散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

高校野球神奈川県大会準々決勝を見に行った(5)

慶應義塾高校vs桐光学園高校(3)
3回表
一刻も早く追いつきたい慶應。その雰囲気に桐光がやや気圧された感じだったか。
またも正木君の打席が
四球で出塁の宮尾君がバントと内野ゴロの間に2死3塁に進む。正木君は3ゴロでチャンス消滅かと思ったが、3塁手のタイムリーエラーで宮尾君が生還。(慶3-5桐)
またも正木君の打席が_1
またも正木君の打席が_2
またも正木君の打席が_3
スタンドに明るさが戻る
どんなに泥臭い得点でも、絶望の淵から2点差まで詰め寄った。明るい雰囲気に変わった。
スタンドに明るさが戻る_1
スタンドに明るさが戻る_2
スタンドに明るさが戻る_3
スタンドに明るさが戻る_4
スタンドに明るさが戻る_5
スタンドに明るさが戻る_6
4回表
いよいよ追い上げムードが高まる
森野君のチャンス・メイクの一打
一死後、新見君が四球で出塁。森野君がライト線に2塁打を放つ。
森野君のチャンス・メイクの一打
一死二三塁になる
同点、さらに、逆転と、弥が上にも期待は膨らむ。スタンドのボルテージはMAXに。
一死二三塁になる_1
一死二三塁になる_2
続く寺山君がレフトオーバーのタイムリー2点2塁打を放つ
ついに同点に追いつく。完全に押せ押せムードに変わる。(慶5―5桐)
タイムリー2点2塁打_1
タイムリー2点2塁打_2
スタンドも喜びいっぱい
スタンドも喜びいっぱい_1
スタンドも喜びいっぱい_2
ここで桐光が投手交代
冨田君に代わった。かなり緊張した面持ち。
ここで桐光が投手交代
なおも攻め立てたが、それ以上の追加点を奪えず。

という風に試合は展開していった。8回表にはついに8-7と逆転したが、その直後の守備の破たんで万事休す。今年も悔しい負け方で終わってしまった。

慶應 021210110= 8
桐光 50011004X=11


7月29日の決勝戦で、神奈川県代表は横浜高校に決定。おめでとう横浜高校。本大会でも頑張っていただきたい。

 

高校野球神奈川県大会準々決勝を見に行った(4)

慶應義塾高校vs桐光学園高校(2)
2回表
ここで少しでも点差を詰めなくては、試合にならない。何とか1点でも2点でも返しておきたい。
正木君の一打で反撃開始
先ほどの1回裏、内野返球の暴投で大崩れの原因を作った正木君。速やかに挽回すべく、意気に燃えていた。
速やかに挽回すべく、意気に燃えていた正木君
チアリーダも燃える。いや、気力を奮い立たせている。
チアリーダも燃える_1
チアリーダも燃える_2
チアリーダも燃える_3
チアリーダも燃える_4
やったー
右中間への本塁打だ。高校通算50号だそうだ。(慶1-5桐)
やったー_1
ホームランだとはわかっていても、まだ顔が引きつっている。4点差を早く返さなければという意識が強いのだろう。
やったー_2
当然スタンドも湧き上がる
当然スタンドも湧き上がる_1
当然スタンドも湧き上がる_2
相手投手が動揺
綿引君に死球を与える。相当激しくぶつけられたらしく、1塁に歩いてもかなり痛がっていた。
相手投手が動揺_1
相手投手が動揺_2
相手投手が動揺_3
送りバント
送りバント_1
送りバント_2
2死後、寺山君が適時打
1-2塁間を抜け右前へ達するヒット。追い上げ状況になりつつあり、俄然チームのムードが良くなる。(慶2-5桐)
2死後、寺山君が適時打
2回裏
頼りなさげに見える渡部君の続投。案の定、ピンチを招いたものの、運よく無得点に抑える。

 

高校野球神奈川県大会準々決勝を見に行った(3)

慶應義塾高校vs桐光学園高校(1)
桐光学園高校は、楽天イーグルスで活躍する松井裕樹投手の母校。畑違いではあるがサッカーの中村俊輔選手の母校でもある。創立からそう年数が経過しているわけではないが、進学実績もかなり良い文武両道の学校のようだ。
秋季大会では神奈川県大会を制したわが母校慶應義塾高校。だが、その後の各校の伸びしろはすごいものがあり、今大会は第2シードグループの格付けに甘んじた。対する桐光学園高校は、今大会は第1シードグループの格付け。加えて、相性問題があり、母校は残念ながら、かなり不利な状況。
母校ばかりを見た一方的な観戦記に仕立ててみた。
試合前の練習
主砲の正木君
彼がどのくらい活躍するかで勝敗の行方が決まりそうだ
主砲の正木君_1
主砲の正木君_2
主砲の正木君_3
エースの森田君と正捕手の寺山君
5回戦で投げたばかりの森田君。疲れがたまっていそうだ。寺山君のリードが功を奏すか否か。そこが生命線だろう。
エースの森田君と正捕手の寺山君_1
エースの森田君と正捕手の寺山君_2
エースの森田君と正捕手の寺山君_3
エースの森田君と正捕手の寺山君_4
エースの森田君と正捕手の寺山君_5
応援席も準備に余念がない
慶應義塾高校は男子校だが、彼女たちは慶應義塾女子高校の生徒たち。いつものことだが有難いことだ。
応援席も準備に余念がない_1
応援席も準備に余念がない_2
応援席も準備に余念がない_3
試合開始
1回表
背番号20の谷村君が先発とはなめられたかな
と思ったのに、あっけなく3者凡退に抑え込まれた。悪い予感が。
背番号20の谷村君が先発とはなめられたかな_1
背番号20の谷村君が先発とはなめられたかな_2
一生懸命応援するが
一生懸命応援するが_1
一生懸命応援するが_2
凡打ばかり
相手先発の不安を吹き払うのに協力したような、淡白なバッティング。右飛、遊ゴロ、右飛で3者凡退。
凡打ばかり_1
凡打ばかり_2
凡打ばかり_3
1回裏
まったく精彩を欠いた先発の生井君
きわどいコースを悉くボールと判定され、仕方なくストライクを取りにいった球は悉く痛打された。評価がうなぎのぼりだったのに、強力打線の重圧に圧倒されてしまったのだろうか。そのうえ、5番打者桂川君の適時打を処理した正木君の送球が逸れ、2人目の走者までもが生還。苦しい投球の生井君の足を引っ張る。
まったく精彩を欠いた先発の生井君_1
まったく精彩を欠いた先発の生井君_2
まったく精彩を欠いた先発の生井君_3
まったく精彩を欠いた先発の生井君_4
桂川君の適時打
桂川君の適時打_1
桂川君の適時打_2
0回2/3で早くも投手交代
結局、打者一巡5失点で生井君は降板。渡部君がリリーフに。渡部君の投球はまったく箸にも棒にもかからなさそうに見えたが、何とか猛攻を追加点無しに凌ぐ。この段階で球場を後にした人が少なくなかった。(慶0-5桐)
0回2/3で早くも投手交代_1
0回2/3で早くも投手交代_2

 

高校野球神奈川県大会準々決勝を見に行った(2)

第1試合(2)
万波君の打席
堂々たる構え。禿げ頭のおやじの所為で見えなかったが、低めの球を掬い上げた感じのようだった。最初から走者一掃の3塁打か。
万波君の打席_1
万波君の打席_2
万波君の打席_3
万波君の打席_4
万波君の打席_5
万波君の打席_6
万波君の打席_7
万波君の打席_8
途中登板の横浜のエース板川君
7回1イニングのみだが、エース番号を背負う板川君が登板した。横浜が過去2戦、逆転勝ちで勝ち進んできた理由が分かったような気がした。1イニングで被安打2、失点0だった。1死1・3塁と責められたが、何とかしのぎ切った。長いイニングはもちそうにない感じだった。投手力は絶対という感じではないのだ。腰が痛いのだろうか。投球にキレを感じなかった。
途中登板の横浜のエース板川君_1
途中登板の横浜のエース板川君_2
途中登板の横浜のエース板川君_3
途中登板の横浜のエース板川君_4
途中登板の横浜のエース板川君_5
途中登板の横浜のエース板川君_6
途中登板の横浜のエース板川君_7
7回コールド勝ち
それでも圧倒的な打力の違いで、横浜高校は危なげなく準決勝にコマを進めた。
7回コールド勝ち_1
7回コールド勝ち_2

結局は、横浜高校は打力頼みのチーム。桐光学園高校の打力を封じることができるのだろうか。

 

高校野球神奈川県大会準々決勝を見に行った(1)

25日に行われた神奈川県大会準々決勝2試合を見に行った。もう一つのブロックに東海大相模高校が残っているが、おそらくはこの日出場する内のどこかが代表校になると考えた。あまり確率的には高くはないと思うが、母校もその候補校に一つだった。
慶應義塾・正木選手の本塁打
プロにはいかずに、まずは六大学で頑張ってほしい
慶應義塾・正木選手の本塁打
横浜・万波選手の三塁打
来年のドラフトの目玉選手だろう
横浜・万波選手の三塁打
この日の試合予定
第1試合の先発メンバー
第1試合(1)
横浜高校と相洋高校との対戦。増田と万波とを出場させているものの、どう見てもレギュラー陣を休ませたとしか思えない起用。他方、相洋高校はよくぞここまで勝ち上がってきたと思うが、もうここが限界。力の差は歴然としていた。予想通り、7回終了時点で9:1のコールド・ゲームだった。準々決勝でも、コールド・ゲームが成立するんだと、少々驚きながら観戦していた。
試合開始前
応援席に挨拶
見た感じ、横浜高校の選手はあまり大型選手がい無さそう。部長や監督の方が大柄なくらいだ。大丈夫なのかなあ。応援席もかなりガラガラ。もうちょっと勝ち進まないと、動員をかけたりして満席にする作戦はとらないのかも。
応援席に挨拶_1
相洋高校側は緊張感が見て取れる。肩の力を抜かなくっちゃ。
応援席に挨拶_2
両校の肩慣らし
横浜高校は随分とリラックスしている感じ。流石神奈川の雄。緊張感はみじんも感じられない。
両校の肩慣らし_1
こちら相洋高校は、かなり肩に力が入っている感じ。強豪校との対戦ということで、気合だけが空回りしないといいのだが。
両校の肩慣らし_2
両校の肩慣らし_2
両校の肩慣らし_3
両校の肩慣らし_4
守備練習
万波は大きいなあ。2年生だが、早実の清宮君よりも数段将来性がありそうだ。守備力も抜群で、6回裏に相洋高校の黒澤君が放ったこの日一番の当たりの後50㎝で本塁打という打球も、いとも簡単に処理していた。
守備練習_1
守備練習_2
守備練習_3
エースは温存するようだ。腰が痛そうな格好だけど、大丈夫かな。
守備練習_4
試合開始
両校のあいさつ
横浜の右から3人目の万波選手が目立つ程度
両校のあいさつ
相洋高校伊藤君の投球
う~~ん、結構重い球のようには見えるが、球を揃えすぎかな。緩急もついていなさそう。
相洋高校伊藤君の投球_1
相洋高校伊藤君の投球_2
相洋高校伊藤君の投球_3
相洋高校伊藤君の投球_4
最初から横浜高校の猛攻が始まった
相手投手の単調な投球を見逃すほど、横浜高校は甘くない。つるべ打ちだと思ったのだが、相洋高校の守備の乱れもあった。
2番打者の遠藤君は自打球の負傷治療後、四球を選択。塁上でも痛そうにしていた。相洋の投手は少し肩が冷えたかな。
最初から横浜高校の猛攻が始まった_1
最初から横浜高校の猛攻が始まった_2
3番の長南君は1ゴロ野選択を誘う。相洋の1塁手はしめたと思ったのだろうが、判断ミスをしてしまった。
最初から横浜高校の猛攻が始まった_3
自打球負傷の遠藤君は好走塁でセーフになった。後になれば、このプレーが大量得点のきっかけになった。
最初から横浜高校の猛攻が始まった_4
最初から横浜高校の猛攻が始まった_5
2塁走者は代走に代わった
最初から横浜高校の猛攻が始まった_6
4番増田君の安打で1死満塁に
最初から横浜高校の猛攻が始まった_7
最初から横浜高校の猛攻が始まった_8
最初から横浜高校の猛攻が始まった_9

この回は終わってみれば、わずか2安打で、計4点を先行した。四球、野選、安打で満塁とし、万波の走者一掃の3塁打で3点。さらに犠飛でもう1点。横浜からすれば、そつのない攻撃ではあるが、相洋が一人相撲を取った感じがしないでもなかった。

 

弘前~田舎館~黒石~弘前一人旅(17)

第2日(4)
第1田んぼアート会場
『青天の霹靂』の稲で『青天の霹靂』の文字が描かれているそうだ。ここに『青天の霹靂』という言葉が登場する意味が分からずにいたが、そういうことだったのか。『青天の霹靂』は、青森県産初の米最高評価「特A」のブランド米だそうだ。一度食べてみたいものだ。
まずは、今年の作品を拝見
2D作品なのだが、ちょっと立体的に見える。すごい迫力だ。
まずは、今年の作品を拝見_1
まずは、今年の作品を拝見_2
無理に1画面にまとめない方がよさそうだ
無理に1画面にまとめない方がよさそうだ_1
無理に1画面にまとめない方がよさそうだ_2
無理に1画面にまとめない方がよさそうだ_3
無理に1画面にまとめない方がよさそうだ_4
展望台のすぐ隣に
こちらはパスさせてもらった
展望台のすぐ隣に_1
展望台のすぐ隣に_2
田んぼアートの記事が載っているページへjump

中央公民館
鳥さんがいた
中央公民館_1
こんな建物
中央公民館_2
村役場の建物
ここはもともと田舎館城があったのだそうだ。それが地名になった。
村役場の建物_1
村役場の建物_2
村役場の建物_3
村役場の建物_4
村役場の建物_5
その他
村有車
村所有車
村の木
サイカチ
村の木
リンゴシャーベット
待ち時間に食べてみた。非常に美味だった。
リンゴシャーベット
あの展望台から見下ろすのだ
あの展望台から見下ろすのだ
水平レベルで確認してみた
『青天』の文字だけは判別できるかなあ。他はわからない。
水平レベルで確認してみた
ついでに田舎館村のPR
ついでに田舎館村のPR

 

弘前~田舎館~黒石~弘前一人旅(16)

第2日(3)
第2田んぼアート会場で、田んぼアート作品を堪能した。黒石市に向かうつもりでいたが、どうにも線路の向こうに見える建物が気になった。無駄足になるかもしれないのを覚悟で、1kmほどを歩いて向かうことにした。蒸し暑い道中だった。
後で思ったのだが、『遊稲の館』への案内を積極的に行い、シャトルバスの運行もなされているくらいのPRがほしいものだ。知らずに次の目的地に行ってしまう方が殆どだろう。

『遊稲の館』に到着するまで
専用の道路をのんびり歩く。こんなにのんびりしたのはいつ以来だっただろうか。
遠目には古民家風に見えた新しい建物は、『遊稲の館』という施設だった。いい感じ。
遠目には古民家風に見えた新しい建物
すぐ近くの田圃には古代米が植えられていた
すぐ近くの田圃には古代米が植えられていた_1
すぐ近くの田圃には古代米が植えられていた_2
すぐ近くの田圃には古代米が植えられていた_3
すぐ近くの田圃には古代米が植えられていた_4
もうちょっと手前には鳥さんもいた。これだけの環境だ。いない方がおかしい。でも、望遠レンズがないので、近接撮影は、断念した。残念。
もうちょっと手前には鳥さんもいた_1
もうちょっと手前には鳥さんもいた_2
暑いのでゆっくり歩いたら15分ほどかかった。駅から徒歩10分と書かれてあった。
暑いのでゆっくり歩いたら15分ほどかかった
『遊稲の館』裏の弥生時代の水田跡
係員にさっそう案内されたのが、この水田。なんでも1981年(昭和56年)の国道102号バイパス化工事の試掘調査に際し、2100年前、弥生時代中期の水田跡が10面程見つかったそうだ。その後、1982年(昭和57年)から翌83年の2カ年にわたる県教育委員会の発掘調査により、畔で区画された656面の水田跡が検出され、それまで東北地方北部における弥生時代の水田稲作は否定的であったが、津軽平野のみであるが稲作をはじめとする弥生文化が受容されていた可能性が濃くなった。そのあとというのが、この小さく区切られた水田のようだ。1面あたりの面積がかなり小さく、驚かされる。
畦は白爪草が植えられている。なぜなのだろうか?後になって疑問がわいてきた。畦の幅も今よりはかなり太いように見えた。
『遊稲の館』裏の弥生時代の水田跡_1
『遊稲の館』裏の弥生時代の水田跡_2
『遊稲の館』裏の弥生時代の水田跡_3
『遊稲の館』裏の弥生時代の水田跡_4
『遊稲の館』の資料展示コーナー
女性スタッフが実に丁寧に案内してくれた。居心地がいいので長居したかったが、スタッフすれば、大汗をかきながらやってきた哀れな爺さんを、次の会場に案内するシャトルバスに間に合わせようと必死だったようだ。せっかく親切にやってくれるので、逆らわないことにした。
体験田で育てた米
その米粒で作ったようだ
体験田で育てた米
藁で作った実用品や飾りなど
藁で作った実用品や飾りなど_1
藁で作った実用品や飾りなど_2
田舎館式土器
『持って見て結構ですよ』と言われたのでお言葉に甘えて持たせてもらった。軽くて使いやすい感じだった。模造品だと思っていたのだったが、なんと実際に垂柳遺跡から出土した本物だとか。先にそれを言ってくれないと。落としたりしたら、取り返しのつかないことになってしまう。
田舎館式土器_1
田舎館式土器_2
亀さんの飾り物
実に見事なものだった
亀さんの飾り物
こういう飾り物もいいなあ
こういう飾り物もいいなあ
こんな居間もあった
衝立には稲作の様子が描かれているそうだ。でも、私のカメラでは撮れそうにないので、クローズアップ撮影はあきらめた。
こんな居間もあった
素敵なものも
車で来ていれば、買い求めたいものがたくさんあった。う~~ん、残念。
素敵なものも_1
素敵なものも_2
素敵なものも_3

ここからシャトルバスで第1田圃アート会場に向かうことにする

 

弘前~田舎館~黒石~弘前一人旅(15)

第2日(2)
『第2田んぼアート』
道の駅いなかだて『弥生の里』にある『弥生の里展望所』に上ってみる。タイトルにもあるとおり、こちらは第2会場だった。
メインの田んぼアート
絵柄は桃太郎。第1会場に比して、少し植え付けが遅いらしく、十分な色合いにはなっていなかった。かなりワイドな絵で、APS-C機に装着した広角レンズ18ミリは勿論、超広角レンズ11ミリでも全体をカバーできなかった。魚眼レンズがないと対応できないんだ。う~~ん。
広角18ミリ
広角18ミリ_1
この日のお目当て_2
広角18ミリ_2
超広角11ミリ
超広角11ミリ_1
超広角11ミリ_2
石のアート
ダイアナ元妃
ダイアナ元妃_1
ダイアナ元妃_2
石原裕次郎さん
石原裕次郎さん_1
石原裕次郎さん_2
こちらは、『遊稲の館』方面
あのシャトルバスに乗れば、訳なく行くことができた筈。知らずに大汗をかきながら行ったのだ。それにしても弥生時代にこの地で、稲作が行われていたとは。本当にびっくり仰天だ。
こちらは、『遊稲の館』方面
こちらは道の駅
こちらは道の駅
田んぼアート駅付近
ミニバンはシャトル運航便だった。最初気づかず、『遊稲の館』まで、1kmほど歩いて行った。
田んぼアート駅付近
過去の作品
過去の作品_1
過去の作品_2
過去の作品_3
岩木山
岩木山

 

弘前~田舎館~黒石~弘前一人旅(14)

2日目は初日と打って変わって、好天。相当に蒸し暑そうだ。この日は田舎館~黒石~弘前というコースで20:30くらいまで楽しむ予定。

第2日(1)
この日のお目当てはこういうもの
田んぼアートと、こみせ通りと、津軽三味線のライブショーとだ
この日のお目当て_1
この日のお目当て_2
この日のお目当て_3
この日のお目当て_4
この日のお目当て_5

弘南鉄道で、田舎館と黒石とに向かう
見たことがあるような電車
それもそのはず、弘南線7000系は元の東急7000系だそうだ。随分ローカル線仕様に改造してあるが。
弘南線7000系
車内の様子
降車するときは最前部から降りる。運転手兼車掌兼無人駅駅員の完全なワンマンカーなんだ。もちろん、アナウンスもこなす。この日は、途中駅で車両交換をするので、いつも以上に大変そうだった。
車内の様子_2
車内の様子_3
車内の様子_4
途中で車両交換
途中で車両交換
弘南鉄道のマスコット・キャラクターかな
手作り感100%だぞ
弘南鉄道のマスコット・キャラクターかな
交換車両が入線
高校生たちはなんでこんな時間に登校なの?尤も、わが母校はもう夏季休暇に入っていたかな。
交換車両が入線_1
交換車両が入線_2
黒石に向かって出発
黒石に向かって出発
田んぼアート駅到着
駅付近の様子
夏場だけの臨時駅だ
夏場だけの臨時駅だ_1
夏場だけの臨時駅だ_2
夏場だけの臨時駅だ_3
見えているのが第2田んぼアート展望塔
あの上から見ると図柄が良くわかるようになっているのだ。ちょっと怖いが、楽しむためには仕方がない。
第2田んぼアート展望塔
駅前の踏切
ローカル色満点。あの視界の先にある建物が何なのか気になるなあ。
駅前の踏切
上りの電車
『津軽の風』号か。名前はすごくいいなあ。
上りの電車_1
上りの電車_2
上りの電車_3
展望塔直下で見た様子
展望塔直下で見たのでは、田んぼアートも石のアートも、図案が何かまるでわからない。タダ見しようにも面白くない。ある高さから見たときに、よくわかるように工夫してあるのだそうだ。
展望塔直下で見た様子

 

『和のあかり×百段階段展2017』を見に行った(2)

十畝の間(2)
瓦(2)
風雨にさらすのがもったいないような力作ぞろいだ。京都や川越で見た瓦づくりの技術が連綿と受け継がれていると感じた。単に受け継がれるだけでなく発展してきているのかもしれない。
瓦(2)_1
瓦(2)_2
瓦(2)_3
瓦(2)_4
瓦(2)_5
瓦(2)_6
瓦(2)_7

棟方志功画伯の作品
やはり棟方志功画伯は大天才だ。天稟の才を感じる。
ちょっと並べて撮ってみた
ちょっと並べて撮ってみた
両端の作品にだけ字が書かれてあった。こちらは、『凡聖一如』とあった。凡人も聖人(仏陀)も本性においては平等同一である、という意味合いだそうだ。仏陀と同じ本性を持つといわれても、…。
『凡聖一如』とあった
『二菩薩釈迦十大弟子』の作品のようだ。菩薩が何とも言えず、いい感じだ。弟子たちも負けずといい味を醸し出している。
『二菩薩釈迦十大弟子』の作品のようだ_1
『二菩薩釈迦十大弟子』の作品のようだ_2
『二菩薩釈迦十大弟子』の作品のようだ_3
『二菩薩釈迦十大弟子』の作品のようだ_4
『二菩薩釈迦十大弟子』の作品のようだ_5
『二菩薩釈迦十大弟子』の作品のようだ_6
『立ち去りぬ…』という文言で始まる作品。『大和し美し』の一節のようだ。
『大和し美し』の一節のようだ

東京都指定有形文化財「百段階段」
「百段階段」とは通称で、ホテル雅叙園東京の前身である目黒雅叙園3号館にあたり、1935(昭和10)年に建てられた当館で現存する唯一の木造建築です。食事を楽しみ、晴れやかな宴が行われた7部屋を、99段の長い階段廊下が繋いでいます。階段は厚さ約5cmのケヤキ板を使用。階段で結ばれた各部屋はそれぞれ趣向が異なり、各部屋の天井や欄間には、当時屈指の著名な画家達が創り上げた美の世界が描かれています。
”昭和の竜宮城”と呼ばれた当時の目黒雅叙園の建物の特徴は、装飾の破格な豪華さにあります。最近の研究によると、その豪華な装飾は桃山風、更には日光東照宮の系列、あるいは歌舞伎などに見られる江戸文化に属するものとも言え、なかでも「百段階段」はその装飾の美しさから見ても、伝統的な美意識の最高到達点を示すものとされています。2009(平成21)年3月、東京都の有形文化財に指定されました。

 

『和のあかり×百段階段展2017』を見に行った(1)

『弘前~田舎館~黒石~弘前一人旅』シリーズがずっと続いている。気分転換の意味で、このシリーズを時々挿入させる。

目黒雅叙園の『百段階段』は、知る人ぞ知る東京都指定有形文化財。実に美しい建物だ。この百段階段を使用したイベントが通年で開催されている。写真撮影愛好家にすれば撮りたくて堪らない格好の被写体。が、写真撮影は許可されない。ところが毎年夏の2か月に開催される『和のあかり』のイベントのみ、写真撮影可の扱いになる。これを見逃す手はない。今年も見に行ってきた。

百段階段概略図
百段階段概略図
百段階段の説明へjump

十畝の間(1)
この部屋には瓦と棟方志功画伯の作品とが展示されていた。2回に分けて取り上げる。

入り口付近
螺鈿細工の装飾が何とも美しい。全体の雰囲気を知ってもらいたい。
入り口付近
天井はこんなふう
天井はこんなふう_1
天井はこんなふう_2
全体の様子
実際には室内はもう少し暗かった
全体の様子

瓦(1)
説明をつけようにも材料がない。和のあかりと瓦との関連も私にはよくわからない。あかりに照らされて幽玄な世界を演出するということだろうか。
瓦(1)_1
瓦(1)_2
瓦(1)_3
瓦(1)_4
瓦(1)_5
瓦(1)_6
瓦(1)_7
瓦(1)_8
瓦(1)_9
瓦(1)_10

 

弘前~田舎館~黒石~弘前一人旅(13)

時間的にはそれほどでもなかったが、時々小雨がぱらつく異常に湿度の高い一日。あちこち回って、疲れた。あと幾つかの建物を見て、おしまいにすることにした。

青森銀行記念館(旧第五十九銀行本店本館)…国指定重要文化財
何とも風格のある建物。残念ながらこの日は休館日。翌日必ず内部を見学しようと思っていたのに、うっかり失念してしまった。残念無念。
青森銀行記念館(旧第五十九銀行本店本館)外観_1
青森銀行記念館(旧第五十九銀行本店本館)外観_2
内部はこんな風だそうだ。PDF画像を借用
内部1階の様子
内部2階の様子
内部3階の様子
明治12年に設立された県下では最初、全国で59番目の国立銀行です。明治37年に親方町に移りました。本館は、この時建てられた新店舗で、設計者は、当時洋風建造物の第一人者で太宰治の生家・斜陽館なども手がけた堀江佐吉によるものです。ルネッサンス調の洋風建築で、頂上には展望台を兼ねた装飾塔をつけ、その先端にはインド寺院に見られるような相輪を配しています。国の重要文化財に指定されています。

自転車を駐輪する適当な場所が見つからず、やむを得ず、旧弘前市立図書館と、隣接する旧東奥義塾外人教師館とは外観の撮影のみにするしかなかった。それが残念でならない。

旧弘前市立図書館…県重宝
内部には、驚いたことに婦人閲覧室があるようだ。1906年(明治39年)に同市内の篤志家により建てられ、市に寄附されたものだそうだ。篤志家の考えの中には、まだ、儒教的色彩が残っていたのかもしれない。
旧弘前市立図書館_外観_1
旧弘前市立図書館_外観_2
PDF画像を借用
旧弘前市立図書館_内部_1
旧弘前市立図書館_内部_2

旧東奥義塾外人教師館…県重宝
旧東奥義塾外人教師館は、青森県弘前市にある歴史的建造物。1903年(明治36年)、弘前市立東奥義塾(現:東奥義塾高等学校)に招かれていた英語教師の宿舎として建設されたもの。1987年(昭和62年)の同校移転時に、弘前市に寄贈され、保存・一般公開されているそうだ。
東奥義塾とか明徳義塾とかの校名がつけられた時期があった。慶應義塾の名前を頂いたものだろう。以前に、講演会で、慶応の『義塾』という部分は、英国のpublic schoolを意識して名付けたものだそうだ。それを漢字で義塾とした。ところが、中国などでは、義塾という言葉には、高貴な学校などではなく、貧民救済のための私塾というような意味合いがあるとか。その指摘を受けたときには、校名が定着していたから、今更変更もできない。そういうエピソードがあったと聞く。
それを見習った2つの学校にはちょっと申し訳ない感じであるが、とにもかくにもその校名でスタートした。後は、みなが頑張って、校名を盛り立てていくしかなかろう。
藩校を受け継ぐ形になったのが、プロテスタント系の学校だったようだ。う~~ん。
旧東奥義塾外人教師館_1
PDF画像を借用
旧東奥義塾外人教師館_2
弘前藩の藩校稽古館は、明治5年5月、弘前漢英学校へと引き継がれたが、明治5年8月の学校制度改革により、廃止となった。このため、旧藩主である津軽承昭による財政的援助のもと、菊池九郎が創立者となり、旧藩校の教師、施設、教科書などがほぼ引き継がれる形で、明治5年11月、弘前漢英学校が開学した。まもなく菊池が学んだ慶應義塾にならって東奥義塾と名付ける。

この後、ホテルで休憩をとった後、津軽三味線の演奏を聴きに行くつもりだったが、疲れが半端でなかったので、翌日に回した。15:00過ぎで沈没とは情けない話。仕方なく、近くのコンビニで夕食とアルコールとを買い求めて済ませた。

弘前駅
ホテルの部屋から見た駅はそれほど大きくはなかったが、駅ビルが併設されていた。駅舎の右手の白いテントの中では、扇形のねぷたの骨組が展示されていた。見ての通り、何とか雨が降らなかった程度で、はっきりしない天気だった。
外観
弘前駅外観
駅舎内部
改札口はささやかなものだった
駅舎内部_1
リンゴとたか丸くんとが展示してあった。弘前市のマスコットキャラクターは鷹だったのか。
駅舎内部_2
弘前城側の出口
駅舎内部_3
ねぷたの組み立て小屋
ねぷたの組み立て小屋

食事
ホテルでの2日目の朝食
セミ・バイキング方式だった。いつ昼食をとることができるか予想がつかなかったので、多めに食べることにした。
ホテルでの2日目の朝食
ちなみに初日の朝食
夜行バスの道中で空腹だったので、少し食べていた所為だろう。あまり食欲がなく、簡単に鰊そばで済ませた。昔は鰊が大嫌いだったのに、最近はそうでもなくなってきた。
ちなみに初日の朝食

 

弘前~田舎館~黒石~弘前一人旅(12)

津軽藩ねぷた村(3)
ねぷたの間「ヤーヤー堂」(2)
扇型のねぷた
回転する仕掛けになっている
扇型のねぷた_1
扇型のねぷた_2
扇型のねぷた_3
他の扇型
他の扇型_0
他の扇型_1
他の扇型_2
他の扇型_3
扇型でないもの
扇型でないもの

津軽藩ねぷた村を後にし、再び、街の様子を見て歩く

石場旅館…国登録有形文化財
日本基督教団弘前教会教会堂の隣に、何か風格のある旅館があった。前に取り上げた石場家住宅もあったが、こちらも同じ石場姓。縁戚関係があるのだろうか。
石場旅館…国登録有形文化財
創業者である石場久蔵は、30歳の頃に道路側の表部分に小間物屋と旅籠を兼ねた旅館業を営んだのが始まりで、本建物は明治12年頃に新築されたとされる。
久蔵は、明治19年(1886)に当時の駅伝取締所から駅伝宿舎としての木札を受けている。
明治22年(1889)の間取図に奥部分の建物が記載されている。
明治27年(1894)に弘前・青森間に鉄道が開通し、明治30年に陸軍第八師団が設置されている。明治29年の軍が発行した「大日本旅館」という冊子には石場旅館が掲載されており、また、「陸軍召集軍用旅館」という看板や皇室、政府関係の看板も遺っていることから、多くの関係者が宿泊したものと考えられる。
昭和15年頃に北西側に増築、昭和30年代に客の要望に合わせて現在の間取りに改修、現在の建物正面は、昭和45年に改装して黒塗りの付け柱や付け梁が白い漆喰壁の中に映える、城下町の建物の情緒を醸し出している。


日本基督教団弘前教会教会堂…県重宝
パリのノートルダム大聖堂を十分に彷彿させる外観か。そういえなくもないかなあ。上品そうなご婦人に『カトリック教会はどこにありますか』と尋ねた。そうしたら教えられたのは、こちらだった。一般の方には、プロテスタントもカトリックも区別がつかないのかなあ。ちょっとショック。
日本基督教団弘前教会教会堂_1
うまく撮れなかった。PDF画像をも借用してご覧いただく。
日本基督教団弘前教会教会堂_2
日本基督教団弘前教会教会堂は、1906年に弘前メソヂスト教会の教会堂として青森県弘前市に建設されている建物。1993年、青森県重宝に指定される。

カトリック弘前教会
日本基督教団弘前教会教会堂に4年遅れた建てられた聖堂。その差が青森県重宝指定の有無なのだろうか。弘前市においては、若干、プロテスタント勢力が優勢なのかもしれない。が、こちらの聖堂もなかなか立派だ。理由があって、あえて文化財指定の申請をしていないのかもしれない。
カトリック弘前教会_1
聖堂内部の撮影もOKとのことなので、遠慮なく撮らせてもらった。私は、このリブ・ヴォールトの天井が好きだ。
カトリック弘前教会_2
祭壇のあまりの見事さにびっくり、うっとり。ヨーロッパの聖堂にあるものと雰囲気がそっくりだと思ってみていたが、やはりそういう由緒あるものだったようだ。
カトリック弘前教会_3
カトリック弘前教会_4
カトリック弘前教会_5
祭壇は、1866年(慶応2年)にオランダ ロールモンドで製作されアムステルダムの教会に設置されていたもので1939年(昭和14年)に当時の主任司祭であったコールス師が譲り受けて当教会堂に設置したもので、ゴシック様式の総ナラ製、高さは8メートルに及ぶものとなっている。
東北の教会には畳が敷いてある聖堂があるとは聞いていたが、ここもそうだった。本当にびっくり。
カトリック弘前教会_6
カトリック弘前教会_7
窓は簡単なデザインだった。それでも神父自らがステンドグラスを制作したようだ。
カトリック弘前教会_8
簡単な説明書きがあった
カトリック弘前教会_9
1910年(明治43年)に建設された当教会堂は、ロマネスク様式を基調とし、切妻屋根正面に尖塔を配置し、左右隅の柱が特徴的な外観となっている。内部は、木製のクロスリブヴォールトが組まれ、リブヴォールトや柱の濃茶と天井や壁の白漆喰のコントラスト、1984年(昭和59年)に設置されたステンドグラス、また特に祭壇が印象的なものとなっている。祭壇は、1866年(慶応2年)にオランダ ロールモンドで製作されアムステルダムの教会に設置されていたもので1939年(昭和14年)に当時の主任司祭であったコールス師が譲り受けて当教会堂に設置したもので、ゴシック様式の総ナラ製、高さは8メートルに及ぶものとなっている。
弘前でのカトリックの布教活動は、1874年(明治7年)にパリ外国宣教会の宣教師アリヴェ師による来弘が最初といわれているが、本格的な布教活動は1878年(明治11年)にそれまで函館で布教活動をしていたマラン師が弘前で民家を借りて始めたのが当教会の始まりとなっている。その後、1882年(明治15年)にマラン師の後を継いだフォーリー師のもと現在地に教会堂が建設された。現在の教会堂は、当時の主任司祭モンダグ師のもと改築されており、設計は建築の心得があったといわれるオージェ師を招き、施工は堀江佐吉の弟であり、自らもクリスチャンであった横山常吉が請け負っている

 

弘前~田舎館~黒石~弘前一人旅(11)

津軽藩ねぷた村(2)
揚亀園…国指定登録文化財
津軽富士岩木山と弘前公園の老松を借景とした津軽独特の大石武学流庭園だそうだ。その日の天気では借景の美しさは望めず、庭園本来の美しさで楽しむだけだった。市指定の文化財である茶室揚亀庵を擁し、弘前市保存緑地に指定されているそうだ。なかなかの庭園だと思った。
揚亀園_1
揚亀園_2
揚亀園_3
揚亀園_4
揚亀園_5
独楽処「ずぐり庵」
変わり独楽の実演があった。楽しいものだった。
変わり独楽の実演_1
変わり独楽の実演_2
変わり独楽の実演_3
変わり独楽の実演_4
変わり独楽の実演_5
変わり独楽の実演_6
変わり独楽の実演_7
ねぷたの間「ヤーヤー堂」(1)
弘前のねぷたを中心とした説明と実演。短い時間だったが迫力があった。弘前のねぷたは形状的には扇形のものが多く、全面と後面とで、違うデザインになっているそうだ。個人的には青森のねぶたの方がいいかなと思うが、弘前のねぷたもなかなかに面白味があるようだ。女性軍のいなせな衣装も見ものかも。
扇型でないものもある(組ねぷた)
扇型でないものもある(組ねぷた)_1
扇型でないものもある(組ねぷた)_2
扇型の鏡絵
扇型の鏡絵_1
扇型の鏡絵_2
扇型の鏡絵_3
扇型の見送り絵
扇型の見送り絵_1
扇型の見送り絵_2
津軽情っ張り大太鼓(つがるじょっぱりおおだいこ)
こんな撥だから小音量かと思いきやものすごい音量だ
津軽情っ張り大太鼓(つがるじょっぱりおおだいこ)_1
津軽情っ張り大太鼓(つがるじょっぱりおおだいこ)_2
津軽情っ張り大太鼓(つがるじょっぱりおおだいこ)_3
津軽情っ張り大太鼓(つがるじょっぱりおおだいこ)_4
津軽情っ張り大太鼓(つがるじょっぱりおおだいこ)_5
津軽情っ張り大太鼓(つがるじょっぱりおおだいこ)_6
津軽情っ張り大太鼓(つがるじょっぱりおおだいこ)_7
本番時の画像(PDF画像を借用)
鏡絵
本番時の画像(PDF画像を借用)_1
見送り絵
本番時の画像(PDF画像を借用)_2

「弘前ねぷた保存基準」では、以下の通り鏡絵と見送り絵について定められています。
①「鏡絵」(ねぷた本体正面の絵)
明治時代以降中国の三国志や水滸伝、あるいは日本の武将や説話の奮戦図・人情等が題材として多く用いられ描かれており、これを弘前ねぷたの鏡絵の基本とし、骨組には外貼りとする
②「見送り絵」(ねぷた本体裏面中央部の絵)
これまでは美人画が主に描かれてきているが、鏡絵や袖絵との関連等にも留意して描き、額縁内貼りとする
見送り絵額縁部分の内側額縁には「蔦模様」の下がった状態を、その外縁には「雲」を描き、何れも外張りとする

また、「弘前ねぷたまつりコンテスト審査基準」では、以下を判断基準にしています。
鏡絵は、武者絵等の躍動感溢れる絵柄で「動」を表現し、見送り絵は、美人画等で「静」を表現する。

 

弘前~田舎館~黒石~弘前一人旅(10)

弘前公園(3)

公園の地図
弘前公園の記事が続く間は、位置関係がわからなくならないよう、冒頭にこの地図を掲げる
公園の地図

有料ゾーンから無料ゾーンに戻った。つまり、下乗橋から内濠を渡り、内濠と中濠との間の二の丸に出た。そこから少し内濠沿いに北方向に進む。

二の丸東門(東内門)…国指定重要文化財
二の丸側
二の丸東門(東内門)…国指定重要文化財_1
三の丸側
二の丸東門(東内門)…国指定重要文化財_2
案内図
南向きに立って見ている
二の丸東門(東内門)…国指定重要文化財_3
与力番所
門と与力番所とは対で存在していたのだろうか。これは二の丸東門与力番所だ。
与力番所_1
与力番所_2
与力番所_3
二の丸東門(東内門)と二の丸東門与力番所
昔の2つの建物の位置関係がこの通りだったかは不明だが、ことあらば駆けつけるのが番屋に詰める与力の重大な任務だったことだろう。似たり寄ったりの場所にあったと思う。
二の丸東門(東内門)と二の丸東門与力番所
北の郭北門(亀甲門)…国指定重要文化財
内側
北の郭北門(亀甲門)_1
北の郭北門(亀甲門)_2
外側
北の郭北門(亀甲門)_3
その先、亀甲橋を渡れば、完全な城外
北の郭北門(亀甲門)_4
北の郭北門(亀甲門)_5
北の郭北門(亀甲門)_6
石場家住宅…国指定重要文化財
私は、武家屋敷跡かと勘違いしていた。それらしく見えなかったので、がっかりして中に入らずに外観撮影だけでパスしてしまった。後で調べたら、歴史的建造物ではあっても、武家屋敷跡ではなく商家を連綿と維持している住宅のようだ。津軽地方独特の『こみせ』が残っていた。
『こみせ』に関しては、翌日、黒石市でしっかり見てきたので、そこで取り上げる。

石場家住宅_1
石場家住宅_2
石場家住宅_3
石場家は江戸時代、弘前藩出入りの商家であり、主に藁製品を取り扱っていたが、時代と共に扱う物も変遷し、今は酒と煙草の販売を行いながらも、連綿と家名を守り続けている。石場家の由来ははっきりしないが、菩提寺に元禄期の墓碑が残っていることから、少なくとも18世紀初頭から続く家柄であろう。当主は代々「清兵衛」を名乗った。石場家住宅は度々改築が行われたが、最初の建築は18世紀前半であり、主屋は初め他所にあった物を19世紀初頭、現在地(弘前城北部の亀甲門前)に移築したと推定されている。
石場家住宅は1973年(昭和48年)2月23日に国の重要文化財に指定された。現在も住居として使われているが、内部を見学することが出来る。

津軽藩ねぷた村(1)
津軽三味線をまず聞きたかったし、ねぷたも体感してみたかった。何より天気がぐずつき気味だったので、屋内に逃げ込んだ感じだったかも。
津軽三味線「山絃堂」
生演奏を10分ほど行う。この段階では、アルコールを一滴も飲んでおらず、ひたすら聴くことに徹した。奏者は、山田三絃会の工藤純市さん(左側)と竹山会の高橋竹泉さん(右側)。
全国大会A級チャンピオンクラスの演奏者がほぼ常駐し、通年で津軽三味線の生演奏を聴くことのできるコーナーだそうだ。
津軽三味線は、この翌日の夜、津軽三味線ダイニング『響』で佐藤晶さんの演奏をたっぷり楽しんだ。

津軽三味線「山絃堂」_1
津軽三味線「山絃堂」_2
津軽三味線「山絃堂」_3

弘前ねぷた館(有料)
高さ10mの大型ねぷたや内部の骨組みを見学できる実物大の大型ねぷた、ねぷた絵、凧絵の展示をしています。また随時係員が笛と太鼓のお囃子の実演もしています。
【ねぷたの間「ヤーヤー堂」(有料)】
弘前ねぷたの資料の展示コーナーと県内各地の「ねぶた」「ねぷた」の紹介コーナーです。また、最後には金魚ねぷたの製作実演コーナーがあります。
【津軽蔵工房「たくみ」(有料)】
藩政時代から残る米蔵を利用した製作工房です。「津軽塗」「こぎん刺」「こけし・こま」「津軽焼」「津軽錦絵(ねぷた絵・凧)」の製作風景を見学・体験できます。
【津軽三味線「山絃堂」(有料)】
津軽三味線の資料を展示し、生演奏を40分~1時間ごとに行っています。
【揚亀園(有料)】(国指定登録文化財)
津軽富士岩木山と弘前公園の老松を借景とした津軽独特の大石武学流庭園は国の登録文化財に指定されています。市指定の文化財である茶室揚亀庵を擁し、弘前市保存緑地に指定されています。
【独楽処「ずぐり庵」(有料)】
古くから伝わる津軽独特の「ずぐり」をはじめ、様々な「変わりこま」の実演コーナーです。このルーレットで運良く当たれば、素敵なプレゼントがもらえます。又、懐かしい木地玩具でも遊べます。
【製作体験コーナー(有料)】
津軽の様々な民工芸品の製作体験が出来ます。(収容人数60~80名)

 

弘前~田舎館~黒石~弘前一人旅(9)

弘前公園(2)

公園の地図
弘前公園の記事が続く間は、位置関係がわからなくならないよう、冒頭にこの地図を掲げる
公園の地図

現在の天守外観
いまは、仮位置において公開中。下に石垣がないため、威圧感が全くない。そのことは間違いがないが、工事終了後には美しい姿を取り戻すことだろう。その時を楽しみに今は我慢の時期かもしれない。
曳屋後の姿
現在の天守外観_2
現在の天守外観_3

曳屋
前回記したとおり、弘前城本丸の石垣が外側に膨らむ「はらみ」がみられ、天守真下から石垣の一部を修理することになった。工事は、内濠を埋立てたり、弘前城の曳屋が行われたりした。そして、大工事の真っ最中だ。
曳屋は東京でも行われた。赤プリ旧館をまるごと動かしたのが記憶に新しい。東京の方は、44mを移動させて終わりだったが、弘前の方は、70m移動させ、仮置きし、石垣工事終了の約5年後、再び旧位置に戻す長期の工事なのだ。

◆工事スケジュール
 平成28年10月~・・・石垣への番号付け
 平成29年春(さくらまつり終了後)~平成30年・・・石垣解体
 平成31年~・・・石垣積み直し
 平成33年・・・天守曳戻し

『城が70メートル移動する“曳屋”って何? 動く弘前城を目撃してきた』へjump
『じわりと毎秒1ミリ、赤プリ旧館をまるごと動かす』へjump


天守の内部
貴重な現存する天守であることは間違いがないが、当初幕府に気遣って櫓として届け出たとか。そのような言いつくろいが通るほどかなり小型の天守閣だ。
1階
かなりのスペースを割いて、曳屋を説明している。外国人には理解できる話なのかなあ。
天守の内部_1
天守の内部_2
天守の内部_3
天守の内部_4
天守の内部_5
天守の内部_6
2階
2階には展示物は少ししかなかった。まずは、2階に至る階段を覗く。
天守の内部_7
3階に至る階段を見上げる。
天守の内部_8
天守の内部_9
階下(1階)を見下ろす
天守の内部_10
杏葉牡丹紋の駕籠。藩主家の駕籠ということになるのだろう。
天守の内部_11
杏葉牡丹紋の家紋を染め抜いた旗と陣羽織
天守の内部_12
3階
3階に至る階段は、どこでも例外なく急こう配だ。へっぴり腰で上る。
天守の内部_13
鉄骨で、かなり強固に支えている感じだった。西の方角に岩木山が見えるはずだが、急ににわか雨が降りだしてきて、それどころではなかった。
天守の内部_14
狭間とそこから見た様子
天守の内部_15
天守の内部_16

本丸にて
天守閣の外から岩木山が見えないか目を凝らしたが、あいにく見えなかった
天守閣の外から岩木山が見えないか目を凝らしたが
天守閣の基礎部分。直前に天守の内部を見て回ったので、狭さは既に実感していたが、改めてその狭小さに驚いた。
本丸にて_2
桜祭りのポスター
本丸にて_3
本丸にて_4
本丸にて_5
本丸にて_6
本丸にて_7
本丸にて_8

 

弘前~田舎館~黒石~弘前一人旅(8)

弘前公園(1)

公園の地図
弘前公園の記事が続く間は、位置関係がわからなくならないよう、冒頭にこの地図を掲げる
公園の地図

追手門(大手門)…国指定重要文化財
大手門とは、日本の城郭における内部二の丸または、三の丸などの曲輪へ通じる大手虎口に設けられた城門。正門にあたる。追手門も同じ意味合い。
外側
外側から見るとそれなりの門構えだ
追手門_外側_1
追手門_外側_2
PDF画像借用
追手門_外側_3
内側
内側からはやや拍子抜けかな
追手門_内側
外濠
幅が狭いし、水面から石垣までの高さが殆どない。これで防御の役目を果たしたのだろうか?
外濠_1
外濠_2
辰巳櫓…国指定重要文化財
弘前城植物園内から見た様子。場内には、このほかに未申櫓、丑寅櫓とが現存する。うっかりして写真を撮り損ねた。
辰巳櫓_1
PDF画像借用
辰巳櫓_2
PDF画像借用
丑寅櫓…国指定重要文化財
丑寅櫓
PDF画像借用
未申櫓…国指定重要文化財
未申櫓
南内門…国指定重要文化財
門の方はしっかり忘れずに撮った。みな、もれなく指定を受けているんだ。
南内門_1
南内門_2
南内門_3
南内門_4
天守
日本一の桜の名所と謳われる弘前城。弘前城本丸の石垣が外側に膨らむ「はらみ」がみられ、天守真下から石垣の一部を修理することになった。工事は、内濠を埋立てたり弘前城の曳屋(ひきや)が行われたりなど、大規模なものとなっている。
以前の姿
PDF画像借用
以前の天守
曳屋後の姿
下の石垣がないので、なんとなくおさまりが良くない。一日も早く、改修工事が終了して、元の場所に戻るのが待望される。
曳屋後の姿
下乗橋の様子
何かが足りない。何が足らないのだろうか?
下乗橋の様子_1
下乗橋の様子_2
下乗橋の様子_3
内濠の工事
この石垣の角のところに天守があったのだ。それを工事期間中は、曳屋して、本丸のど真ん中に仮に移してある。
内濠の工事_1
内濠の工事_2

本丸唯一の現存建築である天守は層塔型3重3階の建物である。現在は独立式であるが、往時は北側に多聞櫓を付属させた複合式であった。この多聞櫓は明治29年(1896年)ごろまでに破却されている。天守の高さは約14.4メートルあり、現存する三重天守の中で最も低い。
1627年(寛永4年)大爆発で焼失した5重天守の代用として、またロシア船の津軽海峡往来などの事態により幕府の許しを得て、本丸南東隅の辰巳櫓の改修を名目として建てられた。1810年(文化7年)着工、1811年(文化8年)に竣工した。往時は幕府への配慮から天守とは見なさず、櫓(御三階櫓)として扱われていたが、「事実上の天守」としての役割を持ち現在は書籍などの多くで天守として扱われている。昭和24年(1949年)に松前城天守が焼失したため、現在最も北に位置する現存天守でもある。

 

弘前~田舎館~黒石~弘前一人旅(7)

藤田記念庭園(2)
和館…国の登録有形文化財
木造平屋建てで、1937年(昭和12年)板柳町に藤田謙一氏の本宅として建てられた。それを、1961年(昭和36年)に現在の場所へ移築してきたそうだ。なかなか落ち着いた和の館だ。
外観
和館_外観_1
和館_外観_2
和館_外観_3
和館_外観_4
和館_外観_5
和館_外観_6
室内の様子
和館_室内の様子_1
和館_室内の様子_2
『掃雪開松逕』…雪を掃いて松の逕を開く
和館_室内の様子_3
杉戸絵
和館_室内の様子_4
広々とした廊下
和館_室内の様子_4
お金が掛けられていそうだ
和館_室内の様子_5
『壹是皆以自治為本』…後藤新平が弘前公会堂のオープン記念に書いたもの。『壱是(いっし)にみな、自ら治るをもって本となす』という風に読むと解説されていた方があった。『大学経一章』を少しひねった文言かな。
和館_室内の様子_6
自天子以至於庶人、壹是皆以脩身爲本。
天子よりもって庶人に至るまで、壱是にみな身を修むるをもって本となす。
壱是 … 一切

冷たい抹茶を頂いた。お盆が津軽塗なんだ。
和館_室内の様子_7

考古館…国の登録有形文化財
改修中のため休館。外観のみの撮影。
考古館_1
考古館_2
低地部
かなり広く美しい和風庭園だ。だが、またあの階段を上らなくてはいけないと思うと、ちょっと気が重くなった。
池泉回遊式の日本庭園
低地部_1
低地部_2
低地部_3
滝が作られている
落差といい、雰囲気といい、見事なものだ。相当気合を込めて作ったのだろう。
低地部_4
低地部_5
低地部_6
低地部_7
茶室
お茶会を催しでいたようだった。民度の低い爺さんのようなはしたない真似はできない。
茶室_1
茶室_2
茶室_3
水琴窟
いくら水をかけても、草刈り機の音がうるさくて、水琴窟の妙なる音を聞くことができなかった。残念。
水琴窟_1
水琴窟_2

 

弘前~田舎館~黒石~弘前一人旅(6)

藤田記念庭園(1)
洋館…国の登録有形文化財
訪問者の度肝を抜く堂々たる洋館。ほとんどすべての訪問者が、しばし見蕩れてしまうことだろう。
外観
市内にはレトロな洋館が点在する。それらに勝るとも劣らないものだと思う。
洋館_外観_1
洋館_外観_2
洋館_外観_3
洋館_外観_4
洋館_外観_5
館内の様子
展示スペース
2階は貸し会議室の扱いで、1階のみの見学となる。外観から想像したほど広くはなかった。スペースの半分ほどが喫茶室になっているからだろう。そのことはさておいて、かなりモダンな感じがする。日本人の施主の建物とは思えないほどだ。
洋館_館内の様子_1
洋館_館内の様子_2
洋館_館内の様子_3
洋館_館内の様子_4
洋館_館内の様子_5
洋館_館内の様子_6
洋館_館内の様子_7
大正浪漫喫茶室
1階の残りのスペースは喫茶室になっていた。かなり雰囲気が良い。アップルパイも美味しかった。感じとしては、横浜の山手にあるエリスマン邸にしつらえられた喫茶室と似た感じだろうか。
洋館_大正浪漫喫茶室_1
手前側の席よりも窓際の席に行きたいものだ
洋館_大正浪漫喫茶室_1-2
窓際の席は雰囲気があって非常にいい感じ
洋館_大正浪漫喫茶室_2
洋館_大正浪漫喫茶室_3
流石リンゴの本場だけあって、アップルパイはいろいろ種類があった。そのうち、シナモンの香りがきいているものをチョイスした。非常においしかった。
洋館_大正浪漫喫茶室_4
洋館_大正浪漫喫茶室_5
洋館_大正浪漫喫茶室_6

高台庭園
非常に上品な洋風庭園だ。これに匹敵するのは、私が知っているのは殿ヶ谷戸庭園だろうか。あの三菱財閥創業家が国分寺市に所有していた庭園だ。
低地部には一転して見事な和風庭園が広がる。その対比が見事だが、いったん下まで降りて、また上がってくるのはかなりつらかった。

高台庭園_1
高台庭園_2
高台庭園_3
高台庭園_4
高台庭園_5
高台庭園_6

日本商工会議所会頭も務めた実業家である藤田謙一が、1919年(大正8年)に郷里である弘前市に別邸を構える際に東京から庭師を招いてつくらせた江戸風な景趣の庭園である。園内は、高さ13mの崖地をはさんで高台部と低地部に分かれており、高台部は岩木山を借景した洋風庭園で、低地部は池泉回遊式の日本庭園となっている。総面積は約21,800㎡に及び、東北地方でも有数の大規模な庭園である。
別邸である洋館は、高台部にあり、木造モルタル2階建てで、玄関先まで反りを付けて下ろされた袴腰屋根や階段吹抜け部分の八角形の塔が印象的なデザインとなっており、設計は堀江佐吉の六男金造、施工は長男彦三郎が行った。同時に建てられた岩木山麓の農牧場開拓を目指して設置された開発事業事務所の倉庫は、イギリス積みによる煉瓦造り2階建てで、軒部分の煉瓦を4重にした軒蛇腹が特徴的な建物となっている。和館は、木造平屋建てで、1937年(昭和12年)板柳町に藤田謙一の本宅として建てられたものを、1961年(昭和36年)に現在の場所へ移築してきたものである。
当園は藤田の私邸として整備されたものであるが、藤田の死後、弘前相互銀行(現:みちのく銀行)頭取だった唐牛敏世に譲渡され「弘前相互銀行倶楽部」(のちに「みちのく銀行倶楽部」)として開放されてきた。しかし、1979年(昭和54年)に唐牛が亡くなり、その後はほぼ放置状態となっていたものを、1987年(昭和62年)に市制施行百周年記念事業の一環として弘前市が買収して復元整備し、1991年(平成3年)に開園した。建築物も見学可能で、うち洋館は喫茶室のほか50人収容のホールや小会議室の貸しスペースとして利用されており、倉庫(考古館)は砂沢遺跡出土品(国の重要文化財)をはじめ、弘前市内の遺跡出土品を中心とした考古資料を展示している。

 

弘前~田舎館~黒石~弘前一人旅(5)

禅林街(3)
長勝寺(2)
津軽家霊屋…国指定重要文化財
5棟全てを撮ったのだが、メモを取らなかったので、どれがどれだが自信が持てない。こういうものだとだけ見ていただきたい。そのとき思ったのだが、霊屋に祀られている人物がとびとびになっているのはなぜなのだろうか?二代藩主信枚の正室満天姫(徳川家康養女)の霊屋である明鏡臺だけは、どうしても造らざるを得なかったのだろう。高台院養女、実は石田三成の娘で三代藩主信義の生母である辰姫は、家康に気遣った夫の判断で、正室から側室に降格になったが、墓などは残っているのだろうか?
津軽家霊屋_1
津軽家霊屋_2
津軽家霊屋_3
津軽家霊屋_4
津軽家霊屋_5
津軽家霊屋_6
津軽家霊屋_7
津軽家霊屋_8
津軽家霊屋_9
津軽家霊屋_10
津輕家霊屋は初代弘前藩主為信室、二代藩主信牧、信牧室、三代藩主信義、六代藩主信著を祀った五棟の霊屋からなる。各霊屋は方二間、入毋屋造、こけら葺で、内部に石造無縫塔を安置する。いずれも江戸時代前期から中期に属するもので、本格的造りになる霊屋が建ち並ぶ景観は優れている。年代の明らかな江戸時代の霊屋群として重要である。
環月臺かんげつだい(初代藩主為信室霊屋) 寛文12年(1672年)造
碧巌臺へきがんだい(二代藩主信枚霊屋)  寛永8八年(1631年)頃造
明鏡臺めいきょうだい(二代藩主信枚室霊屋)寛永15年(1638年)頃造
白雲臺はくうんだい(三代藩主信義霊屋)  明暦 2年(1656年)造
凌雲臺りょううんだい(六代藩主信著霊屋) 宝暦 3年(1753年)造

霊屋が作られなかった藩主たちの墓
幕府からの締め付けが厳しくなり、霊屋は造ることができなくなったのだろうか。墓だけ見れば、磐城平藩主だった内藤家の墓の方が数段上かもしれない。
霊屋が作られなかった藩主たちの墓_1
霊屋が作られなかった藩主たちの墓_2

禅林街をあとにする

禅林街の近所で見かけた建物
入口近くにあった小さな家
入口近くにあった小さな家
醸造店かな
吉野桜という酒を造っているようだった。ちなみにその隣も造り酒屋だった。いったいいくつあるのだろうか?
醸造店かな

 

弘前~田舎館~黒石~弘前一人旅(4)

禅林街(2)
長勝寺(1)
黒門…弘前市指定有形文化財
大分手前にある。総門ということは、ここからは長勝寺の敷地ということなのか。
黒門
青森県歴史観光案内所>弘前市:歴史・観光・見所>黒門(長勝寺総門)記事から
黒門(長勝寺総門)概要: 黒門は江戸時代中期に建てられたもので、禅林街の最も奥地に境内を構え弘前藩黒門(藩庁:弘前城)の藩主津軽家の菩提寺となった長勝寺の総門として位置付けられています。弘前城の築城には陰陽五行の思想が取り入れられており、長勝寺の境内は弘前城から見て南西方向に当たる為、裏鬼門の鎮護として津軽家の菩提寺が配されました。又、城下町に対して西側に大きく張り出し、2方向が急勾配で二階堰(弘前城の外堀の1つ)で囲われている為、禅林街全体が弘前城の南西の出城の役割を持ち、城下側には空堀と土塁で隔絶し出入口は枡形が設けられていました。このような背景から黒門は長勝寺総門であると同時に防衛施設でもあり城郭門としての機能もある高麗門形式を採用しています。黒門は切妻、板葺、柱間4.3m、高さ4.9m、左右板塀附、初見は貞享4年(1687)に描かれた「長勝寺耕春院惣構」で比較的早くから計画されていた事が窺えます(延宝5年:1677年時点では存在していません)。黒門は史跡弘前城跡長勝寺構を構成する重要な遺構の1つとして貴重な存在で、景観的にも長勝寺三門杉並木と共に歴史的好環境を作り出している事から昭和53年(1978)に弘前市指定有形文化財に指定されています。

中門
正式名称は知らない。国指定重要文化財の三門の手前に小さく存在している。
中門_1
中門_2
三門…国指定重要文化財
堂々たる三門だ
三門_1
三門_2
三門_3
変な構図のように思われるかもしれない。国指定重要文化財の本堂・庫裏・御影堂をも同一画面に収めたかったのだ。
三門_4
嘉元鐘…国指定重要文化財
青森県内最古の銅鐘で、北条貞時が嘉元4年(1306年)に、弘前市藤崎の護国寺のために造らせたものだそうだ。最勝院の梵鐘と違って、戦時中の供出は免れたようだ。
嘉元鐘_1
嘉元鐘_2
長勝寺本堂・庫裏…国指定重要文化財
残念ながら本堂・庫裏内部の撮影は禁止されていた。
本堂
庫裏から進入する。藩主の菩提寺であるということから大変な気遣いがなされてあった。内部はため息が出るほどの豪華さ。
本堂_1
本堂_2
本堂は、八室からなる大型の本堂で、当初の形式をよく伝えており、方丈形の曹洞宗本堂として全国的にも最古に属するものとして価値がある。創建以来、たびたび改造・修理が成されてきたが、平成17年度から20年度にかけて大規模な修理を行い、宗教行事と維持管理の上で支障のない限り当初の形式に復旧整備された。明治期に付けられた正面向拝玄関を撤去して一連の窓構に復し、南端に一間半の出入口を設けた。本堂正面の板敷廊下東半分を土間に復旧し、屋根のとち葺型銅板葺をこけら葺に戻すなど、当初の姿を復元する整備を行った。
庫裏
庫裏_1
庫裏_2
庫裏は、大浦城台所を移築したと伝え、側柱と中央通りの柱を揃えて立て、各柱に登梁を架け渡し、これに小屋束を立てて和小屋を構成する。現在、平成23年度完成を予定して半解体修理を実施している。
長勝寺御影堂…国指定重要文化財
外観はやや草臥れた建物のように見える。ところが内部は一転して華やかな世界。そのギャップがすごい。
長勝寺御影堂_1
長勝寺御影堂_2
長勝寺御影堂_3
御影堂は、初代藩主為信の木像(県重宝)を祀った堂で、内部の厨子と須弥壇は重要美術品に認定されていた。創建は三門と同じ寛永6年(1629年)と伝えられ、文化2年(1805年)に正面を南から東に改め、全面的な彩色工事が実施されたという。
方三間、屋根を宝形造の銅板葺とし、軒は二軒疎垂木である。四周中央間には、内側に草花図柄を密陀絵みつだえで描いた黒漆塗の桟唐戸がついている。内部の架構は虹梁を主体とし、来迎柱や天井などには極彩色で絵や文様が描かれている。厨子も極彩色で、各部に金箔や金泥が多用され豪華である。
この建物は、南に配された津軽家霊屋と一体となった藩祖を祀る御影堂として貴重である。

発見された承祐(つぐとみ)公のミイラがおさめられていた石の棺
12代の殿様になるはずだった承祐(つぐとみ)公は、書をたしなみ、墨絵もたいへん上手だったが、18歳で夭折された。母君が、とても悲しまれて、藩主のもう一つの菩提寺だった報恩寺に木炭100俵とともに石の棺にて埋葬した。それで話は終わるはずだった。昭和29年、報恩寺にあった津軽家の墓所を長勝寺に改葬した。その際に、思いがけなく石の棺に入れられたままの承祐公が発見されたそうだ。当時の大ニュースだったらしいが、私はその時、4歳。そんな話を知る由もなかった。
その石の棺が写真のもので、実物だとのことだ。

発見された承祐公のミイラがおさめられていた石の棺_1
発見された承祐公のミイラがおさめられていた石の棺_2
発見された承祐公のミイラがおさめられていた石の棺_3

青森県歴史観光案内所>弘前市:歴史・観光・見所>長勝寺記事から
長勝寺(弘前市)概要:長勝寺の創建は享禄元年(1528)、大浦盛信が父光信の菩提を弔うため菊仙梵寿を招いて開山したのが始まりと伝えられています。当初は本城だった種里城(鯵ヶ沢町:種里城の跡地には光信公御廟所が聖地として残されています。)の城内にありましたが津軽為信が大浦城に移った際、大浦に移し、さらに慶長16年(1611)弘前城築城に際し、城の裏鬼門(南西=坤)に当る現在地に移されました。長勝寺は弘前藩主である津軽家縁の寺院として重要視され、弘前城の裏鬼門鎮護の役割だけでなく、長勝寺を中心に構成された禅林街(曹洞宗33ヵ寺で構成されている寺町)全体が弘前城の出城的機能を持ち城下町との境には土塁が築かれ、西側には堀、北側は断崖、東側は低湿地帯となっていました。長勝寺は弘前藩主津軽家の菩提寺だけでなく祈願所でもあり病気平癒や、大飢饉による餓死者の供養なども行われ藩内曹洞宗の僧録所としての格式も持っていました。現在も長勝寺境内には多くの建物や寺宝が残されていて、長勝寺の象徴的な存在である三門は寛永6年(1629)、2代藩主津軽信枚によって建立されたもので三間一戸、桁行9.7m、梁間5.8m、入母屋、とち葺きの八脚楼門形式、高欄、花頭窓付、仁王像安置、昭和11年(1936)に国指定重要文化財に指定されています。本堂と庫裏は、慶長年間(1596~1614年)に建立されたと伝えられる建物で本堂は曹洞宗の本堂建築としては全国的に見ても最古級とされ入母屋、こけら葺、平入、桁行22.7m、梁間16.3m、平成5年(1993)に国指定重要文化財に指定されています。庫裏は大浦城の台所を移築したものと云われている建物で切妻、茅葺、平入、桁行18.8m、梁間13.9m、平成5年(1993)に国指定重要文化財に指定されています。その他にも初代藩主為信の木彫を安置している御影堂や境内背後にある5棟の津軽家御霊屋(入母屋、妻入り、桁行2間、梁間2間)など多くの文化財に囲まれています。
長勝寺の文化財
 ・ 長勝寺本堂-慶長年間-国指定重要文化財
 ・ 長勝寺庫裏-慶長年間(大浦城台所移築伝)-国指定重要文化財
 ・ 長勝寺三門(楼門建築)-寛永6年-国指定重要文化財
 ・ 長勝寺御影堂(附厨子及び須弥壇)-寛永6年-国指定重要文化財
 ・ 環月臺(初代藩主津軽為信室:御霊屋)-寛永5年-国指定重要文化財
 ・ 碧巖臺(2代藩主津軽信枚:御霊屋)-寛永8年-国指定重要文化財
 ・ 明鏡臺(2代藩主津軽信枚室:御霊屋)-明暦2年-国指定重要文化財
 ・ 白雲臺(3代藩主津軽信義:御霊屋)-寛永15年-国指定重要文化財
 ・ 凌雲臺(6代藩主津軽信著:御霊屋)-宝暦3年-国指定重要文化財
 ・ 長勝寺銅鐘-鎌倉時代後期-国指定重要文化財
 ・ 三尊仏及びその厨子堂-慶長8年・寛永15年-長野県重宝
 ・ 薬師如来三門本尊-寛永5年に三門に安置-長野県重宝
 ・ 津軽為信木像-慶長11年(伝承)-長野県重宝
 ・ 長勝寺黒門(高麗門)-江戸時代中期-弘前市指定有形文化財
 ・ 長勝寺境内-国指定史跡

 

弘前~田舎館~黒石~弘前一人旅(3)

当初は、真っ先に行くことにしていた禅林街を目指す。吉永小百合さんの大人の休日倶楽部のCMでも話題になったし、いろいろな方の写真で素晴らしい一画だと認識があった。それを見に行くのだから、大きな楽しみだったが、うまく写真が撮れるか不安でもあった。

禅林街(1)
曹洞宗の寺院ばかりが三十三ヶ寺も集まるという。どんな感じなのかと楽しみにしていた。貸自転車の係員の口調は至ってクールだった。『曹洞宗の寺院ばかりなので、みな同じように見えます。藩主の菩提寺だった長勝寺。それと入口すぐにある赤門を潜ったドンヅマリにある宗徳寺。この二つの寺を見、途中の栄螺堂(さざえどう)も見た方が宜しいでしょう』とのことだった。その程度ならわざわざメモをしなくても忘れずに行けそうだ。
赤門
禅林街に入ってすぐのところに、直進するメインの黒門通りと右方向に分かれて33ヵ寺の内12ヵ寺に向かう通りがある。その入り口のところに赤門がある。耕春院(現宗徳寺)構え(下寺通り)と称するのだそうだ。
赤門
青森県歴史観光案内所>弘前市:歴史・観光・見所>赤門(禅林街)記事から
赤門(弘前市・禅林街)概要:禅林街33ヵ寺の内12ヵ寺(耕春山:宗徳寺・萬松山:安盛寺・薬王山:正伝寺・赤門金屋山:永泉寺・長雲山:藤先寺・松種山:正光寺・石流山:川竜院・金竜山:盛雲院・梅峰山:恵林寺・白花山:常源寺・白応山:天津院・貴峰山:月峰院)を構成されていて黒門通りとは対の関係になっています。黒門が長勝寺構え(上寺通り)と言うのに対し赤門では耕春院(現宗徳寺)構え(下寺通り)と称し主に耕春院と同様の宗派が集められたと云われています。又、長勝寺構えが東西に直線的に配置されているのに対し、耕春院構えは枡形に配置する事で南北を現しているとも言われています。現在の門は大正時代に宗徳寺28世棟方唯一師が尽力し広く浄財を集めて建てられたもので、切妻、板葺、高麗門形式、左右板塀附、当初は黒色でしたが昭和37年(1962)に大改修された際、弁柄色に塗り替えられています。傍らには地蔵堂が建立され地蔵尊が祀られています。

宗徳寺
こちらの寺には、石田三成の子・重成の墓が残されてあるそうだ。そんなこととも知らず、漫然と見てきてしまった。痛恨の極み。それどころか、石田三成の娘である辰姫が津軽藩3代藩主信義の生母だったのか。知らないことばかりだ。吉永さんは、宗徳寺では座禅のシーンを撮影したようだ。
楼門
入母屋、鉄板葺、三間一戸、八脚楼門だそうだ。如何にも風雪厳しい津軽の大地に根付いたという感じの風格のある楼門だ。
楼門_1
楼門_2
楼門_3
楼門_4
本堂
手前の一対の柱にちょっと驚いた
本堂_1
本堂_2
青森県歴史観光案内所>弘前市:歴史・観光・見所>宗徳寺(禅林街)記事から
宗徳寺(弘前市)概要:耕春山宗徳寺は弘前藩(藩庁:弘前城)初代藩主となった津軽為信が父親である武田守信の菩提を弔う為開かれたのが始まりと伝えられています。津軽家の系譜としては為信は堀越城主である武田守信(大浦政信の次男)と武田重信の娘との間に生まれ大浦為則の婿養子になったとしていますが、南部家では為信は南部支族であった久慈治義の次男で大浦為則の養子になったとされます。当時の津軽家は南部家からの独立を図った節があり、南部家の血族だと都合が悪かったとされ武田守信という人物も後年の創作、架空の人物説もある程です。宗徳寺はそうした背景から創建されましたが弘前藩から重要視又は重要視している見せる必要があり禅林街の「下寺通り」の最も奥に配しています。以来、身分が高い人達が檀家となり、中でも石田三成の次男石田重成の墓があることで知られています。重成は関ヶ原の戦い後、津軽へ逃れ津軽家によって庇護され、杉山氏と姓を変えて長男吉成は2代藩主津軽信枚の娘を妻に迎え家老職となり代々重臣として津軽家に仕えています。津軽家と石田家とは関係が深く津軽為信の嫡男、信建は豊臣秀頼の小姓として豊臣家に仕え、元服の際の烏帽子親が石田三成だったとされます。又、2代藩主津軽信枚は当初、石田三成の娘である辰姫(豊臣秀吉の正室・高台院:北の政所の養女、3代藩主信義の生母、信枚はその後徳川家康の養女・満天姫を正室とした為に側室に降格)を正室として迎えています。当初は耕春院と称していましたが明治45年(1912)に龍光山宗徳寺(石川県金沢市)が移転合併した為、寺号を耕春山宗徳寺に改称しています。山門は入母屋、鉄板葺、三間一戸、八脚楼門。宗派:曹洞宗。本尊:釈迦如来。

栄螺堂(さざえどう)
飯盛山のさざえ堂とこのお堂と東北には2堂があるのみだそうだ。不思議な二重構造のらせん階段を有する国の重要文化財である会津若松市のさざえ堂に比べると見劣り感は否めない。ではあるが、大飢饉や海難事故ががこれ以上起こらないよう願った信仰心は、本物だったのだろう。
栄螺堂(さざえどう)_1
栄螺堂(さざえどう)_2
栄螺堂(さざえどう)_3
青森県歴史観光案内所>弘前市:歴史・観光・見所>蘭庭院栄螺堂(禅林街)記事から
栄螺堂(弘前市)概要:栄螺堂は禅林街(弘前藩2代藩主津軽信枚が弘前城の南西方向の出丸として領内の曹洞宗寺院を33カ寺を集めた寺町)、「上町通り」に位置し、天保10年(1839)に天明、天保と大飢饉が続き弘前でも多くの餓死者が発生し無縁仏となった死者や、海難で命を失った死者の御霊を弔う為、豪商中田嘉兵衛が発願して建立されたものです。建物は、木造八角二重円堂、宝形造(入口屋根は切妻)、鉄板葺(元こけら葺)、外壁は横板梁、弁柄色仕上げ、棟梁は秋田屋安五郎、平面が八角形で壁に沿って廻り階段になっている事から栄螺堂又は六角堂などと称されています。内部には階段に沿って観音菩薩や三十三観音など多くの仏像が安置され階段を昇降するだけで巡礼したと同じ御利益があるとして信仰の対象にもなりました。このような建築形態、宗教施設は東北では飯盛山さざえ堂(福島県会津若松市)と当御堂だけとされます。蘭庭院栄螺堂は大変貴重なこのとから昭和54年(1979)に弘前市指定有形文化財に指定されています。管理は蘭庭院様が行っています。


禅林街
長勝寺まで続く並木道沿いに建つ、長勝寺を含む33の曹洞宗の寺院が林のように並木道に沿って建っていることから禅林街と呼ばれる。寺院の数から禅林三十三ヶ寺の通称がある。同じ宗派の寺院が、まとまって建っている場所は全国でも稀である。
弘前藩の2代藩主・津軽信枚が、長勝寺を当地に1610年、弘前城築城とともに種里(現:西津軽郡鯵ヶ沢町)から移したことから始まり、当時領内で主になっていた曹洞宗の寺院を当地に集める。また、時の2代藩主・信枚が禅林街を弘前城の南の要にするほか、宗教文化の統一を図ろうとしていたことが背景にある。

 

弘前~田舎館~黒石~弘前一人旅(2)

最勝院
前回触れたように最初は禅林街のみを見るつもりでいた。ところが、自転車で走行しているうちに、意外に体調が良く、欲が出た。それで、最初に最勝院を見て回ろうということにした。境内には重要文化財に指定されているものとしては日本最北に位置する五重塔がある。
最勝院三十三観音
今回の旅行で最初の『三十三』に出会った。この後禅林街三十三ヶ寺や黒石市の三十三観音などにも。その観音像だが、なぜだか、鼻の頭に白い塗料が塗られていた。最初の石像を見たときは見事に鳥の糞が命中したものだと思ったのだが、そんなことではなかった。
最勝院三十三観音_1
一番:龍頭
最勝院三十三観音_2
二番:持經
最勝院三十三観音_3
秋には紅葉が見事なのだろう
最勝院三十三観音_4
妙法蓮華経観世音菩薩普門品(観音経、以下普門品)では観音の普現色身三昧より示現する三十三種の変化身により、衆生の悩みに応じて済度すると説く。観音経が浸透すると同時に、観音の三十三変化身の数字に意味を持たせて観音三十三霊場、三十三間堂、弘前市禅林三十三ヶ寺などがつくられるようになった。
1.龍頭 2.持經 3.圓光 4. 遊戯 5.白衣 6.蓮臥 7.瀧 見 8.施楽 9.魚籃 10.徳王 11.水月 12.一葉 13.青頸 14.威徳 15.延命 16.衆寶 17.岩戸 18.能靜 19.阿耨 20.阿麼提 21.葉衣 22.瑠璃 23.多羅 24.蛤蜊 25.六時 26.普悲 27.馬郎婦 28.合掌 29.一 如 30.不二 31.持蓮 32.灑水 33.楊柳

参道を歩く
五重塔が見えてきた。ずっと遠くから視認できるのだと思っていたが、やっと視界に入った。
参道を歩く_1
八坂神社の鳥居と新仁王門と五重塔とが並んで見える。何ともいい感じだ。
参道を歩く_2
新仁王門と五重塔と
『津軽一代様』というものがあり、卯歳には最勝院の文殊様か茂森の天満宮(文珠菩薩)がお参りの対象になるようだ。今年はまさしく卯年。私は意図などしてはいなかったが、結果的にそういうことになったのだろうか?
最勝院五重塔_2
新仁王門と五重塔と_1
新仁王門と五重塔と_2
新仁王門と五重塔と_3
新仁王門と五重塔と_4
新仁王門の内にも三十三観音が続く
境内には三十三観音が続く_1
境内には三十三観音が続く_2
境内には三十三観音が続く_3
境内には三十三観音が続く_4
振り返ってみた五重塔
どこから見ても立派だ
振り返ってみた五重塔_1
振り返ってみた五重塔_2
最勝院五重塔_1
本堂
本堂_1
本堂_2
本堂_3
鐘楼
梵鐘自体は下記のような事情から新たに鋳造したものだそうだ。『平和の鐘』と呼ばれている。
鐘楼
藩政時代から戦前まで森町に市民に時を告げた『時の鐘』があったが、戦争の供出により一時その姿を消した。しかし、昭和三十一年(一九五六)に時の商工会が中心となり普請を行い、最勝院境内に復元した。ちなみに基礎の石は、弘前公園本丸に建っていた藩祖津軽為信公の銅像の台座であったものである。
五智如来堂
本堂と隣り合っているが、やけに質素だ
五智如来堂
本堂の東側に建つ簡素な堂で、五智如来像を安置する。末寺であった普光寺の本尊を移した像で、棟札には「五智山普光寺廃虚に付本寺境内に建立 奉再建五智如来堂一宇 連光山大圓寺二十一世上人朝宗欽言 維弘化三丙午年(一八四六)五月吉祥日」とある。五智如来像は東寺講堂像をはじめ、安祥寺(京都市山科区)、大日寺(奈良県吉野町)、金剛三昧院(和歌山県高野町)、遍明院(岡山県瀬戸内市)などにあるが、当院の五智如来像はこれらと異なり5体とも立像であり、大日如来像を菩薩形でなく通常の如来形に表すなど、図像的に珍しいものである。
五重塔
文化財の指定説明にも「實ニ東北地方第一ノ美塔ナリ」とあるそうだ。確かに美しい五重塔だ。明治41年4月23日に国から重要文化財の指定を受けた。方三間、総高31.2m、銅板葺き、江戸時代の建造。附指定は、旧伏鉢1箇分と旧露盤1箇。
五重塔_1
五重塔_2

 

弘前~田舎館~黒石~弘前一人旅(1)

梅雨の真っ最中なのに空梅雨気味の日々。思い切って、弘前市への観光に出かけた。今回は完全な個人旅行。初日は電動アシスト付きのレンタル自転車で市内を駆け回った。
最勝院五重塔
次回取り上げる
最勝院五重塔_1
最勝院五重塔_2

とりあえず弘前公園方面を目指す

小野金商店
窓の縦格子が特徴的な、昭和初期の佇まいを残している藁工品店だった建物だそうだ。その建物にも勿論惹かれたのだが、『縄・莚・叺』の商い品名に驚いた。『叺』って何かわからない。調べてみると、読み方は『かます』で、穀物・塩・石炭などを入れるための、わらむしろの袋のことだったんだ。そういえば、昔、耳にしたことがあったような記憶が。現在は営業していないそうだが、昭和3年建築の建物。
小野金商店

地図を見て現在地を確認
堀割にぶつかるように進んできた。ここで現在地を確認しておこう。
地図を見て現在地を確認_1
地図を見て現在地を確認_2
追手門が見えた
角を曲がったら、見えてきた。まだまだ元気があるうちに遠方を見ておきたい。ここは、後でゆっくり見ることにする。
追手門が見えた

禅林街を目指す

アケビつる細工の店があった
どのくらいするんだろうか?財布と折り合えばほしいものだけど。縁があれば、またこの店の前を通るかもしれない。今回はパス。
アケビつる細工の店があった_1
アケビつる細工の店があった_2

なんとなく、まだまだパワーがある感じ。禅林街をいったんパスして、先に最勝院五重塔を目指すことに方針変更。

途中にあった醸造店の建物
新寺町の交差点角にあった。ちょっと住んでみたい感じだった。
途中にあった醸造店の建物_1
途中にあった醸造店の建物_2
遠回りしたので、途中に弘前高校があった
土地の名門校なのかな。なんとなくそういう雰囲気が。
遠回りしたので、途中に弘前高校があった_1
遠回りしたので、途中に弘前高校があった_2
遠回りしたので、途中に弘前高校があった_3
敷地内にあった鏡ヶ丘記念館。青森県立の学校として最古の木造校舎だそうだ。弘前の方が青森よりも重要な町だったのだろうか。
遠回りしたので、途中に弘前高校があった_4
遠回りしたので、途中に弘前高校があった_5

 

上野動物園にて(7)

ヒガシクロサイ
イノシシが突進してきても棒切れ等があれば何とか格闘することができると思う。然るにサイの場合だったらどうだろう。もちろん、逃げ回るしかなかろう。
こちらは雄の『マロ』
ヒガシクロサイ_1
ヒガシクロサイ_2
ヒガシクロサイ_3
ヒガシクロサイ_4
こちらは、雌の『アルゴ』
ヒガシクロサイ_5
ヒガシクロサイ_6
カバ
サイに負けず劣らずの大きさのカバ。迫力満点。イメージからすれば、稀勢の里タイプかな。最近は土俵際での逆転勝利が目立つが、基本的にはコロンと転がされてしまうことが多そうなイメージ。でもそれはイメージに過ぎず、獰猛な動物のようだ。自分の縄張りに入ってきた動物は、ワニやライオン、ヒト等だけでなく、他の縄張りから来たカバをも攻撃することがあるそうだ。
こちらは雄の『ジロー』
カバ_1
カバ_2
カバ_3
こちらは雌の『ユイ』?
カバ_5
コビトカバ
カバと比べれば、迫力に欠ける。その分、親しみが持てる存在かもしれない。小さくて杭の前に寝ているものだから、写真を撮るのが難しい。唯一、『ショウヘイ』のが有難い位置で寝ていてくれた。誰もが思うことだろうが、逆襲を食らいそうにない体格。ほかの生き物の標的にされがちなんだそうだ。
コビトカバ
アフリカの西、リベリアやギニアなどに住む世界最小のカバ、コビトカバ。なんと世界三大珍獣のなかの一つという、珍獣の中の珍獣です。
ハートマンヤマシマウマ
雌の「パンジー」が死亡し、現在は雄の1頭のみ。寂しいことだろうな。
ハートマンヤマシマウマ_1
ハートマンヤマシマウマ_2
ハートマンヤマシマウマ_3
ハートマンヤマシマウマは山岳地帯のごく限られた地域にわずかに生息している、たいへん珍しい種類のシマウマです。しまのはばがせまく、その間隔が密であること、また首の下に小さな肉だれがあることなどが特徴としてあげられます。10頭前後の群れでくらしています。
バーバリーシープ
乾燥地でも生きていける逞しさがあるのか
バーバリーシープ_1
バーバリーシープ_2
バーバリーシープ_3
バーバリーシープ_4
アフリカにいる唯一の野生ヒツジです。オス、メスの両方に角があります。あごから足にかけてたてがみのような毛が生えていて、ひときわ体が大きく、立派な方がオスです。乾燥した高所にすみ、砂漠に生える植物なら何でも食べ、水がなくても夜露や草に含まれる水分だけで生きていくことができます。

 

上野動物園にて(6)

朝、弘前の旅行から戻ってくるはずだ。そのあと、夕方から会議に出席。ちょっと落ち着かないままの一日になりそうだ。

ケープペンギン
「ケープペンギン」は、暖かなアフリカ大陸の南海岸に生息する唯一のペンギンだそうだ。なぜ、上野動物園ではこの種を多数飼育しているのだろうか?極端な冷房装置など必要がなく、お金がかからないからかな?
ケープペンギン_1
ケープペンギン_2
ケープペンギン_3
ケープペンギン_4
バオバブ
マダガスカルの誇るバオバブ。ここにも植えられていたのか。気が付かなかった。
バオバブ
フラミンゴ
さだまさしの『風に立つライオン』の中でも歌われている『百万羽のフラミンゴが一斉に飛び立つとき暗くなる空や…』などという気宇壮大な光景を見てみたいものだ。が、夢はかないそうにない。せもて、ここで気がすむまで見るしかないのだろうか。
このくらいの距離は、このレンズの得意とするところのようだ。望遠端が良ければ、申し分ないのだが、…。

フラミンゴ_1
フラミンゴ_2
今まで気が付かなかったが、くちばしの先は黒色なんだ
フラミンゴ_3
フラミンゴ_4
フラミンゴ_5
ハシビロコウ
いつもはあまり動かない鳥さんとして有名なほどだが、この日はよく動いた。気分が乗っていたのだろうか。さすがに飛んでみせてはくれなかったが。
ハシビロコウ_1
ハシビロコウ_2
ハシビロコウ_3
ハシビロコウ_4
ハシビロコウ_5
キリン
説明不要なほど、ポピュラーな動物。あの頭の上まで血液を送り込むとなると、血圧はいかほどなのだろうか?調べたら、最高血圧は平均260、最低血圧が平均160らしい。人間の倍以上なんだ。う~~ん、すごい。日本国内で個人が飼育できる最大の陸上哺乳類なんだそうだ。金持ちの中には、いらっしゃるのかな?
キリン_1
キリン_2

 

上野動物園にて(5)

本日(7/5)も、朝から弘前市内を観光中でしたが、昨日のうちに市内はあらから見たので、まずは黒石にでも行こうかと思っています。そして、夜に弘前を離れ、帰途につきます。

シロクマ
2頭とも眠った感じでいた。諦めて、次に行こうとした。その時やおら立ち上がり、迫力のあるダイブを披露してくれた。まさか飛び込むとは思っていなかったので、撮り損ねた。
シロクマ_1
シロクマ_2
シロクマ_3
シロクマ_4
シロクマ_5
シロクマ_6

一応撮ってみた。自分とは対極にある手足の長いのを撮ってしまった。願望がそうさせたのだろうか?
猿_1
猿_2
猿_3
猿_4

ここからは西園のゾーン。不忍池が見えてきた。

カワウ
動物園が飼育しているのはモモイロペリカンであり、カワウは招かざる居候のはず。それなのに、遠慮する様子も見せず堂々としている。図々しいったらありゃしない。
カワウ_1
カワウ_2
モモイロペリカン
カワウだってそれほど小さくはないはずだが、モモイロペリカンと並ぶと、ずいぶん大きさが違う。性格が温和で排他的ではないのかなあ。
モモイロペリカン_1
モモイロペリカン_2
モモイロペリカン_3
モモイロペリカン_4
モモイロペリカン_5
モモイロペリカン_6
モモイロペリカン_7
モモイロペリカン_8
モモイロペリカン_9
モモイロペリカン_10
モモイロペリカン_11
モノレール
帰りは草臥れたから、あれに乗ろう
モノレール

 

上野動物園にて(4)

本日は、朝から夜まで弘前市内を観光中です。夜は駅前に宿泊予定です。


前々回分に入れるべきところを漏らしてしまった。卵は日ごろお世話になっているが、鳥さん自体は久しく見ていないなあ。子供のころは、農家で見たものだったが。わざわざ付け加えたのは私が好きな鳥さんだからかな。
鶉_1
鶉_2

以下の鳥さんは、日本ではお目にかかることがない鳥さんだろう。

カンムリエボシドリ
実に立派な冠だ。けちのつけようがない。目つきが穏やかで、なんとなく優しそうな鳥さんに見える。
カンムリエボシドリ_1
カンムリエボシドリ_2
カンムリエボシドリ_3
カンムリシギダチョウ
ダチョウ目ではなく、シギダチョウ目シギダチョウ科の鳥なのか。ダチョウとは外見からして大違いなのに、なぜ、紛らわしい名前を付けたのだろう?
カンムリシギダチョウ_1
カンムリシギダチョウ_2
カンムリシギダチョウは、「ダチョウ」と名がつくものの、ダチョウ目ではなく、シギダチョウ目シギダチョウ科の鳥。アルゼンチンやチリ南部にすんでいます。
シギダチョウ類の鳥は(短距離ながら)飛ぶことはできるのですが、骨格的にはダチョウ目(とくにレア)にちかいといわれます。見た目はちょっとウズラっぽいのですが、目だつのが「冠羽」(かんう:頭頂部にはえる飾り羽)。アンテナのように、ピローンと立っています。興奮すると、これが垂直に立つのだとか(見たことありませんが)。
シギダチョウ類は、たいてい単独かつがいでくらしていますが、このカンムリシギダチョウは例外で、 100羽ちかい群れをつくることがあります。

ニシムラサキエボシドリ
目立つとされるエボシドリだが、このニシムラサキエボシドリは普段はあまり目立たない種のようだ。求愛の時などは、美しさを発揮する仕掛けになっているとか。見てみたいものだ。
ニシムラサキエボシドリ_1
ニシムラサキエボシドリ_2
水辺の近くの森や林に生息するのが特徴で、つがいか家族程度の小群で生活します。頭によく目立つ冠羽を持ち名前の由来となっています。本種はその中でも冠羽の目立たない種です。基本的に果物を食べる植物質の鳥ですが若干の昆虫類等も食べます。エボシドリの緑と赤は他の鳥と異なる色素により発色されています。緑は体の表面にあり、動かなければ樹上で目立ちにくく、また赤は冠羽や翼の斑紋にあり、求愛行動時に役立ちます。
ワライカワセミ
結構きつい顔つきだった。薄気味悪い笑い方だった。そう感じたのは、私の心が落ち着いていなかった所為だろうか?あのカワセミと同じ科に属するが、大きさが全然違う。
ワライカワセミ_1
ワライカワセミ_2
ワライカワセミ_3
ワライカワセミ_4
ワライカワセミ_5
ワライカワセミ_6
ワライカワセミ_7
ワライカワセミ_8
カンムリコサイチョウ
君ワイルドな顔つきすぎるよ
カンムリコサイチョウ_1
カンムリコサイチョウ_2
カンムリコサイチョウ_3
カンムリコサイチョウ_4
カンムリコサイチョウ_5
カンムリコサイチョウ_6

 

上野動物園にて(3)

本日3日夜から旅行に出発し、6日朝に戻る予定です。その間、私からのアクセスが遅れると思います。m(__)m

大きなケージに一緒に入っているので、かなり騒々しい。積極的に動いてもいた。もしかしたら、区分けを間違えたかもしれない。
ヘラサギ
干潟や水田、湿地などでくちばしを水につけて左右に振り、くちばしに触れた魚、カエル、カニなどを捕食するのだそうだ。ヘラ状では餌を捕まえにくいのではないかと観察していたが、そうでもないようだ。
ヘラサギ_1
ヘラサギ_2
ヘラサギ_3
ヘラサギ_4
シロクロゲリ
ちょこまかしていて、うまく撮ることができなかった
シロクロゲリ
マダガスカルトキ
この時は、あまりきれいだとは思わなかった
マダガスカルトキ_1
ちょっと見違えた。きれいだ。
マダガスカルトキ_2
ハゲトキ
こういう名前に私はシンパシーを感じる。なぜだろうか?
ハゲトキ_1
ハゲトキ_2
アカショウビン
カワセミやヤマセミの仲間とはいいながら、かなり大きい。このケージには2羽いたが、片方の個体の上くちばしの先が少し欠けているように見えた。食事には差し支えないと思うが。
アカショウビン_1
アカショウビン_3
アカショウビン_4
アカショウビン_5
別の個体だと思う
アカショウビン_6
アカショウビン_7
アカショウビン_8
アカショウビン_9
アカショウビン_10
アカショウビン_11
アカショウビン_12
アカショウビン_13
アカショウビン_14
アカショウビン_15
アカショウビン_16
アカショウビン_17
アカショウビン_18
ミヤコドリ
「ユリカモメ」のことを古代・中世に「ミヤコドリ」と呼んでいたという説がある。古今和歌集に登場する都鳥などはその類ではないかといわれているようだ。確かに夏羽だと、似ていなくもない。紛らわしいことに、こちらは別名ではなく本名がミヤコドリだ。
ミヤコドリ_1
ミヤコドリ_2
夏羽のユリカモメ(PDF画像を借用)。誤認するほどかなあ。
夏羽のユリカモメ(PDF画像を借用)
ナイルチドリ
ナイルチドリ_1
ナイルチドリ_2
ササゴイ
この鳥さんだけは、狩りをしていた。感心、感心。それにしてもゴイサギとよく似ているなあ。翼の様子がちょっと違うかなあ。
ササゴイ_1
ササゴイ_2

 

上野動物園にて(2)

シロテテナガザル
金網を写したくなかったが、この位置では無理。おまけにピントが甘くなってしまった。
シロテテナガザル_1
シロテテナガザル_2
ニシゴリラ
やや小ぶりなゴリラ。決して、私を自撮りしたものではない。
ニシゴリラ_1
ニシゴリラ_2
ニシゴリラ_3
ニシゴリラ_4
ニシゴリラ_5
ニシゴリラ_6
アオメキバタン
風切羽を切ってあるのだろうか。屋外展示だった。障害物がないと撮りやすさが全然違うなあ。
アオメキバタン_1
アオメキバタン_2
アオメキバタン_3
アオメキバタン_4
アオメキバタン_5
アオメキバタン_6
アオメキバタン_7
アオメキバタン_8
アオメキバタン_9
アオメキバタン_10
アオメキバタン_11
アオメキバタン_12
アオメキバタン_13
ミナミアリクイ
意外に手足が長く、想像よりも大きい。私もこれくらい手足が長ければ良いのだが。
ミナミアリクイ_1
ミナミアリクイ_2
ミナミアリクイ_3
ミナミアリクイ_4
ミナミアリクイ_5
ミナミアリクイ_6

ここから大苦戦。野鳥時代を忘れたかのような傍若無人ぶり。どうとればいいのか悩む。

ヒノマルチョウ
鮮やかな色彩の鳥さんだ。後で補色したわけではない。
ヒノマルチョウ_1
ヒノマルチョウ_2
ヒノマルチョウ_3
ヒノマルチョウ_4
カンムリシギダチョウ
Elegant Crested Tinamouと英名表示があった。どこから見ても、エレガントには見えないが、よく考えれば、Crestを修飾するだけの言い回しだったようだ。やや過剰に反応したのが恥ずかしい。
カンムリシギダチョウ_1
カンムリシギダチョウ_2
カンムリシギダチョウ_3

 

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