散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

国分寺市内の国分寺崖線に沿って歩いた(5)

お鷹の道・真姿の池湧水群(3)

お鷹の道に戻り先を目指す
お鷹の道に戻り先を目指す_1
お鷹の道に戻り先を目指す_2
お鷹の道に戻り先を目指す_3
セイヨウフウチョウソウ(洋風蝶草)かなあ
お鷹の道に戻り先を目指す_4
お鷹の道に戻り先を目指す_5
お鷹の道に戻り先を目指す_6
お鷹の道に戻り先を目指す_7
旧本多家(武蔵国分寺跡資料館)
見学料は100円。殿ケ谷戸庭園はシニアの割引があったので70円だった。こちらは残念ながら、そういう都合の良い制度はなかった。武蔵国分寺跡資料館の内部展示は、あまり充実していなかったし、撮影も禁止だった。市で運営するにしても、有料施設である以上、もう少し展示内容を充実させるべきではなかろうか。
旧本多家の古い建物はそれなりに雰囲気あり
旧本多家の古い建物_1
旧本多家の古い建物_2
旧本多家の古い建物_3
旧本多家の古い建物_4
旧本多家の古い建物_5
旧本多家の古い建物_6
旧本多家の古い建物_7
旧本多家の古い建物_8
七重塔模型
なんでここにと思ったが、『武蔵国分寺跡資料館』を標榜しているのだから、当然かも。もう少し大きな存在感のあるものでも良かったのでは。
本物の10分の1で6mか。現存している木造建築で一番高い東寺の五重塔が55mだから、それよりも高かったのか。う~~ん。

七重塔模型_1
七重塔模型_2
武蔵国分寺跡資料館
内部は撮影禁止なので写真なし。あまり撮りたいと思うものはなかった。他の人の探訪記をみると、堂々と館内の写真が掲載されているものがあった。あれまあ。
武蔵国分寺跡資料館
敷地内にあった湧水源
よく目を凝らしてみると奥の方から水が流れてきていた。
敷地内にあった湧水源_1
敷地内にあった湧水源_2
敷地内にあった湧水源_3

 

国分寺市内の国分寺崖線に沿って歩いた(4)

お鷹の道・真姿の池湧水群(2)
長屋門が
ここは名主屋敷の遺構である旧本多家住宅長屋門ではない。だが、こちらも本多家。なかなかご立派なものだ。
長屋門が
お鷹の道をさらに先に進む
お鷹の道をさらに先に進む_1
お鷹の道をさらに先に進む_2
お鷹の道をさらに先に進む_3
飛んできた蝉が目の前に
もう弱ってきたようだった。無事、役目を果たしたのかなあ。
飛んできた蝉が目の前に
『真姿の池湧水群』
右側に入った辺りがそうだ。見逃す訳にはいかない。
右側に入った辺りが『真姿の池湧水群』_1
右側に入った辺りが『真姿の池湧水群』_2
付近の農家では、新鮮な野菜の直売をしているようだ。美味しいんだろうなあ。
新鮮な野菜の直売をしているようだ_1
新鮮な野菜の直売をしているようだ_2
湧水源
すぐ上に雑木林がある分、結構な湧水量だ。殿ヶ谷戸庭園より豊富な水量のように見えた。
湧水源_1
湧水源_2
湧水源_3
湧水源_4
湧水源_5
湧水源_6
湧水源_7
真姿の池
真姿の池湧水群は都の指定名勝に指定されているんだ。これだけにきれいな水に肌を晒したら、真姿の伝説通りになる感じがしてくるから不思議だ。真姿がキレイかどうかはその人の本来の器量によるだろうから、過剰な期待は禁物なのかな。
真姿の池_1
真姿の池_2
真姿の池_3
真姿の池_4
真姿の池_5
真姿の池_6
真姿の池_7

 

国分寺市内の国分寺崖線に沿って歩いた(3)

殿ケ谷戸庭園を後にし、南下して一里塚まで行き、そのから暫く住宅地を歩く。そして、お鷹の道・真姿の池湧水群を目指す。

お鷹の道・真姿の池湧水群(1)
1748年(寛延元年)から国分寺市内の村々は、尾張徳川家の鷹狩の狩り場となった。それにちなんで、崖線下の湧水が集まり野川にそそぐ清流沿いの小径を『お鷹の道』と名づけ、現在約350メ-トルを遊歩道として整備している。此処を歩いた。
昔ならいざしらず都市開発が進んだ今は、域内に水源を確保しなくてはいずれ湧水は枯渇してしまう。そのため中央鉄道学園跡地を東京都立武蔵国分寺公園として整備し、水源林としているそうだ。

一里塚から少し入ったところ(東元町3丁目)
武蔵国分寺跡まで980m、お鷹の道まで630mという案内が出てきた
武蔵国分寺跡まで980m、お鷹の道まで630mという案内
田用水堰記念の石碑があった。そして、ペンシルロケットの開発拠点だったのか、その表示も為されていた。
田用水堰記念の石碑など
田用水堰はこの堰ようだ
田用水堰_1
田用水堰_2
そのすぐそばの用水
『カワニナをとらないで』と書いてあった。してみると、この辺は時期になればホタルが飛び交うのか。
そのすぐそばの用水_1
そのすぐそばの用水_2

これから先、暫く住宅地を歩く。間違った道を歩いているのではないかと気になった。TVから聞こえてくる音声からすると、早実は0-7で負けていたようだ。人気先行のチームなのかな、などという感慨を持った。そうこうしている内に、お鷹の道の端に到達した。

お鷹の道の一方の端
お鷹の道の一方の端_3
お鷹の道の一方の端_4
お鷹の道の一方の端_5
何かと思えば、カラーの葉のようだ。帰宅して調べてみたら、カラーが綺麗に咲くのだそうだ。
カラーの葉
ハグロトンボかな?アオハダトンボかな?数百ショット撮ったのに、まるで自信なし。都内なのに結構たくさん飛んでいる。そのことに感動した。
ハグロトンボかな?アオハダトンボかな?_1
ハグロトンボかな?アオハダトンボかな?_2
ハグロトンボかな?アオハダトンボかな?_3
ハグロトンボかな?アオハダトンボかな?_4
ハグロトンボかな?アオハダトンボかな?_5
ハグロトンボかな?アオハダトンボかな?_6
ハグロトンボかな?アオハダトンボかな?_7
ハグロトンボかな?アオハダトンボかな?_8
ハグロトンボかな?アオハダトンボかな?_9
ハグロトンボかな?アオハダトンボかな?_10
トンボを追いかけるばかりでも能がないので、先に進む
先に進む
結構な水量だ
結構な水量だ
こんな花も咲いていた。テッポウユリだろうか?タカサゴユリだろうか?
こんな花も咲いていた
写真からはヘドロのようにみえるかもしれないが、非常にきれいな水だ。先ほどのトンボも居た。
非常にきれいな水だ

 

国分寺市内の国分寺崖線に沿って歩いた(2)

まずは殿ケ谷戸庭園(2)
紅葉亭
1929年(昭和4年)に三菱財閥創業家の岩崎彦弥太が別邸として買い取り、津田鑿の設計で洋風邸宅、数奇屋風の茶室(紅葉亭)などを追加整備したそうだ。この茶室は趣きがあっていいなあ。
紅葉亭_1
紅葉亭_2
紅葉亭_3
紅葉亭_4
紅葉亭_5
紅葉亭_6
紅葉亭_7
紅葉亭_8
紅葉亭_9
紅葉亭_10
紅葉亭から見た次郎弁天池
紅葉の時期はさぞかしきれいだろうなあ。許されるものなら、此処で酒宴を催したいくらいだ。
紅葉亭から見た次郎弁天池_1
紅葉亭から見た次郎弁天池_2
紅葉亭から見た次郎弁天池_3
紅葉亭から見た次郎弁天池_4
紅葉亭から見た次郎弁天池_5
本館脇の花園
秋の七草は咲きそろっていなかった
本館脇の花園_1
本館脇の花園_2
本館脇の花園_3
こちらは木瓜
本館脇の花園_4
山査子もあった
本館脇の花園_5
本館脇の花園_6
小紫も。そういえば、小紫の花って注意してみたことがなかったぞ。
本館脇の花園_7
本館脇の花園_8
戻ってきた
庭園をほぼ一周(4分の3周くらいかな)して戻ってきた。やっぱりきれいな庭園だ。
戻ってきた_1
戻ってきた_2
戻ってきた_3
展示室に入る
本館は展示室になっている。ごく一部のみを展示スペースとしているが、実は幅も奥行きも相当にある。
戻ってきた_4
戻ってきた_5
戻ってきた_6
戻ってきた_7
戻ってきた_8
戻ってきた_9
戻ってきた_10
戻ってきた_11
戻ってきた_12
戻ってきた_13
本館(展示室)を後にする
本館(展示室)を後にする_1
本館(展示室)を後にする_2
本館(展示室)を後にする_3
本館(展示室)を後にする_4

 

国分寺市内の国分寺崖線に沿って歩いた(1)

自宅近辺を歩くと『国分寺崖線』によくお目にかかる。そして、国分寺崖線の端っこなので、湧水量は大したことがないなどと言ってきた。然らば、国分寺崖線というくらいだから、その本家本元のあたりの様子はどうなのだろうと気になっていた。そこで、少し歩いて様子を確認してきた。

まずは殿ケ谷戸庭園(1)
国分寺駅からすぐ近くにある都立の殿ケ谷戸庭園に向かう。この庭園は、江口定条の別荘として作庭された。それに目をつけた創業家の岩崎彦弥太に迫られ、やむなく譲ったもののようだ。その辺の事情は見たわけでないので定かではないが、そういう事情ではなかったかと思う。
庭園の美しさは、他の岩崎家の庭園に勝るとも劣らないレベルだと思う。

芝庭と本館
芝庭と本館_1
芝庭と本館_2
芝庭と本館_3
芝庭と本館_4
芝庭と本館_5
芝庭と本館_6
芝庭と本館_7
芝庭と本館_8
芝庭と本館_9
芝庭と本館_10
竹林
竹林_1
竹林_2
蓮華升麻
いつ見てもきれいな花だ。今年は茶室『麟閣』で見て、今回が二度目だ。運がいいぞ。この時は、まだMFの仕方を承知していなかった。もう少しうまく撮れたはずなのに残念。撮っている最中に『カタクリの花はどこにありますか』と聞かれた。春の妖精が今咲いているはずもなく、その旨を答えた。誰が教えたのだろうか。
蓮華升麻_1
蓮華升麻_2
蓮華升麻_3
次郎弁天池
紅葉亭からではなく、順路の手前側見た様子。見え方の違いを確認されたい。
次郎弁天池_手前側_1
次郎弁天池_手前側_2
次郎弁天池_手前側_3
次郎弁天池_手前側_4
次郎弁天池_手前側_5
次郎弁天池_手前側_6
馬頭観音
その昔の国分寺村は、府中宿の助郷として馬の供給を請け負っていたのか。施主は本多なる人物とか。今でも本多姓が多い土地柄だ。
馬頭観音_1
馬頭観音_2
湧水源
砂の中から噴き出すほどとはいかないが、間断なく湧きだしていた。縄文人もこの湧水を利用していたのだろうか。1分間に37リットルほどの湧水量なのか。多いのか少ないのかよくわからない。
湧水源_1
湧水源_2
湧水源_3
ししおどし
非常においしい水だったので、手盃で数杯飲んでしまった。でも先程の湧水源より10mくらい高い場所だ。もしかしたら、こちらは水道水だったかもしれない。
ししおどし_1
ししおどし_2
ししおどし_3
ししおどし_4
ししおどし_5
ししおどし_6
1913年(大正2年)から1915年(大正4年)にかけて、江口定条の別荘として庭師・仙石の手で作庭される。1929年(昭和4年)に三菱財閥創業家の岩崎彦弥太が別邸として買い取り、津田鑿の設計で洋風邸宅、数奇屋風の茶室(紅葉亭)などを追加整備した。昭和40年代に再開発計画が持ち上がったが、保存を求める住民運動をきっかけとして1974年(昭和49年)東京都が買収、公園として整備の後に1979年(昭和54年)4月より有料庭園として公開した。
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国分寺崖線と呼ばれる段丘崖と豊富な湧水を巧みに生かして築かれた、回遊式林泉庭園である。様々な木々が植えられており、園内には池や周遊順路が存在し、カメラマンや地元住民、近隣で働く人間の憩いの場として利用される。

 

秩父小旅行(8)

第2日目(5)
巴川バス停から見る景観
子どもたちが酒を選んでいる間に一つ先のバス停『巴川』に移動。ここから写真を撮りまくった。物凄い強烈な日差しなのに、今ひとつ武甲山、荒川、浦山ダムなどの見え方がよくない。本来は絶景のはずなのだが。
武甲山
1900年(明治33年)の測量では標高は1,336メートルだったようだ。日本武尊が、自らの甲(かぶと)をこの山の岩室に奉納したという伝説が元禄時代の頃から定着した。それが山の名前の由来のようである。
武甲山_1
武甲山_2
武甲山_3
武甲山_4
武甲山_5
荒川
手前の赤い橋は巴川橋。小さく見えるかもしれないがかなり長い橋だ。そして見えている流れが荒川。豪雨の直後なので川幅いっぱいに水が流れている。
河口から125.9キロメートルの地点の荒川の深い谷に架かる橋長172.5メートル、総幅員8.9メートル、有効幅員8.0メートル(車道6.5メートル 歩道1.5メートル)、支間長171.0メートルの下路式の鋼アーチ橋の一種であるニールセンローゼ桁橋の1等橋(TL-20)である。
荒川_1
荒川_2
少しだけ上流を見る
荒川_3
荒川_4
荒川_5
吊り橋の旧巴川橋。この当時は自殺の名所で、試みたほぼ全員が死亡したそうだ。多分、今でも飛び込んだらお陀仏は間違いがなさそうだ。free画像を借用した。
吊り橋の旧巴川橋
浦山ダム
常用洪水吐き(大雨が降ったときに使用する設備)からも、どんどん流れ出しているようだ
浦山ダム_1
以下の2点は、free画像を借用した。
浦山ダム_2
浦山ダム_3

第3日目は、大雨の予報が出ていたので、どこにも出掛けず帰京した。
ということで、『秩父小旅行』シリーズはこれで終了です。最後までご覧頂きありがとうございました。

 

秩父小旅行(7)

第2日目(4)
西武秩父駅近辺で
昼食
第1日目を安く済ませたので、この日は少しだけ贅沢。私はパスタで簡単に済ませたのに、息子たちは遠慮せずステーキにしてくれた。お財布はこちらなんだけど。
昼食_1
昼食_2
昼食_3
昼食_4
昼食_5
またまたアニメの写真を撮る
大好きな作品なので素通りできかねる
またまたアニメの写真を撮る_1
またまたアニメの写真を撮る_2
もう一度、循環バスに乗るべく、西武秩父駅に出る
駅前アーケード
武甲山が見え出した
武甲山が見え出した
向かったのは『酒づくりの森』
この森の上方に午前中遊んだミューズパークの広大な敷地が広がる。このすぐ近くにかつての勤め先の保養所があり、何度か足を運んだところだ。
酒づくりの森_1
酒づくりの森_2
酒づくりの森_3
酒づくりの森_4
酒づくりの森_5
此処は『秩父錦』の醸造元
酒づくりの森_6
酒づくりの森_7
杉玉は奈良の三輪神社(大神神社)のご神木から作られているのか。知らなかった。(^_^;)
酒づくりの森_8
酒づくりの森_9
達筆すぎて読むことが出来ない。日本人失格だ。(^_^;)
酒づくりの森_10
此処から先は、特に説明を挟まない。作業工程と思しきところを中心に取りあげる。
酒づくりの森_11
酒づくりの森_12
酒づくりの森_13
酒づくりの森_14
酒づくりの森_15
酒づくりの森_16
酒づくりの森_17
酒づくりの森_18
酒づくりの森_19
酒づくりの森_20
酒づくりの森_21
酒づくりの森_22
酒づくりの森_23
酒づくりの森_24
酒づくりの森_25
酒づくりの森_26
酒づくりの森_27
酒づくりの森_28
酒づくりの森_29
酒づくりの森_30
酒づくりの森_31
現在の様子
酒づくりの森_32
酒づくりの森_33
こういう感じもいいなあ
酒づくりの森_34
200年以上の歴史を語る貴重な史料を展示
「秩父錦」で知られる矢尾本店の造り酒屋が創業したのは江戸中期の寛延2年(1749)のこと。永年、秩父市街で酒造りを続けてきましたが、近年になって、秩父ミューズパークの森に「秩父酒づくりの森」を設立しました。敷地内には、醸造工場、酒蔵資料館、観光物産館があります。
興味深いのは江戸時代から続く酒づくりの道具などを展示した酒蔵資料館です。 人々の培ってきた知恵の詰まった伝統的な酒づくりの技術を再現しています。また、明治初期に起きた「秩父事件」の様子を記した過去帳など歴史的に貴重な史料も数多く展示されています。
近代的な設備の整った醸造工場ではコメの精米から醸造、ビン詰めまですべての工程が行われ、予約をすれば工場内の見学も可能です。観光物産館では、日本酒はもちろん、焼酎やワインなど矢尾本店の商品がすべて揃います。試飲もできますので、好みのお酒をじっくりと選びましょう。

 

秩父小旅行(6)

第2日目(3)
まつり会館
前日めったにない第4・第5火曜(祝祭日は開館)の休館日に遭遇してしまったので、この日の2番目の行き先をここにした。
笠鉾と屋台(レプリカ)
展示されている笠鉾は高さ11mあるそうだ。本物は15mほどになる。何か迫力不足の感じが否めないが、屋内に展示するには致し方ないのであろう。屋台の方は見た感じは実物大だろうか。お祭りを再現した音や光の演出で、お祭り本番の雰囲気だけでも味わえると案内には書かれてある。でも、館内の音は、高音部が目立ち過ぎる音で、売り物の重低音が聞いていない感じがしてならない。
レプリカは、大きさは兎も角として、音響だけでも、本物のド迫力を再現するように音響システムをチューニングしたほうが良いように思う。なお、本物の笠鉾と屋台のあかりは、ろうそくを点灯して行う。

笠鉾と屋台(レプリカ)_1
笠鉾と屋台(レプリカ)_2
笠鉾と屋台(レプリカ)_3
笠鉾と屋台(レプリカ)_5
笠鉾と屋台(レプリカ)_6
笠鉾と屋台(レプリカ)_7
笠鉾と屋台(レプリカ)_8
笠鉾と屋台(レプリカ)_9
笠鉾と屋台(レプリカ)_10
(参考)昨年の実際の夜祭の様子
本物とどのくらい違うのか、昨年の夜祭の画像をごらんあれ。
昨年の実際の夜祭の様子_1
昨年の実際の夜祭の様子_2
昨年の実際の夜祭の様子_3
昨年の実際の夜祭の様子_4
昨年の実際の夜祭の様子_5
昨年の実際の夜祭の様子_6
昨年の実際の夜祭の様子_9
昨年の実際の夜祭の様子_10
映画はすごく映像が良いのだが、残念ながら撮影禁止
模型
レプリカより出来が良かった。
模型_1
模型_2
秩父神社社殿神輿
室町時代のもので埼玉県指定有形文化財の説明あり。随分、シンプルなもののように見えた。秩父神社社殿が埼玉県の有形文化財に指定されるにあたって、天正20年の棟札1枚と共に附指定を受けたようだ。
而、展示品は本物だろうか?

模型_3
模型だが有り難い。このシーンは指定観覧席からは暗いし遠く障害物もあったりして、全く見えない。こんなふうな儀式が為されていたのか。
模型_4
夜祭時に打ち上げられる花火。確かにきれいなのだが、花火を見ながら、団子坂の奮闘の様子を見るのはかなりせわしない。
模型_5
笠鉾・屋台の説明
基数は合わせて6と少ない。しかし、そのことを感じさせない迫力がある。
笠鉾は正装していない時のもの。特別曳行では実現できたのだから、夜祭でも正装でやってほしいものだ。

笠鉾・屋台の説明_1
ギリ棒(心棒)
屋台の片方が20度ほど浮き上がったところで、屋台の下にギリ棒(心棒)を置き、台車の回転中心をギリ棒に嵌め込み、屋台がギリ棒に乗って浮き上がったところで、屋台の各部に何人かずつぶら下がり、水平を保ちながら、みんなで押して90度(あるいは180度)旋回させた後、再度二本の角材で車輪を浮かせてギリ棒を取り去り、もとの四輪車となって曳行する。
笠鉾・屋台の説明_2
団子坂を上る様子
こんなに急勾配かなあ。最後の辺りは確かに急勾配になっているが。
笠鉾・屋台の説明_3

 

秩父小旅行(5)

第2日目(2)
秩父ミューズパーク
循環バス『ぐるりん号』を利用してやってきた秩父ミューズパーク。秩父の町並みを見下ろす絶好のロケーションにある。車さえあれば、最高の行き先だ。
展望すべり台バス停で降りた
ここには、展望ちびっ子広場(展望すべり台、ボールスウィング)、旅立ちの丘、北口サイクリングセンター等がある。
展望すべり台バス停で降りた
展望すべり台
かなり高いところから滑り降りる滑り台があった。チョット度胸がいりそうな感じだった。
展望すべり台_1
慣れるために、最初はそれほどでもない滑り台からトライすることにした。途中で大きな滑り台と合流するようだ。降りてきたら、プンプン怒っている。なんだろうと思ったら、明け方の雨がでローラーに水滴がいっぱい残っていたようだ。
展望すべり台_2
展望すべり台_3
展望すべり台_4
展望すべり台_5
ボールスウィング
気をとりなおして、こちらを試させる。何かこわごわしがみついている。
ボールスウィング_1
ボールスウィング_2
ボールスウィング_3
ボールスウィング_4
ボールスウィング_5
ボールスウィング_6
ボールスウィング_7
ボールスウィング_8
ボールスウィング_9
ボールスウィング_10
ボールスウィング_11
ボールスウィング_12
秩父市街地が見下ろせる
秩父市街地が見下ろせる_1
秩父市街地が見下ろせる_2
レンタサイクル
いよいよここでのメインの楽しみであるサイクリング。相当気持ちのよい長いコースだ。息子たちはタンデムにしたが、かなり車体が重そう。孫はしがみついているだけで殆ど戦力にならない。後ろから観察していると、サイクリングが趣味の息子でも大変そう。
レンタサイクル_1
レンタサイクル_2
レンタサイクル_3
レンタサイクル_4
レンタサイクル_5
レンタサイクル_6
レンタサイクル_7
途中で
途中の景観の良い所に停めて見るほどの余裕がなく、2-3度の休憩を挟んだ程度だった。泉の一つあたりで、記念写真的に撮ってみた。この施設の名誉のために言及すれば、写真を撮ったら素晴らしいところが随所にある。
途中で_1
途中で_2
途中で_3
途中で_4
途中で_5
途中で_6
途中で_7
途中で_8
1時間ほどでギブアップ
1往復して早々とギブアップ。あと1時間もあるが、これ以上は出来ないというので、やむを得ず返却。さっさと次の目的地に向かって移動すべく、バス停に向かって歩き出す。
1時間ほどでギブアップ
下界の川霧はまだ晴れず
秩父ハープ橋(秩父公園橋)の大きな支柱が見えている。荒川を跨いでいるのだが、相当に怖い感じ。大雨で水量も半端じゃ無いようだ。この様子じゃ、下流の長瀞もトロトロ流れるというような感じではなかろう。
下界の川霧はまだ晴れず
秩父市と小鹿野町にまたがる豊かな自然環境に恵まれた長尾根丘陵に、音楽堂・野外ステージ、ミューズの泉、展望ちびっ子広場などの芸術・文化施設、多彩なスポーツ施設があり、魅力いっぱいの四季折々の自然とともにお楽しみいただけます。

 

秩父小旅行(4)

第1日目(4)
ギャラリーかみいし
うだつのある建物などを気楽に撮っていたら、どんどん先に行ってしまった。薄情だぞ。いっぱい撮りたかったのに、なんて奴らだ。
ギャラリーかみいし_1
追いかけるので夢中で気が付かなかったけど、キャノンの教室の発表会もやっていたようだ。
ギャラリーかみいし_2
本町の秩父ふるさと館
『そばの杜』などが入っているようだ。残念ながら、此処で食したことがない。今度機会があれば試してみたいものだ。
本町の秩父ふるさと館_1
もとは大正時代に繁栄した銘仙問屋の店舗・主屋。現在は「観光・食品コンビニ」のコンセプトのもと、生鮮食品(野菜果物)をはじめとした日用食料品からお菓子まで販売するお店や、地元産農産物の直売、喫茶スペース、土蔵を活かした地域の物産展示販売、郷土料理もお出しする手打ちそば屋、そして夜間はお酒が楽しめる観光拠点にリニューアルされました。
秩父市役所にて
ここから見る武甲山ははっきり見えていい感じ。気に入った。石灰岩がどんどん削られていくのがお分かりいただけるだろうか。
ここが秩父夜祭の御旅所になる場所だ。秩父鉄道の踏切を越えるためのわずかのところで2度方向転換をし、架線を一時的に取り外した踏切を渡り、団子坂を駆け上がる。
想像するだけで、また見てみたいと思うのだが、御神幸行列を追いかけるか、指定観覧席でじっと待つか、択一なのだ。実に悩ましい。

秩父市役所にて_1
秩父市役所にて_2
秩父市役所にて_3
秩父市役所にて_4

この後、息子たちは羊山公園まで歩いて往復した。そんな元気は私に残っているわけもなく、留守番をしていた。

第2日目(1)
朝の西武池袋線の秩父駅前
武甲山はまったく見えず
この先に武甲山が見えるのだが、朝はいつもこんなもの。山霧と川霧のダブルパンチだから、仕方がないことだ。10時過ぎくらいでないと、姿を見せてくれないようだ。
武甲山は見えず_1
武甲山は見えず_2
ちちぶ巡礼バス
今はこんな便利なものがあるんだ。どんなコースで、どのくらいの頻度で運転されるのかな。調べておく価値はありそうだ。
『和銅』という名称で、ピンとくる人は歴史がお好きかも。あの和同開珎と縁がある地名なのだ。その当時は、年号まで変更してしまうほどの一大事だったようだ。和銅とは精錬を要しない自然銅のことで、それだけ貴重なものだったようだ。
自動車で関越自動車道からアクセスすると、秩父市黒谷は秩父の入口辺りになる。何度も近くを通っているが、行ったことがない。何せ、すぐ近くに一番札所の四萬部寺があるので、そちらに気を取られて…。
ちちぶ巡礼バス_1
ちちぶ巡礼バス_2
和銅遺跡の露天掘り跡
確かに銅の色合いが残っているなあ。今回はFREE画像を借用した。
和銅遺跡の露天掘り跡
慶雲五年、西暦七〇八年、武蔵国秩父郡(現在の埼玉県秩父市黒谷)から自然銅が発見され、これを喜んだ朝廷は年号を「和銅」と改元し、日本最初の流通貨幣【和同開珎】を、発行しました。
札所はこんな感じ
今回は行けなかったが、よく回った札所は1,4,5番。小さな子供を歩かせるのに、丁度よい距離だったかな。今回はFREE画像を借用した。
札所一番四萬部寺
札所一番四萬部寺
札所四番金昌寺
札所四番金昌寺
札所五番語歌堂
札所五番語歌堂

 

秩父小旅行(3)

第1日目(3)
秩父神社から、秩父駅に出る
秩父駅は秩父鉄道の駅であり、じばさんセンターをも兼ねている。まつり会館で涼んでいこうと画策していたのに、あいにくの休館日。ならばと、ここでの休憩を目論んだのだが、あっさり通過されてしまった。
秩父駅前にて
武甲酒造柳田総本店店舗
仕方なく、思考が定まらないままに、すぐ近くの武甲酒造柳田総本店店舗に向かう。
秩父夜祭りの時はたしか秩父往還をここで折り返すはずだ。笠鉾、屋台の方向転換には、『ギリ廻し』という見応えのある方向転換が行われる。祇園祭とは全く異なる独特のものだ。上町屋台のみは、これとは別の『キリン』の方式が採られている。
この建物も、国指定の登録有形文化財だ。年端の行かない子供を連れての行き先ではないことは承知なのだが、見せたいものがあった。それは、柱に残る鎌を刺した痕。腰に差した鎌を振り回しての喧嘩になると一大事なので、お約束でこの柱に鎌を刺さないと、お酒にありつくことが出来なかったのだそうだ。バカ者どもの千社札でよくわからなくなっていた。う~~ん。
店舗外観
武甲酒造柳田総本店店舗_1
武甲酒造柳田総本店店舗_2
武甲酒造柳田総本店店舗_3
武甲酒造柳田総本店店舗_4
店舗内部
武甲酒造柳田総本店店舗_5
武甲酒造柳田総本店店舗_6
これは重量物を吊り上げたり吊り降ろしたりする昔のクレーンだろうか?
武甲酒造柳田総本店店舗_7
店舗裏
今晩の酒宴分を買い求め、店舗裏を見学させてもらう。週末だとどこかのグループが見学を申し込んでいたりする。そういうときは、ちゃっかり便乗して見学も試飲もできたのだが、あいにく平日だった。
武甲酒造柳田総本店店舗裏_1
武甲酒造柳田総本店店舗裏_2
武甲酒造柳田総本店店舗裏_3
武甲酒造柳田総本店店舗裏_4
武甲酒造柳田総本店店舗裏_5
武甲山伏流水
美味しそうなので、ありがたく飲ませていただいた。水質は日本では珍しい中硬水なのだそうだ。子供にはチョット複雑なのどごしだったかなあ。
この水は『平成の名水百選』に選定された『武甲山伏流水』。容器持参で自由に水を持ち帰ることが出来るそうだ。

武甲山伏流水_1
武甲山伏流水_2
醸造蔵
中に入ってみたかったけど残念
中に入ってみたかったけど残念
秩父往還に東面して建つ。木造2階建、切妻造(きりづまづくり)、鉄板葺、平入で、正面に桟瓦葺(さんがわらぶき)の下屋庇(げやひさし)を設ける。
1階正面には開放的な構えとし、2階は横長の開口部に繊細な格子戸を立て込む。
全体的にたちが低く、屋根勾配も緩やかで、市内でも数少ない江戸期の佇まいをみせている。

ほっとすぽっと秩父館
秩父往還を暫く歩いて行くと『ほっとすぽっと秩父館』が見えてきた。なかなか休もうとしない孫に休息を取らせるべく、宥めすかしてやっと飲み物などをいただくことになった。
外観
ほっとすぽっと秩父館_1
ほっとすぽっと秩父館_2
ほっとすぽっと秩父館_3
無料休憩スペース
無料休憩スペースの傍らには、古い井戸があった。
ほっとすぽっと秩父館_4
ほっとすぽっと秩父館_5
レンタルボックスの様子
ほっとすぽっと秩父館_6
何とか説得して休憩を取ることに
古めかしい柱時計があった
ほっとすぽっと秩父館_7
う~~ん、見事なお飾りだ
ほっとすぽっと秩父館_8
こんな絵も飾られていた
ほっとすぽっと秩父館_9
喉の渇きをいやすのに、アイスコーヒー一杯だけでは足らず、ウィスキーまで頼んでしまった。美味しかったが、歩くのがいささか億劫になってきた。
ほっとすぽっと秩父館_10
建物内部
ついでに、建物内部も見学させてもらった
ほっとすぽっと秩父館_11
ほっとすぽっと秩父館_12
微妙なところに設えられた神棚
ほっとすぽっと秩父館_13
ほっとすぽっと秩父館_14
柞(ははそ)稲荷と書いてある。秩父神社のお祓いを受けたもののようだ。
ほっとすぽっと秩父館_19
秩父夜祭りをここから見ることができれば、特等席だがどうなのだろうか
ほっとすぽっと秩父館_15
ほっとすぽっと秩父館_16
ほっとすぽっと秩父館_17
ほっとすぽっと秩父館_18
ほっとすぽっと秩父館_20
この施設は、明治時代初期に建築された商人宿「秩父館」をみやのかわ商店街振興組合が借り受けて、なるべく昔の姿を残すよう改装後、地域の交流・観光拠点として活用することを目的として開設されました。
1階は大きないろりがある無料休憩所となっており、そのまわりにはレンタルボックスを設置して、市民の方々が手芸品や陶芸品を展示販売するスペースとなっています。2階は畳敷きを残し、まちづくり講座や貸しギャラリー、宴会に使うことができます。

 

秩父小旅行(2)

第1日目(2)
秩父神社
孫がとっくに興味をなくしているのを無視し、ぐるりと一周する。我慢するのも社会勉強の内だ。内周を一周りするのはそんなに大変ではないが、外周は結構ある。境内には、『柞(ははそ)の森』があるからのようだ。柞って何だか知らなかったが、ひょんなことからコナラの古名だとわかった。昨日や今日名づけたものではなさそうだ。
秩父神社鳥居
秩父神社鳥居
鳥居をくぐった辺り
この下境内に秩父夜祭の屋台や笠鉾がまずは駆けつけて、お参りする。
鳥居をくぐった辺り_1
鳥居をくぐった辺り_2
鳥居をくぐった辺り_3
神門
下境内と本境内を分ける位置に立つ。華やかな朱塗りで、小さいながらも美しい門だ。
神門_1
神門_2
神門_3
神門をくぐった辺り
正面に徳川家康が建てさせた権現造りの社殿がみえる。華やかな感じの社殿だ。
神門をくぐった辺り
秩父神社社殿
天正20年(1592年)に徳川家康公が寄進した由緒ある社殿。家康の意向を反映した建物であり、後に日光東照宮を造営した際に、参考にしたものであると言われる。それほどのものなのに、埼玉県の有形文化財指定どまり。この国の文化財の指定基準はどうなっているのだろうか。
拝殿正面
拝殿正面の彫刻には虎が多くあり、左方に左甚五郎作の「子宝 子育ての虎」も見られる。これは家康が寅年・寅の日・寅の刻生まれであることが由来しているそうだ。徳川の威光を示し、祭神を守護する神の使いとして彫られたとされる。
拝殿正面_1
拝殿正面_2
拝殿正面_3
拝殿正面_4
拝殿正面_5
拝殿正面_6
拝殿東の彫刻
拝殿東の彫刻
本殿東の彫刻
左甚五郎の彫刻と言われる有名な『つなぎの龍』。『つなぎの龍』は秩父観音霊場札所15番・少林寺の近くの天ヶ池に棲みついた龍が暴れると彫刻の下に水溜りができていたことから、この彫刻の龍を鎖でつなぎ留めたところ、龍が現れなくなった不思議な伝説が語られている。実際に鎖でくくられているのがお分かりになるだろうか。
本殿東の彫刻_1
本殿東の彫刻_2
本殿北の彫刻
『北辰の梟(ふくろう)』。身体の柔軟性が極端にない私には、驚いてしまうポーズだ。意外に小さな彫刻作品だ。
体は本殿(南)を向いているのに、顔だけ180度逆の方向(北)を向いて、祭神である妙見菩薩を守っている。妙見菩薩は北辰菩薩とも呼ばれ、北辰すなわち北極星を神格化したものといわれている。北極星は、昔から『道しるべ』として利用されてきただけでなく、天空の星が北極星を中心に回って見えるため、尊い星として崇拝の対象ともなった。北辰のふくろうが一日中、真北をずっと見つめているのは、北極星の方向から妙見神が現れるから。そして、ふくろうは古くから知恵のシンボル。秩父神社が祀る八意思金命も知恵の神として崇敬されている。こうしたことから、思慮深い神の使として、社殿北面に施された。
本殿北の彫刻
本殿西の彫刻
『お元気三猿』。日光東照宮の三猿は、『見ざる・聞かざる・言わざる』として有名だ。その先輩格の彫刻物である秩父神社の三猿は、日光のそれとは全く違ったいる。『よく見、よく聞いて、よく話そう』といった仕草を表しているのだそうだ。私には何がなんだかよくわからないが。ともあれ、『お元気三猿』として称されている。
本殿西の彫刻
弊殿西の彫刻
『瓢箪から駒』。こんな故事だったのかなあ。
馬に関する諺の一つに「瓢箪から駒」がある。意外なところから意外な発見や出会いがあることを表す諺であるが、その意味するところは開運招福である。そのため、社殿西側にはこの諺に因んだ彫刻が施されている。
弊殿西の彫刻
拝殿西の彫刻
拝殿西の彫刻
現存するご社殿は、天正20年(1592年)に徳川家康公が寄進されたもので、江戸時代初期の建築様式をよく留めていることなどから、埼玉県の有形文化財に指定されています。また、毎年12月3日に行われる例祭は、「秩父夜祭」として国の重要無形民俗文化財に指定され、京都の祇園祭、飛騨高山祭と共に日本三大曳山祭のひとつに数えられています。
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永禄12年(1569)、秩父郡内の有力神社に悲劇が訪れる。武田信玄の秩父侵攻によって、妙見宮も焼き払われてしまった。天正元年(1573)には再建を図ったが実現しなかったという。天正19年(1591)、徳川家康は御朱印地10石、除地7石を安堵し、新たに50石を寄進した。翌天正20年(1592)には、家康の命によって現在の「秩父神社社殿」(妙見宮を中心として)の形が再興された。風格ある荘厳な美しいたたずまいを見せる権現造りの社殿はそのとき再興されたものである。

 

秩父小旅行(1)

第1日目(1)
相馬野馬追から帰って、中1日でボランティア他の用事を何とか果たし、疲れ果てた身体のまま、孫を連れての2泊小旅行を敢行した。
西武池袋線は秩父方面豪雨のため、芦ケ久保から先は運転中止中のようだ。レッドアロー号は、途中の飯能止まりに。飯能で降ろされてもどうしようもない。どうしたものかと思案していたら、雨がやみ、無事、西武秩父まで直行することが出来た。やれやれ前途多難の旅の始まりだ。

序章
レッドアロー号の車中にて
西武秩父まで直行することが確定して、ほっとしているところ
レッドアロー号の車中にて
駅前にて
ホテルに荷物を預けて、身軽にはなったのだが、豪雨が上がったばかりの盆地は猛烈な蒸し暑さだった。ジェラートでも頬張らないとやっていられない。
ジェラートでも頬張らないと_1
ジェラートでも頬張らないと_2
西武秩父駅前から見た武甲山
いつもよりも武甲山の山霧も荒川の川霧もすごかったと思うが、11時過ぎには何とか晴れ上がっていた。随分削られてしまったものだ。
翌朝は、この位置から全く見えなかった。恐るべし山霧の濃さ。

西武秩父駅前から見た武甲山
秩父神社に向かう
歩き始めの辺りで
先ほどまで豪雨だったというのはウソではないようだ。カラスウリとおぼしき花がだいぶ濡れている。
カラスウリとおぼしき花がだいぶ濡れている
続いて腹ごしらえ。珍達ラーメンを食する。安く済ませたと言うなかれ。私の子どもたちが幼かった頃から親しんできた味だ。名前にいかがわしい意味は無い筈なので、誤解のないように。
珍達ラーメンを食する_1
珍達ラーメンを食する_2
珍達ラーメンを食する_3
市役所前にて、はいポーズ。ここは秩父夜祭りの御旅所になるところ。
市役所前にて、はいポーズ
酒屋の看板
秩父に来ると、いつも必ずカメラに収めているなあ。『冠』だけが表示されているのは、『国冠』だろう。元々は埼玉県の酒造メーカーで灘に進出し、今は灘だけで醸造する銘柄のようだ。古い看板がまだ残っているのだろう。私はこのブランドは飲んだことがない。
酒屋の看板
めぼしい建物を見ながら
番場町の町並みはいつ見ても素晴らしい。と言うか郷愁を感じさせる街並みだ。お勧めの道筋だ。
めぼしい建物を見ながら_1
めぼしい建物を見ながら_2
東町屋台収蔵庫
東町屋台は秩父夜祭りに使われるものではなく、川瀬祭の方に使用される屋台。秩父神社・秩父夜祭とその境内の摂社の日御碕宮・川瀬祭が、それぞれ大きさの違う屋台を持つそうだ。屋台は大きさが川瀬祭のものは約2/3と小さいが形状はほぼ同じで、彫刻や錺金具などは同じように精緻で豪華なものが飾られているそうだ。
めぼしい建物を見ながら_3
めぼしい建物を見ながら_4
安田屋(国登録文化財建造物)
昭和5年頃建築。店舗兼住宅。木造2階一部3階建。鉄板葺き。
めぼしい建物を見ながら_5
小池煙草店(国登録文化財建造物)
昭和初期の建築。店舗兼住宅。窓の縁取りや壁面装飾に昭和初期の特徴を残す。
めぼしい建物を見ながら_6
めぼしい建物を見ながら_7
宮前家住宅主屋・表門(国登録文化財建造物)
昭和5年建築。和風と洋風を融合した建築。主屋は木造2階建、瓦葺き。
めぼしい建物を見ながら_8
めぼしい建物を見ながら_9
薗田家住宅主屋・表門(国登録文化財建造物)
主屋は明治末期の建築、武甲山麓の民家の部材を使用した秩父神社の宮司宅。木造2階建、瓦葺き。表門は天保年間の建築、ケヤキ材の四脚門。
めぼしい建物を見ながら_10
めぼしい建物を見ながら_11
めぼしい建物を見ながら_12
番場町屋台収蔵庫
番場町屋台は、前出の東町屋台と同様に、川瀬祭の方に使用される屋台。
めぼしい建物を見ながら_13
ご愛嬌だよ
秩父が舞台の人気アニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』に登場する、主人公の仁太以外は見えていないヒロインのめんまこと芽衣子。4年前にTV放送されたこのアニメ作品が好きで、何度も何度も見たなあ。
ご愛嬌だよ

 

大内宿~鶴ケ城~相馬野馬追(19)

相馬野馬追(11)
中断中の様子
暑さで参ってきた。ぎりぎり粘ることができる時間よりも30分以上も前にギブアップ。会場を後にすべく指定席から降りた。途中でブラブラと時間をつぶしながら歩いた。
少女騎馬武者
かわいい感じだった。きちんと馬に乗ることができるんだ。
少女騎馬武者_1
少女騎馬武者_2
少女騎馬武者_3
少女騎馬武者_4
少女騎馬武者_5
少女騎馬武者_6
少女騎馬武者_7
少女騎馬武者_8
少女騎馬武者_9
少年騎馬武者
こちらは凛々しい感じかなあ。小回りの練習を繰り返していた。
少年騎馬武者_1
少年騎馬武者_2
少年騎馬武者_3
少年騎馬武者_4
少年騎馬武者_5
会場内のざわめき
会場内のざわめき
指定観覧席はかなりすきだした
私と同様にこの段階で観客は帰途についた人が多かった。これらの席がびっしり埋まっていた席だったのだ。羊腸の坂も厳しいことがよくわかると思う。
指定観覧席はかなりすきだした
馬さんも帰り支度
暑い中、本当にご苦労様。帰ったら、美味しいものを食べさせてもらいなさいよ。
馬さんも帰り支度_1
馬さんも帰り支度_2
馬さんも帰り支度_3
馬さんも帰り支度_4
馬さんも帰り支度_5
馬さんも帰り支度_6
馬さんも帰り支度_7
馬さんも帰り支度_8
馬さんも帰り支度_9

以上で長く続けてきた、『大内宿~鶴ケ城~相馬野馬追』シリーズは終了です。最後までご覧頂き有難うございました。

 

大内宿~鶴ケ城~相馬野馬追(18)

相馬野馬追(10)
神旗争奪戦(5)
途中で総大将が退場
総大将および宇多郷勢と北郷勢は争奪戦の半ばで下山して、鹿島、中村への帰路につくのだそうだ。総大将の一行のみが中座するのかと思ったが、総大将のみを帰路につけさせるような不用心なことは出来ないのだろう。
私も観覧席を降りてしまったので確認していないが、以降の神旗争奪戦は私がまったく撮っていなかった左半分のフィールドの騎馬武者のみで行われたようだ。

先頭は、『軍者』。軍師・副軍師を補佐し、上司の命を受け、実務を担当する役だそうだ。
途中で総大将が退場_1
この騎馬武者が総大将のようだ
途中で総大将が退場_2
途中で総大将が退場_3
こちらも相馬姓
途中で総大将が退場_4
後続の行列メンバーはよくわからなかったが、副大将や軍者らが続いていた。
途中で総大将が退場_5
途中で総大将が退場_6
途中で総大将が退場_7
途中で総大将が退場_8
途中で総大将が退場_9
途中で総大将が退場_10
途中で総大将が退場_11
途中で総大将が退場_12
途中で総大将が退場_13
途中で総大将が退場_14
途中で総大将が退場_15
私が専ら撮っていた右半分の宇多郷勢と北郷勢は、総大将に従い、下山する。ということで、右半分のフィールドは寂しくなった。
途中で総大将が退場_16
途中で総大将が退場_17
途中で総大将が退場_18
途中で総大将が退場_19
途中で総大将が退場_20

 

大内宿~鶴ケ城~相馬野馬追(17)

相馬野馬追(9)
神旗争奪戦(4)
何とも悩ましいご神旗の降り方だ
どちらを取ろうかと右往左往する騎馬武者たち。ごちゃごちゃして私には詳細がわからなかった。これだと長いレンズでも詳細はわからなかったのでは。
こういう時は、長いレンズで騎馬武者の表情のクローズアップができれば面白かったかも。
右往左往する騎馬武者たち_1
右往左往する騎馬武者たち_2
右往左往する騎馬武者たち_3
右往左往する騎馬武者たち_4
右往左往する騎馬武者たち_5
右往左往する騎馬武者たち_6
右往左往する騎馬武者たち_7
右往左往する騎馬武者たち_8
誰かがとったはずなのだが、私の方からは全くわからなかった。残念。肉眼で見ていたら、全くわからないと思う。オペラグラス程度は必要かも。
右往左往する騎馬武者たち_10
右往左往する騎馬武者たち_11
右往左往する騎馬武者たち_12
右往左往する騎馬武者たち_13
右往左往する騎馬武者たち_14
右往左往する騎馬武者たち_15

神旗争奪戦は、こんなふうに繰り返された。どうにも非力なレンズには辛い距離で、如何ともし難いものだった。
次回は総大将中座シーンなどを取り上げていきたい。

 

大内宿~鶴ケ城~相馬野馬追(16)

相馬野馬追(8)
争奪戦(3)
比較的近くに青旗も赤旗も落ちてきた。この内、赤旗を掴んだのは赤字にオレンジの丸がある旗の騎馬武者かなあ。不動明王の旗の騎馬武者かなあ。どうやら後者らしい。だとすると、2度めだぞ。
赤旗を掴んだのは_1
赤旗を掴んだのは_2
赤旗を掴んだのは_3
赤旗を掴んだのは_4
赤旗を掴んだのは_5
赤旗を掴んだのは_6
赤旗を掴んだのは_7
赤旗を掴んだのは_8
赤旗を掴んだのは_9
赤旗を掴んだのは_10
まもなく騎馬武者がとれる高さに到達する。赤のご神旗は誰がとるのだろうか
赤旗を掴んだのは_11
赤旗を掴んだのは_12
赤旗を掴んだのは_13
誰かが確かに赤のご神旗を掴んだ。誰だ、お主は?よく手が伸びたものだ。
赤旗を掴んだのは_14
威勢よく赤のご神旗が振られた。『とったぞおーっ』とばかりに雄叫びを上げているのだろう。
赤旗を掴んだのは_15
長い焦点距離のレンズなら騎馬武者の顔がよく見えたはずなのに。全くわからない。日の丸のような旗のすぐ近くにいる騎馬武者だ。
赤旗を掴んだのは_16
赤旗を掴んだのは_17
赤旗を掴んだのは_18
赤旗を掴んだのは_19
赤旗を掴んだのは_20
見事掴んだのは良かったが、自慢の旗差物が全くわからない。己が誇ろなのだから、きちんとみえるようにしなくちゃ。
赤旗を掴んだのは_21
赤旗を掴んだのは_22
赤旗を掴んだのは_23
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連写で追いかけていたのだが、不動明王の旗の騎馬武者がどこかわからなくなってしまった。どこだ?審判役はしっかりと見ていたようだ。
赤旗を掴んだのは_36
赤旗を掴んだのは_37
赤旗を掴んだのは_38

 

大内宿~鶴ケ城~相馬野馬追(15)

相馬野馬追(7)
神旗争奪戦(2)
『不動明王』の旗の騎馬武者が神旗を勝ち取った場面(2)
誇らしげな顔を見よ
誇らしげな顔を見よ_1
誇らしげな顔を見よ_2
誇らしげな顔を見よ_3
誇らしげな顔を見よ_4
誇らしげな顔を見よ_5
誇らしげな顔を見よ_6
誇らしげな顔を見よ_7
誇らしげな顔を見よ_8
誇らしげな顔を見よ_9
誇らしげな顔を見よ_10

誇らしげな顔を見よ_11
誇らしげな顔を見よ_12
誇らしげな顔を見よ_13
誇らしげな顔を見よ_14
誇らしげな顔を見よ_15
誇らしげな顔を見よ_16
誇らしげな顔を見よ_17
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誇らしげな顔を見よ_20

誇らしげな顔を見よ_21
誇らしげな顔を見よ_22
誇らしげな顔を見よ_23
誇らしげな顔を見よ_24
誇らしげな顔を見よ_25
誇らしげな顔を見よ_26
誇らしげな顔を見よ_27
誇らしげな顔を見よ_28
同じタイミングで黄色の旗をとった騎馬武者
2基の打上げ装置からそれぞれ旗が打ち上げられる。その複数の決定的瞬間を撮ることができるほど器用じゃないので、『不動明王』の旗の騎馬武者以外はウィニングランだけ。
同じタイミングで黄色の旗をとった騎馬武者_1
同じタイミングで黄色の旗をとった騎馬武者_2
同じタイミングで黄色の旗をとった騎馬武者_3
同じタイミングで黄色の旗をとった騎馬武者_4
同じタイミングで黄色の旗をとった騎馬武者_5
同じタイミングで黄色の旗をとった騎馬武者_6
こちらも黄色の旗だ
同じタイミングで、3つめの旗。どうも、2基の打ち上げ装置からそれぞれ2つの旗が打ち上げられるようだ。違うのかなあ。
こちらも黄色の旗だ_1
こちらも黄色の旗だ_2
こちらも黄色の旗だ_3

 

大内宿~鶴ケ城~相馬野馬追(14)

相馬野馬追(6)
神旗争奪戦(1)
準備が整った
もうすぐ神旗争奪戦が始まる。争奪戦に参加する騎馬武者の気合の入り方がすごくなってきた。
もうすぐ神旗争奪戦が始まる_1
もうすぐ神旗争奪戦が始まる_2
もうすぐ神旗争奪戦が始まる_3
もうすぐ神旗争奪戦が始まる_4
もうすぐ神旗争奪戦が始まる_5
もうすぐ神旗争奪戦が始まる_6
もうすぐ神旗争奪戦が始まる_7
ご神旗を打ち上げる装置もセット済み。打ち上げ装置は2セットあるようだ。見えている1セットは中之郷・小高郷・標葉郷地区の騎馬武者が屯する辺り。見えていないもう1セットは、宇多郷・北郷地区の騎馬武者が屯する辺り。
ご神旗を打ち上げる装置もセット済み

いよいよ神旗争奪戦が始まった。どうにもレンズが短すぎて、豆粒のようにしか見えない。それが何よりも悔しい。

『不動明王』の旗の騎馬武者がご神旗を勝ち取った場面(1)
ご神旗は、まだかなり高いところだ。どちらに流れるか騎馬武者たちは真剣に読み合いをしているはずだ。
>ご神旗は、まだかなり高いところだ
大分見えてきた。何やら字が書かれてある。このひらひら動くのが曲者。流れ方を読んでいた騎馬武者たちがベストポジションを占めるべく、押し合いへし合いを始めている。
大分見えてきた_1
大分見えてきた_2
非力なレンズで、はっきりしなくて申し訳ない。この青旗を取った騎馬武者はまだ右手に陣取っている。その動きに注目だ。
この青旗を取った騎馬武者の動きに注目_1
この青旗を取った騎馬武者の動きに注目_2
この青旗を取った騎馬武者の動きに注目_3
この青旗を取った騎馬武者の動きに注目_4
うまい具合に右手が差し出された感じ。これが勝敗を分けた。
この青旗を取った騎馬武者の動きに注目_5
この青旗を取った騎馬武者の動きに注目_6
この青旗を取った騎馬武者の動きに注目_7
『不動明王』の旗の騎馬武者が神旗を掴んだ。私が見ていた限りでは、騎馬武者が最後までつかむことが出来ずに虚しく地面に落下したケースは皆無だったようだ。本当にお見事。
『不動明王』の旗の騎馬武者が神旗を掴んだ_1
『不動明王』の旗の騎馬武者が神旗を掴んだ_2
『不動明王』の旗の騎馬武者が神旗を掴んだ_3
群れから抜け出す
群れから抜け出す_1
群れから抜け出す_2
群れから抜け出す_3
群れから抜け出す_4
群れから抜け出す_5
群れから抜け出す_6
群れから抜け出す_7
群れから抜け出す_8
群れから抜け出す_9
群れから抜け出す_10
群れから抜け出す_11
群れから抜け出す_12
群れから抜け出す_13
群れから抜け出す_14
群れから抜け出す_15
群れから抜け出す_16
群れから抜け出す_17
山上の本陣から陣螺が鳴り戦闘開始の合図を告げると、騎馬武者達は馬を駆し、雲雀ヶ原に格好の場を求めてたむろする。
陣螺が鳴り終え、空中に炸裂した花火の中から二本の御神旗がゆっくりと舞い下りると、数百の騎馬は一斉にその方向へ。旗の下に群がり、鞭を振りかざしての奪い合いは、抜刀こそないが、まさに戦闘さながらである。
御神旗をとった騎馬武者は高々と誇らしげに旗をかかげながら、本陣山の羊腸の坂を一気に駆け上る。この時のどよめきと喝采は、旗を得た者の最高の栄誉だ。
こうして花火二十発・御神旗四十本が打ち上げられ、そのたびに旗の波が揺れ動く光景は一幅の戦国絵巻をも彷彿させる。

 

大内宿~鶴ケ城~相馬野馬追(13)

相馬野馬追(5)
甲冑競馬(4)
スタート直後の様子
レンズの焦点距離が短いと辛い。何とかしないといけないなあ。
スタート直後の様子_1
スタート直後の様子_2
スタート直後の様子_3
スタート直後の様子_4
総大将に報告して羊腸の坂を降りてきた騎馬武者と接触しそうになるスタート直後の一群
降りてきた騎馬武者が冷静に待機したので事故には至らなかった。間一髪が続くレースなんだなあ。軍事訓練なんだ。
接触しそうになるスタート直後の一群_1
接触しそうになるスタート直後の一群_2
接触しそうになるスタート直後の一群_3
接触しそうになるスタート直後の一群_4
接触しそうになるスタート直後の一群_5
接触しそうになるスタート直後の一群_6
接触しそうになるスタート直後の一群_7
接触しそうになるスタート直後の一群_8
接触しそうになるスタート直後の一群_9
接触しそうになるスタート直後の一群_10
接触しそうになるスタート直後の一群_11
接触しそうになるスタート直後の一群_12
接触しそうになるスタート直後の一群_13
私のいた席の前では
デッドヒートが繰り広げられていた。進路妨害すれすれかなあ。これは何でもありの軍事訓練だからそんな綺麗事は言っていられないのかなあ。
私のいた席の前では_1
私のいた席の前では_2
私のいた席の前では_3
私のいた席の前では_4
レースが終わって
勝ったぞーっと意気揚々名乗り出る騎馬武者。そりゃそうだよな。
レースが終わって_1
3着くらいまでは羊腸の坂を駆け上がって、総大将に報告するようだ。その昔、武勲で取り立てられた我が先祖様も、こういう感じだったのだろうか。
騎馬共にアドレナリン出まくりだ。この坂を駆け上がれなかったら恥だぞ。

レースが終わって_2
次のレース
このレースもスタートダッシュがきいたようだ。
次のレース_1
次のレース_2
次のレース_3
次のレース_4
次のレース_5
次のレース_6
次のレース_7
次のレース_8
次のレース_9

こんな風に甲冑競馬は10回行われた。同じような写真が続くので以下は省略し、次回からは『神旗争奪戦』を取り上げることにする。

 

大内宿~鶴ケ城~相馬野馬追(12)

相馬野馬追(4)
甲冑競馬(3)
ぶっちぎりのスタートダッシュ
専門の旗手たちによるレースではないせいか、スタートダッシュをきかせた騎馬武者が断然有利になる。好位置をキープすべく必死の形相だ。
話がそれるが、相馬野馬追で使用される甲冑の大部分は江戸時代の『当世具足』なんだそうだ。ダンボール製の偽物なんかじゃないんだ。本当に凄いことだなあ。
ぶっちぎりのスタートダッシュ_1
ぶっちぎりのスタートダッシュ_2
ぶっちぎりのスタートダッシュ_3
ぶっちぎりのスタートダッシュ_4
ぶっちぎりのスタートダッシュ_5
ぶっちぎりのスタートダッシュ_6
ぶっちぎりのスタートダッシュ_7
ぶっちぎりのスタートダッシュ_8
ぶっちぎりのスタートダッシュ_9
ぶっちぎりのスタートダッシュ_10
まだ2番手が見えない。序盤で思いもかけない大差。黒Tシャツのお姉さんも予想外といった顔つき。
ぶっちぎりのスタートダッシュ_11
ぶっちぎりのスタートダッシュ_12
ぶっちぎりのスタートダッシュ_13
ぶっちぎりのスタートダッシュ_14
やっときた2番手。遅すぎると。
ぶっちぎりのスタートダッシュ_15
ぶっちぎりのスタートダッシュ_16
ぶっちぎりのスタートダッシュ_17
ぶっちぎりのスタートダッシュ_18
最終盤
旗差物を落としそうになりながらも疾走。そのことに気がついた様子。
最終盤_1
最終盤_2
最終盤_3
最終盤_4
最終盤_5
最終盤_6
最終盤_7
最終盤_8
最後は片手で旗をひっつかんで力走
マナー違反の手前の青シャツの観客2人が動いたくらいで、なんで手前にピントが移ってしまうんだ。ピンボケ写真量産じゃないか。α6000は私には向かないのかなあ。
件の騎馬武者は先祖の名誉を守るために必死だった。焦らなくても大差だったのに。とにかくご立派。

最後は片手で旗をひっつかんで力走_1
最後は片手で旗をひっつかんで力走_2

 

大内宿~鶴ケ城~相馬野馬追(11)

相馬野馬追(3)
甲冑競馬(2)
ここでもあったフライング
第2レースではフライングがあり、何頭かが走りだした。1頭を除いてすぐに走るのをやめたが、この騎馬武者だけ、ずっと走ってしまった。人一倍事前練習をしっかり繰り返していたはずなのに。第1コーナーを曲がることが出来ず、人だかりの方に突っ込んでやっと止まった。
審判長が『早く戻れ』とがなりたてるが、トロトロ。何とも締まらないフライングだった。田舎芝居さながらだったかな。

フライング_1
フライング_2
フライング_3
再スタート
ということで、出直しのレース。さっきのおじさん騎馬武者はどうだろうと思ったら、何とトップ。名誉回復のために少しサービスしておこう。
再スタート_1
再スタート_2
再スタート_3
再スタート_4
再スタート_5
再スタート_6
再スタート_8
再スタート_9
再スタート_10
再スタート_11
再スタート_12
再スタート_13
終盤
フライングして長く走った分、1000m過ぎてへばったのかなあ。2番手に落ちていた。
終盤_1
終盤_2
終盤_3
終盤_4
終盤_5
終盤_6
終盤_7
終盤_8
終盤_9
終盤_10
ゴール前
最終的にはかわされて3着だった。おじさん騎馬武者に情が移っていたのに残念。1位の騎馬武者は旗差物を誇らしげに抱えていた。
ゴール前_1
ゴール前_2
ゴール前_3
戻る様子
1位2位コンビは誇らしげ
戻る様子_1
戻った時はしょぼんとしていたなあ。馬は意気軒昂な感じだったが。何れにしても場内を沸かせた人馬だった。
戻る様子_2

第2レースは面白かったが、こんな調子じゃいつまでも終わらない。仕方がないので、次回からは、間引いて紹介したい。

 

大内宿~鶴ケ城~相馬野馬追(10)

相馬野馬追(2)
甲冑競馬が始まる前の様子(2)
陣取り方
こちらは、宇多郷(相馬市)、北郷(南相馬市鹿島区)辺りの騎馬武者が屯しているようだ。
宇多郷(相馬市)、北郷(南相馬市鹿島区)辺りの騎馬武者
甲冑競馬開始の時間が迫ってきたようだ
舞の最中に先ほどの一団が戻ってきた
舞の最中に先ほどの一団が戻ってきた_1
舞の最中に先ほどの一団が戻ってきた_3
舞の最中に先ほどの一団が戻ってきた_4
舞の最中に先ほどの一団が戻ってきた_5
舞の最中に先ほどの一団が戻ってきた_6
舞の最中に先ほどの一団が戻ってきた_7
舞の最中に先ほどの一団が戻ってきた_8
舞の最中に先ほどの一団が戻ってきた_9

舞も終了し、いよいよ甲冑競馬が始まる。

甲冑競馬(1)
第1レースは、何やら特別なレースのようなことを場内アナウンスしていたが、どこが特別なのか、聞き取れなかった。以降のレースと明確に違うのは先祖伝来の旗差物をなびかせていないことだったが。後になって思い出した。お使い番の人たちのレースだった。この人達は特別に早駆けができるのかもしれない。
ソニーのα6000は、連写スピードはかなり早くていいのだが、バッファが極めて少なく、すぐ連写が終わってしまう。長いレンズも用意されていない。おまけに、前方の席の観客がどよめくとそちらに合焦のポイントが移ってしまう感じで(これは私の使い方が良くないのかもしれないが)、少し遠目になる会場では使えない感じがした。肝心のゴールの瞬間は、走路のすぐ前を歩く人物にピントが合ってしまい万事休す。ピンぼけになってしまった。
やっぱりCかNのカメラ&レンズでないと厳しいのだろうか。

第1レース_1
第1レース_2
第1レース_3
第1レース_4
第1レース_5
第1レース_6
第1レース_7
第1レース_8
第1レース_9
第1レース_10
第1レース_11
第1レース_12
第1レース_13
第1レース_14
第1レース_15
第1レース_16
第1レース_17
第1レース_18
第1レース_19
第1レース_20
第1レース_21
第1レース_22
第1レース_23
第1レース_24
第1レース_25
第1レース_26
第1レース_27
第1レース_28
第1レース_29

 

大内宿~鶴ケ城~相馬野馬追(9)

相馬野馬追(1)
相馬野馬追は毎年、7月の最終週末とその翌日の3日間行われる行事。伝統を誇る信じ及び祭事である。初日は、宵祭り。2日目は、本祭。最終日は野馬懸が行われる。
私達のバスツアーは、この内のメインイベントである、本祭りの内の『甲冑競馬』と『神旗争奪戦』とを見学した。『お行列』は郡山から駆けつける関係上、最初から予定には入っていなかった。

甲冑競馬とはこんなもの
若武者たちは兜を脱ぎ、白鉢巻をしめる。駿足に自信のある馬にまたがり、先祖伝来の旗差物をなびかせながら風を切って疾走する。この甲冑競馬は、一周千メートル、十頭立てで十回行われる。実際には1,250mを走ってゴール。
最初のレースだけは旗差物を装着せずに行われる特別のものだったようだ。このレースは、見事女性騎馬武者が勝負を制した。見ていたこちらも思わず力が入った。なお、この後に行われた『神旗争奪戦』でも女性騎馬武者が神旗の争奪に成功したりした。いまどきの女性は本当にたくましいものだ。

この段階では僅差だったが、最終的には大差がついた。女性騎馬武者の凄さにびっくり。
甲冑競馬とはこんなもの_1
三番手は旗差物をなびかせなきゃダメだぞ。先祖伝来の旗が泣いてしまうじゃないか。
甲冑競馬とはこんなもの_2
甲冑競馬が始まる前の様子(1)
祭場地に到着した行列は、神輿を御本陣に安置し、式典を挙行。しばしの休憩をとった後に、勇壮な甲冑競馬が行われる。その様子だ。
『お行列』をしてきた騎馬武者らは暫しの休息
『お行列』をしてきた騎馬武者らは暫しの休息_1
『お行列』をしてきた騎馬武者らは暫しの休息_2
『お行列』をしてきた騎馬武者らは暫しの休息_3
『相馬流れ山』を舞う一団が集結
『相馬流れ山』を舞う一団が集結_1
『相馬流れ山』を舞う一団が集結_2
何やら儀式が行われているようだったが
焦点距離の短いレンズではうまく撮れなかった。次回行くときは、この後のことも考えると、長いレンズを用意しないと欲求不満が昂じてしまいそうだ。
何やら儀式が行われているようだが_1
何やら儀式が行われているようだが_2
何やら儀式が行われているようだが_3
何やら儀式が行われているようだが_4
甲冑競馬の練習をする騎馬武者も
実際の競技はこの反対方向に走る
甲冑競馬の練習をする騎馬武者も_1
甲冑競馬の練習をする騎馬武者も_2
猛烈な暑さなので、走路には水が撒かれた
多少水を撒いた程度では、前方の観客は砂かぶりになってしまうことだろう。そのくらい日差しが強烈だった。
走路には水が撒かれた_1
走路には水が撒かれた_2
『相馬流れ山』の舞い
千葉県流山市から福島県相馬市までは、検索すると、「常磐自動車道」経由で3時10分 (268.1km) ほどだ。その当時は、道無き道と言ってもそのはるか昔に八幡太郎義家が通った勿来の関などもあったほどだから、整備されていなくとも道はあったと思われる。宿場でもあれば、数日の道のりだろうが、南北朝当時には、通りやすい道は何もなかったのかもしれない。道中で炊飯などをしながら野宿の道中だったのだろうか。
『相馬流れ山』の舞い_1
『相馬流れ山』の舞い_2
『相馬流れ山』の舞い_3
『相馬流れ山』の舞い_4
『相馬流れ山』の舞い_5

流れ山の歌の題名は相馬中村藩祖のふるさと「流れ山」(今の千葉県流山市)の地名にあやかったものです。
元亨三年(1323)相馬重胤が従事三十余人を率い、法師の姿で住み慣れた総州を後に、奥州行方に下向したのであったが、山また山、道なき道をふみわけて道中三ヶ月、ふるさと流れ山を偲び、恋し懐かしと口説きもし、口ずさんだものがいつしか節となって歌われたものであるといわれています。
節は土地の酒造りが歌ったものとか、鎌倉武士の間に親しまれたものともいわれ、曲想と歌詞との調和の妙は相馬民謡の代表歌にふさわしいものです。
もともと士(さむらい)の間に歌われたもので、相馬野馬追には軍歌(国歌)として、陣中に歌われ、野馬追とともに発達してきたものです。したがって、曲にも歌詞にも一つの格調をもち、歌詞には野馬追の景観を歌ったものが多いです。

 

大内宿~鶴ケ城~相馬野馬追(8)

鶴ケ城(3)
今回は前回から間隔が開いていない内の再訪だった。ということで、天守閣に上るのは無しにして、専ら下から撮り回ってみた。時間がたっぷりあるわけではなかったことと、暑さでバテ気味だったことがあり、下だけと範囲を絞ったにもかかわらず、見落としが多かった。それが残念。
正面からの様子
本来の石段は保護のため、通行禁止だ。その脇にある鉄製の階段を上がることになる。
正面からの様子_1
正面からの様子_2
正面からの様子_3
正面からの様子_4
鶴ヶ城稲荷神社
昔の人は神社を大切にしていたようだ。最後は神頼みの側面があったのだろう。
鶴ヶ城稲荷神社_1
鶴ヶ城稲荷神社_2
鶴ヶ城稲荷神社_3
鶴ヶ城稲荷神社_4
福島県会津若松市、鶴ヶ城内にある『鶴ヶ城稲荷神社』は、約600年前に城がつくられた頃から、守護神として祀られていたと伝えられており、御祭神は宇迦魂命(ウカノミタマノミコト)。食物神・農業神・殖産興業神・商業神・屋敷神であり、日本で最も親しまれている神様の一つ「稲荷大神」を祀っている神社として有名。伝説によると、築城の縄張りに苦心した芦名直盛が勧請先の田中稲荷神社に祈願したところ、霊夢を見て目覚めてみると降り積もった雪の中に狐の足跡があったことから、それをしるべとして築城の縄張りを決め、今現在名城と評価の高い城を築くことができたと伝えられています。
武者走り
武者走りは城壁や城のまわりの土手の内側に設けた通路。当然、城の防御に使うものだ。昔の人はこの階段を走ったのだろうか。段差が相当あるし、手摺など無いのだ。危急の場合には、危ないとか怖いとは言ってはいられなかったのだろう。
武者走り_1
武者走り_2
椿坂のあたり
椿坂
簡単に取り外せる橋ではなく歴とした通路だ。よほどしっかりと防御を固めないと敵に突破を許してしまう結果になる。枡形や太鼓門、武者走りなどしっかり備えてはあったが。
椿坂_1
椿坂_2
枡形
通路を二度直角に曲げ、外敵が進入しにくいようにしたもの。ここでスピ-ドが鈍った敵を迎え討ったはずなのだが。官軍との戦いでは多勢に無勢。初戦は攻撃を一時的に食い止めるだけしか出来なかったのだろう。
枡形_1
枡形_2
この辺に太鼓門があったのかな
太鼓門があったのかな_1
太鼓門があったのかな_2
太鼓門があったのかな_3
北出丸から本丸へと通じる城への玄関口。この坂を制するものが城を制すると言われる程、重要な坂でした。
会津葵
和菓子どころのようだ。時間があれば、入ってまったりしたかったのだが。
会津葵

初日はこの後、途中で夕食をとったあと、郡山で宿泊。お一人様ツアーで想像がつくと思うが、宿泊先はビジネスホテルのシングルルームだった。いよいよ翌日は相馬野馬追見物だ。先程から空がスッキリ晴れてきたので、相当に暑そうな予感がしてきた。

 

大内宿~鶴ケ城~相馬野馬追(7)

鶴ケ城(2)
茶室『麟閣』(2)
麟閣
麟閣は右半分だけ。左半分の開口してある間は、『蒲鶴亭』という。この建物は、全部茅葺きかと思っていたが、一部樹皮葺きの箇所があるんだ。
麟閣_1
麟閣_2
麟閣_3
チョット行儀が悪いのだが、こうでもしないと茶室『麟閣』の内部が撮れない。長い上半身を限度まで伸ばして漸くこの程度。
麟閣_4
撮りやすいのは、こちらの『蒲鶴亭』かなあ。如何様にでも撮ることが出来そう。
麟閣_5
躙り口と刀掛け、連子窓。我が家の茶室にも当然躙り口はあったが、刀掛けなどはなかった。当時の世相を反映したものだろうか。
麟閣_6
以前に来た時は撮影に夢中で気に留めなかったが、庇部分の茅葺きが無いのは何故だろうか。補修待ちなのだろうか。他の方の写真を確認してみたが、どうも元からこういう感じだったようだ。
麟閣_7
この連子窓から室内を撮ればよかったのかなあ。
麟閣_8
麟閣_9
麟閣_10
麟閣_11
麟閣_12
麟閣_13
麟閣_14
麟閣_15
麟閣_16
蓮華升麻
たった一輪だけだったが、うれしいことに蓮華升麻が咲いていた。通り過ぎる人はだれも気づいた様子がなかった。もったいない話だ。記事掲載日のころが見頃かもしれない。
春に来た時には、この辺りに碇草が咲いていたような記憶が。

蓮華升麻_1
蓮華升麻_2
蓮華升麻_3
蓮華升麻_4
茶菓
あまりに暑さに氷を入れてもらった。何たる軟弱ぶりだろうか。(^_^;)
茶菓
扁額『麟閣』
確かに三千家の扁額が揃っていた。千利休の血筋が守られたんだなあ。蒲生氏郷が偏に千少庵を庇ったようだ。
茶室にある扁額
表千家14代家元・而妙斎千宗左氏による扁額(平成2年)
茶室にある扁額
入口にある扁額
裏千家15代家元・鵬雲斎千宗室氏による扁額(平成7年)
入口にある扁額
出口にある扁額
武者小路千家14代家元・不徹斎千宗守氏による扁額(平成16年)
出口にある扁額

茅葺屋根等の補修工事の様子を取り上げたHPへjump

 

大内宿~鶴ケ城~相馬野馬追(6)

大内宿から北上し、城下町の会津若松市にやってきた。徹底して薩長勢と戦い名を馳せた会津藩。私が福島県を後にした頃に、天守閣の再建が為された。それなので、先に取り上げた大内宿を知らないばかりか、今春まで再建された天守閣も見たこともなかった。

鶴ケ城(1)
城内に入る
今年2度め、通算でも2度めの鶴ヶ城。前回は個人での訪問だったので、個人向けの駐車場に駐めた。そして廊下橋を渡ったアクセスだったが、今回は椿坂を登り、太鼓門を通る。感じがかなり変わる。どう違うのか説明しにくいので、案内図を参照されたい。
鶴ヶ城案内図
鶴ケ城案内図
城内に入る_1
城内に入る_2
城内に入る_3
城内に入る_4
天守閣右側面から鉄門の方に進む
この辺りはいわゆる城の外側。鉄壁の守りで敵を寄せ付けないようになっていた。官軍には、比較的守りにくかったのか、城の正面がやられたようだ。
天守閣右側面から鉄門の方に進む_1
天守閣右側面から鉄門の方に進む_2
天守閣右側面から鉄門の方に進む_3
天守閣右側面から鉄門の方に進む_4
天守閣右側面から鉄門の方に進む_5
天守閣右側面から鉄門の方に進む_6
天守閣右側面から鉄門の方に進む_7
鉄門を潜り本丸跡に入る
干飯櫓は兵糧庫だった。
干飯櫓
鉄門を潜り本丸跡に入る_1
鉄門を潜り本丸跡に入る_2
鉄門を潜り本丸跡に入る_3
鉄門を潜り本丸跡に入る_4
鉄門を潜り本丸跡に入る_5
鉄門を潜り本丸跡に入る_6
干飯櫓を出たすぐのところの濠は水面からの高さが凄い
干飯櫓を出たすぐのところの濠_1
干飯櫓を出たすぐのところの濠_2
干飯櫓を出たすぐのところの濠_3
干飯櫓を出たすぐのところの濠_4
荒城の月碑
土井晩翠作詞の『荒城の月』は、青葉城をイメージして作られたとされるが、実は、青葉城だけではなく、鶴ヶ城をもイメージしたものだったとする説があるようだ。その解釈のもとに、この一画に碑がある。確かに青葉城よりも鶴ケ城のほうが『荒城』のイメージが強かったのかもしれない。
荒城の月碑_1
荒城の月碑_2
茶室『麟閣』(1)
400年以上も前の茶道の世界のエポックメイキング的なエピソードである蒲生氏郷と千少庵との関わり。感謝してもしきれない恩義を感じた千少庵が蒲生氏郷のためにつくった茶室が『麟閣』。
この重要な建物が、未だに福島県指定重要文化財にとどまるのは何故だろうか。既に400年以上経過しているし、歴史的にも看過できない重さがある。
それほどまでに、長州は会津を憎んだのだろうか。現在のお役人は、そんな遺恨を水に流して、指定の見直しを行うべきではないかと思う。

茶室『麟閣』_1
寄付(よりつき)
茶室『麟閣』_2
中門
茶室『麟閣』_3
茶室『麟閣』_4
腰掛待合
茶室『麟閣』_5
豊臣秀吉の奥州仕置きによって天正18年(1590)蒲生氏郷が会津に入り(42万石のち92万石)、近世的支配を確立していきました。
氏郷は織田信長の娘婿であり、器がおおきく勇猛な武将であるうえ、この時代を代表する文化人で、特に茶道に親しみ、のち利休七哲の筆頭にあげられるほどでした。
天正19年(1591)2月28日、千利休が秀吉の怒りに触れて死を命じられ、千家が茶の湯の世界から追放された折り、氏郷は利休の茶道が途絶えるのを惜しんでその子、少庵を会津にかくまい、徳川家康とともに千家復興を秀吉に働きかけました。
その結果、文禄3年(1594)と推定される「少庵召出状」が出されたのです。
少庵は京都に帰って千家を再興し、千家茶道は一子、宗旦(そうたん)に引き継がれました。
そののち宗左、宗室、宗守の3人の孫によって表、裏、武者小路の3千家が興され、今日の茶道隆盛の基が築かれました。かくまわれている間、氏郷のために造ったと伝えられているのが「麟閣」であり、以来、鶴ヶ城(若松城)内で大切に使用されてきました。
しかし、戊辰戦争で会津藩が敗れ、明治初年、鶴ヶ城が取り壊される際、石州流会津怡渓派の森川善兵衛(指月庵宗久)は貴重な茶室の失われるのを惜しみ、明治5年(1872)5月、自宅へ移築し、以来百二十年にわたり、森川家はその保全に努めてこられました。
会津若松市では平成2年9月12日、市制90年を記念してこの氏郷少庵ゆかりの茶室を後世へ伝えるため、鶴ヶ城内の元の場所へ移築いたしました。

 

大内宿~鶴ケ城~相馬野馬追(5)

大内宿(5)
町並み展示館(3)
道具の続き
道具の続き_1
道具の続き_2
道具の続き_3
道具の続き_4
道具の続き_5
千石通しあるいは千石簁と表記する。もみすりしたあと、玄米とそれに混ざっているまだもみすりされていないもみとを選別する日本独特の農具で、元禄(1688‐1704)のころ発明されたそうだ。見たことがあっったような無いような。
道具の続き_6
道具の続き_7
道具の続き_8
道具の続き_9
道具の続き_10
焼酎瓶なんてものがあったのか。多少は味がまろやかになったのだろうか。
道具の続き_11
道具の続き_12
ぶちぼうか。多分、『打ち棒』というものなんだろう。間違っても、こんなもので打たれたくない。
道具の続き_13
土間にあったのか。う~~ん。濡れた野良着を乾かしてから居間に戻る。そんな目的だったのだろうか。
道具の続き_14
中二階があった
中二階があった_1
中二階があった_2
中二階があった_3
中二階があった_4
確かに梁が異様に低い。まさしく中二階なんだ。外を見ると、覗き見をしているような気分になったほどだ。
中二階があった_5
再び宿場を歩く
いよいよ残り時間が乏しくなった。名物の蕎麦は断念した。『しんごろう』と『やまぶどう液』とをいただく。『しんごろう』は五平餅と似た感じだが、形状が丸っこく、味付けも福島風かな。
『しんごろう』と『やまぶどう液』_1
『しんごろう』と『やまぶどう液』_2
『しんごろう』と『やまぶどう液』_3
『しんごろう』と『やまぶどう液』_4
『しんごろう』と『やまぶどう液』_5
『しんごろう』と『やまぶどう液』_6

駐車場に戻ってみると、夫婦でご参加の方が熱中症で救急車搬送されたとのこと。この日は炎天下の観光という程ではなかったものの、かなり蒸し蒸しする感じで、もともと体調がすぐれない方にはかなりの難行苦行だったようだ。
このあと、鶴ヶ城に向かい、翌日は炎天下での『相馬野馬追』見物だ。兜の緒を引き締めて臨む必要がありそうだと思わされた。

 

大内宿~鶴ケ城~相馬野馬追(4)

大内宿(4)
町並み展示館(2)
これは本陣の備品かなあ
これは本陣の備品かなあ
以下は本陣の備品を示したものではない。前回の記述にあったように、戊辰戦争の戦場になってしまったからである。おそらく当時の近郷の本陣や民家で使われていたものを集めたのだろう。ということで、私には分かりかねるものが少なくなかったので、説明はごく少なめでご覧頂きたい。
昔懐かしい竿秤や皮革製のトランクなどがある
昔懐かしい竿秤や皮革製のトランクなどがある
居間にて
居間の囲炉裏の回りには、当時使用されていたような食器などが展示されていた
居間の囲炉裏の回りには、当時使用されていたような食器などが_1
居間の囲炉裏の回りには、当時使用されていたような食器などが_2
居間の囲炉裏の回りには、当時使用されていたような食器などが_3
居間の囲炉裏の回りには、当時使用されていたような食器などが_4
居間の囲炉裏の回りには、当時使用されていたような食器などが_5
居間の囲炉裏の回りには、当時使用されていたような食器などが_6
おひつの保温道具『いずみ』だと思うが、会津では『飯いずっこ』と称したようだ。
居間の囲炉裏の回りには、当時使用されていたような食器などが_7
居間の囲炉裏の回りには、当時使用されていたような食器などが_8
居間の囲炉裏の回りには、当時使用されていたような食器などが_9
居間の囲炉裏の回りには、当時使用されていたような食器などが_10
居間の囲炉裏の回りには、当時使用されていたような食器などが_11
居間の囲炉裏の回りには、当時使用されていたような食器などが_12
居間の囲炉裏の回りには、当時使用されていたような食器などが_13
居間にはこんなものもあった
居間にはこんなものもあった_1
居間にはこんなものもあった_2
土間にて
土間と思しきところには、民家で使われていたと思われる道具類が。莚編み機とかスルス(摺臼)とか。川崎の日本民家園にも同じようなものがあった。
民家で使われていたと思われる道具類_1
民家で使われていたと思われる道具類_2

 

大内宿~鶴ケ城~相馬野馬追(3)

大内宿(3)
見晴台から降りてきた
一番上にあった茅葺屋根の店
街外れなので、鍵の手になるような位置にわざと建てたのだろう。こうしてみるとかなり大きな家屋だ。
一番上にあった茅葺屋根の店
折り返す
結構長い町並みだった
結構長い町並みだった_1
結構長い町並みだった_2
結構長い町並みだった_3
商品をちらと撮ってみた。色鮮やか。マイカーで来ているのであれば、間違いなく買い求めたことだろう。
商品をちらと撮ってみた
ラムネなども冷えて美味しそう
ラムネなども冷えて美味しそう_1
ラムネなども冷えて美味しそう_2
店がまだまだ続いている
店がまだまだ続いている_1
店がまだまだ続いている_2
町並み展示館(1)
こういう感じではなかったかということで再建されたもの。こんな山奥も戊辰戦争の戦場になったのだ。
大内宿の本陣は、会津若松と日光今市を結ぶ下野街道(南山通り・会津西街道)の拠点のひとつとして江戸時代初期に建てられ、会津藩の初代藩主・保科正之、二代藩主・正経が江戸参勤のためにこの街道を利用し、ここで昼食をとったという記録が残っています。この時の行列の総人数は約600人で、宿場内はたいへんなにぎわいであったといわれています。
大内宿は、戊辰戦争の戦場にもなったことから、本陣に関する記録、図面等が散失し発見されていません。このため現在ある建物は、同じ街道の糸沢宿、川島宿の本陣を参考に設計し、昭和59年に復元したものです。
大内宿町並み展示館として復元した本陣は、大内宿のほぼ中央に位置し、殿様専用の玄関(乗りこみ)、上段の間、風呂、雪隠があり、茅屋根のどっしりとした風格とともに当時の面影を色濃く再現しております。館内では茅葺きに関する資料や昔の民具等の展示をしています。カッテにはいろりがあり、一年中薪を燃やし茅屋根の保存にも一役かっています。現代ではいろりのある生活も少なくなり、貴重な体験ができます。

再建した本陣の全景
やや右寄りにあるところが殿様専用の玄関だったようだ。我々は、当然、左側の通用口から入る。
町並み展示館_1_1
町並み展示館_1_2
町並み展示館_1_3
町並み展示館_1_4
町並み展示館_1_5
町並み展示館_1_6
町並み展示館_1_7
町並み展示館_1_8
座敷
ここからは殿様たちの滞在スペースだったのだろう
町並み展示館_1_9
町並み展示館_1_10
町並み展示館_1_11
町並み展示館_1_12
雪隠
函館でもそう思ったが、昔の偉い人のものは落とし込みのものじゃなかったんだ。見られても恥ずかしいという感じじゃなかったのだろうか。
町並み展示館_1_13
内風呂
日本民家園の農家には全くなかった内風呂がある。本陣だから、備え付けてあるのは当然だったのだろう。家来たちが泊まる宿にはあったのだろうか?
町並み展示館_1_14

 

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3月3日(金)-4日(土)は、秋田県内を旅行中で、私からのアクセスはできなくなると思います。大変申し訳ありません。m(_ _)m

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