散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

ミステリーツアーに参加してみた(7)

行き先はどこかな
白馬から406号線をずっと走った。この向かう先は、長野市だろう。それだけは誰でもわかる。行き先表示板に大書されている方向だから。
小田切ダム
途中で犀川の川幅が少し拡大してきた。どこかのダムになっているようだ。通過するときにわかったが、小田切ダムだった。犀川の最下流に建設されたダム。犀川は小田切ダムを過ぎると裾花川を合流させ、長野市東部で千曲川(長野県内における信濃川の呼称)に合流して終わるそうだ。小田切ダムは長野市中心市街地に近い感じ。実際に、すぐ近くだった。
小田切ダム_1
小田切ダム_2
小田切ダム_3
小田切ダム_4
小田切ダム_5
行き先は善光寺かな?
ミステリーツアーで、そんなメジャーな行き先はないだろうなとは思ったが。
リンゴも見えてきた
まだ、おいしくはなっていないかな
リンゴも見えてきた
川中島の古戦場跡も通過
善光寺とは違う方向に向かっているぞ
川中島の古戦場跡も通過_1
川中島の古戦場跡も通過_2
途中で蕎麦専門の土産物屋に立ち寄る
試食用のそばが出された。病み上がりで口が良くなかったのか、おいしく感じられなかった。m(__)m
途中で蕎麦専門の土産物屋に立ち寄る
上信越自動車道を坂城で降りる
千曲川を渡る。行く先は上田市だな。そうすると、別所温泉かなあ、などと考えた。
上信越自動車道を坂城で降りる_1
上信越自動車道を坂城で降りる_2

別所温泉(1)
そんなこんなでやってきた最初の目的地は別所温泉だった。3度目だなあ。それも、今回が一番の駆け足見学か。
駐車場前にある七苦離地蔵尊堂
外見は立派だ。別所温泉は信州最古の温泉で、日本武尊が7か所に温泉を開き「七苦離の温泉」と名付けたという伝説から「七久里の湯」とも呼ばれる。清少納言が執筆した枕草子にも記されていた名湯。
その入り口ともいえる場所に建立された。割と新しそうな地蔵尊堂。常楽寺が建立したそうだが、確かに右手前の分岐は常楽寺の参道だ。常楽寺はかなり雰囲気のある古刹。そして北向観音の本坊に当たる。今回は自由時間が約1時間しかなく、泣く泣くパスした。

七苦離地蔵尊堂_1
七苦離地蔵尊堂_2
七苦離地蔵尊堂_3
七苦離地蔵尊堂_4
北向観音(1)
善光寺が来世の利益、北向観音が現世の利益をもたらすということで、善光寺のみの参拝では「片参り」になってしまうといわれるのだそうだ。とってつけたような惹句のように聞こえないでもないが、信じるものは救われるのだろう。別所温泉自体が美しい温泉街であり、詣でる方は少なくないようだ。
参道入り口
よく見たら、両脇に石塔がたっている。今頃になって気が付いた。おそらく、右側が、『普門示現』と書かれてあり、左側は、『能為作依怙』と書かれてあると思う。と思ったら、後で追加で1ショットを撮っていた。左側は、『能為作依怙』ではなく『能作依怙』と書かれてあったことが確認できた。興味のある方は、意味合いをお調べいただきたい。
参道入り口_1
参道入り口_2
参道
参道
観音堂が見えてきた
観音堂が見えてきた_1
観音堂が見えてきた_2
観音堂が見えてきた_3
観音堂
善光寺の本堂はT字型の棟の形が鐘を叩く撞木(しゅもく)に似ていることから「撞木造り」と呼ばれている。たびたび修復を加えてきたが、昭和36年の増改築で、善光寺の本堂と同じ「撞木造り」としたそうだ。
観音堂_1
観音堂_2
洗心
温泉なのだ。生暖かいお湯が出る。飲むことができるようだ。こことは別に参道脇に飲泉塔がある。
洗心_1
洗心_2
観音堂正面のすぐ左には参拝前に体を清める水(温水)があります。こちらの水(温水)は全国でも珍しい別所温泉の源泉が湧きだしております。
鐘楼と梵鐘
鐘楼と梵鐘_1
鐘楼と梵鐘_2
鐘楼の建立年代は不明ですが梵鐘は寛政五年に上田の鋳物師、小島久兵衛弘文とその子、国一の合作でした。
第二次世界大戦で金属の供出という運命にあい行方不明となってしまいました。 現在の鐘は昭和二十四年に長野市で開かれた平和博覧会に出陳された香取正彦の作によるものですが、当時善光寺大勧進の副住職であった常楽寺半田孝海大僧正が求めてこの鐘楼に納めました。

温泉薬師瑠璃殿
鳥取の投入堂や山形の山寺の釈迦堂ほどではないにしても、ちょっと怖さを感じるお堂だ。そのくせ、見るのが好きで、行くたびににらめっこをしている。
温泉薬師瑠璃殿_1
温泉薬師瑠璃殿_2
この温泉薬師は伝説には行基菩薩の創建、慈覚大師の再建といわれますが、以前の薬師堂の位置は今の「大師湯」の西隣りであったようです。
寛保二年(1741)湯川の氾濫によって薬師堂は流され、寛保四年から湯本講中で再建を計画したようです。そして今の建物は文化六年(1809)に湯本講中の積立金により再建されました。


北向観音(きたむきかんのん)は、長野県上田市の別所温泉にある天台宗の寺院。近隣にある天台宗常楽寺が本坊であり、その伽藍の一部として同寺が所有・管理する。
寺伝によれば、平安時代初期の天長2年(825年)、円仁(慈覚大師)によって開創されたという。800年代にも火災の伝説が残る。安和2年(969年)平維茂によって大伽藍として大改修が行われたが、木曽義仲の兵火により焼失したのち、源頼朝により再興。鎌倉時代の建長4年(1252年)には北条国時(塩田陸奥守、塩田国時)によって再建されたと伝えられる。
江戸時代に至って正徳3年(1713年)に焼失し、8年後の享保6年(1721年)に現在の堂が再建された。その後度々修復を加え、昭和36年に増改築を施し、善光寺の本堂と同じ「撞木造り」となる。
北向観音という名称は堂が北向きに建つことに由来する。これは「北斗七星が世界の依怙(よりどころ)となるように我も又一切衆生のために常に依怙となって済度をなさん」という観音の誓願によるものといわれている。また、善光寺が来世の利益、北向観音が現世の利益をもたらすということで善光寺のみの参拝では「片参り」になってしまうと言われる。
観音堂に隣接する温泉薬師瑠璃殿は火災の後、文化6年(1809年)に地元の薬師講により再建された。
愛染堂の近くに縁結びの霊木として崇められている愛染かつらの巨木がある。(樹高22m)

 

ミステリーツアーに参加してみた(6)

宿泊したホテル
寒かったので、翌朝撮ったのだが、外観はなかなか。ホテルグリーンプラザ白馬というホテル。かなり山をぐいぐいと上って行った先にあった。白馬コルチナスキー場とつながっている。かなり大きなホテルだった。
外観
ヨーロッパの山岳ホテルというようなイメージだった。外観は文句なし。なお、こんな山の上なのに、温泉だった。写真を撮るわけにはいかなかったが、気分は最高だった。
外観_1
外観_2
外観_3
外観_4
外観_5
夕食
夕食は品数の多いバイキング。いつもならば満腹になるまで食べるのだが、風邪が治りかけくらいで、あまり食欲がわかない。抑えめにした。最初はこれだけにしようと思った。
夕食_1
夕食_2
如何に病み上がりだとしても、これだけではおなかにたまらない。少し追加でチョイスした。漬物とワカサギのてんぷらと、蕎麦を追加した。
夕食_3
夕食_4
さらに口直し
夕食_5
朝食
さらに調子が出ず。もう少し少なめに。
朝食
建物内部
なかなかしっかり建ててある。建てたころは相当に羽振りが良かったのだろう。
建物内部_1
建物内部_2
建物内部_3
建物内部_4
建物内部_5
スキー場
メインのコースだろう。上部のゲレンデへはどういうふうに行くのだろうか。ちょっと難易度が高そうに見えた。
スキー場_1
スキー場_2
朝一番はこんな感じ
スキー場_3

2日目はどこへ向かうのだろうか?

 

ミステリーツアーに参加してみた(5)

国宝『仁科神明宮』を後にして、次の目的地に向かう。目的地近くまで来た段階で、吊り橋から北アルプスを望むところだと判明。そこまでサジェスチョンを受けても、私にはまだどこだか、わからなかった。

大出(おおいで)の吊橋
長野県北安曇郡白馬村北城(大出地区)にある吊り橋。白馬村には数回行ったことがあるが、スキーに3-4回、テニスに2-3回。あまり主目的以外には目が向かなかった。こんな吊り橋がある景観は恥ずかしながら知らなかった。天気が良ければ、白馬三山が良く見えるビューポイントなのだそうだ。桜が咲く時期がベストシーズンのように思う。
左から先端が尖って見える「白馬鑓ヶ岳(2,903m)」、そのすぐ右隣が「杓子岳(2,812m)」、少しなだらかな稜線が続いた右側が「白馬岳(2,932m)」だそうだ。

がっちりした吊り橋で、怖さを感じずに済んだ
支柱は鉄骨鉄筋コンクリート、ケーブルは鋼鉄のワイヤ、橋は木製だったと思う。長さも高さもそれほどではなく、あまり揺れないし、恐怖感が募ることもなかった。
がっちりした吊り橋_1
がっちりした吊り橋_2
がっちりした吊り橋_3
がっちりした吊り橋_4
がっちりした吊り橋_5
吊り橋の上から
良く見えるはずだったのに、残念ながら雲が厚くかかってしまった
吊り橋の上から_1
下を流れるのは姫川
吊り橋の上から_2
吊り橋の上から_3
一瞬、視界が開けたのに前ピンになってしまった。あのリフトはずっと手前の八方尾根スキー場の辺りかなあ。
吊り橋の上から_4
少し下がった位置から見てみる
少し下がった位置から見てみる_1
少し下がった位置から見てみる_2
こんなものもあった
こんなものもあった_1
こんなものもあった_2
う~~ん、見え方は今一つだなあ
う~~ん、見え方は今一つだなあ_1
う~~ん、見え方は今一つだなあ_2
う~~ん、見え方は今一つだなあ_3
う~~ん、見え方は今一つだなあ_4
う~~ん、見え方は今一つだなあ_5
う~~ん、見え方は今一つだなあ_6
この山は、白馬三山のうちのどの山かなあ
この山は、白馬三山のうちのどの山かなあ_1
この山は、白馬三山のうちのどの山かなあ_2
こんな建物もあった
北野社というようだ
こんな建物もあった

姫川の清流にかかる吊橋。ゆるやかな川の流れ、雄大な北アルプス、かやぶき屋根の民家。ここは誰もが描く「心のふるさと」のような風景です。四季折々、心に残る景色は写真撮影やスケッチなどにおすすめです。

 

明月院と東慶寺とに行ってきた(10)

東慶寺(6)
墓地の奥
かなり雰囲気が良い。できるものなら、ここに墓を構えたいものだが、できない相談というものだろう。
丈が高く、開放的な空間が広がる。埋葬されている人も満足していることなのだろう。
墓地の奥_1
墓地の奥_2
墓地の奥_3
墓地の奥_4
墓地の奥_5
墓地の奥_6
墓地の奥_7

松ヶ岡文庫への入り口近辺
この一角だけ、他とは違う雰囲気かな。そっとしておきたいエリアなのだろう。
関係者以外立ち入り禁止になっている
そういう扱いだ。詳細を知りたい向きは、下記『はまれぽ』の記事を参照されたい。
松ヶ岡文庫への入り口近辺_1
1941年に鈴木大拙が東慶寺境内に文庫を設立したのが始まりである。大拙の死後、住職の井上禅定の尽力により、財団法人として大拙が残した膨大な書籍を管理する団体となった。以降、『財団法人松ヶ岡文庫研究年報』を発刊するなどの研究活動を行っている。
『自歩』頌徳碑
松ヶ岡文庫への入り口近辺_2
ヤマボウシが咲いていたようだ
松ヶ岡文庫への入り口近辺_3
松ヶ岡文庫への入り口近辺_4
松ヶ岡文庫への入り口近辺_5
公益財団法人松ヶ岡文庫は、鈴木大拙博士(1870-1966)及び大拙の発願に賛同する有志、明石照男、石井光雄、岩波茂雄、安宅彌吉、小林一三、五島慶太、近藤滋彌、酒井忠正)により、昭和20年北鎌倉松ヶ岡に設立され、翌21年2月財団法人として認可を受けて発足した。文庫の設立は、かつて大拙の師であった釈宗演老師(1857-1919)によって発案されたものであり、松ヶ岡文庫の設立のひとつには、宗演老師生前の志を実現し、鎌倉の地に仏教研究の一拠点を作ろうというものであった。
はまれぽの松ヶ岡文庫を取り上げたページにjump

戻り路
お別れをしてくれたようだ
桔梗は、秋の花のイメージが強いが、実際の開花時期は六月中旬の梅雨頃から始まり、初秋頃までの花なのか。咲き始めは本当にきれいだ。
戻り路_1
泰平殿入り口の黒塀前には、四賀光子が詠んだ覚山尼讃歌の歌碑がある。『流らふる大悲の海によばふこゑ 時をへだててなほたしかなり』…確かにそういう感じがするなあ。
戻り路_2
戻り路_3
戻り路_4
戻り路_5
戻り路_6

以上で、『明月院と東慶寺とに行ってきた』シリーズは終了です。最後までご覧いただき、ありがとうございました。

 

明月院と東慶寺とに行ってきた(9)

東慶寺(5)
後醍醐天皇皇女用堂女王墓
東慶寺の五世用堂尼は後醍醐天皇の皇女。用堂尼の入山後、東慶寺は「松岡御所」と称され、寺格の高い寺として知られるようになった。
寺伝では用堂尼は護良親王の菩提を弔うために入寺されたという。その縁で江戸時代に護良親王の土の牢やお墓のある鎌倉二階堂は東慶寺の寺領となり、土の牢や墓、霊牌の安置された理智光寺等も管理したのだそうだ。
ここを上っていく。我々のような下々のものであってもアクセスできる。

後醍醐天皇皇女用堂女王墓_1
後醍醐天皇皇女用堂女王墓_2
やはりやぐらに納まっている。イワタバコも本格的には覆いつくしていなかった。畏れ多いとの認識なのだろうか。
後醍醐天皇皇女用堂女王墓_3
後醍醐天皇皇女用堂女王墓_4
すぐ近くに天秀尼の墓ほかがある。日蔭になっているところ。人が立っているすぐ前の墓。
後醍醐天皇皇女用堂女王墓_5
大した石段ではないと思ったが、意外と高かったようだ
後醍醐天皇皇女用堂女王墓_6
後醍醐天皇皇女用堂女王墓_7

覚山尼の墓
用堂女王墓の隣にあった。こちらもごく質素なものだった。第8代執権北條時宗夫人で、東慶寺開山開創の覚山尼の墓。覚山尼は、夫の暴力などに苦しむ女性を救済する政策を行なったと言われ、これが元で東慶寺は縁切寺(駆込寺、駆入寺とも)となったと言われているそうだ。この人に歴史ありなんだなあ。
覚山尼の墓_1
覚山尼の墓_2

天秀尼の墓ほか
中央が東慶寺20世天秀尼の墓。左が台月院の宝篋印塔。迂闊にも撮り漏らしてしまった。PDF画像を借用する。天秀尼は千姫の養女として寺に入れることを条件に助命されたそうだ。七歳にして、何たる厳しい運命に置かれたことなのだろうか。霊牌(位牌)の裏には「正二位左大臣豊臣秀頼公息女 依 東照大神君之命入当山薙染干時八歳 正保二年乙酉二月七日示寂」とあるそうだ。
天秀尼の墓ほか
母の名も、出家前の俗名も不明である。 記録に初めて表れたのは大阪城落城直後でありそれ以前には無い。同時代の日記『駿府記』に大坂落城の7日後の元和元年(1615年)5月12日条に「今日秀頼御息女(七歳)、従京極若狭守尋出捕之註進、秀頼男子在之由内々依聞召、急可尋出之湯由所々費被触云々」とあるのが初出である。

男僧たちの墓
男僧3世佐藤禪忠師、4世の井上禅定師などの墓が並ぶ。釈迦如来坐像を上に安置してあるのが男僧2世の釈宗演師の墓。知らずに、きちんと撮らずに済ませてしまった。大失敗。建長寺円覚寺両派の管長を兼任したこともあり、『東慶寺中興開山』の称号を与えられているとか。左から、2世、3世、4世の順に並ぶ。
墓の裏の崖にもイワタバコがびっしり。

男僧たちの墓_1
男僧たちの墓_2

石碑
上手い字だ。しかも、非常に読みやすい字で楷書で書かれてある。よく見ると、昭和末の円覚寺の僧侶の書のようだ。時代を反映しているものなんだ。釈宗演老師の窟号が『楞迦窟(りょうがくつ)』だそうだ。表題には、釈宗演老師を想う意味合いがあるのかもしれない。後半には、『…禅林一代傑祖宗師表是斯翁』と書いてあるように読める。一応字は判読できるのに、意味がとれない。勉強不足だなあ。
石碑_1
ここにもびっしりとイワタバコが自生している
石碑_2
石碑_3
石碑_4
石碑_5
石碑_6
石碑_7
石碑_8
石碑_9
石碑_10
こんな石碑もあった。こちらは、ほとんど読むことができなかった。
石碑_11

本堂裏の岩ガラミ
特別公開の期間が終了して、見ることができなかった。PDF画像を借用した。
本堂裏の岩ガラミ

 

明月院と東慶寺とに行ってきた(8)

東慶寺(4)
小さなお地蔵さまと井戸
如何にもお寺さんらしい情景。石像は最近だと、硬い石に彫ることが少なくないようだが、こちらは比較的新しくても昔ながらの砂岩に彫ってある。
小さなお地蔵さまと井戸_1
小さなお地蔵さまと井戸_2
イワタバコ
今回は、本当の目的はこのイワタバコの花を見ることだった。以前に登った鷹取山の岩肌にもイワタバコがあったが、花の時期ではなかった。また、あの山に登らなくてはいけないのかと思っていたのだが、東慶寺にも自生していて、みることができるという。喜んで出かけたのだった。
花は非常に小さく、下手糞な私は撮るのにかなり苦労した。はっきりしない画像で恐縮だ。
イワタバコ_1
イワタバコ_2
イワタバコ_3
イワタバコ_4
ホタルブクロと石像とイワタバコとで大きさを比べてほしい。イワタバコの花の小ささが良くわかると思う。
イワタバコ_5
葉っぱがタバコの葉と似た感じということなのかなあ。タバコの葉を見たのは、半世紀以上も前のことなので、忘れてしまった。調べてみたら、湿った岩壁に着生し、花は美しいので山草として栽培もされるもので、葉がタバコに似るのでこの名があるそうだ。また若葉が食用にできることから別名イワヂシャ(岩萵苣)ともいうのか。
イワタバコ_6
イワタバコ_7
イワタバコ_8
イワタバコ_9
イワタバコ_10
イワタバコ_11
イワタバコ_12
イワタバコ_13
イワタバコ_14
イワタバコ_15
イワタバコ_16

 

明月院と東慶寺とに行ってきた(7)

東慶寺(3)
本堂と植村宗光和尚の宗光塔
明治時代の東慶寺には1634年(寛永11年)に千姫が寄進した仏殿が現在の菖蒲畑の奥の板碑のあたりに残っていた。しかし、前述したとおり、明治維新で縁切り法が廃止され、寺の財政基盤が大きく揺らぎ、寺領の多くを失い本堂の修理も出来ずに荒れ果て、雨の日には「本堂の雨漏りがひどくて、傘をさしてお経を読んだ」という状態であった。その仏殿は、1907年(明治40年)に三溪園に移築された。私のブログでも、何度か取り上げた立派なものだった。
昭和に入って、円覚寺の僧侶たちが肩入れして、漸く寺の勢いを盛り返すことができたようだ。その中心人物であった釈宗演老師は、目をかけ厳しく指導していた植村宗光の戦死をことのほか悲しんだようだ。それがこの立派な石塔にあらわされている。

本堂
本尊の釈迦如来坐像を祀る本堂「泰平殿」は、佐藤禅忠師が紺紙金泥で観音を揮毫して、昭和10(1935)年に建立したもの。美しい宝形造の屋根を誇る本堂の庭には、春になるとしだれ桜が花をつける。
本堂と植村宗光和尚の宗光塔_1
本堂と植村宗光和尚の宗光塔_2
植村宗光和尚の宗光塔
釈宗演老師に見いだされ、厳しい修行を積み、奥義を究めようとした植村宗光和尚だったが、日露戦争に応召従軍し、戦死した。その死を深く悼んだ老師が、自室の前に宗光和尚の墓塔を建てた。
本堂と植村宗光和尚の宗光塔_3
本堂と植村宗光和尚の宗光塔_4
千姫の仏殿があった頃、中門(現在の山門)の石段の右に聖観音菩薩像を安置していた観音堂・泰平殿があった。後にこれを現在の白蓮舎の前、菖蒲畑のあたりに移築して、本堂とした。しかし、この本堂も1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊する。このとき本尊両立の文殊・普賢も消失している。
現在の本堂はその後、1935年(昭和10年)に建てられたもの。つまり、本堂なしの空白期間が、少なくとも12年ほどあったのだ。東慶寺にも冬の時代があったのだ。

書院
1634年(寛永11年)、徳川忠長屋敷から移築された建物だったが、関東大震災で倒壊する。現在の書院は二階堂の山林を鎌倉市に売却した資金で、以前とほぼ同じ間取りで大正14年末に再建されたものだそうだ。どういう都合があったのかは知らないが、本堂よりもかなり速いスピードで再建されたことになる。
徳川忠長公は、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の三男だったが、発狂したとされる。表舞台から痕跡を抹消させたかったのか、その屋敷も当時の東慶寺に移築されてきたのだった。忠長公の墓は、徳川姓の人物であったにもかかわらず、江戸(東京)ではなく、この近くにある。

そもそもは、樹皮葺きの屋根だったのではなかろうか。なんといっても、第2代将軍徳川秀忠の三男のお屋敷だったのだから。
書院_1
書院_2
花菖蒲田
前述の通り、関東大震災前には、この位置に、本殿があった。それ以前には、千姫寄進の仏殿がすぐ近くにあった。いまは、昔のことなど知らぬかのように、花菖蒲が美しく咲いていた。
花菖蒲田_1
花菖蒲田_2
花菖蒲田_3
花菖蒲田_4
花菖蒲田_5
花菖蒲田_6
参道脇の花
ホタルブクロの花も負けてはいなかった
参道脇の花_1
参道脇の花_2
参道脇の花_3
参道脇の花_4
参道脇の花_5

 

明月院と東慶寺とに行ってきた(6)

東慶寺(2)
抜群の知名度を誇る東慶寺。だが、順風満帆の歴史が途切れた時があった。何せ、新時代で寺院の存立基盤がなくなってしまったのだから。千姫寄進の旧仏殿が三溪園に移築されたのも、そのような事情による。現在は、円覚寺末の男僧の寺なのだが、住職にすごい人材がずらりと登場する。彼らの奮闘で、寺勢を徐々に盛り返していった。以下の引用文書を参照されたい。
山門
現在の山門は、かつては中門があった位置にある。東慶寺の建物は、関東大震災で壊滅的被害をこうむり、その後の建て直しした建物ばかりだ。明治および大正期に殆ど修復できていなかったことが、建物を弱体化させていたのかもしれない。山門も、もちろん建て直しのものだ。隣接する鎌倉五山の一つ浄智寺は、復興に際して、石段を鎌倉石で修復したが、東慶寺においては、そのような経済的余裕がなかったのだろう。普通に修復したようだ。それでも、その後、90有余年を経過し、それなりに風格を帯びてきた。
山門_1
山門_2
山門_3
山門_4
地図
東慶寺案内図
山門を潜ったすぐの辺り
花さんほかが拝観者を魅了する。蛍袋もイソギクもいい感じだ。
山門を潜ったすぐの辺り_1
山門を潜ったすぐの辺り_2
山門を潜ったすぐの辺り_3
山門を潜ったすぐの辺り_4
山門を潜ったすぐの辺り_5
山門を潜ったすぐの辺り_6
田村俊子の碑
時代の最先端を行った飛んでいた女性。男女の相克の世界を官能的に描いたのだそうだ。旧友の湯浅芳子、山原鶴等が東慶寺に墓を設け、昭和26年に7回忌を営み、昭和30年にこの文学碑を建てた。本人の生前に東慶寺といかなる関係があったのかは、浅学菲才の私にはわからない。
「この女作者はいつもおしろいをつけてゐる この女の書くものは大がひおしろひの中からうまれてくるのである」
田村俊子の碑
参道とその近くの様子
かつては尼寺であったことを感じさせる何かがあるように思う
参道とその近くの様子_1
参道とその近くの様子_2
参道とその近くの様子_3
参道とその近くの様子_4

明治維新により縁切寺法が廃止され、寺領からの年貢を失い、二階堂に山林を残すのみとなるがそれも大半は横領される。最後の院代順荘尼を描いた1897年(明治30年)の小説には「維持の方法立かぬれば徒弟たりし多くの尼法師、留置の婦人、被官残らず一時に解放し寺内の法務は本山円覚寺山内の役僧に委ね現住職法孝老尼女は別房に退隠して年老いたる婢女一人と手飼の雌猫一疋とを相手に…総門山門はもとより方丈脇寮諸社なと朽廃にまかせ修繕の途なきはおおかた取りこぼち薪として一片の姻と化し」とある。順荘法孝尼は1902年(明治35年)78歳で死去し、尼寺東慶寺は幕を閉じる。
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1903年(明治36年)、後に円覚寺管長となる古川堯道が男僧としての第一世住職となる。その2年後の1905年(明治38年)に円覚寺管長で建長寺管長も兼務していた釈宗演が管長を辞して東慶寺の住持となり、その頃鈴木大拙がしばしば訪れ、夏目漱石も訪れる。釈宗演は1919年(大正8年)に61歳でこの寺で亡くなり、弟子の佐藤禅忠が住職となる。1923年(大正12年)9月の関東大震災で鐘楼を除く全ての建物が倒壊したが、禅忠は書院を大正末に再建し、1935年(昭和10年)本堂の再建と同時に53歳で亡くなる。
そのあと隣の浄智寺住職・朝比奈宗源が東慶寺住職を兼務し、昭和16年に佐藤禅忠の弟子であった井上禅定が住職となる。
この井上禅定の頃に、釈宗演の遺言であった松ヶ岡文庫を鈴木大拙の蔵書をベースに、財界人の寄付を仰ぎ設立する。尼寺東慶寺のわずかな遺産として二階堂に山林を持っていたが、永福寺跡の茅場も東慶寺が所有しており、それが鎌倉市に買い上げられたときにその代金でこれも釈宗演の遺言であった松ヶ岡宝蔵を建てた。井上禅定は1971年(昭和46年)から3年間円覚寺派宗務総長として管長朝比奈宗源を補佐し、1981年(昭和56年)8月より浄智寺住職に転じて、東慶寺住職には子息の井上正道が就任する。井上禅定は晩年、鎌倉市の緑を守る活動に積極的にかかわりながら、2006年(平成18年)1月、95歳で亡くなった。歴史に詳しく 『鎌倉市史・寺社編』の東慶寺の項は井上禅定の『駆入寺』を下敷きにしている他、『円覚寺史』の共著者でもある。井上正道は2013年(平成25年)7月に亡くなり、子息の井上大光が住職に就任した。

 

明月院と東慶寺とに行ってきた(5)

明月院と東慶寺とに行ってきた(5)
明月院の最後は、北条時頼公関連。宝戒寺などよりも、自然に北条の時代を思いやることができる気がする。
北条時頼公の廟所と墓所
明月院の門をくぐるとすぐ左手に北条時頼公の廟所と墓所とがある。あれあれ、明月院は、山ノ内上杉家の寺院ではなかったのかと訝しがる方もあることだろう。やや、混み入った話なのだ。
廟所
廟所というと、徳川家などの豪華なそれを想起することだろう。しかし、何事にも質素を旨とした鎌倉幕府にあっては、実力者の執権として鳴らした時頼公のそれであっても、こんなもののようだ。
廟所
墓所
墓所_1
墓所_2
墓所_3
かつて、この辺りには時頼が建てた最明寺があった。『吾妻鏡』は、1256年(康元元年)、時頼が出家の準備のために建立した寺と記しているそうだ。時頼は、この年の11月22日に執権を辞し、翌日には、最明寺で蘭渓道隆を戒師として出家する(法名は「覚了房道崇」)。
最明寺は時頼の死後廃絶するが、子の北条時宗が最明寺を前身とする禅興寺を創建し(開山は蘭渓道隆)、明月院は禅興寺の支院の首位に置かれていた。明月院は禅興寺の塔頭であるが、寺とは独立した寺領をもっており、かつ檀那が関東管領上杉氏であったために生き残った。禅興寺は明治元年に廃寺となり、明月院のみを残し、現在に至っている。
そういう事情なので、北条時頼公の廟所と墓所があるのは当然なのだ。

明月院に咲いていたその他の花
明月院に咲いていたその他の花_1
明月院に咲いていたその他の花_2
明月院に咲いていたその他の花_3
明月院に咲いていたその他の花_4
明月院に咲いていたその他の花_5
明月院に咲いていたその他の花_6
明月院に咲いていたその他の花_7
明月院に咲いていたその他の花_8

明月院を後にして、東慶寺に向かう

東慶寺(1)
さだまさしの長年のファンである私は、この寺に来ると『縁切寺』を思い出してしまう。歌詞では、『今日のあの町は人影少なく…』とあるが、時代は大きく変わったようだ。
東慶寺は、明月院に比べれば、落ち着いてみることができそうだ
今どきの遠足は楽しそうだ。縁切寺なのに、カップルで来られる方も少なくないようだ。
東慶寺は、明月院に比べれば、落ち着いてみることができそうだ_1
東慶寺は、明月院に比べれば、落ち着いてみることができそうだ_2
山門前の花壇
花そのものは、東慶寺の方が楽しむことができそうな予感。果たしてどうだっただろうか。
山門前の花壇_1
山門前の花壇_2

 

明月院と東慶寺とに行ってきた(4)

明月院(4)
花想い地蔵
この季節は当然ながらアジサイが飾られてあった
花想い地蔵_1
花想い地蔵_2
枯山水庭園
枯山水とは石と砂で山水の風景を表す庭園の形式。明月院の枯山水は「須弥山(しゅみせん)」を形どったものだそうだ。いつもそう見えるあたりを撮り損ねている。
須弥山をイメージした枯山水だというのに、肝心かなめの高山に相当するところを撮り損ねた。参考までにPDF画像を借用する。
枯山水庭園_1
枯山水庭園_2
枯山水庭園_3
枯山水庭園_4
アジサイ寺自慢のアジサイ
姫アジサイが中心だという。とにかく、目についたものを撮ってみた。
丸窓の行列を横目に見ながら
丸窓の行列を横目に見ながら
こういうところを見ていく
前を行く人たちのあたりばかりを見ている感じかも
こういうところを見ていく_1
こういうところを見ていく_2
見て見て見て
絶対私のほうがきれいよねえ。花さんたちが一斉にそう叫んでいるかのようだった。
見て見て見て_1
見て見て見て_2
見て見て見て_3
見て見て見て_4
見て見て見て_5
見て見て見て_6
見て見て見て_7
見て見て見て_8
見て見て見て_9
見て見て見て_10
見て見て見て_11
見て見て見て_12
見て見て見て_13
見て見て見て_14
見て見て見て_15
見て見て見て_16
見て見て見て_17
見て見て見て_18
見て見て見て_19
見て見て見て_20
見て見て見て_21

蝋梅の実
これは何?ちょっと見には、ザクロかなと思った。だが、蝋梅の実らしい。
強い毒性のアルカロイドを有するのだそうだ。食するのは極めて危険だろう。
蝋梅の実_1
蝋梅の実_2
蝋梅の実_3

まだまだ人が続くなあ
これからが、人手にピークなんだろう
まだまだ人が続くなあ

 

明月院と東慶寺とに行ってきた(3)

明月院(3)
本堂後庭園(2)
姫アジサイの挿し木
途切れさせないための努力をきちんとしているようだ。そこのところは評価すべきところだと思う。
姫アジサイの挿し木_1
姫アジサイの挿し木_2
姫アジサイの挿し木_3
姫アジサイの挿し木_4
姫アジサイの挿し木_5
炭焼き窯のあと
昭和の初期に使用していたものだそうだ。日当たりがあまりよくない北鎌倉では、昔はそれなりに必要なものだったのだろう。やけに堂々としていて、最初は古墳かと思ったほどだ。
炭焼き窯のあと_1
炭焼き窯のあと_2
炭焼き窯のあと_3

裏庭から、境内に戻り、開山堂などへ向かう

開山堂
一目見た瞬間にびっくり仰天。茅葺きの屋根から、未明まで降っていた雨。その水分が、強烈な日差しで、蒸発しているのだ。光線の加減で、実際以上に激しく蒸発しているように見えた。
山内上杉家の祖、関東管領・上杉憲方が密室守厳を開山として、明月院を開創した。その開山の密室守厳像が祀られている。それは理解しているのだが、こんな混雑しているときに、ここも行列するほどの価値があるのだろうか。…そう思ったのだが、どうも御朱印帳に記帳を求める人の列だったようだ。
開山堂_1
開山堂_2
開山堂_3
開山堂_4
開山堂_5
開山堂_6
明月院やぐら
この辺りは鎌倉市の山ノ内という地区。そこを根城にする豪族に山ノ内上杉氏がいた。そのうちの憲方公がこの寺院の実質的な開基といわれる。そして、このやぐらに、上杉憲方の墓と言われる宝篋印塔が祀られてある。鎌倉の中でも最大級のやぐらだ。
立札に書かれてある通り、子孫の憲政の時、後北条の北条氏康との戦いに敗れ、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、上杉の家名をかつての部下の家柄である彼に譲ったのか。仕方がなかったのだろう。
明月院やぐら_1
明月院やぐら_2
はっきり撮れなかったので、参考までにPDF画像を2点借用する
明月院やぐら_3
明月院やぐら_4
小さなやぐらも
小さなやぐらも
しめ縄を掛けられた磐座
どこも昔は神仏混交だったんだなあ
しめ縄を掛けられた磐座

 

明月院と東慶寺とに行ってきた(2)

明月院(2)

丸窓
漸く順番が来たので、張り切って撮影に臨もうとした。外の立ち位置から、室内を通して、その先の屋外を見る。そういうシチュエーションだ。気に入った構図に仕上げるのが難しい。
こんな感じ
満足度が皆無に近い。酷い出来だ。もう少し粘りたかったが、後ろの人のことを考えれば、そうもいかない。
丸窓_1
丸窓_2
前回も使用した写真。この先を写すには、裏庭が特別公開になっていない時の方がよさそうだ。だけど、その時は、花菖蒲も咲いていなければ、紅葉も見られない。う~~ん。
お約束の丸窓_8
本堂後庭園(1)
花菖蒲の時期と紅葉の時期に期間限定で特別公開される。普段は見たくとも、見ることができない。今回は、その時期に当たっていたので、喜んで見せてもらった。花菖蒲見たかったのではなく、この庭自体を見たかったのだ。
丸窓のすぐ先にある池
こんな感じなんだ。あまり正面に立つと、丸窓の向こうから見ている人の邪魔になるかな。
丸窓のすぐ先にある池_1
丸窓のすぐ先にある池_2
丸窓のすぐ先にある池_3
丸窓のすぐ先にある池_4
丸窓のすぐ先にある池_5
丸窓のすぐ先にある池_6
丸窓のすぐ先にある池_7
丸窓のすぐ先にある池_8
丸窓のすぐ先にある池_9
丸窓のすぐ先にある池_10
砂庭
池の後方には、砂庭があり、そこにウサギが戯れているかのような感じになっていた
砂庭_1
砂庭_2
砂庭_3
砂庭_4
花菖蒲の田
6月はアジサイの時期であるが、同時に花菖蒲の時期でもあったんだ。後で、アジサイの写真をしっかりとることにして、ここは、花菖蒲撮影に集中しよう。あの人たちは、八つ橋の上から撮っている。あまり大きな菖蒲田ではない。
花菖蒲の田_1
花菖蒲の田_2
雨上がりだったので、瑞々しい感じがあって良かった。散水したのではない。
花菖蒲の田_3
花菖蒲の田_4
花菖蒲の田_5
花菖蒲の田_7
花菖蒲の田_8
花菖蒲の田_9
花菖蒲の田_10
花菖蒲の田_11
花菖蒲の田_12
花菖蒲の田_13
花菖蒲の田_14
花菖蒲の田_15
花菖蒲の田_16
花菖蒲の田_17
花菖蒲の田_18

 

明月院と東慶寺とに行ってきた(1)

『ミステリーツアーに参加してみた』シリーズが中途だが、季節の話題を先に取り上げたいと思う。明月院は紫陽花寺といわれるほどで、旬の時期を迎えているので、いつもよりかなり多くの人出があった。東慶寺の方は、安定した人気のお寺だ。今回は、イワタバコを見たいと思って、行き先に加えた。

明月院(1)
北鎌倉の駅に降り立ったのは、昨14日(水)の10時ちょっと前。夜明けには雨がまだ降っていたし、平日の朝一番でもあるので、それほど混んではいないのではという予想でいた。が、私の勘はここのところ狂いっぱなし。ものすごい人出だし、すでに見終わって、次に向かう人も相当いた。調べずに行ったこちらも迂闊だったが、明月院は9時からの受け入れだった。
円覚寺に立ち寄る人もいるにはいたが
殆どの人は、円覚寺も建長寺もこの日のメインではなく、まずは、明月院ということだったようだ。なお、最初に写っていた女性は私とは無関係。のろのろ歩いている人を、速足でどんどん追い抜いて行ったのだが、この人も早くて、…。
円覚寺に立ち寄る人もいるにはいたが_1
円覚寺に立ち寄る人もいるにはいたが_2
円覚寺に立ち寄る人もいるにはいたが_3
円覚寺に立ち寄る人もいるにはいたが_4
拝観券の窓口で、まず待たされた
『こんなのを撮っても仕方がないのでは』と思ったが、いっぱい撮っている人がいた。それも、スマホで。あれは、時間がかかり、後の人の大迷惑だなあ。
拝観券の窓口で、まず待たされた
入っても、こんな感じ
この程度のアジサイしかないのかと、このときは正直落胆した。してみれば、入場料の500円は高いかなあ。その先でも、花菖蒲の見ごろを迎えて特別公開中の裏庭に入るには、さらに500円取られるし。…まあ、ちょっと認識不足だったようだ。こちらは、ヒメアジサイで統一されているんだ。明月院ブルーといわれているのか。
入っても、こんな感じ
諦めて、少し撮り始めた
雨上がりだから、花の勢いは非常に良かった。その点だけは、ありがたかった。明月院の紫陽花は、他の名所と違ってそのほとんどがヒメアジサイという日本古来の品種で統一されているのが特徴だそうだ。西洋アジサイに比べるとやや小ぶりの可愛い紫陽花か。
諦めて、少し撮り始めた_2
諦めて、少し撮り始めた_3
諦めて、少し撮り始めた_4
漸く山門に
山号を福源山という。いい名前だなあ。よく見ると、山門には何か飾ってある。
漸く山門に_1
こういうのは最近の流行りかな
漸く山門に_2
沙羅双樹の木
この説明に、平家物語まで登場させたのにはびっくり。今頃花が咲くと書いてあったが、残念ながら、花は咲いていなかった。
沙羅双樹の木_1
沙羅双樹の木_2
お約束の丸窓
写真に収めるには、イライラしながらも待つしかない。スマホのご婦人たちは撮影時間が長いなあ。
お約束の丸窓_1
お約束の丸窓_2
お約束の丸窓_3
お約束の丸窓_4
お約束の丸窓_5
お約束の丸窓_6
こうやって、構図を決めるから時間がかかるのは当たり前か。カメラは持参していないようだ。
お約束の丸窓_7
こんな風だ
お約束の丸窓_8

 

ミステリーツアーに参加してみた(4)

国宝『仁科神明宮』(2)
国宝のそろい踏み…西側(左側)から見た様子
中門と本殿と附指定の釣屋。見えるものすべてが国宝だ。文化財フェチの私には、夢のような世界だ。
国宝のそろい踏み…西側(左側)から見た様子_1
国宝のそろい踏み…西側(左側)から見た様子_2
国宝のそろい踏み…西側(左側)から見た様子_3
国宝のそろい踏み…西側(左側)から見た様子_4
国宝のそろい踏み…西側(左側)から見た様子_5
国宝のそろい踏み…西側(左側)から見た様子_6
国宝のそろい踏み…西側(左側)から見た様子_7
国宝のそろい踏み…東側(右側)から見た様子
残念ながら光線の具合でうまく撮れなかった
国宝のそろい踏み…東側(右側)から見た様子
神門
下から見たときは、神門も風格がある感じだったが、上から見ると、少し迫力に欠けるかなあ。上から目線はよくないかな。
神門
元ご神木
いろいろとご都合があるようだ。特に国宝文化財の真横に、いつ倒壊するかもしれない杉の木をご神体としておくことは、神社関係者も気が気ではなかったことだろう。
元ご神木_1
元ご神木_2
戻り路
境内は厳かだ
戻り路_1
戻り路_2
戻り路_3
戻り路_4
戻り路_5
戻り路_6
戻り路_7

再び、駐車場近くから
今度は雲が流れて行ってくれた。と思ったのだが、…。
再び、駐車場近くから_1
再び、駐車場近くから_2
再び、駐車場近くから_3
再び、駐車場近くから_4
再び、駐車場近くから_5
再び、駐車場近くから_6
再び、駐車場近くから_7
再び、駐車場近くから_8
再び、駐車場近くから_9
再び、駐車場近くから_10

 

ミステリーツアーに参加してみた(3)

再び車中から
大町市の郊外からの北アルプス。この辺まで来ると、間近に見える。でも、雲がだんだん下がってきたなあ。
再び車中から_1
再び車中から_2

国宝『仁科神明宮』(1)
直前に三浦三崎の海南神社を拝観した折に、社殿の様式が神明造であると知った。伊勢神宮に代表される神明造は、出雲大社に代表される大社造や住吉大社に代表される住吉造と共に、もっとも古い神社建築様式とされる。神明造は奥行きより幅が大きく、高床式倉庫から発展し穀物の代わりに神宝を納めるように変化したと考えられているそうだ。
わかったようなわからないような理解のままだったが、国内最古の神明造にして、神明造としては唯一国宝に指定されている『仁科神明宮』の本殿等をこれから拝観するという。しかも、本来ならば、普通ならば、あまりはっきり撮影することが困難な本殿が比較的容易に撮れるようなのだ。説明を聞いて、心が躍った。
神明宮到着寸前の辺りの眺望
ちょっと雲が掛かりだしたのが気がかりだ
神明宮到着寸前の辺りの眺望
一の鳥居
一の鳥居
駐車場からの眺望
うん、これならいいぞ。このときはそう思った。
駐車場からの眺望
ご神木
三本杉なのだが、真ん中の木は折れてしまった。
ご神木_1
ご神木_2
ご神木_3
ご神木_4
二の鳥居
二の鳥居
三の鳥居と神門とが見える
三の鳥居と神門とが見える_1
三の鳥居と神門とが見える_2
三の鳥居と神門とは遠目には近接しているように見えたが、実際にはかなり離れていた
三の鳥居と神門とは遠目には近接しているように見えたが、実際にはかなり離れていた
本殿等を西側(左側)から見る
この時は、これ以上近接しての撮影はできないと思っていた。実はもっと手前から撮ることができた。その画像は次回取り上げる。神門、中門(国宝)、本殿(国宝)が並ぶ。実に厳かな感じが一帯を支配している。
本殿等を西側(左側)から見る_1
本殿等を西側(左側)から見る_2
本殿等を西側(左側)から見る_3
本殿等を西側(左側)から見る_4
神門
真横から見た様子
神門_1
正面から見た様子
神門_2

 

ミステリーツアーに参加してみた(2)

八ヶ岳PAを出る
まだしばらくは八ヶ岳が見えた。雪がないとそれほど威圧感がないように感じる。
見える限りは八ヶ岳の姿を見ておこう
見える限りは八ヶ岳の姿を見ておこう
少し遅めだが、会費についている昼食の弁当を食べる。山の中でも、海の幸の弁当なんだ。私は美味しくいただいたが、ミステリーだということで弁当の中身を知らされておらず、気に入らない参加者もいたようだ。食べ物の用意は難しいものだ。
会費に含まれている昼食の弁当を食べる
八ヶ岳も少し見えにくくなってきた
八ヶ岳も少し見えにくくなってきた
諏訪湖を眺める
ほどなく諏訪湖が見えてきた。バスはかなりスピードを出して走行している。車窓からは、電線が邪魔になり良い写真が撮れない。そうしている内に、諏訪湖も過ぎてしまった。
ちょっと雲が多めになってきたのが、気になる。この先、大丈夫なのだろうか。
諏訪湖を眺める_1
諏訪湖を眺める_2
諏訪湖を眺める_3

次はどっち
中央自動車道をそのまま進むのか。あるいは、長野自動車道に分岐していくのか。よく行ったのは諏訪まで。その先に行ったのは、ずいぶん昔のことになる。
結果、長野自動車道に分岐した。私の座席は右側だったので、この後は、車中からの景観撮影は無理になってしまった。ゆえにずっと写真無しに。It's my Sleeping time.

北アルプスの山並みが見えた
安曇野スイス村というところに立ち寄る。お土産を買うだけの立ち寄りだ。お土産は別問題にして、ここからの景観がなかなか良い。北アルプスの山々が見えるのだ。車中から撮るのと違って、ガラスの反射などはないが、少し雲が出てきたようだ。
さすが日本の屋根の北アルプスだけあって、雪もある程度以上残っているようだ。高い山が見えるところに住んだことがなく、わけもなく興奮する。そのくせ山の名前がまるっきりわからない。ここの売りは景観の良さだと思う。でも、HPを見ても売店の商品のPRばかり。ちょっとセンスが欠けているのではないかと思う。
北アルプス_1
北アルプス_2
北アルプス_3
北アルプス_4
北アルプス_5
北アルプス_6
北アルプス_7
建物
建物
またまた山を見ておく。外は結構涼しいというより寒く感じる。雲は大丈夫だろうか?
またまた山を見ておく_1
またまた山を見ておく_2
またまた山を見ておく_3
またまた山を見ておく_4
またまた山を見ておく_5
またまた山を見ておく_6
またまた山を見ておく_7

 

ミステリーツアーに参加してみた(1)

大分前に行き先不明の1泊2日のバス旅『ミステリーツアー』に申し込んでいた。あまり以前のことだったので、申し込んでいたこと自体を忘れかけていたほどだった。勝手に群馬県から新潟県の方を見て回るのではないかと予想したのだが、バスは中央高速をひた走り始めた。最初から予想は大外れ。(^_^;)

都庁の建物群
未だに新宿のバスタではなく、都庁の地下駐車場への集合だった。10分ほど荷物を抱えてえっちらおっちら。ついでに、都庁の建物群を撮ってみた。見飽きるほど見てはいるのだが、写真を撮ったことはあまりなかった。
都庁の建物群_1
都庁の建物群_2
都庁の建物群_3
都庁の建物群_4
途中の様子
とにかくどこに行くのかよくわからない。前夜の夜更かしと風邪薬の服用とでうっかり居眠りをしているうちに、富士山が見えるエリアは通過してしまったようだ。
談合坂SAにいたツバメ
暇つぶしに撮ってみた。夏鳥は全く撮れていないので、軽い練習になればと思う。でも望遠端が135ミリでは、練習にもならないなあ。
談合坂SAにいたツバメ
車窓から高い山々が見えてきた
山の名前は私はさっぱりわからない
車窓から高い山々が見えてきた_1
車窓から高い山々が見えてきた_2
車窓から高い山々が見えてきた_3
車窓から高い山々が見えてきた_4
車窓から高い山々が見えてきた_5
車窓から高い山々が見えてきた_6
八ヶ岳が見えてきた
雪がほとんどないなあ。そんなに低い山々ではないはずなのに、こんなに早くから雪が消えるものかと、意外に思った。
八ヶ岳が見えてきた
珍しい事故
向こう側の車線の材木運搬トラックが、居眠り運転を起こしたのだろうか。それが対向車線にえらいとばっちり。直径50cm前後のかなりのごつい材木が飛んできたようだ。私は、目の前のサーフボードが飛んできたことがあるが、対向車線からの物質の飛散は経験がない。発煙筒をかざしている人危ないなあ。何をしているのか、近くまでわからなかった。
珍しい事故_1
珍しい事故_2
珍しい事故_3
気を取り直して八ヶ岳を見る
気を取り直して八ヶ岳を見る_1
気を取り直して八ヶ岳を見る_2
気を取り直して八ヶ岳を見る_3
八ヶ岳PA到着
蓼科に毎年のように行っていたが、このPAに寄るのは初めてだ。この先、名古屋の方に向かうのだろうか。はたまた、長野の方に向かうのだろうか。
八ヶ岳PA到着_1
名前通り八ヶ岳がはっきり見える。前述通り、雪は残っていないようだ。
八ヶ岳PA到着_2
八ヶ岳PA到着_3
八ヶ岳PA到着_4

 

みさきまぐろきっぷを試してみた(11)

街をぶらつきながら開店を待つ
一番見たかった建物はここ
三崎館本店。私は、こういう木造の建物が好きだ。外観を見て、後で建物内部も見ようと考えたのだが、…。
三崎館本店_1
三崎館本店_2
三崎館本店_3
三崎館本店_4
三崎館本店_5
三崎館本店のHPへjump
一番、裕福そうなお宅
三崎発全国区の商売をなされているお宅だったかと思う
一番、裕福そうなお宅_1
一番、裕福そうなお宅_2
瀟洒な住宅と庭とが見える
いまは、何の施設になっているのだろうか?
瀟洒な住宅と庭とが見える
朽ち果てそうな建物が少し改修された
なんだか、風情がなくなってしまった感じだなあ。月曜日は定休日の店が多いのだろうか?
朽ち果てそうな建物が少し改修された
きちんと商売している店もあった
業態によるのかなあ。水商売は押しなべて不振なようだ。
きちんと商売している店もあった
最後の時間つぶしにお土産を買うために『うらり』に立ち寄る
『うらり号』
さすがにこの時間(10:40頃)になると、客が結構集まってきている。『うらり号』にも客がいっぱい。
3J8A0674_R_20170609202210bc3.jpg
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『さんしろ』はやや寂しいかなあ
貸し切り状態だった
『さんしろ』はやや寂しいかなあ_1
『さんしろ』はやや寂しいかなあ_2
いよいよ食事時間に
立花別館
2-3分前に三崎館本店に向かった。入る気満々で門を見ると、『本日は予約のお客様で満員です…』の札が下がっていた。何たることか。仕方なく、隣の店に入った。
みさきまぐろきっぷで食べることができるのは、4種類ほどだった。そこから写真のものをチョイスした。
せっかくの料理だったが、1時間ほど前から咳が出だして、熱も少しあるような感じ。味が良くわからないままに食べることに。
油壷や小網代湾などを含めて丸一日楽しむつもりだったが、半日でリタイア。締まらない結末と相成った。いつか、リベンジしなくっちゃ。

立花別館_1
立花別館_2

以上で、『みさきまぐろきっぷを試してみた』シリーズは終了です。最後までご覧いただき、ありがとうございました。

 

みさきまぐろきっぷを試してみた(10)

本瑞寺
源頼朝が三崎に建てた三御所の一つ「桜の御所」跡に建つ寺院。また、平安以来の武家の名門、三浦一族の菩提寺でもある。海に囲まれ温暖な小高い丘の上にある。往時の景観の良さは如何許りだっただろうか。いまの境内には、桜に代わり梅が多く植えられているようだ。
寺の施設関連
急こう配の階段
他にもアクセスの方法があるのだろうが、私はこの急こう配の階段を利用している。
急こう配の階段_1
振り返るとこんな景観が待っている
急こう配の階段_3
急こう配の階段_4
階段を上り切った辺りにある無縁仏の碑
階段を上り切った辺りにある無縁仏の碑_1
階段を上り切った辺りにある無縁仏の碑_2
階段を上り切った辺りにある無縁仏の碑_3
本堂
本堂_1
本堂_2
三浦市が設置した説明板
ここに桜の御所があったことがわかる。そのころは、本当に素晴らしいところだったのだろう。源氏三代も北条政子もここで観桜の宴をしたようだ。
三浦市が設置した説明板
鐘楼と梵鐘
本瑞寺には、『康永三年(1344年)甲申三月』の銘のある神奈川県指定重要有形文化財の梵鐘があるという。この梵鐘だろうか。
鐘楼と梵鐘_1
鐘楼と梵鐘_2
鐘楼と梵鐘_3
山門
文政四年(1821年)7月建立の山門
山門_1
山門_2
山門_3
山門_4
山門_5

岩村透男爵関連
岩村透男爵の銅像
岩村透は、近代美術の先覚者にして東京美術学校教授だったそうだ。晩年、病気療養のため三崎に別荘を構え、47歳で逝去。本瑞寺に眠っている。1917年の逝去だそうで、今年は没後ちょうど100年後。
胸像は、東洋のロダンといわれた朝倉文夫の作品。お寺の方の説明では朝倉文夫は男爵を敬愛していたのだそうだ。
胸像の下の文言は恥ずかしながら読み取ることができなかった。

岩村透男爵の銅像_1
岩村透先生と書かれてある
岩村透男爵の銅像_2
岩村透男爵の銅像_3
岩村透男爵の墓
お寺の方が男爵の墓をも見たら如何ですかと勧めてくれた
岩村透男爵の墓_1
岩村透男爵の墓_2

俳人松本たかしの墓と句碑
『宝珠不壊蘇鉄の花の秋に入る』…半分ほどしか読むことができなかった。もちろん解釈も…。
俳人松本たかしの墓と句碑

鎌倉タイムの本瑞寺を取り上げたページへjump

 

みさきまぐろきっぷを試してみた(9)

三崎昭和館を後にして、街をぶらぶらして、11時の食事時間開始まで小一時間ほど待つことに。あまりに早い時間に出てきたので、時間つぶしが大変だった。

街の目についた建物など
ちょっとくたびれた感のある建物
ちょっとくらい補修したほうがよさそうに思うが
ちょっとくたびれた感のある建物
トンビ
『うざい爺さんだな。あまり近くに寄るんじゃない。脅かすぞ…』とでも言いたげだった。爺さんの粘りに根負けしたかな?実は18-135ミリの短いレンズなので、絶対的な距離はだんだん近づいてきて最後には1m前後。少々ビビっていた。
トンビ_1
トンビ_2
トンビ_3
トンビ_4
トンビ_5
向こう岸
北条湾を挟んだ向こう岸。月曜日だというのに、暇人が多い感じ。小学生か中学生かというのもいるみたい。でっかい橋脚は城ヶ島大橋のもので、城ヶ島大橋も見える。
向こう岸_1
向こう岸_2
向こう岸_3
向こう岸_4
向こう岸_5
向こう岸_6
こんなお店もある
大漁旗の需要が減った今、なんでも手掛けるようだ
こんなお店もある_1
こんなお店もある_2
こんなお店もある_3
こんなお店もある_4
くろば亭
ヒルナンデスでも紹介されていた。マグロのカマ料理が名物とか。美味しいだろうけど、高いよなあ。商売繁盛店らしく、準備作業も確かに勢いがありそうな感じだ。見ていたら、まぐろきっぷを手にした若い女性が下見に来た。きっと、ガイドブックで評判なんだろうな。でも、まだ11時の開店まであと数十分もあるよ。
くろば亭_1
くろば亭_2

 

みさきまぐろきっぷを試してみた(8)

チャッキラコ/三崎昭和館(2)
この元商家は、前回示したゾーンの隣に店蔵があり、その奥に二間続きの和室がある。説明の都合上、二間続きの和室の展示を先に取り上げる。
二間続きの和室
前回記載した通り、『花嫁衣裳の今昔』という特別展示があり、もう一つ、常設の企画である『チャッキラコ』の資料を展示してあった。
『花嫁衣裳の今昔』
このスペースで案外考えた展示内容だった
こちらは、結納の変遷
旧憲法の時代には、娘を嫁がせた父家長への結納だったのか。昭和9年の目録の冒頭には、帯代として150円と記載されていた。昭和10年(1935)の物価で、大卒初任給が90円(20万円)とかだそうだ。換算すれば、150円は33万円程度の金額になる。そんなものだったのかなあ。
こちらは、結納の変遷_1
新憲法の下では、花婿から花嫁へのものにと性格を変えたようだ。そこには、帯代のような項目はもはや存在しない(筈だ)。
こちらは、結納の変遷_2
衣装の変遷
以前の花嫁衣裳は、前回示した衣装だ。昔の主流がこういうものという意味合いだろう。
いきなり奥に通された_3
現在の花嫁衣裳は、こういうものを着用するケースが多いという例だろう。何を着用するのも自由な時代であるから。
現在の花嫁衣裳
『チャッキラコ』
三崎の下町、花暮と仲崎地区に伝わる女性だけの小正月の行事。国指定重要無形民俗文化財であり、なおかつ、ユネスコ無形文化遺産に登録されてもいる。時間があれば、見に行くべき行事のようだ。
四、五才から一二才までの踊り手の少女達と、母親や祖母による唄い手から成り、昔は少女から娘になると踊り手をやめたと云われているそうだ。楽器を使わず、素唄に合わせて、揃いの着物を着た少女達が、扇やチャッキラコを持って舞う。昔はそれぞれの正月の晴れ着で踊ったそうだ。
左の衣装が、チャッキラコに使用される衣装。ケースの中に舞いに使用される扇とチャッキラコとがある。ガラスケースの上にあるものもチャッキラコだが、かなり小さいもの。もしかしたら、幼女用のものかもしれない。

『チャッキラコ』_1
『チャッキラコ』_2
記念の写真等が飾られてあった
『チャッキラコ』_3
その他
三崎では目につく吊るし飾り
確か、伊豆の稲取地区に遊びに行った際に、吊るし飾りがにぎにぎしく飾られていて、びっくりした記憶がある。あちらの始まりは江戸時代だそうだ。もしかしたら、三浦三崎も駿河湾を挟んで向かい合っている漁港同士。文化の伝播があったのかもしれないなどと勝手に思った。
三崎では目につく吊るし飾り_1
三崎では目につく吊るし飾り_2
床の間はやや寂しげに
展示物に押されてこの部屋の中心であるはずの床の間は、ちょっと寂しそうに見えた
床の間はやや寂しげに
店蔵
内部はこんな風。展示スペースになっていた。
店蔵_1
店蔵_2
蔵の防火扉はがっしりしたものだった
店蔵_3
蔵には中二階があった
店蔵_4
店口には珍しいものが
これが銭函か。来場者のお気持ちを入れてもらう入れ物として利用されているようだ。
店口には珍しいものが

 

みさきまぐろきっぷを試してみた(7)

チャッキラコ/三崎昭和館(1)
私の大好きな三崎昭和館。昔にタイムスリップしたかのようだ。蔵造りの商家を展示披露しているだけなので、あっという間に見終わってしまう規模なのだが、私にはあまりにも懐かしい昔の様子が、再現されている。入場は無料で写真撮影可。
店口
まだ準備中だったが、気持ち良く入れてもらうことができた
店口_1
かつての店口は、ちょっとしたお土産品の販売と係員詰め所になっている
店口_2
いきなり奥に通された
この小間は、居間とお勝手と店蔵と奥の間とにすぐ飛んでいくことができる便利の間。この小間と奥の間とで、『花嫁衣裳の今昔』というテーマでの展示がなされているようだ。ついでに言えば、わが夫婦もこのような衣装で、カトリック教会で挙式を行った。
いきなり奥に通された_2
いきなり奥に通された_3
店口にすぐ出ることができる居間(1)
懐かしい初期のアナログのTV。もちろん白黒のころのものだろう。ちゃぶ台があり、たばこ盆もあった。
店口にすぐ出ることができる居間(1)_1
店口にすぐ出ることができる居間(1)_2
店口にすぐ出ることができる居間(1)_3
店口にすぐ出ることができる居間(1)_4
お勝手
立派な竈があった。我が家の飯炊き役だった私には懐かしい羽釜が残っていた。隣が製材所で木っ端の切れ端がいくらでももらえたので、いつまでも竈が現役選手だった。
お勝手_1
お勝手_2
食器棚
なぜか、ここでは武田修宏さんも立派な現役選手だった
食器棚
なぜここにと訝ったもの
魚鼓とか魚板とか言われるもの。確か、黄檗宗などの寺院で見かけるが。何故ここにおいてあるのだろうか。至近距離で見て、ちょっと興奮してしまった。
なぜここにと訝ったもの_1
なぜここにと訝ったもの_2
お勝手の裏の収納スペース
火気のそばに衣装を格納して大丈夫かと思わないでもないが、余分なスペースなどなかったのだろう
お勝手の裏の収納スペース
棚に入りきらない食器類
この家に伝わる食器か他の家からの寄贈品か定かではないが、見事なものがそろっていた
棚に入りきらない食器類
こんなスペースも
お茶ツボなどがあった
こんなスペースも
店口にすぐ出ることができる居間(2)
炭火アイロンかな。随分古いものだなあ。自分の着物は自分で洗い張りしていた祖母は、和裁などでは鏝を火鉢にかざして使ったりしたが。
店口にすぐ出ることができる居間(2)_1
ミシンは蛇の目だった。古いとほぼシンガー社のミシンの展示が圧倒的に多いと思うが、昭和時代の展示だと国産ミシンも健闘していたのだろう。
店口にすぐ出ることができる居間(2)_2
ラジオも蓄音機も時代物だ。よく聞こえないのにラジオにしがみついて聞いていた記憶が。
店口にすぐ出ることができる居間(2)_3
店口との仕切りにはすごい防火扉が
店口との仕切りにはすごい防火扉が

蔵造りの商家をそのままに、チャッキラコの資料や三崎の昭和の暮らしが展示されている「三崎昭和館」。昔懐かしい昭和の本・玩具・レコードジャケットや映画ポスター、三崎出身の作曲家・小村三千三のコーナーには貴重な直筆の楽譜もあります。

 

みさきまぐろきっぷを試してみた(6)

海南神社(2)

海南神社拝殿
何とも明るい感じのする拝殿だ。気持ちよく参拝ができそうに思う。
海の男には、シンプルでしっかり守ってくれる神様が良いのだろう
海南神社拝殿_1
海南神社拝殿_2
光念寺にも筌龍弁財天が祀られているようだ。私には、その2つの関係が良くわからない。が、三浦市が説明書きを掲げているのだから、公式的には、海南神社に軍配が上がったということなのだろうか?
海南神社拝殿_3
筌龍弁財天
治承4年(1180)、源頼朝の挙兵に呼応して和田義盛は衣笠城に立て篭り、畠山、江戸の諸軍と戦ったが利あらずして衣笠城を落ち、海路房州に逃れんとしました。その時大暴風雨に遭い流されて兵糧つきた時、龍神に祈った処が「筌」という竹製の漁具が流れ来り、これを用いて魚をとり飢えをしのいだという事から、建久三年(1192)、鎌倉幕府が成立するや、領地であるこの地に「筌」を祀り、弁財天堂としたのがこの筌龍弁財天の縁起であります。この弁財天は八臂弁財天といい、大漁満足、財宝如意、容色端正、弁智増上、芸能上達等の希望を叶えてくださる女神であります。(三浦七福神)


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拝殿・幣殿・本殿が見える。手前側が本殿。
拝殿・幣殿・本殿が見える
次の祭礼『八雲祭』は、6月3日だそうだ。境内では早くも準備作業が始まっていた。記事掲載時点では終了したことになる。
次の祭礼『八雲祭』は、6月3日だ_1
次の祭礼『八雲祭』は、6月3日だ_2

食に関する権威の神社
千葉県千倉町の高家神社から分社、お迎えした相州海南高家神社。そこには、わが国における料理の祖神として食にかかわる人々に崇められている磐鹿六雁命が祭神として祀られている。また、包丁塚も包丁奉納殿もある。
ということで、毎年四月下旬には境内にて、包丁供養感謝祭・奉納料理奉告祭・古式による包丁式がおこなわれるのだそうだ。一度見て、写真にも撮りたいものだ。

相州海南高家神社
祭神磐鹿六雁命は日本書紀(720年)第十二代景行天皇が、悲劇的な最後をとげた日本武尊、東征の跡を偲んで、三浦半島から安房上総に巡行された時、天皇の料理賄方を司った神様です。後に宮中にあって大膳職の長となり、わが国における料理の祖神として食にかかわる人々に崇められています。
食に関する権威の神社_1
食に関する権威の神社_2
包丁塚
神社右手の包丁塚は、人の食生活の伴侶として務めを終えた包丁に感謝を捧げ、人の食膳に供された鳥獣魚菜の霊をなぐさめる碑です。
食に関する権威の神社_3
包丁奉納殿
使い古された包丁に労わりの心をこめて納めるところです。また、永かった料理賄の仕事場を去る料理人が愛用の包丁を納めるところでもあります。

『みさき食の神フェスティバル』周知記事へjump

馬堀法眼善孝画伯による磐鹿六雁命の大絵馬
あまりにも、巨大な絵馬。前面に絵画保護のガラスがあるので、反射してしまってよく撮れない。そこに描かれているのが磐鹿六雁命である。
馬堀法眼善孝画伯による磐鹿六雁命の大絵馬

その他の境内社
けったいな神社と言ったら叱られるだろうか?
疱瘡神社
源為朝を祭神とする。疱瘡の神か。そのほかにも。効能の盛り込みすぎでは。
疱瘡神社_1
疱瘡神社_2
御霊神社
こちらは鎌倉権五郎景政を祭神とするのか。眼病に霊験ありとな。
御霊神社_1
御霊神社_2

 

みさきまぐろきっぷを試してみた(5)

海南神社(1)
千年の昔から三浦を守る三浦半島総鎮守にして、三浦一族の祈願所である海南神社。
祭神の藤原資盈が貞観6年(864年)、博多から出航して任地の筑紫国へ赴く途中で暴風によって三浦半島に漂着と資料への記載がある。博多も筑紫国の一部であろうに、わざわざ船を仕立てて向かったのだろうか。そして、暴風雨に遭って、なんと三浦三崎まで流されたのか。もしかしたら、わざと流されたのかもしれない。
そして、三浦三崎では2年の年月を過ごしただけだったが、民衆の支持が篤かったようで、すぐに祭神として祀られることになったようだ。

海南神社拝殿
見事なものだ。見た目が相当に美しく感じる。それにしても、吊り下げられている綱の数があまりに多い。漁港の街の守り神とあれば、当然なのかもしれないが。
海南神社拝殿
海南神社が見えてきた
海南神社が見えてきた_1
海南神社が見えてきた_2
鳥居前の狛犬
鳥居前の狛犬_1
鳥居前の狛犬_2
御手洗池に架かる神橋
御手洗池に架かる神橋
神橋後方の狛犬
神橋後方の狛犬_1
神橋後方の狛犬_2
源頼朝寄進の大銀杏
頼朝は、三浦三崎に三つの御所を立てたほど。相当に気に入っていたようだ。その頼朝が寄進した樹齢800年の大銀杏。頼朝寄進とは恐れ入るが、その乳根のすごさには、これまたびっくりさせられる。
源頼朝寄進の大銀杏_1
源頼朝寄進の大銀杏_2
神楽殿
ローカル色の強い神楽殿。面神楽とやらを見てみたいものだ。
神楽殿_1
神楽殿_2
神楽殿_3
神楽殿_4
三浦市三崎の海南神社に伝わる「面神楽」は、毎年11月初めの未(ひつじ)の日の翌日、翌々日の申(さる)、酉(とり)の両日、神社境内の神楽殿で奉納されます。関東では一般的に里神楽・神代神楽などと称されますが、三崎では面を被る事から「面神楽」といいます。
演目は現在まで国固め、恵比寿の舞、湯立、岩戸開きなど多くの演目が伝承されており、「国固め」で始まり、最後は「岩戸開き」で終わります。
演目中には、海神に漁の安全や大漁祈願を願った「恵比寿の舞」や「浦島太郎」、世の中を平和にする泰平の舞を舞う「三人囃子」など漁業を中心に発展してきた三崎特有のものもあり見逃せません。
現在、海南神社面神楽神楽師会により継承され、三浦市指定重要無形民俗文化財として保存されています。


鎌倉タイムの海南神社の記事へjump

清和天皇の治世、皇位継承争いに絡んで讒訴を蒙り左遷された藤原資盈が貞観6年(864年)、任地の筑紫国へ赴く途中で暴風によって三浦半島に漂着、当地の長に推戴された。その後資盈は房総の海賊を平定し、また福祉に努めたため地元民から崇敬され、貞観8年(866年)に資盈が没すると、地元民は祠を建てて祀った。天元5年(982年)になると、現在の地に社殿が建立され、三浦郡の総社となった。
承応2年(1653年)には正一位に列せられ、享保4年(1719年)には三浦半島の総鎮守となった。明治6年(1873年)に郷社となり、明治40年(1907年)に神饌幣帛料共進神社に指定されている。

 

みさきまぐろきっぷを試してみた(4)

城ケ島から三崎漁港に回ってきたが、まだ9時前。店は1店たりとも開店していない。ちょっと古ぼけた建物を撮っていたら、円覚寺の雲水さんたちが托鉢に来ているのに遭遇した。こちらもいい加減に早すぎたと思っていたが、彼らは鎌倉から歩いてきたのだろうか?
円覚寺の雲水さんたちを見かける
『和風総本家』で取り上げていたとおりのいでたち。彼らが被る笠を番組では取り上げていたのだった。
托鉢行脚には、雨をはじく笠の存在がありがたかったのだろう。雲水さんたちはよく声が出ていたなあ。恥ずかしさなどは修行の初期段階でどこかへ行ってしまったのだろう。
円覚寺の雲水さんたちを見かける_1
円覚寺の雲水さんたちを見かける_2
円覚寺の雲水さんたちを見かける_3
円覚寺の雲水さんたちを見かける_4
くたびれた建物が目立った
往時は瀟洒な建物だっただろうに、その時期が過ぎてしまったのだろうか。そのまま埋没しそうだったところにみさきまぐろきっぷの登場か。う~~ん。静かに眠りにはつかせてくれなかったのか。
ものの哀れを感じてしまう
ものの哀れを感じてしまう_1
ものの哀れを感じてしまう_2
ここは後程再訪する。私のお気に入りの施設だ。
ここは後程再訪する_1
ここは後程再訪する_2
きれいなのは、街角の花さんばかりか
きれいなのは、街角の花さんばかりか_1
きれいなのは、街角の花さんばかりか_2
きれいなのは、街角の花さんばかりか_3
ここはきれいな建物だった
ここはきれいな建物だった
またも、三崎公園前の入り江に出てしまった
雲水さんたちを追いかけているうちに、またまた海の前に。一応は三崎漁港の本港だそうだ。
水中観光船『にじいろさかな号」が目の前に。9時前後では始業前の点検といったところだろうか。
水中観光船『にじいろさかな号」が目の前に
釣り船などは出払ってしまったようで、閑散としていた
釣り船などは出払ってしまったよう_1
釣り船などは出払ってしまったよう_2
気を取り直して、またまた街並み探索へ
少し見栄えのするお店2軒を取り上げる
山田屋酒店
山田屋酒店_1
山田屋酒店_2
葉山商店
朝早くなので開店前なのだろうか?
葉山商店_1
葉山商店_2

 

みさきまぐろきっぷを試してみた(3)

城ケ島漁港
いろいろな相模湾も太平洋も東京湾も、みな漁場。魚がたくさん獲れそうだなあ。資源を根こそぎというのではない漁業が生きる道かな。
大小の船舶が
城ケ島漁港_1
あの大きな橋梁が城ヶ島大橋
城ケ島漁港_2
漁協直売所に運ばれた魚。今食べたら最高においしいかな。
城ケ島漁港_3
城ケ島漁港_4
城ケ島漁港_5

その他
津波の避難階段
津波が怖いのはわかるが、避難するのも高齢者や身体障害者にはかなり難しいことだと改めて実感させられた。何もない平時から訓練をしていないと難しいかなあ。
津波の避難階段
交番の建物の上部
灯台のような外観にしてあった
交番の建物の上部

体調がなんだかすぐれないので、ハイキングコースを歩き、馬の背洞門、ウミウ展望台、城ヶ島公園を見て回るのはパスした。後で気が付いたが、路線バスを白秋碑前で下車すれば、それほど歩かずとも済んだかもしれなかった。ともあれ、城ケ島を離れ、三崎に戻る。

三崎港周辺の案内図
三崎港周辺の案内図
北条バス停で降りる
源頼朝は、風光のすぐれた三崎に三つの御所を設けた。桜・桃・椿の御所がそれ。椿の御所は、城ヶ島大橋からすぐのところにあるが、今回はパスしてしまった。桜の御所の本瑞寺の様子がとても素敵だったので、椿の御所をパスしたことを後悔した。
興味のある方は、鎌倉タイムの該当ページへjump
北条は、地図でもおわかりいただけると思うが、北条湾という入り江のどん詰まりのところだ。三浦一族が滅亡した後、後北条が城主となったりしたので、この名が残るのだろうか。
北条バス停で降りる
見えているのが北条湾
頭を空っぽにして、日がな一日漁船を見ているのが好きだ。中学生までの自分に戻ることができるからかもしれない。
見えているのが北条湾_1
見えているのが北条湾_2
見えているのが北条湾_3
見えているのが北条湾_4
見えているのが北条湾_5
見えているのが北条湾_6
見えているのが北条湾_7
見えているのが北条湾_8
出港する漁船
こういう生活にも憧れるなあ。大きな収入は望めないかもしれないが、食いはぐれもなさそうだ。
出港する漁船_1
出港する漁船_2
出港する漁船_3
出港する漁船_4
出港する漁船_5
出港する漁船_6
出港する漁船_7
出港する漁船_8
出港する漁船_9
出港する漁船_10
出港する漁船_11
出港する漁船_12
出港する漁船_13
出港する漁船_14
出港する漁船_15
出港する漁船_16

 

みさきまぐろきっぷを試してみた(2)

ちょっとだけ移動して城ケ島灯台を見ることにした

遊歩道の歩き始めの辺り
リアス式海岸
前回記事の末尾に『リアス式海岸と富士山』とを取り上げたが、リアス式海岸のことはあまり出していなかった。それを反省して、こんな感じだというのを示したい。
リアス式海岸_1
リアス式海岸_2
そしてその先には富士山が
そしてその先には富士山が_1
そしてその先には富士山が_2
城ケ島京急ホテル
城ケ島京急ホテル
城ケ島灯台にて
そんなに背高のっぽの灯台ではないが、海上を航行している船舶からはよく見える灯台のようだ
入口
城ケ島灯台_入口
階段を上った先にはちょっとした公園もどきのスペースが
城ケ島灯台_階段を上った先_1
城ケ島灯台_階段を上った先_2
城ケ島灯台_階段を上った先_3
城ケ島灯台_階段を上った先_4
城ケ島灯台_階段を上った先_5
城ケ島灯台_階段を上った先_6
城ケ島灯台_階段を上った先_7
城ケ島灯台_階段を上った先_8
城ケ島灯台_階段を上った先_9
城ケ島灯台_階段を上った先_10
灯台
あまり高い灯台ではないし、地面からの高さもさほどではない。したがって私も落ち着いて撮ることができている。
灯台_1
灯台_2
灯台_3
灯台_4
こいつも目立つ
いっぱいいるものだ。135ミリまでのレンズでも何とか撮ることができる。
こいつも目立つ
やっぱり富士山の絵が欲しくなる
やっぱり富士山の絵が欲しくなる
城ヶ島灯台は、神奈川県南東部、三浦半島南端沖に浮かぶ城ヶ島西端の長津呂崎にある灯台。標高約 30mの崖上に建ち、相模灘を照らす。周辺は太平洋を望む景勝地で、海岸の磯は観光客で賑う。日本で5番目に点灯した西洋式灯台で、現在の灯台は2代目のもの。

 

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