散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

弘前~田舎館~黒石~弘前一人旅(3)

当初は、真っ先に行くことにしていた禅林街を目指す。吉永小百合さんの大人の休日倶楽部のCMでも話題になったし、いろいろな方の写真で素晴らしい一画だと認識があった。それを見に行くのだから、大きな楽しみだったが、うまく写真が撮れるか不安でもあった。

禅林街(1)
曹洞宗の寺院ばかりが三十三ヶ寺も集まるという。どんな感じなのかと楽しみにしていた。貸自転車の係員の口調は至ってクールだった。『曹洞宗の寺院ばかりなので、みな同じように見えます。藩主の菩提寺だった長勝寺。それと入口すぐにある赤門を潜ったドンヅマリにある宗徳寺。この二つの寺を見、途中の栄螺堂(さざえどう)も見た方が宜しいでしょう』とのことだった。その程度ならわざわざメモをしなくても忘れずに行けそうだ。
赤門
禅林街に入ってすぐのところに、直進するメインの黒門通りと右方向に分かれて33ヵ寺の内12ヵ寺に向かう通りがある。その入り口のところに赤門がある。耕春院(現宗徳寺)構え(下寺通り)と称するのだそうだ。
赤門
青森県歴史観光案内所>弘前市:歴史・観光・見所>赤門(禅林街)記事から
赤門(弘前市・禅林街)概要:禅林街33ヵ寺の内12ヵ寺(耕春山:宗徳寺・萬松山:安盛寺・薬王山:正伝寺・赤門金屋山:永泉寺・長雲山:藤先寺・松種山:正光寺・石流山:川竜院・金竜山:盛雲院・梅峰山:恵林寺・白花山:常源寺・白応山:天津院・貴峰山:月峰院)を構成されていて黒門通りとは対の関係になっています。黒門が長勝寺構え(上寺通り)と言うのに対し赤門では耕春院(現宗徳寺)構え(下寺通り)と称し主に耕春院と同様の宗派が集められたと云われています。又、長勝寺構えが東西に直線的に配置されているのに対し、耕春院構えは枡形に配置する事で南北を現しているとも言われています。現在の門は大正時代に宗徳寺28世棟方唯一師が尽力し広く浄財を集めて建てられたもので、切妻、板葺、高麗門形式、左右板塀附、当初は黒色でしたが昭和37年(1962)に大改修された際、弁柄色に塗り替えられています。傍らには地蔵堂が建立され地蔵尊が祀られています。

宗徳寺
こちらの寺には、石田三成の子・重成の墓が残されてあるそうだ。そんなこととも知らず、漫然と見てきてしまった。痛恨の極み。それどころか、石田三成の娘である辰姫が津軽藩3代藩主信義の生母だったのか。知らないことばかりだ。吉永さんは、宗徳寺では座禅のシーンを撮影したようだ。
楼門
入母屋、鉄板葺、三間一戸、八脚楼門だそうだ。如何にも風雪厳しい津軽の大地に根付いたという感じの風格のある楼門だ。
楼門_1
楼門_2
楼門_3
楼門_4
本堂
手前の一対の柱にちょっと驚いた
本堂_1
本堂_2
青森県歴史観光案内所>弘前市:歴史・観光・見所>宗徳寺(禅林街)記事から
宗徳寺(弘前市)概要:耕春山宗徳寺は弘前藩(藩庁:弘前城)初代藩主となった津軽為信が父親である武田守信の菩提を弔う為開かれたのが始まりと伝えられています。津軽家の系譜としては為信は堀越城主である武田守信(大浦政信の次男)と武田重信の娘との間に生まれ大浦為則の婿養子になったとしていますが、南部家では為信は南部支族であった久慈治義の次男で大浦為則の養子になったとされます。当時の津軽家は南部家からの独立を図った節があり、南部家の血族だと都合が悪かったとされ武田守信という人物も後年の創作、架空の人物説もある程です。宗徳寺はそうした背景から創建されましたが弘前藩から重要視又は重要視している見せる必要があり禅林街の「下寺通り」の最も奥に配しています。以来、身分が高い人達が檀家となり、中でも石田三成の次男石田重成の墓があることで知られています。重成は関ヶ原の戦い後、津軽へ逃れ津軽家によって庇護され、杉山氏と姓を変えて長男吉成は2代藩主津軽信枚の娘を妻に迎え家老職となり代々重臣として津軽家に仕えています。津軽家と石田家とは関係が深く津軽為信の嫡男、信建は豊臣秀頼の小姓として豊臣家に仕え、元服の際の烏帽子親が石田三成だったとされます。又、2代藩主津軽信枚は当初、石田三成の娘である辰姫(豊臣秀吉の正室・高台院:北の政所の養女、3代藩主信義の生母、信枚はその後徳川家康の養女・満天姫を正室とした為に側室に降格)を正室として迎えています。当初は耕春院と称していましたが明治45年(1912)に龍光山宗徳寺(石川県金沢市)が移転合併した為、寺号を耕春山宗徳寺に改称しています。山門は入母屋、鉄板葺、三間一戸、八脚楼門。宗派:曹洞宗。本尊:釈迦如来。

栄螺堂(さざえどう)
飯盛山のさざえ堂とこのお堂と東北には2堂があるのみだそうだ。不思議な二重構造のらせん階段を有する国の重要文化財である会津若松市のさざえ堂に比べると見劣り感は否めない。ではあるが、大飢饉や海難事故ががこれ以上起こらないよう願った信仰心は、本物だったのだろう。
栄螺堂(さざえどう)_1
栄螺堂(さざえどう)_2
栄螺堂(さざえどう)_3
青森県歴史観光案内所>弘前市:歴史・観光・見所>蘭庭院栄螺堂(禅林街)記事から
栄螺堂(弘前市)概要:栄螺堂は禅林街(弘前藩2代藩主津軽信枚が弘前城の南西方向の出丸として領内の曹洞宗寺院を33カ寺を集めた寺町)、「上町通り」に位置し、天保10年(1839)に天明、天保と大飢饉が続き弘前でも多くの餓死者が発生し無縁仏となった死者や、海難で命を失った死者の御霊を弔う為、豪商中田嘉兵衛が発願して建立されたものです。建物は、木造八角二重円堂、宝形造(入口屋根は切妻)、鉄板葺(元こけら葺)、外壁は横板梁、弁柄色仕上げ、棟梁は秋田屋安五郎、平面が八角形で壁に沿って廻り階段になっている事から栄螺堂又は六角堂などと称されています。内部には階段に沿って観音菩薩や三十三観音など多くの仏像が安置され階段を昇降するだけで巡礼したと同じ御利益があるとして信仰の対象にもなりました。このような建築形態、宗教施設は東北では飯盛山さざえ堂(福島県会津若松市)と当御堂だけとされます。蘭庭院栄螺堂は大変貴重なこのとから昭和54年(1979)に弘前市指定有形文化財に指定されています。管理は蘭庭院様が行っています。


禅林街
長勝寺まで続く並木道沿いに建つ、長勝寺を含む33の曹洞宗の寺院が林のように並木道に沿って建っていることから禅林街と呼ばれる。寺院の数から禅林三十三ヶ寺の通称がある。同じ宗派の寺院が、まとまって建っている場所は全国でも稀である。
弘前藩の2代藩主・津軽信枚が、長勝寺を当地に1610年、弘前城築城とともに種里(現:西津軽郡鯵ヶ沢町)から移したことから始まり、当時領内で主になっていた曹洞宗の寺院を当地に集める。また、時の2代藩主・信枚が禅林街を弘前城の南の要にするほか、宗教文化の統一を図ろうとしていたことが背景にある。

 

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