散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

第47回愛馬の日(1)

情けない話だが、足腰の調子が万全でないので、馬事公苑に愛馬の日のイベントを時間限定で見に行くことにした。私が見たのは、次の3つ。以下に順を追って取り上げる。2時間強ほど頑張った。
オープニングパレード
母衣引(ほろひき)[宮内庁主馬班]
流鏑馬(やぶさめ)[日本古式弓馬術協会 武田流一門]


オープニングパレード(1)
馬事アトラクションに出る人馬の代表が東京農業大学吹奏楽部の演奏に合わせて、グラスアリーナ内をパレードした。ゆっくりパレードしてくれたので、人馬を眺め、撮ることができた。
パレード前の様子
司会のお姉さん
司会のお姉さん_1
司会のお姉さん_2
司会のお姉さん_3
花束贈呈のアシスタントのお嬢さん
花束贈呈のアシスタントのお嬢さん_1
花束贈呈のアシスタントのお嬢さん_2
東京農大の吹奏楽部
高校生のバンドかと思ったが、隣接する農大の学生たちだった。演奏は極めてハイレベルだった。
東京農大の吹奏楽部
場内のパレード
アンダルシアンホースダンス
アンダルシアンホースダンス_1
アンダルシアンホースダンス_2
アンダルシアンホースダンス_3
紫のコスチュームの騎手は女性だったようだ。離れた位置からも美しく見える。
アンダルシアンホースダンス_4
アンダルシアンホースダンス_5
打毬(だきゅう)〔宮内庁主馬班〕
宮内庁主馬班は、この他に『母衣引(ほろひき)』をも披露する。私のその日の体調からは無理だったが、打毬を見たかったなあ。
打毬(だきゅう)〔宮内庁主馬班〕_1
打毬(だきゅう)〔宮内庁主馬班〕_2
打毬(だきゅう)〔宮内庁主馬班〕_3
打毬(だきゅう)〔宮内庁主馬班〕_4
打毬(だきゅう)〔宮内庁主馬班〕_5
レプリーズ(警視庁第三方面交通機動隊騎馬隊)
レプリーズ(警視庁第三方面交通機動隊騎馬隊)_1
レプリーズ(警視庁第三方面交通機動隊騎馬隊)_2
流鏑馬(やぶさめ)[日本古式弓馬術協会 武田流一門]
流鏑馬(やぶさめ)[日本古式弓馬術協会 武田流一門]_1
流鏑馬(やぶさめ)[日本古式弓馬術協会 武田流一門]_2
流鏑馬(やぶさめ)[日本古式弓馬術協会 武田流一門]_3
流鏑馬(やぶさめ)[日本古式弓馬術協会 武田流一門]_4
ばんえい競馬[ばんえい十勝]
うわ~、でかい。馬車馬程度かと思ったが、もの凄い迫力だ。ばんえい競馬のPR馬ミルキー号。
ばんえい競馬[ばんえい十勝]_1
こちらは、ばんえい競馬の現役競走馬ドオーダッシュ号。引き締まった体躯は現役馬であることを強く印象づける。
ばんえい競馬[ばんえい十勝]_2
ばんえい競馬[ばんえい十勝]_3
ばんえい競馬[ばんえい十勝]_4
ばんえい競馬[ばんえい十勝]_5
ばんえい競馬[ばんえい十勝]_6
ファンタジックホースショー
ファンタジックホースショー_1
ファンタジックホースショー_2
障害飛越
マイネルレコルト号は嘗ての重賞馬。どう見ても他の馬よりは格好が良い。当たり前か。
障害飛越_1
障害飛越_2
ポニー競馬
ポニー競馬_1
ポニー競馬_2
ポニー競馬_3

 

クルーズ船の入港ほか(5)

飛鳥IIの入港(2)
いよいよ着桟作業に入る。大型&超高級船だけに神経の張り方は相当なもののように見える。
船首でも航海士がウォッチしていた
飛鳥IIの入港(2)_1
乗船客もだいぶデッキに集まってきた
下船の準備を終えた後の乗船客。時間つぶしにもなる最後のお楽しみなのだろう。
飛鳥IIの入港(2)_2
ロープが繋がれる
飛鳥IIの入港(2)_3
飛鳥IIの入港(2)_4
飛鳥IIの入港(2)_5
飛鳥IIの入港(2)_6
飛鳥IIの入港(2)_7
飛鳥Ⅱの航海士たちも見守る
日本人で固めたクルーではないようだ。そのほうが国際航路においては力を発揮するのかもしれない。
飛鳥IIの入港(2)_8
飛鳥IIの入港(2)_9
救命ボートはなかなかスタイリッシュな感じだ
飛鳥IIの入港(2)_10
この子供たちには記憶に残る旅だっただろうか
飛鳥IIの入港(2)_11
こちらのパイロット船はかなり地味
飛鳥IIの入港(2)_12
タグボートが懸命に押している
飛鳥IIの入港(2)_13
飛鳥IIの入港(2)_14
飛鳥IIの入港(2)_15
飛鳥IIの入港(2)_16
最後のロープも
飛鳥IIの入港(2)_17
あちらのパイロット船が引き上げていった
飛鳥IIの入港(2)_18
タラップもセットされた
飛鳥IIの入港(2)_19
飛鳥IIの入港(2)_20
飛鳥IIの入港(2)_21
万国旗が飾られた
洋上だと千切れてしまうのだろうか
飛鳥IIの入港(2)_22

以上で、『クルーズ船の入港ほか』のミニシリーズは終了です。最後までご覧頂き有難うございました。

 

クルーズ船の入港ほか(4)

飛鳥IIの入港(1)
セレブリティ・ミレニアムが着桟作業中に、飛鳥IIが早くもベイブリッジを潜り抜けて、すぐ近くまで来ていた。慌てて、飛鳥IIを追いかけることにした。
シルバーウィークに少し絡んだ日程での秋の日本一周で、和歌山港から終点の横浜港にやってきたようだ。そして、次は、この日の晩に韓国に向けてのクルーズのようで次の寄港地は神戸港とのこと。
短いクルーズだし、装備もそれなりなので、セレブリティ・ミレニアムよりは、かなり参加しやすい価格設定になっていると思うが、それでも、十分に豪華そうだ。
乗船客数も乗組員数も、セレブリティ・ミレニアムのほぼ半分のようだ。

見えてきたぞ
飛鳥IIの入港(1)_1
最後尾から見る
西のほうには最後尾からは通せんぼ。仕方がないので、大さん橋の中央付近まで戻り、そこから、西方に移ることにする。
飛鳥IIの入港(1)_2
飛鳥IIの入港(1)_3
だんだん寄ってくる
飛鳥IIの入港(1)_4
ギャラリー少なさすぎ
先にお目当てのセレブリティ・ミレニアムが着桟したのは確かだ。でも、飛鳥IIだっていやしくも日本を代表するクルーズ船だ。敬意を表すのが礼儀だろう。
飛鳥IIの入港(1)_5
飛鳥IIの入港(1)_6
飛鳥Ⅱで目隠しされてしまう前に撮っておく
赤煉瓦の行列は何だろうか?まだ、午前8:20くらいなのに。
飛鳥IIの入港(1)_7
飛鳥IIの入港(1)_8
いよいよ近づいてきた
外観は、派手さを控えたもの。なかなかいいぞ。
飛鳥IIの入港(1)_9
飛鳥IIの入港(1)_10
飛鳥IIの入港(1)_11
飛鳥IIの入港(1)_12
飛鳥IIの入港(1)_13
飛鳥IIの入港(1)_14
このレストラン船の面先に停泊する
飛鳥IIの入港(1)_15
ついでに、3塔の揃い踏みも
飛鳥IIの入港(1)_16
さらに近づいた
飛鳥IIの入港(1)_17
飛鳥IIの入港(1)_18
ごめんね、見えなくなるよ
飛鳥IIの入港(1)_19
と思ったが、案外目隠しがされなかった
飛鳥IIの入港(1)_20

 

クルーズ船の入港ほか(3)

セレブリティ・ミレニアムの入港(2)
ぐっと迫ってくるような迫力を感じる
タグボートもうまく押すものだ。ギリギリの隙間で決めた。名人芸だ。
セレブリティ・ミレニアムの入港(2)_1
私が乗船できるとしたら、下の丸窓の低いほうかな。それでも、高くて手が出せないだろうが。更に小さな丸窓は、多分乗組員用の船室の窓だと思う。
セレブリティ・ミレニアムの入港(2)_2
セレブリティ・ミレニアムの入港(2)_3
セレブリティ・ミレニアムの入港(2)_4
タラップがセットされる
セレブリティ・ミレニアムの入港(2)_5
セレブリティ・ミレニアムの入港(2)_6
セレブリティ・ミレニアムの入港(2)_7
セレブリティ・ミレニアムの入港(2)_8
セレブリティ・ミレニアムの入港(2)_9
英語での船内放送が始まっていた。さすが、USAのクルーズ船。一生懸命聞き耳を立てたが、よく聞き取れなかった。日本人には米語より英語のほうがまだ聞き取りやすい、などという下手な言い訳はしない。飛鳥Ⅱの船内放送は、細部までよく聴き取れたのだから、雑音などの問題ではない。
しかし、横浜市の歓迎式典などは一切ないんだ。いちいち、そんなことやっていられないのかなあ。小樽港に入港した時は、ブラスバンドの演奏などがあったのだが。

セレブリティ・ミレニアムの入港(2)_10
こちらは荷物の搬出入口かな
セレブリティ・ミレニアムの入港(2)_11
一連の作業を見ている内に、時間差1時間の飛鳥Ⅱも入港してきた
日本のクルーズ船では最大だそうだが、かなり小さく見えてしまった。大きさでは見劣りしても、やや離れてみた感じは、優雅なスタイルに見えた。
セレブリティ・ミレニアムの入港(2)_12
船尾からみるとこんなふう
セレブリティ・ミレニアムの入港(2)_13
セレブリティ・ミレニアムの入港(2)_14
やっぱり大きいぞ
飛鳥Ⅱの近くから見た様子。大さん橋はかなりの幅がある。それでもこれだけ大きく見えるんだ。
全長は294メートルか。原子力空母G.ワシントンの333mに比較すれば、まだまだ小さめなのだが。

セレブリティ・ミレニアムの入港(2)_15
総トン数:91000トン
全長:294メートル
全幅:32.2メートル
デッキ:11
スピード:24ノット
乗客数:1950人
船員数:999人
船籍:バハマ

 

クルーズ船の入港ほか(2)

セレブリティ・ミレニアムの入港(1)
入港は8:00で出港は同日17:00ということだったので、途中で思い切り時間を潰して余裕を持って30分前に大さん橋のところにやってきた。ところが、もう着桟する寸前だった。あの時間は、乗船客が下船できる時間の目安だったようだ。
ダッチ・ハーバー港から横浜港を経由して、神戸港へ向かう『アラスカ・日本クルーズ』のようだ。ものすごく大きなクルーズ船。豪華だった。ダッチハーバーは、USAのアラスカ州の北太平洋、アリューシャン列島のウナラスカ島にある港湾都市なのか。非常に長い航海だったんだなあ。

乗客もやっと陸上に立てるとホッとしたことだろう。早く陸上を見たいのだろう。
見に来ていた人が言っていたが、乗客2千人、乗組員千人なんだ。詳しい人が居るものだ。
セレブリティ・ミレニアムの入港(1)_1
乗客の多くが、どこに居るのかおわかりだろうか。相当陸上が恋しくなっているのだろう。
セレブリティ・ミレニアムの入港(1)_2
セレブリティ・ミレニアムの入港(1)_3
セレブリティ・ミレニアムの入港(1)_4
私もお仲間だが、物見高い人たちが早朝からご出陣。こんなこと朝飯前の人たちなのだろうか。
セレブリティ・ミレニアムの入港(1)_5
セレブリティ・ミレニアムの入港(1)_6
セレブリティ・ミレニアムの入港(1)_7
ものすごい数の乗客だ。何しろ2千人ほどの乗客定員だそうだから。私はあの下にある2等客室くらいかな。あそこを利用してみたいものだ。いったい、どのくらいとられるのだろう。
セレブリティ・ミレニアムの入港(1)_8
セレブリティ・ミレニアムの入港(1)_9
乗組員たちは着桟作業をはじめとして一番緊張する時間帯なのだろう。男たちのきりりとしまった表情が見られた。
セレブリティ・ミレニアムの入港(1)_10
セレブリティ・ミレニアムの入港(1)_11
やはり高い客室の乗客たちは、悠然としたものだ。真似出来そうにないなあ。
セレブリティ・ミレニアムの入港(1)_12
セレブリティ・ミレニアムの入港(1)_13
セレブリティ・ミレニアムの入港(1)_14
船腹の反対側まで見えている。着桟作業が本格化してきた。
セレブリティ・ミレニアムの入港(1)_15
セレブリティ・ミレニアムの入港(1)_16
セレブリティ・ミレニアムの入港(1)_17
セレブリティ・ミレニアムの入港(1)_18
船長だろうか。一等航海士だろうか。真剣に見ている。
セレブリティ・ミレニアムの入港(1)_19
港湾作業船も大活躍。手慣れたものだ。
セレブリティ・ミレニアムの入港(1)_20
セレブリティ・ミレニアムの入港(1)_21
セレブリティ・ミレニアムの入港(1)_22
何とかうまく着桟できそうだ。水先案内人もやれやれと安堵したところだろう。
セレブリティ・ミレニアムの入港(1)_23
セレブリティ・ミレニアムの入港(1)_24
セレブリティ・ミレニアムの入港(1)_25
セレブリティ・ミレニアムの入港(1)_26

ミレニアム級(GTS MillenniumClass)はセレブリティ・クルーズが保有するクルーズ客船のタイプのこと。ミレニアム、インフィニティ、サミット、コンステレーションの4隻がある。一番船が2000年に就航したことが名前の由来となった。
7万トンを超えながらパナマ運河を通過できるネオ・パナマックスタイプの客船でロイヤルカリビアン・インターナショナル(RCI)の買収後に建造されたため、RCIの客船に似たデザインをしている。
特徴はガスタービンエンジンと排気熱を利用した蒸気タービンで発電し、その電力で2基のポッド推進器を駆動するというガスタービンと電力を組み合わせたシステム(COGES)を採用していることである。そのため接頭語も従来のMSではなくGTSになる。大気中に放出される有害物質の削減やエンジンスペースの縮小、騒音の低減、メンテナンスが容易であることがメリットとしてあげられる。

 

クルーズ船の入港ほか(1)

セレブリティ・ミレニアムと飛鳥Ⅱとが、相次いで入港予定とのこと。
どちらのクルーズ船も朝の入港でその日の夕方には出港する予定になっているようだ。横浜港といえども、クルーズ船の入出港は毎日あるわけではない。見逃さないように行ってみることにした。


お目当てのクルーズ船
セレブリティ・ミレニアム
文字通り東方に着桟。白鵬のようなものだなあ。
セレブリティ・ミレニアム
大さん橋からはみ出しそうに見えなくもない巨大クルーズ船だ。うーーん、でかい。
セレブリティ・ミレニアム_2
飛鳥Ⅱ
文字通り、西方に追いやられてしまった。仕方がないなあ。
飛鳥Ⅱ
レストラン・クルーズ船の後方に停泊している。日本のクルーズ船では最大とは言うものの稀勢の里クラスかなあ。もちろん、サービス内容で勝負なのだろうが。
飛鳥Ⅱ_2

大さん橋に向かう途中の様子
横浜市発展記念館・横浜ユーラシア文化館
みなとみらい線日本大通り駅3番出口にある。
横浜都市発展記念館と同居する形の建物は、元来、横浜市外電話局として利用されていた。旧横浜市外電話局は1929年(昭和4年)、横浜中央電話局として建築された。設計を行ったのは、建築家として戦前・戦後の長期にわたって逓信省・郵政省の営繕組織を率いた横浜出身の逓信省技師である中山広吉によるものである。建物の外壁に濃茶色のタイルを全面に貼り、装飾を控えた堅実なデザインでありながら、2階から4階をまとめる柱型や壁の頂部の石のコーニス(水平の出っ張り)などに古典主義様式の構成を残すなど、昭和戦前期の逓信省特有の意匠が見られる。4階建ての建物は電話局としての機能から、各階の高さが異なっており、1階と3階は高くそれぞれ営業室、交換室として使われていた。また、2階には局長室、技術館室などの業務スペースが、5階には交換手のための休憩室や食堂、宿直室が設けられていた。

横浜市発展記念館・横浜ユーラシア文化館_1
横浜市発展記念館・横浜ユーラシア文化館_2
大さん橋に向かう
大さん橋に向かう
日本キリスト教会横浜海岸教会
日本キリスト教会横浜海岸教会
横浜開港資料館
横浜開港資料館
横浜貿易会館
横浜貿易会館_1
横浜貿易会館_2
昔はこんなだったようだ
昔はこんなだったようだ
螺旋杭
びっくりするほど長い杭だ。調べてみたら、輸入した鋳鉄管を4本繋いで16-20mにしたようだ。よくこんなもので101年も旧大さん橋を支え続けたものだ。
螺旋杭_1
螺旋杭_2
この鋳鉄製螺旋杭(スクリューパイル)はイギリス・グラゴーのバロー・フィールド鉄工所製。鉄杭のスクリューは、支持力を高めるために取りつけられたものです。スクリューの直径は約150cm。杭の直径は約30cm。4本の杭をつないで約16~20mにして使用しました。
鉄杭は高価でしたが、当時ヨーロッパでは実績があり施工上信頼性のある工法でした。パーマーは信頼できる母国の技術を横浜港に導入したのです。日本では、1870(明治3)年の大阪の高麗橋をはじめ、武庫川鉄橋、羽根田燈台、港では1876(明治9)年の神戸鉄道桟橋が最初でした。横浜港の後も大阪港大桟橋、名古屋港桟橋も鉄螺旋杭(スクリューパイル)で建設されました。
横浜港では、第2期築港工事(1899~1917年)の大さん橋拡張工事で新しい杭が増設され、また関東大震災の復旧工事では大きな被害を受け新替されました。その後は大さん橋再整備工事にともない1994(平成6)年にすべて引き抜かれるまで、ずっと大さん橋を支えてきました。

象の鼻近辺
『象の鼻』近辺_1
『象の鼻』近辺_2
先ほどセレブリティ・ミレニアムの入港を指揮していたパイロット船だ。御役目ご苦労様。
『象の鼻』近辺_3

 

地区のお祭り(4)

連合渡御(2)
宮前
富志美会の直後だと貫禄負けしてしまうかな。でも、神社の門前を守るためにも気合を込めてほしい。
宮前_1
宮前_2
宮前_3
宮前_4
宮前_5
宮前_6
柿の木坂商和会
割と高級な住宅地の柿の木坂。地区在住の冴えない采配を繰り返しているプロ野球監督に喝を入れてくれ。
柿の木坂商和会_1
柿の木坂商和会_2
のんびりしているなあ。これじゃ、喝が入りそうにもないか。
柿の木坂商和会_3
柿の木坂商和会_4
柿の木坂商和会_5
大岡山北
東工大正門と大岡山駅前に繋がる商店街。一番の遠距離かな。かろうじて、旧衾村なんだ。こじんまりしているけれども、割と目立つ神輿だ。
大岡山北_1
大岡山北_2
大岡山北_3
大岡山北_4
大岡山北_5
大岡山北_6
大岡山北_7
平町商店街
最後だし、地元なんだから気勢を上げて担いでほしい。喝を入れたくなってしまう感じだ。
平町商店街_1
平町商店街_2
平町商店街_3
平町商店街_4
平町商店街_5
平町商店街_6
平町商店街_7

 

地区のお祭り(3)

連合渡御(1)
いざ出発
目黒囃子が先頭だ。御会式ほどの迫力がないのは否めないが、それでもお囃子が生であるだけでも嬉しいかな。
目黒囃子が先頭_1
目黒囃子が先頭_2
目黒囃子が先頭_3
続くは獅子
今まで気が付かなかった。君たちもいたんだ。
続くは獅子_1
続くは獅子_2
続くは獅子_3
東が丘レディース
今年、初お目見えかな。賑やかしにはうってつけだ。
東が丘レディース_1
東が丘レディース_2
東が丘レディース_3
東が丘
駒沢グランドに隣接する地区。本来は中根と同じように東根だったはずなのに、いつの間にか洒落た地名になったようだ。
東が丘_1
東が丘_2
東が丘_3
東が丘_4
富志美会
既述のとおり、都立大学駅西口の商店街。戻ってきたばかりで大変だと思うが、準地元なのだから、力を出せ。とはいうものの、他の神輿に比して、断然重そうだ。
富志美会_1
富志美会_2
富志美会_3
こうしてみると女性の担ぎ手も少なくないようだ。商店街の関係者総動員だったかな。
富志美会_4
富志美会_5
富志美会_6
富志美会_7

 

地区のお祭り(2)

連合渡御の準備
17時集合で17時半出発ということで、直前に入ってきた富志美会の神輿で勢揃いした。間に合うのか気を揉んだ人たちも、やれやれというところだっただろう。
東が丘レディース
都立大学駅西口商店街『富志美会』の神輿だが、担ぎ棒が黒塗りの神輿ではない。お昼ごろに見た神輿と比してかなり小さい。あとでよく見ると、プラカードに『東が丘レディース』とあった。予備の神輿を貸与したのだろう。小さくて軽い感じだから、レディースも担ぎおおせることだろう。
東が丘レディース_1
東が丘レディース_2
鉢巻を締めて格好は決まっているようだ
東が丘レディース_3
東が丘
東が丘_1
東が丘_2
宮前
宮前
柿の木坂商和会
柿の木坂商和会
大岡山北
大岡山北
平町商店街
平町商店街
目黒囃子の車
笛の名手がいた。本職なのかなあ。
目黒囃子の車_1
目黒囃子の車_2
目黒囃子の車_3
獅子も
獅子も
皆が揃った
富志美会の神輿も渡御の順番の位置に入った。これで気勢を上げて、木遣を唸って、間もなく出発だ。富志美会の担ぎ手には十分な休憩もとれなくて気の毒だが、もう時間がない。
皆が揃った_1
皆が揃った_2

 

地区のお祭り(1)

飾ってあった神輿
平町の神輿
子供用と大人用とかな。どちらも異常に小さい。
平町の神輿_1
平町の神輿_2
富志美会の神輿
少し大きい神輿だ。重量もそれなりにあることだろう。
富志美会の神輿
途中で息子たちと会った
この店はcosi cosiという店。意味合いは『まあまあ』ということだが、付近に住んでいるタレントたちが何回かTVで取り上げたほどで、味の方はかなり美味いようだ。
途中で息子たちと会った_1
途中で息子たちと会った_2
八雲氷川神社
神楽殿で奉納される演し物を見る予定だったが、早く来すぎたことと足の不調とがあったので、奉納される演し物を見ずに退散した。残念。
八雲氷川神社_1
八雲氷川神社_2
八雲氷川神社_3
「癪(しゃく)封じの神」として古くから認知されており、遠方らの参詣人もあったほど。そのため過去には境内に宿泊所が設けられていた時代もありました。拝殿の後ろに枯れたアカガシの巨大な株がありますが、これがむかしの御神木。癪(腹痛)封じのご利益があるといわれ、煎じ薬にするために御神木の皮をはぐ参詣者が跡をたたなかったため、ついに枯死してしまったといいます。

『剣の舞』を取り上げた頁にjump

地区単独の渡御
柿の木坂商和会
柿の木坂商和会_1
柿の木坂商和会_2
柿の木坂商和会_3
柿の木坂商和会_4
富志美会
連合渡御集合時間の直前にやっと間に合った
富志美会_1
富志美会_2
富志美会_3
富志美会_4
富志美会_5

 

近所をぶらつく(2)

岡田家
日本でも有数の大地主だと思う。何度か取り上げているが立派な長屋門だ。その背後の空間は窺い知れないのだが、主屋等はどのようになっているのだろうか。すぐ近くに東京工業大学があり、所在地の地名は大岡山という。その名称は大地主の岡田家の山ということからきているそうだ。
ちなみに我が家のかつての地主も岡田家。なかなか売ってくれない地主だったのだが、…。

岡田家_1
岡田家_2
岡田家_3
中根公園
岡田家の敷地裏になる。石垣が見えるくらいで全体の3分の1くらいだろうか。『岡田の森』と称されていた場所で、1000坪以上はあると思っていたが、調べたら2500坪ほどあった。う~~ん。
中根公園
中根公園近くの様子
かつての本塁打記録保持者の自宅などが見える。昔は大きなお屋敷が多かったのだが、今は共同住宅とか、切り売りした住宅とかに変わってしまった。
中根公園近くの様子
今井聖書館講堂
無教会主義の内村鑑三がかつて新宿で講義をしていた由緒ある講堂。今井館聖書講堂は株式会社永廣堂創業者・今井樟太郎の遺志により未亡人今井信が内村に寄付したもの。
1935年のこの中根の地に移築されている。

今井聖書館講堂_1
今井聖書館講堂_2
創業者・今井樟太郎の遺志により未亡人今井信が内村に寄付したもので、明治41年(1908年)に、当時、東京柏木(現新宿 区北新宿)にあった内村邸の敷地内に建てられ、昭和5年(1930年)天に召されるまで、約22年間にわたって内村は、この講堂を拠点として聖書の真理を説き続けました。 
    :
内村の死後、今井館は都市計画による道路拡張工事に伴い教友会が譲り受け、現在の目黒区中根に移築。第二次大戦後は内村に学んだ後の東大総長・矢内原忠雄もここで集会を行うなど、さまざまな交流の拠点として活用されてきました。
昭和61年(1986年)には増築した新館に今井館図書資料センター(現資料館別館)が設置され、平成15年(2003年)には今井館資料館が新設されました。


内部の様子をまとめたページヘjump

こんなものがあった
児の手柏(コノテガシワ)かな
金平糖がなっているように見える。糖分摂取を控えていると、何でも食べ物に見えてきてしまう。
児の手柏(コノテガシワ)かな
こちらは季節の花
萩はこんなものかな。もう少し花がたくさん咲いても良さそうに思うが。
萩
タマスダレかな
タマスダレかな
違いがわかるだろうか
此処は合歓の木公園という公園。公園を作る前から隣の敷地には立派な樹木が植えられていた。葉が独特の形状をしていることから、公園の担当者が合歓の木だと思い込んで、公園側にも合歓の木を植えたようだ。
ところが大違い。隣の敷地のものはジャカランダだった。花が全く違うし、開花時期も異なる。似ているのは葉の形状だけかも。

公園にある樹木
公園にある樹木_1
公園にある樹木_2
隣りにある樹木
隣りにある樹木_1
隣りにある樹木_2

 

近所をぶらつく(1)

足腰の状態が今ひとつなので、様子の確認がてら、歩いて15分程度の自由が丘駅近辺など近所をぶらついてみた。途中、足が強烈にしびれてきたりして、この日のテストはOKとはいかなかった。そんなふうなので、枚数は少ないが、都合で2回に分けて取り上げる。
季節の花
曼珠沙華
今年は開花が異常に早く、既に萎れてしまっているものが少なくない。なんとか被写体になりそうなものをみつけて撮った。
曼珠沙華
小紫
近辺には紫式部は見当たらず、コムラサキばかり。何でなのだろうか。
小紫
1丁目1番地
1丁目1番地はどこにでもあるのだろうが、此処が自由が丘1丁目1番地。自由が丘は盛り場というイメージがあったが、1丁目1番地が閑静な住宅地にあったとは意外な感じ。住居表示を確認するまで緑ヶ丘2丁目だと思い込んでいたが、自由が丘1丁目1番地だった。
1丁目1番地_1
1丁目1番地_2
自由が丘の店
駅前にある傘専門店
途中で雨に降られた時、手持ちの傘がたまたま無く、降りる駅が自由が丘だったら、この店に駆け込むのもありかもしれない。結構TVで取り上げられる有名店だ。
駅前にある傘専門店_1
駅前にある傘専門店_2
キャス・キッドソンなど割と最近できた店
センスが良さそうな感じはするが、爺さんには用事がなさそう。どんな店内なのかなあ。
キャス・キッドソンなど割と最近できた店_1
キャス・キッドソンなど割と最近できた店_2
スイーツフォレスト
ここは私が糖尿病要注意ゾーンに突入してから縁がなくなってしまった。一刻も早く縒りを戻したいと願っているのだが。
この日も撮ろうとしたら、中国人の女の子グループがいて、なかなか撮れなかった。入るのかなあと思ったら、パスしてしまった。賞味する価値ありだと思うけど。

スイーツフォレスト_1
スイーツフォレスト_2
スイーツフォレスト_3
クオカ
スイーツフォレストと隣接するパン作りなどの材料が揃う店。結構入り浸っていたのだが、上記の理由でこちらもパス中。
クオカ

 

川越ミニ散歩(5)

川越市蔵造り資料館
川越の町が人気を吹き返したのには、市民運動の盛り上がりがあったからのようだ。そのキッカケが、現在は川越市蔵造り資料館になっている『万文』の蔵造り店舗の売却にあった。詳しくは、下記のとおりだ。理由無くして繁栄は無いようだ。なお、月曜日は休館。
川越市蔵造り資料館_1
川越市蔵造り資料館_2
川越市蔵造り資料館_3
川越市蔵造り資料館_4
明治26年(1893年)3月17日の川越大火の直後に建築が始められ同年12月に完工した蔵造りの商家を博物館にしたもの。煙草卸問屋だった小山文造が建てた「万文」(まんぶん)で、小山家は江戸時代から刻み煙草などを製造していた豪商で、明治時代に煙草が専売制度となると「煙草元売捌人」に指定され財を成した。
川越の象徴である蔵造りであるが、蔵造りが文化財であるという文化的な視点は昭和50年代の半ばまでの川越市の行政には全く無く、蔵造りが集中する川越一番街のある埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線の道路の拡幅を計画したり、また蔵造りの町並みが虫喰い的に破壊され高層住宅に変わっていっても何ら危機感も対策もなく、そうした市の行政の意識の低さが旧市街地がすさみ斜陽化していた原因であった。今日、川越で蔵造りの家並が残っているのは住民主導の保存運動の賜物である。
昭和47年(1972年)、「万文」の建物が売却され取り壊しの動きが出ると、保存を求める市民運動が澎湃として起こり、川越市の行政のあまりの無策振りに呆れ憤る声が上がった。その結果、はじめて市が動き、川越市の開発公社が土地・建物を取得して「万文」は再生され、昭和52年(1977年)10月に「川越市蔵造り資料館」という啓蒙的な施設に結実したものである。1971年に「大沢家住宅」が国の重要文化財の指定を受けたのと併せ、蔵造りを安易に取り壊して高層マンションにするようなことは川越の自殺行為に等しく決して許されず、行政には歴史的遺構を守る責務があり、「蔵造りは未来に伝えて行かなければならない川越の誇るべき文化遺産である」という意識を市民が共有したエポックメーキングなものとなった。

大沢家住宅
急に雨が強くなってきて、大沢家住宅をパスしてしまった。行きたいと思っても、その日は月曜日で定休日だったようだ。今回は縁がなかった。
ここは、川越の商人が川越大火でも焼け残った蔵造り店舗の凄さを他の店主たちが再認識して、右倣えで作ったというきっかけを作った蔵造り店舗。蔵造り店舗の中では、唯一、国の重要文化財指定を受けている。

free画像を借用
大沢家住宅
大沢家住宅は、埼玉県川越市にある蔵造り建築。明治26年(1893年)の川越大火の焼失を免れた川越最古の蔵造りで、現存する関東地方最古の蔵造りでもある。国の重要文化財の指定を受けている。現在の屋号から「小松屋」とも呼ばれている。
菓子屋横丁
大沢家住宅と同様に、月曜日はお休みにしている店が多かったようだ。どうしても駄菓子を食べたかったわけではなく、見物したかっただけなのだが。ごく一部の店しか開いておらず残念だ。結構情報を得ている人が多いようで、雨の日にのこのこやって来て、天を仰ぐ人は少ない感じだった。
菓子屋横丁_1
菓子屋横丁_2
菓子屋横丁_3
菓子屋横丁_4
菓子屋横丁_5
菓子屋横丁_6
養寿院
相当雨脚が強くなってきた。古刹の素晴らしさが十分に感じられるのだが、これ以上粘るとカメラとレンズとが使えなくなってしまう。残念だ。
養寿院_1
養寿院_2
以下2点はfree画像を借用
養寿院_3
養寿院_4
寛元(1244年)、河越氏の当主・河越経重が開基となり、大阿闍梨円慶法師が開いた寺。密教の古道場であったが、天文4年(1535年)に天台宗から曹洞宗に改められた。徳川家康の関東入国の際に、家康から御朱印十石を賜った。家康は鷹狩りで立ち寄っている。
本堂には河越氏が京都東山新日吉山王社に寄進した文応元年(1260年)銘の銅鐘(国の重要文化財工芸品)が保存されている。鐘には「武蔵国河肥庄新日吉山王宮」と「河肥」の文字があり、歴史的に貴重なものである。
墓地内には河越太郎重頼の墓があり、寺には岩手県雲際寺にある源義経と重頼の娘である正室の位牌の写しが安置されている。また江戸時代に河越藩主・秋元喬知に仕えた名家老・岩田彦助の墓もある。


以上で『川越ミニ散歩』シリーズは終了です。最後までご覧頂き有難うございました。

 

川越ミニ散歩(4)

時の鐘
あいにく耐震工事の真っ最中。真下や、塔をくぐった先の薬師神社に行くことが出来なかった。仕方がないので、真下と奥の様子は、前回撮影データで示す。
この鐘の音を聞いた記憶があったかなあ。聞いた記憶があったような無いような。

時の鐘_1
時の鐘_2
時の鐘_3
時の鐘_4
前回訪問時の記録から
時の鐘_2013訪問時_1
時の鐘_2013訪問時_2
時の鐘_2013訪問時_3
時の鐘_2013訪問時_4
時の鐘_2013訪問時_5
川越の蔵造りの街並みを代表する観光名所で市のシンボルとなっている。地元では鐘撞堂と呼ばれることが多い。3層構造の塔で、高さは16メートル。古くは鐘撞き守が決まった時間に時を知らせていたが、現在では機械式で1日4回(午前6時、正午、午後3時、午後6時)川越城下に時を知らせている。
川越まつり会館
ここは、秩父と違い、山車を交替で常時2台展示している。それがとても嬉しい。雨が強くなってきたので、先を急ぎたかったが、『本日は入場無料扱いです』の呼びこみの声と、NHKの特別展示とあらば、井上真央も多部未華子も見ることができるという考えが頭をよぎる。急に入ることに決めた。現金過ぎたかなあ。
館内展示の一部
館内展示の一部_1
館内展示の一部_2
館内展示の一部_3
建造中の山車
建造中の山車
本物の山車
2基が交代で展示されているそうだ。想像以上に貫禄がある。
本物の山車_1
本物の山車_2
本物の山車_3
本物の山車_4
車輪とキリン
秩父では1基のみ使用されていたキリンによる方向転換が、川越では行われている。こちらのほうが、情緒はなくとも、効率的なのだろう。
車輪とキリン_1
車輪とキリン_2
車輪とキリン_3
車輪とキリン_4
川越まつりポスター
これがなくては存在意義無しということになってしまうよね
川越まつりポスター_1
川越まつりポスター_2
こんなものもあった
こんなものもあった_1
こんなものもあった_2
外観
蔵造り店舗風にして、場違い感を消しているのかなあ…free画像を借用
外観
国の重要無形民俗文化財に指定され「関東三大祭」の一つである「川越氷川祭」(川越まつり)に関する資料を展示・伝統を保存するために2003年(平成15年)9月28日に開館した。建築は川越の蔵造りのデザインとなっている。

 

川越ミニ散歩(3)

蔵造りの街の中心へ
川越の歴史ある店蔵『陶舗やまわ』などが見えてきた
ちょっとワクワクしてきてしまう。爺さんなのに。
蔵造りの街の中心へ_1
蔵造りの街の中心へ_2
蔵造りの街の中心へ_3
蔵造りの街の中心へ_4
陶舗やまわ
連続テレビ小説「つばさ」の舞台は川越で、陶舗やまわの外観が多部未華子演じるヒロインの実家という設定だった。一生懸命見た記憶がある。
この建物は、川越大火直後の明治26年に建てられた蔵造り店舗なんだな。本当に立派なものだ。

陶舗やまわ_1
陶舗やまわ_2
時の鐘から程近く、特に観光客が賑わう一画に川越市指定有形文化財「原家住宅」があります。
川越大火直後の明治26年に、元々呉服商を営む山本平兵衛が建てた蔵造りです。現在は「陶舗やまわ」が店を構え、地元陶芸作家の作品などが所狭しと並んでいます。よく屋根を見ると「山本」と書かれた瓦があり、当時を物語っています。
観光のポイント
外観は、川越の代表的な蔵造り構造をよく見てとれます。
屋根は、大きな鬼瓦にカゲ盛り、背の高い箱棟。2階の観音開扉は火災時にガッチリ締め火の手から守ります。また、観音開扉の下の目塗台は、火災発生時に観音扉を閉めた後、扉の目地に土などを塗り込む為の物です。

深善ほか
ごつい蔵造りの建物が並ぶそのさまは実に壮観だ。刃物商まちかん、深善美術表具店などだ。よく見ると卯建もある。
深善ほか
近江屋長兵衛商店・きんちょう・近長魚店
『時の鐘』のすぐ近くにある。別に蔵造りの建物ではないのだが、一番街に面した一階部分の瓦屋根には、近長の文字が入った台座の上に布袋尊の像を載せている。気が付かなかったが、通りの向かいにある陶舗やまわでは鍾馗様の像を載せているそうだ。そちらは、京都ふうかなあ。案内に記されてあったので、写真を拡大してみたが、鍾馗様どこにあるのかわからない。(^_^;)
近江屋長兵衛商店・きんちょう・近長魚店_1
近江屋長兵衛商店・きんちょう・近長魚店_2
近江屋長兵衛商店・きんちょう・近長魚店_3
川越市幸町の鐘つき通り入口に、手作り豆腐の店・近江屋長兵衛商店があります。以前は青果商近長でしたが、現在は、枝豆寄せ・胡麻・柚子・芋豆腐など、様々な種類の豆腐を販売しています。
熊重酒店
外壁には漆喰の剥離を防ぐため銅板をまいている外観から、蔵造りの建物のように見えないかもしれないが、まごうかたなき蔵造りの建物だ。
熊重酒店_1
熊重酒店_2
熊重酒店の建物は、川越市指定文化財の滝島家住宅。明治28年(1895)、2代目滝島重蔵によって建てられました。間口3間、奥行3間の切妻造り。下屋庇(げやびさし)付の土蔵造りで、外壁には漆喰のはく離を防ぐため銅板をまいています。
福田家住宅
おばさんたちは素通り。他の蔵造りの立派な建物と肩を並べる川越市指定文化財なのだが。下手にジロジロ見られても、商売がやりにくいかもしれない。
福田家住宅_1
福田家住宅_2
寄棟造り妻入り形式で、2階には観音開扉の小さな窓のみ。川越の町並みの中ではユニークな存在です。川越市指定文化財。
服部民俗資料館
ここは無料公開していたのか。知らなかった。どうせなら、雛人形が特別公開されている時に見てみたいものだ。
服部民俗資料館
埼玉県川越市の幸町にある服部民俗資料館は、もとは照降商(てりふりしょう、傘や下駄を扱う靴屋)と薬種商を営んでいた商家・服部家住宅でした。
建物は江戸時代後期の商家の面影を残す切妻造り平入り。川越大火の直後、明治26年(1893)に上棟式を行なったと伝えられています。
昭和59年(1984)に服部民俗資料館を開館し、代々同家に伝わる商家の民具を中心に一般公開(無料)しました。館内には下駄や雪駄、薬の広告看板などが陳列され、座敷には帳場が置かれています。これらの民具は集めたものではなく、服部家で実際に使用されていたものです。春になると、江戸時代の人形師・仲秀英(なかしゅうえい)の手になる名品、嘉永5年(1852年)の銘を持つひな人形が特別公開されます。

 

川越ミニ散歩(2)

龜屋
天明3年創業の旧川越藩御用達の菓子の老舗。お菓子の美味しそうなのだが、女性客が屯していて、なかなか男一人では入りにくい。
それにしても見事な蔵だ。約1年の歳月と、総工費1万111円50銭9厘(現在の紙幣価値で約2億円)を費やし完成させた住宅だとか。今は1-2億円をかけた住宅はさほど珍しくもなかろうが、今はそれだけのお金をかけてもこういう住宅を作ることは難しそうに思える。

龜屋_1
龜屋_2
龜屋_3
旧山吉デパート
この建物と隣の田中屋ビルと、どちらも凄い。こちらの旧山吉デパートの建物は、かなり長いこと放置されていて、一時は廃墟寸前の感じだったそうだ。何とか綺麗になってよかった。
旧山吉デパート_1
旧山吉デパート_2
旧山吉デパート_3
川越の住んでいる人ならば知らない人はいない「丸広百貨店」。丸広がスタートしたのは、現在の新富町「クレアモール」ではなく、今や観光地として賑わう蔵造りの街並みです。
昭和11年(1936年)に建てられたこの「山吉ビル」を借り、川越初のデパートとしてオープンしたのが始まりです。今では地下1階、地上10階の丸広百貨店ですが、この3階建ての小さなビルからスタートしました。
山吉デパートを建築したのは、明治・大正・昭和と活躍した建築家「保岡勝也」。丸の内の赤煉瓦オフィス街を初め多くの住宅建築を手がけています。
川越では、「旧国立八十五銀行本店(現 埼玉りそな銀行川越支店)」「旧山崎家別邸」「川越貯蓄銀行本店」そして「旧山吉デパート」の4つを建築しており、合わせて「川越4部作」と呼ばれています。

田中屋ビル
旧山吉デパートに負けじとばかりに建てられたのだろうか。なかなか瀟洒な『ビルヂング』だと思う。
そう思っていたら、こちらのほうが21年も前に建てられたそうだ。大正4(1915)年に木造モルタル塗り2階建てか。特段、著名な建築家の設計ではなかったようで、それだけでも凄いと思う。

田中屋ビル
埼玉りそな銀行川越支店(旧国立八十五銀行本店)
埼玉県で最初に設立された銀行で、それもこの建物が本店だったのか。凄いなあ。想像がつくと思うが、埼玉銀行(現・埼玉りそな銀行)の前身。
本店社屋は、川越大火で焼失。再建された本店がいま眼の前にある建物。1918年(大正7年)1月に竣工。設計は保岡勝也なのか。
前項で取り上げた龜屋の四代目の「山崎嘉七」を襲名した山崎豊は、「第八十五銀行」の頭取をも歴任していたようだ。和菓子屋の主人が銀行の頭取か。凄いものだ。

埼玉りそな銀行川越支店(旧国立八十五銀行本店)_1
埼玉りそな銀行川越支店(旧国立八十五銀行本店)_2
埼玉りそな銀行川越支店(旧国立八十五銀行本店)_3
埼玉りそな銀行川越支店(旧国立八十五銀行本店)_4
埼玉りそな銀行川越支店(旧国立八十五銀行本店)_5
川越には蔵造りの建物と共に、明治・大正時代の洋風建築も多く残っています。その代表が埼玉りそな銀行川越支店の建物。
大正7年(1918年)に旧国立八十五銀行本店として建てられ、国の登録有形文化財の指定を受けています。設計は保岡勝也という方。3階建てのインパクトがある佇まいは、時の鐘と共に川越のランドマーク的な存在です。外観の見学は自由。しかし建物内部の見学は残念ながら行われていません。
埼玉で初めて設立された銀行
旧国立八十五銀行は、明治11年(1878年)に川越藩の御用商人横田五郎兵衛・黒須喜兵衛らによって、設立願いが提出され八十五番目にできた銀行です。現在の建物は大正7年(1918年)に建設。なんと埼玉県で初めて設立された銀行なのです。


 

川越ミニ散歩(1)

久しぶりに川越の街を歩いてみようと思い立った。週間天気予報で、確認し一番マシな日を選んだ。予報は9:00頃に雨が上がる予定だったが、段々霧雨が強い降りに変わってきたので、十分回って楽しむ前に撤収を余儀なくされた。なんとも中途半端な散歩になってしまった。
連雀町界隈
今回は東武川越駅で下車。蔵造りの町並みまでは少しだけ遠いので、不精をこいてバスに乗った。車中から街並みを眺めている内、なんとなく途中でバスを降りたくなった。
中央通り商店街(昭和の街)
『川越銭洗弁天』なんてものがあるんだ。雨が降り出す前に川越のめぼしいところを見ておきたかったので、当然パス。ちょっと時間が止まったような商店街だなと思っていたら、なんと自虐的なのか『昭和の街』を標榜していた。それでも、すぐ先の仲町交差点から有名な蔵造りの街並みが続く。場所的には非常に良い街なのだが、江戸から明治にかけての蔵造りの町並み、大正期の大正浪漫夢通りと比較すると、…。
中央通り商店街(昭和の街)_1
中央通り商店街(昭和の街)_2
中央通り商店街(昭和の街)_3
『道灌の山車』
川越城も江戸城と同様に太田道灌が築城した城だったんだ。その太田道灌を担ぎだしてもおかしくはないのだろう。有名な川越まつりの山車だ。実際に使用する時、どこから出すのか気になった。おそらくは裏手から出すのだろう。
なお、佐原の大祭に出る上仲町区の『太田道灌の山車』というものもあるようだ。

『道灌の山車』
山車はこんなふうだ。1基あたり5-6tもあるのか。う~~ん。まつり会館で本物を見たが、川越まつりで、ナマの姿を見てみたいものだ。
山車はこんなふうだ
山車は二重鉾、四つ車、唐破風付きの囃子台で廻り舞台。六軒町の山車を造った宮大工の印藤吉五郎の息子印藤順造が昭和27年に製作。他の山車と比べ全体的に大きいのが特徴。
人形は、昭和27年、西田光次の作。川越城や江戸城を築いた太田道灌が腰に太刀、手には弓を持ち、矢を背負っている姿。
囃子は堤崎流雀会。

蓮馨寺
『子育呑龍上人奉安所』の碑が江東区の霊厳寺にあったが、こちらにも呑龍上人を祭る『呑龍堂』があるのか。もう子育ても安産も縁がなくなったので、こちらもパスさせていただいた。
蓮馨寺
河越夜戦後の天文18年(1549年)、武蔵国河越城主大道寺政繁の母・蓮馨によって開基、開山は大道寺政繁の甥にあたる感誉存貞上人。存貞上人は増上寺第十世法主となった。また源誉存応上人(増上寺の十二世法主)など代々、高僧が住職となった。
江戸時代の1602年には浄土宗の関東十八檀林の1つとなり、葵の紋所が許された幕府公認の僧侶養成機関として多くの学僧を育てた。
存応上人の直弟子・呑龍上人を祭る呑龍堂があり、安産に霊験があるとされ、毎月八日は縁日となる。

仲町交差点
暫く歩くと仲町の交差点に出る。蔵造りの街並みはレトロな洋館が見える通りにある。連雀町方向からは直進ということになる。
仲町交差点
ここはスポーツ店
松崎スポーツ店。次回取り上げる龜屋よりももっとお金をかけた建物のようだ。その豪華さをみていただきたい。内部に入ることが出来ないのが残念。
建物は明治28年から約3ヵ年、3万円(現在の貨幣価値で約3億円)を費やして建築されました。間口4間、奥行2.5間、入母屋造りの瓦葺で、大きな鬼瓦を置いた屋根がひときわ目立つ建物です。現在この建物は倉庫になっています。そのため中に入り見学することは残念ながらできません。
ここはスポーツ店
ここは豆菓子屋
まめ屋川越店。他の堂々たる蔵造りに押されてしまう感じが否めないが、それでも立派な建物だ。
ここは豆菓子屋
仲町交差点右手
ちょっと寄り道して右手に
大正浪漫夢通りと交わる辺りに観光案内所や亀屋山崎茶店等がある。天気の心配がなければ、ここでお茶を頂きたいところだが、先を急ぐ。今回は写真を撮って、すぐ蔵造りの街並みに戻る。煉瓦のアーチをくぐる亀屋山崎茶店内部が素晴らしいと聞いているので、いつかは入ってみたいものだ。
交差点右手_1
交差点右手_2
川越商工会議所(前武州銀行川越支店)
昔から銀行の建物は凄いものだ。ここも少銀行の支店だったが、例に漏れずご立派。これで2階建てとはもったいない限りだ。
川越商工会議所(前武州銀行川越支店)_1
川越商工会議所(前武州銀行川越支店)_2
一番街からすぐの大正浪漫夢通り沿い角地に「川越商工会議所」があります。
前武州銀行川越支店で大正15年着工し昭和2年12月建造しました。その後の1970年からは川越商工会議所が事務所として使っています。文化庁登録有形文化財に指定されている建物です。

山崎美術館
前回来た時に入ったのだが、どんな展示内容だったか、綺麗サッパリ忘れてしまった。以前は記憶力の良さが売り物だったのに、…。
山崎美術館
埼玉県川越市の仲町にある山崎美術館は、和菓子の老舗「亀屋」の一角に立つ蔵を利用し、代々山崎家に伝わる美術品・工芸品等のコレクションを展示している美術館です。
山崎美術館は亀屋中興の祖・四代目山崎嘉七(豊)翁の生誕150年を記念して、昭和57年(1982)11月3日文化の日にオープンしました。川越出身で川越藩お抱えの絵師として活躍した橋本雅邦の作品を中心に、日本画や製菓の古文書、美術工芸品等を季節に合わせて展示しています。

 

清澄庭園・深川江戸資料館など(9)

深川江戸資料館(3)
長屋の住民たち
【木場の木挽職人】
昔は、製材するって言っても、便利な製材用の機械など無く、鋸で切り出すしかなかったんだろう。そういう職人は少なからずいた事なんだろう。無茶苦茶ガテン系の仕事だったのだろう。佐賀と木場とはそれほどの距離ではなかったから、木場の木挽職人がこの町にも居たのだろう。
衝立が部屋の隅においてある。あとに登場する三味線師匠や船頭、舂米屋の職人のところにもある。着替えが必要な職業のエチケットだったのだろうか。
畳は江戸間で4畳か。かなり狭いなあ。何だかんだで6畳程度か。でも、他では余り見られない畳敷きだぞ。狭いけれどもちょっぴり贅沢だったんだ。う~~ん。

木場で働く職人らしく、大鋸や鳶口、大工道具が置かれています。箱膳は夫婦二人分、女房の化粧道具もあります。
木場の木挽職人_1
確かに箱膳は夫婦二人分、夫婦暮らしだったんだ。女性も多少はお化粧をしたのかな。
木場の木挽職人_2
木場の木挽職人_3
【読み書き、手習い、裁縫、三味線師匠】
於し津さんか。小股の切れ上がった良い女を連想してしまうが、そんな人物だったのだろうか。障子に書いてあるデザインは何を意味したのだろうか。
読み書き、手習いなども教えていたのか。どうせ簡単なものだろうと言うなかれ。くずし字など今の人には殆ど読めないはずだから。

読み書き、手習い、裁縫、三味線を教える師匠の長屋。室内はもとお店のおかみさんだった人らしいたたずまいです。
読み書き、手習い、裁縫、三味線師匠_1
読み書き、手習い、裁縫、三味線師匠_2
読み書き、手習い、裁縫、三味線師匠_3
読み書き、手習い、裁縫、三味線師匠_4
読み書き、手習い、裁縫、三味線師匠_5
読み書き、手習い、裁縫、三味線師匠_6
【船頭】
お客を送迎するだけでなく、機会があれば投網などもしていたのか。其れくらい出来ないと船頭とは呼べなかったのかなあ。
それにしても、投網は乾いたものを網繕いのために持ち込んでいるのだろうか。濡れたままでは畳が腐ってしまう。

船宿升田屋の船頭の住む長屋。室内には投網や手甲脚絆などが置いてあります。
船頭_1
船頭_2
船頭_3
【舂米屋の職人】
舂米屋の職人って、必要だったのだろうか。米俵を蔵に収納したり、店に出したりする、運搬作業が中心かな。最下級の職人だったのかもしれない。
舂米屋上総屋の通い職人とその女房、2歳の子供が住む。小さな子供の家らしく、入り口には風邪除けのお札や疱瘡除けの俵の蓋、裏の物干し竿にはおしめが干してあります。
舂米屋の職人_1
舂米屋の職人_2
舂米屋の職人_3
舂米屋の職人_4
【棒手振】
剥き身の政助さんか。剥いた貝は、深川丼用のあさりが中心かな。商売柄、板の間暮らしか。他の畳暮らしの住人たちが羨ましかったのではないだろうか。
そういえば、この辺で深川丼をいただくんだった。

アサリやシジミを天秤棒で担いで売り歩く棒手振の住む長屋。畳も敷かず質素な生活振りがうかがわれます。
棒手振_1
棒手振_2
棒手振_3
【長屋の井戸ほか】
井戸と便所とは至近距離にあって、お世辞にも清潔とは言いがたいが、昔はみんなこんなものだったのだろう。それで死んでしまうような人は、生命力のない人物として淘汰されたのだろう。
井戸と共同便所、ゴミ溜め、お稲荷さんがある長屋住民の共有スペースです。
長屋の井戸ほか_1
長屋の井戸ほか_2

以上で『清澄庭園・深川江戸資料館など』シリーズは終了です。最後までご覧頂き有難うございました。

 

清澄庭園・深川江戸資料館など(8)

深川江戸資料館(2)
船宿ほか
堀割と猪牙船
猪牙舟が浮かんでいる。如何にも船宿の前という設定になっているなあ。猪牙舟は如何にも猪牙という感じだ。
深川は小名木川をはじめ縦横に掘割がはりめぐらされる町でした。展示室の掘割は、木場と隅田川をつないでいた油堀。
猪牙船は、数人乗りで船頭は一人が通常。「江戸の足」として利用されました。

堀割と猪牙船_1
堀割と猪牙船_2
船宿
あれまあ、船宿ってそういうところだったのかなあ。もうちょっと男の楽しみの場だったようなイメージが私の中にはあったが、…。下衆の勘繰りだったかなあ。
船宿とは、もともとは船で遊びに行く客を送り迎えするところでした。展示室では、堅実な「升田屋」と派手な「相模屋」という設定です。
派手な船宿「相模屋」
派手なのかなあ。朴念仁の私にはよくわからない。
派手な船宿「相模屋」_1
派手な船宿「相模屋」_2
派手な船宿「相模屋」_3
舟が到着するまでの間にちょっと一杯やるようなふうになっていたのだろう。肴も少しは用意出来たのかな?
派手な船宿「相模屋」_4
竈が土を捏ねた安物ではなく、銅の板で出来ていた高級品なんだ。中に水を入れて、薬缶のように使っていたのかなあ。きれいなものだなあ。これは江戸時代のシステムキッチンといったところだろうか。
派手な船宿「相模屋」_5
派手な船宿「相模屋」_6
派手な船宿「相模屋」_7
派手な船宿「相模屋」_9
派手な船宿「相模屋」_10
唯一派手かなと思わせるのは、三味線を弾く用意がされていることくらいだろうか。
派手な船宿「相模屋」_11
派手な船宿「相模屋」_12
堅実な船宿「升田屋」
若干おとなしめに見えなくもないが、そうなのかなあ。
堅実な船宿「升田屋」_1
堅実な船宿「升田屋」_2
堅実な船宿「升田屋」_3
堅実な船宿「升田屋」_4
こちらも竈には銅の板が使われているぞ。並んで建っていれば、そんなにグレードを落とせないというところかな。
堅実な船宿「升田屋」_5
堅実な船宿「升田屋」_6
堅実な船宿「升田屋」_7
堅実な船宿「升田屋」_8
堅実な船宿「升田屋」_9
堅実な船宿「升田屋」_10
堅実な船宿「升田屋」_11
佐賀町のコミュニティスペース
火の見櫓
これは現存していたら人気を呼ぶだろうなあ。昔のものは、情緒があるなあ。川越の『時の鐘』を思い出してしまった。鉄製の火の見櫓の数倍いい感じだ。
火の見櫓
水茶屋
よしず張りの「水茶屋」は今の喫茶店に相当するものだそうだ。
水茶屋
床店
寿司や天ぷらは、その当時のファーストフードだったのかな。当時は何を揚げて提供していたのだろう。ハゼの天ぷらなどだろうか。
床店

 

清澄庭園・深川江戸資料館など(7)

深川江戸資料館(1)
階段を降りると見える展示物
入場料400円は高かったかなと一瞬思った。今更お金を返して欲しいというわけにもいかず、先に進む。大きさは実物大とのこと。なるほど、下にいる人達をみると納得。
階段を降りると見える展示物_1
街並みの説明図
街並みの説明図
米屋とその蔵などが見えてきた
夕方の感じにしているのだろうか。館内がかなり暗い。ISO感度を上限にセットしないと撮影は難しそうに思える。う~~ん、困ったぞ。
階段を降りると見える展示物_2
階段を降りると見える展示物_3
八百屋
店舗正面から
下に降りると、通りは思っていた以上に薄暗い。当時は蝋燭とか行灯とかの時代だろう。この時間にも商いをしていたのだろうか。手前右側は八百屋のようだ。
八百屋_店舗正面から_1
世界に冠たる日本の食品サンプルが近くで入手できるのだから、もう少し瑞々しい感じの野菜を並べておいてほしいものだ。これでは買う気が失せてしまうのでは。
八百屋_店舗正面から_2
八百屋_店舗正面から_3
八百屋_店舗正面から_4
この竈だと、熾火の始末などを入念にしないと、すぐ火事になりそうだ。江戸の家屋は相当に狭かったようだ。今に始まったことではないのだ。(苦笑)
八百屋_店舗正面から_5
建屋の裏手
八百屋_建屋の裏手_1
八百屋_建屋の裏手_2
【八百屋「八百新」】
亀戸大根や砂村茄子など江戸近郊の新鮮な野菜が並びました。展示でも季節により品物の種類をかえています。

舂米屋
舂米屋(つきまいや)だったのか。江戸に出れば、玄米ではなくて、あこがれの白米を口にできたのか。なるほど。
子供の頃の街のお米屋さんを思い出した。もちろん精米機が備えてあったが。

関連事項を説明してあるHPへjump
舂米屋「上総屋」
舂米屋は、玄米を注文に応じて精白して売る町の米屋です。展示室では、長屋の大家という設定です。

舂米屋_店舗正面から_1
舂米屋_店舗正面から_2
舂米屋_店舗正面から_3
舂米屋_店舗正面から_4
舂米屋_店舗正面から_5
精米の仕掛け
餅も搗いて販売していたのだろうかと考えたのだが、そうではないようだ。餅搗きではなく、玄米を精米していたようだ。
足踏み式の杵と臼の装置は当時の流行りのデバイスだったのかな。世田谷の民家園でも川崎の民家園でも会津の資料館でも見かけた。『唐臼』というようだ。

精米の仕掛け_1
精米の仕掛け_2
精米の仕掛け_3
建屋の裏手
舂米屋_建屋の裏_1
舂米屋_建屋の裏_2
舂米屋土蔵
近くでみると手を抜かずにつくってあるようだ。
壁面の折れ釘や入り口の鼠返しなど細かいところまで復元されています。
舂米屋土蔵_1
舂米屋土蔵_2
地下1階から地上2階、三層にわたる高い吹抜けの大空間に展開する江戸時代の深川の町。
深川江戸資料館は、江戸時代末期、天保年間頃の深川佐賀町の町並みを想定復元した「情景再現、生活再現展示」です。
町並みには、表通りの大店と白壁の土蔵、船宿のたたずまい、そして猪牙舟の浮かぶ掘割には火の見やぐらが影を落としています。一歩路地を入れば長屋が並び、そこには庶民の暮らしがあります。
時代や場所だけでなく、そこに住む人々の家族構成や職業、年齢までを細かく設定し、それぞれの暮らしぶりにあった生活用品を展示してあります。

 

清澄庭園・深川江戸資料館など(6)

清澄庭園(6)
大正記念館の周囲
ここにも惜しげも無く銘石が使われていた。
大正記念館の周囲_1
大正記念館の周囲_2
大正記念館の周囲_3
大正記念館の周囲_4
大正記念館の周囲_5
大正記念館の周囲_6
大正記念館の周囲_7
大正記念館の周囲_8
大正記念館の周囲_9
大正記念館の周囲_10

余り粘っても雨が心配だったので、次に向かうことにする。

浄土宗霊厳寺
深川江戸資料館に向かう前に、すぐ手前にあるこの寺院の佇まいが気になった。何も知らずに入ったのだが、陸奥白河藩の第3代藩主で、寛政の改革を行った松平定信の墓がある寺院なんだ。この辺りの地名が白河であるのは、定信に由来するのか。清澄白河駅を検索した時、どこかで聞いたような地名が入った駅名だとは思ったのだが。
そして、寺の名前も霊岸島と似た名前だと思ったが、縁があったのか。知らないことだらけだなあ。

境内を眺めた様子
境内を眺めた様子
『史蹟楽翁松平定信墓』の碑
楽翁はここに眠っていたのか。
『史蹟楽翁松平定信墓』の碑
『子育呑龍上人奉安所』の碑
呑龍上人のお寺って、川越で見たことがあったような気が。調べてみたら川越市連雀町の蓮馨寺(れんけいじ)だった。多くの困窮した子供を引き取り教育した事から、『子育て呑龍上人』として、後の世の人々に信仰された御仁なのか。奉安所って何をつつしんで安置したのだろうか。遺骨だったら、墓所と記載されるはずだが。
『子育呑龍上人奉安所』の碑
本殿ほか
本殿ほか_1
本殿ほか_2
松平定信ほかの墓…以下3点は、free画像を借用
松平定信の墓
松平定信の墓_1
松平定信の墓_2
膳所藩主・本多家墓
膳所藩主・本多家墓
銅造地蔵菩薩座瘡(都指定有形文化財)
江戸六地蔵の第五番
銅造地蔵菩薩座瘡(都指定有形文化財)_1
銅造地蔵菩薩座瘡(都指定有形文化財)_2
これは何かな
これは何かな_1
これは何かな_2
寛永元年(1624年)、雄誉霊巌上人の開山により、日本橋付近の芦原を埋め立てた霊巌島(現在の東京都中央区新川)に創建された。数年後に檀林が設置され、関東十八檀林の一つとなった。
明暦3年(1657年)、江戸の大半を焼失した明暦の大火により霊巌寺も延焼。境内や周辺で1万人近くの避難民が犠牲になったという。万治元年(1658年)に徳川幕府の防火対策を重視した都市改造計画の一環として、現在地に移転した。
霊巌寺には、11代将軍徳川家斉のもとで老中首座として寛政の改革を行った松平定信の墓をはじめ、今治藩主松平家や膳所藩主本多家など大名の墓が多く存在する。また、境内には江戸六地蔵の第五番が安置されている。
幕末江戸の7大火葬場(荼毘所)のひとつ、境内除地に火屋があり火葬執行の責任者が置かれていた。


こちらは出世不動尊
ここにもあったか。私には全く縁がないところ。お願いしたこともなければ、お礼参りに行く必要を感じたこともない。それって、世間的にはちょっと残念な話なのかなあ。
こちらは出世不動尊_1
こちらは出世不動尊_2
こちらは出世不動尊_3

 

清澄庭園・深川江戸資料館など(5)

清澄庭園(5)
美しい池の景観(4)
好きな方にはたまらないかもしれないゾーン
とにかく大きな石が続く。それがまた、見事なのだ。そして、右手を見れば、これまた、涼亭などが粋に見える。
美しい池の景観(4)_1
美しい池の景観(4)_2
美しい池の景観(4)_3
美しい池の景観(4)_4
美しい池の景観(4)_5
美しい池の景観(4)_6
美しい池の景観(4)_7
美しい池の景観(4)_8
美しい池の景観(4)_9
美しい池の景観(4)_10
美しい池の景観(4)_11
美しい池の景観(4)_12
美しい池の景観(4)_13
美しい池の景観(4)_14
美しい池の景観(4)_15
美しい池の景観(4)_16
美しい池の景観(4)_17
美しい池の景観(4)_18
美しい池の景観(4)_19
美しい池の景観(4)_20
美しい池の景観(4)_21
美しい池の景観(4)_22
美しい池の景観(4)_23
美しい池の景観(4)_24
美しい池の景観(4)_25
美しい池の景観(4)_26
美しい池の景観(4)_27
美しい池の景観(4)_28
美しい池の景観(4)_29
美しい池の景観(4)_30
美しい池の景観(4)_31
船着石(仙台石)
おじさんやお嬢さんが座っていたベンチの前の大石だ。何をするものかと思っていたが、やはり確たる使用目的があったようだ。
美しい池の景観(4)_33

 

夏の思い出

夏休みを利用して、伊豆に嫁いだ東京の刺激に飢えている次女の家族がやって来た。この日は近くのアメリカンクラブハウスという店で、同居中の長女家族との合同の食事会。チョット頼みすぎたかもしれない。
早く出てくるといいなあ。子どもたちは待たせると大変だぞ。事前に注文してあったので、それほど待たされること無く来たが。
早く出てくるといいなあ_2
早く出てくるといいなあ_3
早く出てくるといいなあ_4
妻と私との分
妻と私との分
お子様用にも
お子様用にも_1
お子様用にも_2
お子様用にも_3
以下は料理
食べ散らかされない内に急いで撮ってみた。でも気がつく前に食べられてしまったものも。
食べ散らかされない内に急いで撮ってみた_1
食べ散らかされない内に急いで撮ってみた_2
食べ散らかされない内に急いで撮ってみた_3
食べ散らかされない内に急いで撮ってみた_4
食べ散らかされない内に急いで撮ってみた_5
食べ散らかされない内に急いで撮ってみた_6
これがこの店の名物料理スペアリブ。写真の所為でおいしく見えないかもしれないが、絶品だと思う。
名物料理スペアリブ_1
名物料理スペアリブ_2
名物料理スペアリブ_3
その他にも
本当に食べ過ぎて、お腹が苦しかった
その他にも_1
その他にも_2
その他にも_3
その他にも_4
その他にも_5
その他にも_6

 

清澄庭園・深川江戸資料館など(4)

清澄庭園(4)
美しい池の景観(3)
途中、屈んだ姿勢でみた涼亭
順路からすれば、今回取りあげる分の最後だが、ぜひ見ていただきたいので、冒頭でも見てもらうことにした。素晴らしい美しさだと思った。
途中、屈んだ姿勢でみた涼亭
石仏群
小道を入り石仏を拝む。これはありきたりだったかな。
石仏群_1
石仏群_2
石仏群_3
再び池沿いの小道に戻る
再び池沿いの小道に戻る_1
再び池沿いの小道に戻る_2
再び池沿いの小道に戻る_3
再び池沿いの小道に戻る_4
再び池沿いの小道に戻る_5
再び池沿いの小道に戻る_6
再び池沿いの小道に戻る_7
再び池沿いの小道に戻る_8
再び池沿いの小道に戻る_9
再び池沿いの小道に戻る_10
再び池沿いの小道に戻る_11
再び池沿いの小道に戻る_12
再び池沿いの小道に戻る_13
再び池沿いの小道に戻る_14
再び池沿いの小道に戻る_15
再び池沿いの小道に戻る_16
再び池沿いの小道に戻る_17
再び池沿いの小道に戻る_18
再び池沿いの小道に戻る_19
再び池沿いの小道に戻る_20
庭園の中の庭園
花菖蒲園があった
花菖蒲園があった
芝生の広場も
芝生の広場も
『台湾人参木』
初めて見た樹木だ
『台湾人参木』
『古池や蛙飛び込む水の音』の句碑
この有名な句はすぐ近くの芭蕉庵で詠まれた句だ。句碑自体は昭和9年のもので、もちろん芭蕉庵にあった。芭蕉庵改修の際に、こちらに移されたそうだ。惚れ惚れするような達筆ぶりだ。
『古池や蛙飛び込む水の音』の句碑_1
『古池や蛙飛び込む水の音』の句碑_2
清澄園記
岩崎家から寄付を受けたということが書かれてある。小さな字で長々と書かれてあったので、読む下す気にはなれなかった。
清澄園記
再び、池の周りの小道に
この辺りの景観が最高の感じだろうか。隙は人それぞれで、このあとのほうが良いという方も多いかも。
再び、池の周りの小道に_1
再び、池の周りの小道に_2
再び、池の周りの小道に_3
再び、池の周りの小道に_4
再び、池の周りの小道に_5

 

清澄庭園・深川江戸資料館など(3)

清澄庭園(3)
美しい池の景観(2)
美しい池の景観(2)_1
瀟洒な橋があったり、磯渡りがあったり、あちらも楽しそうだ。
美しい池の景観(2)_2
美しい池の景観(2)_3
美しい池の景観(2)_4
こういうところは一人で歩くところではなさそうだ。何故、私はいつも一人ぼっちなのだろうか。
美しい池の景観(2)_5
快晴だったら、池面への映り込みはどんなふうだろうか。最高に綺麗なのだと思う。
美しい池の景観(2)_6
中の島からの眺め
確かに富士山だ
美しい池の景観(2)_7
アオサギに『どうやって、そっちに渡ったの?』って聞いてみたい。『飛んでいったに決まっているだろう。俺は鳥なんだぜ』って答えが返ってくるに決まっているか。
美しい池の景観(2)_8
長瀞あたりにありそうな石だ
美しい池の景観(2)_9
美しい池の景観(2)_10
大正記念館も綺麗なものだ
美しい池の景観(2)_11
爺さんがいる時よりいい感じ
美しい池の景観(2)_12
あちらの岸も綺麗だなあ
美しい池の景観(2)_13
いくつになっても洒落心は大切だぜ。そこのカメラ持っているしょぼくれた爺さんよ。…そんなことを言いたげだった。
美しい池の景観(2)_14
美しい池の景観(2)_15
美しい池の景観(2)_16
美しい池の景観(2)_17
美しい池の景観(2)_18

 

別府葉子シャンソンコンサート

昨4日夜、市ヶ谷のルーテル市ヶ谷ホールで開催された別府葉子シャンソンコンサートを聴きに行った。一応、撮影禁止の扱いではなく、他の方の迷惑にならない程度に、撮影してみた。公認のカメラマンではなく、客席からの手持ち撮影なので、雰囲気だけを感じ取っていただければと思う。
楽しい歌、悲しい歌、寂しい歌、色々あるだろう。そういう微妙なニュアンスの違いが出せるはずもなく、…。
別府葉子シャンソンコンサート_1
別府葉子シャンソンコンサート_2
別府葉子シャンソンコンサート_3
別府葉子シャンソンコンサート_4
別府葉子シャンソンコンサート_5
別府葉子シャンソンコンサート_6
別府葉子シャンソンコンサート_7
別府葉子シャンソンコンサート_8
別府葉子シャンソンコンサート_9
別府葉子シャンソンコンサート_10
別府葉子シャンソンコンサート_11
別府葉子シャンソンコンサート_12
別府葉子シャンソンコンサート_13
別府葉子シャンソンコンサート_14
別府葉子シャンソンコンサート_16
別府葉子シャンソンコンサート_17
別府葉子シャンソンコンサート_19
別府葉子シャンソンコンサート_20
別府葉子シャンソンコンサート_21
別府葉子シャンソンコンサート_22
別府葉子シャンソンコンサート_23
別府葉子シャンソンコンサート_24
別府葉子シャンソンコンサート_25
別府葉子シャンソンコンサート_26
別府葉子シャンソンコンサート_27
別府葉子シャンソンコンサート_29
別府葉子シャンソンコンサート_31
別府葉子シャンソンコンサート_32
別府葉子シャンソンコンサート_33
別府葉子シャンソンコンサート_34
別府葉子シャンソンコンサート_35
DSC03845_R.jpg

 

清澄庭園・深川江戸資料館など(2)

清澄庭園(2)
涼亭
国賓を迎えるために、個人がゲストハウスを用意したのか。如何に並ぶものなき財閥の当主であったとはいえ、気宇壮大な話だなあ。
見た感じも素晴らしいが、あの建物の内部から眺めた感じも、これまた素晴らしいことなのだろう。
涼亭_1
涼亭_2
池に突き出るようにして建てられた数寄屋造りの建物。これが、この庭園を日本情緒豊かなものにしています。涼亭は明治42年国賓として来日した英国のキッチナー元帥を迎えるために岩崎家が建てたもの。震災と戦火の被害からまぬがれ今日に至りましたが、昭和60年度に全面改築工事を行いました。集会場として利用できます。平成17年には「東京都選定歴史的建造物」に選定されました。
美しい池の景観(1)
美しい池の景観(1)_1
背後の築山が『富士山』なのかなあ。手前の枝振りの良い松は、こちらから眺めることを想定して植えられたのだろう。なんと美しい姿形なのだろう。
美しい池の景観(1)_2
美しい池の景観(1)_3
美しい池の景観(1)_4
美しい池の景観(1)_5
美しい池の景観(1)_6
美しい池の景観(1)_7
美しい池の景観(1)_8
美しい池の景観(1)_9
美しい池の景観(1)_10
美しい池の景観(1)_11
美しい池の景観(1)_12
写真など撮らず、このおじさんのようにずっと池面を眺めているのが最高かもしれない。足元の石は畳2畳分くらいある巨石。本人は極楽気分なのだろう。
美しい池の景観(1)_13

 

清澄庭園・深川江戸資料館など(1)

まだ行ったことがなかった清澄庭園に行ってみようと思い立った。せっかく足を伸ばすので、夏バテの身体でも何とか行ける範囲にある周辺の様子も見てみることにした。
今回はすべてEOS M3で撮影した。画面が全般的に暗いのは、雨が降らないのが不思議な程の曇天だった所為だ。

清澄庭園(1)
清澄庭園敷地に隣接する建物
結構味わいのある建物のように思う。ここは渦中のお子ちゃまと評された柿沢未途議員の選挙区なのか。
清澄庭園敷地に隣接する建物
清澄白河駅から一番近い清澄庭園の門
締め切り扱いで、敷地にそって200mほど先から入る必要ありか。チョット前までは門前仲町駅からアクセスする都合からなのだろうかなどと考えた。しかし、敷地の地図を見れば、清澄通りは正式な出入口には適さないのがよく分かる。
清澄白河駅から一番近い清澄庭園の門
正門の手前の通用門
面倒だからここから入った。
正門の手前の通用門
大正記念館入口
有料予約制施設である大正記念館入口はこちららしい。今回は借り切りの客ではないので、こちらは無縁。大正天皇の葬儀に用いられた葬場殿を移築したものだそうだが、縁起が悪いとかそういうことは気にならなかったのだろうか。それにしても『大正記念館』とは、思い切った名前をつけたものだ。
大正記念館入口
大正天皇の葬儀に用いられた葬場殿を移築したもの。しかし、最初の建物は戦災で焼失したため、昭和28年に貞明皇后の葬場殿の材料を使って再建、平成元年4月に全面的に改築されました。集会場として利用できます。

いよいよ庭園内に入る

園内マップ
園内マップ
全国各地から集められた銘石が惜しげも無く使われている
その様子はおいおい見ていくことにする
全国各地から集められた銘石が惜しげも無く使われている
まずは大正記念館前を通り、磯渡りの辺りまで歩く
まずは大正記念館前を通り、磯渡りの辺りまで歩く_1
まずは大正記念館前を通り、磯渡りの辺りまで歩く_2
まずは大正記念館前を通り、磯渡りの辺りまで歩く_3
まずは大正記念館前を通り、磯渡りの辺りまで歩く_4
まずは大正記念館前を通り、磯渡りの辺りまで歩く_5
まずは大正記念館前を通り、磯渡りの辺りまで歩く_6
まずは大正記念館前を通り、磯渡りの辺りまで歩く_7
まずは大正記念館前を通り、磯渡りの辺りまで歩く_8
まずは大正記念館前を通り、磯渡りの辺りまで歩く_9
まずは大正記念館前を通り、磯渡りの辺りまで歩く_10
まずは大正記念館前を通り、磯渡りの辺りまで歩く_11
泉水、築山、枯山水を主体にした「回遊式林泉庭園」です。この造園手法は、江戸時代の大名庭園に用いられたものですが、明治時代の造園にも受けつがれ、清澄庭園によって近代的な完成をみたといわれています。
この地の一部は江戸の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷跡と言い伝えられています。享保年間(1716~1736年)には、下総国関宿の城主・久世大和守の下屋敷となり、その頃にある程度庭園が形づくられたようです。
明治11年、岩崎弥太郎が、荒廃していたこの邸地を買い取り、社員の慰安や貴賓を招待する場所として庭園造成を計画、明治13年に「深川親睦園」として一応の竣工をみました。弥太郎の亡きあとも造園工事は進められ、隅田川の水を引いた大泉水を造り、周囲には全国から取り寄せた名石を配して、明治の庭園を代表する「回遊式林泉庭園」が完成しました。
清澄庭園は、関東大震災で大きな被害を受けましたが、この時図らずも災害時の避難場所としての役割を果たし、多数の人命を救いました。岩崎家では、こうした庭園の持つ防災機能を重視し、翌大正13年破損の少なかった東側半分(現庭園部分)を公園用地として東京市に寄付し、市ではこれを整備して昭和7年7月に公開しました。
また、昭和52年には、庭園の西側に隣接する敷地を開放公園として追加開園しました。ここには芝生広場、パーゴラなどがあります。また、サクラの木が20本ほど植えられ、春のお花見の場となっています。なお、庭園の方は、昭和54年3月31日に東京都の名勝に指定されています。

 

国分寺市内の国分寺崖線に沿って歩いた(7)

武蔵国分寺跡
再利用の計画が起きては、その動きを阻止する歴史を繰り返してきたようである。ということでまだ、武蔵国分寺跡が残っているのだ。それにつけても、おおよそ600年も存在し続けた武蔵国分寺が焼失してしまったのは何とも惜しいことだった。
武蔵国分寺跡案内図
武蔵国分寺跡案内図
武蔵国分寺跡案内図
武蔵国分寺跡位置関係図
雪の印のようなものが湧水源を示しています。国分尼寺跡辺りも含めて結構あります。
武蔵国分寺跡位置関係図
講堂
実際に敷地に立ってみると、かなり広い敷地だ。よく更地にすると、こんなものかと驚くのが常だが、それでもかなりの広さに感じるということは、建物が実際にあれば、相当に大きく感じたことだろう。
武蔵国分寺跡_講堂_1
武蔵国分寺跡_講堂_2
武蔵国分寺跡_講堂_3
武蔵国分寺跡_講堂_4
金堂
此処が金堂の跡かなあ
武蔵国分寺跡_金堂_1
武蔵国分寺跡_金堂_2
武蔵国分寺跡_金堂_3
武蔵国分寺跡_金堂_4
この看板は?
この看板は?
日本最大の寺院であった武蔵国分寺
1333年(元弘3年)新田義貞は上野国新田庄で鎌倉幕府討伐の兵を起こします、武蔵国久米川、小手指原で幕府軍を破った義貞は分倍川原にて援軍あわせて10万余の軍勢と成った幕府軍と戦い大敗して堀金(埼玉県狭山市)まで後退し、その際に武蔵国分寺に火をかけて焼き払ってしまいます。
8世紀半ばから大凡600年間続いた寺院は此処に全てを消失してしまうのです。
さて消失してしまった武蔵国分寺ですが如何なる寺院であったのでしょうか?
国分寺とは皆さん御承知の通り奈良期、8世紀の頃に聖武天皇により全国の60余ヶ国に国営寺院を配置する様に命じられて建てられた寺です。武蔵国では武蔵国府(東京都府中市)から北へ2kmの地点(東京都国分寺市)が選ばれました。
当時、武蔵国では蝦夷との対立関係から国府に近く、尚且つその対立関係の沈静化を願い寺院の規模は他国分寺より大きく築かれ、東西900m、南北550mと本山奈良東大寺と並ぶ国内最大級の寺でした、その内部は中心の伽藍から東に七重の塔が聳え、西に国分寺の尼寺が在り、尼寺と中心の伽藍の間に奈良期の官道、東山道が通されていました。

真言宗豊山派国分寺(2)
仁王門
国分寺墓地の先に階段がある。そこを上ると仁王門に到達する。日頃は訪れる人も殆ど居ないようで、説明書きなどを読んでいたら、たっぷりやぶ蚊に刺されてしまった。
真言宗豊山派国分寺_仁王門_1
真言宗豊山派国分寺_仁王門_2
真言宗豊山派国分寺_仁王門_3
薬師堂
仁王門からさらに階段を上ると、薬師堂が見えてくる。建物自体は国分寺市指定文化財に過ぎないが、中に鎮座まします『木造薬師如来坐像』は、国指定重要文化財だ。大将3年に指定されているとのことなので、最近のインフレ指定のものではなさそうだ。
真言宗豊山派国分寺_薬師堂_1
真言宗豊山派国分寺_薬師堂_2
真言宗豊山派国分寺_薬師堂_3
真言宗豊山派国分寺_薬師堂_4
真言宗豊山派国分寺_薬師堂_5
真言宗豊山派国分寺_薬師堂_6
真言宗豊山派国分寺_薬師堂_7
真言宗豊山派国分寺_薬師堂_8
真言宗豊山派国分寺_薬師堂_9
真言宗豊山派国分寺_薬師堂_10
本村八幡神社
更に隣り合うようにもう一つ階段があり、上ってみた。国分寺と隣接している本村八幡神社のようだ。境内には、「土師竪穴住居跡」の案内板が立っているようだ。夏バテで体調が全く戻っていない私には、、もう見て回る気力が残っていなかった。
国分寺跡の発掘調査に際して、竪穴住居跡が見つかったのか。縄文人が生活していたんだ。よく見ておくのだった。

本村八幡神社_1
本村八幡神社_2
本村八幡神社_3
都立武蔵国分寺公園
やっと崖線の上部まで上ってきた。此処が、この近隣の湧水源の供給水源になっているそうだ。もう此処を見て回る元気は残っておらず、撤収と相成った。
都立武蔵国分寺公園_1
都立武蔵国分寺公園_2

以上で、『国分寺市内の国分寺崖線に沿って歩いた』を終了します。最後までご覧頂き有難うございました。

 

国分寺市内の国分寺崖線に沿って歩いた(6)

もう少しだけ、お鷹の道を歩くと、現在の真言宗豊山派寺院である国分寺に出た。今回はその件を取り上げる。

お鷹の道・真姿の池湧水群(4)
お鷹の道の最後
お鷹の道の最後_1
お鷹の道の最後_2
お鷹の道の最後_3
お鷹の道の最後_4
お鷹の道の最後_5
真言宗豊山派国分寺(1)
国分寺市にある現在の真言宗豊山派国分寺は、奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、武蔵国国分寺の後継寺院にあたる。今回は本堂・楼門等を取りあげる。仁王門、薬師堂・鐘楼等は次回以降に取りあげる。
武蔵国の国分寺は、元弘3年(1333年)の分倍河原の戦いで焼失したのか。鎌倉が焦土と化しただけでは済まなかったのか。

本堂
今でも堂々たる寺院ではあるが、往時の日本でも最大級の寺院であった時代のそれと比較すると、何とも寂しい限りである。が、身の丈にあった寺院規模なのかもしれない。
現在の真言宗豊山派国分寺_本堂_1
現在の真言宗豊山派国分寺_本堂_2
現在の真言宗豊山派国分寺_本堂_3
楼門
現在の真言宗豊山派国分寺_楼門_1
扁額には、『くにをわけ たからをつみて たつてらの すへのよまでも りやく のこせり』という弘法大師の御詠歌が書かれてあるが、扁額自体はそんなに古いものではなさそうだ。
現在の真言宗豊山派国分寺_楼門_2
現在の真言宗豊山派国分寺_楼門_3
現在の真言宗豊山派国分寺_楼門_4
万葉植物園
ギンリョウソウかなギンリョウソウモドキかなシャクジョウソウかな。でももしかしたら、ナンバンキセルかなあ。
現在の真言宗豊山派国分寺_万葉植物園_1
現在の真言宗豊山派国分寺_万葉植物園_2
秋海棠
現在の真言宗豊山派国分寺_万葉植物園_3
ホトトギス
現在の真言宗豊山派国分寺_万葉植物園_4
墓に咲いていた花
makiraさんにショウジョウソウ(猩々草)だと教えていただいた。猩々の名前をもらっただけのことがある鮮やかな花だ。
墓に咲いていた花
真言宗豊山派寺院の国分寺は、醫王山西勝院と号します。国分寺は、奈良時代に聖武天皇命じて建立させた寺院で、金堂をはじめ諸伽藍を備えていたといいます。鎌倉幕府滅亡の際の戦火により焼失、薬師堂は新田氏により再建、江戸時代には寺領9石8斗の御朱印状を拝領していたといいます。関東九十一薬師霊場初番、多摩八十八ヶ所霊場29番です。

 

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