散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

みさきまぐろきっぷを試してみた(1)

横浜駅から2960円のみさきまぐろきっぷを試してみた。
乗車券は、横浜から三崎口までの電車賃と現地でのバス乗り放題を含む。さらに、これに食事券が付き、施設利用券もしくはお土産券が付く。これで一日楽しむことができるので、結構お得な企画切符だ。
これで1日目いっぱい楽しもうと考えた。ところが私の体調が良くなく、1日目いっぱい楽しむところまでは粘ることができなかった。

岬巡りのバスからの眺め
三崎口駅からは京浜急行バスを利用する。その行き先が三崎&城ヶ島である。まさしく『岬巡りのバス』そのものだ。
私自身、漁港の街で生まれ育ったので、故郷に帰ったような気になる。海が見えてくると、興奮度が上がってくるのが自分でもよくわかる。
岬巡りのバスからの眺め

城ヶ島
最初に城ヶ島大橋を渡り、少しだけ城ヶ島を感じてみようと思った。
三崎漁港から出入港する船の様子
みうら海王丸
拡大して乗船している人たちの様子を見ると、釣り客ではなさそうだ。やけにお堅い様子からすると、お役人さんの調査だろうか?そう思ったのだが、やっぱり釣り船かな。
みうら海王丸_1
みうら海王丸_2
第三開洋丸
調査船と船腹に記載されている。沖合域海洋調査の船舶とのこと。学術研究船「淡青丸」( 独立行政法人 海洋研究開発機構)が払い下げられ、「第三開洋丸」(芙蓉海洋開発)に衣替えしたようだ。ちょっとくたびれた感じは否めない。
第三開洋丸
三崎⇔城ヶ島フェリー『さんしろ』
城ヶ島大橋はかなり高いところを通る。高所恐怖症の人にはつらいコース。そういう方のために、こちらで行く手段もある。三崎の最初の漢字と城ヶ島の最初の漢字とをつなぎ合わせたネーミングで『さんしろ』か。う~~ん。乗り放題1,000円 片道500円は、ちょいと高いかなあ。
三崎⇔城ヶ島フェリー『さんしろ』_1
三崎⇔城ヶ島フェリー『さんしろ』_2
鹿島丸
茨城県の船舶。海洋高等学校新実習船で昨年竣工したホッカホカの実習船のようだ。海洋技術科3年生B班の出港式が6月4日に行われるそうだ。
鹿島丸
第二十八えいあん丸
これは一見して釣り船とわかる
第二十八えいあん丸_1
第二十八えいあん丸_2
第二沖右衛門丸
これも釣り船だろう。随分お早い帰港だ。夜釣りだったのかな?
第二沖右衛門丸_1
第二沖右衛門丸_1
第二沖右衛門丸_2
楫(かじ)の三郎山
三崎にある海南神社の祭神藤原資盈公が大宰府からこの地に逃れてきた時のエピソードに関係するのか。随分、古い話なんだ。
楫(かじ)の三郎山_1
楫(かじ)の三郎山_2
城ヶ島にあるこの楫(かじ)の三郎山は、対岸の三崎にある海南神社の祭神藤原資盈(すけみつ)公が貞観六年(864)故あって九州博多を出帆し、途中暴風にあい漂流の末、三崎に着岸されました。
このとき、御座船の楫とり役を司っていた家臣三郎をこの山に祀り、楫の三郎山と呼ぶようになったと伝えられています。
また資盈(すけみつ)公が「わが住むべき地があるか」と問われたので、三郎がそのとっていた楫で占い、楫がおちた所に鎮座、これが神号になったとも伝えられています。
大正初年頃までは、この山に主の大蛇が住んでいるから登るとたたりがあるとの言い伝えがあり、誰一人登ったことがなかったといわれています。
今では、航海の安全と大漁を祈願する漁業関係者の信仰が厚く毎月七日、十七日、二十七日に多くの人々が参拝に訪れています。

リアス式海岸と富士山
三浦半島の先端からはこんな風に見えることが少なくない。まるで、空に浮かんでいるかのようだ。
リアス式海岸と富士山_1
リアス式海岸と富士山_2
リアス式海岸と富士山_3

 

川越を歩く(8)

喜多院(2)
鐘楼門(附:銅鐘)
国指定の重要文化財。仙波東照宮の門として建立されたらしい。その当時は、東照宮は、今の慈眼堂が建つ位置にあった。再建の記録がないことから、山門と同様に、寛永15(1639)年の川越大火でも焼失を免れた可能性があるといわれているそうだ。
鐘楼門(附:銅鐘)_1
鐘楼門(附:銅鐘)_2
鐘楼門(附:銅鐘)_3
山門(附:棟札)
ここが山門だと気づかない方も多いかもしれない。歴とした国指定の重要文化財だ。棟札によれば、寛永9(1632)年に、天海僧正により建立されたとわかる。寛永15(1639)年の川越大火でも焼失を免れ、喜多院では現存する最古の建物。
山門(附:棟札)_1
山門(附:棟札)_2
五百羅漢
ほかのメンバーは見に入ったが、私はもう一人のメンバーを探していて、今回はパス。外側から2ショットのみ撮影。負け惜しみでいうわけではないが、少し遠いところから静かに眺めるのも乙なものだ。
五百羅漢_1
五百羅漢_2

仙波東照宮
駿府で没した徳川家康公の遺骸を日光山へ運ぶ途中で法要が行われたことから建設された。日光・久能山とともに日本三大東照宮の一つであるとされ、国指定の重要文化財である。週末はもう一段階中の拝殿までは入ることができるようだが、平日は塀の外から覗くしかない。
童謡『あんたがたどこさ』発祥の地は熊本とされるが、異説では川越のこの仙波東照宮だという説もある。熊本の歌ならば、『あんたがたどどこさ』『肥後さ』などというやり取りはないはずという説は説得力がある。熊本の人のお叱りを受けてしまいそうな話だが。
仙波東照宮_1
仙波東照宮_2
仙波東照宮_3
幣殿および本殿は一部見えるのみ。拝殿までの進入が許されたときは、仕切り柵の間からもう少しクリアな画像が撮れるのだが。
仙波東照宮_4

仙波日枝神社
実に小さな神社であるが、本殿は朱塗りの三間社流造、銅板葺で国の重要文化財に指定されている。殆どの方は信じられないかもしれないが、ここから赤坂日枝神社が分祀されたという。
仙波日枝神社_1
仙波日枝神社_2
仙波日枝神社_3
日枝神社は、埼玉県川越市小仙波町の神社。旧社格は県社。もともと喜多院の境内にあったが、県道建設のため大正時代に仙波古墳群という前方後円墳を開削して喜多院門前に移転した。
円仁(慈覚大師)が喜多院を創建(天長7年・830年)したおりに、その鎮守として貞観2年(860年)に坂本の日吉大社を勧請したものであるといわれている。東京赤坂の日枝神社(旧官幣大社)は、文明10年(1478年)、太田道灌が江戸城築城の際に、この川越日枝神社から分祀したものである。(赤坂日枝神社もそう記述している)
本殿は朱塗りの三間社流造、銅板葺で国の重要文化財に指定されている。拝殿は老朽化が深刻だったため、近年、新拝殿が再建された。


以上で、今回の『川越を歩く』シリーズは終了です。最後までご覧いただき、ありがとうございました。

 

川越を歩く(7)

喜多院(1)
蔵造りの街並み、時の鐘と並んで、川越の代名詞のごとき寺院
多宝塔
埼玉県指定有形文化財(建造物)。なぜ、国指定の重要文化財になっていないのかと調べたら、老朽化により移築した際にかなりオリジナルのものに手が入ってしまったからのようだ。昭和48(1973)年に、現在地に移し、復元修理を施したそうだ。いずれ、国指定の重要文化財になるものと考えている。
多宝塔_1
多宝塔_2
有料ゾーンからの眺め
有料ゾーンの建物内部は撮影厳禁。撮っては見たいがルールには従わなければならない。かろうじて撮影が許されているお庭など屋外の分を撮ってみた。これがまた実に良い感じだ。
轉合(てんごう)の庭
家光公お手植えの桜(二代目)が中央に植えられてあった。非常に見事な庭だと思った。
庭(その1)_1
庭(その1)_2
庭(その1)_3
庭(その1)_4
庭(その1)_5
庭(その1)_6
曲水の庭
こちらの遠州流庭園も同様に見事
庭(その2)_1
庭(その2)_2
庭(その2)_3
庭(その2)_4
渡り廊下から
渡り廊下から_1
渡り廊下から_2
渡り廊下から_3
渡り廊下から_4
説明書きによれば、『轉合の庭』というようだ。『てんごう言って』とは『御冗談でしょう』的な意味合いの言葉らしい。たまたま読みかけの時代小説に盛んに出てくる。『癲狂(てんごう)』から出た語らしいとか。
渡り廊下から_5
その他
こちらからだと光線の加減がだいぶいい感じだ
その他_1
その他_2

慈覚大師が830年(天長7)に創建した天台宗の名刹で、正式には星野山無量寿寺喜多院という。
江戸時代初期、名僧天海大僧正が住職をつとめた寺として、また江戸城から移築された三代将軍徳川家光・春日局ゆかりの建物をはじめとする、多くの文化財を所蔵している喜多院の名は川越をというより、埼玉県を代表する寺院として全国的にも有名である。
徳川家康の信任を得ていた天海僧正が第27世住職になると、幕府からの厚い庇護を受け、江戸城から豪華な壁画や墨絵で装飾された「客殿」と呼ばれる家光誕生の間や、3代将軍家光の乳母として知られる春日局が使用していた「書院」と呼ばれる春日局化粧の間などが移築された。江戸城ゆかりの建造物に加え、山門・鐘楼門・慈眼堂などが重要文化財に指定されており、また隣接して、駿府で没した徳川家康公の遺骸を日光山へ運ぶ途中で法要が行われたことから建設された日本三大東照宮の一つである仙波東照宮もあり、江戸時代の香りを色濃く残す徳川家とゆかりの深い寺である。 また、日本三大羅漢の一つに数えられるこちらの五百羅漢は、人間の喜怒哀楽をよくとらえた様々な表情の石仏群でおよそ540体が境内に並び、観光客の人気を集めている。いずれも見学可能で、正月はだるま市・2月は節分会・春は桜まつりなどの催し物が開催され、四季折々の寺の風景も楽しめる。

 

川越を歩く(6)

ここから自由行動時間。喜多院に向かうことにする。その途中の様子。

川越キリスト教会
日本聖公会の小さなチャペル。気になる存在だったが、見学できないままだった。今回平日の午後一番の時間帯なので、聖堂の使用はなさそうだと思い、思い切って内部を見学させていただいた。堂内全体がノアの方舟をイメージした構造になっているのか。う~~ん。
川越キリスト教会_1
川越キリスト教会_2
川越キリスト教会_3
川越キリスト教会_4
川越キリスト教会_5
川越キリスト教会_6
川越キリスト教会_7
130余年の歴史がある川越キリスト教会。川越市内のレンガ建築の中で一番古いこの建物は、国指定有形文化財になっています。
川越キリスト教会は、英国系のプロテスタント教会で、その始まりは明治11年(1878)。現在の建物は、明治の川越大火で消失後の大正10年(1921)に再建されたものです。
建物の設計は立教大学にある「立教学院諸聖徒礼拝堂」も手がけたウイリアム・ウイルソン。立教大学同様にレンガ造りで、ところどころにあしらわれた焼きムラが建物全体を落ち着いた雰囲気にさせています。

芋十
ずっと気になっているお店。この日は休業日だったのかな?昭和40年頃にテレビで放送された渥美清さん主演のドラマ「泣いてたまるか」の舞台となった店だそうだ。
芋十
琺瑯製の住所表示プレート
琺瑯プレートのハンターでないので、めったに見つけられない。ここにもあった。仲間が『あいつは何を撮っているんだろうか?』という怪訝そうな目で見ていた。そんな変人扱いされるような代物かなあ。
琺瑯製の住所表示プレート
うなぎ『いちのや』
江戸時代からうなぎ名産の地と知られる川越。確かに市内にはうなぎ屋さんが少なくない。その中でも目立つ小江戸情緒を残した店構え。天保3年(1832年)から続く川越を代表するうなぎの老舗だそうだ。
うなぎ『いちのや』
成田山川越別院本行院
真言宗智山派の寺院。成田山新勝寺(千葉県成田市)の別院で、通称は川越不動。毎月28日には蚤の市(骨董市)で、11月には火渡り祭(柴灯護摩)で賑わう。本尊は不動明王だそうだ。
成田山川越別院本行院_1
成田山川越別院本行院_2
成田山川越別院本行院_3
成田山川越別院本行院_4
みまもり不動
なかなか強面なお不動様だ。思わず、居ずまいを正さなくちゃと思わさせられる。
成田山川越別院本行院_5
ここにもあった看板建築
いろいろなところに少しずつ残っているようだ。この家屋は外に手洗い設備が残っているところを見ると、かつては飲食店だったのかもしれない。
看板建築

 

川越を歩く(5)

原田家住宅
昼食会場に予定した割烹佐久間の隣の家屋。この通りは、江戸時代から太平洋戦争まで米問屋が軒を連ね、取引額は県内でトップ。中でも特に繁盛していたのがこの原田家の「足立要」だそうだ。今まで見てきた蔵造の家屋のどれにも引けを取らない立派なもの。写真がまずくて、奥行きを撮り損ねたが、奥行きも十分の家屋。見るたびにため息を吐きたくなる。
画面で奥行きの展開を撮り損ねたが、まだまだ奥がある。手前の建物の側面に残された痕跡を見ると、手前側の駐車場にも蔵がつながっていたのかもしれない。

原田家住宅
市内最大規模の鬼瓦とカゲ盛
やはりインパクトがあるのは屋根。巨大な鬼瓦、その鬼瓦より更に大きいカゲ盛。そして両端の鬼瓦を結ぶ背の高い箱棟。その家の繁栄が一番に見てとれるのは屋根っぷりです。
防火対策
防火対策が目的で建てられた川越の蔵造り建築。原田家住宅は、2階の観音開扉は火災時に密閉性を高める為、枠周りが6段になっています。


割烹佐久間
もともとは、創業明治27年の名旅館。夫人が川越出身の島崎藤村が原稿執筆のため、度々泊まったそうだ。登録有形文化財の「奥の間」では、昭和56年4月に第39期将棋名人戦の第一局、中原誠名人と桐山清澄八段の対局が行われた。
現在は、旅館は休業中で、割烹佐久間としてのみ営業中。その奥の間のすぐ手前の部屋でランチを楽しんだ。

外観
割烹佐久間_外観_1
割烹佐久間_外観_2
建物内部
会計担当のままだったらビビりそうな高級感が漂う
割烹佐久間_建物内部_1
割烹佐久間_建物内部_2
割烹佐久間_建物内部_3
割烹佐久間_建物内部_4
坪庭
坪庭
中庭
ここで島崎藤村も記念写真に納まっている
中庭_1
中庭_2
中庭_3
奥の間に至る階段
我々は、この手前の大きな客間でストップだった
奥の間に至る階段
部屋に飾ってあった書画
御柳垂著水野鶯啼破春…王安石の漢詩の一節のようだ。情景が想像できるような感じだが、私に意味合いなどを質問しないでいただきたい。
部屋に飾ってあった書画_1
上村松篁氏の作品かなあ
部屋に飾ってあった書画_2
部屋に飾ってあった書画_3
献立
献立
食前酒と先付
じゅんさいの酢の物か。最初からおごった食材が登場するなあ。
食前酒と先付_1
食前酒と先付_2
吸い物
魚など食べ飽きたと思っていたが、うまいものはうまいんだ
吸い物
おつくり
おつくり
焼き物
鮎魚女か。懐かしい魚だなあ。美味しい。
焼き物
凌ぎ
よく見えないかもしれないが、タケノコのおこわだ。おこわも大好きなんだ。
凌ぎ_1
凌ぎ_2
炊き合わせ
冬瓜と東坡肉
炊き合わせ
油皿
胡麻豆腐の利休揚げ
油皿
食事
食事
水菓子
水菓子
お茶碗がかわいいものだった
お茶碗がかわいいものだった

ちょいと早い気もしたが、この1時間半ほどの昼食会でウォーキングのイベントは終了。以降は各人の自由行動に。

 

川越を歩く(4)

仲町交差点近辺
亀屋
川越を代表する菓子店。そのことに関しては誰もが異論のないことだろう。ただ、菓子店種の活動だけで終わらない活躍をして、川越の商業活動をリードしてきた存在でもあるのだ。前回取り上げた埼玉りそな銀行の前身八十五銀行の頭取や川越商工会議所の会頭を務めたりと、すごいキャリアを誇る家柄なのだ。
この『龜』の字は味があって好きだ
亀屋_1
亀屋_2
亀屋_3
亀屋_4
亀屋_5
亀屋_6
川越市の一番街にある本店は川越大火直後の1893年(明治26年)7月14日に建てられた豪壮な蔵造りで、店蔵と袖蔵を併せ持つ「袖蔵」形式の代表的な建築として知られる。隣接地に千本格子をはめ込んだ京風の茶店・「亀屋山崎茶店」、土蔵造りの「山崎美術館」、赤煉瓦塀、白漆喰仕上げの大蔵の「茶陶苑」など山崎家の歴史的建物が連なる。
亀屋山崎茶店
横長開放型で、千本格子をはめ込んだ広い窓。ここだけ、こんな風にして大丈夫なのって不思議な感じにとらわれる。
亀屋山崎茶店
茶陶苑
煉瓦のアーチ門と塀とが目を引く。奥には茶陶苑がある。一度店内に入りたいと思っているのだが、…。
茶陶苑
マツザキスポーツ
この蔵造りの建物は、ほかのどこにも引けを取らない立派なもの。であるが、隣接するスポーツ用品店の倉庫として使用されている。いつ行っても、こういう状態である。これだけの建物なのだから、ほかの活用方法はないのかと思ってしまう。
イチローが国内の最多安打記録を更新した年に使用していたスパイクは、こちらの店主の父親が作ったものだそうだ。すごいレベルの運動具屋さんのようだ。

建物は明治28年から約3ヵ年、3万円(現在の貨幣価値で約3億円)を費やして建築された。間口4間、奥行2.5間、入母屋造りの瓦葺で、大きな鬼瓦を置いた屋根がひときわ目立つ建物。
マツザキスポーツ_1
マツザキスポーツ_2
まめ屋
こういうお店もある。私は豆が大好きなので、なかなか通り過ぎるのがつらいかも。
まめ屋
川越商工会議所
埼玉りそな銀行川越支店の建物も素敵だが、こちらの建物も負けてはいない。すごい建物だと、心から思う。元はといえば、埼玉りそな銀行とはご同業。武州銀行川越支店の店舗として、大正15年に着工し、昭和2年12月竣工した建物。1970年からは川越商工会議所が事務所として使用。
ここは電線の地中化が未完了のようで、それだけがつや消し。残念でならない。
川越商工会議所_1
川越商工会議所_2
建物脇には大正浪漫夢通りが
ここも素敵な大正時代の建物が並ぶのだが、団体を引率して昼食会場に向かう途中。勝手に行くわけにはいかなかった。なお、この通りは、電線地中化が完了している。
建物脇には大正浪漫夢通りが
以前取り上げた大正浪漫夢通りの記事へjump
商工会議所に残る「武州銀行川越支店新築工事概要」によると、設計者は前田健二郎(1892~1975)。東京・銀座の資生堂本社、武州銀行の浦和支店も設計している。優美さと重厚感を併せ持った感じで、近くで見ると圧倒されます。鉄筋コンクリート造りの耐震耐火構造で、壁のもっとも厚いところは135cmあり、玄関の上にあるメダリオン(円形装飾)と呼ばれる飾りが豪華さを演出しています。外壁の太い柱はドリス式と呼ばれており、直径約1m。古代ギリシャ神話に出てきそうな外観です。2階部分が高い為、天井も驚くほど高い。室内にも太い柱が天井まで伸び、開放感があります。とても2階建てとは思えません。

 

川越を歩く(3)

時の鐘
最近の2度は耐震化工事施工中だったためのため、見学できなかった『時の鐘』。実に久しぶりに全体を拝むことができた。タイミングが良くなかったのか、『赤いきつねと緑のタヌキ』の鐘の前で収録したCMが流れていたのに、ご本尊は姿を隠したままだった。
久しぶりに晴れ姿を見せている所為か、鐘つき通りも観光客で賑わっていた。ここからでも、鐘も撞木棒もはっきり見えるんだ。

時の鐘_1
時の鐘_2
時の鐘_3
真下に立つと、この『時の鐘』がかなりの高さであることが実感できた
時の鐘_4
時の鐘_5
裏側には急こう配の階段があった。たとえ特別に許可されても、絶対に上りたくない感じだった。
時の鐘_6
撞木棒がかなり後方に突き出していたのが印象的
時の鐘_7

服部民俗資料館
こちらもなぜか、内部を見学しないままに通り過ぎてしまっている。きちんと見れば、面白い展示内容なのだと思うが、…。
服部民俗資料館
埼玉県川越市の幸町にある服部民俗資料館は、もとは照降商(てりふりしょう、傘や下駄を扱う靴屋)と薬種商(やくしゅしょう、薬を調合・販売する薬屋)を営んでいた商家・服部家住宅でした。
建物は江戸時代後期の商家の面影を残す切妻造り平入り。川越大火の直後、明治26年(1893)に上棟式を行なったと伝えられています。昭和59年(1984)に服部民俗資料館を開館し、代々同家に伝わる商家の民具を中心に一般公開(無料)しました。館内には下駄や雪駄、薬の広告看板などが陳列され、座敷には帳場が置かれています。これらの民具は集めたものではなく、服部家で実際に使用されていたものです。春になると、江戸時代の人形師・仲秀英(なかしゅうえい)の手になる名品、嘉永5年(1852年)の銘を持つひな人形が特別公開されます。


埼玉りそな銀行川越支店
前身である第八十五国立銀行は、明治11年(1878年)に川越藩の御用商人横田五郎兵衛・黒須喜兵衛らによって、設立願いが提出され全国で八十五番目にできた銀行。現在の建物は、大正7年(1918年)に旧国立八十五銀行本店として建てられ、国の登録有形文化財の指定を受けている。設計は保岡勝也。3階建てのインパクトがある佇まいは、時の鐘と共に川越のランドマーク的な存在。
この建物を設計した保岡勝也は、明治・大正・昭和と活躍した建築家。丸の内の赤煉瓦オフィス街を初め多くの住宅建築を手がけているそうだ。川越では4つの作品を設計していて、旧国立八十五銀行本店、旧山崎邸、山吉デパート、川越貯蓄銀行がその建築で、その内川越貯蓄銀行以外が現存している。
明治期の建物が多い蔵造の街並みにあって、大正期の建築が堂々と聳えている。これはこれで素敵なものだ。

埼玉りそな銀行川越支店_1
埼玉りそな銀行川越支店_2

旧山吉デパート
川越の住んでいる人ならば知らない人はいないといわれる「丸広百貨店」。丸広がスタートしたのは、現在の新富町「クレアモール」ではなく、今や観光地として賑わう蔵造りの街並み。前述の埼玉りそな銀行川越支店の説明の登場した建築家「保岡勝也」の最後の作品だそうだ。
昭和11年に建てられたこの「山吉ビル」を借り、川越初のデパートとしてオープンしたのが始まり。今では地下1階、地上10階の丸広百貨店は、この3階建ての小さなビルからスタートしたのだそうだ。
近くでよく観察すると、明治、大正時代の建物にも引けを取らない立派な昭和の建物だ。

旧山吉デパート_1
旧山吉デパート_2
旧山吉デパート_3

田中屋ビル
旧山吉デパートと隣り合う田中屋ビル。一見鉄筋コンクリート造りの建物のように見えるが、実際には木造モルタル塗りの土蔵造りのビルだそうだ。本当にそうなのか確認したいところだが、私の目では確認できていない。
田中屋ビル
川越の蔵造り通りには黒漆喰塗りの和風商家のほか、旧八十五銀行本店など大正から昭和初期に建てられた洋風建築が数多く現存していますが、この田中屋もその中のひとつです。
もとは輸入自転車の販売店として大正4年に建てられたそうですが、西欧の古典建築をベースにしながら玄関脇に施されたルネサンス風のモチーフが簡略化したデザインなどは、いかにも大正期らしいものであります。先に紹介したように竣工当初は輸入自転車の販売店ということで、施主やこの建物を造った棟梁は、皆の注目をいかに集めるかということに知恵を絞ったのではないかと思える建物であります。竣工より九十数年経った現在でも、そのインパクトは失われていない川越の誇る洋風建築の一つと言えるのではないでしょうか。

 

川越を歩く(2)

蔵造りの街並みのど真ん中
壮観なことこの上ない屋根
いかがだろうか。圧倒されるような感じがしないだろうか。屋根ばかりでは能がないので、下部をもご覧いただきたい。
壮観なことこの上ない屋根_1
壮観なことこの上ない屋根_2
壮観なことこの上ない屋根_3
壮観なことこの上ない屋根_4
壮観なことこの上ない屋根_5
時の鐘交差点付近
陶舗やまわ(原家住宅)
蔵造りの街並みでもひときわ目立つ。風格のある建物。NHK連続テレビ小説「つばさ」で多部未華子さんが演じるヒロインの実家として撮影にも使われた。食器を売って100年以上、川越に来てからも55年以上という歴史あるお店だそうだ。
陶舗やまわ(原家住宅)_1
陶舗やまわ(原家住宅)_2
陶舗やまわ(原家住宅)_3
陶舗やまわ(原家住宅)_4
陶舗やまわ(原家住宅)_5
陶舗やまわ(原家住宅)_6
宮岡刃物店(まちかん刃物店)
陶舗やまわに隣接している。屋根は陶舗やまわよりも若干高い。堂々たる建物なのだが、両端を非常に目立つ隣接店舗に接していることと、商っているもののせいで、地味な店舗に見える。商っているのは、こういう商店街では異色の刃物専門店。観光客におもねる商売ではないが、評判では素晴らしい商売をしているようだ。
宮岡刃物店(まちかん刃物店)_1
宮岡刃物店(まちかん刃物店)_2
宮岡刃物店(まちかん刃物店)_3
フカゼン(小谷野家住宅)
絶対に見落とすことがない建物だろう。なぜかといえば、下の写真を見れば一目瞭然。深善美術表具店。隣の刃物店とともに商売が成り立つのか心配になるが、どうなのだろうか。
フカゼン(小谷野家住宅)_1
フカゼン(小谷野家住宅)_2
平岩・水飼家住宅
現在は、床屋「銀パリ」と本屋「太陽堂」とが店を構えている。案外地元の人向けの店舗が並んでいるんだ。いいなあ。
平岩・水飼家住宅
熊重酒店(滝島家住宅)
通りの反対側には、この建物。時の鐘を一刻も早く見たいところだが、意外なところで足止め続きだ。
熊重酒店(滝島家住宅)_1
熊重酒店(滝島家住宅)_2

 

川越を歩く(1)

所属している団体のウォーキングイベントを川越で行った。何の事はない。歩く距離は最小で、昼食を楽しむというごくごく楽ちんなイベント。その合間に撮った写真と現地解散後に撮った写真とを取り上げる。

菓子屋横丁
平日で朝が早い所為なのか、お客さんはまばら。不思議なもので、客も腰を引き気味だ。これが、人手があると、次々と客が入るのだろうが。
菓子屋横丁_1
菓子屋横丁_2
菓子屋横丁_3
菓子屋横丁_4

養寿院
川越といえば、喜多院や蓮馨寺などが有名だ。だが、この養寿院も見逃すことができない古刹ではなかろうか。菓子屋横丁の直ぐ近くにある。
川越の地名の由来となった、河越氏の当主・河越経重が開基で、歴代川越城主の信仰も篤い寺院であったからである。この河越氏は、もともとは平氏の流れであるが、波乱万丈の生き方を貫いたようだ。主題からどんどん逸れるので、細かいことには立ち入らないが、かなり面白いものがある。
山門
養寿院_1
養寿院_2
養寿院_3
養寿院_4
本堂
養寿院_5
養寿院_6
庫裡
養寿院_7
養寿院_8
伝河越太郎頼重の墓
墓も此処だと伝えられるのみで、定かではない。一族が滅亡すると権力者の足跡をたどるのも困難になるんだなあ。
養寿院_9
養寿院_10
養寿院は、埼玉県川越市にある曹洞宗の寺院である。山号は青竜山。
寛元(1244年)、河越氏の当主・河越経重が開基となり、大阿闍梨円慶法師が開いた寺。密教の古道場であったが、天文4年(1535年)に天台宗から曹洞宗に改められた。徳川家康の関東入国の際に、家康から御朱印十石を賜った。家康は鷹狩りで立ち寄っている。
本堂には河越氏が京都東山新日吉山王社に寄進した文応元年(1260年)銘の銅鐘(国の重要文化財工芸品)が保存されている。鐘には「武蔵国河肥庄新日吉山王宮」と「河肥」の文字があり、歴史的に貴重なものである。
墓地内には河越太郎重頼の墓があり、寺には岩手県雲際寺にある源義経と重頼の娘である正室の位牌の写しが安置されている。また江戸時代に河越藩主・秋元喬知に仕えた名家老・岩田彦助の墓もある。

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養寿院は曹洞宗に属し、寛元元年(1243年)、秩父平氏の末裔河越次郎経重公(遠江守)が開基となり、大阿闍梨阿圓慶法師が開いた古刹である。
本尊は釈迦牟尼如来(華厳の釈迦如来)、脇侍に観世音菩薩・弥勒菩薩を配し、「三世佛」の扁額を掲げる。
開創当初は台密の寺(天台系密教寺院)であったが、天文4年(1535年) 時の住職隆専上人「年老いて任に堪えず」、曹洞宗太源派下扇叟守慶和尚の道風を慕い寺を付属し禅宗寺院となった。
三世尭室存舜和尚の時代、徳川家康公ご来駕の折、御朱印十石を賜るなど、歴代川越城主の信仰も篤く多いに栄え、かつては曹洞宗専門僧堂(修行道場)として多くの人材を輩出した禅寺である。


大沢家住宅
国指定の重要文化財。私と大沢家住宅とは、徹底して縁がないようだ。この日こそはと思って行ったのだが、『午前中、臨時休館』のつれない表示が。う~~ん。
大沢家住宅_1
あてが外れた客の顔が印象的。チョット真面目に見ようと思っている人には、必見の住宅なのに。
大沢家住宅_2
大沢家住宅(おおさわけじゅうたく)は、埼玉県川越市にある蔵造り建築。明治26年(1893年)の川越大火の焼失を免れた川越最古の蔵造りで、現存する関東地方最古の蔵造りでもある。国の重要文化財の指定を受けている。現在の屋号から「小松屋」とも呼ばれている。
寛政4年(1792年)に近江国出身で呉服太物の近江屋を営んでいた豪商・西村半右衛門が建てた蔵造りの店舗建築。川越大火で例外的に焼失を免れ、そこから川越商人が蔵造りの町家を次々に建設する契機となった。昭和46年(1971年)に国の重要文化財の指定を受け、また、平成元年(1989年)より5年間を費やし大規模な修理が行なわれ、創建当時の姿に甦った。


祭り会館に展示されている山車
良い展示内容だし、説明なんだけど、…。館内の撮影可の扱いならば、、説明の合間に撮影しやすくする工夫があればと思った。
説明が終わった後は、もう少し証明を明るくしてくれると有難いのだが、暗いままだった。
祭り会館に展示されている山車_1
祭り会館に展示されている山車_2
祭り会館に展示されている山車_3

 

またまた横浜を歩く(7)

ベーリック・ホール(2)
以下は、前回往訪時も取り上げたので、長々と続ける訳にはいかない。ごく簡単に取り上げることにする。
ホールではボランティアの演奏家がピアノ演奏中
どんなときでもチャンスは転がっているのかもしれない。頑張れ!!
ホールではボランティアの演奏家がピアノ演奏中
暖炉の上部には、ロゼット文様が
皇室の御紋と見紛う模様だが、勿論、こちらの文様のほうが遥かに長い歴史を持つようだ。
暖炉の上部には、ロゼット文様が
パーム・ルーム
北側にしつらえているのでサンルームではない。表示にもパーム・ルームと記載があった。何故にパーム・ルームなのか、お考えいただきたい。室内には壁泉もしつらえている。
パーム・ルーム
メインの階段
いつも装飾の見事さに驚かされる。それなのに、説明するのを失念していた。手すりの装飾は見事。
メインの階段_1
こちらの側面も負けていない
メインの階段_2
子供部屋
実際には、子息はこの建物が竣工したときには成人だったようだ。でも、子息の居住空間であったことは間違いがなさそうだ。
スチームのラヂエーターが設置してある。僕の日吉の高校の教室にもあったっけ。故郷いわきの中学校の教室には一切暖房がなく、その違いに驚いたものだった。

子供部屋_1
敢えて子供の部屋のような佇まいに飾ってあるとの断り書きが
子供部屋_2
2階の廊下
此処に雑魚寝ができそうなほどだ
2階の廊下
2階応接間兼客間
だったと思う。そうだとして、客人はどういうふうに就寝したのだろうか?往時は、部屋の端に折りたたみ式のベッドが用意されていたのだろうか?どうも些細な事が気になって仕方がない。
2階応接間兼客間
ベーリック氏の執務室
当時はタイプライターの時代だったんだ。オリベッティの製品かと思ったら、違っていた。L.C.Smith & Coronaと記載されてある。かつてはUSAの有名なタイプライターのメーカーだったようだ。
ベーリック氏の執務室_1
ベーリック氏の執務室_2
夫人の居室
かなり広い居住スペースを占有。主婦の力はどこでも偉大だったようだ。
夫人の居室_1
夫人の居室_2
浴室他
この一画もかなり広く、贅沢な仕様。スチームラヂエーターが用意されていたんだ。脳卒中を引き起こさない用心かな。
浴室他
エリスマン邸
こちらは、ベーリック・ホールと人気を二分するエリスマン邸。こちらでも端午の節供の飾り付けが行われていた。その部分のみを取り上げる。
端午の節供の飾り付け
飾り付けは良いはずなのに、私の腕前がひどすぎて、何を撮ろうとしていたのか分からない感じ。時々こういうイベントが行われるので、ご自分の眼で確認されるのもよかろうと思う。
食堂の飾り付け
ベーリック・ホールよりも簡素な飾り付けだと思うが、それでも肩が凝らない飾り付けだ。私には、こちらのほうが好みかな。
食堂の飾り付け_1
食堂の飾り付け_2
食堂の飾り付け_3
食堂の飾り付け_4
食堂の飾り付け_5
サンルームの飾り付け
NHKだったら絶対に許されない絵柄かも。さり気なさが素晴らしい。
サンルームの飾り付け
応接間の飾り付け
自宅でできるとしたら、こんなものかなあ
応接間の飾り付け_1
応接間の飾り付け_2
応接間の飾り付け_3
応接間の飾り付け_4
応接間の飾り付け_5

以上で、『またまた横浜を歩く』のシリーズは終了です。客人に喜んでいただいたかは心もとない限り。最後までご覧いただきありがとうございました。

 

またまた横浜を歩く(6) 2017.05.21 23:10追記

元町商店街で小休止をとっているうちにものすごい雷雨に。本日の予定は中断かと思った。ところがルノアールでまったりしているうちに雨が奇跡的に上がった。ということで、山手の西洋館も見て回ることに。

山手資料館
山手本通り沿い、外人墓地の向かい側に建つ1・2階とも各1間ずつの極小の洋館。母屋に付属の隠居所とかで、トイレ等は母屋のものを使用していたようだ。
横浜市認定歴史的建造物で、明治期に建てられたもの。明治期の木造西洋建築物としては横浜に遺された唯一のものとして知られている。他の山手地区にある洋館と違い、個人所有のもので、入館は有料で、建物内部の撮影は不可。
山手資料館
えの木てい本店
山手資料館の少し先。エリスマン邸の向かい側。こちらも個人所有の洋館。喫茶室になっているので、喫茶の注文が不可欠だが、他の客の迷惑にならない程度の撮影はOK。此処に着席すると、殆どの客がマッタリとしてしまうようで、残念ながら満席のときが少なくないようだ。
サービスレベルはかなり高いと思う。シックな洋館でお茶をする幸せがあると思う。窓際の様子を是非とも撮りたかったが、お客さんが映ってしまうので断念。
えの木てい本店_1
えの木てい本店_2
えの木てい本店_3
えの木てい本店_4
えの木てい本店_5
えの木てい本店_6
「えの木てい本店」もその洋館のひとつで、昭和2(1927)年日本人建築家朝香吉蔵氏が設計した英国式の洋館で当時を偲ばせる貴重な建築物としても知られています。元はアメリカ人検事が暮らしていましたが、昭和45(1970)年に現オーナーのご両親が自宅用に買い取りました。
歴史的建築物として有名なこの洋館には多くの人が撮影に訪れていました。もともとお菓子やお料理を作るのが大好きだった現オーナーのお母様は、時折そんな人々を招きいれて自家製のケーキとお茶でおもてなしをしていたのが始まりで、昭和54(1979)年、1階のリビングをカフェとしてオープンいたしました。店名は庭にある大きな榎から名づけられました。

ベーリック・ホール(1)
山手地区の洋館を代表する美しい佇まい。前回行ったときには前庭の工事中で、全景が取りにくかったが、今回は申し分ない状況で撮ることができた。また、こどもの日の直前であり、端午の節句の飾り付けが行われていた。洋館と和の行事のコラボは如何だろうか?
キレイな外観
キレイな外観_1
キレイな外観_2
キレイな外観_3
お花も負けずにキレイ
花の名前は聞いたのだが、覚えきれなかった。記憶力が自慢だったのに、…。tgryuさんに教えていただいた。キング・プロテアという名前のようだ。
お花も負けずにキレイ
端午の節供(端午の節句)の飾り付け
洋館における和のイベントの飾り付け。馴染むものとして映っただろうか?
端午の節供(端午の節句)の飾り付け_1
端午の節供(端午の節句)の飾り付け_2
端午の節供(端午の節句)の飾り付け_3
端午の節供(端午の節句)の飾り付け_4
端午の節供(端午の節句)の飾り付け_5
端午の節供(端午の節句)の飾り付け_6
端午の節供(端午の節句)の飾り付け_7
端午の節供(端午の節句)の飾り付け_8
端午の節供(端午の節句)の飾り付け_9
端午の節供(端午の節句)の飾り付け_10
端午の節供(端午の節句)の飾り付け_11
端午の節供(端午の節句)の飾り付け_12

現存する戦前の山手外国人住宅の中では最大規模の建物で、設計したのはアメリカ人建築家J.H.モーガンです。モーガンは、山手111番館や山手聖公会、根岸競馬場など数多くの建築物を残しています。約600坪の敷地に建つべーリック・ホールは、スパニッシュスタイルを基調とし、外観は玄関の3連アーチや、クワットレフォイルと呼ばれる小窓、瓦屋根をもつ煙突など、多彩な装飾が施されています。内部も、広いリビングルームやパームルーム、アルコーブや化粧張り組天井が特徴のダイニングルーム、白と黒のタイル張りの床、玄関や階段のアイアンワーク、また子息の部屋の壁はフレスコ技法を用いて復原されていることなど、建築学的にも価値のある建物です。
平成13(2001)年に横浜市は、建物の所在する用地を元町公園の拡張区域として買収するとともに、建物については宗教法人カトリック・マリア会から寄付を受けました。復原・改修等の工事を経て、平成14(2002)年から、建物と庭園を一般公開しています。

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旧暦五月五日は端午の節供(または、端午の節句)。三月三日の桃の節供が女の子の節供であるのに対して、現在は男の子の節供とされています。
端午は「月の初めの五日」と言うこと(さらに古くは月初めの「午」の日)で、本来は五月に限った呼び名では有りませんでした。これがいつしか重日思想(月数と日付が一致する日付を特別な日だと考える思想。古代中国にあった)と相まって五月の五日だけを特別に指すようになったものです。

 

またまた横浜を歩く(5)

次は昼食をとりに中華街へ向かう

日本大通りを横切る
前回のシリーズのときに、日本大通りの様子を見落としたと書いたが、その日本大通りを横切った。正午になるまでに店に入りたかったので、素通りに近かったが、それでも素敵な飾り付けだと思った。通りの先には、横浜スタジアムが見える。
日本大通りを横切る_1
日本大通りを横切る_2
日本大通りを横切る_3
中華街に到着
やっぱりかなりの人出だった
中華街に到着_1
中華街に到着_2
中華街に到着_3
お客様ご案内なのに、いつものように税込み3桁の食事を注文。けちくさい爺さんの極みだ。
いつものように税込み3桁の食事を注文
関帝廟に少しだけ立ち寄った
私は紛うかたなき典型的日本人だが、中華街に来ると、何故か関帝廟に寄りたくなる。見るたびにド派手だなあと思う。高須クリニックの宣伝みたいなどと思ったら、民進党のお馬鹿議員が国会質問でいちゃもんをつけたらしく、またまた男を下げたようだ。
関帝廟に少しだけ立ち寄った_1
関帝廟に少しだけ立ち寄った_2
関帝廟に少しだけ立ち寄った_3
関帝廟に少しだけ立ち寄った_4
関帝廟に少しだけ立ち寄った_5
関帝廟に少しだけ立ち寄った_6
関帝廟に少しだけ立ち寄った_7

中華街を後にして、元町商店街に行く

目についたお店・展示物・商品を撮る
完全なお上りさんだなあ。それにしても実にハイセンス。
目についたお店・展示物・商品を撮る_1
目についたお店・展示物・商品を撮る_2
目についたお店・展示物・商品を撮る_3
目についたお店・展示物・商品を撮る_4
目についたお店・展示物・商品を撮る_5
目についたお店・展示物・商品を撮る_6

 

またまた横浜を歩く(4)

横浜市開港記念会館〈ジャックの塔〉(2)
1階玄関ホール
案内を希望する方には、常駐しているボランティアの説明員が無料で懇切丁寧に案内してくれる。親切な人達なので、ぜひお願いしたほうが良かろう。
1階玄関ホール_1
足元も見落とさないでいただきたい。きれいに仕上げたものだ。
1階玄関ホール_2
階段(交差点側)
素敵な階段だ。用もないのに、昇降したくなる。踊り場の窓からは、神奈川県庁舎がよく見える。
階段(交差点側)_1
階段(交差点側)_2
2階ホール
何ともおしゃれな空間だ
2階ホール
ステンドグラス1
すごい手の込んだ超一級品の作品。箱根越えと呉越同舟と。どちらもよく見ると面白いデザインだ。関東大震災により焼失したが、昭和2年、当初のものを尊重して復旧したそうだ。
ステンドグラス1_1
ステンドグラス1_2
ステンドグラス1_3
時計台に至る階段
特別な機会には昇降することも可能なようだ。何と200段もあるとか。私はそういう機会に恵まれても固辞したい。
時計台に至る階段
ステンドグラス2
咸臨丸ではなく、黒船の方だ。浦賀沖に停泊中の黒船の背後には、富士山が見える。
ステンドグラス2_1
ステンドグラス2_2
耐震構造の証
明治期最高の煉瓦造建築耐震構造『錠聯鉄構法』が採用されていた横浜市開港記念会館。これで関東大震災に耐えた。
耐震構造の証_1
耐震構造の証_2
エレベータ設置工事の際に切断された断面に確認できた錠聯鉄構法(帯鉄)
耐震構造の証_3
耐震構造の証_4
耐震構造の証_5
見えないところは安上がりでつくった
レンガ造りは通りから見える部分のみ。見えない部分は、ごく普通の鉄筋コンクリート造りになっている。
見えないところは安上がりでつくった
階段(奥側)
前出のステンドグラス2を眺めるための階段という趣き
階段(奥側)_1
階段(奥側)_2
ドームの下部にあたる2階の貴賓室
今は天井などが簡素になってしまったが、往時は素晴らしいものだったようだ
ドームの下部にあたる2階の貴賓室
ドームの下部にあたる1階の旧出入口
昔の通用口
ドームの下部にあたる1階の旧出入口_1
ドームの下部にあたる1階の旧出入口_2
ドームの下部にあたる1階の旧出入口_3
1階会議室
何と格天井になっている。贅沢なものだ。
1階会議室

 

またまた横浜を歩く(3)

今回は、私が『これぞ横浜の象徴的建物』と思っている横浜市開港記念会館(ジャックの塔)を取り上げる。

横浜市開港記念会館〈ジャックの塔〉(1)
横浜の建物で私が一番好きな建物。関東大震災では、ドームなどの一部損壊はあったものの、躯体は何とか持ち堪えた。いまは、一部損壊部分の修復がなされ、自慢のステンドグラスの手入れも済み、一番美しい状態になっている。
外観
これぞミナト横浜が誇るレトロの建築美。いつも見惚れてしまう。
外観_1
外観_2
通りを挟んだ向かいの駐車場から見つかった関東大震災直後の遺構
こんなものが出てきてしまうと、建て替えは当分難しいのかなあ。神奈川県か横浜市が買い上げるのだろうか。
通りを挟んだ向かいの駐車場から見つかった関東大震災直後の遺構_1
写真パネルを見ると、往時の様子がよく分かる
通りを挟んだ向かいの駐車場から見つかった関東大震災直後の遺構_2
建物内部に入る
いつもそうだが、ドキドキしてしまう。世捨て人の爺さんなのに、何故だろう。
建物内部に入る
講堂
481席ある、由緒正しい講堂。横浜市開港記念会館〈ジャックの塔〉を見に行ったのなら、何としてでも、見ておきたいゾーンだ。いつも何かのイベントで使用されているが、この日は準備中でしかなかったようなので、内部をしっかり見せてもらった。
講堂_1
講堂_2
講堂_3
講堂_4
講堂_5
講堂_6
講堂_7
2階席はこんなふう。座席の並びが粋だなあ。
講堂_8
講堂_9
講堂_10

 

またまた横浜を歩く(2)

汽車道からの景観
汽車道を通って、赤レンガ倉庫に向かう。かつての軌道敷であっても、今は歴とした歩道だ。
ここには水先案内船や水上警察の警備船が
海上保安庁と水上警察との業務区分はどうなっているのだろう。調べてみたら、予想したとおりだった。
日本の場合、海上保安庁が外洋、沿岸及び内海(東京湾、大阪湾など)、港湾を管轄区域とするのに対し、水上警察は港湾地区(陸上地域を含む)、内水(運河、河川、湖沼など)を管轄区域とする。したがって、海の存在しない滋賀県警察にも琵琶湖を管轄する水上派出所が存在する。また、一般的に水上警察署は地上の管轄区域も存在する事が多い。
ここには水先案内船や水上警察の警備船が
象の鼻防波堤
多少こちら側に湾曲しているのがわかるだろうか。次なる目的地は奥に見えている赤レンガ倉庫だ。
象の鼻防波堤
神奈川県庁
『キングの塔』が聳える。帝冠様式という建築様式。
神奈川県庁
鉄軌道と転車台
真下の花壇。びっくりするほど凝った花壇だ。全国緑化よこはまフェアに異常な程の力を注いでいるようだ。ここには、かつて、鉄軌道(線路)と転車台(ターンテーブル)とがあったそうだ。横浜税関敷地内に設けられた手押し車両用の設備だったもので、象の鼻パーク整備中に発見された遺構だとか。築造は、1895年(明治28年)から翌年にかけてで、強化ガラスの蓋を通して見学することが出来るそうだ。私が知らないのは当然だが、相当な事情通でも知らなかったのでは。右上部に強化ガラスが一部見えているが、そこから覗くことができるようだ。
鉄軌道と転車台
こちらは横浜税関
『クイーンの塔』が聳える。遠目にはモスクのように見えないこともない。
こちらは横浜税関
象の鼻テラス
ネモフィラが咲いていた。ささやかだが、この程度で十分かと思う。
象の鼻テラス
MM21地区
だんだん大きく見えるようになってきた
MM21地区
汽車道がかつての軌道敷であることを示している
たしかに線路が残っている。そこまでする必然性があったかは疑問だが。
汽車道がかつての軌道敷であることを示している
間もなく赤レンガ倉庫到着
間もなく赤レンガ倉庫到着_1
間もなく赤レンガ倉庫到着_2
赤レンガ倉庫到着
赤レンガ倉庫到着
赤レンガ倉庫
この日は、大人はGWでお休みを取り、こどもは暦通りに通学ということだったのだろうか。大人が目立つ一日だったようだ。
赤レンガ倉庫ではオクトーバーフェストの日本版とも言うべきイベントが始まったようだ。10時過ぎくらいなのに、早くも大人の行列が。
赤レンガ倉庫_2
開場直後で、まだ行列中の客が多かったのか、席は埋まっていなかった
赤レンガ倉庫_3
赤レンガ倉庫_4
喉が鳴るが、この先を頑張らなくてはならない。ここはぐっと我慢。
赤レンガ倉庫_5
赤レンガ倉庫_6
赤レンガ倉庫_7
赤レンガ倉庫_8
こどもがいないので、係員が自ら調整中かな
赤レンガ倉庫_9

 

またまた横浜を歩く(1)

5月1日に、カナダからの遠来の客人をご案内して回った。誤解なきよう予め申し上げておくが、会話は全て日本語でおこなった。残念ながら、私が英仏語に堪能などということではない。

水の階段付近
前回よく撮れたとは言いがたかったので、気合を入れて撮り直した。それでこの程度なのだ。(^_^;)
マリンタワーを横目に見ながら山下公園に入る

水の階段付近_1
水の階段付近_2
水の階段付近_3
水の階段付近_4
水の階段付近_5
水の階段付近_6
水の階段付近_7
少しは何を撮ったかおわかりいただけるだろうか
水の階段付近_8
水の階段付近_9
水の階段付近_10
やっぱり何だかわからないかなあ。一部にはわかるものもあるだろうが。撮っている人も、皆真剣な感じ。
水の階段付近_11
水の階段付近_12
水の階段付近_13
目玉がとれていなければわかりやすいのだが、…
水の階段付近_14
よくわからないままに、最下部まで来てしまった
水の階段付近_15

氷川丸
この日は氷川丸の内部を見たかったのだが、何と定休日だった。残念。
氷川丸_1
氷川丸_2
氷川丸_3

こういうのを愛でながら先を急ぐ
先を急ぐつもりでも案外足止めを食らうものだ
こういうのを愛でながら先を急ぐ_1
こういうのを愛でながら先を急ぐ_2
こういうのを愛でながら先を急ぐ_3
こういうのを愛でながら先を急ぐ_4
こういうのを愛でながら先を急ぐ_5

 

自由が丘を歩く(2)

ラ・ヴィータ 自由が丘ほか
自由が丘でも一番派手なところかなあ。なにせ、ベネティアの掘割のようなところに本物のゴンドラが浮かべてあるのだから。
前回は迷子になって行けなかった。ちなみに、目黒区自由が丘2丁目8−3辺りの住所になる。

ラ・ヴィータ 自由が丘ほか_1
気が付かなかったのだが、何かの撮影をしていたようだ。レフ板を当てるような工夫もしていないところを見ると、雑誌にちょっと挿入する程度の写真かなあ。その撮影終了後に取り直してみた。
ラ・ヴィータ 自由が丘ほか_2
ラ・ヴィータ 自由が丘ほか_3
ラ・ヴィータ 自由が丘ほか_4
この一画でこの店だけ異質な感じ。却って目立つ感じだ。
ラ・ヴィータ 自由が丘ほか_5
他は明るいイタリア風の建物が建ち並ぶ
ラ・ヴィータ 自由が丘ほか_6
ラ・ヴィータ 自由が丘ほか_7
ラ・ヴィータ 自由が丘ほか_8
古桑庵
道の向かい側には、民家を改造したと思しき甘味処が
古桑庵_1
古桑庵_2
流水のガラス壁
此処も道を隔てた向かい側。流水のガラス壁の存在など、今は珍しくもないかもしれない。だが、これが建てられたときはびっくりしたものだった。
流水のガラス壁
この一画は、熊野神社のすぐ近くだ
本殿の真後ろあたりが見える
この一画は、熊野神社のすぐ近くだ
亀屋万年堂本店
少しだけ離れて、往年の巨人ファンには懐かしい店がある。婿養子で入った国松選手が今の経営者。仲良しの王選手が『お菓子のホームラン王』のCM出演を続けていた。
亀屋万年堂本店_1
亀屋万年堂本店_2
途中のお宅の庭
了解を得て撮らせてもらった。いつもキレイにお花を咲かせているお宅だ。
途中のお宅の庭_1
途中のお宅の庭_2
途中のお宅の庭_3
名前を伺ったけれど、失念してしまった。というかよく聞き取れなかったのかもしれない。ニワゼキショウ《庭石菖》かなあ。
途中のお宅の庭_4
アヤメの美しさは格別だ
途中のお宅の庭_5
途中のお宅の庭_6

 

自由が丘を歩く(1)

駅前の歯科クリニックで定期の診断を受けたあと、チョット遠回りして散歩しながら自由が丘の街を歩いてみた。前回、迷子になったリベンジかな。今回は迷子にならずに済んだようだ。

駅前広場
整備して、間違いなく安全になったのだろう。でも、以前に比し、広場がかなり狭くなったような感じがする。
駅前広場_1
駅前広場_2
駅前広場すぐ近くの小路
なぜだか豊川稲荷の鳥居がある。稲荷神社は一体何処にあるのだろう。この先には熊野神社しか無いはずだ。
調べている途中で思い出した。赤坂の豊川稲荷を分霊した小さな祠が、鳥居の直ぐ側にあったんだった。実に紛らわしい話だが、豊川稲荷は神社ではないとか。本来は、鳥居もおかしな話なのかも。

駅前広場すぐ近くの小路_1
駅前広場すぐ近くの小路_2
その先
完全な飲み屋さん街だなあ
その先
状元樓
上海料理の中華屋さん。1-2度利用したことがある。高級店だと思う。
状元樓
その先
左側はふぐ料理屋さん。勿論利用したこと無しなので、コメントする資格なし。右手前は弁当屋さん。1コイン前後で、かなり充実した内容の弁当が楽しめる。この店のお弁当はおすすめだ。
その先
小路ばかり
もうすこし道幅が狭くても良いけど、一応は小路として扱ってもいいかな
小路ばかり_1
小路ばかり_2
小路ばかり_3
小路ばかり_4
小路ばかり_5
黒船
ここも結構有名な店。和テイストのお菓子の店かな。
黒船
熊野神社
此処に熊野神社がつくられた頃は、箸にも棒にもかからないような小さな神社だったと思う。それが自由が丘の街とともに、あれよあれよと景気の良い神社になっていった。
熊野神社_1
熊野神社_2
熊野神社_3
最初に出てくる狛犬は、明治のものなのにやけにモダンなデザインだった
熊野神社_4
熊野神社_5
こちらはまあまあ普通に近いかな
熊野神社_6
熊野神社_7
本殿ほか
熊野神社_8
熊野神社_9
熊野神社_10
熊野神社_11

 

自然教育園_0511(2)

ナルコユリ
こじんまりとした可愛らしい花がずらりと並ぶ。思わず見惚れてしまった。「鳴子(なるこ)」は、長い縄に板と竹を結びつけて沢山並べてぶら下げ、揺らすと音がするようにした道具。稲を荒らす鳥などを追い払う目的や、侵入者を知る目的などに使用したものだ。草姿や花の様子がこの「鳴子(なるこ)」に似ていてユリの仲間なのでこの名がつけられたとのこと。私が見ても、そのようにみえる。
ユリ科と分類してあるものもあるが、クサスギカズラ目のクサスギカズラ科と分類するものもあるようだ。自然教育園ではクサスギカズラ科とする。新エングラー体系のユリ科を再編して誕生した科の一つだそうだそれにしても変な科名だ。

ナルコユリ_1
ナルコユリ_2
ナルコユリ_3
ナルコユリ_4
ナルコユリ_5
ナルコユリ_6
ムサシアブミ
もうかなり大きく育っているものが殆どだったが、まだ、あぶみの形が一部に残っていた。
ムサシアブミ_1
ムサシアブミ_2
ムサシアブミ_3
ムサシアブミ_4
クサノオウ
クサノオウは、可愛い感じの花が咲くが、油断してはいけない。薬草として使用するにあたっては、毒性が強いので専門家の指導を仰ぐべきものだそうだ。何しろアルカロイド系の毒だそうだから。
クサノオウ_1
クサノオウ_2
トリアシショウマ
これはトリアシショウマというのか。そんな感じに見えなくもない。よく見ていたが、名前を知らなかった。
トリアシショウマ_1
トリアシショウマ_2
ミヤマカンスゲ
どうやって撮ったら良いのかいつも悩む。これぞという撮り上がりには程遠い。
ミヤマカンスゲ
アサザとヒツジグサ
アサザとヒツジグサ
アサザ
前回も取り上げたミツガシワ科の水草。かなり小さい。
アサザ
ヒツジグサ
スイレン科スイレン属の花は世界に何十種類もあるが、日本にはヒツジグサ(未草)と呼ばれる比較的小さな白い花を付ける一種のみが古来から生育しているのだそうだ。未(ひつじ)の刻(午後二時ごろ)花を開くと考えられていた為、ヒツジグサの名があるが、実際には午前中から夕方まで咲いているとか。残念ながら、ヒツジグサが咲いているのを見たことがない。
ヒツジグサ
マルバウツギ
ウノハナ(卯の花)の仲間。空木という名が示すように中空のストローのような枝になっているはずだと友人に話したことがある。そうしたら、友人は信じたのか信じなかったのか、いきなり枝をポキリと折って、確認しだした。下記のような似たものでしかないツクバネウツギだったので、中空のはずもなかった。友人は、私をいい加減な奴だと思ったかもしれない。
ウツギ属に属する種の他にも、何々ウツギという名の木は次のように数多く、花の美しいものや、葉や見かけがウツギに似たものなどがある。
 アジサイ科:バイカウツギ、ノリウツギ
 スイカズラ科:タニウツギ、ニシキウツギ、ツクバネウツギ、ハコネウツギ
 ドクウツギ科:ドクウツギ
 フジウツギ科:フジウツギ
 ミツバウツギ科:ミツバウツギ
 バラ科:コゴメウツギ
など。

マルバウツギ
ダイサギ
いつも此処にいる個体だと思う。仲間は何処にいるのかなあ。
ダイサギ_1
ダイサギ_2
ダイサギ_3

 

自然教育園_0511(1)

昨11日の自然教育園の様子。一斉に咲きだした花が一段落し、次の花が咲きだすまでの端境期だったようだ。無い無い尽くしに近い状態だが、少しだけ咲き残っていたものを撮ってみた。

エビネ
花の時期が終わりかけ。1週間前に比べ、あまりに勢いがなく寂しい限り。それでも、少しはマシに見えるものを探して撮ってみた。
エビネ_1
エビネ_2
エビネ_3
エビネ_4
参考までに最盛期の様子をPDF画像で見ていただきたい
エビネ_5
二人静
あまり綺麗な花さんではない。が、これしかないのだ。
二人静_1
葉っぱについている白いものは、近くの大樹から降ってくる花粉。霧雨のように降ってきていた。
二人静_2
チョウジソウ
盛んに花を咲かせていた。割りとキレイな花さん。他のキョウチクトウ科植物と同様、本種も全草にアルカロイドを含み有毒。香辛料のチョウジノキ (クローブ)とは別物である。間違う人はいないとは思うが要注意だ。
チョウジソウ_1
チョウジソウ_2
チョウジソウ_3
チョウジソウ_4
チョウジソウ_5
ノイバラ
日本のノバラの代表的な種。まさか、この花を自分が撮るとは思わなかった。それくらい端境時期で花がなかったのだ。
ノイバラ_1
ノイバラ_2
ノイバラ_3
あやめ科の見分け方だが、簡単な見分け方はこれだとか。
あやめ:花の根元が網目状
しょうぶ(花菖蒲):花の根元が黄色
かきつばた:花の根元が白

あやめ
あやめ_1
あやめ_2
かきつばた
かきつばた_1
かきつばた_2
かきつばた_3
きしょうぶ
いくらでも見かけるが、要注意外来生物だ
きしょうぶ_1
きしょうぶ_2
ミツガシワ(三槲)
なんど見ても書くことができそうにない漢字だ。木偏に角と斗とを組み合わせた漢字。
ミツガシワ(三槲)_1
ミツガシワ(三槲)_2
花は独特の花。花の時期ではないのでPDF画像で確認されたい。
ミツガシワ(三槲)_3
アサザ
こんなに干上がっていても大丈夫なのかなあ。
アサザ_1
アサザ_2
花はミツガシワと色が違うものの、仲間の花なので、若干似ているかもしれない。花の時期ではないのでPDF画像で確認されたい。
アサザ_3

 

ある日の昼食

GWの後半、横浜の孫が来たので、歓迎のランチを皆でとった。近所のイタリアンのお店で。
孫だけ前菜なしのコースとし、彼以外は前菜付きのコースとした。この店の前菜は、こどもには大人すぎるテイストかもしれないが、我々にはなかなかイケるものなのだ。大人もついでに楽しんでしまおうということにしたのだ。

前菜なしのコース
こちらは前菜がつかないものの、美味しいサラダがついてくる。撮る間もなく孫が食べだしたので、写真は無し。
前菜付きのコース
こちらは前菜がつくのがお楽しみだ。
前菜
前菜は、毎日食べにいらっしゃるお客様のことを考慮するのか、日替わりになっているようだ。今日は何が出されるのか、実は楽しみにしている。この日は、凝った味のポテトサラダと、シューの中にクリームチーズが詰められたもの、オムレツ風玉子焼き、地鶏の○○○(説明を受けたけれど、忘れてしまった)、新玉葱の○○○(説明を受けたけれど、忘れてしまった)の5品。非常に美味しかった。
前菜
妻が頼んだパスタ
妻はこういう感じのものが好きだ
妻が頼んだパスタ
私が頼んだパスタ
いつも同じもの(ボロネーゼの温玉のせ)を注文しているような気がしないでもない。たまには別のものを注文しようかなあ。
私が頼んだパスタ
息子が頼んだパスタ
私の苦手なものが載っている。美味しいのかなあ。
息子が頼んだパスタ
食後のスイーツ
4人とも同じもの
食後のスイーツ
私はアイスコーヒー
私はアイスコーヒー
孫の様子
満足してくれたかな?
孫の様子

 

東高根森林公園(2) 2017.05.10 23:05文章修正

前回の冒頭に記したように、鳥撮り狙いで50-500のレンズを持参した。鳥さんは居ず、仕方なくそれで花さんを撮った。手撮りで重いレンズなので、画像は大いに問題ありだ。100%言い訳モードで、申し訳ない。

カルガモ
鳥さんは全くいないに等しかったが、この鳥さんだけはいた。哀れな爺さんの姿に同情してポーズを取ってくれたのだろうか?
カルガモ_1
よそ見している間に飛んでいってしまった。せっかくポーズを取ってくれたのに、しっかり撮らなかったこちらに責任がある。
カルガモ_2
公園としてはキレイな公園だ
公園としてはキレイな公園だ_1
公園としてはキレイな公園だ_2
公園としてはキレイな公園だ_3
楓もきれい
今から紅葉しているものもあるんだなあ
楓もきれい_1
楓もきれい_2
楓もきれい_3
菜の花
あれまあ、まだ咲いているんだ。何も書いてないけど菜の花だよね。
菜の花
何の花?
可愛らしい花さんだ。何という名の花だろうか?
makiraさん他、多数の方に金蘭だとお教えいただいた。知らなかったのは私だけだったのかな。お恥ずかしい限り。
何の花?
イカリソウかな?
自然教育園のは白く透明感のあるものだった。こちらは、紫がかっていて、…。
イカリソウかな?_1
イカリソウかな?_2
イカリソウかな?_3
イカリソウかな?_4
ニリンソウも咲いていた
まだ咲いていたんだ
ニリンソウも咲いていた_1
ニリンソウも咲いていた_2
ニリンソウも咲いていた_3

お粗末な写真に終始して申し訳ありませんでした。次回からは、もう少しマシなものを心がけます。

 

東高根森林公園(1) 2017.05.10 23:09本文修正

少しは夏鳥さんや留鳥さんが居るかと、ほんの少しだけ期待して出掛けた。その願いは虚しく終わり、咲いている草花を少しだけ撮って帰ってきた。幸いにも、50-500のレンズを持参したので、それで何とか撮ってみた。手撮りで重いレンズなので、画像は大いに問題ありだ。
花にはまれに標識がついていたが、多くの花には標識がなかった。仕方がなく検索したが、間違っているかもしれない。(5月4日撮影)

エビネ
おおお、此処にも咲いていたか。まるで期待していなかったので嬉しい。
エビネ_1
エビネ_2
すずらん
だと思うが、自信なし。
すずらん
フトイ(太藺)
「太い藺草(のような草)」の意味でつけられた名前。実際にはイグサ科ではなく、カヤツリグサ科ホタルイ属に属し、その姿もさほどイグサに似ている訳ではないようだ。
フトイ(太藺)
ナガバオモダカ(長葉沢瀉)
ナガバオモダカ(長葉沢瀉)
モミジガサ
モミジガサ
ホソバノアマナ
makiraさんに「大甘菜(オオアマナ)」別名「ベツレヘムの星」「オーニソガラム」ではないかとのご指摘を受けた。まるで自信がなく、お恥ずかしい限り。
ホソバノアマナ_1
ホソバノアマナ_2
ユキノシタ
大好きな天ぷら素材。庭のものをちぎっては親父に睨まれた記憶がある。
ユキノシタ
シロバナヒメオドリコソウ
だと思うが、自信なし。
シロバナヒメオドリコソウ_1
シロバナヒメオドリコソウ_2
ムラサキケマン
ムラサキケマンの方だと思うが、ジロボウエンゴサクなのかなあ。まるで自信なし。
ムラサキケマン
リュウキンカ
だと思うが、自信なし。
リュウキンカ_1
リュウキンカ_2
今年の竹も大きく伸びてきた
今年の竹も大きく伸びてきた
ホウチャクソウ
旬が過ぎてしまい、チョット萎れた感じだった。それが残念。
ホウチャクソウ
ミズキ
だと思うが、自信なし。毎年見ては、疑問が解決しないままに、翌年に持ち越しているぞ。(^_^;)
ミズキ_1
ミズキ_2

 

ある日の横須賀の海辺

猿島
東京湾にある唯一の自然島。うみかぜ公園から1.1kmの近さ。真上から見ると、ほぼ長方形の形状であろ、長辺に相当する部分の長さが333mと言われ、ちょうど米軍の原子力空母と同じ長さだ。その原子力空母ロナルド・レーガンは、昨7日昼ごろ、横須賀基地を出港したそうだ。この島の沖合を通過していったはずだ。米海軍は、カール・ビンソンを既に日本海に派遣中だし、北朝鮮に対する重大な警告で終わってくれることを願わずにはいられない。
猿島_1
猿島_2
猿島_3
航路は島の向こう
手前側は浅く航路にはならない
猿島_4
猿島_5
猿島_6

沖合には不審な船舶
横須賀・横浜・東京あるいは太平洋に向かうにせよ、方向が90度ずれている。見た限りでは急いで方向転換する様子もない。
何とも不思議に思った。もしかしたら、横須賀新港への入港待機中の船舶かもしれない。確かに新港埠頭は塞がっていた。
沖合には不審な船舶_1
沖合には不審な船舶_2

うみかぜ公園
なかなかの人気を誇る公園のようだ.奥に進めば、決して大げさではないことがわかるはず。
うみかぜ公園_1
うみかぜ公園_2
うみかぜ公園_3
うみかぜ公園_4
うみかぜ公園_5

海辺つり公園
釣りが好きな人はかなり多いんだなあ
海辺つり公園_1
海辺つり公園_2
向こうの陸地は走水方面
大和武尊の神話が残るところだ。
海辺つり公園_3
足元に魚が
先の方の写真を撮ろうとした私の足元に何かが飛んできた。美味しそうな鯖が、苦し紛れに大暴れ。
海辺つり公園_4
海辺つり公園_5
海辺つり公園_6

横須賀新港の様子
きんゆう丸
油槽船で積み荷は白黒油。航行区域は限定近海。白黒油ってどんな油なんだろう?船体下部があれだけ浮き上がっているところを見ると、油槽は空か空に近い状態のようだ。
背後には輸出用の自動車が集結しつつあった。ニッサンかな?トヨタかな?

きんゆう丸_1
きんゆう丸_2
深田サルベージのポセイドン-1
POSEIDON-1は、深田サルベージ建設の多目的作業船。海底資源調査を目的としており、この種の特殊船を日本の民間企業が保有するのは初めてだそうだ。
竣工後は、海底地質調査を中心に運行されており、2017年2月には沖縄県のキャンプ・シュワブ沖(辺野古拡張工事)において海底ボーリング調査に従事している事が報道された。次に取り上げる同社所有の新潮丸と同様に、非常にユニークな船舶形状だ。

深田サルベージのポセイドン-1_1
深田サルベージのポセイドン-1_2
深田サルベージの新潮丸
曳航兼海難救助船。国内最強というわけではなさそうだが、それでもかなり強力なんだそうだ。
深田サルベージの新潮丸_1
背後の低い山に突き出ているものは危ない傾きの送電線かと思った。よく見たら、クレーンのようだ。♫山より高いクレーン♫なんだ。
深田サルベージの新潮丸_2
深田サルベージの新潮丸_3
これが何だかお分かりいただけるだろうか?
グラブバケットという。海底の浚渫作業に用いられるが、この形状のものは海底二堆積したゴミなどを挟む用途なのだろうか?まさしく巨大な鉄の爪だ。
グラブバケット

ふう、覚悟はしていたもののピントが非常に甘い。もう1回分辛抱していただきたい。m(_ _)m

 

浄妙寺~報国寺~杉本寺~宝戒寺~東勝寺跡(7)

土佐坊昌俊邸跡
吾妻鏡に記載されている内容だけならば、取り上げる気がなかった。だが、この人物が金王丸であるとなれば、見逃すわけには行くまい。あの渋谷の総鎮守『金王八幡宮』に繋がる話であるからだ。金王八幡宮のHPを見ると、完全に土佐坊昌俊は金王丸であると断定している。
この石碑は古いものだなあ。関東大震災の直後に建てられたんだ。
土佐坊昌俊邸跡石碑
堀川夜討の画
大和国興福寺金剛堂の堂衆で、年貢の問題で大和国針の庄の代官を夜討ちにした為、大番役として上洛していた土肥実平に預けられる。実平に伴われて関東に下向したのち源頼朝に臣従し、御家人として治承・寿永の乱に参加する。
文治元年(1185年)10月9日、頼朝と弟の源義経が対立すると、頼朝は京にいる義経を誅するべく御家人達を収集するが、名乗り出る者がいない中、昌俊が進んで引き受けて頼朝を喜ばせた。昌俊は出発前、頼朝に下野国にいる老母と乳児の行く末を託し、頼朝は下野国の中泉荘を与えている。
昌俊は弟の三上弥六家季ら83騎の軍勢で鎌倉を出発し、17日に京の義経の館である六条室町亭を襲撃する(堀川夜討)。義経の家人達は出払っていて手薄であったが、義経は佐藤忠信らを伴い、自ら討って出て応戦した。のちに源行家の軍勢も義経に加わり、敗れた昌俊は鞍馬山に逃げ込んだが、義経の郎党に捕らえられ、26日、家人と共に六条河原で梟首された(『吾妻鏡』)。

鎌倉タイムの『土佐坊』の記事にjump
土佐坊昌俊は、平治の乱で敗れ、東国へ落ち延びようとしていた源義朝主従八騎のうちの一人だった渋谷金王丸ともいわれています。金王丸は、義朝が尾張で長田忠致に暗殺されると、そのことを常盤御前に伝え、自分は出家して土佐坊と名乗り義朝の菩提を弔ったと伝えられています。
金王八幡宮は、金王丸の祖父河崎基家が創建した神社。
当初は渋谷八幡宮と呼ばれていたそうですが、金王丸の名声によって金王八幡宮と改められたといいます。


東勝寺跡とその近辺
北条高時腹切りやぐらと東勝寺跡の案内
此処からもうすぐ。うっかりしていたが、北条高時腹切りやぐらと東勝寺跡とは隣接しているものの、別のものなんだ。
北条高時腹切りやぐらと東勝寺跡の案内
滑川と東勝寺橋
滑川と東勝寺橋_1
滑川と東勝寺橋_2
滑川ってこんなにキレイな川だったかと改めて見直した
滑川と東勝寺橋_3
滑川と東勝寺橋_4
滑川と東勝寺橋_5
青砥藤綱旧蹟
私が全く知らない人物。鎌倉時代後期の武士で、公正・剛直の人として有名だったようだ。この石碑を撮ったことさえ忘れていたくらいだ。江戸時代には、大岡越前を登場させるのは差し障りがあったのか、この青砥藤綱が公正な裁判を行い権力者の不正から民衆を守る「さばき役」として描かれたとか。
この石碑は、下記のエピソードのあった辺りに建てられたらしい。

青砥藤綱旧蹟_1
青砥藤綱旧蹟_2
文学作品としては月尋堂の浮世草子『鎌倉比事』や曲亭馬琴の読本『青砥藤綱摸稜案』が挙げられる。歌舞伎においては市村座が藤綱関連の作品を積極的に行ったことが知られ、三代目桜田治助と組んだ『青砥稿』『名誉仁政録』、二代目河竹新七(黙阿弥)と組んだ『青砥稿花紅彩画』が知られている。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
かつて夜に滑川を通って銭10文を落とし、従者に命じて銭50文で松明を買って探させたことがあった。「10文を探すのに50文を使うのでは、収支償わないのではないか」と、ある人に嘲られたところ、藤綱は「10文は少ないがこれを失えば天下の貨幣を永久に失うことになる。50文は自分にとっては損になるが、他人を益するであろう。合わせて60文の利は大であるとは言えまいか」と答えた。
東勝寺跡
義貞が稲村ヶ崎を突破し、鎌倉に侵攻したことによって、得宗の北条高時をはじめとする北条一族は東勝寺に退き、そこで自刃した。『太平記』によれば、東勝寺での死者は870余人に及んだという。鎌倉幕府が滅亡した瞬間だ。その跡地がこの写真のところ。
東勝寺跡_1
東勝寺跡_2
東勝寺跡_3
東勝寺跡_4
東勝寺跡_5
東勝寺跡_6
東勝寺跡_7
この道をさらに少しだけ上がったところに『北条高時腹切りやぐら』がある。鎌倉幕府滅亡後だけに、凄みがあるところのようだ。今回は見逃してしまったので、次回機会があれば、しっかり見ておきたい。
鎌倉タイムの『腹切やぐら』の記事にjump

Vin 茶家 OMOTE
此処で遅い昼食をとり、今回の行程を終える。
素敵な店内で、美味しい昼食と食後のケーキとお茶とを楽しんだ。最初から、女主人が極めて美しい人だと思っていたが、想像通り私の知っている女優さんだった。ちょうど昼食を終えたときに、NHKのドラマ10『ツバキ文具店』のロケがあり、かの女優さんの説明をききながら、しばし様子を見ていた。多部未華子さんも可愛かったなあ。

Vin 茶家 OMOTE_1
Vin 茶家 OMOTE_3
Vin 茶家 OMOTE_5
Vin 茶家 OMOTE_6
Vin 茶家 OMOTE_7
最期のロールケーキはピンぼけの写真になってしまったので、お店の写真を借用した
Vin 茶家 OMOTE_8

以上で、『浄妙寺~報国寺~杉本寺~宝戒寺~東勝寺跡』シリーズは終了です。最後までご覧いただきありがとうございました。

 

浄妙寺~報国寺~杉本寺~宝戒寺~東勝寺跡(6)

前回5月3日の記事だが、通し番号が1つ飛んでいた上に、画像が足りなかった。これらを修正したので、興味があれば、『浄妙寺~報国寺~杉本寺~宝戒寺~東勝寺跡(5) 2017.05.04 16:50 画像追加』をも再度ご覧いただきたい。

今回は何が何でも東勝寺跡を見るんだという意気に燃えて、浄明寺から歩き始めた。まずは、途中にある文覚(もんがく)上人屋敷跡石碑を見てから、行くことにする。

文覚(もんがく)上人屋敷跡石碑
雪ノ下4-4-32所在。金沢街道から大御堂橋を渡るとすぐT字路に当る。その交差点の右側に建つ。海の嵐を鎮める法力を持ち、頼朝に平氏追悼の院宣をもたらしたという伝説の人物だそうだ。この人物のことは、アチラコチラで見聞きする。
平維盛の遺児六代(平家最後の嫡男)の助命を嘆願し、六代を神護寺に保護した。その保護した六代御前は、政争に巻き込まれた文覚上人の力の及ばない無いところとなり、鎌倉に引き立てられ、処刑された。逗子市桜山に六代御前の墓が残る。以前見た史跡だ。
昨年末に、神護寺や高山寺を尋ねたが、そちらにも非常に関係が深い高僧だった。弟子に上覚、孫弟子に明恵らがいる。
そのキャリアの出発点とも言える屋敷跡か。

文覚(もんがく)上人屋敷跡石碑
文覚(もんがく)上人
文覚上人の出家前の名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)といい、以前は院の警備をしていましたが、18歳の時に、源渡(みなもとのわたる)の妻袈裟御前(けさのごぜん)に想いをよせ、源渡を殺そうとして、間違って袈裟御前を殺してしまいました。
これを深く後悔して僧となりました。その修行の仕方は大変なもので、凍える日も、真夏の暑い日も草原で寝、日々滝に打たれて何度も死にそうになったといいます。1182年4月、源頼朝の本願として江ノ島に弁財天(べんざいてん)を建て、ここで三十七日の間、飲まず食わずで祈りつづけたといわれています。この場所がその文覚が住んでいた屋敷の跡です。


ツバメも居た
夏鳥といえば夏鳥だ。此処のところ、野鳥さんは全く遭遇できない日が続いている。私が見ることができる唯一の夏鳥かもしれないと弱気になっている。
ツバメ_1
ツバメ_2

宝戒寺
当初、立ち寄るつもりがなかったが、尿意が我慢できず、仕方なく、立ち寄ることにした。立ち寄るからには、しっかり見ておこう。
参道
よくわからないかもしれないが、八角形の大きな敷石が続いている。かなり美しいものなのに、はっきり撮ることができず、残念。
参道
北條執権邸旧蹟の石碑
寺域は北条義時以来の歴代の北条得宗家の屋敷地跡と伝えられている。
北條執権邸旧蹟の石碑
庭石が粋だ
庭石が粋だ_1
庭石が粋だ_2
本堂
いたるところにミツウロコの家紋が入っている。それは、北条高時の慰霊のために造営した寺なのだから、当然のことだろう。
本堂_1
本堂_2
本堂_4
本堂_5
本堂_6
堂内は撮影禁止なので、以下2点はPDF画像を借用する
本堂_7
本堂_8
鐘楼と梵鐘
鐘楼と梵鐘_1
鐘楼と梵鐘_2
宝篋印塔
1333年に滅亡した北條氏ならびに鎌倉合戦東勝寺戦没諸精霊を供養する慰霊塔。鎮魂の祈りを込めた写経、写経石が収められているそうだ。
宝篋印塔は、材木座にある光明寺の内藤家墓所で数多くのものがあるのを見た。何を指すものかといえば、宝篋印経にある陀羅尼を書いて納めた塔だそうだ。日本ではふつう石塔婆の形式の名称とし、方形の石を、下から基壇・基礎・塔身・笠・相輪と積み上げ、笠の四隅に飾りの突起があるものをいう。のちには供養塔・墓碑塔として建てられた。
宝篋印塔
聖徳太子堂
何故、この寺に聖徳太子堂があるのか、正直なところよくわからない。
聖徳太子堂_1
聖徳太子堂_2
得崇大権現堂
北條高時公を得崇大権現として祀る。鎌倉幕府が滅亡した5月22日に、北條氏鎮魂のため、毎年、大般若転読会が行われる。
真ん中の位置するのは当然だろうが、なぜだか小ぶりの堂である。あまり偉大な存在として崇め立てたくはなかったのだろうか?

得崇大権現堂_1
得崇大権現堂_2
大聖歓喜天堂
国指定の重要文化財である秘仏の大聖歓喜双身天王を祀る。なぜ、この寺の秘仏がこの大聖歓喜天なのかも、正直なところ私にはわからない。
大聖歓喜天堂
歓喜天は聖天(しょうでん)とも称し、象頭人身の2神が相抱擁する形に造形される。歓喜天像は一般に小像が多いが、宝戒寺像は像高155cmに及ぶ大作として珍しい。川端康成の妻は自ら聖天信者を名乗り、行者の予言でこの像の存在を知り、ノーベル賞受賞前に足しげく参詣していたという。

得宗家9代目当主で鎌倉幕府元執権(第14代)の北条高時は、元弘3年5月22日(ユリウス暦1333年7月4日)、新田義貞の軍に追い詰められて葛西ヶ谷(かさいがやつ、宝戒寺の裏山)の東勝寺で自害、一族郎党870余名も運命を共にし、鎌倉幕府は滅亡した。宝戒寺蔵の建武2年3月28日(同1335年4月22日)付の足利尊氏寄進状に、同寺は「北条高時の慰霊のため、その屋敷跡に後醍醐天皇が建立した」旨の記述があり、後醍醐天皇が天台宗の高僧・円観慧鎮を開山としてこの寺を造営しようとしていたことは事実と思われる。しかし、実際の造営は、後醍醐天皇による建武の新政が崩壊し、同天皇が没した後に足利尊氏らによって行なわれたと推定されている。

小用も済ませたので、最期の目的場所である東勝寺跡を目指す

 

花を中心に横浜の街を見て歩く(8)

横浜公園(2)
市庁舎側出入り口
大きな飾りがこしらえてあった。此処まで来たとき、続々11時チョット前になり、客がどんどん来出した。混雑が大嫌いな私は、慌てて退散することにした。
市庁舎側出入り口_1
市庁舎側出入り口_2
市庁舎側出入り口_3
こちらは、鳥取県の出展物
『鳥取県は元気です!とっとり中部で待っとります!』とあった。もし余裕があれば、鳥取や熊本にも足を運んでいただきたいものだ。
こちらは、鳥取県の出展物_1
こちらは、鳥取県の出展物_2

このような各自治体が出展したものは、日本大通りの会場にたくさんあるようだ。時間のある方は回ってご覧になったら如何だろうか?
参考までに別の機会に撮った日本大通りの花の飾り付けの様子をご覧いただく
横浜公園のそれより、数段素敵に見えた。急ぎでなければ、じっくり撮りたかったほどだった。
別の機会に撮った日本大通りの花の飾り付けの様子


中華街で昼食
いつものような安いランチをいただく。勿論税込みで3桁の価格のもの。ひとりのときはこんなものだ。
価格で判断することなかれ
これでもかなり美味なのだ
中華街で昼食_1
中華街で昼食_2
ついでに中国式の飾りを見るのが好きだ
中華街で昼食_3
中華街で昼食_4
中華街で昼食_5
とは言うものの、たまにはこういうものを注文しなくちゃいけないよね
中華街で昼食_6

元町商店街を歩く
何時来てもそう思うが、おしゃれなハイセンスの街だ
元町商店街の両側の入り口にあるフェニックスのモニュメント
元町商店街の両側の入り口にあるフェニックスのモニュメント
車両通行禁止ではないが、スピードを出しにくくする工夫がなされている
しかし、高級車ばかりだなあ。生活困窮者は近寄りがたい雰囲気だ。
車両通行禁止ではないが、スピードを出しにくくする工夫がなされている_1
車両通行禁止ではないが、スピードを出しにくくする工夫がなされている_2
フラワーポット
フラワーポット_1
フラワーポット_2
フラワーポット_3
おしゃれなお店
おしゃれなお店_1
おしゃれなお店_2
おしゃれなお店_3
おしゃれなお店_4
もう一方の入り口にあるフェニックスのモニュメント
もう一方の入り口にあるフェニックスのモニュメント

以上で、『花を中心に横浜の街を見て歩く』シリーズは終了です。最後までご覧いただき大変ありがとうございました。

 

花を中心に横浜の街を見て歩く(7)

玄武門のすぐ近くから巨大都市の横浜市に他に公園がないようなご大層な名前をつけた『横浜公園』に入っていく。何のことはなく、横浜スタディアムと同じ敷地にある公園のことだ。

横浜公園(1)
中華街側の出入り口
すぐのところに日本庭園があるが、私の好みには程遠い。センスが良いはずの横浜市にしては、ダサいものをこしらえてしまったように思う。
中華街側の出入り口_1
中華街側の出入り口_2
中華街側の出入り口_3
中華街側の出入り口_4
横浜公園の『全国緑化よこはまフェア』会場が見えてきた
こちらの会場はチューリップが主力のようだ。あまりストレートばかりでもと思わないでもない。
横浜公園の『全国緑化よこはまフェア』会場が見えてきた

日本大通り側出入り口付近に進んでいく

横須賀市の出展物
何かと思った。展示物自体が、大きなフラワーポットになっているのは確かだが、…。
横須賀市の出展物_1
正面から見て漸くわかった。横須賀市の出展物の蒸気船、浦賀沖に現れた黒船だった。説明書きには、下記のような文言があった。
「海と緑に恵まれた開国のまち」横須賀
この花壇は海と緑、黒船を表現したもの。横須賀はペリー提督が上陸し開国のきっかけとなった街。豊かな自然環境が最大の魅力で、朝どれの魚や野菜など新鮮な食べ物も豊富。

横須賀市の出展物_2
横須賀市の出展物_3
こちらは、鎌倉市と鎌倉造園界の出展物
他とは一味違うところを見せたかったのかな?
こちらは、鎌倉市と鎌倉造園界の出展物_1
こちらは、鎌倉市と鎌倉造園界の出展物_2
こちらは、鎌倉市と鎌倉造園界の出展物_3
こちらは、鎌倉市と鎌倉造園界の出展物_4
共通ゾーン
日本庭園からアクセスするときに見えた通り、チューリップがメインの花のようだ。遠目に見る分には良くても、近くでいっぱい見ていくと、チョット飽きてきてしまう感じかな。
共通ゾーン_1
共通ゾーン_2
共通ゾーン_3
共通ゾーン_4
球場の近く
ベイスターズの本拠地なので、こういうディスプレイが飾られていた。ベイスターズの投打の主力には、変則スタイルの選手が少なくない。そんな感じに仕上がっていた。
球場の近く_1
球場の近く_2
球場の近く_3
球場の近く_4
こちらは、八王子市の出展物
『みどりの丘の花絵巻』という展示テーマ
こちらは、八王子市の出展物_1
こちらは、八王子市の出展物_2
フォトフレームなのかな
結構利用している方がいた。居なくなるまで待って撮った。
フォトフレームなのかな_1
フォトフレームなのかな_2
フォトフレームなのかな_3
どこもかしこもチューリップがいっぱい
でも少しはチェンジ・アップも投げたかな?
どこもかしこもチューリップがいっぱい_1
どこもかしこもチューリップがいっぱい_2
どこもかしこもチューリップがいっぱい_3
どこもかしこもチューリップがいっぱい_4

 

浄妙寺~報国寺~杉本寺~宝戒寺~東勝寺跡(5)  2017.05.04 16:50 画像追加

杉本寺
鎌倉最古の寺、杉本寺に立ち寄る。鎌倉幕府が開かれる500年近くも前の平安初期の天平六年(734)に創建されたとされる古刹だ。
鎌倉石の苔生した石段
苔生した様は実に美しい。歩くことができるわけではないが、よく見て記憶にとどめたい佇まいだ。
鎌倉石の苔生した石段_1
鎌倉石の苔生した石段_2
鎌倉石の苔生した石段_3
鎌倉石の苔生した石段_4
鎌倉石の苔生した石段_5
鎌倉石の保護のため、従来の石段は通行禁止となり、迂回路が設けられている
鎌倉石の苔生した石段_6
鎌倉石の苔生した石段_7
ご本尊の画像
ご本尊は撮影禁止。絵札を買ってきていたのを失念していた。これを追加するので、本物をイメージしていただきたい。
中央の像(像高166.7センチメートル)は寄木造、漆箔仕上げで、円仁(慈覚大師)作と伝承され、衣文に平安時代風を残すが、鎌倉時代に入っての作とみられる。
慈覚大師御作_十一面観世音菩薩_R
中尊の左(向かって右)の十一面観音立像(像高142センチメートル)は寄木造、漆箔仕上げで、源信(恵心僧都)作と伝承されるが、実際の制作年代は鎌倉時代である。
恵心僧都御作_十一面観世音_R
右(向かって左)の十一面観音立像(像高153センチメートル)は行基作と伝承されるもので、素木の一木造であり、3体の中ではもっとも古様で、平安時代末期の作と推定される。作風は素朴で、ノミ痕を残す部分もあり、専門の仏師ではない僧侶の作かと推定されている。
行基菩薩御作_十一面覆面観世音_R

寺伝によれば、天平6年(734年)行基が十一面観音を安置して創建したのに始まるという。相当に古い寺院であることは論を俟たない事だが、行基が創建したという言い伝えは本当なのだろうか?Wikipediaの行基の記述を読むと、行基開基の寺院は史料によるもので、近畿地方に所在する寺院ばかりが列挙されている。全国には、青森県から宮崎県まで約600寺の行基が開基したとの伝承の寺院があるそうだが、これらは史料にない追慕による伝承であると冷たく言い放されている。おそらくそういうことなのだろうが、あまり割り切ってしまうのも、夢も希望もなくなってしまう気がしないでもない。
その由緒ある寺だが、文治5年(1189年)堂宇が焼失している。このとき観音像は自ら本堂から出て、境内に避難したと伝えられる。まあ、これも、そうだったら良いだろうの世界の話かもしれない。
『吾妻鏡』によれば、中世には大倉観音堂と呼ばれ、文治5年(1189年)の火災時には別当浄台房が炎の中から本尊を持ち出し無事であったという。こちらのほうが、まだ、信じられる記述だろう。同書には建久2年(1191年)源頼朝が当寺を参拝し、修理料を寄進したとある。これもそのとおりだろう。


山門
切妻造、茅葺の八脚門。左右に金剛力士(仁王)像を安置する。江戸時代、18世紀半ば頃の建立。茅葺きの山門は見事なものだ。だが、辺り構わず千社札が貼られているのが、風情を大きく損なう。何とも残念でならない。
山門_1
山門_2
山門_3
山門_4
山門_5
堂内の塵を払って、千社札を剥がしておいたほうが良さそうに思う。ついでに仁王像の修理もしたほうが良さそうだ。
山門_6
山門_7
山門_8
山門_9
山門_10
山門_11
山門_12
本堂(県指定文化財)
寄棟造、茅葺、方五間(正面側面とも柱間が5間)の密教仏堂。棟札から延宝6年(1678年)の建立と判明する。第4代将軍徳川家綱のときだ。鎌倉の建物は、殆どが江戸時代の建物なんだなあ。
本堂(県指定文化財)_1
本堂(県指定文化財)_2
鐘楼と梵鐘
おそらくこの鐘楼も本堂や山門と同時代に再建されたものではなかろうか。本堂と釣り合いがとれる気がするが、これだけは瓦葺きなんだ。
鐘楼と梵鐘_1
鐘楼と梵鐘_2
斯波家永と家臣の供養塔
本堂の横にある五輪塔群は、かつて境内を含む裏山一帯にあった杉本城の城主である斯波家長とその家臣たちを弔うための供養塔。かつての杉本城には、足利方の武将で鎌倉府執事を務めた斯波家長が拠ったが、南朝方の北畠顕家に攻められ、この寺で自害しているそうだ。
斯波家永と家臣の供養塔_1
斯波家永と家臣の供養塔_2

杉本寺は天台宗の寺。鎌倉幕府が開かれる500年近くも前の平安初期の天平六年(734)に創建された鎌倉最古の寺。天平三年(731)、関東地方を歩いていた行基菩薩が、鎌倉の大蔵山から町を眺め「ここに観音様を置こう」と思い、自ら彫刻した十一面観音像を安置した。
その後、光明皇后の恩召により、行基が本堂を開創した。文治5年(1189)11月23日の夜、火災が起こったが本尊3体が大杉の下で火を避けられたので、それにより杉の本の観音と今日まで呼ばれたと「吾妻鏡」は伝えている。その後、建久2年(1191)9月18日に源頼朝が再興し以前の三尊像を内陣に安置し、別に立像7尺の十一面観音像を寄進した。
坂東観音霊場33番札所制度の時、第一番札所とされた。十一面杉本観音と書かれた白幡が石段の両側に並んでいる。本尊は十一面観音。

 

浄妙寺~報国寺~杉本寺~宝戒寺~東勝寺跡(4)

報国寺
この前に取り上げた浄妙寺は鎌倉五山の第5位に格づけされた。現在では花の寺としてのみ有名な感じがする。それに対して、こちら報国寺は、寺格は五山、十刹の次の諸山に列せられていた程度だが、今では、人気も宗教活動も浄妙寺のはるか上を行くように思う。約二千本の孟宗竹の庭が有名で、「わざわざ旅行する価値がある」という評価のミシュラングリーンガイド三つ星を、鎌倉では東慶寺と並んで獲得した。私の主観だけではなさそうだ。道理で外国人観光客が多いのも首肯できよう。
山門
近年建てられた藥医門形式の山門。新しくとも古くからあるような感じ。なかなか風格がある。
山門_1
山門_2
山門_3
山門_4
山門_5
こちらも花の寺
こちらも花の寺_1
こちらも花の寺_2
こちらも花の寺_3
イカリソウはどうも上手く撮ることができない。下手くそで恥ずかしい限りだ。
こちらも花の寺_4
こちらも花の寺_5
こちらも花の寺_6
こちらも花の寺_7
こちらも花の寺_8
こちらも花の寺_9
こちらも花の寺_10
本堂
本堂の大きさは、確かに諸山クラスかもしれない。大きければよいというものではないが、…。
本堂_1
本堂_2
本堂_3
鐘楼
茅葺きで古刹にふさわしい風格の鐘楼。簡素で良いなあと思う。
鐘楼_1
鐘楼_2
迦葉堂
本堂の右手には、仏陀の弟子、迦葉から名をとった迦葉堂と呼ばれる2階建ての建物がある。ここには、仏乗禅師坐像、迦葉尊者立像などが祀られていて、日曜日には日曜座禅会が開かれる。ただし、普段は公開されていない。
迦葉堂の竹林側で手前には石庭がある(PDF画像を借用)
迦葉堂
供養塔
多数の小型の五輪塔などが集められている。由比ガ浜などから発掘された、新田義貞鎌倉攻めの際の両軍戦死者の石塔を集めた供養塔だ。もはやNo Sideということのようだ。
追悼歌
 いさをしも槍も刃も
 埋もれて梢に寒し
 松風の音
 華の世を所業つたなく
 散る君に香一片を
 焚きておろがむ

供養塔_1
供養塔_2
供養塔_3
竹林と石庭
何度か行っているので、今回は省略したが、初めての方には必見だと思う。非常に人気が高い有料のゾーンだ。竹林や石庭を見ずに∪ターンしたのは私くらいだったかも。
以下3点は、PDF画像を借用
竹林と石庭_1
竹林と石庭_2
竹林と石庭_3
2014年12月の時の報国寺の写真にjump

この寺は、1334年(建武元年)天岸慧広の開山により創建されたと伝えられ、開基については足利尊氏の祖父足利家時とも上杉重兼ともいわれている。臨済宗における寺格は諸山に列せられていた。1438年(永享10年)におきた永享の乱で敗れた鎌倉公方足利持氏の子義久がこの寺で自刃している。

旧華頂宮邸
報国寺のすぐ近くに旧華頂宮邸がある。こちらは省略するつもりはなかったのだが、月火は休館日のようで、内部(といっても庭だけだが)に入ることができなかった。
僅かに撮った写真
僅かに撮った写真_1
僅かに撮った写真_2
僅かに撮った写真_3
僅かに撮った写真_4
僅かに撮った写真_5
2014年12月の時の旧華頂宮邸の写真にjump
鎌倉タイムの旧華頂宮邸の記事にjump

 

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