散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

横浜の海沿いを歩く(4)

山下公園をブラブラと歩く(3
水の守護神像
横浜市の姉妹都市であるサンディエゴ市から、寄贈されたのは間違いが無さそうだ。その年だが、諸説あり、些か混乱してしまった。こんなものくらい、横浜市がしっかりしていれば、混乱がないはずなのに、…。
昭和35年(1960)に寄贈されたとしている人が多い。そんなの山下公園にあったかなあ、と自分の記憶力に自信がない。

調べてみたら、確かに昭和35年(1960)に寄贈されたらしい。しかし、現在地に設置されたのは、1982年10月だと思われる。提携25周年を記念した「美わしのサンディエゴ」歌碑を山下公園に設置した。そのときにこの像も、この場所に設置されたようだ。…あまり自信がないなあ。
それにしても、何ゆえの水の守護神なのだろう。水を制御して港を災害から守る意味合いがあるのだろうか?わからないことだらけだ。
水の守護神像_1
水の守護神像_2
小さな船舶
色々な小さな船舶が激しく行き交っていた。勿論遊んでいるわけではなく、それぞれの仕事をしているのだろう。見ていて飽きないことだ。大型船舶も小さな船舶の支援を受けて港内部で初めて機能する。
何をする船舶かおわかりだろうか
小さな船舶_1
小さな船舶_2
小さな船舶_3
小さな船舶_4
小さな船舶_5
小さな船舶_6
小さな船舶_7
小さな船舶_8
小さな船舶_9
小さな船舶_10
小さな船舶_11
小さな船舶_12
小さな船舶_13
小さな船舶_14
こちらは、先程から見えているクルーズ船DIAMOND PRINCESS号の出港時に歓送の放水を行う消防艇。そのテストをしているのだろう。
小さな船舶_15
こちらはタグボートかな
小さな船舶_16
小さな船舶_17
ロイヤルウイング
こちらもマリンルージュ号と同様のレストラン船。こちらは本格中華料理が売りのようだ。それほど小さくはない船舶だが、大さん橋に停泊中のDIAMOND PRINCESS号に比べるといかにも小さい。
乗船料が大人2500円で、ディナーバイキング(食べ放題)の料金が大人5400円か。併せて、7900円になるんだ。

ロイヤルウイング_1
ロイヤルウイング_2
ロイヤルウイング_3
インド水塔
これを見るたびにどこの国のものかと思うのだが、下記の通り在日インド人協会が山下公園内に建立したもの。以前は、横浜で見かけるアジア人といえば、インド人と思うくらいにインド人がいた記憶がある。いまは、他の国からの人も増えたため、目立たなくなったのかなあ。
それにしてもこの建築物、インド風というよりかは無国籍風だなあ。

インド水塔_1
インド水塔_2
インド水塔_3
1923年(大正12年)の関東大震災では、横浜に在住し被災した在日インド人救済のため、横浜市民が被災インド人への住宅の手当てなどに力を注いだ。1930年(昭和5年)に瓦礫処分場として埋め立てられた場所の上に山下公園が開園。そして1939年(昭和14年)に、横浜市民への感謝と同胞の慰霊のために在日インド人協会が山下公園内に建立したのがこのインド水塔である。設計は鷲巣昌、施工は清水組。

山下公園はここまで。次回以降は、『汽車道』伝いに歩いてみる。

 

横浜の海沿いを歩く(3)

山下公園をブラブラと歩く(2)
氷川丸(国指定重要文化財)
重要文化財 日本郵船『氷川丸』という横断幕が目についたので、何かと思ったが、8月17日付けの官報告示により国の指定を受けたばかりのピッカピカの重要文化財だったんだ。そうだったのかあ。
氷川丸(国指定重要文化財)_1
氷川丸(国指定重要文化財)_2
氷川丸(国指定重要文化財)_3
氷川丸(国指定重要文化財)_4
係留場所からはMM21地区がよく見える
係留場所からはMM21地区がよく見える
誇らしげな横断幕が印象的
氷川丸(国指定重要文化財)_5
氷川丸(国指定重要文化財)_6
氷川丸(国指定重要文化財)_7
氷川丸(国指定重要文化財)_8
氷川丸(国指定重要文化財)_9

氷川丸(ひかわまる)は、日本郵船が1930年(昭和5年)に竣工させた日本の12,000t級貨客船。北太平洋航路で長らく運航された。2016年時点では、横浜市で博物館船として公開されている。国の重要文化財(歴史資料)に指定されている。

バラ園も彩りを添えている
まだ咲いていたんだ。と言うか四季咲きのものを用意して寂しくならないようにしているのだろうか。
バラ園も彩りを添えている_1
バラ園も彩りを添えている_2
バラ園も彩りを添えている_3
バラ園も彩りを添えている_4
バラ園も彩りを添えている_5
バラ園も彩りを添えている_6
バラ園も彩りを添えている_7
バラ園も彩りを添えている_8
バラ園も彩りを添えている_9
バラ園も彩りを添えている_10

 

横浜の海沿いを歩く(2)

山下公園に入る(2)
ガウディの模倣かな?
ガウディの模倣かな?_1
ガウディの模倣かな?_2
ガウディの模倣かな?_3
ガウディの模倣かな?_4
ガウディの模倣かな?_5
ガウディの模倣かな?_6
ガウディの模倣かな?_7
フラワーポットも綺麗だ
フラワーポットも綺麗だ
下から見た道路側
下から見た道路側_1
下から見た道路側_2

山下公園をブラブラと歩く(1)
山下公園の始まり
埠頭にそって、細長い公園になっている。実際には、エントランス部分から始まっているのだが。
山下公園の始まり
山下埠頭
現役の倉庫群が立ち並ぶ。貨物積み下ろしはこの山下埠頭と大黒埠頭と本牧埠頭とで扱われているのだろうか?そして、此処が一番小規模なんだろうな。
山下埠頭_1
山下埠頭_2
大黒埠頭(PDF画像借用)。大さん橋などから自動車運搬船が見えているところだ。QE2が満潮でベイブリッジを潜れない時には、此処に停泊するんだった。
大黒埠頭(PDF画像借用)
本牧埠頭(PDF画像借用)
本牧埠頭(PDF画像借用)
マリーン ルージュ
ディナークルーズなどの専門船舶。一度くらい乗ってみたいものだ。価格は、こんな感じか。う~~ん。
ジャックコース大人 : 8,000円 クィーンコース大人 : 11,000円 キングコース大人 : 15,000円 子供ディナー : 5,800円
マリーン ルージュ_1
マリーン ルージュ_2
道路側にはHOTEL NEW GRANDが見える
低層の建物が、以前からの建物。1945年8月30日、厚木飛行場に到着したマッカーサー元帥が、声明文朗読の後、すぐさま乗用車に乗り込み、まっすぐホテルニューグランドを目指した。
こうした思惑があったため、この界隈は空襲を免れたとも言われている。あれから71年経つのか。

道路側にはHOTEL NEW GRANDが見える

 

横浜の海沿いを歩く(1)

そういえば、山下公園の辺りは久しく歩いていないなあと思い、山下橋の船溜まりから山下公園を経由して日本丸の係留場所まで、ぶらぶら歩きをしてみることにした。途中から雨が降りそうな感じだったので、あちこち時間を掛けて見て回るのは無しにした。

行きは珍しい電車に
『乗れたら幸せにになれる!?』…そういう評判の黄色い新型車両。『渋谷ヒカリエ号(Shibuya Hikarie号)』という車両で、渋谷にある『Shibuya Hikarie』の開業一周年を記念して登場した車両のようだ。
渋谷ヒカリエ号(Shibuya Hikarie号)_1
渋谷ヒカリエ号(Shibuya Hikarie号)_2
普通の東横線車両。すっかり『各駅停車専用車両』に成り下がってしまった感じだ。

普通の東横線車両

山下橋からの景観
船溜まり
この船溜まりには、メインの埠頭では見られないごく普通の船舶が並ぶ。普通の船舶と言っても釣り船が多い感じだが。
船溜まり_1
船溜まり_2
船溜まり_3
船溜まり_4
船溜まり_5
船溜まり_6
船溜まり_7
船溜まり_8
船溜まり_9
船溜まり_10
その他
こちらは完全閉店セール実施中
その他_1
いつの間にか横浜も高速道路だらけになってしまった
その他_2
『人形の家』や『マリンタワー』が見える
その他_3

山下公園に入る(1)
エントランス部分(正式の名称ではなく、私が勝手にそう称しているだけ)
ここまで必要ないと思うほどの、かなり凝った意匠になっている。この階段を利用した人はそれほど多くはないのでは。
エントランス部分(正式の名称ではない)_1
『メルパルク』と『マリンタワー』とがはっきり見える
エントランス部分(正式の名称ではない)_2
『横浜人形の家』も
エントランス部分(正式の名称ではない)_3
洒落たエントランスだ
エントランス部分(正式の名称ではない)_4
エントランス部分(正式の名称ではない)_5
しっかり作られている
エントランス部分(正式の名称ではない)_6
エントランスを出たあたりの様子
一番高い地点なので、周囲がよく見える
エントランスを出たあたりの様子_1
エントランスを出たあたりの様子_2
エントランスを出たあたりの様子_3
エントランスを出たあたりの様子_4
エントランスを出たあたりの様子_5
近く見えるが、あそこまでは元町・中華街駅から3駅先になる。今回は、あの辺りまで歩いて行く。
エントランスを出たあたりの様子_6

 

またもや日本民家園に行ってきた(17)

(20)船越の舞台(国重民)
此処は日本民家園の敷地の一番上に位置し、くねくねと急な階段を登っていかなければ到着しない。年配者にはややきついロケーションかもしれない。斯く言う私も大汗をかき息を切らしながら、何とかたどり着いた次第。情けなや。
背面
鬼瓦は比較的小ぶり。回り舞台の真下に至る階段があり、狭い通路が続く。
背面_1
本当に頭上注意なのだ
背面_2
回り舞台の真下
回り舞台の真下_1
垂れ下がっている丸太を抱えて回す。完全に人力のみの力仕事になる。
回り舞台の真下_2
回り舞台の真下_3
回り舞台の断面図
回り舞台の断面図
正面
回り舞台になっているのがわかるだろうか。広角で撮ったので強調されすぎたキライがあるが、意外に広いのだ。
正面_1
正面_2
正面_3
船越の舞台 断面図
船越の舞台 断面図
客席から見た感じ。鬼瓦がかなり大きいのがわかろう。
客席から見た感じ_1
客席から見た感じ_2

2016年9月22日~10月10日:特別公開「旧船越の舞台」
飛び飛びの開催になる。開催日時には十分注意していただきたい。
案内ページにjump

回り舞台を備えた漁村の歌舞伎舞台
この舞台は、もと志摩半島の漁村の神社境内にありました。建てられたのは江戸時代末期の安政四年(1857年)です。
屋根は正面が入母屋造、大棟(おおむね)には凝った鬼瓦を配しています。これに対し背面は切妻造で、鬼瓦も小さく単純です。こうした外観は、正面性を重視する舞台建築の性格をよくあらわしています。なお、鬼瓦や軒先瓦につく「若」の字は、舞台建築に若者組という伝統的青年組織が関わったことを記念するものです。
舞台両側の張出し部は出語りといい、上手(正面に向かって右側)は芝居の語り手の席、下手は寄付金を扱う会計係の席です。
舞台装置としては、直径三間(5.4m)の回り舞台、スッポン(せり上がり)のある花道、高所作業用の簀子(すのこ)等、歌舞伎芝居のために必要なものはほとんど備えています。


以上で『またもや日本民家園に行ってきた』シリーズは終了です。最後までご覧頂きありがとうございました。

 

またもや日本民家園に行ってきた(16)

(23)菅原家住宅(県重文)
日本民家園の中で、私が一番好きな家屋。グシグラという屋根棟があったり、屋根に高窓(ハッポウ)を設けて採光の工夫をしたりと、何度見ても見飽きることがない。実に素敵な形状だ。
たまたま、記事掲載直後に1泊のバスの旅で、移築前にあった辺りに行く。どんなところだったのか十分に見ておきたい。

ガイドブックとニラメッコのうら若き外国人女性
ガイドブックとニラメッコのうら若き外国人女性
間取り
間取り
外観
冒頭にも書いたとおり渋い外観だ。豪雪地帯にあった住宅とは言っても、対処の方法は合掌造りとはかなり異なるものだ。
外観_1
外観_2
外観_3
外観_4
清宮家越しに見た様子。清宮家の屋根はかなり傷んでいるけど、菅原家の屋根はすっきりしている。この違いはどこから来るんだろうか?
外観_5
屋内の様子
アマヤ
濡れたものを、これより先に持ち込まないための空間
アマヤ_1
アマヤ_2
ニワ
内部を以下のように区切って使用していた
ナヤ&モノオキ
ナヤ&モノオキ_1
ナヤ&モノオキ_2
イナベヤ
イナベヤ_1
イナベヤ_2
モノオキ&ナガシ
モノオキ&ナガシ
オメ
奥の部屋はウヘヤ。暗くてよくわからない。この間が居間に相当する間だろう。何分にも流しと隣接していて、何かと便利だ。近いこまれた素晴らしい間だ。
オメ_1
オメ_2
シモデ(デイ)
奥に見えるのはカミデ。後でじっくり見る。この間は用談をしたり、機織りをしたりする専用の場所だったのかもしれない。南部曲屋の工藤家が囲炉裏が一つだったのに対し、こちらは2つ用意されていた。寒さの度合いが違ったのだろうか。とは言うものの、火棚が用意されておらず、あくまでも予備の囲炉裏の色彩が強かったのかもしれない。
シモデ(デイ)_1
シモデ(デイ)_2
カミデ(アミダサマ&トコノマ)
重要なお客様をもてなす間であり、神事仏事を行う間でもあった。奥に見えるのがウヘヤ。
カミデ(アミダサマ&トコノマ)_1
カミデ(アミダサマ&トコノマ)_2
カミデ(アミダサマ&トコノマ)_3
カミデ(アミダサマ&トコノマ)_4

屋根に高窓のある豪雪地帯の家
湯殿山麓の田麦俣(たむぎまた)集落やその周辺には、ハッポウ造と呼ばれる独特の民家が分布しています。養蚕のために二層三層をつくり、屋根に高窓(ハッポウ)を設けて採光の工夫をしたその姿は、非常に特徴的です。
菅原家住宅もこのハッポウ造の民家で、高い軒や板壁で囲った外観などに豪雪地域の家づくりがうかがえます。
豪雪は間取りにも影響しています。大戸口前のアマヤ(前室)をはじめ、ニワ(土間)に物置やイナベヤ(板敷)を設ける点などは、雪の多い冬場の暮らしを考慮した工夫です。

 

またもや日本民家園に行ってきた(15)

(19)岩澤家住宅(県重文)
この住宅は神奈川県愛甲郡清川村にあった。清川村は、2016年4月現在、神奈川県唯一の村であり、県内の市町村では最も人口が少ない。が、宮ケ瀬湖があり、規模と位置の割には有名な村だ。
川崎市教育委員会のHPによれば、梁は太く、梁組は豪快だが、虫害等による再用不能の材も多く、移築修理時にかなりの梁が新材に置き換えられているそうだ。山間の土地だから、いくら野鳥さんが頑張っても、虫食いの被害は免れなかったのだろうか?

元の在り処
山の中だ。今でも村のままだということがよく分かるロケーションだ。だが、『村』として単独でやっていけるのは、三浦郡葉山町と同様に、それだけ裕福な土地なのかもしれない。PDFファイルを借用。
元の在り処_1
元の在り処_2
間取り
間取り
外観
臨時の補修がなされた状態になっていた。いずれ、本格的な修理が入るのだろう。茅葺屋根の真上が霞んだようになっているのは、中で囲炉裏に火をくべているからだ。
ダイドコロの周囲の外壁は、竹材で覆ってある。そうしてある理由は何だろうか?北東側の防寒及び風雨対策なのだろうか?

外観
屋内の様子
ダイドコロ(ドマ)
かなり広い空間になっている。ホイロがでんと置かれてあるのも印象的。
ダイドコロ(ドマ)_1
ダイドコロ(ドマ)_2
ホイロは昔の手揉み茶の製造装置だ。お茶は重要な収入源の一つだったのだろう。
ダイドコロ(ドマ)_3
ザシキ(ヒロマ)
昔の人は、本当に働き通しだったんだなあ
ザシキ(ヒロマ)_1
上述のとおり、梁は豪快だが、虫食いなどのために、移築時に新材に置き換えられたものがあるようだ。但し、2本の梁行(建物の棟と直角の方向)梁は当初材で、一本の木を半割にして使用しているのだそうだ。半割にしても、これだけのボリューム。かなり、ごつい感じだ。桁行 (けたゆき) の3本の梁はおそらく、新材だろう。この部屋は、夏は風通りが良くて快適だったことだろう。
ザシキ(ヒロマ)_2
ザシキ(ヒロマ)_3
ザシキ(ヒロマ)_4
デエ
客間なので畳敷きになっている
デエ_1
ヘヤとの出入り口の右に押板がある。床の間の前身のもの。
デエ_2
デエは客座敷だが、床の間はなく、かわりにヘヤとの境に押板を設ける。県内の古民家では、押板はザシキとヘヤ境のザシキ側に付けられるのが通例だから、この形式は特異である。
ヘヤ
寝室兼納戸かな
ヘヤ

茶畑に囲まれた山間の農家
この建物は、名主もつとめた農家の家でした。谷間の斜面に敷地をひらき、江戸時代は炭焼きを中心に、焼畑農業や林業を仕事にしていました。
屋根は、典型的な入母屋造です。間取りは、「ザシキ(居間)」「デエ(座敷)」「ヘヤ(寝室)」からなる広間型三間取りです。しかし、園内に移築された他の神奈川県内の古民家には見られない特徴がいくつかあります。まず、デエの正面を半間後退させ、ここにザシキへの出入口を設けています。また、デエには押板(おしいた、床の間の前身)を備え、ヘヤにはザシキからだけでなくデエからも出入りできるようになっています。

 

またもや日本民家園に行ってきた(14) 2016.08.25 05:28訂正

何の花かなあ
ウコンの花だろうか。自信なしだなあ。ニョキッと花茎を伸ばしたユリ科のオオバギボウシだそうです。makiraさんに教えていただきました。花のように可憐できれいですが、コレは花茎の先端部で花ではないそうです。花はもっと花茎を伸ばしてからになるそうです。
何の花かなあ_1
何の花かなあ_2

(21)菅の船頭小屋 (市重歴)
昔は簡単に橋を渡すことなどは許されなかったのだろうか。この船頭小屋は昭和4年の建物だとか。古くから始まり、つい最近まで、多摩川にもこの『菅の渡し』のような渡しがいくつもあったようだ。童謡の歌詞によれば、『今年60のお爺さん』が船頭さんだった。数えの60で早くもお爺さん扱いか。私などはヨボヨボの爺さん扱いになってしまうんだ。
菅の船頭小屋 (市重歴)_1
鉄輪が下がっているのがおわかりだろうか。大水が出たりすると、急ぎ安全なところまで丸太を通し担いで避難したのだ。
菅の船頭小屋 (市重歴)_2
船頭小屋を担ぐイラスト
菅の船頭小屋 (市重歴)_3
内部はこんなふう。本格的な囲炉裏があるわけもなく、ちょいと地面を掘っただけの簡単なものだった。
菅の船頭小屋 (市重歴)_3

多摩川の「菅の渡し」にあった船頭小屋
この船頭小屋は多摩川の「菅(すげ)の渡し場」にあったもので、船頭が客待ち・休憩・川の見張りをするのに用いていました。
菅の渡しは、川崎側の菅と、東京側の調布とを結ぶ渡船場で、商品作物の輸送、肥料や日用品の仕入れ、親戚や寺への往来など、暮らしの中で使われていました。
この建物の屋根は杉皮葺きで、前後に傾斜させた「招き屋根」の形をしています。背面には小さな窓があり、対岸の客を見ることができるようになっていました。
なお、外回りの柱には大きな鉄の輪が取り付けられています。出水のさいにはこの輪に丸太を通して担ぎ上げ、小屋を移動させました。


(18)蚕影山祠堂(市重歴)
川崎市麻生区辺りでも近年まで養蚕が行われていたんだ。そういえば、世田谷区の民家園でも養蚕が行われていたと説明がなされていたなあ。
覆堂(さやどう)
覆堂(さやどう)
宮殿(くうでん)
宮殿(くうでん)
金色姫伝説を表現した側面の彫刻
金色姫の苦難の物語、獅子・鷹・舟・庭の4場面が彫刻されている。
『獅子』の場面かな?
金色姫伝説を表現した側面の彫刻_1
「鷹」の場面
金色姫伝説を表現した側面の彫刻_3
「舟」の場面
金色姫伝説を表現した側面の彫刻_2
金色姫伝説を表現した側面の彫刻_4
芝棟にはイチハツが植えられている
5月には早くも開花する。その頃は非常に綺麗なことだろう。
芝棟にはイチハツが

養蚕信仰を今に伝えるお堂
この建物は川崎市麻生区の東光院境内にあったもので、養蚕の神「蚕影山大権現(こかげさんだいごんげん)」を祭った宮殿(くうでん)と、その覆堂(さやどう)から成っています。覆堂の茅葺屋根は、頂上を土と草で固める芝棟で、春にはイチハツが咲き誇ります。宮殿は正面に唐破風を設けた春日造風の社で、浮き彫りの彫刻を施しているのが特徴です。中でも注目に値するのは、金色姫伝説を表現した側面の彫刻です。金色姫は天竺に生まれ、四度の大苦難ののち、馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)の化身として日本に養蚕を伝えたといいます。この彫刻は養蚕の起源を説くもので、四度の大苦難は蚕の四回の休眠(食事をせず動かなくなる脱皮前の時期)を象徴しています。


 

『相馬野馬追』本祭り(6)

神旗争奪戦(2)
あれま、こんなこともあるんだ
強い風に流されて、赤の騎馬武者のすぐ近くに落ちた。あの騎馬武者が気がつけば、楽勝だ。だが、皮肉なことに左側の一団は誰一人も気づいていないように見えた。一体どうなるのかと気が気じゃなかったが、漸く気づいた武者が下馬したようだ。
あれま、こんなこともあるんだ_1
あれま、こんなこともあるんだ_2
あれま、こんなこともあるんだ_3
あれま、こんなこともあるんだ_4
あれま、こんなこともあるんだ_5
あれま、こんなこともあるんだ_6
あれま、こんなこともあるんだ_7
あれま、こんなこともあるんだ_8
あれま、こんなこともあるんだ_9
ご神旗はどこ?
旗指物で隠れてしまい、一体どこにあるのかまるで見当がつかなかった。やはり観客席からではご神旗の行方を追うのは、かなり難しい。
ご神旗はどこ?_1
よりによって、こんな危ないところに打ち上げないで欲しい。もう少しで馬さんに蹴られるカメラマンたちの被害者が出るぞ。
ご神旗はどこ?_2
ご神旗はどこ?_3
ご神旗はどこ?_4
とったぞー!!
先ほどのはしっこい武者かな?と思ったが、あのご神旗は黄色だった筈。
とったぞー!!_1
とったぞー!!_2
こっちの武者だったかも
とったぞー!!_3
とったぞー!!_4
こちらの騎馬武者は堂々たる体格だ
とったぞー!!_5
とったぞー!!_6
あれま、馬から落ちてしまったかな?
このときは、それらしい姿に扮した専門の調教師が馬さんを落ち着かせるのに手こずっているのかと思った。なので、その様子をのんきに見ていただけだった
あれま、馬から落ちてしまったかな?_1
あれま、馬から落ちてしまったかな?_2
あれま、馬から落ちてしまったかな?_3
あれま、馬から落ちてしまったかな?_4
あれま、馬から落ちてしまったかな?_5
あれま、馬から落ちてしまったかな?_6
気づいたら、大事になっていた
裸馬の追いかけっこに気を取られていたら、どうも様子がおかしい。何か重大な事故が発生したようだ。武者は、全く自力で起き上がる気配なし。救急車はどこに待機しているのだろうか。到着が異常に遅い。怪我の程度がひどくなかったのならいいが。こういうことも多分にありうる厳しい世界なのだろう。
気づいたら、大事になっていた_1
気づいたら、大事になっていた_2
気づいたら、大事になっていた_3
気づいたら、大事になっていた_4
気づいたら、大事になっていた_5
気づいたら、大事になっていた_6
気づいたら、大事になっていた_7
気づいたら、大事になっていた_8
気づいたら、大事になっていた_9

 

孫達との食事(1)

近所の古くからの馴染みの店にて
近所では割りと評判の洋食のお店。伊豆の孫達に長期滞在中一度だけ、目一杯食べさせる約束しての食事会。内孫も当然ながらご相伴の出陣。ゆっくり食事を楽しみに来ただろう他のお客様に御迷惑をおかけしないか、引き揚げるまでにすっかり気疲れしてしまった。
孫達の様子
孫達の様子_1
孫達の様子_2
孫達の様子_3
孫達の様子_4
孫達の様子_5
孫達の様子_6
孫達の様子_7
孫達の様子_8
注文した料理
一品につき複数皿の注文も少なくなかったので、全体としてはものすごいボリューム。私の腹が出て、財布はすっかりへこんだかも。
注文した料理_1
注文した料理_2
注文した料理_3
注文した料理_4
注文した料理_5
注文した料理_6
注文した料理_7
注文した料理_8
注文した料理_9
注文した料理_10
注文した料理_11
注文した料理_12

 

自然教育園と紫雲山瑞聖寺(4)

自然教育園を出て紫雲山瑞聖寺へ向かう
白金台あたりはいつの間にか大きなビルばかりになってしまった。激しい変貌ぶりに驚きながら歩く。
カラスウリかな
道端にあったものを撮った。夜だけ咲く花を真昼間に見ても仕方がないかな。
カラスウリかな_1
カラスウリかな_2
東大医科学研究所
なぜか本郷ではなく此処にある。風格のある建物だ。かつて愚妻が骨髄移植ドナーになった時に、ここでその処置をしたんだった。
東大医科学研究所
紫雲山瑞聖寺
瑞聖寺は寛文10年(1670年)に創建された。以前に取り上げた九品仏浄真寺の時に言及したが、江戸時代は基本的には寺院の新設は認められなかったはずだ。それがために、目黒区中根の立源寺は、法華寺北之坊に住して不受不施派の学頭若しくは別当的立場に在った日運上人が、中根の地に隠居所として小庵を結んだ…とあるように苦労したはずだ。
ところが抜け道はいくらでもあったのだろうか。九品仏浄真寺も、この瑞聖寺も、新設を認められたようである。
いずれも第四代将軍家綱のときだ。三代将軍の時までとは違って、少しは、重みが薄れたのかもしれない。黄檗宗の本山である萬福寺自体も、四代将軍家綱より許可を得て、宇治に黄檗山萬福寺を開くことにより、正式に黄檗宗が認められたのだそうだ。
江戸における黄檗宗の寺院も必要だということになったのかもしれない。瑞聖寺の開基は、摂津麻田藩(大阪府豊中市)の2代藩主・青木重兼。黄檗山萬福寺が認められた流れで、こちらも認められたのだろう。

入り口
寺の名前に『禅』の字が使われている。その名の通り、禅宗の一つ黄檗宗系の単立寺院だ。黄檗宗は日本の三禅宗のうち、江戸時代に始まった一宗派(三禅宗は他に臨済宗、曹洞宗)。臨済宗、曹洞宗が日本風に姿を変えた現在でも、黄檗宗は明朝風様式を伝えている。我々の眼には少し奇異な感じがしないでもないが、そういう宗派だ。
入り口
通用門(国指定重要文化財)
ただの通用門と侮ってはいけない。大雄宝殿の附指定で国指定の重要文化財なのだ。
通用門(国指定重要文化財)
山門
明治学院側にあるのだろうか。PDFを借用した。
山門
鐘楼と梵鐘
かつては江戸で一二を争う大きな梵鐘だったそうだ。それが戦時中に供出され、大雄宝殿の改修に合わせて鐘楼の大きさに合わせた梵鐘が鋳造されたそうだ。相当に大きいのだろうが、よくわからなかった。
鐘楼と梵鐘_1
鐘楼と梵鐘_2
大雄宝殿(国指定重要文化財)
いまは、黄檗宗系の単立寺院になっているが、黄檗宗大本山『黄檗山萬福寺』のそれと酷似した建物だ。
宝暦7年(1757年)の上棟。入母屋造、本瓦葺き、一重裳階(もこし)付き。見た通りの堂々とした堂宇だ。明朝風様式を今に伝える黄檗宗の建物は内外ともに他の宗派のものとはかなり違う印象を与える。

大雄宝殿(国指定重要文化財)_1
大雄宝殿(国指定重要文化財)_2
正面入口の小階段には柵が置かれている。普段はここを通させないということなのだろう。調べてみると、月臺というもの。月光を堂内に取り入れるために、白砂が敷かれているらしい。
大雄宝殿(国指定重要文化財)_3
大雄宝殿(国指定重要文化財)_4
大雄宝殿(国指定重要文化財)_5
大雄宝殿(国指定重要文化財)_6
開口部から堂内を見て、祈ることができる。特に写真撮影禁止とも書かれていなかったが、迫力に負けた。他の人のブログを見ると、写真付きだ。う~~ん。見た感じだが、明朝風様式を伝えていると言われるだけあり、日本風の寺院を見慣れた私は、かなり奇異な印象を受けた。
大雄宝殿(国指定重要文化財)_7
開梛(かいぱん)
正面通路に吊されている開梛(かいぱん・魚梆(ぎょほう)とも)は、時を報ずるための魚板。
開梛(かいぱん)_1
開梛(かいぱん)_2
こちらは銅鑼だろうか?
こちらは銅鑼だろうか?
鴟尾
萬福寺で総門や屋根大棟にある魔除けの水神・聖獣のマカラと同様のものかな。少しだけ形状が異なるようだ。
鴟尾_1
鴟尾_2
火焔付き宝珠
こちらも、萬福寺のそれと同様のもの。但し、こちらも少しだけ形状が異なるようだ。
火焔付き宝珠

瑞聖寺は寛文10年(1670年)に創建された。開山(初代住持)は日本黄檗宗2代の木庵性瑫である。木庵は日本黄檗主の祖・隠元隆琦の招きで明暦元年(1655年)に中国・明から来日し、寛文5年(1665年)に江戸入りした。開基(寺院創設の経済的基盤を提供した人物)は摂津麻田藩(大阪府豊中市)の2代藩主・青木重兼である。重兼は黄檗宗に深く帰依し、晩年には家督を譲って出家している。江戸時代には江戸の黄檗宗の中心寺院として「一山之役寺」と呼ばれていた。
大雄宝殿および通用門1棟は昭和59年(1984年)東京都指定有形文化財に指定され、平成4年(1992年)に国の重要文化財に指定された。

 

自然教育園と紫雲山瑞聖寺(3)

自然教育園(3)
武蔵野植物園
ぬすびとはぎ
ぬすびとはぎ
つりがねにんじん
つりがねにんじん_1
つりがねにんじん_2
きんみずひき
きんみずひき
みずひき
みずひき
あさざ
浅沙。学名は、Nymphoides peltata。Nymphoidesはアサザ属で、peltataの楯状の意味だそうだ。アサザ属を意味するNymphoidesは、ギリシャ語の「Nymphaea(ヒツジグサ属)+ eidos(外観)」が語源。ヒツジグサ属に似ていることに由来なのだとか。
アサザ属もヒツジグサ属も似ていて当然のようだ。

あさざ
左側が『あさざ』で右側が『ひつじぐさ』
あさざ&ひつじぐさ
ひつじぐさ
ひつじぐさ
のはらあざみ
のはらあざみ
ふしぐろせんのう
節黒仙翁。野草では珍しい朱赤色の花が非常に目立つ。
ふしぐろせんのう
とらのおすずかけ
大変に珍しい種のようだ。何もそんなことは書かれていないので、見落とす人も多かったのでは。
関連のPDFにjump
とらのおすずかけ

 

自然教育園と紫雲山瑞聖寺(2)

自然教育園(2)
物語の松
樹齢は三百数十歳。松としてはかなりの老木になるのかもしれない。しかし、堂々とした樹勢ぶりだ。
物語の松_1
物語の松_2
手前の木は折れてしまったようだ。生命力の差だろうか。
物語の松_3
ひょうたん池
名前のとおり瓢箪型の池。木々が繁茂しすぎて、奥がよく見えないが。物語の松などとともに、回遊式庭園だったそうだ。
ひょうたん池
江戸時代になると、増上寺の管理下に入りましたが、寛文4年(1664)には、徳川光圀の兄にあたる高松藩主松平讃岐守頼重の下屋敷となり、園内にある物語の松やおろちの松などの老木は、当時の庭園の名残であろうと思われます。
水性植物園
くさぎかな?
葉を触ると、一種異様な臭いがするのがこの名の由来。今回は試してはみなかった。
くさぎかな?_1
くさぎかな?_2
池にはコサギらしき鳥が
今回は、この個体のみ。前回、春に行った時は、メジロやカワウも居たのだが、…。少し涼しいところに避暑に行っているのだろうか?
池にはコサギらしき鳥が
しろばなさくらたで(イヌヌマトラノオかも)
全く自信なし。イヌヌマトラノオの可能性大かなあ。
しろばなさくらたで_1
しろばなさくらたで_2
みそはぎ
禊萩。字からも用途がわかる花だ。
みそはぎ_1
みそはぎ_2
のはらあざみ
のはらあざみ_1
のはらあざみ_2
ひめがま
ひめがま_1
ひめがま_2
ひめがま_3
のぶどう
のぶどう
へくそかずら
『くさぎ』とか『へくそかずら』とかばかり。悪臭のもとは私じゃありませんから。もしかしたら、カメムシも居たかなあ。
へくそかずら_1
へくそかずら_2
あさざ
干上がりつつあり、ちょっと気の毒な状態だった。でも何とか頑張っている。
あさざ_1
あさざ_2
みつがしわ
同じく干上がり気味でつらそうだ
みつがしわ

 

自然教育園と紫雲山瑞聖寺(1)

同じネタを細切れにしてUPし続けるのにも飽きてきた。そこで、暑い盛りの自然教育園には、どんな花が咲いているのかチェックしに行ってきた。ついでに、国指定重要文化財(建造物)がある近くの紫雲山瑞聖寺にも行ってきた。更に、その目と鼻の先に明治学院大学のインブリー館もあったのだが、こちらは綺麗サッパリ忘れてしまった。
自然教育園(1)
路傍植物園
やぶらん
科までだとクサスギカズラ科(キジカクシ科)で後出の『こばぎぼうし』と同じ。クサスギカズラ科(キジカクシ科)なんて知らないなあ。その中のスズラン亜科なんだ。漢字は『藪蘭』だな。
やぶらん_1
やぶらん_2
のしらん
『やぶらん』と同じ仲間。漢字は『熨斗蘭』だな。こういう白一色のものは色飽和を起こしやすくて苦手。まあ、其れを言う前にピントを合わせなくては話にならない。(^_^;)
のしらん_1
のしらん_2
やぶみょうが
葉がみょうがと似ていることからこの名がつけられたのか。漢字は『藪茗荷』だな。
やぶみょうが
やぶれがさ
この大きさになると普通の草だ。春先の可愛い様子とはかなり違ってしまうなあ。
やぶれがさ
こばぎぼうし
漢字で書けば、よく分かる。『小葉擬宝珠』なのだ。クサスギカズラ科(キジカクシ科)リュウゼツラン亜科ギボウシ属。う~~ん、よくわからない。
こばぎぼうし_1
こばぎぼうし_2
もみじがさ
漢字は『紅葉傘』だな。モミジガサとヤマトリカブトとを取り違えたりしないことが重要なようだ。これでキク科なのかなあ。
もみじがさ_1
もみじがさ_2
はぐろそう
漢字は『羽黒草』だな。葉が黒ずんだ緑色をしているのが名前の由来。本州(関東地方以西)、四国、九州に分布するのか。どうりで見たことがなかったはずだ。それにしても小さい花だ。最初はゴミかと思ったほどだった。
はぐろそう_1
はぐろそう_2
きつねのかみそり
きつねのかみそり

 

九品仏浄真寺(3)

この浄真寺開山の珂碩上人は仏像づくりの天才ではあるが、俗事には疎かった。其れを補ったのが、弟子の珂憶。元禄11年に本堂、三仏堂の棟上を行っている。そして、この堂宇及び仏像を活用した『二十五菩薩来迎会』を始めたようだ。
三仏堂と九品仏
三仏堂は世田谷区指定文化財。その中に安置されている木造阿弥陀如来坐像(9躯)は東京都指定文化財。極楽往生の仕方には、信仰の篤い者から極悪人まで9通りの段階があるとされ、「上品上生」(じょうぼんじょうしょう)から始まって「上品中生」「上品下生」「中品上生」「中品中生」「中品下生」「下品上生」「下品中生」「下品下生」に至る。極悪人でも極楽往生ができるようだが、ここで言う極悪人とはどういうものなのだろう。
上品堂
上品上生・上品中生・上品下生の仏像3躯が安置されている。
仏堂外観
本堂と向かい合う位置に立つ。本堂を現世(娑婆)に見立てて、三仏堂を浄土として、二十五菩薩が浄土から迎えに来るといった来迎会が行われるが、この上品堂が浄土と見立てられる。
上品堂_仏堂外観_1
上品堂_仏堂外観_2
外側にある表示のとおり、中央が上品上生、右側が上品中生、左側が上品下生の並び順だ。
上品堂_仏堂外観_3
上品堂_仏堂外観_4
下品堂から見た上品堂
上品堂_仏堂外観_5
上品堂_仏堂外観_6
安置されている3躯の仏像
上品上生仏像
螺髪が真っ青なのが目を引く。手の印の結び方に注意して、各仏像の違いを見ていただきたい。
上品堂_3躯の仏像_1
上品堂_3躯の仏像_2
上品中生仏像
上品堂_3躯の仏像_3
上品下生仏像
上品堂_3躯の仏像_4
中品堂
中品上生、中品中生、中品下生の仏像3躯が安置されている。
仏堂外観
中品堂_仏堂外観_1
安置されている3躯の仏像
看板にあるとおり『平成九品仏大修繕事業』が行われていて、この日は中品上生仏像がご遷座中だった。残念だが、仕方がない。
中品堂_仏堂外観_2
中品堂_安置されている3躯の仏像_1
中品中生仏像
中品堂_安置されている3躯の仏像_2
中品下生仏像
中品堂_安置されている3躯の仏像_3
下品堂
下品上生、下品中生、下品下生の仏像3躯が安置されている。残念ながら前の戸が開いてなかったので、仏堂のみを撮った。
仏堂外観
下品堂_仏堂外観_1
下品堂_仏堂外観_2
二十五菩薩来迎会の様子(2014年)
本堂と上品堂との間に仮設(だが結構しっかりした)の橋が架けられ、そこを往復する。下から見上げた感じは、まさしく天上界での出来事のように見える。
二十五菩薩が浄土から迎えに来るシーン
二十五菩薩来迎会の様子(2014年)_1
二十五菩薩来迎会の様子(2014年)_2
娑婆から浄土に向かうシーン
二十五菩薩来迎会の様子(2014年)_3
二十五菩薩来迎会の様子(2014年)_4
二十五菩薩来迎会の様子(2014年)_5
珂碩上人の御神像がお厨子に乗せられて橋を渡る
二十五菩薩来迎会の様子(2014年)_6
最後は住職が行事を〆る
二十五菩薩来迎会の様子(2014年)_7

せたがや百景 No.98『お面かぶりの九品仏と参道』記事の引用
この浄真寺を特徴づける九品仏や三仏堂などの伽藍配置は開山の珂碩上人と弟子の珂憶(かおく)によって成されました。簡単に書くと珂碩上人が仏像(本尊の釈迦像と9体の阿弥陀如来像)を造り、弟子の珂憶が寺の建設などを行ったといった感じです。
どうも記述を読む限りでは、珂碩上人は仏像を造ったり、住職として仏事などを行う事にかけては天才的だったようですが、寺の経営とか資金を勧請しての建設、お役所の手続きといった事に関してはまるでダメだったようで、見てられないとばかりに行動派の珂憶が協力を申し出て助けていたようです。
仏像に関しては珂碩上人が出家して間もなくの19才の時(1636年)に梵綱経を読んで阿弥陀如来の願摂を覚証し、九品仏の建立を発願したそうです。そして霊巌寺僧侶時代の25才頃から製作に取りかかり、20年後の寛文4年(1664年)にようやく一体目の阿弥陀如来が完成します。
その後は珂憶の資金的な援助があって建立が一気に進み、寛文7年(1667年)に九体の阿弥陀如来像と釈迦像が完成します。その後しばらく越後の村上の泰叟寺に住持する事になり、仏像は深川の霊巌寺に置いていきます。しかし深川は度々水害に遭い、仏像を安置するのに相応しい場所はないだろうかと探しているところに奥沢で寺の募集を行っているのを知ったというわけです。
そして延宝2年(1674年)に仏像を移動し、同7年に珂碩上人も移住し浄真寺を開山します。これで一件落着とはいかず、法律的、珂碩上人の性格的にもちゃんとした堂宇の建立は進みませんでした。
元禄7年(1694年)に珂碩上人は他界します。その直前に河内の寺の住職となっていた珂憶が見舞いに来て、その時に本堂や三仏堂などの堂宇を建てたかった旨を話したそうです。珂憶は珂碩上人の死後その志を引き継いで資金集めや大工の手配などに奮闘し、元禄11年に本堂、三仏堂の棟上を行っています。
堂宇の建設にあたって珂憶は城跡という地形を利用して独特の伽藍配置を行っています。寺伝によれば珂憶式というようですが、まず本郭があった土塁で囲まれている場所を聖域とし、その入り口に仁王門を造ります。結界の入り口といった感じでしょうか。聖域部分は方形でしかも明快な東西の軸線を持っているので、浄土宗の西方浄土の思想を反映した境内造りが簡単でした。
仁王門から見て聖域は西に当るし、本堂から見て三仏堂も西にあたります。その象徴的なのが後述するお面かぶりの行事で、本堂を現世(娑婆)に見立てて、三仏堂を浄土として、二十五菩薩が浄土から迎えに来るといった来迎会が行われます。
また城跡を利用した配置で特徴的なのは参道です。総門から入って途中で左に直角に曲がらなければならないという変わった配置をしているのは、恐らく元々あった城の道を利用したものだと考えられています。城の遺構として考えるならば、山門から仁王門の部分が外郭部分となり、本郭部分に対して屈折しているのも納得です。

 

九品仏浄真寺(2)

梵鐘(東京都指定文化財)
梵鐘は近くで見ることが出来ないので、文化財指定に相応しいものか否かよくわからない。だが、鐘楼のみごとさには何時も眼を瞠らされる。
梵鐘(東京都指定文化財)_1
梵鐘(東京都指定文化財)_2
撮っていたら時間が来たのか、鐘を撞き始めた。なんという幸運なことか。
梵鐘(東京都指定文化財)_3
梵鐘(東京都指定文化財)_4
梵鐘(東京都指定文化財)_5
仁王門脇にあった石碑
馬頭観音と思われる石碑が並んであった。
仁王門脇にあった石碑_1
仁王門脇にあった石碑_2
仁王門脇にあった石碑_3
仁王門脇にあった石碑_4
仁王門脇にあった石碑_5
仁王門を潜った辺り
こんなふうに見える
見るからに真っ直ぐの道があるようだが、実はかくかくと曲がることになる。
仁王門を潜った辺り_3
鷺草
かつては鷺草伝説の地に相応しいだけの鷺草があったそうだが、今は殆ど見られない。残念なことだ。
仁王門を潜った辺り_1
仁王門を潜った辺り_2
側面からだが、本堂が見える
仁王門を潜った辺り_4
天然記念物の浄真寺のイチョウ
仁王門を潜った辺り_5
その銀杏越しに本堂の右角が見えている
仁王門を潜った辺り_6
本堂
ご本尊の木造釈迦如来坐像(東京都指定文化財)
凄い風格。お面かぶりの時に二十五菩薩を迎える。未だに活躍する生きた釈迦如来坐像である。
本堂_1
本堂_2
本堂_3
本堂_4
本堂_5
本堂_6
本堂_7
乾漆珂碩上人倚像(世田谷区指定文化財)
布で覆われていて、ご尊顔を見ることは出来なかった
本堂_8
本堂_9
高祖善導大師像
本堂_10
木造五劫思惟(ごこうしゆい)阿弥陀如来坐像(世田谷区指定文化財)
本堂_11
本堂_12
内陣天井
本堂_13
大きな数珠
本堂_14
何やら粋な寄付者名の掲額
本堂_15

 

九品仏浄真寺(1)

九品仏浄真寺へは我が家からも歩いていくことができる。片道20分(現在、足腰の不調があるので25分程度かかると思う)である。我が家のある旧碑衾村は日蓮宗の勢力の強い土地柄だったようだ。何が言いたいかというと、第4代将軍徳川家綱の延宝6年(1678年)に、この地(旧碑衾村と境を接する旧奥沢村)に九品仏浄真寺が創建された。江戸時代は基本的にお寺さんが新しく作られるのは認められていなかった。そんな時代に日蓮宗の勢力が強い土地の近くに、どうお上と話をつけたのか浄土宗の大きなお寺さんが出来たのだ。上の方では話がついても、下々の間ではしこりが残ったようだ。
九品仏駅
自由が丘駅から歩いてもそんなに遠くないが、道を知らない方は、こちらの駅で乗降したほうが無難だろう。改札を出た直前を道路が走り、そこが踏切になっているのだが、ちょっと変わった眺めだ。
九品仏駅
参道
スイーツ屋さん、お蕎麦屋さんなどの誘惑に負けず、ともかくも九品仏浄真寺拝観を優先させた。
参道_1
参道_2
『禁銃猟 警視廳』か。この辺りでも銃による猟が行われていたんだ。それくらい鳥獣が存在したのだろう。『廳』の文字も時代を感じさせる。明治32年のことか。う~~ん。
参道_3
参道_4
総門が見えてきた
参道_5
参道_6
総門
扁額には『般舟場(はんじゅじょう)』と書かれてある。常に行道念仏して現前に諸仏を見奉る般舟三昧する道場であり、参拝者に願往生の心を自然に発さんが為に書かれたものであるそうだ。おわかりいただけだであろうか。
総門
重要な情報
次回の『お面かぶり』は、来年の8月16日ではなく、5月5日に変更になったようだ。9ヶ月も覚えていられるかなあ。3年に一度の行事だから、見逃したら、大後悔必至だろう。直前まで日程変更に気付かずにいる方が少なくないのだろうなあ。
重要な情報
前回の『お面かぶり』の様子
前回の『お面かぶり』の様子
総門を潜った辺り
その先に山門があり、本堂があるのが普通だろうが、ここはそうはなっていない。右手には閻魔堂があるだけ。
総門を潜った辺り
閻魔堂
後述するが、死んだ時に9つのタイプに類別されるそうだ。だが、それもこれも、この閻魔堂で引っかからなければの話だ。ご同輩、その自信はお有りだろうか?
閻魔堂_1
何故だか、とても怖く感じた。今からでも改心すれば、認めてくれるのだろうか。
閻魔堂_2
閻魔堂_3

参道を左に折れるが、その前に右手に折れて東門を見ておく

東門
東門からは、仁王門まではまっすぐ進むことができる。扁額には何と書かれているのだろうか。『釈迦如来仏法…』と書かれてあるのかなあ。
東門_1
東門_2
仁王門(紫雲楼) (世田谷区指定文化財)
楼上には阿弥陀如来と二十五菩薩像が安置されているが、この日は前の扉が開けられておらず、確認できなかった。それが残念だったが、仕方がない。それにしても、この風格のある仁王門(紫雲楼)が世田谷区指定文化財にとどまるとは。寛政5年(1793)の建立で223年前のものなのだが、…。
仁王門(紫雲楼)_1
仁王門(紫雲楼)_2
仁王門(紫雲楼)_3
仁王門(紫雲楼)_4
仁王門(紫雲楼)_5
仁王門(紫雲楼)_6
仁王門(紫雲楼)_7
仁王門(紫雲楼)_8

仁王門
重厚荘重なる仁王門(山門)は別名「紫雲楼(しうんろう)」とも呼ばれ寛政5年(1793)の建立である。
一対の仁王像、楼上に阿弥陀如来と二十五菩薩像が安置されているほか、風神・雷神の像も立って、寺域全体の安全が意図されている。
紫雲楼(仁王門)楼上の二十五菩薩
当山に参詣される人々は、この楼上に安置してある阿弥陀如来と二十五菩薩に迎えられて、三仏堂へと足を運ぶことになる。
すなわち紫雲の門より内は荘厳の浄土(彼岸)であることを示している。
この楼門は寛政年間の建立である。
当山の伝統相続行事である「二十五菩薩来迎会(らいごうえ)」(お面かぶり)は無形文化財に指定せられ、この楼上の二十五菩薩は、来迎の真髄を示現していることになる。


歴史
浄真寺の地は、もともとは世田谷吉良氏系の奥沢城であった。小田原征伐後同城は廃城となったが、寛文5年(1675年)に当地の名主七左衛門が寺地として貰い受け、延宝6年(1678年)、珂碩(かせき)が同地に浄真寺を開山した。
「九品仏」の由来
広い境内の本堂の対面に3つの阿弥陀堂があり、それぞれに3体合計9体のそれぞれ印相の異なった阿弥陀如来像が安置されている。この9体はそれぞれ、上品上生(じょうぼんじょうしょう)、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生という、浄土教における極楽往生の9つの階層を表しており、これらをあわせて九品(あるいは九品往生)という。この九品の仏から、浄真寺は通称「九品仏」と呼ばれている。
このような九体阿弥陀は、他に京都の浄瑠璃寺にも見られる。
これは「観無量寿経」に説く九品往生(くほんおうじょう)の思想に基づくものである。極楽往生の仕方には、信仰の篤い者から極悪人まで9通りの段階があるとされ、「上品上生」(じょうぼんじょうしょう)から始まって「上品中生」「上品下生」「中品上生」「中品中生」「中品下生」「下品上生」「下品中生」「下品下生」に至る。浄真寺の九品仏の場合、阿弥陀如来の印相の内、定印を「上生印」、説法印を「中生印」、来迎印を「下生印」とし、親指と人差し指(中指、薬指)を接するものをそれぞれ「上品」「中品」「下品」に充てる。なお、九品往生を9通りの印相で表す教義的根拠は明確でなく、日本において近世になってから考え出されたもののようである。

 

『相馬野馬追』本祭り(5)

神旗争奪戦(1)
神旗争奪戦の競技運営は難しさが色々あると思う。ご神旗は当日の風向きなどを予測して打ち上げるのだろう。当日は小雨交じりで、風も競技場から見て観客席左側方向に少し強く吹く条件の良くない天候だった。
其れにもかかわらず、まったく風に逆らう形で打ち上げられた。当然、ご神旗はどんどん流されて、騎馬がまったく陣取っていない方向に。最初の内は誰も地上に落下する前に取れなかった。2発目からは打ち上げ位置を大幅に変更するかと思いきや、そのまま。
これで私の興味が失せた。

打ち上げ直前
固唾を呑んで、その瞬間を待つ。騎馬武者たちの心境はどんなものなのだろうか?
打ち上げ直前
空中から落下するご神旗
途中までは1回に2発、1発で2枚のご神旗が打ち上げられる
空中から落下するご神旗
見せられたくなかったシーン
本来は地上に落ちる前に鞭で絡めとってほしかった。あまりに予想外のところに落下させた主催者側の手落ちのように私には思えた。
見せられたくなかったシーン_1
見せられたくなかったシーン_2
こちらでも。喧嘩を見に来たわけじゃないのに。
見せられたくなかったシーン_3
見せられたくなかったシーン_4
この騎馬たちが神旗争奪に成功した
青旗
『われこそは、真っ先にご神旗をとり申した』とでも叫んでいるのだろうか。空中で見事キャッチした分は、観客席からではその瞬間が見えない。枠内の入場券を入手すべきだったと思う。
青旗_1
青旗_2
青旗_3
青旗_4
総大将にお褒めの言葉をいただくべく『羊腸の坂』を上るところ
青旗_5
黄旗
先ほどの地上でのバトルに勝利したようだ。確かに腕っ節が強そうだ。
黄旗_1
黄旗_2
黄旗_3
黄旗_4
赤旗
こちらも先ほどの地上でのバトルに勝利した口かな
赤旗

 

目黒雅叙園にて(6)

島根県浜田市「石見神楽」
鏑木清方の作品がある清方の間。今年は昨年とは全く異なる展示が用意された。石見神楽の1シーンを展示してある。ものすごい迫力。見た瞬間に圧倒された。
大蛇
大蛇_1
大蛇は石見神楽の代名詞とも言うべき神楽でそのスケールの大きさは他の神楽の比ではない。ちょうちん蛇胴の考案により、石見神楽に一大改革を起こした。大蛇の舞手は身体を胴の中に隠し身体を見せずに舞わなければならない。
悪業のため高天原を追われた須佐之男命が出雲の国・斐川にさしかかると、老夫婦が嘆き悲しんでいた。訳を尋ねると、夫婦には八人の娘がいたが、大蛇が毎年あらわれて、七年に七人の娘をとられ、最後の一人も取られる運命にあるという。命は、大蛇退治を約束し、毒酒を作らせ、これを大蛇が飲んで酔った所を退治した。この時、大蛇の尾から出た剣は、天の村雲の剣(のちの草薙の剣)として天照皇大神に献上され、三種の神器の一つとして熱田神宮に祀られている。須佐之男命は助けた娘、奇稲田姫と結婚した。

塵輪(じんりん)
詳しくないので、間違った記述になっているかもしれない。
白鬼・赤鬼
塵輪_1
帯中津日子(たらしなかつひこ)・高麻呂(たかまろ)
塵輪_2
八調子では神2人鬼2人が対決する、鬼舞の代表的な神楽。
第十四代の帝・帯中津日子の天皇が、異国より日本に攻め来る数万騎の軍勢を迎え撃つ。
その中に塵輪という、身に翼があり、黒雲に乗って飛びまわり人々を害する悪鬼がいると聞き、天の鹿児弓、天の羽々矢を持って高麻呂を従え討伐に向かい、激戦の末に退治する。

鏑木清方の作品
四季美人図『娘道成寺』
四季美人図『娘道成寺』
四季美人図『蛍狩り』
四季美人図『蛍狩り』
四季美人図 題名失念
四季美人図 題名失念

 

またもや日本民家園に行ってきた(13)

(22)工藤家住宅(国重文)
古民家の造りとして、合掌造りと共に名高い曲屋。ここには、現存最古の曲屋の一つといえる古民家が移築されている。民家園の中で一番敷地面積の広い家でもある。いつも思うのだが、岩手県の、このだだっ広い家屋に大きいとは言いながら囲炉裏がたった一つとは信じられない程である。薪炭代を心配することもなかったはずで、何故、凍えるような暮らし向きをしていたのだろうか?外部に面する開口部を極力少なくするほかは、冬の厳しい寒さへの対処はほとんどなされていないのだから、相当に我慢強かったのだろうか。
間取り
間取り
外観
大きな家屋なので、画面に入りきらない。何時も驚かされるのが囲炉裏がたった一つだということだ。
外観_1
外観_2
味噌小屋のようだ。屋根のてっぺんはイチハツではない。
外観_3
家屋内部
マヤ
多少なりとも、囲炉裏に近い方に馬さんが繋がれていたようだ。馬さんが大事なので、当然のことだろう。ここでは馬さんに見立てたものが臥せったような格好をしているが、馬さんの寝姿を見たことがお有りだろうか?
マヤ
ニワ
相当に広い。その先にダイドコがあり、底に大きな囲炉裏があるだけだ。雪や雨に濡れて帰ってきても、なんとか過ごせるよううになっていた。
ニワ
ダイドコ
巨大な囲炉裏があった、巨大ではあっても、鍋の大きさで火の大きさが決まるだろうから、そのサイズの大小は暖房上はそれほど効果があるとは思えない。どちらかと言えば、周囲を囲む人の数が多くても大丈夫なようになって居たのだろう。
囲炉裏には自在鉤が設えてあり、鍋の高さを変えられるようになっていた。

ダイドコ_1
ダイドコ_2
当然ながら食器も置くスペースもあった。柱は手斧で仕上げたように見えた。確かに古いんだ。
ダイドコ_3
ジョウイ
家族が休息したり、屋内での作業をする場所だったようだ。部屋の仕切りの上部を見ていただくと、空気が自由に行き来できるようになっている。これで囲炉裏の暖気を屋内全部の行き渡らせたというのだが。
ジョウイ
カッテノマ
カッテノマ
チャノマ
普通は『お茶の間』なのだから、火鉢くらい置いてあっても良さそうに思えるがそういうものはなかったようだ。
チャノマ
ナンド
どこでもそうかもしれないが、窓なし部屋だ。寝室の役目を果たしていたようだ
ナンド
ザシキ
ザシキ_1
ザシキ_2

馬と共に暮らした南部の曲屋
主屋の前に馬屋を突出させたL字型の民家は、旧南部藩領(岩手県)に多いことから「南部の曲屋」として知られています。これは、南部馬の飼育が盛んになる江戸時代中期に工夫された形式と考えられます。宝暦頃に建てられた工藤家は現存最古の曲屋の一つといえます。民家園の中で一番敷地面積の広い家です。
主屋には天井がありません。この地方はもともと天井のない家が多く、厳しい冬場は囲炉裏の火で家全体を暖めながらすごしました。ダイドコの囲炉裏はニワからも利用することができます。ダイドコとジョウイは日常生活の場、ナンドは寝室です。ザシキは床の間も備えた特別な部屋で、この広い家で唯一畳が敷かれています。

 

『相馬野馬追』本祭り(4)

甲冑競馬(4)
一般騎馬(3)
ずーっと途中省略して甲冑騎馬の最終レース。このレースは本当に見応えがあった。最初から最後まで手に汗握るデッドヒートだったし、一度ならず二度のアクシデントもあった。是非最後まで見ていただきたい。
スタート直後
またも先行逃げ切りのパターンかと思ったが、実はどんでん返しがあった。2-3番手を撮っておいてよかった。
何故後方をケアしていたのだろう。理解に苦しむ。
スタート直後_1
スタート直後_2
真剣に追いかける2位以下。こちらのほうがスピードが出ている感じだった。そして、白馬はこの時は2位だったのだが。
スタート直後_3
スタート直後_4
第1コーナーから第2コーナー
先行馬は余裕を持ちすぎたのか、後続の騎馬の猛烈な追い上げを食らう。この先どうなるのか予断を許さない展開に。
この時点で1-2位の騎馬による一騎打ちかと考えていた。そのくらいの勢いがあった。
第1コーナーから第2コーナー_1
第1コーナーから第2コーナー_2
第1コーナーから第2コーナー_3
ここで膨らんでしまったのが、後々に悔いを残す結果となったのかもしれない。インを走る集団にかわされてしまうのだから。
第1コーナーから第2コーナー_4
第1コーナーから第2コーナー_5
第1コーナーから第2コーナー_6
ゴール付近
スタート直後に先頭を走っていた騎馬は既に順位を落としていたが、まだまだ混戦状態。中央競馬のラストを見るかのようだった。
まさしく横一線状態。真ん中の馬さんの頭にかかった赤いキレは何?
ゴール付近_1
アクシデント(1)
左から3頭目の騎馬を見られたい。なんという状況になっているのだろうか。突如、目隠しをされてしまったのだ。一瞬、事故が起きないか心配した。騎馬武者が冷静に何とか邪魔な他の騎馬(多分右隣の白馬)の旗指物を取り払ったようだ。
ゴール付近_2
ゴール付近_3
何とか障害を取り払って
アクシデントにめげず、走る走る。でも届かないと見ていた。
ゴール付近_4
ゴール付近_5
ゴール付近_6
邪魔な旗指物がなくなりムチを入れる。がんばれーっ。
ゴール付近_7
あれま。自分の旗指物を踏んづけてしまったぞ。
ゴール付近_8
ゴール付近_9
デッドヒート(1)
激しい鍔競り合いだった。日の丸のスピードはすごかった。オリンピックでも斯くあれと思った。
ゴール付近_10
ゴール付近_11
ゴール付近_12
ゴール付近_13
ゴール付近_14
ゴール付近_15
ゴール付近_16
ゴール付近_17
アクシデント(2)
画面の右端を見ていただきたい。デッドヒートの真っ最中だったので気付かなかったが、ここで落馬事故も起きたようだ。自分の旗指物を落として、他の騎馬に大きな迷惑を掛けてしまうし、それを踏んづけてしまうし、最後の仕上げに、隣の騎馬と接触したうえでの落馬か。ふんだり蹴ったりだったようだ。
ゴール付近_18
デッドヒート(2)
後方で落馬があったなんて誰も気づかなかった。観客の視線は一点に集中していたのだから。
ゴール付近_19
ゴール付近_20
遂に躱したぞ。日の丸が月との激闘を制した。このくらいでないと小藩の相馬中村藩が仙台藩に蹂躙されてしまう。そういう思いがあったのだろう。
ゴール付近_21
ゴール付近_22
ゴール付近_23

ふうっ。ものすごい激しいレースだった。何よりもあの落馬で怪我しなくてよかった。

 

目黒雅叙園にて(5)

造形作家 川村忠晴「草木のあかり」
星光の間での展示は、「草木のあかり」。前回も見たが、今回のものも素敵だった。よほど手先の器用な我慢強い人物が拵えたものなのだろう。雰囲気を味わっていただくべく、途中で無粋なコメントは差し挟まないことにする。
展示物の関係で、元の部屋の様子が一番良くわかるようになっている。格天井及び欄間いっぱいに描かれた板倉星光の四季草花をも、併せて楽しむことができる。

草木のあかり_1
草木のあかり_2
草木のあかり_3
草木のあかり_4
草木のあかり_5
草木のあかり_6
草木のあかり_7
草木のあかり_8
草木のあかり_9
草木のあかり_10
草木のあかり_11
草木のあかり_12
草木のあかり_13
草木のあかり_14
草木のあかり_15
草木のあかり_16
草木のあかり_17
草木のあかり_18
草木のあかり_19
草木のあかり_20
草木のあかり_21
草木のあかり_22
草木のあかり_23
草木のあかり_24
草木のあかり_25
草木のあかり_26
草木のあかり_27
草木のあかり_28
草木のあかり_29
草木のあかり_30

極小の物質も、見事な灯り素材となるものだ。その緻密さに驚かされる。

 

またもや日本民家園に行ってきた(12)

(17)伊藤家住宅(国重文)
以前に取り上げた同じく国指定の重要文化財である旧北村家住宅と何かと対比される。ほぼ同じ頃の家屋であるし、建てられていた場所もそれほど離れても居ない。
伊藤家住宅は多摩丘陵南西部の橘樹郡金程村(川崎市麻生区金程)の農家で、江戸時代には名主を勤めたと伝える。北村家住宅のような建築年代を示す資料はないが、17世紀末から18世紀初めごろの建築と推定されているそうだ。つまり、この日本民家園のすぐそばに存在した極めて古い民家だ。そして、この家屋の保存運動が検討されたことが、日本民家園開設のきっかけになったということだ。

間取り
間取り
外観
なかなか美しい外観だ
外観_1
縁台から直接客間に上がるように考えられていたようだ。家人に顔を合わせることなく、密談を交わせる感じだったのかな。
外観_2
外観_3
座り流しの外側
外観_4
家屋内部
デイ
畳敷きの客間。上述のとおり、縁台から直接上がることができるようになっていた。密談の種はそんなにあったのだろうか?
デイ
ヒロマ、ドマ、ミソベヤ
竹簀の子床。旧北村家住宅と同様だ。『決して贅沢はしておりません』というアピールのためなのだろうか?その証拠に、一部分、板敷きになっているところは、がっしりした板の床になっている。
ヒロマ、ドマ、ミソベヤ_1
ヒロマ、ドマ、ミソベヤ_2
ヒロマ、ドマ、ミソベヤ_3
ヒロマ、ドマ、ミソベヤ_4
ヒロマ、ドマ、ミソベヤ_5
調度品を見ても、決して貧乏ではなかったと思う
ヒロマ、ドマ、ミソベヤ_6
ドマから見ると少しだけ、ヒロマがせり出している。そこが、『座り流し』だ。現代人には耐えられないかもしれないが、昔の主婦には有難い仕掛けだったのではなかろうか。ところで、ドマの土の面が小さなコブコブになっているのにお気づきだろうか?そしてそうなっている理由はおわかりだろうか?
ヒロマ、ドマ、ミソベヤ_7
ヒロマ、ドマ、ミソベヤ_8
精米したり、餅を搗いたりしたのだろうか?
ヒロマ、ドマ、ミソベヤ_9
ミソベヤとドマとは区切られてある。暖気で味噌などが腐らないようにしたのだろうか?
ヒロマ、ドマ、ミソベヤ_10
ドマには竈がある他、簡易の囲炉裏もあったようだ。いちいち、ヒロマのお湯をもらうのも面倒だったからか?
ヒロマ、ドマ、ミソベヤ_11

民家園誕生のきっかけとなった川崎の民家
土間はミソベヤとダイドコロに分かれています。ヒロマ境の一番奥は板の間を張り出して炊事場とし、「すわり流し」 と水がめが置かれています。ヒロマは家の中心となる部屋で、囲炉裏の後方は台所、前方は日常生活や接客の場として使われました。ここは竹簀子でできた床です。
ヒロマの上手にはデイ(座敷)とヘヤ(寝室)が続きます。デイは正式な座敷で、出入りには土庇に置いた縁台を使いました。なお、正面の格子窓は「シシよけ窓」などと呼ばれ、関東の古民家に一般的なものです。
なおこの住宅は、民家としては神奈川県で最初に重要文化財に指定されました。この家の保存運動をきっかけに誕生したのが日本民家園です。

 

東京港野鳥公園(2)

潮入りの池
カイツブリ
私が見るのは何時もこの種。カンムリカイツブリなどの種は、全く見たことがない。
カイツブリ_1
カイツブリ_2
カイツブリ_4
カイツブリ_5
カイツブリ_6
カイツブリ_7
カイツブリ_8
コチドリかな?
カニさんを狙っているわけでは無さそうだった。小さな虫を狙っていたようだが、いったい何を食べているのかな。食べる気になれば、カニさんはいくらでも居た。そういえば、歩き方は千鳥足だったかなあ?
この鳥さんを追っかけていて、ミサゴのダイブ・シーンを見そこねてしまった。難聴というわけでもないのに、全くわからなかった。それなのに、何故、飛び上がる途中で気づいたのだろうか?
コチドリかな?_1
コチドリかな?_2
コチドリかな?_3
コチドリかな?_4
コチドリかな?_5
ハシビロガモかな?キンクロハジロかな?スズガモかな?
今頃いるカモって、カルガモ以外は思いつかない。但し、スズガモはこの季節でも少し見られるような資料を東京港野鳥公園で発表している。
而、この個体は何だろう。嘴は確かに幅広だが、ハシビロガモだとすると、成鳥のような派手さがない。スズガモなのかなあ。

ハシビロガモかな?キンクロハジロかな?スズガモかな?_1
ハシビロガモかな?キンクロハジロかな?スズガモかな?_2
こちらも同じかな?違う種のような気がしないでもないが。
ハシビロガモかな?キンクロハジロかな?スズガモかな?_3
ハシビロガモかな?キンクロハジロかな?スズガモかな?_4
ミサゴ(ピンぼけ)
この魚専門の猛禽類は、ここにはめったに現れないだそうだ。今回は大きなボラを捕まえたようだ。近くに居て一部始終を見ていた方の話では50cmほどのボラだったようで、一度落としかけたのを捕まえ直したとのこと。
小さな鳥さんを観察している最中に突如現れた。捕まえ直しの気配で気づいたのだが、とき既に遅く、完全なピンぼけだった。
ミサゴ(ピンぼけ)_1
ミサゴ(ピンぼけ)_2
PDFの画像だと、こんな鳥さんだ
1005px-OspreyNASA.jpg
カワウ
潮入りの池だけど、いるのはカワウの方らしい。ウミウはそこかしこに居るものではないのだろうか。
カワウ_1
カワウ_2
カワウ_3
アオサギ
あの胴間声で喚きながら飛翔していた。他の鳥さんたちは、『アオサギさん、また始めたよ』って反応のようだった。
アオサギ_1
アオサギ_2

この日、観察できた鳥さんは以上のようなもの。1.4倍のテレコンは案外戦力になりそうだ。

 

東京港野鳥公園(1)

フル換算1.6倍のAPS-Cマシンとはいえども、400ミリの単焦点では、ちょっと離れたところの撮影は厳しい。そこで、EF 1.4X IIを継ぎ足すことにした。フル換算で896ミリということになる。軽さを重視すれば、妥協しなくてはいけないところか。それでキチンと撮れるか東京港野鳥公園で確認してきた。撮影日は8月5日。

東淡水池にて
ダイサギかな?チュウサギかな?
夏羽だとダイサギもチュウサギも嘴が黄色から黒に変わっていると思うのだが、8月なのにそういう徴候が見られない。
ダイサギかな?チュウサギかな?_1
ダイサギかな?チュウサギかな?_2
ダイサギかな?チュウサギかな?_3
ダイサギかな?チュウサギかな?_4

コサギかな?
こちらは嘴が黒い。図体もかなり小さい。
コサギかな?

セイタカシギかな?アカアシシギかな?
私はセイタカシギだと思うのだが、…。脚が明るい赤っぽい色で、異様に長い。見せつけられているようで、超短足の私は溜息ばかり。
セイタカシギかな?アカアシシギかな?_1
セイタカシギかな?アカアシシギかな?_2
セイタカシギかな?アカアシシギかな?_3
セイタカシギかな?アカアシシギかな?_4
セイタカシギかな?アカアシシギかな?_5

バン
これだけは自信を持って鳥さんの名前を言える。特徴のある鳥さんだから。
バン_1
バン_2

カルガモ
東淡水池にも潮入りの池にもどこにでもいるようだ。いつ見てものんびりしている。水草が主たる食料のようだから、焦らなくてもいつでも食べられるのだろう。
カルガモ_1
カルガモ_2
カルガモ_3

こんなものも
胡桃かな?
胡桃かな?

 

『相馬野馬追』本祭り(3)

甲冑競馬(3)
一般騎馬(2)
このレースは、『十二神将』を掲げた武者が、典型的かつ見事な先行逃げ切りをやってのけた。会心の勝利だろう。こんな勝ち方をすると癖になりそうかも。
スタート直後
全員が地元のアマチュアの騎手たちだが、総大将に覚えめでたきを得ようと真剣そのもの。これはこれで興味あるレースだ。
スタート直後_1
スタート直後_2
スタート直後_3
スタート直後_4
スタート直後_5
スタート直後_6
スタート直後_7
スタート直後_8
第1コーナー
息切れなどせずに、必死に逃げまくる。その意気や見事。多分、吉田達也武者だと思う。
第1コーナー_1
第1コーナー_2
第1コーナー_3
第1コーナー_4
第1コーナー_5
第1コーナー_6
第1コーナー_7
ゴール付近
つい出てしまったガッツポーズ。いまや大相撲でも日常茶飯事なくらいだから。
ゴール付近_1
ゴール付近_2
ゴール付近_3
ゴール付近_4
ゴール付近_5

 

またもや日本民家園に行ってきた(11)

(15)北村家住宅(国重文)
江戸時代初期の貞享四年(1687年)というから、329年前の家屋。建立年時の明らかな民家としては、東日本では茨城県出島村の椎名家住宅延宝2年(1674年)に次いで古いそうだ。それも13年違いなだけ。
この日本民家園には、同じく国指定の重要文化財である『伊藤家住宅』がある。伊藤家住宅には、建築年代を示す資料はないが、17世紀末から18世紀初めごろの建築と推定されているそうだ。旧所在地も、秦野市と川崎市麻生区と近接しているし、竹簀子の床があるのも同じ。どこが違うのか、考える価値がありそうだ。

間取り
間取り
外観
濡れ縁が用意されているのが目立つ
外観_1
外観_2
外観_3
前庭
蕎麦が植えられてあった。その昔も、同じようなことをしていたのかもしれない。
前庭_1
前庭_2
家屋内部
ヒロマ
竹簀の子の床になっているのがお分かりいただけるだろうか。長い時間座っていると、竹が当たって痛いなどの不都合も、冬季に隙間風が吹き込み放題とかいう不都合があったのだと思う。なのだが、端には板敷きもあり、決して貧乏だからそういうふうにしていたわけでも無さそうだ。
ヒロマ_1
ヒロマ_2
ヒロマ_3
ヒロマ_4
ヒロマ_5
ヒロマ_6
ダイドコロ
普通は土間と呼ばれる部分。分棟型住宅以外では、この部分の広さが突出している感じだ。竈はヒロマと近接しているので、いろいろと食事の支度がやりやすかっただろうし、夏季などは囲炉裏を燃やす代わりにもなったのではないかと思う。
ダイドコロ_1
ダイドコロ_2
オク
いわゆる応接間だ。仏壇があり、畳敷き。床の間もある。
オク_1
オク_2
ヘヤ
今で言う寝室だが、こちらも畳敷き。押し入れもある。寝室に畳が敷いてあるのは、民家園でも殆ど無い。かなりの贅沢仕様と見た。
ヘヤ

貞享四年(1687年)の墨書が残る古民家
この建物で特筆されるのは、建築年代がはっきりしていることです。加えて、建築としても非常に優れており、日本で最も重要な民家の一つといえます。建築年代は、柱の先端に墨記されていました。これを墨書といい、理兵衛という大工の棟梁の名前も明らかになっています。
日常生活の場であるヒロマは、竹簀子と板の間を使い分けています。竹簀子には必要に応じてムシロを敷きました。上手のオク(正座敷)には床の間が付き、ヘヤ(寝室)は畳敷で押入も備えています。このほか、ヒロマとオクに濡縁が付くなど、同じようなつくりの旧伊藤家住宅に比べ、発達した様子を示しています。

 

目黒雅叙園にて(4)

草丘の間
妖怪絵師 満尾洋之「平成 百鬼夜行立体絵巻」
和の灯りの展示には欠かせないテーマかもしれない。オドロオドロしい世界がそこにあった。高台寺の企画展を思い出してしまった。
この部屋の展示は、幼児連れの場合はパスしたほうが賢明かもしれない。大人には面白さを感じる余裕が有ると思う。
また、この被写体を撮るのならば、フルサイズのカメラで撮りたいと思った。残念ながら、撮りたくても持っていないのだが。

平成 百鬼夜行立体絵巻_1
平成 百鬼夜行立体絵巻_2
平成 百鬼夜行立体絵巻_3
平成 百鬼夜行立体絵巻_4
平成 百鬼夜行立体絵巻_5
平成 百鬼夜行立体絵巻_6
平成 百鬼夜行立体絵巻_7
以下の2点は、『草丘の間』のオリジナルの様子
平成 百鬼夜行立体絵巻_8
平成 百鬼夜行立体絵巻_9
部屋から百段階段へ戻ったあたりの様子
階段の様子_1
階段の様子_2

 

またもや日本民家園に行ってきた(10)

(14)太田家住宅(国重文)
分棟の雨樋は作田家でも見られたが、あちらは、移築時に当初のスタイルの復元したが、雨樋の資料が残っていなかったため、こちらの太田家住宅のものを模した。ということで、オリジナルはこちらのほうだ。
また、ここはロケット花火による火災が発生した。普通の家ならば全焼に近い燃え方だったが、うまく復元している。今でも、一部に痕跡が残る。
個人的には、国指定の重要文化財の扱いを返上しなけれないけないのではと思うのだが、そういう動きはないようだ。指定返上は、文化財所有者へのダメージが大きいのかなあ。

間取り
分棟型だけあって、ちょっと変則的な間取りになっている
https://www.youtube.com/watch?v=EkmwWVyVj_g
外観
外観_1
外観_2
家屋内部
大戸口付近
大戸の上に掛けてあるのは、慶応4年に明治政府が出した「五榜の掲示」の一枚
大戸口付近
第一札
   定
一 人タルモノ五倫ノ道ヲ正シクスヘキ事
一 鰥寡孤獨癈疾ノモノヲ憫ムヘキ事
一 人ヲ殺シ家ヲ焼キ財ヲ盗ム等ノ惡業アル間敷事
   慶應四年三月   太政官

この第三札には誠にけしからん文言があった。諸外国からの猛抗議を受けて、撤廃したそうだが、新政府のキリシタン禁教を受け継いだ。勿論、ここには掲示されていなかったが。
第三札
   定
一 切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ若不審ナル者有之ハ其筋之役所ヘ可申出御褒美可被下事
   慶應四年三月   太政官

ドマ
相当に広い。家屋の半分以上を占める。雑穀などを収穫した後の後処理などをここで行っていたようだ。
ドマ_1
雨樋は物々しいものだ。こんな風に二つの棟の境目に流れ落ちてくる水分を受ける位置に括りつけられていた。そして、広間との取り合いもかなり変型のものだ。
ドマ_3
竈はかなり傷んでいるなあ。どうしてこんなことになったのだろうか。
ドマ_4
火災の痕跡
平成2年7月29日、生田緑地内で打ち上げられた花火が屋根に落下し、主屋のヘヤを中心に焼損した。焼失してしまったものについては、新材でそれらしく見せているようだ。
火災の痕跡_1
こちらは何とも痛ましい限り。まだ、使えるとの判断で残したようだ。
火災の痕跡_1
これは高機(進化した機織り機)だそうだ
3J8A1083_R.jpg

YouTube『火災の教訓と重要文化財蘇生の歩み-旧太田家住宅』へjump

家の中に雨どいのある二つ屋根の家
この建物は二棟が軒を接して建つ、分棟型の民家です。大戸口を入ると広い空間がひろがっています。ドマの右手がウマヤ、左手が主屋です。主屋は日常生活の場であるヒロマ、寝室であるヘヤ、そして畳敷きのザシキに分かれます。ザシキは正式な部屋で、この部屋に客人が訪れる際には土庇が出入口となりました。
広い土間では、雑穀などの農作業も行われていました。
なおこの家には、突出する馬屋や囲炉裏の位置など、南部地方の曲屋と類似する点があります。江戸時代後期には茨城県や栃木県でも曲屋が作られており、この家はその影響を受けた分棟型といえます。

 

またもや日本民家園に行ってきた(9)

(13)広瀬家住宅(県重文)
実際にこの住宅を見たら、誰もが驚くことだろう。なぜなら、土座の住宅なのだから。確かに、床下をネズミが這いまわったり、隙間風が吹き込んだり、床が抜けたりすることはない。が、私がこの住宅に住みたいかと聞かれれば、即答で『否』である。
間取り
間取り
外観
異様に低い軒先
腰をかがめなければ、口のあたりに茅が当たってしまう。風の強い山の斜面にあったため、軒を極端に低くしてあるそうだ。そして、屋根のてっぺんは、イワヒバを植えた芝棟になっている。
異様に低い軒先_1
異様に低い軒先_2
裏側は普通の軒の高さだ
異様に低い軒先_3
異様に低い軒先_4
芝棟
ごちゃごちゃと大変なことに
芝棟_1
芝棟_2
イワヒバはこんな植物だ
芝棟_3
家屋内部
大戸口を入った辺り
上框などはない。この土座を目にしたら、誰もがびっくりするよね。
大戸口を入った辺り_1
大戸口を入った辺り_2
ドジ
案外広い。家屋の半分近くを占める。ここで、ちょっとした作業ができる感じだ。
ドジ_1
ドジ_2
イドコ
土座だ。初めて見た方は、誰しも言葉を失うと思う。これから登場する竹簀の床とどちらが楽だろうか?
イドコ_1
イドコ_2
イドコ_3
ザシキ・ナカナンド
座敷も土座のように見えたが、教育委員会のHPによれば、板敷きとのことだ。もっとよく見てきておくんだった。確かに奥には板敷きの箇所があるが、…。
ザシキ・ナカナンド

芝棟と土座のある甲州民家
甲府盆地の民家は切妻造の妻壁に柱を見せ、屋根中央を「突き上げ二階」とする形式が知られています。この家も移築前はそのような姿でしたが、調査の結果、当初は二階がなかったことがわかりました。屋根裏を養蚕に利用しはじめたことにより、突き上げ二階としたのです。
構造は、内部の四本の太い柱を中心にして組み立てられています。これは「四つ建」と呼ばれるもので、甲州の古式な手法です。屋根の頂上はイワヒバを植えた「芝棟」になっています。内部には土間と並んでイドコと呼ばれるムシロ敷の居間があります。床板を張らないこのような床を「土座」といい、ムシロの下は地面をつき固め、茅束が敷き詰められています。

 

« »

08 2016
SUN MON TUE WED THU FRI SAT
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
メッセージボードα
Information from AzTak

7月3日(月)夜-6日(木)朝は、弘前市に個人旅行中のため、私からのアクセスは遅れます。大変申し訳ありません。m(_ _)m

-- E N D --
.
.
プロフィール

AzTak

Author:AzTak
FC2ブログへようこそ!

定年後の時間たっぷりの輩です。写真撮影やプログラミングが趣味です。

当ブログは、リンクフリーです。

カテゴリ
フリーエリア
検索フォーム
QRコード
QR