散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

代官屋敷~豪徳寺~松陰神社~目青不動~駒沢給水塔(4)

豪徳寺(2)
豪徳寺赤門
この武家屋敷門はいいなあ。こういうのが私の好みだ。
井伊家の江戸屋敷の門と伝わり、現在は仏殿の裏に移築されていますが、以前は東門の位置にあり、中雀門と呼ばれていたそうです。
豪徳寺赤門_1
豪徳寺赤門_2
こちらは招福殿
超有名なスポットだ。ホコっとしてしまう。
招き猫発祥の地とする説がある。井伊直孝が猫により門内に招き入れられ、雷雨を避け、和尚の法談を聞くことができたことを大いに喜び、後に井伊家御菩提所としたという。
豪徳寺では「招福猫児(まねぎねこ)」と称し、招猫観音(招福観世音菩薩、招福猫児はその眷属)を祀る「招猫殿」を置く。招猫殿の横には、願が成就したお礼として、数多くの招福猫児が奉納されている。ちなみに、招福猫児は右手を上げており、小判などを持たない素朴な白い招き猫である。

招福殿_1
招福殿_2
招福殿_3
招福殿_4
招福殿_5
『如是畜生 慈善提心』と書かれてあるのかな
招福殿_6
招福殿_7
招福殿_8
招福殿_9
井伊家墓所
さすが譜代大名序列第1位の井伊家の墓所だけある。立派なものだ。
彦根藩主井伊家墓所は、清凉寺(滋賀県彦根市)・永源寺(東近江市)の墓所と共に国の史跡に指定されている。また、井伊直弼の墓は東京都指定史跡に指定されている。
井伊家墓所_1
井伊家墓所_2
井伊家墓所_3
井伊直弼の墓
墓石の文字が肉眼では読みにくかったので、写真を拡大して判読してみた。一字だけ自信がなく、検索したら皆同じ読み方。凄いなと思ったら、何の事はない。入口のところにあった東京都の説明に記載されていた。が、訂正した跡がある。やはり専門家でも判読は困難だったようである。
『宗観院殿伝正四位上前羽林中郎将柳暁覚翁大居士』と書かれてあるそうだ。実に長い。そのようにしなさいという遺言があったのだろうか。必然的に小さな文字の羅列になっている。私が読むことが出来なかった文字は、後半の『暁』の字。

井伊直弼の墓_1
井伊直弼の墓_2
井伊直弼の墓_3
これを拡大して一生懸命に読んでみた
井伊直弼の墓_4
井伊直弼の墓_5
山門前の参道松並木
頭を垂れているかのようだ
山門前の参道松並木_1
山門前の参道松並木_2

 

代官屋敷~豪徳寺~松陰神社~目青不動~駒沢給水塔(3)

代官屋敷をあとにして、1kmちょっとほど離れた豪徳寺に向かう。度々言及しているように、この辺りは彦根藩世田谷領の20カ村があった辺り。桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の墓もある。
豪徳寺(1)
豪徳寺境内詳細配置図
豪徳寺境内詳細配置図
碧雲閣の扁額のかかる山門
扁額に『碧雲閣』と書かれている理由は、まだ調べがついていない。m(_ _)m
碧雲閣の扁額のかかる山門_1
碧雲閣の扁額のかかる山門_2
碧雲閣の扁額のかかる山門_3
山門をくぐった辺り
山門をくぐった辺り
大きな香炉
大きな香炉
仏殿
井伊直孝の娘の掃雲院が父の菩提を弔うため、延宝5年(1677年)に建立したものだそうだ。仏殿内部は非公開。仏殿には木像5躯が祀られているそうだ。
仏殿にはいくつかの扁額が掲げられていた。こちらは『三世佛』と書かれてあるのだろうか。
三世仏は、過去・現在・未来の三世に対応した仏・如来を指す。阿弥陀仏・釈迦仏・弥勒仏を、それぞれ過去・現在・未来の三世に対応させるのか。仏殿内部には木像が5躯あるということだが、この三世仏がメインのようだ。

仏殿_1
こちらは『選仏場』と書かれてある
仏殿_2
仏殿_3
仏殿_5
世田谷区指定有形文化財(建造物)
平成2年2月15日指定
所在地 豪徳寺2-24-7 内部非公開
江戸時代
桁行5間(17.7m)、梁間6間(15.8m)、一重裳階付、入母屋造、瓦棒銅板葺
附 棟札 延宝5年、石灯篭
この仏殿は豪徳寺伽藍の中心的な建物で、延宝5年(1677)に建立されました。仏殿を寄進した掃雲院が黄檗僧に帰依していた影響から、黄檗宗の建築様式が随所に見られます。また板状の絵様肘木は他の黄檗系寺院でもあまり例を見ない珍しいものです。

鐘楼
鐘楼
『受付』に位置づけられている建物
いわゆる庫裡なのだろう
『受付』に位置づけられている建物_1
『受付』に位置づけられている建物_2
井伊直弼の遺愛の茶屋であった『種月園』の門。種月園は非公開とのことだそうだ。非公開が多いなあ。
『受付』に位置づけられている建物_3
『受付』に位置づけられている建物_4
『受付』に位置づけられている建物_5
本堂
本堂_1
本堂_2
本堂_3
納骨堂
納骨堂_1
納骨堂_2
三重塔
平成18年(2006)5月に落慶法要を行った比較的新しい三重塔だとのこと。現代の仏師や宮大工の腕前も相当なものだ。平成の名建築と呼んでも差し支えない出来栄えのように見えた。
三重塔_0
三重塔_1
三重塔_2
三重塔_3
下から数えて一層目、二層目の中央部分に白く見えるのは招き猫の像。塔の一層目の蟇股には十二支が彫り込まれているようだが、中央には十二支には含まれないはずの猫が。内部にはたくさんの猫が祀られているようだ。拡大してみると二層目でも確認できた。三層目は角度的に難しく確認できず。
三重塔_4
豪徳寺三重塔落慶法要を取り上げたHPへjump

招き猫で知られる豪徳寺は大谿山(だいけいざん)と号する曹洞宗の古刹で、もとは世田谷吉良氏ゆかりの寺院で、弘徳院と称してました。江戸時代に世田谷領15ヶ村(のち20ヶ村)が彦根藩井伊家の領地になり、これを機に井伊家の菩提寺となりました。万治2年(1659)に井伊直孝が没すると、その法号「久昌院殿豪徳天英大居士」にちなんで寺名を豪徳寺と改めました。以後、江戸で亡くなった藩主や、その家族がここに葬られました。井伊直弼の墓があることでも有名です。彦根藩主井伊家墓所は国の史跡に指定されています。また、豪徳寺の仏殿、仏殿像、梵鐘は、世田谷区の指定文化財です。

 

代官屋敷~豪徳寺~松陰神社~目青不動~駒沢給水塔(2)

世田谷郷土資料館(2)
館内の展示(2)
内行花文七星鏡
内行花文鏡(ないこうかもんきょう)とは、後漢代の中国や、弥生時代から古墳時代にかけての日本で製造された銅鏡だそうだ。きれいなものだと思った。御岳山古墳からの出土のようだ。等々力の満願寺にあるものが東京都指定有形文化財と記載されているので、こちらはレプリカかな?…写真をよく見たらレプリカの表示が為されてあった。
東京都指定有形文化財(工芸品・考古資料) 
昭和38年10月29日指定
<寸 法> 直径14センチメートル 重量452グラム
<所 在> 世田谷区等々力3丁目15番1号
      満願寺(通常 非公開)
この七鈴鏡は、御岳山古墳(等々力1丁目)から出土した青銅製の鏡(内行花文鏡)で、周囲に7個の鈴がつけられています。
さて、鈴鏡は日本独特の形で、関東・中部地方を中心とした東日本に分布しています。都内では他に大田区で六鈴鏡の1例があるだけで、関東地方で上毛野(現在の群馬県)に発見例が多く、この地域との深いかかわりが想定されています。

内行花文七星鏡
その他の展示品
以下は手当たり次第に面白そうなものを撮った。質問されても答えられないのであしからず。
その他の展示品_1
その他の展示品_2
その他の展示品_3
その他の展示品_4
野毛大塚古墳の埴輪
普通円筒埴輪というものらしい
普通円筒埴輪_1
普通円筒埴輪_2
またも、その他の展示品
その他の展示品_5
その他の展示品_6
その他の展示品_7
その他の展示品_8
その他の展示品_9
その他の展示品_10
その他の展示品_11
その他の展示品_12
その他の展示品_13
その他の展示品_14
その他の展示品_15
ここからは、その他大勢の扱いだった
その他大勢_1
その他大勢_2
その他大勢_3
石皿と磨石(すりいし)
下の皿は石製だったのか
石皿と磨石_1
石皿と磨石_2
野毛大塚古墳第2主体部『石棺』
遂に出てきた石棺。これもレプリカか。
野毛大塚古墳第2主体部『石棺』_1
野毛大塚古墳第2主体部『石棺』_2
世田谷の板碑
大昔の石製の卒塔婆か
世田谷の板碑_1
世田谷の板碑_2

その他いろいろ展示品があった。興味のある向きは足を運んでみては如何だろうか。

 

代官屋敷~豪徳寺~松陰神社~目青不動~駒沢給水塔(1)

今回は不精してEOSに高倍率ズームを装着して撮り歩いてみた。画質はがっかりするほど良くなく、これは、カメラか、レンズか、腕前かの原因探しと相成った。やはり、負のスパイラルは良くない。
それでも、当初予定に入れていなかった豪徳寺が思った以上に良かったので、個人的にはそこで救われた感じになった。


世田谷代官屋敷
世田谷代官屋敷は、江戸時代中期以来、彦根藩世田谷領20カ村の代官を世襲した大場家の役宅。かなり広大な地域を大名領代官として、統治していたわけだ。下っ端役人とはいえ、大したものだ。
20カ村とは、世田ヶ谷村、太子堂村、馬引沢村、新町村、弦巻村、小山村、上野毛村、下野毛村、野良田村、瀬田村、用賀村、宇奈根村、鎌田村、岡本村、大蔵村、八幡山村、横根村、岩戸村、猪方村、和泉村である。上記のうち、岩戸村、猪方村、和泉村は、現在の狛江市に属し、他はすべて世田谷区に属す。
彦根藩井伊家が譜代筆頭の家柄であることから、江戸藩邸の所用に応じるために幕府から江戸の近くに領地を与えられたものだそうだ。
大名領の代官屋敷としては都内唯一の存在で、昭和27年11月3日、『都史跡』に指定された。また、昭和53年1月21日、大場家住宅主屋及び表門の二棟が、近世中期の代表的上層民家としての旧態を保存しているということで、住宅建造物としては都内で初めて国の『重要文化財』に指定された。

表門…国指定重要文化財
近世中期の代表的上層民家なのかなあ。普通の民家より少しマシくらいにしか見えない。代官そのものが、上層の武士とは言いがたいはずで、…。特に表門は、ペラペラの木材が使用され、今まで持ちこたえてきただけでも不思議なほどにしか見えなかった。
世田谷代官屋敷表門_1
世田谷代官屋敷表門_2
世田谷代官屋敷表門_3
世田谷代官屋敷表門_4
大場家住宅主屋…国指定重要文化財
こちらは薄暗い土間に入ることが出来るだけで、あちこち工事中で思うように近づくことが出来ない。はっきり言って、こんなものかあという程度にしか見えなかった。
この日のトップバッターの印象が良くない。先が思いやられた。

大場家住宅主屋_1
大場家住宅主屋_2
白州跡
白州跡
白州通用門
白州通用門
土蔵
土蔵_1
土蔵_2
土蔵_3
世田谷郷土資料館の代官屋敷関連展示品
ボロ市と代官見回り
ボロ市と代官見回
福禄寿図…大場景福筆
福禄寿図…大場景福筆

世田谷郷土資料館(1)
建物前に展示してあった石碑群
大山道関連のものがほとんどのようだ。大山阿夫利神社はそんなに信仰を集めていたのか。
>建物前に展示してあった石碑群
クローズアップしても大した変わらなかった。それでも奉献した年だけは辛うじてわかった。これは延享四年 (ひのとう 丁卯)かな。
クローズアップしても大した変わらなかった_1
これは享保十三年 (つちのえさる 戊申)かな
クローズアップしても大した変わらなかった_2
クローズアップしても大した変わらなかった_3
大きな道標
延享三丙寅年七月吉日
さがみ
大山道
世田谷上宿同行五十人
は辛うじて読むことが出来たが、左方向が大山阿夫利神社への道だというくらいしかわからない。

大きな道標_1
大きな道標_2

登戸道
本願主
石田十右衛門(最後の2字は心の目で)
右側面も辛うじて読むことが出来た

大きな道標_3
こちらは、お礼の石碑かな
登山三十三度大願…と書かれてあった。大山詣でもきちんと手数を踏まないと思いが叶うものではなかったようだ。
こちらは、お礼の石碑かな

館内の展示(1)
玉川上水木樋
へえ、江戸の街の飲料水がこんな木樋で運ばれていたのか。う~~ん。
上の鎖でつないで置いてある小さな木片の用途がわからない。

玉川上水木樋_1
玉川上水木樋_2
玉川上水木樋_3

興味のある方は、こちらを参照されたい

 

『京の夏の旅』キャンペーンでの大船鉾の登場(3)

『大船鉾』の組み立て(3)
同時並行的に準備作業が進む
前回と順序が後先になったが、持参したパーツの検品が続いていた。おじさんたちの作業服はえらく洒落ているぞ。
持参したパーツの検品が続いていた_1
持参したパーツの検品が続いていた_2
持参したパーツの検品が続いていた_3
持参したパーツの検品が続いていた_4
持参したパーツの検品が続いていた_5
持参したパーツの検品が続いていた_6
持参したパーツの検品が続いていた_7
持参したパーツの検品が続いていた_8
持参したパーツの検品が続いていた_9
持参したパーツの検品が続いていた_10
持参したパーツの検品が続いていた_11
持参したパーツの検品が続いていた_12
持参したパーツの検品が続いていた_13
持参したパーツの検品が続いていた_14
持参したパーツの検品が続いていた_15
持参したパーツの検品が続いていた_16
持参したパーツの検品が続いていた_17
持参したパーツの検品が続いていた_18
持参したパーツの検品が続いていた_19
持参したパーツの検品が続いていた_20
持参したパーツの検品が続いていた_21
持参したパーツの検品が続いていた_22
持参したパーツの検品が続いていた_23
持参したパーツの検品が続いていた_24
持参したパーツの検品が続いていた_25
明かりにも火が入れられた
明かりにも火が入れられた_1
明かりにも火が入れられた_2
明かりにも火が入れられた_3
ステージの準備も始まった
ステージの準備も始まった_1
ステージの準備も始まった_2

オープニングセレモニー
正しくはこれが17:00からの予定なのだろう。本来ならば、組み立てはこの時間までに終了するはずだったのかな。おりからの小雨が降り込む状況で、すべての飾り立てまでは間に合わない状況での開催となった。
オープニングセレモニーの開催のアナウンス
慌ただしい雰囲気の中で見切り発車状態だった。鉾車は右後方に置かれたまま。左側のブルーシートで覆われた部分で、舞妓さんの舞が行われるのだろう(その時はもう会場を後にしていた)。
オープニングセレモニーの開催のアナウンス
なおも必死に作業継続中。雨で作業が大幅に遅れたようだ。新聞に載った写真を見るともう少し飾り付けが進んだようだ。但し、鉾車はセットされないままだったようだ。
なおも必死に作業継続中_1
なおも必死に作業継続中_2
なおも必死に作業継続中_3
なおも必死に作業継続中_4
本当に傘が邪魔だ。少しくらいの雨など我慢してほしいところだ。
本当に傘が邪魔_1
本当に傘が邪魔_2
振る舞い酒は『聚楽第』だった。京都市長のお気に入りの銘柄とか。ちっちゃいカップだなあ。
振る舞い酒は『聚楽第』だった_1
振る舞い酒は『聚楽第』だった_2
振る舞い酒は『聚楽第』だった_3

参考
大船鉾懸装品
下記解説は、復興前に記述されたものだろう。
本懸装品は、御神体人形まわりの諸道具と鉾本体に掛けられた懸装品に大別できる。懸装品の質は高く、綴織(つづれおり)、紋織、刺繍などの技法を使った、前懸け(まえかけ)、後懸け(うしろかけ)、水引、舵などが残されている。
また鉾の舳先につけられた約2メートルの大金幣も残されている。これらは一部に改変跡などもみられるものの、ほとんどが作制当初の状態で保存されている点が評価できる。
また,御神体人形については、礒良(いそら)、住吉大明神、鹿島大明神の遺品はなく、神功皇后のみ残されている。なかでも御神面は古く、江戸時代以前の可能性を残す。
後祭の山鉾巡行の最後尾を飾った大船鉾の遺品としての資料価値は高く、貴重である。

大船鉾懸装品
後祭り巡行の時の様子
パンフレット写真をスキャンした。江戸時代の人たちのセンスもなかなかのものだったようだ。


幕末の騒乱で鉾本体を焼失以来、長らく山鉾巡行に参加できずにおりましたが、多くの皆様方より温かいご支援をいただくことができ、焼失より150年目にあたる平成26年7月、後祭り巡行への復帰を果たしました。ここに改めまして皆様方のご支援ご厚情に深く感謝申し上げます。
しかし、山鉾巡行への復帰は果たしたものの、大船鉾の復興事業は未だ途半ばにあります。
大船鉾本来の姿に戻すために、よりいっそうの努力をいたす所存です。
今後ともみなさま方のご支援をよろしくお願いいたします。
四条町大船鉾保存会

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大船鉾の歴史
大船鉾の始まりは、四条町では「祇園社記」の記事に基づき、嘉吉元年(1441年)の建立とされています。「康富記」の記述から、応永29年(1422年)にはすでに存在したという説もあります。いずれにしても応仁の乱以前からの古い歴史を持っています。その応仁の乱(1467年)には他の山鉾とともに焼失、23年後の明応9年(1500年)に再興したといわれています。しかし、その年の鬮順の記録には出ていないので、完全な復興は数年後かもしれません。その頃は人形だけを乗せた比較的簡素な「舟」でしたが、江戸時代に入り、次第に装飾が加えられ、囃子も加わって、「船鉾」と呼ばれるようになりました。
天明の大火(1788年)で神功皇后の御神面を残して焼失、文化元年(1804年)には以前にも増して豪華な鉾として再興されました。現在残る懸装品や金幣はこの後に整えられたものです。しかし、元治元年(1864年)の禁門の変により木部など多くを焼失、以後は休み鉾となります。
その後は御神体と懸装品を飾るだけの居祭りを行ってきましたが、平成7年(1995年)にはそれも休止、神事のみとなりました。しかし、平成9年(1997年)には宵山の囃子が復活、平成18年(2006年)には飾り席も復活し、いよいよ巡行に向けて鉾の復興を目指すことになりました。


以上で、『「京の夏の旅」キャンペーンでの大船鉾の登場』シリーズは終了です。最後までご覧頂きありがとうございました。

 

『京の夏の旅』キャンペーンでの大船鉾の登場(2)

『大船鉾』の組み立て(2)
船尾部分
ここにも竹のパネルの結わえ付けがなされた
船尾部分_1
船尾部分_2
船尾部分_3
船尾部分_4
船尾部分_5
船尾部分_6
船腹下部
吃水線辺りに波をかき分けた意匠の幕を張る
船腹下部_1
船腹下部_2
船腹下部_3
船腹下部_4
船腹下部_5
船腹下部_6
船腹下部_7
船腹下部_8
船腹下部_9
山鉾手前
ここでは、先程から持参したパーツの検品が行われていた。重要なパーツばかりなので、真剣にチェックしているように見えた。
山鉾手前_1
山鉾手前_2
続いて船腹の幕が張られる
普通に考えれば、船腹には横に板が嵌めこまれている。だから横縞のデザインを想起する。なのにこのデザインは何と縦縞だ。却って斬新な感じがした。
続いて船腹の幕が張られる_1
続いて船腹の幕が張られる_2
続いて船腹の幕が張られる_3
続いて船腹の幕が張られる_4
続いて船腹の幕が張られる_5
続いて船腹の幕が張られる_6
セレモニー開始時間
船腹の幕張の途中で17:00になり、客を中に入れはじめた。少し出遅れたが、下に降りる。初めて普通に見る高さからのご対面。当然だが、上からとは見え方が違う。
セレモニー開始時間_1
セレモニー開始時間_2
セレモニー開始時間_3
船の幅は案外狭い感じ
船の幅は案外狭い感じ

 

『京の夏の旅』キャンペーンでの大船鉾の登場(1)

今年で40回目を迎える『京の夏の旅』キャンペーン。それ故、ものすごく気合が入ったイベントが開催された。何と、復興したばかりの大船鉾が六本木ヒルズ・アリーナに登場した。その初日の様子をミニシリーズで取り上げる。

『大船鉾』の組み立て(1)
昨年、幕末の騒乱で鉾本体を焼失した不幸な事故から150年目に、後祭り巡行への復帰を果たした『大船鉾』。そのほっかほかの祇園祭の山鉾が六本木ヒルズのイベントに3日間お目見えした。
一番詳しい案内は、下記のもののようだった。私がいい加減に検索した案内では、金曜日は17:00からというものだった。
それならば、少し早めに行けば、組み立て工程を見ることができる。そう考えて出かけた。
まあ、ごちゃごちゃ書いても仕方がない。私の思惑は半分以上は外れた。が、ある程度は、組み立て工程を見ることができた。
取敢えず、写真を見ていただきたい。


骨格に船腹の感じを出す準備をしていた
15:44頃に到着したが、その時は、既に大船鉾の骨格は組み上がっていた。そこに竹のパネルを結わえ、更に幕で覆う。そんな工程をしていた。最初は骨格がむき出しだった。考えて見れば、ここまで組み立てあげるだけで相当な時間がかかってしまう。後で、前日から作業を行っていたらしいと聞いた。そうなのだろう。
骨格に船腹の感じを出す準備をしていた_1
骨格に船腹の感じを出す準備をしていた_2
船腹左側
竹のパネルの結わえ付けが始まっていた。縄絡みの様が非常に見事だ。職人技が光る。
船腹左側_1
船腹左側_2
真後ろから見た様子
真後ろから見た様子
船腹右側
まだ、骨格がよく見える。きれいな山鉾だ。昨年デビューしたての山鉾だから、木の香りがしそうなほどに新しい。これから隠すのがもったいないほどだ。よく見ると、船首部分には、竹パネルが結わえ付けられていた。
船腹右側_1
船腹右側_2
船腹右側_3
竹のパネルの結わえ付けが始まった
船腹右側_4
船腹右側_5
船腹右側_6
船腹右側_7
船腹右側_8
船腹右側_9
船腹右側_10
船腹右側_11
船腹右側_12
船腹右側_13
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船腹右側_15
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船腹右側_22
船腹右側_23
船腹右側_24
船腹右側_25

"ほんまもん"だけ3DAYS
六本木ヒルズアリーナ 6月19日(金)~6月21日(日)
今年で40回目を迎える「京の夏の旅」キャンペーン。この記念すべき年に東京で特別なイベントを開催!
祇園祭の「大船鉾」が六本木に出現!その場で組み立てます。
6/19(金)
17:00開場、大船鉾組立開始
6/20(土)
11:30大船鉾 お囃子演奏
15:15大船鉾 お囃子演奏
17:30大船鉾 お囃子演奏
6/21(日)
11:00大船鉾 お囃子演奏
12:15大船鉾 お囃子演奏
14:00大船鉾解体開始

 

次大夫堀公園民家園~岡本公園民家園~岡本静嘉堂文庫(10)

岡本静嘉堂文庫(2)
岩崎家の玉川廟に向かうべく、階段をあがる
結構キツイ。先程から岡本八幡神社の階段などを上ってきたので、少しばかり堪える。
岩崎家の玉川廟に向かうべく、階段をあがる_1
岩崎家の玉川廟に向かうべく、階段をあがる_2
階段を上がった先には立派な灯籠が一対
階段を上がった先には立派な灯籠が一対_1
階段を上がった先には立派な灯籠が一対_2
階段を上がった先には立派な灯籠が一対_3
そしてちょっとした広場が
そこで休むと里心がつくので、休まずに先に進む
そしてちょっとした広場が_1
そしてちょっとした広場が_2
そしてちょっとした広場が_3
小休止用に用意されたアイテムだろうか
そしてちょっとした広場が_4
そしてちょっとした広場が_5
そしてちょっとした広場が_6
暫く行くと、石碑があった
『男爵岩崎君墓碑』と書いてあるようだった。岩崎弥太郎の実弟である2代目社長彌之助(弥之助)に関わるもののようだ。彌之助は男爵止まりだったのか。う~~ん。
暫く行くと、石碑があった
そして、灯籠が
ここにも灯籠が一対。縁の人が建てたのだろう。
そして、灯籠が_1
そして、灯籠が_2
正面等からの様子
墓所に到着だ。日本近代建築の父であるジョサイア・コンドル氏の設計なのか。すごいものがあったものだ。
正面等からの様子_1
正面等からの様子_2
正面等からの様子_3
正面等からの様子_4
正面等からの様子_5
正面等からの様子_6
更に行くと美術館の前に出る
最初に書いたように大規模工事中で足止め中だった。その辺りの植え込みが何とも言えず、きれいな感じなのだが、近づかないことには、…。
更に行くと美術館の前に出る_1
更に行くと美術館の前に出る_2

静嘉堂文庫や美術館がある広場から南の林を抜けると岩崎家の玉川廟があります。この丘全体が岩崎家所有の土地だったので、まるで岩崎家の古墳というか、王家の丘ならず財閥の丘って感じですね。こういった事ができるのもさすがと言うべきなのでしょうが、この玉川廟も文庫同様に凝った造りをしています。建設は明治43年(1910年)で、文庫と同様に小弥太氏が父、弥之助氏の墓として建てたものです。こちらの設計は日本近代建築の父であるジョサイア・コンドル氏が行いました。J・コンドル氏とは鹿鳴館の設計者としてよく知られている人物で、岩崎家との結びつきも強く、茅町本邸(1896年、重要文化財)、深川邸洋館(1889年、現存せず)、高輪邸(1908年、現三菱開東閣)なども手がけています。そういった著名な建築家がお墓を設計したのでこんなに豪勢になってしまったのか、とにかく豪勢にしてくれというような要望があったのかは知りませんが、庶民との格の違いを感じてしまいます。ちなみにJ・コンドル氏は駿河台のニコライ堂も建築しているので、そういった視線から見るとどことなく共通点も見いだせるかもしれません。それとこの廟の横には枝垂れ桜があり、春にはピンクの美しいアクセントが加わり、廟の周りにはあじさいが植えられているので、梅雨の時期に彩り鮮やかな花で囲まれ、秋にはもみじが彩りを添えます。

二子玉川駅までの道
急ぐわけでもなく、きれいな住宅街が続くので、ミニバスには乗らず、歩いて帰ることにした。高級住宅街だ。『金妻』の街なんだ。
二子玉川駅までの道_1
二子玉川駅までの道_2
二子玉川駅までの道_3
二子玉川駅までの道_4
二子玉川駅までの道_5
二子玉川駅までの道_6

以上で、『次大夫堀公園民家園~岡本公園民家園~岡本静嘉堂文庫』シリーズは終了です。最後までご覧頂き大変有り難うございました。

 

次大夫堀公園民家園~岡本公園民家園~岡本静嘉堂文庫(9)

岡本公園民家園をあとにして、付近を歩く

岡本八幡神社
岡本公園民家園の旧横尾家住宅椀木門を出て、すぐのところにある鳥居をくぐり、長い石段を上る。そうすると見えてきた社屋。岡本八幡神社の創建年代は不詳らしいが、新編武蔵風土記稿には岡本村に記載されている神社がこの神社のみで、岡本村の開村当時からの鎮守社であったと考えられるとのこと。
鳥居の近くには、松任谷正隆・由実夫妻が寄付した灯籠があるとのことだが、全く気づかなかった。よく見ると、ちゃんと写っていた。

岡本八幡神社_1
岡本八幡神社_2
岡本八幡神社_3
岡本八幡神社_4
岡本八幡神社_5

岡本静嘉堂文庫(1)
岡本八幡神社から左斜め前方に降りる道がある。その辺りに岡本静嘉堂文庫の裏口があった。何やら大規模な修復工事中のようだが、入ってはいけないと書かれてはいなかったのでダメ元で入ってみた。
裏口から入ってみる
裏口から入ってみる_1
裏口から入ってみる_2
裏口から入ってみる_3
由緒ありそうな建物が見えてきた
これが静嘉堂文庫の建物だ。堂々たる佇まいだ。1924年築だそうだ。美術館の方は入館料を支払えば、だれでも入館可能なようだが、この文庫の方は、和漢の古典籍を保存し、永く後世に伝えることを使命として活動している専門図書館。そのため、利用には所定の手続きが必要となるそうだ。平たくいえば、一般の方はお断りとのこと。
多分、見てもちんぷんかんぷんの内容のようで、残念と思う気持ちも起きなかった。

由緒ありそうな建物が見えてきた_1
由緒ありそうな建物が見えてきた_2
由緒ありそうな建物が見えてきた_3
由緒ありそうな建物が見えてきた_4
由緒ありそうな建物が見えてきた_5
美術館は秋まで休館中
私でも入ることができるはずの美術館が向かって右側にあった。国宝、重文がズラリの展示内容なのだそうだが、工事中で秋まで休館中。残念。
文庫の関係者には工事中なので気をつけて回るようにとだけ言われた。この状態では、左側の道を下るしか選択肢はない。

美術館は秋まで休館中
長い長い下り坂を下る
反対だとつらいつらい上り坂だ。お金持ちの世界は大変なものだ。下り坂は浮世離れした気持ちのよい坂だった。
長い長い下り坂を下る_1
長い長い下り坂を下る_2
長い長い下り坂を下る_3
長い長い下り坂を下る_4
谷戸川を渡る
谷戸川を渡る_1
谷戸川を渡る_2
案内図を見る
どうも納骨堂に上っていけそうだとわかった。かなり長い坂を降ってきたが、目指すはこんもりした小山。ちょっと厳しそうだと覚悟しながら登ってみることにする。
案内図を見る
少しだけ入るとこんな表示が
国分寺崖線の説明だ。う~~ん、国分寺崖線では金蘭も観察できるのか。ここは薄暗くてダメなようだが。
国分寺崖線の説明だ
初っ端からこんな感じ
初っ端からこんな感じ
またも表示板が
生物の森は通常は立入禁止のようだ
生物の森は通常は立入禁止のようだ
いよいよ先に進む橋を渡ろうとするとカルガモがいた
岩の近くに1羽だけかと思ったのだが、岩などはなく、3羽がごく近くにいたようだ。国分寺崖線は湧水が豊富なようだ。その割には、等々力渓谷は寂しかったが。
橋を渡ろうとするとカルガモが_1
橋を渡ろうとするとカルガモが_2
橋を渡ろうとするとカルガモが_3

静嘉堂文庫(せいかどうぶんこ)は、東京都世田谷区岡本にある専門図書館及び美術館。日本および東洋の古典籍及び古美術品を収蔵する。三菱財閥の第2代総帥岩崎弥之助(号・静嘉堂)・第4代総帥岩崎小弥太父子の所有した庭園と遺品の古典籍・古美術コレクションを基礎として発足した財団法人静嘉堂の運営で、東京都世田谷区岡本の岡本静嘉堂緑地にある。
数多くの貴重な古典籍と古美術品を収蔵しており内外の古典籍を研究者向けに公開する私立の専門図書館であると同時に、併設する静嘉堂文庫美術館を通じて収蔵品を広く一般に公開する美術館活動を行っている。事業主体は、公益財団法人静嘉堂。


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次大夫堀公園民家園~岡本公園民家園~岡本静嘉堂文庫(8)

岡本公園民家園
2番目の目的地の岡本公園民家園を尋ねる。ここは、敷地の広さが十分ではなく、割とすぐ見終えてしまう感じだった。最初につくった世田谷区立の民家園だったので、力の入れ具合がよくわからなかったのだろうか。
昭和55年12月に開園した岡本公園民家園は区の有形文化財第1号に指定され、旧長崎家主屋と土蔵1棟、椀木門を復元し、江戸後期の典型的な農家の家屋を再現しています。昭和63年11月に開園した次大夫堀公園民家園同様、生きている古民家」をテーマに、囲炉裏には毎日火が焚かれ、家の中や軒下には民具が置かれています。
岡本公園民家園入口
岡本公園民家園入口
旧長崎家住宅
世田谷区指定有形文化財第1号の旧長崎家住宅か。昭和52年8月9日指定というから、そんなに古い指定ではない。区指定有形文化財制度がそんなに歴史のある制度ではないのかもしれない。建物は堂々たる風格のものだったが。
旧長崎家住宅_1
旧長崎家住宅_2
旧長崎家住宅_3
旧長崎家住宅_4
草鞋を掛けてある機械は筵編み装置だろうか。調べてみたら、ビンゴ。莚機(むしろばた)と呼ぶものらしい。
気になって写真を拡大してみたら、『筵織機』という表示が為されていた。草鞋も『足半』とか『馬用』とか色々あったようだ。更にぶら下げてあるものには『鳶口』やら『肥掻き』やら。『肥掻き』は余り見たくもないシロモノだ。

旧長崎家住宅_5
旧長崎家住宅_6
旧長崎家住宅_7
旧長崎家住宅_8
居間の端に据えられた流し。『すわり流し』というものだったと記憶している。土間で『立ちっぱなしの流しよりは楽かもしれないが、板の間への正座も案外きついかも。そして、窓は『無双窓』というのだった。こちらは覚えていなかったので、川崎市立日本民家園の伊藤家住宅の記述を参照した。向こうは国指定の重要文化財だぞ。世田谷区も、ほぼ同年代の住宅で、保存程度も同じようなものだ。負けてはいられないのでは。
旧長崎家住宅_9
神棚は附指定のようだ。附指定するほど、なにか特別なものがあるのかなあ。
旧長崎家住宅_10
仏壇の隣は床の間の前身である押板かなあ。う~~ん、ますますよく見えてきたぞ。
旧長崎家住宅_11
旧長崎家住宅_12
旧長崎家住宅_13
『糸枠』という札が掛けられていた。こんな大きな糸枠があったんだ。何に使ったのだろう?
旧長崎家住宅_14
旧長崎家住宅_15
旧長崎家住宅_16
旧長崎家住宅_17
旧長崎家住宅_18
旧長崎家住宅_19
旧長崎家住宅 (きゅうながさきけじゅうたく)
世田谷区指定有形文化財(建造物)
昭和52年8月9日指定
江戸時代
桁行6.5間(11.8m)、梁間4間(7.2m)、寄棟造、茅葺
附 神棚、縁台 文久3年、沓脱ぎ石
区指定有形文化財第1号の旧長崎家住宅は、瀬田にあった長崎家屋敷の主屋を移築したものです。
創建は18世紀末頃と考えられています。当初の間取りは広間型であったと推測され、その後、19世紀初期頃に喰違い四ッ間型に改修されました。

旧浦野家土蔵
土蔵内部は、調査中とかで立入りが禁じられていた。仕方がない。
旧浦野家土蔵_1
旧浦野家土蔵_2
旧浦野家土蔵_3
旧浦野家土蔵_4
軒下に田舟が置いてあった。何に使ったのだろうか。蓴菜沼でもあれば別なのだが。田んぼの脇の水路に浮かべて、苗や稲、農具などを運搬する舟だったそうだ。なるほどねえ。
旧浦野家土蔵_5
旧浦野家土蔵 (きゅううらのけどぞう)
世田谷区指定有形民俗文化財
昭和56年4月22日指定
江戸時代
桁行3間(5.4m)、梁間2.5間(4.5m)、土蔵造、切妻造、瓦葺
この土蔵は、喜多見にある浦野家の屋敷に建っていた外倉でした。浦野家では、嘉永~安政年間(1848~58)頃、菜種油や木炭などを販売していました。商売をはじめたこの頃に土蔵を建てたと伝えられています。
外倉は明治初年頃まで店としてつかい、その後は小作米を収納する穀倉にし、戦時中は軍用物資の倉庫になったといわれています。戦後はアパ-トとしても使われたことがありました。このように生業や社会の変化に伴って使い続けられたことから、区指定有形民俗文化財第1号に指定されました。

旧横尾家住宅椀木(うでぎ)門
大正13年に建てられたものとのこと。この頃のものだと、民家園の雰囲気に辛うじて馴染む感じかなあ。
旧横尾家住宅椀木(うでぎ)門_1
旧横尾家住宅椀木(うでぎ)門_2
岡本公園手前の堀
水草は、アサザかな?それともコウホネかな?国分寺崖線の湧水が水源になっているのか、気持ちよさそうに鯉が泳いでいるし、花も咲いていた。
岡本公園手前の堀_1
岡本公園手前の堀_2
岡本公園手前の堀_3
岡本公園手前の堀_4
岡本公園手前の堀_5
岡本公園手前の堀_6

 

次大夫堀公園民家園~岡本公園民家園~岡本静嘉堂文庫(7)

岡本公園民家園を取り上げる前に、次太夫堀用水の関連で下流の様子を少しだけ取り上げる。二ヶ領用水と呼ばれる用水路である。
歩き始めから雨が降っていたが、途中から雨脚がかなり強くなってきたので、今回は二ヶ領用水を遡り、二ヶ領用水久地円筒分水まで行き、そこから折り返すこととした。


溝の口駅から二ヶ領用水に出るまでの様子
大山街道と栄橋の親柱石
今回は大山街道は通らなかったが、田園都市線と並行して大山街道があった。江戸赤坂御門から大山阿夫利神社まで続く街道。今回は、主題と逸れるので予定にいれていなかったが、意外に良さそうなところに見えた。回ることができなくて残念。
栄橋の親柱石は興味のある方は、ご自身で検索されたい。いくつか説明がされている。

大山街道と栄橋の親柱石_1
大山街道と栄橋の親柱石_2
大山街道と栄橋の親柱石_3
大山街道と栄橋の親柱石_4
宗隆寺
どこかで聞いたことがある寺だと考えていたが、池上本門寺の御会式に必ず大きな講を仕立てて参加する日蓮宗の名刹だったのか。溝の口にあったんだ。
宗隆寺_1
宗隆寺_2
宗隆寺_3
宗隆寺_4
宗隆寺_5
溝口神社
神社というとひっそり閑としているところが殆どだと思うが、ここはそうでもなかった。ご利益があるということで賑わっているのだろうか。
溝口神社_1
溝口神社_2
溝口神社_3
溝口神社_4
拝殿ばかりでなく、幣殿や本殿まではっきり見えるのは珍しいかな。
溝口神社_5
二ヶ領用水
上流に行けば、分水前の状態を見ることができる。この流れは、二ヶ領用水の内の川崎堀。分水後の水量で、相応の水量だった。というか、常時分水をしているわけではなさそうで、それなりの水量に収まっているようだ。水面からもわかると思うが、傘なしで歩くにはちょいと厳しい雨量だった。
二ヶ領用水_1
二ヶ領用水_2
二ヶ領用水_3
二ヶ領用水_4
二ヶ領用水_5
二ヶ領用水_6
二ヶ領用水久地円筒分水
雨に濡れながらかなり歩いて、漸く二ヶ領用水久地円筒分水に着いた。
写真のような土木構築物である。水を導水管から中央の円筒に出し、そこから、その外側の円筒にこぼれさせる。そこから、それぞれの堀に分水させる。
水平に保たれた円周が約50.266mであり、それを4本の堀それぞれの灌漑面積に合わせた比率の長さで川崎堀38.471m、六ヶ村堀2.702m、久地堀1.675m、根方堀7.415mで区切り、そこから溢れ出させる設計なのだろう。
なるほどねえ。凄いものをつくったものだ。
この日は取水してはいないようだった。毎日分水させるわけではないのだろうか。

二ヶ領用水久地円筒分水_1
二ヶ領用水久地円筒分水_2
二ヶ領用水久地円筒分水_3
二ヶ領用水久地円筒分水_4
二ヶ領用水久地円筒分水_5
これ以前は『二ヶ領用水久地分量樋』があった。不正確で、揉めたシロモノだったようだ。
これ以前は『二ヶ領用水久地分量樋』があった
4本の堀それぞれの灌漑面積に合わせた比率の長さで区切ってあるのがお分かりいただけるだろうか。
二ヶ領用水久地円筒分水_6
二ヶ領用水久地円筒分水_7
二ヶ領用水久地円筒分水_8
二ヶ領用水久地円筒分水_9
反対側
二ヶ領用水の上流と平瀬川との合流地点になる。そこから先は新平瀬川となる。
久地円筒分水への取水は、二ヶ領用水から行っている。平瀬川の水は一滴たりとも分水には使用されていないことになる。
肥大側から流れてくるのが平瀬川。奥から流れてくるのが二ヶ領用水。この二ヶ領用水を取水して、導水管をくぐらせて、背後にある円筒分水に注がせる。

反対側_1
反対側_2
新平瀬川は二ヶ領用水の余り水をももらい、すごい水量だ。
反対側_3

二ヶ領用水久地円筒分水
建築年代
昭和16年(1941)
規模
幅16.0m
構造形式
鉄筋コンクリート造
所有者
川崎市建設局
所在地
高津区久地341
指定
国登録有形文化財 平成10年6月9日登録
解説
二ヶ領用水の名は、江戸時代の川崎領と稲毛領にまたがって流れていたことに由来しており、現在の川崎市のほぼ全域を流れる神奈川県下で最も古い人工用水の一つである。慶長2年(1597)、徳川家康より治水と新田開発の命を受けた、当時の代官小泉次太夫は、約14年の歳月をかけて二ヶ領用水を完成させた。当時の記録によれば、二ヶ領用水は流域の60ヶ村、2007町4反9畝4歩の水田を潤し、米の収獲量は飛躍的に伸びたと伝えられている。
二ヶ領用水は久地の地に設置された分量樋で、久地二子堀、六ヶ村堀、川崎堀、根方堀の4本の堀に分水されていた。分量樋とは、堰から溢れ出る流れを木製の門扉により分水する施設で、水路の入口の幅、下流での広がり幅等を規定し、4本の堀の灌漑面積に比例した水量比率を保とうとするものであった。
しかし、水路の水流には独特の物理的性質があり、上流からの流量が変わり、水路の水位が変化することにより、各分水の水路幅を固定していても、分水される流量の比率が違ってくる。構造上、実際には正確な分水は難しかった。また、流域の水田の拡大とともに、日照り時等、水不足が深刻となり、水騒動が頻発するようになった。自分の地域の用水量を増やそうと、分量樋の樋口を堰きとめるなどの妨害を行う農民も現れ、文政4年(1821)に起きた「溝口騒動」をはじめ、用水をめぐる争いが絶えなかった。
近代に入り、より正確な分水管理の可能な分水装置が求められ、その一つとして、大正年間より農業用水の正確な分水管理ができる「円筒分水」は造られていた。ただ、この分水装置には高低差が必要で、当初は上流に溜池がある所に造られていたが、昭和9年(1934)、水路の途中に円筒分水を設置したものが福島県や長野県で造られた。長野県の場合、川崎市の円筒分水のように円周の比率で分水するのではなく、装置の中央に吹き上げられ放射状に広がった水が直接分水されるので、流れに偏りが生ずる等、若干の欠点もあった。
昭和16年(1941)、かつての久地分量樋のやや下流に円筒分水が造られた。二ヶ領用水の水は、多摩川の支流、平瀬川の下を2本のコンクリート管で潜り、円筒分水の中央の円筒から噴き上がってくる。その外側の直径8mの円筒は、噴き上がって波立った水面の乱れを抑える整水壁の役割をしている。さらにその外側にある直径16m円筒の円周を4本の堀それぞれの灌漑面積に合わせた比率の長さ(川崎堀38.471m、六ヶ村堀2.702m、久地堀1.675m、根方堀7.415m)により仕切って越流落下させることにより、流量が変化しても、各堀に一定の比率で分水されるようになった。当時としては、最も理想的かつ正確な自然分水装置の一つであり、その技術は、戦後に円筒分水を視察に訪れたGHQの農業土木技師により、アメリカにも紹介されたといわれている。
この久地円筒分水を設計したのは、当時の神奈川県多摩川右岸農業水利改良事務所長であった平賀栄治(1892~1982)である。平賀は、円筒分水の設計・建設と同時に、多摩川の支流で、大雨になると二ヶ領用水に流れ込んで洪水を引き起こしていた平瀬川の改修にも取り組んだ。平瀬川が多摩川へ流れるように流路を変更し、平瀬川と二ヶ領用水がぶつかる地点で、二ヶ領用水の水を平瀬川の下に潜らせ、上流から流下した用水が噴水のように噴き上げるのを利用したのが円筒分水である。平賀は、円筒分水のほか、二ヶ領用水の2ヶ所の取水口のある、多摩川の上河原、宿河原の2つの堰堤の設計・建設を行うなど、多摩川の治水に尽力した。
こうして完成した二ヶ領用水久地円筒分水は、都市化の進んだ現在では農業用水としての役割をほぼ終えたが、その後各地で造られた円筒分水の初期の例として、貴重である。

 

次大夫堀公園民家園~岡本公園民家園~岡本静嘉堂文庫(6)

次大夫堀公園民家園(6)
旧加藤家住宅主屋
喜多見にあった加藤家の屋敷から移築した主屋だそうだ。ということは、この近辺の純然たる農家だったようだ。喜多見でも養蚕などが行われていたんだ。しかし、本当にお蚕さんを見た時は驚いた。もこもこ動いていた。子供の頃に見たきりだったので、60年ぶりくらいかな。

あれまあ、麦だ
別棟の小屋の軒には収穫したばかりの麦が干されていた。頃はまさしく麦秋だ。栽培中の蕎麦はそば打ち教室で使われるようだが、こちらは?
あれまあ、麦だ
主屋外観
むちゃくちゃ大きな家屋というわけではない。昔の養蚕農家としては標準的な大きさだったのでは。
主屋外観
屋内の様子
屋内の様子_1
屋内の様子_2
屋内の様子_3
あの石臼は何を碾いていたのだろうか。酒屋兼業の家でも見かけたが。
屋内の様子_4
屋内の様子_5
屋内の様子_6
養蚕をしていた。次大夫堀公園民家園も岡本公園民家園も体験教室が盛んに行われているようだ。その面では充実している感じ。
養蚕をしていた_1
養蚕をしていた_2
養蚕をしていた_3
養蚕をしていた_4
もうまもなくお蚕さんはお役御免の時期かな。可愛そうだけど、仕方がないことだろう。それにしても幼虫の時にはあんなに大きかったのに、蛹になると小さくなるものだ。ダウンサイジングもいいところだ。
養蚕をしていた_5
その他
藍染めのグループもいた。前に見たもろみをも使うのだろうか。
藍染めのグループ
そばも栽培されていた。そば打ちのグループも存在するとのことだ。
そばも栽培されていた_1
そばも栽培されていた_2
唐箕が置かれていた。ひょっとして、これも現役選手?
唐箕が置かれていた
ちょっと壊れた焙炉もあった。お茶をも作っていたのだろうか。
ちょっと壊れた焙炉もあった

世田谷区指定有形文化財(建造物)
昭和56年5月20日指定
江戸時代
桁行7間(12.7m)、梁間4.5間(8.0m)、寄棟造、茅葺
物置付、間口1.5間(2.7m)、奥行4間(7.2m)
喜多見にあった加藤家の屋敷から移築した主屋は、江戸時代末の安政2年(1855)以前に建てられたと推定されています。間取りは整形四ッ間型といい、俗に田の字型とも呼ばれる形式で、関東地方では江戸時代後期の農家に一般的に見られた間取りです。
加藤家では明治期に養蚕を盛んに行なっていたので、主屋にはスノコ天井や煙出し櫓など、養蚕のための様々な工夫が見られるのも特徴の一つです。
村内の一般的な農家の屋敷として復元されています。


次大夫堀公園の様子
素人が手で植えたようだ。今どきは機械で植えたほうが整然と植えられるのかなあ。
次大夫堀公園の様子_1
次大夫堀公園の様子_2
次大夫堀公園の様子_3
次大夫堀公園の様子_4
次大夫堀公園の様子_5

次回は、岡本公園民家園を取り上げる前に、次太夫堀の下流にあたる二ヶ領用水の一部を取り上げてみたい。

 

次大夫堀公園民家園~岡本公園民家園~岡本静嘉堂文庫(5)

次大夫堀公園民家園(5)
旧安藤家住宅(2)
前回に引き続き、旧大蔵村名主だった安藤家の様子を見ていく。見れば見るほど立派な家屋だったようだ。
内倉
内倉は旧安藤家のもので附指定になっている。門の横にある外倉とは別物。
内倉_1
内倉_2
内倉_3
主屋と内倉との関係がわかる。主屋が出火しても内倉は延焼を避けるためのものだから、当然こういう感じになるのだろう。
主屋と内倉との関係がわかる
土間
相当に広い。この家には竈が一体いくつあったのだろうか。
土間_1
土間_2
土間_3
土間_4
土間_5
土間_6
土間_7
土間_8
土間_9
此処も広い間
此処では、機織り体験や教室が開かれるようで、その準備をしていたようだ。迷惑になりそうなので、遠慮した。
此処も広い間
もう一度外側から眺める_1
もう一度外側から眺める_2
もう一度外側から眺める
餅搗きの装置
これは凄い。頑丈な石の臼があった。それをテコの原理で足踏みして搗いたのだろう。私でも挫けずに餅搗きに励むことができそうだ。しかし、こんな仕掛けを用意しなくてはいけないほど、大量の餅を搗いたのだろうか。
餅搗きの装置
庭には家屋のカットモデルが
庭には家屋のカットモデルが_1
庭には家屋のカットモデルが_2
こんなものもあった
こんなものもあった

旧秋山家住宅土蔵
これは旧安藤家住宅とは何の関係もないものだが、ちょうど組み合わせると格好がつくということだろう。旧安藤家住宅の外倉に見立てて設置してある。茅葺き屋根になっていて、外から見るとその分だけ大きな建物のように見えるが、内部は思ったよりも狭隘な感じだった。
旧秋山家住宅土蔵_1
旧秋山家住宅土蔵_2
旧秋山家住宅土蔵_3
旧秋山家住宅土蔵_4
内部にあった模型(1)
炭焼きの窯かと思ったのだが、よく見ると瓦を焼いていたようだ。世田谷でも瓦を作っていたのだろうか?
内部にあった模型(1)
内部にあった模型(2)
こちらはこの倉の設えの時の様子だろうか
内部にあった模型(2)

旧秋山家住宅土蔵
世田谷区指定有形文化財(建造物)
昭和56年7月22日指定
江戸時代
桁行3間(5.4m)、梁間2間(3.6m)、土蔵造、切妻造、茅葺
この土蔵は深沢の秋山家屋敷の入口脇に建っていた外倉で、穀倉として使用されていました。内部に文政13年(1830)の祈祷札が打ち付けられており、この頃に建築されたと推定されています。
穀倉であったため、害虫や湿気の対策として、内部の床と壁には板を張っています。
園内では名主屋敷の外倉として復元されています。

 

次大夫堀公園民家園~岡本公園民家園~岡本静嘉堂文庫(4)

次大夫堀公園民家園(4)
旧安藤家住宅(1)
旧大蔵村名主だった安藤家の主屋か。ただただ大きく見える。これは維持管理費がかなり掛かる、とまず考えたのは貧乏人の器の小ささだろうか。
表門
これは再現したものかと思って見ていたがそうではなかったようだ。明治28年9月に作られたもののようで、附指定になっているようだ。
表門_1
高札まで用意して気合が入っているなあ。これは後年の模作だろう。
表門_2
要は謀反の動きがあれば密告せよという内容か。昔はこういうやり方だったんだ。今でも、それを厳しすぎるほど徹底させている馬鹿者の国があるが。
表門_3
表門_4
表門_5
主屋外観
門を潜ると堂々たる主屋が見えた。玄関に至る通路は石が敷かれていた。かたや、土間に至る通路は筵敷きだったのか。
主屋外観_1
主屋外観_2
座敷に面する庭はひと目を遮るように塀が建てられていたのか。色々と差し障りがあったのかもしれない。
主屋外観_3
玄関
式台玄関というものだろう。村名主ともなれば、これくらいの格式があったのだろうか。
玄関_1
玄関_2
座敷
畳の部屋がずらり。凄いものだ。暖房は火鉢だったようだ。
座敷_1
座敷_2
座敷_3
居間
この時は囲炉裏に火が入っていなかったが、その後、すぐに火が入った。
居間_1
居間_2
居間に続く間
居間に続く間_1
居間に続く間_2
居間に続く間_3
居間に続く間_4

次回に続く

世田谷区指定有形文化財(建造物)
平成5年4月30日指定
江戸時代
桁行13間(24.0m)、梁間5間(9.2m)、寄棟造、茅葺
附 内倉 明治28年9月、表門
この主屋は旧大蔵村名主であった安藤家の屋敷内に建っていたものです。安藤家では天保5年(1834)頃に村名主となり、主屋を建てたと推定されます。
間取りは、農家と名主の役宅の機能を兼備えているため、式台が付く多室型となっています。
民家園では、主屋から続く内倉や糸場、役宅から眺める庭、表門など、かつての安藤家の屋敷配置をできる限り再現しています。

 

次大夫堀公園民家園~岡本公園民家園~岡本静嘉堂文庫(3)

次大夫堀公園民家園(3)
旧城田家住宅主屋
半農半商で酒屋をも営んでいたようだ。入って来やすいように開口部が多い建物だったのかな。その分だけ、冬は寒かったかもしれない。
どこか懐かしい佇まいの家屋だった。江戸時代後期の建物のようだ。

江戸近郊の農村におけるよろずや的な店だったのかな。そんなに多くの商いがあったわけではないだろうから、自らも農業を生計基本においていたのだろう。
旧城田家住宅主屋_1
『厨子二階』って、なんだろうと思った。要は江戸~明治にかけて建てられた古い様式の中二階なんだな。
「つしにかい」と読む。または「中二階」とも呼ばれる。江戸~明治にかけて建てられた古い様式。ミセノマの真上にあたる部屋の天井が低いことが特徴で、昔は主に物置や使用人の寝泊まりに使われていた。2階には開口部として虫籠窓を伴うことが多い。
旧城田家住宅主屋_2
旧城田家住宅主屋_3
かまどの脇に『(台)十能』があった。懐かしいなあ。何に使うかご存知だろうか?十ほどの働きを言えたら凄い。
旧城田家住宅主屋_4
旧城田家住宅主屋_5
このくらいの用意で酒屋の商売は成り立ったのだろうか。誰だ、このくらいは一人で飲んでしまえるなどとほざくのは。
旧城田家住宅主屋_6
旧城田家住宅主屋_7
旧城田家住宅主屋_8
旧城田家住宅主屋_9
旧城田家住宅主屋_10
旧城田家住宅主屋_11
旧城田家住宅主屋_12
旧城田家住宅主屋_13
旧城田家住宅主屋_14
旧城田家住宅主屋_15
旧城田家住宅主屋_16
旧城田家住宅主屋_17

世田谷区指定有形民俗文化財
昭和60年2月19日指定
江戸時代
桁行6.5間(12.0m)、梁間5間(9.2m)、寄棟造、茅葺
この主屋は、喜多見にある城田家の屋敷から移築しました。城田家屋敷は登戸道と筏道が交わる辻にあって、江戸時代末には酒屋を営んでいたといわれています。主屋は弘化3年(1846)以前に建築されたと推定しています。間取りは喰違い四ッ間型ですが、ドマに広く張り出した板床や厨子二階などの店造りが特徴です。
店舗を併用した江戸時代の古民家の特徴を生かして、園内の売店として活用しています。

 

次大夫堀公園民家園~岡本公園民家園~岡本静嘉堂文庫(2)

次大夫堀公園民家園(2)

旧谷岡家表門を出て鍛冶屋の作業場などが展示してある一画に向かう。今回分のみは、家屋は文化財ではない。おそらく収納品の雰囲気に合わせて次大夫堀公園民家園開設時につくったものだと思う。

旧谷岡家表門を出て鍛冶屋の作業場などが展示してある一画に向かう小道
鍛冶屋の作業場
田舎で暮らしていた時、数軒先に鍛冶屋があり、その作業を興味津々眺めていたものだ。こちらは、ちょっとした農機具をこしらえたり、修理したりするところだったのだろう。昔はコークスなどという高熱が得られる便利な燃料はなかっただろう。良くて石炭、なければ木炭が鉄を加工する熱源だったのかな?
鍛冶屋の作業場_1
鍛冶屋の作業場_2
鍛冶屋の作業場_3
鍛冶屋の作業場_4
鍛冶屋の作業場_5
鍛冶屋の作業場_6
『藍すくも小屋』
『藍すくも小屋』という看板が掛けてあった。藍染めの命である『すくも』を此処で作っているようだ。その昔、この世田谷の地で、藍すくもを作ったり、その先の藍染めまで行っていたのか否かは、私にはわからない。
『藍すくも小屋』_1
『藍すくも小屋』_2
『藍すくも小屋』_3
『藍すくも小屋』_4
『藍すくも小屋』_5
消防組員詰め所
近隣にあったものを集めたのだろう。四谷の消防記念館でほしがるような展示内容だ。
消防組員詰め所_1
消防組員詰め所_2
消防組員詰め所_3
消防組員詰め所_4
消防組員詰め所_5
消防組員詰め所_6

 

次大夫堀公園民家園~岡本公園民家園~岡本静嘉堂文庫(1)

世田谷区の民家園を続けて回った。岡本公園民家園に隣接するように岡本静嘉堂文庫があったので、ついでにこちらをも回ってみた。

次大夫堀公園民家園(1)
入場料無料との事だったので、失礼ながら展示内容にはそれほど期待せずに出かけた。ところが行ってみると、意外に充実していた。個人的には大満足だった。
昭和63年11月に開園した次大夫堀公園民家園は名主屋敷(主屋1棟、土蔵2棟)、民家2棟、表門、消防小屋などを復元し、公園内の次大夫堀や水田とあわせて、江戸時代後期から明治時代初期にかけての農村風景を再現しています。
「生きている古民家」をテーマに、囲炉裏には毎日火が焚かれ、家の中や軒下には民具が置かれています。主屋内にも自由に入ることができ、民具などに触れることもできます。また、農村に伝わる行事等も行っており、昔ながらの生活や風習を体験することができます。

 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
園内には公園の名の由来になっている「次大夫堀」という用水が流れており(後年復元されたもの)、これは稲毛・川崎領(現在の神奈川県川崎市)の代官であった小泉次大夫の指揮により、慶長2年から15年の歳月をかけて開発された農業用水の一部である。この用水は正式には六郷用水といい、昭和初期までは周辺農地などに使われていたが、現在大半は埋められたか雨水用の下水に転用されている。世田谷区内では次大夫堀公園内に復元された約600mの流路と、丸子川として一部分のみ残っているのみである。

次大夫堀公園民家園に向かう
二子玉川駅から成城学園前駅行きのバスに乗車する
垢抜けない小規模の遊園地があったのははるか昔。来るたびに大きく変わっている。本当にびっくりするほどだ。『金妻』の憧れの地か。
二子玉川駅から成城学園前駅行きのバスに乗車する_1
二子玉川駅から成城学園前駅行きのバスに乗車する_2
二子玉川駅から成城学園前駅行きのバスに乗車する_3
次大夫堀公園に到着
最初は往路も歩くつもりでいた。だけど、少し遠そうだったし、道もよくわからない。取敢えず、バスで向かい、その後の行き方の参考にすることにした。結果的には、バスに乗っておいてよかったと思うくらいの距離だった。
次大夫堀公園に到着_1
次大夫堀公園に到着_2
次大夫堀公園に到着_3
多摩川の支流である野川のすぐ近くなんだ
多摩川の支流である野川のすぐ近くなんだ
手前は農園になっていた
ズッキーニなどが植えてあった。どれも美味しそう。
手前は農園になっていた_1
手前は農園になっていた_2
復元された次大夫堀
元々の次大夫堀は暗渠の下水になっているとのこと。この清流部分は、新たに多摩川の支流である野川から引いた復元の水路。野川にはコサギがたくさんいるそうだ。見に行けば良かった。
復元された次大夫堀_1
復元された次大夫堀_2
正面入口付近
正面入口付近_1
正面入口付近_2
正面入口付近_3
正面入口付近_4

中に入ってみる。この民家園にある主要な建物は、すべて世田谷区指定有形民俗文化財ばかりだ。なかなか風情があっていいなと思った。

旧谷岡家表門
深沢にあった家屋のようだ。今は小沢一郎らが住む超高級住宅地も昔は純農村だったようだ。終戦直前の空襲で焼け出され、この門で15年間も仮住まいしていたのか。相当に窮屈な生活を耐え忍んだようだ。
元々は納屋と穀倉とが別棟だったのを天保九年(1838年)に再建した時に、門をつけ、長屋門にしたのか。囲炉裏がない造りなので、茅葺の屋根は傷みが早かったのかもしれない。
旧谷岡家表門_1
旧谷岡家表門_2
旧谷岡家表門_3
旧谷岡家表門_4
旧谷岡家表門_5
旧谷岡家表門_6
旧谷岡家表門_7
旧谷岡家表門_8
旧谷岡家表門_9
旧谷岡家表門_10
旧谷岡家表門_11
旧谷岡家表門_12
世田谷区指定有形文化財(建造物)
平成3年1月24日指定
江戸時代
桁行6.7間(12.1m)、梁間2間(3.6m)、寄棟造、茅葺
この門は深沢にある谷岡家屋敷から移築しました。長屋門形式の表門で、門の両側には2間四方の部屋が配され、一方が土間の納屋、一方が床板張りの穀倉です。
当初は長屋門ではなく、両脇の部屋は2棟の別々の建物であったと推定しています。天保9年(1838)に、2棟の建物をあわせ、中央に門を付けて長屋門にしたと考えられています。
民家園では正門の脇に配置され、農具などの展示室として活用しています。

 

横須賀しょうぶ園(4)

花菖蒲のクローズアップ(3)
3回に分けて取り上げたが、今回でお終いにする。
雪祭…肥後系
雪祭…肥後系
北海道女(どさんこ)…肥後系
北海道女(どさんこ)…肥後系_1
北海道女(どさんこ)…肥後系_2
紫衣の誉…江戸系
紫衣の誉…江戸系
みちのく黄金…交配種
青森県十和田市の鯉艸郷花菖蒲園で、「愛知の輝」から葉が緑色に突然変異してできあがった品種。キショウブとハナショウブの種間交配種は、葉が黄色くなる欠点があるが、本種はこの点が改善されたため、愛知の輝きより草丈が高く花も大きく、葉も緑色で観賞価値が高い。
みちのく黄金…交配種_1
みちのく黄金…交配種_2
ゲイ・ギャラン…米国系
米国系もひとつの系統扱いに昇格したようだ
ゲイ・ギャラン…米国系
菖蒲娘あるいは花摘み娘(その3)
菖蒲娘あるいは花摘み娘(その3)_1
菖蒲娘あるいは花摘み娘(その3)_2
歌行燈…肥後系
歌行燈…肥後系
このバンドはかなりうまかった
このバンドはかなりうまかった
藤棚の下は休憩するのに絶好のスペース
藤の花は既に終了だった。でも葉が日差しを遮ってくれて、絶好の休憩場所になっていた。
藤棚の下
子どもたちは菖蒲田の中に入り込んで
爺さんまで入っちゃいけないぞ
子どもたちは菖蒲田の中に入り込んで
広大な花しょうぶ園だ
広大な花しょうぶ園だ_1
広大な花しょうぶ園だ_2
広大な花しょうぶ園だ_3
広大な花しょうぶ園だ_4

以上で『横須賀しょうぶ園』シリーズは終了です。最後までご覧頂きありがとうございました。

 

横須賀しょうぶ園(3)

花菖蒲のクローズアップ(2)
涼夕(りょうぜき)…肥後系
涼夕(りょうぜき)…肥後系
涼夏…伊勢系
涼夏…伊勢系
新池の漣…肥後系
新池の漣…肥後系
町娘…江戸系
町娘…江戸系
江戸錦…江戸系
江戸錦…江戸系
京小袖…肥後系
京小袖…肥後系
四海波…肥後系
四海波…肥後系
家族連れも見入っていた
家族連れも見入っていた
泉川…江戸系
泉川…江戸系
長生澱(ちょうせいでん)…江戸系
長生澱(ちょうせいでん)…江戸系_1
長生澱(ちょうせいでん)…江戸系_2
三河八橋…江戸系
三河八橋…江戸系_1
三河八橋…江戸系_2
紫雲の峯…肥後系
紫雲の峯…肥後系
弁財天…肥後系
弁財天…肥後系
車山の暁…江戸系
車山の暁…江戸系
霓の巴(にじのともえ)…江戸系
霓という字を読む事ができなかった
霓の巴(にじのともえ)…江戸系
フェアリー・カリロン…米国系
こんなものまで出来たのか。遂に日本だけの園芸ではなくなったようだ。
フェアリー・カリロン…米国系
菖蒲娘あるいは花摘み娘(その2)
娘というのはちょっと無理があるようなので、ご尊顔が入らないように撮ってみた
菖蒲娘あるいは花摘み娘(その2)_1
菖蒲娘あるいは花摘み娘(その2)_2
タチアオイかな
タチアオイかな

 

横須賀しょうぶ園(2)

花菖蒲のクローズアップ(1)
もしかしたら、花名が間違っているものがあるかもしれない。3回に分けて取り上げる。
五月晴…江戸系
五月晴…江戸系_1
五月晴…江戸系_2
新舞子…肥後系
新舞子…肥後系
青岳城(せいがくじょう)…江戸系
青岳城(せいがくじょう)…江戸系
薫君(かおるのきみ)…肥後系
薫君(かおるのきみ)…肥後系
鳳凰冠…江戸系
鳳凰冠…江戸系_1
鳳凰冠…江戸系_2
三夕の感…肥後系
三夕の感…肥後系
葵の上…肥後系
葵の上…肥後系
新朝日雪…肥後系
新朝日雪…肥後系_1
新朝日雪…肥後系_2
爪紅…長井系
爪紅…長井系_1
爪紅…長井系_2
翠映…江戸系
翠映…江戸系
蛇の目傘…江戸系
蛇の目傘…江戸系_1
蛇の目傘…江戸系_2
雲井…伊勢系
雲井…伊勢系
愛知の輝…雑種
愛知の輝…雑種_1
愛知の輝…雑種_2
津の花…伊勢系
津の花…伊勢系
朝戸開…江戸系
朝戸開…江戸系
天津風…肥後系
天津風…肥後系
紅椿…肥後系
紅椿…肥後系
桃児童…江戸系
桃児童…江戸系
このへんで一息
先ほどのバンドの演奏。正装しているぞ。
先ほどのバンドの演奏_1
先ほどのバンドの演奏_2

 

横須賀しょうぶ園(1)

割り込みで旬の企画を先に取り上げる。順番を2つ繰り上げてしまい、後回しにした記事が古くなりそうだ。(^_^;)

入り口付近の様子
すいれん池
しょうぶ園の一番手前にあるすいれん池には睡蓮やアサザが大分咲いていた。鳥さんも飛んでいたが、あまりの人出に驚いたのか、どこかに飛んでいってしまった。相当いるはずのウグイスも一時避難の感じだった。
すいれん池_2
すいれん池_3
この日は入園無料
人出が多いはずだ。入園無料の土曜日で、イベントもいくつか行うとかで、お客さんが続々と詰めかけ始めた。
THE☆すかっ子「ソーラン」、バトン演技、手品、和太鼓、民謡流し踊り、チアダンス、吹奏楽、 阿波踊り、南米音楽など、イベントはこれでもかというほど盛りだくさんのようだった。

この日は入園無料_1
この日は入園無料_2
この日は入園無料_3
この日は入園無料_4
園内案内図
園内案内図
全体の様子
全体の様子_1
全体の様子_2
全体の様子_3
全体の様子_4
全体の様子_5
全体の様子_6
全体の様子_7
全体の様子_8
全体の様子_9
バンドは本番前の練習中
バンドの練習_1
バンドの練習_2
水車
水車
花菖蒲以外の花さん
ヘメロカリス
ノカンゾウ、ヤブカンゾウなどに似ているなと思ったら、そういうものから開発された園芸種のようだ
ヘメロカリス_1
キツネノカミソリ
ヘメロカリス_3
毛蕋花 (もうずいか)
あはは、まったく読むことができない漢字名称だった
毛蕋花 (もうずいか)

 

小網代の森を歩く(6)

いつ見ても美しい小網代湾内の様子
昔から嵐を回避する天然の良港だけあって、湾内は鏡面のようだ。連れがいれば、荷物を暫く預かってもらって、対岸まで往復で泳いでみたいものだ。おそらく、遊泳禁止になっているんだろうなあ。湾内は見たとおり、漁港とヨットハーバーとが共存している。
いつ見ても美しい小網代湾内の様子_1
いつ見ても美しい小網代湾内の様子_2
いつ見ても美しい小網代湾内の様子_3
いつ見ても美しい小網代湾内の様子_4
いつ見ても美しい小網代湾内の様子_5
いつ見ても美しい小網代湾内の様子_6
いつ見ても美しい小網代湾内の様子_7
いつ見ても美しい小網代湾内の様子_8
いつ見ても美しい小網代湾内の様子_9
いつ見ても美しい小網代湾内の様子_10
いつ見ても美しい小網代湾内の様子_11
いつ見ても美しい小網代湾内の様子_12
シーボニア
有名な高級マリーナ。平日の午前中はさすがにヨット遊びをする人は殆どいないようだ。その分、週末は相当に込み合うだろう。のんびりしたいのなら、平日に限るようだ。仕事がある人は無理だと思うが。あまりに高級すぎて、私には利用したいと思う気はまったく起きない。
シーボニア_1
シーボニア_2
シーボニア_3
シーボニア_4
シーボニア_5
シーボニア_6
シーボニア_7
シーボニア_8
シーボニア_9
シーボニア_10
バス通りから見た小網代湾
道の反対側の油壷湾と並んで景観は抜群だ
バス通りから見た小網代湾_1
バス通りから見た小網代湾_3
最後に、以前に行った時に見えた富士山の様子を
見えた時は、本当に来てよかったと思うことだろう。此処のところ、立て続けに嫌われているのが残念だ。
最後に以前に行った時に見えた富士山の様子_1
最後に以前に行った時に見えた富士山の様子_2

以上で、『小網代の森を歩く』シリーズは終了です。最後までご覧頂き大変有難うございました。

 

小網代の森を歩く(5)

宮の前峠にて
こんなものがいた。ニホンカワトンボだろうかと思ったら、アサヒナカワトンボなのだそうだ。春の小網代を代表するトンボで、清流沿いをふわふわ飛んでいるとのこと。確かにそういう感じだった。
アサヒナカワトンボ_1
アサヒナカワトンボ_2
こちらはおなじみのシオカラトンボかな
シオカラトンボかな
この花は何だろう
この花は何だろう
白鬚神社
白鬚神社に寄ってみる。最奥部まで足を踏み入れたことがなかったので、どんな神社なのか、以前から気になっていた。現在の社殿は三浦道寸義同が改修したと伝えられているんだって。ということは、少なくとも戦国時代初期より前から存在するんだ。
祭神は白髭明神(中筒男命)。この社は小網代湾が昔から避難港だった関係上、「航海安全」「大漁満足」の神として古くから崇拝されていた。天文年間(1532~54)に村の浜で漁民の網にかかった束帯姿の木像をご神体としている。現在の社殿は三浦道寸義同が改修したと伝えられている。社殿の左手にある石は鳴石、別名「カンカン石」と呼ばれ、これは昔の石の錨で、海上安全のために船頭が納めたものである。さらに年3回(4月、7月、10月)古式豊かに「面神楽」「湯立て」等、海上安全、大漁満足、家内安全、商売繁盛など神に感謝を捧げ、ご加護を願う儀式が執り行われる。
白鬚神社_1
白鬚神社_2
珍しい手水鉢だ。真剣に写真を撮ったが、後で調べてみたら手前の四角の水槽の刻まれた文字のほうが薀蓄があったようだ。(^_^;)
白鬚神社_3
白鬚神社_4
白鬚神社_5
白鬚神社_6
カンカン石
細長い方の石だ。小石でたたくと「カンカン」と金属音がする。左にある石はカンカン石ではない。『ここにまで石を載せておくと、カンカン石と間違われてしまうじゃない』と言いながら、地元のご婦人が小石を取りのけた。
江戸時代、風浪を避けるために小網代湾に停泊していた四国の船が、いざ出港しようとしたところ、船がまったく動かない。不思議に思ってこの神社にお伺いをたてたところ、この神社に錨の石がほしいというお告げがあったので、錨石を奉納したところ無事に出港できた。(松浦豊1985「カンカン石の由来」『三浦半島の史跡と伝説』暁印書館 所収の話)
カンカン石_1
カンカン石_2
狛犬
狛犬_阿像
狛犬_吽像
神社由緒
由緒書き
白鬚神社前の小網代湾最奥部や宮の前峠からの眺め
小網代湾開口部(相模湾につながる)やら、方向をぐるっと変えて、アカテガニのいる辺りやらを見てみる
神社前の小網代湾最奥部や宮の前峠からの眺め_1
この方向に富士山がくっきりはっきり見えるはずなのだが、霞んで全く見えなかった残念。
神社前の小網代湾最奥部や宮の前峠からの眺め_2
神社前の小網代湾最奥部や宮の前峠からの眺め_3
神社前の小網代湾最奥部や宮の前峠からの眺め_4
神社前の小網代湾最奥部や宮の前峠からの眺め_5
神社前の小網代湾最奥部や宮の前峠からの眺め_6
神社前の小網代湾最奥部や宮の前峠からの眺め_7
神社前の小網代湾最奥部や宮の前峠からの眺め_8
神社前の小網代湾最奥部や宮の前峠からの眺め_9
神社前の小網代湾最奥部や宮の前峠からの眺め_10
神社前の小網代湾最奥部や宮の前峠からの眺め_11
神社前の小網代湾最奥部や宮の前峠からの眺め_12
小網代湾開口部方面
望遠レンズで見てみる
小網代湾開口部方面_1
小網代湾開口部方面_2
小網代湾開口部方面_3
『アカテガニ広場』
アカテガニはいたかなあ。あの辺りが小網代の森の端っこになるのかな。『アカテガニ広場』というようだ。
『アカテガニ広場』

 

小網代の森を歩く(4)

やなぎテラスからえのきテラスに向かう
少し見晴らしが良くなってきた感じ。思い切り深呼吸をしながら歩いた。
やなぎテラスからえのきテラスに向かう_1
やなぎテラスからえのきテラスに向かう_2
やなぎテラスからえのきテラスに向かう_3
よく見ると蒲の穂がいっぱい見えている
よく見ると蒲の穂がいっぱい見えている_1
よく見ると蒲の穂がいっぱい見えている_2
よく見ると蒲の穂がいっぱい見えている_3
前方からその日初めてのすれ違いの人が見えた。えのきテラスもかすかに見えてきた。
前方からその日初めてのすれ違いの人が見えた
きた道を振り返りやなぎテラス方面を見るとこんな感じ。最初は急なところから、途中からは見えているような緩斜面を徐々に下りてきた感じだ。
きた道を振り返りやなぎテラス方面を見るとこんな感じ
えのきテラスがはっきり見えてきた。その先は美しい海が待ち構えているのだろう。
えのきテラスがはっきり見えてきた
えのきテラス
えのきテラスそのものの写真を撮るのを失念。周囲を見渡した感じのみ取り上げる。
えのきテラス
前方には小網代湾が見えている
前方には小網代湾が見えている
眺望テラスの方を見る。湿地なのに、あまりに水量が減っていて、気の毒な限りだ。
眺望テラスの方を見る
海がよく見える辺りまで進む
やはり美しい海は一刻もはやく見たいときが逸った。アカテガニ広場の方は省略した。なんという根性なしだろうか。
海がよく見える辺りまで進む_1
海がよく見える辺りまで進む_2
海がよく見える辺りまで進む_3
望遠レンズで見るとこんな感じ
望遠レンズで見るとこんな感じ_1
望遠レンズで見るとこんな感じ_2
望遠レンズで見るとこんな感じ_3
えのきテラスに戻ると後続の人達が来た。もう少し腕があれば、素敵な写真になったかもしれない。う~~ん。
えのきテラスに戻ると後続の人達が来た
眺望テラスに行く時に浦の川を渡る
水量はごく少なめだった。ここは鮎の稚魚も遡ってくるようだが、カワセミなどの姿はなかった。
眺望テラスに行く時に浦の川を渡る_1
眺望テラスに行く時に浦の川を渡る_2
眺望テラスからの眺望
眺望テラスからの眺望_1
眺望テラスからの眺望_2
眺望テラスからの眺望_3
眺望テラスからの眺望_4
眺望テラスからの眺望_5
眺望テラスからの眺望_6
眺望テラスからの眺望_7
ここで小網代の森はおしまい
ちょっと物足りなかったので、引き続いて小網代湾も見ていくことにした
ここで小網代の森はおしまい
ということで宮の前峠を登る
宮の前峠を登る_1
宮の前峠を登る_2
宮の前峠を登る_3
宮の前峠を登る_4
宮の前峠を登る_5
宮の前峠を登る_6

 

小網代の森を歩く(3)

真ん中湿地(2)
手付かずの森だったようで、相当にもじゃもじゃした感じだ。
真ん中湿地_2_1
真ん中湿地_2_2
真ん中湿地_2_3
真ん中湿地_2_4
真ん中湿地_2_5
真ん中湿地_2_6
真ん中湿地_2_7
真ん中湿地_2_8
真ん中湿地_2_9
真ん中湿地_2_10
望遠で見るとこんな感じ
望遠で見るとこんな感じ1
望遠で見るとこんな感じ_2
望遠で見るとこんな感じ_3
前方の視界が開けてきた
前方の視界が開けてきた_1
前方の視界が開けてきた_2
浦の川は、翡翠の自慢の嘴が折れてしまいかねない水量だ。諦めてどこかに出張中なのでは。早くまとまったお湿りがほしい感じだ。
翡翠の自慢の嘴が折れてしまいかねない水量だ
前方の視界が開けてきた_3
前方の視界が開けてきた_4

やなぎテラス
かなり行程的には先まで来たようだ。視界が開けている分気持ちが良い。が、遠慮無く降り注ぐ陽光もかなり厳しい。
左方向に90度進路を変更する。と言っても道はその方向にしか無いのだが。
もじゃもじゃしてよく分からないが、ここに聳えている木は柳の木なのだろうか?どこにも柳の木らしいものは見当たらなかったが。

やなぎテラス_1
やなぎテラス_2
やなぎテラス_3
やなぎテラス_4
やなぎテラス_5
やなぎテラス_6

 

小網代の森を歩く(2)

小網代湾の付け根の部分にこんな鬱蒼とした森があったとは驚かされた。開発計画が持ち上がった時に、それをやめさせ、土地を買い上げて、保存の方向に舵を切った判断に拍手をおくりたい。

真ん中湿地(1)
湿地には間違いがないのだが、このところの猛暑続きで少し湿気が不足気味だったように思った。
真ん中湿地_1_1
真ん中湿地_1_2
真ん中湿地_1_3
真ん中湿地_1_4
真ん中湿地_1_5
こんな倒れかかった樹木に寄生しなくても良さそうに思うのだが、どうしたものか。フサフサに見えるのは、私の僻みだろうか。
真ん中湿地_1_6
真ん中湿地_1_7
真ん中湿地_1_8
真ん中湿地_1_9
真ん中湿地_1_10
真ん中湿地_1_11
少し遠目に見えるのは茅かな
少し遠目に見えるのは茅かな_1
少し遠目に見えるのは茅かな_2
せっかくうまい具合にぶら下がったら、伸びすぎたのか下からの蔓草にまとわりつかれてしまったのだろうか。
真ん中湿地_1_12
真ん中湿地_1_13
真ん中湿地_1_14
真ん中湿地_1_15

↓のほぼ日刊イトイ新聞の紹介記事を見ると、やはり、専門家の編集は凄いと思わされる。大したところじゃなさそうでも、凄いところに見えてしまう。実際に大したところなのだろう。いずれ再挑戦しなくては。
『小網代の森へ遊びにいくよ! - ほぼ日刊イトイ新聞』の記事へjump

 

小網代の森を歩く(1)

京浜急行と神奈川県、三浦市とが一年ほど前からオイデオイデを始めた小網代の森に行ってみようと思い立った。
アカテガニ、源氏蛍、翡翠がいて、アスカイノデや山百合が観察できるという。よくよく考えてみたら、アカテガニや山百合は子供の頃に見飽きるほど見ていた。私には源氏か平家かはわからないが、蛍もかなりいた。アスカイノデは神奈川県ではそう珍しくはなさそうだ。そう考えると、見たことが殆ど無いのは、翡翠くらいだ。
今回は、季節的に時間的にいるとしたら翡翠だろうし、アスカイノデが観察できるかなと、あまり期待をせずに出かけた。
もしかしたら、今頃だとホタルが夕方飛び交っているのかもしれない。

小網代の森の案内図
小網代の森の案内図
入口は引橋バス停近く
三浦市の資料を信じた私が甘かったのかもしれないが、三崎口駅から入口近くの引橋バス停まで徒歩10分との記載があった。それなので、歩いて目指したのだが、どうも様子がおかしい。歩き出して2-3分のところに『あと18分』との案内表示がある。結局、三浦市の資料の誤記だったようで、着くまでに少々草臥れた。
『あと18分』との案内表示
途中の景色
なかなか着かないので、途中の景色を撮りながら進む
途中の景色_1
途中の景色_2
途中の景色_3
途中の景色_4
途中の景色_5
途中の景色_6
途中の景色_7
これはどっち
左奥だろうか右側だろうか。表示は木々の間に突っ込めと言わんばかりの訳の分からない表示だ。自信はなかったが、右側に進む。
なお、引橋バス停もバスによって場所がかなり違う。間違わないように注意されたい。一度、案内図や表示板などの総点検をしてみたら如何だろうか。

これはどっち
どうやら正解だったようだ。が、小網代の森に到着したわけでもないのに、いきなり急な下り勾配。既に25分ほど歩き続けているので厳しく感じた。
いきなり急な下り勾配_1
いきなり急な下り勾配_2
いきなり急な下り勾配_3
ここで初めて案内標識が出てきた。下見をしたことがある人の案内があるのが前提のようだ。これでは、タイミングが遅すぎるのではないだろうか。
いきなり急な下り勾配_4
いきなり急な下り勾配_5
やっと入口にたどり着いた
飾りっ気は一切なしなんだ
やっと入口
暫くはどんどん下る
標高差は80m程度あるようだ。急な下りは当然なんだろう。
暫くはどんどん下る_1
暫くはどんどん下る_2
暫くはどんどん下る_3
暫くはどんどん下る_4

中央の谷を暫く通る

中央の谷の様子
三浦半島は、温暖なせいだろうか。アスカイノデは見飽きるほどたくさんあった
アスカイノデは見飽きるほどたくさんあった_1
アスカイノデは見飽きるほどたくさんあった_2
更に先に進む
更に先に進む
ちょっとカメラを振ってみるとこんな感じ。木道がないと歩く人も大変だろうし、踏み荒らされて動植物も大変なことになったことだろう。その意味では木道設置はありがたいことだ。
ちょっとカメラを振ってみると
またまた先に進む。アスカイノデが半端じゃなく多いことがお分かりいただけるだろうか。
またまた先に進む_1
またまた先に進む_2
流れは晴れの日が続いたのでこの程度。こういう時、ストロークが短いのが弱点かもしれない。
またまた先に進む_00
またまた先に進む_01
またまた先に進む_3
またまた先に進む_4
またまた先に進む_5
またまた先に進む_6
またまた先に進む_7
またまた先に進む_8
またまた先に進む_9

三浦市による『小網代の森』の案内記事へjump


 

等々力渓谷を歩く(4)

等々力不動尊御本堂への階段を登る途中、左への小さな石段を入ると役行者の神変窟がある。役行者が不動の滝で打たれたと伝わる話も一部にはあるのだが、本当だろうか。どうも、『1300年前推古帝の頃、役の行者(役の小角〉が霊夢を見、不動尊を彫られた。ときが過ぎ、800年前、和歌山の根来寺の興教大師がある夜夢を見られ、「武蔵野国調布の丘」に不動尊を祀るよう告げられた』ということのようで、ここで修行をしたということはなさそうに思う。

神変窟
手前の様子
まるで、この地で修行していたかのように見える。前述のとおり、私はそのようなことはなかったと考えている。しかし、ここに神変窟を用意した関係者はそうは考えなかったのかもしれない。
岩場の斜面に祀られた小さなお堂。両手で抱えられるほどの大きさだが祀られているのはガマカエルだとか。木標の文字は消えそうだった。写真でも見えているように、『役行者神変…』と、かすかに一部が読める程度。

神変窟の手前の様子
神変窟とされるところ
役行者の修行を否定する根拠があるわけではないが、役行者が籠もったという証拠も何もなさそうだ。而、真相はどうなのだろうか。
神変窟とされるところ_1
神変窟とされるところ_2
神変窟とされるところ_3

満願寺別院等々力不動尊
恥ずかしながら、場所が少し離れている満願寺の方には行ったことがなく、いつも別院の等々力不動尊に参拝するだけで済ませている。
渓谷から役行者の神変窟を経由して、等々力不動尊に上っていく。
等々力不動尊に上っていく
不動明王の倶利伽羅剣
さらに階段を登ると不動明王の倶利伽羅剣があった。右へ下れば弁天堂桜と梅林の明王台、左へ上れば本堂へと向かう。
倶利伽羅剣_1
倶利伽羅剣_2
倶利伽羅剣_3
舞台
季節には桜や紅葉の名所となるのだろう。また、豆まきもここから行うとか。多目的施設のようだ。
舞台_1
舞台_2
舞台_3
手水舎
この辺りからの景観は最高
手水舎_1
手水舎_2
境内に足を踏み入れる
かなりきれいな境内だ。折から『茅輪念珠潜り』の準備中だったようで、茅の輪が用意されていた。
境内に足を踏み入れる_1
境内に足を踏み入れる_2
境内に足を踏み入れる_3
境内に足を踏み入れる_4
境内に足を踏み入れる_5
境内に足を踏み入れる_6
境内に足を踏み入れる_7
境内に足を踏み入れる_8
境内に足を踏み入れる_8_2
境内に足を踏み入れる_9
境内に足を踏み入れる_10
境内に足を踏み入れる_11
境内に足を踏み入れる_12
弁天堂と弁天池
弁天堂と弁天池_1
弁天堂と弁天池_2
弁天堂と弁天池_3
地蔵堂
地蔵堂_1
地蔵堂_2

滝轟山明王院
本尊は不動明王で真言宗智山派に属し満願寺の別院で、寺伝によれば、1300年前推古帝の頃、役の行者(役の小角〉が霊夢を見、不動尊を彫られた。
800年前、和歌山の根来寺の興教大師がある夜夢を見られ「武蔵野国調布の丘」に不動尊を祀るよう告げられた。大師は不動尊を背負って、「調布の丘を経巡り、此地に来たり、澤泉を山頭より噴出するを見、併も山頭の辺り瑞雲霊愛雲建す。大師はその霊地なるを悟り、一宇を建立す。」「玉川栞」と、開基が物語られている。
本堂は、江戸末期の建造である。拝殿は昭和27年、山門は、昭和43年8月、満願寺改築の折移築したものである。


以上で『等々力渓谷を歩く』シリーズはお終いです。最後までご覧いただき有り難うございました。

 

等々力渓谷を歩く(3)

稚児大師堂
渓谷の流れに沿って更に歩いていくと道が二股に分かれ、右に行くと、『稚児大師堂』がある。稚児大師とは弘法大師の幼い時の呼び名だそうだ。つまりここには弘法大師が祀られていることになる。
稚児大師像は、平成になって芸術院会員清水多嘉示氏が制作した像だそうだ。

『名勝 等々力渓谷等々力不動尊境内』と記されてあった。
稚児大師堂_1
稚児大師堂_2
稚児大師堂_3
稚児大師堂_4
稚児大師堂_5
ISO感度を上げるとこのように見えるが、肉眼では、↓のように見える。
稚児大師堂_6
稚児大師堂_7
稚児大師堂_8

等々力稲荷堂・不動の滝
稚児大師堂を出て利剣の橋を渡ると、稲荷堂と不動の滝とがある。見ての通り、橋を渡った左手に進むとすぐに不動の滝がある。数千年もの間、一時の休みもなく流れ落ちているそうだ。今でも確かに流れ落ちてはいるが、『轟く』というほどの水量ではない。滝というのもちょいと無理がありそうにも思う。これだけ水脈を切り刻まれてしまってはやむをえないところだが、それでも、絶え間無く滲みだしてくるのには驚かされる。
紅葉に季節には来たことがないが、さぞかしきれいなのだろうと思う。紅葉の盛りはいつ頃になるのだろうか。
稚児大師堂から見た様子_1
稚児大師堂から見た様子_2
不動の滝
水は絶え間なく滲みだしている。毎月瀧行が行われているようだ。一度見たことがあったが、たまたまそういう時だったようだ。
不動の滝_1
不動の滝_2
不動の滝_3
不動の滝_4
不動の滝_5
不動の滝_6
不動の滝_7
不動の滝_8
不動の滝_9
不動の滝_10
不動の滝_11
不動の滝_12
不動の滝_13
稲荷堂
稲荷堂_1
稲荷堂_2
稲荷堂_3
稲荷堂_4

この等々力不動は満願寺の別院で、流轟山明王院と言い、役の行者が滝の側に不動明王をまつって霊場としました。今では滝に打たれて行をする修行者の姿は見かけなくなりましたが、古くからこの不動の滝は、各地からの修業者が絶えなかったほどよく知られてました。
不動の滝はいつでも涸れる事なく、谷沢川に流れ落ちています。等々力という地名は、この滝の轟く音から里人が呼称したという説もあります。

 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
平成26年11月2日(日)より、毎月第1日曜日に午前8時30分から瀧轟會会員による瀧行を行います。見学されたい方は是非お越し下さい。
場所:等々力不動尊境内「不動の瀧」


 

等々力渓谷を歩く(2)

最近ケチ臭くなったのか、無料のところばかりをほっつき歩いている。どこへ行ってもカップルばかり。一人で歩きまわるのが恥ずかしい感じだ。

渓谷を更に歩く
平日だというのに、結構な人出だ。私同様に暇人が少なくないようだ。
渓谷を更に歩く_1
渓谷を更に歩く_2
渓谷を更に歩く_3
渓谷を更に歩く_4
渓谷を更に歩く_5
環状8号線に架かる橋
環状8号線からは、渓谷が緑で覆われてしまい見えない。まるで、普通の道のように見える。渓谷から見れば、歴とした橋なのだ。玉沢橋というようだ。
玉沢橋
更に先へと歩く
更に先へと歩く_1
更に先へと歩く_2
更に先へと歩く_3
更に先へと歩く_4
潜水橋のようだ。梅雨時には本当に水面下になるだろうか。
潜水橋のようだ
等々力渓谷横穴古墳
ここで進行方向左側に渡り、標識に従うと古墳跡が見えてくる。古墳時代後期から奈良時代(7世紀後半~8世紀)のものと推定される横穴式古墳で、中を覗くことができるようになっているようだ。
等々力渓谷横穴古墳_1
等々力渓谷横穴古墳_2
等々力渓谷横穴古墳_3
完全な形で残っているのは3号のみ。1-2号は跡があるだけだった。そんなに都合良くはいかないとは思いつつも残念。
等々力渓谷横穴古墳_4
等々力渓谷横穴古墳_5
等々力渓谷横穴古墳_6
等々力渓谷横穴古墳_7
再び渓谷に戻る
再び渓谷に戻る

 

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