散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

等々力渓谷を歩く(1)

久しぶりに等々力渓谷を歩いてみた。多摩川水系の一級河川『谷沢川』に残る渓谷。都区内に唯一残る渓谷と言われている。どんなに暑い日に行っても、そこそこの冷涼感があって、非常に気分が良い。

いつも気になる文化財『鈴木家住宅穀倉』
等々力渓谷に入る直前にある。どうもどこからアクセスするのかよくわからない。仕方がなく、外側からパチリ。
鈴木家住宅穀倉_1
鈴木家住宅穀倉_2
鈴木家住宅穀倉_3
区の銘木百選に選ばれている「けやきの大樹」
この大樹の先を右折すると10mほどで渓谷の入口になる
けやきの大樹
等々力渓谷入口
ご婦人が出てきたところから渓谷に入る
等々力渓谷入口_1
等々力渓谷入口_2
等々力渓谷入口_3
等々力渓谷入口_4
等々力渓谷入口_5
ゴルフ橋
先ほどわたらずに来た橋が見える。下から見るとド派手な感じ。昭和初期にこの近辺にあったゴルフ場に行く人達の為に作られたことから命名されたそうだ。ゴルフ場は昭和14年に閉鎖されたとか。当時の文部大臣鳩山一郎が企画し、それを地元の東急の総帥五島慶太が実施に移したと言われているゴルフ場だったようだ。
ゴルフ橋
川面近くまで下るとこんな感じ
川面近くまで下るとこんな感じ_1
川面近くまで下るとこんな感じ_2
川面近くまで下るとこんな感じ_3
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川面近くまで下るとこんな感じ_6
川面近くまで下るとこんな感じ_7
川面近くまで下るとこんな感じ_8
川面近くまで下るとこんな感じ_9
川面近くまで下るとこんな感じ_10

等々力渓谷の詳細な案内があるHPへjump

谷沢川(やざわがわ)は、東京都世田谷区を流れる多摩川水系の一級河川である。
         :
武蔵野台地は、水を通さない海成の粘土質層の上に水を通しやすい礫層が互層となった関東ロームに覆われた台地であり、台地上をはじめ多摩川に削られてできた崖線には多くの湧水がある。等々力渓谷はこの大量の湧水が台地を侵食してできた渓谷である。渓谷の谷底は等々力駅付近から下流の脇を遊歩道が整備されている。10mほどの急峻な両崖には武蔵野の雑木林が残って陰鬱として夏でも冷涼である。また、南側は戦国時代に深沢から移ってきたとされる満願寺の境内に隣接し、その別院の等々力不動尊は霊場として、湧水が流れ落ちる不動の滝に打たれる修行者が時折見られ、冬季を除いて茶屋も建ち、都内でも有数の憩いの場となっている。
等々力(とどろき)はその名の由来を、こうした湧水の流れ落ちる音写の「轟く」にちなむという説が有名であるが、元の満願寺の場所の兎々呂(とどろ)城からなど諸説ある。歴史上の記録よりもさかのぼった古来からこの渓谷は存在しており、渓谷崖には7世紀頃のものと考えられる横穴式の古墳なども見つかっている。
1931年(昭和6年)、等々力渓谷の西側の台地上に五島慶太の開発による等々力ゴルフ場が開業したが、渓谷はこうした貴重な景観と史跡を数多く残すことから、1933年(昭和8年)に多摩川風致地区に指定され、護岸整備と遊歩道の整備に着手し1936年(昭和11年)に完成した。戦後は1974年(昭和49年)に横穴式古墳、等々力不動尊を含めた世田谷区立等々力公園として開園する。東京都区部では唯一の渓谷であり、1999年(平成11年)には東京都指定名勝に指定され、その環境が保全されるとともに、渓谷沿いに散策道が整備された。
ただし、地下水の汲み上げなどにより、不動の滝や周辺からの湧水量は年々減ってきている。

 

JRAホースショー(11)

中障害Bスピード&ハンディネス(5)

38番出場の佐々紫苑選手が3位
佐々紫苑選手が天童号と組んで、これまた僅差で3位に。早稲田大学馬術部の選手。明松寺馬事公苑で腕を磨いたようだ。
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着地直後に急旋回して次の障害に向かう。この無理な姿勢でも懸命に堪える。
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27番出場の選手は快調に跳んでいたのに、障害補修が長引いたのが気になってしまった不運が
既に競技が始まっているのに、直前の競技者が障害を派手に壊してくれた修復作業がなかなか終わらない。その作業ぶりが気になったのか、競技がうまく行かずに不従順2回で失格。これはあまりに気の毒だった。
審判は何故見切りスタートを強制したのだろうか。

障害補修が長引いたのが気になってしまった_1
障害補修が長引いたのが気になってしまった_2
障害補修が長引いたのが気になってしまった_3
障害補修が長引いたのが気になってしまった_4
障害補修が長引いたのが気になってしまった_5
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障害補修が長引いたのが気になってしまった_7
障害補修が長引いたのが気になってしまった_8
気を取り直して、サービスの跳躍を1回だけ
障害補修が長引いたのが気になってしまった_9
障害補修が長引いたのが気になってしまった_10
障害補修が長引いたのが気になってしまった_11
障害補修が長引いたのが気になってしまった_12

以上で『JRAホースショー』シリーズは終了です。最後までご覧頂きありがとうございました。

 

JRAホースショー(10)

中障害Bスピード&ハンディネス(4)

35番出場の細野茂之選手が2位に
優勝の加藤選手とはわずか0.07秒の差。悔やんでも悔やみきれない差だったことだろう。それでも、流石オリンピック選手だけのことはある素晴らしい騎乗ぶりだった。将軍Ⅰ号も頑張った。
35番出場の細野茂之選手_1
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右手の位置に驚いた。左にコースを厳しくとるための布石だったのだろうか。
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最終盤まで乱れることがなかった。華麗なる騎乗ぶりはお見事。
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次に出場の武宮選手
競技は7位だったが、間違いなくベストドレッサー賞だったのでは。
次に出場の武宮選手_1
次に出場の武宮選手_2
裏地の凄さにびっくり
次に出場の武宮選手_3
次に出場の武宮選手_4
次に出場の武宮選手_5
次に出場の武宮選手_6

 

JRAホースショー(9)

中障害Bスピード&ハンディネス(3)

今回は振るわなかった広田選手
広田選手は今回は振るわなかった。この競技においては何と失格。オリンピック代表経験もある実力者がどうしてしまったのだろうか。
本人曰く、ニック・オブ・タイム(Nic of Time)号を入手できたので、東京オリンピック出場を目指すのだそうだ。そのためには、ここで躓いてしまってはダメだぞ。幸いにも、超陽気な性格の選手のようだ。挫けないでやってくれると期待したい。

今回は振るわなかった広田選手_1
今回は振るわなかった広田選手_2
今回は振るわなかった広田選手_3
今回は振るわなかった広田選手_4
今回は振るわなかった広田選手_5
今回は振るわなかった広田選手_6
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他選手の綺麗な飛越シーン
口直しに如何。広田選手が躓いてしまった障害を華麗に飛び越していた。
他選手の綺麗な飛越シーン_1_1
他選手の綺麗な飛越シーン_1_2
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JRAホースショー(8)

中障害Bスピード&ハンディネス(2)

10番目に出場の加藤幸選手が優勝(2)
加藤幸選手の後半の積極的な騎乗ぶり。男勝りの大迫力だった。
加藤幸選手の視線もビシッと決まった感じだが、ジャロジー号の視線も同様に決まっているんだ。馬さんが気分良く駆け、跳ぶ、良いリズムがこのペアにはあったようだ。
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短い時間なので動いていないように見えるかもしれない。大きな動きはなくとも、前の障害を飛び越え、瞬時に方向を切り替えて、飛越のタイミングを図っているところだろう。
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ジャンプの合図をした瞬間かな
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行くわよっ!!
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最後の難関、3連続障害だ。気力を振り絞って頑張れ。
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JRAホースショー(7)

中障害Bスピード&ハンディネス(1)
中障害B障害物の最大高130cmでCよりも10cm高い。と書き出して、パンフレットを見たら、この競技は最大高125cmで争われるようだ。スピード&ハンディネスで行うからだろうか?
スピード&ハンディネスでは落下による過失をタイムに換算して、実際の走行タイム(スタートラインからゴールラインまでにかかったタイム)に加えたタイムが早い人馬が上位となる。要は一発勝負で標準競技のような減点0通過者によるジャンプオフなどというややこしい方法は取らない。選手も一発勝負なら撮影も一発勝負ということになるなあ。


トップバッターに期待したが
前の競技で2位入賞を果たした芹沢選手。この競技でも馬を変えて1番手と25番手とで出場した。たすきが示す実力者だけに期待したが、この競技での結果は、完走者35人中の28位と29位とに沈んだ。途中までは素晴らしかったのに。
加算の秒数が痛かった。この競技は早く無過失で駆け抜けなければ上位入賞はおぼつかない。

トップバッターに期待したが_1
これほど観客の視線を集める競技はあまりないことだろう。ごく普通の市民観客がたちまち虜になる。それだけの魅力がある競技だ。
トップバッターに期待したが_2
トップバッターに期待したが_3
トップバッターに期待したが_4
トップバッターに期待したが_5
トップバッターに期待したが_6
素晴らしい騎乗ぶりで、スピードもかなりのものだった。バー落下さえなければ、…。
トップバッターに期待したが_7
トップバッターに期待したが_8
トップバッターに期待したが_9

10番目に出場の加藤幸選手が優勝(1)
かなり積極的な騎乗で、見事優勝を掻っ攫った。先ほどの競技に続きまたもや女性選手が優勝と3位とに。これには正直驚いた。騎乗した馬はジャロジー。走行タイムが60.77秒で、加算が0秒だった。2位選手と0.07秒の僅差だった。
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圧巻の騎乗ぶりは次回に持ち越す

 

JRAホースショー(6)

『中障害Bスピード&ハンディネス』競技が始まる前の様子を取り上げる。
当然のことながら、競技開始前に『中障害Bスピード&ハンディネス』競技用の障害のセッティングを行う必要がある。その間の場繋ぎに『馬とのふれあい』を行うわけだ。そして、セッティングが整った段階で、選手たちの『コース下見』も同時並行して行われる。


『馬とのふれあい』
昨年しつこいくらいに取り上げたので、今年は簡単に
サービスだよね
馬さん:本日は徹底的な顧客サービスの日だからね。どんどん触っても構わないよ。でも、私に爪を立てたりなんかしないでよね。
サービスだよね_1
サービスだよね_2
サイドサドル
昨年『ちょっとだけヨ』まで披露してくれたあのサイドサドルだ。インナーマッスルへの負荷は相当なものがありそうだ。腰痛持ちの人は絶対やるべきではないものだと思う。
サイドサドル_1
サイドサドル_2
サイドサドル_3
サイドサドル_4
サイドサドル_5
サイドサドル_6
サイドサドル_7
こちらは『へそ天』ポーズ
良くこんなポーズを馬さんがとってくれるものだ。四足の動物にはかなり難しいことなのだろうと思う。調教師と馬との関係がベストマッチなのだろう。
『へそ天』ポーズ_1
『へそ天』ポーズ_2
『へそ天』ポーズ_3
『へそ天』ポーズ_4
『へそ天』ポーズ_5
『へそ天』ポーズ_6
『へそ天』ポーズ_7
こちらは『裸馬』への騎乗
鞍を装着しない馬さんに騎乗するのは至難の業だ。馬を知悉していないと到底出来る技ではなさそうだ。
『裸馬』への騎乗_1
『裸馬』への騎乗_2
『裸馬』への騎乗_3

下見の様子
競技開始時間が迫り、『中障害Bスピード&ハンディネス』競技出場選手たちの下見が始まった。一度の多くの人がなだれ込み、馬場内は多少混乱した様子。もうまもなく開始の緊迫感が徐々に高まる。スピード&ハンディネス競技は、いきなり所要タイムで争われる。最初から決勝になるわけだ。
歩測しながら位置取りを真剣にイメージしているのだろう。蟻さんの行列みたいだと書いたら失礼だろうか。
歩測しながら位置取りを真剣にイメージしているのだろう
誰もが真剣な目つきだ
誰もが真剣な目つきだ_1
誰もが真剣な目つきだ_2

 

四谷から皇居の方に向かって歩いてみる(5)

千鳥ヶ淵戦没者墓苑
何度か行ったことがある。旧盆の前後ばかりで、卒倒しそうになりながら歩いた記憶が。今回は、比較的体調が良い状態で来ることができた。
本当のことを言えば、未だに靖国神社とこの墓苑との関係がよく理解できないでいる

千鳥ヶ淵戦没者墓苑_1
千鳥ヶ淵戦没者墓苑_2
千鳥ヶ淵戦没者墓苑_3
千鳥ヶ淵戦没者墓苑_4
千鳥ヶ淵戦没者墓苑_5
さざれ石
岐阜県の文化財なのだそうだ。国歌の中のさざれ石は、小さな石という意味に過ぎないようだが、こちらは下記説明にある通りの自然が生成した貴重なものだ。
さざれ石_1
さざれ石_2
さざれ石_3
さざれ石(細石、さざれいし)は、もともと小さな石の意味であるが、長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウムや水酸化鉄が埋めることによって、1つの大きな岩の塊に変化したものも指す。学術的には「石灰質角礫岩」などとよばれる。石灰岩が雨水で溶解して生じた、粘着力の強い乳状液が少しずつ小石を凝結していき、石灰質の作用によってコンクリート状に固まってできる。日本では滋賀県・岐阜県境の伊吹山が主要産地である。
大賀ハスとさざれ石との2ショット
大賀ハスとさざれ石との2ショット_1
大賀ハスとさざれ石との2ショット_2
セレモニーを行う施設
延々と行進をしてきて、ここで会場の設営をして、式典に参加し、終了後の後片付けまでやると、本当に大変。どうやって自宅まで帰ったのか不思議なほど。そんな懐かしい思い出が。
セレモニーを行う施設_1
セレモニーを行う施設_2
セレモニーを行う施設_5
セレモニーを行う施設_6
セレモニーを行う施設_7
セレモニーを行う施設_8
セレモニーを行う施設_10
昭和天皇の御製
墓苑創建の年の秋、天皇陛下から下賜された御製を三笠宮妃殿下が謹書されたものだそうだ。
陛下の苦しい心情を吐露したものなのだろう。この歌で救われた思いになった人も少なくないことだろう。
昭和天皇の御製_1
昭和天皇の御製_2
今上陛下の御製
こちらは終戦60周年を迎えるに当たり、新春『歌会始の儀』で今上陛下が詠まれた御製を常陸宮妃殿下が謹書されたものだそうだ。
戦後60年を経て、漸くこのような歌を詠むことができるほどにまでなった。あの困難な時を生きた人々を忘れてはいけないという自戒の念を込めた内容なのだろう。
今上陛下の御製_1
今上陛下の御製_2
栴檀
栴檀_1栴檀_2
千鳥ケ淵戦没者墓苑は、日本の戦没者慰霊施設。第二次世界大戦の戦没者の遺骨のうち、遺族に引き渡すことができなかった遺骨を安置している。公園としての性格を有する墓地公園とされており、環境省が所管する国民公園等のひとつである。

英国大使館
これが駐日英国大使館か。さすがに広大な敷地に建っているんだ。それでも英国の外交官には狭い感じが否めないのだろうなあ。
英国大使館_1
英国大使館_2
英国大使館_3
英国大使館_4
英国大使館_5
英国大使館_6
英国大使館_7
英国大使館_8
free画像を借用した
英国大使館_9
1872年5月(明治5年)、七戸藩上屋敷、櫛羅藩上屋敷、七日市藩上屋敷、および旗本水野兵部の屋敷跡を合わせた12306坪(明治17年の本契約では10833坪)をほぼ永久に貸与されることとなったが、賃料が低い水準に抑えられたことが両国間の問題となっていく。その後現在にいたるまで、この場所が英国大使館(1905年に公使館から大使館に昇格)の所在地となっている。

以上で、今回の『四谷から皇居の方に向かって歩いてみる』シリーズはお終いです。最後までご覧いただき有り難うございました。

 

四谷から皇居の方に向かって歩いてみる(4)

九段界隈を歩いてみる

千秋(せんしゅう)文庫
ここは何?と思ったが、秋田藩主のコレクションを保管陳列するところのようだ。
知らないので通り過ぎたが、入ってみるだけの価値は十分にあったようだ。知らないと損をするなあ。

千秋(せんしゅう)文庫_1
千秋(せんしゅう)文庫_2
二松学舎とイタリア文化会館
二松学舎大学附属高等学校とイタリア文化会館とが隣り合ってあった。二松学舎の方は、最近野球が強くなって、全国に名前が売れ始めたようだ。
イタリアさんは、相変わらずおしゃれな感じ。

二松学舎とイタリア文化会館_1
二松学舎とイタリア文化会館_3
二松学舎とイタリア文化会館_4
こちらは二松学舎大学。住所は3番町になるのかな。
二松学舎大学
九段坂のお濠端から見た様子
突き当りが田安門で、右側を暫く歩くと千鳥ヶ淵。すぐ近くのコンビニでサンドイッチなどを買い求め、お濠端を眺めながら昼食休憩をとった。
九段坂のお濠端から見た様子
インド大使館
インド大使館
千鳥ヶ淵に向かって歩き出す
千鳥ヶ淵に向かって歩き出す_1
千鳥ヶ淵に向かって歩き出す_2
千鳥ヶ淵に向かって歩き出す_3
千鳥ヶ淵に向かって歩き出す_4
千鳥ヶ淵
千鳥が淵が見えてきた。『風に立つライオン』の歌詞にも出てくる千鳥ヶ淵の桜。あまりにも有名だ。桜の時期でなくてもきれいなものだ。
千鳥ヶ淵_1
千鳥ヶ淵_2
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千鳥ヶ淵_4
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千鳥ヶ淵_11
どうも桜がないと格好がつかないので、free画像を借用する
千鳥ヶ淵の桜_1
千鳥ヶ淵の桜__2

 

四谷から皇居の方に向かって歩いてみる(3)+α

大妻女子大
何も女学生を見たくて歩いたわけではないが、不思議と女学校が多いエリアのようだ。昼休みだったのか、女子大生がたくさんいた。そのシーンは撮らなかった。
大妻女子大_1
大妻女子大_2
大妻女子大_3

靖國神社
東京に住みだして40年ほどになるが、恥ずかしながら靖國神社には一度も足を踏み入れたことはなかった。今回は、散歩の一環として回っただけで、政治的意図はまったくない。この件に関しての、左右からの極端なコメントはご遠慮願いたい。
南門から入ることにする
南門から入ることにする_1
南門から入ることにする_2
南門から入ることにする_3
南門から入ることにする_4
案内図を見ると、白百合学園と都立九段高校とが敷地の北東側に隣接しているのか。
南門から入ることにする_5
南門から入ることにする_6
中門鳥居から拝殿を臨む
中門鳥居から拝殿を臨む
拝殿
拝殿_1
拝殿_2
拝殿_3
拝殿_4
拝殿_5
拝殿_6
拝殿横の回廊部分
拝殿横の回廊部分
能楽堂
これは実に立派な能楽堂だ。この能楽堂は明治14年(1881)に東京・芝公園に建てられたもので、明治36年(1903)に靖国神社に奉納、移築されたそうだ。
能楽堂_1
能楽堂_2
能楽堂_3
能楽堂_4
神門
神門_1
神門_2
斎館
斎館入口は、用途が用途なのだろう、入口は閉ざされていた。同じ建物の反対側入口には『社務所』と書かれてあった。もちろん開いていた。
斎館
第2鳥居
『下乗』と書かれている。ここから先は徒歩で拝殿に向かうということのようだ。
第2鳥居
遊就館
色々展示されているようだが、今回はパスさせていただいた。
遊就館_1
遊就館_2

靖国神社の由緒
靖国神社は、明治2年(1869)6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた東京招魂社が始まりで、明治12年(1879)に「靖国神社」と改称されて今日に至っています。
靖国神社は、明治7年(1874)1月27日、明治天皇が初めて招魂社に参拝された折にお詠みになられた「我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき」の御製からも知ることができるように、国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社です。「靖国」という社号も明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。
靖国神社には現在、幕末の嘉永6年(1853)以降、明治維新、戊辰の役(戦争)、西南の役(戦争)、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争などの国難に際して、ひたすら「国安かれ」の一念のもと、国を守るために尊い生命を捧げられた246万6千余柱の方々の神霊が、身分や勲功、男女の別なく、すべて祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として斉しくお祀りされています。


FIREFOXでピン止めしたFC2の訪問者リストを使用した時の不具合の対処
FIREFOXでピン止めしたFC2の訪問者リストから訪問者のURLをクリックすると、直後に別タブが開いて便利に使わせてもらっていた。それが、一昨日(5/20)から別タブが開かずに、当該タブが乗っ取られてしまう不具合が発生。何か触ってしまったような記憶はなく、原因や解決策に辿りつけていままでいる。当然、使用感の悪さが作業効率を妨げている。
自分のHPのリンクをクリックすると、今までどおり新しいタブが開くから、もしかしたら、FC2得意の仕様改悪かもしれない。仕方なく、『リンクを新しいタブで開く』というアドオンを導入して、当座の不便を回避している。
当該ソフトをダウンロードし

カスタマイズ-アドオン-リンクを新しいタブで開く-設定-すべてのリンクをタブで開く
というやり方で行う。同様の現象で困っている方はお試しあれ。

 

四谷から皇居の方に向かって歩いてみる(2)

市ヶ谷駅前
外濠公園から一般道を少し歩くとすぐに市ヶ谷駅前にでた。スタバの店舗だけかと思ったらちゃんとJRの駅もあった。スタバ店舗付属JR入口という感じで、なんとなく変な感じがした。
市ヶ谷駅前_1
市ヶ谷駅前_2
市ヶ谷橋から見た様子
市ヶ谷駅前_3
釣りは好きじゃないけど、お好きな人も少なくないのだろう。電車から見るたびに、何処から来るのか気になったものだった。
市ヶ谷駅前_4
市ヶ谷駅前_5

暫く番町と呼ばれる一帯を歩いてみる。
私が小学生から中学生にかけての頃、番町小学校-麹町中学-日比谷高校-東京大学というエリートコースが有った。歩き始めの時に見た雙葉学園雙葉高校などは、六番町になる。
番町(ばんちょう)は、東京都千代田区の地域内区分の一つで、主に一番町から六番町までの町を指す。
江戸時代の旗本のうち、将軍を直接警護するものを大番組と呼び、大番組の住所があったことから番町と呼ばれた。大番組は設立当初、一番組から六番組まであり、これが現在も一番町から六番町に引き継がれている。実際には、例えば、一番町がさらに堀端一番町、新道一番町というように細分化されており、江戸時代の大番組の組番号と、現在の町目の境は一致しない。怪談『番町皿屋敷』で有名。

帯坂
ゼンセン会館や日本将棋会館などがある。労働組合の本拠地がこんな高級地にあってよいのかと思わないでもないが。
怪談「番町皿屋敷」のヒロインお菊が、髪をふり乱し、帯をひきずりながらここを通ったという伝説から、帯坂の名がつけられたといわれているそうだ。本当かなあ。

帯坂_1
帯坂_2
東郷公園界隈
公園そのものは、こんなものかと思う程度。単なる幼児向けの公園だ。正直がっかりだ。この一画に東郷元帥の私邸があったというだけ。
東郷公園界隈_1
東郷公園界隈_2
東郷公園界隈_3
東郷公園界隈_4
こちらは東郷坂
左折すると九段小学校か。直進すると上り坂になるが、行人坂というそうだ。行人坂は目黒だけでなくここ番町にもあったのか。
東郷坂
「東京名所図会」には「行人坂、上六番町と中六番町との間を南の方へ上る坂を称す」とかかれています。「御府内備考」に「行人坂、古某法印と称する行人この辺に居するゆえにこの名あり。また法印坂とも呼び或は転化して法眼坂という」。もともと法眼坂を起伏により東郷坂、行人坂、南法眼坂と三つの名に分けてよんだものであり、法眼坂の名称だけの地図も多いようです。
王子ホールディングスの王友荘の道を挟んだ向かいの様子
昔の建物の一部を残してあるのだろうが、風情がある感じだ。どのマンションに付属するのか不明。HOMAT AMBERというマンションかな。だとすると近々建て替えが予定されているようだ。ここはどうなるのだろうか。
王子ホールディングスの王友荘の道を挟んだ向かいの様子_1
王子ホールディングスの王友荘の道を挟んだ向かいの様子_2
ここは女子学院
女子御三家の一つ。雙葉学園雙葉高校はカトリックのミッションスクールだが、こちらはプロテスタントのミッションスクールだそうだ。
女子学院_1
女子学院_2
女子学院_3
女子学院_4
お屋敷町に似合う花かな
お屋敷町に似合う花かな
こちらはヴァチカン大使館
表示を見ると、『駐日ローマ法王庁大使館』となっていた。カトリック信徒はローマ法王ではなく、教皇と呼称すべきだと主張しているのに、なんでだろうか。外務省に届け出た呼称はなかなか修正出来無いのだろうか。そういえば、グルジアもジョージアと呼称が改まったじゃないか。
左隣りには、『欧州連合欧州委員会代表部』があったようだ。気が付かなかった。

ヴァチカン大使館_2
ヴァチカン大使館_3
ヴァチカン大使館_4
日本において教皇庁の呼び方として「教皇庁」と「法王庁」が混用されている。日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会では1981年のヨハネ・パウロ2世の来日時に、それまで混用されてきた「教皇」と「法王」の呼び方を統一しようと、世俗的な君主を思わせる「王」の字が入る「法王」でなく、「教皇」という呼び方への統一を定め、一般に呼びかけた。このとき、東京のローマ教皇庁大使館においても「法王庁」から「教皇庁」への名称の変更を行おうとしたが、日本政府から「日本における各国公館の名称変更はクーデターなどによる国名変更時など特別な場合以外認められない」として認められず、「ローマ法王庁大使館」の名称が残った。
このため日本のカトリック教会が「教皇」という名称に統一している現在においても、マスメディアでは日本の外交界における公式名称である「ローマ法王庁」が用いられることが多い。

 

四谷から皇居の方に向かって歩いてみる(1)

四谷から市ヶ谷へ向かう
外濠公園を通って、その後、少し一般道を歩いていくことにした。思いがけず、風情のある道だった。予想が好い方に大きくそれた。儲けものの散歩道だった。
四ツ谷駅前
四谷には麹町教会と上智大学とがある。少し歩けば、迎賓館やサレジオ修道会の日本管区長館もある。
四ツ谷駅前_1
四ツ谷駅前_2
四ツ谷駅前_3
四ツ谷駅前_4
四谷見附石垣
四ッ谷駅の北側に石垣の一部が残されている。この背後左下側は外濠のあったところで、現在はJR中央本線等がひっきりなしに走っている。
四谷見附石垣_1
四谷見附石垣_2
四谷見附石垣_3
外濠公園
この人物が向かう方向と反対方向に歩く
外濠公園_1
都心にこんなのんびりしたところがあっていいのだろうかと驚いた
外濠公園_2
外濠公園_3
外濠公園_4
外濠公園_5
外濠公園_6
外濠公園_7
道沿いには四谷雙葉がある。東京の女子御三家(桜蔭・女子学院・雙葉)の一つ。進学実績は抜群。ものすごい偏差値の学校のようだ。我が母校にも随分と来ていたようだ。
この学校のある辺りは千代田区6番町。いわゆる番町と呼ばれる一帯だ。すぐ隣には東大崇拝者には有名な番町小学校がある。

四谷雙葉_1
四谷雙葉_2
四谷雙葉_3
さらに外濠公園を歩く
外濠公園_8
外濠公園_9
外濠公園_10
外濠公園_11
外濠公園_12
進行方向左下を見るとたしかに江戸城の外濠がある
外濠公園_15
外濠公園_13
外濠公園_14

外濠公園には、ソメイヨシノやヤマザクラなど約240本の桜があり、公園が車道から一段上がった遊歩道になっているので、ゆっくりと歩きながら桜のお花見を楽しむことができます。外濠公園はJR中央線・総武線に沿ってあります。
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外濠公園(そとぼりこうえん)とは、東京都千代田区(一部新宿区)にある公園である。
江戸城外濠の土手や濠の跡を利用して作られており、濠に沿ってJR中央線飯田橋駅付近から四ツ谷駅南側までの約2kmにわたって細長く続く。江戸城外堀としては往時の姿をそのままに残す国指定の史跡である。
江戸城総構えの外周をなす外濠の土手は形式的とはいえ軍事施設の扱いであり、明治維新以降も「この(外濠の)土手、登るべからず」と記された看板が設置され、立ち入りが禁止されていた。
しかし1921年に法政大学が牛込濠端(現在の市ヶ谷キャンパス所在地)に移転して以来、禁を破って土手に入り込む同大学生が後を絶たず、警察官が出動し学生との小競り合いが生じる例が後を絶たなくなった。事態を重くみた法政大学は、校友であった東京市議会議員の協力を得て東京市(当時)に対して「外濠の土手開放」を強く求め、結果として1927年(昭和2年)8月31日に、大学最寄の牛込駅から新見附の間を外濠公園として開放された。その後公園の範囲を拡大し、現在の状態に至っている。「外濠を憩いの場として活用できるようにしたのは法大生であった」とされる。

 

JRAホースショー(5)

中障害C(5)
ジャンプオフの様子(4)
落馬シーン
着地の場所がなく、馬の体勢が大きく崩れた。選手は投げ出される形になり、モロに落馬してしまったようだ。お気の毒。
落馬シーン_00
落馬シーン_01
タイミングが遅れたようだ。障害を丸ごと蹴倒してしまった。
落馬シーン_1
障害の一部に乗ってしまわないように馬の着地が難しかったと思う。良く無事だったものだ。
落馬シーン_2
この状態で堪えると、人馬ともに危なかったかもしれない。投げ出されてよかったのかもしれない。
落馬シーン_3
落馬シーン_4
もんどり打って勢い良く投げ出された感じ
落馬シーン_5
馬に蹴られずに済んで良かった。間一髪だった。
落馬シーン_6
落馬シーン_7
落馬シーン_8
落馬シーン_9
落馬シーン_10
落馬シーン_11
落馬シーン_12
選手の驚いた顔が印象的。係員は必死に馬を止めに入る。
落馬シーン_13
落馬シーン_14
落馬シーン_15
ウィニング・ラン
1位
青たすきを授与された。あたりまえだが、誇らしげに見えた。
ウィニング・ラン_1位_1
ウィニング・ラン_1位_2
ウィニング・ラン_1位_3
2位
赤たすきを授与された
ウィニング・ラン_2位
3位
黃たすきを授与された
ウィニング・ラン_3位

ホースショー記事が長くなる。ここで、別のシリーズを挟むことにする。

 

JRAホースショー(4)

中障害C(4)
ジャンプオフの様子(3)
上位入賞者の様子
続けて好記録が出た。まずは、3位入賞の様子から。
3位入賞の山口真奈選手&ジュリアスファータ号
手応えがあったのだろう。満面の笑みがそれを証明していた。可愛いなあ。
3位入賞の山口真奈選手&ジュリアスファータ号_1
成績表示ボードを見るのは当然のことだろう
3位入賞の山口真奈選手&ジュリアスファータ号_2
3位入賞の山口真奈選手&ジュリアスファータ号_3
3位入賞の山口真奈選手&ジュリアスファータ号_4
3位入賞の山口真奈選手&ジュリアスファータ号_5
3位入賞の山口真奈選手&ジュリアスファータ号_6
3位入賞の山口真奈選手&ジュリアスファータ号_7
優勝の福島章選手&ザバンタ号
前走者の好記録にも慌てず泰然としていた。よほど調子が良かったのだろうか。32.85秒と2位に2.83秒もの大きな差をつけて、圧勝した。よほど攻撃的なライディングだったのだろう。
私のカメラワークは冴えず、山口真奈選手と福島章選手と立て続けに使えない写真量産の結果に終わってしまった。情けない話だった。
優勝の福島章選手&ザバンタ号_1
優勝の福島章選手&ザバンタ号_2
優勝の福島章選手&ザバンタ号_3
2位入賞の芹沢永治選手と&プルメリア号
それ迄の試合で3位入賞2回。この試合で2位となり、赤のたすきをつけることに。福島章選手のぶっちぎりのタイムを追いかけるべくものすごい形相で走っていた。それでも2.83秒も及ばず、無念の2位に甘んじた。
2位入賞の芹沢永治選手と&プルメリア号_1
2位入賞の芹沢永治選手と&プルメリア号_2
2位入賞の芹沢永治選手と&プルメリア号_3
2位入賞の芹沢永治選手と&プルメリア号_4
2位入賞の芹沢永治選手と&プルメリア号_5
2位入賞の芹沢永治選手と&プルメリア号_6
2位入賞の芹沢永治選手と&プルメリア号_7
2位入賞の芹沢永治選手と&プルメリア号_8
2位入賞の芹沢永治選手と&プルメリア号_9

 

JRAホースショー(3)

中障害C(3)
ジャンプオフの様子(2)
4番目に出場の横倉花絵選手は6位
ワイルドな感じの女性選手だった。
4番目に出場の横倉花絵選手_1
4番目に出場の横倉花絵選手_2
4番目に出場の横倉花絵選手_3
4番目に出場の横倉花絵選手_4
4番目に出場の横倉花絵選手_5
4番目に出場の横倉花絵選手_6
4番目に出場の横倉花絵選手_7
5番目に出場の草薙達也選手は4位
一転して、貫禄十分の選手が登場。それなりの実力を示した。
5番目に出場の草薙達也選手_1
5番目に出場の草薙達也選手_2
5番目に出場の草薙達也選手_3
5番目に出場の草薙達也選手_4
5番目に出場の草薙達也選手_5
5番目に出場の草薙達也選手_6
5番目に出場の草薙達也選手_7
5番目に出場の草薙達也選手_8
5番目に出場の草薙達也選手_9
5番目に出場の草薙達也選手_10
5番目に出場の草薙達也選手_11
5番目に出場の草薙達也選手_12
5番目に出場の草薙達也選手_14

 

JRAホースショー(2)

中障害C(2)
ジャンプオフの様子(1)
本競技で減点0だった16人で争われたジャンプオフ。順位付けは、ジャンプオフでの走行タイムとバーを落としたりする加算秒数を加味した所要タイムのみで競われる。本競技のように減点0を狙って慎重に行ったのでは勝てない。速さが必要なのだ。勢い無理を重ねてしまうことに。
最初の出場選手
私の位置からはよく見えなかったが、落馬でいきなりの失格。係員が救護に掛けつける騒ぎだったが、見た感じでは人馬ともに怪我がなかったようだった。
最初の出場選手_1
出番の欄に表示されているのは、本番競技の出場番号。ジャンプオフでは最初の出場選手。"E"は失格を表す。
最初の出場選手_2
2番め出場の渡邉祐奈選手は5位
直前の落馬の処理が済むのを待って走行開始。直前のトラブルにもめげず、今回も加算秒数無し。立派な成績だ。
2番め出場の渡邉祐奈選手_1
係員が所定の場所に戻るまで待機。普通に落下バーを元に戻すなどの場合は、待機がないようだ。あくまでも前走者が落馬だったためのようだ。
2番め出場の渡邉祐奈選手_2
2番め出場の渡邉祐奈選手_3
2番め出場の渡邉祐奈選手_4
2番め出場の渡邉祐奈選手_5
2番め出場の渡邉祐奈選手_6
2番め出場の渡邉祐奈選手_7
2番め出場の渡邉祐奈選手_8
2番め出場の渡邉祐奈選手_9
2番め出場の渡邉祐奈選手_10
2番め出場の渡邉祐奈選手_11
2番め出場の渡邉祐奈選手_12
2番め出場の渡邉祐奈選手_13
2番め出場の渡邉祐奈選手_14
2番め出場の渡邉祐奈選手_15
2番め出場の渡邉祐奈選手_16
2番め出場の渡邉祐奈選手_17
2番め出場の渡邉祐奈選手_18
2番め出場の渡邉祐奈選手_19
3番め出場の選手
完走者の中では最下位。ジャンプオフに出場できたのだから、決して下手な人馬じゃないはず。呼吸が合わなかったのだろう。見ていて、かわいそうになってしまった。
3番め出場の選手_1
3番め出場の選手_2
3番め出場の選手_3
3番め出場の選手_4

馬術競技解説のページにjump

 

JRAホースショー(1)

やっとGWの孫サービスを振りきって馬事公苑にやってきた。この日はホースショーの2日目。今回は、EOS 60D+70-300mm F4-5.6 APO DG MACROで撮った。カメラ本体だが、昨年、激しく落下させてから今ひとつ調子が良くない。今回も微妙だったかな。でも、私の腕前が良くなさ過ぎた所為だと、今回は思っておくことにした。(^_^;)

出場前のトレーニング
エレガントだなあ。先を急がなくてはいけないのに、思わず見入ってしまった。
出場前のトレーニング_1
出場前のトレーニング_2

のんびりしている場合じゃなかった。競技は既に始まっていた。

中障害C(1)
今回は、前回と違って女性&ジュニア限定ではなく、制限なしだった。そのため、オリンピック出場選手も何人か出場。中障害Cと言いながらも、極めて高いレベルの争いだったようだ。
競技途中の到着だったし、久しぶりの競技見学だったので、ジャンプオフまで、本競技を私の練習として撮影した。練習とは言いながら、全く調子が出ない。本当に困った。比較的まともに撮ることができたものをランダムに取り上げる。最初はスポーツモードにせずにスピードに慣れることから始めた。今回分は、小手調べという感じ。

女性選手の頑張りぶり(1)
女性選手の頑張りぶり(1)_1
女性選手の頑張りぶり(1)_2
女性選手の頑張りぶり(1)_3
女性選手の頑張りぶり(1)_4
女性選手の頑張りぶり(1)_5
女性選手の頑張りぶり(1)_6
女性選手の頑張りぶり(2)
女性選手の頑張りぶり(2)_1
女性選手の頑張りぶり(2)_2
女性選手の頑張りぶり(2)_3
女性選手の頑張りぶり(2)_4
女性選手の頑張りぶり(2)_5
前回中学生選手として頑張っていた大久保渓選手
いまは高校生かな、まだ中学生かな。取敢えず、減点0でジャンプオフ進出はさすが。
大久保渓選手_1
大久保渓選手_2
大久保渓選手_3
大久保渓選手_4
優勝した福島章選手&ザバンタ号の本競技での様子
この後の減点0通過者のみで競われるジャンプオフで、奥様(福島章選手)が他選手を圧する好タイムを叩きだしたので、後で出場したご主人(福島大輔選手)にも場内アナウンスでの叱咤激励が飛んだ。詳しい様子は次回以降に。
福島章選手&ザバンタ号_1
福島章選手&ザバンタ号_2
福島章選手&ザバンタ号_3
福島章選手&ザバンタ号_4
福島章選手&ザバンタ号_5
福島章選手&ザバンタ号_6
福島章選手&ザバンタ号_7
福島章選手&ザバンタ号_8
福島章選手&ザバンタ号_9

 

会津若松~いわき~相馬・南相馬(15)

相馬中村城址
我が祖先も禄を食んでいた相馬中村藩。一時、NPO活動で、会長(故相馬雪香氏)と常任理事(私の妻)という時期もあり、時代を超えて主従の縁があった。相馬藩は小藩が故に大藩の伊達を絶えず意識していたようだ。それがために我が祖先も引き立ててもらったとか。そして、絶えず武力を維持すべて相馬野馬追を続けていたのだろうか。
そんなことを言うと宮城県の人たちに叱られてしまうが、現代の日中関係を彷彿とさせる感じだ。

昔の中村城
伊達と戦争状態になった時には、攻めこまれないような仕掛けが為されていたようだ。
正保城絵図(本丸付近)…相馬市の画像を借用
正保城絵図(本丸付近)
奥州相馬中村城絵図…相馬市の画像を借用
奥州相馬中村城絵図
中村城下地図…相馬市の画像を借用
中村城下地図
現在の様子
堀割と大手門とが残る城址にすぎない。
この画像のみfreeの画像を借用
大手門
現在の様子_1
現在の様子_2
現在の様子_3
現在の様子_4
現在の様子_5
現在の様子_6
現在の様子_7
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現在の様子_20
現在の様子_21
現在の様子_22
相馬野馬追・神旗争奪戦…神旗を持って羊腸の坂を駆け上がる騎馬武者
今回はやむを得ずfreeの画像を借用した。今年の相馬野馬追・神旗争奪戦の観戦ツアーには既に申し込んだので、いずれ取り上げる機会があると思う。
相馬野馬追・神旗争奪戦

相馬中村城(そうまなかむらじょう)は、福島県相馬市中村(令制国下:陸奥国宇多郡中村)にあった日本の城。単に中村城とも言うが、他の「中村城」と区別する際には、相馬中村城や陸奥中村城という。
戦国時代から江戸時代にかけての大名・相馬氏の居城の一つであり、江戸時代には藩主相馬氏の中村藩の藩庁であった。馬陵城(ばりょうじょう)という別名を持つ。



野馬追に出るために飼育されている馬さんたち。たった2日のために飼育しているのだ。半分は従弟の隣家で飼育している馬さん。彼らの置かれている状況を考えると、大丈夫なのかと心配してしまうほどだ。今度の相馬野馬追・神旗争奪戦は必ず見に行くから頑張ってくれ。と言っても500頭もいるのでは、どれがどれやら区別するのは難しそうだが。
野馬追に出るために飼育されている馬さんたち_1
野馬追に出るために飼育されている馬さんたち_2
野馬追に出るために飼育されている馬さんたち_3
野馬追に出るために飼育されている馬さんたち_4

以上で、『会津若松~いわき~相馬・南相馬』シリーズは終了です。最後までご覧頂き、有り難うございました。

 

会津若松~いわき~相馬・南相馬(14)

松川浦
相馬地方には全国的に有名な存在が2つ。一つは相馬野馬追。そして、もう一つは、風光明媚な潟湖である松川浦。後者の松川浦は、東北大震災で大きな被害を蒙り、いま、復興途上にある。
基幹の建築構造物を修復する一方で、水産物の試験操業を行い、安全性のアピールにも務めている。それでも、福島の農林水産物は絶対に口にしないという頑なな方も少なく無いだろう。『頑張れ東北』はキレイ事のスローガンに思えて仕方がない。
特にさんまやカツオは同じ漁場から獲っている。福島県産と言って忌避する理由は皆無のはずだ。
美しい松川浦は見る影もない状況に
江内には海苔の養殖用の数多くの竹竿が垂直に林立して居たはずなのに、…。かつての美しい潟湖の面影はいま何処。言葉も出ないほどに破壊され尽くしたようだ。それでも、2011年11月7日放送の『鶴瓶の家族に乾杯』で取り上げられた時よりは、かなりマシな状況にはなってきていることだろうが。
美しい松川浦は見る影もない状況に_1
美しい松川浦は見る影もない状況に_2
美しい松川浦は見る影もない状況に_3
美しい松川浦は見る影もない状況に_4
美しい松川浦は見る影もない状況に_5
『ホテル 飛天』という和風リゾートホテル
1999年(平成11年)10月3日に、松川浦漁港で『全国豊かな海づくり大会』が天皇・皇后両陛下ご臨席の下で盛大に開催された。その折に、天皇・皇后両陛下が宿泊されたホテル。
『ホテル 飛天』_1
『ホテル 飛天』_2
『ホテル 飛天』_3
松川浦の現在の様子
何が何だか分からない状態だった。広大な湿地にも相当なダメージがあったことだろう。
松川浦の現在の様子_1
船だまりの奥の部分もみんな松川浦だ
松川浦の現在の様子_2
見える範囲には海に繋がる部分はない。開口部は左側。松川浦大橋が架かる水路のみ。
松川浦の現在の様子_3
松川浦の現在の様子_4
松川浦の現在の様子_5
松川浦の現在の様子_6
松川浦の現在の様子_7
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松川浦の現在の様子_1松川浦の現在の様子_0
松川浦の現在の様子_11
松川浦の現在の様子_12
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松川浦の現在の様子_16
松川浦の現在の様子_17
松川浦の現在の様子_18
松川浦の現在の様子_19
松川浦の現在の様子_20
松川浦の現在の様子_21
昼食は『復興丼』を頂いた
復興に協力する意味合いを込めて、食べさせていただいた。県外産の魚介類を食すなんて、それはないことだろう。
昼食は『復興丼』を頂いた
ちなみに、これが昨日の昼食
今年からふるさと寄付に対して少しだけいわき市役所もお礼に品物を出すようになった。それで送ってもらったいわきの海産物。さんまの丸干だ。非常に美味しかった。年間100匹ほどは食べて暮らした私の感想だから信じてほしい。
さんまの丸干

『福島の試験操業を視察 東京でも県産マガレイを買いました』という記事へjump

震災前の空撮写真…free画像を借用
写真左側が太平洋で、下側が北の方角になる。
私達が通ったのは、写真の下辺の家屋が密集している辺り。小さく出入口がある。そこに松川浦大橋(地元の人達は松川浦ベイビリッジと称しているようだ)が架かっている。未だに工事車両のみの通行に限定されているようだ。
画面左右(東西方向)に広がる入江だけを見てきたが、実際には南北に広がり部分が広大なようだ。

震災前の空撮写真_1
地図と同じ位置関係の空撮写真…free画像を借用
漁船が停泊していた船だまりはごく小さなエリアであることがお分かりいただけると思う。
震災前の空撮写真_2

松川浦(まつかわうら)は、福島県相馬市郊外にある潟湖である。
砂州により太平洋と隔てられた南北5km・東西3kmの南北に細長い入り江(湾)だが、海水の出入り口は北側にある1908年(明治41年)1月から1910年(明治43年)にかけて掘削されたわずか幅約80mの水路部分のみであり、太平洋との間の陸地が100m程度の幅しか無いため、実感としては「海のすぐそばにあるもうひとつの海」である。水路開削以前は砂洲側に河口があったが、潮流の変化や暴風などにより河口が塞がれたり位置がたびたび変わった。
入り江の入り口内側は松川浦漁港のひとつ原釜漁港、浦内最南部に磯部漁港がある。
大小の島や岩が点在する風光明媚な風景は日本三景の松島になぞらえて「小松島」とも評され日本百景のひとつに数えられ松川浦県立自然公園にも指定されている。春から夏にかけては潮干狩りが、漁港近くの海岸や、浦内最大の島・中州などで行われる。海苔の養殖が盛んで入り江内には数多くの竹竿が垂直に林立している。日本の白砂青松百選の選定も受けている。

 

会津若松~いわき~相馬・南相馬(13)

まずは全通した常磐高速道を通って、南相馬ICを目指す
最後まで残っていた浪江-常磐富岡間が本年3月1日に開通し、常磐自動車道は全線開通した。今回は、この有料道路を走行して南相馬市と相馬市とを回ってみようと考えた。
平行して走る国道6号は、福島第一原子力発電所事故に伴う帰還困難区域設定のため、福島県内の一部区間は許可車両以外の通行が規制されていたが、既に2014年9月15日からは自動車のみ自由通行が可能となっていた。そして、今回の常磐自動車道の全面開通が続いた。
ということで、インフラ整備はやや進んだのだ。これでJR常磐線が全面復旧すると、…なのだが、その日はかなり先になりそうだ。

いわき湯本ICから常磐高速道に入る
どうもICの設計が良くないのか、こちら方面からの右折進入は対向車線からの通行量が多いため、非常に時間がかかる。左側から外に出てこの道路をまたぐようにすればなんともないことなのだが、そんな費用は勿体無くて支出したくないのだろうか?
いわき湯本ICから常磐高速道に入る_1
仕方なく、進入箇所の交差点を通り過ぎ、∪ターンして反対側から入ったらスムーズに入ることができた。やっと、常磐自動車道に入ることができた。
いわき湯本ICから常磐高速道に入る_2
程なく、分岐点
前日は磐越道を使用して会津から戻ってきたのだった。ここは仙台方面へ直進。
程なく、分岐点
辺鄙な路線の仕様に
いわきの外れ辺りに差し掛かると、片側が1車線で制限最高速度は70Km/hになる。センターラインも事故を防ぐようにはできていない。これって、有料高速道路としては最低のスペックだが、まあ仕方がないかな。登板車線になると目一杯アクセルを踏んで追い抜きに励むしか無い。
辺鄙な路線の仕様に_1
辺鄙な路線の仕様に_2
辺鄙な路線の仕様に_3
辺鄙な路線の仕様に_4
素っ気ない『P』の表示
これは何だ。四倉はまだ、いわき市内だが、『P』の表示が何とも素っ気ない。おそらく、用足し専門の駐車スペースなのだろう。
素っ気ない『P』の表示
南相馬ICまでの距離数表示もできていない
如何に全線開通からそれほど経過していないと言っても約2ヶ月。南相馬ICまでの距離数表示くらいしてほしいものだ。間に合わせもいいところ。NEXCO東日本の対応のまずさが問題かもしれない。
南相馬ICまでの距離数表示もできていない
国道6号の富岡町以北は自動二輪車の走行は不可か。よく見ていなかったけれど、高速道路での扱いはどうなのだろうか。
国道6号の富岡町以北は自動二輪車の走行は不可
突如出てきた放射線量の表示
走行中の車両からチラと見ると、広野はごく低く、南相馬の放射線量が一番高いように見えなくもない。これはとんでもない話で、南相馬の放射線量はごくごく低い。NEXCO東日本はこの点でも考えて表示をしたほうが良いのでは。
突如出てきた放射線量の表示
かつてのJビレッジ
サッカー界の期待を一心に背負う施設だったのに、いまは見る影もない。東電の前線基地になっているのだろう。
かつてのJビレッジ
いよいよ原発の近くを通る
程なく除染土の一時置き場の状況が見えてきた
程なく除染土の一時置き場の状況が見えてきた
常磐富岡辺りは放射線量が高止まりの状態のまま
常磐富岡辺りは放射線量が高止まりの状態のまま_1
常磐富岡辺りは放射線量が高止まりの状態のまま_2
さすがに歩行者などは居なかった。自動車での通行のみが可の取り扱いなので、当然か。
常磐富岡辺りは放射線量が高止まりの状態のまま_3
もう少し行った辺りが、その日の最高値だった。帰還困難指定区域なのだろう。
常磐富岡辺りは放射線量が高止まりの状態のまま_4
原発から少しずつ離れていく
更にもう少し行くと、ぐんと下がる。この辺りは浪江町かな。
更にもう少し行くと、ぐんと下がる
田畑は残念ながら荒れ放題
田畑は残念ながら荒れ放題_1
田畑は残念ながら荒れ放題_2
漸く道路標示が出てきた。南相馬まで17Kmか。
漸く道路標示が出てきた
出来上がって間もない道路は綺麗だが
出来上がって間もない道路は綺麗だが_1
出来上がって間もない道路は綺麗だが_2
原町トンネル付近
放射線量はぐんと落ちる。南相馬市の放射線量はそれほど高くはなかった。
放射線量はぐんと落ちる
漸く普通の農村風景が見えてきた
漸く普通の農村風景が見えてきた
もう出口についた
もう出口についた

父の実家跡を見に行く
先導する従弟の車に従う
先導する従弟の車に従う
綺麗に修復されたり、建てなおされたりした家屋が一部に見られるようになってきた。この辺りは海からはかなり引っ込んだ地域なのだろう。
綺麗に修復されたり、建てなおされたりした家屋が一部に見られるように_1
綺麗に修復されたり、建てなおされたりした家屋が一部に見られるように_2
綺麗に修復されたり、建てなおされたりした家屋が一部に見られるように_3
元の鹿島町役場。現在は南相馬市鹿島支所なのかな。
元の鹿島町役場
JR常磐線
原ノ町-相馬間は運行が再開されたようだ。
JR常磐線_1
JR常磐線_2
海に近い地域
その先は閑散としてきた。道路の向かう先には太平洋が開けていて、右側は原ノ町になるのかな。
海に近い地域_1
海に近い地域_2
海に近い地域_3
海に近い地域_4
えーっ、更地にしちゃったんだ
従弟に聞いたところによれば、この辺り一帯は国が土地を買い上げ、防災工事を行っている最中とか。土地を手放してしまったからには、此処に戻ることはないのだろう。目印になるものが何も残されておらず、父の実家がどこだったか、私にはわからなかった。しばし呆然としてしまった。この辺り一帯は、放射線量が高い訳ではなく、高潮対策上、後顧の憂いがないような対策を施している最中。
えーっ、更地にしちゃったんだ_1
えーっ、更地にしちゃったんだ_2
えーっ、更地にしちゃったんだ_3
えーっ、更地にしちゃったんだ_4
えーっ、更地にしちゃったんだ_5
ここだったと従弟は言う。更地になってからは、よく見ないとわからなかったようだ。
えーっ、更地にしちゃったんだ_6
えーっ、更地にしちゃったんだ_7
えーっ、更地にしちゃったんだ_8
えーっ、更地にしちゃったんだ_9
この1軒だけは地盤が高かったのか助かったようだ
この1軒だけは地盤が高かったのか助かったようだ
カルガモかな。水たまりも何も無いのに、元気よく飛び回っていた。
カルガモかな

 

会津若松~いわき~相馬・南相馬(12)

今年は見そこねた三春の滝桜
昨年の様子はこんなふうだった。2016年の桜は見逃さないように行きたいものだ。
三春の滝桜_昨年の様子_1
三春の滝桜_昨年の様子_2
三春の滝桜_昨年の様子_3
三春の滝桜_昨年の様子_4

飯野八幡宮
ここ数年は毎年訪問している。まだ私が若かった頃、新聞を読んでいたら、飯野八幡宮の大薙刀が、その後本殿が国の重要文化財に指定されたという記事をあったのでびっくり。その時はどんな神社なのだろうかと漠然と考えた程度だった。現在は同じ市内だが、私が住んでいた時は、隣の市だった。中学生の私には馴染みがない世界だった。
新聞記事を見てもずっと帰省することはなく、あの大惨事が発生した2011年を迎えた。その年から、毎年、ふるさと寄付を行い、帰省するようになった。そして、地元の情報通の級友に聞いたら、何とその神社は級友の嫁ぎ先だった。挨拶方々、写真を撮らせてもらうことにしたのだった。

本殿(国指定重要文化財…昭和58年1月)
今回は屋根葺き替え修理工事中だったので、昨年撮影のもので代替する。屋根葺き替え修理工事は、現在の宮司になってから2回めのことだそうだ。大震災の影響で、見かけ以上に傷んでいたのかもしれない。物入りなことだろう。
本殿(国指定重要文化財…昭和58年1月)_1
本殿(国指定重要文化財…昭和58年1月)_2
本殿(国指定重要文化財…昭和58年1月)_3
本殿(国指定重要文化財…昭和58年1月)_4
本殿(国指定重要文化財…昭和58年1月)_5
拝殿(いわき市指定有形文化財)
拝殿のみが国指定の重要文化財にはなっていない。その理由が私にはわからない。
拝殿(いわき市指定有形文化財)
若宮八幡神社本殿(国指定重要文化財…平成14年12月)
若宮八幡神社本殿(国指定重要文化財…平成14年12月)_1
若宮八幡神社本殿(国指定重要文化財…平成14年12月)_2
仮殿(国指定重要文化財…平成14年12月)
仮殿(国指定重要文化財…平成14年12月)
神楽殿(国指定重要文化財…平成14年12月)
神楽殿(国指定重要文化財…平成14年12月)
唐門(国指定重要文化財…平成14年12月)
唐門(国指定重要文化財…平成14年12月)_1
唐門(国指定重要文化財…平成14年12月)_2
楼門(国指定重要文化財…平成14年12月)
楼門(国指定重要文化財…平成14年12月)_1
楼門(国指定重要文化財…平成14年12月)_2
宝蔵(国指定重要文化財…平成14年12月)
宝蔵(国指定重要文化財…平成14年12月)
国指定重要文化財は下記のものもある
こちらは残念ながら実物を拝見したことがない。
大薙刀 銘「備州長船住盛景 貞治六年十一月日」 - 盛景は長船派の刀工、貞治6年は1367年。 (国指定重要文化財工芸品…昭和49年6月)
飯野家文書 1,683通  (国指定重要文化財古文書…平成6年6月)


社伝によれば、前九年合戦後の康平6年(1063年)に、源頼義によって創建されたと伝えられる。これと別に、石清水八幡宮を勧請して文治2年(1186年)に建立したとする伝えもある。
浜通り南部でも最大級の神社であり、岩城氏や磐城平藩主など当地を本拠地にした権力者たちから崇敬を受けて来た。当初は、好嶋荘(好嶋西荘)政所が置かれた岩城郡飯野郷(村)の赤目崎見物岡(現在のJR常磐線いわき駅北側の高台)に建設され、12世紀以後に岩城氏が当地を本拠地にした時期を通して続いた。

 

会津若松~いわき~相馬・南相馬(11)

いよいよ会津若松市での最終目的箇所である飯盛山に向かう。至る所で鍵の手になっている道。ナビが普及している所為か、道路案内は殆ど無い。アッシー君の車はいい車なのだが、あいにくナビがついていなくて、心配していたとおり道に迷う。それでも何とか辿り着いた。

飯盛山
飯盛山の長い階段を徒歩で歩いてきたので、登り切った時はヘロヘロ状態。異常に暑いこともあって、何処にも行きたくないほどバテた。飯盛山には、『白虎隊十九士の墓』は、今回パスした。というか、本音を言えば見たくなかった。
自刃の地
お城が見えなければどれだけ幸せだったかもしれない。しかし、立ち上がる黒煙で、辛うじて肉眼でも確認できたのだろう。戸ノ口の戦いで敗走し、洞窟をやっとの思いでくぐり抜けてきた隊士たちには、絶望的な状況に映ったことだろう。自刃を選択したのはやむを得なかったことかもしれない。
自刃した19名は安達藤三郎・有賀織之助・池上新太郎・石田和助・石山虎之助・伊東悌次郎・伊藤俊彦・井深茂太郎・篠田儀三郎・鈴木源吉・津川喜代美・津田捨蔵・永瀬雄次・西川勝太郎・野村駒四郎・林八十治・間瀬源七郎・簗瀬勝三郎・簗瀬武治。

自刃の地_1
自刃の地_2
その場所から見た鶴ヶ城。望遠レンズで撮ったもので、梯郭式平山城のお城は、肉眼ではこれほどははっきり見えなかったはずだ。
その場所から見た鶴ヶ城
江戸時代後期、戊辰戦争に際して新政府軍と幕府方の会津藩の間で発生した会津戦争に際して、会津藩では藩士子弟の少年たちで構成される白虎隊と呼ばれる部隊が結成され抗戦するが、そのうち士中二番隊が戸ノ口原の戦いにおいて敗走し撤退する際に飯盛山に逃れ、鶴ヶ城周辺の武家屋敷等が燃えているのを落城と錯覚し、もはや帰るところもないと自刃した地でもある。「白虎隊十九士の墓」には、年間200万人ともいわれる観光客が訪れ、墓前には早すぎる死を悼む香煙がたえない。
さざえ堂
私が最も見たかったのは、このお堂だ。国指定の重要文化財。さざえ堂なるものは、各地に存在したようだが、見るならば、此処しか無いと以前から考えていて、今回念願かなってお参りできた次第。
構造が構造だけに簡単に補修できるわけもないのか、重量級の私が歩くには危険な感じがかなりした。重量制限とか、同時入場人数制限とかしたほうが良さそうな感じに思えた。行って見るならば、いずれあるだろう補修工事が行われる前にしたほうが良いように思った。

さざえ堂_1
さざえ堂_2
さざえ堂_3
さざえ堂_4
さざえ堂_5
さざえ堂_6
さざえ堂_7
さざえ堂_8
さざえ堂_9
さざえ堂_10
さざえ堂_11
さざえ堂_12
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さざえ堂_19
さざえ堂_20
さざえ堂_21
さざえ堂_22
さざえ堂_23
栄螺堂(さざえどう、さざいどう)は、江戸時代後期の東北~関東地方に見られた特異な建築様式の仏堂である。堂内は回廊となっており、順路に沿って三十三観音や百観音などが配置され堂内を進むだけで巡礼が叶うような構造となっている。仏教の礼法である右繞三匝(うにょうさんぞう)に基づいて、右回りに三回匝る(めぐる)ことで参拝できるようになっていることから、本来は三匝堂(さんそうどう)というが、螺旋構造や外観がサザエに似ていることから通称で「栄螺堂」、「サザエ堂」などと呼ばれる。
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会津さざえ堂は、二重らせん構造の斜路をもつ特異な建物として知られる。福島県会津若松市の白虎隊の墓所のある飯盛山の中腹に建つ。通称は「会津さざえ堂」もしくは単に「さざえ堂」で、正式名称は「円通三匝堂」(えんつうさんそうどう)という(重要文化財指定名称は「旧正宗寺三匝堂」)。
平面六角形の特異な建物である。概ね三層構造といえるが、内部には二重らせん構造の斜路が続き、右回りに上る斜路と左回りに下りる斜路が別々に存在する。入口から斜路を最上階まで上り、他者とすれ違うことなく、別の斜路を降りて出口から出ることができる。
かつてこの地にあった正宗寺の仏堂として、江戸時代後期の寛政8年(1796年)(『新編会津風土記』による)に当時の住職であった郁堂(いくどう)が建立したものである。当時は阿弥陀如来を本尊とし、斜路には三十三観音像が安置されていたという。神仏混交の信仰形態をもっていた正宗寺は、明治初期の廃仏毀釈で廃寺となり、以後、栄螺堂は個人の所有となっている。また、堂内にあった三十三観音像は他所へ移され、代わりに「皇朝二十四孝」の額が取りつけられている。平面は一辺3.4メートルの六角形で、堂内中央部に6本の通し柱を立てる。側柱(建物外周に立つ柱)も6本の通し柱で、中央柱との間には繋梁を渡す。屋根は銅板葺きとし、正面入口には唐破風造の向拝を設ける。最上部の天井は折上げ鏡天井とする。
同名の堂は他所にもあるが、旧正宗寺三匝堂のような特異な内部構造をもった堂は他に知られず、稀有な例として1995年6月27日付けで国の重要文化財に指定された。

宇賀神堂
何もなければ宇賀神を祀るだけのただのお堂だったことだろう。それが思いもかけない戦争が勃発し、自刃した白虎隊19士の霊像を安置することになった。松平正容には想像もできないことだっただろう。
宇賀神堂_1
宇賀神堂_2
宇賀神堂_3
宇賀神堂_4
宇賀神堂はさざえ堂の境内に隣接した所にあります。創建は寛文年間(1661~1672)に会津藩三代藩主松平正容が宇賀神(宇迦之御魂神と同神とされ弁才天と神仏習合していました。穀物・食物を司る神として五穀豊穣に御利益があるとされます。)を勧請し弁財天像を神像として社殿を建立した事が始まりです。社殿は桁行3間、梁間2間、入母屋、銅板葺きの建物で中には戊辰戦争で飯盛山で自刃した白虎隊19士の霊像を安置しています。霊像は明治23年(1890)、白虎隊の墓碑を改修した際、大橋知伸(若松城下滝沢村出身の仏師)、田中治八によって製作されたものでフランス風の洋服(軍服)を着ています。
戸ノ口堰洞穴
この激しい水流の中を白虎隊の少年隊士たちは150mも潜ってきたのか。よくぞ溺死しなかったものと、感心するほどだ。それなのに、それなのに、お城から上げる黒煙。それを目にした彼らの無念は、如何ばかりだっただろうか。
戸ノ口堰洞穴_1
戸ノ口堰洞穴_2
戸ノ口堰洞穴_3
戸ノ口堰洞穴_4
戸ノ口堰洞穴_5
飯盛山の山腹に、水流の中、ぽっかりと口を開けている洞門がある。これは、猪苗代湖の水を、会津地方に引くため掘られた洞穴で、戸ノ口堰洞穴(とのぐちせきどうけつ)という。
猪苗代湖畔・戸ノ口原の戦いで破れた白虎隊士ら二十名は、鶴ヶ城を目指して、この長さ約一五〇メートルの洞穴を潜り、命からがら、飯盛山の中腹へと至った。
主君の御城、鶴ヶ城の安否を確かめんとする一心で、冷たい水が容赦なく流れる洞穴の中を、身を屈め、足を取られながらも、進んでいった。
そうして、飯盛山の中腹に辿り着いた末、彼らは城下の黒煙を目にすることとなる。その無情―、少年たちの無念、思うに余りある。

白虎隊士の墓…free画像を借用
正面の墓は、明治元年(1868)の戊辰戦争において飯盛山で自刃した十九士の墓です。八月二十三日(新暦十月八日)自刃した隊士の遺骸は、西軍により手をつけることを禁じられていました。約三ヶ月後村人により、密かにこの近くの妙国寺に運ばれ仮埋葬され、後この自刃地に改葬されました。現在の形に十九士の墓が建てられたのは明治二十三年で、二度にわたり墓域が拡張されました。右側の墓は、会津の各地で戦い、亡くなった白虎隊士三十一名の墓です。左側の碑は白虎隊士と同じ年齢で県内各地及び新潟・栃木・京都で戦い、戦士した会津藩少年武士(白虎隊の仲間達)の慰霊碑です。
白虎隊士の墓_1
白虎隊士の墓_2
白虎隊士の像…free画像を借用
白虎隊士の像

 

会津若松~いわき~相馬・南相馬(10)

末廣酒造嘉永蔵(3)
ホール。創業当時の屋号は○の中にカタカナの「イ」と書いてマルイ。「イ」は猪之吉氏のイだそうだ。
末廣酒造嘉永蔵_3_1
酒造用の用具色々
末廣酒造嘉永蔵_3_2
山廃仕込みについて説明がなされていた。大変な技術なんだろうとは思うが、その方面に疎い私にはちんぷんかんぷんだった。
末廣酒造嘉永蔵_3_3
末廣酒造嘉永蔵_3_4
末廣酒造嘉永蔵_3_5
末廣酒造嘉永蔵_3_6
酒を絞るための装置。醪を麻袋に詰め、この中に入れる。それを重みをかけて絞り出した。この装置の形が舟に似ているので、『酒ぶね』というとのこと。
末廣酒造嘉永蔵_3_7
酒の出口は想像がつくと思うが、『ふな口』という。
末廣酒造嘉永蔵_3_8
その昔、末廣では、3つの商いをしていた。一つ目はもちろん、酒の醸造販売。2つ目は、計量機器の製造販売、3つ目は、高級漆器の製造販売。此処には2つ目に関連したものが陳列してあった。
末廣酒造嘉永蔵_3_10
基準になる秤は福島県内に残る唯一のものだったと聞いた記憶がある。記憶違いかもしれないが。
末廣酒造嘉永蔵_3_11
末廣酒造嘉永蔵_3_12
此処でコンサートが催されることがある。音響効果が良いとか。渡辺貞夫や日野皓正らが使用するのだから、折り紙付きなのかもしれない。
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かつての当主の住居部分
末廣酒造嘉永蔵_3_14
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末廣酒造嘉永蔵_3_18
展示スペース。お宝ゴロゴロなのだ。目を見開いて見ておくべきかも。
地元出身の室井東志生画伯の作品
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松平容保直筆の書。『源容保』と書いてある。『精而雅』とは、どんな意味だろうか。精にして雅というような意味合いなのだろうか?
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末廣酒造嘉永蔵_3_21
野口英世の書
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末廣酒造嘉永蔵_3_23
徳川慶喜の書
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末廣酒造嘉永蔵_3_25
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吉田茂の書状。これはやり過ぎかな。
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末廣酒造嘉永蔵_3_31
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大正天皇、昭和天皇の即位式で使用された木盃。これは末廣製で、前述した3つの商い品のうちの一つ。
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会津若松~いわき~相馬・南相馬(9)

末廣酒造嘉永蔵(2)
見学、試飲と続くと相当に時間がかかりそうなので、先に嘉永蔵の入口周辺の様子を撮っておくことにした。なお、日本経済新聞NIKKEIプラスワン(2013.1.26号)で「訪ねて楽しい日本酒の蔵元」第1位に選ばれているのだそうだ。
末廣酒造嘉永蔵_2_1
末廣酒造嘉永蔵_2_2
寅さんシリーズのカメラマン高羽哲夫氏の展示スペースもあった
末廣酒造嘉永蔵_2_3
末廣酒造嘉永蔵_2_4
仕込み用の水は、持ち帰り自由だそうだ。朝、汲みに来る方がかなりいらっしゃるとのことだ。そして、酒をビンなどに詰めて持ち帰る昔の小売り用の小窓もあった。
末廣酒造嘉永蔵_2_5
再び蔵の中。入ったすぐのところで色々と見てみる。
末廣酒造嘉永蔵_2_6
末廣酒造嘉永蔵_2_7
末廣酒造嘉永蔵_2_8
野口英世の母シカさんが行商や新鶴村の中田観音にお参りに行く途中に度々立ち寄り、この囲炉裏で朝食をとったようだ。恩師の小林栄校長先生の姉がこの末廣に嫁いでいたので、その挨拶をも兼ねてのことだったようだ。
末廣酒造嘉永蔵_2_10
もたもたしている間に説明が始まっていた。慌てて、途中参加させてもらう。まずは醪室にはいる。
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蔵人体験”my酒造り”の説明。普通の市販用清酒の醸造は西に約10キロ離れた場所にある平成8年に建てられた博士蔵蔵で行っているらしい。この蔵では、蔵人体験”my酒造り”に参加してもらったり、見学説明用に使用している。
末廣酒造嘉永蔵_2_12
末廣酒造嘉永蔵_2_13
末廣酒造嘉永蔵_2_14
小型の搾り機。もろみを麻袋に入れておもりを掛けて絞りだす。その残りカスが酒粕になるわけだ。蔵人体験”my酒造り”用に用意したものだとのこと。細かい説明が続いたが、失念してしまった。
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酒造米のサンプル。酒造専用米には『心白』というものがあるそうだ。我々が普通食べる米にはそういうものがないらしい。
末廣酒造嘉永蔵_2_21
酒造専用米は、丈が高いのが特徴のようだ。山田錦は本場のものと福島のものとを使い分けしているとのことだが、悔しいことながら本場のものの方が質が良いようだ。土壌の違いなのだろうか。
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蔵人体験”my酒造り”用に使用する蒸し釜。普段は、あの穴の中に入れてあるが、内部修復中のため、引き上げてあるとのことだった。
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末廣酒造嘉永蔵_2_28
長期保存熟成中。写りが良くないと思ったら、変なフィルタを装着したままだった。
末廣酒造嘉永蔵_2_29
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末廣酒造嘉永蔵_2_31
麹室の模型。本物が中で作業するものもっと大きいものだそうだ。
末廣酒造嘉永蔵_2_33

 【杜氏の独り言】
 「きもと」の改良型とも言うべき「山廃」。
 「きもと」の山卸作業を廃止したのが「山廃」のわけですが、時々「きもとの手抜き」とか「きもとを簡略化したもの」なんて言われます。
 でも、手抜きではなく「きもと」と同じように自然界から乳酸を生成し、その自然環境の中で酵母を純粋培養するという作業で、とても大変な労力と手間がかかり、日数も一緒です。
 「山廃」の創始者嘉儀金一郎氏は、大正初めに3年間末廣に来てその山廃造りの試験醸造を行い、末廣に山廃造りを伝えていかれました。
 ちなみに、いつもニコニコして、当時のいかつく口煩い蔵人達にも優しく「酒造り」を教えてくれたそうです。
 「まるで神様のようだった」と言われていたそうです。
 そんな嘉儀金一郎氏直伝の末廣の山廃。
 ずっと今後も伝承しなければならない造り方です。


次回も見学記事が続きます。

 

会津若松~いわき~相馬・南相馬(8)

野口英世洗礼(初恋)の地
日本基督教団の若松栄町教会がこの場所にあった。そこで野口英世は受洗し、山内ヨネ子との初恋をしたようだ。
1892(明治25)年10月、会津若松の会陽医院長・渡部鼎先生により左手の手術を受ける。そのことがきっかけとなり医師を目指し、1893(明治26)年3月に、猪苗代高等小学校を優等卒業。同年、5月、会陽医院に書生として入門。医学・英語・仏語を学ぶ。それが彼のキャリアのスタートだったのか。
山内家の事情があったようで、山内ヨネ子との恋は実らなかった。山内ヨネ子は会津で最初の女医となった。野口英世はかなりヨネ子のその後を気にかけていたようである。

跡地よりも隣家の立派な佇まいのほうが気になった。
野口英世洗礼(初恋)の地_1
野口英世洗礼(初恋)の地_3
野口英世洗礼(初恋)の地_4
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野口英世19歳の時、洗礼を受けた若松栄町教会の跡地です。今は栄町に移転していますが、当時はここ日新町(旧北小路35番地)にありました。教会で英語を学び、初恋の人・山内ヨネ子と出会ったのもこの教会であることから、「野口英世 初恋の地」とも呼ばれています。

末廣酒造嘉永蔵(1)
私でも知っていた酒蔵。「野口英世 初恋の地」のすぐ近くにある。もちろん、こちらのほうが古株だ。
だが、野口英世の生涯の恩師として知られる小林栄の姉が末廣に嫁いでいた縁から、野口英世ゆかりのものがかなりあるということまでは知らなかった。蔵の中のホールには、渡辺貞夫や日野皓正なども演奏しに来るのだそうだ。
いまは、蔵人体験”my酒造り”の場と活用しているようだ。
喫茶「杏」でお茶を飲み、その後に見学をしたので、時間がかなり遅くなってしまった。飯盛山に向かう時間を確保すべく、楽しみにしていた試飲はパスせざるを得なかった。残念。

一部3階建の木造建築か。すごいなあ。中もすごいのだろうと期待が膨らむ。
末廣酒造嘉永蔵_1_1
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外観は期待通りだった。最初から魅了されてしまった。でも、勝負は、その先だと、…。
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見学までの間、蔵を利用した喫茶室で時間を潰した。水だしのコーヒーは、氷もコーヒーを凍らせたものだった。手間がかかっていた。
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造り酒屋の6つの酒蔵と木造3階建ての住居が見学できます。見学や試飲は無料です。
併設されている喫茶「杏」では、酒の仕込み水で入れたコーヒー等を飲むこともできます。また、まち歩きスイーツの参加店でもあります。

 

会津若松~いわき~相馬・南相馬(7)

七日町(なぬかまち)
末廣酒造嘉永蔵を見学したかった。少々時間が押していたので、この通りで実際に入ったのは、『中むら』という蕎麦屋と、『会津ブランド館』のみ。写真ばかりで失礼。
阿弥陀寺で特別公開中だった『御三階』を見逃したのは、非常に残念。行くつもり満々だったが、末廣酒造嘉永蔵見学で全く時間的余裕が無くなってしまった。

渋川問屋
こういうお店でゆっくり食事をしたかった。店の前が工事中で入るのを躊躇してしまったが、いけばよかったと後悔している。
渋川問屋_1
渋川問屋_2
渋川問屋_3
120年以上もの歴史をもつ元海産物問屋。趣きのある戸をくぐると、レトロで重厚な内装が目に入ります。会津の地で長く受け継がれている郷土料理を囲炉裏などを眺めながらいただくことができます。豪壮な歴史的建物で味わう郷土料理は、また格別!とリピーターも多いのが特長です。また、別館はシックでおとなの雰囲気が醸し出される宿泊施設。明治時代の蔵を利用したサロン風ロビーと棟続きのゆったりとした和洋室のお部屋で構成されています。庭園に張り出した図書室には、会津の歴史に関する書籍も揃えられてあり、ゆったり過ごすのには最適です。七日町通りという便利な場所にありながら、会津若松の「おとなの隠れ家」的な宿として好評です。
川俣シルク小手姫ノ衣
川俣町のシルクは高い加工技術で有名だ。奥様連れの方はある程度の出費を覚悟しなくてはいけないかも。幸いにも男2人の旅で、定休日だったので、…。
川俣シルク小手姫ノ衣_1
川俣シルク小手姫ノ衣_2
平成25年4月に、街なかの空き店舗(蔵)を改修し、「活力ある商店街支援事業(空き店舗対策事業)」を活用して開店しました。
県内の織物業者でつくる福島県絹人繊維物構造改善工業組合が、川俣町特産の絹織物「川俣シルク」を販売する、初のアンテナショップで、川俣町の7社が出店し、絹製品を常時約1千点、展示販売しています。平成24年に「ものづくり日本大賞」内閣総理大臣賞を受賞した「世界一薄い絹織物」や「川俣軽目羽二重」のストールなどを展示・販売するほか、週末などには機織り体験も行っています。

本家長門屋七日町店
嘉永元年(1848)創業以来、5代150年余にわたりお菓子造りに取り組んできた老舗。会津のくるみをつかったお菓子のほか、可愛らしい駄菓子等もあります。
本家長門屋七日町店
もめん絲
会津木綿を使った手作りの店。反物~切り売りも可です。
もめん絲
やまでら茶屋
大正期の米穀蔵を改装した和風喫茶
やまでら茶屋
ほしばん絵ろうそく店
元祖会津絵ろうそく製造販売元。江戸時代からの伝統を守り続け、現在は9代目。
ほしばん絵ろうそく店
彩雅
骨董店のようだ
彩雅
中むら
昼食は蕎麦にした。私は鴨汁を食べた。
中むら_1
中むら_2
中むら_3
中むら_4
会津ブランド館
会津17市町村の産品を扱う。古い建屋を耐震補強して使用しているそうだ。檜枝岐村のものまで置いてあるとの事だった。私も何点か、お土産物を買わせてもらった。
会津ブランド館_1
会津ブランド館_2
会津ブランド館_3
会津ブランド館_4
会津ブランド館_5
会津ブランド館_6
会津ブランド館_7
会津ブランド館_8
会津ブランド館_9
会津ブランド館_10
会津ブランド館_11
会津ブランド館_12
バンダイスポーツ(塚原呉服店)
会津でも歴史のあるスポーツ用品店だそうだ。
バンダイスポーツ(塚原呉服店)_1
バンダイスポーツ(塚原呉服店)_2
鶴乃江酒造
会津中将、ゆり、会津の永寶屋の醸造元
鶴乃江酒造
池田種苗店
ファザードには蕪がデザインされていた。建築当時から、種苗店だったのだろう。
池田種苗店
こんなものもあった
元加茂屋商店青果倉庫、旧鈴木洋装店(現:尚伸株式会社)
焙煎機かな?
焙煎機かな?
ながい炭成館
蒸しカマド。見たことはあったが、名前は知らなかった。アッシー君に教えてもらった。
蒸しカマド
竹炭の店のようだ。見ておけばよかった。
ながい炭成館

大正浪漫の雰囲気のただよう七日町通りは、藩政時代には、会津五街道のうち日光、越後、米沢街道の主要道路が通り、城下の西の玄関口として問屋や旅籠、料理屋が軒を連ねていました。明治時代以降も重要な通りとして繁栄を極め、昭和30年代頃までは、会津一の繁華街としてにぎわっていました。その後、一度衰退したこの通りは現在大正浪漫を感じられる通りとして甦り、観光客に人気の通りとなっています。

 

会津若松~いわき~相馬・南相馬(6)

茶室『麟閣』(福島県指定重要文化財)
茶室というから、単に小さな建屋があるだけと思っていた。それはとんでもない思い違いで、由緒正しき茶室の佇まいにふさわしい環境がそこにあった。蒲生氏郷が利休の子少庵をかくまったお陰で、今日の茶道の隆盛ににつながっていったのか。茶道の歴史上も貴重な400年を経た建物なのだ。千家再興の地として茶人に知られ、その故をもって他の茶室にはない、三千家各家元の扁額が掲げられているとは、本当にすごいことだ。
何故、福島県指定重要文化財の扱いにとどめるのか、不思議でならない。

『麟閣』
躙口
躙口_1
躙口_2
床に向かう方向(麟閣東側)から見た様子
表千家14代家元而妙斎千宗左氏による扁額(平成2年)
床に向かう方向から見た様子_1
床に向かう方向から見た様子_2
裏側から見た様子
裏側から見た様子
説明図
説明図
『蒲鶴亭(ほかくてい)』
建屋の左側部分をそのように称する。全部含めて『麟閣』なのだと思っていたが、大間違いだったようだ。
蒲鶴亭(ほかくてい)_1
蒲鶴亭(ほかくてい)_2
蒲鶴亭(ほかくてい)_3
蒲鶴亭(ほかくてい)_4
蒲鶴亭(ほかくてい)_5
蒲鶴亭(ほかくてい)_6
麟閣とつながる形で建っています。無駄を省いた茶室麟閣とは異なり、装飾をすることが許されています。少庵が削ったという「赤松の床柱」も見ることができます。(森川家から移築復元)
茶室『麟閣』案内図
茶室『麟閣』案内図
『麟閣』の入口と出口
入口
裏千家15代家元・鵬雲斎 千宗室氏による扁額(平成7年)
『麟閣』の入口と出口_1
『麟閣』の入口と出口_2
『麟閣』の入口と出口_3
『麟閣』の入口と出口_4
出口
武者小路千家14代家元・不徹斎千宗守氏による扁額(平成16年)
『麟閣』の入口と出口_5
『麟閣』の周囲にめぐらされた塀
『麟閣』の周囲にめぐらされた塀
付属の施設等
寄付
『よりつき』と読ませる。席入りまでの手順があるんだ。
寄付_1
寄付_2
外露地に構えられる建物で、茶会に先立って客が連客と待ち合わせたり、身支度を整えて、席入りの準備をするための施設です。(森川家から移築復元)
中門
中門_1
中門_2
中門_3
腰掛待合
腰掛待合_1
腰掛待合_2
小さな庭
小さな庭_1
小さな庭_2
抹茶を頂いた。束の間だが、殿様気分がした。茶席菓子も美味だった。
小さな庭_3
薯藷饅頭(じょうようまんじゅう)は、小豆の皮を取り除き炊きあげた皮むき餡を丹念にすりおろした「つくねいも」と米粉の皮で包んで仕上げています

蒲生氏郷肖像画
キリシタン大名にして利休七哲の一人。よく出来た人物だったようだ。
蒲生氏郷

利休の後継と千家の再興 …記述のページにjump
少庵召出状…記述のページにjump

天正19年(1591年)、茶道の大成者である千利休は、豊臣秀吉の怒りに触れ死を命じられました。利休の茶道が途絶えるのを惜しんだ当時の会津領主蒲生氏郷は、利休の子少庵を会津にかくまい、徳川家康とともに千家復興を秀吉に願い出ました。その結果、秀吉の怒りが解け、少庵は京都に帰って千家を再興しました。千少庵の孫により、武者小路千家、表千家、裏千家の三千家が興され、今日の茶道の隆盛に至りました。
少庵が、かくまわれている間、氏郷のために作ったとされているのが「麟閣」です。千家再興の地として茶人に知られ、その故をもって他の茶室にはない、三千家各家元の扁額が掲げられています。
戊辰戦争で会津藩が敗れ若松城が取り壊される際、城下の茶人森川善兵衛は貴重な茶室が失われるのを惜しみ、明治5年(1872年)5月、麟閣を自宅へ移築しました。以来森川家は120年にわたり、その保全に努められました。平成2年(2000年)、元の場所に移築され、現在は福島県の重要文化財に指定されています。

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「麟閣」は400年を超える時を経て現在に伝えられてきました。幕末から明治維新の動乱によって戊辰戦争が勃発するなか、明治元年(1868)9月、会津藩は会津戦争に敗れ、鶴ケ城も取り壊されることになります。しかし、麟閣が失われるのを惜しんだ当地の森川善兵衛は、城下の自分の屋敷に麟閣を移築したのです。
森川家は、蒲生氏郷が会津をおさめていた戦国時代から薬種商をいとなみ、代々善兵衛を名のりました。麟閣を移築したのは8代善兵衛で、名は昌茂といい、指月庵宗久の号があります。石州流怡渓派(いけいは)の茶道を学び、慶応年間には会津藩の茶堂役をつとめました。
以後、森川家は120年にわたってその維持につとめられました。平成2年には、会津若松市の市政90年を記念して、麟閣はもとの鶴ケ城に移築され、現在もその姿をとどめています。

 

会津若松~いわき~相馬・南相馬(5)

鶴ケ城(4)
城址公園MAP
城址公園MAP
走長屋
天守閣から降りた辺りが『走長屋』。いまは、鶴ヶ城ギャラリー&ショップとなっているが、往時は南走長屋とともに表門の防御にあたっていた。決してノンビリゆっくりの場所ではなかった。そこの小脇から天守閣を仰ぎ見た様子。
走長屋
走長屋を本丸跡からみた様子…free画像を借用
走長屋
表門(鉄御門)の真上部分かな
南走長屋_1
南走長屋
南走長屋_2
南走長屋_3
南走長屋_4
南走長屋_5
南走長屋は、表門(鉄門)から続いており、帯郭と本丸を隔てる重要な位置にあります。現在ある天守閣から表門をつなぐ走長屋とともに表門を守り、帯郭から本丸への敵の侵入を防ぐ要となっていたと思われます。
干飯櫓
食料庫として使用していたようだ。再建されて間もないらしく、木組みが綺麗だった。
干飯櫓出口付近から鉄御門、大天守方面を見る
干飯櫓出口付近から鉄御門、大天守方面を見る_1
干飯櫓出口付近から鉄御門、大天守方面を見る_2
南走長屋と干飯櫓の接続ヶ所あたりの様子
南走長屋と干飯櫓の接続ヶ所あたりの様子_1
南走長屋と干飯櫓の接続ヶ所あたりの様子_2
南走長屋と干飯櫓の接続ヶ所あたりの様子_3
天守閣から見た南走長屋と干飯櫓の様子
5階から見た様子_13
干飯櫓は若松城内にあった十一の二重櫓の中で一番大きかった櫓です。会津藩の文献資料である「家世実紀」では「糒櫓」とも書かれており、米を備えると書くその字のとおり、糒(干飯)などの食糧の貯蔵庫として使われていました。また、干飯櫓は南側の濠に面しており、石落しが備えられています。このことから、お濠からの敵の侵入を防ぐ点でも、重要な役割を担っていたと思われます。
干飯櫓を出た辺り(本丸外周)の土塁
水面までは相当の高低差がありそうだった。怖いので覗くのはやめたが、他の方のブログの記述によれば、本丸外周の土塁の外側上部は石垣になっているそうだ。いわゆる鉢巻石垣になっているということのようだ。
干飯櫓を出た辺り(本丸外周)の土塁_1
干飯櫓を出た辺り(本丸外周)の土塁_2

『甦る鶴ヶ城 干飯櫓の復元』へjump

 

会津若松~いわき~相馬・南相馬(4)

鶴ケ城(3)
ちょうど50年前に再建された天守閣(2)
5階から見た様子
非常によく見えるが、その分、恐怖心も半端じゃ無い。怖かったが、せっかく上ったのだ。ついでに遠景も撮ってみた。
5階から見た様子_1
当然のことながら会津磐梯山がよく見えた。この方角からは一番の展望かもしれない。
5階から見た様子_2
小さな子どもたちが来ていた。可愛いなあ。
5階から見た様子_3
後で調べればすぐわかると思った建物。未だに何の建物かわからない。随分屋根が傷んでいるなあ。
5階から見た様子_4
5階から見た様子_5
武者走りが目立つなあ。危急の折には、あそこを駆け上がったのだろうか。落ちそうで怖い。
5階から見た様子_6
5階から見た様子_7
5階から見た様子_8
5階から見た様子_9
5階から見た様子_10
北東の方角に飯盛山があるのだから、この辺りかなあと思って撮ってみた。でも全く自信なし。怖くて確認する余裕なし。
5階から見た様子_11
ここに本丸御殿があった。右後方に桜が何本か咲いている。そこが茶室『麟閣』だ。
5階から見た様子_12
5階から見た様子_13
5階から見た様子_14
5階から見た様子_15
5階から見た様子_16
5階から見た様子_17
5階から見た様子_18
5階から見た様子_19
5階から見た様子_20

 

会津若松~いわき~相馬・南相馬(3)

鶴ケ城(2)
ちょうど50年前に再建された天守閣(1)
てっぺんには鯱が誇らしげにのっている
これが実際に元のお城にもあったかどうか。あったという説と無いという説とがあるようだ。名古屋城の金鯱に対して、こちらは銀鯱。もちろん、あったかどうか疑わしいものだから、色などはわかっていないようだ。
てっぺんには鯱が誇らしげにのっている_1
てっぺんには鯱が誇らしげにのっている_2
free画像を借用
てっぺんには鯱が誇らしげにのっている_3
正面出入口近くから見た様子
昔はこの石畳の階段をのぼりおりしたのだろう。結構、段差がきつそうだ。殿様は御殿にいただろうから、普段はのぼりおりはしなかったと思う。
正面出入口近くから見た様子_1
正面出入口近くから見た様子_2
若松城写真 天守東南面之図
国立公文書館デジタルアーカイブから借用
若松城写真 天守東南面之図
明治6(1873)年12月、若松県(現在の福島県北部)権令沢簡徳は右大臣岩倉具視に、戊辰戦争で砲弾をうけ、その後修復もされずに雨ざらしになっている若松城は見るに堪えないので撤去し、後日改築してほしい旨建白しました。その際、現状を知らせるために提出したのがこの6枚のガラス湿板写真です。若松城は翌明治7(1874)年7月に解体されます。本写真の含まれる「公文附属の図」は、平成10年「公文録」とともに、国の重要文化財に指定されました。
案外ワイルドな感じの出入口とその周辺の様子
出入口から入ったところが1階。2-3階は撮影禁止だが、ここは禁止されていない。
案外ワイルドな感じの出入口とその周辺の様子_1
案外ワイルドな感じの出入口とその周辺の様子_2
この一画は『塩蔵』として利用されていたとのこと。塩はこの地にあっては貴重なものだったのかなあ。
案外ワイルドな感じの出入口とその周辺の様子_3
案外ワイルドな感じの出入口とその周辺の様子_4
案外ワイルドな感じの出入口とその周辺の様子_5
4階から見た様子
4階からは、近くはよく見えるものの、少し遠くにいるかもしれない敵の様子は見えにくい感じだ。5階からほどの見晴らしの良さはない。天守閣に意味合いとは何だったのだろうか?
4階から見た様子_1
4階から見た様子_2
4階から見た様子_3
4階から見た様子_4
4階から見た様子_5
走長屋、鉄御門、南走長屋、干飯櫓と続く。下に降りてからよく見ておくのだったが、茶室「麟閣」に気を取られて、見るのを失念した。そのことが残念でならない。
4階から見た様子_6
4階から見た様子_7
4階から見た様子_8
4階から見た様子_9

 

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