散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

11月下旬の上野にて(2)

第38回日本きりえ展から
第38回日本きりえ展は、現在、東京都美術館で開催中である。受付で名前を記入すると撮影許可証を渡される。目についたものを撮ってみた。傾いていたり、光っていたりしているのは、私の未熟さゆえのこと。ご容赦願いたい。
風神雷神図を少しモデファイした感じだろうか
日本きりえ展作品_1
日本きりえ展作品_2
細部にまでこだわった作品のようだ。こんな根気強さは私にはまったくないなあ。
日本きりえ展作品_3
骨太の作画が好きな感じだ。絵心があるのだろう。
日本きりえ展作品_4
日本きりえ展作品_5
日本きりえ展作品_6
日本きりえ展作品_7
マトリョーシカを連想させる図案だ
日本きりえ展作品_20
釣りと切り絵の両方がお好きな方だろうか
日本きりえ展作品_8
これはなまめかしい。どのくらいの労力が投入されているのだろうか。
日本きりえ展作品_9
落ち着く感じの図案だ
日本きりえ展作品_10
日本きりえ展作品_11
好きな感じ
日本きりえ展作品_12
手間がかかっている感じ。それにしてもお見事。
日本きりえ展作品_13
制作過程は想像がつく。しかし、これを実際の切り絵作品に仕立て上げるのは、生半なことではなさそうだ。
日本きりえ展作品_14
見事なニャンコの作品。背後霊の爺さんは見ないでいただきたい。
日本きりえ展作品_15
友人の作品。関東大震災前の万世橋駅の様子なのだろう。今の秋葉原と比較すると隔世の感がある。下絵を描き、それを切っていったのだろう。すごいものだ。
日本きりえ展作品_16
友人の作品。こちらは、現在の道頓堀の様子。グリコのデザインは最新のものだとか。オリジナルであることを強調すべく、電飾の大看板は、食品のものばかりにしたということだ。実際とはもちろん違う。
日本きりえ展作品_17
レベルの高い作品が並んでいるなあ
日本きりえ展作品_18
日本きりえ展作品_19

 

11月下旬の上野にて(1)

11月29-30日は小団体での旅行中で、私からのアクセスは殆どできません。そのため、『兵庫県内を見て回る』シリーズを中断して、2回にわたって、『11月下旬の上野にて』を挿入します。
第38回日本きりえ展が26日から東京都美術館で開催されている。友人が出品したというので、その友人とともに初日に見るべく出かけた。待ち合わせまで、少々時間があったので、不忍池で冬鳥が集まってきているころだと思い、見に行った。
期待外れも最たるもので、殆ど鳥は見当たらなかった。かろうじて見かけたものを取り上げる。池の改修工事で、野鳥が嫌う環境になってしまったのか、それとも、まだ、寒さが本格化しないからなのだろうか。

不忍池で見た野鳥
ハシビロガモかなあ
サブ・エクリプス中のオスではなかろうか。嘴広鴨は今まで認識して見たことがなかったので、今一つ自信が持てない。
ハシビロガモのサブ・エクリプス中のオスかなあ_1
ハシビロガモのサブ・エクリプス中のオスかなあ_2
こちらはエクリプス中のオスではなかろうか。
ハシビロガモのエクリプス中のオスかなあ_1
ハシビロガモのエクリプス中のオスかなあ_2
ハシビロガモのエクリプス中のオスかなあ_3
オナガガモ
オス
オナガガモ_オス_1
オナガガモ_オス_2
オナガガモ_オス_3
オナガガモ_オス_4
こちらはオスとメスとかなあ
オナガガモ_オスとメスとかな
こちらはメスかなあ
オナガガモ_メスかな_1
オナガガモ_メスかな_2
オナガガモ_メスかな_3
オナガガモ_メスかな_4
その他
池の大賀蓮。時期的に、地上部分は枯れている。やや殺風景だが仕方がない。
池の大賀蓮_1
池の大賀蓮_2
民族音楽を披露中。一生懸命、演奏していたけど、生活が成り立つのかなあ。
民族音楽を披露中_1
民族音楽を披露中_2
目についた建物
目についた建物_1
目についた建物_2
目についた建物_3
目についた建物_4
月の松
月の松

 

兵庫県内を見て回る(12)

北野の異人館を見て回る(6)
移動途中の景観
今回取り上げる分は、タイトル通りで、次の目的にした異人館『うろこの家』に向かって寄り道しながら歩いた様子。あまりにぶらぶらしすぎの感じは否めない。
風見鶏の館と萌黄の館
どちらも国指定の重要文化財。こちらは、あとでゆっくり見て回る。小用を足すためにこの近くを通ったので、このときは、一応、写真を撮っただけだ。
風見鶏の館と萌黄の館_1
風見鶏の館と萌黄の館_2
風見鶏の館と萌黄の館_3
風見鶏の館と萌黄の館_4
風見鶏の館と萌黄の館_5
風見鶏の館と萌黄の館_6
風見鶏の館と萌黄の館_7
神戸北野迎賓館ヴィクトリアンハウスレインティ
残念ながら一般には非公開の建物。入るためには結婚式かパーティーの招待者になるしかないようだ。まあ、私にはその機会はないことだろう。
神戸北野迎賓館ヴィクトリアンハウスレインティ_1
神戸北野迎賓館ヴィクトリアンハウスレインティ_2
レイン邸は1900年(明治33年)、神戸に居留した外国人のために建てられました。北野に異人館が建ち始めたのは明治20年頃なので、現存する異人館としては比較的初期のものです。八角形のオペラシートに象徴されるヴィクトリアン様式の洋館ですが、屋根瓦など日本伝統の建築技術が随所に採用されているため、どこか懐かしいオリエンタルな薫りも漂います。
異人館パラスティン邸
ロシア人貿易商が居住していた異人館パラスティン邸は、大正初期に建てられた伝統的建造物だそうだ。現在は見ての通りのカフェだ。テラス・館内共にペット同伴可能だとか。神戸では、こうしたお店はなかなかないだろうから、人気があるのではなかろうか。
異人館パラスティン邸_1
異人館パラスティン邸_2
神戸北野ハンター迎賓館
神戸北野でも貴重な和の庭園異人館「ハンター迎賓館」。E・Hハンター氏が所有していた歴史的建造物だそうだ。今は結婚式場として使用されているとか。
神戸北野ハンター迎賓館_1
神戸北野ハンター迎賓館_2
神戸北野美術館かな?
裏側から見たので、今一つ断定するだけの自信がない。
神戸北野美術館かな?
ちょっとした路地
神戸北野ハンター迎賓館前からうろこの家に向かう途中の細い路地。京都でなくても細い路地はあるものだ。
ちょっとした路地_1
少々行き過ぎたのでバックする
ちょっとした路地_2
北野オランダ坂
この細い坂を上って、うろこの家に向かう。坂の途中に、以前、公開していた本家オランダ館があるが、現在は活動停止状態。
北野オランダ坂_1
北野オランダ坂_2
本家オランダ館
つぶれてしまったようだ。残念なことだ。これとは別に『香りの家オランダ館』があり、こちらは営業中のようだ。
本家オランダ館_1
本家オランダ館_2
おらんだ坂の上り口に旧門があり、現在の入口は坂を中ほどまで上った所にある。オランダの貿易商チャーリー・エリオン氏の邸宅で1982年までは姉のメーベル・エリオンさんが住居として使用していたそうで前庭の花壇が美しい。

 

兵庫県内を見て回る(11)

北野の異人館を見て回る(5)
英国館(2)
2階には何があるんだろうか
天国に続く階段というわけではないだろう
2階への階段
2階部分の半分ほどのスペースはシャーロック・ホームズ関係の展示にしてある
2階もよくわからない感じだ。半分ほどのスペースはシャーロック・ホームズ関係の展示にしてある。勿論、ここがシャーロック・ホームズと関係があったというような事実は一切ないはずだ。何せ、あちらは虚構の世界なのだから。それを神戸に飾るのかなあ。
シャーロック・ホームズの雰囲気になれるかな
シャーロック・ホームズ関係の展示_1
インバネスケープ・ディアストーカー着用で写真を撮る趣向の様だ
シャーロック・ホームズ関係の展示_2
シャーロック・ホームズの部屋
シャーロック・ホームズ関係の展示_3
シャーロック・ホームズ関係の展示_4
シャーロック・ホームズ関係の展示_5
2階の残り半分
そして、あと半分は、良くわからない展示。17世紀バロック時代、19世紀ヴィクトリア時代の格調高い豪華な家具調度品が展示されているが、かつてのここの住民とはまったく関係はなさそうだ。
アフタヌーン・ティーの感じかな
2階の残り半分_1
2階の残り半分_2
2階の残り半分_3
2階の残り半分_4
朝食の感じかな
2階の残り半分_5
ビクトリア朝のスタイルだろうか
2階の残り半分_6
2階の残り半分_7
2階の残り半分_8
2階の残り半分_9
2階の残り半分_10

 

兵庫県内を見て回る(10)

北野の異人館を見て回る(4)
英国館(1)
こういうの展示が関西の方の感覚なのだろうか。異人館をこんな形で飾り立てて公開するという発想は、関東の人にはあまりないことだろう。ともあれ、一階部分は、夜には「king of king's」というバーに変身するのだ。
外観
どこもそうだろうが、外観だけは昔のままだ。この英国館も、イギリス人のフデセック博士が住んでいた当時のまま保存されている。以下の写真ではわかりにくいと思うが、コロニアル様式の洋館だ。特徴がある辺りには、記念写真を撮っている人をかき分けていく必要があり、終わりそうもなかったのだ。ともあれその昔の様子を偲ぶには、外観を丹念に見るしかないようだ。
外観_1
外観_2
外観_3
外観_4
外観_5
外観_6
外観_7
1階部分
もともとそのように造られていたのだろうが、高級バーに迷い込んだような気分になる。展示にしては、やけに本物っぽいと思ってみたのだが、後で調べてみると、夜は、本物のバーになるんだとか。さばけているというか何というか。
1階部分_1
1階部分_2
この程度ならば、洋酒好きのやや贅沢なホームバー程度かなと思う。向こうの人は人並みに飲むことができないと社交に差し支えるほどだから。
1階部分_3
1階部分_4
1階部分_5
1階部分_6
1階部分_7
1階部分_8
下調べも何もせずに飛び込んだので、このフロアの展示ぶりにはびっくり。どこにも負けないほどのコーナーだなと思った。世界の洋酒が1000種類も揃えられているとか。昼間からショットバーになっているのであれば、2-3杯いただいていたかもしれない。
1階部分_9
1階部分_10
1階部分_11
1階部分_12
1階部分_13
1階部分_14
1階部分_15
1階部分_16
1階部分_17
英国館バー
全国的に珍しい異人館バー。英国館特有のコロニアル様式の建築と、高級でクラシックな家具・調度品を生かしたエキゾチックでゴージャスなムードが売り物だ。飲みものは、世界の銘酒千酒を集め、盃はフランスの名器バカラにこだわっている。軽食もでき、値段もリーズナブルとあって、お客さんの層は、ヤングから年配層まで幅広い。団体によるパーティー予約の受付も好調。北野町に誕生したユニークなバーとして、神戸でホットな話題にのぼっている。

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イギリス人による設計でイギリス人が住み続けた英国館(イングランド館)は、建築当時のまま保存されている、西部劇でもおなじみの典型的なコロニアル様式の洋館です。2階には日本初の公式『シャーロックホームズの部屋』がロンドンに在るが如く忠実に再現されています。2階にあるインバネスケープとディアストーカーでホームズに変身を。17世紀バロック時代、19世紀ヴィクトリア時代の格調高い豪華な家具調度品が揃い、高級感あふれるバーカウンターには世界の名酒が1000種類も収められています。夜にはBAR「king of king's」に変身。ゴージャスなムードの中で香り高い名酒を味わえ、ゆとりのある大人のひと時を楽しめます。

 

兵庫県内を見て回る(9)

北野の異人館を見て回る(3)
ベンの家
好き嫌いが分かれる異人館だと思う。私は決して嫌いではないが、かなりの迫力で、たじろぐ方が多数いらっしゃるのは間違いがないところだろう。
展示物は立派なのだが、床の傷みがひどい感じ。何か月か休館して、修復工事をした方が良いように思った。

以下の個々の写真には、一部の例外を除いて説明を加えないでおく。その方が実際に自分の目で見た感じに近くなると思うから。
ベンの家_1
ベンの家_2
ベンの家_3
皮を剥がれて、壁に貼り付けられているのは、ボブキャット。体長は、65~105cmくらいだそうだ。
ベンの家_4
ベンの家_5
ベンの家_6
ベンの家_7
ベンの家_8
ベンの家_9
ベンの家_10
ベンの家_11
ベンの家_12
ベンの家_13
ベンの家_14
ベンの家_15
ベンの家_16
ベンの家_17
ベンの家_18
ベンの家_19
ベンの家_20
ベンの家_21
ベンの家_22
ベンの家_23
ベンの家_24
ベンの家_25
ベンの家_26
明治35年(1902年)、神戸居留地に商館として建築された西洋館で、その後北野町の現在地に移築し、イギリス貴族で狩猟家のベン・アリソンの日本での自邸となりました。塀、壁、建具などは全て居留地に竣工した当時のまま現存しています。また、館内にはベンが世界各地で射止めた動物の剥製が展示されており、中には巨大なホッキョクグマやムース、リンクス、ヘラ鹿など、絶滅危惧種も含まれています。動物をモチーフにした珍しいデザインのステンドグラスも使用されています。
 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
英国の貴族で狩猟家であった冒険家ベン・アリソン氏の旧邸。数ある異人館の中でも建築の古さは屈指です。館内には、住人であったベン・アリソン氏が世界中を旅して集めた猛獣・珍獣・貴重な動物の剥製がズラリ。アメリカの国鳥に指定されている「白頭鷲」の雄姿、鯨の仲間「イッカク」の長大な歯、銀白色の特異な巨体の「ヌー」など迫力に満ち、なかでも巨大なポーラーベアーは圧巻です。

 

兵庫県内を見て回る(8)

北野の異人館を見て回る(2)
ここから異人館内に入って見て回るのを始めた。何度も写真は見たことがあるのに、自分が行く気で見ていないと、戸惑うものだ。
洋館長屋(仏蘭西館)
室内の装飾が見事。相当に贅をつくした室内だと思った。パリ期の藤田嗣治氏の絵画は、うまく写真が撮れないと諦めたのか、気が付かなかったのか、記憶にない。
洋館長屋(仏蘭西館)_1
洋館長屋(仏蘭西館)_2
写っている人の8割くらいは中国人のようだった。場所柄からか、比較的若年層が多い感じだった。
洋館長屋(仏蘭西館)_3
洋館長屋(仏蘭西館)_4
洋館長屋(仏蘭西館)_5
洋館長屋(仏蘭西館)_6
洋館長屋(仏蘭西館)_7
洋館長屋(仏蘭西館)_8
洋館長屋(仏蘭西館)_9
洋館長屋(仏蘭西館)_10
洋館長屋(仏蘭西館)_11
洋館長屋(仏蘭西館)_12
洋館長屋(仏蘭西館)_13
洋館長屋(仏蘭西館)_14
洋館長屋(仏蘭西館)_15
洋館長屋(仏蘭西館)_16
洋館長屋(仏蘭西館)_17
洋館長屋(仏蘭西館)_18
木造の二階建で、正面の玄関から左右対象に軒を連ねる珍しい異人館で「洋館長屋」の別名をもっています。
現在の邸内はフランス美術品、豪華な調度品を中心に、アール・ヌーボーのガラス工芸家エミール・ガレらの作品やシャガール、パリ期の藤田嗣治氏らの絵画等も展示しています。

 

兵庫県内を見て回る(7)

横浜山手の洋館と感じが似ている。が、こちらは横浜と異なり、有料の見学施設が大半だ。今回北野の主要な異人館をほぼ制覇しようと考えたが、それなりに財布からお金が消えた。提供されたサービスに相応の対価を支払うことは当然のことなのだろうが、だいぶ建物が傷んできたようなのが気になった。床がきしむ異人館がいくつかあった。大丈夫なのかなあ。
北野の異人館を見て回る(1)
まずは、小手調べというか、足慣らしというか、異人館街の手前の教会などを見る。今回だけは館内に入らずに外観を撮ったものを取り上げる。次回以降は実際に中に入って、じっくり撮らせてもらった。
神戸バプテスト教会
名前だけは知っているが、詳しくは知らない。洗礼の仕方が独特だ(水の中にずぼっとつける感じ)と聞いたことがある程度だ。
バプテスト教会_1
バプテスト教会_2
バプテスト教会_3
バプテスト(英: Baptist)は、バプテスマ(浸礼での洗礼)を行う者の意味に由来しており、イギリスの分離派思想から発生したキリスト教プロテスタントの一教派。個人の良心の自由を大事にする。
バプテストは17世紀頃にイギリスで始まり、現在ではアメリカ合衆国に最も多く分布している。アメリカ合衆国の宗教人口はプロテスタントが最も多いが、その中で最も多いのがバプテストである。アメリカ№1と言われるこの保守派に属するバプテスト派、殊に南部バプテスト連盟は、アメリカ合衆国の非カトリック教派団体として最大の規模を誇る。

一宮神社
異人館の町にも歴とした神社があった。この日一日を無事過ごせるように祈った。
兵庫県神戸市の生田神社を囲むように点在している生田裔神八社(いくたえいしんはちしゃ)の一番目の神社だそうだ。ついでながら、三番目は三宮神社で三ノ宮駅近くにあるようだ。

一宮神社
神戸ハリストス正教会
神戸ハリストス正教会は、いわゆる東方教会だ。西方教会はカトリックやプロテスタントが含まれるが、東方教会はギリシャから東方に伝わっていった。もともとはキリスト教は一つのものだったのに、随分違ってきてしまった。
キリスト教で2番目に大切とされるイベントである降誕祭(クリスマス)は、12月25日に固定だと思われている方が殆どだと思うが、正教会では同様に固定ではあるものの、1月7日だそうだ。

キリスト教の分派の流れ
聖堂には『八端十字架』が載っている
神戸ハリストス正教会_1
神戸ハリストス正教会_2

ここから異人館のゾーンに入る

神戸トリックアート・不思議な領事館
旧ヒルトン邸・明治後期築で、神戸市指定No.11伝統保存建造物だそうだ。ここはケチってというか、トリックアートに興味がなくてというか、とにかく入らなかった。
神戸トリックアート・不思議な領事館
元パナマ領事の住居で執務室もそのままの洋館です。また、ダイニング、ベッドルーム、ライブラリー、サンルーム等も公開しています。マヤと中央アンデスで発掘された土器や土偶がたくさんあり、随所に展示されています。また、入口にある彫像「シーホース」は、頭をさわると願いことが叶うといわれており、人気です。
ラインの館
現在は休館中。耐震工事中のようで、館内への立ち入りはできないが、敷地内への立ち入りは自由にできる。
ラインの館_1
ラインの館_2
ラインの館_3
ラインの館_4
ラインの館_5
ラインの館_6
ラインの館_7
ラインの館_8
大正初期の建築で、木造2階建下見板張りオイルペンキ塗りで、開放されたベランダ、ベイ・ウィンドー、軒蛇腹、よろい戸など、明治時代のいわゆる異人館の様式をそのまま受け継いでいる建物です。庭には蘇鉄や楠の大樹があり、心地よい緑陰をつくっています。「ラインの館」という名称は市民の愛称募集で入選した名前ですが、「この館の下見板の横線(ライン)が美しいから」という由来から名称が決定しました。
神戸北野美術館
神戸北野美術館
北野通りに面する石垣上に1898年に建設された異人館で、戦後は1978年までアメリカ領事館官舎として使用され、その後アールヌーボーのガラス美術を展示した公開異人館「ホワイトハウス」を引き継いで、1996年11月に神戸北野美術館として開館した。2011年4月にリニューアルオープンし、「モンマルトルの丘の画家たち~神戸北野異人館街・パリ市モンマルトル地区 友好交流展~」を開催中。
シティ・ループ
私はJR三ノ宮駅から歩いてきたが、このバスを利用する人も少なくないようだ。なかなか格好が良いバスだ。
シティ・ループ

 

兵庫県内を見て回る(6)

豊岡の田んぼにて
もしかしたら、放鳥されているコウノトリが見られるかもしれないということで、いるとしたらこの辺りという田んぼに行ってみた。
が、残念ながら、コウノトリはおらず、撮っているカメラマンさんも皆無だった。これはだめだと思いつつも諦めきれずにぐずぐずしていたら、運よくコウノトリさんが戻ってきてくれた。

案内してくれたkazさんが撮影した画像
何がどうなっているのかはっきりわかる。カワセミ専門であっても、手慣れたものだ。
kazさん撮影分_1
kazさん撮影分_2
私のカメラ&レンズで撮影した分
トリミングなしだが、がっかりするほどの出来の悪い画像だった。泣けてきた。
AzTak撮影分_1
AzTak撮影分_2
AzTak撮影分_3
AzTak撮影分_4
AzTak撮影分_5
AzTak撮影分_6
AzTak撮影分_7
AzTak撮影分_8
AzTak撮影分_9
これは近くにいたアオサギ
AzTak撮影分_10
案内してくれたkazさんの撮影機材
怪物の機材一式だ。今の私の財布では購入もできないし、あったとしても、爆弾を抱えた足腰の状態では、抱えることもできない。
NIKON D4sに純正の600mm単焦点+2倍テレコンという構成。この日は使用していなかったが、照準器なども使用するようだ。

kazさんの撮影機材

 

兵庫県内を見て回る(5)

出石にて(4)
レンズフードが適正なものでなかったので、何ショットかはケラレが出てしまった。ご容赦願いたい
谷山川と登城橋
その昔は、お濠の役目を果たすべく、下流に堰を作って水がある程度以上の深さになるようにしていたのだろうか。この水量ならば、私でも簡単に渡ることができてしまいそうだ。
谷山川と登城橋
大手前通り
大手前通り_1
大手前通り_2
大手前通り_3
リアルなコウノトリのフィギュア。この店を見させるには十分なほどの迫力だった。
リアルなコウノトリのフィギュア_1
リアルなコウノトリのフィギュア_2
福成寺
城下にはいくつか、お城を防衛する意味合いのあるお寺が配置されている。この福成寺もそのような役目を果たしていたようだ。
福成寺_1
福成寺_2
福成寺_3
福成寺_4
福成寺福成寺の創建は不詳ですが元々は矢次山の中腹にありましたが正平年間(1346~70)に出石弘原庄下村花山に移り、出石城が築かれた際、日野辺街道からの敵の侵入を防ぐ為現在地に移されました。山門は豊岡陣屋の表門を移築したものと伝えられています。
出石家老屋敷
拝観料100円だが、シニアは50円だそうだ。そのような表記はなく、こちらも何も言わないのに、『65歳以上の方ですか』と聞かれた。よほど爺くさい面に見えたようだ。小藩の家老宅はこんなものかなと思うほどの広さ。
出石家老屋敷_1
出石城内にあった江戸後期の上級武士(家老級)の居宅で、場所としては、仙石騒動の中心人物、仙石左京の屋敷があった場所だそうだ。博物館になっているために展示品はかなりあった。武具の展示はガラスケースに収納されているものが多かった。反射がすごくて、うまく撮ることができなかった。
出石家老屋敷_0
家老だった人物のフィギュアなのだろう。背後の掛け軸は書かれてある内容を見ると、そんなに古いものではないようだ。出石そばの店だとか辰鼓楼とかが出てくることからもわかる。
出石家老屋敷_2
外観は平屋のように見えるが隠し二階がある。
出石家老屋敷_3
出石藩の剣術は人見流という流派の様だ。こういう展示物にも千社札を貼る馬鹿者がいるようだ。
出石家老屋敷_4
こちらは墨が見えにくくて、何を意味しているのかよくわからなかった。あとで、拡大して読んでみると、『重房流棒術』と書かれているようだった。
出石家老屋敷_5
こちらは免状
出石家老屋敷_6
隠し二階は、それほど狭くはなかった
出石家老屋敷_7
こちらは一階の展示物
出石家老屋敷_8
出石家老屋敷_9
出石家老屋敷_10
出石家老屋敷_11
出石家老屋敷_12
出石家老屋敷_13
門のところに格納されていた屋台
現存する屋台はこの1基のみだそうだ。格納場所から出すときは分解して出すようだ。
出石家老屋敷_14
出石家老屋敷_15
おりゅう灯籠
移動途中に見たが、写真を撮ることができなかった。free画像を借用した。
おりゅう灯籠_1
おりゅう灯籠_2
かつては日本海より三十石船が入れるほど広かった谷山川(旧出石川)の大橋東詰にあった船着場の灯籠である。
「おりゅう」という名の由来は、鎌倉時代の悲恋物語の主人公「おりゅう」にちなんだものとされている。灯籠のすぐそばには柳の木があり、おりゅうと恋人が寄り添う様子に見立てている。現在では常夜灯として使用されている。


時間が押してきたので、出石を後にして、コウノトリがいるかもしれない田んぼに向かう。

 

兵庫県内を見て回る(4)

出石にて(3)
有子山稲荷神社
本丸よりも一段上にある。神社だから殿様よりも高いところに位置していても構わなかったのだろうか。驚いたことに江戸時代から身分を問わず参詣が許可されていたそうだ。あまり格式などを気にする藩主ではなかったようだ。
曲輪稲荷郭に1604年の築城時から現在地に鎮座する城の鎮守である。城郭内にありながら、江戸時代から身分を問わず参詣が許可されていた。城の麓から始まる石段の参道には、37基の鳥居が並び、157段上った右手に稲荷郭があり、その奥に社殿がある。
参道
期待していなかったが紅葉が見事だった
参道_1
参道_2
参道突き当り
ここで右折するが、かつてのお城に登城するにはさらに急峻な道を延々と登らなければいけないようだ。山頂部のお城を廃城にする決断をしてくれて助かった。
参道突き当り_1
参道突き当り_2
かつてはこの山上にあったのだ。想像しただけでも気が滅入るほどだ。標高321m。三の丸からでも標高差は200m以上はありそうだ。
有子山の山頂
曲輪稲荷郭跡
いまは有子山稲荷神社本殿の他には何もない。
曲輪稲荷郭跡
有子山稲荷神社本殿
有子山稲荷神社本殿_1
有子山稲荷神社本殿_2
有子山稲荷神社本殿_3
有子山稲荷神社本殿_4
曲輪稲荷郭跡からの眺望
曲輪稲荷郭跡からの眺望_1
曲輪稲荷郭跡からの眺望_2
曲輪稲荷郭跡からの眺望_3
曲輪稲荷郭跡からの眺望_4
麓にある拝殿
麓にある拝殿_1
free画像を借用
麓にある拝殿_2

 

兵庫県内を見て回る(3)

出石(いずし)にて(2)
出石城跡
もともとは、標高321mの有子山山頂を天守とする有子山城があったそうだ。登城がさぞかし大変だったことだろうと思ったのだが、1604年(慶長9)、小出吉英により有子山城の山上の丸および天守部分が廃され、有子山城山麓の郭および館のみを出石城と命名し幕府に居城として届けた。それにともない平地に、堀で囲まれた三の丸が築かれ、下郭、二の丸、本丸、稲荷丸が階段状に築かれたそうだ。
そうか、途中から形式よりも実利を重視したんだ。山麓の郭でも十分、天守閣の代用となる。

以下はfree画像2点
お城の見取り図
お城の見取り図
山上の本丸があった、その跡
山上の本丸があった、その跡
一部写真にレンズフードの問題でケラレが出ている。この旅行後、正しいレンズフードに交換した。今回は我慢して見ていただきたい。
登城橋
登城橋
登城門
登城門
本丸西隅櫓が見えてきた
こじんまりとした櫓だ。手前に石垣が積んである一画は二の丸跡。上の見取り図の通り、かつての二の丸はもっと広かった。
本丸西隅櫓が見えてきた_1
本丸西隅櫓が見えてきた_2
本丸跡
本丸跡_1
本丸跡_2
本丸は思ったよりも狭い。本丸御殿も相応の大きさだったのだろう。考えてみれば、江戸城の本丸だってそう広くはないのだから、藩の格式相応なのかもしれないが。
本丸跡_3
本丸跡_4
本丸西隅櫓
建物の内部に立入ることはできないようだ。東隅櫓と西隅櫓とは1968年(昭和43年)に復元されたそうだ。これが有ると無いとでは景観がまるで違う。
本丸西隅櫓_1
本丸西隅櫓_2
感応殿
この社殿は、感応殿といい、出石藩主仙石氏の祖権兵衛秀久公を祀っています。公は美濃(岐阜県)の人で、豊臣秀吉に仕えて功があり洲本、高松の城主となり一時勘気を受けて浪人しましたが、小田原攻めで奮戦し小諸城主に返り咲きました。その豪勇のほどは大盗賊石川五右衛門を捕らえた豪傑として伝説化されています。仙石氏は、公のあと子の忠政が信州上田に移り玄孫政明が宝永三年(一七〇六)に出石に移封されて五万八千石を領し以来廃藩まで七代百六十三年間続きました。明治に入って旧家臣らによって本丸跡に公を祀る感応殿が建立され今日に至っています。以後町の人々は本丸を権兵衛さんと愛称をもって呼び、例祭は五月の祥月命日に行われています。
感応殿
本丸跡からの眺め
ここからの眺めはさほど良くない。大変でも、一段上にある曲輪稲荷郭に上った方が眺望は遥かに良い。
本丸跡からの眺め
東隅櫓
東隅櫓
曲輪稲荷郭
本丸を見下ろすような形になっている。藩主は気にしなかったものなのだろうか、とこちらが気になってしまった。次回そちらの様子を取り上げる。
曲輪稲荷郭

 

兵庫県内を見て回る(2)

出石にて(1)
写真展を見させてもらった後、その日いっぱい、ブログ仲間のkazさんに付き合ってもらった。我々が向かったのは、兵庫県豊岡市。出石で名物の皿そばを食べ、城下町を少し見て回り、そのあと、運が良ければコウノトリをみる。そんな大まかなスケジュールでいざ出発。
三の丸跡で開催された新蕎麦まつり
宿に戻ってNHKニュースを見ていたら、取り上げられていた。まさか、己の不格好な姿をTVに映されてはいなかったと思うが、注意しなくちゃ。そういえば、蕎麦玉ってのがあるそうだ。日本酒の場合の杉玉と同じで、『新蕎麦ができたよ』というしるしにするらしい。蕎麦玉を見たわけではないが、タイミング的には、そのタイミングだったようだ。
新蕎麦まつり_1
新蕎麦まつり_2
新蕎麦まつり_3
新蕎麦まつり_4
新蕎麦まつり_5
辰鼓楼
明治4年に建てられたが、当初は太鼓で時を知らせていた。そして、明治14年に地元の名医の池口忠恕が寄贈した大時計が設置されたとか。この時から時計塔となったのだが、札幌の時計台も同年に設置された。辰鼓楼は、日本最古の時計塔だと言われているが、どちらが先だったのだろうか。
辰鼓楼_1
辰鼓楼_2
辰鼓楼_3
蕎麦を食す
名物の出石そばを食べた。名物とされる皿そばを1人前と鴨汁蕎麦1人前とを注文した。非常においしかった。私が勘定を支払うつもりでいたのだが、申し訳ないことに奢っていただいた。そんな展開になるなら1人前にしておくのだった。
皿そば
お手塩皿5枚に盛ってある。ちゃんこ蕎麦と同じくらいのボリュームだ。独特のコシがあって、大満足。福島の大内宿といい、こちらの出石といい、信州からの蕎麦食文化が伝わったんだ。
皿そば
ごちそうになった上にワサビまですりおろしてもらった。何から何まで、やっていただいて恐縮至極。
皿蕎麦を食べる準備中
鴨汁蕎麦
鴨汁蕎麦
店内の様子
さざれ石。岐阜県のものだが、どうしたわけか、兵庫県内で2度も見かけた。こちらの方はお好きなのだろうか。
店内の様子_1
店内の様子_2
店内の様子_3
これは何だろう。オニユズかなあ。
店内の様子_4
店内の様子_5
江戸時代中期の宝永3年(1706年)信濃国上田藩より但馬国出石藩に国替えとなった仙石政明が、蕎麦(信州そば)職人を連れてきたことに始まるとされる。現在は割り子そばの形態をとっており、この形式となったのは幕末の頃で、屋台で供される際に持ち運びが便利な手塩皿(てしょうざら)に蕎麦を盛って提供したことに始まるとされる。昭和30年代(1955年~1964年)に「出石皿そば」として現在見られるスタイルが確立された。

 

兵庫県内を見て回る(1)

野鳥を見るのが大好きなのだが、生来の鈍臭さが災いして、野鳥さんに相手にしてもらえない。仕方なく、いろんな方のブログで鳥の写真を拝見して、代理体験をさせていただいている。
そんな時に、訪問先の方が仲間たちと作品展を開催するということを聞いた。行ってみてみたいものだと思ったが、折あしく、間欠性跛行に悩まされる羽目に。どうしたものかと思っていたが、ほんの少しだけ状況が好転したので、相手様の迷惑をも顧みず、作品展を見に押しかけた。
ついでに、現地で一泊して、兵庫県内を見て回った。以下は、その時の様子。車中泊2、現地泊1の強行日程だったが、何とか持ちこたえることができた。

JR宝塚線新三田駅前
これ以上ないくらいの青空だった。作品展出展者の方たちは、千丈寺湖が活動のホームグランドだとか。う~~ん、かなり奥まった所のようだ。
新三田駅前_1
新三田駅前_2
作品展
作品展はヤマセミ撮影愛好家たちの意見が一致して、今回初めて実施したとのこと。
素晴らしい作品のオンパレードだったのだが、メインの一角は硝子の反射で撮影できなかった。次回は、もしかしたら、硝子は無しの方が良いのかなあ、などと素人は勝手に考えたりした。

作品展_1
作品展_2
光があまり差し込まない一角の写真を証拠写真として何枚か撮らせていただいた。誤解なさる方もいないとは思うが、私の作品ではないので、念のため。
しかし、すごい写真が続々出てくるのには驚いた。メンバーの一人は台湾に定期的にいくとかで、そちらでの写真もあった。話に夢中になって、証拠写真を撮り忘れた。

作品展_3
作品展_4
作品展_5
作品展_6
作品展_7

 

七五三の祝い

同居している孫娘の七五三の祝いをした。いま時はカトリック教会でも、日本の風習を取り入れてミサ中に祝福を行うことに吝かではないようで、だいぶ以前から普通に行われている。息子・娘たちの時ももちろんあった。
それから30年、一世代先に移り、こちらはニコニコ見ているだけになった。まあ、財布だけは開けなくてはいけないが。

ミサ前の様子
ミサ前の様子_1
ミサ前の様子_2
ミサ前の様子_3
七五三の祝福
ミサ中に行われた祝福。主任司祭が七五三の子供たちに祝福の聖水をかける。何ということはないのだが、有難いこととされる。
七五三の祝福_1
七五三の祝福_2
七五三の祝福_3
七五三の祝福_4
七五三の祝福_5
七五三の祝福_6
集合写真の撮影
プロカメラマン氏もこの日は大変。すぐ飽きてちょろちょろし出すこどもたちが大勢だから。
集合写真の撮影_1
集合写真の撮影_2
集合写真の撮影_3
集合写真の撮影_4
集合写真の撮影_5
集合写真の撮影_6
集合写真の撮影_7
集合写真の撮影_8
集合写真の撮影_9
集合写真の撮影_10
集合写真の撮影_11
集合写真の撮影_12
集合写真の撮影_13
集合写真の撮影_14
寛いで
寛いで_1
寛いで_2
着かえてリラックスした様子
着かえてリラックスした様子

 

またも出かけた日本民家園(18)

(23)菅原家住宅《東北の村》
外観
グシグラという屋根棟
神社にあるそれを思わせる。何ともすごいものだ。
外観_1
外観_2
外観_3
外観_4
外観_5
外観_6
外観_7
角(かど)に角(つの)があるような独特のやり方。今まで気づかなかった。
外観_8
屋内
間取り
間取り
アマヤ
濡れた雨具は、ここにつるした。湿気を屋内に持ち込まないようにしたのだろう。
屋内_1
ニワ・ナヤ・モノオキ・イナベヤ
屋内_2
このくらいの隙間は雪の時には囲いをするだろうから、気にならなかったと思う。
屋内_3
使いやすそうな座り流し。武者窓もしっかり備えてあったようだ。熊などが顔をのぞかせても困るだろうから、当然なのだろう。
屋内_4
オメエ
火棚のついた囲炉裏がある。しっかり木をくべたのだろう。家族が集う現在のリビング的な間だろう。
屋内_5
屋内_6
シモデ
こちらにも囲炉裏があったが、火棚はつけていない。囲炉裏としては補助的な位置づけだったのではなかろうか。その先に見える畳の間はカミデ。
屋内_7
表示にはデイと書かれてあった。間取り図と表記が異なるなあ。でも『下デイ』という意味合いなのだろう。客をもてなすことができる少しかしこまった部屋のようだ。
屋内_8
シモデの外から中を見た様子。奥はオメエだ。
屋内_9
カミデ
『上デイ』ということなのだろう。床の間やアミダサマと呼ばれる仏壇・仏具入れなどがある。
屋内_10

神奈川県指定重要文化財
旧所在地:山形県鶴岡市松沢
建物区分:農家(肝煎の家)
構造形式:寄棟造(高ハッポウおよびハッポウ付き)、妻入、一部二階、背面庇付、茅葺、桁行15.8m、梁行9.6m
建築年代:18世紀末期
屋根に高窓のある豪雪地帯の家

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教育委員会の解説
古来より霊山としての信仰を集めた出羽三山の湯殿山・月山を東にひかえた、山形県東田川郡朝日村の田麦俣は、美しい外観を持つ「ハッポウ造」民家のふるさととしてよく知られている。菅原家住宅は同じ朝日村だが、田麦俣とは谷ひとつを隔てた大鳥川沿いの松沢に所在していた。同じ村のうちでも、田麦俣の民家とは外観も間取りも異なり、むしろ南に隣接する越後の朝日山麓の民家に親近性を持つといわれる。
菅原家は代々肝煎を勤めたと伝える有力農家で、その主屋は18世紀末頃の建築と推定されている。妻側に設けられた入口の上部2階はセガイで持ち出し、高ハッポウと呼ばれる開口部を設ける形が、この家の外観の最も大きな特徴である。この地方は有数の豪雪地帯で、高ハッポウは積雪時の出入口としても利用したようである。また、屋根の平側にも開口部(ハッポウと呼ぶ)を設け、小屋裏の採光と換気に役立てている。急勾配の屋根の棟上に置かれた、神社の置千木を思わせるようなグシグラも特徴的である。
土間への出入口は妻側に設けられたアマヤの奥に置かれる。アマヤは今でいう風除室、あるいは雪よけのための施設だろう。床上は4室からなり、表(南)にデイ(シモデ)・カミデイの2室の客座敷を置く。田麦俣ではこれらは妻側に置かれるから、両者は異なる系統の間取りである。カミデイは唯一の畳敷の部屋で、床の間の隣りにアミダサマが設けられるのもこの家の特色である。村の人々がここに集まって、大きな数珠をみんなで繰回しながら念仏を唱える、いわゆる百万遍念仏を行ったというから、肝煎という家柄ならではの施設であったのだろう。竿縁天井を張るが、竿縁が床の間に直交する、いわゆる床刺しであるのが珍しい。デイの裏側のオメエはこの家の中心で、大きな囲炉裏の上にはアマダナが設けられ、衣類の乾燥や、食物をいぶして保存するためなどに用いられた。ウーヘヤは寝室で、ここには低い中2階が設けられている。ウーヘヤを除く部屋の天井は高く、デイ及び土間は根太天井、オメエは竹簀子天井である。また壁は土壁を用いず、すべて板壁である。
構造は4周の半間幅を下屋とし、チョーナ梁を用いるのは合掌造と同じである。オメエの上部を除いて板敷の2階が造られ、一部は3階とする。高ハッポウのある妻側2階は床が一段低いが、これは積雪時の出入りを考慮してのことだろう。田麦俣の特徴ある多層民家の形成は、明治期に入って養蚕が盛んになり、そのために必要な床面積を増やすために2階・3階を設け、そしてそこの換気や採光のための開口部が必要となったため、ハッポウや高ハッポウが造られた結果とされている。菅原家も多層民家ではあるが、建立時期は田麦俣のハッポウ造よりも古く、そのため高ハッポウも小さい。平側のハッポウも旧状にならって取り付けられているが、創建時にあったか否かは明らかでない。
以上のように、菅原家住宅は同じ村内でありながら田麦俣の民家とはやや異質な多層民家であり、また高ハッポウを持つ民家としては古く、この地方の養蚕と民家の形式の関係を知るうえで重要な遺構である。


以上で、『またも出かけた日本民家園』シリーズは終了です。最後までご覧いただきありがとうございました。

 

またも出かけた日本民家園(17)

(22)工藤家住宅《東北の村》
国指定重要文化財の南部の曲屋。当初から曲屋として造られたものとしてはごく初期のものらしい。この家屋は日本民家園のコースから分岐した位置にあって見落とすことが少なくなく、確か私は2度目の見学。床上公開には当たったことがない。
主屋には天井がない。厳しい冬場は囲炉裏の火で家全体を暖めながらすごした。言ってみればセントラルヒーティング。ダイドコの囲炉裏はニワからも利用することができるのはいいのだが、見た感じでは囲炉裏がたった一つしかないようだ。それも非常に大きいとは言いかねるものだ。厳冬期には震えあがるほどに寒かったのではないのかと気になって仕方がない。

外観
その後に作られた曲屋はもう少し曲がり部分が長いようだ
外観_1
外観_2
外観_3
外観_4
屋内
間取り
間取り
大きな囲炉裏
そのように教育委員会の解説に記載されていた。しかし、特に大きいとは思えない。ニワからも履物を脱がずに温まることができるようにはなっているが、このかなり大きな家屋全体を温める暖房源としては、何とも心もとなく思えてしまう。
屋内_1
屋内_2
ニワ
大戸口と隣接するマヤ辺りを見た様子。この部分だけでもかなり広いことがわかる。囲炉裏が一つだけで足りるのか心配になるのは私だけだろうか。
屋内_3
ダイドコ
屋外からダイドコやニワ、ジョウイなどを見た様子。天井は吹き抜けになっていて、ここから暖気が各部屋に回すようになっていた。
屋内_4
ジョウイとカッテノマ
屋内_5
ザシキ
囲炉裏から一番遠く、客用の部屋だと思われるのに、相当に寒そうに見える。雪が深くなる冬季には訪ねる人も少なくなるということだろうか。火鉢などは移築の際に処分したのか、それとも最初から用意しなかったのだろうか。
屋内_6
シモザシキとザシキ
屋内_7
屋内_8

国指定重要文化財
旧所在地:岩手県紫波郡紫波町舟久保
建物区分:農家(名主の家)、曲屋
構造形式:寄棟造、茅葺、桁行19.2m、梁行11.1m/南面に馬屋突出、寄棟造、茅葺、桁行7.6m、梁行6.3m
建築年代:宝暦(1751〜1763)頃

 

またも出かけた日本民家園(16)

(21)菅の船頭小屋《神奈川の村》
園内の建物に含めるかどうかは微妙だが、この建物が一番新しく築後86年。あまりにくたびれているので少なくとも百年は経過しているのかと思ってみていたが、意外に新しいものだと知って驚かされた。そして、渡し場自体は昭和48年まで存続した様だ。
この船頭小屋は多摩川の「菅(すげ)の渡し場」にあったもので、船頭が客待ち・休憩・川の見張りをするのに用いていた。
屋根は杉皮葺きで、前後に傾斜させた「招き屋根」の形をしている。そして前後につけられている鉄環がわかるだろうか。これは反対側にもついている。これに棒を通し、いざというときに安全なところまで担いで非難したのだそうだ。4人で担いだのだろうか。重量的には力持ちならば1人でもイケそうな感じだが、非常時には4人も人が確保できないかもしれない。担ぎ方次第では2人でもイケたのかなあ。

菅の船頭小屋_1
担ぎ方はこんなふう
担ぎ方のイラスト
正面からの写真は昨年6月のもの。気づかなかったが、障子戸は開けると宙に浮く感じなんだ。
菅の船頭小屋_2
背面には小さな窓があり、対岸の客を見ることができるようになっていた。窓がついているのは承知していたが、そういう使い方をしたのか。気が付かなかった。
菅の船頭小屋_3

『多摩川の渡し』を説明したHPへjump

川崎市重要歴史記念物
旧所在地:神奈川県川崎市多摩区菅
建物区分:船頭小屋
構造形式:切妻造、杉皮葺、桁行1.8m、梁行1.8m
建築年代:昭和4年(1929)

 

またも出かけた日本民家園(15)

(19)岩澤家住宅《神奈川の村》
宮ヶ瀬ダムがあるので知る人ぞ知る神奈川県の西端近くに位置する清川村。そこにあった岩澤家住宅。茶畑に囲まれた山間の農家だったそうだ。今ならば、バードウォッチングなどに出かける人が少なくないかもしれない。
外観
外から見ると、薄暗い家屋のような印象だ。
耐震や傾きの補強のため、仮設の処置がしてあるのが気になる。目立たなく、さりげなく行う方法はなかったのだろうか。
外観
屋内
外観の印象とは異なり案外採光性が良く、明るい感じが屋内を支配していた。印象はかなり良い。写真も比較的よく撮れた。
間取り
間取り
ダイドコロ
茶畑に囲まれた山間の農家なのだから、ホイロがあるのは当然のことだろう。
ダイドコロ_1
ダイドコロ_2
ダイドコロ_3
移築後、少し傾きが増したのだろうか。隙間が気になる。
ダイドコロ_4
ザシキ
外から見た感じはそれほど広くは感じなかったが、中で見ると意外に広く感じられた。落ち着いたたたずまいで、いいなあと思える。
ザシキ_1
ザシキ_2
デエ
正面を半間後退させ、ここに屋外からザシキへの出入口を設けてある。また、押板(床の間の前身)を備えている。デエの右奥のところがそうだと思う。唯一の畳敷きの部屋だ。奥に見えるのはヘヤだ。コントラストがきつくてわかりにくいと思うが、お分かりいただけるだろうか。
デエ_1
デエ_2

神奈川県指定重要文化財
旧所在地:神奈川県愛甲郡清川村煤ヶ谷
建物区分:農家(名主の家)
構造形式:入母屋造、茅葺、桁行14.5m、梁行7.3m
建築年代:17世紀末期

 

またも出かけた日本民家園(14)

(18)蚕影山祠堂(こかげさんしどう)《神奈川の村》
今まで小さく脇役としてしか取り上げていなかったが、少し写真が撮れたので、独立して取り上げる。
この建物は川崎市麻生区の東光院境内にあったもので、養蚕の神「蚕影山大権現(こかげさんだいごんげん)」を祀った宮殿(くうでん)と、その覆堂(さやどう)から成っている。
それにしても、蚕が4回も休眠するとは知らなかった。

外観(覆堂)
実にフォルムが美しい。芝棟も実に良い具合になっている。
外観(覆堂)_1
外観(覆堂)_2
外観(覆堂)_3
芝棟のイチハツはどちらの家の方がきれいに咲くのだろうか
外観(覆堂)_4
祠堂内部(宮殿)
正面に唐破風を設けた春日造風の社。蚕影山大権現を祭ってある。つまり養蚕の神様に願いをかけたのだ。川崎市麻生区は財務相の住む土地ではなく、その昔はお蚕さんを大事に飼っていた土地柄だったようだ。
祠堂内部(宮殿)_1
宮殿に施された彫刻
金色姫の苦難の物語、獅子・鷹・舟・庭の4場面が彫刻されている。今までどこにあるのかわからなかったのだが、宮殿の側面にあることがようやくわかった。
祠堂内部(宮殿)_2
祠堂内部(宮殿)_3
祠堂内部(宮殿)_4
祠堂内部(宮殿)_5
祠堂内部(宮殿)_6
金色姫伝説を表現した側面の彫刻です。金色姫は天竺(現在のインド)に生まれ、四度の大苦難ののち、馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)の化身として日本に養蚕を伝えたといいます。この彫刻は養蚕の起源を説くもので、四度の大苦難は蚕の四回の休眠(食事をせず動かなくなる脱皮前の時期)を象徴しています。

川崎市重要歴史記念物
旧所在地:神奈川県川崎市麻生区岡上 東光院内
建物区分:宮殿および覆堂
構造形式:宮殿=一間社春日造、向唐破風造、こけら葺
覆堂=正面入母屋造、背面寄棟造、茅葺、桁行4.6m、梁行2.7m
建築年代:文久三年(1863)、宮殿棟札

 

またも出かけた日本民家園(13)

(17)伊藤家住宅《神奈川の村》
この住宅は、民家としては神奈川県で最初に国から重要文化財に指定された。この家の保存運動をきっかけに誕生したのが日本民家園だそうだ。なかなか立派な家屋だと思うのだが、ここも竹簀子の間があるのだ。北村家とともに、竹簀子の間は国指定重要文化財コンビになるわけだ。
外観
相当立派な外観だ。文句の付けどころがない感じだと思う。
外観_1
重要な要件がある客はそのままデイに上がり込んだようだ。そのために、縁台が置かれた。
外観_2
屋内
間取り
間取り
ドマ(ダイドコロ)
大戸口側から勝手口方向を見た様子。勝手口の脇にはすわり流しと無双窓とがある。
屋内_1
ドマは半ば仕切られて、一部をミソベヤとしてある
屋内_2
屋内_3
屋内_12
屋内_13
ヒロマ
竹簀子の床になっている。立派な外観にはそぐわない感じがしないでもない。
屋内_4
屋内_5
ヒロマからドマの方向を見た様子。竹簀子以外は堂々とした感じだ。
屋内_7
屋内_8
屋内_9
屋内_11
デイ
客をもてなす立派な部屋だ。これを目にすると、ヒロマを竹簀子の床にしている意味合いがわからなくなる。
屋内_6
屋内_14

国指定重要文化財
旧所在地:神奈川県川崎市麻生区金程
建物区分:農家(名主の家)
構造形式:入母屋造、茅葺、桁行16.4m、梁行9.1m
建築年代:17世紀末期〜18世紀初期
民家園誕生のきっかけとなった川崎の民家

 

またも出かけた日本民家園(12)

(16)清宮家住宅《神奈川の村》
園内で一番古いと考えられる家で、非常に閉鎖的な造りだそうだ。確かに開口部などは断然少ない感じだ。少し室内の採光性が良くないようだ。北村家住宅が328年前の建物だそうだから、それより古いとなると、350年ほど前の建物だろうか。17世紀後期と推定するだけでは、経年数がよくわからないが、その間に専門家の目から見ると時代が変わったとする要素が見られるのだろう。
建物はこの民家園からそれほど離れていない市内の多摩区登戸にあったそうだ。

外観
芝棟の植物はイチハツ。最初に見た時はぺんぺん草が生えているのだと勘違いした。5月には白い花が咲くようだ。それも見たことがあるが、ぺんぺん草の類にしてはきれいだなと思ったほどだから、鈍感すぎたようだ。
イチハツ(一初、学名:Iris tectorum )はアヤメ科アヤメ属の多年草。アヤメの類で一番先に咲くので、「一初(イチハツ)」の名があるそうだ。白い花だった記憶があるので、シロバナイチハツだと思う。

外観_1
デエは外から出入りするときの利便を考えてのことだろうが、庇を少し長く張り出してある
外観_2
茅葺き屋根の裏側にはびっしりと苔が生えている。これでも大丈夫なのか心配になるほどだ。
外観_3
屋内
間取り
間取り
デエドコ
屋内には勝手がない。炊事は目の前に小川が流れていたので、そこで行ったそうだ。
屋内_1
屋内_2
屋内_3
ヒロマ
屋内_4
土間とヒロマの境には格子窓があった。何の目的があったのだろうか。
屋内_5
デエ
屋内_6
ウラベヤ
この家のものではないと思うが、実に珍しい車長持があった。明暦三年の振袖大火の際に、これがつっかえ通せんぼして、被害を大きくしたようだ。それがために、車付きの長持は天和三年に製造を禁止されたとか。
この部屋は布団を畳んで重ねて置いてあった部屋なのだろうか。

屋内_7
屋内_8
ヘヤ
ヘヤという名前の納戸。竹簀子の間になっていたようだ。もちろん筵などなし。用事があるときは、竹踏み健康法を実践することになろう。納戸だから、それでもかまわなかったのだろうか。
屋内_9
立派な手斧梁だ
屋内_10

神奈川県指定重要文化財
旧所在地:神奈川県川崎市多摩区登戸
建物区分:農家
構造形式:寄棟造、茅葺、桁行13.6m、梁行8.2m
建築年代:17世紀後期

 

またも出かけた日本民家園(11)

(15)北村家住宅《神奈川の村》
国指定の重要文化財が続く。こちらも、日本民家園の説明によれば、建築年代がはっきりしていて(今から328年前の建築物)、建築としても非常に優れており、日本で最も重要な民家の一つといえると激賞している。
それはさておき、板の間がないわけではないが、かなりの部分が『竹簀子の間』になっている。既出の『土座』にも驚かされたが、こちらも負けていない感じだ。素人目には、こちらの竹簀子の間の方が、専門家の着目点より衝撃的に映る。

外観
外観_1
客人はこの縁側から『オク』に入るようになっていた。まさか、竹簀子を歩いて『オク』に向かってもらうのは憚られたのだろう。
外観_2
屋内
間取り
間取り
筵が敷いてあるとはいえ、竹の節や結わえる紐があった。これに当たる確率は少なからずあったことだろう。長時間座っていても大丈夫だったのか気になる。また、冬は床下から冷気が吹き上げてきそうだ。う~~ん。
屋内_1
屋内_2
屋内_3
屋内_4
屋内_5
不思議なことに炊事場所だけは板の間だった。いわゆる座り流しだ。正座して賄い支度をしていたのだろう。
屋内_7
屋内_8
屋外
ごくわずか紅葉が見られた
屋外_1
校外学習がここでも行われていた。まさか天秤棒が出てくるとは思わなかった。
屋外_2
ここの果実はとってはいいのかなあ。いい訳ないか。
屋外_3

国指定重要文化財
旧所在地:神奈川県秦野市堀山下
建物区分:農家(名主の家)
構造形式:寄棟造、茅葺、桁行15.6m、梁行8.9m
建築年代:貞享四年(1687)、墨書
貞享四年の墨書が残る古民家

 

またも出かけた日本民家園(10)

(14)太田家住宅《関東の村》
日本民家園の移築前に既に国からの重要文化財の指定を受けていた貴重な家屋。それが何ということか、園外からのロケット花火が茅葺き屋根に落下し、炎上した。一旦は鎮火したように見え、部分焼損で済んだかのように思われた。しかし、その夜に再度出火し、主屋を焼損した。通常の概念からすれば、全焼というべき状態だ。我々が見たものは、復旧修理工事が施された後のものだ。
外観
分棟型家屋といってもあとで継ぎ足した方が面積的に小さいと思うだろうが、こちらはむしろ大きい。広角レンズでデフォルメされているせいもあるが、明らかに大きい。間取り図でも確認したが、間違いがないようだ。
外観_1
外観_2
屋内
間取り
間取り
分棟型である分、土間が異様に広い。何もないと殺風景なのか、社会教育用の教材が置かれていた。一軒の家屋にこういうものが網羅されているなどということはないはずだが、校外学習中の子供たち用なのだろう。
解体時の発掘調査によれば、当初の土間は桁行2.5間程度の小さなものだったようだ。普通はそれが標準的なものだっただろうと思う。

屋内_1
屋内_2
撮っている辺りがもともとの土間だったようだ。それが理由があって、思い切り広げたようだ。
屋内_3
ここで刈り入れてきた雑穀などの保存のための処理が行われていたようだ。今のイメージで言えば、大規模農業法人のミニ工場といったところだろうか。
屋内_4
屋内_5
こちらも雨樋が
雨樋_1
大して隙間がないと思っていたのだが、案外大きな隙間だった。これは、雨樋を設置しなければ、境目辺りがびしょびしょになってしまうわけだ。
雨樋_2
主屋棟の焼損
平成2年7月29日、生田緑地内で打ち上げられた花火が屋根に落下し、主屋のヘヤを中心に焼損したが、復旧修理工事が行われ、平成4年10月31日に竣工した。
その様子を記録したYou Tubeにjump

国指定重要文化財
旧所在地:茨城県笠間市片庭
建物区分:農家(名主の家)、分棟型
構造形式:主屋=寄棟造、茅葺、桁行9.6m、梁行8.3m/土間=寄棟造、妻入、茅葺、桁行10.0m、梁行8.3m
建築年代:主屋=17世紀後期/土間=18世紀後期
家の中に雨どいのある二つ屋根の家

 

またも出かけた日本民家園(9)

(13)広瀬家住宅《関東の村》
特徴が多い家屋だ。まず、風の強い山の斜面にあったため、大戸口側の軒が異常に低くなっている。茅葺屋根のてっぺんには芝棟がある。そして、居間には床板を張らず、地面の上に茅束とむしろを敷いて暮らしていた。
外観
前記したとおり、大戸口側の軒が異常に低い。1.7mを少し超えるくらいの私でも、屈まないとまともにぶつかる。1.6mくらいの人でもぶつかるかもしれないほどだ。そして屋根のてっぺんは芝棟になっている。棟を泥土で固めて雨が入りにくくしてある。その泥土が流れてしまわないように根を張らせるのだ。この家屋の場合は、イワヒバを植えている。
外観_1
外観_2
外観_3
外観_4
外観_5
茅葺き屋根のてっぺんの部分を『棟』という。そのままでは雨に弱いので、しっかりした対策をとる必要がある。主要な方式は以下のようなものだそうだ。
竹簀巻き(たけすまき):編んだ竹で棟の茅を巻く構造。日本各地で多く見られる。
置千木(おきちぎ)  :木を組み合わせて棟を覆う構造。木材の豊富な山間部に見られる。
笄棟(こうがいむね) :茅を棟に積み重ね、屋根から突き出させた木材に締めて固定する構造
芝棟(しばむね)   :意図的に木や草を生やし、その根で棟の弛みをなくす構造

屋内
何といっても『土座』が目に付く。何しろ土間と同じ高さなのだから。見学者が目を丸くするのは当然だろう。説明のボランティアは床下からの隙間風が入らないので、案外快適だというのだが、時々、虫が這いまわるようなことがあるようだ。敷き茅を定期的に取り換えるなど、居住性を高める工夫はしていたそうなのだが。
間取り
間取り
土座
屋内_1
屋内_2
屋内_3
駄馬の背中に背負わせる道具だったようだ。荷鞍の一種なのだろうか。横木が渡してあると、背中が痛かったのではないかと同情してしまうのだが。
なお、駄馬とはダメな馬のことではなく、貨物を背中に載せて運搬するために利用される使役動物で、それが馬の場合にこのように言うようだ。

屋内_4
屋内_5
屋内_6
ちょうなで削った柱。手作り感があふれる。
屋内_7

神奈川県指定重要文化財
旧所在地:山梨県甲州市塩山上萩原
建物区分:農家
構造形式:切妻造、茅葺、桁行14.5m、梁行8.9m
建築年代:17世紀末期

 

またも出かけた日本民家園(8)

(11)作田家住宅《関東の村》
作田家住宅は、イワシの地引網漁で栄えた九十九里にあった網元の家。漁具小屋は別に海岸近くにあり、この家そのものは内陸に立地していたそうだ。そのため、特に漁村特有の家屋の雰囲気はあまりないとのことだ。半農半漁の地区で育った私でも、そのように感じる。
外観
分棟型の家屋であり、つなぎ目のところに雨樋が絶対に必要であるとわかる。何故、分棟型にしたのか、その理由はいくら考えてもよくわからない。
外観_1
外観_2
外観_3
外観_4
外観_
外観_6
室内
間取り
間取り
カミ・チャノマ
見事な梁組だ。どうやって組み上げたのだろうか。棟梁の頭の中をのぞいてみたいものだ。
室内_1
室内_2
室内_3
囲炉裏には火棚を設置していない。お蚕さんを飼っていたわけではなさそうなので、そう大量に煙をいきわたらせる必要がなかったのかもしれない。また、この家屋が所在したのが房総地方だったから、冬場もそれほどは寒くなかったのかもしれない。
室内_4
ニワ
ニワ(土間)の梁組はそれほど複雑ではない。だが、この梁組みの下に、ニワがまるまる収まる。馬鹿に広い空間だ。いったい何に利用したのだろうか。
室内_5
室内_6
室内_7
室内_8
分棟型家屋の雨樋
分棟型家屋の雨樋_1
分棟型家屋の雨樋_2
この下から雨水を落とす
分棟型家屋の雨樋_3
分棟型家屋の雨樋_4

国指定重要文化財
旧所在地:千葉県山武郡九十九里町作田
建物区分:漁家(網元の家)、分棟型
構造形式:主屋=寄棟造、茅葺、桁行13.0m、梁行11.1m、風呂場及び便所付属 土間=寄棟造、妻入、茅葺、桁行11.5m、梁行5.6m
建築年代:主屋=17世紀後期、土間=18世紀後期

 

またも出かけた日本民家園(7)

(9)野原家住宅《信越の村》
今回は、見て回ったところをすべて取り上げるのではなく、印象に残った建物をとりあげている。それでも床上公開の建物は漏らしていないつもり。
外観
外観_1
外観_2
室内
間取り
間取り
おえ
広間天井の太い梁を『牛梁』、ここから前後に渡してある曲がった梁を『チョウナ梁』という。チョウナ梁には名前通り根元が鋭く曲がった木材を使用している。が、比較的素直な木材の組み方がなされていた。私の単細胞の頭でも十分理解できる範囲だ。この先に、こんなものではすまない梁が出てくるので、とりあえず、行儀のよい様を記憶にとどめ置かれたい。
室内_1
室内_2
火棚
室内_3
大戸口から入ったすぐのあたり
谷から谷へ人間を渡すカゴで『渡し籠』と称する。こんな恐ろしげなものは私には到底利用できそうにない。庄川支流域の利賀(とが)谷にあった家屋なので、好むと好まざるとにかかわらず、こうした装置が必要だったのだろう。
室内_4
ざしきとぶつま
どこも来客用とご先祖様には特別な部屋をあてがったようだ。失礼ながら、この辺境の地に畳を運び込むのは大変な労苦があったのではないかと思う。どうしたのだろうか?
室内_5
室内_6
にわ
石の水舟がここでも使われていた。五箇山にはそういう風習があったのだろうか。
室内_7

(10)山下家住宅《信越の村》
こちらは、大々的に取り上げるつもりはなく、外観のみを見ていただく。
川崎市立日本民家園で唯一の、白川郷の合掌造民家だ。この合掌造は、川崎駅前で観光料亭に利用されていたものを、民家園に再移築したものだそうだ。外観は切妻造、平入り(現状は妻入り)、庇部分の屋根を石置き板葺きとするなど、典型的な白川系の合掌造。

山下家住宅_1
山下家住宅_2

 

全日本学生馬術大会2015表彰式(2)

団体表彰
1位は青、2位は赤、3位は黄である。大接戦の末、関西大を振り切って1位の栄誉に輝いた同志社大学は、見ての通り喜色満面だった。1992年以来23年振り、3度目の全国優勝だそうだ。
団体表彰_1
団体表彰_2
団体表彰_3
下の2つの副賞はチームには嬉しい商品だったことだろう。
団体表彰_5
団体表彰_6
団体表彰_7
1位:同志社大学(減点26)
同志社大学_1
個人3位の黄と団体1位の青とが誇らしげだ
同志社大学_2
同志社大学_3
同志社大学_4
同志社大学_5
2位:関西大学(減点29)
主将と思しき騎手。終始厳しい表情のままだった。2位に甘んじたのがよほど悔しかったのだろうか?
関西大学_1
関西大学_2
個人は1位だったが団体は無念の2位。やや放心したように見えた。
関西大学_3
関西大学_4
関西大学_5
3位:日本大学(減点47)
日本大学_1
日本大学_2
日本大学_3

 

全日本学生馬術大会2015表彰式(1) 2015.11.02 23:20追記

昼食後、バスに乗ってのんびり出かけた。馬事公苑近くに差し掛かるとかなりの人が退出してくる。『あれれ』と思ったら、障害飛越競技二回走行目が終わった直後のようだった。障害飛越競技はこれにて終了。終わってしまったものを悔やんでも仕方がない。
何か撮れないかなと思っていたら、個人と団体の表彰式が行われるという場内アナウンス。手ぶらも悲しいので、表彰式の様子を撮った。またしても、1.3Xクロップも連射モードも試さずに終わることと相成った。
入賞できた人たちはおめでとう。惜しくも入賞できなかった人たちは次回を期して頑張ろう。


個人表彰
選手氏名及び馬名は記憶できなかった。順位は次の通り。今回は男性騎手ばかりだった。たまたま1年生が大会を制したとアナウンスで言っていた。
1位:関西大学…松水優斗選手とバーデン・バーデン号
2位:日本大学…松本譲選手と桜宗号
3位:同志社大学…品川皇王選手とCセリカ号

個人表彰_1
個人表彰_2
関西大学
青が1位のしるし。手綱を握っていた女性部員も可愛かったなあ。
関西大学_1
関西大学_2
関西大学_3
これぞ晴れ姿かな。気分最高のことだろう。
関西大学_4
日本大学
赤が2位のしるし
日本大学_1
日本大学_2
赤のしるしをどうするのかなあ。あとでわかるので、見落とさないでいただきたい。
日本大学_3
同志社大学
黄が3位のしるし
同志社大学_1
同志社大学_2
同志社大学_3
同志社大学_4
ウィニング・ラン
ウィニング・ラン_1
ウィニング・ラン_2
ウィニング・ラン_3
ウィニング・ラン_4
ウィニング・ラン_5
赤のしるしをつけた位置が憎い。粋だねえ。
ウィニング・ラン_6
ウィニング・ラン_7
ここからはウィナーのみ
ウィニング・ラン_8
ウィニング・ラン_9

2位入賞の松本選手の演技のYouTubeへjump

 

またも出かけた日本民家園(6)

(7)江向家住宅《信越の村》
国指定の重要文化財の旧江向家住宅。この日は嬉しいことに床上公開対象になっていた。床上公開とは、囲炉裏に火を入れて茅葺き屋根の燻蒸を行う日なのだが、ボランティアの説明員が詰めて囲炉裏の火の番をしながら、実際に床の上に上がって室内を見て回ることを許可している。もちろん、質問があれば、説明もしてくれる。
外観
変わった感じの茅葺き屋根
こちらは茅葺きは縞のような感じに仕上げるスタイルのようだ。五箇山の茅葺き家屋の特徴的なものなのだろうか?
外観_1
外観_2
外観_3
煙に燻されて、『こりゃ堪らん』とばかりに飛び出してきたのだろうか。
外観_4
外観_5
外観_6
外観_7
屋内
間取り
間取り
大戸口を入ってすぐの箇所
馬屋がある。北側で大戸口にも近いが、おえの囲炉裏が近いので、寒さも何とかしのぐことができるかなあ。
屋内_1
屋内_2
にわ
台所の流し場には石の水舟を使っていた。耐久性のある豪華なものだと思う。常時水が流れてくるように作ってあるのだそうだ。これは炊事だけでなく、傍らで行っていた紙漉きに使用する水をためておく仕掛けでもあったとか。
屋内_3
紙漉きも行っていたようだ。このかまどは炊事用のものではなく、紙すきに使用するものだったとか。
屋内_4
おえ
いろりの上には火棚を吊る。火の粉がはぜて蚊帳などに火が移らないように食い止める防火の働きが第一。そのほかに暖気を循環させる働きもしただろう。さらに、草鞋やわら靴などの濡れた物品の乾燥にも役立ったことだろう。また、食べきれない魚は長期保存用に燻製にしたのだろう。
屋内_5
屋内_6
屋内_7
二階へ至る階段
十分に煙が回っているのがわかる。結構急勾配だ。よく見ると、三階への階段もあるぞ。
屋内_8
オマエ
何と畳敷きだ。その奥には、浄土真宗が盛んな地域のため仏間が設けられていた。
屋内_9
ヘヤ
客用の部屋以外に畳を敷くというような贅沢はしなかったようだ。夏は涼しくて気持ちが良かったかもしれないが、冬は寒かったかな。まあ、どこの家でもそうだったのだろう。
屋内_10

 

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