散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

大さん橋などの様子(3)

『MSC リリカ』の出港
慌ただしかった出港前の様子
乗船手続きは何とか出港予定時間に間に合った
こんなに押した原因は何かといえば、時間を守らない大勢の客が居たからだ。あの国の人達の行状には本当に問題ありだ。17:00過ぎでもこんな具合。桟橋側に居るのだ。本来ならば、乗船手続きが完了して、ウェルカムドリンクを手にしている時間だろうが、それどころではない。
乗船手続きは何とか出港予定時間に間に合った_1
乗船手続きは何とか出港予定時間に間に合った_2
乗船手続きは何とか出港予定時間に間に合った_3
乗船手続きは何とか出港予定時間に間に合った_4
乗船手続きは何とか出港予定時間に間に合った_5
横浜市消防音楽隊による見送りの演奏
17:10にしびれを切らしたのか、バンドが演奏を開始する
横浜市消防音楽隊による見送りの演奏_1
横浜市消防音楽隊による見送りの演奏_2
横浜市消防音楽隊による見送りの演奏_3
パイロットはスタンバイ
鹿島丸はずっとスタンバイして待機。17:13になっているのだから当然だろう。漸く薄日が射してきた。蒸し暑く眩しい。
パイロットはスタンバイ
ロープは繋留されたまま
今か今かと取り外しの指示を待っているのだろう。既に17:15だ。
ロープは繋留されたまま_1
ロープは繋留されたまま_2
ロープは繋留されたまま_3
ロープは繋留されたまま_4
ロープは繋留されたまま_5
出港準備に入る
繋留ロープを外していく
漸く『ロープを外せ』の指示が入ったようだ。このとき、予定時刻に迫る17:21。1本ずつ徐々に外していく。
繋留ロープを外していく_1
繋留ロープを外していく_2
繋留ロープを外していく_3
繋留ロープを外していく_4
繋留ロープを外していく_5
繋留ロープを外していく_6
繋留ロープを外していく_7
後方の最後の1本が外される。この時17:26。
後方の最後の1本が外される
ロープの巻き上げが完了。この時17:27。
ロープの巻き上げが完了
出港
真横に推力を掛ける
休むまもなく、真横に推力を掛け、桟橋から離れていく。
真横に推力を掛ける_1
真横に推力を掛ける_2
真横に推力を掛ける_3
真横に推力を掛ける_4
真横に推力を掛ける_5
真横に推力を掛ける_6
まっすぐ後方に進む
まっすぐ後方に進む_1
まっすぐ後方に進む_2
方向転換をして、ベイブリッジ方向に進む
方向転換をして、ベイブリッジ方向に進む
鹿島丸がしっかりと安全を確認している
鹿島丸がしっかりと安全を確認している
船首が徐々にベイブリッジの方向に向いていく
船首が徐々にベイブリッジの方向に向いていく
消防艇による見送りの放水
カラー放水ではないのか。いちいちお金をかけてはいられないのだろう。
消防艇による見送りの放水_1
消防艇による見送りの放水_2
消防艇による見送りの放水_3
ベイブリッジをくぐる
ベイブリッジをくぐる_1
ベイブリッジをくぐる_2
ベイブリッジをくぐる_3
ベイブリッジをくぐる_4
ベイブリッジをくぐる_5
ベイブリッジをくぐる_6
無事にベイブリッジをくぐり抜けることができた。でも、かなりギリギリの余裕なしの状態だなあ。
この時、17:48だ。まっすぐ駅に向かえば、ラッシュアワーでも着席して帰ることができる。目論んでいた時間よりもかなり遅くなってしまった。

無事にベイブリッジをくぐり抜けることができた

 

大さん橋などの様子(2)

出港準備中の『MSC リリカ』
17:30に出港の予定。神戸港から入港し、この日別府に向け出港か。横浜港へは初入港なのか。 65,591トンもあるそうだ。ちなみのあのQE2が70,327トンあるそうだ。本当に大きい。大さん橋の陸地から見て右側に入港してきた『ぱしふぃっくびいなす』が中小型船に見えるほどだ。
『象の鼻』付近からのショット
大きさを比較対照するものがないのでよくわからないかもしれないが、辺りを圧するほどの大きさだ。
『象の鼻』付近からのショット_1
『象の鼻』付近からのショット_2
『象の鼻』付近からのショット_3
こういうのか雲霞のごとく小さく見えた
こういうのか雲霞のごとく小さく見えた
船首部分
これを撮るためには、大さん橋の上に出て、そこからぐんぐん陸地側に後退しないといけない。船首部分を陸地側に向けているが、どういうふうに出港するか想像がつくだろうか?
船首部分_1
船首部分_2
大さん橋付近はこんなふうに見えた
大さん橋付近_1
大さん橋付近_2
タラップ付近の様子
乗船手続きの真っ最中。このときの時刻は15:52だった。出港時刻からして、最終乗船手続き客達だと思っていた。
タラップ付近の様子_1
タラップ付近の様子_2
まだ、乗船手続きが終わる感じではない
暫く時間が経過して、16:05ころ。見た感じ中国人の大団体。時間には物凄くルーズな感じ。そして、高級クルーズ船に乗るに相応しい格好には思えない。スーツやドレスくらいは持参してきているのだろうか?もしかしたら、別府港までの1泊だけの乗船なのだろうか?
まだ、乗船手続きが終わる感じではない

『ぱしふぃっくびいなす』の入港
16:30に入港の予定。八戸港からきて、翌日夕方には宮古港に向け出港か。『花と緑の利尻島・礼文島クルーズ』なのか。梅雨のない北海道はこの時期は最高の行き先かもしれない。
かなり近づいてきていた
『ぱしふぃっくびいなす』は、15:53には早くも着桟寸前の所まで来ていた。『MSC リリカ』を直前まで見ていたこちらの目にはかなり小さな船体にみえて仕方がない。それでも、日本クルーズが嘗て所有していた『おりえんとびいなす』よりは若干大きいらしい。『おりえんとびいなす』の方で1週間ほどのクルーズを楽しんだ事があるが、なかなか良いサービス内容だった記憶がある。
かなり近づいてきていた_1
かなり近づいてきていた_2
実際に着桟まではまだ時間がかかりそう
焦って行ってみると、もう少し時間がかかりそうだ。徐々に岸壁に近づいていく。
実際に着桟まではまだ時間がかかりそう_1
実際に着桟まではまだ時間がかかりそう_2
反対側に目を転じると、『MSC リリカ』真ん中から後ろの部分が見えている。あちらはでかい。
実際に着桟まではまだ時間がかかりそう_3
実際に着桟まではまだ時間がかかりそう_4
更に近づく
繋留のためのロープが徐々に投げ込まれる。
更に近づく_1
更に近づく_2
更に近づく_3
船首の前方には、レストラン船の『ロイヤルウィング』が係留中
『ぱしふぃっくびいなす』はこの『ロイヤルウィング』が邪魔にならないくらいの大きさなんだ。
更に近づく_4
はるか昔の高級貨客船『氷川丸』
更に近づく_5
近づけながらロープを投げ込んでいく
更に近づいてきた
近づけながらロープを投げ込んでいく_1
どんどん繋留作業が進む
近づけながらロープを投げ込んでいく_2
近づけながらロープを投げ込んでいく_3
近づけながらロープを投げ込んでいく_4
ロープが全てピンと張られた
近づけながらロープを投げ込んでいく_5
下船準備中
着さんの様子を見ている乗客たち。まもなく始まった館内放送は全て日本語でなされていた。殆どの乗客が日本人なのだろう。16:00頃だった。
下船準備中_1
まもなく下船だろう
タラップもしっかり準備された。時刻は16:13頃。
下船準備中_2
一足先に荷物の搬出入が始まるようだ。
下船準備中_3
船尾側から見るとこんな感じ
船尾側から見るとこんな感じ

 

大さん橋などの様子(1)

初入港の豪華クルーズ船『MSCリリカ』と、さほど珍しくはないものの同様にクルーズ船である『ぱしふぃっくびいなす』とが同時に見学できるというので、6月20日(月)夕方に横浜港大さん橋に行ってみた。

行きがけの駄賃に横浜三塔をみる
横浜市開港記念会館(ジャックの塔)
急いで館の内外を撮りまくった。だいたいの見どころは撮れているだろうか。あまり知られていないかもしれないが、此処で岡倉天心が生まれた。三塔の内、この建物のみが国指定の重要文化財。(1917年竣工)
外観
本当に美しい建物だ。何度見てもそう思う。
横浜市開港記念会館_外観_1
横浜市開港記念会館_外観_2
横浜市開港記念会館_外観_3
横浜市開港記念会館_外観_4
横浜市開港記念会館_外観_5
横浜市開港記念会館_外観_6
横浜市開港記念会館_外観_7
館内1階の様子
床のタイルは、大きなパネルをはめたのではなく、小さなタイルを組み合わせてあの模様を作り出しているのだそうだ。修復工事を行った際に追加したとのこと。
横浜市開港記念会館_館内1階の様子_1
その横のスペースには、猪瀬踏花画伯の油彩画が飾られてあった。こんなのんびりしていた時代もあったのだ。
横浜市開港記念会館_館内1階の様子_2
横浜市開港記念会館_館内1階の様子_3
階段は2つあり、そのうちの交差点側。なかなかシックな感じだ。
横浜市開港記念会館_館内1階の様子_4
館内2階の様子
階段を上りきらない位置から見た様子。いい雰囲気。カップルがベンチでじっくり見たいと思うのも人情だろう。
横浜市開港記念会館_館内2階の様子_1
カップルが座っていたベンチからこれらのステンドグラスが見えたんだ。確かに、暫し、見入りたくなることだろう。
横浜市開港記念会館_館内2階の様子_2
横浜市開港記念会館_館内2階の様子_3
横浜市開港記念会館_館内2階の様子_4
ジャックの塔の象徴である一番高いところまで上がるには、この狭い階段を使用する。勿論、一般客は立ち入り禁止。立ち入り自由でも上る気はしないが。
横浜市開港記念会館_館内2階の様子_5
こんなものも展示されていた
横浜市開港記念会館_館内2階の様子_6
横浜市開港記念会館_館内2階の様子_7
通路はシックだ
横浜市開港記念会館_館内2階の様子_8
エレベータ設置工事の時にわざと残した部分だ。床スレスレの所の煉瓦が積んであるが、その一番下の辺りに黒い直線状のものが見える。碇聯鉄(帯鉄)で、これを中心にした煉瓦造建築の耐震工法の一つが採用されているそうで、名称は碇聯鉄構法という。
横浜市開港記念会館_館内2階の様子_9
もう一つのステンドグラス。いつ見ても見事だ。
横浜市開港記念会館_館内2階の様子_10
横浜市開港記念会館_館内2階の様子_11
横浜市開港記念会館_館内2階の様子_12
神奈川県庁(キングの塔)
五重塔をイメージさせるスタイルで、昭和初期に流行した帝冠様式のはしりといわれている。1928年(昭和3年)竣工で、国の登録有形文化財(建造物)。
神奈川県庁(キングの塔)
横浜税関(クイーンの塔)
イスラム寺院風のエキゾチックなドームが特徴。個人的には好きとは言いがたい建物。1934年(昭和9年)竣工、横浜市認定歴史的建造物。1932年(昭和7年)竣工の横浜市大倉山記念館も横浜市認定歴史的建造物止まりの扱いの根拠かな。
横浜税関(クイーンの塔)_1
横浜税関(クイーンの塔)_2
横浜税関(クイーンの塔)_3
横浜税関(クイーンの塔)_4
関東大震災前の遺構
道路を挟むが、神奈川県庁の右隣で横浜市開港記念会館の左隣の場所。有料駐車場になっているが、なんと関東大震災前の遺構が見つかったのだ。
関東大震災前の遺構_1
関東大震災前の遺構_2
関東大震災前の遺構_3

 

三浦市の野鳥さん(2)

カイツブリの親子(2)
もう少しだけ、カイツブリの親子を追ってみる。カルガモよりもかわいい感じだ。
早くこっちへおいで
カイツブリの親子(2)_1
カイツブリの親子(2)_2
ママ、おなか空いたよ
カイツブリの親子(2)_3
爺さんが見てるから、別のところへ行きましょう
カイツブリの親子(2)_4
カイツブリの親子(2)_5
カイツブリの親子(2)_6
カイツブリの親子(2)_7
カイツブリの親子(2)_8
カイツブリの親子(2)_9
カイツブリの親子(2)_10
カイツブリの親子(2)_11
あれま、またあの爺さんがいたわ
カイツブリの親子(2)_12
カイツブリの親子(2)_13
カイツブリの親子(2)_14
カイツブリの親子(2)_15
カイツブリの親子(2)_16
カイツブリの親子(2)_17
カイツブリの親子(2)_18
カイツブリの親子(2)_19
カイツブリの親子(2)_20
オオバン(大鷭)
たった1羽のみ。他の仲間はどうしたのだろう。単独行動でも焦る様子もなく、悠然と水草を啄んでいた。
確かにバンよりは少しだけ大型だが、地上で大きく感じるほどには大きくは見えない。多分異様に大きい脚部が隠れているからだと思う。
オオバン(大鷭)_1
オオバン(大鷭)_2
オオバン(大鷭)_3
オオバン(大鷭)_4
オオバン(大鷭)_5
オオバン(大鷭)_6
オオバン(大鷭)_7
オオバン(大鷭)_8
オオバン(大鷭)_9
オオバン(大鷭)_10
オオバン(大鷭)_11
オオバン(大鷭)_12
オオバン(大鷭)_13
オオバン(大鷭)_14
オオバン(大鷭)_15
鬱陶しい爺さんを威嚇しちゃおうかな…だったのかも。思惑通り、こちらはびっくりして、手ブレを起こしてしまった。なにせ、手ブレ防止機構なしの手持ち撮影だから。
オオバン(大鷭)_16
アメンボも
いくらでもいたなあ。カメラに撮れるなんて感激だ。
アメンボも_1
アメンボも_2

 

三浦市の野鳥さん(1)

三浦市の溜池(面積約 1.5ha)に野鳥さんを見に行ったが、時間帯などがよくなかったのか、懸念していた通りの惨敗に終わってしまった。それでも、カイツブリの親子と大鷭とがいて、かろうじて成果なしにはならずに済んだ。以下のセリフ部分は私が勝手に想像したもの。

カイツブリの親子(1)
カイツブリの親子が連れ立っている姿がとても微笑ましかった。雛も巣からでて、親鳥の背中の乗ることもなく、親鳥について水面をお散歩。時々親鳥を真似して水中に潜るが、モノの5秒も経たないうちに浮上してしまう。今のところは、真似事をしているだけのようだ。
水草との大きさの対比で如何に雛鳥が小さいかがわかる。トラ猫のような斑の模様が可愛らしい。
カイツブリの親子(1)_1
カイツブリの親子(1)_2
カイツブリの親子(1)_3
カイツブリの親子(1)_4
カイツブリの親子(1)_5
カイツブリの親子(1)_6
親鳥が水面に戻ってきた。待機していた場所とは少し離れたようだ。急いで親鳥に追いつこうとしている。
カイツブリの親子(1)_7
カイツブリの親子(1)_8
カイツブリの親子(1)_9
カイツブリの親子(1)_10
カイツブリの親子(1)_11
カイツブリの親子(1)_12
カイツブリの親子(1)_13
待ってよ~
カイツブリの親子(1)_14
カイツブリの親子(1)_15
要領の良い雛も
カイツブリの親子(1)_16
カイツブリの親子(1)_17
カイツブリの親子(1)_18
カイツブリの親子(1)_19
ママがいなくても、僕らだけだって平気だい。本当はちょっと怖いけど。
カイツブリの親子(1)_20
カイツブリの親子(1)_22
カイツブリの親子(1)_23
カイツブリの親子(1)_24

 

恵比寿西の庚申塔

恵比寿から代官山駅に向かって歩いていたら、ちょっと古そうな庚申塔を見つけた。渋谷区教育委員会の説明によれば、囲いの中にある4基の庚申塔は、江戸初期のもののようだ。ずいぶん長いこと、この地に残っていたものだ。廃仏毀釈の嵐にも耐えたようだ。
土一升金一升の土地だと思うが、此処の固定資産税は誰も納付していないのだろうなあ、と変な感想を持った次第。庚申信仰が世から忘れられて久しい。このまま、朽ち果てていくだけなのだろうか。

囲いの中の庚申塔
いずれも江戸初期の庚申塔。江戸幕府将軍は第4代の徳川家綱。将軍就任は慶安4年(1651年)で、第5代徳川綱吉の世になったのは、延宝8年(1680年)。ということなので、此処にある庚申塔は家綱の時代のものということになる。352年前から348年前までのものということになる。
囲いの中の庚申塔_1
囲いの中の庚申塔_2
寛文4年(1664年)の庚申塔
「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿だろう
寛文4年(1664年)の庚申塔
延宝2年(1674年)の庚申塔
青面金剛と「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿だろう。随分破損しているようで、修復跡が痛々しい感じだ。
延宝2年(1674年)の庚申塔
延宝4年(1676年)の庚申塔
青面金剛だろう
延宝4年(1676年)の庚申塔
寛文8年(1668年)の庚申塔
青面金剛と二鶏とは確認できたが、…
寛文8年(1668年)の庚申塔
その他のもの
囲いの近くの庚申塔
明治38年(1905年)の庚申塔だそうだ。廃仏毀釈の嵐が鎮まった頃なのだろうか。
明治38年(1905年)の庚申塔
馬頭観音
馬頭観音
説明書き
説明書き

 

観音崎へ向かう少し手前の辺り

『よこすか海岸通り』という道筋がある。走水や観音崎に差し掛かる直前からの眺望がまた素晴らしい。最初は破崎緑地(展望デッキ)前の『走水小学校』バス停で降りるつもりで来たのに、一つ手前の伊勢町バス停で降りてしまった。かなりしっかりした上り坂。慌てん坊ぶりを後悔しながらも途中の景観を楽しむ。
伊勢町バス停から『走水小学校』バス停にかけての眺望
猿島
まずは東京湾唯一の自然島『猿島』が目に入ってくる。ほぼ長方形の島だ。その長辺がちょうど原子力空母と同じ長さだと思い込んでいたが、地図で測ってみると400mほどあるようだ。この沖合を空母が通る時、一瞬見えなくなってしまうのかななどと想像するのだが、見たことはない。実際には位置関係で相当大きさが違って見えるようだ。実際には暫く隠れてしまう感じかもしれない。
こちらは日蓮上人が漂着し、暫く暮らしていた島でもある。

猿島_1
猿島_2
PDF画像を借用するとこんなふう。軍事要塞があるとは外からではまるでわからなかったことだろう。
猿島空撮画
伊勢町の船溜まり
この施設の正式名称は不明だが、なかなかに美しい。
伊勢町の船溜まり_1
伊勢町の船溜まり_2
伊勢町の船溜まり_3
馬堀海岸方面
非常に『よこすか海岸通り』が美しく、また、そこからの眺めも負けず劣らずクールなのだろう。もう少し先の『うみかぜ公園』辺りからは眺めたことがあるが、この景観は試したことがない。
馬堀海岸方面
その他
自動車運搬船
LYRA LEADER号という船舶のようだ。全長が200mほどのようだ。運搬するのは、日産車かなトヨタ車かな。
自動車運搬船
浚渫船かな?
浅瀬が多いから、挫傷しないように浚渫が不可欠なのだろう。
浚渫船かな?
破崎緑地(展望デッキ)からの展望
破崎緑地(展望デッキ)からの展望_1
破崎緑地(展望デッキ)からの展望_2
浚渫船の後方に見える建物は、米軍基地の建物のようだ
破崎緑地(展望デッキ)からの展望_3
破崎緑地(展望デッキ)からの展望_4
破崎緑地(展望デッキ)からの展望_5
破崎緑地(展望デッキ)からの展望_6
破崎緑地(展望デッキ)からの展望_7
破崎緑地(展望デッキ)からの展望_8
破崎緑地(展望デッキ)からの展望_9

伊勢町まで戻り、水道水源地を見る

水道水源地
実はここにも、フランソワ・レオンス・ヴェルニーの名前が登場する。その水源を発見し、水道設備を実現したのだ。横須賀製鉄所や観音埼灯台の建設だけではなかったのだ。
水道水源地_1
走水災害用集水井
水道水源地_2
こちらはなにかな?
水道水源地_3
水道水源地_4
水源地管理センター駐車場からの眺望
水道水源地_5
水道水源地_6
ヴェルニーの水を飲むことができる
水道水源地_7
水道水源地_8

 

大倉山公園(2)

横浜市大倉山記念館(2)
二階部分(案内には三階と表示がされている)
正面の部屋は使用中の札が掛かっていた。80人が入ることができるホールだそうだ。公共施設だけあって、使用料金は驚くほど低廉なようだ。その真下のギャラリーも同様に低廉な料金設定のようだ。
ホール
振り返ってみるとこんな感じ。階段を取り囲むように廊下がある。
振り返ってみるとこんな感じ
階段ホールの上部には、大きな明かり取りの吹き抜けが
大きな明かり取りの吹き抜けが_1
大きな明かり取りの吹き抜けが_2
大きな明かり取りの吹き抜けが_3
大きな明かり取りの吹き抜けが_4
二階(三階)の貸出用の部屋
二階(三階)の貸出用の部屋
廊下通路にも立派なベンチが
廊下通路にも立派なベンチが
もう一度外観を確認
正面
正面_1
正面_2
正面_3
正面_4
右側面
こちら側を財団法人大倉精神文化研究所が使用しているようだ
右側面
梅林に通じる道
梅林に通じる道
背面
どこから見ても隙のない立派な建物だ。おそらく後方に張り出している部分が、ホールだろう。そしてその下のさらに張り出している部分にギャラリーがあるのだろう。
背面
横浜市指定有形文化財に指定されている現在の建物は、1932年(昭和7年)4月9日、大倉精神文化研究所の本館として竣工された。設計者は長野宇平治で、旧北海道銀行や旧日本銀行広島支店など古典主義建築の第一人者として有名。建物は東西文化の融合を建築理念の中心に据え、クレタ・ミケーネ様式(プレヘレニック様式)を採用。ギリシャ神殿風の西洋的外観と東洋的な木組み内装である。建設は竹中工務店が担当し、竣工当時は真空式低圧蒸気暖房装置や水洗トイレ、給湯装置を完備した最新設備であった。総費用は約70万円、建物工事45万9356円18銭で、現在なら数十億円に相当する。

大倉山梅林
この梅林は、1931年(昭和6年)に、東京横浜電鉄が集客のための沿線開発の一環として、隣接する龍松院の地所を買収したものか。五島慶太氏が阪急の小林一三氏に教えを請うた一環だな。当初は「太尾公園」と名付けて梅林を整備。
1932年(昭和7年)に大倉邦彦が大倉精神文化研究所を開設したので、1934年(昭和9年)に「大倉山公園」と改称したのか。

大倉山梅林_1
大倉山梅林_2
大倉山梅林_3
大倉山梅林_4
大倉山梅林_5
大倉山梅林_6
大倉山梅林_7
東横線の大倉山駅も、当初は太尾町にある「太尾」駅だった。上記の通り、昭和の初期に徐々に大倉山という名称が浸透していき、地名も太尾から大倉山に変化していったようだ。
道筋には紫陽花が
道筋には紫陽花が_1
道筋には紫陽花が_2
道筋には紫陽花が_3
道筋には紫陽花が_4

 

大倉山公園(1)

学生の頃、一時入会していたテニスの同好会のコートに通うべく、大倉山駅を利用していた。その頃から、大倉山梅林と大倉精神文化研究所とのことは知っていた。というか、それ以前の高校生の頃から、なんとなく知っていた。梅林も見事だが、大倉精神文化研究所の建物が、実に素晴らしいと聞いていた。他の方のブログ記事でも何度か取り上げられている。が、私が実際に足を運んだのは今回が初めて。
記念館坂
記念館坂の表示があり、右に300mと書かれたモニュメントがある。まあ、見落とすことはないだろうが、かなりの急坂になる。
記念館坂_1
記念館坂_2
まさに大倉精神文化研究所に至る小山だ。足腰に不安がある身には少々きつい。
記念館坂_3
記念館坂_4
横浜市大倉山記念館(1)
元の大倉精神文化研究所の建物で、現在は横浜市所有の記念館となっている。未だに横浜市指定有形文化財にしかなっていないとは驚きだったが、国内ではなかなかお目にかかることができないレベルの素晴らしい洋館だと思う。
木立の間から少し建物が見えてきた
写生をするにはすごく適した場所のようだ。かなりの高台なので、爽やかな風が吹き抜ける。
木立の間から少し建物が見えてきた_1
木立の間から少し建物が見えてきた_2
木立の間から少し建物が見えてきた_3
鉄骨鉄筋コンクリート製の建物か。現在の鉄骨鉄筋コンクリート製の殆どの建物にはない、自然石をふんだんに使用した建物はとても重厚感がある。
木立の間から少し建物が見えてきた_4
一歩進んで建物を見る
西欧のちょっと古典的な建物と言っても通用しそうだ。わずか84年前に竣工した建物には見えない。堂々たる佇まいだ。
全景
一歩進んで建物を見る_1
一歩進んで建物を見る_2
建物の出入り口
建物の出入り口_1
建物の出入り口_2
一階部分(案内には二階と表示がされている)
外観も立派だが、建物内部は息を呑むような豪華さ。圧倒された。
立派な階段だ
立派な階段だ_1
立派な階段だ_2
階段の手すりも見事だ
階段の手すりも見事だ_1
階段の手すりも見事だ_2
自然石がふんだんに用いられている
自然石がふんだんに用いられている_1
自然石がふんだんに用いられている_2
一瞬、チャペルに迷い込んだかのような錯覚に囚われた
一瞬、チャペルに迷い込んだかのような_1
一瞬、チャペルに迷い込んだかのような_2
建物の隅にも立派なベンチが
建物の隅にも立派なベンチが
地下階(案内には一階と表示がされている)へ通じる階段
地下階へ通じる階段
館内案内板
館内案内板

 

「第45回JRAホースショー(馬事公苑馬術大会)」(14)

中障害Bの様子(8)
1位
出場43ペアの頂点に立ったのは、伊濱武史選手と可憐シャルロッテ号。その華麗な競技ぶりをとくとご覧いただこう。
伊濱武史選手と可憐シャルロッテ号、東武乗馬クラブ&クレイン、57”11,23
隙のない視線の送り方。強い選手であることがわかる。
1位_1
1位_2
1位_3
1位_4
1位_5
全く危ない感じがしなかった。しかも次の動作までアイドル・タイムがない。いいぞ!!
1位_6
1位_7
1位_8
1位_9
確実で素早い飛越。こうでなくちゃ。
1位_10
1位_11
1位_12
1位_13
1位_14
最後の障害群に入ってきても速度が緩まない。訓練の賜物なのだろう。
1位_15
1位_16
1位_17
1位_18
1位_19
1位_20
素晴らしい走りと飛越だ。惚れ惚れとしてしまう。
1位_21
1位_22
1位_23
1位_24
1位_25
1位_26
1位_27
1位_31
1位_32
1位_33
1位_34
1位_35

こんなに隙のない乗り方をされたら、他の選手が付け入る余地がなさそうだ。見事な騎乗ぶりだ。
以上で、『中障害Bの様子』は終了。この後、『中障害Aの様子』を取り上げるかは今のところ未定。

 

「第45回JRAホースショー(馬事公苑馬術大会)」(13)

長いこと中断していた馬術競技の記事。その間に、リオオリンピックの代表選手が決まったそうだ。興味がある方もおられることだろう。ということで、馬術競技の残り分をコンパクトにして取り上げる。
中障害Bの様子(7)
同着2位の内の佃ペア
前回は、同着2位の内の比較的若いと思われる山守ペアを取り上げた。今回取り上げるのは、大ベテランの佃ペアだ。味わいの違いがあるかもしれない。
佃日出彦選手とアビゲイル号、リバーサイドステープル浜北、60”57、36
同着2位の内の佃ペア_1
同着2位の内の佃ペア_2
同着2位の内の佃ペア_3
同着2位の内の佃ペア_4
同着2位の内の佃ペア_5
同着2位の内の佃ペア_6
同着2位の内の佃ペア_7
同着2位の内の佃ペア_8
同着2位の内の佃ペア_9
同着2位の内の佃ペア_10
同着2位の内の佃ペア_11
同着2位の内の佃ペア_12
同着2位の内の佃ペア_13
同着2位の内の佃ペア_14
同着2位の内の佃ペア_15
同着2位の内の佃ペア_16
同着2位の内の佃ペア_17
同着2位の内の佃ペア_18
同着2位の内の佃ペア_19
過去の記事をみると、2006年のJRAホースショー大障害優勝は佃日出彦選手とナチュラルファイン号とある。長年、障害馬術競技の第一人者なんだ。また、『リバーサイドステーブル浜北』の代表者だそうだ。
同着2位の内の佃ペア_20
同着2位の内の佃ペア_21
同着2位の内の佃ペア_22
同着2位の内の佃ペア_23
同着2位の内の佃ペア_24
同着2位の内の佃ペア_25
同着2位の内の佃ペア_26
同着2位の内の佃ペア_27
同着2位の内の佃ペア_28
同着2位の内の佃ペア_29
同着2位の内の佃ペア_30
同着2位の内の佃ペア_31
同着2位の内の佃ペア_32
同着2位の内の佃ペア_33
同着2位の内の佃ペア_34

全く話が変わるが、歌手の華原朋美選手が5月5日に行われた『トップスコア競技』という面白い競技に参加した。彼女は、北総乗馬クラブの所属選手としてキャリーズサン号に騎乗した。24人出場中の12位だった。見事なものだ。見たかったなあ。

障害馬術 リオ・オリンピック代表候補決定
リオ・オリンピック障害馬術代表選考について、4月から5月に出場した当連盟指定大会の成績および走行内容、また、5月31日にドイツ・ハーゲンで実施した選考合宿における人馬のフィットネスチェックをもとに、代表4人馬および補欠1人馬を選考、理事会の承認を得て、当該選手を障害馬術の日本代表としてJOCに推薦することを決定しました。
【代表候補】(50音順)
杉谷泰造&アヴェンツィオ(杉谷乗馬クラブ)
武田麗子&バルドリーノ
福島大輔&コーネット36(STAR HORSES)
桝井俊樹&タルーベダルコKZ(乗馬クラブクレイン)
【補欠】
齋藤功貴&キャピロット(北総乗馬クラブ)


 

観音崎にて(2)

神奈川県立観音崎公園
ボードウォークから観音崎公園へ向かう
最初は小さく見えていただけ。当然ながら、観音埼灯台も見えていない。
ボードウォークから観音崎公園へ向かう_1
斜面には山紫陽花が自生している
ボードウォークから観音崎公園へ向かう_2
その昔、何に使用したものだろうか?気になっているが、疑問解消には至っていない。
ボードウォークから観音崎公園へ向かう_3
だんだん近づいてきた。
ボードウォークから観音崎公園へ向かう_4
ボードウォークから観音崎公園へ向かう_5
ボードウォークから観音崎公園へ向かう_6
ボードウォークから観音崎公園へ向かう_7
ボードウォークから観音崎公園へ向かう_8
京急ホテルはあんなふうに見える
ボードウォークから観音崎公園へ向かう_9
観音崎公園にて
航行する船舶
昼下がりなので絶対数が少ないのか、大型船の航行はなかった。この程度でも最大級だった。つまらないなあ。それにしてもコンテナをあんなに積み上げて大丈夫なのだろうか?
観音崎公園にて_1
観音崎公園にて_2
この狭い海域でも釣り船は頑張っている。多分絶好の釣り場なのだろう。
観音崎公園にて_3
観音崎公園にて_4
ああいうのははた迷惑なことだろう
観音崎公園にて_5

ちょっと、灯台が見える辺りまで歩くことにする

途中の道筋
石畳なのだ
観音崎公園にて_6
観音崎公園にて_7
こんなものがあった
観音崎公園にて_8
観音崎公園にて_9
観音崎公園にて_10
ヤマアジサイが所狭しと咲いている
観音崎公園にて_11
行基菩薩所縁の洞窟
観音崎公園にて_12
観音崎公園にて_13
観音埼灯台
やっと灯台が見えてきた。3代目ではあるが、初代は日本最古の洋式灯台か。
観音崎公園にて_14
観音崎公園にて_15
観音崎公園にて_16
観音崎公園にて_17
観音埼灯台は、日本の灯台。日本最古の洋式灯台として神奈川県横須賀市、三浦半島東端の観音崎に立っている。白色八角形の中型灯台で、日本の灯台50選に選ばれている。東京湾、浦賀水道を照らし、東京湾海上交通センターとあわせ海上交通が輻輳する浦賀水道航路の安全に寄与している。また日本初の洋式灯台であり、この灯台の着工日を記念して11月1日が灯台記念日に指定された。初代の設計はレオンス・ヴェルニー等が担当したが、大正時代の地震により2度再建され、現在の灯台は3代目にあたる。周辺は県立観音崎公園となっており、自然環境が保護されている。
観音寺跡
此処に観音寺があったから、観音崎と呼ばれるようになったのか。
観音崎公園にて_18
観音崎公園にて_19
西脇順三郎の詩碑
ルナンという学者のことは知らないなあ。詩の内容を考えていたら、完全に足が止まってしまった。
観音崎公園にて_20

今回はこれにておしまい。次回行く時には、走水なども見て回りたい。

 

観音崎にて(1)

京急馬堀海岸駅から京急バスで観音崎に向かう。途中から素晴らしい景観が広がる。つい途中下車したくなる感じだ。それをぐっと我慢。岬めぐりのバスの終点一つ手前で下車した。地名は『観音崎』と表記し、灯台名は『観音埼』と表記するようだ。
横須賀美術館
この美術館の売りはこのテラス席からの景観の良さだ
横須賀美術館_1
満席になるとthe End。なかなか順番が回ってこないのではなかろうか。
横須賀美術館_2
こちらは別館の谷内六郎館。ある程度以上の年代の方は、画伯が週刊新潮の表紙絵の画家だったことと、その独特の作風をご存知のことだろう。
横須賀美術館_3
海との位置関係がお分かりいただけるだろうか。大抵の日は、千葉県側が見えるのだ。
横須賀美術館_4
横須賀美術館_5
観音崎京急ホテル
海を眺めながらのんびりと食事をいただくというのは、さぞかし気分がいいんだろうなあ。
観音崎京急ホテル_1
観音崎京急ホテル_2
横須賀美術館よりも海に近いというか、海までたったの2mほどだ。
観音崎京急ホテル_3
ボードウォークからの眺め
想像がつくだろうが、釣り船天国だ
ボードウォークからの眺め_1
ボードウォークは、素足で歩いても非常に気持ちが良い。このベンチに腰掛けて小一時間ほどまったりと過ごした。
ボードウォークからの眺め_2
ボードウォークからの眺め_3
波が殆ど立たないから、シーカヤックには最適なんだろう
ボードウォークからの眺め_4
ボードウォークからの眺め_5
千葉方面
千葉までは確かに近い。私の父も遠泳で3回横断している。
千葉方面_1
千葉方面_2
旗山崎方面
日本武尊が登場する歴史上の土地。なぜ、あちら側へ舟で渡ろうとしたのかは私にはわからない。おそらくあちら側が見える距離だからだろう。後年、日蓮が反対側のコースを取ろうとして遭難した話も有名だ。
旗山崎方面_1
旗山崎方面_2
旗山崎方面_3
地元に伝わる伝説によれば、日本武尊が上総に渡る時に海が荒れていて進むことができなかったのでこの場所に臨時の御所を設けたことから、「御所ヶ崎」と呼ばれるようになりました。御所の背後の山に軍旗を立てたことから「旗山崎」とも呼ばれるようになりました。
古事記や日本書紀によると、日本武尊が東国征伐の際、走水から上総(現在の千葉県)へ船で渡ろうとした時、海が荒れて進めなくなってしまいました。そこで弟橘媛命は海神の怒りを鎮めるために、身を投じて荒れ狂う海を鎮めました。

LNGタンカー
PUTERI NILAM SATUという船名が見えた。LNG船の形状も技術の進歩で初期の頃のものとはかなり違ってきているようだ。調べてみると、マレーシアのサラワク州ビンツルのLNG基地から日本等アジア諸国へLNGを輸出するマレーシアLNG第3(ティガ)プロジェクト用に、マレーシア・インターナショナル・シッピング社が6隻建造したプテリ・インタン・サツ級の3番船とのこと。2003年9月19日、三菱重工業長崎造船所で竣工。プテリ・インタン・サツ級のLNG船は、日本で建造されたLNG船では初めてガストランスポート・メンブレン方式のLNGタンクを採用しているそうだ。
LNGタンカー_1
LNGタンカー_2
近くに来ると、400ミリの単焦点レンズでははみ出してしまう。ずっと先に行くまでその状態だった。狭い海域を航行しているのがお分かりいただけるだろうか。
LNGタンカー_3
LNGタンカー_4
LNGタンカー_5
LNGタンカー_6
第一海堡かな
東京湾の防衛ラインとして、観音崎~猿島~富津岬の海岸や島に砲台を建設する案があったが、当時の火砲の射程からそれでは不十分ということなり、富津岬~横須賀間の海中に3基の海堡(海上砲台)を約2.5km間隔で建造することになった。
第一海堡は富津岬の先端から1kmほどのところに築かれ、岬の中ほどにある元洲砲台からは約3kmの位置になるそうだ。 なお、第2海堡も存在するが、第3海堡に関しては、航行の障害になるということで撤去されている。

第一海堡かな
着工は1881年(明治14年)、そして1890年(明治23年)竣工ということで工期は9年ということになります。このあたりの水深は比較的浅く、約5mほどの海中に捨石を入れて埋め立てました。日清戦争(明治27年)や日露戦争(明治37年)のときには榴弾砲14門などが装備されています。その後の関東大震災(大正12年)では第二、第三海堡が大破したのに比べて第一海堡の被害は少なく、太平洋戦争では海軍の高射砲陣地が置かれていました。
東京湾海上交通センター
観音埼灯台と誤認する人が少なくない。観音埼灯台は観音崎公園をかなり進んでいかないと見えてこない。こちらは、空港の管制塔の海バージョンと考えればよいだろう。
東京湾海上交通センター_1
東京湾海上交通センター_3
浦賀水道航路及び中ノ瀬航路へ入航する巨大船等から入航前に航路入航予定日時、その変更があればその変更日時等の通報(航路通報)を受理し、航路入航時刻の決定及びその指示を行います。
また、東京湾に設置されている4つのレーダ(観音埼、本牧、海ほたる、浦安局)及び各々の船舶からの位置の通報(位置通報)により航路内の船舶の動静を把握し、航法是正及び船舶衝突等の危険が予想される場合の注意喚起、視界不良時における航行制限など航路航行中の船舶に対して航行安全のための適切な指示、助言を行っています。

 

山王祭のメイン『神幸祭』(3)

赤坂日枝神社に参拝せずに帰る訳にはいかないだろう。ということで、都心の一等地をぶらぶら歩きしながら、行くことにした。改めて、凄い一画なんだと思った次第。

国立劇場から周辺をぶらぶらしながら赤坂日枝神社へ
右を向いても左を向いてもすごい建物ばかり。東京の田舎っぺたる私は、気後れするばかりだ。
最高裁判所
ご存じの方も多いだろうが、最高裁判所は国立劇場の隣にある。裁判所といえば、レンガ造りのシックな建物を思い浮かべられるかもしれないが、最高裁判所は重厚な石造りの外観だ。石のパネルなどというケチなものではない。大きな石を積み重ねてある。
最高裁判所_1
最高裁判所_2
国会議事堂
当然だろうが、厳重な警備体制が敷かれている。『此処はどこ?』状態に陥っている私。行き先を尋ねるのには好都合だった。
国会議事堂_1
国会議事堂_2
国会議事堂_3
自民党本部
何か政界絡みの事件があるたびに、与党の対応がどうなるのかということで大写しになる建物。このときは、都知事の公私混同問題で、辞職に持っていけるか器量を問われていたはずだ。右からも左からも攻撃対象とされやすい建物だろう。警備の警官が一番、ピリピリしている感じだった。
自民党本部
日比谷高校
我々の学年では、東大進学率日本一の公立高校だった。ただし、18歳の春は日本全国誰一人にも桜が咲くことはなかった。東大の入試がなかった年なのだ。
日比谷高校

赤坂日枝神社
今年は申年なので、其れでなくても参拝客が多いようだ。なぜなら、古来より日吉といえば猿といわれ、いつの頃からか魔除けの象徴として大切に扱われるようになっているからだ。「まさる」は「魔が去る」「勝る」に通じ、大変縁起のよいお猿さんなのだそうだ。
ここから赤坂日枝神社
ここから赤坂日枝神社
表参道(山王男坂)
鳥居の形状は『山王鳥居』と呼ばれる独特のもの。男坂はきつかった。見栄をはらずにエスカレータのある方に回るべきだった。
表参道(山王男坂)
神門
神門_1
神門_2
社殿と祈願所
社殿と祈願所_1
社殿と祈願所_2
神門にある神猿像
ペアが聖域を守護する。左側が夫猿で、右側が妻猿と子猿のようだ。この他に、社殿の両脇にも神猿像がある。こちらは、屋外にあるので、撫でることができるようだ。年初の頃は相当な列ができたようだが、…。
神門にある神猿像_1
神門にある神猿像_2
神門にある神猿像_3
山車庫
山車庫

全国3,800社の分霊社と神猿
全国には「日吉神社」「日枝神社」また「山王神社」とよばれる日吉大社の神様の御霊(みたま)をお分けした「分霊社」が約3,800社ございます。それらは方除の神様として、武士がお城や屋敷を建てるにあたり分霊されました。また「山王」とは日吉の神様の別名で、天台宗・比叡山延暦寺の守護神としての性格を意味します。それを「山王信仰」といい、天台宗のお寺の広がりと共に日吉の神様がまつられました。こうして全国に分霊社が増えるに伴い、「日吉さんといえばお猿さん」といわれるほど、魔除けの神猿さんも広く知れ渡りました。

私が高校・大学の5年間通った港北区日吉も、多少は縁があった土地らしい。「日吉村」の名称は明治22年の7村合併の時に、現在の横浜市港北区日吉本町(旧駒林)にある金蔵寺の裏にあった日吉権現にちなんで名づけられたといわれているそうだ。他に有力な命名候補がなかった田舎の土地だったのではなかろうか。
 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
山王鳥居の特徴は明神鳥居の上部に三角形の破風(屋根)が乗った形をしていて、仏教の胎臓界・金剛界と神道の合一を表しているとされます。山王信仰の象徴であるため、山王鳥居と呼ばれています。 山王信仰とは、最澄が比叡山に天台宗を開いた折、唐の天台山の守護神「山王元弼真君(さんのうげんひつしんくん)」にちなみ、既に比叡山の守護神としてご鎮座されていた日吉大神を「山王権現」と称する、神仏習合の信仰です。 独特の鳥居である事から、分霊社の中にはこの鳥居を模して建立する例も少なくありません。 (例)東京赤坂鎮座 日枝神社など

 

山王祭のメイン『神幸祭』(2)

当日は、皇居坂下門前で列を止め、祝詞と巫女による剣の舞を奉奏する駐輦(ちゅうれん)祭を行い、宮司以下神社役員が皇居に参内し神符を献上する。それと同様のことを元山王である国立劇場においても行ったようだ。
御着輦中
一時、行列に参加した人たちは、休息を取り、小用を足したりしていたのだと思う。その間に、山車や御鳳輦などを撮って回った。
御着輦中_1
御着輦中_2
御着輦中_3
御着輦中_4
御着輦中_5
御着輦中_6
御着輦中_7
御着輦中_8
御着輦中_9
御着輦中_10
駐輦(ちゅうれん)祭かな?
祝詞と巫女による剣の舞を奉奏するもののようだ。山車や御鳳輦などの撮影に夢中になり、出遅れた。人垣でよく見えなかった。
駐輦(ちゅうれん)祭かな?_1
駐輦(ちゅうれん)祭かな?_2
駐輦(ちゅうれん)祭かな?_3
駐輦(ちゅうれん)祭かな?_4
駐輦(ちゅうれん)祭かな?_5
御発輦
駐輦祭が行われ、一行の休憩をもとったのち、一行は皇居に向かって出発していった。
御発輦_1
御発輦_2
御発輦_3
御発輦_4
御発輦_5
御発輦_6
御発輦_7
御発輦_8
御発輦_9
御発輦_10
御発輦_11
御発輦_12

「月百姿 神事残月」
PDF画像を借用。その当時から今に至るまで、諌鼓鶏の吹貫の山車はずっと登場しているんだ。
「月百姿 神事残月」
江戸時代の山王祭の様子を描いたもの。明治19年(1886年)、月岡芳年筆。画面奥に見える土手は江戸城で、山車練り物とそれに続く神輿3基の行列が城内に繰り込むところ。画面手前左に描かれる山車は十番・加茂能人形の山車で、右奥にあるのが一番・諌鼓鶏の吹貫の山車である。画面からは見えないが、当時の山車はいずれも牛が曳いた。なお加茂能人形の山車は関東大震災で焼失したが、昭和30年(1955年)に復元製作され、現在は神田祭において神田明神境内に飾られている。

 

山王祭のメイン『神幸祭』(1)

その昔、日本三大祭の一つと数えられた山王祭。そのメインである『神幸祭』を見に行った。その行列を国立劇場で待つことにした。もともとは、此処に赤坂日枝神社があったそうだ。ということで、『元山王』と称されることもあるようだ。此処に立ち寄り、休憩を取る間に、神事をも執り行ったようだ。
最近、EOS 7D mark iiを買い増した。今回の撮影は、そのテストをも兼ねて行った。

行列が登場するまで
予定より30分ほど遅延。待っている間手持ち無沙汰だったので、周辺を撮影してみた。
半蔵門かな?
行列が登場するまで_1
第二代将軍徳川秀忠が行った江戸城大改造の際、城内紅葉山から新たに社地を江戸城外に定め、社殿を新築して遷祀した先がここ。江戸場外に移したと言っても、半蔵門の直ぐ近く。世に『元山王』と称する地は今の隼町国立劇場附近だそうだ。
行列が登場するまで_2
行列が登場するまで_3
行列が登場するまで_4
元山王(国立劇場)に入ってくる様子
非常に残念なのだが、神輿や山車などはキャスターがつけられた台車に載せられていて、其れを目立たないように布で覆っていた。動きが軽快すぎて、神輿や山車などに必要不可欠な重厚感がまるで感じられない。行列の様子は長いので、大幅に省略して取り上げる。
『諌鼓鳥』というようだ。『閑古鳥』ではない『かんこどり』が存在するとは、恥ずかしながら全く知らなかった。これは、江戸時代から一貫して使われているようだ。
中国の伝説上の聖天子堯、舜、禹が、その施政について諌言しようとする人民に打ち鳴らさせるために、朝廷の門外に太鼓を設けました。これを諌鼓(かんこ)と呼びます。しかし、善政を行ったので太鼓は鳴ることもなく永年の間に苔むし、鶏の格好の遊び場となっていたといいます。つまり諌鼓に鶏が止まっているのは善政が行われて世の中がうまく治まっているということで、まさに「天下泰平の象徴」であると言われています。
元山王(国立劇場)に入ってくる様子_1
元山王(国立劇場)に入ってくる様子_2
御神馬
元山王(国立劇場)に入ってくる様子_26
元山王(国立劇場)に入ってくる様子_3
元山王(国立劇場)に入ってくる様子_4
元山王(国立劇場)に入ってくる様子_5
元山王(国立劇場)に入ってくる様子_6
舞姫と童女
元山王(国立劇場)に入ってくる様子_7
元山王(国立劇場)に入ってくる様子_8
御鳳輦(ごほうれん)
元山王(国立劇場)に入ってくる様子_9
元山王(国立劇場)に入ってくる様子_10
元山王(国立劇場)に入ってくる様子_11
元山王(国立劇場)に入ってくる様子_12
元山王(国立劇場)に入ってくる様子_13
元山王(国立劇場)に入ってくる様子_14
宮神輿
元山王(国立劇場)に入ってくる様子_15
宮司
元山王(国立劇場)に入ってくる様子_27
元山王(国立劇場)に入ってくる様子_16
元山王(国立劇場)に入ってくる様子_17
花山車
元山王(国立劇場)に入ってくる様子_18
元山王(国立劇場)に入ってくる様子_19
干支山車
元山王(国立劇場)に入ってくる様子_20
山車『随神の像』という札が掲げられていたが、HPでは『美少年山車』と紹介されていた。
元山王(国立劇場)に入ってくる様子_21
元山王(国立劇場)に入ってくる様子_22
御幣を担ぐ猿の山車
元山王(国立劇場)に入ってくる様子_23
元山王(国立劇場)に入ってくる様子_24
元山王(国立劇場)に入ってくる様子_25

 

五色沼~喜多方~いわき(12)

地元にて
旧磐城市がわが故郷。江名地区は、海で生計を立てている人が多かった街。それまでの漁業不振に加え、5年前の津波で大きな被害を受け、再起不能に近いダメージを受けた。いち早く復興の拠点として重点的に工事が勧められた小名浜地区とは、天と地ほどの違いがある。
アッシー君の家があった辺り
見るも無残に津波にやられてしまったようだ。まだ、防波堤の工事などが継続中だった。恐るべき高さ。海はまったく見えなくなるようだ。この辺りの糞ガキどもが、沖合まで泳いでいって鮑などを獲ってきていたようだが、そんなことは夢のまた夢になることだろう。
奥のほうがぼやけて見えるかと思う。カメラやレンズが良くないのではなく、霧が立ち込めていただけだ。この辺りではごく普通のコトなのだ。
アッシー君の家があった辺り_1
アッシー君の家があった辺り_2
アッシー君の家があった辺り_3
アッシー君の家があった辺り_4
私と違って彼の多くの知りあいが亡くなったはずだ。複雑な気持ちに苛まれたことだろう。
アッシー君の家があった辺り_5
アッシー君の家があった辺り_6
アッシー君の家があった辺り_7
アッシー君の家があった辺り_8
アッシー君の家があった辺り_9

こちら小名浜地区は、いち早く工事がなされたようだ。別世界のような感じだ。

三崎公園
こちらは、実に居心地が良さそうだ。芝生に寝転がったら、小一時間ほど寝てしまいそう。
三崎公園_1
三崎公園_2
三崎公園_32
小名浜港
イオンモール建設の工事も始まったようだ。大丈夫なのかなあ。
江名地区と同様に小名浜港の魚市場も全壊してしまったのに、いち早く再建された。かたや、再建されないまま放置されている。この違いはなんだろう。う~~ん。
小名浜港_1
小名浜港_2
小名浜港_3
場違いな感じが否めないが、当日は何かモータースポーツのイベントが有ったようだ。其れを目当てに近隣の市町村から、愛車自慢の人たちが押しかけたようだ。
小名浜港_4
小名浜港_5
小名浜港_6
小名浜港_7
小名浜港_8
小名浜港_9
小名浜港_10
小名浜港_11
小名浜港_12
小名浜港_13
小名浜港_14

以上で、『五色沼~喜多方~いわき』のシリーズは終了です。最後までご覧頂きありがとうございました。

 

五色沼~喜多方~いわき(11)

阿弥陀堂周辺は常磐炭田の中心地であった。徳尼も聞いてびっくりのことだと思う。せっかくだから、炭砿発見の場所を見ていくことにした。

みろく沢炭砿資料館
渡邊為雄氏による個人博物館だそうだ。長年に亘り、炭鉱関係用具・資料を収集し展示している。平成19年には露頭している石炭を掘削したとのことで、実際の石炭層が見学できる。物珍しい物がたくさんあった。無料で見学できる。興味のある方は、足を運ばれてみるのも一興かと思う。
みろく沢炭砿資料館_1
みろく沢炭砿資料館_2
みろく沢炭砿資料館_3
みろく沢炭砿資料館_4
みろく沢炭砿資料館_5
みろく沢炭砿資料館_6
みろく沢炭砿資料館_7
石炭の層が薄い。地下に入れば、もっと効率のよい層があるのだろうが。
みろく沢炭砿資料館_8
みろく沢炭砿資料館_9
みろく沢炭砿資料館_10
みろく沢炭砿資料館_11
みろく沢炭砿資料館_12
みろく沢炭砿資料館_13
みろく沢炭砿資料館_14
みろく沢炭砿資料館_15
みろく沢炭砿資料館_16
昭和34年頃の写真。まだ、存命の方はどのくらい居るだろうか。
みろく沢炭砿資料館_17
昭和16年頃の写真。すごい格好で仕事をしていたんだ。存命の方は殆どいらっしゃらないと思う。
みろく沢炭砿資料館_18
みろく沢炭砿資料館_19
みろく沢炭砿資料館_20
もらった石炭
残念だけど、常磐炭砿の石炭は高品位の石炭とはいえないようだ。
もらった石炭

石炭(スミ)の道
少し歩いてみたかったが、足腰の不調で断念した。
石炭(スミ)の道_1
石炭(スミ)の道_2
石炭(スミ)の道_3
石炭(スミ)の道_4
石炭(スミ)の道_5
石炭(スミ)の道_6
炭鉱時代、石炭を運ぶために使われていた山道で、運搬時の休憩場所には説明写真が整備されている。また、途中には磐城三十三観音第四札所・つるし観音や常磐炭鉱開発に大きく貢献した片寄平蔵と石炭発見の碑、みろく沢炭鉱資料館など炭鉱の歴史に触れながら歩くことができる。現在は、国宝白水阿弥陀堂と常磐炭田発祥の地「みろく沢」を結ぶ遊歩道となっている。

常磐炭田発見の地
驚くほど素っ気無い表示があるのみ。草ぼうぼうで、石炭層が露出しているのかも確認できなかった。
幕末の商人片寄平蔵は、江戸滞在中に、黒船をみて石炭で稼働することを知る。その未知のエネルギー源である石炭発見に取り憑かれて、郷里の郷里の山々、付近の川を歩きまわって、石炭を探しまわったそうだ。
そして、安政2年(1855年)、陸奥国湯長谷藩領白水村弥勒沢(現在の福島県いわき市内郷白水町)で石炭の露頭を発見。わずか161年前の事だった。いわき出身のまれに見る逸材だったが、彼の成功を嫉む攘夷派の浪士によって勿来付近で刺殺されてしまった。万延元年8月3日、享年48歳だったそうだ。
湯長谷藩は磐城平藩の支藩で『超高速!参勤交代』で描かれた藩だ。

常磐炭田発見の地
加納作平翁の碑
石炭を発見した片寄平蔵の後を引き継ぎ、炭鉱業に貢献した加納作平翁の碑。片寄平蔵翁の碑は、見つけられなかった。
加納作平翁の碑_1
加納作平翁の碑_2

 

五色沼~喜多方~いわき(10)

専称寺
いわき市内に建築物の国宝として白水の阿弥陀堂があり、重要文化財として前回取り上げた飯野八幡宮の建物群がある。その他に、専称寺の建物も本堂・庫裏・総門が国指定の重要文化財になっている。
これを見てみたいと考えた。が、残念ながら、これらは、あの東北大震災で大きく破損してしまい、5年経過した今も、修復工事中だった。


専称寺のHPへjump

仕方なく、国宝の白水阿弥陀堂と、その近所にある常磐炭田発見の地を見ることにした。

国宝の白水阿弥陀堂
福島県で唯一の国宝指定建築物。平安時代末期の1160年(永暦元年)に、岩城則道の妻・徳姫(奥州藤原氏初代当主藤原清衡の娘)によって建立された。徳姫は、夫・則道の菩提を弔うために寺を建てて「願成寺」と名付け、その一角に阿弥陀堂を建立した。
堂内は撮影禁止なので、外観写真のみを取り上げる。

国宝の白水阿弥陀堂_1
背後の山々は、山桜や紅葉の時期は非常に美しい。創建当初は浮世のことを忘れる幽玄の地だったのだろう。
国宝の白水阿弥陀堂_2
国宝の白水阿弥陀堂_3
国宝の白水阿弥陀堂_4
国宝の白水阿弥陀堂_5
国宝の白水阿弥陀堂_6
国宝の白水阿弥陀堂_7
国宝の白水阿弥陀堂_8
国宝の白水阿弥陀堂_9
のんびり昼寝中。池にいくらでも食料があるのか、慌てる様子がない。
国宝の白水阿弥陀堂_10
正面から見た阿弥陀堂。阿弥陀堂はどれも似たような佇まいだと思うが、こちらの阿弥陀堂も立派なものだ。堂内にある木造阿弥陀堂如来及両脇侍像、木造持国天・多聞天立像は重要文化財の指定を受けている。また、浄土庭園は国の史跡指定を受けている。
国宝の白水阿弥陀堂_11
国宝の白水阿弥陀堂_12
国宝の白水阿弥陀堂_13
国宝の白水阿弥陀堂_14
国宝の白水阿弥陀堂_15
国宝の白水阿弥陀堂_16
国宝の白水阿弥陀堂_17
国宝の白水阿弥陀堂_18
国宝の白水阿弥陀堂_19
国宝の白水阿弥陀堂_20
のんびり昼寝中なんだから、邪魔しないでよ。そう言いたげだった。
国宝の白水阿弥陀堂_21
国宝の白水阿弥陀堂_22
国宝の白水阿弥陀堂_23
カワウが常駐するくらい魚がいるのかな。釣りは禁止だろうから、そこそこの数がいるのだろう。
国宝の白水阿弥陀堂_24

願成寺は、藤原秀衡の妹徳尼が夫である磐城(福島県および宮城県の一部)の豪族岩城則通の冥福を祈って永暦元年(一一六〇)に建てた無量寺院に始まると伝える(磐城史料)。
寺地は背後の経塚山からのびる東西の屋根によって三方を囲まれ、南方に白水川を望む。阿弥陀堂の前方と左右を大きな苑池が囲い、池の中央北岸寄りに配した大中島の南北に橋をかけわたした浄土式庭園をもつ。阿弥陀堂は一間四面堂で、正面三間と両側面前瑞間および背面中央間を扉口、その他の柱間を板壁にして、阿弥陀堂の最も標準的なc平面形式をもつ。柱上の組物は出組で、勾配がゆるく、先端の反り上がりの少ない深い軒を支える。内部は四天柱内の後ろ寄りに高欄付黒漆塗須弥壇を構え、本尊阿弥陀三尊像、持国天、多聞天像を安置する。堂内前面に折上小組格天井を張るが、庇部分の天井は中世に加えたもので、もとは化粧屋根裏である。
内陣の長押、来迎壁、小壁、天井には仏画・繧繧彩色を施す。四天柱には鋲・花菱風飾金具を帯状に打ち並べ、上下五段に区分して仏画を描き、下端部にはいまはないが蓮花座をつけていたらしい。また、内陣長押角に木製漆箔の飾板を打ちつけるなど装飾性に富み、金色堂を模してこの阿弥陀堂を造営したと伝えるだけあって、安置仏ともに両堂の類似点は多く、平安時代後期に隆盛した浄土美術を代表する作品である。

 

五色沼~喜多方~いわき(9)

日没前に漸く宿泊地のいわきに到着した。級友に手土産を渡すとともに、飯野八幡宮に今回の旅の無事を祈った。以前にも書いたが、本殿、楼門、唐門、神楽殿、仮殿、若宮八幡社本殿、宝蔵が国の重要文化財に指定されている。この他にも大薙刀、飯野家文書も同様に指定を受けている。
社伝によれば、源頼義によって創建されたという。相当に歴史も由緒もある神社ということになろう。

飯野八幡宮
大薙刀と飯野家文書とはなかなか見る機会がない。前者の方は、いずれ宮司さんにお願いして拝見させてもらいたいものだ。飯野家文書に関しては、実物を見させていただいても、私の頭脳では全く理解できないことと思う。相当に面白い内容のようだと聞いている。源頼義が何をしにいわきに来たのか。そして、どういうつながりがあったのか。郷土史家には垂涎ものなのだと思うが、…。
ということで、今回も建物を見ただけで終わってしまった。

飯野八幡宮_1
飯野八幡宮_2
飯野八幡宮_3
飯野八幡宮_4
飯野八幡宮_5
飯野八幡宮_6
飯野八幡宮_7
飯野八幡宮_8
飯野八幡宮_9
飯野八幡宮_10
飯野八幡宮_11
飯野八幡宮_12
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飯野八幡宮_16
飯野八幡宮_17
飯野八幡宮_18
飯野八幡宮_19
飯野八幡宮_20
飯野八幡宮_21
飯野八幡宮_22
この前の道が流鏑馬の走路になる。氏子が騎馬武者になるのだそうだ。
飯野八幡宮_23
飯野八幡宮_24
飯野八幡宮_25
右側から、若宮八幡社本殿、本殿、神楽殿、唐門と枢要な文化財が並ぶ。実に壮観だ。
飯野八幡宮_26

社伝によれば、前九年合戦後の康平6年(1063年)に、源頼義によって創建されたと伝えられる。これと別に、石清水八幡宮を勧請して文治2年(1186年)に建立したとする伝えもある。

 

五色沼~喜多方~いわき(8)

その他、喜多方で目についた蔵
冠木薬店
この建物も国指定登録有形文化財(建造物)のようだ。
非公開の塀蔵・厠蔵とを見てみたかった。ないものねだりかなあ。
冠木薬店_1
冠木薬店_2
冠木薬店_3
建立:明治元年 種類:店蔵(商品蔵・塀蔵・厠蔵は非公開)
薬屋の創業は1716年。座敷蔵には、書院造や削欄間など名工・宇佐見兄弟の技が光る。また建築を通して庭をながめるために、プランが工夫されている。

レディス島屋
漆喰の剥落が目立った。修理しなくても大丈夫なのだろうか。
レディス島屋_1
レディス島屋_2
建立:大正 種類:店蔵・書斎蔵
かつて呉服店だった重厚な店蔵。島慶とあわせて喜多方市の双璧と呼ばれた。高い天井が特徴的だったが、今は陳列商品に配慮し低く抑えている。優れた書斎蔵(非公開)もある。

中の越後屋
此処の内部も見てみたかった。プライバシーの維持のためにはしかたがないことなのだろう。
中の越後屋_1
中の越後屋_2
中の越後屋_3
建立:不明 種類:味噌醤油蔵
細長い敷地に蔵が並んでいるため、蔵と蔵の間は路地のよう。今も醸造蔵として使用される。黒漆喰の観音開き扉とそのヒンジが品のある作り。酒造から転身した逸話がユニーク。

金田洋品店
なかなかおしゃれな蔵だった。私の評価は最上級。
金田洋品店_1
金田洋品店_2
金田洋品店_3
建立:明治末期 種類:店蔵
店蔵では最古のレンガ蔵。喜多方産のレンガを使用している。軒、屋根と壁面の収まりが特徴的で、箱棟や卯建のデザインが取り入れられている。壁面の切り文字がおしゃれ。

喫茶くら
喫茶くら
建立:明治末期 種類:店蔵
元は綿屋。約20年前に改修して喫茶店としてオープンした。内部の壁も白漆喰。立派な観音扉が、厨房の入り口。2階に上ると釘を一本も使っていない天井の架構がよく見える。

山中煎餅本舗
山中煎餅本舗
建立:不明 種類:味噌蔵・書斎蔵
蔵見世
蔵見世
建立:明治 種類:家財蔵
道路際の店蔵が解体されて顔を出した座敷蔵。2階には置床をはじめ、座敷を独立して使うための工夫がある。福島県建築文化賞準賞を受賞。郷土料理等が食べられる食事処に。


その他
楽篆工房
こういうものもあった。時間があれば、ぜひ立ち寄ってみたいところだった。篆刻の体験か、楽しそうだなあ。
楽篆工房

真っ暗にならない内にいわきに向かうことにした。

 

五色沼~喜多方~いわき(7)

喜多方では明治13年の大火をきっかけに多くの蔵が造られたそうだ。そして、明治37年の鉄道開通に際し、喜多方市三津谷にレンガ工場が建てられたため、喜多方では多くのレンガの蔵が現存しているとのこと。その代表格がこの若喜商店の建物だろう。

若喜商店
手前の八七一タクシーと若喜・昭和館
奥の建物よりは新しいはずだが、何故かレトロ感がいっぱい。
手前の八七一タクシーと若喜・昭和館_1
手前の八七一タクシーと若喜・昭和館_2
若喜商店煉瓦蔵…国指定登録有形文化財(建造物)
店舗の背後に続き,脇道に面して建つ煉瓦造3階建の道具蔵。喜多方で操業した煉瓦工場で製造された煉瓦を用い民間で初めて建設されたもので,当地に煉瓦建築を普及させた田中又一の施工になるという。軒の飾積みなどに精緻な仕事が見られ,保存状態もよい。
若喜商店座敷蔵…国指定登録有形文化財(建造物)
煉瓦蔵の東に接続して建つ。木骨煉瓦造,2階建で,東面には2階をバルコニー風に造った玄関ポーチを付属する。内部座敷は1階を縞柿,2階を欅を中心とした銘木で造作する。外回りの軒や胴蛇腹の飾積みも3階蔵よりさらに華やかである。
手前側が座敷蔵(2階建て)で奥側が煉瓦蔵(3階建て)のようだ。
煉瓦蔵と座敷蔵_1
煉瓦蔵と座敷蔵_2
総縞柿の座敷は丁寧な説明をしていただいた。中に入って見たかったなあ。できることなら、総欅の2階にも。
煉瓦蔵と座敷蔵_3
煉瓦蔵と座敷蔵_4
煉瓦蔵と座敷蔵_5
煉瓦蔵と座敷蔵_6
若喜商店店舗…国指定登録有形文化財(建造物)
説明をしていただいたので、店内の売上に若干の協力をさせていただいた。味噌と醤油も欲しかったけど、足腰が痛くて運搬不可能なので断念した。
若喜商店店舗
味噌醤油醸造業を営む商家の店舗。木造2階建で,地元出身の本間嘉平の設計による。外観は,屋根をコンクリートスラブ陸屋根,外壁をタイル張りとしたモダニズムの意匠でまとめられ,八角の小窓や張出し窓を設け変化を付ける。角地に建ち町並みに異彩を放つ。
こちらが、住宅と醸造設備のようだ
こちらにもレンガ煙突があった。国指定登録有形文化財にはなっていないようだが、それでも雰囲気がある。
こちらが、住宅と醸造設備のようだ_1
こちらが、住宅と醸造設備のようだ_2
こちらが、住宅と醸造設備のようだ_3

 

五色沼~喜多方~いわき(6)

仲町商店街の三十八間蔵(旧 嶋新荒物店)
在りし日の壮麗さが窺い知れる見事な蔵だが、残念ながら、かなりくたびれた状態になっていた。国指定登録有形文化財であっても、保存の実態はこんなものなのだろうか。何とか朽ち果てないように保存をしていってほしいものだ。

旧嶋新商店店舗蔵…国指定登録有形文化財(建造物)
外観は素晴らしく良い。店内はそれ相応の感じはしたが、よく見ると味わい深いものなのだろう。
旧嶋新商店店舗_1
旧嶋新商店店舗_2
通りに東面する平入町家。切妻造桟瓦葺の木造2階建で、正・背面に下屋を付設。間口12m奥行9.0m。1階は店舗、2階に座敷3室を配する。正面2階は漆喰塗大壁造とし、窓を3所穿つ。妻壁は煉瓦積。煉瓦と漆喰壁が印象的な外観をつくる。
旧嶋新商店座敷蔵及び主屋…国指定登録有形文化財(建造物)
店を通り抜けて、奥を見せてもらった。ここまで来ると、屋敷内部も見せてもらいたいところだが、欲張り過ぎというものだろう。
旧嶋新商店座敷蔵及び主屋
店舗蔵西に座敷蔵、主屋と続く。座敷蔵は東西棟の切妻造桟瓦葺で、南面に下屋を付設。土蔵造2階建、漆喰仕上げ、2階に掛子塗戸を吊る。南面に廊下を通し、トコを構えるザシキなど3室を北側に並べ、西奥に主屋の板間や台所を配する。喜多方の町家の一例。
旧嶋新商店一号蔵・二号蔵及び三号蔵…三十八間蔵…国指定登録有形文化財(建造物)
その昔の盛業ぶりが目に浮かぶようだ。その後、蔵とラーメンの街として脚光を浴びるとは、誰も思っていなかったことだろう。
旧嶋新商店一号蔵・二号蔵及び三号蔵…三十八間蔵_1
旧嶋新商店一号蔵・二号蔵及び三号蔵…三十八間蔵_2
旧嶋新商店一号蔵・二号蔵及び三号蔵…三十八間蔵_3
旧嶋新商店一号蔵・二号蔵及び三号蔵…三十八間蔵_4
もしかしたら、一番奥の蔵が四号蔵かも知れない。良く確認しなかったのでまったく自信がない。
旧嶋新商店一号蔵・二号蔵及び三号蔵…三十八間蔵_5
旧嶋新商店一号蔵・二号蔵及び三号蔵…三十八間蔵_6
旧嶋新商店一号蔵・二号蔵及び三号蔵…三十八間蔵_7
旧嶋新商店一号蔵・二号蔵及び三号蔵…三十八間蔵_8
旧嶋新商店一号蔵・二号蔵及び三号蔵…三十八間蔵_9
旧嶋新商店一号蔵・二号蔵及び三号蔵…三十八間蔵_10
東西に長い敷地中央に位置する。桁行36mに及ぶ2階建土蔵。東から3室に分け、東端の1号蔵は東面に蔵前を設け、2・3号蔵は南面に出入口を穿つ。切妻造桟瓦葺。腰板張の漆喰仕上げで、鳥居型に仕上げた窓を要所に配し、リズミカルな外観をなす。
旧嶋新商店四号蔵…国指定登録有形文化財(建造物)
残念ながら見落としてしまったようだ。何を見ていたのだろうか。もしかしたら、前簿写真で一番奥に独立して写っていた蔵が其れかもしれない。
3号蔵西に東西棟で建つ。東面切妻造、西面寄棟造の桟瓦葺、桁行9.6m梁間5.7mの土蔵造2階建。南面東に庇を付け、掛子塗戸を吊る。腰板張、漆喰仕上げ、窓枠は鳥居型で鉄扉を開く。大規模な2階建土蔵が連続する重厚な景観をつくる。
向かい側にあった小さな蔵
向かい側にあった小さな蔵_1
向かい側にあった小さな蔵_2
三十八間蔵の前の庭の花
三十八間蔵の前の庭の花_1
三十八間蔵の前の庭の花_2

内覧不可 建立:明治初期から中期 種類:座敷蔵(非公開)
けやきの総造り店蔵には、土間と玄関の段差部に渡した横木、上り框が残されている。裏には、商品蔵・味噌・醤油蔵などが連結しながら83メートルにわたり並ぶ。

 

五色沼~喜多方~いわき(5)

大和川酒蔵 北方風土館(2)
いよいよ大和川酒造の嘗ての酒蔵だった『北方風土館』の案内を受ける。程よくクラシックなのが私には嬉しい感じだった。
江戸蔵
創業時からある蔵。一階の天井にはとてつもなく大きな梁があり、大雪の降る喜多方の厳しい気候にも耐えうる造りなのだそうだ。酒造米の展示は自社ファーム(大和川ファーム)で栽培したものだそうだ。
確かに古色蒼然とした感じだ。だが、如何にも頑丈そうだ。
江戸蔵_1
江戸蔵_2
江戸蔵_3
江戸蔵_4
江戸蔵_5
江戸蔵_6
江戸蔵_7
確かに太い梁だ。これなら豪雪地帯の喜多方でも大丈夫だったのだろう。
江戸蔵_8
江戸蔵_9
江戸蔵_10
写真の蔵が現在の醸造蔵である飯豊蔵で、掛けてある醸造用のコメは大和川ファーム産のものだそうだ。
江戸蔵_11
江戸蔵_12
江戸蔵_13
江戸蔵_14
江戸蔵_15
大正蔵
大正時代に建てられた古い蔵。元は出来上がった酒を貯蔵するタンクが並んでいたそうだ。その特性から、気温変化の影響を受けにくい造りになっているそうだ。
本当に薄暗くして、お酒を寝かせるのに最適という感じだ。いまは、空の瓶が置いてあるだけだ。こんなのを見せられたら、早く試飲コーナーに行きたくなるのが人情だろう。
大正蔵_1
大正蔵_2
大正蔵_3
大正蔵_4
大正蔵_5
昭和蔵ほか
飯豊蔵ができてからは、昭和蔵はイベントホールになっているようだ。
此処はいわゆる窯場だったようだ。だから煉瓦煙突があるんだ。
昭和蔵ほか_1
飯豊連峰からの伏流水。仕込み用に使用していたものだ。勿論飲ませていただいた。松尾大神がお酒・醸造の神様としても祀られていた。この業界の常識なのかな。
昭和蔵ほか_2
昭和蔵を転用したイベントホール。音響効果がよく、人気のホールなのだそうだ。
昭和蔵ほか_3
昭和蔵ほか_4
昭和蔵ほか_5
昭和蔵ほか_6

この後、試飲コーナーに行き、試飲をした。グビグビとやるためのお酒という感じに思えた。私は超辛口の酒などを抱えて帰ることと相成った。足腰が痛い状態なのに、何をしているんだ。(^_^;)

 

五色沼~喜多方~いわき(4)

喜多方に向かう。この日の宿泊はいわき市だ。時間がないので駆け足にならざるをえない。
大和川酒蔵 北方風土館(1)
さだまさしの『案山子』の歌詞にあるようなレンガ煙突があった。酒造りの案内をしてくれて、なおかつ、試飲ができるというので、喜んで訪問した。時間がなくても省略不可扱いとした。
なかなかの風格ある外観だ。昔は此処で醸造を行っていた。現在は1kmほど郊外にある飯豊蔵で醸造を行っているということで、こちらは酒蔵見学と試飲・販売の『北方風土館』にしているそうだ。幕末の寛政2年(1790年)創業というから、今年で226年を経過するようだ。酒蔵としては、そこそこ古い方なのかなあ。
大和川酒蔵 北方風土館(1)_1
大和川酒蔵 北方風土館(1)_2
大和川酒蔵 北方風土館(1)_3
何故だか私はこのレンガ煙突が好きだ。
大和川酒蔵 北方風土館(1)_4
大和川酒蔵 北方風土館(1)_5
屋内もなかなか洒落ている。会津の人のセンスは極上のようだ。
大和川酒蔵 北方風土館(1)_6
大和川酒蔵 北方風土館(1)_7
大和川酒蔵 北方風土館(1)_8
大和川酒蔵 北方風土館(1)_9
大和川酒蔵 北方風土館(1)_10
小学校の廊下を思い出してしまった。土足で歩くのに、綺麗に手入れがなされていた。
大和川酒蔵 北方風土館(1)_11
屋内の装飾センスがいいなあ。決して派手ではないのに、心惹かれるものがある。
大和川酒蔵 北方風土館(1)_12
大和川酒蔵 北方風土館(1)_13
大和川酒蔵 北方風土館(1)_14
大和川酒蔵 北方風土館(1)_15
大和川酒蔵 北方風土館(1)_16
大和川酒蔵 北方風土館(1)_17
大和川酒蔵 北方風土館(1)_18
大和川酒蔵 北方風土館(1)_19
ここは案内を待つスペース。ここからも煉瓦煙突が立ち上がっていた。その隣には洒落たスピーカーが置いてある。どんな音がするのだろうか。
大和川酒蔵 北方風土館(1)_20
大和川酒蔵 北方風土館(1)_21
大和川酒蔵 北方風土館(1)_22

 

五色沼~喜多方~いわき(3)

五色沼自然探勝路(3)
青沼
びっくりするほど綺麗な色だ。
青沼_1
青沼_2
青沼_3
青沼_4
青沼_5
青沼は小さいながら五色沼湖沼群の中でも最も青白色に光っています。
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るり沼から5分。水生植物の群生が見られる。るり沼の水が次に流れてきているのが青沼です。青く神秘的なコバルトブルーの美しい沼です。

柳沼
特徴ある沼がひしめき合っている中で、この柳沼だけはごく普通の沼に見えた。確かに紅葉の季節には美しいことだろうと思うが。
柳沼_1
柳沼_2
柳沼_3
柳沼_4
裏磐梯物産館近くの沼。紅葉の季節にはカエデやウルシで美しく染まる。

五色沼とは五色沼探勝路沿いにある20〜30の沼の総称である。この一帯は国立公園の「特別保護地区(特に厳重に景観を保護する地域)」に指定されている。
コースからは、毘沙門沼をはじめ様々な色をした沼を眺めることができ、1888年の磐梯山噴火のときに流れ落ちてきた大きな岩や噴火後に行われた植林事業で植えられ大きく育ったアカマツを見ることもできる。
コースの道幅が広いので歩き易いが、岩がごろごろしていたり雨の日にはぬかるみができたりするので注意が必要。またコースの一部では植生保護のために木道を設置してある場所があり、狭いところもあるので歩道から外れないよう注意して欲しい。また例年4月下旬までは歩道上に残雪があり、歩きにくい状態である。

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五色沼は実にさまざまな青色を見せてくれます。その中の一つの沼はアシの根元に、酸化鉄の沈殿物が付着し赤みがかってるものもあり、赤沼と呼ばれます。
五色沼の水の色は、水中の微粒子の大きさによります。例えば、大きな微粒子ですと、光のスペクトルが含まれています。アロフェンは主としてアルミニウムや珪酸などからできています。アロフェンは強酸性の水では形成されません。磐梯山の噴火口から五色沼へ流れ出る酸性の水は温泉のアルカリ成分によって中和されます。青沼、瑠璃沼、弁天沼、竜沼、みどろ沼や毘沙門沼はアロフェンのために青白色しています。


昼食休憩
五色沼自然探勝路を1時間強歩きまわり、出発時からずっと不調だった足腰が言うことを聞かない。仕方なく、少し長めの昼食を取ることにした。おあつらえ向きの食事処があった。星野リゾート 裏磐梯レイクリゾート(旧 裏磐梯猫魔ホテル)の5階にある和食レストラン「和楽」だ。
『裏磐梯猫魔ホテル』だったところか。裏磐梯猫魔スキー場に行こうなどと考えていたことがあったが、残念ながら実現しなかった。
昼食休憩_1
5階にある和食レストラン「和楽」からの素晴らしい眺望。あの森を頑張って歩いてきたんだ、などと思いながら見ていた。食事を終えてからも、暫しボーッとしていた。
昼食休憩_2
昼食休憩_3
いくつか選択できるプチバイキングから、和食に合う漬物を中心に頂いた。福島に帰ってきた感じがした。
昼食休憩_4
注文したのは、『川俣軍鶏の親子丼(お椀付き)』。川俣軍鶏はものすごく美味しいので有名なものだ。評判に違わず、コクのある味わいを楽しめた。川俣町の産品としては、この他にシルクも有名だが、朴念仁の私には用のないものだ。
昼食休憩_5

 

『長井海の手公園 ソレイユの丘』にて(2)

よその大きな子はこんなことにもチャレンジ
この日は見えなかったけれども、お尻の方向に富士山が見える。眺望を堪能するよりも、親に顔を向けたほうが安心かなあ。
『長井海の手公園 ソレイユの丘』にて(2)_1
我が家の孫達は、お子様メニュー
それもかなり慎重派だ。まだ、チャレンジ不能な遊具が少なくないなあ。
『長井海の手公園 ソレイユの丘』にて(2)_2
『長井海の手公園 ソレイユの丘』にて(2)_3
『長井海の手公園 ソレイユの丘』にて(2)_4
『長井海の手公園 ソレイユの丘』にて(2)_5
『長井海の手公園 ソレイユの丘』にて(2)_6

『長井海の手公園 ソレイユの丘』にて(2)_7
『長井海の手公園 ソレイユの丘』にて(2)_8
『長井海の手公園 ソレイユの丘』にて(2)_9
『長井海の手公園 ソレイユの丘』にて(2)_10
『長井海の手公園 ソレイユの丘』にて(2)_11
『長井海の手公園 ソレイユの丘』にて(2)_12
『長井海の手公園 ソレイユの丘』にて(2)_13
『長井海の手公園 ソレイユの丘』にて(2)_14
『長井海の手公園 ソレイユの丘』にて(2)_15
『長井海の手公園 ソレイユの丘』にて(2)_16
『長井海の手公園 ソレイユの丘』にて(2)_17
『長井海の手公園 ソレイユの丘』にて(2)_18
『長井海の手公園 ソレイユの丘』にて(2)_19
『長井海の手公園 ソレイユの丘』にて(2)_20
『長井海の手公園 ソレイユの丘』にて(2)_21
『長井海の手公園 ソレイユの丘』にて(2)_22
『長井海の手公園 ソレイユの丘』にて(2)_23
『長井海の手公園 ソレイユの丘』にて(2)_24
『長井海の手公園 ソレイユの丘』にて(2)_25
『長井海の手公園 ソレイユの丘』にて(2)_26
『長井海の手公園 ソレイユの丘』にて(2)_27

今回のソレイユの丘の記事はここまで

 

五色沼~喜多方~いわき(2)

五色沼自然探勝路(2)
みどろ(深泥)沼
不思議な池だ。水の色が3つの色を持つ。その一つ一つが美しい色だ。
みどろ(深泥)沼_1
みどろ(深泥)沼_2
みどろ(深泥)沼_3
みどろ(深泥)沼_4
みどろ(深泥)沼_5
3つの色の水を持つ美しいみどろ(深泥)沼。この色の違いは微妙な水質や水深の違いや水草の繁茂の違いから生まれてくるものと言われています。
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赤沼から5分。ひっそりと水をたたえている。周囲の緑も美しい。深泥沼の西端と東端で水質が異なり西が青緑で東は透明に近い。

竜沼
五色沼自然探勝路から少し離れていて、ちょっと見えにくい沼。冬になれば、かなり良く見えるようだが、その時には歩くのがかなり難しくなっているのかもしれない。
竜沼_1
竜沼_2
深泥沼から5分。探勝路の真中あたり。静かで幻想的な雰囲気。

竜沼が取り上げられているHPへjump

弁天沼
弁天沼手前の小川
弁天沼_1
弁天沼_2
弁天沼_3
弁天沼_4
弁天沼_5
弁天沼_6
大きいし水の色も綺麗。いいなあ。
弁天沼_7
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弁天沼_16
弁天沼_17
弁天沼_18
五色沼の中で2番目に大きい弁天沼は、遠く吾妻の山並みをも望め明るく広々としています。

瑠璃沼
私の身長がもう少し高ければ、爆裂の眺めが最高だったと思う。水の色はどんな色なのが、光線の関係でよくわからなかった。深い感じの色合いだったように見えた。
瑠璃沼_1
瑠璃沼_2
瑠璃沼_3
五色沼湖沼群の中で最も神秘的な瑠璃沼。見る場所により水の色が変わります。
 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
弁天沼から5分。鮮やかなコバルトブルーの沼。時間ごとに色が変化するとか。
五色沼の神秘的な水の色の元になる水の流れが最初に流れ込んでくるのがるり沼です。五色沼のきれいな水の色はここから始まります。水質は硫酸イオン、カルシウムを多く含んでいる。


 

五色沼~喜多方~いわき(1)

会津磐梯山1816.3m
猪苗代から高速を出た辺り。表磐梯と呼ばれる側だ。噴火で噴き飛ばされ異様な山容を見せる裏磐梯とは対照的な佇まいを見せる。スキー場がかなり目立つが、あちらは正しくは『櫛ヶ峰』(1636.0m)のようだ。
会津磐梯山
大噴火の様子(PDFファイルを借用)
1888年(明治21年)7月15日の水蒸気爆発は、明治になって初めての火山爆発だった。写真記録がないため、銅版画でその様子を伝えたのだそうだ。会津の人にとっては、戊辰戦争で一敗地に塗れた記憶が消えない中での天変地異。呪われたと思ったかもしれない。
大噴火の様子五色沼自然探勝路(1)
五色沼は高1の修学旅行で探勝路の半分ほどを歩いた。田舎から出てきて3ヶ月ほどの時と更に50年を経過した今とでは、絶対的な体力が異なる。辛くもなんともなかった探勝路がかなり厳しく思えた。
案内図
裏磐梯は磐梯山の北側。この案内図では下側に裏磐梯の爆裂が位置する。よって、探勝路から裏磐梯の爆裂が見えるのは、毘沙門沼とるり沼とになる。比較するまでもないが、るり沼からの眺めが断然よい感じだ。
案内図
毘沙門沼
ここから幾つかの沼を見て歩いた記憶がある。集合時間の制限があったので、全部を見て回ることはできなかった。今回は、足腰の状態が最悪だったが、根性を出して全部見て回った。
毘沙門沼からも爆裂が見える
毘沙門沼_1
毘沙門沼_2
毘沙門沼_3
毘沙門沼_4
毘沙門沼_5
毘沙門沼_6
毘沙門沼_7
毘沙門沼_8
毘沙門沼_9
毘沙門沼_10
ボートを漕ぐことができる唯一の沼。かなり遠くまで漕いできたようだ。
毘沙門沼_11
毘沙門沼_12
殆どの人が多くの回数の写真を撮る
毘沙門沼_13
毘沙門沼_14
楓など
紅葉の季節は非常に美しいと思われる
楓など_1
楓など_2
楓など_3
沼の終わり
沼と沼との間は小川が流れている。水量は豊富。五色沼に入る水はるり沼から始まるそうだ。
沼の終わり
綺麗な花が咲きそうだ
綺麗な花が咲きそうだ
青緑色に光る五色沼最大の毘沙門沼からは、磐梯山の荒々しい火口壁が目に飛び込んできます。毘沙門沼から望む磐梯山は裏磐梯を代表する景観の一つ。ボートに乗ることもでき、多くの観光客で賑わいます。
赤沼
此処が赤沼なのかと何度も確認してしまった。赤沼の周囲の藻が赤い鉄錆色に染まって、少しだけ赤く見えるだけだそうだ。他の池からすると、変わった色合いではあるが。
赤沼_1
赤沼_2
赤沼_3
赤沼_4
赤沼の周囲の草木は赤い鉄錆色に染まり、赤沼という名前の由来もそこからきています。
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毘沙門沼から約15分 美しい緑色の沼(赤くありません)で、一面に苔が茂っていて、苔が所々赤茶に彩っている 。

 

明治神宮にて

花菖蒲を撮りながら鳥さんがいれば、それをも撮る。という2面作戦で昨31日、明治神宮に出掛けた。主に明治神宮御苑で撮ってみた。居るわけはないと思っていたが、予想通り、おしどり、ヤマセミ、カワセミはいなかった。
1874年(明治7年)、この土地は、買い上げられて南豊島御料地となっていた。その折に、明治天皇の御製「うつせみの 代々木の里は しづかにて 都のほかの ここちこそすれ」が詠まれた。ということで、その時にはこの地に神宮は存在していなかった。崩御されたあと、京都の伏見桃山陵に葬られたが、東京に神宮を建設したいとの運動が天皇を崇敬する東京市民(当時)から起こり、1914年(大正3年)になると天皇に縁の深かったこの地への神宮建設が決定した。

明治神宮御苑
此処は花菖蒲と野鳥さんとで有名なゾーン。本来は無料であるが、施設維持協力金として、500円が必要。花菖蒲の時期でなくて、野鳥さんが見られなかったりすると、残念感が強いかもしれない。
御釣台
南池が通路の左側に見える。水面に張り出し他感じで御釣台がある。御釣台は、明治天皇の意向により設けられ、 皇后も時々楽しまれたそうだ。
池には睡蓮の花が咲いていた。野鳥は殆ど見かけず、池面にはカルガモとアオサギとがいたのみ。睡蓮のみ撮った。この後、北池にも行ってみたが、そちらは、カイツブリも含めて鳥さんは全く不在だった。

御釣台_1
御釣台_2
御釣台_3
カメラマンたちが屯している辺りにはヤマガラが擦り寄ってきていた。時どき何かをもらっているのだろうか。何も撮らないのよりはマシと思い、有難く撮らせてもらった。
ヤマガラ_1
ヤマガラ_2
ヤマガラ_3
ヤマガラ_4
ヤマガラ_5
ヤマガラ_6
ヤマガラ_7
ヤマガラ_8
ヤマガラ_9
隔雲亭
御釣台の反対側は、小高い斜面の芝生の庭にツツジが植栽されている。その奥に隔雲亭がある。元の隔雲亭は、明治天皇の意向により皇后のために建てられたが、戦災により焼失してしまった。現在の隔雲亭は、昭和33年(1958)に篤志家によって復元されたもの。外側から見た感じでは、飛び抜けて豪華な建物という感じではなさそうに見える。
隔雲亭_1
隔雲亭_2
菖蒲田
花菖蒲の田んぼにはまだ水がはられておらず、早咲きのものが僅かに咲いていた程度。水を欲しがっているように見えたのだが、…。
菖蒲田_1
菖蒲田_2
菖蒲田_3
菖蒲田_4
菖蒲田_5
菖蒲田_6
菖蒲田_7
菖蒲田_8
菖蒲田_9
菖蒲田_10
菖蒲田_11
菖蒲田_12
外国人は合わせて半数以上のようだ。こういう格好でも入場を許さざるをえないのかなあ。
外国人は合わせて半数以上のようだ
菖蒲田に面する通路には楓のプロペラが
菖蒲田に面する通路には楓のプロペラが
四阿
ちょっと変わった茅葺の屋根が特徴の四阿。
四阿_1
四阿_2
清正井
何故か飲水禁止の表示が。見た感じは清冽な湧き水のように見えたが、…。
清正井
明治神宮
神宮はいつもの通り。中国語や英語が飛び交う状態。明治天皇も苦笑いしていらっしゃるのかもしれない。
明治神宮_2
菰樽が奉納されるのはごくふつうのコトだが、こちらは葡萄酒の樽だ。初めてみると驚くと思う。
明治神宮_3
明治神宮_4
明治神宮_5

 

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