散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

会津若松~いわき~相馬・南相馬(1)

一年に一度の一泊だけの帰省。初日は滝桜を見に行こうと考えていたが、どうも今年の開花が早かったようで、見頃を過ぎてしまったような感じがした。それで、会津若松市に行ってみることにした。
二日目は、3月から常磐高速道が開通したので、相馬・南相馬市に行ってみることにした。


東北道を北上し、磐越道に入っていく
東北道を郡山JCTまで北上し、磐越自動車道に入る。磐越自動車道は福島県いわき市のいわきJCTから、郡山市を経由して新潟県新潟市江南区の新潟中央ICへ至る高速道路。いわきに向かう方が上り線で新潟に向かうほうが下り線。東京に近づきも遠ざかりもしない道路なので微妙だが、JRと同様の扱いにしたのだろうか。
道中の様子
漸く福島県に入った。白線などの様子を見ると、道路もまだ完全には修復しきれていないのだろうか。
『西郷』の表記がある。西郷村は、福島県中通り南部にある西白河郡の村。『さいごう』ではなく、『にしごう』と読む。平成の大合併時も白河市との合併を拒んだということで、財政状態は良い村のようだ。

漸く福島県に入った
山桜かなあ。まだ咲き残っていた。のんびりした風景を見て、ふるさと福島県に入ったことを実感する。
山桜かなあ_1
山桜かなあ_2
山桜かなあ_3
会津磐梯山が見えてきた
宝の山と歌われる会津磐梯山。雪は殆ど消えていて、スキーの季節は終わってしまったようだ。
会津磐梯山_1
会津磐梯山_2
会津磐梯山_3
会津磐梯山_4
会津磐梯山_5
磐梯山SA
小休止を取った。もうちょっと郡山寄りにあったほうが磐梯山がよく見えて良かったように思う。ここはあまり見晴らしが良くない感じだ。
磐梯山SA_1
磐梯山SA_2
磐梯山SA_3
磐梯山SA_4
磐梯山SA_5
馬が輸送されていた。調べてみたら、佐島牧場は埼玉県日高市にある牧場だ。馬術大会に出場するお馬さんの輸送中なのだろうか。
競走馬が輸送されていた_1
競走馬が輸送されていた_2
少し走らせると前方の山はかなり白かった
あちらは山形県、新潟県、それとも、まだ福島県の山なのだろうか。感じからすると飯豊連峰かなあ。
前方の山はかなり白かった_1
前方の山はかなり白かった_2
会津若松市内
いよいよ会津若松市内に入ってきた。江戸時代には大変な勢力を有した大藩の城下町だったが、往時のことを考えればかなり寂しい感じがあるのは否めない。新政府に徹底的に疎まれたのだからしかたがないのかもしれない。
会津若松市内_1
会津若松市内_2

 

新宿御苑にて(8)

大温室(2)
館内の様子_2_1
館内の様子_2_2
館内の様子_2_3
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旧洋館御休所
園内で戦災でも残った貴重な建物。他には旧御涼亭があるのみ。国の重要文化財に指定されている。建物内部に入ることができる日は限られており、当日は対象外の日だった。
旧洋館御休所_1
旧洋館御休所_2
旧洋館御休所_3
旧洋館御休所_4
旧洋館御休所_5
旧洋館御休所_6
旧洋館御休所_7
天皇や皇族の休憩所として1896年(明治29年)に建てられた洋風木造建築で、国の重要文化財に指定されている。19世紀アメリカで流行したスティックスタイルがベースで増築を繰り返している。昭和24年から平成6年までは管理事務所として使われたが平成13年には元の姿(大正13年当時)に戻され一般公開されている。

以上で『新宿御苑にて』シリーズは終了です。最後までご覧いただき、有り難うございました。

 

新宿御苑にて(7)

少々くたびれてきたので、花の名前などを記録するのは省略した。写真のみで恐縮だが、ご容赦いただきたい。

大温室(1)
外観
たしかに大きな温室だが、1棟だけなので、やや展示内容が寂しい感なのは否めない。
外観_1
外観_2
館内の様子
館内の様子_1_1
館内の様子_1_2
館内の様子_1_3
館内の様子_1_4
館内の様子_1_5
一生懸命撮影に励んでいる方が少なくない。携帯電話で接写するのだけは、傍迷惑なのでご遠慮願いたいところだ。
館内の様子_1_6
館内の様子_1_7
館内の様子_1_8
館内の様子_1_9
館内の様子_1_10
館内の様子_1_11
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館内の様子_1_20

 

新宿御苑にて(6)

サクラいろいろ
御衣黄
御衣黄
一葉
一葉
鬱金
鬱金_1
鬱金_2
鬱金_3
鬱金_4
関山
関山_1
関山_2
大島桜
大島桜_1
大島桜_2
八重紅枝垂
八重紅枝垂
白妙
白妙_1
白妙_2
フランス式整形庭園
プラタナスの並木が目立つ。季節が到来すれば、バラがさぞかし美しいのだろうが、今回は咲いていないようなのでパス。
フランス式整形庭園_1
フランス式整形庭園_2
フランス式整形庭園_3

イギリス風景式庭園
ケンジントンパークなどはこんな感じだったかなあ。少なくともこんなに狭小ではなかったような記憶が。
イギリス風景式庭園_1
イギリス風景式庭園_2
イギリス風景式庭園_3

 

新宿御苑にて(5)

日本庭園(4)
中の池
こうしてみると、本当に綺麗だ
中の池_1
中の池_2
中の池_3
中の池_4
中の池_5
中の池_6
中の池_7
中の池_8
中の池_9
イギリス風景式庭園
家族連れが、お弁当を食べてノンビリ寛いでいた
イギリス風景式庭園
御衣黄
結構強い風で大きく揺れて撮影は大変だった。この萌黄色は桜の花としては、摩訶不思議な色だと思う。
御衣黄_1
御衣黄_2
リキュウバイ
リキュウバイ_1
リキュウバイ_2
つつじ山
ツツジもそろそろ開花しそう。あちこち咲き出したらきれいだろうなあ。
つつじ山_1
つつじ山_2
つつじ山_3
つつじ山_4
こちらは一足先に満開だった
つつじ山_5
市原虎の尾
小枝がピンと立っているのが、トラノオのようだというのだろうか。調べてみたら、花は中輪、八重咲きで白色。開花期は4月中旬。京都市左京区の市原にあった桜で、長く伸びた枝に花が密生し、虎の尾の様にみえることから、大谷光瑞浄土真宗本願寺派第22世法主(鏡如上人)が名付けたものといわれているそうだ。
桜を愛でに来た団体さんが、盛んに『いいな』を連発していた。そうなのかなあ。

市原虎の尾_1
市原虎の尾_2
市原虎の尾_3

 

新宿御苑にて(4)

日本庭園(3)
旧御涼亭(台湾閣)が見えてきた。日本庭園には少し異質な感じがしないでもないが、相当に格好が良い建物だ。
外観
素晴らしい外観。目を奪われるのは確かだ。
外観_1
外観_2
外観_3
外観_4
外観_5
外観_6
外観_7
旧御涼亭前の池
非常に美しい。目の前の建物が台湾風であっても、違和感を感じさせないような体裁になっているように感じた。
旧御涼亭前の池
玄関の円窓
「於物魚躍(あゝ満ちて魚躍れりと)」 …天子を賛美する言葉
人民から敬慕された古代中国・周の国の文王について、「文王が王宮の池にあれば、魚たちも集まり喜び跳ねる」という天子を賛美した詩文あるのだそうだが、それが書かれている。字そのものは半分読むことができただけ、意味はちんぷんかんぷん。『魚躍』は『欣喜雀躍』の『雀躍』と同義かなとは思ったが、『於物』の方は未だにわからない。
玄関の円窓
建物内部の様子
建物内部の様子_1
建物内部の様子_2
建物内部の様子_3
建物内部の様子_4
建物内部の様子_5
建物内部の様子_6
建物内部の様子_7
建物内部から北側を見た様子
本当に綺麗。夏に生ビールでもかっくらいながら見ることができたら最高なのだろう。『御涼亭』という名前からして、それが本来の使い方だったのだろう。
建物内部から北側を見た様子

この建物は皇太子(後の昭和天皇)御成婚記念として台湾在住邦人の有志から贈られたものである。旧御休息所の平面形状に卍形のモチーフが見られるなど、清朝中期以降の台湾で用いられた建築様式(中国南方の閩南建築様式)の特徴が現れている。
わが国では、大倉集古館(1927年築、東京都港区虎ノ門)と並ぶ本格的中国風建築物である。
平成の保存改修工事では、屋根まわりの形状を創建時の姿に復元するとともに、耐震補強を行い、あわせて、破損・腐朽部の修繕を実施した。

 

新宿御苑にて(3)

『上の池』から東の方向に向かう。先ず最初に目につくのは花さんたちだった。

日本庭園(2)

見ていってね
そう主張しているかのようだった
見ていってね_1
見ていってね_2
見ていってね_3
見ていってね_4
見ていってね_5
見ていってね_6
見ていってね_7
イロハモミジの若葉と花 or ヒナウチワカエデの若葉と花?
全く自信なし。こちらの花は、サクランボのような感じなんだ。
イロハモミジの若葉と花? or ヒナウチワカエデの若葉と花
まだ続く
まだ続く_1
まだ続く_2
まだ続く_3
日本庭園の北側はこんな感じ
本当にゆったりしていて気持ちよさ気だ。
日本庭園の北側はこんな感じ
やはり日本庭園だから、池をしっかり見なくちゃ
やはり日本庭園だから、池をしっかり見なくちゃ_1
やはり日本庭園だから、池をしっかり見なくちゃ_2


新宿御苑のガイド『歴史的建物にも注目! - 東京都交通局』のPDFへJUMP

 

新宿御苑にて(2)

日本庭園(1)
この『上の池』に来るたびに、非常に美しい庭園だと思う。元々は、鴨場として作られたものを日本庭園として改装したのか。感じとしては、皇居の東御苑の二の丸庭園の池と似た感じのように思える。池泉回遊式という共通点だけかなあ。
上の池_1
上の池_2
上の池_4
上の池_5
上の池_6
上の池_7
上の池_8
上の池_9
上の池_10
上の池_11
上の池_12
上の池_13
上の池_14
上の池_15
上の池_16

 

新宿御苑にて(1)

ソメイヨシノは完全に終わってしまった4月9日。何を見るでもなかったのだが、麗らかな陽気に誘われて新宿御苑に行ってみた。

新宿門付近
殆どがカップルだったり、ファミリーだったり、グループだったりするようだ。私のような完全単独行動の人はいなさそうだった。
新宿門付近_1
新宿門付近_2
新年度が始まったばかりの平日の昼下がりだというのに、かなりの人出だ。見た感じは、学生・生徒や、勤め人くらいの年の人が殆ど。学校や会社に行かなくても構わないのだろうか。少し心配になってくるが、日本人の入園者は1-2割程度のようだ。
新宿門付近_3
新宿門付近_4
園内MAP
北の方向が通常の地図と異なる。それに注意して見ていただきたい。
園内見どころ
園内に入ってすぐの辺り
園内に入ってすぐの辺り_1
この辺りは、広大な芝生と巨樹が特徴の『イギリス風景式庭園』と近くにあるため、似たような感じになっている。
園内に入ってすぐの辺り_2
園内に入ってすぐの辺り_3
日本庭園に向かう
新宿御苑の南側部分(上掲地図の上方)は日本庭園になっている。かなり細長い。今回は、南西部分(上掲地図の上右方)に位置する『上の池』に向かう。
日本庭園に向かう_1
ドコモタワーが聳える。あの辺りが代々木方向になる。代ゼミもあるところだ。手前のあたりは、『母と子の森』。都会に住む子どもたちが自然とのふれあいを楽しみ、豊かな感性と自然への関心を育む、昭和60年(1985年)に造られた自然観察フィールドとのことだ。自然教育園のミニ版的な感じか。
日本庭園に向かう_2
日本庭園に向かう_3
日本庭園に向かう_4
日本庭園に向かう_5
楽羽亭の辺り
立派だけど新しそうな建物だなあと思ってみていたが、やはり新しい建物だったようだ。築後28年経過しただけだった。開園時に建てられた建物は、山菜で焼失してしまったとのこと。寄贈したのは日本宝くじ協会か。
立礼席(りゅうれいせき)とは、椅子に腰掛けて行う手前(茶をたてる手法)をいう。裏千家十一世家元が創案したものだが、現在では各流派とも洋室や野外での茶会に用いている。点出し(たてだし)とは、茶の湯で、茶を茶室の客の前でたてずに、水屋でたてて運び出すこと。大寄せの茶会などで行う略式の方法。また、呈茶とは、客人にお茶を差し上げることを意味する言葉。
お寺さんで抹茶をいただくときは、ほぼこのスタイルではなかろうか。

楽羽亭は、京風の建物をイメージして設計され、昭和62年に建てられた茶室です。「楽羽亭」の前にある白梅は苑内で最も早く開花するそうです。
本格的な茶の湯のために貸し出しを行っているほか、立礼席では、点出しで呈茶を行っています。御苑内には、翔天亭という茶室もあります。

楽羽亭の辺り_1
楽羽亭の辺り_2
楽羽亭の辺り_3
楽羽亭の辺り_4
楽羽亭の辺り_5
楽羽亭の辺り_6
楽羽亭の辺り_7
楽羽亭の辺り_8
楽羽亭の辺り_9
楽羽亭の辺り_10

新宿御苑は明治39年、皇室の庭園としてほぼ現在の形に作られました。フランスの園芸学者アンリ・マルチネの設計に基づき、福羽逸人が造成したものです。時あたかも日露戦役の直後であったため、戦勝祝いを兼ねて、開園式が行われました。
新宿御苑一帯の土地は、もともと家康の家臣内藤氏の屋敷地でした。現在御苑内に残っている玉藻の池は、内藤氏が安永年間に玉川上水の余水を利用して作ったものです。維新後、明治政府は、この土地に近代農業振興を目的に「内藤新宿試験場」を設けました。
明治12年には、宮内省所管の「新宿植物御苑」となり、皇室の庭園として歩み始めることとなりました。そして明治35年から4年の歳月をかけて、ほぼ現在の形になったわけです。昭和24年には国民公園として一般に開放され、現在に至っています。
新宿御苑の園内は、北側の様式庭園と南側の日本庭園に大別されます。様式庭園は、広い芝生を中心としたイギリス風形式庭園とプラタナス並木などからなるフランス式整形庭園からなり、日本庭園は、三つの池を中心に、日本の樹木がいたるところに植えられ、また皇室庭園時代からの伝統を持つ菊の栽培所などがあります。

 

日米親善よこすかスプリングフェスタ 2015(8)

いよいよマスティンを後にする
いよいよマスティンを後にする_1
いよいよマスティンを後にする_2
いよいよマスティンを後にする_3
いよいよマスティンを後にする_4
いよいよマスティンを後にする_5
いよいよマスティンを後にする_6
いよいよマスティンを後にする_7
いよいよマスティンを後にする_8
いよいよマスティンを後にする_9
いよいよマスティンを後にする_10
いよいよマスティンを後にする_11
G.ワシントンともお別れ
G.ワシントンともお別れ_2
タグボートたちともお別れ
タグボートたちともお別れ
ビーチバレーのコート
ビーチバレーのコート
模擬店の様子
模擬店の様子_1
模擬店の様子_2
模擬店の様子_3
模擬店の様子_4
模擬店の様子_5
模擬店の様子_6
模擬店の様子_7

最後に我々には目にすることができないシーンをご覧いただく
以下3点はFREE画像を借用
海上自衛隊員が見学に来ている様子
海上自衛隊員が見学に来ている様子
旧日本海軍が掘った地下壕の様子
旧日本海軍が掘った地下壕の様子
射撃訓練の様子
射撃訓練の様子


以上で、『日米親善よこすかスプリングフェスタ 2015』シリーズは終了です。最後までご覧頂き、有り難うございました。

 

日米親善よこすかスプリングフェスタ 2015(7)

マスティン艦上から見た原子力空母G.ワシントン
広角で撮影
至近距離からだと超広角でも、はっきり撮れるものだ
広角で撮影_1
広角で撮影_2
望遠で撮影
絶えずメンテナンスを行っていることがよく分かる。最高の状態を維持したいという米軍の考え方なのだろう。
望遠で撮影_1
望遠で撮影_2
望遠で撮影_3
望遠で撮影_4
望遠で撮影_5
巨大なエレベータ
本来の目的は格納してあり艦載機を甲板上に運搬したり、甲板から格納庫へ下ろしたりするためのもの。だが、我々が見学をするときもあれに乗る。黄色い柵があるものの、ちょっと押されたら、海面へダイブしてしまう。ものすごく怖い。
望遠で撮影_6
艦尾部分
艦尾部分はスパッと縦に切断した様な形状。そのほうが艦載機が着艦しやすいのだろうか。
そして、着桟時には、いつも白い船舶がへばりついている。何をする船舶なのか気になる。

望遠で撮影_7
望遠で撮影_8
望遠で撮影_9

近々に予定される交代でやってくるはずの原子力空母ロナルド・レーガン
以下4点はFREE画像を借用
2011.03.15撮影の『トモダチ作戦』の様子。大地震発生時にどこの海域にいたのか知らないが、急遽駆けつけてくれたようだ。自分たちの分を支援物資として分けてくれたのだろうか。ありがたい話だ。この迅速さが海上自衛隊にもほしい。
交代でやってくるはずの原子力空母ロナルド・レーガン_1
F-A-18_Super_Hornetから見た原子力空母ロナルド・レーガン。あれに着艦するのは相当な勇気がいることだろう。
交代でやってくるはずの原子力空母ロナルド・レーガン_2
着艦しようとしている艦載機だろうか。パイロットも緊張の瞬間だろう。
交代でやってくるはずの原子力空母ロナルド・レーガン_3
"Maintanence_on_FA-18D_Hornet"とのキャプションがついていた。艦載機上で何のメンテナンスをしているのだろうか。すごい画だ。
交代でやってくるはずの原子力空母ロナルド・レーガン_4

 

日米親善よこすかスプリングフェスタ 2015(6)

漸く通常の甲板部分に出た
ディズニーのようにつづら折りで長時間待たされて、かなりイライラしている様子がよく分かる。ミサイル観測艦がよく見える。
地上ではイライラが極限のようだ_1
地上ではイライラが極限のようだ_2
甲板中央部分にて
迷路のようだなあ
迷路のようだなあ_1
迷路のようだなあ_2
迷路のようだなあ_3
迷路のようだなあ_4
迷路のようだなあ_5
Mk.32発射管ごしに原子力空母G.Wが見える。Mk.44短魚雷があちらを狙ったりしたら、ひとたまりもない。言ってみれば、『王手』にされた状態か。こうならないように駆逐艦や巡洋艦が護衛する。
Mk.32発射管ごしに原子力空母G.Wが見える
説明パネルには洋上での補給を受ける設えが用意されていると書かれていた。艦首と船尾にそれぞれ1つずつ燃料補給と食糧・物資受け取りのためのステーションがあるとのこと。それを繰り返せば、数ヶ月は洋上に居続けることができるとか。うへーっ、数ヶ月も船の上なんて、いくら船が好きな人でも嫌になってしまいそう。そういえば、海上自衛隊の補給艦がインド洋で給油して回ったことがあったなあ。
甲板中央部分にて_1
甲板中央部分にて_2
甲板中央部分にて_3
艦首部分にて
意外と勾配がある感じだ。手前の家族は空母を見ているはず。
艦首部分
Mk 41 垂直発射システム
主砲の後ろには物騒なものが用意されている。これが絶対的な主力兵器だろう。
Mk 41 垂直発射システム_1
Mk 41 垂直発射システム_2
Mk 41 垂直発射システム_3
Mk 45 5インチ砲
案外細く感じられる。でも威力は十分か。砲身を延長(62口径)し、砲口初速を増して対地攻撃力を上げたMod 4だと思われる。
Mk 45 5インチ砲
舳先位置から見た様子
舳先位置から見た様子_1
舳先位置から見た様子_2
舳先位置から見た様子3
錨は相当に重いのだろうか
錨は相当に重いのだろうか_1
錨は相当に重いのだろうか_2
地上にはものすごい行列が
地上にはものすごい行列が_1
地上にはものすごい行列が_2
何でもないようだが、桁外れにすごいシステムが搭載されている。イージス艦は世界中でも日米以外にはほとんど配備されていない。そのことをどう考えるべきだろうか。
桁外れにすごいシステム

 

日米親善よこすかスプリングフェスタ 2015(5)

漸く乗艦するための梯子まで辿り着く
この時点では、何故渋滞を引き起こしているのか全くわからなかった。並んでいる人の殆ど全てがそうだったと思う。苛々が昂じてくる。
梯子を渡り切るのも超ゆっくりペース
お蔭で色々写真を撮れた。それにしても、船尾部分はかなり低くなっている。おまけに手すりも頼りない。
梯子の上からのショット_1
梯子の上からのショット_2
梯子の上からのショット_3
梯子の上からのショット_4
梯子の上からのショット_6
梯子の上からのショット_7
船尾でもかなり待たされる
船尾から見た原子力空母
あちらは全長が333mもあるので、全体をフレームに収めようとするとどうしても小さく撮ることになる。超広角レンズ使用でやっと。つぎはぎだらけの画像ばかりでも、…。
船尾から見た原子力空母_1
あの坊やは、頼りない手すりに寄りかかって大丈夫だったのだろうか
船尾から見た原子力空母_2
船尾から見た原子力空母_3
船尾から見たミサイル追跡艦
軍の艦船でもねずみ色ではないものもあるんだ
船尾から見たミサイル追跡艦_1
船尾から見たミサイル追跡艦_2
船尾から見たミサイル追跡艦_3
なかなか先に進めない
ヘリコプターはMH-60Rを2機格納可能。ヘリコプターがすっと格納できる構造にするため、船尾だけが低い。その先にあるエリアに行くには梯子を一人ずつ上る。そこがボトルネックになって長蛇の列となっている。もうちょっとすっと入ることができるところから案内すればよいのに。
なかなか先に進めない_1
なかなか先に進めない_2
なかなか先に進めない_3
なかなか先に進めない_4
なかなか先に進めない_5
ここがボトルネックだった
手すりをしっかり掴んで自重を支える必要ありか。う~~ん、キツイぞ。
ここがボトルネックだった_1
ここがボトルネックだった_2

 

日米親善よこすかスプリングフェスタ 2015(4)

マスティン乗艦まであと少し。と言っても海上を航海するわけではなく、単なる見学だけだが。

待つのはつらいが、…
綺麗な女性要員がお出迎え
どぎまぎしてうまく撮れなかった。実物は相当な美人さんだったのに。小顔で脚長が欧米人の特徴なのだろうか。
綺麗な女性要員がお出迎え_1
綺麗な女性要員がお出迎え_2
美人さんとお別れの後はうんざりするほどの待ち時間
ここからの待ち時間が相当あった
ここからの待ち時間が相当あった_1
ここからの待ち時間が相当あった_2
駆逐艦は米海軍艦船の中では小型のものだが、それでも威風堂々たる感じ
駆逐艦は米海軍艦船の中では小型のものだが、それでも威風堂々たる感じ
でも鉄板は、ごく薄手のもののようだ。大丈夫なのかなあ。
ここからの待ち時間が相当あった_3
ここからの待ち時間が相当あった_4
左手の埠頭には、横浜港ノース・ドックで見たミサイル追跡艦が
USNS Howard O.Lorenzen(T-AGM-25)という艦船。この基地内で見るのは初めてだ。調査対象国のミサイルの追跡という超特殊任務らしいが、私には今ひとつ不明な艦船。
塗装色は何故、こんな目立つ色?煙突を異様に目立たせているのはなぜ?武器装備と思しきものがないのは何故?…特に目立つ煙突の必然性がいくら考えても思い浮かばない。これから見学するミサイル駆逐艦マスティンは、ステルス性を高めるため煙突を上部構造内に埋め込まれて建造されているほどなのに、こちらは目立つことこの上ない。

USNS Howard O.Lorenzen(T-AGM-25)_1
USNS Howard O.Lorenzen(T-AGM-25)_2
これは何だ?
想像がつくかもしれないが、海賊対策用の機関銃のはずだ。こんなものは必要なかったはずなのだが、そういう世相なのだろう。
これは何だ
やはり出港準備は継続中のようだ
艦船内部公開中といえども、いつ何時出港命令が下るかもしれない。その準備を継続しているようだ。
出港準備は継続中

 

日米親善よこすかスプリングフェスタ 2015(3) 2015.04.17 00:08一部記載内容訂正

原子力空母ジョージ・ワシントン
今回は左船腹しか見ることができなかった。しかし数百mほど離れているものの、平行する位置で停泊中で今回の公開艦であるミサイル駆逐艦マスティン (DDG-89) の甲板上からは比較的よく見えた。
昨年の年初に来年(2015年)半ばまでにロナルド・レーガンと交代させると発表されている。燃料棒の交換などが予定されていて、もうまもなく帰国することになっている。地元、横須賀市民には、感謝の見学会が催されたが、横須賀市民ではない私は、当然対象者から漏れた。一度艦内を見たから、いいか。
なお、ミサイル駆逐艦マスティン の甲板上から見た原子力空母ジョージ・ワシントンの様子は、マスティンの見学記事の中で取り上げる。
今回撮影した画像
全長が333mあるようにみえるだろうか。パイロットが着艦しようとするときの感覚も同様ではないだろうか。常に恐怖心との戦いがあるように思う。
原子力空母ジョージ・ワシントン_今回撮影_1
原子力空母ジョージ・ワシントン_今回撮影_2
原子力空母ジョージ・ワシントン_今回撮影_3
2012年に撮影した画像
原子力空母ジョージ・ワシントン_2012年撮影_1
原子力空母ジョージ・ワシントン_2012年撮影_2
以下3点はFREE画像を借用
お分かりになると思うが、着艦は後方から左斜め方向に行う。ジョージ・ワシントンが逃げるような感じになるため、多少は着艦距離が稼げる。それでも止まりにくいのでフックに引っ掛けるのと、パラシュートで抵抗を増すことも併用する。
逆に離艦は向かい風を利用して、前方から行う。同じ方向に走るため、離艦距離が稼げるからだ。もちろん勢いをつけるため、スチーム・カタパルトで強力に押し出す。原子力空母でないとできない技のようだ。他国の空母は、スキーのジャンプ台のようにスロープ状になっているとか。
原子力空母ジョージ・ワシントン_FREE_1
原子力空母ジョージ・ワシントン_FREE_2
戦闘機側から見た空母の甲板はこんなもの。鹿も全速力に近い速度で逃げていく。着艦は相当に大変だと思う。
戦闘機側から見た空母の甲板

前日に撮影した就役したばかりのヘリコプター搭載護衛艦『いずも』
原子力空母ジョージ・ワシントンと似た役割を負う海上自衛隊の『いずも』。これでも海上自衛隊の艦船の内では最大。全長は約250m。
ヘリコプター搭載護衛艦『いづも』_1
ヘリコプター搭載護衛艦『いづも』_2
FREE画像を借用
ヘリコプター搭載護衛艦『いづも』_FREE

 

日米親善よこすかスプリングフェスタ 2015(2)

基地見学者が、今回最初に目にする艦船は、潜水艦母艦AS-40「フランク・ケーブル」だった。最初は全容が見えなかったので、ビルのようにも見えなくもなかった。常識的に考えれば、ねずみ色のビルは陰気臭くていけない。それほどの大きさだ。

潜水艦母艦AS-40「フランク・ケーブル」
前回の基地開放イベントの時には、「エモリー・S・ランド」を遠目に見たが、少し離れた位置だったので、こんなに巨大だとは思わなかった。今回同型の「フランク・ケーブル」を至近距離から観察して、その巨大さに改めて驚いた。全長がほぼ200mほどある。
ロサンゼルス級原潜4隻を一度に横付けさせることができるのか。う~~ん。
水・食料・魚雷・その他物資の補給、潜水艦乗組員の休養、簡単な潜水艦の修理などが主任務なのかな。
潜水艦そのものが機密の塊なので、潜水艦母艦も当然、それに準じた取り扱いを受けるのだろう。出回る情報量はごく少ないようである。

本来は第7艦隊全体の旗艦であるブルーリッジの居場所に堂々と停泊していた
右側に見えるのは原子力空母ジョージ・ワシントン。超広角レンズを使用しているので、あちらのほうが小さく見えるかもしれない。
潜水艦母艦AS-40「フランク・ケーブル」_1
潜水艦母艦AS-40「フランク・ケーブル」_2
潜水艦母艦AS-40「フランク・ケーブル」_3
プラントのように見えて仕方がない
潜水艦母艦AS-40「フランク・ケーブル」_4
潜水艦母艦AS-40「フランク・ケーブル」_5
潜水艦母艦AS-40「フランク・ケーブル」_6
船尾を見て、漸く艦船名が見えた。艦船番号がAS-40なのに、Aは省略されている。そういうものなのだろうか。
潜水艦母艦AS-40「フランク・ケーブル」_7
潜水艦母艦AS-40「フランク・ケーブル」_8
潜水艦母艦AS-40「フランク・ケーブル」_9
潜水艦母艦AS-40「フランク・ケーブル」_10
潜水艦母艦AS-40「フランク・ケーブル」_11
潜水艦母艦AS-40「フランク・ケーブル」_12
潜水艦母艦AS-40「フランク・ケーブル」_13
洋上での様子
以下の3点はFREE画像を借用した
潜水艦母艦AS-40「フランク・ケーブル」_14
潜水艦母艦AS-40「フランク・ケーブル」_15
潜水艦母艦AS-40「フランク・ケーブル」_16

本艦は攻撃型原子力潜水艦に対する補給や支援を目的に建造された「エモリー・S・ランド」級に属しており1979年10月に竣工。現在はロサンゼルス級原潜専用に改造されています。
本艦は一度に4隻のロス級を横付けさせて補給等を行います。原潜部隊にとってなくてはならない艦です。
「フランク・ケーブル」(要目は米海軍公式サイトによる)
基準排水量13,911㌧
満載排水量22,978㌧
全長197,8㍍
幅25,9㍍
喫水8,84㍍
主機蒸気タービン、1軸
出力20,000馬力
速力21ノット
乗員1,500名(定数)
40㍉単装機銃2基
20㍉単装機銃4基

 

日米親善よこすかスプリングフェスタ 2015(1)

毎度のことだが、入門するまでには相当の待ち行列があり、公開艦船での見学を果たすためには更に待たされる。
毎度同じことの繰り返しで、今回限りで最後にしようと思ったいたのだが、今回は周囲に珍しい艦船がいて、サービス度はそれだけでアップしたかなという感じ。あと1回くらいは見に行ってもいいかなと思った次第。


待ち行列の様子
東郷元帥と記念艦三笠とが出迎えてくれる
今回は8:25に到着したので、行列の最後尾はだいぶ前の方だった。でも、…。
東郷元帥と記念艦三笠とが出迎えてくれる_1
東郷元帥と記念艦三笠とが出迎えてくれる_2
東郷元帥と記念艦三笠とが出迎えてくれる_3
テントのところで手荷物検査がある。流石軍事基地だけのことはある厳重さだ。
テントのところで手荷物検査が_1
テントのところで手荷物検査が_2
手荷物検査後の通路で見た基地内の様子
本来ならば、撮影場所は通常の三笠公園内だが、半ば基地内に入ったような感じ。艦船などが停泊しているのは丘の向こう。1Km程は歩かなくてはいけない。ほとんどすべてがそれまでに1kmは歩いているはず。どう考えても4kmは歩くことになる。ヤレヤレ大変だなあ。
手荷物検査後の通路で見た基地内の様子_1
手荷物検査後の通路で見た基地内の様子_2
手荷物検査後の通路で見た基地内の様子_3
やっと基地内部に入った
三笠公園ゲートを入ったばかりのところ
ソメイヨシノが植えられている。あまり大きくなっていないのが不思議。すごい人出であることがわかると思う。
三笠公園ゲートを入ったばかりのところ_1
三笠公園ゲートを入ったばかりのところ_2
三笠公園ゲートを入ったばかりのところ_3
こんな表示があった
まさか基地開放の日にこんな表示を混ぜていたとは
こんな表示があった
まっすぐ本日公開対象の艦船であるミサイル駆逐艦マスティン (DDG-89) へ向かう
駆逐艦マスティン (DDG-89) はこんな艦船
Free画像を借用
駆逐艦マスティン (DDG-89)
T字路左全前方方向に何やら巨大な艦船が
いつもは第7艦隊全体の旗艦であるブルーリッジが停泊している位置に別の巨大艦船が停泊していた。その時は艦船名がわからなかったが、調べてみると潜水艦母艦『フランクケーブル』だった。詳しい説明は次回に回す。
潜水艦母艦『フランクケーブル』_1
潜水艦母艦『フランクケーブル』_2
潜水艦母艦『フランクケーブル』_3
潜水艦母艦『フランクケーブル』_4
Free画像を借用
潜水艦母艦『フランクケーブル』_5
こんな運搬車両も
だだっ広い基地内だから、有ると無しとでは効率がぜんぜん違うことだろう。乗ってみたかった。
こんな運搬車両も

 

青山学院大学にて

母校以外の大学にはほとんど足を踏み入れたことがない。青山学院大学もその例外ではなかった。
知人のお嬢さんの入学が決まったので、入学式出席の直前にお会いした後、ついでなので、渋谷区渋谷(港区南青山だと思っていたが、辛うじて渋谷区になるようだ)のキャンパスを見させていただいた。
う~~ん、なかなかシックな建物が並んでいる。キャンパスが狭いのは都心立地ではしかたがないことだろう。
子供を入学させることができた親御さんは、鼻高々のことだろうな。満足そうな顔があふれていた。


入学式あった日の青山学院大学キャンパスの様子
新入学生や不系統の関係者でごった返す正門前
青山学院大学キャンパスの様子_1
学部ごとに時間をずらして行うそうだ
青山学院大学キャンパスの様子_2
正門前からキャンパスに入ってみる
青山学院大学キャンパスの様子_3
青山学院大学キャンパスの様子_4
青山キャンパス2号館だったかな。お疲れ顔が並んでいた。
青山学院大学キャンパスの様子_5
青山キャンパス1号館。行列は正門前で記念写真を撮る人たちの行列。そういう時代なのかなあ。
青山学院大学キャンパスの様子_6
青山学院大学キャンパスの様子_7
ガウチャー・メモリアル・ホールかな
青山学院大学キャンパスの様子_8
青山学院大学キャンパスの様子_9
ガウチャー・メモリアル・ホールと総合研究所ビルかな
青山学院大学キャンパスの様子_12
ベリーホール(登録有形文化財)
青山学院大学キャンパスの様子_10
青山学院大学キャンパスの様子_13
青山学院大学キャンパスの様子_14
青山学院大学キャンパスの様子_15
青山学院大学キャンパスの様子_16
青山学院大学キャンパスの様子_17
青山学院大学キャンパスの様子_18
青山学院大学キャンパスの様子_24
青山学院大学キャンパスの様子_25
間島記念館(登録有形文化財)
青山学院大学キャンパスの様子_19
青山学院大学キャンパスの様子_20
青山学院大学キャンパスの様子_23
小さいながらもロータリーがあった
青山学院大学キャンパスの様子_21
青山学院大学キャンパスの様子_22
まだ、辛抱強く行列を続けていた
青山学院大学キャンパスの様子_26
真向かいの国連大学
真向かいの国連大学

 

自然教育園にて(6)

ひょうたん池
ひょうたん型の池。ここも『水鳥の池』同様に鳥さんを見たことがない。
ひょうたん池_1
ひょうたん池_2

表示では
鴛鴦までいることになっている。園内でもよく見られると書いてある。異議あ~~り。全く居ません。
表示では

居ないはずの邪魔者が居た
なんでお前さんがいるの?カメラを向けたら、逃げないの?お前さんが出張るからカイツブリがいなくなっちゃったじゃないか。…って言っても知らんぷり。当たり前だ。
居ないはずの邪魔者が居た_1
居ないはずの邪魔者が居た_2
居ないはずの邪魔者が居た_3

物語の松
どうあがいても私には松らしく撮ることができない。困ったものだ。
物語の松_1
物語の松_2
物語の松_3

赤樫の巨樹
う~~ん、すごい。貫禄十分だ。
赤樫の巨樹

むくろじ(むくろじ科)
実の中の黒い種子は、数珠や羽根突きの玉に用いられたのか。あれだったのか。
本来、漢名の音読みだが、同科のモクゲンジの漢名「木欒子」と、本種の漢名「木患子」を取り違えた結果の和名。
むくろじ(むくろじ科)_1
実は持ち帰らないこと。撮っても構わないのは写真だけ。
むくろじ(むくろじ科)_2
むくろじ(むくろじ科)_3
むくろじ(むくろじ科)_4

園外には著莪が
うん、きれいだぞ。
園外には著莪が

以上で『自然教育園にて』シリーズは終了です。最後までご覧頂き有り難うございました。

 

自然教育園にて(5)

武蔵野植物園ゾーンを離れ、水生植物園ゾーンに入る

みつがしわ(みつがしわ科)
『三槲』という漢字なのか。読むことができない。(^_^;)
亜寒帯や高山に多いが、京都市の深泥池や東京都練馬区の三宝寺池など暖帯の一部にも孤立的に自生している。これらは氷河期の生き残り(残存植物)と考えられ、これらを含む水生植物群落は天然記念物に指定されている。
みつがしわ(みつがしわ科)_1
みつがしわ(みつがしわ科)_2
みつがしわ(みつがしわ科)_3
みつがしわ(みつがしわ科)_4
以下2点はFree画像から借用
みつがしわ(みつがしわ科)_5
みつがしわ(みつがしわ科)_6

あさざ(みつがしわ科)
日本では勢いが失せつつあったようだが、保護活動の甲斐があったのか、準絶滅危惧(NT)にまで勢いを取り戻しているようだ。皇居の東御苑などでも見たので、そんなに貴重なものだとは思っていなかったのだが、…。
あさざ(みつがしわ科)_1
Free画像から借用
あさざ(みつがしわ科)_2

がま(がま科)
晩秋に綿毛(種)に変わった蒲の穂。古くはこの綿毛を蒲団(ふとん)に用い、蒲団の名前の由来となったそうだ。ほう、そうだったのか。
がま(がま科)

まこも(いね科)
白鳥が好きなのだそうだ。でも、ここには白鳥は居なかった。
まこも(いね科)_1
まこも(いね科)_2

あまな(ゆり科)
やはり、ゆりの仲間はきれいだ。これも、スプリング・エフェメラルの型に入る植物のようだ。
春の花の中でも特に早く咲くもののひとつである。新春に葉を伸ばし、それから花が咲くと、葉は夏頃まで残る。周囲の草丈が高くなると埋もれてしまう。いわゆるスプリング・エフェメラルの型に入る植物である。
あまな(ゆり科)_1
あまな(ゆり科)_2

のうるし(とうだいぐさ科)
可愛いけれども有毒植物か。う~~ん。
ノウルシ(野漆 学名:Euphorbia adenochlora)は、北海道から九州の河川敷や湿地に生育する高さ30-50センチメートルほどの多年草。和名の由来は、茎葉に傷をつけるとウルシ(漆)に似た白乳液が出ることからきている。有毒植物の一つ。
のうるし(とうだいぐさ科)_1
のうるし(とうだいぐさ科)_2

 

自然教育園にて(4)

かたくり(ゆり科)
ちょっと勢いが失せた感じがしなくもなかったが、春の妖精の名にふさわしいかな。
その昔はこれで片栗粉を作ったのか。手間がかかる割には生産量が大したことがなく、大変だったことと思う。じゃがいもでの代用品に切り替わったのはやむをえないことなのだろう。

かたくり(ゆり科)_1
かたくり(ゆり科)_2
かたくり(ゆり科)_3
かたくり(ゆり科)_4
かたくり(ゆり科)_5
かたくり(ゆり科)_6
かたくり(ゆり科)_7
かたくり(ゆり科)_8

しょうじょうばかま(しゅろそう科)
名前は、花が赤いのを中国の伝説上の動物である猩々になぞらえ、根生葉の重なりが袴に似ていることから名付けられたとされる。が花の色は、どう甘く見ても猩々色ではないように思う。生育場所によって、淡紅色、紫色、白色と変化に富んでいるそうだ。
しょうじょうばかま(しゅろそう科)_1
しょうじょうばかま(しゅろそう科)_2

 

自然教育園にて(3)

水鳥の池
珍しく水鳥が居たが、カルガモでは見ても嬉しくない。鴛鴦やかいつぶりでもいれば、嬉しいのだが。
水鳥の池_1
水鳥の池_2

辛夷の花
あまりに高いところに咲いているので、首や背中が痛くなりそうだった。
辛夷の花_1
辛夷の花_2
辛夷の花_3

歩いていると森林浴ができる
本当に気持ちのよい空間だ。いつまでも歩いていたい感じだが、やはりそれなりに草臥れる。
歩いていると森林浴ができる_1
歩いていると森林浴ができる_2
歩いていると森林浴ができる_3

今回訪問のメインフィールドである武蔵野植物園ゾーンに入る

しゅんらん(らん科)
うまく撮れたことなし。微妙な形状で撮るのが苦手。
しゅんらん(らん科)_1
しゅんらん(らん科)_2

みやまかんすげ(かやつりぐさ科)
カンスゲの高山種というのが名前の意味だが、低地でも湿った場所でよく見られるようだ。カヤツリグサ科の仲間は、冬は枯れてしまうのだが、カンスゲ(寒菅)という名前のように越年草で、早春に花を付ける。お陰で、こうして観察できるようだ。綺麗とは無縁の花だが。
みやまかんすげ(かやつりぐさ科)_1
みやまかんすげ(かやつりぐさ科)_2

 

自然教育園にて(2)

にりんそう(きんぽうげ科)
ごく小さい可愛らしい花さんだ。蕾の頃は少しピンクの色が観察できるようだ。
一輪草の方は、表示はあったが、開花していなかった。見比べてみようと思っていたのに、残念至極。

にりんそう(きんぽうげ科)_1
にりんそう(きんぽうげ科)_2
にりんそう(きんぽうげ科)_3
にりんそう(きんぽうげ科)_4
にりんそう(きんぽうげ科)_5
にりんそう(きんぽうげ科)_6
にりんそう(きんぽうげ科)_7
この花はどちらかなあ。表示のないところに咲いていたので、全く自信なし。
にりんそう(きんぽうげ科)_8
にりんそう(きんぽうげ科)_9

あすかいので(おしだ科)
明日香猪の手と書くようだ。称名寺市民の森でも見かけたものだと思う。あの時は正式な名前がわからず、ごまかしてしまったが。(^_^;)
あすかいので(おしだ科)_1
あすかいので(おしだ科)_2
あすかいので(おしだ科)_3

ふっきそう(つげ科)
富貴草(ふっきそう)、別名吉字草(きちじそう)は、変わった草花だと思ってみていたのだが、小さいながらも木花の方だった。
花も変わっているが、実の方も相当に変わった形状のようだ。

ふっきそう(つげ科)_1
ふっきそう(つげ科)_2

らしょうもんかずら(しそ科)
羅生門蔓の名前は、昔、平安時代に渡辺綱(わたなべのつな)が、京都の羅生門で退治した鬼女の切り落とされた腕になぞらえたものだそうだ。開花が十分でなく、特徴らしきものが観察できずに残念。
らしょうもんかずら(しそ科)_1
らしょうもんかずら(しそ科)_2

 

自然教育園にて(1)

カタクリの花を見に3月24日に再度自然教育園に行った。この日は福寿草と節分草だけだった前回訪問時とは異なり、他の草花もかなり咲いていて、大いに楽しむことができた。

むさしあぶみ(さといも科)
武蔵鐙 (むさしあぶみ)は、鐙のように見える花が咲くのが特徴のようだ。私にはかなり珍しい存在。
むさしあぶみ(さといも科)_1
むさしあぶみ(さといも科)_2
むさしあぶみ(さといも科)_3
やぶれがさ(きく科)
自分自身の事を言っているようだが、歴とした名前なのだそうだ。まだ、小さいうちのほうがみすぼらしく見える感じがする。何でだか知らないが共感を覚える。
やぶれがさ(きく科)_1
やぶれがさ(きく科)_2
やぶれがさ(きく科)_3
やぶれがさ(きく科)_4
やぶれがさ(きく科)_5
ひとりしずか(せんりょう科)
歯間ブラシを思わせるような感じ。ごくごく小さい。憎めない感じ。
ひとりしずか(せんりょう科)_1
ひとりしずか(せんりょう科)_2
ひとりしずか(せんりょう科)_3
ばいも(ゆり科)
注文中のEOS M3が届く直前だったので、EOS M2で撮った。なので、超低アングル撮影には手こずった。網目模様をはっきり撮りたかったのだが。
ばいも(ゆり科)_1
ばいも(ゆり科)_2
ばいも(ゆり科)_3
きぶし(きぶし科)
和名『木五倍子』は、果実を染料の原料である五倍子(ふし)の代用として使ったことによるそうだ。知らなければ、読むことができない名前だろう。
きぶし(きぶし科)_1
きぶし(きぶし科)_2
きぶし(きぶし科)_3

 

善福寺から清正公まで(5)

途中散歩分を省略して、最終目的地の『清正公』を取り上げる。東京駅南口発等々力行きのバスに乗ると、途中で『清正公前』の案内がアナウンスされる。うかつなことに暫くは、『せいしょう高校前』だと思い込んでいた。とんだ勘違いをしていたものだった。

覚林寺
覚林寺は、小湊誕生寺十八世可観院日延上人が開山となり、寛永8年(1631)に創建した。可観院日延上人は、朝鮮の王族出身だが、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に加藤清正に捕えられ、後に小湊誕生寺十八世となり、この地に隠居、覚林寺を創建したという。捕えられ、異国の地に連れて来られたというのに、このようにお堂を造ってまで故人を偲ぶとは、加藤清正公を恨んでは居なかったようだ。
現代韓国人の対日感情とは随分違うようだ。国家間というよりも対人間の問題だからなのだろうか。

先ず目につく大石標『鎮守清正公大神儀』
黒ずんでよく見えないが、『鎮守清正公大神儀』と書かれてある。既に神格化しているのだろうか。境内に掲示された由緒書きには、『清正公大尊儀』と表記されている。由緒書きの方は、神仏分離後の言い方なのだろうか。
大石標『鎮守清正公大神儀』
境内掲示の『略縁起』
『清正公大尊儀』と表記されているものの、内容からすると、神格化されているように読むことができる。それがいけないと言っているわけではなく、そういうものなんだなあと思った次第。
通称白金の清正公さまと呼ばれる当山は、最正山覚林寺と号し寛永8年(1631)可観院日延(韓国の王族)によって開創されたお寺であります。
開創と同時に上人によってご奉安申し上げられた清正公大尊儀は古く江戸時代より開運の神さまとして霊験まことにあらたかで広く庶民大衆に崇敬されてまいりました。
毎年五月四日五日の両日に行われる清正公大祭には人生の苦悩に打ち勝つお守りとして「しょうぶ入り御勝守」が授与され、東都における清正公信仰のみなもととしていまもなお各界の参詣祈願者でにぎわいます。

境内掲示の『略縁起』
山門
簡素といえば簡素だが、なかなか風情がある感じ。
山門_1
山門_2
山門_3
清正公堂
清正公大祭(毎年5月4・5日)では、清正公像が特別開帳され、「勝守り」が授与されるのか。武運の強かった清正公にちなんだ「勝守り」は、あらゆる勝負に勝つという意味を持つと解釈されているようだ。大祭に限り、菖蒲の入った勝守りを受けることができる。 菖蒲が、勝負や尚武に通じ、縁起がいいとされ、江戸時代から人気が高かったのか。う~~ん。
加藤家の本来の家紋は蛇の目紋。だが、桔梗の紋も使われていたそうだ。そこに人をうまく使った加藤清正の器量がありそうだ。
清正が肥後に赴くにあたり、秀吉は前年に改易した讃岐の尾藤知定の武具・調度一切を清正に与えました。侍大将から領主への大出世ですが、それに相応しい兵力も道具も当然不足します。秀吉が親心から配慮したものでしょう。
その尾藤家の紋が「桔梗」。清正は桔梗紋の入った武具・調度をそのまま使い、自分の家紋にしたのです。また、清正は旧尾藤家の家臣300名余りを、自分の家臣として召し抱えていましたので、彼等も誇りを傷つけられることなく存分に働いたと言われています。
また、清正はあとひとつ「折墨(おれずみ)」と呼ばれる家紋も使っていました。戦には「蛇の目」、慶事には「桔梗」、文化的な事には「折墨」というふうに、用途により3種類を使い分けていたそうです。

清正公堂_1
有栖川宮熾仁親王の書かれた「破魔軍」の大額
清正公堂_2
清正公堂_3
清正公堂_4
清正公堂_5
清正公堂_6
清正公堂_7
清正公堂_8
清正公堂_9
清正公堂_10
清正公堂_11
港区教育委員会の説明板
港区教育委員会の説明板

以上で、『善福寺から清正公まで』のシリーズは終了です。最後までご覧頂き有り難うございました。

 

善福寺から清正公まで(4)

善福寺の参道付近
柳の井戸
参道にある井戸。空海(弘法大師)が柳の木の下で錫杖を立てたところ、湧き出してきたという。『独鈷の湯』とまではいかなかったようだ。写真では判然としないと思うが、確かに少量ながら水が湧いていた。関東大震災や東京大空襲の時には多くの人が飲み水として利用したそうだ。
柳の井戸_1
『楊柳水銘』と書かれた石碑
柳の井戸_2
柳の井戸_3
善福寺の周辺にはお寺さんが集中している
善福寺の周辺にはお寺さんが集中している_1
善福寺の周辺にはお寺さんが集中している_2
善福寺の周辺にはお寺さんが集中している_3
善福寺の周辺にはお寺さんが集中している_4
善福寺の周辺にはお寺さんが集中している_5
善福寺の周辺にはお寺さんが集中している_6

一旦、麻布十番駅まで普通の行き方で行ってみた。やはりかなり近い。駅から善福寺までゆっくり歩いても数分だろう。

麻布十番駅でほぼ全景が見えた六本木ヒルズ
やはり辺りを圧するような巨大な建築物だ。中に入ってみたいとは思わないが。
六本木ヒルズ_1
六本木ヒルズ_2
六本木ヒルズ_3

また、清正公に向かって歩き出す。

白亜荘など
かなり古色蒼然とした建屋だ。『白亜』の名にふさわしかったのは、だいぶ昔のようだ。土一升金一升の南麻布で、このような状態で放置されているとは非常に勿体無いことだ。
白亜荘など_1
白亜荘など_2
白亜荘など_3

 

善福寺から清正公まで(3)

いよいよ麻布山善福寺に参拝する

麻布山善福寺
元麻布ヒルズに敷地を売却するなどした関係なのか、境内は狭隘な感じが否めなかったが、ものすごい歴史を秘めている寺院であると、改めて思い知らされた。浅草寺より中身が濃い感じに思える。
勅使門が前方に見えてきた
確かに見えてきたのだが、背後にそびえる元麻布ヒルズが巨大すぎて、主役の座を奪われそうな感じだ。
勅使門が前方に見えてきた
参道の途中にはハクモクレンの花が美しく咲いていた
参道の途中にはハクモクレンの花_1
参道の途中にはハクモクレンの花_2
改めて勅使門をしっかり見る
文永の役(1274年)で亀山天皇の勅使寺となった時以来の使用している呼び方なのか。鎌倉時代中期のことなので、鎌倉幕府に遠くも近くもないこの寺に白羽の矢が立ったのだろうか。惜しくも戦災で焼失し、昭和55年に再建されたそうだ。古いものがあったのに、戦災で焼失してしまったのが残念でならない。
改めて勅使門をしっかり見る_1
改めて勅使門をしっかり見る_2
改めて勅使門をしっかり見る_3
改めて勅使門をしっかり見る_4
改めて勅使門をしっかり見る_5
本堂
さすがに貫禄がある。慶長12年(1607)に徳川家康が東本願寺八尾別院本堂として建立したもので、京都天明の大火の後、約10年間、東本願寺の御影堂の役も勤めた建物を移築 ・再建した由緒あるものか。普通に考えれば、国指定重要文化財になっていてもおかしくはなさそう。港区指定文化財のままなのが不思議。かなり改築を加えているなどの事情があるのだろうか。
本堂
『最初のアメリカ公使宿館跡』のプレート
本当にそうなのだ。それがために福沢諭吉先生も度々訪れていたのだろうか。
『最初のアメリカ公使宿館跡』のプレート_1
『最初のアメリカ公使宿館跡』のプレート_2
『最初のアメリカ公使宿館跡』のプレート_3
鐘楼
墓地内部は撮影禁止なので、境内側から撮った。
鐘楼
逆さイチョウ
推定樹齢750年以上、親鸞がみずから植えたとされるイチョウの古木。伝承によると、親鸞のついた杖から生えてきたという。名の由来は、枝か下のほうに伸びさかさになっているように見えることからきている。大戦時の空襲で被災しスケールが縮まったものの、現在でも都内最大のイチョウであり、国の天然記念物に指定されている。
逆さイチョウ
墓地方向を写す
親鸞聖人像が目立つ
墓地方向を写す

福沢先生の墓
夫婦名義の墓が開山堂の前にある。戒名は『大観院獨立自尊居士』だ。間違ってもお金にご縁ができますようにとお願いしてはいけないのだろう。
墓地の撮影は禁止されている。そのため、freeの画像を借用した。
福沢先生の墓
越路吹雪の墓
墓地入口脇にある。すごく洒落たお墓だ。
墓地の撮影は禁止されている。そのため、freeの画像を借用した。
越路吹雪の墓

平安時代、唐で真言を極めて帰国された弘法大師は関東一円に真言宗を広めるために、高野山に模して麻布山善福寺を開山されました。天長元年(八二四年)のことで、都内では金竜山浅草寺につぐ最古の寺院です。
鎌倉時代になって、越後に流されていた親鸞聖人は、許されて京へ上る途中に善福寺を訪れました。迎えた了海上人は、七才で仏門に上り、比叡で顕密二法を修めた俊英の僧で、当時若冠十七才でした。
上人は、親鸞聖人の高徳に傾倒し、一山をあげて真言宗から浄土真宗に改宗しました。以後、上人は関東一円にわたって、浄土真宗を広め、『大谷遺跡録』によると、関東六老僧の一人として名を残しています。
また、二度にわたる蒙古来襲に際して、亀山天皇の勅願寺となりました。
時代がすすみ、浄土真宗は、庶民の間に根強く広まり、やがて一向一揆がおこり、石山本願寺で織田信長と戦火を交えるほどの勢力になりましたが、善福寺は籠城する僧に援軍を送りました。
乱後、豊臣秀吉は関東を平定しましたが、当寺には寺領保護を誓約しました。
江戸時代になると、特に三代将軍徳川家光は甲良豊後守に命じ当時の建築の粋を集めて本堂を建立し寄進しました。
又、東京の地名となっている虎ノ門は当時の善福寺の山門であり、杉並の善福寺池は当時の奥の院跡で当時の寺領の広さがわかります。
一八五九年になると善福寺は初代アメリカ合衆国公使館としてタウンゼント・ハリス公使以下の館員を迎えました。
その頃、壤夷を唱える人々の襲撃をうけ庫裡、書院などが焼失しましたが、僧たちの機転によって身をもって公使館員を守り、日米の友好の絆を深めました。
そのころより後に三井物産創始者の益田孝氏や古河市兵衛氏、福沢諭吉氏が当寺に出入りし、明治八年十二月八日まで公使館として使用されました。
現在の本堂は、慶長12年(1607)に徳川家康が東本願寺八尾別院本堂として建立したもので、京都天明の大火の後、約10年間、東本願寺の御影堂の役も勤めた建物を移築 ・再建した由緒あるものです。

 

善福寺から清正公まで(2)

大黒坂、一本松坂と坂が続く。分岐する坂に暗闇坂もあったが、ピンぼけしてしまった。お寺さんも続く。

一本松坂
長伝寺
「江戸名所図会」に描かれた「麻布一本松」には、この長伝寺も描かれているそうだ。
長伝寺
一本松には謂われが書かれてあった
麻布一本松_1
麻布一本松_2
一本松の由来
 江戸砂子によれば天慶二年西紀九三九年ごろ六孫源経基平将門を征伏しての皈途此所に來り民家に宿す
 宿の主粟飯を柏の葉に盛りささぐ
 翌日出立の時に京家の冠装束を松の木にかけて行ったので冠の松と云い又一本松とも云う
 注 古樹は明治九辰年焼失に付き植継
   昭和二十年四月又焼失に付き植継

『江戸砂子』(えどすなご)は江戸時代中期に著された江戸の地誌だそうだ。「皈」は 「帰」の異体字で、正字は「歸」。
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「江戸名所図会」に描かれた「麻布一本松」は、松のたもとに茶屋や長伝寺が描かれています。明和の大火で植え継がれて六十年にしては大木に描かれていますが、おそらく画家長谷川雪旦は伝え聞いた古木の高さ三丈六尺八寸、枝は東へ二丈、西へ二丈六尺、南へ一丈六尺、北へ一丈六尺、根回り五尺八寸という大きさを画いたのかもしれません。この図会に見られるお茶屋は「ふじ岡」、作家池波正太郎は鬼平犯科帳「麻布一本松」のなかでこの「ふじ岡」を舞台に使っています。
元麻布ヒルズの内のフォレストタワー
完全な姿で見えてきた。当たり前か、敷地と歩道の境から撮ったのだから。しかし、こんな超高層のレジデンスにすんで、快適なのだろうか。無い者の僻みかな。
元麻布ヒルズの内のフォレストタワー
此処にもあった氷川神社
此処にもあったんだ。氷川神社は首都圏では数が多いようだが、港区内には3社あるとのこと。セーラームーンの初期にヒロインが此処の巫女をしている設定とかで、と騒がれたとか。
氷川神社(ひかわじんじゃ)は東京都港区元麻布にある神社である。同区内赤坂にある赤坂氷川神社・白金にある白金氷川神社と区別するため麻布氷川神社とも称される。麻布地区の鎮守。
天慶5年(942年)、源経基が平将門の乱平定のため東征した折、武蔵国豊島郡谷盛庄浅布冠の松(現麻布一本松)の地に創建されたと伝えられる。他方で、文明年間(15世紀後半)に太田道灌が勧請したという説もある。2,000坪以上の社有地を有したといわれるが、創建地が増上寺の所領となり、万治2年(1659年)当地へ遷座した。江戸時代は、江戸七氷川に数えられた。
東京大空襲で、本殿・社務所等が焼失、戦後に再建されている。

氷川神社_1
氷川神社_2
氷川神社_3
氷川神社_4
アルゼンチン共和国大使館
閑静な住宅地にあるものだ。とはいっても、近くに中国大使館や韓国大使館、オーストリア大使館などがある大使館銀座でもあるのだが。もっと言えば、超名門私立高校の麻布高校もこの近くだ。私には全く縁がなかったが。
アルゼンチン共和国大使館
日本基督教団安藤記念教会
創立1917年のメソジストの伝統をもつプロテスタントの教会だそうだ。元麻布の地にあり、大谷石とステンドグラスが特徴の礼拝堂は地域にも親しまれていると、HPに説明があった。なるほど風格のある礼拝堂だ。蔦の絡まるチャペルだ。外からはよくわからないが、ステンドガラスもきれいなのだそうだ。
創立者の安藤太郎氏は、函館戦争で榎本武揚に従軍。その後 明治政府の大蔵省、外務省に登用された人物。1886年(明治19年)には初代ハワイ総領事に就任し、キリスト教と出会い、文子夫人とともに洗礼を受けた。

日本基督教団安藤記念教会_1
日本基督教団安藤記念教会_2

仙台坂を下る途中に韓国大使館がある。異様なほどの警官を配置して、摩擦が起きないようにしているようだ。
かかわり合いを持つのが嫌だったので、当然写真は撮らずに、早足で通り過ぎた。


漸く麻布山善福寺に通じる道に着いた
車が出てきた道が善福寺に通じる道。車が向かおうとしている方向が麻布十番駅方向。あちらから来れば、相当に近い。
漸く麻布山善福寺に通じる道に着いた

 

善福寺から清正公まで(1)

啓蟄はとっくに過ぎた3月17日。久しぶりの好天気に、ひきこもり気味の私も、どこか歩いてみようと思い立った。どこへ行こうか当日になって考えたので、時間的に遠出は無理。近場で行ったことのないところということで、まずは善福寺を目指した。
東京都杉並区の地名の方ではなく、港区元麻布一丁目にある浄土真宗本願寺派の寺院である麻布山善福寺の方。都内では、浅草寺に次ぐ古刹の一つで、境内には著名人の墓も多い。


赤い靴の女の子のモデルのきみちゃん
子供の頃、異人さんに連れられて彼の国に渡ったと思っていたのに、実際には悲しい運命が待ち受けていた。この麻布十番の地で結核のために亡くなっていた。作詞した野口雨情もきみちゃんは異人さんに連れられて彼の国に渡ったと思っていたようだ。
きみちゃんの像
きみちゃんの像
きみちゃんが息を引き取った「永坂孤女院」があった場所に存在する十番稲荷神社
やけに陽気な場所に変身したものだ
「永坂孤女院」があった場所に存在する十番稲荷神社_1
「永坂孤女院」があった場所に存在する十番稲荷神社_2

是非とも読んでいただきたい。悲しい運命に翻弄された人が居たものだ。
きみちゃんの特集記事が載っているページヘjump

きみちゃんの像に行く手前に有名なお店があった
浪花屋総本店
往年の大ヒット曲「およげ!たいやきくん」のモデルとなったお店。明治42年創業、日本で初めて「たい焼き」を考案したのだそうだ。この日は定休日だったようで、たい焼きを買うことができなくて、残念。もっと残念そうな顔のご婦人が2人、諦めきれなさそうな表情で立っていたのが印象に残った。
浪花屋総本店
豆源本店
地方上京組の私には何故有名なのかよくわからないが、とにかく有名。調べてみたら、慶応元年(1865年)の創業以来、豆の持ち味と風味を守る製法で豆菓子の味覚を追求してきた店とのこと。豆菓子一筋に150年もの歴史があるお店のようだ。
少し奥には永坂更科もある。こちらも超有名店だ。

豆源本店_1
豆源本店_2

きみちゃんの像を過ぎてそのまま直進すると数分程度で、善福寺に到着する。今回はかなり遠回りをし、像の前で右折した。元麻布から仙台坂を経由して、ぶらぶら歩きを楽しみながら行くことにした。

ブラ歩きの途中は超高級住宅地
私の住んでいる街とは段違いだ。この一画はむちゃくちゃお寺さんが多い寺町だ。
ブラ歩きの途中は超高級住宅地_1
ブラ歩きの途中は超高級住宅地_2
ブラ歩きの途中は超高級住宅地_3
ブラ歩きの途中は超高級住宅地_4
ブラ歩きの途中は超高級住宅地_5
ブラ歩きの途中は超高級住宅地_6

こちらはかの有名な六本木ヒルズ
恥ずかしながら一度も中にはいったことがない。大きな理由の一つに高いところが苦手という理由があるかもしれない。
六本木ヒルズ
こちらは元麻布ヒルズ
森ビルが開発した高級レジデンス群。写真はその内のフォレストタワー。善福寺正面から山門を見上げると巨大な和蝋燭状のシルエットが借景としての趣を醸し出せるように意匠されているそうだ。それは着いてからのお楽しみだが。
こちらは元麻布ヒルズ

 

称名寺ほかを歩く(9)

龍華寺と洲崎神社とを後にして、道なりに進む。『憲法草創之處(明治憲法起草の碑)』にぶつかると、目の前は、広重の時代とは様相を異にはするものの、相変わらず風光明媚な平潟湾。釣り好きの人はよく承知している場所なんだろうな。そして、この辺の穴子は江戸前の最上級品のはずだ。それを食べるのも乙なものかな、などと考えながら海べりを歩いた。

憲法草創之處(明治憲法起草の碑)
この近辺にいくつかの碑が残っている。興味のある向きは下記を参照されたい。
『憲法草創之處』等を説明したページヘjump
憲法草創之處(明治憲法起草の碑)_1
憲法草創之處(明治憲法起草の碑)_2
平潟湾
平潟湾の地図
平潟湾は歴とした海なのだが、なんとなく湖のように見えてしまう。ここから、釣りにご出陣の太公望、マリンスポーツに興じるリッチマン、出漁する漁師さん、…いろいろな人達の出入りがあるようだ。昔の絵を彷彿とさせる景色の良さが残っている。
平潟湾_1
平潟湾_2
平潟湾_3
平潟湾_4
あのビルにある大きな樹木のような模様は何だろうか。絵なのか他のものなのか気になった。
平潟湾_5
どうやら蔦だったようだ。自然は芸術家なものだ。手前の緑は本物の木だ。
平潟湾_6
平潟湾_7
平潟湾_8
平潟湾_9
平潟湾_10
平潟湾_11
平潟湾_12
平潟湾_13
『平潟落雁』
『平潟落雁』
『乙舳帰帆』
『乙舳帰帆』
琵琶島神社
瀬戸神社と目と鼻の先。頼朝とは仲睦ましかったと言われているが、それを証しする感じかな。
琵琶島神社_1
琵琶島神社_2
琵琶島神社_3
琵琶島神社_4
琵琶島神社_5
琵琶島神社_6
琵琶島(びわじま)は横浜市金沢区の平潟湾に浮かぶ琵琶の形をしていたと伝わる周囲60mに満たない小島。
北条政子が琵琶湖竹生島の都久夫須麻神社から弁財天を勧請した琵琶島神社(琵琶島弁財天)があり、陸から伸びた参道と小橋で結ばれている。

瀬戸神社
頼朝は、鶴岡八幡宮だけでは飽きたらず、この瀬戸神社と葉山の森戸神社を勘定してきたのか。余程の神頼みの人物だったのだろうか。
瀬戸神社_1
瀬戸神社_2
瀬戸神社_3
瀬戸神社_4
瀬戸神社_5
瀬戸神社_6
瀬戸神社_7
瀬戸神社_8
『瀬戸秋月』
『瀬戸秋月』
鎌倉時代に栄えた六浦の海の神。
古代より、人々によって神が祀られていた聖地だったと考えられ、瀬戸明神が三島から石に乗って出現したという飛石の伝説も残されている(金龍院に残されている金沢四石「飛石」の伝説)。
社伝では、1180年(治承4年)、鎌倉に入った源頼朝が信仰していた三嶋大社を勧請したとされ、現在の瀬戸神社はそれを起源としているという。
以後、北条氏、足利氏、後北条氏によって保護され、徳川家康からは100石の朱印地を与えられた。


円通寺客殿(現木村邸)
金沢八景駅前にある茅葺の建物。すぐ近くのもう一棟あったが、消失してしまった。こちらも家康との関わりがあるようだ。
円通寺客殿(現木村邸)
京急金沢八景駅西側の茅葺きの建物はもと円通寺の客殿でした。その裏山に東照宮が祀られていて、円通寺はその別当職でした。
明治時代の初めに円通寺は廃寺となり、東照宮は瀬戸神社に合祀されました。御伊勢山はかつて伊勢神宮が祀られていたところからこう呼ばれるようになりました。
権現山とその西の御伊勢山の樹叢林は、横浜市の天然記念物に指定されていて、秋の紅葉は見事です。


以上で、『称名寺ほかを歩く』シリーズは終了です。最後までご覧頂き有り難うございました。

 

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