散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

北鎌倉駅から鎌倉駅まで歩く(2)

長寿寺(2)
玄関奥の部屋からの方丈、裏庭、書院などの眺め
特段飾り立てているわけではなかろうが、非常に綺麗。これからあちら側を細かく見ることができるのは楽しみだ。
玄関奥の部屋からの方丈、裏庭、書院などの眺め
方丈
方丈は禅の世界そのもののようだ。さりげない宗教的なアプローチなのだろう。
書など読めないと思ってしみじみと見なかったが、末尾に『…するものには 道は永遠に明るい』などと書いてあるようだ。もっと正面からも撮っておくのだった。
前庭の観音堂近くから見た外観
ごく普通の建物だが、味がある感じに見える
方丈_0
以下はすべて建物内部の様子
方丈_1
方丈_2
方丈_3
寄贈品の瓢箪の灯り
とても美しい
方丈_4
方丈_5
且坐喫茶(しゃざきっさ)
『且(しばら)く坐して茶を喫せよ』か。字そのものは、誰でも同じかもしれないが、判読できた。だが、最初の字を何と読むのかわからなかった。
方丈_6
畳に寝転がって寛ぐような無作法が許される場所ではなさそうだった。小さな物入れの引き戸は、どちらも幾星霜を経てきただろう貫禄があった。
方丈_7
方丈_8
漁夫(父)生涯竹一竿
『山僧活計茶三畝 漁夫生涯竿一本』の句から来たものかな…僧侶である私は、茶三畝のみがあれば生活でき、漁夫も生涯に竿一本があれば生活できる
道元禅師の言葉なのだろうか?

方丈_9
方丈_10
寿限無と絆
方丈_11
方丈_12
方丈からは観音堂がよく見える
方丈_13
方丈_14
方丈_15
建長寺の塔頭だけあって、これが飾ってあるんだ。う~~ん。
方丈_16
書院
大正時代に建てられた書院というキャプションが付けられたものが散見されたが、それは方丈のことではないかと思う。新しくとも、見事な建物だと思う。
書院_1
書院_2
書院_3
松無古今色 竹有上下節
『松に古今の色無し 竹に上下の節あり』の禅語だそうだ。読むことができたのは、竹の字までだった。解釈は私には難しくて、ググッて調べた。
書院_4
書院_5
書院の庭
白砂に石が配置され美しい。禅様式の庭なのかなあ。
書院の庭_1
書院の庭_2
中庭
せめてこれくらいの庭をつくってみたいものだ。とは言うものの、こんな庭に仕上げるのは、…。
中庭_1
中庭_2

 

北鎌倉駅から鎌倉駅まで歩く(1)

9月末に北鎌倉界隈を歩いた。今回はその続編で、10月半ばに北鎌倉駅から鎌倉駅まで歩いてみた。途中立ち寄ったりしたのは、長寿寺、亀ヶ谷坂切通し、薬王寺、英勝寺、寿福寺。鎌倉五山の第3位の寿福寺がやや名が通る程度で、比較的マイナーな行き先だったかもしれない。その分、のんびりゆっくり回ることができた。
10時頃から歩き始め、鎌倉駅までで13時を過ぎていた。空腹に勝てず、鎌倉駅周辺の飲食店は高くて混むので、この日の散歩はそこまでとした。


長寿寺(1)
鎌倉公方の足利基氏が父の足利尊氏供養のため、開山に古先印元を迎えて建てたといわれる。尊氏は延文三(1358)年に没しているが、建立もこの年とされている。一方、建長寺の文書のなかに、建武三(1338)年、御教書を長寿寺に下付し、長寿寺を諸山に列したとあるそうだ。このことを重視すれば、一挙に創立年は20年も遡ることになる。一体どちらが正しいのだろうか?
長寿寺の名前は、尊氏の法名が長寿寺殿といわれたことからとされている。鎌倉時代の要人は法名を有し、持仏堂を建てたりして、それでお互いに呼びあっていたようだ。例えば、北条実時は『称名寺殿』というふうに。そのことからすれば、足利尊氏も存命中から少なくとも持仏堂くらいは所有していたのだと思うがどうだろうか。

境内略図
境内略図
山門
良かった。この日は確かに開門していた。桁行一間 (約 2.6 m) 、梁間二間(各約 1.2 m) の四脚門。 関東大震災前からあったような貫禄をしているなと思ったら、大当たり。江戸時代後期 (18世紀後期) のもので、禅宗様だそうだ。
山門_1
山門_2
前庭
前庭が斯くも美しいことは特筆モノだ。今日ばかりは隙間から覗かなくても大丈夫なんだ。
山門を潜った辺りの景観
本堂が真正面に見える
前庭_1
石畳を少し進んだ辺りの右手
観音堂が見える。これは後でじっくり見ることにしよう。
前庭_2
本堂
2006年に建て替えた比較的新しい建物だが、昔から有るような風格をたたえている。いい感じだなあ。
前庭_3
前庭_4
亀ヶ谷坂切通しに出る門
前庭_5

ボケたレンズではよくわからないかもしれないが見事な苔だ。我が家でも建て替えるまでは和風の小さな庭があった。その苔を維持するのでさえも大変だった。推し量るまでもないことだが、この前庭の丹精のほどが伺える。
前庭_6
本堂と方丈
書院と庫裡とは方丈の左後方に位置する。取り立てて飾り立てている感じはしないのだが、何故か雰囲気の良さが伝わってくる。
前庭_7
この位置から見た観音堂
詳しいことは、近くに行ったときに取り上げる
前庭_8
前庭_9
方丈
見た感じは普通の建物のようだ。多分関東大震災直後に建てられたものだろう。後で建物内を見て回りびっくり。
前庭_10
本堂
瓦には『長寿禅寺』とあった。菩提寺とされる等持院は臨済宗天龍寺派だが、こちらは、臨済宗建長寺派。今でこそ、宗派の派の方が、たもとを分かっているが、宗としては臨済宗。鎌倉武士の流れの矜持だろうか。
玄関
本堂_1
本尊『釈迦如来』
本堂建て直しの際に新たに祀られた像だそうだ。ぼんくらの私が見ても、かなり新しい像であるようにみえる。
本堂_2
足利尊氏像
胎内には尊氏の歯が納められているという。よく出来過ぎという感じがしないでもないが、前回のシリーズで既述したとおり、夢窓疎石の評によれば、尊氏には「戦場での心の強さ」、「敵をも許す慈悲の深さ」、「物を惜しむことのない度量の広さ」という3つの徳があったという。それを考えれば、人物評のままなのかもしれない。
本堂_3
開山の古先印元坐像
いかにも鎌倉時代の禅僧という感じだなあ。諸国のお寺で住職を勤めた後、鎌倉の浄智寺、円覚寺の二十九世、建長寺の 三十七世の住持を勤め、晩年は当寺に隠棲し応安七年(1374年)八十歳で逝くなった僧侶だそうだ。
本堂_4
本堂から見た山門
本堂_5
同じく本堂から見た観音堂
本堂_6
同じく本堂から見た前庭
もう少しレンズが良ければなあ。腕前の問題かなあ。
本堂_7

長寿寺は、神奈川県鎌倉市にある臨済宗建長寺派の寺院。山号は宝亀山のため、正式名称は「宝亀山 長壽寺」である。本尊は観音菩薩。
かつて境内は非公開であったが、近年は春(4月~6月)と秋(10月~11月)の週末(金~日)限定で公開を行っている。
創建年・開基ともに不明であるが、鎌倉公方足利基氏が父尊氏の菩提を弔うために建立したと伝える。境内には足利尊氏の遺髪を埋めたと伝わる五輪塔がある。

 

長井海の手公園 ソレイユの丘(5)

バードショー(3)

3番目にアヒルが登場し、最後にルリコンゴウインコの登場と相成った。ド派手な色彩、かなり大きな体型。見ているものを驚かせる規格外の鳥さんだった。

ルリコンゴウインコ
ド派手な登場
ハリスホークと同様に、自ら飛んでの登場だ。大きいし、むちゃくちゃ派手なカラーリングだし、耳目を集めることは間違いがない。
ド派手な登場_1
ド派手な登場_2
ド派手な登場_3
ド派手な登場_4
ド派手な登場_5
ド派手な登場_6
モノマネ
インコやオウムとなれば、モノマネがつきもの。ということで、この鳥さんにもできるか挑戦に及んだ。『アクア(Aqua)』と発音したようだが、最初は聞き取れなかった。説明されれば、そういうふうに聞こえてくるから不思議だが。
モノマネ_1
モノマネ_2
モノマネ_3
モノマネ_4
モノマネ_5
モノマネ_6
モノマネ_7
こんなに接近しても大丈夫なの?
モノマネ_8
モノマネ_9
正解は『アクア』だよ
モノマネ_10
なかなかユニークな顔のつくりだ
なかなかユニークな顔のつくりだ_1
なかなかユニークな顔のつくりだ_2
なかなかユニークな顔のつくりだ_3
なかなかユニークな顔のつくりだ_4
なかなかユニークな顔のつくりだ_5
なかなかユニークな顔のつくりだ_6
飛ぶよ
飛ぶよ_1
飛ぶよ_2
飛ぶよ_3
飛ぶよ_4
飛ぶよ_5
飛ぶよ_6
もう一度
もう一度_1
もう一度_2
もう一度_3
もう一度_4
もう一度_5
もう一度_6
さらにもう一度
さらにもう一度_1
さらにもう一度_2
さらにもう一度_3
さらにもう一度_4
さらにもう一度_5
さらにもう一度_6
さらにもう一度_7
さらにさらにもう一度
さらにさらにもう一度_1
さらにさらにもう一度_2
さらにさらにもう一度_3
さらにさらにもう一度_4
さらにさらにもう一度_5
さらにさらにもう一度_6
さらにさらにさらにもう一度
さらにさらにさらにもう一度_1
さらにさらにさらにもう一度_2
さらにさらにさらにもう一度_3
さらにさらにさらにもう一度_4
さらにさらにさらにもう一度_5
さらにさらにさらにもう一度_6

以上で、『長井海の手公園 ソレイユの丘』のミニシリーズは終了です。最後までご覧いただきありがとうございました。

 

長井海の手公園 ソレイユの丘(4)

バードショー(2)
次なる出番はハリスホーク。和名はモモアカノスリ。なかなかハンサムな鷹だ。毎週1度見ていた鳥さんなので、とても親近感を覚える。
ハリスホーク
自ら飛んで登場だ
ミミズクより手間いらずかな
自ら飛んで登場だ_1
ズングリムックリに見えたかもしれないが、実際は上述したとおり、スタイルがよく、ハンサムだ。
自ら飛んで登場だ_2
自ら飛んで登場だ_3
自ら飛んで登場だ_4
またも飛翔の様子
飛ぶ気満々。足からぶら下がっているのは、ミミズクと同様に錘だろうか?地面に降りるのかと思いきやお姉さんの腕にひょいと乗った。
またも飛翔の様子_1
またも飛翔の様子_2
またも飛翔の様子_3
またも飛翔の様子_4
またも飛翔の様子_5
お姉さんの方を一生懸命見ていた。褒めてもらいたかったのかなあ。
またも飛翔の様子_6
再びの飛翔
再びの飛翔_1
再びの飛翔_2
再びの飛翔_3
再びの飛翔_4
再びの飛翔_5
再びの飛翔_6
さらにさらに飛ぶ。飛翔の大サービスだ。
再びの飛翔_7
再びの飛翔_8
再びの飛翔_9
再びの飛翔_10
再びの飛翔_11
再びの飛翔_12

まだまだ続くハリスホークの出番。以降は長くなってしまうので省略。

 

長井海の手公園 ソレイユの丘(3)

バードショー(1)
2016年4月から、タカやミミズクによるフライトショー「バードショー」がスタートしたそうだ。漸く昼ご飯にありつけると思ったら、孫娘たちはアナウンスにいち早く反応し、しばらく空腹のまま待つ事になった。当然、私も。

ミミズク
ミミズクが飛ぶ姿を見るのは、今回が初めてだった。欲望は限りなく膨らむもので、本当に何もない状態で飛翔する姿を見てみたくなった。
ミミズクの登場
『羽角』と呼ばれる耳のように見えるものが見えた。間違いなくミミズクのようだ。ワシミミズクのように見えたが、正確には何の種だろうか?
ミミズクの登場_1
ミミズクの登場_2
ミミズクの登場_3
ミミズクの登場_4
首の可動域
フクロウやミミズクは、首の可動域半端じゃなく大きいのだそうだ。そのことを示してくれた。このときは完全に左側を向いた。胴体は動かさずに、首だけでスムーズに動かせるようだ。獲物に異常な気配を感じさせない優れた特性のようだ。
首の可動域_1
このときは、ちょっとわかりづらいがこちら右側を向いていると思う。鼻や嘴を目立たせないようにしているのかなあ。
首の可動域_2
首の可動域_3
漸くこちらを向いてくれた
バードショーの時間帯に慣れたのか、覚醒している様子で、大きな目でこちらを睨んだのには驚いた。
漸くこちらを向いてくれた_1
漸くこちらを向いてくれた_2
漸くこちらを向いてくれた_3
漸くこちらを向いてくれた_4
やっぱりちょっとお眠かな?
漸くこちらを向いてくれた_5
デモ本番
地面に降りたが、再びお姉さんの手に戻る。そしてポーズを決める。
デモ本番_1
デモ本番_2
デモ本番_3
デモ本番_4
デモ本番_5
もう一人のお姉さんに向かって飛び出す。ちょっと油断していて、撮れなかったなあ。もともとあまり高くは飛ばないのか、錘がついていて飛べないのか、どっちなのだろうか?それにしても、飛翔音は本当に小さいのだろう。私の耳には聞こえてこなかった。
デモ本番_6
デモ本番_7
デモ本番_8
デモ本番_9
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デモ本番_11
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デモ本番_18
デモ本番_19
デモ本番_20
デモ本番_21
最後の挨拶
やれやれ。なんとか出番終了だ。そんな感じかな
最後の挨拶_1
最後の挨拶_2

 

長井海の手公園 ソレイユの丘(2)

ポニー乗馬
漸くこういうものにも乗ることができるくらいに成長したようだ。断然のおチビさんたちだったので、心配させられたものだ。
上の孫娘
上の孫娘_1
上の孫娘_2
上の孫娘_3
上の孫娘_4
上の孫娘_5
上の孫娘_6
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上の孫娘_12
上の孫娘_13
下の孫娘
下の孫娘_1
下の孫娘_2
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下の孫娘_4
下の孫娘_5
下の孫娘_6
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下の孫娘_11
下の孫娘_12
下の孫娘_13

 

長井海の手公園 ソレイユの丘(1)

10月16日(日)は、久しぶりの日曜日の好天。皆で連れ立って『ソレイユの丘』に出かけた。行った先で、上の孫娘と下の孫娘とそれぞれのお友達とたまたまであった。全くの偶然だが、首都圏の手軽な行き先として人気のある行き先だったようだ。
それにしても孫娘たちは断然のオチビさんコンビだなあ。


自分たちでの遊びの様子
ボール遊び
ボール遊び_1
ボール遊び_2
ボール遊び_3
ブランコ
どうしてもブランコが大きく見えてしまう
ブランコ_1
ブランコ_2
遊具で楽しむ
遊具で楽しむ_1
遊具で楽しむ_2
遊具で楽しむ_3
遊具で楽しむ_4
遊具で楽しむ_5
遊具で楽しむ_6
遊具で楽しむ_7
遊具で楽しむ_8
遊具で楽しむ_9
遊具で楽しむ_10
遊具で楽しむ_11
遊具で楽しむ_12
移動中
母親と次に行くところの駆け引き中。難しい顔つきは簡単に妥協しないという意志の表明だろうか。
移動中

 

北鎌倉の寺院を見て歩く(13)

東慶寺(2)
季節の花ほか
東国花の寺百箇寺の一つだけあって、春夏秋冬、美しい花に囲まれている。女性の拝観者が圧倒的に多い寺だから、好評なことだろう。
季節の花ほか_1
季節の花ほか_2
季節の花ほか_3
季節の花ほか_4
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イワタバコはこんな花(PDF画像を借用)
季節の花ほか_15
季節の花ほか_16
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季節の花ほか_19

頌徳碑
鈴木大拙の経済的援助をしたといわれる安宅弥吉を顕彰するための碑。これだけの碑を遺してもらったら、安宅弥吉翁も光栄に思ったことだろう。『自安』という熟語には、ちょっとびっくりした。我が故郷に『自安我楽(じゃんがら)念仏踊り』というものが伝承されているが、それと同じ用法のように思えた。
鈴木大拙の縁からだろうか。東慶寺には文化人の墓が多いことでも有名で、檀家の墓地には鈴木大拙のほか、西田幾多郎、岩波茂雄、和辻哲郎、安倍能成、小林秀雄、高木惣吉、田村俊子、真杉静枝、高見順、三枝博音、三上次男、東畑精一、谷川徹三、野上弥生子、前田青邨、 川田順、レジナルド・ブライスらの墓があるそうだ。
頌徳碑
松ヶ岡文庫入口にある「自安」と刻まれた頌徳碑は、鈴木大拙の経済的援助をしたといわれる安宅弥吉を顕彰するため、大拙が建てたもの。安宅弥吉は、大拙と同郷の実業家。碑には「財団法人松ヶ岡文庫設立の基礎は君の援助によるもの」と刻まれている。

はまれぽ『松ヶ岡文庫』紹介記事の頁へjump

用堂女王の墓
兄の護良親王の菩提を弔う為に東慶寺に入り、その後この寺の五世住持となったのか。この方の住持就任以降、東慶寺に箔がついたんだ。
用堂女王の墓_1
用堂女王の墓_2
用堂女王の墓_3
用堂女王の墓_4
用堂女王の墓_5
石碑には「後醍醐天皇皇女」と刻まれていますが、南北朝時代の後醍醐天皇の皇女用堂尼が兄の護良親王の菩提を弔う為に東慶寺に入り、その後当寺の五世住持となっており、以後東慶寺は「松岡御所」と称されることとなったようです。
墓は「やぐら」と呼ばれる横穴式の納骨窟または供養堂の中にありますが、鎌倉時代から室町時代にかけて鎌倉を中心に武士、僧など上流階級の墓として多く造られていたようです。


第五世用堂尼の説明頁にjump

寒雲亭
1788年(天明8年)から翌年にかけて同じ間取りで再建されたものか。それにしても、所有者が転々としているなあ。なお、裏千家の今日庵にも寒雲亭が再建されているとのことだ。経緯からして東慶寺のほうが古そうだ。
寒雲亭
書院と本堂の向かいに茶室・寒雲亭がある。 寒雲亭は千宗旦の遺構で、最初のものは1648年に造られ、裏千家で最も古いお茶室とされる。ただし1788年(天明8年)正月に京都で大火があり、伝来の道具や扁額、襖は持ち出すことができたが、茶室は隣合わせだった表千家・裏千家共にすべて焼失している。従って現在残るものは1788年から翌年にかけて同じ間取りで再建されたものである。東慶寺の寒雲亭は明治時代に京都の裏千家から東京の久松家(元伊予松山藩久松松平家)に移築され、その後、鎌倉材木座の堀越家を経て1960年(昭和35年)に東慶寺に寄進・移築されたものである。千宗旦の「寒雲 元伯七十七歳」の扁額がある。 

寒雲亭の説明頁にjump

山門
丁寧に見送ってくれる感じがした。東慶寺は東慶寺なりに関東大震災後の再建を図ったようだ。
山門_1
山門_2

以上で『北鎌倉の寺院を見て歩く』シリーズはおしまいです。最後までご覧いただきありがとうございました。

 

北鎌倉の寺院を見て歩く(12)

東慶寺(1)
縁切り寺としてあまりにも有名な寺院。その方に興味のある方は、いくらでも解説されているであろうから、そレラの資料を参照されたい。こちらは、散歩の傍ら、ちょっと気になった点を調べる程度に留める。

山門とその近辺
江戸時代には鎌倉街道に面して大門があった。現在の山門は中門で男子禁制の結界だったそうだ。
現在の山門
こちらは浄智寺と違って、関東大震災後の修復に鎌倉石を使用しなかったようだ。百年弱ではこの程度なのが普通なのだろう。
山門とその近辺_1
山門とその近辺_2
山門とその近辺_3
山門とその近辺_4
昔はここに大門があったようだ
山門とその近辺_5
山門近くの花
一重と八重の秋明菊。八重の秋明菊は見たことがなかったが、一重に負けず劣らず美しいものだった。
山門近くの花_1
山門近くの花_2
山門近くの花_3
山門近くの花_4

石碑も幾つか
田村俊子文学碑
他人には絶対に書くことが出来ない内容だ。自分でも、…。さすが激しく己の道を歩んだ女流作家の碑だけあると思った。
田村俊子文学碑
この女作者はいつも おしろひをつけてゐる
この女の書くものは 大がひおしろひの中から うまれてくるのである

四賀光子歌碑
四賀光子歌碑
東慶寺開山覚山尼讃歌
流らふる大悲の海によばふこゑ時をへだててなほたしかなり


鐘楼
関東大震災の際でも寺内で唯一倒壊を免れているのは事実だが、大震災は建築直後のことだ。それだったら持ち堪えたのは当然かもしれない。
鐘楼
茅葺のこの鐘楼は大正5(1916)年に建てられたもので、関東大震災の際でも寺内で唯一倒壊を免れています。
梵鐘は南北朝時代の1350年の鋳造で神奈川県の重要文化財に指定されています。鐘には「就相陽城之海浜有富多楽之寺院」、「観応元年」と刻印されており、材木座の補陀落寺(ふだらくじ)のものであったことがうかがえます。
なお鎌倉時代に鋳造された梵鐘は伊豆韮山の本立寺に置かれています。


本堂
本堂の中門をくぐったと認識したのだが、書院の中門をくぐって正面にあるのが、この本堂だそうだ。旧仏殿は三渓園に移築されたものか。明治40(1907)年に移築というから、経済的に困窮し、原三渓氏に買ってもらうしか無かったのかと思う。
本堂_1
本堂_2
本堂_3
本堂_4
本堂_5
東慶寺の仏殿は、「泰平殿」と呼ばれ、本尊は釈迦如来坐像(南北朝時代)。本尊の左には二十世天秀尼像、右には開山覚山尼像と五世用堂尼像が安置されている。
もともとは、鎌倉尼五山第一位で廃寺となった太平寺の木造聖観音立像(土紋装飾が施された仏像)を安置するために建立されたのだという(現在、木造聖観音立像は松ヶ岡宝蔵に安置)。
現在の仏殿は1935年(昭和10年)に建立されたもので、旧本堂(仏殿)は横浜市の三溪園に移築されている。本堂横の水月堂には、木造水月観音半跏像が安置されている。


水月堂
水月観音菩薩半跏像の特別拝観には事前予約が必要だ。元は加賀前田家の持仏堂だったが、昭和34(1959)年に移築し、水月観音菩薩半跏像を安置するようになった。 水月堂という呼び名は、水月観音菩薩像を安置することからそのように呼ばれるようになった。
水月堂
岩にもたれてくつろいだ姿勢をとる観音像。同様の姿は水墨画に多く、水月観音、楊柳(ようりゅう)観音、白衣(びゃくえ)観音などの名前がある。この像は水面に映った月を見る姿と言われる。こうしたくつろいだ姿の観音像は、中国の宋から元時代に大流行した。観音は補陀洛山(ふだらくせん)というところに住むと言われるが、中国では山と言えば仙人のいる場所である。観音と仙人が重ね合わされた結果、仙人特有のポーズを観音がとることになったと考えられる。 中国で大流行したのに、日本では鎌倉周辺にしか見られない。おそらく保守的な京都では菩薩にふさわしくないとして受け容れられなかったのだろう。これに対して、鎌倉は中国風をより積極的に受容したことがわかる。 かつては室町時代あるいは南北朝時代の作とされていたが、頭髪や衣の写実的な表現がみごとで、鎌倉時代も13世紀の作と見られる。東慶寺開山、北条時宗夫人の覚山尼にかかわる遺品である可能性もある。銅製の冠、胸飾などは後世補われたもの。

木造聖観音立像を解説した頁へjump
水月観音菩薩半跏像を解説した頁へjump

書院
東慶寺の書院は、大正期の建立。
それ以前の書院は、1634年(寛永11年)、徳川忠長屋敷から移築されたものだったが、1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊。現在の建物は、その当時の間取りで再建されたもの。

徳川忠長(駿河大納言)は、徳川三代将軍家光の弟。竹千代(家光)擁立派と国千代擁立派による次期将軍の座を巡る争いがあったが、忠長はその当事者、国千代だ。真実のほどは知らないが、寛永10(1633)年、不行跡を理由に甲府蟄居・高崎幽閉の後、28才で自刃した。その翌年に、解体された屋敷が東慶寺に移築されている。精神をやんだのかもしれないが、悲劇の人だったようだ。
それが関東大震災で倒壊するまでの書院だったのか。

後日、扇ヶ谷の薬王寺を訪ねたときに、夫人(織田信長の孫)が建てたとされる徳川忠長供養塔をみた。
普段は書院への立ち入りできないようだが、地元のイベント開催などの折に協力しているようだ。

書院
書院_1
書院_2
中門
中門_1
中門_2

東慶寺は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の寺院である。山号は松岡山、寺号は東慶総持禅寺。寺伝では開基は北条貞時、開山は覚山尼と伝える。現在は円覚寺末の男僧の寺であるが、開山以来明治に至るまで本山を持たない独立した尼寺で、室町時代後期には住持は御所様と呼ばれ、江戸時代には寺を松岡御所とも称した特殊な格式のある寺であった。また江戸時代には群馬県の満徳寺と共に幕府寺社奉行も承認する縁切寺として知られ、女性の離婚に対する家庭裁判所の役割も果たしていた。

 

北鎌倉の寺院を見て歩く(11)

浄智寺(2)
曇華殿(どんげでん)
曇華殿
仏殿に相当する建物。何度も繰り返すようだが、建物自体は関東大震災で、全てやられてしまった。その後の再建なので、築後およそ百年弱の建物ばかりだろう。
曇華殿_1
本尊の三世仏
浄智寺の本尊で、室町時代中期の作。裏にある南北朝時代の観音菩薩像と同様、鎌倉時代より後代に作られたもの。鎌倉幕府滅亡後も勢力を保っていたという証だろう。
仏教における三世とは、過去・現在・未来のことをいうようだ。こちらの三世仏は、向かって左から、阿弥陀如来(過去)、釈迦如来(現在)、弥勒菩薩(未来)を表すもの。いずれも袖と裾を台座から垂らした宋風の像。(県重文)
顔が黒ずんで見えるのは金箔が剥がれて下地の黒漆が見えているからだろうか?

曇華殿(どんげでん)_2
曇華殿(どんげでん)_3
観音菩薩像
南北朝時代のもので、もとは山門の中に五百羅漢とともに祀られていた。大正12(1923)年の関東大震災で破損したが、昭和初期に修復された。いまは、曇華殿(仏殿)の裏側に祀られている。鎌倉観音三十三札所第三十一番の観音さまだ。ご詠歌は、『けふよりぞ こがねのやまに 入りにけり きよきさとりの ちえをとりつつ』だ。
曇華殿(どんげでん)_4
曇華殿(どんげでん)_5

書院
雰囲気があって好きな感じ。裏庭が見えるようにしてある配慮が心憎い。この時期ならではのサービスだ。
書院_1
書院_2
書院_3
書院_4
書院_5
書院_6
書院_7
書院_8
仏殿の裏手にある、茅葺きの素朴な造りの建物、非公開だが、外から中を見ることができる。書院の前に広がる庭には、コスモス、アヤメや月見草、ウメなど四季の花が咲き、風情を醸し出している。

裏庭
鎌倉の寺院ならどこでも目にすることだろうが、こちらにもやぐらがたくさん存在する。ひっそり閑としている風情が素晴らしい。
裏庭_1
裏庭_2
裏庭_3
裏庭_4
裏庭_5
裏庭_6
裏庭_7
裏庭_8
裏庭_9
裏庭_10
裏庭_11
裏庭_12
裏庭_13
裏庭_14

龍淵荘
イベントなどを開催する建物として使用しているようだ。残念ながら、中に入ったことはない。
龍淵荘

布袋和尚像
トンネルをくぐって鎌倉七福神の一人である袋和尚に会いに行く。撫でられまくりの様子が伺えた。
布袋和尚像_1
布袋和尚像_2
布袋和尚像_3
布袋和尚像_4
布袋和尚像_5
布袋和尚像_6
布袋和尚像_7
布袋和尚像_8
布袋和尚像_9

 

北鎌倉の寺院を見て歩く(10)

浄智寺(1)
かつては円覚寺にも肩を並べるほどの大きさの寺院だった。鎌倉幕府滅亡後もずっと寺としての勢いを保っていたが、江戸になり鎌倉の街の勢いが衰えると、寺勢が下火になってきたようだ。それでも、何とか持ちこたえていたが、関東大震災で壊滅的な打撃を受けた。建物は、その後の再建になる。
参道は鎌倉石でしつらえてある。鎌倉石を使うと風化が早く、古寺の雰囲気になじむのが早かったようだが、人気のお寺さんだけに、参拝客数が半端ではなく、摩耗も相当に早いようだ。鎌倉石は、現在採石が禁止されている。どうしても修復が必要な時は、性質が似ていて採石が禁止されていない白河石などを用いるしかないようだ。


総門とその付近
無学祖元の書といわれる『寶所在近』の扁額。『宝所在近更進一歩』からの文言だとか。『頑張って修行を積めば、意外と早く悟りに到達できる』というメッセージだそうだ。
総門とその付近_1
総門とその付近_2
総門とその付近_3
総門とその付近_4
総門とその付近_5
小さな太鼓橋
危険回避の観点から、通行禁止になっている
総門とその付近_6
総門とその付近_7
総門とその付近_8
「鎌倉十井」のひとつ「甘露の井」
甘く感じる水なのだろうか。すぐ近くに汲むことができる水栓があるとのことだが、私には見つけられなかった。
総門とその付近_9
総門とその付近_10

参道
関東大震災後、鎌倉石を使って再建した。優れた石材のお蔭で、短時日で古刹にふさわしい石段に変化したという。わずか百年ほどの石段には見えないことだろう。映画『武士の一分』の撮影にも使われたそうだ。
参道_1
参道_2
参道_3

鐘楼門(山門)
浄智寺の山門は、鎌倉でも珍しい花頭窓の鐘楼門。銅鐘は、龍頭が鐘全体にくらべて小さく、かつ繊細な感じのする鐘で、暦応3年(1340年)の銘のあるもの(県の重要文化財)。
鐘楼門(山門)_1
鐘楼門(山門)_2
鐘楼門(山門)_3
『山居幽勝』の額
石川丈山の書といわれる扁額。いつも読み方を忘れてしまっている。読み方さえ思い出さないのだから、意味合いもころっと忘れてしまっている。(^_^;)
仏の世界にあって、深く静かですばらしい地にある(いる)、といった意味のようだ。
石川丈山と言えば、詩仙堂を建てて終の棲家とした人物。家康との繋がりも深く、その筋の依頼であれば、揮毫も厭わなかったのだろう。
鐘楼門(山門)_4

中門
棟門という形式だそうだ。殆どの人が驚くだろうが徳川の三つ葉葵の紋があしらわれている。江戸幕府との関係があるようだ。
中門_1
中門_2
中門_3
中門_4
棟門は、日本の公家や武家の邸宅や寺院の塔頭などで用いられた屋根つきの門。四脚門よりは下、腕木門よりは上と考えられている。二本の円柱の本柱の上部にある梁行に桁を受けるために女梁・男梁を重ねる。

浄智寺は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院。臨済宗円覚寺派に属する。鎌倉五山第4位。山号を金宝山と称する。中世から江戸時代にかけて「金宝山」と「金峰山」が混用されてきた。本尊は阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒如来の三世仏で、それぞれ過去・現在・未来を象徴する。境内は「浄智寺境内」として国の史跡に指定されている。

 

北鎌倉の寺院を見て歩く(9)

建長寺をあとにして、再び北鎌倉駅方面に歩きだす。浄智寺や東慶寺をみるつもりだ。その途中にある、第六天社と長寿寺とをちょっとだけ見た。

第六天社
いつ通りかかっても締め切ったままになっている。なので、どんな感じなのかはよくわからない。わかっていることと言えば、水戸光圀の『鎌倉日記』に登場するということくらい。水戸光圀は水戸と江戸以外では、ドラマと異なり、鎌倉を歩いたくらいだったようだ。その光圀の記録に残っていたということになると、江戸初期には既に存在していたということなのだろう。建長寺の四方鎮守の中で、その位置と沿革が明らかなのは第六天社だけだそうだ。他の方の写真を見る限りでは、そんなに贅沢な社ではないように見えた。
下記説明文には、社殿内には第六天像が中心に祀られ、前列には自国天・増長天・広目天・多聞天の四天王像が安置されていると書かれてあるが、これらの像は盗難に遭い、現在は何もないそうだ。

鍵が開いていなくてよかったと思う私が居た。真っすぐ行った先で終わりではなさそうだ。鳥居の左後方には安部晴明大神の石碑がある。どんなつながりがあるのか首をひねるばかりだ。
第六天社_1
第六天社_2
第六天社_3
第六天社_4
第六天社_5
「第六天」の由来
建長寺の四方鎮守には、中央五大尊と八幡(東)・熊野(北)・子神(西)・第六天(南)があり、第六天は上町に鎮座する。
延宝2年(1674年)の徳川光圀『鎌倉日記』に「円覚寺オ出テ南行シテ、第六天 森ヲ見ル」とあり、また、延宝6年(1678年)の建長寺境内図(伝徳川光圀寄進)には「四方鎮守第六天」と記されている。
社殿に納められた建長寺第218世真浄元苗筆の天保2年(1831年)の棟札によって、宝永4年(1707年)に建立した社殿の破損が著しいため、村人が願い出て再建したことが知られる。
社殿の形式は1間社流造で、幕末社殿としては古風を尊重した造りといえよう。
社殿内には第六天像が中心に祀られ、前列には自国天・増長天・広目天・多聞天の四天王像が安置されている。いずれも江戸時代の作で、小像ながらも彫刻は丁寧で量感に満ちた佳作である。
第六天は仏教では他化自在天と称し、魔王の如き力を持つといわれ、神道では第六天神、すなわち、第六番目の神と認識されている。
神奈川県内には第六天を祀る社が180社以上あり、厄病除けの神や方位神として信仰される。
現在、建長寺の四方鎮守の中で、その位置と沿革が明らかなのは第六天だけで、建長寺史研究上の貴重な資料であるばかりでなく、地域にとっても貴重な文化遺産として永く後世に伝えたい。
また、第六天は上町の氏神でもあり、例祭は毎年7月15日から22日にかけて行われる。
  鎌倉市教育委員会 文化財保護課
  鎌倉市山ノ内上町町内会


長寿寺を覗く
9月30日は公開日ではなかったので、後日、公開日に、見に出かけた。以下ではほんの触りだけを取り上げることにする。チラ見だけでも、凄く美しい寺院であるとわかる。私には京都風の寺院のように見える。足利尊氏の菩提寺で、建長寺の境外塔頭ということになっている。
北条実時が建てた持仏堂が称名寺で、彼が称名寺殿と呼ばれていたように、長寿寺殿も単なる法名ではなく、足利尊氏も鎌倉では長寿寺殿と呼ばれていたのではないかと勝手に思っているのだが、どうなのだろう。

長寿寺を覗く_1
長寿寺を覗く_2
長寿寺を覗く_3
長寿寺を覗く_4
長寿寺を覗く_5
長寿寺を覗く_6
足利尊氏像
夢窓疎石は、足利尊氏を次のように評したそうだ。
『身命を捨給ふべきに臨む御事度々に及といへども。关を含て怖畏の色なし』(梅松論)…命を捨てる場面にたびたび臨んでも、笑みを含んで、怖れる様子がない
『多く怨敵を寬宥有事一子のごとし』(同)…怨みのある敵を、まるで我が子のように許される
『御心廣大にして物惜の氣なし』(同)…御心が広く、まるで物欲というものがない

長寿寺を覗く_7
はっきり創建年などが記載されてあるなあ。諸山とは、五山制度に基づく寺格の一つで、五山・十刹の下の格。
長寿寺を覗く_8
創建年・開基ともに不明であるが、鎌倉公方足利基氏が父尊氏の菩提を弔うために建立したと伝える。境内には足利尊氏の遺髪を埋めたと伝わる五輪塔がある。

亀ケ谷坂切通し
鎌倉七切通のひとつである亀ヶ谷坂切通し。長寿寺の門を見上げて目を左に移動するとそこには坂を上って行く一本の道がある。この道が亀ヶ谷坂切通へ向かう道で、ここはその山ノ内側の入口になる。次回(10/14)の散策では、長寿寺をみて、亀ケ谷坂切通しを通って、先に進む。
亀ケ谷坂切通し

 

北鎌倉の寺院を見て歩く(8)

建長寺(3)
唐門
前回久しぶりに訪問したとき、腰を抜かしそうになった。移築当時の姿はこんなに美しかったのかと。唐門・仏殿・西来庵中門が徳川将軍家からお下がりとしていただけるという話だったのだろう。これを『いや私どもは要りません』と拒む勇気は誰にもなかったと思われる。
錺金具の壮麗さに誰もが一様に息を呑む。ド派手だが、否定できない和風の美しさだ。
唐門_1
唐門_2
唐門_3
唐門_4
唐門_5
唐門_6
唐門_7
重要文化財で方丈入口の門。仏殿と同じく、芝の徳川秀忠夫人崇源院霊屋から移築したもの。関東大震災以来の大修理が2011年5月に終了し、移築当時の姿が再現された。
方丈
『竜王殿』とも称する。総門と同じく、京都の般舟三昧院から移築したもの。禅修行に疲れたら、裏手の庭園を眺めて心を落ち着かせることもできる。素晴らしいロケーションだと思う。なお、今回撮影することができなかったが、龍王殿襖絵が完成したそうだ。関心のある向きは、下記URLへジャンプされたい。サムネイルをクリックすると、大きな画像になる。
方丈_1
方丈_2
方丈_3
方丈_4
寺院であることが確認できた。禅寺であるからにはこういう姿が一番かと思うのだ。その意味で、嬉しく思った。
方丈_5
方丈_6
方丈_7
方丈_8
唐門・大庫裡・法堂が見える。更にその先も。
方丈_9
方丈_10
達筆すぎて読むことができない
方丈_11
建長寺の方丈は、「龍王殿」と呼ばれ、過去には度重なる罹災と復興が繰り返された。
1641年(寛永18年)にも再建されているが、1923年(大正12年)の関東大震災により倒潰したため、現在の建物は、総門と同じく1940年(昭和15年)に京都の般舟三昧院から移築されたもの(1732年(享保17年)建立)。
本来、方丈は住職の居間であるが、現在では、11月の宝物風入や各種儀式、コンサートなどの催しなどに使用されている。
本尊は、宝冠釈迦如来。

龍王殿襖絵の頁へjump
大庫裡
平成3年落慶。本派宗務本院の看板がかかっていた。よく見なくても雰囲気のある新しい建物だ。
大庫裡_1
大庫裡_2
大庫裡_3
得月楼と方丈背後の庭園
得月楼は新しく建てられた建物で用途は客殿。相当に贅沢な建物のようだ。
方丈背後の庭園は、蘭渓道隆の作庭とされていたが、現在の庭園は、江戸時代の作庭といわれているそうだ。発掘調査では、現在よりも大規模な庭園であったことが裏付けられているという。

得月楼と方丈背後の庭園_1
得月楼と方丈背後の庭園_2
得月楼と方丈背後の庭園_3
得月楼と方丈背後の庭園_4
得月楼と方丈背後の庭園_5

 

北鎌倉の寺院を見て歩く(7)

建長寺(2)
法堂〈はっとう〉 (国指定重要文化財)
東日本最大の禅宗様の法堂だそうだ。棟高約20メートル、上層軒出は4.4メートル。大きさよりも、その佇まいに胸を打たれる。
当初の法堂は、建治元(1275)年、建長寺開基で五代執権の北条時頼十三回忌のときに創建された。現在の法堂は、文化11(1814)年に再建(上棟)されたもの。同じ時期に建てられた円覚寺の法堂は、応安の全山焼亡(1374年)により焼失してしまった。ということで、鎌倉では、建長寺の法堂が唯一のものとなった。

外観
外観は正面から撮ろうとすると背後の仏堂が邪魔になる。超広角レンズでも使用しない限り、斜め前方からの撮影にせざるを得ない。
法堂〈はっとう〉 (国指定重要文化財)_1
法堂〈はっとう〉 (国指定重要文化財)_2
法堂〈はっとう〉 (国指定重要文化財)_3
法堂〈はっとう〉 (国指定重要文化財)_4
堂内の様子
信じられないかもしれないが、脇に提げられている網を潜れば、堂内に入ることができる。さらに、自由に撮影することができる。
法堂〈はっとう〉 (国指定重要文化財)_5
法堂〈はっとう〉 (国指定重要文化財)_6
法堂〈はっとう〉 (国指定重要文化財)_7
法堂〈はっとう〉 (国指定重要文化財)_8
天井画
故小泉淳作画伯の作品。京都祇園にある建仁寺の巨大な天井画『双龍図』を思い出される方が少なくないことだろう。それも酷似した作品だ。それもそのはず、同じ作者なのだから。
法堂〈はっとう〉 (国指定重要文化財)_9
法堂〈はっとう〉 (国指定重要文化財)_10
千手観音像
下記説明に出てくる『大悲閣』は、どこの寺院を指しているのか調べたが、私にはわからずじまい。千手観音坐像は文化財には指定されていないようだ。弘長3(1263)年の造立であれば、当然文化財指定があってしかるべきだと思うが、…。
法堂〈はっとう〉 (国指定重要文化財)_11
法堂〈はっとう〉 (国指定重要文化財)_12
法堂の本尊には、大悲閣にあったとされる千手観音像が祀られている。1263年(弘長3年)、北条時頼が病となった際、その平癒を願って造立されたと考えられている。
釈迦苦行像
川越の寺院にもあった。あちらは許可を得てあるのだろうか、気になった。
法堂〈はっとう〉 (国指定重要文化財)_13
法堂〈はっとう〉 (国指定重要文化財)_14
本尊前の釈迦苦行像は、釈迦が極限の苦行・禁欲(断食)をしている姿を現している。
ガンダーラ文明の遺産でラホール中央博物館に安置されている像の模造。2005年(平成17年)の愛知万博に陳列された後、パキスタン国より建長寺に寄贈された。


梵鐘(国宝)
こちらも円覚寺の洪鐘も共に国宝指定で、風雨に晒されたままだ。長く保つものだなあ。但し、こちらも円覚寺の洪鐘も除夜の鐘として撞かれることはないようだ。ただし、円覚寺にいけば、正続院の鐘が撞けるようだ。その権利に外れても、普段非公開の舎利殿が間近で見られるはずだ。
梵鐘(国宝)_1
梵鐘(国宝)_2
梵鐘(国宝)_3
梵鐘(国宝)_4
建長7(1255)年に鎌倉鋳物師棟梁物部重光が鋳造したもので、大覚禅師による建長寺の銘文が浮き彫りにされている名鐘。創建当時からあるという貴重な梵鐘は茅葺の鐘楼に掛けられている。
~除夜の鐘が撞ける寺~の頁へjump
近くにあった石碑
『咳一つ聞えぬ中を天皇旗』…井上剣花坊の作だそうだ。一種の反戦の意の川柳だろう。こんなところにか。戦後に石碑をつくったのかな。
梵鐘(国宝)_5

西来庵
上述の円覚寺正続院と同様に普段は厳しく部外者の進入が禁止されている。だが、大晦日だけは、この西来庵の中に入り、鐘が撞けるようだ。う~~ん。
開山堂の手前に立つ昭堂は国指定重要文化財。見るつもりなら、大晦日の夜半に行くしかないのか。

西来庵_1
西来庵_2

 

紀尾井町界隈ほかで試し撮り(3)

試し撮りを終わりにするつもりだったが、もう少し日差しがきつい日があったので、横須賀でも試し撮りをしてみた。

ヴェルニー公園にて
見えた順番に取り上げていく
秋バラ
横須賀市は、ひところほどバラ栽培に熱を入れていないようで、植栽してある数が寂しい感じになっているように思える。予算削減なのかなあ。どうも東京都も同じ道を辿りそうだなあ。
秋バラ_1
秋バラ_2
秋バラ_3
秋バラ_4
『しらせ』は遠くからでも案外大きく見えた
『しらせ』は遠くからでも案外大きく見えた
PRイベントも行われていた
結構うまいパフォーマーだった。警察も頑張るなあ
PRイベントも行われていた_1
PRイベントも行われていた_2
PRイベントも行われていた_3
米軍基地の様子
米軍基地の様子_1
米軍基地の様子_2
米軍基地の様子_3
米軍基地内だが、海上自衛隊の潜水艦
X舵が特徴のそうりゅう型。新鋭潜水艦。オーストラリアへの輸出が立ち消えになったが、フランスのものよりも遥かに高性能と言われている。
米軍基地内だが、海上自衛隊の潜水艦
こちらは舵の形から真ん中がそうりゅう型
こちらも海上自衛隊の潜水艦
こちらは舵の形から真ん中がそうりゅう型
『いずも』と『しらせ』
『いずも』は、海上自衛隊のヘリコプター搭載護衛艦。海上自衛隊では最大の艦船。『しらせ』は御存知のとおり、南極へ行く艦船だ。文部科学省で『南極観測船』と表記しているため報道でも『南極観測船』や『砕氷船』と呼ばれることが多いが、防衛省では『砕氷艦』と称している。
大型の艦船が2艦並ぶと壮観なものだ。『しらせ』は間もなく晴海から夏の南極へ出航する。その準備中だと思われる。塗装などもやり直してきれいな状態になっている。
『いずも』と『しらせ』_1
『いずも』と『しらせ』_2
『いずも』と『しらせ』_3
『いずも』と『しらせ』_4
『いずも』と『しらせ』_5
『いずも』と『しらせ』_6
『いずも』と『しらせ』_7
『いずも』と『しらせ』_8
『いずも』と『しらせ』_9
『いずも』と『しらせ』_10
米軍のタグボート
米軍のタグボート
着ぐるみも出没していた
着ぐるみも出没していた_1
着ぐるみも出没していた_2
着ぐるみも出没していた_3
これは装備を外しているのかなあ
これは装備を外しているのかなあ
ヴェルニー公園から見えた米軍のイージス艦は1艦のみ
ヴェルニー公園から見えた米軍のイージス艦は1艦のみ
戦艦陸奥4番砲
昔の戦艦は無駄に大砲が巨砲だったんだなあ。いまは北朝鮮でも、そんな装備は採用しないはずだ。
戦艦陸奥4番砲_1
戦艦陸奥4番砲_2
戦艦陸奥4番砲_3
戦艦陸奥4番砲_4
戦艦陸奥4番砲_5
軍港クルーズが戻ってきた
軍港クルーズが戻ってきた_1
軍港クルーズが戻ってきた_2
旧横須賀軍港逸見波止場衛門
旧横須賀軍港逸見波止場衛門_1
旧横須賀軍港逸見波止場衛門_2

かなり日差しが厳しいばかりのところでは、CPLフィルターの装着も有効なようにおもう。しかし、急に日陰のかなり薄暗いところがあったりすると、お手上げかもしれない。脱着を繰り返すのも大変だとなると、絞りの操作が一番現実的な解法かもしれない。あれこれあがいてみたが、結論までは至らなかった。

 

紀尾井町界隈ほかで試し撮り(2)

ホテルニューオータニの天空にある日本庭園

こんなところに日本庭園があるとは思わなかった。巨大な鯉が多数いたのと、吹割の滝のようなこじんまりした滝が目を惹いた。外国人向けの意匠だろうか。赤坂側(メイン宴会場階)からだと屋上に作られた庭園なのだが、四谷側からだと地続きの庭園。少しずつ趣きを変えてはいるものの、加藤清正公以来400年以上の歴史を誇る庭園だそうだ。ここではCPLフィルターを装着したまま撮ったが良い感じだった。さらに、今回は試さなかったが、AEB撮影でトライしてみるのも一手かも知れない。

ホテルニューオータニの日本庭園の頁へjump

赤玉石
清澄庭園でも見たことがあるが、大きさがまるで違う。さすが日本一と言われるだけのことがある。
赤玉石_1
赤玉石_2
佐渡島の金山より運ばれた高価な庭石で、赤褐色の独特色彩から赤玉石と呼ばれています。庭園にある一番大きいものは重量22トンもあり、これは日本一の大きさと言われています。砕くと金が出てくるというこの石は、現在は門外不出という佐渡の産です。その他にも、庭園の所々には、群馬の三波石、ひすいの原石、龍眼石、化石石、ぶどう玉石など多くの奇石、名石も多く、四季折々表情を変える石との対話が楽しめます。

枯山水
枯山水_1
枯山水_2
枯山水_3
松樹と大小の石で山の雰囲気をかもしだし、白い砂利は水を表し、小波のごとく線が引かれています。

佐渡の化石
そんなに珍しい化石だとは知らなかった。つくづく見る目の無さに落ち込んでしまう。
佐渡の化石
湧水山水風の池の中にある、江戸時代からの大木の化石。加藤清正公時代から残っているもので、木の根がそのまま化石になった珍しい石です。庭園内には合計4個の化石があります。

清泉池
清泉池_1
清泉池_2
清泉池_3
鯉の大きさに驚いた。滅多にお目にかかることが出来ない大きさのように見えた。
清泉池_4
清泉池_5
清泉池_6
清泉池_7
清泉池_8
池の鯉は、緋鯉、真鯉合わせて約350匹。池には、サギや鴨も渡ってきます。庭園の樹木は、鳥たちにとって絶好の棲家とあって、ウグイス、メジロなどさまざまな小鳥たちの姿が見られます。

大滝
新館のガーデンタワーが建ったとき、赤坂側と四谷側の5階層分の高さの違いを活かして滝を設えたのだそうだ。滝の落差はおよそ6メートルあるそうだ。非常に壮観。無料で見学できるので、一見の価値アリだと思う。これだけの水圧がかかると、相当に防水処理を施さないといけないなどと思ったりもした。つくづく貧乏性だなあと自分が嫌になった。
大滝
大滝_1
大滝_2
大滝_3
こちらは小滝
大滝_4
高さ6mの大滝は、約3トン~5トンの組石82個と玉石5トン、小滝は、2トン~5トンの石を58個と玉石3トン、池周り1トン~4トンの石78個と100キログラム石2トンを使用した組石で、見事な風美をかもしだしております。

山茶花荘
こちらは相当に高級そうだ。私が入ることができるクラスではなさそうだった。
山茶花荘_1
山茶花荘_2
山茶花荘_3
山茶花荘_4
山茶花荘_5
懐石料理のなだ万が経営する“山茶花荘”。これはホテルニューオータニの開業前、創業者大谷米太郎の自宅だった建物です。古くからあった日本家屋を名建築家の村野藤吾氏が数奇屋風の建物に改築したもので、しっとりと落着いたつくりは日本庭園にふさわしいたたずまいを見せております。

石心亭
ここならば私でも利用できるかなあ
石心亭

その他
山茶花荘側から庭園を見た様子
その他_1
その他_2
メイン宴会場階出入り口から入ってすぐのあたりの様子
その他_3

 

紀尾井町界隈ほかで試し撮り(1)

川越と鎌倉とで眩しい写真を量産してしまったので、CPLフィルターを装着したらどんなふうになるか試し撮りをしてみた。
たまたまホテルニューオータニに行く用事があり、その日は最近では珍しく、多少白い雲があるものの、概ね青い空になった。眩しい写真をCPLフィルター装着で抑え込めるか格好の日和になった。


江戸城外濠跡付近
水辺の景観がうまく再現できているだろうか?桜の季節にはきれいだろうと思いながら、その季節には行ったことがないと改めて思い出した。
弁慶橋ボート場
ボートを漕いだことも釣り糸をたれたこともないなあ。朴念仁の極みだ。
江戸城外濠跡付近_1
アオサギはモニュメントではなく本物。突如動き出してびっくりした。
江戸城外濠跡付近_2
ホテルニューオータニ
ちょっと絞込が足らなかっただろうか
江戸城外濠跡付近_3
弁慶橋ボート場と弁慶橋
明治11年5月14日、当時この弁慶橋が架かっていなかったことが、大久保利通が刺客の手から逃れられなかった一因のようだ。
江戸城外濠跡付近_4
江戸城外濠の石垣
弁慶橋と平行に積まれている石垣の右手が赤坂見附の跡。赤坂見附は枡形門の形式で、これは江戸城の田安門、清水門などと同じである。現在の赤坂見附址にはこの城門は存在しない。そのことが残念でならない。
江戸城外濠跡付近_5
江戸城外濠跡付近_6
江戸城外濠跡付近_7

東京ガーデンテラス紀尾井町
先に営業を終えたグランドプリンスホテル赤坂(旧称赤坂プリンスホテル)の跡地の再開発事業によって計画された「豊な自然と歴史に抱かれた国際色豊な街」にふさわしい街づくりをコンセプトに、ホテル「ザ・プリンスギャラリー 東京紀尾井町」、オフィス、商業施設からなる「紀尾井タワー」と、全室賃貸マンションの「紀尾井レジデンス」、旧李王家東京邸(旧グランドプリンスホテル赤坂旧館)を移設した「赤坂プリンス クラシックハウス」によって構成されている複合型施設だ。
久しぶりに見たら、ここは何処なんだろうと暫し戸惑ってしまった。

紀尾井タワー
東京ガーデンテラス紀尾井町_1
東京ガーデンテラス紀尾井町_2
弁慶橋の袂にはこの石標が
紀尾井町の最初の『紀』の証だ。道の向かいが井伊の『井』のあったところ。今はホテルニューオータニが建つ。
東京ガーデンテラス紀尾井町_3
紀尾井タワーと紀尾井レジデンス
今夏オープンしたばかり。ピッカリンだなあ。
東京ガーデンテラス紀尾井町_4
赤坂プリンス クラシックハウス
紀尾井タワーの裏にはこれがあるが、見損ねてしまった。こんな奥まったところに引っ込んでしまったんだ。(PDF画像を借用)
赤坂プリンス クラシックハウス_1
赤坂プリンス クラシックハウス_2

清水谷公園
外濠に面したところから清水谷にかけては、紀州徳川家上屋敷の敷地だったところ。明治になって、清水谷には、北白川宮家の邸宅が建てられた。1890年に当時の東京市へ下賜された。1956年、いったん都立公園となった後、1965年には千代田区に移管され、「千代田区立清水谷公園」となった。
歩いてみると広いような、広いとはいえないような微妙な広さだった。

清水谷公園_地図
心字池
心字池の形って何だか鳩サブレのようだなあ。心と思えないのは、心が足らないからかなあ。
清水谷公園_1
清水谷公園_1
右大臣大久保公哀悼碑
千代田区有形文化財、明治21年建立。高さ約6m、碑文は太政大臣三条実美の揮毫だそうだ。この前の道路で暗殺されたんだった。
清水谷公園_2
午前8時ごろ、大久保は、麹町区三年町裏霞ヶ関の自邸を出発した。明治天皇に謁見するため、2頭立ての馬車で赤坂仮皇居へ向かう。午前8時30分頃、紀尾井町清水谷(紀尾井坂付近。現在の参議院清水谷議員宿舎前)において、暗殺犯6名が大久保の乗る馬車を襲撃した。日本刀で馬の足を切った後、御者の中村太郎を刺殺。次いで、乗車していた大久保を馬車から引きずり降ろした。大久保は、島田らに「無礼者」と一喝したが、斬殺された。
公園近くの麹町通りで出土した玉川上水本管の石枡
かなり大きな石枡だった。ポンプなどを使用して高圧で水を流すというわけではないので、相応の太さが必要だったのだろう。江戸は巨大な街だったのだ。
清水谷公園_3
清水谷公園_4
清水谷公園_5
清水谷公園_6
清水谷公園_7
この石枡は、昭和45年(1970)の麹町通り拡幅工事の際に千代田区麹町3-2先の道路で出土した玉川上水幹線(本管)の一部です。
江戸は、慶長・寛永期と時を経て人口が増加すると、小石川上水や溜池上水といった旧来の上水だけでは水不足となり、新しく玉川上水が開発されます。玉川上水は、承応2年(1653)に着工され、翌承応3年(1654)6月に、羽村出身の清右衛門・庄内衛門兄弟によって工事は完成したといわれます。この工事によって、羽村で堰を設けて多摩川の水を取水し、武蔵野台地の勾配を利用しながら四谷大木戸(現在の新宿区四谷4丁目)に至る43kmに及ぶ水道を造りました。四谷大木戸で石樋や木樋による暗渠となり、江戸城内をはじめ、麹町・赤坂・虎ノ門などの武家地や京橋川以南の町地にも給水されていました。
発見された水道は、四谷門をわたり江戸城内に給水された玉川上水幹線で、数段重ねた石枡に木樋を繋いでいます。このように当時は、所々に分水用や水質管理用、揚水用の枡などが設けられていました。この巨大な石枡は、江戸水道幹線の大きさを示すとともに、当時の都市施設の実態をしのばせてくれます。
なお、石枡とともに出土した木樋は、区立四番町歴史民俗資料館(千代田区四番町1)で保管されています。


当たり前の結論かもしれないが、眩しいシーンなどの撮影では相応に威力を発揮しそうだ。逆に薄暗いところでの装着しっ放しは、問題ありになるのは歴然だろう。CPLフィルターの構造上、装着がちょっと面倒なので、考えてしまう。

 

北鎌倉の寺院を見て歩く(6)

明月院から出た道すがらの花さんたち
なかなかのものだった。決して雑草なんかじゃない。
タマアジサイ
変わり種の紫陽花だと思う
タマアジサイ_1
タマアジサイ_2
タマアジサイ_3
タマアジサイ_4
タマアジサイ_5
秋海棠
秋海棠
チャノキ
チャノキ
途中のお寺さんなどは一旦パス
明月院を後にし、次なる目的地、建長寺へと足を運ぶ。途中、長寿寺、亀ケ谷切り通し、第六天社など、気になるものがチラチラ見えるが往路は脇目も振らずに先を急ぐことにする。
途中のお寺さんなど_1
途中のお寺さんなど_2
途中のお寺さんなど_3

建長寺(1)
いよいよ鎌倉五山の第1位。どんなふうなのか楽しみだ。
天下門
天下門が見えた。この手前左手に桑田佳祐の母校鎌倉学園の校舎がある。かつては総門の前の敷地の東西に外門があったそうだ。それらは、関東大震災で倒壊。近年再建されたのが西外門。『天下禅林』の扁額を掲げているため『天下門』と呼ばれる。
天下門
境内図
境内図
総門
いきなり書き間違いの字に遭遇する感じだが、これはこれで良いとされる。『百貫点』と言われるんだとか。わからない世界だ。
それより何より、なぜ、戦争開戦の直前(1940年)、あるいは、戦争の真っ最中(Wikipediaでは1943年)に、京都からこの門を移築してきたのだろうか?総門と方丈とは確かに京都の般舟三昧院から移築された。明治維新後の神仏分離令に伴い、皇室からの下付金がなくなったことなどにより衰微した般舟三昧院に、関東大震災で建物がなくなってしまった建長寺から、譲ってくれるようにという依頼があったそうだ。たまたま、移転実現の時期が、微妙な時期になっただけのことのようだ。

総門_1
総門_2
天明3年(1783年)の建立。1943年に京都の般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)から移築されたものである。
なお、般舟三昧院は後土御門天皇によって建立された皇室ゆかりの寺院で、もと伏見(京都市伏見区)にあり、現在は京都市上京区今出川通り千本東入るに所在する。総門に掲げられた「巨福山」の額は建長寺10世住持で書の名手である渡来僧・一山一寧の筆と伝える。「巨」字の第3画目の下に、余分な「点」が書き加えられているが、この点があることによって字に安定感が出ているとされる。


さざれ石
総門をくぐってすぐのところにあった。こんな大きなものはなかなかないと思うほどに大きい。その割には何の説明札も立っていない。君が代の歌詞に登場する石だが、苔のむすまでではなく、代わりにカリンの木が出てきているようだ。
さざれ石_1
さざれ石_2

三門(山門)
建長寺大工の河内長兵衛が棟梁を務め、『建長興国禅寺』の大扁額をかけるため、上層に軒唐破風が設けたのだそうだ。相当に大きな扁額のようだ。今でも三間二重門としては東日本最大だそうだが、鎌倉時代のそれはもっと大きく、総桁行97尺だったそうだ。
三門(山門)_1
国宝梵鐘側から見た様子
三門(山門)_2
仏殿側から見た様子
三門(山門)_3
安永4年(1775年)の建立で、2005年に重要文化財に指定されている。
銅板葺きの二重門(2階建て)で、関東大震災で倒壊し、再建される。初層には仁王像などを置かず、門扉も壁もない吹き放しとしている。上層には宝冠釈迦如来像や銅造の五百羅漢像などを安置する(上層は非公開)。


仏殿
一般的な禅宗の仏殿とは言い難いのだろうが、将軍からのお声掛かりで頂いたものだ。要らないなどとはいえなかったのだろう。『okadoのブログ』によれば、建長寺を創建する以前に今は廃寺になっている心平寺が建てられたようで、その2つの寺の関係は深そうだ。そして、心平寺のかつての御本尊は、建長寺仏殿の脇壇に安置されている地蔵菩薩坐像だと伝えられているとか。この像の胎内には、無実の罪で処刑されそうになった済田左衛門の身代わりとなった地蔵菩薩の小像が納められていた。そして、建長寺が創建されると小像は仏殿本尊の胎内に移されたのだといわれる。
横浜の三溪園にある天授院は心平寺跡にあった堂を移築したものだそうだ。う~~ん。

仏殿_1
仏殿_2
仏殿_3
建長寺の本尊『地蔵菩薩』
仏殿_4
仏殿_5
仏殿_6
仏殿_7
仏殿_8
重要文化財。 寄棟造で単層裳階が付く。
芝(東京都港区)の増上寺にあった、徳川秀忠夫人崇源院の霊屋(たまや)を建て替えに際し、譲渡されたもので、正保4年(1647年)に建長寺に移築されている。
もともと霊廟建築として造られたものであるので、屋根や天井などの形式が一般的な禅宗の仏殿とは異なっている。すなわち、屋根は入母屋造でなく寄棟造である。また、天井は禅宗仏殿では平板な「鏡天井」とし、龍などの絵を描くことが多いが、この仏殿の天井は和様の格天井(ごうてんじょう)である。
堂内には本尊の地蔵菩薩坐像(室町時代の作、像高2.4メートル)、もとこの地にあった心平寺の旧本尊地蔵菩薩坐像、千体地蔵菩薩立像、千手観音坐像、伽藍神像などを安置する。堂前にあるビャクシン(白槙、和名イブキ)の古木7本は開山蘭渓道隆手植えと伝えるもので、樹齢約750年といわれる。

 

北鎌倉の寺院を見て歩く(5)

円覚寺を出て線路伝いに暫く行き、途中から左折して紫陽花の名所明月院に向かう。

明月院
鎌倉市山ノ内の円覚寺の近くにある臨済宗建長寺派の寺院。山号を福源山と称する。本尊は聖観音、開基は上杉憲方、開山は密室守厳(みっしつしゅごん)。首都圏ではアジサイの名所として知られ、「あじさい寺」の通称がある。
もともとは、禅興寺という寺の塔頭であったが、禅興寺は明治初年頃に廃絶し、明月院のみが残っているそうだ。
本寺だった禅興寺の起源は、鎌倉幕府5代執権・北条時頼にまで遡る。時頼は別邸に持仏堂を造営し、最明寺と名付けたが、時頼の死後は廃絶していた。時頼の息子の北条時宗は蘭渓道隆を開山としてこれを再興し、禅興寺と改名したそうだ。蘭渓道隆が開山ということは、歴史的には円覚寺よりは古いということになる。
檀那が誰かに依って、運命が分かれたんだなあ。

明月院境内図
明月院境内図
明月院境内図_2

あの先に見えているのが総門のようだ
あの先に見えているのが総門のようだ_1
あの先に見えているのが総門のようだ_2
あの先に見えているのが総門のようだ_3
どういう風に行くも自由ということなので本堂を目指す
本堂を目指す_1
本堂を目指す_2
本堂を目指す_3
本堂を目指す_4
本堂を目指す_5
本堂を目指す_6
福源山と書かれてある。山門だろう。
山門だろう
山門をくぐって境内の奥に進み入る
境内の奥に進み入る
方丈なる建物が目に入る。パンフによれば、本堂となっている。
方丈なる建物が目に入る
本堂にある丸窓は「悟りの窓」とか_1
本堂にある丸窓は「悟りの窓」とか_2
明月院の本堂にある丸窓は「悟りの窓」とか。本当に美しい。
裏庭園の紅葉はまだまだ先のようだった
裏庭園の紅葉はまだまだ先のようだった_1
裏庭園の紅葉はまだまだ先のようだった_2
こちらは本堂前の枯山水庭園
枯山水庭園
開山堂
開山堂_1
開山堂_2
開山堂_3
開山堂_4
開山堂_5
「宗猷堂」と書かれてあった
開山堂_6
開山の密室守厳の木像
開山堂_7
1380年頃に建てられた「宗猷堂」(そうゆうどう)が、のちに開山堂と呼ばれるようになった。堂内には、明月院開山の密室守厳の木像と、最明寺・禅興寺・明月院の歴代住持の位牌が祀られている。
開山堂左手には上杉憲方の墓と伝えられる「明月院やぐら」が、右手には鎌倉十井の一つ「瓶ノ井」がある。

明月院やぐら
鎌倉に数あるやぐらの中でも最大のものだそうだ。上杉憲方の墓がどれかなどわかるわけもないが、常識的には真ん中にあるものかなあと思う。
明月院やぐら_1
明月院やぐら_2
瓶ノ井
瓶ノ井_1
瓶ノ井_2
牡丹臭木
紫陽花の名所で臭木を撮るのも野暮なことだが
牡丹臭木_1
牡丹臭木_2
紫陽花を愛でる辺り
今の時期は何も咲いてない
紫陽花を愛でる辺り_1
そこからの総門付近の眺め
紫陽花を愛でる辺り_2
最明寺入道北条時頼公御廟所
最明寺入道北条時頼公御廟所_1
最明寺入道北条時頼公御廟所_2
北条時頼公墓所
北条時頼公墓所_1
北条時頼公墓所_2
時頼公の歌碑
時頼公の歌碑
次のように書かれてあるようだ。いわゆる漢詩と言うものだろう。
春流高如岸
細草碧於苔
小院無人倒
風来門自開

私には判読できなかった。う~~ん。創建時のこの寺の情景を詠んだものだそうだ。

鎌倉幕府が倒れて以降廃れていたのを、足利氏満(関東公方)が康暦2(1380)年に関東管領上杉憲方に禅興寺の中興を命じる。憲方は、出家後に禅興寺の中に蘭渓道隆5世法孫の密室守厳を開山に、塔頭「明月院」を建てた。足利三代将軍義満の時、五山十刹制度が制定されて関東十刹の第一位となるが、その後の関東公方の弱体化とともに廃れていく。
明月院は形式的には禅興寺の塔頭であるが、寺とは独立した寺領をもっており、かつ檀那が関東管領上杉氏であったために生き残り、禅興寺は江戸時代には既に無住となって明月院の管理となり、明治時代に廃寺となり明月院に吸収される。


次回は、建長寺を取り上げる。

 

北鎌倉の寺院を見て歩く(4)

円覚寺(4)
洪鐘[おおがね](国宝)
洪鐘は山上にあるので、息せき切って登らなければならない。それまでもウロチョロと歩き回った身には、これが案外きつかった。一体これをどこで鋳造したのだろうか。山上では防火上、危なくて作業するのは無理だっただろう。出来上がったものを担ぎ上げたのだとすれば、相当な急傾斜を超重量物の運搬したことになる。さぞかし大変だったことだろう。
洪鐘[おおがね](国宝)_1
一番上から、右折してまた階段がある
洪鐘[おおがね](国宝)_2
人物がかすかに見えるところで、キックした後の階段を上から見た様子
洪鐘[おおがね](国宝)_8
関東で最も大きい洪鐘なんだそうだ。みんな同じくらいの大きさに見えるが、そうでもないようだ。
洪鐘[おおがね](国宝)_3
たしかに大きいかなあ。余計なお世話かもしれないが、鐘撞き棒は新調したほうが良さそうだ。
洪鐘[おおがね](国宝)_4
洪鐘[おおがね](国宝)_5
洪鐘[おおがね](国宝)_6
洪鐘[おおがね](国宝)_7
関東で最も大きい洪鐘(高さ259.5cm)で、国宝に指定されています。円覚寺の開基である北条時宗の子である貞時が正安3(1301)年、国家安泰を祈願して寄進したものです。物部国光が鋳造したもので、刻銘の銘文撰者は、当時円覚寺の住持だった西澗子曇(せいかんすどん)です。形が雄大でありながら細部にまで緻密な神経がゆきわたっている、鎌倉時代後期を代表する梵鐘です。
『皇帝万歳 重臣千秋 風調雨順 国泰民安』 (西澗子曇銘)


弁天堂
鋳造を頼まれた物部国光は、大きな鐘のため二度の失敗を繰り返す。苦悩するさまを見た寄進主の北条貞時が七日七夜江ノ島弁財天に参籠した。その加護によって三回目の鋳造で成功したのだという。北条貞時は、洪鐘鋳造の成功に感謝して弁天堂を建立した。此処まではよくある話。
不思議に思うのはここから。江ノ島にあった弁財天が円覚寺の鎮守として祀られた、ということ。寺院にも鎮守が必要だったようだ。

弁天堂_1
弁天堂_2

周囲の景観
見回すと立派な住宅が沢山。しかし、毎日あそこまで上り下りをするのは大変そうだ。大きな建物は北鎌倉女子学園の校舎の一部だろう。
周囲の景観_1
少しだけ左側には東慶寺(縁切り寺)かな。不届き者の侵入を阻むだろうし、逃げ込んだものの逃走をも許さない。そんな地形かなあ。
周囲の景観_2
円覚寺境内の花さんたち
ごく普通の花さんがごく自然に咲いていた。ほっとする感じだった。9月末日撮影
円覚寺境内の花さんたち_1
円覚寺境内の花さんたち_2
円覚寺境内の花さんたち_3
円覚寺境内の花さんたち_4
円覚寺境内の花さんたち_5

松嶺院(しょうれいいん)
中興開基は足利晴氏の姪松嶺院妙円尼。足利勢と零落した鎌倉の寺院との繫りが切れずにいたようだ。公開時に行ったことがないので、いつも、外観を眺めるだけ。どんなふうなのかなあ。
松嶺院(しょうれいいん)
第150世叔悦禅懌(しゅくえつぜんえき)の塔所。本尊は釈迦如来。もとの不閑軒。観光的には牡丹の名所として知られ、開高健(作家)、田中絹代(女優)、佐田啓二(俳優)、坂本堤(弁護士)など著名人の墓があることでも知られる。有島武郎はこの寺にしばしば逗留し、『或る女』などを書いた。寺内は通常は非公開だが例年春と秋に期日を限って公開される。

最後に円覚寺の境内の位置関係を再確認されたい。
円覚寺の境内の位置関係

次回は明月院(あじさい寺)を取り上げる。

 

北鎌倉の寺院を見て歩く(3)

円覚寺(3)
妙香池
カメラマン気取りで、池の写真を撮ろうと熱心に構えていた。そんなところへ珍客が割って入った。
妙香池_1
池を撮っていたら、カワセミが飛んできた。でも、女の子たちが邪魔になってすぐには近づけなかった。何せお散歩用レンズなので、望遠端が250ミリしかない。ちょっと物陰に隠れたカワセミとの持久戦になったが、先を急ぐ私が断念した。
妙香池_2
妙香池_3
妙香池_4
虎頭だと思っていつも眺めているのだが、そう見えたことがない。まだ、修行が足らないのだろうか?
妙香池_5
創建当初よりある放生池(ほうじょうち)で、江戸時代初期の絵図に基づき、平成12(2000)年、方丈裏庭園と合致した自然の姿に復元しました。向こう岸の露出した岩盤を虎の頭に見立てて、「虎頭岩(ことうがん)」と呼んでいます。

以下では、既に取り上げた正続院以内の3塔頭を取り上げる

佛日庵
檀那塔で塔頭とは違う性格をもっていたが、北条氏滅亡後、衰微していた佛日庵を鶴穏周音(かくいんしゅうおん)が再興して塔頭としたのか。檀那がいなくなってしまった後は、大変な時期があったのだろうな。
本堂
佛日庵_1
佛日庵_2
開基廟の前で
妙齢の女性が優雅にお茶を頂いていた。いい感じだなあ。
佛日庵_3
開基廟と北条時宗公像
佛日庵_4
この人物が北条時宗公か。確かに札に『法光寺殿』と書かれてある。
佛日庵_5
佛日庵_6
茶室・烟足軒
残念ながら見落としてしまった。本堂の脇にあるようだ。川端康成の小説「千羽鶴」の舞台となった。
8代執権北条時宗の廟所(開基塔)。9代執権貞時・14代執権高時も合葬されている。本尊は地蔵菩薩。北条氏滅亡後は衰退したが、室町時代に鶴隠周音が再興して塔頭とした。本堂には地蔵菩薩坐像(鎌倉地蔵霊場十四番)と鶴隠周音像を安置。開基廟には十一面観音坐像(鎌倉観音霊場第三十三番)と北条時宗・貞時・高時の木像を安置。境内の茶室烟足軒は、鶴隠周音の寮舎(隠居所)の名を継いだもので、川端康成の小説『千羽鶴』に登場する茶室のモデルとなった。

黄梅院
境内の一番奥に位置する。なかなか庭の花が美しい。室町期には、足利将軍家や鎌倉御所の手厚い保護を受け関東夢窓派の拠点となったそうだ。応安元(1368)年、室町幕府二代将軍足利義詮の遺骨が分骨され、三代将軍義満は、塔主の義堂周信に怠りない勤行を命じている。この分骨によって足利氏の菩提寺としての性格も帯びるようになったそうだ。室町幕府になっても、うまくつながりを保つことが出来たようだ。
黄梅院_1
黄梅院_2
境内では心和む花さんたちが優しく迎えてくれる
黄梅院_3
黄梅院_4
黄梅院_5
黄梅院_6
黄梅院_7
黄梅院_8
黄梅院_9
本堂だと思う。黄梅院と書かれてあるのだろうが、真ん中の字が『毎』の字の下に『木』の字を書く字になっていた。
黄梅院_10
黄梅院_11
黄梅院_12
立て札には『武山堂』と記されてあった
黄梅院_13
黄梅院_14
リスも見送りに来てくれた。タイワンリスかなあ。文化財保護の観点から、あまり繁殖しすぎるとよくないのかもしれない。
黄梅院_15
黄梅院_16
第15世夢窓疎石(夢窓国師)の塔所。山号は伝衣山。本尊は千手観音。文和3(1354)年、華厳塔(三重塔)の跡地に夢窓の弟子の方外宏遠が開創した。

如意庵
非公開なので、門前から眺めるだけ。如意庵お寺カフェ『安寧』という店があるとの情報もある。そんなものがあったかなあ。腑に落ちないので調べてみたら、営業日が限られるようで、水、木、金と、第2土曜日のみの営業とか。ものすごく人気のあるカフェなのだとか。知らなかった。爺さんは情報に疎くなったのかなあ。
如意庵_1
カフェがオープンしていない日はこんなふうに通せんぼ。実につれない扱いになる。
如意庵_2
きれいな庭がある
如意庵_3
玄関に画が飾られてあった。あの画は、如意庵お寺カフェ『安寧』が用意した画かもしれない。
如意庵_4
第36世無礙妙謙(むげみょうけん)の塔所。本尊は宝冠釈迦如来。開基は上杉憲顕で応安3(1370)年の創建。

 

北鎌倉の寺院を見て歩く(2)

円覚寺(2)
大方丈(2)
大方丈裏の心字の池
禅宗の庭園にはつきものの心字池。『心』の字を崩したような形と言われる。大方丈の廊下から見るのが一番高い位置のようだが、どうにも然と見届けた感じがしない。
大方丈(2)_1
大方丈(2)_2
大方丈(2)_3
また、外から見る
大方丈(2)_4
大方丈(2)_5
中庭の石碑など
以下の3点は、線画だがよく見えない。器用な人はRAWで撮影してきて、線を浮き上がらせることができるのだろうが、そういうことが不得手な私には如何ともし難い。
大方丈(2)_6
大方丈(2)_7
大方丈(2)_8
大方丈(2)_9
大方丈(2)_10
大方丈(2)_11
当たり前だが、ミツウロコの紋になっている。間違うんじゃないよ、LPGの会社のそれとは違うんだよ。あちらがあやかっただけだから。
大方丈(2)_12
大方丈(2)_13
大方丈(2)_14

舎利殿(国宝)と正続院
神奈川県に残る唯一の国宝建造物。この建物が、国宝に値する建物だということには異論がない。本当かなあと思うのは、お釈迦様の歯が祀られているということだ。一人の遺骨をどんなに細分したとしても、舎利殿だとか仏塔だとかに、本当に本物が存在するものだろうか?そこはいつも疑問に思っている。
公開時でなければ撮影位置から先には進めないので、手前の唐門が邪魔になり、茅葺屋根が見えるだけだ。見る機会は11月始めの風入れのときと正月3が日のみか。う~~ん、日が限られてしまうんだなあ。
舎利殿(国宝)と正続院_1
右側に見えているのが、座禅道場かなあ。いつ拝見しても端正な佇まいだ。
舎利殿(国宝)と正続院_2
舎利殿(国宝)と正続院_3
舎利殿(国宝)と正続院_4
以下の2点はPDF画像を借用
舎利殿(国宝)と正続院_5
舎利殿(国宝)と正続院_6
舎利殿には、源実朝公が宋の能仁寺から請来した「佛牙舎利(ぶつげしゃり)」というお釈迦様の歯が祀られています。鎌倉時代に中国から伝えられた様式を代表する、最も美しい建物として国宝に指定されています。
屋根の勾配や軒の反りの美しさが特徴で、特に屋根の軒下から出ている上の段の垂木たるきは、扇子の骨のように広がっており、「扇垂木」とよばれています。これが屋根を一層大きく、建物全体を小さいながらも壮大に見せています。
江戸時代の花頭窓は下部が広がっていくのに対し、この外枠は縦の線が真っ直ぐで、その質素な形は鎌倉時代後期の花頭窓の特徴です。

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舎利殿は入母屋造、杮葺き。一見2階建てに見えるが一重裳階付きである。堂内中央には源実朝が南宋から請来したと伝える仏舎利(釈尊の遺骨)を安置した厨子があり、その左右には地蔵菩薩像と観音菩薩像が立つ。この建物は、組物(屋根の出を支える構造材)を密に配した形式(「詰組」という)、軒裏の垂木を平行でなく扇形に配する形式(扇垂木という)、柱・梁などの形状、花頭窓(上部がアーチ状にカーブした窓)や桟唐戸(さんからど、縦横に桟をはめた扉)の使用など、細部は典型的な禅宗様になる。元から円覚寺にあったものではなく鎌倉市西御門にあった尼寺太平寺(廃寺)の仏殿を移築したもので、15世紀(室町時代中期)の建築と推定されている。
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正続院(しょうぞくいん)は、円覚寺の開山無学祖元(仏光国師)の塔所(開山塔)。山号は万年山。本尊は文殊菩薩。無学祖元は弘安9(1286)年、建長寺で没した。祖元の遺骨は建長寺に葬られ、墓塔ははじめ建長寺に建立され、正続庵と称した。その後建武2(1335)年、円覚寺15世で祖元の法孫にあたる夢窓疎石は、後醍醐天皇の勅命を奉じて、正続庵を円覚寺に移して正続院とし、祖元の墓塔も円覚寺の裏山に強制的に移された。天明元(1781)年には円覚寺中興と称される誠拙周樗によって正続院内に坐禅道場が開かれ、今日に至っている。境内奥には無学祖元の木像を安置する開山堂があり、その手前に建つ舎利殿(昭堂)は鎌倉時代の禅宗様建築の代表例として国宝に指定されている。舎利殿は鎌倉市西御門にあった尼寺・太平寺(廃寺)から移築したものである。
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円覚寺のもうひとつの唐門は舎利殿の前にある正続院唐門です。正面の柱の間は2.1メートルとさらに小ぶりです。天保十(1839)年の建立です。
装飾の細部は幕末期の特色を示しながら、全体はあっさりし、幕末期の鎌倉の佳作と目されるとのことです。

 

北鎌倉の寺院を見て歩く(1)

久しぶりに鎌倉を歩いてみようと思い立った。一日あたり無理のない範囲で見て回り、合計で何日かかけて、主だったところを見て回ろうと思う。まさか、たった1日でその後の企画が続かなくなることはないと思うがどうだろうか。
北鎌倉を歩くだけで、鎌倉五山の内の第一位の建長寺、第二位の円覚寺、第四位の浄智寺の三寺を見たことになるんだなあ。鎌倉五山の寺院を見て回るのは、そんなに大変なことではない。


円覚寺(1)
結婚するまでは、定期券で途中下車できたので、かなりの回数円覚寺に行った。が、結婚転居後は、行く頻度が激減してしまっている。敷居がかなり高くなってしまったが、気を取り直して訪ねてみた。
ずーっと、考えもなしに、国宝、重要文化財だらけの寺院だと思っていた。が、よくよく調べてみると、建造物は舎利殿が国宝に指定されているだけで、重要文化財指定の建造物は皆無なのか。いわゆる動産に当たる重要文化財は数え切れないほどあるのだが。

そう言われてみれば、円覚寺は、円覚寺は弘安10(1287)年以降、度々火災に見舞われているんだった。中でも応安7(1374)年の大火、大永6(1526)年の里見義豊の兵火、永禄6(1563)年の大火にあって痛い目にあっていたんだ。里見の焼き討ちは本当に迷惑なことだった。寺や幕府の跡ばかりでその当時の事物が殆ど残っていないというのは、鎌倉が世界遺産に指定されない大きな理由の一つになっているのだろう。
震災も影響を及ぼしている。元禄16(1703)年の被害が大きく、大正12(1923)年の関東大震災でも仏殿などが倒壊する被害を受けているんだ。創建当時は総門・三門(山門)・仏殿・法堂・方丈が一直線に並ぶ典型的な禅宗様伽藍配置であったが、現在、法堂は失われているままなんだ。

明治時代以降、廃仏毀釈の大きな動きの中、寺院の比重が大きく下がったが、円覚寺に限っては、今北洪川(いまきたこうせん)老師・釈宗演(しゃくそうえん)老師の師弟のもとに雲水や居士が参集し、多くの人材を輩出したそうだ。その意味で生きた寺院なのだろう。今も土日坐禅会が実施されている。かつて夏目漱石や島崎藤村、三木清も参禅したそうだ。
総門
寺号標と総門
総門_1
山号の「瑞鹿山(ずいろくさん)」は、円覚寺開堂の儀式の際、白鹿の群れが現われ、説法を聴聞したという故事によるものだが、総門に山号を記した掲額がある
総門_2
総門からは山門が見える
総門_3

三門(山門)
再建後、231年経過開花している。それでもまだ、神奈川県指定重要文化財止まりか。『円覚興聖禅寺』の扁額は、北条貞時の時代に伏見上皇から賜ったもの。この扁額だけは、鎌倉時代から、生命に代えてもということで大事に扱われたのだろう。
三門(山門)_1
『円覚興聖禅寺』の扁額が誇らしげに掲げられている
三門(山門)_2
三門(山門)_3
背面から見るとこんなふう
三門(山門)_4
天明5(1785)年、大用国師誠拙周樗が再建したものと言われる。「円覚興聖禅寺」の額字は伏見上皇の勅筆とされる。楼上には十一面観音、十六羅漢像などを安置する。

仏殿
仏殿は、元亀4年(1573年)の仏殿指図に基いて、昭和39(1964)年再建されたものだ。コンクリート造りなのはやむを得ないところだろう。もちろん、文化財の指定はない。ご本尊も撮影禁止扱いにはなっていない。が、薄暗くて、うまく撮ることができなかった。
仏殿_1
仏殿_2
仏殿_3
仏殿は、円覚寺のご本尊が祀られている建物です。大正12年(1923)の関東大震災で倒壊しましたが、昭和39年(1964)に再建されました。禅宗様式の七堂伽藍の中心に位置する建物です。開山毎歳忌、達磨忌、臨済忌、祝聖などの行事や毎朝の暁天坐禅が、ここで行われています。

選仏場
この小さな建物が、仏殿を兼ねていたのか。かなり無理があったものだ。
選仏場_1
選仏場_2
薬師如来立像(南北朝時代)
選仏場_3
選仏場_4
元禄12(1699)年建立の茅葺き屋根の建物。坐禅道場である。内部には薬師如来立像(南北朝時代)を安置する。仏殿が再建されるまでは、この堂が仏殿を兼ねていた。

大方丈(1)
この唐門がどういう意味合いを持つのか私には不明だが、実に立派な門だ。要するに、斯く斯く然々の人物が事前に通知してあると、開けてお待ち申し上げるという感じだろうか。
円覚寺唐門は方丈の前にあります。天保十年(1839)の建立とのことです。彫り物がすばらしく、鎌倉の江戸末期の代表的なものとのことです。正面の柱の間は3.3メートルで、前の丸い柱は36センチ、後ろの角柱は28センチですから、建長寺の唐門よりやや小ぶりです。妻部分は、大瓶束の左右に笈形(おいがた)がつきます。松と鳥、獅子や象(または獏)、扉には龍・雲・波濤など、見事な彫り物が見られます。
大方丈(1)_1
大方丈(1)_2
大方丈(1)_3
大方丈(1)_4
大方丈(1)_5
大方丈(1)_6
ビャクシン(柏槇、和名イブキ)の古木は無学祖元手植えと伝えられる。鎌倉時代から残っているものがあった。
大方丈(1)_7
大方丈(1)_8
大方丈は内部を公開していた。ありがたく見せてもらった。
大方丈(1)_9
大方丈(1)_10
大方丈(1)_11
大方丈(1)_12
大方丈(1)_13
大方丈(1)_14
大方丈(1)_15
大方丈(1)_16
大方丈(1)_17
本来は住職が居住する建物を方丈とよびますが、現在は各種法要の他、坐禅会や説教会、夏期講座等の講演会や秋の宝物風入など、多目的に使われています。

鎌倉幕府8代執権・北条時宗は、弘安元(1278)年から文永の役の戦没者の菩提を弔うためと、己の精神的支柱となった禅道を広めたいと願い円覚寺創建を始めた。弘安5(1282)年に落慶したが、その間、文永の役に続いて弘安の役も起き、弘安の役での戦没者の慰霊も円覚寺の役目となった。当時鎌倉にいた中国出身の高僧蘭渓道隆(建長寺初代住職)は弘安元年7月に没してしまったため、時宗は代わりとなる高僧を捜していた。そして弘安2(1279)年に来日した中国僧・無学祖元(仏光国師)を開山に招いた。鎌倉にはすでに時宗の父・北条時頼が創建した建長寺が存在していたが、官寺的性格の強い同寺に対し、円覚寺は北条氏の私寺という性格がより強かったといわれる。

 

川越の街を歩く(10)

松江町の目立つ建物
蔵造りの町並みを『札の辻』方向から歩いてきて、街並みが尽きるのが『仲町』交差点だ。その交差点を左折すると、前回取り上げた亀屋さんの一連の建物や川越商工会議所などがある。通常の観光客は直進せずに、右折して『大正浪漫夢通り』の方に進むと思われる。
此処で右折せず直進すると、その道の先に、今回取り上げる佐久間旅館、原田家住宅、川越キリスト教会がかたまって存在する。観光コースから外れている感じだが、なかなか味わいがある。


佐久間旅館
埼玉出身の偉人、渋沢栄一翁の助言を受けた建てられた大変な名門旅館だが、現在は旅館部門を休業し、割烹部門のみの営業になっているようだ。機会があれば、利用してみたいものだ。
佐久間旅館のHPによれば、離れの『奥の間』は、100年余の歳月を経た重厚な蔵座敷で、当時の匠の技を結集した純日本風の部屋だそうだ。当時としては斬新なピロティ様式で、建具、調度品なども建築当時のままにしてあるとのことだ。この奥の間は、国の登録有形文化財に指定されていて、島崎藤村が数回宿泊した部屋であり、昭和56年4月第39期将棋名人戦の第一局の対局室にもなったそうだ。

佐久間旅館_1
駐車場の看板を撮ったもの。はっきりしないもので失礼。
佐久間旅館_3
佐久間旅館_4
川越で由緒ある旅館のひとつ。新築された本館の奥に建ち、小屋組の墨書より明治44年の建築で、大工は清水丑太郎。木造2階建、南面の庭側に縁を廻すほかは防火を重視した大壁造とする。2階にある2つの座敷は銘木を用い、洗練された書院造で格調が高い。
『割烹旅館 佐久間旅館』のHPの『奥の間』の頁へjump

原田家住宅
原田家住宅が面す通りは、江戸時代~太平洋戦争まで米問屋が軒を連ねていたのか。こちらの原田家住宅も『足立要』という屋号の米問屋だったようだ。どうりでものすごい蔵造りになっているのが頷ける。川越市内最大規模の鬼瓦とカゲ盛だそうだ。
原田家住宅_1
原田家住宅_2
原田家住宅_3
原田家住宅_4
カワゴエールの原田家住宅の頁にjump

川越キリスト教会
日本聖公会の川越キリスト教会。1878年(明治11年)から川越での宣教を始めたという。そして、1889年(明治22年)に、最初の礼拝堂が建てられたが、わずか4年後の、1893年(明治26年)の大火により焼失してしまったそうだ。その後、1921年(大正10年)に現在地に再建された。95年経過の聖堂なんだ。レンガは当時埼玉県で製造されていたレンガを使用しているのだろうか。こじんまりとしてはいるが、風格のある聖堂のようだ。
川越キリスト教会_1
川越キリスト教会_2
川越キリスト教会_3
川越キリスト教会_4
カワゴエールの川越キリスト教会の頁にjump

以上で、『川越の街を歩く』シリーズは終了です。最後までご覧いただきありがとうございました。

 

川越の街を歩く(9)

仲町(旧志義町周辺)
「蔵造りの町並み」の入口ともいえる仲町交差点。その交差点角には松崎スポーツ店と和菓子の老舗・亀屋がある。これらの建物は、屋根の両端に丸く盛り上がっているカゲ盛り・鬼瓦、重厚な観音開きの扉など、蔵造りの特徴がよく見て取れる。この蔵を観光客相手の商いに利用しないのは、松崎スポーツ店としてのこだわりがあるのかもしれない。
松崎スポーツ店
凄い蔵造りなのに、今はもったいないことに経営するスポーツ用品店の倉庫にしか使われていないようだ。惜しいことだ。
松崎スポーツ店_1
松崎スポーツ店_2
カワゴエールの松崎家住宅の頁にjump
亀屋
山崎家は下記説明からもわかるように、川越切っての豪商。今でも、相当な羽振りだと思われるが、基本は菓子商として、地道に商いを行っているようだ。それが失敗しないコツなのだろうか。
亀屋_1
亀屋_2
亀屋_3
亀屋_4
信州中野(長野県中野市)出身の初代・山崎嘉七が小江戸と呼ばれた川越の現在地に1783年(天明3年)に創業した老舗の菓子屋。以来、代々、武蔵国川越藩の御用を勤め、店主は苗字、帯刀御免。1847年(弘化4年)には京都嵯峨御所から「亀屋河内大掾藤原嘉永」の資格を授かる。特に四代目の「山崎嘉七」を襲名した山崎豊は1867年(慶応3年)に川越藩の御用商人となり明治期に「第八十五銀行」と「川越貯蓄銀行」の2つの頭取を兼ねるなど豪商であった。
川越市の一番街にある本店は川越大火直後の1893年(明治26年)7月14日に建てられた豪壮な蔵造りで、店蔵と袖蔵を併せ持つ「袖蔵」形式の代表的な建築として知られる。隣接地に千本格子をはめ込んだ京風の茶店・「亀屋山崎茶店」、土蔵造りの「山崎美術館」、赤煉瓦塀、白漆喰仕上げの大蔵の「茶陶苑」など山崎家の歴史的建物が連なる。

山崎美術館
山崎美術館_1
山崎美術館_2
山崎美術館_3
亀屋山崎茶店
亀屋山崎茶店_1
亀屋山崎茶店_2
川越商工会議所
武州銀行川越支店だった建物か。こちらの建物もかなり立派。いつも見とれてしまう。いま、武州の名前が会社名に残るのは、武州ガスさんくらいだろうか。
川越商工会議所_1
川越商工会議所_2
パルテノン神殿を思わせるこの建物は、国指定有形文化財の川越商工会議所。
建てられたのは、昭和3年(1928年)。武州銀行川越支店として前田健二郎という方が設計しました。その後昭和45年(1970年)に川越商工会議所が譲り受け、現在も現役ばりばりで使われています。

カワゴエールの川越商工会議所の頁にjump

 

川越の街を歩く(8)

幸町(旧鍛冶町周辺)
仲町交差点をあとに中央通りを北に向かって進むと、左手に西洋館が2つ並んで建っている。向かって左側が田中屋仲町店、右側が旧山吉デパート。現在、田中屋はカフェ・エレバート、旧山吉デパートは保刈歯科医院に代替わりしている。この一画だけは大正と昭和初期の建物が建ち並び、ちょっとレトロな感じがしている。
田中屋(Cafe Elevato)
石造りの洋館に見えるが、構造は木造二階建ての土蔵造りだという。そう説明を受けてもにわかには信じられない感じ。手がかかっているんだなあ。大正4年(1915年)建築で、創業時は桜井銃砲店か。百年経過の物件なんだ。
田中屋(Cafe Elevato)_1
田中屋(Cafe Elevato)_2
一見石造りの洋館に見えますが構造は木造二階建ての土蔵造り。現在は川越アートカフェ「カフェ エレバート」です。
旧山吉デパート
こちらは、装飾がとてもきれい。一階のステンドグラスは、別府ステンド硝子製作所の手になるものだそうだ。流石に元デパート(丸広百貨店)だけあるなと思う。しかしながら、デパートとしては、いくら地方都市でも小さすぎる。こちらと旧第八十五銀行本店(埼玉りそな銀行川越支店)とは、保岡勝也の作品だそうだ。そう言われれば、粋さ加減は共通するものがあるように思う。昭和11年(1936年)の建築で、保岡の最後の作品だそうだ。
旧山吉デパート
4本のイオニア式大列柱と壁面の唐草模様のレリーフが印象的な建物。「まるひろ」の前身です。現在は保刈歯科医院。
カワゴエールの旧山吉デパートの頁にjump
埼玉りそな銀行
旧第八十五銀行本店のふさわしい堂々たる威容だ。本当に素晴らしい建物だと思う。埼玉県初の銀行は、浦和ではなく川越に1878年(明治11年)に誕生したのか。その建屋が明治の大火で焼け、建て直された社屋が大正7年(1918年)にできたこの建物。随分間が空いて建て直されたんだ。満を持しただけあり、すごい建物だ。
埼玉りそな銀行_1
埼玉りそな銀行_2
蔵造りの町の中心に青緑色のドームが目立つ建物、埼玉りそな銀行川越支店(旧第八十五銀行)がそびえ立ちます。
建物は大正7年(1918)に第八十五銀行の本店として建てられました。鉄骨鉄筋コンクリート造り、三階建て、搭屋・金庫室付き。高さ25m、面積291㎡。近代金融史のシンボル的な洋風建築で、ネオ・ルネッサンス、サラセン風デザインは、保岡勝也氏による設計です。
この場所は元来川越藩の御用商人・横田五郎兵衛の敷地でした。五郎兵衛は明治期の川越の政治・経済・教育の分野で活躍した人物で、埼玉県初の銀行・第八十五国立銀行を設立した人としても知られています。
埼玉りそな銀行川越支店(旧第八十五銀行本店)は、川越の伝統的な町並みの中で近代のあゆみを示す象徴として、平成8年(1996)に国の登録有形文化財の指定を受けました。


 

川越の街を歩く(7)

幸町(旧多賀町周辺)
城下町川越のシンボル・時の鐘のあるこの付近は、その昔桶屋が多く住む職人町で、桶の箍(たが)から多賀町といわれていた。よほど、そういう音が四方から聞こえていた街だったのかもしれない。その名残が時の鐘の足元に残っている。現在は幸町に変わっている。
一番街と鐘つき通り(旧多賀町筋)が丁字に交差する角地には、切妻造りの熊重酒店と、入母屋造りの近長商店がある。時の鐘を左手に見上げながら鐘つき通りを進むと右手には福田家住宅がある。その先はかつての職人町の所為か、大きな建物は見当たらず、やや寂しい感じだ。


時の鐘
今現在はこのような状態。見どころの一つだというのに、どうしてくれよう。耐震化工事中なのか。文化財を保たせるためには、致し方ないことなのだろうが。
時の鐘_1
2013年5月29日撮影時の様子
時の鐘_2
時の鐘_3
旧町名の『多賀町』の表示があった
時の鐘_4
時の鐘_5
時の鐘_6
時の鐘_7
鐘の部分がはっきり写っているPDF画像を借用
時の鐘_8
情緒あふれる蔵造りの町並みにひときわ高くそびえる川越のシンボル「時の鐘」。蔵造りの町並み「一番街」と同様に、城下の頃の面影を残す建造物で、江戸時代初頭から城下の町に時を告げ、庶民に親しまれてきた時計台である。
今から約400年前、当時の川越藩主だった酒井忠勝によって創建されたといわれる。以来度重なる火災で鐘楼や銅鐘が焼失したが江戸時代を通じて度々建て替えられた。
現在建っているのは4代目に当たり、明治26年に起きた川越大火直後に再建されたもの。町の3分の1が焼失した中で、暮らしに欠かせない「時」を告げる時計台は、自らの店も再建していない川越の商人達によって、いち早く建て直された。


熊重酒店
こんな感じの蔵がいいなあ。酒屋はある程度薄暗い感じのほうが商品の保管上もいいのだろう。
下屋庇(げやびさし)付の土蔵造りで、外壁には漆喰の剥離を防ぐために銅板を巻いてあるんだそうだ。そんな細かいところまで気が付かなかった。が、あとから鐘つき通り側の外壁の写真を見ると、確かに銅板が巻いてあるのがわかる。

熊重酒店_1
熊重酒店_2
以前使用したショットだが、右端に写っている熊重酒店の外壁には、確かに漆喰の剥落保護のため、銅版が巻かれているのがわかる。
太陽堂書店と理容店『銀巴里』_1
カワゴエールの熊重酒店の頁にjump

近長商店
此処は何と言っても屋根の上の飾りが目立つ。一番街に面した店口でメインで商うものは、今回は『おからドーナツ』だった。近江屋長兵衛商店(近長商店)は、豆腐料理のお店。『近長』の名前が付く店が3軒並ぶ。親戚筋の店同士のようだ。
川越は近江商人がつくった街と言われるそうだ。そう言えば、国指定重要文化財の大沢家も、近江屋半右衛門という商人が建てたんだった。

近長商店_1
近長商店_2
近長商店_3

福田家住宅
元は銀行の店舗だったのか。その割には小さな感じだし、老朽化が進んでいるように見えた。早急に修理しないと崩れ落ちそうだった。
福田家住宅_1
福田家住宅_2
福田家住宅_3
カワゴエールの福田家住宅の頁にjump

 

川越の街を歩く(6)

陶舗やまわ
おそらく一番街で一番目立つ蔵造りの建物。到底通過することなんてできない。じっくり見させていただいた。一番街の通りと長喜院に通じる参道の角地にある。屋根にあると言われる鍾馗さまは見落としてしまった。肉眼では識別でき無さそうだ。
陶舗やまわ_1
陶舗やまわ_2
陶舗やまわ_3
陶舗やまわ_4
陶舗やまわ_5
陶舗やまわ_7
陶舗やまわ_6
埼玉県川越市の幸町にある陶舗やまわは、陶磁器、漆器、ガラス器などを販売する陶器専門店です。明治26年建築の店蔵(蔵造り)を利用した店内は、重厚な造りの外観とは一転、明るくモダンな雰囲気で地元陶芸作家の作品を展示・販売しています。
建物は明治26年(1893)の川越大火後、呉服商を営んでいた山本平兵衛が建てた入母屋造り、平入りの見事な蔵造りです。NHK連続テレビ小説「つばさ」では、ヒロインの実家である「甘玉堂」として撮影されました。

カワゴエールの陶舗やまわ(原家住宅)の頁へjump

長喜院
養寿院と異なり入りやすい境内だ。境内で一際目に留まるのが、苦行釈迦像だそうだ。迂闊なことに見落としてしまった。悟りを開く直前直後の釈迦を表した像で、パキスタンにあるラホール美術館蔵「苦行の釈迦像」の原寸大レプリカ像だそうだ。写真を見て、何処かで見た気がしたが、建長寺で見たものと同じものだったんだ。私が一番印象に残ったのは、金色に輝く鴟尾だったのだが。
長喜院_1
長喜院_2
長喜院_3
長喜院_4
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川越の街を歩く(5)

幸町から元町(旧南町周辺) 但し、『陶舗やまわ』を除く
旧町名が南町は、城下町の中心として高札が立てられた場所である『札の辻』の南側に当たるので、この名がついたそうだ。現在の町名は幸町。その幸町一番街周辺は、江戸時代から明治・大正時代にかけて川越の中心街だった。
明治26年(1893)、川越始まって以来の大火により川越の街は壊滅的な被害を受けた。この幸町一帯も殆ど焼失したが、大沢家住宅をはじめ数軒の蔵造りの家は焼け残った。焼け野原の中に歴然とその姿をとどめる蔵造り。この大火によって蔵造りの耐火性がはっきりと示されされ、復興にあたり町の商人たちはこぞって蔵造りを建て始めた。
明治35年(1902)には70軒ほどありましたが戦後は次々と建てかえられ、現在は30余軒を残すだけとなっています。

公式的にはこの程度の紹介だが、駅前の商業の中心が移り、その影響を受けた一番街が衰退し、蔵造りも次々壊されていく状況が顕著になってきた。そのことに危機感を覚えた市民たちが立ち上がって、保存運動を展開したようだ。それが功を奏して、今の町並みが残り、観光地としても繁栄している。

蔵造り資料館
派手さには欠けるきらいがないでもないが、重厚な感じが残っていると思う。明治の川越大火後、いち早く蔵造りを取り入れた建物のようだ。現在は蔵造り資料館となっている。今回は休館日でパスしたが、なかなか見ごたえがある資料館だと思う。
蔵造り資料館_1
蔵造り資料館_2
一番街に黒漆喰仕上げの重厚な外観を見せ、のれんを張り出している蔵造りの建物があります。昭和52年(1977)10月にオープンした川越市蔵造り資料館(旧小山家住宅、屋号「万文(まんぶん)」)です。
カワゴエールの蔵造り資料館へjump
服部民俗資料館
ここも入ったことがない。どんどん入って確認しなくちゃいけないが、あいにくこの日はこちらも休館日だった。大沢家住宅、蔵造り資料館、それにここと、川越の資料館は月曜日が休みなのかなあ。せめて休みは、月曜日か水曜日かに統一してほしいものだ。春に特別公開される雛人形を見に行かせてもらうのも、名案かもしれない。
服部民俗資料館
埼玉県川越市の幸町にある服部民俗資料館は、もとは照降商(てりふりしょう、傘や下駄を扱う靴屋)と薬種商(やくしゅしょう、薬を調合・販売する薬屋)を営んでいた商家・服部家住宅でした。
建物は江戸時代後期の商家の面影を残す切妻造り平入り。川越大火の直後、明治26年(1893)に上棟式を行なったと伝えられています。
昭和59年(1984)に服部民俗資料館を開館し、代々同家に伝わる商家の民具を中心に一般公開(無料)しました。館内には下駄や雪駄、薬の広告看板などが陳列され、座敷には帳場が置かれています。これらの民具は集めたものではなく、服部家で実際に使用されていたものです。春になると、江戸時代の人形師・仲秀英(なかしゅうえい)の手になる名品、嘉永5年(1852年)の銘を持つひな人形が特別公開されます。

深善(ふかぜん)
凄く目立つ。土蔵造りの他の建物が観音開きの窓にしているのに対し、こちらは、見ての通りの開放的な窓になっている。その分、他で防火対策を厳重に行ったようだ。創業は、元文3年(1738年)だそうだ。何と278年前だ。
刃物商まちかん
『陶舗やまわ』と『深善』とに挟まれ、否が応でも目立つ。また、カメラを向ければ、必ず入ってくるだろう。なかなか味のある建物だ。大店に挟まれているので、少し屋根を高くしたようだ。また、観音扉のジャバラ部分の意匠が素晴らしい。
こちらも、天保13年(1842年)から続く老舗。174年経つんだ。『刀剪鋪 十一代・町屋勘右衛門』というのが、正式な店名なのかな。大変な専門店のようだ。観光客目当ての店ではないようだ。

深善(ふかぜん)&刃物商まちかん_1
深善(ふかぜん)&刃物商まちかん_2
深善(ふかぜん)&刃物商まちかん_3
深善(ふかぜん)&刃物商まちかん_4
深善(ふかぜん)&刃物商まちかん_5
深善(ふかぜん)&刃物商まちかん_6
深善(ふかぜん)&刃物商まちかん_7
深善(ふかぜん)&刃物商まちかん_8
深善(ふかぜん)&刃物商まちかん_9
深善(ふかぜん)&刃物商まちかん_10
カワゴエールの深善の頁へjump
太陽堂書店と理容店『銀巴里』
土蔵造り風の町家のようだが、なかなかの貫禄がある。『深善』の右隣。理容店を利用すれば、昔の話を聞くことができるかもしれない。
太陽堂書店と理容店『銀巴里』_1
太陽堂書店と理容店『銀巴里』_2

 

川越の街を歩く(4) 2016.10.02 16:40追記

川越城本丸御殿が休館日でがっかり。諦めてはモトが取れない。次なる被写体を求めて、札の辻から菓子屋横丁を目指す。

途中にあった見事な看板建築
今は1-2階が手打ちそばの店『百丈』という店になっているが、その昔は釣具屋さんだったようだ。調べたら、昭和7年建築の湯宮釣具店の店舗だったようだ。ものすごくおしゃれな看板建築だ。
途中にあった見事な看板建築_1
途中にあった見事な看板建築_2

菓子屋横丁
前回行ったときに初めて行ったのだが、水曜日で一番街がお休みの店が多く、菓子屋横丁もひっそり閑としていた。今回はそんなことはなく、まずまずの人出があった。
どうにも爺さん一人では店の中に入るのは躊躇われる。勇気を出して入ればよいはずだが。

菓子屋横丁_1
菓子屋横丁_2
菓子屋横丁_3
菓子屋横丁_4
菓子屋横丁_5
色とりどりのガラスが散りばめられた石畳の道に、22軒の菓子屋・駄菓子屋がひしめく川越の有名なスポット「菓子屋横丁」。素朴で昔懐かしい味を今に伝える菓子作りの店が立ち並び、一歩足を踏み入れると、誰もが子供に返ったような気分になってしまう。醤油の焼ける香ばしい香り、ニッキやハッカ飴、駄菓子やだんごなど、昔ながらの手法で作られる飴菓子・カルメ焼きなど、思わず「あっこれ!」と言ってしまう駄菓子の数々…。百円玉を握りしめ、あれにしようかこれにしようかと頭をひねった幼い頃を思い出す大人も、駄菓子をあまり知らない子供も世代を超えて、誰もがワクワクしてしまうような場所である。

養寿院
菓子屋横丁の裏手すぐのところに養寿院がある。あまりに佇まいが立派なのでこちらは気後れしてしまう。だが、『小江戸川越情報!』にも紹介されているくらいなので、受付でその旨を話せば、見学させてもらうことは可能だと思う。
養寿院山門
養寿院山門
以下2点はPDF画像を借用
養寿院本堂
養寿院本堂
河越重頼墓
河越重頼墓
寛元(1244年)、河越氏の当主・河越経重が開基となり、大阿闍梨円慶法師が開いた寺。密教の古道場であったが、天文4年(1535年)に天台宗から曹洞宗に改められた。徳川家康の関東入国の際に、家康から御朱印十石を賜った。家康は鷹狩りで立ち寄っている。
本堂には河越氏が京都東山新日吉山王社に寄進した文応元年(1260年)銘の銅鐘(国の重要文化財工芸品)が保存されている。鐘には「武蔵国河肥庄新日吉山王宮」と「河肥」の文字があり、歴史的に貴重なものである。
墓地内には河越太郎重頼の墓があり、寺には岩手県雲際寺にある源義経と重頼の娘である正室の位牌の写しが安置されている。また江戸時代に河越藩主・秋元喬知に仕えた名家老・岩田彦助の墓もある。

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寛元(1244年)、河越氏の当主・河越経重が開基となり、大阿闍梨円慶法師が開いた寺。密教の古道場であったが、天文4年(1535年)に天台宗から曹洞宗に改められた。徳川家康の関東入国の際に、家康から御朱印十石を賜った。家康は鷹狩りで立ち寄っている。
本堂には河越氏が京都東山新日吉山王社に寄進した文応元年(1260年)銘の銅鐘(国の重要文化財工芸品)が保存されている。鐘には「武蔵国河肥庄新日吉山王宮」と「河肥」の文字があり、歴史的に貴重なものである。
墓地内には河越太郎重頼の墓があり、寺には岩手県雲際寺にある源義経と重頼の娘である正室の位牌の写しが安置されている。また江戸時代に河越藩主・秋元喬知に仕えた名家老・岩田彦助の墓もある。

小江戸川越情報!養寿院の頁へjump

養寿院の向かいにある鰻屋
このあたりで正午ごろになってしまう。空きっ腹には堪えるうなぎの香ばしい匂い。一度入らなくっちゃ。
養寿院の向かいにある鰻屋

大沢家住宅(国指定重要文化財)
喜多院、仙波東照宮、日枝神社と並んで国の重要文化財に指定されている。場所的にはかなり札の辻に近いあたりまで行くので、見落としていらっしゃる方が少なくないのでは。
何の変哲もない普通の蔵造りのように見えるが、実は蔵の街川越の原点となる蔵造りなのである。ここ建物は、寛政4年(1792年)に近江国出身で呉服太物の近江屋を営んでいた豪商・西村半右衛門が建てた蔵造りの店舗建築。川越大火で例外的に焼失を免れ、耐火性の高さが知られることとなった。それを他の川越商人が真似をしていったのだ。昭和46年(1971年)に国の重要文化財の指定を受け、また、平成元年(1989年)から5年間を費やし大規模な修理が行なわれ、創建当時の姿に甦ったとのことである。
外見が地味に見えるのは、建てたのがまだ江戸時代だったので、一見しただけでは派手だと思われないようにつくったようだ。店内の2本の大黒柱は、江戸相撲の人気力士で大横綱の谷風梶之助が贔屓の近江屋半右衛門のために、一人で立てたという逸話が残っているそうだ。う~~ん、凄い。
有料の見学ができるようになっているので、臆すること無しに足を踏み入れてほしい。この日は休館日だったようだ。
大沢家住宅(国指定重要文化財)_1
大沢家住宅(国指定重要文化財)_2
大沢家住宅は、埼玉県川越市にある蔵造り建築。明治26年(1893年)の川越大火の焼失を免れた川越最古の蔵造りで、現存する関東地方最古の蔵造りでもある。国の重要文化財の指定を受けている。現在の屋号から「小松屋」とも呼ばれている。
小江戸川越情報!大沢家の頁へjump

 

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