散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

大内宿~鶴ケ城~相馬野馬追(1)

いつか何度か見ることになるだろうと思って見るのを後回しにしてきた『相馬野馬追』。段々、身体の衰えが気になるようになり、いま無理してでも行くようにしないと、…と思いたった次第。常磐線が全線開通ならば、鉄道で行くのだが、まだ、そこまでの復興はなっていない。仕方なく、一人参加が可能なバス旅行を申し込んだ。
以下はその時の記録。初日は大内宿から観光が始まった。


大内宿(1)
見晴台から見た様子
前方に見えるのは、モーガンクラシックカークラブのクラシックカーのようだ。邪魔だと文句を垂れる人もいたが、福島復興の賑やかしとして来てくれているのだろう。それはそれで感謝しなくてはいけない。見晴台から見た様子は、後の回でもう何ショットか取り上げる。
見晴台から見た様子
南仙院分家長沼さんの新装なった茅葺屋根
部分的な修理の差し茅は日本民家園で見ているが、なかなか全面葺き替えの屋根はお目にかかることが出来ない。もう既に終了したが、まだ新しい屋根があった。きれいなものだった。ここ大内宿では『大内宿結いの会』が結成され、萱葺きを行うような話を聞いている。そうでなければ、高くなってしまった茅葺きの葺き替え作業はできかねるのだろう。
調べてみたら、それまでトタン屋根だったところを茅葺屋根に戻したようだ。そういう意味では、全面的に新しく葺くのはあたりまえだ。

南仙院分家長沼さんの新装なった茅葺屋根_1
南仙院分家長沼さんの新装なった茅葺屋根_2

南仙院分家長沼さんの屋根葺き作業の様子を記したHP1へjump
南仙院分家長沼さんの屋根葺き作業の様子を記したHP2へjump

宿場の様子(1)
一本の長ネギで食べるおそばが有名なお店だとか。この宿で出される蕎麦は、高遠そばというようだ。ここは奥州、信州ではないのにどうしてなのと思った。保科正之が高遠から移ってきたことと関連があるようだ。そうなのか。
一本の長ネギで食べるおそばが有名なお店だとか_1
一本の長ネギで食べるおそばが有名なお店だとか_2
一本の長ネギで食べるおそばが有名なお店だとか_3
こちらは差し茅の作業中かな
こちらは差し茅の作業中かな
道端には桔梗が花盛り
道端には桔梗が花盛り
段々それらしくなってきた
段々それらしくなってきた_1
段々それらしくなってきた_2
段々それらしくなってきた_3
工事中の家屋も
工事中の家屋も
お客さんが結構来ているようで何よりだ
お客さんが結構来ているようで何よりだ_1
お客さんが結構来ているようで何よりだ_2
目立つところなのに、残念だなあ
目立つところなのに、残念だなあ
時間があれば、ゆっくり見て回りたいところだが、何しろ時間が限られている。面白そうなのに、とても残念。観光バスツアーの宿命かなあ。
時間があれば、ゆっくり見て回りたいところだが_1
時間があれば、ゆっくり見て回りたいところだが_2
時間があれば、ゆっくり見て回りたいところだが_3
時間があれば、ゆっくり見て回りたいところだが_4
高倉神社の第一鳥居。行ってみたかったが、かなり遠そう。行ったら完全アウトになると断念。高倉神社と並んで古峯神社とも書かれている。どういうことなのかなあ。
この神社は第77代後白河天皇の第2皇子似仁王が治承4年(1180)5月平家追討に失敗して信濃から上野、そして桧枝岐を越えてこの地に草鞋を脱いだと言われており、この高倉宮似仁王をお祀りした神社と言われています。大内の地名も高倉宮似仁王より賜ったそうです。
時間があれば、ゆっくり見て回りたいところだが_5
時間があれば、ゆっくり見て回りたいところだが_6
時間があれば、ゆっくり見て回りたいところだが_7
時間があれば、ゆっくり見て回りたいところだが_8

 

何度目かの川崎市立日本民家園(14)

(23)菅原家住宅(すがわらけじゅうたく)《東北の村》
合掌造りとはまた違った豪雪地帯に対応した家屋。どちらのほうが寒さに強かったのだろうか。
外観
外から見た格好がものすごく良い。惚れ惚れするほどだ。
外観_1
屋根に高窓(ハッポウ)を設けて採光の工夫していたのだそうだ。どれくらいの効果なのかは、屋内の写真で確認されたい。
外観_6
外観_2
外観_3
外観_4
外観_5
グシグラという屋根棟
茅葺屋根の屋根棟としては、
 1)竹簀巻き(たけすまき)…編んだ竹で棟の茅を巻く構造。日本各地で多く見られる。
 2)置千木(おきちぎ)…木を組み合わせて棟を覆う構造。木材の豊富な山間部に見られる。
 3)笄棟(こうがいむね)…茅を棟に積み重ね、屋根から突き出させた木材に締めて固定する構造。
 4)芝棟(しばむね)…意図的に木や草を生やし、その根で棟の弛みをなくす構造。

などがあるようだ。このクシグラは置千木に類するものなのだろう。
グシグラという屋根棟
家屋内部
家屋内部_1
家屋内部_2
家屋内部_3
家屋内部_4
家屋内部_5
家屋内部_6
家屋内部_7
家屋内部_8
高窓(ハッポウ)を設けて採光の工夫をしているので、眩しいほどの光が射し込んでいた
家屋内部_9
家屋内部_10
神奈川県指定重要文化財
旧所在地:山形県鶴岡市松沢
建物区分:農家(肝煎の家)
構造形式:寄棟造(高ハッポウおよびハッポウ付き)、妻入、一部二階、背面庇付、茅葺、桁行15.8m、梁行9.6m
建築年代:18世紀末期

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屋根に高窓のある豪雪地帯の家
湯殿山麓の田麦俣(たむぎまた)集落やその周辺には、ハッポウ造と呼ばれる独特の民家が分布しています。養蚕のために二層三層をつくり、屋根に高窓(ハッポウ)を設けて採光の工夫をしたその姿は、非常に特徴的です。
菅原家住宅もこのハッポウ造の民家で、高い軒や板壁で囲った外観などに豪雪地域の家づくりがうかがえます。
豪雪は間取りにも影響しています。大戸口前のアマヤ(前室)をはじめ、ニワ(土間)に物置やイナベヤ(板敷)を設ける点などは、雪の多い冬場の暮らしを考慮した工夫です。
見どころポイント!
雪に濡れたものを脱げるよう、入り口にアマヤを設けています。
積雪時にも立て付けが悪くならないよう、敷居に車が設けてあります。


以上で『何度目かの川崎市立日本民家園』シリーズを終了します。最後までご覧頂き有難うございました。

 

何度目かの川崎市立日本民家園(13)

(21)菅の船頭小屋(すげのせんどうごや)《神奈川の村》
大水が出た時は、鉄輪に棒を挿入し担いで避難した。移動可能なように簡易なものだが、それなりに機能的になっている。
菅の船頭小屋_1
菅の船頭小屋_2
こちらは片側の鉄輪が外れてしまったのだろうか
菅の船頭小屋_3
小屋の内部はこんなふう
菅の船頭小屋_4
川崎市重要歴史記念物
旧所在地:神奈川県川崎市多摩区菅
建物区分:船頭小屋
構造形式:切妻造、杉皮葺、桁行1.8m、梁行1.8m
建築年代:昭和4年(1929)

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多摩川の「菅の渡し」にあった船頭小屋
この船頭小屋は多摩川の「菅(すげ)の渡し場」にあったもので、船頭が客待ち・休憩・川の見張りをするのに用いていました。
菅の渡しは、川崎側の菅と、東京側の調布とを結ぶ渡船場で、商品作物の輸送、肥料や日用品の仕入れ、親戚や寺への往来など、暮らしの中で使われていました。
この建物の屋根は杉皮葺きで、前後に傾斜させた「招き屋根」の形をしています。背面には小さな窓があり、対岸の客を見ることができるようになっていました。
なお、外回りの柱には大きな鉄の輪が取り付けられています。出水のさいにはこの輪に丸太を通して担ぎ上げ、小屋を移動させました。
見どころポイント!
出水時に小屋が移動できるよう、四隅の柱には丸太を通し担ぐための鉄の輪が取り付けられています。
中は狭いながら畳が敷かれ、小さな囲炉裏も設けられています。


(22)工藤家住宅(くどうけじゅうたく)《東北の村》
今回は完璧に見て回ったと思ったのに、大ポカをやらかしてしまった。工藤家住宅をまたもや見落としてしまった。言い訳にもならないのだが、最後の頃で疲れているのと、奥まっているところにあるので、見落としやすい。
今回は、以前に行ったときの写真を再度使用させていただく。(^_^;)

工藤家の間取り
工藤家の間取り
工藤家住宅_1
間取り図でもお分かりただけると思うが、かなり大きな住宅だ
工藤家住宅_2
工藤家住宅_3
下座敷は板の間だったんだ。畳敷きなど滅多に使わないのにもったいないということだろうか。そして天井などはなかったんだ。この方が暖気の回りが良かったのか。う~~ん。
工藤家住宅_4
ここがナンド。客人のための間と家人のための間とを仕切るべくここに作られたのだろうか。
工藤家住宅_5
土間の橋には厩が。暖房の程度は人間と同じか。
工藤家住宅_6
暖気の回りを良くする構造ということだった。よほど大きな囲炉裏なのかと思ったのだが、かなり小さな囲炉裏だった。台所と土間との境にあった。それの、この馬鹿でかい家屋にたった一つ。目を凝らしてみて歩いたが、火鉢も置いていなかったようだ。すぐ上のキャプションで、『暖房の程度は人間と同じか』と書いたが、皮肉を込めて書いたもので、実際はかなり寒かったと思う。
工藤家住宅_7
工藤家住宅_8
工藤家住宅_9
工藤家住宅_10
工藤家住宅_11
工藤家住宅_12
工藤家住宅_13
国指定重要文化財
旧所在地:岩手県紫波郡紫波町舟久保
建物区分:農家(名主の家)、曲屋
構造形式:寄棟造、茅葺、桁行19.2m、梁行11.1m/南面に馬屋突出、寄棟造、茅葺、桁行7.6m、梁行6.3m
建築年代:宝暦(1751〜1763)頃

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馬と共に暮らした南部の曲屋
主屋の前に馬屋を突出させたL字型の民家は、旧南部藩領(なんぶはんりょう、岩手県)に多いことから「南部の曲屋」として知られています。これは、南部馬の飼育が盛んになる江戸時代中期に工夫された形式と考えられます。宝暦頃に建てられた工藤家は現存最古の曲屋の一つといえます。民家園の中で一番敷地面積の広い家です。
主屋には天井がありません。この地方はもともと天井のない家が多く、厳しい冬場は囲炉裏の火で家全体を暖めながらすごしました。ダイドコの囲炉裏はニワからも利用することができます。ダイドコとジョウイは日常生活の場、ナンドは寝室です。ザシキは床の間も備えた特別な部屋で、この広い家で唯一畳が敷かれています。
見どころポイント!
曲がった部分は馬屋になっていました。
土間境にある囲炉裏は、土足のまま踏み込んで暖まれるようになっていました。

 

何度目かの川崎市立日本民家園(12)

(20)船越の舞台(ふなこしのぶたい)
ここは、この日本民家園の敷地の一番高いところにあり、すぐ下の展示家屋のところから、長い階段道をえっちらおっちら上らなくてはならない。疲れた脚には意外に堪える。でも、頑張って行くだけの価値はあると思う。
外観
外観_1
建物正面舞台の様子
回り舞台になっているのがわかる。夜の公演は強力な照明がなかった時には難しかったのかなあ。
それにしてもこんな大掛かりな仕掛けを作るとは、昔の農村や漁村は力があったのだろうか

建物正面舞台の様子_1
建物正面舞台の様子_2
建物正面舞台の様子_3
建物正面舞台の様子_4
建物正面舞台の様子_5
建物正面舞台の様子_6
建物地下の奈落
腰を屈めて、頭をごツンとぶつけないように注意が必要
建物地下の奈落_1
建物地下の奈落_2
建物地下の奈落_3
建物地下の奈落_4
建物地下の奈落_5
建物地下の奈落_6
この坂を上っていくのだ
この先が急勾配で、闇休み上り降りする人が目立つ。ムリしないほうが良いのにと思いながらも軽く会釈してすれ違う。
この坂を上っていくのだ
重要有形民俗文化財
旧所在地:三重県志摩市大王町船越
建物区分:歌舞伎舞台
構造形式:正面入母屋造、背面切妻造、桟瓦葺、一部二階、桁行9.1m,梁行10.8m/側面出語付、桟瓦葺/背面庇付、桟瓦葺、桁行10.8m、梁行2.7m/側面楽屋付、切妻造、桟瓦葺、桁行5.3m、梁行7.3m
建築年代:安政四年(1857)、墨書

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回り舞台を備えた漁村の歌舞伎舞台
この舞台は、もと志摩半島の漁村の神社境内にありました。建てられたのは江戸時代末期の安政四年(1857年)です。
屋根は正面が入母屋造、大棟(おおむね)には凝った鬼瓦を配しています。これに対し背面は切妻造で、鬼瓦も小さく単純です。こうした外観は、正面性を重視する舞台建築の性格をよくあらわしています。なお、鬼瓦や軒先瓦につく「若」の字は、舞台建築に若者組という伝統的青年組織が関わったことを記念するものです。
舞台両側の張出し部は出語りといい、上手(正面に向かって右側)は芝居の語り手の席、下手は寄付金を扱う会計係の席です。
舞台装置としては、直径三間(5.4m)の回り舞台、スッポン(せり上がり)のある花道、高所作業用の簀子(すのこ)等、歌舞伎芝居のために必要なものはほとんど備えています。
見どころポイント!
瓦の「若」の文字は、舞台の建築に若者組が関わったことを示しています。
建物地下の奈落は、回り舞台を回すための空間です。

 

何度目かの川崎市立日本民家園(11)

(18)蚕影山祠堂(こかげさんしどう)《神奈川の村》
現代の間隔からすれば、この辺りでも昔は養蚕が行われていたのかと驚くほど。尤も、今でこそ小田急線で新宿からわずかの時間で行けるところだが、そんな便利な交通手段が存在しない昔は、近郊とは言いがたいほど、江戸とは距離があった。純然たる農村だったのだろう。
そこでは養蚕は大事な家業だったと思われる。うまくいくようにお願いしたのは当然のことだろう。

覆堂
蚕影山祠堂_1
蚕影山祠堂_2
内部の宮殿の様子
蚕影山祠堂_3
内部の宮殿の両側面には養蚕の神様である金色姫の苦難の物語、獅子・鷹・舟・庭の4場面が彫刻されているそうだ。覆堂の中に入り込んで写真を撮るのは憚られたので、彫刻の存在を確認できなかった仕方がないので、FREEの画像を借用。
「鷹」の場面
「鷹」の場面
「舟」の場面
「舟」の場面
芝棟
蚕影山祠堂_4
芝棟の二重奏
蚕影山祠堂_5

川崎市重要歴史記念物
旧所在地:神奈川県川崎市麻生区岡上 東光院内
建物区分:宮殿および覆堂
構造形式:宮殿=一間社春日造、向唐破風造、こけら葺
  覆堂=正面入母屋造、背面寄棟造、茅葺、桁行4.6m、梁行2.7m
建築年代:文久三年(1863)、宮殿棟札

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養蚕信仰を今に伝えるお堂
この建物は川崎市麻生区の東光院境内にあったもので、養蚕の神「蚕影山大権現(こかげさんだいごんげん)」を祭った宮殿(くうでん)と、その覆堂(さやどう)から成っています。覆堂の茅葺屋根は、頂上を土と草で固める芝棟で、春にはイチハツが咲き誇ります。宮殿は正面に唐破風(からはふ)を設けた春日造風の社で、浮き彫りの彫刻を施しているのが特徴です。
中でも注目に値するのは、金色姫(こんじきひめ)伝説を表現した側面の彫刻です。金色姫は天竺(てんじく、現在のインド)に生まれ、四度の大苦難ののち、馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)の化身として日本に養蚕を伝えたといいます。この 彫刻は養蚕の起源を説くもので、四度の大苦難は蚕の四回の休眠(食事をせず動かなくなる脱皮前の時期)を象徴しています。
見どころポイント!
内部の宮殿の両側面には養蚕の神様である金色姫の苦難の物語、獅子・鷹・舟・庭の4場面が彫刻されています。
屋根にはイチハツという花が植えてあり、5月には花が咲きます。


(19)岩澤家住宅(いわさわけじゅうたく)《神奈川の村》
此処は床上げ公開でなかったので、屋内を詳しく見学することが出来なかった。残念。
これだけふんだんに竹を使用しているのであれば、丹沢山の近く(宮ヶ瀬湖のある神奈川県で唯一の村)だし、当然、竹簀子床かと思うが、そうではなかった。その辺の事情はよくわからない。山奥なので、材木も売るほどあったということかもしれない。

外観
此処も外壁材として竹を使用している。いつまでも工事をしていると思ったら、こんな目障りな支え棒を施していた。大丈夫なのかなあ。
格子を設えてあるのはイノシシなどが入ってこないように防御したものだろうか。

岩澤家住宅_1
屋内
岩澤家住宅_2
岩澤家住宅_3
岩澤家住宅_4
岩澤家住宅_5
岩澤家住宅_6
岩澤家住宅_7
岩澤家住宅_8
神奈川県指定重要文化財
旧所在地:神奈川県愛甲郡清川村煤ヶ谷
建物区分:農家(名主の家)
構造形式:入母屋造、茅葺、桁行14.5m、梁行7.3m
建築年代:17世紀末期

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茶畑に囲まれた山間の農家
この建物は、名主もつとめた農家の家でした。谷間の斜面に敷地をひらき、江戸時代は炭焼きを中心に、焼畑農業や林業を仕事にしていました。
屋根は、典型的な入母屋造です。間取りは、「ザシキ(居間)」「デエ(座敷)」「ヘヤ(寝室)」からなる広間型三間取りです。しかし、園内に移築された他の神奈川県内の古民家には見られない特徴がいくつかあります。まず、デエの正面を半間後退させ、ここにザシキへの出入口を設けています。また、デエには押板(おしいた、床の間の前身)を備え、ヘヤにはザシキからだけでなくデエからも出入りできるようになっています。
見どころポイント!
デエにある押板(おしいた)は床の間の前進といわれ、古い家の特徴の一つです。
入口右手の道具は「ホイロ」といい、お茶作りに使います。

 

何度目かの川崎市立日本民家園(10)

(17)伊藤家住宅(いとうけじゅうたく)《神奈川の村》
旧所在地が、小田急線の沿線同士で、それも近くに位置していた北村家とかなり似た感じだ。竹簀子床や座り流しとか、同じようなものがあるのに驚かされる。
当日、こちらは床上げ公開だったので、竹簀子床の具合はこちらで確認した。

外観
外観_1
ご隠居に用事の人は直接ここから出入りしていたのか。当主が頼りない時は、よくあることだったのかもしれない。
外観_2
屋内
竹簀子床
竹簀子床_1
竹簀子床_2
竹簀子床_3
竹簀子床_4
竹簀子床_5
ここにもあった餅搗機
餅搗機_1
餅搗機_2
やっと見つけたおまじない
魔除けの魚の尻尾が打ち付けてあった。
やっと見つけたおまじない
その他
天井の張り方も酷似している
天井の張り方も酷似_1
天井の張り方も酷似_2
座り流しと無双窓と板張りの床も酷似している
座り流しと無双窓と板張りの床も酷似
機織りもしていたようだ
機織りもしていた
座り流しの隣には食器棚が
座り流しの隣には食器棚
土間他
土間には竈が。その当時の家屋では、当たり前といえば当たり前かな。
土間他_1
土間他_2
土間他_3
土間他_4
ミソベヤも
ミソベヤ
国指定重要文化財
旧所在地:神奈川県川崎市麻生区金程
建物区分:農家(名主の家)
構造形式:入母屋造、茅葺、桁行16.4m、梁行9.1m
建築年代:17世紀末期〜18世紀初期

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民家園誕生のきっかけとなった川崎の民家
土間はミソベヤとダイドコロに分かれています。ヒロマ境の一番奥は板の間を張り出して炊事場とし、「すわり流し」と水がめが置かれています。ヒロマは家の中心となる部屋で、囲炉裏の後方は台所、前方は日常生活や接客の場として使われました。ここは竹簀子でできた床です。
ヒロマの上手にはデイ(座敷)とヘヤ(寝室)が続きます。デイは正式な座敷で、出入りには土庇(どびさし)に置いた縁台を使いました。なお、正面の格子窓は「シシよけ窓」などと呼ばれ、関東の古民家に一般的なものです。
なおこの住宅は、民家としては神奈川県で最初に重要文化財に指定されました。この家の保存運動をきっかけに誕生したのが日本民家園です。
見どころポイント!
正面の格子窓はシシマド・シシよけ窓などと呼ばれます。「シシ」とは獣のことで、狼や猪などを防ぐためのものといわれています。
流しはしゃがんで作業する「すわり流し」という形式です。

 

何度目かの川崎市立日本民家園(特2)

JR南武線の武蔵中原駅から中原街道沿いに東横線新丸子駅まで(2)
西明寺
小杉御殿の隣地にあり、徳川将軍家の崇敬を受け御朱印状を拝領していたという名刹。ここだけが在りし日の栄華の程を忍ばせる感じかなあ。北条時頼とも縁があったようだ。それで三つ鱗の寺紋なのか。
西明寺_1
西明寺_2
西明寺_3
西明寺_4
西明寺_5
西明寺_6
西明寺_7
西明寺_8
西明寺_9
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真言宗智山派寺院の西明寺は、龍宿山金剛院と号します。西明寺の創建年代は不詳ですが、弘法大師が東国御巡化の際にここに留錫し高弟泰範上人に命じ堂宇を建立したとも、最明寺入道々祟(北条時頼)が開基となり創建したとも伝えられます。江戸時代には隣地に小杉御殿が建立され将軍家の崇敬を受け、寛永19年(1642)には寺領10石の御朱印状を拝領、近隣に末寺20余ヶ寺を擁す中本寺格の寺院だったといいます。玉川八十八ヶ所霊場20番、東国八十八ヵ所霊場9番、準西国稲毛三十三観世音霊場18番、川崎七福神の大黒天となっています。

石橋醤油店
原家は、明治の醤油づくりでも名を馳せたようだ。屋号は石橋だったとのこと。だから石橋醤油店か。現在は暖簾分けした分家が営んでいるのだろうか。
石橋醤油店_1
石橋醤油店_2
石橋醤油店_3
石橋醤油店_4
石橋醤油店_5
石橋醤油店_6
石橋醤油店_7
十字路を更に先へ進むと(タマガーデンの先)右側に、昭和50年くらいまで高い煙突があった「石橋醤油店」という看板の原家がある。
この家は明治3(1870)年から、農業をしながら醤油造りを始めた。大正12(1923)年から専業となり、キッコー「文山」のラベルを貼り、昭和26(1951)年まで製造していた。
昔は街道を利用して天秤棒に桶をさげて、東京方面からも買いに来る人が沢山いた。昭和8(1933)年頃には、トラックを使って運搬するほど盛んだった。
毎年、冬になると新潟から醤油造りの職人が4・5人来て、大変活気があったという。
東京から「こやし」を運んで帰る農家の人々や、付近の人達も買いに来ていた。
当時、ほとんどの農家でも醤油を自家製で造っていたが、塩からくて美味しくないので「文山」と混ぜて味を良くして美味しくしたり種として使っていた。
現在でも、醸造工場の建物の一部が保存されている。蔵に入ると、直径3m、高さ3mもある大樽や大釜が残され、明治・大正・昭和と大がかりな醤油造りの一端を見ることができる(その他、多くの道具などが川崎市民ミュージアムに保管・展示されている)。
原家は、親子で川崎市議会議員や議長などを歴任され、地域のために尽力されている。江戸時代からの旧家である。


安藤家長屋門
割元とは、江戸時代、地方行政にあたった村役人の最上位の者。代官・郡代など地方役人の指揮下に数か村の庄屋・名主を支配し、年貢の割り当て、訴訟の調停などにあたったそうだから、間違いなく近郷農村の筆頭者だったようだ。それだけの格式のある家の長屋門か。
安藤家長屋門_1
安藤家長屋門_2
安藤家長屋門_3
安藤家長屋門_4
安藤家長屋門_5
安藤家長屋門_6
安藤家の祖先は、戦国時代小田原の後北条氏に仕えていた安藤大炊助重虎(あんどう おおいのすけしげとら)で、後北条氏滅亡後に小杉村に土着帰農したと伝えられています。
江戸時代には、橘樹(たちばな)郡小杉村の割元名主(わりもとなぬし)として、代官の指揮下で近隣の村々の名主を統括していました。 
建築当初の茅葺屋根から桟瓦葺への変更や西室の居室への改造などが見られますが、基本的に建築当時の部材を良く留め、建築当初の形式もほぼ判明しており、幕末頃の割元名主屋敷にふさわしい堂々とした長屋門です。
特に扉構えは柱から天井・扉にいたるまで欅(けやき)を贅沢に使用し、豪華で力強く、豊富な化粧金具がそれを引き立てており、見ごたえがあります。
中原街道沿いに残された歴史的景観としても重要な存在です


原家欅門
今回一番確認したかったのが、此処。ここが今は日本民家園に移築された旧原家母屋の跡地だ。今は跡地に超高級マンションが建ち、その箔を増すためのシンボルとして、欅門が残されているようだ。う~~ん、ご立派。
原家欅門_1
原家欅門_2
雨樋のところのある亀甲花菱が家紋だそうだ
原家欅門_3
原家欅門_4
原家欅門_5
原家欅門_6
原家欅門_7
原家欅門_8
原家欅門_9
原家欅門_10

 

何度目かの川崎市立日本民家園(特1)

JR南武線の武蔵中原駅から中原街道沿いに東横線新丸子駅まで(1)
このシリーズの冒頭において、例外的に明治期の建物である原家住宅を取り上げた。
今回は、同じものを続けると疲れるので、目先を変えるべく、あの原家がかつて存在した辺りを歩いてみた。そこは、川崎市中原区小杉陣屋町というところになる。また、隣接して小杉御殿町もある。両町名共にすごく物々しい名前だ。実は高校生の時分から気になっていた。
ということで、JR南武線の武蔵中原駅から中原街道沿いに東横線新丸子駅まで歩いてみた。
しかし、中原街道(相州街道)の方が東海道より古くから開けた街道だったとは、全く知らなかった。徳川家康が、1590年(天正18年)に江戸に入城する。この頃の江戸と平塚の間は、中原街道が実質の東海道として機能しており、徳川家康もここを往来していたのか。う~~ん。その後、大して発達しないままだったんだなあ。

石像群
浄土宗泉澤寺の門前町だったのか。庚申塔・地蔵尊・水天宮などがあり供物や献花が絶えないようだ。
石像群_1
石像群_2
石像群_3
石像群_4
石像群_5
石像群_6
石像群_7
石像群_8
石像群_9
浄土宗泉澤寺
九品仏浄真寺と同じ宗派だ。それもそのはず、同じ世田谷領主の吉良氏に繋がっているのだから。世田谷の烏山にあった寺が焼けたからといって、川向うの中原村にまで持ってくる必然性があったのだろうか。1550年の再建とは、かなり古いお寺さんなんだ。
浄土宗泉澤寺_1
浄土宗泉澤寺_2
浄土宗泉澤寺_3
浄土宗泉澤寺_4
浄土宗泉澤寺_5
浄土宗泉澤寺_6
浄土宗泉澤寺_7
袴腰の鐘楼を見ると、無条件に凄いお寺さんだなと思ってしまう。権威に弱いところがあるなあ。
浄土宗泉澤寺_8
浄土宗泉澤寺_9
浄土宗泉澤寺_10
浄土宗泉澤寺_11
浄土宗泉澤寺_12
浄土宗泉澤寺_13
浄土宗泉澤寺_14
小杉御殿跡カギの道
最初の曲がり角
90度に2度曲がる。確かにカギ状になっている。守りやすいようになっていた。
最初の曲がり角_1
最初の曲がり角_2
2度めの曲がり角
自転車の人物の近くにコバルトブルーの標識がある。あの辺りに表御門があったそうだ。今は見事なほど何もない。もう少し、何かが残っているのかと思っていたが、…。(´・ω・`)
2度めの曲がり角_1
2度めの曲がり角_2
小杉御殿があった辺り
現在の様子
御殿跡地は見事に民家に建て替わっていた。これじゃあねえ。( ´Д`)=3
現在の様子
僅かに残る手がかり
これらで当時の様子を想像するだけのようだ。建物は、品川の東海寺や上野弘文院へ移築され姿を消したと説明されているが、現存するものか否か確認できなかった。
僅かに残る手がかり_1
僅かに残る手がかり_3
僅かに残る手がかり_2
唯一陣屋跡が残っていたようだ。そんなものがあったのか。free画像を借用
小杉陣屋跡
小杉御殿は、江戸時代初頭の1608年に現在の神奈川県川崎市中原区小杉御殿町にあたる中原街道上に造営された徳川将軍家の宿泊施設、本陣である。中原街道がクランク状になった場所の西側、現在の西明寺の境内にあった。江戸時代初期にはまだ東海道は整備されておらず、中原街道が江戸と西方を結ぶ主要な街道とされていた。徳川家康も江戸と駿府との往還に用いたという。小杉には中原街道を利用する際の将軍の宿泊地として小杉御殿が設けられた。中原街道沿いに設置され将軍の鷹狩等で街道を通行する際に利用された。1660年に廃止された。
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東海道が整備されると「小杉御殿」の存在意義もうすれ、建物は明暦元(1655)年に品川の東海寺へ、寛文12(1672)年、残りは上野弘文院へ移築され姿を消した(万冶3『1660』年という説もある)。
小杉御殿がなくなった後、江戸時代のいつ頃か、御主殿稲荷・陣屋稲荷・御蔵稲荷と呼ばれる稲荷が、それぞれの建物のあったといわれる場所に建てられた。

 

何度目かの川崎市立日本民家園(9)

(15)北村家住宅(きたむらけじゅうたく)《神奈川の村》
広瀬家住宅の土座で驚かされたが、こちらは、竹簀子床で驚かされた。一番気になったのは、長時間座っていると痛くならないのかということだった。同様に竹簀子床を採用していた伊藤家住宅が床上げ公開をしていたので、そちらで確認してみた。結論からすると、堅い座布団を敷いて座れば、痛くはなかった。多分隙間風は通り放題だと思うが、…。
よほど竹が豊富にあるのか、北側東側の外壁面にも竹材が使用されていた。余り見かけない建築資材だと思うが、どういう意図があったのだろうか?

外観
なかなかスタイルの良い家だ
外観_1
外観_2
外観_3
竹簀子床
下記の通り、畳敷きや板の間もあるわけで、それだけの資力がなかったわけではなさそうだ。それよりも、地元にたくさんある素材を利用したということなのだろう。
床上公開時以外には、『床上に上がらないでください』の表示がある。床上公開時とそうでない時とでは大きな違いがある。もう少し、ボランティアを増やして、責めて半数くらいは上がることができるようにならないものだろうか。

竹簀子床_1
竹簀子床_2
その他の屋内の様子
梁の木組もなかなか立派だ
その他の屋内の様子_1
その他の屋内の様子_2
その他の屋内の様子_3
その他の屋内の様子_4
その他の屋内の様子_5
オクやヘヤは何と畳敷きだった
オクやヘヤは何と畳敷きだった
座り流しがあるところは板張りになっていた
座り流しがあるところは板張りになっていた
国指定重要文化財
旧所在地:神奈川県秦野市堀山下
建物区分:農家(名主の家)
構造形式:寄棟造、茅葺、桁行15.6m、梁行8.9m
建築年代:貞享四年(1687)、墨書

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貞享四年の墨書が残る古民家
この建物で特筆されるのは、建築年代がはっきりしていることです。加えて、建築としても非常に優れており、日本で最も重要な民家の一つといえます。建築年代は、柱の先端に墨で記されていました。これを墨書といい、理兵衛という大工の棟梁の名前も明らかになっています。
日常生活の場であるヒロマは、竹簀子と板の間を使い分けています。竹簀子には必要に応じてムシロを敷きました。上手のオク(正座敷)には床の間が付き、ヘヤ(寝室)は畳敷で押入も備えています。このほか、ヒロマとオクに濡縁が付くなど、同じようなつくりの旧伊藤家住宅に比べ、発達した様子を示しています。
見どころポイント!
竹簀子床には厚いムシロを敷いて生活していました。
江戸時代初期の民家としては、非常に明るく開放的な造りです。
ヒロマとダイドコロ(土間)の間の柱には、ウロコのような模様があります。これは、カンナが普及する前のチョウナという刃物で削った跡です。


(16)清宮家住宅(きよみやけじゅうたく)《神奈川の村》
こちらの芝棟はイチハツが植えられている。6月下旬だったが、まだ咲いていた。最初、ぺんぺん草が生えているのだと思ったが、恥ずかしいほどの勘違いだった。
なお、茅葺屋根の修復工事中で、これ以上近寄ってみることは出来なかった。小さいけれども味わいのある家だった記憶が。見ることが出来なくて残念。

芝棟
芝棟_1
芝棟_2
外観
外観_1
外観_2
外観_3
外観_4
外観_5
神奈川県指定重要文化財
旧所在地:神奈川県川崎市多摩区登戸
建物区分:農家
構造形式:寄棟造、茅葺、桁行13.6m、梁行8.2m
建築年代:17世紀後期

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棟に花が咲く古い様式の民家
この建物は、当園にほど近い多摩区登戸にありました。
屋根は頂上を土の重さで押さえ、その土が落ちないよう草花が植えてあります。これは「芝棟」と呼ばれ、武蔵国西部の素朴な農家の姿を伝えています。
間取りは、囲炉裏のあるヒロマを中心に上手をデエ(座敷)とし、それぞれの裏に寝室と考えられる小部屋を設けています。これは、神奈川県の古式な民家に限られる形式です。また土間の梁には曲がった太い材が使われ、デエとデエドコ(土間)の境は格子で仕切られています。なお、この家はデエドコに勝手口がありません。これは、家の前の小川に流しが設けられていたためです。
見どころポイント!
屋根にはイチハツという花が植えてあり、5月には花が咲きます。
園内で一番古いと考えられる家で、非常に閉鎖的な造りです。

 

何度目かの川崎市立日本民家園(8)

(14)太田家住宅(おおたけじゅうたく)《関東の村》
異様に広い土間がある家屋だった。分棟型ではあるが、当初の土間はそんなに広いものではなかったが、それを建て替えて広くしたようだ。そんなに農作業を屋内で行う必要があったのだろうか。
以前も書いたと思うが、平成2年7月29日、生田緑地内で打ち上げられた花火がこの家屋の屋根に落下し、主屋のヘヤを中心に焼損した大変な事故があった。復旧修理工事が行われ、平成4年10月31日に竣工した。
このような大規模な修復工事を施さなければいけなかったにもかかわらず、『国指定重要文化財』の指定を返上しなくても構わなかったのだろうか。根津神社と同じようなものかな。

外観
左奥にあるザシキが正式な部屋で、この部屋に客人が訪れる際には土庇が出入口となったとのこと。大戸口は、今で言う勝手口ということになろうか。
外観_1
外観_2
確かに分棟型なんだ。繋ぎ目に垂れてくる雨水の始末が重要問題だったとよく分かる。飛んできた落ち葉などが詰まるとえらいことになるはずだ。
外観_3
屋内を貫く雨樋の露出部分が、かなり朽ちてきている。定期的に交換する必要があったのだろうか。
外観_4
屋内
屋内_1
屋内_2
屋内_3
屋内_4
屋内_5
この道具はなんだろうか。ラベルには『スルス』と記載されていた。『摺臼』というものかなあ。
屋内_6
屋内_7
屋内_8
子どもたちが来たら、プレゼントしたり、作り方を教えたりするのだろうか。きれいなものだ。
屋内_9
屋内_10
屋内_11
屋内_12
屋内_13
家の中にある雨どい
作田家住宅にも存在した。分棟型の場合は、こうした仕掛けは不可欠だと思うが、移築の際、付属のパーツは完全に持ってくることが出来たのだろうか。多分、一番朽ちていただろう付属品なので、持参できずに来たのかもしれない。元のやり方をどこまで考慮したのだろうか。全く同じ形式だったのは、たまたまだったのだろうか?
家の中にある雨どい
国指定重要文化財
旧所在地:茨城県笠間市片庭
建物区分:農家(名主の家)、分棟型
構造形式:主屋=寄棟造、茅葺、桁行9.6m、梁行8.3m/土間=寄棟造、妻入、茅葺、桁行10.0m、梁行8.3m
建築年代:主屋=17世紀後期/土間=18世紀後期

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家の中に雨どいのある二つ屋根の家
この建物は二棟が軒を接して建つ、分棟型(ぶんとうがた)の民家です。大戸口を入ると広い空間がひろがっています。ドマの右手がウマヤ、左手が主屋です。主屋は日常生活の場であるヒロマ、寝室であるヘヤ、そして畳敷きのザシキに分かれます。ザシキは正式な部屋で、この部屋に客人が訪れる際には土庇(どびさし)が出入口となりました。
広い土間では、雑穀などの農作業も行われていました。
なおこの家には、突出する馬屋や囲炉裏の位置など、南部地方の曲屋と類似する点があります。江戸時代後期には茨城県や栃木県でも曲屋が作られており、この家はその影響を受けた分棟型といえます。
見どころポイント!
家の中に雨どいがある分棟型民家です。といが詰まると家の中に雨水があふれました。
大戸の上に掛けてあるのは、慶応4年に明治政府が出した「五榜の掲示」の一枚です。

 

何度目かの川崎市立日本民家園(7)

(12)沖永良部の高倉(おきのえらぶのたかくら)
形状がかなり異なるが、スペイン北部には『オレオ』と呼ぶ高床式の穀物倉庫がある。この沖永良部の高倉を見るたびに、それを思い出す。オレオの場合は、底板が幅広くネズミが重力に逆らって垂直になる部分まで到達できない仕掛けになっている。沖永良部の場合は、金属板を円柱に巻きつけてそこをよじ登れないようにしたのか。ネズミは大敵なんだ。
沖永良部の高倉_1
沖永良部の高倉_2
石敢当と呼ばれ、邪気を払う神として道路の突き当りや門・橋などに祀られる
沖永良部の高倉_4
川崎市重要歴史記念物
旧所在地:鹿児島県大島郡和泊町
建物区分:倉
構造形式:寄棟造、茅葺、桁行2.7m、梁行2.5m
建築年代:19世紀後期

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高倉といえば東大寺の正倉院校倉が有名ですが、沖縄・奄美諸島、九州南端、八丈島など黒潮の流れに沿った地域には、柱の上に茅葺屋根をのせた高倉が分布しています。
珊瑚礁岩の礎石に立つ円柱は、イジュという毒性のある木を用い、頭部を鉄板巻きにして鼠などが登らないよう工夫をしています。中は穀物などの貯蔵庫として利用し、出入口には一木でつくった梯子をかけました。
倉下(くらんた)と呼ばれる床下は風が抜けるようになっており、内部の湿害を防いでいます。この場所は子どもの遊び場、休憩所、籾摺り場などにも活用されました。
なお、高倉手前にある石碑は「石敢当(いしがんとう)」といいます。沖縄から九州南部にみられ、邪気を払う神として道路の突き当りや門・橋など祭られます。
見どころポイント!
ネズミ等の侵入を防ぐため、柱の頭部を鉄板で巻いています。
倉の下は子どもの遊び場や休憩所になっていました。


道端にて
六地蔵がこんな感じで存在していた
六地蔵がこんな感じで存在していた

(13)広瀬家住宅(ひろせけじゅうたく)《関東の村》
この住宅は何度見ても、見慣れることがない。その大きな理由は『土座』があることだ。本音を言えば、私は土座嫌だ。土座じゃいけない理由ってなんだろう。いつも考えこんでしまうのだが、生理的な嫌悪感なのかなあ。何故、床のある家を作ったのかということと相通じる問題かもしれない。
外観
大戸口側(東側)の軒が異様に低く、腰を屈めないと潜れないほど。そして屋根の天辺に、イワヒバを植えた「芝棟(しばむね)」になっていること。その2点がかなり目立つ。芝棟はそれほど珍しいものではなさそうだ。
外観_1
外観_2
外観_3
外観_4
屋内
何と言っても、土間と同じ高さの土座が異様なほどに目立つ。座ってみた感じは、そんなに居心地悪くはないのだが。強烈な隙間風対策なのかなあ。
土座_1
土座_2
土座_3
土座_4
他は普通の農家並みかもしれない
他は普通の農家並み_1
他は普通の農家並み_2
他は普通の農家並み_3
神奈川県指定重要文化財
旧所在地:山梨県甲州市塩山上萩原
建物区分:農家
構造形式:切妻造、茅葺桁行14.5m、梁行8.9m
建築年代:17世紀末期

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芝棟と土座のある甲州民家
甲府盆地の民家は切妻造(きりづまづくり)の妻壁(つまかべ)に柱を見せ、屋根中央を「突き上げ二階」とする形式が知られています。この家も移築前はそのような姿でしたが、調査の結果、当初は二階がなかったことがわかりました。屋根裏を養蚕に利用しはじめたことにより、突き上げ二階としたのです。
構造は、内部の四本の太い柱を中心にして組み立てられています。これは「四つ建(よつだて)」と呼ばれるもので、甲州の古式な手法です。屋根の頂上はイワヒバを植えた「芝棟(しばむね)」になっています。内部には土間(どま)と並んでイドコと呼ばれるムシロ敷の居間があります。床板を張らないこのような床を「土座(どざ)」といい、ムシロの下は地面をつき固め、茅束(かやたば)が敷き詰められています。
見どころポイント!
風の強い山の斜面にあったため、軒が低くなっています。
居間には床板を張らず、地面の上に茅束とむしろを敷いて暮らしていました。

 

何度目かの川崎市立日本民家園(6)

いつの間にか、信越の村ゾーンを過ぎ、関東の村ゾーンに入ってきた。江戸時代の頃の関東の村はどんな感じだろうか。今の関東の住宅とはイメージが違うだろうか。

(11)作田家住宅(さくだけじゅうたく)《関東の村》
浦賀をほっつき歩いた時に干鰯(ほしか)の商いで潤っているということを知った。その一部は房総から運ばれてきたものだったという。この作田家は佐久田村(千葉県山武郡九十九里町作田)の名主で、同時に鰯漁の網元を勤めた有力な家柄だった。ここから浦賀にも相当量を運んだのだろう。
ということで、当時の鰯漁で潤っていた農漁村のトップクラスの家を見てみよう。

外観
何か白い塗装が施されてあった
外観_1
外観_2
外観_3
外観_4
外観_5
外観_6
分棟型の境目の雨樋
雨樋が屋内に設えられている。。太くて長い栗の木の丸太をくりぬいたもののようだ。超ワイルド。
雨樋が屋内に設えられている_1
雨樋が屋内に設えられている_2
こちらは勾配が高い上流側だろう。垂直の柱は単なるつっかえ棒だと思う。
上流側
こちらは勾配が低い下流側だろう。垂直のものは中を雨水が流れる一種の樋になっていたと思う。
下流側
見事な梁の組み方
どうやら低い平らなところで組み立ててみて、OKになったら持ち上げて据えつけたようだ。それにしても見事なものだ。
見事な梁の組み方_1
見事な梁の組み方_2
見事な梁の組み方_3
見事な梁の組み方_4
見事な梁の組み方_5
その他の屋内の様子
その他の屋内の様子_1
その他の屋内の様子_2
莚編み機
その他の屋内の様子_3
その他の屋内の様子_4
その他の屋内の様子_5
その他の屋内の様子_6
国指定重要文化財
旧所在地:千葉県山武郡九十九里町作田
建物区分:漁家(網元の家)、分棟型
構造形式:主屋=寄棟造、茅葺、桁行13.0m、梁行11.1m、風呂場及び便所付属 土間=寄棟造、妻入、茅葺、桁行11.5m、梁行5.6m
建築年代:主屋=17世紀後期、土間=18世紀後期

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イワシの地引網漁で栄えた網元の家
この建物はイワシ漁で栄えた九十九里にありました。漁具小屋は海岸近くにあり、この家そのものは内陸に立地していたため、漁村の家の雰囲気はありません。外観は二棟が軒を接しているように見えます。これを分棟型(ぶんとうがた)と呼び、クリの木の半割丸太(はんわりまるた)をくり抜いた大きな雨樋が二つの屋根をつないでいます。居室部は囲炉裏のある広いカミがまず目に入ります。床の間の前身である押板(おしいた)や仏壇を備え、網元としての生活に使われた格式のある部屋です。その上手は畳敷の部屋がつづき、座敷としては最高の扱いとなっています。背後には便所と風呂が付属し、座敷と同様に上層民家の接客部分を伝える貴重な建築です。
見どころポイント!
居間の梁は松の曲材を巧みに組み合わせており、見事な造形美を見せています。
屋根が二つあり、間には大きな丸太を2つに割って作った雨樋があります。

 

何度目かの川崎市立日本民家園(5)

(8)山田家住宅(やまだけじゅうたく)《信越の村》
外観
「蓮如上人が泊まった」という言い伝えもある由緒有る家。そして、密かに塩硝づくりに励んでいたようだ。飛び抜けて辺境の地にありながら、裕福な生活を営んでいた様子が伺える。当日は床上公開を行っている対象になっていなかったので、奥の様子は撮ることが出来なかった。
外観_1
外観_2
外観_3
床が高い感じがする。超短足の私には抵抗がある高さだ。火薬の原料となる塩硝を作っていたためと考えられているそうだ。当時の高度な機密がここにはあったようだ。
外観_4
外観_5
肥料小屋を兼ねた便所
まあ、これも塩硝づくりの材料の内
肥料小屋を兼ねた便所
山田家住宅の間取り
山田家住宅の間取り
うすなわ
通常の家屋なら土間になっているところが頑丈な板張りの床になっている。勝手口の様子は床上げ公開対象になっていなかったのでわかりにくいと思われるが、水舟と呼ばれる外から水を導いた流しがある。あふれた水は外の排水口へ流れだす仕掛けに。腰掛けて仕事ができるようになっていたのかもしれない。
その他のスペースはおそらく塩硝づくりの作業スペースだったのだろう。

うすなわ_1
うすなわ_2
マヤ
本当にマヤだったのかどうかわからない。この仕掛のようにここで塩硝を作っていたのかも。多分、説明の都合上、マヤに説明品一式を置いただけと思うが。調べてみたら、炉端で囲炉裏の熱が利用できるところ(該当するのはオイエのみ)で塩硝づくりの重要な過程である発酵を行っていたようだ。マヤは本来の目的どおり馬をつないでおくスペースだったようだ。
塩硝づくりの説明
塩硝づくりに使用された大釜
塩硝づくりの説明_1
ごく大雑把な説明だった。これでも真似することも出来ないのでは。
塩硝づくりの説明_2
塩硝づくりの説明_3

加賀塩硝についての説明が詳しいHPへjump

神奈川県指定文化財
旧所在地:富山県南砺市桂(かつら)
建物区分:農家、合掌造
構造形式:切妻造、一重三階、茅葺、桁行14.9m、梁行9.5m
建築年代:18世紀初期

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蓮如上人が泊まったという言い伝えのある古い合掌造り
この住宅があった桂集落は、秘境といわれた五箇山でも特に辺境にありました。桂に一番近い集落は国境を越えた加須良(飛騨)でした。そのため山田家は切妻造の外観など、五箇山にありながら飛騨白川の影響を受けたと考えられています。高度成長とともに過疎化が進行して昭和45年に解村し、現在は桂湖というダム湖に沈んでいます。
山田家は、桂にあって「チョウナ仕上の家」として語りつがれていました。「蓮如上人が泊まった」という言い伝えもあり、年代の古い合掌造りとして重要な民家です。
大戸口を入るとマヤのある土間、その奥にウスナワという低い板の間が続いています。ウスナワは流しを設けた台所兼作業場です。水は懸樋でとり入れていました。
一番奥の畳敷きの部屋は正式な座敷です。五箇山は浄土真宗の盛んな地域で、上手には大きな仏壇が設けられています。
見どころポイント!
床下が高いのは、火薬の原料となる塩硝を作っていたためと考えられています。
左手にある小さな合掌造りは、肥料小屋を兼ねた便所です。


(9)野原家住宅(のはらけじゅうたく)《信越の村》
この家屋も、当日は床上公開を行っている対象になっていなかった。だが、渡し籠の様子が観察できたので、個人的には満足だ。
外観
外観_1
外観_2
外観_3
渡し籠
非常に怖い。どうしても私には使う気にはなれそうにない。
渡し籠_1
渡し籠_2
大戸口のところにちらと見える蔓を編んだものが、渡し籠を吊り下げていた『綱』だったようだ。何年くらい保ったものだろうか。ぷっつり切れたら、利賀谷に真っ逆さまで、遥か下流まで流されてしまうことだろう。
渡し籠_3
渡し籠_4
渡し籠_5
屋内の様子
中央の巨大な梁「牛梁」、前後に架け渡した曲がりの鋭い梁「チョウナ」が確認いただけただろうか。
屋内の様子_1
屋内の様子_2
屋内の様子_3
屋内の様子_4
屋内の様子_5
神奈川県指定文化財
旧所在地:富山県南砺市利賀村利賀
建物区分:農家(組頭の家)、合掌造
構造形式:切妻造、一重三階、各面とも庇付、茅葺、桁行17.5m、梁行10.6m
建築年代:18世紀後期

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迫力満点の梁がみられる合掌造の家
「越中五箇山」とは、庄川本・支流域の五つの谷(赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀谷)を中心とした地域の総称です。野原家は庄川支流域の利賀(とが)谷にあった合掌造で、庄川本流域の合掌造とは間取りや構造に違いがあります。
まず間取りですが、庄川本流系が四間取りを基本とするのに対して、広間型三間取りとなっています。大戸口を入ると、土間前半はウマヤ、後半は台所と作業場を兼ねたニワです。ウマヤ前方の細い通路は外便所に通じていました。オエは日常生活の中心となる場で、囲炉裏を二つ設けています。
中央の巨大な梁を「牛梁」、ここから前後に架け渡した曲がりの鋭い梁を「チョウナ」といいます。迫力あるその様子は合掌造民家の大きな見どころです。
見どころポイント!
入って右手の渡し籠は、深い谷を渡るための人力ロープウェーです。
広間天井の太い梁を「牛梁」、ここから前後に渡してある曲がった梁を「チョウナ梁」といいます。
江向家、山田家、野原家を比べてみましょう。同じ五箇山の合掌造でも様々な違いがあります。

 

何度目かの川崎市立日本民家園(4)

(7)江向家住宅(えむかいけじゅうたく)《信越の村》
この日、囲炉裏に火を入れての床上公開を行っていた。江向家住宅の床上公開にあたったのは、今回が初めてだったかもしれない。超ラッキー。
全景はこの角度からしか撮れないようだ。贅沢は言うまい。
この日本民家園に来るまで、茅葺屋根は、すべからくフラットに葺くものだと思い込んでいた。此処で縞状の葺き方を見た時、本当に驚いた。

江向家住宅_1
江向家住宅_2
江向家住宅_3
江向家住宅_4
よそ見をしていたら、思い切ってこの茅にぶつかってしまった。国指定の重要文化財を壊さずに済んで、胸をなでおろした。
江向家住宅_5
江向家住宅_6
江向家住宅_7
江向家住宅_8
石をくりぬいた水舟だ。かなり贅沢なのでは。もしかしたら渓谷沿いなので、大きな石がいくらでもあるのだろうか。
江向家住宅_9
火棚は、爆ぜた火の粉が茅などまで飛んでいかないようにしたり、濡れたものを乾かしたり、燻製をつくったり、…。多目的に使われていたようだ。
江向家住宅_10
江向家住宅_11
この階段は急勾配だし、落ちそうだし、壊れそうだし、…。注意書きがなくてもトライする気にはなれそうにない。
江向家住宅_12
江向家住宅_13
江向家住宅_15
江向家住宅_16
江向家住宅_17
江向家住宅_18
江向家住宅_19
ブツマとその手前のオマエのみが畳敷き。後は畳の間などなかった。畳は相当に贅沢なものだったようだ。
江向家住宅_20
江向家住宅_21
国指定重要文化財
旧所在地:富山県南砺市上平細島
建物区分:農家(組頭の家)、合掌造
構造形式:切妻造、妻入、茅葺、一重三階、桁行19.6m、梁行8.5m
建築年代:18世紀初期

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田の字型の間取りを持つ合掌造りの家
富山県の五箇山地方は、岐阜県の白川地方とともに合掌造で知られています。しかし、それぞれ特徴があり、五箇山でも庄川本流と支流の利賀谷(とがだん)とでは違いが見られます。
この建物は庄川本流系で、「妻入(つまいり)」「正面に茅葺の庇を付けた入母屋造風」「田の字型の四間取り」といった特徴を持っています。床上には、下手に囲炉のあるデイとオエ、上手にオマエとヘヤが並んでいます。デイは接客用、オエは日常生活の場、ヘヤは寝室、オマエは正式な座敷です。 このオマエは畳敷きで、浄土真宗が盛んな地域のためブツマ(仏間)が設けられています。
見どころポイント!
急勾配の大屋根は、手を合わせた形から合掌造と呼ばれます。2階3階は養蚕などに使われました。
いろりの上の大きな棚は、火の粉が上がるのを防ぐとともに、濡れたものの乾燥などに使いました。

 

何度目かの川崎市立日本民家園(3)

(5)水車小屋(すいしゃごや)《信越の村》
この日は水車を回転させていた。でも、粉挽などの動力源としても実演はなかった。そこがやや残念。
水車小屋_1
水車小屋_2
水車小屋_3
水車小屋_4
水車小屋_5
水車小屋_6
川崎市重要歴史記念物
旧所在地:長野県長野市大字上ケ屋
建物区分:水車小屋
構造形式:寄棟造・妻入り、茅葺、桁行4.5m、梁行4.2m
建築年代:19世紀中期

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19世紀の巧みな動力源
水車は使用目的によって二種類に分類できます。ひとつは灌漑(かんがい)などで水を上げるのにつかうもの、もうひとつは動力として用いるものです。
この水車は後者で、米つき、粉ひき、蕎打ちなどに利用していました。
水車を動力に用いる場合、水が車輪に掛かる高さによって上掛け式、胸掛け式、下掛け式に分けることができます。上掛け式と胸掛け式の場合は水をみちびく樋(とい)が必要になりますが、下掛け式の場合は水流に直接車輪をひたします。本園の水車は上掛け式で、車輪の直径は約3.6m。傷んだ場合に修理がしやすいよう車輪は建物本体から外せるようになっています。
見どころポイント!
粉挽き、米つき、わら打ちの3つの機能が備わっています。
水車に水を導くための樋(とい)があります。


(6)佐々木家住宅(ささきけじゅうたく)《信越の村》
こちらは立派な家だと思ったが、軒は石置板葺になっていた。見せかけだけでも質素に見せたのだろうか。この家屋は普請の記録が残っている稀有の例だそうだ。その『普請願書』にも、家屋が破損したので古材を用い、また不足の分は自山の唐松を伐り出して新築したい旨を記して提出したようだが、許可が通ってしまえば、こっちのものという感じだったらしい。古材などは使われなかった。
もともと屋敷があったところは、千曲川の氾濫で地区に被害が及んだようだ。それで、被害を受けなかった佐々木家も含めて高台に集団移転したとか。集団移転の動きは、大津波のときだけでなかったんだ。

外観
全景を入れるには大戸口から離れた位置から撮るしかない。平たくいえば、大きな家屋だ。もともと大きな家屋だった上に、奥に2間を増築したから更に長細いものになった。
外観_1
外観_2
中二階の採光のため屋根の東側を「かぶと造」にしていた。なかなかスタイリッシュだ。
外観_3
外観_4
外観_5
軒はかなり前までせり出していた。
外観_6
使用する方はいないと思うけれども、使用不可なので念のため
屋内_1
屋内
こちらの家屋も当日は『床上公開』になっておらず、主に土間から見ただけだった。隅から隅まで見学したかったが、許可されていなかったので、出来なかった。
居間
屋内_2
屋内_3
中二階に上るための階段
此処が村の寺子屋だったとか。
屋内_4
ミソベヤ
焙炉と唐箕とが置いてあった。焙炉は製茶のための道具。唐箕は脱穀のための機械。
長野県南佐久郡佐久穂町のWikipediaの記述を見ると、日本民家園に旧八千穂村畑上畑から移築された旧・佐々木家住宅(国の重要文化財)が展示されていると記述されている。元の所在地は、蓼科から軽井沢に向かう途中に通った辺りだ。八千穂高原から下ってきた辺りでもそれなりに寒かったと思うが、何とかコメもお茶も栽培可能だったようだ。

屋内_5
屋内_6
風呂場
行水するものだったようだ。もちろん客人用。
屋内_7
国指定重要文化財
旧所在地:長野県南佐久郡佐久穂町畑
建物区分:農家(名主の家)
構造形式:寄棟造、一重、一部中二階、茅葺、桁行24.1m、梁行7.3m
建築年代:享保十六年(1731)、延享四年(1747)に座敷普請

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建築工事の古記録が残る名主の家
この建物は名主(なぬし)の家で、長大で軒(のき)が高く、中二階の採光のために屋根の東側を「かぶと造」としています。こうした外観の特色のほか、普請帳(ふしんちょう)や記録によって家の歴史がわかる点で重要な民家です。
まず、享保十六年(1731)の新築願から建築した年がわかり、寛保三年(1743)の普請帳から千曲川(ちくまがわ)氾濫の影響によって移築されたことがわかりました。延享四年(1747)の普請帳は座敷の増築を伝えています。上手の二室(マエデノザシキとオクノザシキ)がこれにあたり、客用の便所や風呂を備えていることからも、村内で相当な地位についたことがわかります。農家ですが紺屋を営んだ時期があり、中二階は村の寺子屋としても使われていました。
見どころポイント!
入口の便所は男性の小用で、土足のまま使えるようになっていました。
風呂場は来客の行水用で、浴槽はありませんでした。


詳しい解説がある川崎市教育委員会のHPへjump

 

何度目かの川崎市立日本民家園(2)

(2)井岡家住宅(いおかけじゅうたく)《宿場》
奈良町屋の典型的な形式を備え、しかも現存する最古の部類に属するもので、奈良町の町屋の発展を知るうえで貴重な存在だそうだ。
油屋の時も線香屋の時も可燃物を扱っていたからだろうか。店や座敷には囲炉裏などは無い。土間でに炊きをしていたのでその暖気が多少はあるにしても、相当に寒かったのではないかと思う。

井岡家住宅_1
井岡家住宅_2
井岡家住宅_3
『通り土間』なのだろうが、非常に寒そう。何しろ火の気は竈の火のみだから。人ばかりでなく風もたくさん通り抜けそう。
井岡家住宅_4
神奈川県指定重要文化財
旧所在地:奈良県奈良市高畑町
建物区分:商家
構造形式:切妻造、桟瓦葺、一重、一部二階、桁行7.9m、梁行12.7m
建築年代:17世紀末期~18世紀初期

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狭い間口を活かした奈良の商家
この建物は奈良の柳生街道に面した商家でした。古くは油屋を営み、のちに線香屋としてその製造販売を行っていました。
外観は正面に庇を設け、吊上げ式の大戸、格子、揚見世(あげみせ)を備えており、商家の面影を伝えています。また、柱などを塗り込んだ外壁や、瓦葺(かわらぶき)屋根は、防災を考慮した町屋の特徴をよく現しています。内部は一方を通り土間とし、居室部は土間に沿って縦一列に三室を並べ、「つし」と呼ばれる中二階(物置)を設けています。正面左側のミセは商いの場で、右側のシモミセは品物の取引に、折りたたみ式の揚見世は品物の陳列に使われました。
見どころポイント!
この家は囲炉裏がなく、かまどで生活をしていました。なお、中央の大かまどは荒神(火の神)を祭るもので、正月の餅つきのとき以外は使いません。
敷鴨居(しきがもい)の溝には、開閉に必要な分だけを彫る「突き止め」という古い手法が用いられています。


(3)佐地家の門・供待(さじけのもん・ともまち)《宿場》
ここは、宿場に組み入れるのはチョットなじまないような気がするが、大人の事情というものだろうか。
武家としては、当時の持ち主である石川家は尾張藩士として知行高250石を相続し、さらに幕末には御普請奉行として50石の加増を得ていたそうだ。そこそこの格式の武士ということになろう。尾張藩の中級武士の家だ。明治になってからの所有者が佐地家だったから、表題のように『佐地家』となっているようだ。違和感があるが、寄贈者の神経を逆なでするようなことは出来なかったのだろうか。
尾張藩の中級武家ということになれば、客人を迎えるにあたって、供待を用意するのは当然のことだったのかもしれない。外から見ればそれなりだが、中は手抜きで安っぽい。お供風情に、立派なものを用意する必要などないと考えたのかな。それにしても、なぜ、別棟にしたのだろうか。御普請奉行となったので、慌てて拵えたのだろうか。

佐地家の門・供待_1
佐地家の門・供待_2
手前左側の小さな間は、門番の部屋。これが私のカメラでは撮れないほど採光のよくない部屋だった。もう少し居住性を良くしても罰が当たらなかったのでは。
佐地家の門・供待_3
佐地家の門・供待_4
佐地家の門・供待_5
佐地家の門・供待_6
川崎市重要歴史記念物
旧所在地:愛知県名古屋市東区白壁
建物区分:武家屋敷付属建物
構造形式:門=棟門、桟瓦葺、塀=延長10.5m、桟瓦葺供待=入母屋造、桟瓦葺
  桁行4.6m、梁行9.2m
建築年代:19世紀初期

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お供が控えた武家屋敷の門
この建物は、もと名古屋城の東南にあり、禄高二百五十石の武家屋敷の出入口でした。主屋は名古屋に残されたため、現在は旧三澤家住宅を主屋に見立てて配置しています。
門は棟門(むなかど)と呼ばれる形式です。両袖部に突出している小屋根は、提灯を吊るすためのものです。供待(ともまち)はお供が主人の帰りを待つための施設で、内部は土間、門番部屋、囲炉裏のある板の間(供待)からなっています。供待が一つの建物として建てられるのは珍しい事例です。屋敷外は漆喰仕上げとして城郭風であるのに対し、内側は中塗りまでとして軒裏も木部を露出させた簡素な仕上げにするなど、体面を重んずる武士の家らしさが現れています。
見どころポイント!
屋敷の外は白い漆喰仕上げ、内側は漆喰を塗らず簡素な仕上げとなっています。
入口の小部屋は門番が使っていました。


(4)三澤家住宅(みさわけじゅうたく)《宿場》
日本民家園は、毎日3~5棟ずつ囲炉裏に火を入れての床上公開を行っているが、この日はここが対象になっておらず、床に上がってみることが出来なかった。結構見どころが多いのに残念。超胴長の体型を活かして、精一杯伸びをして撮ってみたが、…。
外観上の特色は、何と言っても石置板葺の屋根だろう。式台玄関が用意されている家屋だというのに。

三澤家住宅_1
三澤家住宅_2
薬箪笥や薬研など、薬種商を営んでいたなら必ず用意していただろうものが残されていた。我がことでもないのになぜか嬉しくなってしまう。しかし、薬学の知識はどうやって得たのだろうか。商っていた薬剤の種類は限定的だったようだが。
三澤家住宅_3
三澤家住宅_4
三澤家住宅_5
三澤家住宅_6
茅葺屋根でなくてもやはりこの屋根から自然に煙が抜ける。床上げの日だったらよくわかるのだが。
三澤家住宅_7
三澤家住宅_8
神奈川県指定重要文化財
旧所在地:長野県伊那市西町
建物区分:商家(薬種問屋→旅籠)
構造形式:切妻造、石置板葺、一重、一部二階、桁行13.6m、梁行12.7m
建築年代:19世紀中期

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宿場で薬屋を営んだ板葺き屋根の家
この建物は、中山道から分かれる伊那街道の宿駅、伊那部宿(いなべじゅく)にありました。農業を主とし、代々組頭をつとめてきましたが、江戸時代の末に製薬・売薬業を始めて成功しました。
外観上の特徴は、石置板葺(いしおきいたぶき)のゆるい切妻造屋根と上手の門構え、それから式台玄関です。板葺の屋根は良材に恵まれた山間部の地域性によるものです。間取りにはこの宿場の半農半商的性格が現れています。通り土間で大戸口から敷地奥へつなぐのは町屋の特徴です。一方、土間後部をウマヤとし、囲炉裏のあるオオエを中心に構成する点はこの地方の農家と共通しています。
見どころポイント!
栗の板を使った屋根は横木と石だけで押さえてあります。
展示してある看板は、薬屋と旅館を営んでいたときのものです。

 

『和のあかり×百段階段展』(7)

雅叙園ホテルの装飾(2)
招きの大門の辺り
竿燈や七夕飾りも展示されていた
竿燈や七夕飾りも展示されていた_1
竿燈や七夕飾りも展示されていた_2
こんな画も
こんな画も
有名なトイレ
用足しをしたくなくても入ってみるべきかも
有名なトイレ_1
ヘボカメラマンのシルエットがつや消しになってしまった
有名なトイレ_2
有名なトイレ_3
有名なトイレ_4
エントランスの屋根の上
あれは鳳凰だと思う。見事なものだ。
エントランスの屋根の上_1
エントランスの屋根の上_2
エントランスの屋根の上_3
エントランスの屋根の上_4

大円寺
この寺は、寛永年間(1624年-1644年)湯殿山修験道の行者大海が創建したのに始まると伝えられる。ところがとんでもない不祥事が起きてしまった。
『めいわくねん』なので何か良からぬことが起きなければと江戸の町民は危惧していたようだが、それが不幸にも的中してしまった。1772年(明和9年)2月に発生した大火(明和の大火・行人坂火事)の火元となってしまったのだ。無宿の坊主真秀が大円寺に盗みに入り本堂に放火をしたためだった。大円寺にとっても、とんでもないとばっちりだったにもかかわらず、江戸時代の寺の扱いは非常に厳格で、なかなか再建を許されなかった。
それが何とか再建されたのは、江戸時代後期の1848年(嘉永元年)になり、薩摩藩主島津斉興の帰依を得て、その菩提寺となったから。その頃既に薩摩藩は、幕府に睨みを利かすことができる存在だったようだ。
明治に入り隣接した(雅叙園のある辺りに存在した)明王院がこの寺に統合されている。
明王院は八百屋お七の思われ人だった吉三が入った寺である。
ということで、三大大火の内の2つに関係のある寺ということになる。

大円寺_1
大円寺_2
重要文化財『木造釈迦如来立像』
附:菊花双雀鏡1面(鏡面に「釈迦如来、建久四年十月十六日、丹治氏乙犬女」の線刻がある)
附:紙本墨書紙片3枚(「丹治氏乙犬女」「記千□(歳)女」「公□氏」とある)

「三国伝来の霊像」と称される京都・清凉寺の本尊釈迦如来像を模した、いわゆる「清凉寺式」の釈迦如来像。身体の露出が少ない衣の付け方、同心円状の衣文、縄目状の頭髪など、清凉寺式釈迦如来像の典型的な様式を示す。本像は、像内納入品の銅鏡の線刻から、鎌倉時代初期の建久4年(1193年)の造立と判明する。また、像内に納入されていた宝永4年(1707年)の木札の記載により、この像は当時鎌倉の杉本寺にあったことがわかる。清凉寺式釈迦如来像の典型作であるとともに、制作年代の判明する清凉寺式釈迦如来像としては最古の作品として貴重である。
重要文化財『木造釈迦如来立像』_1
重要文化財『木造釈迦如来立像』_2
重要文化財『木造釈迦如来立像』_3
東京都指定有形文化財『大円寺石仏群 520躯(釈迦三尊像 3躯、十大弟子像 10躯、十六羅漢像 16躯、五百羅漢像491躯)』
天明年間(1780年代)、前述の目黒行人坂火事の犠牲者追悼のために作られたとされている。
大円寺石仏群_1
大円寺石仏群_2
大円寺石仏群_3
大円寺石仏群_4
大円寺石仏群_5
大円寺石仏群_6

大円寺の詳しい説明にjump

目黒川架橋供養の勢至菩薩石像を祀る「勢至堂」
かなり古そう。この向かい辺りにホリプロがある。そちらをもっぱら見ている等と言ったら罰が当たるかも。
行人坂の大円寺のすぐ脇(目黒駅寄り)に、目黒川架橋供養の勢至菩薩石像を祀る「勢至堂」があります。お堂の脇に、この坂の守り神「行人坂 坂守天人の石像」の像があります。
「勢至堂」_1
「勢至堂」_2
「勢至堂」_3

以上で、『和のあかり×百段階段展』シリーズは終了です。最後までご覧頂きありがとうございました。

 

『和のあかり×百段階段展』(6)

頂上の間
清方の間と頂上の間とは客が入りすぎ。観光バスでやってきて階下のレストランの何処かで食事の後に、こちらに繰り出したご一行と鉢合わせをしてしまったようだ。
展示されたあかりは、2つとも山口県のもの。非常にポピュラーなもので、会場を華やいだものにしてくれたようだ。

頂上の間_1
頂上の間_2
頂上の間_3
頂上の間_4
頂上の間_5
天井画は松岡映丘門下の作品です。前室、本間ともに格天井で、本間の床柱は黒柿の銘木を使用。
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提灯のあかり ~山口県・柳井市「柳井金魚ちょうちん祭り」
今から約150年の昔、柳井の熊谷林三郎が、青森の「ねぶた」にヒントを得、伝統織物「柳井縞」の染料を用いて創始したといわれている「金魚ちょうちん」。そのちょうちんをモチーフにした夏のイベントで、白壁の町並みを始めとする会場内に装飾された約2,000個の金魚ちょうちんに灯りを灯し、金魚ちょうちんから洩れるほのかな灯りが幻想的な雰囲気を醸し出します。 

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提灯のあかり ~山口県・山口市「山口七夕ちょうちんまつり」
山口県日本三大火祭りのひとつで約600年前の室町時代、大内のお殿様が笹竹の高灯籠に火を灯したことから始まる「山口七夕ちょうちんまつり」。山口市の会場一帯に灯される3万個以上のちょうちんの中は本来、すべて蝋燭の灯りですが、文化財「百段階段」の頂上の間でご覧いただく今回の展示では温かみのあるLEDを使用します。


百段階段
百段階段の窓や階段・天井はこんなふう
百段階段の窓や階段・天井_1
百段階段の窓や階段・天井_2
百段階段の窓や階段・天井_3

雅叙園ホテルの装飾(1)
エレベータ
皆このように見事な螺鈿細工の装飾が施されている。いつも惚れ惚れしながら見ている。
エレベータ_1
エレベータ_2
エレベータ_3
回廊を飾る見事な画
江戸時代の風俗を表した艶やかな彩色木彫板が飾られている。かなり肉厚の木彫で、今にも飛び出してきそうな印象を受ける。いつ見ても凄いものだと思う。
回廊を飾る見事な画_1
回廊を飾る見事な画_2
回廊を飾る見事な画_3
回廊を飾る見事な画_4
回廊を飾る見事な画_5
回廊を飾る見事な画_6
回廊を飾る見事な画_7
回廊を飾る見事な画_8
回廊を飾る見事な画_9
回廊を飾る見事な画_10
回廊を飾る見事な画_11

 

『和のあかり×百段階段展』(5)

清方の間
最も人気のある間とされていた清方の間をしっかり撮ることが出来ずに終わってしまって残念。一方で和紙のあかりの方は、撮り易く感じた。
鏑木清方の作品
鏑木清方の作品_1
鏑木清方の作品_2
鏑木清方の作品_3
鏑木清方の作品_4
鏑木清方の作品_5
鏑木清方の作品_6
鏑木清方の作品_7
鏑木清方の門人である門井掬水の作品
門井掬水の作品
清方の間の説明
清方の間の説明
和紙のあかり
和紙のあかり_1
和紙のあかり_2
和紙のあかり_3
和紙のあかり_4
和紙のあかり_5
和紙のあかり_6
和紙のあかり_7
和紙のあかり_8
和紙のあかり_9
和紙のあかり_10
和紙のあかり_11
和紙のあかり_12
和紙のあかり_13
美人画の大家、鏑木清方が愛着をもって造った落ち着いた静かな茶室風の室です。特に奥の間の床柱は径一尺五寸の北山杉の天然総絞丸太でこのような逸材は今日、市場でもなかなか見出せないものです。廻り廊下の北山丸太を扱った化粧軒、障子建具、組子など、細心の造りです。扇面形杉柾板に四季草花、欄間の四季風俗美人画ともに清方の筆です。
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和紙のあかり ~岐阜県・美濃市「美濃和紙あかりアート展」
「日本の手漉和紙技術」としてユネスコ無形文化遺産に登録された本美濃紙の産地である岐阜県美濃市。同市で毎年開催され、今年で21年目を迎える「美濃和紙あかりアート展」から優秀作品を展示します。
2日間の開催で約10万人を動員する「美濃和紙あかりアート展」は重要伝統的建造物群保存地区に指定される「うだつの上がる町並み」を舞台に開催され、全国各地から集まる美濃和紙を使用したあかり作品が一堂に会します。
第21回美濃和紙あかりアート展 10月11日(土)・12日(日)開催予定。

 

『和のあかり×百段階段展』(4)

星光の間
星光の間は、部屋自体は少し明るかった。だが、被写体が小さく、微妙なあかりが当てられたものであり、これまた撮るのが難しかった。こういうものを丹念に己が世界に取り込んでしまう異才の持ち主がいたんだ。他方、こちらは根っからの凡人。一生懸命に撮ろうとしたが、裏面照射の強さに負けて、撮りきれなかったものが多数。悔いが残った。
星光の間_1
星光の間_2
星光の間_3
光の強さに負けてしまって、ディテールが潰れてしまった。どういうふうに撮ればよかったのだろうか。
星光の間_4
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極小のLED光源を使い、光量をも微妙に調節したのだろうか。こんな難しいことをやってのける人達がいるんだ。技術が芸術の分野をアシストすることもあるようだ。
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奥の間の床柱は北山杉天然絞丸太で、次の間の床柱は槇出節、両室とも格天井及び欄間いっぱいに板倉星光の四季草花が描かれています。
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草木のあかり ~造形作家 川村忠晴の世界
「自然が作り上げたものがいちばん美しい。僕は極力それに手を加えずに作品をつくる。」「作品を見てくれた人が身近な自然を自分なりに楽しむきっかけが生まれることがうれしい。」と語る造形作家・川村忠晴氏。
自身で野山に入り、イメージとあう草木を見つけては作品に仕上げる作品からは、優しい空気感が流れます。「昔の日本人は貧しくとも野山の花を一輪さす心の豊かさがあった。」「都会と言われるところでもよく見れば草木は沢山ある。」「現代の人々もバブルを経験し、ひとまわりして内面の豊かさを大事にするようになっていると思う。」
川村氏が提案する草木のあかりは普段、見過ごしてしまう様な小さな自然と向き合う豊かな時間を提供してくれます。

 

『和のあかり×百段階段展』(3)

草丘の間
確かに素晴らしいはずなのだが、風鈴軍団の勢いに圧倒され、呆然としてしまった。私の腕前ではどう撮っていいのかわからず、枚数も殆ど撮ることが出来ないままに次の間へ。私の完敗だった。部屋いっぱいに風鈴が据え付けられているので、自慢の天井絵もしっかり見ることが出来なかった。ダブルショックだった。
草丘の間_1
草丘の間_2
草丘の間_3
草丘の間_4
草丘の間_5
草丘の間_6
夏のあかり ~江戸風鈴とアートの竹林
礒部草丘の描く鮮やかな緑を基調としたパノラマの山水画に囲まれた草丘の間。その部屋を囲む回り廊下にはアートの竹林が涼やかにライトアップされます。
また、部屋の中央には創業百年の老舗「篠原風鈴」から500個の「江戸風鈴」が配されます。夏の夜をイメージしたライトアップされた竹林と涼やかな風鈴の音色に包まれます。


静水の間
続いて、今回のイベントで私には一番撮るのが難しかった部屋。比較的まともに撮れたものをセレクトしてご覧いただく。
展示されている作品は、六曲一隻「新月の光と闇」と名付けられた作品だそうだ。人間の眼で見るには素晴らしい独特の世界があったのだが、三脚なしでは撮影が難しかった。ISO感度を思い切って高く指定して撮るべきだったかも。それにしても才能溢れる人がいるものだ。
そして、静水の間の本来の美しさが、室内を暗くしてあるので、堪能することが出来なかった。こちらも残念だった。
静水の間_1
静水の間_2
静水の間_3
静水の間_4
静水の間_5
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暗闇に浮かぶ月のあかり ~アートの月が見せる暗闇のあかり 美術家 中里繪魯洲の世界
燭台や行燈、提灯であかりを灯していた時代よりさらに昔、日本人にとって闇夜を照らす唯一のあかりは月のあかりでした。日本最古の物語「竹取物語」や“月見の文化”、“月の満ち欠け”にあわせて沢山の呼び方をつけるなど、日本人にとって月は特別な存在でした。
あかりの少なかった時代に暗闇を生かした美を追求した考え、陰翳礼讚(いんえいらいさん)をテーマに三代目市川猿之助丈の“スーパー歌舞伎”の美術小道具、勘緑氏の“人形浄瑠璃”の舞台美術などに携わった美術家・中里 繪魯洲氏が日本のあかりを語るうえで欠かせない“暗闇と月”をアートで表現します。


本来の百段階段はこんなふうになっている

 

『和のあかり×百段階段展』(2)

百段階段
こんなふうに数字が記載されていて、ちょうど百段の階段になっている。純粋な木造建築。そして、ところどころに右に入り込む形でそれぞれの間がある。『十畝の間』の次に見えているのは、『漁樵(ぎょうしょう)の間』。
百段階段

漁樵(ぎょうしょう)の間
あまりにも迫力があり過ぎて、度肝を抜かれた。欄間にある雄竹竹坡原図の五節句の彫刻は、少し傷みが目立っていた。それがやや残念。
漁樵(ぎょうしょう)の間_1
漁樵(ぎょうしょう)の間_2
漁樵(ぎょうしょう)の間_3
漁樵(ぎょうしょう)の間_4
漁樵(ぎょうしょう)の間_5
漁樵(ぎょうしょう)の間_6
漁樵(ぎょうしょう)の間_7
漁樵(ぎょうしょう)の間_8
漁樵(ぎょうしょう)の間_9
漁樵(ぎょうしょう)の間_10
漁樵(ぎょうしょう)の間_11
漁樵(ぎょうしょう)の間_12
室内はすべて純金箔、純金泥、純金砂子。床柱は左右ともに檜で、中国の漁樵問答の一場面が彫られています。格天井には菊池華秋原作の四季草花図、欄間には雄竹竹坡原図の五節句が彫られています。
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祭りのあかり ~青森県・青森市「青森ねぶた祭」
「本来5mある、ねぶたの山車。それを天井高わずか3.5mの和室の中に表現する。」
しかも「展示する場所は釘一本打つことが出来ない文化財」。
このねぶた界初の挑戦に挑む4人の次世代ねぶた師がコンセプトに掲げたのは、「部屋その物をねぶたの山車に見立てる」ことでした。ねぶたを部屋のサイズに合わせて小さく作ることは可能ですが、それでは本場のねぶたへ思いを馳せる簡易版にとどまってしまいます。そこで、全てが入らずとも、実際の祭りで使われるねぶたと同じ大きさのねぶたのパーツを用い、部屋全体をねぶたの世界感で埋め尽くすことに決めました。
4人はそれぞれ制作したねぶたの頭(かしら)を持ち寄り、一つのストーリーに仕上げました。テーマは「酒呑童子」。ねぶた界初となる「流派を超えた4名のねぶた師による共同作品」。無形文化財「ねぶた」と有形文化財「百段階段」の前代未聞のコラボレーションをお楽しみください。

 

『和のあかり×百段階段展』(1)

7月3日(金)から8月9日(日)まで、目黒雅叙園ホテルの百段階段で、イベントが行われた。百段階段でのイベントは、ずっと質の高いモノを提供してきている。だが、惜しいかな、今までは写真撮影は一切まかりならぬという扱いだった。
今回、フラッシュや三脚の使用はNGだが、写真撮影はOKとの扱いにしてくれたので、喜び勇んで出かけた。
例によって例のごとく自転車操業状態なので、撮って出しのものばかり。α6000で撮影した。


エレベータを降りたところにあった生花作品
週替りで各流派が展示を担当するようだ。私が行った時は清泉古流・西村一紗氏の作品が展示されていた。いきなり度肝を抜かれた感じ。ここ以外にも飾られていたのかもしれないが、気づいたのはここだけだった。
清泉古流・西村一紗氏の作品

十畝(じっぽ)の間
百段階段の途中にある七つの間の内の最初の間である『十畝の間』。出だしから強烈なインパクトが有った。どんな感じかは各自で判断されたい。
十畝(じっぽ)の間_1
十畝(じっぽ)の間_2
十畝(じっぽ)の間_3
十畝(じっぽ)の間_4
十畝(じっぽ)の間_5
十畝(じっぽ)の間_6
十畝(じっぽ)の間_7
十畝(じっぽ)の間_9
十畝(じっぽ)の間_10
十畝(じっぽ)の間_11
十畝(じっぽ)の間_12
十畝(じっぽ)の間_13
十畝(じっぽ)の間_14
十畝(じっぽ)の間_15
十畝(じっぽ)の間_16
十畝(じっぽ)の間_17
十畝(じっぽ)の間_18

天井には23面の鏡板に荒木十畝により四季の花鳥画が描かれています。黒漆の螺鈿細工が随所に見られる重厚な作りの部屋です。
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葛飾北斎のあかり ~葛飾北斎の「浮世絵あかり行燈」
平成28年4月に開館予定の「すみだ北斎美術館」協力のもと、墨田区出身の世界的な浮世絵師「葛飾北斎」の浮世絵を和紙の行燈に仕上げます。
90年にわたる生涯で93回の転居、約70年間の創作活動で30以上の画号を使用した北斎。出版当初から相当な評判を博し当初予定されていた36図から全46図まで制作された「冨嶽三十六景」など、誰でも一度は見たことのある名作を和紙越しのやわらかいあかりでお楽しみください。

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江戸職人のあかり ~江戸切子、かんざし、漆、組子
数多くの職人たちが集まっていた江戸の街。現代でも東京には多くの職人が日本の伝統文化を今に伝えています。
本展では文化財「百段階段」の漆修繕に携わっている墨田区の漆職人・安宅氏が所属する「墨田区伝統工芸保存会」をはじめ、美術大学生と職人との交流も盛んな江戸川区の職人らを招き、「江戸職人の匠の技」を展示します。江戸切子、かんざし、漆、組子など日本人の美意識に根差した伝統の技を柔らかなあかりで照らします。
【墨田区の職人】江戸切子(山田 真照)、錺かんざし(三浦 孝之)、漆(安宅 信太郎)
【江戸川区の職人】江戸硝子(中村 弘子)、組子建具(山川 英夫)、組子細工(田中 孝弘)

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暗闇に浮かび上がる126枚の日本画と12の日本のあかり。あかりを消した文化財を”日本人が愛してきた12の和のあかり”で照らします。”
昭和初期を代表する日本画家たちの絵に囲まれた色彩空間を舞台に「全国の祭りのあかり」「和紙のあかり」「草木のあかり」「夏のあかり」など、日本人が愛してきた12のあかりを灯す「和のイルミネーション」。3.5mの天井高いっぱいに展示される“青森ねぶた”や、“葛飾北斎”の浮世絵を和紙の行燈に仕上げるインスタレーション、500個の“江戸風鈴”のライトアップ、部屋いっぱいに飾られる可愛らしい“金魚ちょうちん”、
優しいあかりに照らされる“草木のあかり”、江戸職人の作る“江戸切子”“かんざし”“漆”“組子”など“いつまでも見ていられる心安らぐ和紙のあかり”が文化財を優しく照らします。


『何度目かの川崎市立日本民家園』シリーズは、始まったばかりですが、私の勝手な判断で一旦中断し、こちらのシリーズを先に取り上げます。m(_ _)m

 

何度目かの川崎市立日本民家園(1)

かつての勤め先のOB会地域組織の秋のウォーキングの行き先の案内材料にすべく、下見に行った。私自身は何度か通った成果が出たのか、漸く殆ど見落としなしに見て回ることが出来た。
今回は6月下旬の撮影で、EOS M3及びM2を使用した。


日本民家園の本館展示室付近
ここで入場券を購入して入館する。いろいろな展示があるので興味にある方は見ておくのもやぶさかではないが、集合時間が決められているグループ行動の場合は時間が足らなくなる可能性が大なので、最後に見た方が良いかも。
日本民家園の本館展示室付近_1
日本民家園の本館展示室付近_2
日本民家園の本館展示室付近_3

(0)原家住宅(はらけじゅうたく)
この日本民家園で一番贅沢な建物かもしれない。当然私の好み。
(0)原家住宅(はらけじゅうたく)_1
(0)原家住宅(はらけじゅうたく)_2
仲の間の南面に式台を張り出し、正面に向唐破風の屋根をかけるのは原家の格式を示すものか。う~~ん、凄いものだ。
(0)原家住宅(はらけじゅうたく)_3
(0)原家住宅(はらけじゅうたく)_4
(0)原家住宅(はらけじゅうたく)_5
奥座敷の南東二面及び裏三室の北面に廻した入側縁の外面に明かり取りのための硝子戸を建てているのか。この硝子戸は国産の板硝子を用いた初期の例だそうだ。なんという贅沢な家屋なのだろうか。
(0)原家住宅(はらけじゅうたく)_6
(0)原家住宅(はらけじゅうたく)_7
(0)原家住宅(はらけじゅうたく)_8
(0)原家住宅(はらけじゅうたく)_9
(0)原家住宅(はらけじゅうたく)_10
(0)原家住宅(はらけじゅうたく)_11
川崎市重要歴史記念物
旧所在地:神奈川県川崎市中原区小杉陣屋町
建物区分:住宅
構造形式:
    木造2階建、入母屋造、棧瓦葺(一部下屋 銅板葺)
    一階=桁行17.6m、梁行13.2m/二階=桁行10.9m、梁行9.1m
    風呂場・便所付属
建築年代:明治44年(1911)4月16日上棟
木造建築技術が高度に磨かれた明治時代の豪壮な民家
この家は川崎市中原区小杉陣屋町に所在した大地主の主屋です。
原家の伝承によると、当住宅の建築は22年を要し、驚くほど慎重に家づくりを行ったことが伺われます。
主屋はケヤキ材をふんだんに使用した木造・二階建て・桟瓦葺き・延べ117坪(387㎡)の大規模住宅で、南に面しています。
2階に入母屋造りの大振りな屋根をかかげ、1階は正面の式台(格式ある玄関)に唐破風(からはふ)屋根設けたり庇(ひさし)屋根も瓦葺きとするなど、重厚で格式を備えた外観が特徴といえます。
内部1階は正面向かって左手(西側)に土間・台所の作業空間、その右手(東側)に前後2列・左右3列の居住空間があり、2階は家族の生活空間となります。
1階は天井が高く、柱も太く、丈の高い差鴨居(さしがもい)が多用されており、豪快な空間構成が印象的です。一方2階は室の大きさと天井高が適度に抑制され、生活部分としての落ち着いた空間を作り出しています。
木工技術に関してはすべてに渡って精度が高く巧妙であるといえます。大振りな屋根は出桁造(だしげたづくり)による二軒(ふたのき)構造でしっかり支えているように見えますが、実際は屋根裏の跳木(はねぎ)や梁が荷重を負担し、出梁(だしばり)(腕木)は見せかけのつくりとなっています。また、柱の前後左右に差鴨居が取り付く場合の「四方差し(しほうさし)」技法や、欅の厚板を用いた縁板が反ったり隙間を生じたりしないような複雑な加工など、目に見えない部分で多大な配慮が認められます。
見どころポイント!
部屋によって壁土の色・天井の高さが異なります。格式の高い部屋ほど天井が高くなります。
間仕切りの板戸はケヤキの一枚板です。


ここから暫くは、宿場の様子を再現したゾーンが続く

(1)鈴木家住宅(すずきけじゅうたく)《宿場》
武士、馬喰、馬方、馬を泊めた『馬宿』だったようだ。福島市の郊外の松川か。松川事件のあったところだ。
以前も書いたかもしれないが、スペインの巡礼に馬で参加する人もいる。そういう方は、専門の宿があるんだろうなと思いながら気にして歩いていた。そういう宿と思しきところが道中に確かにあった。その日本版だろうか。

(1)鈴木家住宅(すずきけじゅうたく)《宿場》_1
この脇を通れば、見えにくかった上段や次の間がよく見えたのかもしれない。う~~ん、失敗。
(1)鈴木家住宅(すずきけじゅうたく)《宿場》_2
なんと揚戸になっているそうだ。揚げ簀戸とは全く異なる。上げ下げを実演してもらえると嬉しいのだが。
(1)鈴木家住宅(すずきけじゅうたく)《宿場》_3
(1)鈴木家住宅(すずきけじゅうたく)《宿場》_4
揚戸はこんなものだ。揚戸は3枚1組で、2階の窓下と1階の平桁との間に戸袋を設けて収納されるのだそうだ。
揚戸イラスト
お馬さんが繋がれていた土間だろう。14頭の馬をつなぐ事ができたのか。フルに入った時は壮観だったことだろう。
(1)鈴木家住宅(すずきけじゅうたく)《宿場》_5
(1)鈴木家住宅(すずきけじゅうたく)《宿場》_6
いわゆる部屋の様子
(1)鈴木家住宅(すずきけじゅうたく)《宿場》_7
馬さんが少しでもあたたまることができるようにということで、この位置に囲炉裏を切ったのだろうか。
(1)鈴木家住宅(すずきけじゅうたく)《宿場》_8
(1)鈴木家住宅(すずきけじゅうたく)《宿場》_9
大きい釜が馬用で、小さな釜が人間用だったのか。なるほどねえ。
(1)鈴木家住宅(すずきけじゅうたく)《宿場》_10
(1)鈴木家住宅(すずきけじゅうたく)《宿場》_11
(1)鈴木家住宅(すずきけじゅうたく)《宿場》_12
(1)鈴木家住宅(すずきけじゅうたく)《宿場》_13
神奈川県指定重要文化財
旧所在地:福島県福島市松川町本町
建物区分:旅籠(馬宿)
構造形式:前部=寄棟造、茅葺、桁行 10.6m、梁行 6.9m/後部=入母屋造、茅葺、桁行
建築年代:19世紀初期
奥州街道の馬宿
この建物は、奥州街道の宿駅、八丁目宿の旅籠(はたご=宿屋)でした。南部駒(なんぶごま)を白河(福島県)方面の競り市(せりいち)に出す馬喰(ばくろう=馬商人)や、馬を世話する馬方(うまかた)を泊めた馬宿(うまやど)で、馬は土間(どま)に、馬方は中二階に、馬喰や武士は一階の座敷に宿泊しました。
街道に面した前部は、中二階造として旅籠の営業に当てています。 揚戸(あげど)、格子窓(こうしまど)、日除けの板暖簾(いたのれん)、深い軒(のき)の出など、宿場の民家の特徴が良く現れています。 後部は通り(とおり)土間に沿って奥に長くのび、左手に家族の生活の場であるチャノマ、カッテ、ニワ、右手に馬をつなぎとめておくマヤが並んでいます。
見どころポイント!
土間のマヤには14頭の馬をつなぐことができました。
狭い間口を活かすため、入口は引き戸ではなく開き戸に、正面の板戸は上に収納する揚戸になっています。

 

試し撮りで近くを回る(5)

洗足池を更に半周した後、今は唯一の水源になっている清水窪湧水を目指した。

清水窪湧水を遡る
とりあえず、地上に出ている部分をたどる
清水窪湧水を遡る_1
清水窪湧水を遡る_2
清水窪湧水を遡る_3
清水窪湧水を遡る_4
清水窪湧水を遡る_5
清水窪湧水を遡る_6
清水窪湧水を遡る_7
この辺にはアメンボがいっぱい
清水窪湧水を遡る_8
清水窪湧水を遡る_9
清水窪湧水を遡る_10

この先は大岡山駅方面へ上り坂になる。流れは暗渠になっているようだ。ということで、この部分は省略。

清水窪跨線橋
ここをどういうふうに水を通しているのだろうか。空中を水の管が渡してある感じは無い
清水窪跨線橋_1
考えていたら電車がやってきた。目黒線経由の三田線の電車だった。
清水窪跨線橋_2
清水窪跨線橋_3
清水窪湧水
少し道を間違えたが、何とか断念せずに到着。細い階段を下る。
清水窪湧水_1
赤い手すりの奥に湧水が流れている。『東京の名湧水57選』の表示があった。百選を数えるほどには存在しないということなのだろうか。
清水窪湧水_2
チョロチョロしか流れていないようにみえるかもしれない。そうだとすると私の腕が未熟だからだ。結構な湧出量で、音もそれなりに派手だった。少なくとも、等々力の滝とは比べ物にならないくらいのように見えた。ここが国分寺崖線の最も端になるのだろうか。
清水窪湧水_3
清水窪湧水_4
清水窪湧水_5
清水窪湧水_6
清水窪湧水_7
清水窪湧水_8
この湧水が下流の洗足池に流れ込んでいる。昔は、湧水はいくらでもあったようだが、今は唯一生きている湧水のようだ。池の水の色を見ると、鉄分を含有しているような色合いだ。
清水窪湧水_9
清水窪湧水_10

帰り道
大岡山駅前
東工大
東工大_1
東工大_2
東急病院
東急病院_1
東急病院_2
駅前の花壇
駅前の花壇_1
駅前の花壇_2
鉄飛坂帝釈堂
『てっぴざかたいしゃくどう』と読ませる。
鉄飛坂帝釈堂_1
鉄飛坂帝釈堂_2
鉄飛坂帝釈堂_3
洗足池でも思ったことだが、『ほりの内』って、どこのことだろう?杉並区にある『堀之内妙法寺』のことかなあ。だとすると、早足の人でもゆうに3時間はかかるぞ。かつての碑衾村は日蓮宗の勢力範囲だったようだ。
鉄飛坂帝釈堂_4
鉄飛坂帝釈堂_5
鉄飛坂帝釈堂_6
鉄飛坂帝釈堂_7
鉄飛坂帝釈堂_8
坂上左手の平町二丁目18-13にある。
境内には計6基の庚申塔が存在するが、この内堂内に安置されている4基は昭和57年2月4日に鉄飛坂庚申塔群として区の有形文化財に指定されている。3基は板碑型で、延宝8年(1680年)、貞享2年(1685年)、天保13年(1837年)のものがある。1基は柱型で、明治14年(1881年)に造られ、題目と帝釈天が彫られている。
堂外の2基は入って左手に縦に置かれている。前の1基は青面金剛が彫られており、後ろの1基は文化7年(1810年)2月建立で、「左ハ池上 右ハほりの内」と書かれており、道標の役目も果たしていた。


試し撮りに関しては、被写体が比較的近い範囲にあるときには、結構使い勝手が良さそうに思えたというのが今回の感想。もう少し使い込んでみたいが機会があるだろうか。

以上で、『試し撮りで近くを回る』のミニシリーズは終了です。最後までご覧頂きありがとうございました。

 

試し撮りで近くを回る(4)

袈裟懸けの松
日蓮上人が池上宗仲の館(池上本門寺)を訪れる前、千足池の畔で休息し傍らの松に袈裟をかけ池の水で足を洗ったと伝えられる。その伝説の『袈裟懸けの松』を見るべく、妙福寺(御松庵)の山門をくぐった。なかなか落ち着いた佇まいだ。
山門の辺り
山門の辺り_1
山門の辺り_2
山門の辺り_3
山門の辺り_4
境内は狭いながらも落ち着いた佇まい
境内は狭いながらも落ち着いた佇まい_1
境内は狭いながらも落ち着いた佇まい_2
境内は狭いながらも落ち着いた佇まい_3
境内は狭いながらも落ち着いた佇まい_4
境内は狭いながらも落ち着いた佇まい_5
子育て観音
子育て観音
馬頭観世音供養塔
馬頭観世音供養塔_1
『北 碑文谷・堀之内道』とある。この内、碑文谷は私が住んでいる近くである。ここには天台宗の名刹『円融寺』があるが、江戸幕府に睨まれるまでは、『法華寺』と呼ばれた有力な寺だった。これを指すのだろう。堀之内とは杉並の堀之内妙法寺のことを指すのではなかろうか。
馬頭観世音供養塔_2
袈裟懸けの松
袈裟懸けの松_1
真後ろには池とボートハウスとがある。お分かりいただけるだろうか。
袈裟懸けの松_2
袈裟懸けの松_3
袈裟懸けの松_4
袈裟懸けの松_5
袈裟懸けの松_6
袈裟懸けの松_7
袈裟懸けの松_8
堂宇
堂宇
こんなものもあった
こんなものもあった_1
こんなものもあった_2
祖師堂(旧七面大明神堂)
祖師堂(旧七面大明神堂)_1
祖師堂(旧七面大明神堂)_2
祖師堂(旧七面大明神堂)_3
祖師堂(旧七面大明神堂)_4
祖師堂(旧七面大明神堂)_5
祖師堂(旧七面大明神堂)_6

弘安5年9月(1282年)日蓮上人が身延山から常陸国(茨城県)に湯治に向かう途中、日蓮に帰依していた池上宗仲の館(池上本門寺)を訪れる前、千足池の畔で休息し傍らの松に袈裟をかけ池の水で足を洗ったと伝えられる、この言い伝えから、この松を袈裟掛けの松と称することになり、また千足池を洗足池とも称されるようになったといわれる。
天保期(1830~1843年)の「嘉陵紀行」によれば、初代の袈裟掛けの松は「枝4面におおい長さ幹囲み合がかり、高さ5丈あり」あったと記されている。
なお現在ある松は3代目であると伝えられる。

 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
当寺は千束池の池畔にある御松庵に、浅草永住町(台東区元浅草)にあった妙福寺が移ってきて合併した寺である。
御松庵は日蓮に関する伝説がもとになって成立した草庵で、日蓮が弘安5年(1282)に身延山(山梨県)から常陸国の温泉に向う途中、日蓮に帰依していた池上宗仲の館に立寄るため、千束の池にさしかかったとき、池のほとりで休息をし、かたわらの老松に法衣をかけて、池の水で手足を洗った。このとき水中から七面天女が出現した。身延七面山頂の湖水にいて、日蓮が身延在山中守護していたが、日蓮が旅立ちをしたのでこれについて道中守護をしてきた旨を告げ、日蓮の読経を受けて消え失せた。その後、このことを記念して、土地の人達が、堂宇を立てて七面天女を安置したのが、御松庵のはじまりであるという。法衣をかけた袈裟掛の松を護る護松堂が建てられ、この堂名から御松庵と呼ばれるようになった。
また日蓮が足を洗ったので、この池を洗足池と呼ぶようになったといわれている。

 

試し撮りで近くを回る(3)

洗足池(3)
水生植物園付近
こちらにもハンゲショウやミソハギが
こちらにもハンゲショウやミソハギが_1
この時はマニュアルでピントを合わせる方法を知らなかった。そういうスイッチが有るのだと思い込んでいたが。ソフト的に制御するのか。う~~ん。
こちらにもハンゲショウやミソハギが_2
こちらにもハンゲショウやミソハギが_3
こちらにもハンゲショウやミソハギが_4
アサザかな?
何故花が咲かないのだろうか?
アサザかな?
ヤブカンゾウかな?
ヤブカンゾウかな?
こんなふうになっている
こんなふうになっている_1
こんなふうになっている_2
マガモかな?
マガモかな?_1
マガモかな?_2
トンボも居たけど
動きが早くてホールドできず。何のトンボか不明。
トンボも居たけど_1
トンボも居たけど_2
トンボも居たけど_3
トンボも居たけど_4
トンボも居たけど_5
トンボも居たけど_6
西郷隆盛の墓
西郷隆盛留魂祠
西郷隆盛留魂祠
あまりに達筆すぎるのと、石碑の材質が見難くしているのとで、解読する気が失せた。私の力では、どう足掻いても部分的にしか読めないと思う。
明治12年(1879年)、戦死した西郷隆盛(1827年から1877年)を悼み、勝海舟が私費で建てた碑です。大正2年(1913年)に現在地に移設されました。
留魂碑_1
留魂碑_2
徳富蘇峰の詩碑
錦旆(きんぱい)とは、錦の御旗のことをいうそうだ。徳富蘇峰は西郷隆盛並びに勝海舟の指導力を高く評価していたようだ。碑文は以下のとおりだと思う。『浅学』だとする人もおられたが、私は『後学』だと思う。
堂々錦旆壓関東 百万死生談笑中 群小不知天下計 千秋相對両英雄
火國後學 蘇峯菅原正敬

徳富蘇峰の詩碑

『江戸無血開城と「西郷、勝会見之地」碑』記事のページヘjump

勝海舟の墓
夫妻の墓とされているが、実はここには既に遺骨はないそうだ。勝手気ままを通し過ぎて、遂には夫人に愛想を尽かされたのだろうか。
勝海舟の墓
かつては、池のほとりに勝海舟晩年の邸宅「千束軒」があったが戦災で焼失。現在は勝夫妻の墓が残り、大田区の文化財に指定されている。幕末、勝は江戸総攻撃中止と江戸城無血開城を西郷隆盛に直談判するため、官軍の薩摩勢が本陣をおいた池上本門寺へ向かう途中、洗足池のほとりで休息した。明治維新後、池の風光明媚を愛した勝が移住し、西郷もここを訪ねて勝と歓談したと言う。勝夫妻の墓の隣に「西郷隆盛留魂碑」が建つ。これは、西郷が西南役に倒れた後、当時の東京府南葛飾郡の浄光院境内に勝が自費で建てたもの。1913年(大正2年)に荒川放水路開鑿に伴い、当地に移建された。
近くに咲いていた花
盛りを過ぎたものが多かった。残念。
近くに咲いていた花_1
近くに咲いていた花_2
近くに咲いていた花_3
近くに咲いていた花_4

 

試し撮りで近くを回る(2)

洗足池(2)
水際まで下りてみる
水際まで下りてみる_1
水際まで下りてみる_2
水際まで下りてみる_3
水際まで下りてみる_4
水際まで下りてみる_5
蒲の穂があった
蒲の穂があった_2
蒲の穂があった_3
こちらはフトイ(太藺)かな
こちらはフトイ(太藺)かな
ミソハギも
ミソハギも
ハンゲショウ(半夏生)も
半分ほど白粉を塗りたくったというよりも厚化粧気味のものが多かったが。とにかくイヤになるほど群生している。真ん中の流れが清水窪湧水からの流れ。
ハンゲショウ(半夏生)も_1
ハンゲショウ(半夏生)も_2
ハンゲショウ(半夏生)も_3
ハンゲショウ(半夏生)も_4
鯉は気持ち良さ気かな
清水窪湧水からの流れは、ものすごくきれいなはずなのだが、この日は泡が目立った。気温が高めで降雨が少ないことで、少し異常状態にあるのだろうか。
鯉は気持ち良さ気かな_1
鯉は気持ち良さ気かな_2
池月橋
池月橋
ボートハウスとボート乗り場
あの近くに袈裟懸けの松がある
ボートハウスとボート乗り場
弁財天社
弁天島にある。この辺りから撮ると、意外にきれいな社にみえる。
以前はこの島の木陰でゴイサギが獲物を狙っていたのだが、…。今回はそんな嬉しい出来事はなかった。

水辺を歩いただけで鯉たちが餌を期待して
水辺を歩いただけで鯉たちが餌を期待して_1
水辺を歩いただけで鯉たちが餌を期待して_2
出遅れては大変と、こちらも急行してきたのかな
出遅れては大変と_1
出遅れては大変と_2

 

試し撮りで近くを回る(1)

諸事情があり、かなりお買い得状態になっていたα6000のダブルズームレンズキットを買い増した。これでまた中級機がラインナップに加わったが、依然として高級機や高級レンズは無いまま。愚痴を言っても始まらない。
何とか使えるようにして、相馬野馬追の時に持参したい。そのための試し撮りを行った。少し長いレンズがないのが私の場合の弱点かなあ。


洗足池(1)
日蓮上人が病気療養のため、房総を目指す途中、この池で足を洗い暫しの休息をとったという池。大変景観が良いことでも知られ、浮世絵などにも描かれている。
以下3点はfree画像を借用
浮世絵_1
浮世絵_2
浮世絵_3
池月橋付近からの眺め
冬には、かなりの渡りのカモさんがいるのだが、この時期はいるわけがない。留鳥のカモさんがわずかにいる程度。カワセミさんも時間帯が良くなかったのか見られず。
池月橋付近からの眺め_1
池月橋付近からの眺め_2
池月橋付近からの眺め_3
池月橋付近からの眺め_4
池月橋付近からの眺め_5
池月橋付近からの眺め_6
池月橋付近からの眺め_7
池月橋付近からの眺め_8
池月橋付近からの眺め_9
池月橋付近からの眺め_10
池月橋付近からの眺め_11
池月橋付近からの眺め_12
池月橋付近からの眺め_13
池月橋付近からの眺め_14
千束八幡神社
ちゃっちい神社と侮る事なかれ。こうみえても、源氏との浅からぬ縁がある。源氏の運気が一挙に上昇した源氏にとっては有り難い神社なのだ。
洗足池の畔、小高い岡の上に鎮座する。貞観2年(860)宇佐八幡を勧請したことに始まると伝えられる。
平将門の乱に際し、鎮守府副将軍として下向した藤原忠方は、乱を平定した後、この地に土着し、洗足池の畔に館を構えて当社を氏神とした。その子孫が、日蓮聖人を身延より迎えた池上氏である。
奥羽平定に向かった八幡太郎義家は洗足池で禊ぎを修し、戦勝を祈願したと伝えられる。
また、源頼朝は安房より鎌倉へ向かう途中、源氏の氏神である八幡宮が祀られていることを喜び、この地に陣を構えて諸将の参陣を待った。この時、後に宇治川の合戦で佐々木高綱が先陣の功を挙げた名馬・池月〔いけづき〕を得たという。
これを見た将兵は、平家討伐成就の吉兆として大いに意気が上がり、旗を掲げて歓声を上げた。これに因んで別名「旗挙げ八幡」と呼ばれるようになったと伝えられる。

千束八幡神社_1
千束八幡神社_2
千束八幡神社_3
千束八幡神社_4
千束八幡神社_5
千束八幡神社_6
千束八幡神社_7
千束八幡神社_8
千束八幡神社_9

 

代官屋敷~豪徳寺~松陰神社~目青不動~駒沢給水塔(6)

目青不動
世田谷線三軒茶屋駅のすぐそばに、江戸五色不動の一つとされた目青不動がある。存在は知っていたが、世田谷線の車内から確認できたので、帰途に立ち寄った。
白は黒に倣って作られ、赤青黄はあることはあったというくらいの存在のようにみえる。

目青不動_1
目青不動_2
目青不動_3
目青不動_4
『閻王殿』ということは、お閻魔さまのお堂なのかな。そして、『元三大師』を祀ってあるのか。『師』の字が隠れてしまっていて、一瞬、大三元かと思ってしまった。(^_^;)
目青不動_5
ちらと見えているのは本尊の不動明王像ではなく、前立の青銅製不動明王像だろうか。
目青不動_6
最勝寺は東京都世田谷区太子堂にある天台宗の寺院。寛永寺の末寺の一つである。通称「教学院」、正式名称は「竹園山最勝寺教学院」。「目青不動」の通称でも知られる。
札所本尊は、明治15年(1882年)に廃寺とされた観行寺(正善寺とも)の本尊であった不動明王像。伝承では円仁(慈覚大師)の作という。江戸五色不動の1つの目青不動である。秘仏であり公開されていない。前立ちの青銅製不動明王像は寛永19年(1642年)の作である。

東急世田谷線
目青不動を通る東急世田谷線
三軒茶屋駅の直ぐそばだ
東急世田谷線_1
ついでなので、他の色の車体も
結構、カラフルだ
東急世田谷線_2
東急世田谷線_3
東急世田谷線_4
東急世田谷線_5
車内の様子なども
安くてお得。市民の足なんだろう。
東急世田谷線_6
東急世田谷線_7
東急世田谷線_8
東急世田谷線_4
三軒茶屋のランドマークキャロットタワー
三軒茶屋のランドマークキャロットタワー
三軒茶屋駅前にあった映画館
解体工事に入っていたので、もう既にこのような外観は残っていないかもしれない。時代を感じさせる建物だ。表記が右から始まるものだから、相当に古いものなんだろう。
三軒茶屋駅前にあった映画館

田園都市線に乗り換え、隣の駒沢大学駅で下車。桜新町駅方向に歩き、駒沢給水塔を目指す。これが大失敗。桜新町駅から往復したほうがはるかに距離が短くて済むし、道もわかりやすい。
世田谷区は、本当に道がわかりにくく、今回も相当回数、道を間違えてしまった。


駒沢給水塔
最初は居間の渋谷区の一部(当時の渋谷町)に給水するための施設だったのか。渋谷町が大きく発展することを見越しての建設だったのだろう。先見の明があったというべきかもしれない。
障害物が多くて、遂には敷地の外周を一周し、迷子にまでなってしまった。

駒沢給水塔_1
駒沢給水塔_2
駒沢給水塔_3
駒沢給水塔_4
駒沢給水塔_5
仕方がないので以下2点は、free画像を借用
駒沢給水塔_6
駒沢給水塔_6
駒沢給水所は、東京都世田谷区弦巻にある東京都水道局の給水施設。旧渋谷町町営の給水所として使われていた。敷地内には、2002年12月に世田谷区の第一回地域風景資産に選定された駒沢給水塔がある。
独特の意匠と、街のシンボルとして地域住民に愛されていることが評価され、平成24年度の公益社団法人・土木学会の土木学会選奨土木遺産に選ばれた。時期は未定だが耐震性が確認された給水所は外観を変えずに補修し、傷みの激しいポンプ所や配管を更新して再び地域の給水拠点として整備する。世田谷区地域風景遺産にも認定されている。


詳しい解説があるHPへjump

以上で、『代官屋敷~豪徳寺~松陰神社~目青不動~駒沢給水塔』シリーズは、終了です。最後までご覧頂きありがとうございました。

 

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