散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

川越の街を歩く(2)

喜多院(2)
慈眼堂(国指定重要文化財)
正保2年(1645年)建立。慈眼大師天海を祀る。厨子に入った天海僧正の木像が安置されている。何と三代将軍家光の命に依り、この堂を建てたという。天海僧正の評価が異常に高かったことがわかろう。出羽三山の中興の祖で、後に新島に遠島になった第五十代別当の天宥法印が、天海僧正の威光に縋ったという事情もわからないでもない。
慈眼堂(国指定重要文化財)_1
慈眼堂(国指定重要文化財)_2
客殿(重要文化財)
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書院(重要文化財)
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庫裏(重要文化財)
寛永15年(1638年)、川越大火で山門と経蔵以外の伽藍を焼失するが、翌年、徳川家光の命で、江戸城紅葉山御殿の一部を移築した。これが今に残る客殿、書院、庫裏だそうだ。これらを運ぶために新河岸川の舟運が開かれた。そうだったのか。
写真撮影禁止だし、天気が崩れないうちにめぼしいところを廻りたい思惑があったので、今回は外側の写真を数枚撮っただけ。順路表示に従って見ているうちに、方向音痴の私は毎回位置関係がわからなくなってしまう。心配だったので、境内マップで確認済み。
慈恵堂と客殿とを繋ぐ渡り廊下。この裏側が、紅葉山庭園。
客殿・書院・庫裡_1
客殿・書院・庫裡_4
紅葉山庭園(PDF画像を借用)
右端の建物が、客殿。中央の落葉している樹木が三代将軍お手植えの桜だろうか。
紅葉山庭園
渡り廊下で客殿とつながる慈恵堂
客殿・書院・庫裡_2
見えている建物が庫裡。その左に屋根が少し見えるのが客殿であり、「徳川家光誕生の間」がある。庫裡の裏側には、書院があり、「春日局化粧の間」がある。
客殿・書院・庫裡_5
五百羅漢
今回は、これもパス。2013.05.29撮影分の一部写真を使用。砂岩に彫ったようで、苔むしていて、非常に見えにくくなっていた。そのことが残念だ。
五百羅漢_1
五百羅漢_2
五百羅漢_3
五百羅漢_4
五百羅漢_5
五百羅漢_6
五百羅漢_7

次の2つは明治維新より以前は、喜多院の境内にあった密接不可分の神社だった。しかし、新政府の神仏分離の政策に従い、それぞれ独立した。

仙波東照宮(国指定重要文化財)
日光・久能山とならび、三大東照宮とされる仙波東照宮。『三大○○』と称せられるものが数多くあるが、三番目は、意外に『何だっけ』というものが少なくない。此処もそうかもしれない。
家康は元和2年(1616)4月17日、75歳で駿府城内で死去する。死後、遺体は一旦久能山に葬られた後、遺言に依って、元和3(1617)年、2代将軍秀忠は亡父家康の遺骸をあらためて日光に移葬した。同年3月15日出発し、同23日、その途中、仙波喜多院の大堂(薬師堂、のちに東照宮本地堂とも言いました)に到着した。ここで天海僧正自らが導師となって、3月26日までの4日間、衆憎を集めて、丁重な法要を厳修したのだそうだ。
簡単にいえば、このことを記念するのが仙波東照宮だ。ということで、日枝神社と違って、神社としては、途中からの割り込み組と言えよう。

日祭日には開門するようだ。この日は閉門されたままで、残念。仕方がないので、2013.05.29撮影の一部写真を使用。
仙波東照宮(国指定重要文化財)_1
仙波東照宮(国指定重要文化財)_2
仙波東照宮(国指定重要文化財)_3
仙波東照宮(国指定重要文化財)_4
仙波東照宮(国指定重要文化財)_5
仙波東照宮(国指定重要文化財)_6
仙波東照宮(国指定重要文化財)_7
仙波東照宮(国指定重要文化財)_8
仙波東照宮(国指定重要文化財)_9
仙波東照宮(国指定重要文化財)_10
仙波東照宮(国指定重要文化財)_11
仙波東照宮(国指定重要文化財)_12
仙波東照宮(国指定重要文化財)_13
仙波東照宮(国指定重要文化財)_14
仙波東照宮のHPへjump

日枝神社(国指定重要文化財)
こちらが創建時から無量壽寺(喜多院はそのうちの一つで北院だった)の鎮守の神社だった。
正面からは拝殿しか見えないので、後方から本殿を撮ってみた。何と赤坂日枝神社の本社に当たるそうだ。それは喜多院が徳川とのつながりを持つはるか以前の文明10年(1478年)、太田道灌が江戸城築城の際に、この川越日枝神社から分祀したからだ。そういうことか。昔から、有名な寺院であり、神社であったんだ。いまは、喜多院は観光的には有名な寺院であるが、喜多院・日枝神社ともに宗教的にはどういう位置づけなのだろうか。う~~ん。

日枝神社(国指定重要文化財)_1
日枝神社(国指定重要文化財)_2
日枝神社(国指定重要文化財)_3
日枝神社(国指定重要文化財)_4
日枝神社(国指定重要文化財)_5
日枝神社(国指定重要文化財)_6
日枝神社(国指定重要文化財)_7
日枝神社(ひえじんじゃ)は、埼玉県川越市小仙波町の神社。旧社格は県社。もともと喜多院の境内にあったが、県道建設のため大正時代に仙波古墳群という前方後円墳を開削して喜多院門前に移転した。
円仁(慈覚大師)が喜多院を創建(天長7年・830年)したおりに、その鎮守として貞観2年(860年)に坂本の日吉大社を勧請したものであるといわれている。東京赤坂の日枝神社(旧官幣大社)は、文明10年(1478年)、太田道灌が江戸城築城の際に、この川越日枝神社から分祀したものである。(赤坂日枝神社もそう記述している)
本殿は朱塗りの三間社流造、銅板葺で国の重要文化財に指定されている。拝殿は老朽化が深刻だったため、近年、新拝殿が再建された。

 

川越の街を歩く(1)

秋の長雨の合間を縫って、川越の街を歩いた。平日だから空いているだろうと思っていたのに、結構な人出があった。

喜多院(1)
平安初期の天長7年(830年)に創建された古刹。慶長4年(1599年)、徳川家の尊崇が厚かった天海僧正が第27世住職として入寺し寺号を喜多院と改めてから、勢いが飛躍的に増大した。
山門(国指定重要文化財)
寛永9(1632)年、天海僧正により建立された。喜多院で現存する最古の建物。384年が経過しているのか。何度も喜多院に通っているが、これが山門で国指定の重要文化財だとは思わなかった。
山門(国指定重要文化財)

鐘楼門(附:銅鐘)(国指定重要文化財)
Wikipediaでは、元禄15(1702)年に建立とされているが、これは銅鐘の銘がそうなっているのを誤記したのではなかろうか。なお、附指定で銅鐘も記載されているが、こちらも喜多院のHPによれば、国認定美術品となっていて、食い違いがある。
喜多院のHPでは、寛永10(1633)年に建立された記録があり、大火での再建記録もないことから、寛永15(1638)年の川越大火をも免れたようだとされている。
こちらは誰が見ても立派な由緒あるものだとわかる。私でも見落としたことはない。これは、今は別組織となった仙波東照宮の門として作られたとか。
境内側(背面)からの様子
民家が写ってしまうのがやや艶消しだ。彫刻は鷹だそうだ。
鐘楼門(附:銅鐘)(国指定重要文化財)_1
鐘楼門(附:銅鐘)(国指定重要文化財)_3
鐘楼門(附:銅鐘)(国指定重要文化財)_4
鐘楼門(附:銅鐘)(国指定重要文化財)_5
道路側(前面)からの様子
彫刻は、見ての通り龍。あの立て看板などがなければなあと思うのだが、…。
鐘楼門(附:銅鐘)(国指定重要文化財)_6
鐘楼門(附:銅鐘)(国指定重要文化財)_7
鐘楼門(附:銅鐘)(国指定重要文化財)_8
鐘楼門(附:銅鐘)(国指定重要文化財)_9

多宝塔(県指定有形文化財[建造物])
これは国指定の重要文化財になっていると勘違いしていた。まだ県指定有形文化財だったんだ。寛永16(1639)年に建立された。その後、老朽化が進んだため、慈恵堂(本堂)そばに、明治43(1910)年に移築。但し、この移築で大幅な改造が施されていたため、昭和48(1973)年に、解体修理を行い、現在地に復元した。こんなことがなければ、国指定重要文化財になっていることは間違いがないのだろう。
多宝塔(県指定有形文化財[建造物])_1
多宝塔(県指定有形文化財[建造物])_2
多宝塔(県指定有形文化財[建造物])_3

慈恵堂(県指定有形文化財[建造物])
いわゆる本堂。天台宗の古刹には決まって見られる建物だが、こちらにも存在する。川越大火で焼失したが、その翌年の寛永16(1639)年には、早くも再建がなされたそうだ。なお、堂内には、正安2(1300)年に作られた銅鐘があり、国指定の重要文化財だ。年に一度、除夜の鐘として撞かれるそうだ。
慈恵堂(県指定有形文化財[建造物])_1
慈恵堂(県指定有形文化財[建造物])_2
慈恵堂(県指定有形文化財[建造物])_3

平安初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が建立し、当初は無量寿寺と号した。無量寿寺には北院、中院、南院があり、伏見天皇が尊海僧正に命じ関東天台宗の本山とした。後伏見天皇は東国580寺の本山としての勅書を下し、後奈良天皇は星野山の勅額を下した。永禄年間(1558年-1570年)頃までは3院が存在していたが、寛永10年(1633年)に中院のあった場所に仙波東照宮が建てられた為、中院はさらに200m南方に移動し、南院は明治の初めに廃院となり、その一角とされる場所には数十基の石の塔婆が残っている。
慶長4年(1599年)、徳川家の尊崇が厚かった天海僧正が第27世住職として入寺し、寺号を喜多院と改めた。川越藩主となった老中・酒井忠利は喜多院の再興に当たった。慶長18年(1613年)には徳川秀忠の関東天台法度により関東天台総本山と定められ、500石の寺領を賜った。寛永15年(1638年)、川越大火で山門と経蔵以外の伽藍を焼失するが、翌年、徳川家光の命で、江戸城紅葉山御殿の一部を移築した。これが今に残る客殿、書院、庫裏であり、これらを運ぶために新河岸川の舟運が開かれた。川越藩主を経て幕閣で老中にあった堀田正盛は喜多院や仙波東照宮再建の奉行を命ぜられ、天海を助けた。4代将軍・徳川家綱は200石を加増し750石・寺域48,000坪の大寺となり、徳川家に厚く保護され隆盛した。

 

横浜の山手町を歩く(10) 2016.0928 14:40追記

港の見える丘からの眺望
いつも同じような写真ばかり撮っている。自分でも呆れてしまう。今回は天気が良くなく、少し拗ねたような感じがした。それはそれで良いのだが、はっきりしない写真ばかりだ。
港の見える丘からの眺望_1
港の見える丘からの眺望_2
港の見える丘からの眺望_3
港の見える丘からの眺望_4
港の見える丘からの眺望_5
港の見える丘からの眺望_6
港の見える丘からの眺望_7
港の見える丘からの眺望_8
港の見える丘からの眺望_9

大佛次郎記念館
この位置に大佛次郎記念館があり、少し奥まった位置に神奈川近代文学館がある。文学愛好家だったならば、是非行ってみたい場所なのだと思う。私には、…。
大佛次郎記念館
港の見える丘公園の展望台の南側に広がる沈床花壇の奥にアーチ型の屋根と赤レンガ色の外観が一際目立つ館。横浜ゆかりの作家「大佛次郎」の業績と生涯を様々な資料で紹介しています。大佛次郎は横浜で生まれ、そして横浜を最も多く描いた作家と言われています。中でも「霧笛」「幻燈」は開化期の横浜を愛惜をこめて描いた名作として今も多くの人々を魅了し続けています。代表作には「パリ燃ゆ」「天皇の世紀」「帰郷」「赤穂浪士」などがあり、「鞍馬天狗」の作者としても親しまれています。また館内には、愛猫家であった大佛次郎が所蔵していた猫の置物も、多数展示されています。

山手111番館
第2水曜日で休館だった。外観はごく普通の洋館のようにしか見えないが、実は内部が凄く素晴らしい。あまり気づかないかもしれないが、床に実にお金を掛けてある。この辺は、欧米人の建てた家という感じがする。
前回の訪問時撮影分からダイジェストで紹介したい。2階は海を見晴らす寝室と回廊、スリーピングポーチからなるそうだ。う~~ん、スリーピングポーチまであったのか。通常の見学では階段を上がることが出来ない。公開する日に行くしか無い。

山手111番館_1
山手111番館_2
山手111番館_3
山手111番館_4
山手111番館_5
山手111番館_6
山手111番館_7
山手111番館_8
山手111番館_9
山手111番館_10
山手111番館_11
山手111番館は、横浜市イギリス館の南側にあるスパニッシュスタイルの洋館です。ワシン坂通りに面した広い芝生を前庭とし、港の見える丘公園のローズガーデンを見下ろす建物は、大正15(1926)年にアメリカ人ラフィン氏の住宅として建設されました。設計者は、ベーリック・ホールと同じく、J.H.モーガンです。玄関前の3連アーチが同じ意匠ですが、山手111番館は天井がなくパーゴラになっているため、異なる印象を与えます。大正9(1920)年に来日したモーガンは、横浜を中心に数多くの作品を残していますが、山手111番館は彼の代表作の一つと言えます。赤い瓦屋根に白壁の建物は、地階がコンクリート、地上が木造2階建ての寄棟造りです。創建当時は、地階部分にガレージや使用人部屋、1階に吹き抜けのホール、厨房、食堂と居室、2階は海を見晴らす寝室と回廊、スリーピングポーチを配していました。 
横浜市は、平成8(1996)年に敷地を取得し、建物の寄贈を受けて保存、改修工事を行い、平成11(1999)年から一般公開しています。館内は昭和初期の洋館を体験できるよう家具などを配置し、設計者モーガンに関する展示等も行っています。現在、ローズガーデンから入る地階部分は、喫茶室として利用されています。


山手111番館紹介記事(横浜の名建築第2回)へjump
山手111番館紹介記事(ラフィンさんが住んだ山手111番館)へjump

以上で『横浜の山手町を歩く』シリーズは終了です。最後までご覧いただきありがとうございました。

 

横浜の山手町を歩く(9)

横浜市イギリス館の前庭の様子
横浜市イギリス館の前庭には、見事なバラ園が広がる。港町横浜市の花はバラなのだそうだ。それを気持ちよく見せてくれる。山下公園のバラと並んで、人気が高いのではなかろうか。
ベイブリッジがよく見える
港の見える丘からはもっとよく見えるのは確かだ。しかし、このアングルから見るベイブリッジはなかなかのもののように思う。私の大好きな撮影場所だ。
ベイブリッジがよく見える
バラさんたち
9月14日に咲いていた前庭のバラさんたちだ。時期的には秋咲きの走りだと思う。せっかくきれいに咲きだしたのに、しっかり解像していない写真のオンパレードで、申し訳ない。
バラさんたち_1
バラさんたち_2
バラさんたち_3
バラさんたち_4
バラさんたち_5
バラさんたち_6
バラさんたち_7
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バラさんたち_11
バラさんたち_12
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バラさんたち_15
バラさんたち_16
バラさんたち_17
バラさんたち_19
これだけは桔梗の花だと思う。単色ではなく、班入りのようになっているのが面白く撮ってみた。
バラさんたち_18

 

横浜の山手町を歩く(8)

横浜市イギリス館
この建物を見る度、どこかで見た感じだなと思う。私の既視感の原因は、函館市旧イギリス領事館を何度も見ているからだ。どちらの建物も似ているのは、共に大英帝国の上海の部署の設計によるものだからだろう。
これが英国風の建物か。どこが英国風なのかとは聞かないでいただきたい。特徴的な要素の一つに、独特の煙突の存在があるのかもしれない。暖炉に使用する程度で、こんな馬鹿でかい煙突は不要だと思うのだが、…。

外観
独特の煙突とか、王冠入りの銘版(ジョージⅥ世の時代)とかが目を引く
外観_1
外観_2
外観_3
外観_4
外観_5
外観_6
外観_7
1階部分
少数のスタッフがいた執務スペースだったのだろうか。大きな部屋が貸しホールになっていて、いつ行ってもコンサートなどが行われていて、十分に確認できていないのだが。
1階部分_1
1階部分_2
1階部分_3
1階部分_6
大英帝国の公館らしく、キッチンスペースは充実している。ちょっとした人数の会議でも、ケータリングサービスに頼まず、自前で賄えたと思う。
1階部分_7
1階部分_8
階段
階段踊り場からは、バラ園が広がり、海も見える。ガーデニング大好き人間が多い国らしいなあ。
階段_01
階段_02
階段_1
階段_2
階段のシャンデリアは素敵だ
階段_3
2階公用部分
私が勝手にそう思っているだけだ。此処で会議や打ち合わせを行ったのだろうか。
2階公用部分_1
2階公用部分_2
2階公用部分_5
2階公用部分_6
2階公用部分_7
此処は、基本的には公用の部分かなあ
2階公用部分_3
2階公用部分_4
2階公用部分_8
2階領事住居部分
2階の半分以上は、領事のプライベート部分。基本的に遅刻するということはありえないんだ。
2階領事住居部分_1
2階領事住居部分_2
2階領事住居部分_3
2階領事住居部分_4
2階領事住居部分_5
2階領事住居部分_6

横浜市イギリス館は、昭和12(1937)年に、上海の大英工部総署の設計によって、英国総領事公邸として、現在地に建てられました。鉄筋コンクリート2階建てで、広い敷地と建物規模をもち、東アジアにある領事公邸の中でも、上位に格付けられていました。
主屋の1階の南側には、西からサンポーチ、客間、食堂が並び、広々としたテラスは芝生の庭につながっています。2階には寝室や化粧室が配置され、広い窓からは庭や港の眺望が楽しめます。地下にはワインセラーもあり、東側の付属屋は使用人の住居として使用されていました。玄関脇にはめ込まれた王冠入りの銘版(ジョージⅥ世の時代)や、正面脇の銅板(British Consular Residence)が、旧英国総領事公邸であった由緒を示しています。

 

自然教育園(3)

武蔵野植物園
カタクリとか福寿草とか、結構珍しい花さんが観察できる武蔵野植物園。でも、この日は端境期なのか、あまりめぼしい花さんがなかった。
ナンテンハギ
葉は小葉2枚からなり、『フタバハギ』の別名もあるそうだ。花の形がいかにもマメ科の花らしい。
ナンテンハギ_1
ナンテンハギ_2
アサザ
ミツガシワ科アサザ属の多年草。夏から秋にかけて黄色の花を咲かせるそうだが、アサザと同様に花を咲かせる気配なし。残念。
アサザ_1
参考までに花が咲く時期の画像をPDFから借用する。
アサザ_2
ヒツジグサ(未草)
花期は6月~11月。 未の刻(午後2時)頃に花を咲かせることから、 この名がつけられたというが、どうも花が咲くような様子はなかった。花の色は白色。スイレン科スイレン属の水生多年草。
ヒツジグサ_1
参考までに花が咲く時期の画像をPDFから借用する。
ヒツジグサ_2
キバナアキギリ
台風通過直後で、横に倒れてしまっていて、非常に見難い。これも『あるがままの自然教育園らしくて、いいかな』と思った次第。
キバナアキギリ_1
キバナアキギリ_2
ノハラアザミ
こうしてみると、意外に綺麗な花さんだ。上品な感じに見える。
ノハラアザミ
アブラススキ
すすきに似た外見で穂先が多少脂分を分泌していて、この名がついたそうだ。展示対象たる草花には手を触れないことを原則としているが、これだけは軽く触れてみた。う~~ん、かすかに脂っぽいかなあ。
アブラススキ_1
アブラススキ_2
フジバカマ
古くから親しまれた花。かつては日本各地の河原などに群生していたが、今は数を減らし、環境省のレッドリストでは準絶滅危惧(NT)種に指定されているそうだ。『フジバカマ』と称する植物が、観賞用として園芸店で入手でき庭にも好んで植えられるが、正統のフジバカマでは無さそうだ。
フジバカマ
オオカマキリ?
カマキリはスズメバチの天敵だそうだ。みだりにカマキリをいじめてはいけなさそうだ。
オオカマキリ?_1
オオカマキリ?_2
ニホンカナヘビ?
自然観察グループの一行と思しき女性たちの集団が脱皮していると騒いでいた。それから暫く周りを取り囲んで動こうとしない。貴重な瞬間を見ることができなかった。脱皮した脱け殻はどこに行ったの?その辺に落っこちたのかなあ?それとも記念に持ち帰った?傍迷惑なことだなあ。
ニホンカナヘビ?_1
ニホンカナヘビ?_2
イヌコウジュ
生薬の香需に似ているが、役に立たないことからつけられたとか。ちょっと可愛そうな命名だなあ。愛犬家が怒りそうだ。
イヌコウジュ
オオナンバンギセル
帰途、水生植物園で見つけた。こんなところにあったのか。季節は過ぎてしまったが、自分のための備忘で記載しておこう。
ススキやノガリヤスなどのイネ科の単子葉植物の根に寄生するのか。確かにすすきの草むらにあった。花期は7-9月だそうだが、まだ9月なのにとっくに終わっている。夏の盛りが旬なのかなあ。

オオナンバンギセル_1
オオナンバンギセル_2
オオナンバンギセル_3
参考までに元気の良い時期の画像をPDFから借用する。
オオナンバンギセル_4

以上で『自然教育園』のミニシリーズは終了です。最後まで、ご覧いただき有難うございます。

 

自然教育園(2)

水生植物園
路傍植物園に続いて、水生植物園を取り上げる。一見すると、タダの沼の周りにしか見えないかもしれないが、実にいろいろな花さんが咲き乱れている。
ツリフネソウ
独特の花の形状が目を引く。カリガネソウとともに、私が見たいと思っていた花だ。
ツリフネソウ_1
ツリフネソウ_2
ツリフネソウ_3
ツリフネソウ_4
ツリフネソウ_5
小さな沼及びその周辺は繁茂が盛りを迎えていた
小さな沼及びその周辺は繁茂が盛りを迎えていた_1
小さな沼及びその周辺は繁茂が盛りを迎えていた_2
小さな沼及びその周辺は繁茂が盛りを迎えていた_3
曼珠沙華
曼珠沙華_1
曼珠沙華_2
曼珠沙華_3
イチモンジセセリかな?
蝶と蛾とどちらかな、ということさえ区別する自信なし。蝶の方、イチモンジセセリかなと思うのだが、変なアングルで撮りすぎた。全く自信がない。2匹並んで吸蜜中だったのが可愛らしかった。
イチモンジセセリかな?_1
イチモンジセセリかな?_2
イチモンジセセリかな?_3
イチモンジセセリかな?_4
イチモンジセセリかな?_5
イチモンジセセリかな?_6
コガタスズメバチかな?
おとなしそうだったが、怖いので近寄れない。刺激しない程度に遠目から。見分け方を参考に判断してみたら、単眼の付近が黒ずんでいるし、小楯板の色が黒である。依って、モンスズメバチのように思える。
コガタスズメバチかな?_1
コガタスズメバチかな?_2
コガタスズメバチかな?_3
ヒメガマ
ガマやコガマにも似ている。コガマは通常は見られないのだそうで、コガマの可能性は排除しても良さそうだ。問題は、大きさがほぼ同じなガマとヒメガマとの区分けだ。ガマやコガマの雌花群と雄花群の間にはすきまがない。一方、ヒメガマにはすきまがあるそうだ。そのため、容易に区別できるというのだが、この時期になると、そのへんがよくわからない。自然教育園の表示に従うことにする。
ヒメガマ_1
ヒメガマ_2
シロバナサクラタデ
シロバナサクラタデ
アサザ
アサザ_1
アサザ_2
ミツガシワ
ミツガシワ_1
ミツガシワ_2
ミツガシワ_3
吾亦紅
紅というよりも既に濃い臙脂色になっている。秋の到来を感じさせる感じだ。
吾亦紅
ゴンズイ(権萃)
美味しそうに見えなくもないが、何の役にも立たない代表格のように言われっぱなし。非常に気の毒に思う。
木材としての用途がないところから、同様に役に立たない魚とされる 『権瑞(ごんずい)』になぞらえたそうだ。

ゴンズイ(権萃)_1
ゴンズイ(権萃)_2

 

自然教育園(1)

恵比寿で用事を片付け、その足で目黒駅に来た。自然教育園で季節の花を見たかったのだ。『横浜の山手町を歩く』シリーズを少し中断して、季節の花を取り上げることにする。

目黒駅に消防車が
ボヤ騒ぎでもあったのだろうか。10台以上もの消防車が駆け付けてきていた。誤報だったのか、取るに足らないボヤだったのか、どこかが燃えている様子も消火活動を展開した様子もなかった。大崎配属の消防車まで来ているんだと思ったら、ここは品川区上大崎だったんだ。
目黒駅に消防車が_1
目黒駅に消防車が_2
目黒駅に消防車が_3
目黒駅に消防車が_4
目黒駅に消防車が_5
目黒駅に消防車が_6

自然教育園の花さん(1)
今回はカリガネソウとツリフネソウとを特に見たかった。雨で思い立ってから1週間ほど経っている。花が萎れてしまっていないか気になった。
路傍植物園
ヤマホトトギス
ヤマホトトギスとヤマジノホトトギスとは、かなり似ているようだ。ここは、自然教育園の表示内容に従った。
ヤマホトトギス_1
ヤマホトトギス_2
ヤマホトトギス_3
ヤマホトトギス_4
カリガネソウ
花の大きさとしては、かなり小さい。シンプルだが、美しい花さんだ。
カリガネソウ_1
カリガネソウ_2
カリガネソウ_3
シモバシラ
寒いところでは、立ち枯れたこのシモバシラに見事な霜柱ができる。寒い時期に行ってみたが、自然教育園はそれ程冷え込んではおらず、その様子を観察することはできなかった。
シモバシラ_1
シモバシラ_2
ホシホウジャクかな?
虫さんの方を撮ったつもり。怖いので、これ以上近寄れない。『蛾なんだから刺されたりはしない。大丈夫…』と頭のなかでは思っているのに。何とも情けない話だ。
ホシホウジャクかな?_1
ホシホウジャクかな?_2
ガンクビソウ
ガンクビソウとヤブタバコとが咲いているという案内があったが、なかなか見つけられなかった。行きと帰りとに丹念にチェックし、漸くガンクビソウだけは見つけることが出来た。が、花が咲いていないし、見えにくい。
ガンクビソウ_1
以下3点は、PDF画像を借用
ガンクビソウ_2
ガンクビソウ_3
ヤブタバコの方は残念ながら見つけられなかった
ヤブタバコ
ナキリスゲ
『菜切り菅』という物騒な名前に驚くが、それ程でも無さそう。それに、ここでは絶対に花さんに触れたりしないから、怪我をしたりすることはない。
ナキリスゲ
ムサシアブミ
すっかり大きくなり、あの鐙状のものは見ることができなかった。代わりに大きくなった葉と、こんなものが。実は熟すと橙色に変化するようだ。汁気たっぷりには見えないが、一応は液果とされるらしい。雌雄異株だから、こいつは雌株なんだな。
ムサシアブミ_1
PDF画像を借用
ムサシアブミ_2

 

横浜の山手町を歩く(7)

この一画は、知っている人と知らない人とに大きく分かれるところだろう。横浜居留外国人の手によってつくられた国内初の洋式公園があり、国内初のテニスクラブがある。特に、テニスクラブは、英国でテニスが最初に行われてからたった2年後のことだったそうだ。横浜に来ていた外国人たちは、タダの食い詰め外国人たちではなかったようだ。

山手公園
以前は、山手公園の敷地には、この公園と横浜インターナショナル・テニス・コミュニティーしかなかったように記憶している。そこに、テニス発祥記念館が建てられ、山手68番館も移築された。随分と様変わりしたものだ。
山手公園_1
山手公園_2
山手公園_3
山手公園_4
山手公園_5
山手公園_6
山手公園_7
山手公園_8
1870年に、横浜居留外国人の手によってつくられた、国内初の洋式公園です。
日本で初めてテニスがプレーされたテニス発祥の地であり、園内の「テニス発祥記念館」では、テニスの歴史を知ることができます。
また、ヒマラヤスギが日本で初めて植えられ、ここから全国に広まりました。
2004年3月に、国の名勝に指定、2009年2月には、近代化産業遺産に認定されました。
花見の名所で、桜の大木が広がり、春には桜色のトンネルを楽しむことができます。


テニス発祥記念館
平成10年に建てられた建物か。いつの間にか忽然と建てられていたんだ。
何にでも初めてというのがあるのは当然だ。しかしながら、1874年に初めてイギリスでテニスが行われた年からたった2年しか経たない時期のはるか遠隔の極東の地での導入だ。凄い話で、当時の外国人たちがいかに本国の流行に敏感だったかがわかるというものだ。

テニス発祥記念館_1
テニス発祥記念館_2
テニス発祥記念館_3
テニス発祥記念館_4
テニス発祥記念館_5
テニス発祥記念館_6
テニス発祥記念館_7
テニス発祥記念館_8
テニス発祥記念館_9
テニス発祥記念館_10
テニス発祥記念館_11
その流れをくむのが、「横浜インターナショナル・テニス・コミュニティー(YITC)」だ。
横浜インターナショナル・テニス・コミュニティー(YITC)」_1
横浜インターナショナル・テニス・コミュニティー(YITC)_2
1876年(明治9)、ここ山手公園でわが国最初のローンテニスが行われ、1878年にわが国最初のテニスクラブが誕生しました。日本初の洋式公園である山手公園と、わが国でのテニス発祥120周年を記念してこの記念館を設立しました。

山手68番館
いまは、テニスコートのクラブハウス・管理事務所になっている。以前の様子はどうだったのだろうか?山手68番地は用事のある方でなければ行かない場所のようで、当然私も行ったことがない。昭和61年(1986年)に現在地へ移築されるまでは、目立たない感じで存在していたのだろう。
山手68番館_1
山手68番館_2
山手68番館_3
当初は山手68番の奧まった位置にあり、震災後に建てられた外国人向け賃貸住宅のひとつであった。平屋建で下見板張りと開放ベランダを持つバンガロースタイルの源流をとどめる。現在は山手公園内のテニスコートのクラブハウス・管理事務所として再生・利用されている。

 

横浜の山手町を歩く(6)

外交官の家(3)
屋外から見た様子
外から見た感じもなかなか良い。見られることを十分意識しての設計なのだろう。
屋外から見た様子_1
屋外から見た様子_2
ドームの右横に庇になっている部分の屋根は天然のスレートが使用されているそうだ。残念ながら見そこねてしまった。
屋外から見た様子_3
後ろ庭には秋の訪れが
後ろ庭には秋の訪れが_1
後ろ庭には秋の訪れが_2

ブラフ18番館
イタリア山地区には、『外交官の家』と共に、『ブラフ18番館』がある。こちらも第2水曜日なので休館日。鎧戸が閉められ、通常日の様子も伺いにくい。残念至極だ。戦後はカトリック山手教会の司祭館が使用してきたが、移築した後は、1代飛ばして、オリジナルの震災復興期(大正末期~昭和初期)の外国人住宅の暮らしを再現しているようだ。教会の司祭館などでは辛気臭くていけないのだろうか。
訪問日の様子
開館日のイメージとあまりに違いすぎる。これではいけないと思い、前回訪問時の写真を以下に再掲する。
ブラフ18番館_1
前回訪問時の画像を一部再使用する。
ブラフ18番館_2
ブラフ18番館_3
ブラフ18番館_4
ブラフ18番館_5
ブラフ18番館_6
ブラフ18番館_7
ブラフ18番館_8
ブラフ18番館_9
ブラフ18番館は関東大震災後に山手町45番地に建てられたオーストラリアの貿易商バウデン氏の住宅でした。戦後は天主公教横浜地区(現カトリック横浜司教区)の所有となり、カトリック山手教会の司祭館として平成3(1991)年まで使用されていました。平成3(1992)年に横浜市が部材の寄付を受け、山手イタリア山庭園内に移築復元し、平成5(1993)年から一般公開しています。震災による倒壊と火災を免れた住宅の一部が、部材として利用されていることが解体時の調査で判明しました。
建物は木造2階建て、1・2階とも中廊下型の平面構成で、白い壁にフランス瓦の屋根、煙突は4つの暖炉を1つにまとめた合理的な造りとなっています。その他、ベイウィンドウ、上げ下げ窓と鎧戸、南側のバルコニーとサンルームなど、洋風住宅の意匠を備えています。外壁は震災の経験を生かし、防災を考慮したモルタル吹き付け仕上げとなっています。
館内は震災復興期(大正末期~昭和初期)の外国人住宅の暮らしを再現し、当時元町で製作されていた横浜家具を修復して展示しています。さらに、平成27(2015)年には2階の展示室を寝室にリニューアルしました。

 

横浜の山手町を歩く(5)

外交官の家(2)
この家屋の2階部分は、完全な私的空間だったようだ。来客との面談は1階で済ませ、当主もしくは家族のプライバシー確保には、かなり気を使ったようだ。外交官を務めた方のお宅ということがよく分かる。
階段
幅が広く堂々とした階段だ。大きなものを運搬するのも楽だったことだろう。うまく写真が撮れなかったが、踊り場から中間部分の階段に沿った窓は、左から右にかけて、低中高の据え付け位置をずらした粋な取り付け方の窓になっている。そのため、非常に採光性が良い。
階段_1
階段_2
階段_3
小部屋(寝室)
階段を上がってすぐの小部屋は、内田定槌氏の息子さんの部屋だった。寝室と表示がされてあった。
小部屋(寝室)_1
小部屋(寝室)_2
書斎
どこもそうだろうが、一家の主のための重厚な部屋になっていた。エリスマン邸やベーリックホールなどと似た感じ。ビジネスをする人の執務部屋だ。
書斎_1
書斎_2
書斎_3
書斎_4
書斎_5
夫婦の寝室
広々とした空間。南平台のお屋敷にふさわしい品格だったと思われる。
夫婦の寝室_1
夫婦の寝室_2
夫婦の寝室_3
2階のサンルーム
夫婦の寝室とつながっている。つまり家族以外は基本的に立ち入ることが出来ない空間なのだ。
2階のサンルーム_1
2階のサンルーム_2
2階のサンルーム_3
浴室兼トイレ
完全な欧米仕様。長年に亘って外交官暮らしをしてきた人には、ちょうどよかったのかもしれない。
浴室兼トイレ_1
浴室兼トイレ_2
資料室
当時は何に使用していた部屋か確認するのを失念。欧米の習慣は知らないが、いざという時の客間としての使用などがあったのだろうか?
資料室

 

横浜の山手町を歩く(4)

山手46番館
山手本通り側は裏側だそうだ。1930(昭和5)年に建てられた雰囲気のある洋館。フェリス女学院の中高生が行き交う真ん前にあり、ロケーションは最高だ。公開されている洋館ではないので、外観だけ撮らせてもらうことにした。
山手46番館_1
山手46番館_2
山手46番館_3
山手本通りを歩いていると必ず遭遇する洋館です。通りに面して白い木造の横に広がっています。この建物は外国人向けの住居だったそうですが、現在は人が住んではいないようで、イベントや映画の撮影等に使われているそうです。左右にそれぞれ煙突、寄棟造の屋根、白い菱形のくり抜きのある鎧戸、外壁に蔦が絡まって明るいイメージの木造2階建て。

カトリック山手教会
カトリック横浜教区の司教座聖堂、いわゆるカテドラルである。大聖堂がカテドラルとは同義ではないので注意されたい。カトリック横浜教区は、神奈川県、静岡県、長野県、山梨県が担当区域だ。司教はラファエル梅村昌弘司教だ。
聖堂
カトリック山手教会_聖堂_1
カトリック山手教会_聖堂_2
カトリック山手教会_聖堂_3
現在の司教館別館
ブラフ18番館も、かつては、カトリック山手教会の司教館だった。現在の司教館別館と比較してみるのも面白いかも。こちらは外観だけ見ると、実に質素だ。
カトリック山手教会_現在の司教館別館_1
カトリック山手教会_現在の司教館別館_2
カトリック山手教会_現在の司教館別館_3
司祭館兼信徒会館
司祭館兼信徒会館

外交官の家(1)
前回行った時は補修中で内部を見ることが出来なかった。今回は幸いにもそういうことはなかった。
この邸宅は、J.M.ガーディナーの設計で、国指定の重要文化財になっている。見に行けばすぐ気がつくことだが、塗装がかなり傷んでいた。このままでは保たないなと思ったのだが、10月から来年2月末まで塗装工事を行うそうだ。
外観が美しいことで知られる『外交官の家』だが、そうした写真を撮りたい方は急ぎ行く必要があろう。

正面玄関側
本来は此処が玄関だろう。でも今は、付属棟から入るようになっていて、ここからは入ることが出来ない。
外交官の家(1)_正面玄関側
本館アクセス廊下
ここは付属棟から入るようにしたために、雰囲気に合わせて付け足した部分ではないかと思ったが、そうではなかった。南平台にあったとき、和館が併設されていたそうで、その和館の名残部分なのだそうだ。
外交官の家(1)_本館アクセス廊下_1
外交官の家(1)_本館アクセス廊下_2
食堂
外交官の家(1)_食堂_1
外交官の家(1)_食堂_2
外交官の家(1)_食堂_3
応接室として使われた大客間と、寛げる雰囲気の小客間
応接室として使われた大客間と、寛げる雰囲気の小客間_1
応接室として使われた大客間と、寛げる雰囲気の小客間_2
応接室として使われた大客間と、寛げる雰囲気の小客間_3
サンルーム
八角形の塔屋の1階にあたる
サンルーム_1
サンルーム_2
サンルーム_3
サンルーム_4
サンルーム_5
正面玄関(内側)
玄関扉は、すりガラスに内田家の家紋 「丸に剣三つ柏(まるにけんみつかしわ)」が描かれている。内扉は、優しい色使いのステンドグラスが。
正面玄関(内側)_1
正面玄関(内側)_2
正面玄関(内側)_3
正面玄関(内側)_4
供待部屋
玄関扉と内扉の間に、小さな入口がある。中は供待(ともまち)部屋、来客のお供が待つための部屋だ。現在は、設計者ガーディナーの資料を集めた展示室になっていた。
供待部屋
ニューヨーク総領事やトルコ特命全権大使などを務めた明治政府の外交官内田定槌氏の邸宅として、明治43(1910)年に東京渋谷の南平台に建てられました。 設計者はアメリカ人で立教学校の教師として来日、その後建築家として活躍したJ.M.ガーディナーです。
建物は木造2階建てで塔屋がつき、天然スレート葺きの屋根、下見板張りの外壁で、華やかな装飾が特徴のアメリカン・ヴィクトリアンの影響を色濃く残しています。1階は食堂や大小の客間など重厚な部屋が、2階には寝室や書斎など生活感あふれる部屋が並んでいます。これらの部屋の家具や装飾にはアール・ヌーボー風の意匠とともに、19世紀イギリスで展開された美術工芸の改革運動アーツ・アンド・クラフツのアメリカにおける影響も見られます。
横浜市は、平成9(1997)年に内田定槌氏の孫にあたる宮入氏からこの館の寄贈を受け、山手イタリア山庭園に移築復原し、一般公開しました。そして同年、国の重要文化財に指定されました。室内は家具や調度類が再現され、当時の外交官の暮らしを体験できるようになっています。各展示室には、建物の特徴やガーディナーの作品、外交官の暮らし等についての資料を展示しています。


今、こんなイベント開催中だそうだ。途中の道で横浜観光協会の方と立ち話をしたときに、素敵なクリアファイルを頂いたので、宣伝しておかなくては。
謎解きクイズ「2016 横浜山手西洋館」 ~魔女からの招待状Ⅱ~
9月18日(日)~22日(木・祝)9:30~17:00 参加費:招待状 500円(先着300名)
★参加賞・正解賞あり

 

横浜の山手町を歩く(3)

えの木てい本店
むさ苦しい爺さんなので、入店がためらわれた。案の定、今回もカップルの男性客が一人だけいたが、その他は全員が女性客。場の雰囲気から相当に浮き上がっていたかも。客席側の雰囲気が素晴らしいが、客の顔が大写しになりそうな感じだったので、断念せざるを得なかった。
そういえば、2階のフロアに入ってみたいと思っていたのに、今回もティールームだけで済ませてしまった。後で調べてみたら、テイクアウトコーナーと予約制の個室が1室あるのみのようだ。私には縁がなさそうだ。

えの木てい本店_1
えの木てい本店_2
えの木てい本店_3
えの木てい本店_4
えの木てい本店_5
えの木てい本店_6
えの木てい本店_7
えの木てい本店_8
えの木てい本店_9
かつて外国人居留地であった横浜山手には大正から昭和初期にかけて建てられたレトロな洋館が今でもあちらこちらに点在しています。
「えの木てい本店」もその洋館のひとつで、昭和2(1927)年日本人建築家朝香吉蔵氏が設計した英国式の洋館で当時を偲ばせる貴重な建築物としても知られています。元はアメリカン人検事が暮らしていましたが、昭和45(1970)年に現オーナーのご両親が自宅用に買い取りました。
歴史的建築物として有名なこの洋館には多くの人が撮影に訪れていました。もともとお菓子やお料理を作るのが大好きだった現オーナーのお母様は、時折そんな人々を招きいれて自家製のケーキとお茶でおもてなしをしていたのが始まりで、昭和54(1979)年、1階のリビングをカフェとしてオープンいたしました。店名は庭にある大きな榎から名づけられました。
木製の上げ下げ窓、冬は薪を焚く暖炉、150年以上も昔のアンティーク家具など、古き良き山手の雰囲気を漂わせるティールームでは、レアチーズケーキや英国風スコーンなどオープン以来のレシピをそのまま受け継ぐ人気メニューが今も健在です。


エリスマン邸
第2水曜日で、人気のエリスマン邸は、無情にも休館日。残念無念。
エリスマン邸_1
エリスマン邸_2
エリスマン邸_3
エリスマン邸_4
エリスマン邸_5
これだけではいかにも物足りないので、前回撮影分の一部画像を再度使用する。
エリスマン邸_6
エリスマン邸_7
エリスマン邸_8
エリスマン邸_9
エリスマン邸_10

ベーリック・ホール
同じく休館日だったベーリック・ホール。エリスマン邸と人気を二分するというのに、同一日に休館とはつれない話しだ。
ベーリック・ホール_1
これだけではいかにも物足りないので、前回撮影分の一部画像を再度使用する。
ベーリック・ホール_2
ベーリック・ホール_3
ベーリック・ホール_4

 

横浜の山手町を歩く(2) 2016.09.17 22:03追記&記述内容修正

山手資料館
ここは横浜市の所有物件ではなく、館内に入場するには料金が必要。都会の狭小住宅と比較しても引けをとらないくらいのかなり小さな洋館。元の住人はどのように利用していたのだろうか。トイレも浴室もないように見えるので、隠居用の建物だったのだろうか。『和洋併設型住宅』とされているから、1階一間は洋間で、2階一間は畳敷きの洋館だったのかもしれない。
そう思ったのだが、実際は私の勘違いだったようだ。建物は明治42年に建造された『和洋併設型住宅』の洋館部分に過ぎなく、これと繋がった形の和館の部分があったようだ。だとすれば、トイレや風呂などの共用部分はそちらに置くことが出来たのだろう。
山手資料館_1
山手資料館_2
山手資料館は、明治42年に建造された、横浜市内に残る唯一の「和洋併設型住宅」木造西洋館。館内には、チャールズ・ワーグマンのポンチ絵や、ジェラールの西洋瓦等、文明開化当時をしのばせる展示品など、居留地だった頃から関東大震災までの横浜や山手に関する資料を展示しています。横浜市の歴史的建造物に指定されています。
庭に展示してある本物のガス灯。このガス灯自体はそれほど古いものではない。建物に付随していた設備ではなかったと断言できる。
山手資料館_3
明治期の獅子頭の水道共用栓
山手資料館_4
こちらが所有者の店舗
山手資料館_5
山手資料館_6

カトリック山手教会墓地
白いクリプタの後方の一段下がった敷地にも墓地が続く。外国人墓地と隣接してはいるが、外国人墓地ではない。
カトリック山手教会墓地

山手聖公会
1931年に現在の礼拝堂竣工。もう既に85年が経過しているのか。もっと新しそうに見えるが、大谷石の特性かもしれない。内部は空襲と放火とで焼失という悲劇を繰り返したが、石造りの建物は支えが無くなってもしっかり持ち堪えた。実に頑丈なものだ。
山手聖公会_1
山手聖公会_2
モデルを志願したわけではなかろうが、欧米系の女性が一生懸命眺めていた。景観の内と考えて一緒に撮ってみた。
山手聖公会_3
山手聖公会_4
横浜山手聖公会は、神奈川県横浜市中区にある日本聖公会の教会堂である。プロテスタント・日本聖公会横浜教区に属する教会で、外形は大谷石を使ったノルマン様式の聖堂をもつ。

山手234番館(Bluff No.234)
関東大震災後の外国人の住宅事情に資するために建てられた共同住宅。山手資料館ほど狭小ではないが、1-2階に2世帯ずつ4世帯分のアパートメントハウスか。合理的かつコンパクトにまとめた設計は、現在の狭小マンションのお手本のような住宅かもしれない。お向かいのエリスマン邸は移築された物件だが、こちらは当初からこの位置に建てられた。
山手234番館(Bluff No.234)_1
山手234番館(Bluff No.234)_2
山手234番館(Bluff No.234)_3
山手234番館(Bluff No.234)_4
山手234番館(Bluff No.234)_5
テーブルコーディネート 「十五夜のお月さま~月光(げっこう)~」
山手234番館(Bluff No.234)_6
山手234番館(Bluff No.234)_7
山手234番館(Bluff No.234)_8
山手234番館(Bluff No.234)_9
山手234番館(Bluff No.234)_10
SINGERのミシン。使用不能の状態だった。あとからこの部屋にふさわしい物を見繕っておいてあるのだろうが、もう少し状態の良い物を置くべきだと思う。夢が萎んでしまう感じだった。
山手234番館(Bluff No.234)_11
山手234番館(Bluff No.234)_12
どうせなら、ドルフィンを撮ればよかったのに。ドルフィンではポスターに仕立てるのが難しいかなあ。
山手234番館(Bluff No.234)_13
山手234番館(Bluff No.234)_14
SINGERのミシンとヤマハのオルガンは我が家にもあった。ミシンは使用可能だったが、オルガンは少し調子が悪かった。器用だったら、ライティングビューローにでも改造したいくらいだったが。
山手234番館(Bluff No.234)_15
山手234番館(Bluff No.234)_16
山手234番館(Bluff No.234)_17
山手234番館(Bluff No.234)_18
昭和2(1927)年頃に外国人向けの共同住宅として、現在の敷地に建てられました。ここは関東大震災の復興事業の一つで、横浜を離れた外国人に戻ってもらうために建設された経緯があります。設計者は、隣接する山手89-6番館(現「えの木てい」)と同じ、朝香吉蔵です。
建設当時は、4つの同一形式の住戸が、中央部分の玄関ポーチを挟んで対称的に向かい合い、上下に重なる構成をもっていました。3LDKの間取りは、合理的かつコンパクトにまとめられています。また、洋風住宅の標準的な要素である、上げ下げ窓や鎧戸、煙突なども簡素な仕様で採用され、震災後の洋風住宅の意匠の典型といえます。
第2次世界大戦後の米軍による接収などを経て、昭和50年代頃までアパートメントとして使用されていましたが、平成元(1989)年に横浜市が歴史的景観の保全を目的に取得しました。平成9(1997)年から保全改修工事を行い、平成11(1999)年から一般公開しています。

 

横浜の山手町を歩く(1)

久しぶりに、山手町の西洋館巡りをしようと思い立った。手持ちの画像データがなくなり、秋の長雨の中、比較的マシな日に強行した。それが9月14日(水)。うっかりしていたが、毎月偶数番目の水曜日は、山手町の西洋館の半分ずつが休館になるのだった。今回は、山手111番館、エリスマン邸、ベーリック・ホール、ブラフ18番館が休館だった。西洋館4館の代わりに、横浜地方気象台、えの木ていと、山手公園にある山手68番館とテニス発祥記念館とをも見て回った。

横浜地方気象台
横浜地方気象台は、1896年(明治29年)年8月1日に、神奈川県測候所として、海岸通一丁目(山下公園付近)に設立された。しかしながら、1923年(大正12年)に発生した関東大震災によって、建物がすべて焼失。ということで、外国人墓地の真ん前の現在地に移ってきた。
現在の建物は1927年(昭和2年)に建設され、同11月から業務を開始したそうだ。

本館
何ともおしゃれな建物
関東大震災被災直後に、1920年~1930年頃に流行したアールデコと呼ばれる装飾様式をいち早く取り入れている。この辺の先取の気性がいかにも浜っ子らしい。その面影は玄関上の装飾部分や柱の幾何学模様などに見られる。
横浜地方気象台_本館_1
横浜地方気象台_本館_2
横浜地方気象台_本館_3
横浜地方気象台_本館_4
横浜地方気象台_本館_5
横浜地方気象台_本館_6
横浜地方気象台_本館_7
横浜地方気象台_本館_8
1926年(大正15年)生まれの大きなのっぽの古時計
タダの大きなのっぽの古時計ではない。阿部彦吉氏が考案したもので、『阿部式電気機械時計』と呼ばれている。この形式のもので現存するものは、この横浜地方気象台と旧山形県庁舎『文翔館』の時計の二つだけといわれているそうだ。
説明書きによれば、仕組みとしては機械式だが、親時計から複数の子時計(時計盤)に電気信号を送り、時刻を同期させているもので、発明者の名をとって、『阿部式電気時計』と呼ばれたとか。以前は、官庁には必ず設置されていたものだったようだ。

大きなのっぽの古時計_1
大きなのっぽの古時計_2
その他
昔の観測機器
昔の観測機器
ソメイヨシノの標本木
ソメイヨシノの標本木

横浜地方気象台の真ん前にある外国人墓地
残念ながら、土日祭日しか内部には入ることが出来ない。入り口から見える部分のみを証拠に撮った。
真ん前にある外人墓地_1
真ん前にある外人墓地_2

 

第196回文楽公演

国立劇場開場50周年記念の公演でもあった第196回の文楽公演。第一部も第二部もどちらも鑑賞した。ということで、国立小劇場に実に9時間以上も居続けた。演目が多いので、普段だとたっぷりとる筈の休み時間もごく短く、各段が次から次へと展開していく。かなり疲れたが、太夫も、三味線も、人形遣いも大熱演で、見に行った甲斐があった。
第一部も第二部もどちらも鑑賞すると、通し狂言『一谷嫰軍記』の主要部分を鑑賞したことになる。普通なら取り上げない段も今回は取り上げていて、国立劇場開場50周年記念の公演に華を添えたように感じた。国立劇場としても実に40年ぶりの大盤振る舞いの上演だそうだ。私も漸く繋がりが理解できたように感じた。


国立劇場のポスター画像を借用
国立劇場のポスター画像を借用_1
国立劇場のポスター画像を借用_2
PDF画像を借用
「組討」
熊谷が沖へと向う敦盛を呼び戻すという場面。四代目中村歌右衛門の熊谷次郎直実、初代中村福助の無官太夫あつ盛。嘉永3年(1850年)5月、大坂中の芝居。五粽亭広貞画。
「組討」
「菟原の里林住家」
忠度は六弥太と後日の勝負を約し、菊の前とも別れを惜しみつつ須磨の陣所へと帰る。右より五代目瀬川菊之丞の菊の前、七代目市川團十郎の岡部の六弥太、二代目澤村源之助の薩摩守忠度。天保2年(1831年)7月、江戸河原崎座。国貞画。
菟原の里林住家

私自身は、人形遣いの吉田簑助、桐竹勘十郎、三味線の鶴澤清治を見て聴いてみたいと思って出掛けた。今回、吉田簑助は若く美しい『菊の前』の役。相変わらず生きた女性が舞台に登場しているかのような素晴らしい人形遣いぶりなのだが、如何せん出番が短かすぎ。相模の役のほうが良かったように思わないでもなかったが、長い出番をこなす体力がなくなっているのだろうか。あの、独特の『女』の至芸を嗣ぐ人が見当たらないだけに、もう暫くは頑張ってもらいたいものだ。
桐竹勘十郎は熊谷次郎直実の役。今回の主役だろうが、役の重さに動じない安定した力量を発揮しているように思われた。彼のfacebookを見ると、馬に乗るシーンがあるが、その時は舞台下駄を履いて人形を遣うそうだ。足を挫いたりしないように、注意して行わなければならないのだろう。
三味線の鶴澤清治は、私の好きな三味線奏者だ。妻に言わせれば、艶があるのだとか。NHKで『闘う三味線 人間国宝に挑む ~鶴澤清治~』を見てしまってから、熱烈なファンになった。
太夫の豊竹咲太夫は、長丁場の『脇ケ浜宝引の段』を演じた。表現力豊かで、他を圧するパワフルな演じ方は、本当に魅力的だと思った。妻が絶賛していた。人間国宝の太夫2人が引退し、切場語りの太夫は彼一人なのだ。
そういう状況で、中堅が頑張っている。竹本千歳太夫の語りに惚れ惚れとした。一層の精進を期待したいものだ。


国立劇場開場50周年記念
<第一部>11時開演
並木宗輔=作
通し狂言 一谷嫰軍記(いちのたにふたばぐんき)
初 段 堀川御所の段・敦盛出陣の段
二 段 目 陣門の段・須磨浦の段・組討の段・林住家の段
<第二部>4時開演
国立劇場五十周年 寿式三番叟 (ことぶきしきさんばそう)
通し狂言 一谷嫰軍記(いちのたにふたばぐんき)
三 段 目 弥陀六内の段・脇ヶ浜宝引の段・熊谷桜の段・熊谷陣屋の段
(主な出演者)
豊竹咲太夫、鶴澤寛治、鶴澤清治、吉田簑助ほか


下記は期間限定のjump先かもしれない。jump出来なかったらあしからず。
平成28年9月文楽公演特設サイトへjump

 

出羽三山を尋ねる一泊バス旅行(13)

羽黒山(2)
随神門から国宝五重塔(4)
継子坂を上る
246段の階段が待っているんだ。気合を込めなくては。
継子坂を上る
曲がり角の辺りに末社群が見える。境内社、磐裂神社、根裂神社、五十猛神社、大年神社、天神社、豊玉姫神社がある。
末社群が見える_1
末社群が見える_2
末社群が見える_3
末社群が見える_4
末社群が見える_5
末社群が見える_6
末社群が見える_7
末社群が見える_8
末社群が見える_9
末社群が見える_10
覚悟はしたものの、最後の最後になってもかなり息切れさせてくれた継子坂の階段
かなり息切れさせてくれた継子坂の階段
やっと随神門まで戻ってきた
やっと随神門まで戻ってきた

湯殿山
殆ど写真なし。なぜなら、殆どのところが撮影禁止だから。もう少し詳しく言えば、湯殿山では、ご神体に直接触れることができる。大きな岩に温泉が出ていて、詣でる人は素足で参拝することになる。そのご神体が丸出しなので、当然の事ながら撮影禁止ということなのだろう。
仙人沢駐車場付近の様子
湯殿山神社大鳥居のところにある仙人沢駐車場から徒歩もしくは庄内交通バスで神社に向かう。バスで5分くらいだが、歩くとどのくらいかかるのだろうか。完全な上り坂だし、それまでで足を酷使している。最後の参道と思しきところの上り下りも大変だ。バスで向かったほうが無難なように思う。神社の靴脱場で素足になり、お祓いを受け、ヒトガタを水に流し、ご神体に触れる。
仙人沢駐車場付近の様子_1
参籠所で日帰り入浴する方もいるようだ。マイカーの人向けかなあ。
仙人沢駐車場付近の様子_2
仙人沢駐車場付近の様子_3
仙人沢駐車場付近の様子_4
仙人沢駐車場付近の様子_5
仙人沢駐車場付近の様子_6
仙人沢駐車場付近の様子_7

出羽三山神社の湯殿山の該当頁にjump

『語られぬ湯殿にぬらす袂かな』の句の解釈
普通に解釈すれば、次のようなものだろう。
ここ湯殿山で修行する人は山でのことを一切口外してはいけないというならわしがあるが、そういう荘厳な湯殿山に登って、ありがたさに涙を流したことよ。
ところが、『松尾芭蕉の旅 おくのほそ道』によれば、次のような解釈となる。
いにしえより恋の山と聞こえた湯殿の里に分け入れば、語らず聞かずの幽谷の奥に尊き神秘を拝し、袂を濡らしたことであるよ。
う~~ん、深い解釈があるんだなあ。

即身仏の土地柄
一般に、ミイラは遺体から内臓等を取り出して防腐処理を施すなど人工的にその姿にしたものを言い、即身仏は、厳しい修行の末に体内から脂肪や水分を落とし、身体内の窒素率を消耗しつくし、腐敗雑菌の発生を防ぎ朽ちない身となり土の中に入って断食死し、その数年後に掘り出されたものを言うそうだ。
この地に残るのはミイラではなく、何とも有難い即身仏の方だ。混同しないでいただきたい。
ついでだが、ミイラはポルトガル語の見るミルラから来ているのか。いわゆる没薬だ。キリスト生誕の折に、東方の三博士が持参した黄金・乳香・没薬の没薬か。没薬は、本来は死者の身体に、死体の防腐剤として塗られるものだから、ミイラ化のためには不可欠だったのだろう。


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標高1,504m。月山に連なる湯殿山には、その中腹の渓流のほとりに湯殿山神社が鎮座しています。
古来から、出羽三山の奥の院とされ、その御神体は、熱湯の湧き出る茶褐色の巨大な岩です。日本人の信仰の原点ともいうべき自然崇拝を今に伝えるお山です。この神秘をかの松尾芭蕉も、「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」と詠んでいます。
有料道路終点より本宮参拝バスに乗り換えると、約5分で出羽三山の奥宮とされる湯殿山神社本宮へ到着します。

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湯殿山神社は山形県鶴岡市田麦俣の湯殿山山腹に鎮座する神社である。旧社格は国幣小社、現在は別表神社。
湯殿山神社は、山形県庄内地方にひろがる出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)のうちの、湯殿山の中腹にある。湯殿山は月山に連なるものであり、湯殿山神社は、月山から尾根を西に8km下りた地点にあり、また、月山より流れる梵字川沿いにある。古来から修験道を中心とした山岳信仰の場として、現在も多くの修験者、参拝者を集めている。
湯殿山神社は、本殿や社殿がない点に大きな特徴があるが、もともと湯殿山は山岳信仰の対象であり、山自体に神が鎮まるものとして、人工的な信仰の場をつくることは禁じられてきたという。
明治以前、三山において神仏習合の信仰が盛んだったころ、羽黒山は観音菩薩(現在)、月山は阿弥陀如来(過去)、そして、当時三山のうちに含まれていた葉山や薬師岳は薬師如来(未来)とされた。一方、湯殿山は「三山」というよりもそれらを超えた別格のものとして、大日如来とされていた。
こうして、出羽三山においては、観音菩薩・阿弥陀如来・薬師如来の導きにより現在・過去・未来の三関を乗り越え、大日如来の境地に至って、即身成仏を達成するという「三関三渡」の修行が行われることとなった。この修行においては、裸足で御神体(湯殿山)に登拝することが、大日如来と一体になる行為とされ、非常に尊ばれた。
現在でも、湯殿山神社の本宮では、参拝の際に裸足になり、祓を受けなければならないとされており、俗世と隔離された神域として認識されていることがうかがわれる。


以上で、『出羽三山を尋ねる一泊バス旅行』シリーズはおしまいです。最後までご覧頂きありがとうございました。

 

出羽三山を尋ねる一泊バス旅行(12)

羽黒山(2)
随神門から国宝五重塔(3)
一の坂
入り口随神門から山頂まで羽黒山の参詣道をすべて歩いて登るとき、この一の坂から三の坂まで登ることになる。山頂まで1.7kmのこの道は江戸時代につくられたそうだ。2446段といわれる石段と樹齢約350年~500年の杉並木からなっている。フランスの旅行ガイド、ミシュラン・グリーンガイド・ジャポンで三ツ星に認定されたコースだが、相当にハードなようだ。特に二の坂がきついそうだ。
我々のコースでは先に行かないようにコース設定がなされていた。よく見ると、チャレンジしている人たちが少なからずいた。

一の坂_1
この方は大丈夫だったかなあ。ちょっと心配になるような足取りだった。
一の坂_2
一の坂_3
一の坂_4
坂の途中にあった小さな神社
これは子守神社。相当に歴史を積み重ねてきた感じだ。この脇に西条八十の詩碑があるようなのだが、残念ながら見落としてしまった。
坂の途中にあった小さな神社_1
これは大直日神社らしい。大直日神 (おおなおひのかみ)は、異常でけがれた状態をただしくなおす神。黄泉国からもどった伊奘諾尊(いざなぎのみこと)が禊をしたとき、八十枉津日(やそまがつひの)神の「枉」(不浄,不幸)をなおそうとして、神直日(かむなおひの)神の次に生まれたそうだ。ちんぷんかんぷんだ。
坂の途中にあった小さな神社_2
こちらは、なぜだか知らないが二通りの神社名が表記されてあった。一つは、天満神社。もう一つは、保食神社。その関係はどうなのだろうか。昔版のシェアハウスだったのかな。
坂の途中にあった小さな神社_3
一の坂から爺杉方面へ戻る道
ここは比較的歩きやすいが、残念なことにごくごく短かった
一の坂から爺杉方面へ戻る道_1
一の坂から爺杉方面へ戻る道_2
名もない石碑だろう。誰にも注目される様子がない。でも何か味わいがあると思った。碑面中央には、『奉書寫妙法蓮華経壹字壹石供養塔』とあり、碑面右側には、『奉唱満南無阿弥陀仏宝号百万遍』とあった。残念ながら、私には意味合いが理解できない。
名もない石碑だろう
祓川
祓川_1
祓川_2
祓川_3
須賀の滝
既述したが、滝は承応3年(1654)時の別当天宥により月山々麓水呑沢より約8kmの間を引水し、祓川の懸崖に落した人工の滝だ。う~~ん、凄い。滝の麓にあるのは祓川神社(右)と岩戸分神社(左)。
須賀の滝_1
須賀の滝_2
須賀の滝_3
下居社と神橋
この下居社だけは神の文字がつかないようだ。なぜなのだろうか?
下居社と神橋_1
下居社と神橋_2

 

出羽三山を尋ねる一泊バス旅行(11)

羽黒山(2)
随神門から国宝五重塔(2)
神橋を過ぎると今度は上り坂
ただし、国宝五重塔までは、ダラダラとした上り坂なので、安心されたい。
神橋を過ぎると今度は上り坂
爺杉
この人物は私ではないので、誤解のないように
爺杉_1
爺杉_2
爺杉_3
帰り道でも再び見てみた
爺杉_4
杉木立の間から、国宝五重塔が見える。ここからの写真が一番良く撮れたような気がする。
杉木立の間から、国宝五重塔が見える_1
杉木立の間から、国宝五重塔が見える_2
国宝五重塔
素木造り、柿葺、三間五層の優美な姿で聳り立つ五重塔。素木造りで三間かどうかは別として五層であることは、誰が見てるわかる。でも、柿葺かなあとは思っても、屋根に関してが自信がなかった。再建されてからでも600年が経過したのか。悠久の時が経過していったんだ。雪にくるまれた五重塔も味わいがあるのだろう。
正面からの様子
撮影技術がない所為か、逆光気味の被写体をうまく撮ることが出来なかった。どうやって撮ればよかったのかなあ。勉強しなくちゃ。
国宝五重塔_正面からの様子_1
国宝五重塔_正面からの様子_2
国宝五重塔_正面からの様子_3
国宝五重塔_正面からの様子_4
国宝五重塔_正面からの様子_5
帰り際にも
国宝五重塔_正面からの様子_帰り際にも_1
国宝五重塔_正面からの様子_帰り際にも_2
側面などからの様子
国宝五重塔_側面などからの様子_1
国宝五重塔_側面などからの様子_2
国宝五重塔_側面などからの様子_3
国宝五重塔_側面などからの様子_4
一の坂から見た様子
国宝五重塔_一の坂から見た様子_1
国宝五重塔_一の坂から見た様子_2
国宝五重塔_一の坂から見た様子_3

羽黒山は、会津や平泉と共に東北仏教文化の中心であっただけに、数々の文化財に富んでいる。山麓の黄金堂は重文に、山内の五重塔は国宝である。古くは瀧水寺の五重塔と言われ、附近には多くの寺院があったが、今はなく五重塔だけが一の坂の登り口左手に素木造り、柿葺、三間五層の優美な姿で聳り立つ杉小立の間に建っている。現在の塔は長慶天皇の文中年間(約600年前)庄内の領主で、羽黒山の別当であった武藤政氏の再建と伝えられている。

 

出羽三山を尋ねる一泊バス旅行(10)

鶴岡市内に1泊し、2日目もまた、出羽三山を楽しむ。この日は、羽黒山の随神門から国宝五重塔までと、湯殿山神社を訪ね、その後一路東京に帰る日程だ。ちょっと強行軍の感じは否めない。マイカーで往復するのならば、もう1泊することをおすすめしたい。

朝のホテル付近
今日も非常に良い天気。台風の影響か、時々強い風が吹くが、気分爽快の一日になりそうだ。ホテルは、鶴岡の市街地からは少し離れ、山形自動車道の鶴岡インターのそばだったようだ。何種類かの鳥さんもいたが、お散歩用のEOS M3の短いレンズではどうしようもなかった。
朝のホテル付近_1
朝のホテル付近_2
朝のホテル付近_3
朝のホテル付近_4
朝のホテル付近_5
朝のホテル付近_6

羽黒山(2)
今日は山頂ではなく中腹の随神門から国宝五重塔までを見る。
車窓から
ここからは、EOS 7D mark2で撮影
車窓から_1
車窓から_2
車窓から_3
車窓から_4
鳥海山かな
鳥海山かな
致道博物館内の建物(車窓からはうまく撮れなかったので、PDFを借用)
旧鶴岡警察署庁舎
旧鶴岡警察署庁舎
旧西田川郡役所
旧西田川郡役所
旧渋谷家住宅
この住宅のある田麦俣地区は、この後に行く予定の湯殿山の麓だ。このような住宅が間違いなく必要な豪雪地帯だろう。
旧渋谷家住宅
随神門から国宝五重塔(1)
随神門前の宿坊
宿坊神林勝金という宿坊だ。確かに交通至便な宿坊だ。
随神門前の宿坊
末社羽黒山天地金神社
よく見ると、屋根の正面が少し変わった形状をしているようだ。もともとは、大師堂だったのに、昭和39年に、須佐之男命をお祀りし、天地金神社となり現在に至っているのか。う~~ん、そこまで持ちこたえていたのならば、そのまま大師堂でよかったのではと思うが、…。
末社羽黒山天地金神社_1
末社羽黒山天地金神社_2
随神門の右手前にある朱塗りのお社で、応永4年学頭法性院尊量により創建されたが兵乱のため大破し、後に羽黒山智憲院宥然により安永8年(1779)再興された。もと「元三大師像」を御本尊としてお祀りしたので大師堂と称していたが、昭和39年、須佐之男命をお祀りし、天地金神社となり現在に至っている。
天拝石
天拝石_1
天拝石_2
天拝石_3
随神門
羽黒山参詣道の入り口にある赤い山門。左右に悪霊の侵入を防ぐ門番の神々(随神)、豊石窓神(とよいわまどのかみ)と櫛石窓神(くしいわまどのかみ)が剣と弓矢をもって鎮座している。
明治の神仏分離により、祀る像が仁王像から随神像に変わり、名称も仁王門から随神門に変わったのか。

随神門_1
随神門_2
随神門_3
随神門_4
随神門より内は出羽三山の神域となり、神域は遠く月山を越え、湯殿山まで広がる。随神門はこの広い神域の表玄関である。この門は初め仁王門として元禄年間秋田矢島藩主より寄進されたが、明治の神仏分離の折り、随身像を祀り随神門と名付けた。
随神門をくぐるといきなりの急坂
この坂は継子坂という。まずは下り坂で楽といえば楽なのだが、帰り道は地獄の上り坂になりそうだ。246段あるそうだ。覚悟しておかなくては。
継子坂_1
継子坂_2
継子坂_3
継子坂_4
継子坂_5
此処にも末社がいくつかあった
かなり渋い感じ。次回も取り上げるので、さっと通りすぎる。
此処にも末社がいくつか_1
此処にも末社がいくつか_2
此処にも末社がいくつか_3
此処にも末社がいくつか_4
此処にも末社がいくつか_5
此処にも末社がいくつか_6
神橋
神橋_1
神橋_2
神橋_3
神橋_4
神橋_5
神橋_6
神橋_7
橋の上から見た須賀の滝
あの滝が、承応3年(1654)に、時の別当天宥が月山々麓水呑沢から約8kmの間を引水し祓川の懸崖に落し、不動の滝と名付けた人工の滝とは。重機が使える今だったら、何の事はないことかもしれないが、362年も前のこととなると話が違う。気宇壮大なことだ。
橋の上から見た須賀の滝_1
橋の上から見た須賀の滝_2
橋の上から見た須賀の滝_3
須賀の滝
「祓川」に落ちる須賀の滝は随神門から出羽三山神社三神合祭殿(旧羽黒山神社)に至る参道沿いにある滝で参道からは朱色の神橋で滝下直下まで行くことが出来ます。江戸時代初期、羽黒山の中興の祖といわれた天宥法印(第50代羽黒山別当、幕府の重鎮天海僧正に師事し、羽黒山を真言宗から天台宗に改宗し出羽三山の再興に尽力した。)が8㎞先の月山から水路を開削し造った人工の滝です。水路自体は新田開発の為計画されたものですが天宥は造園技術にも長け羽黒神社境内の再整備の一環だったと思われます。古くは不動の滝と称し、修験者や参拝者の水垢離の場としてここで身を清め参拝に望みました。滝の前、向って右側には祓川神社(祭神:瀬織津比咩神、速開津比咩神、気吹戸主神、速佐須良比咩神)、左側には岩戸分神社(祭神:天手力雄命)、奥には不動明王を祀り神聖化しています。春先は雪解け水の為、水量も豊富になり、通常時よりも迫力を増します。

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祓川と須賀の滝
随神門より継子坂を下りると祓川に掛かる神橋に出る。昔三山詣での人々は必ず祓川の清き流れに身を沈め、水垢離をとり三山への登拝の途についた。朱塗りの美しい神橋は見事な浸蝕谷にかかり、向かいの懸崖から落ちる須賀の滝と相対し、その景観はまことに清々しく美しい。
滝は承応3年(1654)時の別当天宥により月山々麓水呑沢より約8kmの間を引水し祓川の懸崖に落し、不動の滝と名付けた。又、一般的には神域とは随神門と伝えられているが、ここより山上と山麓を呼び分け、山上には維新まで本坊を始め30余ヶ院の寺院があり、肉食妻帯をしない「清僧修験」が住み、山麓には336坊の「妻帯修験」が住んでいた。

 

出羽三山を尋ねる一泊バス旅行(9)

月山8合目弥陀ヶ原(3)
十字路
左側は中之宮で遠回りした道。まっすぐは月山登山道。そして、右側は、8合目駐車場へ戻る道。その分岐点だ。我々は右折する。
十字路_1
まっすぐは月山登山道で、山頂に至る道。今回はスケジュールの都合上、行ってはいけない道。時間的にも日没間際なので、下山の人ばかりだろう。
十字路_2
標識は、月山登山道と我々がやってきた道とを示している。我々がやってきた道は、ツアーコンダクターからもらった資料によれば、20分程度とあったが、此処の記載は30分となっていた。かなり余裕をとった表示のようだ。
十字路_3
この道は、中之宮から遠回りしてきた道
十字路_4
右折して周回路を下る
ここからは池塘がたくさんあった
ここからは池塘がたくさんあった_1
ここからは池塘がたくさんあった_2
ここからは池塘がたくさんあった_3
ここからは池塘がたくさんあった_4
ここからは池塘がたくさんあった_5
ここからは池塘がたくさんあった_6
ここからは池塘がたくさんあった_7
ここからは池塘がたくさんあった_8
ここからは池塘がたくさんあった_9
ここからは池塘がたくさんあった_10
ここからは池塘がたくさんあった_11
ここからは池塘がたくさんあった_12
青くて小さいのがタテヤマリンドウらしい。そう教えられたが、あまりに小さくて、確認しようもない。(^_^;)
青くて小さいのがタテヤマリンドウらしい
他の花さんたち
他の花さんたち_2
他の花さんたち_3
そろそろ先を急ごう
そろそろ先を急ごう
まだまだ池塘がある
まだまだ池塘がある_1
まだまだ池塘がある_2
まだまだ池塘がある_3
まだまだ池塘がある_4
まだまだ池塘がある_5
まだまだ池塘がある_6
まだまだ池塘がある_7
まだまだ池塘がある_8
日が暮れかけてきた。今の時刻は17:10頃。
日が暮れかけてきた
庄内平野が眼下に広がる。綺麗だなあ。
庄内平野が眼下に広がる_1
庄内平野が眼下に広がる_2
庄内平野が眼下に広がる_3
あちこちに雲が湧き上がってきた
あちこちに雲が湧き上がってきた_1
あちこちに雲が湧き上がってきた_2
あの雲の下は鳥海山かな
あの雲の下は鳥海山かな
こうやって見るとバスもギリギリのところに停めていたんだ
バスもギリギリのところに停めていたんだ

 

出羽三山を尋ねる一泊バス旅行(8) 2016.09.09 16:00一部修正

月山8合目弥陀ヶ原(2)

木道から石のゴツゴツした歩きにくい道に入った。ここから真っすぐ行けば月山山頂に行くことになる。途中までこの道を利用する。そうしているうちに、月山御田原参籠所(中之宮)に到着した。

月山八合目/弥陀ヶ原マップ

月山御田原参籠所(中之宮)
湿原を楽しむだけでなく、月山神社へのお参りも忘れずにしなくちゃ。ここには、なで兎なるものもあった。
さあ、どっちに進もうかということで、人が屯している
さあ、どっちに進もうか
なで兎
下記の説明のものだ。この後ろの道を進むとかなり遠回りのコースだが、チングルマやニッコウキスゲ、ワタスゲなどを見ることができるようだ。
なで兎_1
お姉さんたち、そっちはかなり遠い道のりだけど本当に大丈夫?心配だなあ。
なで兎_2
御田原神社
御田原神社_1
御田原神社_2
御田原神社_3
御田原神社_4
御田原神社_5
御田ヶ原と月山神
明治以前の神仏習合の時代、月山には神である月読命と仏の阿弥陀如来が祀られ、月山権現として崇められていた。八合目の湿原「みだがはら」の由来を江戸時代の文献に求めると、「小屋の岩頭に阿弥陀如来の銅像を安置したことから、俗に呼ぶ弥陀ヶ原と旧記に載る所は御田ヶ原である。日神の御田は天の安田・天の平田・天の邑併田の三ヶ所に有り、これらは皆良き田である。こうしたことから、諸神の国社に御田植ること古式なれば、このような丘山にも神田を開かれたのであろう」とあり、天照大神の御田としての「御田ヶ原」であると記している。また、日本書紀には「天照大神が天上にあって、保食神が葦原中津国にあった時、月夜見尊を保食神に遣わされた。保食神の所に至ると、保食神は首を廻して国に向かい口から飯を出した。その稲種で天の狭田及び長田に種を撒いた。」とある。奇稲田姫神は稲田の守護神であり、豊穣の神であることから、農耕神でもある月山神の摂社として配せられる。
ここ八合目の湿原はいにしえより天のお花畑にも喩えられ、雪の消える跡を追うように咲くニッコウキスゲや秋を知らせるミヤマリンドウなど、たくさんの草花が高山の澄んだ空気に冴えわたり登拝者の心を和めてくれる。また晩秋には池塘(ちとう)の回りの馬蹄草(雑草)があかく色付き、見た目にもまるで黄金に実った稲田を想わせる。こうした光景が人々に神田といわせるゆえんで、稲田の神とする奇稲田姫(櫛名田比売)が祀られるのはもっともなことである。古より馬蹄草の多少によって年穀の豊凶を卜う作だめしの御田とされている。
月山神と兎
兎は古くから、月山神のお使い、或いは月の精とされ、悪運から逃れる力があるとされています。因みに十二支の内、卯歳は月山の御縁年とされています。


鳥居をくぐって弥陀ヶ原湿原散策再開
ここからは遠回りのコースではなく、石の道になっている登山道を通る。歩きにくいがかなりのショートカットだ。ツアーの指定コースでもある。
ミヤマリンドウ(どうも正しくはエゾオヤマリンドウのようだ)
とても綺麗な感じ
ミヤマリンドウ_1
ミヤマリンドウ_2
ミヤマリンドウ_3
山頂が近くに見える
とても登りやすい山なのだそうだ。8合目から目安は3時間。個人旅行ならば、挑戦したいところだ。
山頂が近くに見える_1
山頂が近くに見える_2
先を歩く人達
先を歩く人達
この辺りは池塘だらけ
この辺りは池塘だらけ_1
この辺りは池塘だらけ_2
この辺りは池塘だらけ_3
あっという間に山頂に雲が湧きだした
自然の力は凄いものだ。山火事でも起きたかのような濃い雲だ。
あっという間に山頂に雲が湧きだした_1
あっという間に山頂に雲が湧きだした_2
お花が綺麗
お花が綺麗_1
お花が綺麗_2
お花が綺麗_3
お花が綺麗_4
お花が綺麗_5
あっという間に雲がなくなった。先ゆく人たちも気持ちよさそう。
チャンとした格好をしていればの話だ。薄着だと、風が吹く度に震え上がりそうな感じだった。
あっという間に雲がなくなった_1
あっという間に雲がなくなった_2
あっという間に雲がなくなった_3
あっという間に雲がなくなった_4
あっという間に雲がなくなった_5

 

出羽三山を尋ねる一泊バス旅行(7)

羽黒山山頂を後にして、初日二番目の目的地、月山8合目弥陀ヶ原に向かう。羽黒山と違い8合目といえども、標高はかなりある。

月山8合目弥陀ヶ原(1)
初日の二つ目の目的地。月山八合目までバスで上り、そこからは徒歩で弥陀ヶ原を見て回るのだが、八合目までの道が極めて狭い。そこを時々大型車同士が無理無理すれ違うので、かなり到着まで時間がかかる。
月山は9月下旬には、通行禁止の期間に入る。残すところ、1ヶ月というところで、ギリギリ滑りこんだ。確か信州の『白駒の池』は11月から通行禁止だと記憶している。夏スキーが可能なところだけあって、相当に冬の訪れが早く期間も長いようだ。


向かう道筋の車中から見た様子
どんどん上に上がっていくのが体感できる。もう今月(9月)下旬で、4合目から先には行けなくなってしまうそうだ。
下界が綺麗だなあ
向かう道筋の車中から見た様子_1
向かう道筋の車中から見た様子_2
あの光っているところが日本海
向かう道筋の車中から見た様子_3
向かう道筋の車中から見た様子_4
向かう道筋の車中から見た様子_5
月山8合目駐車場に到着
駐車場には既に他の大型バスは皆無。最終の見学者一行となったようだ。東京から1泊2日の旅程は思った以上にハードなようだ。
車中から見るよりも綺麗に見えた日本海
月山8合目駐車場に到着
弥陀ヶ原を登り始める
最初は割ときつい上り坂が続く。16:30過ぎなので、我が一行以外は、下山される方がほとんどのようだ。
最初に見かけた花さんたち
弥陀ヶ原を登り始める_1
弥陀ヶ原を登り始める_2
弥陀ヶ原を登り始める_3
鳥海山は雲海の下のようだ
弥陀ヶ原を登り始める_4
庄内平野がくっきりはっきり見える
弥陀ヶ原を登り始める_5
日本海もはっきりと
弥陀ヶ原を登り始める_6
弥陀ヶ原湿原の様子
かなり長い周回コースになっている。地震がなく、途中で引き返す方もかなりいらっしゃったようだ。超大型で今までにない経路を辿った台風10号の所為で、8月28日の隣県宮城県は大雨だったが、こちら山形県は雨が降る気配さえ無い好天。申し訳ないような気がした。
弥陀ヶ原湿原の様子_1
弥陀ヶ原湿原の様子_2
この辺りにチングルマが咲くのかなあ。そう思ったが、後で案内図を見たらもう少し先にようだ。
弥陀ヶ原湿原の様子_3
山頂が見えてきた。すぐ近くに見えるが、そんなに甘くはないようだ。道中すれ違ったバスに大勢乗っていた修験道に参加された方たちは、一様に疲れ果てた様子だった。
弥陀ヶ原湿原の様子_4
弥陀ヶ原湿原の様子_5
先をのんびり見ている余裕はない。しっかり歩かねば。
弥陀ヶ原湿原の様子_6
弥陀ヶ原湿原の様子_7
この辺の花さん
弥陀ヶ原湿原の様子_8
弥陀ヶ原湿原の様子_9
弥陀ヶ原湿原の様子_10
だいぶ登った気になっていたが、コースの5分の1程度に過ぎなかった。標高1400-1500mの標高か。無理をせずに行くしか無い。
弥陀ヶ原湿原の様子_11
弥陀ヶ原湿原の様子_12
私が最初に気づいた小さな池沼(池塘)
弥陀ヶ原湿原の様子_13
弥陀ヶ原湿原の様子_14
日本海は少し赤みがかってきた。このとき、16:44。集合時間には少し薄暗くなる感じだろう。
弥陀ヶ原湿原の様子_15
この辺りの花さんとごく小さな池沼(池塘)
弥陀ヶ原湿原の様子_16
弥陀ヶ原湿原の様子_17
弥陀ヶ原湿原の様子_18
弥陀ヶ原湿原の様子_19
弥陀ヶ原湿原の様子_20
弥陀ヶ原湿原の様子_21
弥陀ヶ原湿原の様子_22
弥陀ヶ原湿原の様子_23
弥陀ヶ原湿原の様子_24
弥陀ヶ原湿原の様子_25
弥陀ヶ原湿原の様子_26

山形県のほぼ中央に位置し、標高1984mの高さを誇る山です。珍しい種類の火山だそうで、朝日連峰、飯豊連峰とともに磐梯朝日国立公園に指定されています。
古くは山岳信仰の対象であり、月読命が祀られています。松尾芭蕉がこの山を句の題材としたことでも知られています。歴史と自然が織りなす融合のハーモニーを体感してみてください。
​月山に湧きだす水は、名水百選にも名前を連ねています。登りやすく、美しい山として数々の項目で選ばれています。それらの選定率は国内トップクラスのものです。奥の細道にも登場するなど、日本においても抜群の知名度がある山ですね。古くは犂牛山(くろうしのやま)と呼ばれていました。夏スキーもできることで有名です。特殊な植物も多く、イワヒバリやオコジョといったあまり他所では見られない動物もいます。


 

出羽三山を尋ねる一泊バス旅行(4)

羽黒山(4)
出羽三山神社(3)
蜂子神社(並んだ左側は「厳島神社」)
蜂子神社
表参道石段の終点鳥居と本殿の間の厳島神社と並ぶ社殿。出羽三山神社御開祖・蜂子皇子を祀っている。一瞬、『蛭子神社』と読み違えてしまった。蜂子皇子を祀る有難い社殿だった。
蜂子神社_1
蜂子神社_2
蜂子神社の創建は元和5年(1619)、当時の羽黒山別当だった宥俊が開山堂を建立し羽黒山修験の開祖である蜂子皇子の尊像を祀ったのが始まりとされます。蜂子皇子は崇峻天皇の第三子と生まれましたが、当時は蘇我氏の台頭などで朝廷内が不安定(崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺されるなど)な状態だった為、推古元年(593)に日本海を北上し難を逃れました。皇子が庄内の由良港に上陸した時、一羽の烏(三本足)に導かれ羽黒山に登ったとされ、その後、羽黒大神を勧請し、次いで月山、湯殿山と開山しました。社殿の建立年は手元に資料がなく分かりませんが、宝形造り、銅板葺き、桁行3間、梁間4間、正面1間軒唐破風向拝付、外壁は真壁造、板張り素地、組物や彫刻など凝った造りで、花頭窓があるなど寺院建築の特徴を備えています。木鼻には通常、獅子や象、龍ですが、蜂子神社では鳥(烏?)が彫りこまれ、蜂子皇子の由来に縁のあるものにしたと思われます。建物の形態から神社風に改修しているようですが神仏習合時代には羽黒山の開山堂で、明治時代初頭に発令された神仏分離令により蜂子神社に改称しています。蜂子神社社殿は貴重な存在で平成17年(2005)に鶴岡市指定有形文化財に指定されています。内部に安置されている木造蜂子皇子御尊像は元々五重塔に安置されていましたが元和5年(1619)に開山堂の本尊として移されました。神仏分離令が発令され出羽三山でも仏教色が廃されると、廃仏毀釈を恐れ仏教色の強い尊像は社殿奥に隠され、そのまま秘仏となっています。毎年8月21日の例祭には社殿の前に護摩壇を設け山伏達が大柴燈際を行い天下安寧の祈願します。蜂子皇子の墓所は出羽三山神社境内にあり現在も宮内庁によって管理されています。
厳島神社
蜂子神社と並んで設置されている理由は、私にはよくわからない。下記の説明文を参照されたい。それにしても、見事な彫刻が施されている。
厳島神社_1
厳島神社_2
羽黒山厳島神社の創建は勉強不足の為に不詳、当時は弁天堂と称し仏教色の強い御堂でした。名称から察すると七福神の一柱弁財天が本尊として祀られていたと思われます。明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が廃されると、元々、弁財天と宗像三女神(市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命)の1柱である市杵島姫命は同じ女神で水神だった事から神仏習合時代の本地垂迹(八百万の神々は仏に姿を変え日本に降臨したという信仰)では同神とされ、市杵島姫命は世界遺産でも知られる厳島神社(広島県廿日市市)の祭神だった事から厳島神社になったと思われます。又、厳島神社は津速魂神社と合祀しているようですが、祭神と思われる津速魂命が何故勧請されたのかは不詳。社殿は旧弁天堂を神社として改修したもので、宝形造、銅板葺、桁行3間、梁間3間、正面1間向拝付、外壁は真壁造、板張素地、正面の開口部は仏教色の強い花頭窓が残され、向拝の向って右側の柱には登り龍、左側の柱には降り龍、向拝木鼻には象と獅子、欄間には龍の精緻な彫刻が施されています。羽黒山厳島神社社殿は出羽三山の神仏混合当時の遺構として貴重な事から平成17年(2005)に鶴岡市指定文化財に指定されています。
鏡池
池底からは500面以上の鏡が見つかっている。池中納鏡の思想が古来からあり、古いものでは平安時代の鏡が見つかっているとのこと。そうなのかもしれないが、季節から水草が繁茂しすぎていて、池の様子はよく確かめることが出来なかった。水草は葉の形状からコウホネではないかと思う。
平安時代から江戸時代の銅鏡190面は古代の水霊崇拝の遺構で意匠的にも優れていて、大変貴重な事から、昭和25年(1950)に国指定重要文化財に指定された。

鏡池
東西38m南北28mの楕円形のこの御池は御本殿の御手洗池であり、年間を通しほとんど水位が変わらず、神秘な御池として古くより多くの信仰をあつめ、また羽黒信仰の中心でもあった。古書に「羽黒神社」と書いて「いけのみたま」と読ませており、この池を神霊そのものと考え篤い信仰の捧げられた神秘な御池であり、古来より多くの人々により奉納された、銅鏡が埋納されているので鏡池という。
東照社
東照社_1
東照社_2
東照社_3
東照社_4
東照社_5
寛永18年(1641)、第50代天宥別当は徳川幕府の宗教顧問である東叡山の天海僧正の弟子となり、羽黒一山を天台宗に改宗する条件の一つに、東照権現の羽黒山勧請の周旋を申し出た。
天海僧正は鶴岡城主酒井忠勝に働きかけ、天保2年(1645)藩主は社殿を寄進した。
爾来、歴代の藩主の崇敬庇護のもと維持されてきた。
明治時代に東照宮は東照社と改められ、現在の社殿(3間5間)は昭和55年(1980)に解体復元したものである。天宥別当の勧請のねらいは、東照権現を山中に祀ることによって山威を高め、この頃緊張の度を加えつつあった庄内藩との関係を円滑なものにすることにあった。

霊祭殿
霊祭殿_1
霊祭殿_2
出羽三山は往古より祖霊安鎮のお山とされ、深い信仰をあつめており、ご先祖の御霊を供養する風習が現在も盛んに行われている。単層入母屋千鳥破風五間社造りの本殿に次ぐ、荘厳な建物で昭和58年に再建されたものである。
神輿社
羽黒山・月山・湯殿山の散々の神輿が収納されているそうだ。
神輿社_1
神輿社_2
俳聖芭蕉像と石碑
松尾芭蕉は、当然の事ながらこの出羽三山にもやってきた。そして、阿闍梨に拝謁し、その翌日には、句会を開催したそうだ。顛末は、『奥の細道』に記されている通り。
芭蕉翁の石像はこんなものだろうと思う。石碑の方は、半分程度しか判読できなかった。帰宅してから、画像を拡大し、WEBの検索も行って、やっと書いてある内容がわかった。

俳聖芭蕉像と石碑_1
俳聖芭蕉像と石碑_2
涼しさやほの三日月の羽黒山
かたられぬゆどのにぬらす袂かな

  加多羅例努湯登廼仁奴良須當毛東迦那
雲の峯いくつ崩れて月の山
なお、下記の句碑は羽黒山の南谷別院跡にあるそうだ。画像はPDFを借用した。
芭蕉句碑
有難や雪をかほらす南谷
この句碑を説明しているHPへjump
羽黒
六月三日、羽黒山に登る。図司左吉と云者を尋て、別当代会覚阿闍梨に謁(えつ)す。南谷の別院に舎(やど)して、憐愍(れんみん)の情こまやかにあるじせらる。

四日、本坊にをゐて俳諧興行。
有難(ありがた)や雪をかほらす南谷

五日、権現に詣。当山開闢(かいびゃく)能除大師(のうじょだいし)は、いづれの代(よ)の人と云事を知らず。延喜式に「羽州里山の神社」と有。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや。「羽州黒山」を中略して「羽黒山」と云にや。出羽といへるは、「鳥の毛羽を此国の貢に献る」と風土記(ふどき)に侍とやらん。月山、湯殿を合て三山とす。当寺武江東叡(ぶこうとうえい)に属して、天台止観(てんだいしかん) の月明らかに、円頓融通(えんどんゆづう)の法(のり)の灯(ともしび)かゝげそひて、僧坊棟をならべ、修験行法を励し、霊山霊地の験効、人貴(たっとび)且(かつ)恐る。繁栄長(とこしなえ)にして、めで度(たき)御山と謂つべし。

 

出羽三山を尋ねる一泊バス旅行(3)

羽黒山(3)
出羽三山神社(2)
三神合祭殿(さんじんごうさいでん)
三神合祭殿は、出羽三山詣でに来られる殆どの方のお目当てだろう。建物は、非常に大きく壮麗である。
9月末には早くも入山できなくなる月山や湯殿山。そのため、この標高の低い羽黒山で祭祀を執り行うことにしたそうだ。当初は寒冷期だけの事だったが、今は、一年を通して祭祀はこの社殿で執り行うそうだ。
社殿は、地元の人曰く、『合祭殿造りと称すべき羽黒派古修験道独自のもの』だ。確かに他ではお目にかかったことがないような独特の建物だ。そして、見事な茅葺屋根だ。屋根葺き替えにあたっては寄進をお願いしなくてはどうしようもない規模だと思われる。

側面から見た様子
側面から見た様子_1
側面から見た様子_2
正面から見た様子
正面から見た様子_1
正面から見た様子_2
正面から見た様子_3
正面から見た様子_4
正面から見た様子_5
正面から見た様子_6
正面から見た様子_7
正面から見た様子_8
正面から見た様子_9
正面から見た様子_10
正面から見た様子_11
黒い存在に気が付かれただろうか
一生懸命に建物を支え、その一方で不審者を見張っているのだろう。なにか見られたような気がしたのはその所為かなあ。
黒い存在に気が付かれただろうか_1
黒い存在に気が付かれただろうか_2
黒い存在に気が付かれただろうか_3
黒い存在に気が付かれただろうか_4

社殿は合祭殿造りと称すべき羽黒派古修験道独自のもので、高さ28m(9丈3尺)桁行24.2m(13間2尺)梁間17m(9間2尺4寸)で主に杉材を使用し、内部は総朱塗りで、屋根の厚さ2.1m(7尺)に及ぶ萱葺きの豪壮な建物である。
現在の合祭殿は文政元年(1818)に完成したもので当時工事に動員された大工は35,138人半を始め木挽・塗師・葺師・石工・彫物師その他の職人合わせて55,416人、手伝人足37,644人、これに要した米976余石、建設費5,275両2歩に達した。この外に多くの特志寄付を始め、山麓郷中の手伝人足56,726人程が動員された。
建設当時は赤松脂塗であったが、昭和45年~47年にかけ開山1,380年記年奉賛事業の一環として塗替修復工事が行われ、現在に見るような朱塗りの社殿となった。
平成12年、国の重要文化財に指定される。

 

出羽三山を尋ねる一泊バス旅行(2)

羽黒山(2)
出羽三山神社(1)
手水舎
立派な作りだ。ここに至るまでに見た天宥社、末社、蜂子皇子の墓で早くも圧倒された状態だったが、それはこれから続く驚きの序章に過ぎなかった。
手水舎_1
手水舎_2
両部鳥居
出羽三山神社の鳥居なので、『出羽神社(右側一段下がり)、月山神社(中央)、湯殿山(左側一段下がり)』と並んで表示されてある。月山神社が中央にあり、一段高い。格式の差なのだろうか?月山神社は官幣大社でその他の2社は国幣小社だから、そういう風に考えて間違いがなかろう。なお、羽黒山の神社は出羽神社というようだ。読み方も『でわ』ではなく『いでは』なんだ。
駐車場側
両部鳥居_駐車場側_1
両部鳥居_駐車場側_2
山頂石段側
本当はこの先をもっと歩きたかったが、ツアーのスケジュール上、断念せざるを得なかった。歩いたら、大後悔すること間違いなしの厳しさなのだそうだ。皆が口をそろえて言うのだから間違いがないことなのだろう。
両部鳥居_山頂石段側
両部鳥居は、本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある鳥居。名称にある両部とは密教の金胎両部(金剛・胎蔵)をいい、神仏習合を示す名残。四脚鳥居、稚児柱鳥居、権現鳥居、枠指鳥居などの別名がある。
境内の様子
当然、こういう人たちの姿が目立つ
境内の様子_1
引いてみたほうがロケーションがよく分かるのかもしれない。茅葺屋根の揃い踏みだ。
境内の様子_2
境内の様子_3
鐘楼と建治の大鐘(国の重要文化財)
寺院にあることが普通だろう。しかし、この地は江戸時代までは神仏習合の聖域だったので、こういうのは別に不思議な事ではなかろう。鐘楼は歴史を感じさせる堂々たるものだ。また、大鐘も古く且つ大きい。その後方にある建物は、出羽三山神社参集殿。
鐘楼と建治の大鐘(国の重要文化財)_1
鐘楼と建治の大鐘(国の重要文化財)_2
鐘楼と建治の大鐘(国の重要文化財)_3
鐘楼と建治の大鐘(国の重要文化財)_4
鐘楼と建治の大鐘(国の重要文化財)_5
鐘楼と建治の大鐘(国の重要文化財)_6
鐘楼と建治の大鐘(国の重要文化財)_7
鐘楼と建治の大鐘(国の重要文化財)_8
鐘楼と建治の大鐘(国の重要文化財)_9
堂は鏡池の東にあり、切妻造りの萱葺きで、小さいが豪壮な建物である。最上家信の寄進で元和4年再建した。山内では国宝五重塔に次ぐ古い建物である。鐘は建治元年の銘があり、古鐘では、東大寺・金剛峰寺に次いで古く且つ大きい。鐘の口径1.68m(5尺5寸5分)、唇の厚み22cm(7寸1分)、また鐘身の高さ2.05m(6尺7寸5分)、笠形の高さ13cm(4寸4分)、龍頭の高さ68cm(2尺2寸3分)あり、総高2.86m(9尺4寸2分)である。
上帯の飛雲丈は頗る見事な手法で、よく当代の趣味を発揮し、池の間は、雲中飛行の天人や、池注連華を鋳現しているのは、羽黒の鐘にのみ見る所で、全く希有である。また天人の図は宇治鳳凰堂の藤原時代の鐘に見るほか、絶えてその例を見ないという。この鐘は文永・弘安の蒙古襲来の際、羽黒の龍神(九頭龍王)の働きによって、敵の艦船を全部海中に覆滅したので、鎌倉幕府は、羽黒山の霊威をいたく感じて、鎌倉から鐘大工を送り、羽黒で鐘を鋳て、羽黒山に奉ったのであるという。

出羽三山神社参集殿
写真は、上掲の『鐘楼と建治の大鐘』の写真を参照されたい。
地上2階、地下1階総床面積2,179平方メートル入母屋造り銅板一文字段葺、従来の直務所の機能に参拝者の受入施設、神職養成所機能さらに儀式殿をも附設多目的な出羽三山に相応しい立派な参集殿が昭和63年7月2日に見事完工された。

 

出羽三山一泊バス旅行(1)

子供の頃に住んでいた地区に『湯殿山』信仰の証なのだろうか、立派な石碑があった。同じ東北地方とは言いながら、いわきの外れから山形の湯殿山までは気が遠くなるような距離がある。交通手段が殆ど無い時代に、わざわざ困難をモノともせずに出掛けたのだろうか。そのことがずっと、頭の片隅に残っていた。
ずっと考えているくらいなら、行って見て確認してくればいいじゃないか。そう思い、旅行会社の企画に参加してみた。


出羽三山の案内図
羽黒山を中心に見たイラスト
かなりデフォルメして描かれている。とくに、イラストを信じて、標高がそれほどでもないしと安易に思い込み、一の坂、二の坂、三の坂に挑戦するのは、絶対に避けるべきとのこと。強靭な体力の持ち主でないとダメだろうし、時間も相当にかかるとのことだ。
羽黒山を中心に見たイラスト
三山の位置関係はこんなふう
『阿弥陀ヶ原』と書かれてあるが、正しくは『弥陀ヶ原』だ。
三山の位置関係

羽黒山(1)
三神合祭殿(国の重要文化財)中心としたところ
初日は三神合祭殿を中心としたところを見て回った。随神門から国宝五重塔は二日目に見る。
駐車場の様子
たかだか駐車場にすぎないのだが、既に神域の雰囲気が。早くもちょっと緊張した気分になった。台風10号がいつコースを左に曲げてくるか気が気ではなかったが、運がよいことに山形県は好天に恵まれた。
駐車場の様子_1
駐車場の様子_2
駐車場の様子_3
三神合祭殿を目指す
千四百年も前からの霊場だけあって、杉木立も見事なものだ。歩く人達も徐々に聖地に向かうのにふさわしい厳かな気分になっていくような見えた。
三神合祭殿を目指す_1
三神合祭殿を目指す_2
三神合祭殿を目指す_3
蜂子皇子墓
蜂子皇子は、崇峻天皇の第3皇子。蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺。己の危機を感じ取った蜂子皇子は聖徳太子の助けを借り宮中を脱出して、遂にはこの地に到達したのか。言ってみれは、出羽三山を信仰の山にしたパイオニアだった人物だ。下の解説文は、なかなかに面白い。
蜂子皇子墓_1
蜂子皇子墓_2
蜂子皇子墓_3
蜂子皇子墓_4
蜂子皇子は欽明天皇23年(562)、崇峻天皇の第3皇子として生まれました。崇峻天皇5年(592)、蘇我馬子が家臣である東漢駒に命じて崇峻天皇を暗殺、危機を感じ取った蜂子皇子は聖徳太子の助けを借り宮中を脱出し丹後国由良から日本海を北上し出羽国由良八乙女浦に辿り着きました。伝説によると蜂子皇子は八乙女浦の絶景に心打たれていると、何処からとも無く美しい歌声が聞こえてきたので近寄ってみると大きな洞窟が現れ8人の美女が舞を舞っていたそうです。その内の恵姫と美凰の案内により無事に上陸を果たし、神聖な山の存在などを教わり、暫くその洞窟で身を隠しながら修行を行い次第に霊力を身に着けていきました。機が熟すと、蜂子皇子は霊山を目指し登拝しましたが山は険しく辺りも暗くなりとうとう道を見失ってしまいました。蜂子皇子は観音菩薩に強く念じると、突然八咫烏(足が3本)が出現、皇子は八咫烏に導かれ山頂に登りつくと観音像が現れました。その霊験の噂お聞きつけた出羽国の国司は羽黒山寂光寺を開き観音像を本尊とした観音堂を造営したと伝えられています。蜂子皇子はさらに修行を重ね月山に登拝すると今度は阿弥陀如来が出現、月山を霊地と悟り暮礼山月山寺を開山、月山から東に下ると温泉が湧き出る霊地に大日如来が出現、ここに湯殿山神社を創建しています。その後も蜂子皇子は出羽三山の発展の為、数多くの神社や寺院を創建し舒明天皇13年(641)、享年80歳でこの世を去っています。墓域は羽黒山山頂とされ明治時代に宮内庁によって比定、現在でも東北地方で唯一の皇族の墓として宮内庁が管轄しています。
天宥社
天宥社は天宥法印を祀る神社。天宥法印は中興の祖でありながらも、行き過ぎた改革として讒言を受け、新島に流された僧侶か。この社殿自体は新しいものだが、天宥法印は古くから崇敬され、神仏分離令前は御霊社に祀られていたそうだ。
天宥社_1
天宥社_2
天宥社_3
天宥社_4
天宥社は羽黒山中興の祖と言われる天宥法印を祀った神社です。天宥法印は寛永7年(1630)、25歳で第50代羽黒山別当に就任、当時出羽三山は戦国時代の争乱や兵火により衰微し、各登山口が別個の勢力として統一性を欠き往時の勢いはありませんでした。天宥は幕府の実力者である天海大僧正が天台宗だった為、真言宗だった出羽三山全山を天台宗に改宗し幕府の庇護を得ようと画策、寛永18年(1641)には天海僧正に弟子入りし、天海の「天」の字を賜り宥誉から「天宥」に改称しています。天宥は布教制度を確立し、日光東照宮(栃木県日光市:徳川家康の霊廟、創建には天海大僧正が大きく関わっています。)の分霊を勧請し東照社を創建、さらに堂宇の再建と改修、参道の石段の整備た石灯籠の設置、須賀の滝の造園など数々の実績を残しています。又、新田開発や植林など産業にも力を入れ羽黒山の発展に尽力を尽くしました。しかし、半ば強行に改革を進めていた事もあり、寛文8年(1668年)、反対派からの工作などで幕府の裁定で敗訴、さらに外護者だった庄内藩主酒井氏とも対立した為に新島(東京都新島村)に流され7年後、新島で82歳で入寂しています(天宥が出羽三山から排斥後は記録が無く長く不詳でしたが、昭和に入りようやく新島に流された事が判明しています。新島では島民に学問などを教えていたそうで文化的発展に尽力しています)。現在の社殿は平成4年(1992)に建てられたものですが古くから崇敬され神仏分離令前は御霊社に祀られていたそうです。社殿の前には新島より寄進された石灯籠が立っています。
末社
凄い神社が末社として名を連ねているんだ。画的にも十分美しい。
末社_1
末社_2
末社_3
末社_4
末社_5
出羽三山には百一末社と称し、羽黒を始め月山、湯殿山の山嶺、または幽谷に多数の末社が散在している。写真の末社は左から大雷神社、健角身神社、稲荷神社、大山祗神社、白山神社、思兼神社、八坂神社。

 

横浜の海沿いを歩く(7)

新港サークルウォーク
国際大通りと万国橋通りの交差点に架けられた楕円形の歩道橋。赤レンガ倉庫から、この歩道橋を渡ると、『汽車道』をみなとみらい駅方面に進むのに便利。
新港サークルウォーク_1
新港サークルウォーク_2
このアングルからだと、ちょっとギクシャクした感じに見えるかもしれない
新港サークルウォーク_3
確かに丸いとお分かりいただける筈
新港サークルウォーク_4
邪魔されずに赤レンガ倉庫を見ることができる
新港サークルウォーク_5
内側はカクカクとした感じだが、歩道そのものは綺麗な曲線状になっている
新港サークルウォーク_6
新港サークルウォーク_7
新港サークルウォーク_8
新港サークルウォークは、我が国の近代港湾発祥地である新港地区赤レンガパーク前に建設されました。赤レンガパークは、明治~大正当時の建築技術を結集して建設された赤レンガ倉庫を中心に、港の賑わいと文化を創造する空間として、市民が憩い、楽しむ賑わいの場となっています。
本橋は、主構が楕円形のダブルワーレントラスとなっており外側に張り出し床版を設けるという、世界に類例がない構造を採用しています。
曲線トラスの外側に路面を設置することで、眺望性を確保し、周囲の建物と直接アクセスする機能性の高い歩道橋となっています。外装材を設けず、構造デザインを直接見せることで、鋼構造らしい機能美とコスト縮減の両立を図り、赤レンガ倉庫の残る歴史的景観との調和を図っています。


ナビオス横浜
いつも不思議な感覚にとらわれるホテル。この土地の使用条件が、この汽車道をあけることだったのだろうか?額縁構図の写真が撮りやすくて助かるのだが。
ナビオス横浜_1
振り返るとこんなふう
6889
道を挟んで、ワールドポーターズがある
ナビオス横浜_3
ナビオス横浜_4
レールが埋め込まれているのがお分かりいただけるだろうか。汽車道を跨ぐ感じだ。
ナビオス横浜_5
ナビオス横浜_6

汽車道をMM21方面へと先を急ぐ
空模様がかなり怪しくなってきた。どんどん先を急ぐことにする。
汽車道をMM21方面へと先を急ぐ_1
右側が『港3号橋梁』だと思う。通行可能なはずだが、遠慮しているのか、殆ど通る人がいない。
汽車道をMM21方面へと先を急ぐ_2
汽車道をMM21方面へと先を急ぐ_3
私は遠慮せず、堂々と通行した
汽車道をMM21方面へと先を急ぐ_4
周囲の景観もなかなかのもの
橋の先の高い建物は、神奈川県警察本部庁舎だ
周囲の景観もなかなかのもの_1
こちらは帝蚕倉庫かな
周囲の景観もなかなかのもの_2
周囲の景観もなかなかのもの_3
鉄橋もいい感じだ。港2号橋梁だと思う。
周囲の景観もなかなかのもの_4
MM21の高層ビル群
周囲の景観もなかなかのもの_5
周囲の景観もなかなかのもの_6

帆船『日本丸』
帆船の目の前まで来たのに、生憎と小雨が降りだした。もう少し強い降りになりそうだ。しつこく撮るのは断念した。
帆船『日本丸』_1
帆船『日本丸』_2
帆船『日本丸』_3
帆船『日本丸』_4
帆船『日本丸』_5
帆船『日本丸』_6
帆船『日本丸』_7
帆船『日本丸』_8
帆船『日本丸』_9
帆船『日本丸』_10
帆船『日本丸』_11
こういうことだそうだ。どうも天気予報は芳しく無さそうだが。
帆船『日本丸』_12

以上で『横浜の海沿いを歩く』シリーズは終了です。最後までご覧頂きありがとうございました。

 

横浜の海沿いを歩く(6)

汽車道高架上からの景観
キングの塔
言わずと知れた神奈川県庁の本庁舎
キングの塔_1
キングの塔_2
手前の空いているスペースも含めて道路沿いに4棟のビルが並んでいた(衝立のようなオブジェの奥)。現在は残念ながら3棟になった。こちらからみて、左が横浜貿易会館、真ん中が横浜海洋会館(旧大倉商事横浜出張所)、1棟分の敷地を挟んで右が昭和ビル(旧カスタム・ブローカー・ビルディング)。これもなかなかのレトロな建築物なのだが、後方からの撮影で失礼。
キングの塔_3
クイーンの塔
横浜税関の建物だ。左上空に真っ黒い雨雲が目立つようになってきたので、少し先を急ぐことにした。
クイーンの塔_1
クイーンの塔_2
ジャックの塔
不当に差別しているわけではないのだが、奥まっている分、港側からは見えにくい
ジャックの塔
此処にも海につながったエリアがある
気が付かない方も少なくないと思うが、確かにあるのだ。左端の切れてしまったビルは神奈川県警本部かな。
此処にも海につながったエリアがある
こんなものも
開港150周年記念の時のタイムカプセルが埋め込まれてあるんだそうだ。50年後に開けられるのかな。
こんなものも
前を歩いていた家族
親父さんは私と似たようなスタイル。南部イタリア系かなあ。娘さんはえらく脚長だなあ。母親の方の血を受け継いだのだろう。
前を歩いていた家族

赤レンガ倉庫
赤レンガ倉庫は『新港埠頭保税倉庫』という名称の歴とした倉庫だった。新港埠頭自体も1975年頃までは、埠頭としての機能を果たしていたようだ。ところが、コンテナ貨物が主流になり、他の埠頭に扱いがシフトしていき、寂れる一方。
一時は、その廃墟感が評価されたのか、あぶデカなどの撮影に使われるようにもなった。
1992年(平成4年)、横浜みなとみらい21の整備に伴ってウォーターフロントの再開発計画も進められ、横浜市は赤レンガ倉庫を国から取得。周辺地域と一体的に整備を開始した。様相が一変するきっかけになった。流石だと思うのは、横浜市の動き方だ。先を見据えた動きができたようだ。
そして、倉庫を修復し、周辺をも整備し、2002年4月に見違えるような観光名所が出来上がったのだ。

奥の2号倉庫の方は、レンガとレンガの間に鉄を入れる補強が施されていたため、被害を受けなかったそうだ。而、損壊部分を縮めた1号と元のままの2号とで大きさが違ってしまった。
チラチラと見えている赤レンガ倉庫
チラチラと見えている赤レンガ倉庫_1
チラチラと見えている赤レンガ倉庫_2
此処がかつての貨物引込線であったことを示すレールが残されている『汽車道』
レールが残されている『汽車道』
1号館
関東大震災で約30%の損壊被害があった。損壊部を少し斫り、外壁を造ったそうだ。その分、寸詰まりになってしまった。
1号館_1
1号館_2
1号館_3
2号館
関東大震災での被害なし。立派な外観を保っている。が、それは今の話。一時は朽ちて、酷い有様のまま、放置されていた。
2号館_1
2号館_2
2号館_3
2号館_4
2号館_5
2号館_6
2号館_7
2号館_8
2号館_9
手前の広場
冬はスケートリンクなどができるが、普段はこんな感じだろうか。
手前の広場
真ん中の広場
RED BRICK BARが臨時オープン。私も一人じゃなければ、まったりとしたいところだが、…。
真ん中の広場_1
真ん中の広場_2
此処が引き込み線の跡
もっと見ていたかったが空模様が相当怪しくなってきた。先を急ごう。
此処が引き込み線の跡_1
此処が引き込み線の跡_2
此処が引き込み線の跡_3
此処が引き込み線の跡_4
此処が引き込み線の跡_5

 

横浜の海沿いを歩く(5)

山下公園を後にし、大さん橋に停泊中のDIAMOND PRINCESS号を眺める。まばゆいほどの豪華さだ。

豪華クルーズ船『ダイヤモンドプリンセス号』
このクルーズ船は本当に大きい。当初ダイヤモンドプリンセス号に仕立てるべく三菱重工業長崎造船所において艤装工事を行っていた造船所2180番船。その工事中に、放火とみられる出火事故を起こした。同時に建造していた2番船で、当初はサファイアプリンセス号として予定していた造船所2181番船を、急遽ダイヤモンドプリンセス号として改修し、2004年2月に(「ダイヤモンドプリンセス号」としては)7ヶ月遅れながらも納入にこぎつけた。そういういわくつきのクルーズ船だ。
当然、三菱重工業株式会社の経営にも大きく影を落とした因縁のクルーズ船だ。保険でカバーした直接的な損害以外に、百数十億円の特別損失を計上したようだ。その後、大型船の受注が途絶え、漸く受注したアイーダ号でも大幅な納期遅れが発生し、…と屋台骨を揺るがす事態が依然として収束していないように見える。
但し、この船舶自体は出火事故を起こしたわけではなく、非常に快適なクルーズ船だろうということは想像に難くない。

私が撮影した写真
真後ろから見た様子
大さん橋の左側に停泊する大型船は、通常は船首を此方側に見せる形で停泊すると記憶している。しかし、この船は船尾を見せて停泊している。こうしないと、出港が困難になるのだろうか?すぐ脇に停車している大型トラックと大きさを比べれば、巨大さがわかると思う。
真後ろから見た様子_1
真後ろから見た様子_2
艦橋(正しくは檣楼というべきかな)が大きく張り出しているんだ。左右ともに同じように張り出している。
真後ろから見た様子_3
真後ろから見た様子_4
斜め後方から見た様子
躯体全体がわかる。相当に大きい。
斜め後方から見た様子_1
斜め後方から見た様子_2
斜め後方から見た様子_3
赤レンガ倉庫敷地から見た様子
赤レンガ倉庫からもかなりはみ出して見える
赤レンガ倉庫敷地から見た様子_1
赤レンガ倉庫敷地から見た様子_2
赤レンガ倉庫敷地から見た様子_3
赤レンガ倉庫の敷地突き当りから見た様子
う~~ん、圧迫感がものすごい
赤レンガ倉庫の敷地突き当りから見た様子_1
赤レンガ倉庫の敷地突き当りから見た様子_2
大きいはずのマリーンシャトルだが、ダイヤモンドプリンセス号とはまるで比べ物にならない
赤レンガ倉庫の敷地突き当りから見た様子_3
かなり離れた万国橋の円形歩道橋上から
まだ見えるぞ
万国橋の円形歩道橋上から_1
万国橋の円形歩道橋上から_2
PDF画像を借用した分
アラスカ・ジュノーのロバート山から見たダイヤモンドプリンセス
アラスカ・ジュノーのロバート山から見たダイヤモンドプリンセス
北備讃瀬戸大橋をくぐるダイヤモンドプリンセス
北備讃瀬戸大橋をくぐるダイヤモンドプリンセス

国内で建造された中ではアイーダ・プリマに次いで、最大クラスの客船。1337室のうち72%の960室はいわゆる「オーシャンビュー」とし、56%の748室には専用バルコニーを具備。バリアフリーに配慮した客室が29室。レストランは客の好みに応じるため7つ、24時間営業のものもある。
環境規制の厳しいアラスカ水域での運航に配慮した排気・排水対策のため、ガスタービンの採用や最新鋭の排水処理システムを完備。
なお、運航者のプリンセス・クルーズはカーニバルグループに帰属。
2014年4月〜10月は日本に配船され、20本の横浜発着クルーズを行う。日本マーケット向けに大規模なリノベーションを行い、展望浴場や寿司バーなどが新設された。 また2015年も日本に配船されることが決定しており、その内3本はクラブツーリズム、クルーズプラネットなどの旅行会社によるチャーターで運航される。名古屋港、清水港、徳島小松島港など、さらに寄港地が増える見込み。

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2002年10月1日、午後5時50分頃、長崎市飽の浦町の三菱重工業長崎造船所内にて造船所2180番船として艤装工事中のダイヤモンドプリンセスが火災を起こした。出火時に船内では約1000名の従業員が作業をしていたが全員すぐに避難して怪我人などは出なかった。稲佐消防署の発表では出火場所は船体中央部付近で全14デッキ(甲板)のうちの下から5番目のデッキ付近から出火したと見られている。施主であるP&Oに対する納入期限が2003年7月に迫っていたため、同時に建造していた2番船(造船所2181番船・サファイアプリンセス)を急遽ダイヤモンドプリンセスとして改修し、2004年2月に(「ダイヤモンドプリンセス」としては)7ヶ月遅れながらも納入にこぎつけた。なお炎上した造船所2180番船は造船所の香焼工場に移されて焼損部分を完全に撤去し、サファイアプリンセスとして改修され2004年5月にデビューを果たしている。

 

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