散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

兵庫~滋賀~京都(7)

本年一年間、拙い当ブログを閲覧して頂き、大変有難うございました。来年も引き続きアクセスいただけますよう、伏してお願い申し上げます。

神護寺(1)
案内の通り、清滝川に架かる高雄橋から長い参道を歩いた先の山中に金堂、多宝塔、大師堂などの堂宇が建っていた。覚悟はしていたものの、かなり急坂を延々と上る。山門に相当するかの有名な楼門まで到達するのは、決して容易なことではなかった。
なお、小雨が降っていた所為か、画像が全般にはっきりしない。平たく言えばピンぼけ気味だった。非常に残念だし、見てくださっている方には申し訳なく思う。次の外出からは、高倍率のお散歩レンズ1本だけの使用ではなく、広角から小望遠までは屋内撮影などでもしっかり対応するEOS M3で、中望遠から望遠以上は確実な処理が期待できるEOS 7Dmark IIの2セット体制で行こうと決めた。

神護寺はこんなところ
金堂
拝観した当日は堂内の拝観が自由だった。有難いことに、国宝の仏像のすぐ近くまで行ってみることができた。流石に写真撮影は不可だったが。
神護寺はこんなところ_1
木造薬師如来立像 国宝
写真撮影はもちろん不可なので、PDF画像を借用。実物を間近で見たのだが、左頬の傷には気づかなかった。
神護寺はこんなところ_2
大師堂 国指定重要文化財
空海の住房であった『納涼房』を復興したもので、現存するものは近世初期に再建したもの。弘法大師の伝説は全国津々浦々に残るが、本当にその場所に行ったかどうか疑わしいものも少なくない。こちらは、間違いなく一時住んでいた空海の住房だ。
大師堂 国指定重要文化財
参道
上りはじめ
まずは単調な石段が続く。私が上った山では鷹取山に似た感じの勾配。
上りはじめ_1
上りはじめ_2
上りはじめ_3
上りはじめ_4
上りはじめ_5
踊り場から硯石まで
踊り場のようなところで眼下を見る。余りはっきり見えなくて助かった。
踊り場から硯石まで_1
呼吸を整えた後、再び上る。何やら茶店のようなものが見えてくる。最初に見えてきたのは『高雄茶屋』。午前中の比較的早い時間だったせいか、まだあいていなかった。もしかしたら、雨の予報の平日だったせいで不定休を適用したのかもしれない。
踊り場から硯石まで_2
踊り場から硯石まで_3
踊り場から硯石まで_4
踊り場から硯石まで_5
踊り場から硯石まで_6
更に上る。硯石亭の曲がり角まで来ると後は残りわずか。こちらもまだあいていないようだった。
踊り場から硯石まで_7
踊り場から硯石まで_8
踊り場から硯石まで_9
踊り場から硯石まで_10
踊り場から硯石まで_11
硯石
写真がボケボケ続きで申し訳ない。この石は、下記のようなエピソードがある石。何とも気宇壮大な話だ。
硯石
三筆の一人でもある、弘法大師空海が硯とした石。空海が神護寺(高雄山寺)にいたとき、対岸にあったという金剛定寺の勅額揮毫の依頼があったが、折悪しく大雨となり、橋が流されて勅使が寺に辿り着くことができなかった。空海はこの石で墨をすり、川の向こうの対岸に額を立てかけさせて、それへ筆を投げて見事「金剛定寺」の四文字を書いたという。
ラスト・スパート
楼門が見えてきた。あの有名な楼門だ。普通なら足取りが軽くなるところだが、ちょっとエンジンがかからなかった。
ラスト・スパート_1
ラスト・スパート_2
ラスト・スパート_3
ラスト・スパート_4
ラスト・スパート_5
ラスト・スパート_6
ラスト・スパート_7
ラスト・スパート_8
ラスト・スパート_9
ラスト・スパート_10
楼門 京都府指定文化財
清滝川畔から石段の参道を上りつめた先に建つ正門。両脇に二天像を安置する。毘沙門堂などと同様、元和9年(1623年)の建立とされる。
楼門_1
楼門_2
楼門_3
小雨が降っていて、ピントが良くなかったので、はっきりした様子を下の2点のPDF画像で確認されたい。
楼門_4
楼門_5

高雄山神護寺の紅葉のページへjump

京都市街の北西、愛宕山(924メートル)山系の高雄山の中腹に位置する山岳寺院で、紅葉の名所として知られる。清滝川に架かる高雄橋から長い参道を歩いた先の山中に金堂、多宝塔、大師堂などの堂宇が建つ。神護寺は空海が東寺や高野山の経営に当たる前に一時住した寺であり、最澄もここで法華経の講義をしたことがあるなど、日本仏教史上重要な寺院である。

 

兵庫~滋賀~京都(6)

関西旅行の2日目は、友人にホテルでピックアップしてもらい、高尾の神護寺と栂ノ尾の高山寺とを見ることから始めた。周山街道沿いの高雄山神護寺、槙尾山西明寺、栂尾山高山寺は、三尾(さんび)の名刹として知られる。今回は、そのうちの2寺を見て回ることにする。

神護寺へ向かう
この道筋は周山街道をちょっとだけ歩き、すぐ清滝川沿いの道に下っていき、高尾橋まで行くコース。多くの人出がある紅葉も終わり、再び静けさが戻ってきた。その川沿いの道を歩く。
周山街道
栂ノ尾の公営駐車場に車を置き、そこからてくてくと歩き始めた。紅葉の季節が終わり、殆どの店は閉じたままになっていた。
周山街道_1
紅葉の季節は、見違えるほど色鮮やかなのだろう
周山街道_2
程なく清滝川に掛かる白雲橋を渡る。欄干から川を見るとこんな感じ。
周山街道_3
周山街道_4
清滝川沿いの道に入る
途中から川沿いの道に入る。紅葉の時期はさぞかし美しく、人出もあるのだろう。この日はほとんど貸切状態だった。
清滝川沿いの道に入る_1
清滝川沿いの道に入る_2
清滝川沿いの道に入る_3
指月橋
暫く行くと槙ノ尾に着く。指月橋を渡ると神護寺の別院として創建されたという西明寺に向かうことになるが、第一目標は神護寺なので、やむを得ずパス。指月橋の手前には槙尾山聖天堂の石標。鎌倉の宝戒寺で聖天堂を見たばかりだが、こちらにも存在したようだ。
指月橋_1
指月橋_2
指月橋_3
指月橋_4
指月橋_5
指月橋_6
指月橋_7

槇尾山西明寺の紅葉のページへjump
清滝の紅葉のページへjump

先を急ぐ
先を急ぐ_1
先を急ぐ_2
先を急ぐ_3
先を急ぐ_4
途中にあった案内図
先を急ぐ_5
清滝川は本当にきれい
先を急ぐ_6
ミニ門前町
いよいよ神護寺に近くなってきた。紅葉の時期が過ぎて、ほっと一段落中かな。
ミニ門前町_1
ミニ門前町_2
ミニ門前町_3
ミニ門前町_4
ミニ門前町_5
高尾橋を渡れば神護寺の境内に
『山内女人禁制』の石標
高尾橋を渡れば神護寺の境内に_1
高尾橋の上から清滝川を見る
高尾橋を渡れば神護寺の境内に_2
高尾橋を渡れば神護寺の境内に_3

 

兵庫~滋賀~京都(5)

彦根城(4)
最後に西の丸三重櫓に向かう。玄宮園は時間がなくて、今回はパスした。残りわずかでもう楽勝だと思ったのだが、ちょっぴり甘い考えだった。
西の丸三重櫓 国指定重要文化財
櫓の外観
見た通り、角の部分が三重櫓になっている。そしてあの部分の面積は大したものではない。ということは階段がかなり急勾配になっているのだった。警備の人がいたのは、西の丸三重櫓を空撮していたからだった。
櫓の外観_1
櫓の外観_2
空撮機はドローンではなく、ラジコンのヘリコプターだった
櫓の外観_3
櫓の外観_4
櫓の外観_5
櫓の外観_6
櫓の内部
天守や付櫓と違って、梁材は比較的まっすぐな木材を使用していた
櫓の内部_1
櫓の内部_2
本来は上り下り別の階段を使用するようになっていたようだ。現在は、見学者の安全のため、片方だけ、後年になって手すりをつけたようだ。
櫓の内部_3
三重櫓の先の折り曲がった部分。此処も何もない相殺風景な空間だった。あくまで軍事施設だったのだ。
三重櫓の先の折り曲がった部分
階段は、上から見たときのほうが怖かった。いい加減、足腰が厳しくなってきた。
櫓の内部_4
櫓の内部_5
上の階段は、比較的新しく作り直した階段のようだ。必死の思いで上ったら、小学生くらいの坊やがいた。タフネスぶりに驚くとともに、学校は大丈夫なのか、心配してしまった。
櫓の内部_6
お濠の端っこが見えた。もちろん琵琶湖も。
櫓の内部_7
櫓の内部_8
最上層はこんなふう
櫓の内部_9

以上で彦根城を後にし、昼食に向かう

近江牛の店『伽羅』に入る
料理はとても美味しかった。加えて、暫し個室でゆっくりできたのも良かった。
近江牛の店『伽羅』に入る_1
近江牛の店『伽羅』に入る_2
近江牛の店『伽羅』に入る_3
近江牛の店『伽羅』に入る_4
近江牛の店『伽羅』に入る_5
近江牛の店『伽羅』に入る_6
今度来る機会があったら、鮒ずしに挑戦してみたいものだ。相当にお高いようだが。
近江牛の店『伽羅』に入る_7

オオワシを見に行く
更にありがたいことに車を走らせ、湖北町のオオワシを見に行くことにした。残念なことに居た事は居たのだが、暫く前に湖面から戻り、そのまままったりしているとのこと。その位置がよくない。枝被りで肝心の顔が見えない。皆さん諦め顔だった。これのみNIKON P610で撮影。
オオワシを見に行く_1
これではあまりに申し訳なので、PDF画像で確認されたい
オオワシを見に行く_2
見た感じ20人位来ていたようだ
オオワシを見に行く_3

大津の駅前で
大津の駅前まで送っていただいた。一日色々連れて行って頂き感謝し尽くせないほど。別れた後、すぐ電車で京都に向かう手もあったが、ちょっとだけ寄り道を。車中で気になった建物まで、少しだけ戻ってみることにした。
滋賀県庁
なかなか洒落た建物だ。駅から数百m歩いて戻っただけのことがあった。
滋賀県庁_1
滋賀県庁_2
滋賀県庁_3
本館は、総工費200万円で昭和12年より改築に着手、同14年5月に竣工しました。
設計は早稲田大学大隈講堂、群馬県庁等を設計したことで知られる佐藤功一氏です。鉄筋コンクリートの4階建で中央には塔屋がそびえ、左右に事務室、そして正面玄関には大きく車寄せを配したその容姿は、ルネサンス様式らしい格調高い存在感を放っており、本県を代表する近代建築の一つとされています。
当庁舎ならではの意匠は中央階段に色濃く表れています。ひとつは踊り場のステンドグラス。石造りの平板な感じがする踊り場に自然光による採光を目的としたステンドグラスは、大勢の人が集う県庁舎の華やかさを体現したものです。 
もうひとつは階段壁面の陶器(テラコッタ)装飾です。建築当時、従来の石材に代わり注目をされた装飾性豊かな陶器(テラコッタ)レリーフを採用。当レリーフは昭和2年(1927年)に設立された県立窯業試験場(現 信楽窯業技術試験場)により作成されました。生命力に溢れた伸びやかなアカンサス(地中海沿岸を原産地とする多年草)を配した意匠は、陶器ならではのしなやかな曲線で建物に気品を添えています。

旧武徳館
平成21年1月末で閉館された武徳館。まるまる7年も放置されたままなんだ。この存在感は捨てがたい。
旧武徳館_1
旧武徳館_2

あまり暗くなると、ホテルを探しそこねてしまう。先を急ごう。

 

兵庫~滋賀~京都(4)

彦根城(3)
天守と附櫓 国宝
外観
天守を1棟、『附櫓及び多聞櫓』を1棟に数える。ひとかたまりに見える建物だが、都合2棟に数える。外観は壮麗な感じだが、内部に入ると、装飾などを一切排除し、ひたすら堅牢に造られている。一朝有事の際に詰める軍事施設なんだと改めて認識した次第。
東側から見た様子
花頭窓が見えている。高欄がついている廻縁も一部にしつらえてあるんだ。多少はお化粧めいたこともしてあるんだ。
東側から見た様子
東北東側から見た様子
前回冒頭で使用したショット。画面に写っている大部分が『天守』。これを1棟と数える。奥右側に突き出しているのが『附櫓』で、そこにつながっている右端の櫓が『多聞櫓』だと思う。『附櫓』と『多聞櫓』とで、天守とは別に1棟と数えるようだ。
東北東側から見た様子
西の丸側から見た様子
右から、天守、附櫓、多聞櫓となる。PDF画像を借用
西の丸側から見た様子
天守内部から北側を見た様子
突き出ているのが多聞櫓、左側にちょこんと見えるのが附櫓
天守内部から北側を見た様子
附櫓及び多聞櫓の内部を見る
此処は多門櫓の内部だろう
此処は多門櫓の内部だろう
此処は附櫓の内部だろう
梁の組み方は古民家のそれと同じようなものだった。他所の城からもらってきた櫓はまっすぐの梁を使用していたが、自前のものはお金をかけずに曲がった木材でも躊躇せず使用したようだ。曲がった材木を使用するのは古民家の専売特許では無かったようだ。
此処は附櫓の内部だろう
このやや急勾配の階段を上がって、天守内部に進む
大した事なさそうに思えるかもしれないが、最初の関門。怖く感じた。
このやや急勾配の階段を上がって、天守内部に進む
天守の内部を見る
御殿ではなく、飽くまでも防御用の建物だから、質実剛健に造られていた。体裁などは一切考慮していない感じだ。
天守の内部を見る_1
一朝事ある時は雑魚寝したり食事をとったりするスペースだったのだろうか?
天守の内部を見る_2
確かに410年も保たせたがっしりした造りだ
天守の内部を見る_3
天守の内部を見る_4
天守の内部を見る_5
天守の内部を見る_6
天守の内部を見る_7
井伊直弼像があった
天守の内部を見る_8
見通しが良くなってきた。天守なのだから当然だ。
天守の内部を見る_9
西の丸三重櫓
天守の内部を見る_10
琵琶湖
天守の内部を見る_11
伊吹山
霞んでいて残念
天守の内部を見る_12
いよいよ階段を上る
暗くてよく見えないほうが精神衛生上は良かろう。相当な急勾配だ。
天守の内部を見る_19
天守の内部を見る_20
ごつい梁組だなあ
天守の内部を見る_14
天守の内部を見る_15
多門櫓の先には、玄宮園が見える
天守の内部を見る_21
玄宮園からはこんなふうに見える。手前側に多聞櫓と附櫓とが見える。PDF画像借用
天守の内部を見る_22
上の階もしっかり造られている
天守の内部を見る_16
下へ下りる階段(上へ上る階段でもある)
足が竦む。勾配がきつく、非常に怖い。
天守の内部を見る_17
下から見ると、まずまずなんだけど
天守の内部を見る_18

 

兵庫~滋賀~京都(3)

彦根城(2)
天秤櫓(2) 国指定重要文化財
天秤櫓の下の城門である天秤櫓門を潜ると次なる太鼓門櫓が見えてくる。そこに進む前に、まずは天秤櫓の内部を見ることにする。
左にある入口から入る
裏側から見ると威圧感は薄らぐ感じ
天秤櫓(2) 国指定重要文化財_1
鬼瓦はわかりやすいもの
天秤櫓(2) 国指定重要文化財_2
内部は至って簡素
天秤櫓(2) 国指定重要文化財_3
本当に急勾配だ。わざと手すりを付けなかったのだろう。う~~ん。
天秤櫓(2) 国指定重要文化財_4
天秤櫓(2) 国指定重要文化財_5
天秤櫓(2) 国指定重要文化財_6
天秤櫓(2) 国指定重要文化財_7
窓の格子木
弓や鉄砲等で敵陣を広く狙えるよう葵型の木材を使用しているのか。細かい配慮がなされていたんだ。
天秤櫓(2) 国指定重要文化財_8
階段は急勾配
万一、敵兵が防御を突破し、この階段を上がってきたら、蹴落としたのか。う~~ん。
天秤櫓(2) 国指定重要文化財_9
天秤櫓から見た佐和山城跡
すぐ目の前だ。石田三成の居城だったが、今は何も残っていないようだ。
天秤櫓(2) 国指定重要文化財_10
天秤櫓(2) 国指定重要文化財_11
天秤櫓の裏側外観
天秤櫓(2) 国指定重要文化財_12
以下の3ショットは帰りに撮影した分
天秤櫓(2) 国指定重要文化財_13
天秤櫓(2) 国指定重要文化財_14
天秤櫓(2) 国指定重要文化財_15
次は太鼓門及び続櫓へと向かう
今のところ、足腰は大丈夫かな。これから先の保証はないものの。
ドンドン上がっていくので、正直なところ楽ではない
次は太鼓門及び続櫓へと向かう_1
その途中に『時報鐘』と『聴鐘庵』とがある
残念ながら聞くことができなかったが、相当に美しい鐘の音だそうだ
次は太鼓門及び続櫓へと向かう_2
次は太鼓門及び続櫓へと向かう_2_0
次は太鼓門及び続櫓へと向かう_3
太鼓門及び続櫓 国指定重要文化財
こちらは防御上の意味合いも多少はあったのだろうが、それよりも登城合図の太鼓を打ち鳴らすなどユーティリティ的な使用に供する櫓だったようだ。『殿様が戻られた。ある役職以上の藩士は至急登城せよ』なんてところだろうか。410年前だと、まだ、豊臣方のゲリラ攻撃などが心配だったのかもしれない。そういう非常用連絡もあったかな?
表側から見た様子
どこかの城から移築してきたと言われているそうだ。どこの城なのだろうか?
太鼓門及び続櫓 国指定重要文化財_1
太鼓門及び続櫓 国指定重要文化財_2
太鼓門及び続櫓 国指定重要文化財_3
太鼓門及び続櫓 国指定重要文化財_4
裏側(東側)から見た様子
櫓は、東側の壁が無く、柱の間に高欄をつけ廊下にしている。登城合図用の太鼓の音を響かせるために考えられたのではないかといわれているそうだ。ということは、登城合図の太鼓は、この櫓で城下に向かって打ち鳴らされたのだろうか。それでこの名称が櫓に付与されたのだろう。
太鼓門及び続櫓 国指定重要文化財_5_0
太鼓門櫓を潜るとそこは本丸
太鼓門及び続櫓 国指定重要文化財_6
『ヤッター。もうこれ以上は上らなくて済むんだ』…そう思ったのだが。その考えはかなり甘いものだった。
太鼓門及び続櫓 国指定重要文化財_7
太鼓門及び続櫓 国指定重要文化財_8
太鼓門櫓の内部を見る
太鼓門及び続櫓 国指定重要文化財_9
門をくぐる人達がよく見える。この先に城下があるから、太鼓の音が十分届いたことなのだろう。
太鼓門及び続櫓 国指定重要文化財_10

 

兵庫~滋賀~京都(2)

彦根城(1)
明治時代初期の廃城令に伴う破却を免れ、天守が現存する。天守等2棟が国宝、櫓、門、馬屋等5棟が国の重要文化財に指定されている貴重な文化遺産だ。天守が国宝指定された五城の一つ。
写真展を見に行ったお礼にこちらを案内していただいた。有難い話でお誘いに応じさせていただいた。何回かに分けて見た順番に取り上げていきたい。

国宝の天守閣
廃城による取り壊しを回避し、戦災にも遭わず、410年前の姿を現在にとどめている。形は小さいが男性的な天守閣だ。その分、階段が急勾配になっている。覚悟して上る必要がある。彦根35万石といわれるが、天守は18万石の頃の完成だそうだ。画面に写っている大部分が『天守』。確認しなかったが、奥右側に突き出しているのが『附櫓』で、そこにつながっている右端の櫓が『多聞櫓』だと思う。『附櫓』と『多聞櫓』とで1棟と数えるようだ。
国宝の天守閣

彦根城案内図
彦根城案内図
彦根城の復元模型
天守閣よりも御殿の方により興味がある私には、御殿が残っていないのは非常に寂しい。『本丸御殿』はかなりこじんまりしたものだったようだ。普段の用向きは、殆ど全てを『表御殿』が果たしていたのだろう。
彦根城の復元模型
表御殿発掘調査遺構全図
表御殿発掘調査遺構全図
京橋口駐車場に駐車し、京橋を渡って表門橋まで歩いていったが、もっと近い駐車場があったようだ。だが、あとで昼食をとることを考えれば、この駐車場がベストだったかもしれない。
旧西郷家屋敷長屋門
家老西郷家屋敷の長屋門だそうだが、ものすごい長屋門だ。大藩の家老職の家だとしても、このように巨大な長屋門の必要はなかったはずだ。もしかしたら、曲輪のような役目をも果たしていたのだろうか?
旧西郷家屋敷長屋門_1
旧西郷家屋敷長屋門_2

二の丸佐和口多聞櫓(重要文化財)
遠目に見た時は、後年に建造した観光用の施設かと思っていたが、近づいてみると、本物の櫓だとわかった。それも国指定の重要文化財。きちんと見ておくのだった。
二の丸はもう少し本丸に近いところにあると思っていたが、この位置だったのか。江戸時代初期の特上だから良いものの、戦国時代だとかなり厳しい位置になったことだろう。すぐ近くに馬屋(重要文化財)もあったんだ。う~~ん。

二の丸佐和口多聞櫓(重要文化財)_1
こちらは、現在開国記念館として使われている部分のようだ。PDF画像借用
二の丸佐和口多聞櫓(重要文化財)_2
いろは松から彦根城を訪れる時、最初に出逢う櫓。左手に見える櫓は明和8年(1771年)に再建されたものです。現在、重要文化財に指定されています。
手前は昭和35年(1960年)に再建されたもので、現在は開国記念館として使われています。


馬屋(重要文化財)
馬屋が国指定の重要文化財か。昭和43年に解体修理された際に、以前の柿葺きの屋根に戻したのか。う~~ん、時間がないから仕方がなかったが、きちんと見ておくのだった。
PDF画像借用
馬屋(重要文化財)
元禄時代(1688〜1703)に建てられ、常に十数頭の藩主用の馬がつながれていました。
昭和43年に解体修理されたこけら葺きの屋根が美しく、城内に残る馬屋は彦根城だけです。
明和(1764〜1771年)のころ、火災により類焼。修理されましたが、こけらぶきの屋根は棧瓦(さんがわら)ぶきに変えられました。昭和48年解体修理の時、もとのこけらぶきに復元されました。


表門橋
当然のことながら木製の古色蒼然たる橋
表門橋_1
表門橋_2

表門山道
いきなり急勾配の山道だ
表門山道_1
表門山道_2
暫く行くと、国指定重要文化財の天秤櫓が見えてくる。現金なもので、こういうものが見えてくると俄然やる気が湧いてくる。
表門山道_3
表門山道_4
天秤櫓に通じる廊下橋の下を潜る
表門山道_5
廊下橋の下を潜ったら左折して少し石段を上る。その辺りから振り返って天秤櫓を見た様子。結構すごい眺めだ。
表門山道_6

廊下橋
天秤櫓と鐘の丸とを結ぶ木製の橋。元来は、橋に覆い屋根と壁がつけられていた事から、廊下橋の名で呼ばれているそうだ。規模はまるで違うがヴェッキオ橋のようなものか。いや、どちらかと言えば、マディソン郡の橋のようなものだったのかもしれない。非常時には落とし橋となる仕掛けだ。
廊下橋_1
PDF画像借用
廊下橋_2
鐘の丸虎口石垣
鐘の丸虎口石垣_1
鐘の丸虎口石垣_2

天秤櫓(1) 国指定重要文化財
確かに天秤のような形状の櫓だ。秀吉が創築した長浜城大手門を移築したのか。う~~ん。
天秤櫓(1) 国指定重要文化財_1
天秤櫓(1) 国指定重要文化財_2
天秤櫓(1) 国指定重要文化財_3

江戸時代初期、現在の滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、鎮西を担う井伊氏の拠点として置かれた平山城(標高50m)である。山は「金亀山(こんきやま)」との異名を持つため、城は金亀城(こんきじょう)ともいう。多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった。
明治時代初期の廃城令に伴う破却を免れ、天守が現存する。天守と附櫓(つけやぐら)及び多聞櫓(たもんやぐら)の2棟が国宝に指定されるほか、安土桃山時代から江戸時代の櫓・門など5棟が現存し、国の重要文化財に指定されている。中でも馬屋は重要文化財指定物件として全国的に稀少である。
明治に入り各地の城が廃城令で破壊・売却されていく中、彦根城も例外ではなかった。しかし、明治11年10月、明治天皇が巡幸で彦根を通過した際に城の保存を命じたため破却は逃れたという。その際、巡幸に随行していた大隈重信が城の破却中止を天皇に奉上したという説と、天皇が近江町長沢の福田寺で小休止されたとき、住持攝専(せっせん)夫人で、天皇の従妹にあたるかね子が奉上したという説とがある。
天守が国宝指定された五城の一つに数えられる。姫路城とともに遺構をよく遺している城郭で、1992年(平成4年)に日本の世界遺産暫定リストに掲載されたが、近年の世界遺産登録の厳格化の下、20年以上推薦は見送られている。

 

我が家のクリスマス・イブ

今年は内孫2人共がミサに与ることになった。2人の成長ぶりに感無量。

子供向けのミサに出かけた
近くにあるカトリック碑文谷教会の16:00から始まる楽なミサに与った。「サレジオ教会」と呼ばれることもあり、そちらでご存じの方も少なくないかもしれない。
上の孫娘がピアノのレッスン後、急ぎ駆けつける手はずになっていた。なかなか姿を表さないので、先着組は気を揉んだが、なんとかかんとか間に合った。みな揃って着席できた。
カトリック碑文谷教会の聖堂
子供向けのミサに出かけた_1
聖堂前にセットされた馬小屋
子供向けのミサに出かけた_2
ステンドグラスの誕生のシーン
子供向けのミサに出かけた_3
子供向けのミサに出かけた_4
子供向けのミサに出かけた_5
子供向けのミサに出かけた_6
子供向けのミサに出かけた_7
子供向けのミサに出かけた_8
子供向けのミサに出かけた_9
子供向けのミサに出かけた_10
聖体拝領を受ける人達
子供向けのミサに出かけた_11
祭壇に設えられた生まれたばかりの幼子像
子供向けのミサに出かけた_12

帰宅後の夕食
毎年代わり映えしない内容かな
帰宅後の夕食_1
帰宅後の夕食_2

『早く寝ないと、サンタさんにクリスマスプレゼント配達をパスされちゃうよ』って警告を発したけれど、おとなしく早寝してくれるかな?

 

兵庫~滋賀~京都(1)

1泊2車中泊の足掛け4日に及ぶミニ旅行を敢行した。実質丸2日の観光旅行。年齢をも顧みず、ちょっとハードな旅行だったかもしれない。
初日は、兵庫県三田市で開催されていたヤマセミを中心とした写真展の鑑賞と、その後、車を飛ばしてもらって、彦根城と湖北町のオオワシとを見に出かけた。2日目は、紅葉が終わり静かになった京都を回って歩いた。神護寺、高山寺、仁和寺、妙心寺をみた。

ヤマセミを中心とした写真展
昨年から始まった野鳥写真撮影愛好家たちの作品展。見事な写真が並ぶ。今回はこんな写真が展示されていた。
『やったぜ』と言わんばかりのヤマセミのドヤ顔が印象的。水が滴り落ちている。
三田市の写真展から_1
紅葉の中にヤマセミが居る。紅葉鑑賞をしているのだろうか。
三田市の写真展から_2
獲物をゲットして飛び上がろうとしている
三田市の写真展から_3
オーストラリアで撮影した鳥さんらしい
三田市の写真展から_4
ワライカワセミ。動物園で見るような全く動かないものと違い、蛇を飲み込もうとしている。
三田市の写真展から_5
これもオーストラリアで撮影した鳥さんらしい
三田市の写真展から_6
リュウキュウアカショウビンかな
三田市の写真展から_7
サンコウチョウだ。私も撮ってみたい被写体だが、絶対に願いが叶いそうにない。
三田市の写真展から_8
こんな風に撮ることができるんだ
三田市の写真展から_9
これもオーストラリアで撮影した鳥さんらしい
三田市の写真展から_10
これもオーストラリアで撮影した鳥さんらしい。右側の鳥さんは、名前を聞いたのに、失念した。
三田市の写真展から_11
ワライカワセミの飛翔シーン。力感あふれる写真だ。カワセミの仲間で唯一、ダイブしない鳥さんだそうだ。
三田市の写真展から_12
コミミズク。幻想的な作品だなあ。
三田市の写真展から_13
オオタカかな。鋭い目つきだなあ。
三田市の写真展から_14

 

初冬の鎌倉(10)

宝戒寺(2)
滅びるってのはこんなものかと無常を感じさせる。ともあれ、700年ほど前までこの地に鎌倉幕府が存在したことだけは確かなことだ。
德崇大権現堂
鎌倉幕府執権北条高時公を德崇大権現として祀る。前述した通り、鎌倉幕府が滅亡した5月22日には、北条氏鎮魂のため、毎年、大般若転読会が行われるそうだ。5月22日は、新田義貞の鎌倉攻めによって北条一族が東勝寺で自刃をし、鎌倉幕府が滅亡した日。1333年のことだった。
『徳崇大権現』とは、後醍醐天皇によって北条高時に贈られた名だそうだが、そんなものを頂いてもちっとも有難くはなかったことだろう。それにしても小さなお堂だ。隣の聖徳太子堂に比してひときわ小さい。お情けで建ててやったということなのだろうか?村の外れにあるお堂程度の大きさだ。

德崇大権現堂_1
德崇大権現堂_2
大聖歓喜天堂
秘仏である大聖歓喜双身天王(歓喜天・聖天様)を祀る。毎年、5月23日には、諸願成就を祈念し大聖歓喜天供が行われるそうだ。何故このような和合仏を、北条方の鎮魂のために建てた寺院に置いておく気になったのか理解に苦しむが、創建の直後からあったものらしい。調べてみると、二代住持の惟賢(足利尊氏の二男または弟)が歓喜天像を安置し、国家安泰を祈願したようだ。そうだとすれば、余人が文句を言えたものではなかったのだろう。鎌倉地方独特の土紋装飾が施されたもので、日本最古の木造聖天といわれているそうだ。
大聖歓喜天堂_1
大聖歓喜天堂_2
こちらの聖天様は大型なのだそうだ。秘仏で、殆どの人は見たことがないはずだが、聖天様自体はこんなイメージだそうだ。
大聖歓喜天堂_3
聖德太子堂
毎年、1月22日に、建築関係者が集まり『太子講』が執り行われる。『太子』とは、建築関係者の神として崇められている『聖徳太子』のこと。太子堂で護摩を焚き、読経のあと、木遣唄が奉納されるそうだ。私が最も理解に苦しむのはこのお堂だ。何故此処に置かねばならないのだろう。
聖德太子堂
梵鐘
梵鐘_1
梵鐘_2
宝篋印塔
滅亡した北条氏並びに、鎌倉合戦東勝寺戦没諸精霊を供養する慰霊塔。鎮魂の祈りを込めた写経・写経石が収められているそうだ。撮り漏らしたのでPDF画像を借用。
宝篋印塔
洒落た庭石
洒落た庭石_1
洒落た庭石_2
御朱印
またもや懲りずに御朱印を取り上げる。北条一族の鎮魂の寺らしくないもののように見えるからだ。宝戒寺のご本尊『木造地蔵菩薩坐像』は、国指定の重要文化財の湯所ある仏像。別名『子育経読地蔵尊』と呼ばれる。それは、『宝戒寺門前で子供が生まれそうになったとき、子どもをとりあげる世話をしてくれた見知らぬお坊さんが地蔵の化身だった』とか、『毎晩夜中に聞こえる読経がお地蔵さまではないか』という伝説からこの名が付いたらしいということだ。有難い別名なので、御朱印にその旨を記しているのだろう。
宝戒寺御朱印

以上で、『初冬の鎌倉』シリーズは終了です。最後までご覧頂き有難うございました。

 

初冬の鎌倉(9) 2016.12.12 18:42一部修正

宝戒寺(1)
滅亡した鎌倉幕府の北条高時の慰霊のため、その屋敷跡に後醍醐天皇が建立した事になっている。しかし、実際の造営は、後醍醐天皇による建武の新政が崩壊し、同天皇が没した後に足利尊氏らによって行なわれたと推定されているそうだ。いずれにしても、北条高時の慰霊のために作られた寺院であることは間違いがない。
鎌倉幕府が滅亡した5月22日に、北条高時の慰霊のために徳崇大権現会(とくそうだいごんげんえ)・大般若経転読会(だいはんにゃてんどくえ)が行われる。徳崇大権現として祀られている北条高時の御神像を権現堂から本堂に移して、大般若経を転読し、歌舞音曲を奉納する。その時だけは、確かに慰霊のため建立された寺院であると感じられよう。
その他の時は、何のための寺院なのかよくわからない感じがしてならない。
入口付近の様子
進入路
石畳がきれいにデザインされていた
進入路
石碑
『北条九代屋敷 頼経公○後代将軍家鋪』と書かれてあるように読める。代々の執権が暮らしていた北条得宗家邸跡のはずだが、…。藤原頼経公は鎌倉幕府の第4代征夷大将軍だった。北条得宗家の前に住んでいたということなのだろうか?
石碑
お決まりの鎌倉青年会石碑
大正7年建立か。当時の青年たちは、全員鬼籍入りだろうな。
お決まりの鎌倉青年会石碑
山門
山門
更に進入路が続く
更に進入路が続く_1
大きな石に粋な飾りが施されている
更に進入路が続く_2
本堂とその付近
本堂外観
本堂外観_1
本堂外観_2
本堂外観_3
本堂外観_4
本堂内部の様子
本堂内撮影禁止なので、以下2点はPDF画像を借用
画像名にAltar(祭壇)とあったが、宝物殿のようだ。その後調べているうちに、大聖歓喜天堂の内部だとわかった。
画像名にAltar(祭壇)とあったが、宝物殿のようだ
本堂内陣
本堂内陣
本堂前
境内には春先には福寿草が咲いているが、この元気そうな青い葉は明日葉だろうか?
この元気そうな青い葉は明日葉だろうか?

 

初冬の鎌倉(8)

荏柄天神社
参道にある見事な樹木
意図してこういうふうにしたのだろうか?いつも見入ってしまう。
参道にある見事な樹木_1
参道にある見事な樹木_2
参道のその先
急勾配の階段がある。手すりをしっかり握っていないと、膝が良くない私には怖くてたまらない。
参道のその先_1
参道のその先_2
説明板によれば
以前、三天神の一つと書いたが、それはここの記述から書いた。しかしよく考えてみれば、昔の話で、いまは他の神社が代わりに入っているのかもしれない。
説明板によれば
大銀杏
推定樹齢900年なのだそうだ
大銀杏_1
大銀杏_2
神門の先に拝殿が見える
神門には梅のデザインが
神門の先に拝殿が見える_1
神門の先に拝殿が見える_2
拝殿
受験生やその家族が熱心に志望校合格を祈っていた
拝殿_1
拝殿_2
本殿
向こうは八幡宮の若宮様。こちらは天神様。系統の異なる神社同士の本殿の承継があったんだ。江戸に入ってからは、そんなに細かいことにこだわっては居られず、相互の融通は当然のことだったのだろう。八幡宮の旧若宮は立派なものだったんだ。
本殿_1
本殿_2
本殿_3
三間社流造、銅板葺き。寛永元年(1624年)に鶴岡八幡宮若宮の旧本殿を譲り受け移築したものである。若宮旧本殿は正和4年(1315年)の鎌倉大火の後、翌正和5年(1316年)に建立された。記録によれば、中世、近世を通じてたびたび修理が行われているが、社殿全体が再建された記録はない。移築と度重なる修理を経ているとはいえ、鎌倉地方における中世建築の稀少な遺構の一つである。関東大震災でも被害を受け、幣殿と拝殿は震災以降の再建である。
絵筆塚
横山隆一などの漫画家が建立し、154人の漫画家によるカッパのレリーフが飾られている。菅原道真公は勉学だけではなく、絵画の神様でもあったのだろうか?
絵筆塚_1
絵筆塚_2
絵筆塚_3
絵筆塚_4
かっぱ筆塚
漫画家の清水崑が使用した絵筆が収められている
かっぱ筆塚

荏柄天神社(えがらてんじんしゃ)は、神奈川県鎌倉市二階堂にある菅原道真を祀る神社。源頼朝が鎌倉幕府開府にあたり鬼門の方向の守護社として社殿を造営、さらに徳川家康が豊臣秀吉の命で社殿の造営を行った。

 

初冬の鎌倉(7)

鎌倉宮(2)
護良親王が幽閉されていた土牢
9ヶ月も牢内に幽閉されていたのか。足も萎えてしまったことだろう。
土牢_1
土牢_2
土牢_3
土牢_4
土牢_5
土牢_6
祀られている人物が人物だけにこのような十六八重表菊の紋があった
土牢_7
本殿
土牢近くから見た様子
本殿_土牢近くから見た様子_1
本殿_土牢近くから見た様子_2
本殿_土牢近くから見た様子_3
本殿_土牢近くから見た様子_4
神苑から見た様子
本殿_神苑から見た様子
鎌倉宮碑
はっきりしない画像だが、目を凝らしてもこんな風にしか見えない。碑文の内容は、明治天皇の神社創建についてのお言葉。
鎌倉宮碑_1
鎌倉宮碑_2
明治六年四月十六日、車駕鎌倉に幸し、親しく故・征夷大将軍・二品・護良親王を祭らせ給ふ。
越えて十七日、闕に還らせ給ひ、太政大臣・三條實美に勅して曰く、
「親王は皇室式微・武臣専横の日に在り、艱楚嶇嶔、遂に能く鴻業を恢復す。而して貝錦萋斐、冤を呑みて薨し給ふ。朕、之を憶ふ毎に未だ甞て歔欷して泣下らずんばあらざるなり。今、親しく遺跡を弔ひ、感慨殊に深し。顧みるに、朕、否徳、幸に泰運に膺り、大権を既墜に復す。祖宗の遺徳と股肱の力を致したるとに由るといふと雖も、亦、親王の霊、冥冥の中に翼賛したる者なしと謂ふべからず。卿、其れを表彰する所以を図れ」と。
實美、拝し稽首して曰く、
「敬みて明詔を承はる。抑、親王の忠憤義烈、身を以て国に殉ず事は史冊に具にして必ずしも称揚を待たず。惟ふに陛下の聖明、今日にして斯の挙あり。洵に是れ曠古の盛典にして、独り親王の地下に瞑目せさせ給はむのみならず、陛下の聖徳も亦、将に久遠に伝はりて泯びざらむとする也。請ふ、諸れを石に勒せむ」と。
上、曰はく、「可なり」と。
是に於て少内史・巌谷修、命を奉して其由を記し、係ぐるに銘を以てす。銘に曰く、
土窟幽暗 久しく蒿蓬に没す
昌運維れ新に 煥たる其宮あり
明主之徳 親王の忠
千秋赫奕 孰れか欽崇せざらむ

上記テキスト文は、http://www.gregorius.jp/photogallery/page_b23.htmlを参照させていただいた。
紅葉も
紅葉も
宇津峯神社から贈られた神石
福島県須賀川市の宇津峯山には、南朝の砦、宇津峯城があったそうだ。その縁により、鎌倉宮創建100周年を記念して、宇津峯神社から贈られた神石。3つの石は護良親王、後村上天皇、後亀山天皇に見立てられている。
都から遠く離れた東北の地においてさえも南北朝支持の豪族たちが、それぞれ争ったのか。

宇津峯神社から贈られた神石
御構廟
何となく気味が悪い。時代が全く違うが、三島由紀夫の事件を思い出す。
御構廟
護良親王の首が置かれた場所です。御首塚ともいいます。
宝物殿
護良親王像。東郷平八郎の『制機先者勝』の書も。
宝物殿_1
その他の書など
宝物殿_2
宝物殿_3
宝物殿_4
社務所前の紅葉
社務所前の紅葉_1
社務所前の紅葉_2
神木とされる小賀玉の木。招霊(おがたま)の木なんだ。鎌倉宮創建時に植樹されたらしい。
社務所前の紅葉_3

 

初冬の鎌倉(6)

永福寺跡(ようふくじあと)
瑞泉寺から鎌倉宮に向かう途中に永福寺跡がある。瑞泉寺も鎌倉宮も永福寺跡も現在の地名は鎌倉市二階堂。永福寺は鶴岡八幡宮、勝長寿院とならんで当時の鎌倉の三大寺社の一つ。二階建てだった事から二階堂とも称されたのだが、それがこの辺の地名の由来だ。
源頼朝は文治5年(1189年)9月の奥州合戦を契機に、源義経・藤原泰衡をはじめとする数万の怨霊をしずめ、冥福を祈るための寺院の建立を発願。その年の12月には永福寺の建立に着手した。建立には畠山重忠ら関東の御家人の助力があった事が『吾妻鏡』に記載されている。建久3年(1192年)11月25日に本堂が完成し、落慶供養が行われた。
応永12年(1405年)の火災ののち廃絶した。

私見ではあるが、永福寺跡がこの状態では世界遺産指定には届かないのではなかろうか?『えっ、これでおしまいなの?』と感じる人が殆どではなかろうか?数万の怨霊が安住の地を保たない状態で放置されていても、痛痒を感じないのかなあ。
最初の1点は湘南工科大学作成のCGを借用した
永福寺跡_1
このままでは武蔵国分寺跡と同じ。これで何を訴えたいのか、真意がわかりかねる。中途半端すぎるのでは。
永福寺跡_2
永福寺跡_3
永福寺跡_4
永福寺跡_5
永福寺跡_6
永福寺跡_7
永福寺跡を取材したはまれぽの記事にjump

鎌倉宮(1)
鎌倉宮は、神奈川県鎌倉市二階堂にある神社。護良親王を祭神とする。建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣中社。神社本庁の包括下には当初から入っていない単立神社。別名大塔宮(おおとうのみや)。
祭神である護良親王は後醍醐天皇の皇子で、父とともに鎌倉幕府を倒し建武中興を実現したが、その後、足利尊氏との対立により足利方に捕えられて東光寺に幽閉され、建武2年(1335年)の中先代の乱の混乱の中で尊氏の弟の直義の命で、家来である淵辺義博によって殺められた。
武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王の功を賛え、明治2年(1869年)2月、明治天皇は護良親王を祀る神社の造営を命じた。7月15日に鎌倉宮の社号が下賜され、7月に東光寺跡の現在地に社殿が造営された。
明治6年4月16日に明治天皇は鎌倉宮を行幸。同年6月9日に鎌倉宮は官幣中社に列格された。
以上のような次第で、鎌倉宮は天皇自らが創建した唯一の神社だそうだ。

参道
鎌倉宮_参道_1
鎌倉宮_参道_2
拝殿
四方に壁がない吹き放しの舞殿形式のもの。どうも祭神そのものではなく獅子頭を拝んでいるようで、有り難みが薄れる感じだ。
鎌倉宮_拝殿_1
鎌倉宮_拝殿_2
鎌倉宮_拝殿_3
獅子頭守り
兜の中に獅子頭のお守りを忍ばせていたのか。毛がふさふさしていれば、痛くはなかったかなあ。
獅子頭守り_1
獅子頭守り_2
祭神の護良親王が戦のときに、兜の中に獅子頭のお守りを忍ばせていたのが由来です。
村上社と村上義光像(撫で身代わり様)
部下の鑑なのかなあ。そこまでするのかなあ。像は樹齢100年超のケヤキの木を彫ったものだそうだ。
村上社と村上義光像(撫で身代わり様)_1
村上社と村上義光像(撫で身代わり様)_2
村上社と村上義光像(撫で身代わり様)_3

ここからは有料のゾーン

本殿が見えてくる
本殿が見えてくる_1
本殿が見えてくる_2
本殿が見えてくる_3
南方社
小さな社殿は、南方社だ。鎌倉宮には、2つの境内社があるが、その一つ。護良親王とともに鎌倉に下り、親王に仕えた藤原保藤の娘南の方を祀っているそうだ。現代風に言えば内縁の妻だけど、相手が雲上人。南の方は妙法寺中興開山の日叡の母。日叡は、護良親王と南の方との間の子だ。妙法寺に墓がある。
南方社
本殿の裏側
土牢の前の様子。小奇麗にしてある。
本殿の裏側

 

初冬の鎌倉(5)

瑞泉寺(5)
長くなってしまったが、瑞泉寺は今回まで。最後なので、内容を少し充実させたかったが、思うに任せなかった。
瑞泉寺庭園
あまりにも有名な庭園だ。瑞泉寺庭園は、長年に亘って地中に埋もれた状態にあった。その経緯は不明のようだが、方丈の裏手にはそうした庭園があるということは語り伝えられてきていた。存在は十分に認知されていたようだ。
貞享2(1685)年に刊行された『新編鎌倉志』にも記載されている庭園が、わずか300年弱の間に地中にすっぱり埋まってしまったようだ。そんな短期間に通常ならば埋まるものではないと思う。然らば何が原因?
私が勝手に想像するのは、下記のような湘南地区を襲った地震による山崩れによる埋没だったのではないかと。

1703(元禄16)元禄地震   M7.9〜8.2
1782(天明 2)相模湾地震  M7.0
1854(安政 1)安政東海地震 M8.4
1923(大正12)関東大震災  M7.9

それを、昭和44(1974)年から45(1975)年にかけて発掘し復元したのだ。その姿を見て、何を思うか。『何だこんなものか』などとは、間違っても口にしないほうが良かろう。
瑞泉寺庭園_1
瑞泉寺庭園_2
瑞泉寺庭園_3
瑞泉寺庭園_4
瑞泉寺庭園_5
庭園はこちら本堂や庫裡の裏側から見るのが一番なのだと思う。拡大してみると『侍真』と書かれた木の板が掲げられていた。『侍真』とは、禅宗寺院で開山の真影を扱う僧侶のことを言うようだ。
本堂や庫裡の裏側から見るのが一番なのだと思う
開山堂の裏手では、彼らも庭園を見入っていた
開山堂の裏手では、彼らも庭園を見入っていた
夢窓疎石の作と伝えられる本堂(仏殿)背後の庭園は、1970(昭和44)~1971(昭和45)年にかけて発掘され、復元されました。橋をわたり、十八曲がりと呼ばれる石階を上ったところに偏界一覧亭という小さな建物があります。ただし、現在、十八曲がりは立ち入り禁止。偏界一覧亭は非公開です。
開山堂
堂内には国指定の重要文化財『木造夢窓疎石坐像』が祀られている。よほど大事にしているのだろうか、板塀で見えないようになっている。そこには、五七桐紋があしらわれている。五七桐紋は、後醍醐天皇から足利尊氏へ、足利義輝から織田信長へ、正親町天皇から豊臣秀吉へ下賜されているようだ。この場合は、初代鎌倉公方の足利基氏が夢窓疎石に帰依して瑞泉寺を中興したので、その紋を意味するのだろう。
開山堂_1
開山堂_2
地蔵堂
『どこも苦』か。我々も十分認識しなくてはいけないことかもしれない。
地蔵堂_1
地蔵堂_2
地蔵堂_3
地蔵堂_4
本堂の前を過ぎて左手に進むと、地蔵堂があります。もとは鎌倉でも西北寄りの智岸寺ヶ谷の智岸寺地蔵堂にあり、のち鶴岡八幡宮正覚院に本尊とされていた「どこも苦地蔵」が安置されています。
石段(復路)
ゆっくり、紅葉を愛でながら下りたかったが、肝心の紅葉がまだ不十分だった。残念。
石段(復路)_1
石段(復路)_2
石段(復路)_3
石段(復路)_4
石段(復路)_5
石段(復路)_6
石段(復路)_7
石段(復路)_8
石段(復路)_9
石段(復路)_10
石段(復路)_11
石段(復路)_12

 

初冬の鎌倉(4)

瑞泉寺(4)
本堂前の庭(2)
この石組も味わいが
石組
いろいろな花
瑞泉寺は花の寺として名高いが、一つの花をたくさん植えてあるのではなく、年中花が途切れることがないように考えて植えてあるようだ。12月は、中旬くらいから見頃になる楓の紅葉に加え、下旬くらいからは椿やロウバイが咲き出すようだが、この日はまだのようだった。元気がよいのは水仙のみかな。
元気に咲いている水仙
元気に咲いている水仙
咲き出した椿
咲き出した椿
まだ頑張っていた秋明菊
まだ頑張っていた秋明菊
黄色の菊も咲いていた
黄色の菊も咲いていた
万両かな
万両かな
千両かな
千両かな
文学碑『男の顔は履歴書である』
大宅壮一の言葉。俳句でも短歌でもないところが彼らしいかな。
大宅壮一の言葉_1
大宅壮一の言葉_2
むじな塚
夢窓国師の説法にむじなやたぬきまで聞き入ったとされるのか。『瑞鹿山』の山号を持つ円覚寺と似たような話だなあ。
むじな塚_1
むじな塚_2
鐘楼のそばの築山の上には、石塔や石仏が並んでいます。その中央にむじな塚があります。夢窓国師の説法には徳を慕うむじなやたぬきまで連なっており、それらの動物たちを葬ったとされています。
錦屏晩鐘
錦屏山を背に晩鐘を鳴らすさまをイメージして名付けたのだろうか?ついでに言えば、条件が良ければ、前方には富士山が見えるようだ。
錦屏晩鐘_1
錦屏晩鐘_2
錦屏晩鐘_3
安国利生塔
足利尊氏は夢窓疎石に帰依し、その勧めによって、後醍醐天皇と内乱の戦没者を弔う安国寺と安国利生塔を国ごとに建立した。鎮魂のために建立したのは、宝戒寺だけではなかったのか。相模国の安国寺は既になく、安国利生塔だけが瑞泉寺に移されたということだ。
安国利生塔
瑞泉寺の御朱印
何と書くのかと思ったら、『大雄宝殿』とあった。そちらやはり本殿がメインかなあ。『名勝瑞泉寺庭園』ではなかったんだ。以前に御朱印を頂いた方のものを拝見すると、十干十二支で書かれていたようだ。流石にわかりにくいと苦情が寄せられたのだろうか。十干十二支だと『平成丙申』という風に書くわけだ。
瑞泉寺の御朱印

 

初冬の鎌倉(3)

予め書いておくが、瑞泉寺は由緒ある寺院だが、関東大震災で本堂・庫裡・総門が全壊し、国宝夢窓国師木像(現、重要文化財)が壊れた。ということで、堂宇はその後の建築になる。
解説してある頁へjump

瑞泉寺(3)
茶室
南芳庵という。この他に非公開の保寿庵もあるようだ。茶室前の紅葉はまだ十分ではなかった。
茶室_1
茶室_2
茶室_3
茶室_4
茶室_5
茶室_6
参考までにPDF画像を借用して、美しい紅葉ぶりを確認しておこう
茶室_7
山門
裏側から見ると至って簡素な山門。禅寺らしいといえば禅寺らしい。
山門_1
山門_2
山門_3
山門_4
山門_5
茶室と庫裡
この茶室の感じが好きだ。庫裡との相性もピッタリのように思う。
茶室と庫裡
庫裡
御朱印をいただくときに玄関に入った。『留香(るこう)』と書かれた額が掲示されていた。ちょっと意外な言葉だなあと思った。
庫裡
本堂
本堂_1
本堂_2
本堂前の庭(1)
夢窓国師が作られた瑞泉寺庭園と混同しないでいただきたい。こちらは境内にある前庭。
本堂前の庭(1)_1
水戸光圀公お手植えと伝えられる冬桜。伝えられるとおりだとすれば、少なくとも350年近く生き抜いた樹木ということになるのだが。
光圀公は時代劇で描かれるような諸国漫遊の旅はしておらず、水戸と江戸以外では延宝元(1673)年の鎌倉巡遊が唯一の旅だったようだ。瑞泉寺には間違いなく来られた。新編鎌倉志にも記載がある。また、光圀公が寄贈された『木造千手観音観音菩薩坐像』が本堂に残されている。

本堂前の庭(1)_2
本堂前の庭(1)_3
『木造千手観音観音菩薩坐像』の写真がある頁へjump

 

初冬の鎌倉(2)

瑞泉寺(2)
山門の手前
手水
これは水道の水ではなく湧き出している水だろう。境内は山の中腹にあり、頂上はまだまだ上だから。
手水
石碑『松蔭吉田先生留跡碑』
吉田松陰は1854年(安政元年)、下田で密航を企てる直前に、母方の伯父が住職を務めていたこの寺院に来たようだ。用件は当然お金の無心だったと考えるのは下衆の勘繰りだろうか。徳富蘇峰の筆によるものだそうだ。徳富蘇峰は何故姓より先に名前を記したのだろうか?いつも不思議に思う。
石碑『松蔭吉田先生留跡碑』
歌碑『手の平に豆腐をのせていそいそといつもの角を曲りて帰る』
山崎方代の短歌。方代は放浪の歌人だったそうだ。味のある書体だなあ。
山崎方代の短歌_1
山崎方代の短歌_2
歌碑『死をいとひ生をもおそれ人間のゆれ定まらぬこころ知るのみ』
吉野秀雄の短歌。私には読みにくい癖のある書体だ。重い内容のものだなあ。
吉野秀雄の短歌_1
吉野秀雄の短歌_2
青面金剛像
こんな山の上までは廃仏毀釈の嵐が及ばなかったのだろうか。あるいは、鎌倉という土地柄が石像の破壊を阻止したのだろうか。
青面金剛像
山門
今回の句は、下記のものだった。柿秋って誰なのか???
「はりついて青き草ある冬田かな」 柿秋
山門_1
山門_2
山門_3
振り返って女坂をみた様子
黄葉と竹の青さとが目立つ。こちらの坂も決して楽ではなさそうだ。
振り返って女坂をみた様子

 

初冬の鎌倉(1)

師走に入ってから2度めの鎌倉。鎌倉へ行き過ぎかなあと思いつつ、またも足を向けた。今回は、バスで鎌倉宮まで行き、そこからはすべて徒歩で、鎌倉宮~瑞泉寺~鎌倉宮~荏柄天神社~宝戒寺~鎌倉駅と回ってみた。感想は、…。

瑞泉寺(1)
一番のお目当てはこの瑞泉寺。何年か前に12月中旬に行ったとき、楓が青々としていた。今年はどうなのかと案ずる気持ちが幾分かはあった。運が良ければ、紅葉を愛でることもできるのだが、…。
総門
昔は此処から先が全て境内だったのかなと思うが、今はちょっと受付から離れた場所になってしまっている。規模がかなり違うが泉涌寺もそういう感じだったかな。
総門_1
総門_2
総門_3
総門_4
総門_5
受付した直後の光景
総門から100m弱のところに拝観受付がある。まだ、その日(12月7日)は、紅葉見物にはちょっと早かったかなという感じ。
受付した直後の光景
下の境内
石畳に沿っていくと石段に突き当たる
下の境内_1
皇帝ダリアがまだ咲いていた
下の境内_2
微妙な色づき
下の境内_3
石段(往路)
此処を上っていく。まだ、葉が青いなあ。
石段(往路)_1
石段(往路)_2
石段(往路)_3
石段(往路)_4
石段(往路)_5
分岐に差し掛かった。いつもどちらを上ろうか思案するところだ。この日は足腰の調子が良さそうな感じだったので、厳しいが風格のある男坂を上ることにした。やはり紅葉に盛りには早かった。なお、案内記事に依っては『通行禁止』と記載されているものも散見されるが、現地にはそのような表示はなされていなかった。
石段(往路)_6
石段(往路)_7
石段(往路)_8
石段(往路)_9
石段(往路)_10
何度か紹介している鎌倉石が敷かれてある。かなり石段がすり減ったり、傾いたりしていて歩きにくい。その上、勾配も急。呼吸が激しく乱れる。少し減量の必要性を覚える。
石段(往路)_11
石段(往路)_12

 

ヴェルニー公園にて(3)

ヘリコプター搭載護衛艦『いずも』
現在の海上自衛隊の艦船では最大。確かに最大なのだが、何だかあまり大きく見えない不思議な艦船。デザインの所為だろうか。イージス艦ではなく、搭載したヘリコプターの索敵能力により、艦隊の出動海域に敵の潜水艦を近づけない。それが主たる任務のようだ。悩みは、ヘリ操縦者を海上自衛隊ではそれ程育成できていないことだろう。航空自衛隊や陸上自衛隊との連携が最小限度にとどまる現状では、自前のヘリ操縦者やオスプレイ操縦者育成が急務なのかもしれない。
ヘリコプター搭載護衛艦『いずも』_1
ヘリコプター搭載護衛艦『いずも』_2
ヘリコプター搭載護衛艦『いずも』_3
入港時の様子を記録したPDF画像を借用した
ヘリコプター搭載護衛艦『いずも』_4

護衛艦『おおなみ』
残念ながら、こちらもイージス艦ではない。海上自衛隊にあるイージス艦は6隻のみ。
言うなれば在来型の護衛艦ということになる。それなりの戦闘能力を保持しているとは思うが、…。
護衛艦『おおなみ』_1
以下2点は、海上行動中の様子を記録したPDF画像を借用した
護衛艦『おおなみ』_2
一緒に演習中の画面奥の艦船は、米海軍の ミサイル駆逐艦『 フィッツジェラルド』
護衛艦『おおなみ』_3

原子力空母『ロナルド・レーガン』
艦橋に記載されている76という数字が少しだけ見える。ヴェルニー公園からはこれが精一杯。これ以上見るには軍港クルーズの船に乗るしか無い。
原子力空母『ロナルド・レーガン』_1
原子力空母『ロナルド・レーガン』_2
そう言っては身も蓋もないので、以下3点はPDF画像を借用した
カルフォルニア州のノースアイランド港に入港する様子
原子力空母『ロナルド・レーガン』_5
原子力空母『ロナルド・レーガン』_3
原子力空母『ロナルド・レーガン』_4

その他
戦艦陸奥の主砲
ヴェルニー公園の一角に設置工事中。今の艦船に搭載されているものと比べると異様なほどに大きい。当時は勢い良く撃ち出して当てるしか無かったのだろう。
戦艦陸奥の主砲_1
戦艦陸奥の主砲_2
軍港めぐりの船
ロナルド・レーガンなどをたっぷり見てきたんだろう。いいなあ。
軍港めぐりの船_1
軍港めぐりの船_2

以上で『ヴェルニー公園にて』のミニシリーズは終了です。最後までご覧頂き有難うございました。

 

ヴェルニー公園にて(2)

オオバン(大鷭)がいた
カモの仲間のように思われがちだが、クイナの仲間。巨大な脚部が特徴的。足ヒレほどではないが、比較的水を掻きやすい形状になっている。横須賀ではさほど珍しくはないかなあ。
上嘴から額にかけて白い肉質(額板)で覆われているので、容易に見分けがつく。良く見ると、水上での動きはカモほどにはスムーズではない。
オオバン(大鷭)_1
オオバン(大鷭)_2
オオバン(大鷭)_3
水中の部分などがよくわからないだろうから、PDF画像を借用すると、こんなふうな鳥さんだ。水陸両用どころか、空も含めてなんでもござれだ。
オオバン(大鷭)_4

米軍の艦船が大集結
クリスマス休暇に向けて帰港したのかなあ。横須賀基地所属艦船が勢揃いではないだろうか。最近になって、横須賀の配備を増強中のようだが、大統領がトランプ氏に変わったらどういうふうになるのだろうか。
艦尾をこちらに向けた3艦船
左端は艦尾に見える文字から、駆逐艦『バリー』と判明したが、他は艦船名不明。バリーは以前は横須賀にはいなかった艦船のように思う。調べてみたら、今年増備になった艦船だった。艦船としてはちょいと古いが、イージスシステムはアップデート済みで、横須賀の艦船の中でも強力なもののようだ。
艦尾をこちらに向けた3艦船_1
艦尾をこちらに向けた3艦船_2
艦尾をこちらに向けた3艦船_3
以下の2点は駆逐艦『バリー』で、PDF画像を借用
艦尾をこちらに向けた3艦船_4
艦尾をこちらに向けた3艦船_5
クレーンの向こう側にも何隻かの艦船が
クレーンの向こう側にも何隻かの艦船が_1
クレーンの向こう側にも何隻かの艦船が_2
クレーンの向こう側にも何隻かの艦船が_3
前回も取り上げたマッキャンベル
前回も取り上げたマッキャンベル_1
前回も取り上げたマッキャンベル_2
PDF画像を借用。艦船に乗り組むのもかなり大変なことであると分かることだろう。
前回も取り上げたマッキャンベル_3
ホテル船
この船だけはいつもいる。横須賀停泊中の他艦船乗員の宿泊施設として利用されているようだ。潜水艦や空母は大柄な米兵には窮屈な居住環境だろうから、せめて横須賀に戻った時はということなのか?宿泊船と割り切ったため、自力で航行することはできなくなっているようだ。
ホテル船

 

ヴェルニー公園にて(1)

冬型の気圧配置が強まった昨10日。日本海側の方にはお気の毒だったが、太平洋側は好天に恵まれた。母の様子を見に行ったついでにヴェルニー公園を散策してみた。

遠くから見えていた艦船
ミサイル駆逐艦マッキャンベル。もちろん、イージス艦だ。イージス艦は、八角形のフェーズド・アレイレーダーと呼ばれるレーダーの有無で容易に識別できる。首を振らずに索敵できる高性能のレーダーで、高度のコンピュータシステムとの組み合わせで、向かう所敵なしのイージス艦となる。画像を拡大してみると、喫水線の塗装が少し傷んでいる。目につく箇所の塗装剥離等を補修しているのだろうか?
ミサイル駆逐艦マッキャンベル_1
外洋に出れば、全速力で航行することもあるだろう。揺れに弱い乗組員には地獄かな?(PDF画像を借用)
ミサイル駆逐艦マッキャンベル_2
マッキャンベル (英語: USS McCampbell, DDG-85) は、アメリカ海軍のミサイル駆逐艦。アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の35番艦。艦名は第二次世界大戦での海軍のエース・パイロットであったデヴィッド・マッキャンベル大佐に因む。

ドライドックの開扉
米軍基地内にあるドライドック。ドライドック自体は何度も見ているが、それが開いた状態は初めて眼にした。それも1号ドックと3号ドックと一緒のタイミングで。ドライドックは、扉を開け海水を張った状態で艦船がドック内に入り、その後、扉を締め徐々に水を抜き船体を船台に固定した状態で修理をする仕掛けの施設。その僅かの時間しか開扉の状態にはしない筈だ。その瞬間に遭遇したのだ。
1号ドックの様子
特に1号ドックは、慶応3(1867)年3月に着工し、明治4(1871)年2月に竣工した、江戸と明治とにまたがる建造物である。私はヴェルニー公園から見たが、まさしくそのレオンス・ヴェルニーなどが東奔西走して造り上げたドックだ。
1号ドックの様子_1
2号ドック(Aと書かれた黒い扉)の方はきちんと締め切られている。こういう状態が普通の状態。然るに1号ドックは開けられている。
1号ドックの様子_2
1号ドックの様子_3
普通ならば、此処に艦船があるはずである。今回はそこに見慣れない黒い物体が、ロープで固定されている。いったい何なのだろうか?
1号ドックの様子_4
1号ドックの様子_5
水を抜いた状態。前方にAと書かれた黒い扉があるが、その先がヴェルニー公園側になる。手前側のコンクリート部分は、昭和に入ってから延長された部分。(PDF画像を借用)
1号ドックの様子_6
1号ドックの様子_7
3号ドックの様子
比較的小型のドック。こちらはドック内には何も無し。なので、何時まで開扉状態にしておくのか、却って気になった。
3号ドックの様子_1
3号ドックの様子_2
3号ドックの様子_3
3号ドックの様子_4
同じく水を抜いた状態。こちらは継ぎ足しなど無く、明治初期に造られたそのままと言われる。小型艦船向けの施設だろうか。(PDF画像を借用)
3号ドックの様子_5
3号ドックの様子_6

 

鎌倉の紅葉を愛でる(6)

扇ガ谷を歩いていたら、今まで気が付かなかったものに気づいた。あれは何か気になり、紅葉を愛でるのを中断して、近づいてみた。
相馬師常の墓
石碑には、『相馬次郎師常の墓』とあった。調べてみると、あの相馬野馬追で有名な相馬氏の初代当主が相馬師常なんだ。私のご先祖様の主筋に当たる人物の墓だ。
相馬師常の墓_1
相馬師常の墓_2
相馬師常の墓_3
相馬師常の墓_4
相馬師常の墓_5
相馬師常の墓_6
鎌倉時代の武将。千葉氏の庶流。相馬氏初代当主。千葉常胤の子。子には相馬義胤、矢木常家、戸張行常。また、初名は師胤と考えられている。伝承によると、師常は平将門の子孫である信田師国(胤国の子)の養子となり、その遺領を相続したと伝わる。
父と共に源頼朝の挙兵に参加し、頼朝の弟・源範頼の軍勢に従って各地を転戦した。文治5年(1189年)9月には奥州合戦に参加し、その功により頼朝から「八幡大菩薩」の旗を賜ったという。建仁元年(1201年)、父・常胤が亡くなったために出家し、家督を嫡男の相馬義胤に譲る。出家後は法然の弟子になったと言われている。元久2年(1205年)11月、鎌倉相馬邸の屋敷で端座し、念仏を唱えながら臨終したという。その信心厚い性格から信望の厚かった師常の最期は、鎌倉の民衆たちから見取られたと言われている。1879年、師常を祀る「相馬神社」が福島県相馬市に建立された。


気合を入れ直して、浄光明寺を目指す。分岐点に表示がないのでわかりにくいかもしれない。
浄光明寺
今回の鎌倉行きでは、長寿寺と浄光明寺という足利氏と縁が深い寺院を見て回った。何の意図もないのだが、たまたまそうなった。こちらの浄光明寺は、鎌倉に多い臨済宗でも日蓮宗でもない真言宗泉涌寺派の寺院。
境内略図
境内略図
客殿
『入母屋造り日本最古の唐様建築』などと説明してあるWEBサイトもあったが、私にはよくわからない。なにゆえ歯切れが悪いのかといえば、関東大震災で全壊したはずなのだ。だからこそ、建造物の国指定重要文化財などが一切ないのだろう。本殿の阿弥陀堂と取り違えた説明なのかもしれない。しかしながら客殿が立派な建物であることは誰しも異存がないことだろう。
客殿_1
客殿_2
客殿_3
山門
もとは英勝寺の惣門だったものだそうだ。英勝寺が創建された寛永年間のものと推定される。一時民間に売却されていたが、大正15(1926)年、浄光明寺に寄進されたそうだ。英勝寺の創建が、寛永13(1636)年である。仮にその時から存在するとすれば、380年前のものだ。
山門_1
山門_2
境内の様子
客殿と同じ高さにある境内には毎日自由に立ち入ることができ、拝観料も不要である。境内は谷戸になっていて、少し高いところに本殿である阿弥陀堂があり、更に奥まったところには歌人藤原定家の孫で歌道の名門冷泉家の始祖、冷泉為相(れいぜいためすけ)の墓がある。このゾーンへ立ち入って拝観できるのは、木、土、日、祝の10:00~12:00、13:00~16:00という日時限定で、拝観料は200円が必要となる。
私が行ったには金曜日だったので、残念ながら拝観することができなかった。

境内の様子_1
境内の様子_2
境内の様子_3
境内の様子_4
境内の様子_5
不動堂
天明三年(1783)に再建された。普段は非公開だが、除夜の鐘のときのみ公開されるそうだ。
不動堂_1
不動堂_2
不動堂_3
鐘楼
ということで、此処でも除夜の鐘が撞かれるようだ
鐘楼_1
本殿
本尊・阿弥陀三尊像を安置していたことから阿弥陀堂とも呼ばれている。残念ながら、この日は公開日ではなかったので、無情にも通せんぼ。本堂に見えている三世佛は新しいもので、オリジナルの国指定重要文化財の仏像は収納庫に格納されているようだ。
最初の画像はPDF画像を借用した
本殿_1
残念なことに公開日でないので、扉が閉じられていた
本殿_2
本殿_3
寛文8年(1668年)、鶴岡八幡宮寺の元喬僧都が母の追善供養のために資金提供し、開山坊跡に旧材を用いて建てられた唐様建築の仏殿。もともと本尊阿弥陀三尊像が安置されていたために阿弥陀堂と呼ばれる。現在は新しい三世仏が安置されている。堂内には応仁2年(1468年)の銘入りの須弥壇があり、左奥の祖師堂には室町時代に造られた木造の真聖国師(開山・真阿)像や歴代住職の位牌、右奥の土地堂にはやはり室町時代の木造・北条長時像などを収める。
収蔵庫の阿弥陀三尊像(画像なし)
この寺の阿弥陀三尊像は鎌倉時代後期正安元年(1299)の作で素晴らしい仏であり、中世鎌倉地方彫刻の代表的作例。阿弥陀三尊像は鎌倉独特の土紋装飾が施された仏像で、鎌倉彫刻の傑作と名高く国の重要文化財に指定されている。

冷泉為相の墓
常時見ることはできないが、裏山には歌人藤原定家の孫で歌道の名門冷泉家の始祖、冷泉為相の墓がある。拝観は、前述した通り、公開日のみ可能。しかし、兄弟喧嘩の始末を幕府に訴え出たのか。現代ならば、『民事不介入』と門前払いを食らうケースだろうなあ。冷泉家の始祖が鎌倉に葬られていたとは知らなかった。
冷泉為相_1
冷泉為相_2
冷泉為相(れいぜいためすけ)は、鎌倉時代中期から後期にかけての公卿、歌人。冷泉家の祖。正二位・権中納言。権大納言・民部卿・藤原為家の晩年の子。母は『十六夜日記』作者として知られる阿仏尼(安嘉門院四条)。
父為家が建治元年(1275年)に死去した後、所領であった播磨国細川庄や文書の相続の問題で異母兄の為氏と争い、為相の母阿仏尼(奥山度繁の娘)が鎌倉へ下って幕府に訴えている(この間の事情は『十六夜日記』に詳しい)。また、為相も度々鎌倉へ下って幕府に訴え勝訴するが、その際に鎌倉における歌壇を指導し、「藤ヶ谷式目」を作るなどして鎌倉連歌の発展に貢献している。その一方、京都の京極派の歌合や『文保百首』などにも参加している。また娘の一人は鎌倉幕府8代将軍である久明親王に嫁ぎ久良親王を儲けている。こうした関係から晩年は鎌倉に移住して将軍を補佐し、同地で薨去している。
『新後撰和歌集』以下の勅撰和歌集に入集している。家集には2種類の『為相百首』や『藤谷和歌集』がある。
なお、冷泉家の分家に藤谷家があるが、藤谷家の家名は為相が鎌倉の藤ヶ谷に関東における別宅を構えたことに由来する。山城国の公家からは、藤谷黄門(ふじたにこうもん)と呼ばれ、公家でありながら幕府と非常に親しい関係にあった。神奈川県鎌倉市の浄光明寺に葬られた。

楊貴妃観音像
さすが泉涌寺派の寺院だけあって、泉涌寺と同様に楊貴妃観音像があった。2004年建立で、泉涌寺の楊貴妃観音に魅せられた近藤清一氏という篤志家の依頼で当代一の長岡和慶仏師が彫り、浄光明寺に寄進された像だそうだ。
楊貴妃観音像

浄光明寺は、神奈川県鎌倉市扇ガ谷にある真言宗泉涌寺派の寺院。山号は泉谷山(せんこくざん)。開基は北条長時。開山は真阿。本尊は阿弥陀如来である。北条氏や足利氏とゆかりの深い寺院で、足利尊氏は後醍醐天皇に対し挙兵する直前、当寺に籠っていたと伝える。新四国東国八十八ヶ所霊場の第82番。
鎌倉七口のうちの亀ヶ谷坂(かめがやつさか)と化粧坂(けわいざか)にはさまれた扇ヶ谷の支谷、泉ヶ谷に位置する。山号の泉谷山はこの谷戸の名にちなむ。寺伝によれば、建長3年(1251年)頃、第5代執権北条時頼、第6代執権北条長時が開基となって創建したもので、開山(初代住持)は真阿(真聖国師)であった。それ以前、源頼朝の命により文覚上人の建てた草庵があったともいうが、定かでない。
永仁4年(1296年)の開山(真阿)譲状には北条時頼と長時が開基であると記されている。長時は鎌倉幕府6代執権で、文永元年(1264年)、36歳で死去し、浄光明寺に葬られ、以後、この寺は長時に始まる赤橋流北条氏の菩提寺と位置づけられた。開山の真阿は浄土宗系の僧であるが、当寺は創建当初から兼学(複数の宗派が並存)の寺であり、3世の高恵(智庵和上)の時から四宗兼学となって近世末に至っている(「四宗」は必ずしも4つの宗派に限らず、真言、天台、浄土、華厳、禅、律を含む)。この高恵の時代、元弘3年(1333年)には後醍醐天皇から上総国山辺郡(千葉県東金市)と相模国波多野荘(神奈川県秦野市)の寺領を寄進されており、また同年には成良親王(なりよししんのう、後醍醐皇子)の祈願所ともなっている。
浄光明寺は中世を通じ、足利氏および鎌倉公方の帰依を受けている。すなわち、暦応元年(1338年)以降、足利尊氏および弟の足利直義より相模国金目郷(神奈川県平塚市)、上総国山辺郡(千葉県東金市)、伊豆国三津庄(静岡県沼津市)などの寺領の寄進を受けている。また、直義は康永3年(1344年)と観応2年(1351年)に仏舎利を寄進している。尊氏は、建武2年(1335年)、後醍醐天皇に叛旗をひるがえして挙兵する直前、天皇への謀反の意思がないことを示すため浄光明寺にて謹慎していたとも伝えられる。この当時の境内の様子は「浄光明寺敷地絵図」(後述)により具体的にわかる。
室町時代に入り、足利満兼(鎌倉公方)は、応永6年(1399年)、父・氏満と祖父・基氏の遺骨を分けて浄光明寺に安置し、以降、当寺は鎌倉公方の菩提寺となった。天正19年(1591年)には徳川家康より4貫800文が与えられている。
往時は10近い子院があったが、江戸時代に入ると伽藍は荒廃、本堂さえ失われる状態であったという。寛文8年(1668年)、僧侶の勧進、鶴岡八幡宮寺相承院元喬僧都の援助などを得て仏殿を再興、法灯は保たれた。


以上で『鎌倉の紅葉を愛でる』のミニシリーズは終了です。最後までご覧いただき、有難うございました。

 

鎌倉の紅葉を愛でる(5)

海蔵寺(2)
仏殿
味のある佇まいの仏殿だと思う。仏殿のあり方は、鎌倉五山の第四位である浄智寺のそれと似た感じ。それもその筈。海蔵寺の仏殿は、安永5(1776)年に浄智寺から移築されたものなのだから。それからでも240年が経つのか。
以下3点は、10月14日往訪時に撮影したもの
仏殿_1
仏殿_2
仏殿_3
はっきり見えないと不満があると思う。そのため、以下の2点はPDF画像を借用した。随分できが違うなあ。
仏殿_4
仏殿_5
薬師堂の中央には、本尊の薬師如来坐像と両脇に、向かって右手に日光菩薩、左手に月光菩薩像が祀られています。本尊は、啼薬師とも呼ばれていますが、胸のところに扉がついており、その中には、境内で見つかった仏様の頭部が納められています。
それには次のような話が伝えられています。
心昭空外和尚の時のこと、毎夜、赤子の鳴き声が聞こえてくるのを不思議に思い、その場所を掘ったところ、薬師如来の頭部が出てきました。そこで、これを納めるための、現在の本尊である薬師如来を新に造り、体内に納めたということです。
さらに、左右に、六体ずつ十二神将が配置されています。 
左手には、1.8メートルほどの大きな位牌があり、それぞれ、応永三十年(1423)、永正十二年右手には、伽藍神や達磨大師、弘法大師像などが祀られています。
 
やぐら
鎌倉の寺院にはつきもののやぐら。内部を見ると、此処にも丸いものがある。十六ノ井と同様のものなのだろうか?
やぐら_1
やぐら_2
やぐら_3
フラッシュを使用しないとかなり薄暗い。宇賀神ではなく、本物のマムシでも出てきそうで怖かった。
やぐら_4
やぐら_5
やぐら_6
やぐら_7
本堂の左手の崖には「やぐら」が4つあり、3番目は雨宝殿(うほうでん)と呼ばれるもので、ここには宇賀神の像が祀られています。翁の体に蛇が巻きついた姿をしています。
庭園
本堂の裏手にある通常は未公開の庭園。この日も公開されていたわけではないが、スペースから手を伸ばして撮らせてもらった。そのため、中途半端な構図になっている。
庭園_1
庭園_2
庭園_3
庭園_4
庭園_5
底脱ノ井
十六ノ井と並んで有名な井戸。「千代能がいだく桶の底抜けて水たまらねば月もやどらじ」と詠んだという言い伝えと、「賤の女がいただく桶の底ぬけてひた身にかかる有明の月」と詠んだという言い伝えとがあるようだ。
底脱ノ井_1
底脱ノ井_2

 

鎌倉の紅葉を愛でる(4)

長寿寺の拝観後、海蔵寺に向かう。海蔵寺は、長寿寺の華やかさに比べてやや地味ではあるが、内容のある寺院だと私は評価している。落ち着いた佇まいがあり、隠れた人気があるように思う。

海蔵寺への道筋
ちょっとだけ北鎌倉よりは早すぎる感じかなあ
海蔵寺への道筋_1
海蔵寺への道筋_2

海蔵寺(1)
海蔵寺は十六ノ井以外は拝観料は徴収しない。今回は十六ノ井はパスすることにしたが、若干の志を収めた。
山門前
山門前_1
山門前_2
山門前_3
山門前_4
山門を潜ったあたりからの景観
山門を潜ったあたりからの景観_1
なんとも洒落た石畳だ
山門を潜ったあたりからの景観_2
山門を潜ったあたりからの景観_3
山の上もあとで取り上げる裏庭の景観の一部だ
山門を潜ったあたりからの景観_4
山門を潜ったあたりからの景観_5
あまり楓の木はなく、このあたりを撮っている方が殆ど
このあたりを撮っている方が殆ど_1
このあたりを撮っている方が殆ど_2
このあたりを撮っている方が殆ど_3
このあたりを撮っている方が殆ど_4
このあたりを撮っている方が殆ど_5
このあたりを撮っている方が殆ど_6
本堂玄関の衝立
せっかく質問したのに聞き方が足りなかった。真ん中の大きな字は『開』だそうだ。
書いた人は『福山』とあるから『巨福山』の『寿龍』なる方かなあ?右の字は『雲の出』だろうか?どうせ聞くのなら完全に聞いておくのだった。(^_^;)

本堂玄関の衝立
その手前には竜胆の蕾がまだあった
まだ咲く意思を放棄していないのかな?そうならば、頑張れ!!
手前には竜胆の蕾が
庫裡
こちらだけはまだ茅葺きのまま残っている。趣があるなあ。
庫裡_1
庫裡_2
本堂
遠慮して堂内の写真を撮らなかったが、撮影禁止とは書かれておらず、いくつもWEB上に画像が見られる。撮っておくのだった。
本堂_1
本堂_2
本堂_3
以下の2点はPDF画像を借用
本堂内部_1
本堂内部_2

 

鎌倉の紅葉を愛でる(3)

長寿寺(3)
いよいよ境内で一番楓が色づいているゾーンに来た。こんなふうに見えた。カメラワークが良くないせいで、冴えない感じを受けたのであれば、それは私の責任だ。
観音堂裏の様子
主に楓が植えられているのはこの辺り。日当たりが良い所為なのか、今年の不順な気候でも頑張ってきれいに発色していた。
観音堂裏の様子_1
観音堂裏の様子_2
観音堂裏の様子_3
観音堂裏の様子_4
観音堂裏の様子_5
観音堂裏の様子_6
観音堂裏の様子_7
観音堂裏の様子_8
観音堂裏の様子_9
観音堂裏の様子_10
観音堂裏の様子_12
観音堂裏の様子_13
観音堂裏の様子_14
観音堂裏の様子_15
尊氏の墓
『私を忘れちゃいけ無いよ。参拝に来たからには、きちんと礼を尽くさなくちゃ』…そう訴え掛けてきたような気がした。なにせ、殆どの人は紅葉にばかり関心が行って、お墓には見向きもしない有様。寺院って、そういうものではないはずなのだが。
鎌倉にも墓が存在する
墓には遺髪が埋めてあるのだそうだ。ちなみに本堂の尊氏像の胎内には、歯が収められているという。
鎌倉にも墓が存在する_1
鎌倉にも墓が存在する_2
そこからの眺め
斯くいう私めも気になって振り返った。これなら尊氏公も大満足と思われる眺めがあった。
そこからの眺め_1
そこからの眺め_2
そこからの眺め_3
そこからの眺め_4
その他
紅葉以外に目についたものを撮ってみた
竹林
ずっと赤いものばかり見ていたら、この色がありがたかった
竹林
いろいろな苔が生えていた
いろいろな苔が生えていた_1
いろいろな苔が生えていた_2
いろいろな苔が生えていた_3

尊氏は、後醍醐天皇の意に逆らって鎌倉に下り、中先代の乱を平定したため、一時、扇ガ谷の浄光明寺に蟄居した。かなり鎌倉に軸足をおいた人物だったんだなあ。

 

鎌倉の紅葉を愛でる(2)

長寿寺(2)
方丈及び書院にて(2)
私のような書を見ることをも目的としている方は少数派のようだ。前庭の景観を愛でに来た人が大半だろう。その期待を裏切らない景観だ。
方丈からの眺め
可動タイプのスクリーンじゃないと撮りにくい。いつものことだが悪戦苦闘してしまう。
方丈からの眺め_1
方丈からの眺め_2
方丈からの眺め_3
方丈からの眺め_4
方丈からの眺め_5
『直指人心 見性成仏』
禅語は難しいなあ。それにしても、書画共に通じているとは羨ましい限りだ。
『直指人心 見性成仏』
この言葉を解説した頁へjump
瓢箪の灯り
またも同じものを撮ってしまった
瓢箪の灯り
観音堂とその周辺の景観
前回触れたと思うが、長寿寺の観音堂は、室町時代創建といわれる奈良円成寺多宝塔の第一層を改造移築した建物だ。でも、もともと観音堂であったような佇まいに見える。
景観
本当に美しい。熱心なリピーターが居るようだ。
景観_1
景観_2
景観_3
方丈では少しでも良い写真を撮ろうと皆さん必死だ
景観_4
聖観世音菩薩像
右手に小鳥をのせた細身の像だ
聖観世音菩薩像_1
聖観世音菩薩像_2
2体の像がお守り役
2体の像がお守り役_1
2体の像がお守り役_2
観音堂の天井
私のカメラとレンズとでは精一杯
観音堂の天井

 

鎌倉の紅葉を愛でる(1)

長寿寺の紅葉を見てみたいと以前から思っていた。だけど、わざわざ鎌倉に行くのに、それだけではちょいと寂しい。然らばどこに行こうかと行く道すがら考えた。それで決めたのが、海蔵寺と浄光明寺とだった。今回も下調べなど全くせずに、師走の鎌倉を歩いた。

通りすがりの円覚寺の紅葉
中に入らずに総門の前の紅葉をささっと見た。ただそれだけ。混雑しているところは私の好みじゃない。この日は12月2日(金)。毎日が日曜日の人や、休みを取ろうと思えば比較的簡単に取れる人が少なくないようだ。もちろん修学旅行生も。
通りすがりの円覚寺の紅葉_1
通りすがりの円覚寺の紅葉_2

長寿寺(1)
11月からの公開は、12月初旬まで金曜日~日曜日。予定通りならば、終了に近いのだが、紅葉はこれからが本格化するところだろう。1週待つ選択肢もなくはなかったが、せっかくの好天だったので、この日に行ってみた。
紅葉のダイジェスト
もったいぶらずに早く見せろと思われるかもしれない。お叱りを受ける前に、ほんの少しだけ最初に取り上げる。
紅葉のダイジェスト_1
紅葉のダイジェスト_2
紅葉のダイジェスト_3
紅葉のダイジェスト_4
紅葉のダイジェスト_5
境内にて
山門脇にある亀趺
石碑の表は「佛頂尊勝陀羅尼」と彫られている。贔屓(ひいき・びし、拼音:Bìxì、正字体:贔屭)は、中国における伝説上の生物で、その内、石碑の台になっているものを亀趺(きふ)と言う。
山門脇にある亀趺
本堂にて
本尊
本尊は釈迦如来
本尊
足利尊氏像
その胎内には尊氏の歯が納められているという
足利尊氏像
開山古先印元像
諡号は正宗広智禅師。円覚寺29世、建長寺38世となった。晩年は長寿寺に居住した。
開山古先印元像
本堂の縁側から見た様子
本堂の縁側から見た様子_1
本堂の縁側から見た様子_2
本堂の縁側から見た様子_3
本堂の縁側から見た様子_4
本堂の縁側から見た様子_5
方丈及び書院にて(1)
この書を読むことができるだろうか
後で読もうと思っていたら下に小さな紙の楷書があった。読み下す楽しみが失われてしまったが、正しく読むほうがもっと大切なことだろう。
『昼尚暗い深林中にあって人に道を問うものは 又人に依って道を失うことがある 静かに眼を閉じて自ら開拓するものには 道は永遠に明るい』…瑞龍僧堂浦雲
滴翠軒清田浦雲老大師の書で『涙骨抄』の『汝自らに問え』の一節のようだ。
この書を読むことができるだろうか
関連する説教が乗った頁へjump
『百事如意』
そう書かれていると思うが、如何だろうか?そうだとすれば、『すべてがうまくいくように』との願いをこめての書だろう。
『百事如意』_1
『百事如意』_2
『寿限無』
落語じゃないよ
『寿限無』
その他の書
その他の書_1
その他の書_2
その他の書_3

 

上野界隈(3)

東京芸大の前を通る
素晴らしい雰囲気のキャンパスだ。芸術的センス皆無の私は圧倒されっぱなしだった。
素晴らしい建物のオンパレードに驚く
素晴らしい建物のオンパレード_1
素晴らしい建物のオンパレード_2
素晴らしい建物のオンパレード_3
素晴らしい建物のオンパレード_4
素晴らしい建物のオンパレード_5
ついでに芸大の学食でカツカレーを食す
なかなか美味しかった。1コイン未満で財布にも優しかった。美術学部の学生たちは、『卒業生の半数が所在不明』などと書物のタイトルにあったが、そんな感じには見えなかった。
ついでに芸大の学食でカツカレーを食す
キャンパスの様子
いつか時間があれば、キャンパスを訪ねてみたいものだ。紅葉が綺麗だった。
キャンパスの様子_1
アートプラザ
キャンパスの様子_2
こちらは音楽学部の建物
キャンパスの様子_3
キャンパスの様子_4
キャンパスの様子_5

桃林堂
食事を舌ばかりだったが、東京芸術大学の西側、上野桜木会館隣の店で抹茶と小鯛焼きのセットをも頂いた。有名店らしいが、私は知らない店だった。店内は撮影禁止の表示があった…残念。
桃林堂

圓珠院
きれいなお寺さんだと思ってみていたが、寛永寺の子院だった。それも長州藩が開基檀家ということであれば、なおさらなのだろう。
圓珠院_1
圓珠院_2
圓珠院_3
寛永寺が徳川家によって創建されると、有力大名は競って上野山内に、将軍家の法要参列のための装束着替所としての寺院を建立しました。これらの寺院は子院(宿坊)と呼ばれ、その数は三十六坊にも達しましたが、圓珠院もそのひとつとして、承応元年(1652)に建てられました。開基檀家は長州(萩)藩第二代藩主毛利綱廣公であり、現在の東京国立博物館の後側に位置する寛永寺第二霊園のあたりに建立され、境内地は約3,000坪でありました。そして延宝8年(1680)四代将軍徳川家綱公の霊廟である厳有院廟を造営することになり、その用地となったため現在地(東京芸術大学音楽部横の上野桜木一丁目)に移築されました。ところが元禄10年(1697)に火災で全焼しましたが、直ちに長州藩第四代藩主毛利吉廣公によって旧来のように復興されました。しかしながら幕末の戊辰戦争の結果、明治政府に寛永寺境内が上地され上野公園となるや、圓珠院境内地も縮小を余儀なくされ、現在は350坪ほどになっています。しかし山門である総欅造の薬医門はそのまま現在も残され、創建当時の面影を今日に伝えています。

寛永寺本堂とその周辺
本来ならば、本殿である根本中堂から取り上げるべきだろう。だが、絵的にあまりにも寂しい。あの栄華を誇った寛永寺の今の姿は涙が出そうなくらいさびしいあっけらかんとしたものだった。この界隈の国指定の重要文化財の建造物は、徳川家霊廟のうちの焼け残ったものだけなんだ。
厳有院霊廟の勅額門
勅額門は2つ残っているそうだ。立ち入ることができる場所からは、こちらが見える。5代将軍綱吉(厳有院)の霊廟の勅額門。天璋院篤姫の墓所も残っているそうだ。宮崎あおいさんのイメージが残っているが、実際には薩摩おごじょの典型のような人物だったのかなあ。
厳有院霊廟の勅額門_1
厳有院霊廟の勅額門_2
厳有院霊廟の勅額門_3
根本中堂
根本中堂_1
根本中堂_2
根本中堂_3
根本中堂_4
根本中堂_5
除夜の鐘として、全国に放送される鐘
台東区の有形文化財指定にしかなっていないのか
除夜の鐘として、全国に放送される鐘_1
除夜の鐘として、全国に放送される鐘_2
除夜の鐘として、全国に放送される鐘_3
相当に大きい瓦
相当に大きい瓦_1
寛永寺根本中堂鬼瓦   高さ248cmX横幅325cm
相当に大きい瓦_2
現在のもの
相当に大きい瓦_3
旧本坊表門鬼瓦「阿」形 高さ113cmX横幅118cm
相当に大きい瓦_4
慈海僧正墓
慈海僧正墓_1
慈海僧正墓_2
了翁禅師塔碑
了翁禅師塔碑_1
了翁禅師塔碑_2
書院
書院_1
書院_2
根本中堂とは渡り廊下でつながっている
書院_3
寛永寺は、東京都台東区上野桜木一丁目にある天台宗関東総本山の寺院。山号は東叡山。東叡山寛永寺円頓院と号する。開基(創立者)は徳川家光、開山(初代住職)は天海、本尊は薬師如来である。
徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務め、日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇ったが、慶応4年(1868年)の上野戦争で主要伽藍を焼失した。

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本堂(根本中堂)-東京芸術大学音楽学部の裏手にある。上野公園内の清水堂、弁天堂などのにぎわいに比し、本堂周辺は訪れる人もまばらである。現在の堂は、寛永寺の子院・大慈院のあった敷地に、明治12年(1879年)、川越喜多院の本地堂を移築したもので、寛永寺本来の建物ではない。内陣には厨子内に秘仏本尊薬師三尊像を安置する。
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書院-本堂裏手にあり、徳川慶喜が水戸退去の前に2か月ほど蟄居していた部屋(葵の間、あるいは蟄居の間)が保存されている。
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徳川家霊廟
東京国立博物館裏手の寛永寺墓地には、徳川将軍15人のうち6人(家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定)が眠っている。厳有院(家綱)霊廟と常憲院(綱吉)霊廟の建築物群は、東京の観光名所として知られ旧国宝に指定されていた貴重な歴史的建造物であったが、昭和20年(1945年)の空襲で大部分を焼失。焼け残った以下の建造物は現在重要文化財に指定されている。
厳有院霊廟勅額門、同水盤舎、同奥院唐門、同奥院宝塔
常憲院霊廟勅額門、同水盤舎、同奥院唐門、同奥院宝塔
いずれも寛永寺霊園内にあり(厳有院霊廟の勅額門は外の道路から見ることができる)、通常は一般公開されていないが、5名以上の団体に限り予約制で毎月3日間程度公開されている。また台東区役所が主催する特別公開が毎年秋に1日だけ行われている。


以上で『上野界隈』のミニシリーズは終了です。最後までご覧頂きありがとうございました。

 

上野界隈(2)

不忍池と池越しの光景
寒々とした晩秋の感じかな。蓮が異様な印象をあたえるかもしれない。
不忍池と池越しの光景_1
不忍池と池越しの光景_2
不忍池と池越しの光景_3
不忍池と池越しの光景_4
不忍池と池越しの光景_5
不忍池と池越しの光景_6
不忍池と池越しの光景_7
寛永寺境内の一部なのに、何故か存在する豊太閤護持大黒天堂
不忍池と池越しの光景_8

清水観音堂と月の松
2012年に150年ぶりに復元された月の松。清水観音堂自体は清水寺の完全模倣と言われる。それでも国指定の重要文化財だ。
清水観音堂と月の松_1
清水観音堂と月の松_2
清水観音堂と月の松_3
清水観音堂と月の松_4

切り絵展
この日は切り絵展とちぎり絵展とを見た。前者は登録すれば写真撮影可で後者は不可だった。その取扱の差は何なのだろうか?硝子で反射する上の段は避け、下の段を中心に撮ってみた。
目についた作品
切り絵展_1
切り絵展_2
切り絵展_3
切り絵展_4
切り絵展_5
切り絵展_6
友人の作品
う~~ん、お見事。この取材のために色々見て回っているようだ。
切り絵展_7
切り絵展_8

寛永寺に向かう途中
雰囲気がある通り道
寛永寺に向かう途中_1
博物館動物園駅
かつて存在していた駅。ホームの長さを延長できないで危険ということで、今は廃止されてしまった。
寛永寺に向かう途中_2
寛永寺に向かう途中_3

 

上野界隈(1)

友人からの誘いで、昨年に引き続いて切り絵展を見に行くことにした。そのついでに、不忍池の野鳥と寛永寺とをも見ることにした。

不忍池の野鳥
行く途中でカモさんなどが居ないかキョロキョロしたが見当たらない。どうしたのかなと思ったら、わかった。餌を気前よく与えているおじさんが居たからだ。今年は禁止されていないのかなあ。
どの野鳥さんも夢中になってぱくついている。調子に乗って食べすぎると、私のようになって飛べなくなっちゃうぞ。
他に居そうにないので、仕方なく近くに寄って撮した。大きい画像は400ミリの単焦点、小さなものは250ミリまでのズームで撮った。いつもいる鳥さんばかりだったなあ。

大騒ぎのカモさんほか
端なさすぎるぞ。餌やり禁止の立て札を探し当てた時は狂想曲は終わっていた。
大騒ぎのカモさんほか_1
大騒ぎのカモさんほか_2
大騒ぎのカモさんほか_3
大騒ぎのカモさんほか_4
大騒ぎのカモさんほか_5
大騒ぎのカモさんほか_6
騒ぎに加わらないカモメさん
大多数のカモメは冷静そのもの。肉食中心なのかなあ。嘴の赤いユリカモメはわかったが、他は私には区分できなかった。
騒ぎに加わらないカモメさん_1
騒ぎに加わらないカモメさん_2
騒ぎに加わらないカモメさん_3
騒ぎに加わらないカモメさん_4
騒ぎに加わらないカモメさん_5
騒ぎに加わらないカモメさん_6
騒ぎに加わらないカモメさん_7
騒ぎに加わらないカモメさん_8
一段落したのかな
三々五々散っていくカモさんほか。気がついたら、おじさんが立ち去っていた。一応鳥さんたちの名前を書いてみたが、間違っているかもしれない。
オナガガモ(尾長鴨)
オナガガモ(尾長鴨)_1
オナガガモ(尾長鴨)_2
キンクロハジロ(金黒羽白)
キンクロハジロ(金黒羽白)_1
キンクロハジロ(金黒羽白)_2
ハシビロガモ(嘴広鴨)
ハシビロガモ(嘴広鴨)_1
ハシビロガモ(嘴広鴨)_2
ハシビロガモ(嘴広鴨)_3
ハシビロガモ(嘴広鴨)_4
ハシビロガモ(嘴広鴨)_5
ハシビロガモ(嘴広鴨)_6
ハシビロガモ(嘴広鴨)_7
ハシビロガモ(嘴広鴨)_8
ハシビロガモ(嘴広鴨)_9
ハシビロガモ(嘴広鴨)_10
オオバン(大鷭)
オオバン(大鷭)_1
オオバン(大鷭)_2
何かな。メスやエクリプスは難しいな。
何かな
ヒドリガモ(緋鳥鴨)
ヒドリガモ(緋鳥鴨)_1
ヒドリガモ(緋鳥鴨)_2
ヒドリガモ(緋鳥鴨)_3
ヒドリガモ(緋鳥鴨)_4

 

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