散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

伊豆への一泊の旅(3)

熱海梅園の紅葉
今年の紅葉は、日本全国冴えないものであることは承知の上。どうなるかわからない頃に一泊旅行を計画したもので、この部分は初日の天気同様に大外れだったかもしれない。
入り口近辺
風が吹くと少し妙なる音が発せられるのだろうか?それとも暗くなると光が漏れてくるのかな?
入り口近辺_1
入り口近辺_2
入り口近辺_3
入り口近辺_4
途中の様子
熱海梅園には、人工の滝とせせらぎが作られている。そのせせらぎ周辺には多少紅葉があった。色合いはこんなものだった。
途中の様子_1
途中の様子_2
途中の様子_3
石乗りもみじ
一種の大きな盆栽かな?これが紅葉していれば、それだけで満足したのかもしれないが。
石乗りもみじ
梅見の滝
人工の滝だが、よくつくったものだ。本物の粋な滝に見える。
梅見の滝_1
梅見の滝_3
梅見の滝近辺の紅葉
梅見の滝近辺の紅葉_1
梅見の滝近辺の紅葉_3
梅見の滝近辺の紅葉_4
梅見の滝近辺の紅葉_5
梅見の滝近辺の紅葉_6
梅見の滝近辺の紅葉_7
梅見の滝近辺の紅葉_8
梅見の滝近辺の紅葉_10
梅見の滝近辺の紅葉_11
裏見の滝
本来は滝の向こうに梅の花を愛でるものなのだろう。今の季節はモミジで代用する仕掛けだ。
裏見の滝_1
裏見の滝_2

来宮神社
伊東の宿にチェックインするまで多少時間があったので、旅の安全等を祈願すべく立ち寄った。強力なパワースポットとして有内な神社だとか。一度行ってみたい神社だったので、私には好都合だった。
こんな温泉井戸が
熱海だからいたるところにある。蒸気の勢いからすれば、湯量はたっぷりあるのかな?
こんな温泉井戸が
社殿
旧社格は村社で、戦後、神社本庁の別表神社に加えられた神社。破格の大出世ぶりだ。それだけの勢いがある様子がうかがえる。
社殿_1
社殿_2
社殿_3
社殿_4
社殿_5
阿豆佐和気神社の大楠
以下の2点はPDFを借用
阿豆佐和気神社の大楠_1
阿豆佐和気神社の大楠_2
来宮弁財天
大久保将監なる武士が出世を遂げたというのがそもそもか。熱心に祈っている女性の後姿を見ていたら、何かがあるのかなあと思った次第。
そのこととは別に、手前の大石には蛇がとぐろを巻いている。おお怖いっ。

来宮弁財天_1
来宮弁財天_2
来宮弁財天_3
来宮神社には弁財天もあります。この弁財天は秩父神社にあったものを熱海の来宮神社に移動されたものです。大久保将監という徳川家武臣がこの弁財天を好んで、遠方にも関わらず、参拝をしました。そして願いが叶えられ、彼は大出世をしました。今では、彼にあやかろうと、出世を願って来宮神社弁財天を参拝する人たちがいます。
そしてこの来宮神社に祀られている弁財天の像は、高村光雲という方が作ったと言われています。この高村光雲とは、江戸に生まれ、文久3年から昭和時代まで木彫りを行い、その技術を後世に伝えた重要な人物だと言われています。

御鳳輦
旧社格は村社で、戦後、神社本庁の別表神社に加えられた神社だ。このクラスの神社に御鳳輦が存在するとは。正直なところ吃驚仰天だ。
御鳳輦_1
御鳳輦_2
神幸祭(じんこうさい) 七月十六日執行
来宮の神々を御鳳輦(ごほうれん)に乗せ、町に降ります。町の繁栄を祈る神事です。神々に供奉する宮司・神官をはじめ、総代・神役など御神幸行列は総勢五〇〇名を超え、壮大な時代絵巻の再現となります。行列の中の猿田彦は天尊降臨の際案内した神様で、御鳳輦に鎮座する来宮大神の案内をする役割です。御祭神と御縁の深い『むぎこがし』を道に撒き道中を御案内し、また人々は其のこがしに触れると無病息災・身体健康になると伝えられています。

神輿
神輿
境内のシャレ心
境内のシャレ心_1
境内のシャレ心_2
境内のシャレ心_3

創建時期は定かではないが、社伝によると和銅3年(710年)、熱海湾で網に木の根が掛かる事が3度重なり、不思議に思った漁師があらためると神像のようであったので、近くの松の下に祀って、持っていた麦こがしを供えたところ、その夜の夢に五十猛命が現れ、潮騒が耳障りであるとの神託があり、現在地に遷祀したといい、木の根を神体としたところから「木の宮」と称えたという。漂着物を祀ったのに始まり、祭神を木の神五十猛命とするなど、キノミヤ信仰が顕著に認められる神社である。なお、坂上田村麻呂が戦勝を祈願し、当社の分霊を東北地方を始め各地に鎮座させたという伝承もある。
旧社格は村社であったが、戦後その歴史や活動状況に鑑み、神社本庁の別表神社に加えられた。

 

伊豆への一泊の旅(2)

小田原城址(2)
二の丸御殿のあった二の丸広場から先に進む。目指すは本丸だ。
小田原城跡のイヌマキ
この木は、常盤木橋の前にあり、幹回り4.5mに及ぶ小田原市内最大の巨木だそうだ。樹齢は軽く片手を超すようだ。
小田原城跡のイヌマキ
見上げると本丸に至るルートが
本丸東堀(今は空堀)に架かる赤い常盤木橋を渡り、本丸の巨マツ(おおまつ)を視界に入れながら階段を上り、踊り場で右折してさらに小階段を上ると、右手の松に隠れた常磐木門。そこを潜った先が本丸だ。
防御を確実にするための構造だったのだろうか?
平山城なので、このくらいの上りは我慢しなければいけない範囲かな。将軍は歩いて本丸御殿に入ったのだろうか?
防御を確実にするための構造だったのだろうか?
本丸東堀跡と常盤木橋
昔は歴とした堀があったのだそうだ。将軍をお護りするには当然の備えだったのかもしれない。
本丸東堀跡と常盤木橋_1
本丸東堀跡と常盤木橋_2
本丸東堀跡と常盤木橋_3
常盤木門
本丸を防御する最重要にして最大の門。堅固に作られていたはずだが、元禄16(1703)年の大地震で崩壊したしてしまった。その後、宝永3(1706)年に、多門櫓と渡り櫓から構成される桝形門形式で再建され、明治3年(1870)の小田原城廃城まで姿をとどめていたといわれている。
手前の踊り場
本丸の巨マツが否が応でも目に入る。松の木(常盤樹)の長寿ぶりにあやかり、永久不滅を願った常盤木の名がつけられたようだ。
手前の踊り場
常盤木門
常盤木門_1
常盤木門_2
常盤木門_3
常盤木門_4
古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことが分かります。現在の常盤木門は、市制30周年事業として、明治時代初期に撮影された写真などを参考に復興したもので、昭和46(1971)年3月に完成しました。

天守閣
本来、常盤木門をくぐったならば、本丸御殿が目に入るはずだが、元禄地震で焼失し、その後は再建されていない。ここが小田原城の不思議なところで、普通の藩であればそんなことはありえない。だが、既述の通り、藩主は二の丸御殿にいて、本丸御殿は、徳川の将軍逗留のためのものだったのだ。おそらく、必要があれば、二の丸御殿を使用したのだろう。
ということで、本丸広場はほぼ更地になっていて、天守閣がどどーんと目に飛び込んでくる。昭和35年に市制20周年記念事業として総工費8千万円をかけて復興されたそうだ。今の物価にすれば、もっとかかっているはずだ。

天守閣_1
天守閣_2
天守閣_3
天守閣_4
天守閣_5
天守閣_6
関東大震災の痕跡
震源地の間近だったので、被害は甚大なものになった。お城の石垣もことごとく崩れ落ちたと言われる。その痕跡だ。
関東大震災の痕跡_1
関東大震災の痕跡_2
関東大震災の痕跡_3
関東大震災の痕跡_4
関東大震災の痕跡_5

もし、後北条氏の痕跡を辿りたいのならば、三島市にある山中城跡がお勧め。北条氏によって築城され、小田原城の支城として位置づけられる。箱根十城のひとつ。三島市が整備をして、ある程度当時を偲ぶ事ができるようになっている。
興味のある方は、ここをクリックしてPDF をダウンロードされたい。


小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中ごろのことと考えられています。1500年ごろに戦国大名小田原北条氏の居城となってから、関東支配の中心拠点として次第に拡張整備され、豊臣秀吉の来攻に備えて城下を囲む総構を完成させると城の規模は最大に達し、日本最大の中世城郭に発展しました。
江戸時代を迎えると小田原城は徳川家康の支配するところとなり、その家臣大久保氏を城主として迎え、城の規模は三の丸以内に縮小されました。稲葉氏が城主となってから大規模な改修工事が始められ、近世城郭として生まれ変わりました。その後、大久保氏が再び城主となり、箱根を控えた関東地方防御の要衝として、また幕藩体制を支える譜代大名の居城として、幕末まで重要な役割を担ってきました。
しかし、小田原城は明治3年に廃城となり、ほとんどの建物は解体され、残っていた石垣も大正12年(1923)の関東大震災によりことごとく崩れ落ちてしまいました。
現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と総構の一部が、国の史跡に指定されています。また、本丸を中心に「城址公園」として整備され、昭和35年(1960)に天守閣が復興、次いで昭和46年(1971)には常盤木門、平成9年(1997)には銅門、平成21年(2009)には馬出門が復元されました。さらに小田原市では、貴重な文化的遺産である小田原城跡をより一層親しんでいただくとともに、長く後世に伝えていくことを目的として、本格的な史跡整備に取り組んでいます。 
平成18年10月に、「日本の歴史公園100選」に選ばれました。

 

伊豆への一泊の旅(1)

撮影旅行ではなく、宴会旅行に参加したにすぎない。それでも、ぼんやり見ているだけではもったいないので、撮ることができる範囲で写真を撮ってみた。

小田原城址(1)
かつて勤務していた会社のすぐ近くに芝離宮恩賜庭園があった。あの庭園は、小田原藩主を務めていた大久保家の元禄時代の庭園だそうだ。小田原は、秀吉の小田原攻め以降は後北条の城下ではなく、一時改易されてしまったものの、奇跡的に復活し、後代には、老中職を務めるほどになった大久保氏の城下だったんだなあと、権力の交代するさまを感じたものだった。

城址案内図
現在の城址公園の案内図。江戸時代のものとは、若干、いや、かなり異なる。赤い太い実線が正式の登城ルートになる。私達もほぼこのルートで回った。
城址案内図
馬出門
馬出門土橋で外とつながっていた。高麗門形式の馬出門と枡形と内冠木門とで1セットとなっていた。
外側
馬出門_外側
内側
馬出門_内側
堀と二の丸隅櫓
あの赤い橋は学橋という。小田原藩の初期の頃は存在しなかったようだ。今の二の丸広場には江戸時代は二の丸御殿があり、そこに藩主が執務し居住していた。本来ならば、藩主は本丸御殿に居ると思われるだろうが、そこは徳川将軍が御成のときに使用されるのみだったようだ。そして、元禄の大地震で焼失してからは再建されることはなかったそうだ。
堀と二の丸隅櫓
馬屋曲輪
曲輪(くるわ)は、城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称。現在は跡のみ。
下記解説の通り。城の防衛上、重要な役割を果たしていた。そこから銅門の辺りを見た様子。
馬屋曲輪
城址公園の南側に位置する馬屋曲輪は、三の丸から二の丸に入る大手筋(正式な登城ルート)の重要な曲輪です。三の丸からは馬出門、お茶壷曲輪からは中仕切門から馬屋曲輪へ入り銅門へと続きます。江戸時代では登城者に対しての番所として機能していたようです。
住吉堀と住吉曲輪
住吉堀と住吉曲輪
銅門
住吉橋と枡形と銅門とで1セットと考えるべきもの。此処を突破されたら、城主の居る二の丸御殿へなだれ込まれてしまう。その意味で鉄壁の守りをすべく備えられた門だろう。
住吉橋(内仕切門)
住吉橋(内仕切門)_1
住吉橋(内仕切門)_2
住吉橋(内仕切門)_3
銅門
小さな段差は狭間からの攻撃に注意をして敵方の視線が前方やや上方を見ているときにつまずくことを期待してのものだそうだ。
銅門_1
銅門_2
その名の通り銅がたくさん使用されている。斜めの柱の差し込み方も絶妙だ。
銅門_3
銅門_4
門をささえている頑丈な横木
銅門_5
銅門_6
二の丸側から見た様子
銅門_7
銅門_8
銅門礎石
銅門_9
銅門_10
門をくぐると常磐木門と天守閣とが見えてきた
銅門_11
銅門土塀はこんなふうに再現したというカットモデル。銅門の再建に際し、事前に製作したものだそうだ。
銅門_12

 

風入の日の円覚寺と建長寺(6)

建長寺(2)
行き掛けの駄賃にもう一度だけさっと拝観した。残念ながら新たな発見はなかった。
法堂(国指定重要文化財)
建物
約200年経過したばかりの建物だ。何が指定の決め手だったのだろうか?
法堂(国指定重要文化財)_建物
千手観音坐像
どこにも解説が見当たらない。文化財としての価値が皆無なのだろうか?そのような仏像を国指定重要文化財の法堂の中で毎日拝むものだろうか?
法堂(国指定重要文化財)_千手観音坐像_1
法堂(国指定重要文化財)_千手観音坐像_2
法堂(国指定重要文化財)_千手観音坐像_3
天井画
小泉淳作画伯の『雲龍図』。同画伯の作品は、京都の建仁寺にもある。
法堂(国指定重要文化財)_天井画_1
法堂(国指定重要文化財)_天井画_2
重要文化財で、禅宗以外の寺院の「講堂」に相当する建物。方三間、裳階付、銅板葺き。文化11年(1814年)の建立である。内部には千手観音坐像を安置する。鎌倉最大級の木造建築で2005年に重要文化財に指定された。天井画は小泉淳作筆の雲龍図。2005年愛知万博に陳列されたラホール中央博物館所蔵の釈迦苦行像のレプリカが万博終了後パキスタンより寄贈され安置された。

唐門(国指定重要文化財)
唐門(国指定重要文化財)
重要文化財で方丈入口の門。仏殿と同じく、芝の徳川秀忠夫人崇源院霊屋から移築したもの。関東大震災以来の大修理が2011年5月に終了し、移築当時の姿が再現された。

三門(国指定重要文化財)
三門(国指定重要文化財)
安永4年(1775年)の建立で、2005年に重要文化財に指定されている。銅板葺きの二重門(2階建て)で、関東大震災で倒壊し、再建される。初層には仁王像などを置かず、門扉も壁もない吹き放しとしている。上層には宝冠釈迦如来像や銅造の五百羅漢像などを安置する(上層は非公開)。

建長寺大覚禅師塔(国指定重要文化財)
うっかりしていたが、建長寺にはもう一つ国指定重要文化財があった。と言ってもいわゆる堂宇ではなく、建長寺開山である蘭渓道隆の墓石と伝えられるもの。立入禁止のエリアにあるのでアクセス出来ない。
建長寺大覚禅師塔(国指定重要文化財)を解説した頁へjump
大覚禅師とは、蘭渓道隆の諡号(しごう:生前の事績への評価に基づき死後に奉る名のこと)である。高さ113センチの本塔は、彼を祀る西来庵(せいらいあん)を見下ろす丘陵上に建つ。彼の出自にふさわしく、無縫塔(むほうとう:卵塔(らんとう)ともいう)という中国伝来の形式で造られた安山岩製石塔である。

総門の掲額
『巨』の時に点が入った例の文字が見える。書き間違いだと思うのだが、…。
総門の掲額

御朱印帳
円覚寺のときの最後に取り上げるつもりで失念してしまった。御朱印帳はいつも持参し忘れていて、書きた余らないものが自宅に何冊かある。今回も持参し忘れたが、良い記念なのでまた一冊買い求めた。今回はいずれも達筆だったので、大満足。
これに建長寺の御朱印もいただこうと考えていたが、疲れていたのだろうか、すっかり忘れてしまった。

表紙裏
サービスで書かれてあった。嬉しい気遣いだ。
御朱印帳_1
北條時宗公廟
何種類か選択できるが、これしかないと選んだ
御朱印帳_2
舎利瞻禮(しゃりせんらい)
舎利殿をあおぎ見てうやまう、という意味合いになるのだろうか。崩し字でなくてかろうじて調べることができた。
御朱印帳_3

建長寺宝物風入目録
いつまでアクセスできるかはわからないが、アクセスしてみたい方はクリックされたい

JA02AH
北鎌倉上空はよくヘリコプターや飛行機が飛んでいる。それを何気なく撮ってみた。後で調べると、中日本航空所属のヘリコプターだが、機体下部から前方方向に大きく突き出している長い棒状のものを搭載していた。あれは何?プローブ・アンド・ドローグ式の空中受油装置(プローブ)かなあ?それとも何かの計測装置かなあ?
望遠端が250mm(フル換算400mm)ではちょっと厳しいなあ
JA02AH

以上で、『風入の日の円覚寺と建長寺』は終了です。最後までご覧頂き有難うございました。

 

風入の日の円覚寺と建長寺(5)

建長寺(1)
建長寺には、国宝(建造物)は存在しないものの、国指定の重要文化財(建造物)が、いくつか残る。山門、仏殿、法堂、昭堂、唐門だ。この内の昭堂以外は、通常の拝観時に見ることができる。写真撮影は道内をも含めて可能だ。
西来庵
残念ながら修行道場となっているため、一般人の立ち入りは禁止されている。風入だから舎利殿と同様に立ち入りが特別に許可されるのではないかと期待していたが、それほど甘くはなかった。
嵩山門(西来庵入口)
嵩山門(西来庵入口)_1
嵩山門(西来庵入口)_2
嵩山門(西来庵入口)_3
嵩山門(西来庵入口)_4
嵩山門(西来庵入口)_5
開山蘭渓道隆の墓塔を守る塔頭寺院である。三門の右手にある嵩山門(すうざんもん)が入口だが、そこから先は修行道場のため、一般の立ち入りは禁止されている。開山蘭渓道隆の墓塔(石造無縫塔)、蘭渓の肖像彫刻を安置する開山堂とその手前に立つ昭堂(重要文化財)などがある。昭堂は寛永11年(1634年)頃の建立である。
風入会場にて
風入会場(大庫裡と方丈)は円覚寺と同様に撮影厳禁である。そこは指示に従うとして、撮影が許可されている部分を撮った。
けんちん汁
「けんちん汁」の語源については、定かではないようだが、建長寺の修行僧が作っていたため、「建長汁」がなまって「けんちん汁」になったといわれる説が有力だが、普茶料理の巻繊(ケンチャン - 野菜を刻み、豆腐を混ぜて炒め、油揚げか湯葉で巻いて油で揚げた料理)がアレンジされ、けんちん汁になった説などがあるそうだ。
その有力な説である建長寺のけんちん汁を食してみた。あっさりしたものだが、なかなか美味しかった。肉のたぐいは入っていないとは思っていたが、実際の具が何だったかは忘れてしまった。

けんちん汁_1
けんちん汁_2
お菓子も置いてあった。空きっ腹にはありがたかった。北鎌倉駅まで歩くエネルギーくらいにはなりそうだった。
けんちん汁_3
心字池
この方向(客殿『得月楼』)から撮ることができる機会は普段はないと思われる。それだけに貴重な機会なのだが、腕が未熟だった。
心字池_1
心字池_2
風入の会場はこちら
風入の会場はこちら_1
風入の会場はこちら_2
句碑と石碑
石塚友二の句碑
『好日やわけても杉の空澄む日』
石塚友二の句碑
この建長寺の境内を吟行しながら、何するもなく坦々と過ごしている今日というこの日、取り分けても老杉を見上げたその彼方にうかがえる秋空の何と清澄なことか。何とこの好日の心地よいことか。何するとも迫られていないこの秋日の清々しさと、心の内なる安らぎの調和こそ好日の証し。
花塚
4月8日はお釈迦様の誕生日で、花まつりが行われる。その後、花塚の前で花供養の法要が行われるのだそうだ。
花塚
茶筅塚
茶筅供養なるものがあるそうだ。茶道各流派の先生たちが、使い古した茶筅を焚きあげて供養する。茶はそもそも栄西禅師が中国から持ち込んだもの。その初期の頃から縁があったのだろう。
茶筅塚
茶盌塚
同様に茶盌も切っても切れない道具だった
茶盌塚
仏殿
建長寺で私が一番好きな建造物。派手すぎないところがたまらなく良いと思う。
外観
重要文化財。 寄棟造で単層裳階が付く。いつ見ても渋くていいなあと思う。
仏殿_外観_1
仏殿_外観_2
仏殿_外観_3
仏殿_外観_4
地蔵菩薩坐像
仏像の背丈(丈量)の一基準。仏は身長が1丈6尺(約4.85m)あるといわれることから仏像も丈六を基準とし,その5倍,10倍,また2分の1などに造像された。坐像の場合の丈六像は半分の約8尺(2.43m)。丈六より大きい像がいわゆる大仏像。
『吾妻鏡』には、建長5(1253)年11月25日に建長寺の供養が行われ、「丈六の地蔵菩薩をもって中尊となし、同像千體を安置」したことが記されている。現在、仏殿に安置されている地蔵菩薩坐像は室町期のものと考えられ、像高は371.5cmあるそうだ。大きさからして、吾妻鏡に記載されているものとは違う。

地蔵菩薩坐像_1
地蔵菩薩坐像_2
その他の像
その他の像
芝の増上寺にあった、徳川秀忠夫人崇源院の霊屋建て替えに際し、譲渡されたもので、正保4(1647)年に建長寺に移築されている。
もともと霊廟建築として造られたものであるので、屋根や天井などの形式が一般的な禅宗の仏殿とは異なっている。すなわち、屋根は入母屋造でなく寄棟造である。また、天井は禅宗仏殿では平板な「鏡天井」とし、龍などの絵を描くことが多いが、この仏殿の天井は和様の格天井である。


地蔵菩薩坐像を解説した頁にjump

 

風入の日の円覚寺と建長寺(4)

円覚寺(4)
仏殿
大正12(1923)年の関東大震災で倒壊したが、昭和39(1964)年に再建された。41年間の空白があったが、そのときは選仏場が代役を果たしていた。建物自体は比較的新しいものだが、『大光明寶殿』の扁額は、後光厳上皇から賜ったもの。仏殿不在の期間がこれほど長かったとは、私にとっては意外なことだった。
外観
外観
宝冠釈迦如来坐像
ご本尊は冠を被っておられるので、宝冠釈迦如来と呼ばれ、華厳の盧遮那仏とも称される。
頭部のみ鎌倉時代のもので、胴体は江戸初期に補造したもの。それがあって、市重文止まりなのだろうか?国宝や国指定の重要文化財が数え切れないほど存在する円覚寺だが、こと仏像に関しては、国指定の重要文化財は、阿弥陀如来及び両脇侍立像のみ。何故なのだろうか?

宝冠釈迦如来坐像_1
宝冠釈迦如来坐像_2
宝冠釈迦如来坐像_3
宝冠釈迦如来坐像_4
国指定の重要文化財『阿弥陀如来及び両脇侍立像』の説明頁へjump
天井の「白龍図」
龍の絵が臨済宗・黄檗宗の寺院では目立つような気がする。調べたら、下記の引用のような意味合いがあったんだ。こちらの白龍図は、前田青邨画伯(1885〜1977)の監修のもと、守屋多々志画伯(1912〜2003)によって描かれたもの。
天井の「白龍図」
龍は仏の教えをたすける八部衆の一つで龍神と呼ばれます。そのため多くの本山では、住職が上がって仏法を大衆に説く法堂(はっとう)の天井に龍が描かれ、それが法の雨(仏法の教え)を降らすという意味や、龍神が水を司る神であるため、火災から護るという意味がこめられます。

選仏場
江戸時代には選び出すくらいの数の仏像が置かれてあったのだろうか。そんな中での座禅は雰囲気があったのだろうと思う。
外観
選仏場とは、仏を選び出す場所という意味で、修行僧の坐禅道場のことだと円覚寺のHPには書かれてある。浅学非才の私には、仏を選び出す場所が何故座禅道場につながるのかよくわからない。舌足らずの表現なだけだとは思うが。
寄付した松平忠充公は名君といいたいところだが、とんでもない暗君だったようで、狂気であるとして改易に処されたとのことだ。

選仏場外観
元禄12年(1699)に伊勢長島城主松平忠充が、江戸の月桂寺・徳雲寺住職一睡碩秀の薦めにより、大蔵経を寄進するとともに、それを所蔵する場所と禅堂を兼ねた建物として建立されました。
薬師如来立像
衣紋を深く深く掘り出し、袖下を長く垂らす姿で、穏やかなお顔が特徴的。こちらも南北朝時代の仏像だが、文化財指定はないようだ。
薬師如来立像_1
薬師如来立像_2

桂昌庵
第四十九世承先道欽(しょうせんどうきん)の塔所。木造十王像が祀られていることから「十王堂」または「閻魔堂」とも呼ばれる。十王蔵像は、鎌倉十橋の一つ十王堂橋付近にあった十王堂に安置されていたものといわれている。本尊の矢柄地蔵は、宝鏡寺の地蔵堂から移されたもの。みな、他所から持ってきたものばかりだなあ。
総門を潜ったすぐ左側にある
桂昌庵

三門
231年前の建造物では、国指定の重要文化財には届かないのだろうか。円覚寺には仏像の国指定重要文化財がただ一つと書いたが、建造物でも国宝の舎利殿以外は、国指定重要文化財が存在しない。
三門_1
三門_2
三門_3
三門_4
三門_5
現在の三門は天明5(1785)年、開山・無学祖元禅師の五百年遠諱の年に大用国師によって再建され、現在は神奈川県指定重要文化財となっています。「円覚興聖禅寺」の扁額は、北条貞時の時代に伏見上皇(1265〜1317)より賜ったものです。楼上には通常非公開である十一面観音、十二神将、十六羅漢が祀られています。

 

風入の日の円覚寺と建長寺(3)

円覚寺(3)
佛日庵
前回、茶室・烟足軒を撮り漏らしたので、烟足軒を含めて佛日庵そのものをしっかり見てきた。烟足軒は川端康成や立原正秋の感性にかなった茶室なのか。
開基廟
開基廟_1
開基廟_2
開基廟_3
開基廟_4
本殿
本殿
佛日庵は円覚寺の開基 北条時宗公を祀る寺院で、時宗公はこの場所に小さな庵をむすび禅の修業を行いました。北条氏滅亡後は次第に衰微し、天文年間〈1532~55〉以後に玉泉軒から入った鶴隠周音が中興して塔頭としました。
茶室・烟足軒
う~~ん、これがその茶室か。建て替えられていなければ室町時代の建物なのだが、…。
茶室・烟足軒_1
このくらいの字なら迷うこと無く読むことができるのだが。そりゃそうだ、…。
茶室・烟足軒_2
漢字そのものはきちんと認識できるのだが、『烟』は現在ならば『煙』と書くところの字のようだ。恥ずかしながら、読むことができなかった。
茶室・烟足軒_3
茶室・烟足軒_4
川端康成の『千羽鶴』や立原正秋の『やぶつばき』などの小説にも登場する茶室は当庵の烟足軒(えんそくけん)。もともとは北条氏の滅亡後、庵を再興した鶴穏周音(かくいんしゅうおん)の隠居所として建てられたものです。烟足軒前に植えられた枝垂れ桜は、大佛次郎の奥方から贈られたもので、季節には清楚な彩りを添えてくれます。

如意庵
普段は非公開の塔頭。週末に『安寧』利用者は拝観が可能となるようだ。ご存じない方がほとんどだと思うが、素晴らしい寺カフェだった。
山門と玄関の様子
山門と玄関の様子_1
山門と玄関の様子_2
山門と玄関の様子_4
山門と玄関の様子_3
山門と玄関の様子_5
山門と玄関の様子_6
客席から見たお庭
客席から見たお庭_1
客席から見たお庭_2
安寧の茶菓
熊本の栗を使ったお菓子だそうだ。季節にふさわしいし、多少なりとも熊本の力になればと思い、これを頂いた。非常に上品で美味しいものだった。
安寧の茶菓_1
安寧の茶菓_2
茶室ほか
茶室ほか_1
茶室ほか_2
掛軸
『有花有月有楼台』と書いてあり、蘇東坡の作と言われる句だと思う。毎回苦戦していて、これから読みくだすことができない句に遭遇しそうだから、掛軸を撮るのはこれっきりにしようかな。(^_^;)
掛軸
無一物中無盡藏、有花有月有樓臺
「一度自己を盡して宇宙の眞源に徹してみよ、何物か自己ならざる。見るもの聞くもの皆光明」


居士林
此処の禅道場は、写真を見た限りでは田舎の古びた木造校舎のような感じに見えた。俗世から切り離された空間で、居士たちも禅の修行に身が入ることなのだろう。
居士林_1
居士林_2
「居士」とは在家の禅の修行者を指し、居士林は禅を志す在家のための専門道場です。もと東京の牛込にあった柳生流の剣道場が、昭和3年(1928)柳生徹心居士より寄贈され、移築されました。現在も学生坐禅会、土日坐禅会、また初心者でも参加できる土曜坐禅会が定期的に開かれています。

 

風入の日の円覚寺と建長寺(2)

円覚寺(2)

風入の特別拝観券を支払った人のお目当ては、一部の研究者を除けば、国宝舎利殿の拝観だろう。もちろん、もちろん私も例外ではなかった。平日の4日に出かけてよかったと思った。

正続院と『国宝舎利殿』
山門
風入に合わせて、「国宝 舎利殿特別公開」が行われた。いつもは門で無情にもシャットアウトされるのだが、この日ばかりは堂々と中に入ることができた。
山門_1
山門_2
山門を潜った辺りからの景観
山門を潜った辺りからの景観
本堂
風格のある本堂。でもこの日ばかりは、御朱印帳の記入作業場に早変わり。私も書いてもらったが、依頼が殺到しているようで、かなり待たされた。
本堂_1
本堂_2
本堂_3
本堂_4
鐘楼
若い雲水さんが頑張って声を張り上げ続けていた。立派な修行の一つなのだろう。
鐘楼_1
鐘楼_2
鐘楼_3
鐘楼_4
唐門と舎利殿
う~~ん、やっぱり唐門が邪魔をしているのかなあ。それでも間違いなくあの内側にアクセスできると承知しているから、焦ることはなかった。それでも『裏口入学』ならぬ『通用口出入り』だなあ。然るべき身分のものではないから仕方がないかなあ。
唐門と舎利殿_1
唐門と舎利殿_2
唐門
円覚寺の唐門は、方丈の正門になっているものと、舎利殿の前に立つ正続院の唐門とがある。こちらは普段は非公開だが、山門から見えなくはない。それよりも、舎利殿を目隠しするイケズな存在として、参拝客には認識されているかもしれない。
近づいたらよく見ておこうと思ったが、一刻も早く舎利殿を見たくて、気も漫ろだった。しみじみと見ないままだった。

唐門
舎利殿
普段は唐門に目隠しされ、山門からは屋根が見えるだけ。やっと本物を間近で見ることができた。土間仏堂で、実際には一階建てだが裳階が両脇につくことで、あたかも重層のようにみえる二重仏堂なのか。この形式は、鎌倉には、此処の他に江戸時代初期の英勝寺仏殿と建長寺仏殿、幕末の建長寺法堂の四棟があるそうだ。自慢するものではないが、たまたま四棟全部を見た。
舎利殿_1
舎利殿_2
舎利殿_3
舎利殿_4
正法眼堂
坐禅の専門道場である僧堂。『正法眼蔵』から堂名がつけられたのだろう。徒に見性を追い求めず、坐禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがあるという修証一等、只管打坐の禅なのか。わかったようなわからないような。
正法眼堂_1
正法眼堂_2
正法眼堂_3

舎利殿には、源実朝公が宋の能仁寺から請来した「佛牙舎利」というお釈迦様の歯が祀られています。鎌倉時代に中国から伝えられた様式を代表する、最も美しい建物として国宝に指定されています。

 

風入の日の円覚寺と建長寺(1)

毎年、11月3日~5日に、円覚寺と建長寺の宝物風入が行われる。今年は、3日(木・祝日)~5日(土)に実施された。宝物の写真撮影は厳禁だろうとは思った。それでも、一度は見ておきたいと思い、空いているだろうと予想した4日に出かけた。
見ることは見たのだが、私のシワがなさすぎる脳細胞では殆ど記憶できずじまい。正直に言えば、記憶以前に理解できなかったのだ。ごく一部には読み下せるものもないわけではなかったが、ほぼ完敗。ということで、宝物風入に関しては何も報告することがない。それではあまりに情けない。前回往訪時に気になったところを中心に見て回った。

円覚寺(1)
収蔵している数百点の文化財の虫干しを兼ねて展示する毎年恒例の行事。これを見ると同時に、この期間に合わせて「国宝 舎利殿特別公開」が行われていた。普段は立ち入りの許されない「正続院」の門の内に入り、「国宝 舎利殿」の正面近くまでアクセスしお参りしてきた。
ダイジェストで3ショットをご覧いただく
国宝の舎利殿
舎利殿
佛日庵の茶室・烟足軒
茶室・烟足軒
安寧の茶菓
安寧の茶菓
風入れ会場の大方丈の建物外の様子
繰り返し言うが、宝物の撮影は厳禁だ。ところどころに小さな写真が入った目録が配られたが、それだけ。これじゃ、何年通っても理解できそうにない。以上の状況で、風入そのものは何もコメントできない。
仕方がないので、大方丈の外観と庭などを撮ってみた。当日は光線の加減が良く、比較的良い写真が撮れた。

大方丈裏の心字池
背景になる大方丈や書院が風入の会場になった。そのために、大方丈の雨戸が締め切られていた。そこが異様な感じだったが、どうしようもないこと。気にせずに撮った。
大方丈裏の心字池_1
大方丈裏の心字池_2
大方丈裏の心字池_3
大方丈裏の心字池_4
大方丈裏の心字池_5
大方丈裏の心字池_6
大方丈の唐門
大方丈の唐門_1
大方丈の唐門_2
大方丈の唐門_3
大方丈の唐門_4
大方丈
大方丈_1
大方丈_2
大方丈_3
前庭の石像
廃仏毀釈の嵐の中でも、壊されずに残されていた。有難いことだ。今回は比較的よく撮れたと思うが如何だろうか?
前庭の石像_1
前庭の石像_2
前庭の石像_3
前庭の石像_4
前庭の石像_5
前庭の石像_6
前庭の石像_7
前庭の石像_8
鬼瓦
当たり前だがミツウロコの紋になっている
鬼瓦_1
鬼瓦_2

 

晩秋を迎えようとする三渓園(5)

旧東慶寺仏殿【重要文化財】江戸時代初期
Wikipediaには、次のように書かれている。
…明治時代の東慶寺には1634年(寛永11年)に千姫が寄進した仏殿が現在の菖蒲畑の奥の板碑のあたりに残っていたが、明治維新で寺領を失い修理も出来ずに荒れ果て、雨の日には「本堂の雨漏りがひどくて、傘をさしてお経を読んだ」という状態であった。その仏殿は1907年(明治40年)に三溪園に移築されたが、西和夫は「おそらく仏殿は維持が難しかったのであろう」と推察する。…
権勢を誇った東慶寺にも冬の時代が到来したのだろう。三溪園に移築することにより、東慶寺も三渓園も共にメリットがあったのだろう。それにしても、徳川家の娘として波乱の人生を歩んだ戦国時代最大のヒロイン千姫が寄進した仏殿が此処に移されるとは、…。
旧東慶寺仏殿【重要文化財】_1
旧東慶寺仏殿【重要文化財】_2
旧東慶寺仏殿【重要文化財】_3
鎌倉の東慶寺にあった仏殿で1907年(明治40年)に移築されました。禅宗様の特色を色濃く残す数少ない建物です。

旧矢箆原家住宅【重要文化財】1750年頃(宝暦年間)
飛騨三長者のひとり岩瀬(矢箆原)佐助の旧宅。誰もがびっくりする規模の住宅だ。ダム建設が決まって三渓園に移築された。もうその時には、原家から横浜市に寄贈されていたが、商売上手な横浜市が猛アタックを掛けたのかもしれない。
外観
長身の外国人女性と比較すれば、大きさがわかることだろう
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_1
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_2
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_3
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_4
1階
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_5
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_6
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_7
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_8
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_9
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_10
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_11
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_12
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_13
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_14
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_15
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_16
こちらが正式な式台付きの玄関。我々が入った出入り口は大戸口だ。
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_17
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_18
2階
薄暗くて、このくらいが精一杯
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_19
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_20
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_21
大きな茅葺屋根が印象的な合掌造という屋根に特徴がある構造の民家です。岐阜県大野郡荘川村岩瀬(白川郷)にありましたが、ダム建設により三溪園に寄贈されることになり、1960年(昭和35年)に移築されました。屋根の妻側にある火灯窓や扇が彫られた欄間は注目されます。内部では、古い民具の展示もおこなっています。
岩瀬(矢箆原)佐助は、飛騨三長者のひとりで、飛騨地方の民謡に「宮で角助、平湯で与茂作、岩瀬佐助のまねならぬ」(普通の農民は3人の真似ができない)と歌われるほどでした。


横笛庵 建築年不明
三渓園での建築は明治41〈1908〉年。奈良・法華寺からの移築ともいわれるが、由緒の詳細は不明だそうだ。その建物内に横笛の像が安置されていたことから横笛庵と称されているのか。横笛が出家後に住んだと言われる奈良の法華寺にも同様の像があるそうだ。その像は戦火により焼失したと言われているが、本当に残念なことだ。
横笛庵_1
横笛庵_2
横笛庵_3
横笛庵_4
草庵風の茶亭で素朴ながら風趣のある建物です。建物内に横笛の像が安置されていたことから横笛庵と称されています。横笛の像は、戦争の際に失われました。
横笛は、高倉天皇の中宮建礼門院に仕え、平清盛の従者である斉藤時頼(滝口入道)と悲恋に終わった女性です。横笛が、他の人々の恋が実ることを願って、時頼から寄せられた千束の恋文で作った己の像は、「縁結びの像」として知られていました。(2人の悲恋話については、高山樗牛による"滝口入道"という小説が有名です。)


林洞庵 1970年(昭和45年)建築
宗徧流は祖母も教えていた流派で、私には馴染みがある。鎌倉に家元がおられるので、三渓園ともそれなりの関係があったのかもしれない。流祖・山田宗徧の揮毫による「林洞」の額が掲げられているのか。園内では一番新しい建物だろうが、それでも既に46年経過している。機会があれば、見てみたいものだ。
林洞庵
宗徧流林洞会から寄贈された茶室で、八畳の広間と四畳の小間からなっています。内部に流祖・山田宗徧の揮毫による「林洞」の額が掲げられていることからこの名がある。山田宗徧は、忠臣蔵でに登場する吉良上野介と茶を通じて交流があった人物として知られる。

旧燈明寺本堂【重要文化財】室町時代建築
前回取り上げた旧燈明寺三重塔は確かに原三渓氏が移築に関与している。その折には、旧燈明寺との関係もこれ以上はないと関係者の誰もが思っていたのではなかろうか。しかしながらが、縁が続いたのだった。移築されること無く残っていた本堂だったが、1947年(昭和22年)の台風で大破したのだった。いずれは再建することを考えたのか、部材は解体のうえ保存されていた。しかしながら、自力再建を断念。1982年(昭和57年)、三渓園に本堂の部材を移動し、移築工事に着手。1987年(昭和62年)に移築工事が竣工したのだった。このときは、三渓園は原家から横浜市に寄贈されていた。それでも三渓園と縁があったということなのだろう。
旧燈明寺本堂【重要文化財】_1
旧燈明寺本堂【重要文化財】_2
前回も記したが、宗派が変わるまで『燈明寺』ではなく『東明寺』だった。その名残だ。
旧燈明寺本堂【重要文化財】_3
旧燈明寺本堂【重要文化財】_4
この仏像はレプリカだそうだ
旧燈明寺本堂【重要文化財】_5
旧燈明寺本堂【重要文化財】_6
旧燈明寺本堂【重要文化財】_7
旧燈明寺本堂【重要文化財】_8
旧燈明寺本堂【重要文化財】_9
旧燈明寺本堂【重要文化財】_10
旧燈明寺本堂【重要文化財】_11
三重塔と同じ京都燈明寺にあった建物です。三溪園には、1988年(昭和62年)に5年がかりで移築・保存作業が行われ、中世密教寺院の姿がよみがえりました。

以上で、『晩秋を迎えようとする三渓園』シリーズは終了です。最後までご覧頂きありがとうございました。

 

晩秋を迎えようとする三渓園(4)

菊花展
訪問した日が菊花展の初日だった。全くの門外漢だが、見事なものだと思う。丹精を込めた自慢の鉢ばかりなのだろう。
菊花展_1
菊花展_2
菊花展_3
菊花展_4
菊花展_5
菊花展_6
菊花展_7
菊花展_8

海岸門
御門と同じ京都の西方寺にあったもので、江戸時代の建築だそうだ。こちらは文化財の指定を受けていないようだが、負けず劣らず立派な文化財であると見た。
海岸門_1
海岸門_2

三重塔などがある丘に上る
結構な勾配があり、足腰と気管支とに難がある私にはやや厳しいものがある。でも行き先には見ておきたいものがあり、頑張って上った。
右手からの小道は、海岸門から合流する小道
三重塔などがある丘に上る_1
坂道のキツさに幼児は母親の抱っこを要求したようだ。要求は受け入れられたのかな?
三重塔などがある丘に上る_2
三重塔などがある丘に上る_3

松風閣跡
先程の厳しい階段を上ったところに、松風閣跡がある。かつては、原三渓氏のゲストハウスだったとか。
松風閣は原家初代の善三郎氏が明治20年頃に築造した煉瓦造り2階建ての建物。命名は何と伊藤博文だ。そして、三渓氏の代に増築がなされた。原邸を訪れた賓客をもてなす重要な建物だったが、関東大震災により倒壊。現在は建物の一部が廃墟として残るのみ。

ここにゲストハウスとは。確かに見晴らし抜群なのだが、此処まで上るのが一苦労。伊藤博文なども足腰が丈夫だったのかなあ。
松風閣跡_1
松風閣跡_2
松風閣跡_3

聚星軒跡
松風閣とともにこの丘の上に存在した外壁を竹で編んだ中国風の建物。こちらも関東大震災で壊滅した。
聚星軒跡_1
聚星軒跡_2
聚星軒跡_3
聚星軒跡_4
太湖石はこれなのかなあ
聚星軒跡_5
聚星軒跡_6
聚星軒跡_7

旧燈明寺三重塔【重要文化財】1457年(康正3年)建築
燈明寺は、現在の京都府木津川市兎並(旧相楽郡加茂町)にあった日蓮宗の寺院。その旧燈明寺からは、この三重塔の他に本堂も移築されている。移築時期は56年ほど乖離している。両方共に国指定の重要文化財だ。
旧燈明寺三重塔【重要文化財】_1
旧燈明寺三重塔【重要文化財】_2
旧燈明寺三重塔【重要文化財】_3
この位置から見た大池
旧燈明寺三重塔【重要文化財】_4
旧燈明寺三重塔【重要文化財】_5
この位置から見た旧燈明寺本堂
何百年も連れ添った相棒だ。50年後に追いかけてきてくれて有難うというところかな。
旧燈明寺三重塔【重要文化財】_6

園内のほぼ全域から、その姿を見ることができる三重塔は三溪園を象徴とする建物です。三溪園には、1914年(大正3年)に移築されました。
燈明寺は江戸時代に宗派が変わった際に東明寺から燈明寺に改名されました。瓦に東明寺と刻印されているのは、そのためです。

 

晩秋を迎えようとする三渓園(3)

月華殿や天授院から聴秋閣に向かう道
雰囲気のある道が続く。が、ちょっとアップダウンがあり、真面目に園内をもれなく回ろうとすると、最後はかなり草臥れるかもしれない。
一旦上った丘から一挙に下りてくる感じ。何気ないようだが、妙に落ち着く感じになっている。
月華殿や天授院から聴秋閣に向かう道_1
月華殿や天授院から聴秋閣に向かう道_2
月華殿や天授院から聴秋閣に向かう道_3

聴秋閣【重要文化財】1623年(元和9年)建築
臨春閣と聴秋閣。三渓園の主要な建物が向かい合っている。こちらは、背後を崖に囲まれていて、虫の声が間断なく聞こえてきそうだ。また、楓の木もたくさん植えられていて、聴秋閣というネーミングが適しているように思う。
建物はかなりユニークな形状だ。それを愛でたい。
聴秋閣【重要文化財】_1
聴秋閣【重要文化財】_2
聴秋閣【重要文化財】_3
聴秋閣【重要文化財】_4
聴秋閣【重要文化財】_5
聴秋閣【重要文化財】_6
徳川家光が二条城内に建て、後に春日局が賜ったと伝わる建物。各部の意匠は独創性・変化に富みますが、書院造としての格や茶亭としての機能に応じて緻密に構成されています。L字型の一段下がった杢板敷きの入口は舟で漕ぎ着ける場を想像させ、当初は水辺に面して建てられたのかもしれません。江戸時代はじめの上流武士階級の風流な文化が伝わります。この建物は江戸時代の武士佐久間将監の作と伝わります。小堀遠州と同時代に幕府の造営・修繕に関わる作事方を務めた人物で両者とも茶の湯に深く似た境遇であったため、遠州はライバル的存在であったのかもしれません。この建物から将監の挑戦・意欲が伺えます。

以下の2つの建物は茶室。園内には、この他に、前回取り上げた金毛窟とまだ取り上げていない林洞庵と横笛庵と、合計5つの茶室がある。季節的なものなのか、お茶会が行われていて華やかだった。
その他にも茶室を備えてある建物もいくつか。聴秋閣もその例だろう。


春草廬【重要文化財】桃山時代建築
織田有楽斎の茶室は国宝に指定された茶室『如庵』もある。そちらとこちらとでは、どこに差があるのだろうか?
横道にそれるが、如庵という庵名は有楽斎のクリスチャンネーム「João」または「Johan」から付けられたという説もあるようだ。う~~ん、ヨハネだったのか。
春草廬【重要文化財】_1
春草廬【重要文化財】_2
春草廬【重要文化財】_3
春草廬【重要文化財】_4
春草廬【重要文化財】_5
春草廬【重要文化財】_6
春草廬【重要文化財】_7
三畳台目(さんじょうだいめ)の小間茶室は、織田有楽斎の作品と伝えられています。
春草廬は、茶室内に九つの窓があることから、かつて"九窓亭"と呼ばれていました。 多くの窓を持つもので、華やかな茶室です。


蓮華院 1917年(大正6年)建築
茶室を作り過ぎと思わないでもないほどだが、当代切っての粋人としては、自らの手になる茶室にこだわらないわけにはいかなかったのだろう。前回取り上げた金毛窟より1年前に建てた。
下記の三渓園の説明文。読み飛ばせば何ということはないのかもしれないが、土間の中央にある太い円柱と、その脇の壁にはめ込まれている格子は、宇治平等院鳳凰堂の古材。蓮華院という名は、三溪が茶会を催した際に広間の琵琶床に、奈良東大寺三月堂の不空羂索観音が手に持っていた蓮華を飾ったことに由来。えーっ、そんなことが可能だったの、と思うようなことがサラッと書かれてある。
蓮華院_1
蓮華院_2
蓮華院_3
蓮華院_4
もとは、現在の春草廬の位置にありましたが、第二次世界大戦後に竹林にある茶室という構想のもとに現在の位置へ再築されました。二畳中板の小間と六畳の広間、土間からなっています。土間の中央にある太い円柱と、その脇の壁にはめ込まれている格子は、宇治平等院鳳凰堂の古材と伝えられています。蓮華院という名は、三溪が茶会を催した際に広間の琵琶床に、奈良東大寺三月堂の不空羂索観音が手に持っていた蓮華を飾ったことに由来しています。

 

晩秋を迎えようとする三渓園(2)

旧天瑞寺寿塔覆堂【重要文化財】1591年(天正19年)建築
母思いの秀吉が母の寿塔を覆うために建てた。さすが秀吉フェチの原三渓氏。こういうものが残されているということを見逃さなかったようだ。
天瑞寺は、京都市北区にあった臨済宗の大徳寺内の寺院。その天瑞寺は明治7年(1874年)、明治維新後の混乱で衰退し廃寺となった。寿塔覆堂に関しては、瑞光院、黄梅院の所有を経て、明治35年(1902年)三渓園に移築された。中に入っていた寿塔は、大徳寺内の龍翔寺に現存するそうだ。

旧天瑞寺寿塔覆堂【重要文化財】_1
旧天瑞寺寿塔覆堂【重要文化財】_2
旧天瑞寺寿塔覆堂【重要文化財】_3
旧天瑞寺寿塔覆堂【重要文化財】_4
表は豪勢に飾り立てても裏面は至ってシンプル。秀吉流の見せ方だったのだろうか。
旧天瑞寺寿塔覆堂【重要文化財】_5
豊臣秀吉が母のために建てた寿塔を覆うための建物で、現在、秀吉が建てたものと確認できる数少ないものです。 迦陵頻迦(かりょうびんが)や蓮の花などの彫りの深い装飾、そりあがった屋根は、荘厳さを感じさせます。

内苑に架かる亭榭(ていしゃ)
原三渓氏が、京都の高台寺の観月台を模して作ったそうだ。最初に見たときに、既視感があった訳だ。高台寺は、豊臣秀吉の正室である北政所が秀吉の冥福を祈るため建立した寺院であり、そこの施設を模したんだ。そして、確かに亭榭にも豊臣家の紋が入っている。ここまで作り込んでしまうほどのフェチぶりだったのか。
内苑に架かる亭榭(ていしゃ)_0
内苑に架かる亭榭(ていしゃ)_1
内苑に架かる亭榭(ていしゃ)_2
亭榭からの眺め
観月台からの眺めよりも勝っているような気がする
内苑に架かる亭榭(ていしゃ)_3
内苑に架かる亭榭(ていしゃ)_4
内苑に架かる亭榭(ていしゃ)_5

瓢箪文手水鉢
秀吉が愛用し、後年、藤堂高虎に与えたもののようだ。伊賀上野城にあったもの。丹念に収集して回ったんだなあ。
瓢箪文手水鉢

月華殿【重要文化財】1603年(慶長8年)建築
秀吉ゆかりのものだったらなお宜しいのだろうが、文化財としての価値がありながら、朽ちようとしているものを、たとえ、家康ゆかりのものであっても、積極的に引き取って大事に扱ったようだ。
月華殿【重要文化財】_1
月華殿【重要文化財】_2
月華殿【重要文化財】_3
月華殿【重要文化財】_4
月華殿【重要文化財】_5
月華殿【重要文化財】_6
初代徳川家康により、京都伏見城内に建てられたものといわれています。1918年(大正7年)に春草廬と共に移築されました。三溪が建てた金毛窟とつながっています。
金毛窟 1918年(大正7年)建築
三溪が建てた一畳台目(いちじょうだいめ)の極小の茶室。月華殿につながっている。一畳台目とは、丸畳一畳の客座と台目畳の点前座で構成された茶席のことをいう。 一畳台目は、茶の点前に必要な台目の道具畳と、客が座るに必要な一畳だけにまで切り詰めた究極の茶室で、茶室の中では最も狭いもの。一対一でもてなす茶室なのだろう。月華殿と同時に移築してきた三畳台目の春草盧をあえて切り離し、この金毛窟をつくったのか。織田有楽斎の作品と伝えられる茶室よりも、こちらを選択した。う~~ん。
金毛窟という名は、床柱に京都大徳寺の山門『金毛閣』の高欄の架木を使用していることにちなむそうだ。

金毛窟

天授院【重要文化財】1651年(慶安4年)建築
鎌倉の建長寺のある谷は、もとは処刑場で地獄谷と呼ばれていたそうだ。建長寺が建立されるまでは、地蔵菩薩を本尊とする心平寺があった。この心平寺の地蔵堂が天授院だ。
建物は、こちらに移築された。仏像の方が、建長寺の仏殿脇段に置かれている地蔵菩薩坐像が心平寺の本尊と伝えられ、「心平寺地蔵」と呼ばれているそうだ。

原家の持仏堂とされたそうだ。自前の仏像を飾っていたのだろう。
三渓園には、鎌倉にあった建物が2棟ある。どちらも国指定の重要文化財。もう一つは、旧東慶寺仏殿だ。こちらは次回以降に取り上げる。

天授院【重要文化財】

 

晩秋を迎えようとする三渓園(1)

10月の末に横浜の三渓園を楽しんできた。当日は菊花展が始まったくらいで、他に特別公開などは何もなかった。しかし、好天に恵まれ、シーズンなのかお茶会も幾つか開催されていたようで、華やいだ雰囲気の中を気分良く歩くことができた。私自身は北海道の旅から戻った翌々日(帰宅が午前様になってしまったので、正しくは翌日)で、ちょっとお疲れモードだったが、グループの会計担当なので、休むわけにはいかなかった。
三渓園の様子は何度か取り上げているので、少し端折りモードでいくことにする。


大池の手前から
重要文化財の三重塔がそびえる景観は、いつ見ても極上のものだ。画才があれば、スケッチなどを楽しみたいところだ。
大池には、渡りの鴨はまだこのときは到着していなかった。留守を守るカルガモだけ。
大池の手前から_1
大池の手前から_2
大池の手前から_3
原三渓氏の旧宅である鶴翔閣が見えた
大池の手前から_4
大池の手前から_5
大池の手前から_6
鶴翔閣
横浜市指定有形文化財で貸出施設になっている。当日は貸し出されていた。部外者は残念ながら近づくことができなかった。堂々と拝見するには、自分たちで借りれば良いのだが、…。これほどまでに贅を尽くした建物は、滅多に見られないというものだそうだが、残念ながら建物内部は見たことがない。
鶴翔閣

内苑へと進み、素晴らしい建物を見て歩くことにする

御門とその周辺
この門自体も素晴らしいが、この門から見える景観が痺れるほどに素晴らしい。殿様気分とはこんなものだろうかと思うほどだ。
御門
京都東山の西方寺にあった薬医門。横浜市指定有形文化財で、1708年(宝永5年)頃の建築だそうだ。
御門とその周辺_1
御門とその周辺_2
白雲邸
原三渓氏が家族と暮らした鶴翔閣から離れ、亡くなるまでのおよそ20年を夫人と過ごした住まい。鶴翔閣と同様に、横浜市指定有形文化財で貸出施設になっている。塀が張り巡らされ、玄関も閉じているのが普通で、私自身はなかなか内部の様子を窺い知ることができないでいる。
御門とその周辺_3
臨春閣の第一屋とその玄関
御門を潜り、大層な玄関が待ち構えているところを歩くと、殿様になったような気分がしてくる。そんな気分になるように配置したのだろう。
御門とその周辺_4
臨春閣 【重要文化財指定】 1649年(慶安2年)建築
桃山時代に豊臣秀吉が建てた聚楽第の遺構ではないかと秀吉フェチの原三渓氏が期待をかけた臨春閣。原三渓氏が見たときには廃屋寸前の状態だったとか。何にせよ、原三渓氏の積極的な動きがなければ、貴重な文化財が消えてしまう寸前だっただろう。
玄関
特別公開日以外は閉じられている。特別公開日には、我々もこの玄関から上がることになる。実際に上がっても見たことがある。
臨春閣 【重要文化財指定】_1
第一屋と第二屋の内部
供待の部屋などがある第一屋第一屋の欄間には、波の彫刻。第二屋の欄間には、和歌を書いた色紙がはさまれているとか。
臨春閣 【重要文化財指定】_2
確かに欄間には波の彫刻が施されてある
臨春閣 【重要文化財指定】_3
和歌を書いた色紙がはさまれている欄間のようだ。この角度からはなんと書かれてあるのか不明。見えたとしても、読み下すことができるかなあ。
臨春閣 【重要文化財指定】_4
臨春閣 【重要文化財指定】_5
臨春閣 【重要文化財指定】_6
臨春閣 【重要文化財指定】_7
臨春閣 【重要文化財指定】_8
臨春閣 【重要文化財指定】_9
臨春閣 【重要文化財指定】_10
第三屋の内部
第三屋の「天楽の間」にある欄間には、雅楽に馴染み深い笙と笛など本物の楽器があしらわれているそうだ。何かあったなあと思うが、特別公開日ではなかったので、屋内でじっくり見学するようなわけにはいかず、よくわからなかった。
臨春閣 【重要文化財指定】_11
臨春閣 【重要文化財指定】_12
これが実際の雅楽器があしらわれている欄間か
臨春閣 【重要文化財指定】_13

桃山時代に豊臣秀吉が建てた聚楽第の遺構と伝えられていましたが、現在では和歌山県岩出市にあった紀州徳川家の別荘巌出御殿(いわでごてん)ではないかと考えられています。内部は狩野派を中心とする障壁画と繊細・精巧な数寄屋風書院造りの意匠を随所に見ることができます。

 

1泊2日の超高速北海道観光(9)

札幌(2)
札幌市内での自由行動(2)
北海道庁旧本庁舎
見えてきた
北海道庁旧本庁舎_1
北海道庁旧本庁舎_2
北海道庁旧本庁舎_3
北海道庁旧本庁舎_4
北海道庁旧本庁舎_5
北海道庁旧本庁舎_6
北海道庁旧本庁舎_7
いきなり勾配のきつい階段から始まるんだ。足腰の不自由な方には館内見学は無理かもしれない。
北海道庁旧本庁舎_8
館内に入ると正面にまた階段
北海道庁旧本庁舎_8_1
北海道庁旧本庁舎_8_2
北海道庁旧本庁舎_8_3
左右にも階段がある
北海道庁旧本庁舎_9
北海道庁旧本庁舎_10
北海道庁旧本庁舎_11
正面階段を上る
北海道庁旧本庁舎_12
北海道庁旧本庁舎_13
2階廊下
北海道庁旧本庁舎_14
片岡球子画伯の『函館街頭風景』
素晴らしい作品だなあ。鑑賞眼のない私にもビンビン訴えかけてくるような迫力があった。
北海道庁旧本庁舎_15
知事室
執務室の雰囲気をとどめている一角だ
北海道庁旧本庁舎_16
北海道庁旧本庁舎_17
北海道庁旧本庁舎_18
大きな写真は名前がわかる人物。町村さんは息子さんも先日亡くなったんだなあ。(合掌)
北海道庁旧本庁舎_19
北海道庁旧本庁舎_20
北海道庁旧本庁舎_21
北海道庁旧本庁舎_22
廊下
防火扉の形状が印象的
北海道庁旧本庁舎_23
こんなものが展示されていた
アンモナイトの化石
北海道庁旧本庁舎_24
先人が頑張っていた痕跡だなあ
北海道庁旧本庁舎_25
北海道庁旧本庁舎_26

外壁の赤い星が開拓使のシンボル、北海道の象徴といえばこの建物
札幌の北3条通から西方面を望むと、突き当たりに堂々とした姿の北海道庁旧本庁舎が見える。「赤れんが庁舎」の愛称で知られる煉瓦づくりの建物だ。現在使われている新庁舎ができるまで約80年に渡って道政を担った旧本庁舎は、1888年(明治21年)に建てられたアメリカ風ネオ・バロック様式の建築。明治時代に作られたひずみのあるガラスや、化粧枠にしまわれた寒さ対策の二重扉など、そこかしこに機能美が感じられる。館内は一般に無料公開され、北海道の歴史をたどる資料を展示。時間さえゆるせば、常駐している観光ボランティアスタッフの説明を聞き、建物の奥深さを感じてほしい。


ガス灯
小樽も札幌もガス灯を効果的に配置しているようだ。そこはかなり考えたところだと思う。
直ぐ近くにはFREE Wi-Fiの設備もあった。PIGSなどと見下しがちな国でもWi-Fiの設備を充実させている。観光後進国と言われないためには、もっと積極的に増設する必要がある。小池さんは全然気が回っていないようだ。そういうところで判断されるぞ。

ガス灯
テレビ塔のところへ戻った
早く戻りすぎた。冷え込んだ大気が身にしみた。
テレビ塔のところへ戻った_1
テレビ塔のところへ戻った_2
テレビ塔のところへ戻った_3
テレビ塔のところへ戻った_4
テレビ塔のところへ戻った_5

空港で相当待ち時間があったので、ゆっくり食事をし、その後日本シリーズのTV観戦をした。全く打てないで、きりきり舞いしていた日本ハム。あれで、逆転勝ちをしたんだ。どうにも解せない感じだった。
日本人観光客は3分の1強程度かなあ。観光地が乗っ取られたような気がした。尤も、パリなどでは当然のことなのだろうが。


以上で、『1泊2日の超高速北海道観光』シリーズは終了です。最後までご覧頂きありがとうございました。

 

1泊2日の超高速北海道観光(8)

札幌(1)
石屋製菓の札幌からくり時計塔
毎正時に繰り広げられる『チョコレートカーニバル』は、時計塔を見る人たちに幸せを運ぶパレード。ヒグマのトロン、丹頂鶴のロンジェ、オットセイのリーベ、ウサギのキトとウシのリリが挨拶をしながら登場。マイスターの合図で楽器を演奏しながら、シマフクロウのドーレくんも加わって賑やかに行進をするんだとか。
パレードには20分ほど、待たねばならなく、車窓からのチラ見も叶わなかった。工場見学も可能なのか。行ってみたかったなあ。この時計塔だけで制作費が数億円かかったとか。
石屋製菓の札幌からくり時計塔_1
石屋製菓の札幌からくり時計塔_2
北海道神宮
すぐ歴史がわかってしまうような神社は、私にはどうにも有難さがわからない。どんなものにも始まりがあり、それがかなり昔か最近なのかの違いだけなのだが。明治2年に明治天皇の詔により、東京で「北海道鎮座神祭」を斎行して、北海道の開拓・発展の守護神として、大国魂神・大那牟遅神・少彦名神の三柱の神々が鎮斎された。それがこの神社の始まりか。
先に神社を作り、安全を祈願しながら北海道開拓を進めていったのか。さしたる歴史はないながらも、明治以降は北海道の人たちの心の支えとなったのだろう。
境内では雪虫がかなり飛んでいた。雪が降る季節がすぐそこまで来ているという印のようだ。
神門
神門の右に白鵬関の特大ポスターが掲げられていた。千代の富士・北勝海・大乃国引退後、ぱったり輩出しなくなってしまったから仕方がないいのか。北の大地を守る屈強の横綱は白鵬関ということになるのかなあ。
北海道神宮_神門_1
北海道神宮_神門_2
北海道神宮_神門_3
北海道神宮_神門_4
明治天皇の御製
ということは疑わないが、普通は石碑などにしないものだろうか。こうした扱いをする特別な理由があるのだろうか?
北海道神宮_明治天皇の御製
拝殿
北海道神宮_拝殿_1
北海道神宮_拝殿_2
境内に立つ初代開拓判官・島義勇の銅像
判官とは、次官に次ぐ役職。長官はほとんど東京にいたから、判官は、実質上札幌本庁のトップであり、開拓使の在札責任者だったそうだ。義経の時代に戻ったような呼称だが、明治初期には存在したようだ。この人も大変なキャリアを踏んだ人だったようだ。
それにしても、義経かと思うような格好だなあ。なぜ、この恰好なのだろうか?

境内に立つ初代開拓判官・島義勇の銅像_1
境内に立つ初代開拓判官・島義勇の銅像_3
雪虫
一生懸命撮ろうとしたが、うまく撮れなかった。仕方なくPDF画像を借用。実物は撮るのが困難なほどに微小。
雪虫

『北海道神宮で北の大地の歴史に触れる』の頁へjump

札幌市内での自由行動(1)
大通公園のテレビ塔下でバスを降り、暫し自由行動動と相成った。私は、時計台と旧道庁とを見に出かけた。
さっぽろテレビ塔
午前中はポカポカしていたが、徐々に曇ってきて、ちょっと肌寒い感じになってきた。テレビ塔も薄暮に撮ったような感じだが、15時をちょっと過ぎた頃。この辺りで集合なので、チラと見るだけにした。あまり高い感じはしない。エッフェル塔と比べたら見劣りがするなあと思ったが、そのはず。高さ147.2mで、向こうの高さ324mの半分にも満たないんだ。それでも京都タワーの高さ131mよりは若干高い。
さっぽろテレビ塔_1
さっぽろテレビ塔_2
市役所前にあったレリーフ
この碑は、かつてこの場所にあった中央創成小学校の跡碑だった。私が気になったのは、レリーフの部分。何が彫られているのかと近づいてみて、子供の顔だとわかった。ただそれだけのことだった。
市役所前にあったレリーフ
札幌市時計台
国の重要文化財。正式名称を「旧札幌農学校演武場」と称するのだそうだ。その名の通り、かつては札幌農学校の柔剣道の演武場だったのか。そして、当初の鐘に変えて、途中からてっぺんに時計が据えられたんだ。時計も当然ながら附指定されている。
札幌市時計台_1
札幌市時計台_2
札幌市時計台_3
札幌市時計台_4
札幌市時計台_5

 

1泊2日の超高速北海道観光(7)

小樽の街での自由行動(3)

『小樽運河ターミナル』の角を右折して、賑やかな商店街方向に進んだ。それまで見てきたかつての金融機関の建物が立ち並んだ一画とは、かなり様相が異なった。

染織KAZU
この日は定休日だったようだ。どんな品揃えがしてあったのかなあ。私のレーダーには3本のアンテナが立った状態だったのだが。
染織KAZU
大正硝子館
小樽市指定歴史的建造物の旧名取高三郎商店。卯建というか、防火壁というか、そこに這っている蔓性の草が芸術的に紅葉していた。
大正硝子館_1
ガラス屋さんなのだろうが、建物とそこに這っている蔓性の草の紅葉が印象的。今回の北海道の旅で、一番の赤色だったように思う。お見事と唸ってしまった。色がくすんで見えるのは、私の腕前の所為だ。
大正硝子館_2
大正硝子館_3
大正硝子館_4
大正硝子館_5
大正硝子館_6
小樽浪漫館
小樽市指定歴史的建造物の旧百十三銀行小樽支店。今はアクセサリーショップ。建物の風格に押され気味かなあ。
小樽浪漫館
瑠璃工房
小樽市指定歴史的建造物の旧金子元三郎商店。ここにも卯建があった。
瑠璃工房
小樽オルゴール堂
小樽市指定歴史的建造物の旧岩永時計店。旧岩永時計店はいろいろな意味で出色のお店だったようだ。小樽オルゴール堂は、良い建物を押さえているなあ。
小樽オルゴール堂_1
小樽オルゴール堂_2
小樽不老館
利尻昆布の店のようだ。『お父さん預かります』って、どういうことだろうか?また、七日間食べ続けて鏡を見たら、いったいどうなるのだろうか?
小樽不老館_1
小樽不老館_2
オルゴール堂海鳴楼
小樽市指定歴史的建造物の旧第百十三国立銀行小樽支店。当初の小樽支店店舗だったが、手狭になり、この通りの少し北寄りに支店が移された。先に取り上げた『小樽浪漫館』の建物がそれ。
オルゴール堂海鳴楼
小樽硝子の灯・彩や
私の好みの建物かなあ。
小樽硝子の灯・彩や_1
小樽硝子の灯・彩や_2
北一硝子三号館
小樽市指定歴史的建造物の旧木村倉庫。店内にどんどんお客さんが入っていく。あとで調べたら、ぜひ入ってみたくなるシックな店内だった。
北一硝子三号館_1
北一硝子三号館_2
小樽オルゴール堂
小樽市指定歴史的建造物の旧共成(株)。オルゴール屋さんにお似合いのレトロな風格ある建物だ。建物の前に鎮座するカナダから輸入した蒸気時計は記念撮影スポットなんだとか。
小樽オルゴール堂

小樽の町では以上のような建物を見て回った。なんというかレトロな建物が多く残っている素敵な街だった。情けないが、このあたりで疲れてしまい、集合時間よりもかなり早くに戻ることにした。

 

1泊2日の超高速北海道観光(6)

小樽の街での自由行動(2)
またも手宮線跡
またも手宮線跡
金融資料館(旧日銀小樽支店)
現在、日銀の道内の支店は、札幌と釧路とにあり、国内事務所が旭川と帯広とにある。小樽は残念ながら、支店を構える状況から滑り落ちてしまった。が、かつての繁栄ぶりは凄いものがあったのだろう。小さな町に銀行の支店が立派な店舗を構えて集結していたことからも、その状況が窺えるというものだ。戦前は、『北のウォール街』と呼ばれていたのか。なるほどねえ。
外観
国家の威信を示す意味合いがあったのか、ものすごく風格のある建物だ
金融資料館(旧日銀小樽支店)_外観_1
金融資料館(旧日銀小樽支店)_外観_2
内外壁の柱の上部に飾られているのはアイヌの守り神シマフクロウをモチーフにしたものだそうだ。この支店を見守っていたということだ。
金融資料館(旧日銀小樽支店)_外観_3
正面玄関
正面玄関
金融資料館(旧日銀小樽支店)_外観_4
建物内部
建物内部も外観だけのハリボテと言われないだけの豪勢なものだった
内部はレンガを積み上げた構造になっているようだ。それがわかるような展示になっていた。
金融資料館(旧日銀小樽支店)_建物内部_2
『営業場カウンター』と称していた。手前側が日銀行員、向こう側が何らかの用事で来店した金融機関の係員が立つ側だろう。
金融資料館(旧日銀小樽支店)_建物内部_3
2番の窓口は、国庫・国際・預金・為替の窓口だったようだ
金融資料館(旧日銀小樽支店)_建物内部_4
上述したシマフクロウのモチーフが異常がないか見張っている
金融資料館(旧日銀小樽支店)_建物内部_5
窓を操作するなどの目的にために内側に通路を設置したのだろうか
金融資料館(旧日銀小樽支店)_建物内部_6
金融資料館(旧日銀小樽支店)_建物内部_7
金融資料館(旧日銀小樽支店)_建物内部_8
『い号』金庫室
金融資料館(旧日銀小樽支店)_建物内部_9
これは『人孔』と言うもので、金庫に閉じ込められてしまったときに、人間が脱出するための緊急用の脱出口。
金融資料館(旧日銀小樽支店)_建物内部_10
『ろ号』金庫室
1億円の重みを体験してみようと書かれてあった。体験している人も居たようだ。そんなに重いはずはないが、へっぴり腰で抱えると、腰を痛めたりしかねない。
金融資料館(旧日銀小樽支店)_建物内部_11
1000億円のボリュームだそうだ。立入禁止などと書いてあるが、ただの紙切れだろうに大げさな。日銀小樽支店内には、どのくらいの現金が保管されていたのか気になった。
金融資料館(旧日銀小樽支店)_建物内部_12
営業場カウンターの手前側
そんなにお客が来るわけでもなかろうがかなり広くスペースが用意されてあった。カウンターには大量の岐阜県赤坂産の大理石が使用されている。相当にお金がかかっていそうに思えた。
金融資料館(旧日銀小樽支店)_建物内部_13
金融資料館(旧日銀小樽支店)_建物内部_14
松田ビル
小樽市指定歴史的建造物の旧三井物産小樽支店。小樽公証役場などが入居しているようだ。黒御影石の貼られた玄関や1階の壁は、2階以上の白色タイル壁と鮮やかなコントラストを見せている。当初からこういう設計だったようだ。
玄関ホールは琉球産大理石で内装されているそうで、当時の三井物産の羽振りの良さがわかるというものだ。

松田ビル_1
松田ビル_2
松田ビル_3
小樽バイン
小樽市指定歴史的建造物の旧北海道銀行本店。さすが銀行さんの重厚な造りだ。当時の本店だったんだ。現在の店舗は、小樽では有名なお店のようだ。
小樽バイン
ホテルヴィブラントオタル
小樽市指定歴史的建造物の旧北海道拓殖銀行小樽支店。銀行支店時代の初期の行員に『蟹工船』を執筆した小林多喜二がいたそうだ。
ホテルヴィブラントオタル_1
ホテルヴィブラントオタル_2
小樽運河ターミナル
小樽市指定歴史的建造物の旧三菱銀行小樽支店。さすが大銀行の支店だっただけのことがある。
小樽運河ターミナル_1
小樽運河ターミナル_2
小樽運河ターミナル_3

 

1泊2日の超高速北海道観光(5)

ここから2日目。出発は10時と遅めだったが、そこからが極めて長い一日だった。

小樽の街での自由行動(1)
集合写真撮影後、2時間ほどの自由時間が与えられる。下車&解散場所の運河地区から独り歩き開始。時間がないので、少し早足で歩くことにする。結果的に、小樽市指定歴史的建造物を中心に見て回った感じになった。
小樽運河
小樽運河_1
小樽運河_2
小樽運河_3
小樽市指定歴史的建造物の旧浪華倉庫。いまは小樽運河食堂になっている。
小樽運河_4
小樽運河_5
小樽運河_6
小樽市指定歴史的建造物の旧篠田倉庫。周囲の倉庫が石やコンクリート造りなのに対し、こちらは目立つレンガ造り。
小樽運河_7
ガス灯。夜になれば淡い明かりで運河を幻想的に照らす。
小樽運河_8
小樽運河_9
小樽運河_10
小樽港は北海道開拓の玄関口として発展してきました。当時は、大きな船を沖に泊め、はしけ(台船)を使って荷揚げしていましたが、取り扱う荷量が多くなり、はしけが直接倉庫の近くまで入って行ける水路を作りました。これが「小樽運河」です。
小樽運河は、大正12年に完成し、内陸を掘り込んだ運河ではなく、海岸の沖合いを埋立てて造られたため、直線ではなく緩やかに湾曲しているのが特徴となっています。
しかし、時代が変わり戦後になると、港の埠頭岸壁の整備により、その使命は終わりを告げることとなりました。
昭和61年、運河は、十数年に及んだ埋立てを巡る論争の末に一部を埋立て、幅の半分が道路となり、散策路や街園が整備された現在の姿に生まれ変わりました。
運河の全長は1140mで、幅は道道臨港線に沿った部分は20m、北部(通称:北運河)は当初のまま40mとなっています。
散策路には63基のガス灯が設置され、運河沿いの石造倉庫群は当時の姿のまま残されておりレストランなどに再利用されています。
夕暮れ時には、ガス灯がともるとともに石造倉庫群がライトアップされ、昼間とは違った雰囲気を演出しています。

運河プラザほか
シックな建物が並ぶ。時間があればぜひ立ち寄りたいところだが、十分な時間がない。今回は涙をのんでパス。手前から、運河プラザ(小樽倉庫)・喫茶店小樽倶楽部、小樽市総合博物館運河館(小樽倉庫)だそうだ。小樽市指定歴史的建造物の旧小樽倉庫。真ん中の煉瓦の建物も含まれるのかなあ?みんないい感じだなあ。
運河プラザほか_1
運河プラザほか_2
花ごころ小樽店
重厚な感じの建物だなあと思ったら、小樽市指定歴史的建造物の『旧安田銀行小樽支店』の建物だったか。今回は写真撮影だけで失礼。
花ごころ小樽店_1
花ごころ小樽店_2
花ごころ小樽店_3
手宮線跡
北海道最古の路線だったとか。全く知らない路線だった。
手宮線跡_1
手宮線跡_2
手宮線跡_3
小樽市の南小樽駅から同市内の手宮駅を結ぶ日本国有鉄道が運営した鉄道路線(貨物線)。旧国鉄手宮線は幌内鉄道の一部として、明治13年に小樽・手宮〜札幌を結ぶ北海道で最初の鉄道として開通し、北海道開拓に重要な役割を担っていましたが、昭和60年に廃線となりました。
小樽駅
どうしても行ってみたかった小樽駅。やっと見ることができた。
小樽駅_1
小樽駅_2
小樽駅_3
小樽駅_4
何を隠そう、このランプを飾ってある様を見たかったのだ。現在、エントランスホールやホームに飾られているランプ333燈が、2009年に北一硝子から寄贈を受けたそうだ。見事なものだ。
小樽駅_5
小樽駅_6
小樽駅_7
小樽駅_8
小樽駅_9
小樽駅_10
カフェ&バーCANAL運河
こちらも小樽市指定歴史的建造物の『旧向井呉服店支店倉庫』。いまは、カフェ&バーに変身か。
カフェ&バーCANAL運河_1
カフェ&バーCANAL運河_2
北海道タオル
金融資料館(旧日銀小樽支店)のすぐ近くに、ちょっと気になったレトロな建物があった。創業110年とか。右奥方向に長く続く建物だった。
北海道タオル

 

1泊2日の超高速北海道観光(4)

旭川から南下し、美瑛町に向かう。冒頭から申し上げにくいが、負け試合に登板した二線級投手の投球を見ているような感じ。せめて薄っすらくらいの積雪だったら良かったのだが。

本来の美瑛町はこんなところということで、美瑛町観光パンフレットへjump

パッチワークの路
残念ながらパッチワーク状態には全く見えなかった。何しろ見渡す限り白一色なのだから。
この道の様子は、少しスピードを落としてくれたバスの車窓から見るだけ。そういう道なのだろう。

セブンスターの木
観光たばこ「セブンスター」のパッケージに採用されたカシワの木
セブンスターの木
ケンとメリーの木
日産自動車4代目スカイライン「ケンとメリーのスカイライン」のCMに採用されたポプラの木
ケンとメリーの木_1
ケンとメリーの木_3
PDF画像を借用
こんなふうに見えるのか。う~~ん、悔しい。背後の山なみがきれいだなあ。
ケンとメリーの木_4

四季彩の丘
こちらもこんな状態。何枚か写真を撮った後は、コロッケを頬張り、…。何とも寒い景観だった。
四季彩の丘_1
四季彩の丘_2
四季彩の丘_3
四季彩の丘_4
四季彩の丘_5
雪がなかったら、まだまだきれいに見えただろうと思う。が、この状態では、これ以上先まで進む気が起きなかった。
四季彩の丘_6
四季彩の丘_7
四季彩の丘_8
当然だろうが、これらの設備も開店休業状態だった。これから暫くは稼働率がぐんと下がるのだろうなあ。と言うか雪にさらしておくわけにもいかないと思う。
四季彩の丘_9
四季彩の丘_10
四季彩の丘_11
四季彩の丘_12
PDF画像を借用
こんなふうに見えるのか。またまた残念なことだった。
四季彩の丘_13
四季彩の丘_14
四季彩の丘_15

美瑛町から更に南下し、富良野町のファーム富田に向かう途中から雪が小止みになる。この日の降雪に関しては、旭川>美瑛>富良野という状況だった。

ファーム富田
ここについたとき、既に薄暮という感じ。とにかく、明るくあたたかそうなところが恋しい状況になってきた。
せっかく軌道に乗ってきたラベンダー栽培だったが、合成香料の普及で全面撤退の瀬戸際まで追い込まれたようだ。ここまでかと思ったときに、風向きが変わったとのこと。軽々に諦めてはいけないのかなあ。
ファーム富田_1
ファーム富田_2
ファーム富田_3
ファーム富田_4
ファーム富田_5
ファーム富田_6
ファーム富田_7
ファーム富田_8
ファーム富田_9
ファーム富田_10
ファーム富田_11
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ファーム富田_14
ファーム富田_15
ファーム富田_16
カメラは壊れていなかったようだ。良かった。
ファーム富田_17
ファーム富田_18
ファーム富田_19
ファーム富田_20

ラベンダーオイルができるまでを解説した頁へjump

暗くなりつつある頃、この日の宿泊地、小樽に向かう。お腹が空いた。19時を大幅に過ぎて、漸く小樽朝里クラッセホテルに到着。部屋と夕食とはなかなか良かった。が、疲れ果てていて、夕食の様子を撮る元気はなかった。ひたすら翌日の好天を祈るのみだった。

 

1泊2日の超高速北海道観光(3)  2016.11.10 22:34記載内容再修正

旭山動物園(3)

ぺんぎん館
キングペンギン
コウテイペンギンに次ぐ大型種だそうだ。確かに大きい。足が太く見えたので、着ぐるみかなと思うほどのちょっと格好良いとはいい難いスタイル。日本の気温に慣れたのか、ちょっぴり寒そうにしていた。私は初見。一時、皇帝ペンギンかと迷ったが、旭山動物園には皇帝ペンギンは居ないのだそうだ。
キングペンギン_1
キングペンギン_2
キングペンギン_3
キングペンギン_4
キングペンギン_5
キングペンギン_6
キングペンギン_7
キングペンギン_8
キングペンギン_9
キングペンギン_10
キングペンギン_11
ジェンツーペンギン
中型のペンギンで、両目をつなぐ白い帯模様が特徴。オンジュンペンギンという別名もある。いたずらっ子というイメージ。こちらも私は初見。
ジェンツーペンギン_1
ジェンツーペンギン_2
ジェンツーペンギン_3
ジェンツーペンギン_4
ジェンツーペンギン_5
ジェンツーペンギン_6
ジェンツーペンギン_7
ジェンツーペンギン_8
この時の気温は-0.2℃
室内に潜り込んで出てこない人が多い。屋外を歩く人は寒そうだ。スッテンコロリンと転ぶ人も少なくない。意外に男性が多かった。
この時の気温は-0.2℃
あざらし館
ゴマフアザラシ
外の大雪騒ぎなどどこ吹く風とばかりに悠然と泳いでいた。多摩川や帷子川にも迷い込んできたことがあったなあ。無事、仲間のもとに帰ることができたのだろうか?
ゴマフアザラシ_1
ゴマフアザラシ_2
ゴマフアザラシ_3
ゴマフアザラシ_4
ゴマフアザラシ_5

この辺までは寒さに強い動物さんたちだった。以下は気の毒な感じの動物さんのオンパレード

キリン舎
アミメキリン
キリンの居場所を低くして、人間が間近で顔のあたりを観察できるようになっていた。でも寒そうで気の毒だった。
アミメキリン_1
アミメキリン_2
アミメキリン_3
アミメキリン_4
かば館
カバ
屋外にいるのはオスの百吉。寒くて気が立っているように見えた。
カバ_1
カバ_2
カバ_3
カバ_4
カバ_5
カバ_6
カバ_7
カバ_8
カバ_9
ダチョウ
気の毒なほどの寒がり方だった。早く小屋に入れてくれとデモンストレーションをしていたように思えた。係員は除雪にかかりっきりで、…。
ダチョウ_1
ダチョウ_2
ダチョウ_3
ダチョウ_4
ダチョウ_5
ダチョウ_6
ダチョウ_7
ダチョウ_8
ダチョウ_9
ダチョウ_10
ダチョウ_11
ダチョウ_12
ダチョウ_13
ダチョウ_14
ダチョウ_15
てながざる館
シロテテナガザル
いっぱい撮ったのだが、卑猥なポーズが多かった。いくら猿だとはいえ、取り上げられるのはこれくらいだった。ビートたけしのような真似はしないほうがいいなあ。
シロテテナガザル_1
シロテテナガザル_2

 

1泊2日の超高速北海道観光(2)

旭山動物園(2)
こんな悪天候があるかもしれないと思い、旅行前に急遽購入したジャケットと靴。これが功を奏した。ジャケットは、モンペルの撥水性と透湿性とが高く、しかも軽量のもの。靴は水分が染み込んでこず、なおかつスリップに対応するもの。レンズに積もった雪をハンドタオルではたき落としながらの撮影で、傘など差すゆとりがない。ジャケットの下は、通常よりも薄着くらいだったが、何とか寒さを感じずに済ませることができた。気温は一気に10℃くらい下がったのか、あっという間に氷点下になった。アチコチで転倒者続出だったが、私は滑って転んだりしなかった。
タンチョウ舎
タンチョウ
此処にはタンチョウがいるのみ。タンチョウには、ごく普通の環境なのかなと思ったが、どうだろうか?
タンチョウ_1
タンチョウ_2
移動途中の様子
雪の降り方が激しくなってきた
移動途中の様子
エゾシカの森
エゾシカ
係員に金網の雪を箒で払い落としてもらった。その刺激で動くかと思ったが、あまり動かなかった。それ程寒さに強くはないのだろうか?
エゾシカ
オオカミの森
シンリンオオカミ
雪が降る仕切る中で、肉眼でもよく見えない。カメラやレンズの負荷は如何許かと思う。それでも眼光の鋭さだけはファインダーからでもよくわかった。
シンリンオオカミ_1
シンリンオオカミ_2
シンリンオオカミ_3
レッサーパンダ舎
レッサーパンダ
ものすごく可愛い顔立ちだ。惚れてしまいそうなほどだった。寒さに強い動物らしく、盛んに激しく動き回っていた。
レッサーパンダ_1
レッサーパンダ_2
レッサーパンダ_3
レッサーパンダ_4
レッサーパンダ_5
もうじゅう館
エゾヒグマ
メスの『とんこ』。えぞひぐまは、道内の陸上哺乳類では最大だそうだ。比較対照するものがなく、大きさはわかりにくいと思うが、かなりの大きさだ。こいつと山中で遭遇したら、万事休すだろうなあ。ツキノワグマのようにはいかなさそうだ。
エゾヒグマ_1
エゾヒグマ_2
エゾヒグマ_3
エゾヒグマ_4
ほっきょくぐま館
ホッキョクグマ
時ならぬ大雪と氷点下の冷え込みに、ペンギンとともに一番喜んだのではなかろうか。夏バテ気味の上野動物園のシロクマさんしか見たことがなかったので、新鮮に映った。それにしても堂々たる巨体だ。
ホッキョクグマ_1
ホッキョクグマ_2
ホッキョクグマ_3
ホッキョクグマ_4
ホッキョクグマ_5
ホッキョクグマ_6
ホッキョクグマ_7
ホッキョクグマ_8
ホッキョクグマ_9
ホッキョクグマ_10
ホッキョクグマ_11
ホッキョクグマ_12

 

1泊2日の超高速北海道観光(1)

1泊2日の超高速北海道観光(1)
10月24日の朝早く羽田を飛び立ち、1日目に旭山動物園、美瑛、富良野と見て回り、小樽に宿泊。翌日は小樽市内観光と札幌市内観光という超ハードスケジュールの旅。帰りの時間まで確認していなかったが、かなり遅い便で、延着もあり、大変な道中に。自宅に帰り着いたときには日付が変わっていて、結局は1泊3日の旅と相成った。
初日は大雪で、大変な目にあった。その様子を取り上げようとしたら、PC操作の失敗から、飛行機の窓からの画像と、旭山動物園の画像の殆ど大部分が消えてしまった。…と思ったら、画像番号が一巡していたのだった。フリーソフトの表示順を適切に指定していなかっただけだった。番号順を日付順に修正して、普通に見ることができるようになった。やれやれ。


行きの飛行機
羽田
羽田_1
羽田_2
機中で
ツアーの座席で窓際の席があてがわれたのは実に久しぶり
機中で_1
機中で_2
離陸した
離陸した_1
離陸した_2
離陸した_3
離陸した_4
離陸した_5
離陸した_6
かつての勤務先がはっきり見えた。レインボーブリッジがきれいだ。
離陸した_7
離陸した_8
離陸した_9
会津磐梯山と猪苗代湖、裏磐梯辺りかな?
離陸した_10
下から上に向かって、秋元湖、小野川湖、桧原湖かな?画面中央のやや右寄りの雲の下が、五色沼かな?
離陸した_11
早くも北海道上空
離陸した_12
新千歳空港
離陸した_13
離陸した_14
離陸した_15

旭山動物園(1)
下車してすぐの様子
最初はそんなにすごい雪ではなかった。但し、凄いベタ雪が間断なく降り続く。カメラとレンズとがイカれてしまわないか心配になってきた。
下車してすぐの様子_1
下車してすぐの様子_2
下車してすぐの様子_3
下車してすぐの様子_4
北海道産動物舎
彼ら彼女らは、寒さには強いのかなあ。もっと多くの種類の動物がいたが、金網に着雪し、よく見えない。詰まり、すべての鳥獣を撮ることはができなかった。残念。
こういう悪天候時には、EOS 7D mark IIとレンズ交換の必要がない高倍率レンズとの組み合わせが役立つと再認識した。

キタキツネ
キタキツネ
エゾタヌキ
エゾタヌキ_1
エゾタヌキ_2
エゾタヌキ_3
オジロワシ
尾羽が白いかまでは確認できなかった。時間との勝負という感じになってきたので。
オジロワシ_1
オジロワシ_2
コノハズク
コノハズク_1
コノハズク_2
コノハズク_3
コノハズク_4
エゾフクロウ
エゾフクロウ_1
エゾフクロウ_2
ワシミミズク
ワシミミズク_1
ワシミミズク_2
金網がこんなふうになってしまい、見づらいなんてものでなかった。それで撮影を断念したものが少なくなかった。
ワシミミズク_3

 

北鎌倉駅から鎌倉駅まで歩く(9)

英勝寺(3)
姫御殿跡の竹林
維新までは代々水戸家の姫が住持を務めたそうだ。その御殿跡がこの竹林。今は昔の話になってしまった。
姫御殿跡の竹林_1
姫御殿跡の竹林_2
姫御殿跡の竹林_3
姫御殿跡の竹林_4
創建にあたっては、徳川頼房の娘小良姫を7歳の時に玉峯清因と名付け得度させ、これを門主に迎え開山とした。英勝院尼は寛永19年(1642年)没し、英勝寺裏山に葬られた。寛永14年(または15年)に寺領朱印地として池子村(現逗子市池子)420石を与えられたほか、裏山にあたる源氏山(旗立山)も与えられている。
創建の経緯から、その後も代々の住持は水戸家の姫が務め、このため英勝寺は「水戸御殿」や「水戸の尼寺」とも呼ばれた。高貴な姫である住持は人前に出ることはなく、折々の法要は芝増上寺や、鎌倉材木座光明寺の僧が勤めていたという。

総門
いまは通常は開門されることがないようだ。皇族が来られるような特別なときには、当然開門するのかもしれない。
総門_1
総門_2
総門_3
総門_4
総門_5
太田道灌邸旧蹟の石碑
太田道灌邸がどの辺にあったかは定かではなさそうで、おそらくこのあたりだっただろうというところの土地に英勝寺を建てたようだ。
太田道灌邸旧蹟の石碑

寿福寺
北条政子が葉上房栄西(明庵栄西)を開山に招いて創建した由緒ある寺院。鎌倉五山第3位に列せられる。
もともと現在の寿福寺のある付近は、亀ヶ谷と呼ばれる源氏家父祖伝来の地。頼朝の父・源義朝の旧邸もこの地にあった。
総門から参道を進むことができるが、その先の山門からは無情にも通常は非公開。正月などの特別拝観時のみ入ることができるようだ。正月に鎌倉を歩くなどという物好きではないので、中をしみじみと見た経験がない。

総門
総門_1
総門_2
美しい石畳の参道
美しい石畳の参道
山門と仏殿とが見えるのだが、進むことができるのはここまで
山門と仏殿とが見えるのだが、進むことができるのはここまで_1
山門と仏殿とが見えるのだが、進むことができるのはここまで_2
山門から覗いた様子
山門から覗いた様子_1
山門から覗いた様子_2
山門から覗いた様子_3

これではあまりに寂しいので、前回2014.09.03往訪時を写真を再掲する。

総門から山門まで
2014_09_03_1
2014_09_03_2
2014_09_03_3
2014_09_03_4
2014_09_03_5
北条政子のお墓
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実朝・政子の墓
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こんな拔け口があった
2014_09_03_11

源頼朝が没した翌年の1200年(正治2年)、妻の北条政子が葉上房栄西(明庵栄西)を開山に招いて創建した。
もともと現在の寿福寺のある付近は、奥州に向かう源頼義が勝利を祈願したといわれる源氏山を背にした、亀ヶ谷と呼ばれる源氏家父祖伝来の地であり、頼朝の父・源義朝の旧邸もこの地にあった。1180年(治承4年)初めて鎌倉入りした頼朝は、ここに館(幕府)を構えようとしたが、すでに岡崎義実が堂宇を建て義朝の菩提を弔っていたことや、土地が狭かったため、当初の計画を変更したといういきさつがある。
創建当時は七堂伽藍を擁し、14の塔頭を有する大寺院で、禅刹として体裁を整えたのは1278年(弘安元年)頃と推定されている。1247年(宝治3年)に火災にあい、1258年(正嘉2年)の火災では一宇を残さぬまで焼失している。これらの復興は、伝実朝墓五輪塔などの存在から、おそらく南北朝時代の頃と思われる。
寿福寺には2世退耕行勇をはじめ、心地覚心、円爾(弁円)、蘭渓道隆、大休正念など、多くの名僧が入寺した。鎌倉の禅宗文化を考える上で、重要な存在の寺院である。


以上で、『北鎌倉駅から鎌倉駅まで歩く』のシリーズは終了です。最後まで、ご覧いただきありがとうございました。

 

北鎌倉駅から鎌倉駅まで歩く(8)

英勝寺(2)
2)山門(附:棟札2枚、扁額2面)
徳川頼房の子・松平頼重が英勝院の一周忌のために1643年に建立したと伝わる。
この山門は、関東大震災で全壊後、資産家の手に渡っていた。平成13(2001)年に英勝寺に買い戻された後、復興工事が行われ、平成23(2011)年5月16日に落慶供養が行われた。山門の部材からは、嬉しいことに、後水尾上皇宸筆の扁額も発見された。落慶供養のタイミングをとらえて、平成25(2013)年に、仏殿・鐘楼・祠堂・唐門(祠堂門)とともに国の重要文化財に指定されている。
徳川頼房の子・松平頼重は、父頼房公が兄義直の尾張徳川家、頼宣の紀州徳川家の前に世継ぎの子をなしてはいけないということで、本来は生まれてこないはずの子だった。ということで、長男でありながら、数奇な運命を辿った。英勝院は将軍・徳川秀忠に対してこの世には存在していないと思われた頼重の帰府を願い、寛永9(1632)年11月には頼重の江戸の水戸藩邸への帰府が実現したという。
という自身に対する最大の恩人、英勝院のために力を尽くしたのだろう。

現在の敷地が狭く、山門を正面からは撮ることができない。買い戻すのに、大変な思いをしたようだ。
2)山門(附:棟札2枚、扁額2面)_1
2)山門(附:棟札2枚、扁額2面)_2
2)山門(附:棟札2枚、扁額2面)_3
2)山門(附:棟札2枚、扁額2面)_4
2)山門(附:棟札2枚、扁額2面)_5
後水尾上皇宸筆の扁額
2)山門(附:棟札2枚、扁額2面)_6
裏側からは比較的容易に撮ることができる
2)山門(附:棟札2枚、扁額2面)_7
徳川頼房の子・松平頼重が英勝院の一周忌のために1643年に建立したと伝わっている。1923年の関東大震災で全壊したが、全ての部材が資産家に買い取られて私有地に再建された。その後、約80年を経た2001年に英勝寺が買い戻し、資金面等多くの人々の協力を得て復興工事が行われ、2011年に落慶供養が行われた。2013年には国の重要文化財に指定されている。
3)鐘楼
近世の鎌倉では唯一とされる袴腰形式の鐘楼。徳川幕府の粋のかかったところでよく見かける。確かに、鎌倉ではこの形式の鐘楼は他に見たことがないなあ。梵鐘は寛永20年の林羅山撰文の銘を持つそうだ。許可を得て近くで見ない限りわからないのだろうなあ。梵鐘の方は、林羅山先生の力を以ってしても国指定の重要文化財からは漏れたのかな。
3)鐘楼_1
3)鐘楼_2
3)鐘楼_3
4)祠堂(附:英勝院墓)
内外は日光東照宮を思わせる鮮やかな彩色装飾が施されている。それだけに、安っぽいプレハブの鞘堂に覆われているのが残念でならない。何とかならないものだろうか。これを建立した徳川光圀公も残念がっているのではなかろうか。
4)祠堂(附:英勝院墓)_1
4)祠堂(附:英勝院墓)_2
鞘堂の中には、開基英勝院の墓廟である祠堂がある。華麗な色彩装飾が施されている。祠堂は、英勝院の位牌を安置する堂。背後には、英勝院と開山玉峯清因の墓がある。徳川光圀によって建てられもので、完成の折には光圀も来訪した。
祠堂を説明しているHPへjump
5)祠堂門
祠堂と共に建てられたと考えられる。欄間には精巧な牡丹等の透彫りが施されている。
5)祠堂門_1
5)祠堂門_2
英勝寺の唐門(祠堂門)は、開基英勝院の墓廟である祠堂への門。ボタンの彫刻が施され、江戸時代の高度な技術をみることができる。
6)木造阿弥陀如来及両脇侍像龕(りょうきょうじぞうがん)〈鎌倉国宝館に寄託〉
蒔絵の厨子に納められている仏像で、10世紀末~11世紀初め頃の作と考えられている。日本製作の檀龕仏(だんがんぶつ)の初期の作例ということで、国から重要文化財に指定されている。
庭の花など
庭の花など_1
これは『ミニ柿』だそうだ。直径3cmほどの極めて小さな実。結構注目の新フルーツだとか
庭の花など_2
庭の花など_3

 

北鎌倉駅から鎌倉駅まで歩く(7)

英勝寺(1)
扇ガ谷にある浄土宗の寺院であり、現在、鎌倉唯一の尼寺。山号は東光山。寺域は、開基英勝院尼の祖先であり、扇谷上杉家の家宰であった太田道灌邸跡地とされる。
今まで見てきた寺院と異なり、この寺は、江戸初期の建立。開基の英勝院尼は、徳川家康に仕え『戦には必ず勝利をもたらした』ので『お勝の方』と呼ばれ、家康の命により水戸家初代の徳川頼房の養母となった。
水戸徳川家では頼房の長男である頼重(後に高松松平家・讃岐高松藩主)、三男・長(後の水戸藩主・光圀)がいて、頼重は京都の慈済院へ入っていた。『讃岐高松松平家譜』に拠れば、英勝院は将軍・徳川秀忠に対して頼重の帰府を願い、寛永9(1632)年11月には頼重の江戸の水戸藩邸への帰府が実現したという。さらに、寛永11(1634)年5月9日には水戸徳川家の世子となった幼い光圀を伴い、新将軍・家光への謁見を行っている。
このように、水戸徳川家をことあるごとに引き立てて回り、目出たくも御三家に列せられるようになったわけだ。大恩人であった『お勝の方』の英勝院尼の大恩に報いるべく創建したのが、英勝寺だ。当初英勝院が建立し、これを徳川頼房が現在の形に改築したものと考えられている。

東国花の寺百ヶ寺の一ヶ寺でもある。花もきれいだ。

国指定の重要文化財は、以下の通り。この内、鎌倉国宝館に寄託中の木造阿弥陀如来及両脇侍像龕を除くものを中心に見ていこう。
1)仏殿(附:棟札4枚、扁額1面、梁牌2枚)
2)山門(附:棟札2枚、扁額2面)
3)鐘楼
4)祠堂(附:英勝院墓)
5)祠堂門
6)木造阿弥陀如来及両脇侍像龕(もくぞう あみだにょらい・りょうきょうじぞうがん)〈鎌倉国宝館に寄託〉


1)仏殿(国指定重要文化財)
1636年(寛永13年)に建てられた禅宗様方三間裳階付の建物。円覚寺舎利殿(旧太平寺仏殿)や、旧東慶寺仏殿(現三渓園)を参考にしているともいわれているが、両仏殿に見られるような屋根の反り上がりはなくすっきりとした直線のもの。その意味では独特の意匠だ。
外観
扁額も附指定になっているが、経年で黒ずんでしまい肉眼では見えにくい。拡大したら、『寶珠殿』と書かれてあった。曼殊院良恕法親王の記号だそうだ。それで、『寶珠殿』とも称されるのか。この名前を賜るのは英勝院尼にとっても身に余る栄誉だったことだろう。
外観_1
外観_2
外観_3
本尊
阿弥陀三尊立像。徳川三代将軍家光の寄進で運慶作といわれる。神々しいお顔に驚かされる。向かって右が観音菩薩。左には勢至菩薩がある。
阿弥陀如来立像は美しき光り輝いている。気品のあるお顔だ。螺髪は九品仏浄真寺の像と違って落ち着いた色になっている。
本尊_1
見事な堂内の装飾ぶりだ
本尊_2
阿弥陀如来にも引けを取らないお顔だ
本尊_3
蟇股に彫られた干支
軒下には、仏殿では珍しい十二支の装飾彫刻があるが、そのうちのいくつかを取り上げる。なかなかに迫力がある。

蟇股に彫られた干支_1

蟇股に彫られた干支_2

蟇股に彫られた干支_3

蟇股に彫られた干支_4

蟇股に彫られた干支_5

蟇股に彫られた干支_6
こんな風に飾られている。一方に三つの干支。四方あわせて十二支になる。
蟇股に彫られた干支_7
蟇股に彫られた干支_8

方三間、裳階付の禅宗様仏堂。屋根は寄棟造、瓦棒銅板葺き。棟札には寛永13年(1636年)に英勝院が建立とあるが、殿内梁牌には「寛永二十年八月 正三位権中納言源朝臣頼房敬立」の銘があり、当初英勝院が建立し、これを徳川頼房が現在の形に改築したものと考えられる。扁額は後陽成天皇の弟である曼殊院良恕法親王の揮毫。粽(ちまき)付きの円柱、貫(ぬき)の多用、詰組の組物、桟唐戸、花頭窓、石敷きの床など本格的な禅宗様になる。ただし、屋根の隅棟や軒先の線に反りがなく、屋根の形を直線のみで構成するのは独特の意匠である。軒下の蟇股は十二支の彫刻で飾る。堂内は身舎小壁に瑞鳥、天井に迦陵頻伽の彩絵を施すほか、水戸徳川家の三つ葉葵、太田家の桔梗などの装飾が施されている。

 

北鎌倉駅から鎌倉駅まで歩く(6)

海蔵寺
建長5(1253年)年に鎌倉幕府六代将軍の宗尊親王の命によって建立された寺院。歴史に疎い私めは、4代目以降の将軍はお飾りだが、公家や皇族が就任していたことを認識していなかった。六代将軍の宗尊親王もその一人だったが、執権の北条氏にいいようにあしらわれても、ある程度の筋を通したのだろうか?
また、室町時代の応永元年(1394)になって、関東菅領・足利氏満の命により、執事の山内上杉憲定が再興したのではなく空外和尚を開山として創建したという説もあるようだ。真偽の程は私にはわからない。
ともかくも非常に美しい寺院だ。時間があれば、ぜひ一度拝観されることをお勧めしたい。

山門
実に古い門のようだ
山門_1
山門_2
山門_3
山門_4
四脚門。修理時に台輪(柱上に渡す水平材)から応仁2(1468)年の墨書が発見されたが、現在の門は大部分の材が江戸時代のものとなっているそうだ。
山門_5
山門_6
本堂
見た瞬間に魅入られた。それ程美しいフォルムだ。
本堂_1
本堂_2
書の衝立が置かれてあった。達筆すぎて読むことができない。奥の庭が見えているが、立入禁止になっている。残念だ。
本堂_3
庫裡
天明5(1785)年の建立だそうだ。231年前の建物だ。本堂ではなく、庫裡のほうが茅葺きのまま残っているのは、ちょっと意外で驚いた。
庫裡
仏殿(薬師堂)
中央に本尊の薬師如来坐像が安置され、その両脇に日光菩薩像と月光菩薩像、さらにその脇には十二神将像が並んでいる。堂は安永6(1777)年または同7年に浄智寺から移築したものと伝えられる。天正5(1577)年の棟札が残るが、移築時に大幅な修理が加えられているそうだ。いまはそれがあると文化財指定が難しいようで、ちょっと残念なことだ。今から239年前に既に築後200年を経過している仏殿を移築したのだ。大幅な修理はやむを得ないところかもしれない。
浄智寺の曇華殿と感じがそっくり。浄智寺の伝統なのかと思った。
本尊薬師如来坐像の胎内には、源翁和尚(空外)が赤児の泣き声を頼りに土中から掘り出したと伝える仏面を納めていて、その伝説から啼薬師(なきやくし)、児護薬師(こもりやくし)と通称するそうだ。

仏殿(薬師堂)_1
仏殿(薬師堂)_2
仏殿(薬師堂)_3
仏殿(薬師堂)_4
仏殿(薬師堂)_5
美しい庭と草花
東国花の寺百ヶ寺の一ヶ寺。お庭が整備され、花さんがきれいに咲いていた。
美しい庭と草花_1
美しい庭と草花_2
美しい庭と草花_3
美しい庭と草花_4
美しい庭と草花_5
鐘楼
立派な鐘楼があるのにびっくり
鐘楼
通用門かな?
通用門かな?_1
通用門かな?_2
底脱(そこぬけ)ノ井
鎌倉十井(じっせい)の一つ。傍らに立つ説明板には、安達泰盛の娘千代能が『千代能がいただく桶の底脱けて、水たまらねば月もやどらず』とうたったことが由来とあった。もしくは、上杉家の尼が『賎の女が戴く桶の底ぬけてひた身にかかる有明の月』と詠んだことによるともいわれる。
底脱(そこぬけ)ノ井_1
底脱(そこぬけ)ノ井_2
十六ノ井
摩訶不思議な世界に迷い込んだような気がした。奥の正面には観音菩薩立像が祀られているのが何とか見えた。その左手の窪みには、阿弥陀三尊来迎図が彫られた嘉元四(1306)年の銘のある板碑がはめられてあったが、現在は鎌倉国宝館に寄託しているそうだ。その板碑があることで、鎌倉幕府六代将軍の宗尊親王の命によって建立された寺院であると私は考えたい。が、運搬可能なものだけに、論拠としては弱いかなあ。
十六ノ井_1
十六ノ井_2
十六ノ井_3
十六ノ井_4
十六ノ井_5
十六ノ井_6
十六ノ井_7
十六ノ井_8
駐車場
いくつもあった塔頭の名残だろうか。巨大なやぐらがあったのに驚いた。
駐車場

海蔵寺はこぢんまりとしたお寺だが、四季の草花が絶えない花寺として人気がある。特に4月に見頃を迎える「カイドウ」と、9月に見頃を迎える「ハギ」が有名で、この時季は多くの観光客が訪れる。いつ訪れても季節の花に出会うことができる。
海蔵寺は臨済宗建長寺派の寺である。この寺は、建長五年(1253)に鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の命によって、藤原仲能(道知禅師)が願主となって、七堂伽藍の大寺を建立したが元弘三年(1333)5月、鎌倉滅亡の際の兵火によって全焼してしまった。
室町時代の応永元年(1394)になって、関東菅領・足利氏満の命により執事の山内上杉憲定が再興。薬師如来を本尊とする大寺で盛時には谷戸一帯に塔頭が立ち並ぶ程であったが、今はことごとく廃絶してしまった。
本尊は薬師如来(胎内に啼薬師を納めている)。


海蔵寺から英勝寺に向かう道中
海藏寺はかなり奥まったところにある。戻るときも々分岐点まで戻らなければならない。静かな道だ。
綺麗な花さんだ
綺麗な花さんだ_1
綺麗な花さんだ_2
武田流弓馬道教場
う~~ん、ここにあったのか。此処でできる稽古って何だろうか。回転する木馬の上から弓を射る練習かなあ。
武田流弓馬道教場

 

北鎌倉駅から鎌倉駅まで歩く(5)

薬王寺
こちらには、駿河大納言徳川忠長公の供養塔がある。記憶力の良い方は、東慶寺の書院が徳川忠長公の旧宅を移築したものだと記述したのを覚えておられるかもしれない。その徳川忠長公の正室であった松孝院の援助で、勢いを失っていた当時の夜光寺を日達が再建したのか。
徳川に嫁いだ織田の姫様も、悲運に泣いたようだ。この世は思うに任せぬものだとつくづく思わさせられた。

また、松山城主だった蒲生忠知公の奥方と息女のお墓もこの寺にあったのか。悪いことをしたわけではなかったが、嫡男の早世と一縷の望みを掛けた末子が娘であったことで、お家断絶か。これまた、身につまされる話だ。
ご本尊を拝謁したかったが、あいにく葬儀の準備中で目の前に棺が置かれてあった。ウロウロするのはまずいと判断し、ご本尊を拝謁せずに辞去した。その御本尊は、日蓮聖人坐像。第11代将軍徳川家斉の命によってつくられたもの。現在の東京都豊島区目白にあった鼠山の感應寺に祀られていたもので、像内には将軍の遺骨が納められている。その後、感應寺は天保の改革で廃寺処分となり、祖師像は薬王寺に安置されたとのことだ。そのくらい、江戸時代には格式のある寺院だったようだ。
こんな感じに見えてくる
歴史ある寺院のイメージからはちょっと意外にも思える佇まいだ
こんな感じに見えてくる_1
こんな感じに見えてくる_2
こんな感じに見えてくる_3
こんな感じに見えてくる_4
こんな感じに見えてくる_5
こんな感じに見えてくる_7
駿河大納言徳川忠長公の供養塔
誰の目にも入る位置にあることはあるが、家光と次期将軍の座を争った御仁の供養塔がこんなものとは。その昔は、五重塔(徳川忠長供養塔)が建てられていたのだが、享保5(1720)年の火災で焼失してしまい、この供養塔のみが残るだけか。諸行無常。
駿河大納言徳川忠長公の供養塔
四国の松山城主蒲生忠知公の奥方と息女のお墓
あの会津の名君蒲生氏郷公の孫である蒲生忠知公の奥方(松壽院)と息女(梅嶺院)のお墓か。松壽院は、磐城平藩主の内藤左馬助政長の七女。跡継ぎになる嫡男を早世させてしまい、忠知公急死の際は懐妊中で、男児であれば蒲生家再興を約束されたが女児を出産。無念にも蒲生家断絶となる。松壽院の出自である内藤家の墓は、材木座の光明寺にある。陸奥磐城平藩の第3代藩主内藤義概公のときに霊厳寺から移したそうだ。叔母に当たる松壽院を見守る意味合いがあったのだろうか?
う~~ん、福島の閨閥も悲しい運命を辿ったんだなあ。蒲生家断絶の経緯をこんなところで確認するとは、…。

四国の松山城主蒲生忠知公の奥方と息女のお墓_1
四国の松山城主蒲生忠知公の奥方と息女のお墓_2
観音堂
元は釈迦堂で、この寺の見どころの一つということだが、私にはどこが見どころなのかよくわからなかった
釈迦堂_1
釈迦堂_2
除夜の鐘が響く梵鐘と鐘楼
鐘つき後、祈祷が受けられるのだそうだ。
除夜の鐘が響く梵鐘と鐘楼
かつては、梅嶺山夜光寺と称し、真言宗の寺院であった。永仁元(1293)、日蓮の弟子日像により、日蓮宗に改宗した。寛永年間(1624年-1645年)、徳川忠長室松孝院の援助で不受不施派の僧日達が再建し、大乗山薬王寺と改称した。1720年(享保5年)の火災で、五重塔(徳川忠長供養塔)など諸堂を焼失する。1842年(天保13年)天保の改革にて廃寺となった感応寺の祖師像を移設する。
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松孝院殿が夫の不遇な人生、悲惨な最後に悲歎やるかたなく、時の当山第三世恵眼院日珖上人に供養を懇願。
追善供養のために莫大な金子と広大な土地を寄進し、三千坪の境内に七堂伽藍を造営したが、享保5年(1720年)に焼失。


岩船地蔵堂
こちらも悲しい話だ。権力を我が手中に収めたいという頼朝の気持ちは分からぬでもないが、そのためには弟も娘婿も殺害してしまう異常さ。あまりに多くの恨みを買い、永福寺をそういった人たちの霊の鎮魂のために自身が建てたにもかかわらず、怖くて立ち寄ることができなかったとか。どうにも好きになれない人物だ。
大姫は一途な女性だったようだ。

岩船地蔵堂_1
岩船地蔵堂_2
岩船地蔵堂_3
扇ガ谷の、昔は亀ヶ谷と呼ばれていた地に頼朝の娘、大姫の供養堂があります。現在は海蔵寺の管理となっています。源頼朝の人質となっていた木曽義仲の子・義高に恋した大姫でしたが、木曾義仲は父・頼朝に討たれ、人質の義高もまた殺されます。大姫は、母・北条政子の必死の努力にもかかわらず、深い悲しみから20歳でこの世を去ってしまいます。木造と石造ひとつずつの地蔵尊が祀られており、見られるのは木造のみです。
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大姫の婿となった義高(清水冠者)は、木曽義仲の長男。
1183年(寿永2年)に挙兵した木曽義仲は、源頼朝と対立したが、長男義高を人質として差し出すことで和睦した。義高は、名目上、大姫の婿ということで鎌倉に送られてきている。
大姫も義高に懐き幸せに暮らしていたが、1184年(元暦元年)正月、頼朝の命によって上洛した源義経らに父義仲が討たれた。頼朝は子の義高も殺そうとしたが、それを察知した大姫は、義高に女装させて逃がしたといわれている。
しかし、義高は、頼朝が派遣した堀親家によって、武蔵国入間川で殺害された。常楽寺裏山の木曽塚は、義高の墓と伝えられている。

 

北鎌倉駅から鎌倉駅まで歩く(4)

亀ヶ谷坂切通

鎌倉七口の一つに数えられる亀ヶ谷坂切通。江戸時代、水戸光圀編纂による『新編鎌倉志』により七切通し(鎌倉七口)と名付けられたものが、現在の鎌倉七口。
その鎌倉七口の内の『亀ヶ谷坂切通』。この切通は、鎌倉時代にもあったのだろうか。それが今ひとつはっきりしない。はっきりしているのは、江戸初期には存在していたということだけ。
途中の鎌倉市教育委員会の説明板の表記によれば、13世紀中頃には切り通しとして整備されていたらしいとのこと。鎌倉時代は、1185年頃から1333年までとされる。説明板の表記通りだとすれば、残り100年ほどは鎌倉時代に切り通しが存在したことになる。
治承4(1180)年10月6日、源頼朝が安房から大軍を引き連れ鎌倉入りしたが、北から(比較的容易に)鎌倉へ入る道は此処だけだったという。頼朝はこの道を通って鎌倉へ入った。坂を下り、左にある寿福寺を通り由比ガ浜の八幡(元八幡)に向かったそうだ。目の前が海の土地でも、なかなか船を寄せられず、稲村ヶ崎が新田義貞の鎌倉攻略に際して漸く見つけた船を近くまで寄せることができる場所だったことからすると、頼朝の辿った道も首肯できるのかもしれない。そのときは切通しではなく、完全な山道だったのかなあ。
おそらく戦力上の理由から鎌倉時代の中頃に開削して切通しにしたのだろう。それ以外に、江戸初期まで鎌倉を変えるパワーを持った勢力など存在しなかったのだから、間違いないことだと思う。
いまは、歩きやすい舗装道路になり、側面の崖などに往時の切通しの跡をみることが出来る程度に留まる。わざわざ、この切通しを見るためだけに通る価値はないように思う。この先に見ておきたいものがいくつかあるから通るという人が殆どのようだ。


略図
薬王寺、岩船地蔵尊、海蔵寺、英勝寺、寿福寺を見ながら一気に鎌倉駅に向かって真南に進む最短コースだ。今回は最短コースだからではなく、名前をあげた寺々を見て回りたかったので、この切通しを歩いた。
略図
今回は、山ノ内側から扇ガ谷方面に向かう
長寿寺の門を出て、のんびりと次なる行き先である薬王寺を目指す。その辺りが扇ガ谷の一部になる。『亀ヶ谷』は現在の『扇ヶ谷』の古称だそうだ。吾妻鏡によれば源頼朝の父義朝の『亀ヶ谷』の旧邸が現在の寿福寺になったとある。
今回は、山ノ内側から扇ガ谷方面に向かう_1
今回は、山ノ内側から扇ガ谷方面に向かう_2
『この先危険につき通行注意』と書かれていてもなあ。どういう風に注意するのだろうか。行政側のエクスキューズに過ぎないなあ。
今回は、山ノ内側から扇ガ谷方面に向かう_3
今回は、山ノ内側から扇ガ谷方面に向かう_4
扇ガ谷方面から元気な子どもたちが勢い良く駆け下りてきた。最近、足腰の不調に加え、気管支の調子も下り気味で、ゆっくりのんびり歩くしかない私とは大違いだ。
今回は、山ノ内側から扇ガ谷方面に向かう_5
途中の様子
こんなものもあった。一種の六地蔵かなあ。地獄道を救う檀陀(だんだ)、餓鬼道を救う宝珠、畜生道を救う宝印、修羅道を救う持地、人道を救う除蓋障、天道を救う日光の各地蔵ということになろうが、顔の破損がひどい。これも廃仏毀釈の嵐に巻き込まれたものだろうか。
途中の様子_1
途中の様子_2
途中の様子_3
途中の様子_4
途中の様子_5
よくよく見ると脇にそれる私道もあるんだ。私の目の上2mほど。こんなところには住みたくないなあ。
途中の様子_6
あそこが一番高い地点かな。車止めがあるようだ。生活道路化しているとはいっても、完全な道路にはしていないんだ。そこで踏みとどまるのも一つの見識なのだろう。
途中の様子_7
途中の様子_8
下り坂に入った
少し下った辺りかな。これまた、ちょっときつい下り坂だ。それでも亀が引き返すほどの旧坂ではない。そうだったのは、切り通しが開削される前の山道時代のことかな。
下り坂に入った_1
下り坂に入った_2
鎌倉市の説明板
下り坂に入った_2_2
さらに少し先には、階段が。何があるのか、ちょっと上がって確認してみたかったが、私道のようで、…。
下り坂に入った_3
下り坂に入った_4
突如としてマンションの入口が。この辺り一帯は勝縁寺(坂中山正円寺、坂中観音堂などとも称されている)という寺院があった谷だとのことだ。
下り坂に入った_5
信じられないことだが、畑があった。相続税を物納した土地を市民農園にしているのかなあ。この辺で『亀ヶ谷坂切通』は事実上おしまい。このすぐ先には薬王寺がある。
下り坂に入った_6

 

北鎌倉駅から鎌倉駅まで歩く(3)

長寿寺(3)
観音堂
観音堂は、大正11年、経済的事情から売りに出されていた奈良の名刹円成寺の多宝塔を移築したもの。室町時代創建という多宝塔の第一層を改造移築した建物だそうだ。本来ならば、国指定の重要文化財になってもおかしくないものだろうが、大規模な改造を施したらしく、文化財指定はおぼつかないようだ。とはいうものの、見事な観音堂だ。長寿寺では新本堂が建てられるまで本堂として使用していた。
扉の文様は、褪色していて判然としないんが、天女が描かれていたようだ。

途中からの様子
途中からの様子
お堂に近づいていく
お堂に近づいていく_1
お堂に近づいていく_2
観音堂の全容
漸く障害物がなくなった。これが室町時代創建の多宝塔の第一層部分だったとは。もともとから観音堂だったようにみえる。
観音堂の全容
堂内
聖観世音菩薩
平成18年に本堂が新築されるまでは、こちらが本堂で、この聖観世音菩薩がご本尊だったそうだ。現在、本堂の新しい御本尊と共に祀られている開山古先印元像と足利尊氏像も、以前はこちらに祀られていた。聖観世音菩薩は、中国の元(日本では鎌倉時代から南北朝時代)の時代のものといわれ、昭和5年に大連から移されたものだそうだ。
聖観世音菩薩_1
聖観世音菩薩_2
こうしてみると、格天井の模様がよく見える
格天井の模様がよく見える
供養塔
境内奥にある石段を上るとやぐらがあり、足利尊氏の遺髪が納められた五輪塔が建てられている。尊氏の三男である基氏が父の菩提を弔うために、尊氏が半生を過ごした鎌倉に建てたものとされている。
石段
石段
やぐらの前にて
足利尊氏の遺髪を納めたといわれる宝篋印塔が中心にある
やぐらの前にて_1
やぐらの前にて_2
尊氏の遺髪があると書かれてあるようにみえる石碑
やぐらの前にて_3
前庭のあたりを見下ろす
紅葉の時期はさぞかし美しいことだろう
前庭のあたりを見下ろす
通路
関係者のみの通路
関係者のみの通路
拝観者の通路
拝観者の通路
裏庭
書院などから見た裏庭を外の拝観者用通路からみた。書院から見たのとはまた違った雰囲気があった。
裏庭_1
裏庭_2
裏庭_3
裏庭_4
裏庭_5
裏庭_6
裏庭_7
辞去する前に
前庭をもう一度眺める。これで紅葉が彩りを添えたら最高だろうと思った。勝負は12月の第1週だな。
見る位置によって異なった印象を受ける。此処は地面なので本堂の濡れ縁よりも低い位置になる。
辞去する前に_1
亀ヶ谷坂切り通しへ出る門
辞去する前に_2

 

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