。
阿弥陀堂
大圓寺
何度も書いたが、江戸三大大火の一つといわれる1772年(明和9年)2月に発生した大火(明和の大火・行人坂火事)の火元となった寺である。武州熊谷無宿の真秀という坊主による放火で、大圓寺自身もとんだとばっちりだったのだが、『怪しからん』ということで、江戸幕府から再建の許可が得られなかった。
それが一転して再建の許可が下りたのは、江戸時代後期の1848年(嘉永元年)になってからのこと。薩摩藩主島津斉興の帰依を得たことから、その菩提寺としてようやく再建を許されたのだった。

木造釈迦如来立像(重要文化財)
提げられた提灯には、『生身釈迦如来』と書かれてある。「清凉寺式」の釈迦如来像だから、そのように書かれるのは当然のことなのだろう。制作年代の判明する清凉寺式釈迦如来像としては最古の作品だそうだ。鎌倉の杉本寺にあったものが、どうして目黒に所在しているのだろうか?不思議なことだ。
木造釈迦如来立像(重要文化財)
こちらはオリジナルの清涼寺に伝わる国宝の画像(PDF画像を借用)
国宝 木造釈迦如来立像および像内納入品
附:菊花双雀鏡1面(鏡面に「釈迦如来、建久四年十月十六日、丹治氏乙犬女」の線刻がある)
附:紙本墨書紙片3枚(「丹治氏乙犬女」「記千□(歳)女」「公□氏」とある)
「三国伝来の霊像」と称される京都・清凉寺の本尊釈迦如来像を模した、いわゆる「清凉寺式」の釈迦如来像。身体の露出が少ない衣の付け方、同心円状の衣文、縄目状の頭髪など、清凉寺式釈迦如来像の典型的な様式を示す。本像は、像内納入品の銅鏡の線刻から、鎌倉時代初期の建久4年(1193年)の造立と判明する。また、像内に納入されていた宝永4年(1707年)の木札の記載により、この像は当時鎌倉の杉本寺にあったことがわかる。清凉寺式釈迦如来像の典型作であるとともに、制作年代の判明する清凉寺式釈迦如来像としては最古の作品として貴重である。

大円寺石仏群(東京都指定有形文化財)
大円寺石仏群(東京都指定有形文化財)_1
大円寺石仏群(東京都指定有形文化財)_2
大円寺石仏群(東京都指定有形文化財)_3
大円寺石仏群(東京都指定有形文化財)_4
大円寺石仏群(東京都指定有形文化財)_5
520躯(釈迦三尊像 3躯、十大弟子像 10躯、十六羅漢像 16躯、五百羅漢像491躯)
天明年間(1780年代)、前述の目黒行人坂火事の犠牲者追悼のために作られたとされている。

とろけ地蔵
この石仏群の手前、本堂横に顔や手が溶けたような、一体の異様な地蔵が立っている。この地蔵は「とろけ地蔵」と呼ばれ、江戸時代に漁師が海から引き上げたもので、昔から悩み事をとろけさせてくれる、ありがたいお地蔵様として信仰されてきたとか。
本堂
なかなか味わいのある本堂だ。建てるにあたっては、薩摩藩島津家から応分の寄付があったのかなあ。
本堂_1
本堂_2
本堂_3
薬師如来
金箔でひときわ目立つ薬師如来像だ。真言を唱えながら、身体の悪い箇所に金箔を貼り付けてやるとよいのだそうだ。金箔は札所で買い求めることができるとか。
薬師如来
庚申塔
庚申塔_1
庚申塔_2
庚申塔_3
山門
山門

 

江戸東京たてもの園に行った(7)

旅館萬徳
およそ150年前の建物だ。CM風に言えば、『ほぼ150年前…』というところか。何度か増改築を繰り返したそうだ。そして室内の様子は私が生まれたころの状況を再現しているのか。商人宿というところだな。この20年ほど後だと、駅前旅館がかなり似た風情だったが、ここまでは古くはなかったかもしれない。
資料によれば、富山の薬売りなどの行商人や御岳山詣での人々が多く利用していたそうだ。そうだったのか。この状態で何と平成5年まで営業していたそうだ。何とか商売を維持できたんだ。知っていれば、一度泊まってみたかったなあ。

旅館萬徳_1
旅館萬徳_2
旅館萬徳_3
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これは五右衛門風呂かなあ。これで平成5年まで頑張ったか。
旅館萬徳_15
旅館萬徳_16
復元工事の記録のページへjump

名称:万徳旅館(まんとくりょかん)
建築年代:江戸時代末期~明治時代初期
所在地:青梅市西分町
解説:青梅市西分町の青梅街道沿いにあった旅館です。建物は創建当初に近い姿に、室内は旅館として営業していた1950年(昭和25)ころの様子を復元しています。


小寺醤油店
白金五丁目にあったのか。昭和初期の建物らしいが、昔ながらのデザインで、かなり目立ったことだろう。天現寺の幼稚舎に通っていた奴らは記憶の端に残っているかもしれない。
庇の下の腕木とその上の桁が特徴の『出桁造り』だそうだ。あまり目立たないけど、こんなものなのかもしれない。
小寺醤油店_1
小寺醤油店_1_1
小寺醤油店_2
小寺醤油店_3
小寺醤油店_4
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小寺醤油店_6
小寺醤油店_7
お酒も醤油も味噌も量り売りだったのか。古き良き時代だったんだ。
小寺醤油店_8
小寺醤油店_9
小寺醤油店_10
袖蔵というものかな。いい感じだなあ。
小寺醤油店_11
小寺醤油店_12
小寺醤油店_13
名称:(こでらしょうゆてん)
建築年代:1933年(昭和8)
所在地:港区白金五丁目
解説:大正期から、現在の港区白金で営業していた店です。味噌や醤油、酒類を売っていました。
庇の下の腕木とその上の桁が特徴の〈出桁造り(だしげたづくり)〉がこの建物のみどころです。

 

妻との食事(1)

たまたま娘夫婦は別に食事をするということになったので、夫婦2人きりの食事の機会ができた。本来ならば、自宅でさっぱり目の食事をとるところだ。だが、妻がかなり疲れている様子なので、近くの和食の店に入った。予約はせずとも、開店直後に行けば、何とかOKだろう。ということで出かけた。
今回はちょっと贅沢なコース料理を一つと、少し簡易なコース料理を一つ注文した。ややこしい注文になったが、私が食べない方が宜しいものを妻が引き受けたりする都合があり、2つのコース料理をシェアしながらいただいた。ノンアルコールビールは私、日本酒は妻の注文だ。

妻との食事(1)_1
妻との食事(1)_2
妻との食事(1)_3
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妻との食事(1)_16

孫たちを敬遠するわけではないが、たまには夫婦水入らずの静かな食事も良いものだった。

 

飛鳥Ⅱの着桟ほか(3)

いよいよ着桟するぞ
近場のクルーズの際は、歓迎の演奏などはしないんだなあ。北海道にクルーズしたときは、小樽港などで歓迎セレモニーが行われたが、…。至って簡素なものだ。
まだまだだ
ここでソフトにやらないと、岸壁に衝突してしまう。大事なお客様にもけがをさせかねない。それがために慎重を期しているのだろう。
まだまだだ
少しは近づいたかな
尺取り虫のような近づき方だ
少しは近づいたかな_1
少しは近づいたかな_2
導糸が投げられた
いよいよロープを張るんだ。まずはガイドのロープを岸壁の係員が受け取る。
導糸が投げられた_1
導糸が投げられた_2
係留用の太いロープも出てきた
導糸が投げられた_3
既に何本かの導糸が投げられている
細いロープだが、お分かりだろうか
既に何本かの導糸が投げられている
かなり近づいてきた
太いロープがまた出てきた。最後はたるまないように船のウインチでしっかり膜上げる。影からするとタラップが完全にはコネクトできていない。あのおじさんはまだ見ていた。よほど船が好きなんだなあ。
かなり近づいてきた_1
かなり近づいてきた_2
かなり近づいてきた_3
かなり近づいてきた_4
かなり近づいてきた_5
かなり近づいてきた_6
これは鼠返しかな
ニャンコの絵が描かれていたりするんだ。あんなもので驚く純情なネズミは居るのかなあ。
これは鼠返しかな_1
これは鼠返しかな_2
着桟完了かな
着桟完了かな_1
着桟完了かな_2

周辺の様子
いつものことだが、周辺の様子を撮ってみた。オリンピックに向けてお化粧直しの時期なのかなあ。
一応は横浜三塔がそろい踏みなのだ。横浜市開港記念会館(ジャックの塔)が、てっぺんしか見えないが。それにしても、修復工事ばやりだなあ。
周辺の様子_1
赤レンガは開店時間までに雨が上がれば構わないのかなあ。雨が降ってしっとりの状況も乙なものかもしれない。
周辺の様子_2
周辺の様子_3

真後ろから
やっぱり相当に恰好が良い。堂々たるものだ。
真後ろから_1
真後ろから_2
真後ろから_3
真後ろから_4

帰り道
見慣れた景観だ
SCANDIA
一度はここで食べてみたい。早朝に大さん橋に行くなどはするものの、なかなか機会がなくて実現していない。おもにデンマーク料理を提供する北欧料理店か、う~~ん。
SCANDIA_1
SCANDIA_2
SCANDIA_3
横浜開港資料館
生憎、定休日だった。定休日でなくても、開館時間前だ。ここで雨宿りするわけにはいかない。
横浜開港資料館_1
横浜開港資料館_2
横浜海岸教会
お洒落な聖堂だなあ。でも、そんなに大きくはないのかな。
横浜海岸教会_1
横浜海岸教会_2
横浜海岸教会_3
横浜海岸教会_4

ここで雨が激しく降り出したので、撮影はこれにて終了

 

飛鳥Ⅱの着桟ほか(2)

神戸からの若大将クルーズだったようだ。入出港予定によれば、この日の内に、小笠原クルーズに出航するようだ。物凄く急ピッチで迎え入れの準備が始まるのだろう。

魚眼擬きの画像
小さな船体のように見えてしまうかもしれないが、なかなかどうして巨大なクルーズ船だ。大きさだけでなく、サービス内容も素晴らしいと聞く。一度この船に乗船してみたいものだ。
魚眼擬きの画像_1
魚眼擬きの画像_2
魚眼擬きの画像_3
魚眼擬きの画像_4
魚眼擬きの画像_5
魚眼擬きの画像_6
普通の望遠レンズの画像
見た目に近い感じで見える
魚眼擬きとは違って、ファインダーに届く画像は、ごく普通の感じがする
見た目に近い感じで見える_1
見た目に近い感じで見える_2
見た目に近い感じで見える_3
見た目に近い感じで見える_4
見た目に近い感じで見える_5
見た目に近い感じで見える_6
見た目に近い感じで見える_7
見た目に近い感じで見える_8
見た目に近い感じで見える_9
見た目に近い感じで見える_10
見た目に近い感じで見える_11
見た目に近い感じで見える_12
見た目に近い感じで見える_13
見た目に近い感じで見える_14
見た目に近い感じで見える_15
船首デッキにはお客さんが
その下の階には、船長と航海士と思しき人が。乗船客の中にはもしかしたらあの人ではないかと思う人もいた。若大将クルーズと名付けた神戸から横浜までのクルーズだったようだから、居たとしてもおかしくはない。高校・大学の13年先輩か。元気だなあ。
本当の船首部分にも航海士が頑張っていた。高所恐怖症にはできない仕事だ。

船首デッキにはお客さんが_1
船首デッキにはお客さんが_2
船首デッキにはお客さんが_3
船首デッキにはお客さんが_4
船首デッキにはお客さんが_5
船首デッキにはお客さんが_6
地上では着桟やその後の作業に向けて活動が始まっていた
一番先の作業は、船体の固定作業だが、荷物の搬出入、給水だとかいろいろな後続の作業があるのだ。
地上では着桟やその後の作業に向けて活動が始まっていた_1
地上では着桟やその後の作業に向けて活動が始まっていた_2
少しずつ桟橋に近づいてくる
タグボートも押してはいるが、主体は横噴射なのだろう。
少しずつ桟橋に近づいてくる_1
少しずつ桟橋に近づいてくる_2
巡視艇『はましお』が出航していった
巡視船『ぶこう』は出航の予定は今のところなさそうだ
巡視艇『はましお』が出航していった_1
巡視艇『はましお』が出航していった_2
他の船舶もあわただしく動き始めた
朝08:30頃だから、当然だろう。奥の赤レンガ倉庫は、まだまだ開店準備にかかっていなさそうだ。
他の船舶もあわただしく動き始めた_1
MM21のビルにはサラリーマンが出社した頃かな
他の船舶もあわただしく動き始めた_2

 

江戸東京たてもの園に行った(6)

武居三省堂(文具店)と花市生花店
もともとは別のところに所在していた2つの店。移設するにあたって、ちょうど都合の良い店同士だと判断して、並べて展示してあるのだろう。両方ともに昭和初期の建物。
書道専門店というのは、現在よりも需要があったのかな。また、生花店は新しい時代に入って、高所得層を中心に少し需要が出てきたのだろうか?当時の粋な店だったのだろう。
『千と千尋の神隠し』制作にあたって参考にしたのが、この江戸東京たてもの園内に何箇所かあるといわれている。ビデオを何度も見たはずなのに、細かくは記憶していないのだが、釜爺がせっせと働いていた場所のイメージが『武居三省堂』だそうだ。記憶力の確かな人は確認できるかなあ。
メインの舞台ともいえる銭湯の『油屋』は、『子宝湯』を参考にしたといわれる。ここは後の回で撮り上げる予定だ。
そのほか、湯婆婆のもとで働く契約ができた千が、仕事以外の時間を過ごす場所は、すでに取り上げた高橋是清邸だとか。一面のガラス張りがそっくりに描かれているとか。

高橋是清邸は別として、『武居三省堂』と『子宝湯』とは、既視感がいっぱいの感じがする。
2店が並ぶ様子
2店舗でちょうど1店舗に見える感じ。狭小店舗の走りだろうか。
2店が並ぶ様子_0
2店が並ぶ様子_1
2店が並ぶ様子_2
花市生花店
店内の様子が、割とモダンだと思った。解説文を見ると、昭和30年代の店内の様子を再現しているのだとか。道理で、外観よりは新しい感じになっていたのだろう。
花市生花店_1
花市生花店_2
花市生花店_3
花市生花店_4
花市生花店_5
名称:花市生花店(はないちせいかてん)
建築年代:1927年(昭和2)
所在地:千代田区神田淡路町一丁目
解説:昭和初期に建てられた〈看板建築〉の花屋です。建物の前面は花屋らしくデザインされています。店内は昭和30年代の花屋を再現しています。

武居三省堂(文具店)
右から始まる文字列で、『筆墨硯文具算盤問屋』と書かれてある。最初は、卸だったようだ。狭い間口からは想像できないほどの品ぞろえがあったように見えた。
武居三省堂(文具店)_1
武居三省堂(文具店)_2
武居三省堂(文具店)_3
武居三省堂(文具店)_4
武居三省堂(文具店)_5
武居三省堂(文具店)_6
武居三省堂(文具店)_7
名称:武居三省堂(文具店)(たけいさんしょうどう)
建築年代:1927年(昭和2)
所在地:千代田区神田須田町一丁目
解説:明治初期に創業した文具店です。当初は書道用品の卸をしていましたが、後に小売店に変わりました。
建物は震災後に建てられた〈看板建築〉で前面がタイル貼りになっていて屋根の形にも特徴があります。

 

飛鳥Ⅱの着桟ほか(1)

列島に梅雨前線が居座り、各地に未曽有の人的・物的被害をもたらした。だが、首都圏だけは、なぜか蚊帳の外。どうしてそういう気象状況になったのか、不思議でならない。その異常気象が終わるかもしれない7月9日(月)。その日は、他の地域は全国的に晴れた。そして、かなりの地域で梅雨明けが宣言された。だが、その日に限って、首都圏だけは、曇りのち雨。雨のち晴れたり曇ったり。さらに所によっては雷雨が。
こんなときだから、少しは元気を出してもらえるような写真を撮りたかった。雨が降り出す前の飛鳥Ⅱの着桟ほかの様子を撮るべく、急ぎ横浜港の大さん橋に向かった。9時に着桟予定なので、8時10頃に大さん橋に着くように自宅を出た。着いてみると、飛鳥Ⅱは既にベイブリッジを潜り抜け、着桟のために方向転換をする直前だった。
バックでの着桟
数分前にベイブリッジの下を通過したようだ。もう間もなく着くじゃないか。のんびり構えてなどいられない。焦って走り出した。
バックでの着桟_1
バックでの着桟_2
バックでの着桟_3
バックでの着桟_4
ところが左方向に旋回して船首から着桟するのではなく、少し先に行き過ぎる。そこで、方向転換をして、バックで着桟するらしい。
バックでの着桟_5
バックでの着桟_6
バックでの着桟_7
バックでの着桟_8
バックでの着桟_9
バックでの着桟_10
魚眼擬きだとこんな風に見えた
雲が不気味な感じで展開していた。魚眼擬きだが、何がいけないのが、ピントが合わないショットが続出してしまった。使い方を調べ直さなくては。
魚眼擬きだとこんな風に見えた_1
位置関係がわかるように広角で撮ってみた。ベイブリッジは通り過ぎたことが良くわかる。
魚眼擬きだとこんな風に見えた_2
魚眼擬きだとこんな風に見えた_3
魚眼擬きだとこんな風に見えた_4
魚眼擬きだとこんな風に見えた_5
魚眼擬きだとこんな風に見えた_6
魚眼擬きだとこんな風に見えた_7
魚眼擬きだとこんな風に見えた_8
魚眼擬きだとこんな風に見えた_9
魚眼擬きだとこんな風に見えた_10
その時のMM21の様子
その時のMM21の様子_1
その時のMM21の様子_2
どんどん尻を振ってこちらに近づいてきた
アマゾネスの迫力さながら。ぐいぐいと迫ってきた。
どんどん尻を振ってこちらに近づいてきた_1
どんどん尻を振ってこちらに近づいてきた_2
どんどん尻を振ってこちらに近づいてきた_3

 

江戸東京たてもの園に行った(5) 2018.07.10 12:27画像追加

丸二商店(荒物屋)
実に見事な看板建築だと思う。品川宿に残っている建物とは少しグレードが違う感じだ。昔は、こんな風に通りに面したところは店舗とし、裏側は長屋にするのが一般的だったのかもしれない。模様も洒脱なものにしてあるなあ。江戸小紋の模様だと聞いた。
丸二商店(荒物屋)_1
丸二商店(荒物屋)_2
店内の展示商品は、同業で廃業した商店からの寄贈品を展示しているとこことだ。懐かしいものが並んでいた。
丸二商店(荒物屋)_3
丸二商店(荒物屋)_4
丸二商店(荒物屋)_5
丸二商店(荒物屋)_6
丸二商店(荒物屋)_8
丸二商店(荒物屋)_9
江戸小紋の模様か。いくつ数えられるかなあ。
丸二商店(荒物屋)_10
丸二商店(荒物屋)_11
丸二商店(荒物屋)_12
丸二商店(荒物屋)_13
丸二商店(荒物屋)_14
名称丸二商店(荒物屋)(まるにしょうてん)
建築年代:昭和初期
所在地:千代田区神田神保町三丁目
解説:昭和初期に建てられた荒物屋です。小さい銅板片を巧みに組み合わせて模様をかたち作り、建物の正面を飾っているのが特徴です。店内は昭和10年代の様子を再現しています。裏手には長屋も移築し、それとともに路地の様子も再現しています。


植村邸
もともとは商売をしていたのか、単なる個人住宅だったのかは私は知らない。おそらくは後者だと思うのだが、自信はない。関東大震災後の昭和2年に造られた紛う方なき看板建築。植村三郎氏のイニシャル入りなのだから、相当に気合を込めて作った住宅なのだろう。
よく見ると小さな穴がたくさんある。第二次大戦において、連合軍の機銃掃射を受けた痕だそうだ。薄い銅板でもしっかり建物をガードしてくれたようだ。
植村邸_1
植村邸_2
植村邸_2_2
植村邸_3
植村邸_4
植村邸_5
名称植村邸(うえむらてい)
建築年代:1927年(昭和2)
所在地:中央区新富二丁目
解説:建物の前面を銅版で覆ったその姿は、〈看板建築〉の特徴をよくあらわしています。外観は、全体的に洋風にまとまっていますが、2階部分は和風のつくりとなっています。

 

旧東海道品川宿近辺を歩いた(6)

品川寺
『ほんせんじ』と読ませる。真言宗醍醐派の別格本山。私の好きな粋な建屋がある。歴史をおさらいすると、『海照山品川寺は、品川左京亮(しながわさきょうのすけ)伝の水月観音・聖観音両菩薩霊像を本尊とし奉り、後花園天皇長禄年間、太田道灌公の創建、後光明天皇承応年間、弘尊上人の中興によるところなり。世々「品川観音」と称せられる』とある。太田道灌の創建なのか。う~~ん。
最初から心をつかむ配置構成だ
最初から心をつかむ配置構成だ
銅造地蔵菩薩坐像〈都指定有形文化財(彫刻)〉
坐像の場合は、立てば丈六ということで、半分の8尺の像を丈六像と呼ぶそうだ。ということで立派な大仏様だろう。
銅造地蔵菩薩坐像〈都指定有形文化財(彫刻)〉_1
銅造地蔵菩薩坐像〈都指定有形文化財(彫刻)〉_2
銅造地蔵菩薩坐像〈都指定有形文化財(彫刻)〉_3
江戸六地蔵の由来は、『刊本江戸六地蔵建立之略縁起』によれば、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したことから、江戸に入る6つの街道の入り口に地蔵菩薩の建立を宝永3年(1706)に発願し、多くの人々の浄財を集め、1躯ずつ造立したものです。各尊の前身及び蓮台、台座には勧進者、造立年代などが陰刻されており、神田鍋町鋳物師太田駿河守正義によって鋳造されたことがわかります。六地蔵のうち、深川にあった永代寺の地蔵菩薩(第6番)は、廃仏毀釈で取り壊され、5軀が残っています。
海照山品川寺の六地蔵は、1番古く宝永5年(1708)に造立されたものです。像高は、現存するものの中で1番大きく275cmあり、かつては鍍金が施されていました。
江戸時代中期の鋳造像としては大作であり、かつ遺例の少ないものであることから文化財に指定されました。

山門
山門_1
山門_2
本堂
文句なしの堂々たる風格を示す。鴟尾も見事なものだ。どこの国の寺院か判然としないような外観。これが堪らなく良い。
本堂_1
本堂_2
本堂_3
本堂_4
本堂_5
庫裏(?)
本堂とトーンを合わせてある
庫裏(?)
柴燈大護摩・火渡り荒行を行うスペース
柴燈大護摩・火渡り荒行を行うスペース
柴燈大護摩・火渡り荒行のページにjump

小さな鐘が2つ
大きな鐘とは別に小さな鐘がある。日常の寺務の合図に使っているのだろう。
小さな鐘が2つ_1
小さな鐘が2つ_2
役行者像
役行者像
銀杏
推定樹齢600年。見事なものだ。正面に立つ石塔は庚申塔だと思われる。台座の猿や鶏ははっきり見えるのだが、肝心の部分が良くわからない。
銀杏_1
銀杏_2
銀杏_3
こちらはわかりやすいが、かなり新しそうだ
銀杏_4
弘法大師像
弘法大師と花梨とはなにやら因縁があるようだ。
弘法大師像
『弘法大師(空海)とカリン』のページにjump

稲荷堂
堂内も撮ったが、ピンボケになってしまった
稲荷堂_1
稲荷堂_2
毘沙門天像
東海七福神の毘沙門天とは、これのことだろう
毘沙門天像

大鐘楼と大梵鐘(国指定重要美術品)
大梵鐘は徳川昭武公とともにパリ万博へ出たものの、その後の日本国内の政変で、日本側からの連絡が十分でなかったのか、一時所在不明になっていたのか。よくぞ、見つけて持ち帰ることができたものだ。
大鐘楼と大梵鐘(国指定重要美術品)
明暦3年(1657年)の銘があり、徳川幕府第四代将軍徳川家綱の寄進とされる。鐘身に六観音像を鋳出する。この鐘は幕末に海外へ流出し、パリ万博(1867年)・ウィーン万博(1873年)に展示されたと伝えるが、その後所在不明となっていた。大正8年(1919年)、当時の住職であった仲田順海は鐘がスイス・ジュネーヴ市のアリアナ美術館に所蔵されていることを突き止め、返還交渉を開始した。外務大臣幣原喜重郎ほか多くの人々の尽力により、ジュネーヴ市議会は鐘を日本へ戻すことに同意し、昭和5年(1930年)、同市の好意により品川寺に返還された。
平成3年(1991年)には品川寺からジュネーヴ市に新しい梵鐘が贈られた。品川区とジュネーヴ市は平成3年に友好都市となったが、交流の契機となったのはこの梵鐘である。

もう一度本堂を見る
何度見ても素晴らしい
もう一度本堂を見る

寺伝によると、弘法大師空海を開山とし、大同年間(806-810年)に創建されたという。長禄元年(1457年)、江戸城を築いた太田道灌により伽藍が建立され、寺号を大円寺と称した。その後戦乱により荒廃するが、承応元年(1652年)に弘尊上人により再興され、現在の寺号となった。スイス・ジュネーヴ市と深い縁を持つ梵鐘を始め、江戸六地蔵の第一番にあたる地蔵菩薩像や東海七福神の毘沙門天などがある。
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真言宗醍醐派の品川寺は、海照山普門院と号し、真言宗醍醐派の別格本山です。品川寺の創建年代は不詳ですが、当初金華山大円寺と称し、弘尊が承応元年に中興開山しました。戦国時代、兵火により焼失しましたが、海照山普門院と改称して復興しております。江戸三十三観音霊場31番霊場、東海三十三観音霊場21番札所、東海七福神の毘沙門天となっている他、山門前には江戸六地蔵の一つが安置されています。

 

旧東海道品川宿近辺を歩いた(5)

水道工事屋さん
建物が印象に残った。ただそれだけ。2トーンといえばそうなのだが。
水道工事屋さん_1
水道工事屋さん_2

長徳寺
以前の回で、北品川の善福寺を見たが、同じ時宗の南品川の寺院。南品川にはほかに海蔵寺もある。さして広くないエリアに時宗寺院が3箇寺も存在したんだ。何か理由があったのだと思うが、私には把握できなかった。
時宗そのものも、総本山が遊行寺だとは知っているが、2年ほど藤沢市で勤務していた折にも行ったことがなかった。箱根駅伝で名前を聞くばかり。あまり縁がない宗派になってしまった。

古くからの変哲もないごく普通のお寺さんらしいお寺さんという印象だった。だが、歴とした御朱印寺。御朱印寺であったばかりに歴史に翻弄されたかなあ。
長徳寺_1
長徳寺_2
長徳寺_3
長徳寺_4
長徳寺_5
長徳寺_6
長徳寺_7
長徳寺_8
長徳寺は、三寮覺阿弥陀佛が開山となり現東海寺の地に寛正4年(1463)創建、東海寺建立に伴い当地へ移転したといいます。江戸時代には下蛇窪(品川区二葉附近)に寺領5石の御朱印状を与えられた御朱印寺でした。当寺の閻魔堂は、南品川にあった東光寺という時宗寺院があったものの、大龍寺に譲ることになり、その堂宇を移したものだといいます。

天妙国寺そのもの、および関係する2つの寺社
天妙国寺
顕本法華宗は、日蓮を宗祖とし、日什を開祖とする宗派だそうだが、時宗以上に私にはよくわからない宗派だ。かなり大きな寺院であることは見ただけでわかるのだが、…。戦後、妙満寺の伝統を守るために独立を主張する派と、日蓮宗に残留して内部改革をすべきと主張する派に分かれ、前者は当時の管長・中川日史らが独立し現在の顕本法華宗となり、後者は日蓮宗に残り日蓮宗什師会となったそうだ。
天妙国寺_1
天妙国寺_2
天妙国寺_3
天妙国寺_4
天妙国寺_5
天妙国寺_6
天妙国寺_7
天妙国寺_8
天妙国寺_9
天妙国寺_10
顕本法華宗の天妙国寺は、鳳凰山と号し、顕本法華宗の別格山で、江戸時代には、南品川本光寺、浅草慶印寺と共に京妙満寺末触頭三寺でした。弘安8年(1285)に日蓮の弟子中老僧天目が開創、江戸時代には寺領10石の朱印を賜っています。
真了寺
もともとは、天妙国寺の塔頭寺院だった。それなのに、顕本法華宗が社会情勢の激変を受けて、目まぐるしく動いたので、こちらは袂を分かって日蓮宗にとどまったのか。もちろん、人間の面倒をも見るようだが、ペットの寺院でもあるようだ。時代だなあ。金回りが良いのか、非常に立派な建物を構えている。
真了寺_1
真了寺_2
真了寺_3
真了寺_4
日蓮宗寺院の真了寺は、延宝元年(1673)に天妙国寺塔頭寺院として建立しました。寺地は天妙国寺の道路向かいにあります。
南品川諏方神社
だと思う。天妙国寺の開基天目が自身の生国信州の諏訪大明神を勧請して、弘安年中(1278-1287)に創建したといわれているそうだ。今は、神社として機能しているのか否か不明だ。『諏訪』の字ではなく『諏方』の字を用いるので印象に残る。諏訪は古くは諏方と書いたようで、昔ながらの表記が諏方ということになり、昔ながらの書き方を踏襲している神社もいくつかあるようだ。
南品川諏方神社_1
南品川諏方神社_2
南品川諏方神社_3
南品川諏方神社_4
諏訪神社は妙国寺の南にあり、当寺を開山せる天日上人は信州の生まれで、郷里の大社諏訪明神を勧請したもので、当初は海岸の洲崎に建っていたので洲の宮といわれていた。永享のころ(一四二九-四一)、社を現境内に引いて再建した。同八年(一四三六)七月、郡司二階沙瀰正三は神田二段を寄進し祭事を勤行させた。(東京都神社名鑑より)

 

一条恵観山荘の庭園ほかを見て回った(6)

旧華頂宮邸を後にし、宝戒寺及び東勝寺跡を目指してトボトボと歩き始めた。大した道のりではないはずなのだが、やっぱりへばった。

途中の様子
大した道筋ではないが、すぐ次の目的地が近くではないということの備忘で記しておく。
アナゴ料理で有名な店
いつも凄い行列のようだ。この日も行列が見えた。私自身はいただいたことがない。
アナゴ料理で有名な店
魚屋さん
昔はこういうのが街の魚やさんだったのかなあ。
魚屋さん
滑川
ここで大きく蛇行している。もうちょっと田舎だったら、オオヨシキリが啼いていそうだが、…。
滑川_1
こんな大きくなったらミサゴでも狙わないかなあ。その前にここまで飛来してこないか。
滑川_2
文覚上人屋敷跡
鎌倉は史跡そのものが残っているものは殆どない。この場合も例外ではない。世界遺産に指定されないのは当然かもしれない。歴史を彩った大人物だというのに、鎌倉にはこんなものしか残っていないのか。
文覚上人屋敷跡

紫陽花プロムナード
地元の人がひそかに愛でている場所らしい。この時(6月22日)は、かろうじて紫陽花が鑑賞できる感じだった。
こんな感じ
紫陽花プロムナード_1
紫陽花プロムナード_2
紫陽花プロムナード_3
紫陽花プロムナード_4
紫陽花プロムナード_5
紫陽花プロムナード_6
紫陽花プロムナード_7
紫陽花プロムナード_8
紫陽花プロムナード_9
紫陽花プロムナード_10
紫陽花プロムナード_11
近くにはこんなものも
紫陽花プロムナード_12
紫陽花プロムナード_13
紫陽花プロムナード_14

東勝寺跡と腹切りやぐら
最後に鎌倉幕府滅亡の地を確認しておこうと考えた。いつもこの辺で激しくへばる。昼食を食べていない所為もあるかもしれないが。
東勝寺跡
幕府の残党はこの東勝寺へと逃げ込み、この地で自害し果てたとされる。兵どもの無念が渦巻いているのかもしれない。私は鈍感なのか何も感じなかった。(^_^;)
東勝寺跡と腹切りやぐら_1
東勝寺跡と腹切りやぐら_2
東勝寺跡と腹切りやぐら_3
東勝寺跡と腹切りやぐら_4
東勝寺跡と腹切りやぐら_5
東勝寺跡と腹切りやぐら_6
東勝寺跡と腹切りやぐら_7
北条泰時建立という北条得宗家の氏寺の跡で、北条一族がここで自刃し、鎌倉幕府滅亡の地となりました。発掘調査で、寺院の遺構が確認されています。現在、東勝寺跡近くの腹切りやぐらへの道は、石碑の倒壊の危険があるため通行禁止となっています。
腹切りやぐら
通行禁止などとは書かれてなかったので、上ってみた。腹きり櫓そのものは木の柱が立っているところだと思うが、見落としてしまったようだ。
東勝寺跡と腹切りやぐら_8
東勝寺跡と腹切りやぐら_9
腹きりやぐらは、多分、この柱の奥だと思う。『通行禁止』の意味合いには読めなかった。せめて合掌をしておくのだった。
東勝寺跡と腹切りやぐら_10
東勝寺跡と腹切りやぐら_11
東勝寺跡と腹切りやぐら_12
この先はハイキングコースになっているだけのようだ。何かがありそうだと思って登ってみたが、くたびれただけだった。
東勝寺跡と腹切りやぐら_13
東勝寺跡と腹切りやぐら_14
東勝寺跡と腹切りやぐら_15
諦めて戻ってくるときに櫓を見つけた。腹きりやぐらではないと思うが、何だかはわからない。
東勝寺跡と腹切りやぐら_16
東勝寺跡と腹切りやぐら_17
東勝寺跡と腹切りやぐら_18
鎌倉幕府滅亡の地、凄みのある場所です
北条高時の腹切りやぐらとして有名な場所です。倒幕軍に追いつめられ、高時を始め北条一族、幕府の主要御家人など数百人が自害しここに鎌倉幕府は滅亡しました。


次回は、日を改めてお邪魔した一条恵観山荘の『見学』の様子を取り上げる。

 

一条恵観山荘の庭園ほかを見て回った(5)

旧華頂宮邸までの道
何といっても、有名な報国寺があるので、観光客はかなり多い。その先は急激に静かな環境になり、訪れたときはアジサイがまだ見ごろの状態だった。『カワニナを獲らないで』という注意書きがある。この辺は多少は蛍が飛び交う環境にあるようだ。
旧華頂宮邸までの道_1
旧華頂宮邸までの道_2
旧華頂宮邸までの道_3
旧華頂宮邸までの道_4
谷戸だし、敷地前を小川が流れているので夏は少しだけ過ごしやすいのかなあ。自前の橋も粋だ。
旧華頂宮邸までの道_5
旧華頂宮邸までの道_6

旧華頂宮邸
公開日ではないので、外観のみの撮影だ。昭和初期の侯爵邸か。維持管理が大変だったことだろうと思う。このような建築様式をハーフティンバー洋式というのか。ドイツよりも北に行くとかなり見られるのかな。
旧華頂宮邸_1
旧華頂宮邸_2
旧華頂宮邸_3
玄関前にロータリーを設えてある。これぞ、これぞハイカラなお屋敷の典型だ。
旧華頂宮邸_4
旧華頂宮邸_5
旧華頂宮邸_6
旧華頂宮邸_7
旧華頂宮邸_8
旧華頂宮邸_9
この先はフランス式庭園が広がる。英国式とどう違うのかわかりもしないのにやや無責任な書き方で申し訳ない。
旧華頂宮邸_10
旧華頂宮邸_11
旧華頂宮邸_12
鳥さんがいた。鳥撮りに行ったのではないので、普通系のレンズのみ。寄ることもできなかった。ホオジロさんかな?なお、盛んに啼いていた鶯さんは姿を見つけることさえできなかった。う~~ん。
旧華頂宮邸_13
旧華頂宮邸_14
旧華頂宮邸_15
バラと絡めて撮ろうとしたのだが、…。うまくいかなかった。
旧華頂宮邸_16
旧華頂宮邸_17
旧華頂宮邸_18
旧華頂宮邸_19
旧華頂宮邸_20
紫陽花もバラも季節的には終わりだったかな。撮り手と同様に何だか元気がなかったような。
旧華頂宮邸_21
旧華頂宮邸_22
旧華頂宮邸_23
旧華頂宮邸_24
旧華頂宮邸_25
旧華頂宮邸_26
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旧華頂宮邸_28
旧華頂宮邸_29
開いていた小窓から撮った。私がこじ開けたのではない。
旧華頂宮邸_30
旧華頂宮邸_31
旧華頂宮邸_32
旧華頂宮邸_33
旧華頂宮邸_34
旧華頂宮邸_35
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旧華頂宮邸_37
旧華頂宮邸_38
旧華頂宮邸_39
鎌倉の緑深き谷戸の中に、古典的なハーフティンバースタイルの趣ある洋風建築があります。
この建物は、旧華頂宮邸(きゅうかちょうのみやてい)といわれ、昭和4年の春に華頂博信侯爵邸として建てられたものです。平成8年5月鎌倉市が取得し、平成18年4月には市の景観重要建築物、同年10月に国の登録有形文化財(建造物)に指定されました。「日本の歴史公園100選」にも選ばれています。
建設年:昭和4年
構造:木造3階建て、洋小屋組
敷地面積:約4500平方メートル
建物述べ床面積:577.79平方メートル
屋根:銅板葺き
外壁:木骨モルタル塗り

 

一条恵観山荘の庭園ほかを見て回った(4)

一条恵観山荘の庭園(3)
かふぇ楊梅(やまもも)亭
一条恵観公が愛してやまなかった楊梅(やまもも)にちなんで名づけられたとか。山桃が和名で楊梅が漢名なのだそうだ。漢名まで出てきたのでは、浅学菲才の私はお手上げだ。
かふぇ楊梅(やまもも)亭
ヤマアジサイはまだまだ続く
後日、浄妙寺(地名は浄明寺だが、寺名は浄妙寺)にてヤマアジサイの小径を歩いたが、いろいろな種類があるものだと再確認できた。でも、私には数え上げることができそうにない。
ヤマアジサイはまだまだ続く_1
ヤマアジサイはまだまだ続く_2
ヤマアジサイはまだまだ続く_3
ヤマアジサイはまだまだ続く_4
ヤマアジサイはまだまだ続く_5
ヤマアジサイはまだまだ続く_6
ヤマアジサイはまだまだ続く_7
大きな楓の木の下から庭園を見る
随分感じが変わって見えた。流れ蹲踞が良いアクセントになっているのかな?
大きな楓の木の下から庭園を見る
かふぇ楊梅(やまもも)亭の店内から
その眺め。暫し、心を落ち着かせる。
かふぇ楊梅(やまもも)亭の店内から_1
かふぇ楊梅(やまもも)亭の店内から_2
かふぇ楊梅(やまもも)亭の店内から_3
かふぇ楊梅(やまもも)亭の店内から_4
注文した茶菓。和生菓子はホタルブクロをイメージしたものだった。何か理由をつけては甘いものを食しているなあ。
かふぇ楊梅(やまもも)亭の店内から_5
茶席『時雨』の円窓
もう少しうまく撮らなければ
茶席『時雨』の円窓_1
茶席『時雨』の円窓_2
茶席『時雨』の円窓_3
茶席『時雨』の円窓_4
茶席『時雨』の円窓_5
最後にもう一度庭園を眺めた
四阿
最後にもう一度庭園を眺めた_1
流れ蹲踞
最後にもう一度庭園を眺めた_2
件の案内人が言うには、関西に多い赤松が植えられてある。山荘内から雨の日に眺めると、赤のグラデーションが鮮やかで、思わず見入ってしまうほどだとか。そうはいっても、『見学』を申し込んだ日に都合よく雨が降るものかなあ。
最後にもう一度庭園を眺めた_3

 

一条恵観山荘の庭園ほかを見て回った(3)

一条恵観山荘の庭園(3)
山荘外観
後日、『見学』に参加して、この国指定重要文化財の建物内部をじっくり見て回る機会があった。その様子は、後ほどの回で取り上げることにするが、一番の上座になるのが、こちら側に一番近い部屋だった。想像がつくかもしれないが、ちょっと出張っている部分が床の間だ。向かって左側の窓も粋なものだった。こちら側にも竹でつくられた雨樋が設えてあったが、よくわからないかもしれない。次の画で見ていただきたい。
山荘外観_1
少しだけ下ったところから庭をもう一度見てみた。庭園を見に行ったときには気づかなかったのだが、写真の通り、竹でつくられた雨樋が設えてあった。粋の極みだ。
山荘外観_2
さらに少し下ったところから
山荘外観_3
川面に沿って下がる
ヤマアジサイは50種以上が植えられているそうだ。私には精々10種ほども見分けられたら御の字かも。
川面に沿って下がる_1
川面に沿って下がる_2
川面に沿って下がる_3
川面に沿って下がる_4
川面に沿って下がる_5
川面に沿って下がる_6
川面に沿って下がる_7
少しだけ竹も植えられてあった
川面に沿って下がる_8
ヤマアジサイはまだまだ続く
川面に沿って下がる_10
枯山水庭園とはいうが、一部には水が流れていた
川面に沿って下がる_11
川面に沿って下がる_12
滑川が見えてきた。カワセミが居そうな感じだ。アユもいるとか。
川面に沿って下がる_13
川面に沿って下がる_14
川面に沿って下がる_15
川面に沿って下がる_16
川面に沿って下がる_17
川面に沿って下がる_18
ヤマアジサイはまだまだ続く
川面に沿って下がる_19
川面に沿って下がる_20
川面に沿って下がる_21
川面に沿って下がる_22
川面に沿って下がる_23
川面に沿って下がる_24
川面に沿って下がる_25
川面に沿って下がる_26
川面に沿って下がる_27
川面に沿って下がる_28
川面に沿って下がる_29
川面に沿って下がる_30
川面に沿って下がる_31
川面に沿って下がる_32
いい感じの小径
川面に沿って下がる_33
苔生した石は風情がある。先ほどの『見学』の案内人によれば、一生懸命に苔を生えさせるべく努力をしているようだ。だが、京都に多い杉苔を一面に生えさせるのはこちらではかなり難しいとのことだとか。
川面に沿って下がる_34
川面に沿って下がる_35
川面に沿って下がる_36

 

旧東海道品川宿近辺を歩いた(4)

小さなお寺が2つ
いろいろな宗派のお寺さんがあるものだ。なぜ、こんなに密集していたのだろうか?
一心寺
一心寺は、安政2年(1855)に大老井伊直弼により開山したと伝えられる。私はその辺の事情を良く存じていない。こんな狭い境内で大丈夫なのかなと思うだけだ。こちらのお寺では、焙烙灸がいまだに続いているのだそうだ。お灸そのものは嫌いじゃないが、…。
一心寺_1
一心寺_2
一心寺_3
一心寺_4
一心寺_5
養願寺
近くにある南品川の常行寺の末寺だったそうだ。本尊の虚空藏菩薩は木像で空海作と伝えられるものだそうだ。そこで『本当かな』などと思ってしまってはいけないのだろう。
養願寺_1
養願寺_2
養願寺_3
文化財の仏像ではなく屋根瓦が気になった
養願寺_4

目黒川にかかる品川橋
昔は目黒川の河口は『品川』と呼ばれていたのか。湾岸開発が進む以前は河口付近で流れが湾曲していて流れが緩やかであったため、古くは港として使われ、品の行き交っていた川であった。これが「品川」の名前の起こりだそうだ。
昔の感覚だと、『品川にかかる品川橋』ってタイトルにしないといけないのかな。今は川も橋もともにどうでもよい存在になってしまったかなあ?
目黒川にかかる品川橋_1
目黒川にかかる品川橋_2
目黒川にかかる品川橋_3
目黒川にかかる品川橋_4

荏原神社
たかだか郷社ではないかと侮ってはいけない。源氏、上杉氏、徳川氏など多くの武家の信仰を受け、南品川の鎮守として崇敬されてきた由緒ある神社なのだ。さらに、明治の御世になり、明治天皇が陸路を東京を目指してやってきた。その折、10月12日にご着輦(ちゃくれん)され、その後も、何度か立ち寄られたようだ。自動車も汽車もない時代に大変な京都から東京に向かうのは大変なことだったのだろう。
入り口付近
荏原神社_入り口付近_1
荏原神社_入り口付近_2
荏原神社_入り口付近_3
茅の輪潜り
6月30日が大祓のようで、すでに準備がなされてあった。今までやったことがなかった。良い機会だからやらせていただいたが、健康な心身になるだろうか?
荏原神社_茅の輪潜り_1
荏原神社_茅の輪潜り_2
荏原神社_茅の輪潜り_3
荏原神社_茅の輪潜り_4
荏原神社_茅の輪潜り_5
荏原神社_茅の輪潜り_6
拝殿
郷社レベルにはおさまりきれない華麗なる装飾。いつ見てもすごいと圧倒される。
荏原神社_拝殿_1
荏原神社_拝殿_2
荏原神社_拝殿_3
荏原神社_拝殿_4
荏原神社_拝殿_5
荏原神社_拝殿_6
狛犬
余りに大きくて、表情が良く見えない。私が、1.9mくらいの身長になれば、良く見えるのだろうが、20㎝ほど足らない。
荏原神社_狛犬_1
荏原神社_狛犬_2
御東幸内侍所奉安所の石柱ほか
石柱と石碑とが誇らしげに。御上京ではなく御東幸なんだ。非常に気を遣った表現だ。
荏原神社_石柱と石碑とが誇らしげに_1
荏原神社_石柱と石碑とが誇らしげに_2
その他
舞殿
荏原神社_その他_1
荏原神社_その他_2
荏原神社_その他_3
変わった根元
荏原神社_その他_4

 

旧東海道品川宿近辺を歩いた(3)

『火曜サプライズ』で取上げられた店
4件紹介されたうちのカレー屋さんと餃子屋さんとは脂質の摂取を極力減らすように言われている身なので、今回は遠慮した。一福桃のものがおいしそうだったので、試しに入店してみた。
アトリエパレット
行く前日に放送された『火曜サプライズ』で、北品川界隈の店が取り上げられていた。ゲストが北川景子・綾野剛でMCがウェンツ瑛士のロケ。その折にこの店が取り上げられていた。着ぐるみは特注品ばかりだそうで、一着が数十万円するのが相場だとか。当然ながら、外から眺めるだけにした。
アトリエパレット_1
アトリエパレット_2
一福桃(いっぷくとう)
こちらもそうだった。ものすごく蒸し暑い日で、汗がどんどん出た。少し腹に入れないと最後までもたないと思い、追体験をすることに。かりがね(雁ヶ音)茶とどら焼きなどのセットを注文した。美味しかった。
一福桃(いっぷくとう)_1
一福桃(いっぷくとう)_2

法禅寺
前回記事で話題にした歩行新宿はこの辺りまでだそうだ。品川小学校発祥の地でもあったとか。境内の敷地面積から考えると、初期の小学校は規模がかなり小さかったのかもしれない。
本堂までの様子
法禅寺_本堂までの様子_1
法禅寺_本堂までの様子_2
法禅寺_本堂までの様子_3
法禅寺_本堂までの様子_4
流民叢塚碑と納骨堂
天保の大飢饉は想像を絶するものがあったのだろう。品川宿辺りまで流れてきて、ついに行き倒れになった人が続出したのか。今の北朝鮮の状況も似たようなものがあるのかもしれない。
法禅寺_流民叢塚碑と納骨堂_1
法禅寺_流民叢塚碑と納骨堂_2
法禅寺_流民叢塚碑と納骨堂_3
法禅寺_流民叢塚碑と納骨堂_4
板碑・宝篋印塔・五輪塔など
説明書きに書かれてある内容を読むとすごいものかと期待したが、展示してあるものは、ややがっかりするレベルだった。
法禅寺_板碑・宝篋印塔・五輪塔など_1
法禅寺_板碑・宝篋印塔・五輪塔など_2
法禅寺_板碑・宝篋印塔・五輪塔など_3
法禅寺_板碑・宝篋印塔・五輪塔など_4
法禅寺_板碑・宝篋印塔・五輪塔など_5
法禅寺_板碑・宝篋印塔・五輪塔など_6
法禅寺_板碑・宝篋印塔・五輪塔など_7
法禅寺_板碑・宝篋印塔・五輪塔など_8
法禅寺_板碑・宝篋印塔・五輪塔など_9
法禅寺_板碑・宝篋印塔・五輪塔など_10

丸屋履物店
下駄・草履・雪駄などの和装履物を扱う下駄屋・丸屋履物店。慶応元年創業の店だそうだ。かろうじて江戸時代にかかるんだ。この店が元の品川宿の様子を一番残しているように私は見た。
丸屋履物店_1
丸屋履物店_2
慶応元年、ここ品川宿に店を構えてから現在に至るまで 台を選んで頂き、そして花緒を選ぶ 目の前で花緒をおすげして、お客様の足に合わせる。というスタイルは崩しておりません。その理由はピッタリと足にフィットした履物の履きやすさにあります。足に合った履物、本当の履物をお客様に体感して頂きたい、というのが私共の思いです。

 

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