散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

旧東海道品川宿近辺を歩いた(1)

あちらの記事もこちらの記事も中途半端なものばかり。困ったことだが、無事に終わることができそうな記事を追加する。
今回は旧東海道品川宿近辺を歩いてみた。品川駅から歩いて、鈴ヶ森まで行って見ようと思ったが、見落としと途中でのへばりとがあり、品川寺まで行ったところで引き返し、途中で見落とした品川神社を見て、再び品川に引き返した。地図も案内書も無しに歩くと見落としが出てしまうものだ。

品川駅近辺
ツバメグリルも『品達品川』もあった。美味しそうに見えて仕方がなかった。御殿山の超高級マンションをも尻目に旧東海道の雰囲気を残す北品川に向かう。
品川駅近辺_1
品川駅近辺_2
品川駅近辺_3
八つ山橋
遮断機が上がるまで10分ほど待待たされた。驚いたことに、短い踏切を渡り切らないうちに再び警報音が鳴った。とんでもなく設計の良くない踏切だ。よほど近くに用事のある人しか使わなくなっているのだろう。
八つ山橋_1
八つ山橋_2
八つ山橋_3
八つ山橋_4
八つ山橋_5
八つ山橋_6
八つ山橋_7
八つ山橋_8
いつの間にか青年の姿が見えなくなった。しびれを切らして、遮断機の下をくぐったのかなあ。
八つ山橋_9
八つ山橋_10
八つ山橋_11
八つ山橋_12
八つ山橋_13
八つ山橋_14
旧道近くの一画
いきなり旧東海道に入らずに、少しだけ回り道をした。そこには、旧態依然の家屋が立ち並んでいた。看板建築の建物は、今はイタリアンの店になっているとか。天麩羅屋さんなども美味しそうに見えた。船宿の近くには必ずあるなあ。
旧道近くの一画_1
旧道近くの一画_2
旧道近くの一画_3
船溜まり
雰囲気がある。『品川浦と船だまり』はしながわ百景に選ばれているとか。
船溜まり_1
船溜まり_2
船溜まり_3
鯨塚
何だか知らないがここに鯨が迷い込んだことがあったのだという。
鯨塚_1
鯨塚_2
『かがた』と読ませるんだ。足利の読みと同じなのか。ふ~~ん。
鯨塚_3
鯨塚_4
鯨塚_5
鯨塚_6
旧東海道へ向かう
突き当りの道が旧東海道。往時と同じ道幅なんだそうだ。箱根の山中とは違って、街道の宿場そのものだ。
旧東海道へ向かう_1
こちらが旧東海道だ。同じ道幅で延々と続く。
旧東海道へ向かう_2

 

Change of Pace

ずっと脂質摂取を大幅に控えた食事を続けている。弱っている膵臓に通常量以上の脂肪分の消化が過大な負荷を与えるかもしれないために、仕方なくそうしている。一方でとったほうが良いとされるオイルも存在するようだ。どこかで折り合いをつけなければいけない。
いろいろと考えた末、脂質摂取を大幅に控えた食事を続けることを基本とするも、エクストラヴァージンオイルと胡麻とを少量だけとってみようと思った。
エクストラヴァージンオイル
エクストラヴァージンオイルはAwstech オリーブオイルスプレーを使って、ごく少量だけ噴霧してみている。滴下するのよりはかなり少量に抑えられそうだ。多少は味気ない食事に色がつく気がする。
オリーブオイルスプレー
イリゴマ
胡麻は、ごま油そのものを摂取するのではなく、炒った胡麻を擂ることにしてみた。量が微々たるものに抑えられると思うからだ。角大産業 ゴマすり器 スリッキーNを使っている。香りが良い擂り立ての胡麻を頂ける。
ゴマすり器

効果があるのかないのか、今のところよくわからない。効果が出ればよいなと思う。

 

一条恵観山荘の庭園ほかを見て回った(2)

一条恵観山荘の庭園(2)
守山石のアプローチ
御幸門の手前に敷き詰められた真黒石と同様に、希少価値の高い石材なんだそうだ。当然のことだろうが、ここからの眺めが最高なのかもしれない。
守山石のアプローチ
そのアプローチから庭園を見た様子
素晴らしい庭園に仕上げている。金森宗和好みの枯山水なのだそうだ。
そのアプローチから庭園を見た様子_1
そのアプローチから庭園を見た様子_2
そのアプローチから庭園を見た様子_3
一条恵観山荘
庭園図の解説には、『田舎家風建築の野趣と随所にみられる雅やかな意匠とが融合するおおらかな空間』と書かれてあった。う~~ん、建物内部も見てみたいものだ。紅葉の時期は見事なことだろう。『見学』の時以外は立ち入ることができないので、暫し眺めた後、Uターンする。
一条恵観山荘
茶席『時雨』軒下から見た庭園
先ほどのアプローチからは楓が目立ったが、この軒下から見ると、赤松も目立つ。楓と美しさを引き立てあう計算なのだろうか?
茶席『時雨』軒下から見た庭園_1
茶席『時雨』軒下から見た庭園_2
庭園内に足を踏み入れる
間違いなく京都風だ。紅葉の時期はさぞかしきれいなことだろう。滑川からの涼風が紅葉をきれいに見せそうな気がする。
庭園内に足を踏み入れる_1
進んでいくと山荘が良く見えてきた。国指定の重要文化財の貫禄がある。
庭園内に足を踏み入れる_2
庭園内に足を踏み入れる_3
庭園内に足を踏み入れる_4
庭園内に足を踏み入れる_5
庭園内に足を踏み入れる_6
編み笠門も良く見える
庭園内に足を踏み入れる_7

 

九品仏浄真寺(5)

中品堂
中品の三仏像は説法印
中品堂_1
螺髪(らはつ)は私が彩色したものではない。元からこのような色合いだ。
中品堂_2
中品堂_3
中品堂_4
中品堂_5
中品下生佛像は、現在は修復中とのことだ。立て看板には『御遷座中』と書かれてあった。こういう時に『遷座中』という言葉を使用するのか。勉強になったぞ。
中品堂_6
下品堂
下品の三仏像は来迎印。Wikipediaの解説によれば、下品下生は極悪人とある。そうなのかなあ。極悪人とあらば、閻魔様の手でふるいにかけられてしまうのではないかと思うのだが、…。
下品堂_1
下品堂_2
下品堂_3
下品堂_4
これが、下品下生の佛像だ。行いに問題があった人にも、それなりの優しさで接するということなのかなあ。
下品堂_5
(~前略)これは『観無量寿経』に説く九品往生(くほんおうじょう)の思想に基づくものである。極楽往生の仕方には、信仰の篤い者から極悪人まで9通りの段階があるとされ、「上品上生」(じょうぼんじょうしょう)から始まって「上品中生」「上品下生」「中品上生」「中品中生」「中品下生」「下品上生」「下品中生」「下品下生」に至る。浄真寺の九品仏の場合、阿弥陀如来の印相の内、定印を「上生印」、説法印を「中生印」、来迎印を「下生印」とし、親指と人差し指(中指、薬指)を接するものをそれぞれ「上品」「中品」「下品」に充てる。なお、九品往生を9通りの印相で表す教義的根拠は明確でなく、日本において近世になってから考え出されたもののようである。
仁王門の傍らにあった石塔
結構保存状態が良いものばかりだが、やはり顔面が破壊されてしまっているのかなあ。
仁王門の傍らにあった石塔_1
仁王門の傍らにあった石塔_2
仁王門の傍らにあった石塔_3
『享保六辛丑年』『武州荏原郡世田谷領』『造立青面金剛講中 為二世安楽成』『奥沢村』などと書かれてある。1721年だから297年前か。『二世安楽』とは、現世(今生)と来世(後生)の両世において安楽を得ることという意味合いか。『奥沢村』は、お上の力で、日蓮宗から浄土宗に宗旨替えさせられたのかなあ。これだけの記載でも、いろいろなことが見えてくるものだ。
仁王門の傍らにあった石塔_4
仁王門の傍らにあった石塔_5
仁王門の傍らにあった石塔_6
仁王門の傍らにあった石塔_7
仁王門の傍らにあった石塔_8

帰途につく。20分程度の所要時間のはずだが、のんびり歩いていこう。

大井町線
もとは田園都市線といっていた。が、今は田園都市線は二子玉川から渋谷に向かうようになり、この大井町線はすっかりローカル線扱いとなってしまった。
大井町線
東横線
東急線のメイン路線。今は多くの会社線と乗り入れている。この車両は東武の車両だ。
東横線
魚菜学園
料理研究家の田村魚菜氏が創立した料理学校。ひところはTVでも活躍していたが、田村魚菜氏の名前をご存知の方はかなりの年配者かも。
魚菜学園
自由が丘駅南口側の緑道沿いの道
結構お洒落な感じなのだが、そんな風には撮れなかった。残念。
自由が丘駅南口側の緑道沿いの道_1
自由が丘駅南口側の緑道沿いの道_2
スイーツフォレストとCuoca
女性ならご存知の方が多いかもしれない。私はパン作りをしていた時期があり、Cuocaに材料を買いに来ていた。
スイーツフォレストとCuoca_1
スイーツフォレストとCuoca_2
スイーツフォレストとCuoca_3
緑ヶ丘の坂道
今の自由が丘は、その昔、低湿地として三文安の土地だった。それを物語る緑ヶ丘の坂道。そうは見えないかもしれないがかなりの勾配。周囲には高級住宅が建ち並ぶ。
緑ヶ丘の坂道_1
緑ヶ丘の坂道_2
あるお宅の花
いつもきれいにしているお宅だ
あるお宅の花_1
あるお宅の花_2
あるお宅の花_3
あるお宅の花_4
ねむの木公園のねむの木
小さな公園にねむの木が植えられている。隣接地にジャカランダの木が植えられている。それを目黒区の職員がねむの木と誤認したのか、ねむの木を植えたようだ。
ねむの木公園のねむの木_1
ねむの木公園のねむの木_2
ねむの木公園のねむの木_3
ジャカランダの木は縦に伸びる感じの木のようだ。以前は、この時期に紫の花を咲かせていたが、台風などで傷めつけられてからは、花が咲かなくなってしまったようだ。
ねむの木公園のねむの木_4_ジャカランダの木

以上で『九品仏浄真寺』のミニシリーズは終了です。最後までご覧いただき、ありがとうございました。

 

九品仏浄真寺(4)

上品堂
浄真寺三仏堂の内の真ん中に位置するお堂。上品堂には、上品上生(じょうぼん・じょうしょう)、上品中生、上品下生の三体の阿弥陀如来像が安置されている。浄土教における極楽往生の9つの階層を表しているそうで、できることならば、上品上生で極楽往生したいものだと考えてしまうが、そう簡単にはいかないのかもしれない。
本題に入る前に、前回取り上げた本堂とこの上品堂とを結んだ橋を行き来する菩薩の来迎の様子をあらわすという『お面被り』と呼ばれる仏教行事が行われる。正式には『二十五菩薩来迎会』といい、菩薩の面をかぶった僧侶らが渡り、菩薩の来迎の様子を表す。
臨死体験というのとは少しニュアンスが異なるが、行者として参加した人は菩薩の来迎の様子を疑似体験する。摩訶不思議な宗教行事だ。
三年に一度で直近は2017年に行われた。次回は2020年に行われるそうだ。
大脱線だが、2014年8月に行われた『お面被り』を取上げる。

2014年8月に行われた『お面被り』の様子
次回の予告
2020年のGWに行われる。もう既に行者の募集が公告されているんだ。直前に申し込んでも遅いのだろうな。
次回の予告
本堂に向かう様子
本堂に向かう様子_1
本堂に向かう様子_2
本堂に向かう様子_3
本堂に向かう様子_4
本堂に向かう様子_5
本堂に向かう様子_6
本堂に向かう様子_7

本堂で行事をしている様子はすごい人垣で全く見えない

上品堂に戻る様子
上品堂に戻る様子_1
上品堂に戻る様子_2
上品堂に戻る様子_3
札を撒く
上品堂に戻る様子_4
行列の最後に珂碩上人像が本堂に戻る
行列の最後に珂碩上人像が本堂に戻る
最後に山主(住職)のあいさつがあり、南無阿弥陀仏と念仏をくりかえして、行事が無事終了した
最後に住職のあいさつ
『浄真寺お面被り』を開設したページへjump

本堂から見た上品堂
この道の上に仮設の橋が架かり、お面被り行事が行われる。
本堂から見た上品堂_1
本堂から見た上品堂_2
本堂から見た上品堂_3
本堂から見た上品堂_4

上品阿弥陀如来像3躯(東京都有形文化財)
いずれも珂碩上人が制作した像だ
上品阿弥陀如来像3躯(東京都有形文化財)_1
上品阿弥陀如来像3躯(東京都有形文化財)_2
上品阿弥陀如来像3躯(東京都有形文化財)_3
上品阿弥陀如来像3躯(東京都有形文化財)_4
上品阿弥陀如来像3躯(東京都有形文化財)_5
上品阿弥陀如来像3躯(東京都有形文化財)_6

浄真寺三仏堂(上・中・下品堂)
世田谷区指定有形文化財(建造物)
平成元年3月17日指定
所在地 奥沢7-41-3  内部非公開
江戸時代
各棟とも 桁行7間(17.1m)、梁間5間(10.7m)、一重、寄棟造、銅板葺
附 棟札 元禄11年10月、浄真寺起立由来書 元禄8年6月7日、珂憶上人書簡(写)、珂憶上人行業記(写)
九品仏の名で親しまれている浄真寺は浄土宗の寺院で、その名の由来である9体の阿弥陀仏を安置する建物が三仏堂です。本堂の西側に3棟の仏堂が並び、中央が上品堂(じょうぼんどう)、北側に中品堂(ちゅうぼんどう)、南側に下品堂(げぼんどう)が配置されています。3棟とも同じつくりで、内部に阿弥陀如来像を3体ずつ安置する全国的にも珍しい形式です。
棟札には、元禄11年(1698)10月、第2世住職珂憶上人(かおくしょうにん)によって上棟されたことが記されています。

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広い境内の本堂の対面に3つの阿弥陀堂があり、それぞれに3体合計9体のそれぞれ印相の異なった阿弥陀如来像が安置されている。この9体はそれぞれ、上品上生(じょうぼん・じょうしょう)、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生という、浄土教における極楽往生の9つの階層を表しており、これらをあわせて九品(あるいは九品往生)という。この九品の仏から、浄真寺は通称「九品仏」と呼ばれている。
このような九体阿弥陀は、他に京都の浄瑠璃寺にも見られる。
これは『観無量寿経』に説く九品往生(くほんおうじょう)の思想に基づくものである。極楽往生の仕方には、信仰の篤い者から極悪人まで9通りの段階があるとされ、「上品上生」(じょうぼんじょうしょう)から始まって「上品中生」「上品下生」「中品上生」「中品中生」「中品下生」「下品上生」「下品中生」「下品下生」に至る。浄真寺の九品仏の場合、阿弥陀如来の印相の内、定印を「上生印」、説法印を「中生印」、来迎印を「下生印」とし、親指と人差し指(中指、薬指)を接するものをそれぞれ「上品」「中品」「下品」に充てる。なお、九品往生を9通りの印相で表す教義的根拠は明確でなく、日本において近世になってから考え出されたもののようである。

 

一条恵観山荘の庭園ほかを見て回った(1)

梅雨の合間の一日だけの晴れ日、6月22日。ブログで知り合った方から勧められた国指定の重要文化財である一条恵観山荘の庭園ほかを見て回った。この時期、明月院や長谷寺は平日でも相当な混雑ぶりだという。そういう人たちを見送って、鎌倉駅から太刀洗行きのバスに飛び乗った。途中鶴岡八幡宮近辺の道路混雑を見込んで早めに行ったのだが、早く着きすぎて開門をしばらく待つことになった。

一条恵観山荘の庭園(1)
道路から見た様子
当然のことだが、内部の様子はうかがい知ることができない。入ってからの楽しみだ。
道路から見た様子_1
道路から見た様子_2
道路から見た様子_3
道路から見た様子_4
道路から見た様子_5
道路から見た様子_6
庭園図
薄い色の鉛筆で書かれたような文字なので、かなり見えにくい。原図がそういう状態なのでご容赦願いたい。
庭園図
受付付近
この辺りに季節になると金蘭が咲くのだそうだ。エントランスの先には茶室『時雨』があった。こちらの円窓もかなりの風情がある。後ほど取り上げる。
受付付近_1
受付付近_2
受付付近_3
受付付近_4
受付付近_5
奥に見えているのが茶室『時雨』のようだ
受付付近_6
受付付近_7
受付付近_8
受付付近_9

茶室『時雨』には入らず(見学などの用件以外では入ることはできないようだ)、右に折れて庭園に向かう。

かにの蹲踞
生きたカニかと一瞬思った。が、こんな大きな沢蟹がいる筈もなく、…。六角形の洒落た蹲踞だった。
かにの蹲踞_1
カニさんが動いたわけではない。私が移動しても横から撮った。
かにの蹲踞_2
かにの蹲踞_3
御幸門
天皇をお迎えするためのご門。これだけは、移築したものではなく再現したものだそうだ。『かにの蹲踞』から踵を返して真黒石を踏みしめて向かう。門を支える柱だが、非常にすごかった。いじられないように網で囲ってあった。
御幸門_1
御幸門_2
御幸門_3
気になったので受付の人に確認したら、『背後から手を差し入れられるので、もう一度触ってみてこられたら』ということだったので、遠慮なくそうさせてもらった。教えて貰った木の名前を失念してしまったが、コルク質の触感が心地よい樹皮だった。一度丁寧に剥いで、もう一度接着したものだとか。
御幸門_4
御幸門_5
御幸門_6
編笠門
なんというお洒落な門だろうか。こんな粋な門を私は今まで見たことがなかった。
編笠門_1
編笠門_2

武家文化の所産がいまも色濃く残る古都鎌倉。相模湾に注ぎ込む滑川上流に、後陽成天皇の第九皇子であり、摂政・関白を二度務めた一条恵観(兼遐・昭良)によって営まれた山荘が佇んでいます。往時は京都西賀茂、緑の濃淡が幾重にも連なる里山に建つ一条家別邸の離れでした。
恵観公の没後、一条家から分かれた醍醐家がその別邸を継承。様々な時代を経て、昭和34年、鎌倉の地に移築され、保存・管理をする財団法人恵観公山荘茶屋会が設立されました。その後、移築を指揮した堀口捨己博士の研究により、昭和39年には国の重要文化財に指定。昭和62年には現在の地へ再び移され、同時に往時の庭や、天皇をお迎えするための御幸門も復元されました。現在は、恵観山荘保存会が、管理を続けています。

 

九品仏浄真寺(3)

本堂
珍しいお面被り行事が行われる片方のお堂になるが、それは後の回に取り上げることにする。今回分ではお堂の仏像を見ていただこう。
側面
明治30年の『戰捷紀念(戦勝記念)』などという奉納の額もあった。う~~ん、当時は仏教離れの時期じゃなかったのかなあ。このお寺に限っては、篤い信仰心があったのかなあ。
側面
斜め前からの様子
斜め前からの様子
入り口
入り口
本尊釈迦如来像《東京都指定文化財…有形文化財(彫刻)》
丈六あるそうだ。世でいう大仏様だ。開山珂碩上人が自ら制作した仏像だそうだ。上人は一筋の人だったんだなあ。
本尊釈迦如来像《東京都指定文化財…有形文化財(彫刻)》_1
本尊釈迦如来像《東京都指定文化財…有形文化財(彫刻)》_2
本尊釈迦如来像《東京都指定文化財…有形文化財(彫刻)》_3
本尊釈迦如来像《東京都指定文化財…有形文化財(彫刻)》_4
本尊釈迦如来像《東京都指定文化財…有形文化財(彫刻)》_5
本尊丈六の釈迦如来を安ず。開山珂碩上人手づから彫刻する所なりと云。左右に善導円光大師の木像を安ず。
宗祖法然上人像
法然上人の画は歴史の教科書で見たような気がするが、歴史担当の偏向教師の教え方に反発して、殆ど教科書を開かなかった。敵をとられたような気がするなあ。
宗祖法然上人像
五劫思惟像(ごこうしゆいぞう)
下記の解説の通りだそうだ。半分ほど毛髪を分けてほしいなあ。
五劫思惟像(ごこうしゆいぞう)
五刧思惟阿弥陀如来は、阿弥陀如来の異形のひとつで、経説によると四十八の大願を成就するために永い間、剃髪をすることもなく坐禅・思惟していたので、このような髪形になったという。劫とは永い時間を示す単位で、方四十里もある大磐石を百年に一度ずつ白氈で払って、その石がすりきれてなくなっても終わらない時間だといい、要するに永遠・無限をさすものと解してよいであろう。
五刧思惟像の遺品はきわめてすくなく、この像(東大寺)のほか、東大寺の末寺五劫院の像、同じ勧進所の十数cmほどの小像のほか、奈良十輪院、京都大蓮寺、和歌山道成寺、京都西向寺、東京淨真寺などに見られるにすぎない。

開山珂碩上人像
額には『松露斎』と書かれてあるそうだ。珂碩上人の号は松露で、松露と号された上人像をまつったということだろうか?この像は、自画像ならぬ自刻像だそうだ。万治元(1658)年7月24日、42歳の時に彫刻した旨の添書があるそうだ。360年前の『自撮り』なんだ。
開山珂碩上人像_1
開山珂碩上人像_2

鐘楼
非常に美しい鐘楼だ。近づけないようになっているので、望遠で撮るしかない。
鐘楼_1
鐘楼_2
本堂の南にあり。2間四方、鐘の大さ径り3尺、高5尺。播州尾上道隆寺の鐘に擬したる由にて、龍頭の脇に穴あり。疣銘文あれども考證に由無れば載せず。
-----------+-----------+-----------+-----------+-----------+-----------+-----------
鐘は、宝永5年(1793)世田谷領の深沢、谷岡又左衛門の寄進で、作は、神田鍛冶町の河合兵部郷藤原周徳である。堂屋も欅造りで欄間には十二支がほられ、北に子、南に午がほられている。

 

江戸東京たてもの園に行った(4)

強烈な日差しを受けて私の腕前ではうまく撮れない建物がいくつも出てしまった。取って出しを原則とはしているが、これでは申し訳ないということで、一部、明るさとコントラストをJ-TRIMというフリーソフトで補正した。

伊達家の門
伊達家の門というと、仙台の伊達家の方を思い浮かべることだろう。が、こちらは、分家筋にあたる旧宇和島藩伊達家が大正時代に東京に建てた屋敷の表門。大正時代でも、当時の東京の郊外だった白金の地とはいえ、これだけの広壮な門を構えることができたようだ。よほどしっかりした財テクができる執事でも居たのだろうか?
伊達家の門_外側
伊達家の門_1
伊達家の門_内側
伊達家の門_2
伊達家の門_3
伊達家の門_4
この門から黎明期の自家用自動車も出入りしたのだろうか?
伊達家の門_5
伊達家の門_6
建築年代大正期
所在地港区白金二丁目
解説
旧宇和島藩伊達家が大正時代に東京に建てた屋敷の表門です。〈起り屋根(むくりやね)〉の片番所を付けるなど、大名屋敷の門を再現したような形をしています。
総欅(けやき)造りで、門柱の上に架けられた冠木(かぶき)には、宇和島藩伊達家の木彫りの家紋が施されています。


センターゾーンは以上で、東ゾーンに向かう。

村上精華堂
当時のお化粧品は、大メーカーの寄るものではなく、個人商店が自家製造のものがあったんだ。へちま水などの延長線上にあったのかなあ。美しく装いたいという女性の欲望が下支えになっていたのかな。それにしてもモダンな建物だったんだ。
モダンを自負する御婦人方をひきつけてやまない魅力があったのだろう
村上精華堂_1
村上精華堂_2
村上精華堂_3
村上精華堂_4
ここで商品を選択し、隣の部屋で試してみたりしたのだろうか?
村上精華堂_5
手前のケースに入っていたものが、企画展開催中で持ち出されていた。そのため、やや殺風景な感じだった。私が思うに、ここで上がり込んで、お茶をすすりながら、試し塗りをしてみたのではなかろうか?
村上精華堂_6
村上精華堂_7
バック・ヤード。ここで自家製造を行っていたようだ。
村上精華堂_8
村上精華堂_9
村上精華堂_10
村上精華堂_11
村上精華堂_12
名称村上精華堂(むらかみせいかどう)
建築年代1928年(昭和3)
所在地台東区池之端二丁目
解説
台東区池之端の不忍通りに面して建っていた小間物屋(化粧品屋)です。
昭和前期には、化粧用のクリーム・椿油や香水等を作って、卸売りや小売りを行っていました。正面は人造石洗い出しで、イオニア式の柱を持ち、当時としてはとてもモダンな造りとなっています。

 

北鎌倉で花を愛でた(9)

『北鎌倉で花を愛でた』の最後なので、花ばかりの内容にした。如何だろうか?
東慶寺(4)
イワタバコ
大好きな花。花の大きさはごくごく小さい。これだけを見に北鎌倉まで足を運ぶ価値があると思っている。
イワタバコ_1
イワタバコ_2
イワタバコ_3
イワタバコ_5
イワタバコ_6
イワタバコ_7
イワタバコ_8
イワタバコ_9
イワタバコ_10
イワタバコ_11
イワタバコ_12
イワタバコ_13
イワタバコ_14
イワタバコ_15
イワタバコ_16
イワタバコ_17
イワタバコ_18
イワタバコ_19
こんな可愛い花さんも
こんな可愛い花さんも_1
こんな可愛い花さんも_2
こんな可愛い花さんも_3
こんな可愛い花さんも_4
こんな可愛い花さんも_5
こんな可愛い花さんも_6

以上で、『北鎌倉で花を愛でた』シリーズは終了です。最後までご覧いただきありがとうございました。

 

北鎌倉で花を愛でた(8)

東慶寺(3)
小さな石像ほか
小さな石像ほか_1
小さな石像ほか_2
小さな石像ほか_3
松ヶ岡文庫への通用口前
入ることができるわけではない。許可されたもののみだろう。
松ヶ岡文庫への通用口前_1
松ヶ岡文庫への通用口前_2
安宅弥吉翁頌徳碑
松ヶ岡文庫に向かう道に安宅弥吉翁頌徳碑が建つ。「松ヶ岡文庫」建設に際し、喜捨してくれた安宅氏を称えたものだそうだ。『自安』というタイトルだが、『自安』とは安宅弥吉翁のことを指す言葉らしい。『自安居士安宅弥吉君は…』で始まっている。
安宅弥吉翁頌徳碑
シャクナゲ
シャクナゲ_1
シャクナゲ_2
シャクナゲ_3
シャクナゲ_4
また小さな石像が
ここまでくると、背後にはイワタバコが見えてくる
また小さな石像が
イワタバコ
いろいろなところに咲き出したが、次回、まとめて取り上げることにする。私の大好きな花さんだ。
イワタバコ_1
イワタバコ_2
用堂尼墓
第五世の後醍醐天皇皇女用堂尼入寺以後、東慶寺は『松ヶ岡御所』と称され、寺格の高い尼寺としてその名を馳せるようになったのだそうだ。
用堂尼墓_1
用堂尼墓_2
用堂尼墓_3
用堂尼墓_4
この寺の歴史を彩る住持の墓
また、失敗してしまった。何故、きちんと撮らなかったのだろう。右奥が用堂尼墓。左奥が覚山尼墓。中央手前が天秀尼墓。天秀尼は、母の名も、出家前の俗名も不明だそうだ。
この寺の歴史を彩る住持の墓
覚山尼墓
東慶寺開山で北条時宗夫人。時宗亡き後、女人救済の「駈込寺」となる松岡山東慶寺を開創。
天秀尼墓
第二十世の豊臣秀頼の息女が7才で入寺。その際、家康に「寺法永続」を願ったという。衰退しかかった寺を再興したと、歴代中最も大きい墓が建てられた。

お分かりになるだろうか
右端が天秀尼墓。左側が歴代の尼僧墓所。奥には釈宗演墓など。釈宗演老師は、男僧第二世にして、明治から大正初期にかけての、仏教界のリーダー。建長・円覚両派の管長を兼任。東慶寺中興開山の称号が与えられた。
お分かりになるだろうか_1
左側が歴代の尼僧墓所。奥には釈宗演墓など。
お分かりになるだろうか_2
お分かりになるだろうか_3
楞伽塔
『りょうがとう』と読ませるのだろう。釈宗演老師の窟号は楞伽窟(りょうがくつ)である。その老師の逝去を悼んでの石塔なのかな。
楞伽塔
釈宗演老師と歌人佐佐木信綱の歌碑
何方も何と書いてあるのかあらかじめ知っていても、なお読み下すことができない。情けない話だ。さらに、何方も禅問答のようで、浅学菲才の私にはわかりかねる。う~~ん。
何度も目を凝らして読んでみた。『古(草書体)ゝろより屋がて心に伝ふれば さく花となり鳴く(啼く?)鳥(当里?)となる』と書かれてあるのかな。検索してみると、『大切な教えを人から人へ、心から心へ伝えていけば、それは必ず花となって開くであろう、鳴く鳥となって現れるであろう』という意味合いだとか。う~~ん。
釈宗演
心よりやがてこころに伝ふればさく花となり鳴く鳥となる
佐佐木信綱
雲に問へはくもはもたせり風にとへはかせなかれ去るいかにせましや

釈宗演老師と歌人佐佐木信綱の歌碑
釈宗演墓
何とも中途半端な撮り方をしてしまった。仏像の前に墓があるのだ。
釈宗演墓

 

次大夫堀公園民家園(6)

旧安藤家住宅主屋(2)
室内の様子
役向きの部屋
名主の役目を果たしていた部屋だろう。当然のことながら畳の部屋だ。
役向きの部屋_1
役向きの部屋_2
役向きの部屋_3
役向きの部屋_4
役向きの部屋_5
役向きの部屋_6
役向きの部屋_7
役向きの部屋_8
明治13年の書類か。北多摩郡大蔵村とある。北多摩郡だったのか。
役向きの部屋_9
和ろうそくの時代だったんだ
役向きの部屋_10
その他の部屋
こちらが、家人の生活空間だったはずだ。当主が役務執行中は声を潜めて暮らしていたのかな。
その他の部屋_1
その他の部屋_2
その他の部屋_3
その他の部屋_4
その他の部屋_5
その他の部屋_6
その他の部屋_7
竈はいったいいくつあったのだろう。土間に張り出した板張りの場所にある小さな竈は来客のないとき用かな。
その他の部屋_8
その他の部屋_9
流しはこんな風だったか
その他の部屋_10
土間および軒下
ちょっとした収穫後の作業やお祝い事の炊き出しなど楽にできる広さだ。それくらいの器量が必要だったのだろう。
その他の部屋_11
その他の部屋_12
その他の部屋_13
その他の部屋_14
その他の部屋_15
その他の部屋_16
その他の部屋_17
その他の部屋_18
その他の部屋_19
その他の部屋_20
その他の部屋_21
その他の部屋_22
その他の部屋_23

旧秋山家住宅土蔵
なかなか美しいフォルムだなあ。凄い外観だが、桁行3間(5.4m)、梁間2間(3.6m)だから、それほど大きい穀蔵ではない。
旧秋山家住宅土蔵_1
旧秋山家住宅土蔵_2
旧秋山家住宅土蔵_3
旧秋山家住宅土蔵_4
旧秋山家住宅土蔵_5
旧秋山家住宅土蔵_6
旧秋山家住宅土蔵_7

世田谷区指定有形文化財(建造物)
昭和56年7月22日指定
江戸時代
桁行3間(5.4m)、梁間2間(3.6m)、土蔵造、切妻造、茅葺
この土蔵は深沢の秋山家屋敷の入口脇に建っていた外倉で、穀倉として使用されていました。内部に文政13年(1830)の祈祷札が打ち付けられており、この頃に建築されたと推定されています。
穀倉であったため、害虫や湿気の対策として、内部の床と壁には板を張っています。
園内では名主屋敷の外倉として復元されています。


以上で、『次大夫堀公園民家園』シリーズは終了です。最後までご覧いただきありがとうございました。

 

次大夫堀公園民家園(5)

旧安藤家住宅主屋(1)
表門付近
名主の役宅であったため、このような高札が掲げられていたのか。こういうのを目にすると、反抗心を煽り立てたり、迂闊な言動したりすることにブレーキがかかる感じ。それを狙ってのことなのだろう。
表門付近_1
表門付近_2
表門付近_3
表門付近_4
表門付近_5
表門付近_6
表門付近_7
主屋全景ほか
フルサイズ換算24ミリでは収まらず、魚眼擬きでやっとおさまった。かなり大きな屋敷だった。
主屋全景ほか_1
主屋全景ほか_2
ずっと見てきたグループ活動がここでも行われていた
主屋全景ほか_3
主屋全景ほか_4
主屋全景ほか_5
式台付近
立派な構えだ。私もここから入らせてもらった。
式台付近_1
式台付近_2
式台付近_3
式台付近_4

世田谷区指定有形文化財(建造物)
平成5年4月30日指定
江戸時代
桁行13間(24.0m)、梁間5間(9.2m)、寄棟造、茅葺
附 内倉 明治28年9月、表門
この主屋は旧大蔵村名主であった安藤家の屋敷内に建っていたものです。安藤家では天保5年(1834)頃に村名主となり、主屋を建てたと推定されます。
間取りは、農家と名主の役宅の機能を兼備えているため、式台が付く多室型となっています。
民家園では、主屋から続く内倉や糸場、役宅から眺める庭、表門など、かつての安藤家の屋敷配置をできる限り再現しています。

 

九品仏浄真寺(2)

総門を潜った右手
どの像も製作されてからの年月はそれほど古くはないもののようだった。境内を若干整備したので、この場所に集められてきたのかな。
六地蔵などがあった。たぶん、御道具講中と書かれている。
総門を潜った右手_1
総門を潜った右手_2
他の石像など
総門を潜った右手_3
総門を潜った右手_4
総門を潜った右手_5
総門を潜った右手_6
閻魔堂
小さい頃、散々聞かされて、脅かされた思い出があるなあ。今見ると、恐ろしいというよりかはユーモラスに見えてしまう。いつからこんなすれた性格になってしまったのだろうか。(^_^;)
ここを通過できなければ、お面被りの世界まで行きようもない。成仏のためのクリティカル・ポイントなんだろう。
閻魔堂_1
閻魔大王
今のご時世だと、パワハラの極みと逆上されそうだ。尤も、それだけの元気があれば、現世に逆戻りなのだろうが。
閻魔堂_2
脱衣婆
正しくは葬頭河婆(そうずかばあ)というのか。なんとなく身ぐるみはがされそうな気がしてしまうから不思議だ。
閻魔堂_3
山門前
総門からの道かもしくは東門からの道が合流して、山門に向かうあたり。元の奥澤城に敷地跡にあるので、道は何度か折れ曲がる感じになる。野鳥が観察できた。あとで、写真を撮ろうかと思ったときには、エナガなどは飛んで行ってしまい、あまり有難くない鳥さんばかりになっていた。
木立が美しい
山門前_1
山門前_2
寺務所もあった
山門前_3
山門前_4
山門
強烈な逆光だった。下手糞な写真で申し訳ない。手入れが良いのか、かなり新しい建物のように見える。しかしながら、寛政5年(1793)5月に上棟された225年前の建物だ。世田谷区では現存する唯一の楼門建築なのだそうだ。別名は『紫雲楼』。
楼上の扉が、当然のことながら閉まっていた。開いていなければ阿弥陀如来像と二十五菩薩像とは見ることができない。
山門_1
山門_2
山門_3
山門_4
山門_5
楼門の階上には阿弥陀如来像と二十五菩薩像と風神・雷神像などが鎮座している。通常は見られないものだが、2014年のお面被りの当日に記録した写真があったので、これをも見ていただく。
山門_6
山門_7
山門_8
世田谷区指定有形文化財(建造物)
平成元年3月17日指定
所在地 奥沢7-41-3  内部非公開
江戸時代
桁行3間(8.1m) 梁間2間(4.2m)、入母屋造、銅板葺
附 棟札 寛政5年5月、棟札 地形建方寄進
この仁王門は本堂の南東側に建てられています。寛政5年(1793)5月に上棟された、区内で唯一の楼門(ろうもん)建築です。上層の外回りには高欄(こうらん)付きの縁がめぐります。下層正面の左右には金剛力士像、上層内部には阿弥陀如来像と二十五菩薩像が安置されています。

 

九品仏浄真寺(1)

浄真寺の地は、もともとは世田谷吉良氏系の奥沢城であった。小田原征伐後、廃城となったが、寛文5年(1665年)に当地の名主七左衛門が寺地として貰い受け、延宝6年(1678年)、珂碩(かせき)が同地に浄真寺を開山した。wikipediaの受け売りだが、西暦の誤記があったので、訂正してある。
基本的に江戸時代は、新たに寺院を創設することは禁じられていた。それなのに、どういう話し合いがもたれたのか、増上寺などと同じ浄土宗の寺院ができたのだ。周辺一帯は、日蓮宗の不受不施派の強固な地盤とする地域であり、上の人たちの話し合いとは別に、下々の人たちの手打ちのための話し合いも持たれたようである。
今を時めく自由が丘駅もその昔は、『九品仏駅』だったのだ。
九品仏駅から始まる参道
駅の出口は踏切の中
左右どちらに行くにせよ踏切を渡る必要がある。こういう駅は珍しいと思う。如何だろうか?向かって右側すぐが参道だ。
駅の出口は踏切の中
参道に入る
ほぼ駅前から参道が始まる
参道に入る_1
参道はこんな風。並木が優しく迎えてくれる。
参道に入る_2
参道に入る_3
いつもびっくりさせられる石の柱。『禁銃獵 警視廳』と書かれてある。こんな住宅地のど真ん中で猟銃がぶっ放されていた時期があったんだ。当時の獲物は鴨だったのかな?明治32年頃は禁止された直後だったのかな?それとは別に、やくざと寺とのいざこざが勃発しての発砲事件もあったんだっけ。
参道に入る_4
参道に入る_5
石の塔が立ち並ぶ
こんな風に並んでいた
石の塔が立ち並ぶ_1
石の塔が立ち並ぶ_2
左端は『三界萬霊』の塔
石の塔が立ち並ぶ3_
これは三つの世界、すべての精霊に対して供養することの大切さを示すものです。三界とは、無色界、色界、欲界の三つをさします。
ひときわ高い塔。庚申塔のようだ。何故、こんなに細長くしたのかなあ。
石の塔が立ち並ぶ_4
真ん中も庚申塔。こちらはごく普通の庚申塔だ
石の塔が立ち並ぶ_5
総門
かなり立派な総門だ。『般舟場』の扁額がかかっている。意味合いについては、説明写真の記載を見ていただきたい。
総門_1
総門_2
総門_3
総門_4
内側から見るとこんなふう
総門_5
これは何の意味があるのかな?
総門_6
こちらは東門
こちらは東門_1
こちらは東門_2
扁額だが、私には読むことができない。『釈迦如来仏法…』と書かれてあるのかなあ。
こちらは東門_3

 

次大夫堀公園民家園(4)

旧加藤家住宅主屋
世田谷のごく普通に存在しただろう中規模以上の農家と思われる。もとの所在場所もすぐ近くだったようだ。その辺りの昔の様子を想定した展示内容になっている。が、実際は、趣味のグループの作業場所かな。
外観
ちょうど茅葺き屋根の葺き替え中だった。見た感じ一部、必要箇所のみの葺き替えのように見えたが、どうだったのだろうか?この作業も自分たちの手で行っているようだった。主に週末に行うのかな?
主屋
主屋_1
主屋_2
主屋_3
納屋
こちらは移築したものか、雰囲気に合わせて増設したものか不明。いわゆる納屋だろう。軒先には、収穫直後と思われる大麦が干してあった。
納屋_1
納屋_2
焙炉(ほいろ)もあった。お茶も自家製茶だったようだ。
納屋_3
納屋_4
家屋内部
見ての通り、趣味のグループの活動場所になっている。我々がそれを見させてもらうことができるのは当然のことだ。
昔の味噌部屋かな
こちらは藍染めの染料が入っている壺。『藍染めの会』が使用している。
昔の味噌部屋かな_1
昔の味噌部屋かな_2
昔の味噌部屋かな_3
土間
竈があるのは当然だろうが、その隣に石臼がある。豆腐でも作っていたのかなあ。
土間_1
立派な杵と臼も残されてあった
土間_2
炊飯用の竈以外に、大鍋で湯を沸かすための大型の竈があった。もち米をふかしたりしたのかなあ。
土間_3
居間
養蚕に取り組んでいた。お蚕さんは旺盛な食欲を見せていた。何をつまみ出しているのかと聞いたら、萎びた桑の葉をつまみ出しているとのことだった。
居間_1
居間_2
居間_3
居間_4
居間_5
屋外
屋根葺きの見本
屋根葺きのグループの手になるものかな?
屋外_1
屋外_2
こちらは土壁の見本
やはり担当のグループがあるようだ。
屋外_3

世田谷区指定有形文化財(建造物)
昭和56年5月20日指定
江戸時代
桁行7間(12.7m)、梁間4.5間(8.0m)、寄棟造、茅葺
物置付、間口1.5間(2.7m)、奥行4間(7.2m)

喜多見にあった加藤家の屋敷から移築した主屋は、江戸時代末の安政2年(1855)以前に建てられたと推定されています。間取りは整形四ッ間型といい、俗に田の字型とも呼ばれる形式で、関東地方では江戸時代後期の農家に一般的に見られた間取りです。
加藤家では明治期に養蚕を盛んに行なっていたので、主屋にはスノコ天井や煙出し櫓など、養蚕のための様々な工夫が見られるのも特徴の一つです。

 

江戸東京たてもの園に行った(3)

会水庵
宗徧流の茶人、山岸宗住(会水)が建てた三畳台目と勝手とからなる茶室。高橋是清邸の並びにある。そちらの付属茶室という趣にしてあるように見えるが、西川家別邸に付属茶室という趣にしてある。アクセスが許されている範囲での撮影なので、多少見難いかもしれない。宗徧流での名前は最初に『宗』の字がつく。私の祖母もそうだった。宇野信夫氏の名前もよく聞く名前だ。最初にどこで見聞きしたのかと考えたが、おそらく歌舞伎のプログラムで見かけたのが最初かな。
黄色い壁面部分のみが会水庵。母屋に見立てたのが、右側に写っている西川家別邸である。
会水庵_1
左側が三畳台目。右手前側が勝手。
会水庵_2
三畳台目
会水庵_3
躙り口から内部を見た。案外広く見える。
会水庵_4
腰掛。招待客はここで席主から声がかかるのを待ったのだろう。後出する西川家別邸の画は、この辺の様子を描いたものだろう。
会水庵_5
残念ながら障子が締め切られていた。会水庵と書かれてあった。
会水庵_6
西川家別邸との接続箇所
会水庵_7
宗徧流の茶人、山岸宗住(会水)が建てた茶室です。
1957年(昭和32)、劇作家の宇野信夫が買い取り、西荻窪に移築しました。本畳三枚と台目畳一枚からなる三畳台目の小間の茶室です。


西川家別邸
地元の実業家西川伊左衛門が隠居所及び接客用に建てた別邸だそうだ。見に行ったときは、これから耐震工事に取り掛かる準備作業中のようで、やや無粋な赤いものなどが目につくが、無視していただきたい。
内部は完全な和風の家屋だった。

ほぼ全景
なんだかソフトバンクのCMみたいで気に入らない響きだが、ほぼ全景だ。魚眼擬きを持参したのを思い出したが、ちょっとへばっていて、使用することなしに手抜きをした。玄関を挟んで向かって左側(西側)が客間で接客空間、右側(東側)が茶の間などの居住空間となっているようだ。
西川家別邸_1
西川家別邸_2
西川家別邸_3
もとは赤坂と昭島市とまったく違う場所に所在したが、今は高橋是清邸と隣接している。しかし、あのような凄い邸宅が隣家だったら、いつも卑下してしまいそうだ。
西川家別邸_4
西川家別邸_5
玄関を入ったあたり
西川家別邸_6
西川家別邸_7
すぐ右隣の部屋
簡単に応接するときに多用した部屋だそうだ
西川家別邸_8
『茶庭』という作品
会水庵での様子を描いた作品の複製だそうだ。こういう作品の複製まで用意するとは、お役所にしては芸が細かい。
西川家別邸_9
西川家別邸_10
西川家別邸_11
その他の部屋
薄暗かった。やむを得ず露出補正をしたのだが、やりすぎだった。大失敗。
西川家別邸_12
西川家別邸_13
西川家別邸_14
西川家別邸_15
西川家別邸_16
西川家別邸_17
庭の夏椿
西川家別邸_18
西川家別邸_19
西川家別邸_20
建築年代1922年(大正11)
所在地昭島市中神町二丁目
北多摩屈指の製糸会社を設立した実業家西川伊左衛門が隠居所及び接客用に建てたものです。
多摩地域の養蚕・製糸業が最盛期をむかえた時期(大正期から昭和初期)に建てられ、 よく吟味された部材が使われています。

 

北鎌倉で花を愛でた(7)

東慶寺(2)
廃仏毀釈の嵐の中で、東慶寺も厳しい道を歩まざるを得なかった。その当時の千姫が寄進した仏殿が、三渓園に引き取られていったのも、仕方がないことだったのかもしれない。そうした中で、明治38年(1905)に釈宗演禅師が入寺、中興開山となり、新たに禅寺としての歩みを始めたのだ。師の高徳ゆえ、門下には居士、哲学者、政財界人多くあつまったようだ。鈴木大拙もその一人。のちに裏山に「松ヶ岡文庫」を設立、世界的禅文化の発展の拠点ともなった。あの夏目漱石も参禅しているのだ。
ということで寺勢を盛り返していった。

本堂
私が見に行ったときは、本堂裏のイワガラミの特別公開中だった。特に余分なお金をとられるわけではなく、有難く見せていただいた。前述したように、いろいろ苦難の歴史があり、今日、我々が目にする本堂はごく新しいものになっている。
本堂_1
本堂_2
本堂_3
手前の石塔
こちらは何の石塔なのか私にはわからない。
手前の石塔_1
手前の石塔_2
植村宗光和尚の宗光塔
釈宗演老師に見いだされ、厳しい修行を積み、奥義を究めようとした植村宗光だったが、日露戦争に応召従軍し、戦死した。その死を深く悼んだ老師が、自室の前に宗光の墓塔を建てたのだそうだ。偉大なる師にそこまで期待されていたとは、…。相当な逸材だったのだろう。
植村宗光和尚の宗光塔_1
植村宗光和尚の宗光塔_2
イワガラミ
アジサイ科イワガラミ属の落葉つる性木本。見た目には普通のアジサイのように見えるかもしれない。が、よく見れば、岩肌に絡み付いているのだ。珍しいものを見たものだ。
イワガラミ_1
イワガラミ_2
イワガラミ_3
イワガラミ_4
イワガラミ_5
イワガラミ_6
イワガラミ_7
イワガラミ_8
イワガラミ_9
イワガラミ_10
イワガラミ_11
イワガラミ_12
名前のとおり、幹や枝から気根を出して高木や岩崖に付着し、絡みながら這い登り、高さ10~15mくらいになる。山地の道路法面を上から這い下がる場合もある。葉には葉柄があり、枝に対生し、形は広卵形で10cmほどで、葉の先端は尖り縁の鋸歯はまばらになる。花期は6月~7月で、小さなややクリーム色の両性花が集まる花序のまわりに、白色の装飾花が縁どる。装飾花は花弁状の萼片が1枚しかない。
書院
関東大震災で倒壊したのち、建て替えられたもの。話が横道に逸れるが、以前は1634年(寛永11年)の徳川忠長屋敷から移築された建物であった。この徳川忠長公をご存知だろうか。江戸時代前期の大名。極位極官が従二位大納言で、領地が主に駿河国だったことから、通称は駿河大納言。徳川家康の孫にあたる人物である。文句ない生まれなのに、後世の人は殆ど知らない人物。
神奈川県鎌倉市扇ヶ谷にある薬王寺に徳川忠長公の奥方(織田信長の孫・織田信良の娘)松孝院殿妙行日久が功徳主となって建立した供養塔が残っている。
その薬王寺には、かつて会津藩をおさめていた蒲生家と磐城平藩をおさめていた内藤家とが縁戚を結んだのだが、嗣子を成すことなくお家断絶になってしまった。その残された四国の松山城主蒲生忠知公の奥方と息女のお墓がある。さらに話が逸れるが、磐城平藩をおさめ、のち日向国延岡藩をおさめていた内藤家の墓所は江戸ではなく、鎌倉の光明寺にある。

書院_1
書院_2
大正12(1923)年9月1日の関東大震災で倒壊した書院が、復興したのは大正14年末のこと。工事費は当時の金額で約2万円。格天井には十六菊花紋を描いて、第5世用堂尼以来の御所寺の面影を残している。(非公開)
金仏
それほど大きくはない仏像が鎮座ましましている。時宗の眠る廟の方角(圓覚寺佛日庵)を捉えて瞑想しているそうだ。北条時宗の正室覚山尼が開山と伝えられる寺院だから、当然のことなのだろう。
金仏
松ヶ岡宝蔵
東慶寺伝来の寺宝を展示する宝物館「松ヶ岡宝蔵」。ここだけは別途入館料300円が必要。恥ずかしながら、館内を見たことがない。
建長寺にもあったが、こちらにもさざれ石があった。画面左下にある。
松ヶ岡宝蔵
東慶寺伝来の寺宝を展示する宝物館「松ヶ岡宝蔵」。ここで衆目を集めているのは、縁切寺の歴史を伝える寺法書や呼び出し状、駈け込みの実例を記録した松ヶ岡日記。

 

北鎌倉で花を愛でた(6)

東慶寺(1)
10分ほど歩き、東慶寺に到着した。縁切寺として名高い長い華麗なる歴史を持つ寺院だ。現在は花の寺として有名で、梅、桜、花菖蒲、紫陽花、岩たばこ、岩がらみ、秋明菊など四季折々の花が咲く様を愛でることができる。この時期は、ダイジェストでも取り上げた岩たばこ、岩がらみが咲き出していた。
寺域に入った
明月院と違って、訪問客の年齢層がかなり上の感じかな。その分、落ち着いてみることができるかもしれない。
寺域に入った_1
寺域に入った_2
寺域に入った_3
寺域に入った_4
寺域に入った_5
山門を潜ったあたり
いきなりお花畑の様相を呈している。心和む感じだ。
ホタルブクロ
ホタルブクロ
カルミア
ちょっと盛りが過ぎてしまったかなあ。何色が主流なのかなあ。
カルミア_1
カルミア_2
石仏
かなり風化した石仏像だ。でも、味わいのある感じが良い。
石塔_1
石塔_2
紫陽花の仲間
例年通り、先頭を切って開花したのは、クロヒメアジサイだったそうだ。
紫陽花の仲間_1
紫陽花の仲間_2
紫陽花の仲間_3
木瓜
木瓜
文学碑
下記2作品のほかに、釈宗演と佐佐木信綱との碑文が一つの石に刻まれた作品を撮ったが、夏目漱石参禅100年記念碑や水原秋桜子の歌碑は見落としてしまったようだ。
女流作家田村俊子の記念碑
この女作者はいつも おしろひをつけてゐる この女の書くものは 大がひおしろひの中から うまれてくるのである
女流作家田村俊子の記念碑
四賀光子歌碑
流らふる大悲の海に よばふこゑ時をへだてて なほたしかなり
四賀光子歌碑
鐘楼
鐘楼_1
鐘楼_2
参道の様子
年配客が多い感じかな
参道の様子

 

北鎌倉で花を愛でた(5)

明月院(5)
思いがけず長く続けることになった明月院の記事。今だったら、おそらく花菖蒲の開花の時期でもあり、本堂裏の庭園が公開されているかもしれない。先の週末などは、ものすごい人出かもしれない。思い入れはあるが、今回までとしたい。
茶所月笑軒
お抹茶と菓子とをいただける。男一人では何となく入りにくく、いつもパスしている。
茶所月笑軒
北条時頼廟
五代執権北条時頼の廟所。37歳での死か。平均寿命が今のように長くはない時代でも、かなりの若死にだったのでは。執権を辞して出家したのは30歳だったのか。う~~ん。
北条時頼廟_1
北条時頼廟_2
北条時頼墓(宝篋印塔)
廟所の奥の宝篋印塔は時頼の墓と伝えられている。確かに宝篋印塔だが、随分小さく質素なものだ。
北条時頼墓(宝篋印塔)_1
北条時頼墓(宝篋印塔)_2
北条時頼墓(宝篋印塔)_3
かつて、この辺りには時頼が建てた最明寺があった。
『吾妻鏡』は、1256年(康元元年)、時頼が出家の準備のために建立した寺と記している。
時頼は、この年の11月22日に執権を辞し、翌日には、最明寺で蘭渓道隆を戒師として出家する(法名は「覚了房道崇」)。
以後、最明寺で隠居生活を送り、「最明寺入道」と呼ばれていた。
出家からちょうど7年後の1263年(弘長3年)11月22日、最明寺で没(37歳)。
最明寺は時頼の死後廃絶するが、子の北条時宗が最明寺を前身とする禅興寺を創建し(開山は蘭渓道隆)、明月院は禅興寺の支院の首位に置かれていた。

花壇
色とりどりの季節の花が美しかった
花壇_1
花壇_2
花壇_3
花壇_4
花壇_5
花壇_6
花壇_7
花壇_8
花壇_9
花壇_10

花壇_11
花壇_12
花壇_13
花壇_14
花壇_15
花壇_16
花壇_17
花壇_18
花壇_19
花壇_20

花壇_21
花壇_22
花壇_23
花壇_24
花壇_25
花壇_26
花壇_27
花壇_28
花壇_29
花壇_30

明月院を後にして、東慶寺に向かう

 

江戸東京たてもの園に行った(2)

高橋是清邸
明治から昭和のはじめにかけて日本の政治を担った高橋是清の住まいの主屋部分。総栂普請で、洋間の床は寄木張りになっている贅をつくした住まい。2階は是清の書斎や寝室として使われ、1936年(昭和11)の2・26事件の現場になった。
外観
どこから見ても非の打ちどころのない素晴らしい建物。男子一生の思いの丈を籠めて、建てた建物なのだろう。主屋部分は、明治35年に建築された。
外観_1
外観_2
外観_3
一番好きな角度かなあ
外観_4
外観_5
建物内部
外観ばかりでなく、建物内部もしっかりお金をかけた建物だったようだ。素晴らしい。
一階部分
和風建築にガラスがはめ込まれた住宅としては初期のものであり、歪みのあるガラスが残っている。そこから、庭を眺めて楽しんでいたと思われる。さりげなく装っているが、当時の超モダンな家屋だったのだろう。
建物内部_一階部分_1
建物内部_一階部分_2
建物内部_一階部分_3
建物内部_一階部分_4
建物内部_一階部分_5
建物内部_一階部分_6
二階部分
2間を寝室と書斎として使用していたそうだ。その日も同じことだった。早朝、なだれ込んできた軍人たちに暗殺されるまでは。
係員のいる間が書斎で、私が居る間が寝室だったのだろう。その寝室で射殺された。(合掌)

建物内部_二階部分_1
書斎側から寝室側を見た様子
建物内部_二階部分_2
寝室
建物内部_二階部分_3
書斎
建物内部_二階部分_4
『不忘念』…座右の銘かな。和魂洋才の人だったようだ。
建物内部_二階部分_5
建物内部_二階部分_6
建物内部_二階部分_7
ひげだるまさんの在りし日
建物内部_二階部分_8
書斎の様子
建物内部_二階部分_9
何というモダンな廊下だろうか
建物内部_二階部分_10
建物内部_二階部分_11

どうでもよいこと
『☆オリジナルの高校数学の問題を掲載していきます☆』(http://mm2445.blog.fc2.com/)という面白い数学問題出題専門のブログがある。暫く前から私も挑戦している。当然のことだが、数学頭のない私には逆立ちしても解けない問題が出されることもある。そういう時は、潔く諦め、次の解けそうな問題が出されるのを待つことにしている。
この5月締め切り分で初めて望むポジションに立つことができた。ずっと狙っていたが果たせずにいて、漸くの事だった。最初解いてみようかと思い立った時は、悔しいことながら、手も足も出なかった。今もその状況は大して変わらない。
易しい問題が出題されることもあるので、興味のある方は挑戦されてみたら如何だろうか。

 

江戸東京たてもの園に行った(1)

梅雨入りした直後の晴れの日。行くなら、この日しかないとばかりに意気込んで出かけた。

小金井公園西門から入る
途中の道はこんなふう
小金井公園西門から入る_1
小金井公園西門から入る_2
江戸時代の茅葺き屋根の古民家が見えてきた。この建物園には、こうした古民家も数件あるが、明治以降のユニークな建物も数多く残されている。
小金井公園西門から入る_3

旧光華殿
現在は、江戸東京たてもの園のビジターセンターになっている。内部は、江戸東京たてもの園のビジターセンターとしての機能を担保すべく、改装されている。78年前の建物の内部としては、かなり近代的なものになっている。元の姿は外観のみにとどめるということなのだろう。
旧光華殿_1
旧光華殿_2
旧光華殿_3
昭和15年(1940年)に紀元二千六百年記念式典の会場として皇居外苑に造営。式典終了後の昭和16年8月に当地へ移築された。

旧自証院霊屋
幕府の勢いが隆盛を極めた3代将軍徳川家光の側室だった自証院。お振りの方の霊屋だ。男色傾向があった家光に何とか子供を授からせようと。春日局ほかが躍起になっていたようだ。そういう意味合いがあって側室に抜擢されたお振りの方だったが、家光にとっての初子である長女・千代姫を産むものの、その後体調を崩し、3年後の寛永17年(1640年)8月21日に早世した。
将軍側室の霊屋が残る例はほかに存在するのか寡聞にして知らない。しかしながら、この霊屋は見るものを間違いなく驚かせるほどの華やかな霊廟建築だ。尾張藩主徳川光友の正室千代姫が、その母お振の方(三代将軍徳川家光の側室)を供養するために建立した霊屋だそうだ。う~~ん。

旧自証院霊屋_1
旧自証院霊屋_2
旧自証院霊屋_3
旧自証院霊屋_4
旧自証院霊屋_5
旧自証院霊屋_6
旧自証院霊屋 - 江戸初期の慶安5年(1652年)に建てられた、幕府大棟梁甲良宗賀による華やかな霊廟建築。3代将軍徳川家光の側室自証院(お振りの方、石田三成の曾孫)を祀ったもの。東京都指定有形文化財(建造物)。
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寛永14年(1637年)閏3月5日、家光にとって初めての子である長女・千代姫を産む。その後体調を崩し、3年後の寛永17年(1640年)8月21日に死去した。法名は自証院殿光山暁桂大姉(じしょういんでんこうざんぎょうけいだいし)。榎町の法常寺に葬られた後、慶安5年(1652年)富久町の自證院に建てられた霊廟に改葬された。現在、この霊廟は「旧自証院霊屋」として江戸東京たてもの園内に移築保存されている。

宝篋印塔ほか
旧自証院霊屋の傍に置くしかなかったのだろう。他に適当な場所はなさそうだ。
宝篋印塔
文化8年(1811年)のもの。川越市に所在したもの。
宝篋印塔
五輪塔
いずれも相当に古そうだ
五輪塔_1
五輪塔_2
五輪塔_3
寛永寺灯篭
そうではないかと思った予想が当たった
寛永寺灯篭_1
寛永寺灯篭_2

高橋是清邸
二・二六事件で暗殺されたあの高橋是清の邸宅跡だ。次回詳しく取り上げる。
高橋是清邸

 

北鎌倉で花を愛でた(4)

明月院(3)
木瓜
実がなる季節に差し掛かっていた。ボケ酒なるものもあるそうだ。花梨酒はつくったことがあるが、ボケ酒はないなあ。
木瓜_1
木瓜_2
木瓜_3
木瓜_4
食べられなくてもリキュールに最適
春に赤やピンク色の美しい花をつけ、庭木や盆栽に重用されているボケ。5~10月頃にかけて直径5~6cmの実をつけます。果肉は硬く酸味と渋味が強いので 生食はできませんが、リキュールには最適の素材です。
シドミとかノボケといわれているクサボケは9~10月が旬で、漬け込みもこの時期が 最適です。ボケはクエン酸、リンゴ酸などの有機酸の他に、蔗糖、果糖なども含んで おり、疲労回復、整腸などに効果があるといわれています。

シャクナゲかな
そう思ったのだが、今一つ自信がない
シャクナゲかな
ここからはお待ちかねのアジサイたち
めぼしいものだけを撮ってみた
ここからはお待ちかねのアジサイたち_1
ここからはお待ちかねのアジサイたち_2
ここからはお待ちかねのアジサイたち_3
ここからはお待ちかねのアジサイたち_4
ここからはお待ちかねのアジサイたち_5
ここからはお待ちかねのアジサイたち_6
ここからはお待ちかねのアジサイたち_7
ここからはお待ちかねのアジサイたち_8
ここからはお待ちかねのアジサイたち_9
ここからはお待ちかねのアジサイたち_10
ここからはお待ちかねのアジサイたち_11
ここからはお待ちかねのアジサイたち_12
ここからはお待ちかねのアジサイたち_13
ここからはお待ちかねのアジサイたち_14
ここからはお待ちかねのアジサイたち_15
ここからはお待ちかねのアジサイたち_16
ここからはお待ちかねのアジサイたち_17
フォトジーニックな木橋
モデルにしたいと思う後ろ姿は、あいにくなかった。残念。
フォトジーニックな木橋_1
フォトジーニックな木橋_2
フォトジーニックな木橋_3

 

上野動物園に行った(7)

6月5日から母子パンダを見るための整理券による方式が廃止され、行列順に並んでみる方式に改められたようだ。これにより、週末はどのくらい長蛇の行列になるのだろうか?開園前からものすごい列になりそうだ。
とにかくストップウォッチで秒単位であっという間に移動させられるので、ショット数は限られる。枚数は少なめだが、これでも精いっぱいだった。


母パンダ
母パンダのシンシン。暢気に竹を齧っていた。シャンシャンが最近、おっぱい以外のものを口にするようになったそうだが、それまでは母乳onlyだったようで、シンシンの乳首の辺りが変色しているのが、印象的だった。
母パンダ_0
母パンダ_1
母パンダ_2
母パンダ_3
母パンダ_4
母パンダ_5
母パンダ_6
母パンダ_7
母パンダ_8
母パンダ_9
母パンダ_10
母パンダ_11
子パンダ
シンシンは毛艶が少し落ちた感じだが、シャンシャンは毛艶が見事だった。何よりも育ち盛りの勢いを感じる。
子パンダ_0
子パンダ_1
子パンダ_2
子パンダ_3
子パンダ_4
子パンダ_5
子パンダ_6
子パンダ_7

以上で、『上野動物園に行った』のシリーズは終了です。最後までご覧いただきありがとうございました。

 

次大夫堀公園民家園(3)

旧城田家住宅主屋
古民家で二階建てのところはかなりの比率で存在する。だが、実際に二階まで上がらせてくれるケースはごく僅かだ。こちらは、その有難い例だ。半農半商の家だったらしく、なんとなく中に入りやすい感じになっている。店舗設計の勘所を踏まえた家なのかもしれない。
所在地の説明文に『筏道』なんてのがあった。何の道かと思ったが、この土地特有の道だったんだ。

外観はこんな風
外観はこんな風_1
外観はこんな風_2
外観はこんな風_3
魚眼擬きでも撮ってみた。ちょっと暗く撮れるのかなあ。
外観はこんな風_4
外観はこんな風_5
何となくエネルギー切れの兆候があったので、ちょいとエネルギー補給。江戸時代は居酒屋ではなく、酒類の小売店だったのかなあ。
外観はこんな風_6
内部はこんな風
結構しっかりした普請の家屋だ。それなりにお金をかけている感じだった。
内部はこんな風_1
内部はこんな風_2
内部はこんな風_3
内部はこんな風_4
有難いことに囲炉裏には火が入っていた。訳もなくうれしくなる。
内部はこんな風_5
内部はこんな風_6
内部はこんな風_7
内部はこんな風_8
内部はこんな風_9
内部はこんな風_10
内部はこんな風_11
内部はこんな風_12
内部はこんな風_13
内部はこんな風_14
内部はこんな風_15
内部はこんな風_16
魚眼擬きでも撮ってみた
内部はこんな風_17
内部はこんな風_18
内部はこんな風_19
内部はこんな風_20
内部はこんな風_21
内部はこんな風_22
内部はこんな風_23
内部はこんな風_24
内部はこんな風_25
内部はこんな風_26
内部はこんな風_27

この主屋は、喜多見にある城田家の屋敷から移築しました。城田家屋敷は登戸道と筏道が交わる辻にあって、江戸時代末には酒屋を営んでいたといわれています。主屋は弘化3年(1846)以前に建築されたと推定しています。間取りは喰違い四ッ間型ですが、ドマに広く張り出した板床や厨子二階などの店造りが特徴です。
店舗を併用した江戸時代の古民家の特徴を生かして、園内の売店として活用しています。

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筏道
筏道が意味することは、奥多摩方面で木材を伐採し、青梅市辺りで筏を組み、竿一本で操作し多摩川を下り、大田区の六郷、羽田付近で陸揚げして、回漕問屋に納める。この間、三日から四日にかけて下るそうです。
問屋は、そこから更に東京湾を進み本所深川の材木問屋などに納める。
そして、筏で多摩川を下った筏師は、問屋に納め役目を終えて、再び奥多摩の方へと向っていく。その帰りの道を筏道と言います。

 

次大夫堀公園民家園(2)

週末にはボランティアの皆さんにより、大工作業、鍛冶作業など、各種の実演が行われるそうだ。それを見学するのも面白いかもしれない。平日はそういうものがない分、落ち着いてみることができる。この種の文化施設が無料で楽しめるのは有難いことだ。

鍛冶屋
次に目に入ったのが鍛冶屋さん。私がかつて住んでいた地区の一角にも、漁具や農具をつくったり、修理したりする鍛冶屋さんがあった。子供心にその作業を見るのが楽しく、よく眺めていたものだった。小規模な村の鍛冶屋さんは、その後どうなったのだろうか?鉄工所に仕事を奪われていったのだろうか?
鍛冶屋_1
鍛冶屋_2
鍛冶屋_3
鍛冶屋_4
鍛冶屋_5
鍛冶屋_6
鍛冶屋_7
鍛冶屋_8

藍すくも小屋
藍染めの命である『すくも』をつくるための小屋のようだ。実際の作業シーンを見ないとよくわからない。この民家園では、藍を栽培するところから始め、すくもを作り、藍染めを行うまでの一連の工程を行っているようだ。気宇壮大なプロジェクトだ。
藍すくも小屋_1
藍すくも小屋_2
藍すくも小屋_3
藍すくも小屋_4
すくもは、藍の葉を乾燥し、初秋から師走にかけて約100日を費やして発酵~熟成させて作る染料。染め上がりの善し悪しの決め手となるすくもは、藍染めの命といえる。
『藍を知る』にjump

消防小屋と半鐘
世田谷区の資料には、『消防小屋と火の見櫓』と書かれてある。『消防小屋と半鐘』というのが適当であろうと思い、あえて、そういうタイトルにした。世田谷区宇奈根地区にあった詰め所だそうだ。明治や大正のころの消防の仕組みがわかるかな?
消防小屋と半鐘_1
消防小屋と半鐘_2_1
消防小屋と半鐘_2_2
消防小屋と半鐘_3
消防小屋と半鐘_4
消防小屋と半鐘_5
消防小屋と半鐘_6
消防小屋と半鐘_7
右側は『第四纏』だと思うが、左側の方は何と書いてあるのかなあ?
消防小屋と半鐘_8
消防小屋と半鐘_9
消防小屋と半鐘_10

 

上野動物園に行った(6)

上野動物園の鳥さんは今回で最後、残るはパンダさんのみ。今回もルリカケスをも含めて全部屋外で見た強者がおられるかもしれない。

カワセミ
カワセミをうまく撮れたことがない。どうにもくすんだ色にしか撮れない。もう少し遭遇機会を増やさないことには、キレイなものは撮れないかなあ。
カワセミ_1
カワセミ_2
カワセミ_3
カワセミ_4

アカショウビン
アカショウビンが居そうなところにまで足を踏み入れたことがない。餌があると、ホバリングもダイブもしないようだ。こんな狭い空間では無理なのかなあ。まるで飛翔の必要を感じていないかのようだ。小型の鳥さんたちの活発さとは大違いだ。
アカショウビン_1
アカショウビン_2
アカショウビン_3
アカショウビン_4
アカショウビン_5

ビンズイ
恥ずかしながら私にとっては初見の鳥さんだ。一般的な英名はOlive-backed Pipitだそうだが、オリーブ色の背中には見えなかったなあ。
ビンズイ_1
ビンズイ_2
ビンズイ_3
ビンズイ_4

ヤマガラ
ここしばらく見ていないなあ。山の上に上がっていったのかなあ。
ヤマガラ_1
ヤマガラ_2
ヤマガラ_3
ヤマガラ_4
ヤマガラ_5
ヤマガラ_6

シジュウカラ
ヤマガラと同様かな。シジュウカラも、しばらく見ていない。
シジュウカラ_1
シジュウカラ_2
シジュウカラ_3

エナガ
今の季節は冬の時期のようなモフモフした感じは少しなくなるのかな。
エナガ_1
エナガ_2
エナガ_3

メジロ
あの鶯色がかなり濃くなっているぞ。春先以外にはあまり見たことがなく気付かなかった。
メジロ_1
メジロ_2
メジロ_3
メジロ_4
メジロ_5
メジロ_6
メジロ_7

ルリカケス
日本固有種。だが、奄美大島、加計呂麻島など、棲息エリアは限定されるそうだ。屋外で見たことがある人はそんなに多くはないのかなあ。よくわからないが、文化財保護法(文化庁)指定種で、種の保存法(環境省)指定種だそうだ。
ルリカケス_1
ルリカケス_2
ルリカケス_3
ルリカケス_4
ルリカケス_5

 

北鎌倉で花を愛でた(3)

明月院(2)
円窓
悟りの窓。明月院における人気の撮影スポットになっている。撮らずに通り過ぎるのももったいないことで、当然何枚か撮らせていただいた。
円窓_1
円窓_2
後方からはこんな感じ。円窓は女性2人がいるあたりから撮った。なぜ、この時はこんなに空いていたのか、どう考えても不思議だ。
円窓_3
反対側には枯山水の庭が
枯山水の庭_1
枯山水の庭_2
開山堂
1380年頃に建てられた『宗猷堂』が、のちに『開山堂』と呼ばれるようになった。確かに『宗猷堂』の表示が残っている。堂内には、明月院開山の密室守厳の木像と、最明寺・禅興寺・明月院の歴代住持の位牌が祀られている。
開山堂_1
開山堂_2
1050269、83、
瓶ノ井
鎌倉十井の一つ。既に使用不可になっているのかと思っていたが、なんと現役選手のようだ。
瓶ノ井_1
瓶ノ井_2
瓶ノ井_3
明月院やぐら
鎌倉時代の武将たちは、何故、こういうお墓をつくったのだろう。いつも不思議に思う。
明月院やぐら_1
明月院やぐら_2
明月院やぐら_1
明月院やぐら_2
明月院やぐら_3
明月院やぐら_4
明月院やぐら_5
明月院やぐら_6
夏蝋梅
それまで見たことがなかった。やぐらのすぐそばにひっそりと咲いていた。
夏蝋梅_1
夏蝋梅_2
夏蝋梅_3
イワタバコ
明月院の境内にも咲いていたのだった。きちんと見て、写真にも撮ったのに、そのことを失念していた。近づいてみると、かなり美しい花さんだ。
イワタバコ
面白い樹木も
面白い樹木も
花想い地蔵
今の人のセンスかな
花想い地蔵_1
花想い地蔵_3

 

ソレイユの丘でリベンジなるか(1)

前回はやや悪天候でバード・ショーに実施も危ぶまれていた。そこに降ってわいたような大災難。三浦市と横須賀市との広域大停電。バード・ショーどころの騒ぎでなく、何もできないままに退散したのだった。
而して、今回は。梅雨入り前にはなかなかないかなり陽射しの強い一日。ちょっと風が強かったかな。まあ、それでも鳥さんたちなんだから、頑張ってもらわないことには。
ダイジェストでご覧いただく。

ミミズク
ミミズクさんが客席に。風が強かった所為かな。可愛いなあ。ミミズクさんによれば、『後方の爺さんには悪いけど、まったく興味がない』とのことだ。
ミミズク_1
こういうシーンを撮りたかったのに。ことごとく失敗に終わってしまった。フクロウさんたちの飛び方には、いつも追随しきれないなあ。
ミミズク_2
モモアカノスリ
格好はかなりいいなあ。美しい鳥さんだ。ただの鵟(のすり)より数段美形。私のレンズの解像度が気になる。腿が赤い鵟などという和名よりも、ハリス・ホークという名称の方が通りが良いかも。
モモアカノスリ_1
モモアカノスリ_2
モモアカノスリ_3
モモアカノスリ_4
お父さん、頑張ったね。家族に大きな顔ができそうだね。
モモアカノスリ_5
モモアカノスリ_6
ルリコンゴウインコ
南米が原産の比較的大型でカラフルなルリコンゴウインコ。殆どの人が圧倒される風貌だろう。
ルリコンゴウインコ_1
万歳ポーズまでできるんだ。アクア君は進化の真っ最中のようだ。すごいなあ。
ルリコンゴウインコ_2
正式のショーの前
ちょっとした訓練だったのかな
正式のショーの前
亀さん
前回は余りに寒かったので、屋外展示がなかった。この囲いの中に入っても構わないということだったが、こちらが遠慮した。
亀さん
バスを待つ間に荒崎まで歩いた
風光明媚だ。江の島も見えたが、お分かりだろうか?富士山は残念ながら見えなかった。地元在住の老婦人によれば、この時期の夕方の海が焼けてきれいなんだそうだ。太平洋側で見える数少ない海が絡む日の入りなんだなあ。彼女からすれば洟垂れ小僧のごとき私だが、どうして話すことになったのだろう?
バスを待つ間に荒崎まで歩いた_1
バスを待つ間に荒崎まで歩いた_2

 

上野動物園に行った(5)

今回と次回とは、国内で観察できるかもしれない鳥さんを取り上げる。といいながら、私が屋外で見たことがあるのはこのうちの数種類しかない。半分以上を見たといえるくらいになりたいものだ。結構、名前表示プレートを撮ったはずだが、撮り漏らしたものがいくつかある。そういうのに限って、自信をもって名前を上げにくかったりする。m(__)m

コルリ???
コルリ???_1
コルリ???_2
コルリ???_3
コルリ???_4
コルリ???_5

ビンズイ???
ビンズイ???

アオバズク
アオバズク_1
アオバズク_2

カケス
金網を目立たなく撮ることができなくて残念無念
カケス_1
カケス_2

コジュケイ
コジュケイ_1
コジュケイ_2
コジュケイ_3
コジュケイ_4
コジュケイ_5
コジュケイ_6
コジュケイ_7
コジュケイ_8
コジュケイ_9

シメ
見れば見るほど面白い顔相だ。鳥さんだから人相ではなく鳥相とでもいうのだろうか?
シメ_1
シメ_2
シメ_3
シメ_4
シメ_5

クロツグミ
クロツグミ_1
クロツグミ_2
クロツグミ_3
クロツグミ_4
クロツグミ_5
クロツグミ_6
クロツグミ_7
クロツグミ_8
クロツグミ_9
クロツグミ_10
クロツグミ_11
クロツグミ_12

シロハラ
シロハラ_1
シロハラ_2

 

次大夫堀公園民家園(1)

ここのところずっと川崎市立の民家園にばかり行っていた.
民家園の性格上そう展示内容が変わるわけではないので、目先を変えるべく、久しぶりに世田谷区立の次大夫堀公園民家園に行ってみた。


復元された次大夫堀
ほんのわずかだが、用水路が復元されている。野川から取水しているのかと思っていたが、多摩川から直接取水していたようだ。
復元された次大夫堀_1
復元された次大夫堀_2
復元された次大夫堀_3
園内には公園の名の由来になっている「次大夫堀」という用水が流れており(後年復元されたもの)、これは稲毛・川崎領(現在の神奈川県川崎市)の代官であった小泉次大夫の指揮により、慶長2年から15年の歳月をかけて開発された農業用水の一部である。この用水は正式には六郷用水といい、昭和初期までは周辺農地などに使われていたが、現在大半は埋められたか雨水用の下水に転用されている。世田谷区内では次大夫掘公園内に復元された約600mの流路と、丸子川として一部分のみ残っているのみである。
次大夫堀を説明したHPへjump

次大夫堀公園民家園に足を踏み入れる
どこか懐かしい農村の趣がそこにあった。世田谷区は、今でこそかなりひらけた大きな特別区だが、少し前まではかなり農村の雰囲気を残していた地区もあった。そのような雰囲気を感じさせる。火の見櫓があると思っていたが、あったのは梯子と半鐘だけだったんだ。
次大夫堀公園民家園に足を踏み入れる_1
次大夫堀公園民家園に足を踏み入れる_2
次大夫堀公園民家園に足を踏み入れる_3
次大夫堀公園民家園に足を踏み入れる_4

旧谷岡家住宅表門
ここからは、個々の展示物を細かく見ていく。農具の展示は旧谷岡家で使用していたものばかりではなさそうだ。かなり興味深いものだった。
敷地内部から見た様子
旧谷岡家住宅表門_敷地内部から見た様子_1
旧谷岡家住宅表門_敷地内部から見た様子_2
ドジ
向かって左側。いうなれば土間だ。当初は納屋として独立の建物だったのかな。
旧谷岡家住宅表門_敷地内部から見た様子_3
こいつは芋洗いか。なるほどねえ。
旧谷岡家住宅表門_敷地内部から見た様子_3_1
おなじみの唐箕。子供の頃は、いくらでも見かけた。
旧谷岡家住宅表門_敷地内部から見た様子_4
農用扇風機だそうだ。手廻しなんだ。大豆などの殻を吹き飛ばすために使用したのかなあ。わが故郷にはこんな便利なものはなく、風の強い日に作業していたように記憶しているのだが、…。
旧谷岡家住宅表門_敷地内部か5ら見た様子_5
万石通し。こんなものもあったのか。篩で代用していたと思う。世田谷は大規模な農地があったんだなあ。
旧谷岡家住宅表門_敷地内部から見た様子_6
その他の農具
旧谷岡家住宅表門_敷地内部から見た様子_7
あの笠の出来損ないのようなものは何なんだろうか。先に網を仕掛けて魚を捕るための道具だったのかな。今でも多摩川には500万匹以上のアユが遡上するという。このころは、そんなものじゃきかないくらい多く居たのかなあ。
旧谷岡家住宅表門_敷地内部から見た様子_8
旧谷岡家住宅表門_敷地内部から見た様子_9
クラ
向かって右側。穀物や味噌の貯蔵に用いられていたようだ。
旧谷岡家住宅表門_敷地内部から見た様子_10
敷地外部から見た様子
最初から長屋門として作られていたように見える。が、どうやら違うようだ。最初は2棟の小さな建物があり、それの真ん中に潜り口をつけて長屋門の体裁にしたのか。そのころ、農家としての格が上がったのかなあ。
次大夫堀公園民家園に足を踏み入れる_1
旧谷岡家住宅表門_敷地外部から見た様子_2
旧谷岡家住宅表門_敷地外部から見た様子_3
世田谷区指定有形文化財(建造物)
平成3年1月24日指定
江戸時代
桁行6.7間(12.1m)、梁間2間(3.6m)、寄棟造、茅葺
この門は深沢にある谷岡家屋敷から移築しました。長屋門形式の表門で、門の両側には2間四方の部屋が配され、一方が土間の納屋、一方が床板張りの穀倉です。
当初は長屋門ではなく、両脇の部屋は2棟の別々の建物であったと推定しています。天保9年(1838)に、2棟の建物をあわせ、中央に門を付けて長屋門にしたと考えられています。
民家園では正門の脇に配置され、農具などの展示室として活用しています。

 

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7月17日(火)-19日(木)は、京都と大阪とを観光します。この間、記事更新のみとし、私からのアクセスはお休みさせていただきます。大変申し訳ありません。m(_ _)m

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