散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

称名寺ほかを歩く(8)

称名寺から八幡神社、龍華寺、洲崎神社、憲法草創之處(明治憲法起草の碑)、琵琶島神社、瀬戸神社を経由して、金沢八景駅まで歩く。地図で見ると近いのだが、市民の森を歩いて、少しくたびれた身には、少々厳しいものがあった。

龍華寺(りゅうげじ)
道筋であり、行き掛けの駄賃に見ていこうと思って軽い気持ちで境内に入ったのだが、なかなかどうしてすごいお寺さんだった。今度ゆっくり見に行きたいと思った。『知足山』という名前だけが、知恵不足気味の私には抵抗があるのだが。
徳川家康の関東入国の際、寺号を取次衆が誤って「龍源寺」と伝えてしまい、家康は、『立源寺』の響きがあって吉兆だと喜び、寺領を五石与えたとか。そんなエピソードがあったようだ。
『立源寺』は、我が家の近くにある古刹の名前でもある。この響きが吉兆だとはどういうことなのだろうか?

脱活乾漆造(だつかつかんしつづくり)の菩薩座像は、平成10年に龍華寺の宝蔵から発見され、天平時代の仏像と判明したとか。見てみたかったが、普段は非公開なのだそうだ。検索した画像で見る限りは、いかにも天平時代の仏像という感じの優しい表情が印象的なようだ。
龍華寺_1
龍華寺_2
龍華寺_3
龍華寺_4
龍華寺_5
龍華寺_6
龍華寺_7
龍華寺_8
龍華寺_9
龍華寺_10
龍華寺_11

知足山(ちそくざん) 龍華寺(りゅうげじ) (真言宗御室派)
源頼朝が瀬戸神社を建立した後、文覚上人と共に瀬戸神社の別当寺として六浦山中に建てた「浄願寺(じょうがんじ)」が始まりといわれています。その後、戦乱や火災で浄願寺の伽藍が荒廃したため、明応8年(1499)当時の住職融弁(ゆうべん)が、兼務していた光徳寺と合併し、当地に移築、龍華寺となりました。
800年以上の歴史を持つお寺だけに、貴重な宝物が所蔵されています。また、牡丹などの花の寺としても知られます。
脱活乾漆造(だつかつかんしつづくり)の菩薩座像:
天平時代の作と思われ、東海地方以東、初めて発見されました。(平成10年)
梵鐘:
天文10年(1541)の銘がありますが、鎌倉時代後期の作ではないかと思われます。
地蔵堂とまわり地蔵:
山門横の立派な建物は地蔵堂で、中には約500年前、地元洲崎の村人の浄財によって造られた、高さ76センチメートルの寄せ木造りの地蔵菩薩座像と、約150年前、海岸に打ち上げられていた、身の丈17センチメートルの「まわり地蔵」が祀られています。
この小さな地蔵はかっては厨子に入れられ、3日ごとに村の家々を回って拝まれていたそうです。

本尊:大日如来(だいにちにょらい)
開山:文覚上人(もんがくしょうにん)
創建:文治5年(1189)
開基:源頼朝(みなもとよりとも)


『脱活乾漆造』について詳しく解説しているページヘjump

洲崎神社
ごく小さな神社なのだが、由緒書きなどを読むと、すごい歴史を歩んできた神社であることに驚く。
応長元年(1311)5月18日の大海嘯に一村流滅し、住民の一部が鎮守大六天社を奉じてこの地に移住した…
当初の移住民は中心に社を置いてその周囲を囲繞して民戸を構える特異な村落形態をとり…
明治36年12月1日横浜金沢間の国道改修により、翌年2月9日現在地に遷座…

大海嘯(かいしょう)とは、大津波のことだったのだろうか。なんだか普通ではない歴史のようだ。しかも、700年以上前の歴史が伝わるのだ。また、『囲繞』という漢字を読むことができて意味を知る人は、あまり多くはないのでなかろうか。
洲崎神社_1
洲崎神社_2
洲崎神社_3
洲崎神社_4
広重の金沢八景のうちの『洲崎晴嵐』
洲崎晴嵐

当社はもと長浜の地にあったが、応長元年(1311)5月18日の大海嘯に一村流滅し、住民の一部が鎮守大六天社を奉じてこの地に移住したものである。
現在の本殿は天保9年6月12日の再建で、明治維新の際洲崎神社と改称した。
当初の移住民は中心に社を置いてその周囲を囲繞して民戸を構える特異な村落形態をとり、後世まで「家津良(やづら)八戸」と呼ばれて口碑にも伝えられたが、明治36年12月1日横浜金沢間の国道改修により、翌年2月9日現在地に遷座した。
同41年境内を拡張、翌年5月拝殿を増築、翌43年8月15日泥亀村の日枝神社及稲荷社を合祀、更に大正3年2月24日泥亀新田姫小島の無格社十二天社を合祀したが、大正10年12月に至り神饌幣帛料供進指定社となった。昭和16年、幣殿、拝殿、神饌舎を再度改築して現在に至る。

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海嘯(かいしょう、英: bore)は河口に入る潮波が垂直壁となって河を逆流する現象である。潮津波(しおつなみ)とも呼ばれる。昭和初期までは、地震による津波も海嘯と呼ばれていた。波形から段波(だんぱ)と呼ばれる形状構造をとっているため、波の前面での破壊力が大きい。

 

称名寺ほかを歩く(7)

称名寺を後にする
振返って再度庭園を眺める
この方角からだと、中の島の樹木が邪魔になってしまうかな
振返って再度庭園を眺める

昔の佇まいについて詳しく述べられているHPへjump

仁王門の前には石像が並んでいる
仁王門の前には石像が並んでいる_1
寛保三年(癸亥)と書かれている。1743年か。徳川吉宗の時代の石像か。『青面金剛』のようで、約300年前のものだ。
仁王門の前には石像が並んでいる_2
仁王門の前には石像が並んでいる_3
仁王門の前には石像が並んでいる_4
仁王門の前には石像が並んでいる_5
仁王門の前には石像が並んでいる_6
仁王門の前には石像が並んでいる_7
『金澤札所第二番』とある。北陸金沢の札所ではなく、横浜市金沢区辺りにあった金沢三十四観音札所の第2番だったようだ。 第一番:海岸寺 (廃寺)現在・県立金沢文庫、 第二番:慈眼寺 (廃寺)現在・称名寺、第三番:大宝院 現在・称名寺、…というふうになっている。廃寺になった慈眼寺にあったものだろう。
仁王門の前には石像が並んでいる_8
仁王門
仁王門
参道では桜まつりの飾り付けが始まっていた
朝とは打って変わって、華やかな感じに
参道では桜まつりの飾り付けが始まっていた_1
参道では桜まつりの飾り付けが始まっていた_2
参道では桜まつりの飾り付けが始まっていた_3
参道では桜まつりの飾り付けが始まっていた_4
赤門をくぐり抜ける
赤門をくぐり抜ける_1
三つ鱗の紋が入った瓦も立派だが、隣の波の模様のような瓦も味がある
赤門をくぐり抜ける_2
赤門をくぐり抜ける_3

『金沢三十四観音札所』を説明したページヘjump

 

称名寺ほかを歩く(6)

称名寺市民の森(2)
八角堂広場を後にして、稲荷山休憩所を経て、北条実時公御廟に行く
八角堂広場から稲荷山休憩所へ向かう途中の景観
八角堂広場から稲荷山休憩所へ向かう途中の景観_1
八角堂広場から稲荷山休憩所へ向かう途中の景観_2
八角堂広場から稲荷山休憩所へ向かう途中の景観_3
それまで急激に下ってきたが、ここでやや上る感じかな
それまで急激に下ってきたが、ここでやや上る感じかな
途中の様子
途中の様子_1
途中の様子_2
途中の様子_3
途中の様子_4
休憩はとらなかったが、確かに稲荷山休憩所を通過した
確かに稲荷山休憩所を通過した
程なく北条実時公御廟が見えてきた
そのはずだ。稲荷山休憩所からたったの100Mだった。
程なく北条実時公御廟が見えてきた_1
程なく北条実時公御廟が見えてきた_2
北条実時公御廟
こちらの表記も呼び捨てだし、御廟という表現も使っていない。そんなに此処の学芸員は北条嫌いなのだろうか。
ここまで来るのに、急勾配の坂を延々と上り、また、急勾配の坂を駆け下るようにして下りてきた。考えて見れば、北条実時公御廟はそんなに高い位置になく、直接来ればなんのことはないところだったようだ。

北条実時公御廟_1
北条実時公御廟_2
北条実時公御廟_3
北条実時公御廟_4
北条実時公御廟_5
北条実時公の絵姿
free画像を借用
北条実時公の絵姿
御廟への道は細くはないしっかりした道だった
この道をくれば、楽に早く行くことができたんだ。次回行くことがあれば、この道を通ることにしよう。
御廟への道_1
御廟への道_2
御廟への道_3

 

称名寺ほかを歩く(5)

称名寺市民の森(1)
まずは、北条顕時・北条貞顕公御廟脇の登り口から上り、観音広場を経て、金沢山の八角広場に行く。そこから稲荷山休憩所を経て、北条実時公御廟に行く。そんな行き方をしてみた。
『百番觀世音霊場登口』の標識
確かに急勾配の坂を登った先に『百観音』があるんだ。してみると、此処が正式な登り口になるのか。
『百番觀世音霊場登口』の標識
市民の森の案内図
市民の森の案内図
いきなりかなり急な上りが長々と続く
いきなりかなり急な上りが長々と続く
暫くすると『百観音』に
みえてきたのは、西国三十三霊場の観音群のようだ。この他に、坂東三十三霊場、秩父三十三霊場もあって『百観音』としているようだ。何を見て歩いていたのか、坂東三十三霊場、秩父三十三霊場の分は見落としてしまった。息が切れて酸素不足で、ぼーっとしていたのだろうか。うーーん、残念。
百観音_西国三十三霊場の観音群_1
百観音_西国三十三霊場の観音群_2
百観音_西国三十三霊場の観音群_3
百観音_西国三十三霊場の観音群_4
百観音_西国三十三霊場の観音群_5
百観音_西国三十三霊場の観音群_6
海中出現観世音
金沢山の市民の森山頂に八角堂がある。それは、北条660年忌を記念して、博文館社主であり金沢文庫の再興にも貢献した大橋新太郎氏が百観音とともに寄進したものだそうだ。話が長くなるが、そのお堂に一時期、『海中出現観音』が祀られていたそうだ。想像がつくかもしれないが、心ない者に壊され現在は祀られていないとのこと。非常に残念な話だ。
この石塔は、その頃の案内標識だったようだ。

海中出現観世音の案内標識
こんなものも
こんなものも_1
こんなものも_2
こんなものも_3
更に上を目指す
更に上を目指す
途中からの眺望
八景島シーパラダイスが見えた
途中からの眺望_1
途中からの眺望_2
やっと八角堂広場に
やれやれ急な坂道だった。内田康夫の『横浜殺人事件』では、この八角堂に死体があったという設定に。そんなことがあってもおかしくない雰囲気がした。何せ、途中でだれとも出会わないのだから。その話はさておき、ちょっと樹木が成長し過ぎ、自慢の眺望に支障がある感じに。
やっと八角堂広場に_1
やっと八角堂広場に_2
やっと八角堂広場に_3
やっと八角堂広場に_4

海に近い、金沢三山の金沢山を中心とした森。
国の史跡指定の称名寺境内をぐるりと取りまいた山林。
金沢山のてっぺんの八角堂広場からは四方が見渡せて、海の公園・野島・房総半島・円海山がいい眺め。
称名寺は、13世紀半ばに建てられた金沢北条一族の菩提寺。
北条実時公御廟から下る坂は桜が見事。
阿字ヶ池のまわりには、樹齢800年を越えるイチョウの名木古木がとりまく。
有名な金沢文庫のほか、鎌倉時代随一の浄土庭園も復元され、ふとした道ばたの石仏にも古い歴史の香りが漂う、しみじみ散歩道。

 

称名寺ほかを歩く(4)

称名寺(4)
北条顕時・北条貞顕公御廟
御廟の前の平地
此処には何が建っていたのだろうか。三重塔が庫裏に近い辺りに建っていたようではあるが、それすらもはっきりとはしないようである。
そして、金沢山の斜面が迫るギリギリのところには、北条顕時・北条貞顕公御廟が残されている。

御廟の前の平地
御廟のすぐ前にあった石像
御廟をお護りする意味合いがあったのだろうか
御廟のすぐ前にあった石像_1
御廟のすぐ前にあった石像_2
御廟のすぐ前にあった石像_3
中世の隧道
鎌倉時代にあったという金沢文庫へ通じる隧道だったのかな。今は何とも殺風景で、現在の『金沢文庫』が見えている。ちょっとがっかりする感じ。通行止めにするにしても工事現場のような感じで、如何にもやっつけ仕事という感じが否めない。『重要な遺跡で、永久に文化財として保存されます』の説明が白々しく聞こえて仕方がない。
中世の隧道_1
中世の隧道_2
御廟に近づいた
ゆるい坂の先に御廟が見える
ゆるい坂の先に御廟が見える_1
ゆるい坂の先に御廟が見える_2
説明板
横浜市教育委員会の説明板は両人を呼び捨てにしている。他の絵図にあるように『北条顕時・北条貞顕公御廟』と表記すべきではなかろうか。
説明板
北条顕時公御廟
実時公とは違う場所なんだ。一歩下がってという感じなのだろうか。
北条顕時(ほうじょう あきとき)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将。北条氏の一門・金沢流北条氏の第3代当主。金沢顕時とも称される。父は第2代(実質的には初代)当主で鎌倉幕府の重職を歴任した北条実時。正室は安達泰盛の娘・千代野。
安達泰盛が霜月騒動で粛清されたことにより逼塞を余儀なくされたが、その後に第9代執権・北条貞時の信頼を回復して復権。顕時の代に、金沢流北条氏は全盛期を迎えた。

北条顕時公御廟_1
北条顕時公御廟_2
北条顕時公
金沢貞顕公御廟
別名は確かに『金沢貞顕』ではあるが、あえて別名表記をする根拠は何なのか。市教育委員会の表記には納得出来かねる。
北条貞顕(ほうじょう さだあき)は、鎌倉時代末期の武将。北条氏の一門で鎌倉幕府第15代執権(在職:正中3年3月16日(1326年4月19日) - 正中3年3月26日(1326年4月29日))。
父は金沢流の北条顕時。母は摂津の御家人である遠藤為俊の娘・入殿。金沢文庫で有名な北条実時の孫に当たる。

金沢貞顕公御廟_1
金沢貞顕公御廟_2
金沢貞顕公御廟_3
金沢貞顕公
御廟から見た浄土庭園
あの世に旅立っても、浄土庭園を眺めていたかったのだろうか
御廟から見た浄土庭園

 

称名寺ほかを歩く(3)

称名寺(3)
浄土庭園
称名寺の最大の売り物である浄土庭園は、昭和62(1987)年になって漸く復原されたもの。鎌倉時代の遺跡はかなりこういう運命に晒されているものが少なくないようで、瑞泉寺の庭園も復元されたもの。永福寺の浄土庭園は、今後どう扱うのか、未だに見通しが立っていない。
昭和53年(1978)度から10カ年にわたって称名寺庭園・苑池の発掘調査と保存整備事業が行われ、「称名寺絵図」に基づいて昭和60年度に平橋、61年度に反橋が復元され、翌年にかけて庭園の復元的整備が行われた。しかし、その後の風雨等の影響で橋が劣化・腐朽したため、平成19年度に平橋、20年度に反橋の架け替えが実施された。
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浄土式庭園(じょうどしきていえん)とは、平安時代から鎌倉時代かけて築造された日本庭園の形式である。学術論文ではよく「浄土庭園」という名称が用いられる。この方式の庭園は、仏教の浄土思想の影響を大きく受けたものであり、平等院鳳凰堂に代表されるように、極楽浄土の世界を再現しようとしたため金堂や仏堂をはじめとした寺院建築物の前に園池が広がる形をとっており、寝殿造形庭園、書院造庭園とともに、同様の庭園形式である。
浄土庭園_1
浄土庭園_2
浄土庭園_3
浄土庭園_4
浄土庭園_5
浄土庭園_6
浄土庭園_7
放水訓練
文化財保護のために放水訓練をしたのだろう。時ならぬ騒ぎに鯉や鴨は驚いたことだろう。いつもあることではないので、驚きながらも協力してくれたようだ。
しかし、普通の消防車が入ってこれない道幅でもないのに、こんな可愛らしいミニ消防車で大丈夫なのかなあ。もしかして自衛消防隊かなあと思ったのだが、そうでもないらしい。心配だなあ。
放水訓練_1
放水訓練_2
放水訓練_3
放水訓練_4
放水訓練_5
放水訓練_6
放水訓練_7
昨25日の桜
まだまだ咲き方が足らないが、照明が始まったので夜桜を撮ってみた
昨25日の桜_1
昨25日の桜_2
昨25日の桜_3
昨25日の桜_4

 

称名寺ほかを歩く(2)

称名寺(2)
仁王門横の通用門を入ると、阿字ヶ池を中心に中之島・反橋・平橋を配した「浄土庭園」が広がる。そして、浄土庭園の向こうには、緑豊かな金沢三山(金沢山・稲荷山・日向山)を背に金堂・釈迦堂・鐘楼(称名晩鐘)が並び立つ。
反橋、平橋、金堂が一直線に並ぶ
反橋、平橋、金堂が一直線に並ぶと書いたが、もっと大げさに言えば、赤門、仁王門、反橋、平橋、金堂が一直線に並ぶ。ではあるが、境内に入り、仁王門を背にして見る様が好きだ。
反橋、平橋、金堂が一直線に並ぶ_1
反橋、平橋、金堂が一直線に並ぶ_2
反橋、平橋、金堂が一直線に並ぶ_3
反橋、平橋、金堂が一直線に並ぶ_4
反橋、平橋、金堂が一直線に並ぶ_6
反橋、平橋、金堂が一直線に並ぶ_7
称名寺庭園
称名寺の庭園は、元亨(げんこう)三年(1323)に描かれた重文「称名寺絵図並結界記(けっかいき)」によって、伽藍の配置と共に完成時の姿を知ることができます。
庭園は、金沢貞顕(さだあき)の時代の文保三年(1319)から、翌年の元応二年にかけて造られました。
作庭には性一(しょういつ)法師が携わり、青嶋石を使用した90数個の景石を、中島や池の周囲に大量の白砂と共に配置することなどを指示し、その満々と水が注がれた苑池には貞顕から贈られた水鳥が放され、ここに伽藍の美観の要とされる浄土庭園の完成が見られました。
苑池は金堂の前池として、浄土思想の荘厳のために設けられたもので、南の仁王門を入り、池を東西に二分するように中島に架かる反橋と平橋を渡って金堂に達するようになっています。
このような配置は、平安時代中期以降盛んになった、浄土曼荼羅(まんだら)の構図に基づき造ら れた浄土庭園の系列にあるもので、称名寺の庭園は、時代的に浄土庭園の基本的な形態を残す最後のものとして、庭園史上高い評価を得ております。
平成5年3月
横浜市教育委員会 史跡称名寺境内愛護会 案内板より

金堂
本堂である。諸堂宇の中心にある現在の金堂は、元和元年(1681)に再建されたもの。中に安置されている本尊の弥勒菩薩立像は、建治2年(1276)の銘があり、鎌倉時代のもの。国の重要文化財に指定されている。いつも、正面が10cmほど開けられているので、覗いてみるのだが、どこにあるのは私にはわからなかった。
金堂_1
金堂_2
金堂_3
金堂_4
金堂_5
釈迦堂
文久2年(1862年建立)。堂宇そのものは、鎌倉風だが江戸時代の再建だそうだ。本尊の清涼寺式釈迦如来を祀る堂宇であるから釈迦堂というようだ。清涼寺式釈迦如来は、残っているものは、殆ど国指定の重要文化財のようだ。鎌倉の極楽寺や目黒の大円寺のものも同様だ。希少価値が高いのだろう。
本尊は、京都嵯峨の清涼寺の釈迦如来立像(三国伝来の釈迦如来)を模刻したもの(国重文・清涼寺式釈迦如来)。1308年(徳治3年)、北条実時の三十三回忌に造立された。
清涼寺の釈迦如来立像は、東大寺の僧奝然(ちょうねん)が中国宋より持ち帰ったもの。

釈迦堂
鐘楼
有名な『称名の晩鐘』。心して拝見しなければ。それにしても、↓の解説のとおり、この辺は地震の被害が多かったのだなあ。油断していてはいけない土地柄のようだ。
称名寺の梵鐘は、「称名の晩鐘」として「金沢八景」の一つに数えられる名鐘。
「文永己巳仲冬七日」の旧銘と「正安辛丑仲和九日」の改鋳銘がある。
北条実時が1269年(文永6年)に鋳造させた鐘が地震によって壊れたため、1301年(正安3年)に金沢顕時によって改鋳されたもの。

鐘楼_1
鐘楼_2
鐘楼_3
鐘楼_4
おまけ…昨24日の桜
昨24日の桜_1
昨24日の桜_2
昨24日の桜_3

 

称名寺ほかを歩く(1)

3月半ばに称名寺ほかを歩いた。少し遠出をするときには、EOS M3とシグマの18-250ミリとの組み合わせで行こうと考えている。それが自分の中で我慢できるものなのか、EOS M3の到着がまだだったが、色々なシチュエーションで試すべく、少し長めに歩いてみた。

称名寺(1)
あまり目的地を決めないぶらぶら歩きだが、まずは称名寺を見てみることにした。
何度見ても素敵な佇まいであると思わされる。北条実時は、此処に居を構えたことから『称名寺殿』と称されていたようだ。
仁王門横の通用門を入ると、阿字ヶ池を中心に中之島・反橋・平橋を配した『浄土庭園』が広がる。これは長いこと放置されたままであったが、近年になって復原されたものだ。この浄土庭園だけでなく、往時は三重塔もあったという。伽藍ももっとあったようだ。タイムマシンがあれば、往時の繁栄ぶりを見てみたいものだ。
境内は、春の桜、初夏の黄菖蒲、秋の紅葉と四季折々の景観が美しいそうだ。そのいずれの時期も外してばかりだ。そして今になってわかったことだが、10日ほど後だと、桜が見頃だった。それを逃したのが、少し残念。

曲がり角はすぐ近く
駅から称名寺の境内まででも1km弱程度。膝を悪くする前ならば、走ってでも行ける近さだ。うっかりこの曲がり角を通りすぎてしまうとかなりの回り道になる。
曲がり角はすぐ近く_1
曲がり角はすぐ近く_2
山茱萸かな
道筋には綺麗に咲いていた。この時期には、黄色い鮮やかな花が咲き出すと、なんとなくもう少しだと勇気を分けてもらえるような気になる。
山茱萸かな
赤門
もちろん東大の赤門ではなく、称名寺の赤門だ。ここならば、私のような凡庸な人間でも入ることができる。明和8年(1771年)に建立されたそうだ。うーーん、古いような、そうでもないような微妙なところだなあ。
赤門というもの自体は、将軍家の子女が嫁ぎ先で住んだ場所である御守殿(御住居)の門として建てられたものらしい。東大の敷地にある赤門はその例だろう。而、こちらは。うーーん、微妙。徳川幕府から御朱印をもらった証らしいのだが。

赤門_1
赤門_2
これから数多く目にするだろう三つ鱗の紋
初代執権・北条時政が江ノ島弁財天に子孫繁栄を祈願したとき、美女変身した大蛇が神託を告げ、三枚の鱗を残して消えたことに因むという。
三つ鱗の紋
桜並木の参道
行きの時は何も飾りがなかった。朝一番で人も殆どいなかった。
桜並木の参道
称名寺塔頭光明寺表門
三渓園に移築したものを除けば、横浜市内で最古の建築物らしい。古いことは古いものだが、相応の扱いがなされていないことにもののあわれを覚える。
なお、こちらにある『大威徳明王像』は、運慶の真作と判明しているそうだ。拝見できるものか否かも知らない。称名寺を含めて、もう少しPRをしたほうが良さそうに思う。駐車場くらいにしか認識していないのは残念過ぎる。

称名寺塔頭光明寺表門_1
称名寺塔頭光明寺表門_2
称名寺塔頭光明寺表門_3
称名寺塔頭光明寺表門_4
称名寺塔頭光明寺表門_5
山門(仁王門)
参道の突き当りには仁王門。周囲を圧倒するほどの迫力を誇る建物。文政元年(1818年)に建立。鎌倉時代に造られた高さ4mの大きな仁王像は県指定重要文化財。神奈川県教育委員会のホームページによれば、関東における最大の金剛力士像とのこと。胎内墨書により、1323年(元享3年)の院興らの作であることが判明している。うまく撮りたいのだが、金網が邪魔をしてなかなか上手く撮れたことがない。EOS M3が届いたら、再度挑戦してみようと思う。
山門(仁王門)_1
山門(仁王門)_2
山門(仁王門)_3
山門(仁王門)_4
山門から境内を見るとこんな感じ
山門から境内を見るとこんな感じ

北条氏の一族である金沢(かねさわ)北条氏の祖、北条実時(1224年 - 1276年)が開基した。創建時期については確実なことはわかっていないが、1258年(正嘉2年)実時が六浦荘金沢の居館内に建てた持仏堂(阿弥陀堂)がその起源とされる。のち1267年(文永4年)、鎌倉の極楽寺忍性の推薦により下野薬師寺の僧・審海を開山に招いて真言律宗の寺となった。金沢北条氏一族の菩提寺として鎌倉時代を通じて発展し、2代顕時、3代貞顕の代に伽藍や庭園が整備されたが、鎌倉幕府滅亡とともに金沢北条氏も滅び、以後寺運も衰退した。降って江戸時代に入ると大幅な復興が実現し、現存する建物が作られた。

 

桜が咲いた

待ちに待った桜が咲いた。都立大学駅前の呑川遊歩道の桜が、ほんの一部ではあるが、確かに咲き出した。
これで今週は花見の1週間になりそうだ。ちょうどやってくる伊豆の孫達も喜ぶかな。

3月22日15時過ぎの桜
はっきり咲き出したという感じ。嬉しくなってしまう。思わず顔がほころんだ。
15時過ぎの桜_1
15時過ぎの桜_2
15時過ぎの桜_3
15時過ぎの桜_4
15時過ぎの桜_5
15時過ぎの桜_6
15時過ぎの桜_7
今夜はどうかわからないが、駅前の一画はこの強力な投光機が十基ほどで照らされる。夜桜が映えることだろう。
投光機

14時少し前の桜
09時よりは少し咲き出したが、まだまだ。本格的に通りすがりの人が足を止めるのは本日(23日)以降のことだろう。
14時少し前の桜_1
14時少し前の桜_2
14時少し前の桜_3
14時少し前の桜_4
14時少し前の桜_6
ヒイラギナンテンも少し前から開花している。個人的には好きな花だ。
ヒイラギナンテンも少し前から開花している_1
ヒイラギナンテンも少し前から開花している_2

09時過ぎの桜
咲いているのは樹の幹から直接のものが殆ど。普通の位置から咲いているものは、ごくわずかだった。
09時過ぎの桜_1
09時過ぎの桜_2
09時過ぎの桜_3

 

横浜の港と洋館とを見て歩く(15)

山手111番館
ここの雛飾りが私には一番好きな感じだった。
外観
山手111番館の外観_1
山手111番館の外観_2
雛飾りの様子
本格的な雛飾りという感じで、素晴らしいと思った。
「ひな・HINA・雛あそびのテーブル」
ひな祭りのテーブルコーディネートと装飾をお楽しみください。

山手111番館の雛飾りの様子_1
山手111番館の雛飾りの様子_2
山手111番館の雛飾りの様子_3
山手111番館の雛飾りの様子_4
山手111番館の雛飾りの様子_5
山手111番館の雛飾りの様子_6
山手111番館の雛飾りの様子_7
山手111番館の雛飾りの様子_8
山手111番館の雛飾りの様子_11
山手111番館の雛飾りの様子_10
山手111番館の雛飾りの様子_11
山手111番館の雛飾りの様子_12
山手111番館の雛飾りの様子_13
山手111番館の雛飾りの様子_14
山手111番館の雛飾りの様子_15
山手111番館の雛飾りの様子_16
山手111番館の雛飾りの様子_17
山手111番館の雛飾りの様子_18

イギリス館の南側、噴水広場を挟んで立っているスパニッシュスタイルの洋館が、山手111番館です。
ワシン坂通りに面した広い芝生を前庭とし、ローズガーデンを見下ろす建物は、大正15(1926)年にアメリカ人ラフィン氏の住宅として現在地に設計されました。
設計者は、べーリック・ホールを設計したJ.H.モーガンです。玄関前の3連アーチが同じ意匠ですが、こちらは天井がなくパーゴラになっているため、異なる印象を与えています。大正9(1920)年に来日したモーガンは、横浜を中心に数多くの作品を残していますが、山手111番館は彼の代表作の一つと言えるでしょう。
赤い瓦屋根に白壁の建物は地階がコンクリート、地上が木造2階建ての寄棟作りです。
創建当時は、地階部分にガレージや使用人部屋、1階に吹き抜けのホール、厨房、食堂と居室、2階は海を見晴らす寝室と回廊、スリーピングポーチを配していました。


以上で『横浜の港と洋館とを見て歩く』シリーズは終了です。最期までご覧頂き有り難うございました。

 

横浜の港と洋館とを見て歩く(14)

横浜市イギリス館
ここは雛飾りは用意されていなかったが、通りすがりだし、私の好きな洋館なので、立ち寄った。いつもの様子のままだったが、飾りがなくても十分な感じだった。
建物の様子
建物の様子_1
建物の様子_2
建物の様子_3
建物の様子_4
建物の様子_5
建物の様子_6
建物の様子_7
建物の様子_8
建物の様子_9
建物の様子_10
建物の様子_11
眺望は抜群
眺望は抜群_1
眺望は抜群_2
眺望は抜群_3
花の様子
ローズガーデンが有名だが、他の花もなかなか綺麗だった
花の様子_1
花の様子_2
花の様子_3
花の様子_4
花の様子_5
花の様子_6
花の様子_7
花の様子_8
花の様子_9
いつも見る方角ではない方角から見た様子
いつも見る方角ではない方角から見た様子_1
いつも見る方角ではない方角から見た様子_2
いつも見る方角ではない方角から見た様子_3
いつも見る方角ではない方角から見た様子_4
イギリス館は、昭和12(1937)年に上海の大英工部総署の設計によって、英国総領事公邸として、現在の地に建てられました。鉄筋コンクリート2階建てで、広い敷地と建物規模をもち、東アジアにある領事公邸の中でも、上位に格付けられていました。
主屋の1階の南側には西からサンポーチ、客間、食堂が並び、広々としたテラスから芝生の庭につながっています。2階には寝室や化粧室が配置され、広い窓から庭や港を眺望できます。地下にはワインセラーもあり、東側につく付属屋は使用人の住居として使用されていました。玄関脇にはめ込まれた王冠入りの銘版(ジョージⅥ世の時代)や、正面脇の銅板(British Consular Residence)が、旧英国総領事公邸であった由緒を示しています。

 

横浜の港と洋館とを見て歩く(13)

えの木てい
残念ながら開店時間はまだまだだった。素晴らしい人気の洋菓子店だ。
えの木てい

山手234番館
『えの木てい』の隣の『山手234番館』がこの日の2番めの訪問館。実はあまり期待していなかったのだが、良い意味で裏切られた。
外観
高級アパートという感じかな。『えの木てい』と同じ設計者の作品だ。調和するように設計したのだろう。
『山手234番館』の外観_1
『山手234番館』の外観_2
『山手234番館』の外観_3
ささやかな雛飾り
ささやかではあるがとてもキュート。桃色を多用することによって、雰囲気を醸し出した。女性には好評だったのでは。
春の光の中で楽しむ…雛の節句のティーパーティー
お花の上にはんなり座るお雛様を中心に美味しいお茶とスイーツでお客様をおもてなしです。花重のお花はお帰りの際のプレゼント! 春の柔らかな日差しをお部屋に呼び込んで、季節のお花を飾ればお部屋の中は春爛漫。さあ、ティーパーティーの始まりです。

ささやかな雛飾り_1
ささやかな雛飾り_2
ささやかな雛飾り_3
ささやかな雛飾り_4
ささやかな雛飾り_5
ささやかな雛飾り_6
ささやかな雛飾り_7
ささやかな雛飾り_8
ささやかな雛飾り_9
ささやかな雛飾り_10
ささやかな雛飾り_11
2階では個展が開催されていた
とても夢のある画風だった。作者の世界に引きずり込まれそうな感じがした。
2階では個展が開催されていた_1
2階では個展が開催されていた_2
2階では個展が開催されていた_3

エリスマン邸の斜め前、山手本通沿いに建つ山手234番館は、昭和2(1927)年頃外国人向けの共同住宅(アパートメントハウス)として、現在の敷地に民間業者によって建設されました。関東大震災により横浜を離れた外国人に戻ってもらうための復興事業の一つとして建てられ、設計者は、隣接する山手89-6番館(現えの木てい)と同じ朝香吉蔵です。
建設当時の施設は、4つの同一形式の住戸が、中央部分の玄関ポーチを挟んで対称的に向かい合い、上下に重なる構成をもっていました。3LDKの間取りは、合理的かつコンパクトにまとめられています。また、洋風住宅の標準的な要素である上げ下げ窓や鎧戸、煙突なども簡素な仕様で採用され、震災後の洋風住宅の意匠の典型といえます。

 

横浜の港と洋館とを見て歩く(12)

いよいよこの日最初の洋館『エリスマン邸』に入る。隣接する『ベーリック・ホール』も見たかったのだが、こちらは補修のために休館中だった。

エリスマン邸にて
外観
このような外観。かなり大きな洋館だ。
外観_1
外観_2
早速雛飾りを見る
洋館と雛飾りとはうまく合うと見ていただけただろうか。私はかなりいいなと思いながら見させていただいた。
≪ひなまつりを囲む昼のテーブル ≫
日本の伝統行事である「ひなまつり」に合わせテーブル装飾をしています。雅楽をモチーフにした京焼の華やかさをご堪能下さい。

雛飾り(1)
雛飾り(1)_1
雛飾り(1)_2
雛飾り(1)_3
雛飾り(1)_4
雛飾り(1)_5
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雛飾り(1)_7
雛飾り(2)
雛飾り(2)_1
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雛飾り(3)
雛飾り(3)_1
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雛飾り(3)_3
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雛飾り(3)_5
2階にも上がってみる
2階にも上がってみる_1
2階にも上がってみる_2
2階にも上がってみる_3
2階にも上がってみる_4
2階にも上がってみる_5
再びエリスマン邸の外観
再びエリスマン邸の外観_1
再びエリスマン邸の外観_2

 

横浜の港と洋館とを見て歩く(11)

洋館を見て歩いたのは3月2日。時期限定のものだけに、もたもたしていると雛飾りの展示が撤去されてしまう。洋館と雛飾りとがどう折り合いをつけるのか興味があったのだ。何とか間に合った感じ。
アメリカ山公園にて
元町・中華街駅の元町側の改札口から、エレベータに乗ると、このアメリカ山公園に出る。この公園の位置である山手29番地の歴史は、横浜開港まで遡るそうだ。当初は外国人居留地としてアメリカ公使館の書記官が住み、その後民間に払い下げられた。そして戦後アメリカ軍に接収され、米軍住宅があった時期も。それが、アメリカ山の名前の由来だそうだ。
とにかく非常に見晴らしが良く気分の良い公園だ。2009年8月日に一部オープンし、2012年4月に全面オープンした比較的新しい公園。

美しい花が出迎えてくれている
美しい花が出迎えてくれている_1
美しい花が出迎えてくれている_2
美しい花が出迎えてくれている_3
美しい花が出迎えてくれている_4
美しい花が出迎えてくれている_5
眺望も抜群
眺望も抜群_1
眺望も抜群_2
外国人墓地
公園を出た目の前が外国人墓地。文明開化を手助けしてくれた外国人が数多く眠る。
外国人墓地_1
外国人墓地_2
外国人墓地_3
外国人墓地_4
道筋には色々と目を引くものが
横浜山手聖公会
電話ボックスと同じ扱いでは失礼な話だ。申し訳なく思うが、当日の目的は洋館と雛飾りの折り合いを見ることにあるので、当然パスだ。日本聖公会横浜教区に属する教会で、大谷石を使ったノルマン様式の聖堂をもつ。
横浜山手聖公会
古めかしい公衆電話ボックス
なかなかに渋い感じだ。中の電話機は現役なのだろうか。
古めかしい公衆電話ボックス

 

横浜の港と洋館とを見て歩く(10)

旧大倉土木が手掛けた建物群
これから取り上げる3つのビルは、大成建設の前身である旧大倉土木が手掛けたものだ。いい仕事をしていたようだ。
横浜貿易会館
茶褐色のタイルが美しいこのビルディングは、横浜大桟橋の入口交差点角に建つもので、昭和4年に横浜貿易会館として建てられたもの。その名前よりレストランSCANDIAと言った方が馴染みがあるかも知れません。
このビルのデザインの特徴と言えば、建物正面のデザイン。窓の庇に両角脇に建つ柱状の装飾に、昭和初期らしいモダンさが伺えます。また現在のレストランの仕様とこのデザインがぴったりと一致しているというのも、このビルの設計を手掛けた大倉土木の技師の技量が光っているのではないかと思えてきます。

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隣接する「横浜海洋会館ビル」や昭和ビルと同様の特徴を持つ建物、1929(昭和4)年竣工。入居する「レストランSCANDIA」では創業44年、老舗の北欧料理が楽しめます。
横浜海洋会館
昭和4年竣工というこの海洋会館、もとは大倉商事のビルとして建てられたものだそうで、設計・施工も系列会社の大倉土木(現在の大成建設の前身)がおこなっております。大倉は戦前を代表する財閥会社の一つで、東京虎ノ門のホテルオークラ内にある大倉集古館や京都の祇園閣など、『富の象徴』ともいうべき施設は残っていますが、戦前に建てられたオフィスで残っているものは恐らくここ横浜だけではないかと思います。
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大倉商事横浜出張所として1929年建設、スクラッチタイル張りの外装に特徴アリ。
表側から見た横浜貿易会館と横浜海洋会館
スクラッチタイルを使用していることがよく分かる。斬新なものだ。
表側から見た横浜貿易会館と横浜海洋会館_1
表側から見た横浜貿易会館と横浜海洋会館_2
裏側から見た横浜貿易会館と横浜海洋会館
タイル貼りではない。それでも相応に洒落た感じだ。
裏側から見た横浜貿易会館と横浜海洋会館
昭和ビル(カストム・ブローカー・ビルディング)
建物の側面を見ると、隣にあったキッコーマンビルとつながっていたように見える。大倉土木の手がけた4つのビルが並んでいれば、壮観だったことだろうと思う。
海岸通りと日本大通りが交差した角に建つスクラッチタイルが何とも渋い雰囲気を醸し出しているビルディング。現在はお弁当屋さんやレストランが入居していますが、もとはカストム・ブローカー・ビルとして昭和6年頃に建てられたといいます。
設計は川崎鉄三と言われています。

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1929(昭和4)年頃の建築。2000(平成12)年まで、隣にキッコーマンビルという古いビルがありましたが解体されてしまい、横浜海洋会館との間に空間が出来てしまったのが残念。
側面と右前方から見た様子
側面から見た様子
右前方から見た様子
後日見た時の様子
かなりバタ臭い感じだ。確かに4つのビルが並んで建っていた感じが伺える。
後日見た時の様子_1
後日見た時の様子_2

その他の建物
綜通横浜ビル(旧本町旭ビル)
正直に言えば、私はこのビルが好きではない。こういう残し方をしたところを見ると、愛着を持っていた関係者がいたのだろう。
1930(昭和5)年建築の、鉄筋コンクリート造にタイルを貼った典型的なオフィスビル。1995(平成7)年に高層部が増築されて今に至っています。
綜通横浜ビル(旧本町旭ビル)
開通合名会社(日本人商社)の煉瓦遺構
解体したら中からレンガの遺構が出てきてびっくり。この立地条件(キングの塔・ジャックの塔と道を隔てて隣接する)では、知らぬ顔をして工事を進めるわけにはいかなかったのだろう。
ほっかほか見つかったばかりのレトロ遺構。これからどういう風にするのだろうか。
倒壊しないように内側や開口部に仮の鉄骨の支えを施してある。ファザードを活かすときもまずはこの処置を行うのだろう。

開通合名会社(日本人商社)の煉瓦遺構_1
開通合名会社(日本人商社)の煉瓦遺構_2
開通合名会社(日本人商社)の煉瓦遺構_3
開通合名会社(日本人商社)の煉瓦遺構_4
開通合名会社(日本人商社)の煉瓦遺構_5
開通合名会社(日本人商社)の煉瓦遺構_6
開通合名会社(日本人商社)の煉瓦遺構_7
開通合名会社(日本人商社)の煉瓦遺構_8
開通合名会社(日本人商社)の煉瓦遺構_9
開通合名会社(日本人商社)の煉瓦遺構_10

 

横浜の港と洋館とを見て歩く(9)

大さん橋にて
大さん橋そのもの
くじらに見立てた大さん橋。ウッドデッキの歩き心地は非常に良い。こういう晴れた日は気分最高。
大さん橋そのもの_1
大さん橋そのもの_2
大さん橋そのもの_3
大さん橋そのもの_4
大さん橋そのもの_5
大さん橋そのもの_6
大さん橋そのもの_7
停泊中のロイヤルウィング号
ディナークルーズとかランチクルーズとかをする船舶。大さん橋に停泊する分、格が高いのだろうか。
見た時はスギ薬局グループが借りきってクルーズを行っていた。顧客招待イベントだったのかな。

停泊中のロイヤルウィング号_1
停泊中のロイヤルウィング号_2
停泊中のロイヤルウィング号_3
停泊中のロイヤルウィング号_4
ベイブリッジ
QE2などの大型化で、通行不能のものが出てきてしまって大騒ぎ中。今は干潮時にかろうじてくぐるやりくりをしているようだ。
ベイブリッジ
マリーンルージュ号
こちらも、ロイヤルウィング号と同様にディナークルーズとかランチクルーズとかをする船舶。どちらを選ぶかは好き好きだろう。
マリーンルージュ号_1
マリーンルージュ号_2
氷川丸
中は一度は見ておきたい豪華さ。その昔はサービスの上質さで評判を呼んだそうだ。
氷川丸_1
氷川丸_2
ご覧のようにマリンタワーの真ん前に停泊というか係留されている。
氷川丸_3
シーバス
その名の通り海上をちょこまか回る公共輸送船舶。あっちこっちを見て回るのには最適かも。
シーバス
MM21方向
なかなかきれいなものだ
MM21方向_1
MM21方向_2

 

横浜の港と洋館とを見て歩く(8)

海の様子に戻る。今回は各種船舶を中心に取り上げる。

再び海に戻る
海上保安庁の巡視船の船
巡視船
警察の船
海上保安庁の船は珍しくはないが、水上警察の船はかなり珍しいのではなかろうか。かなり忙しく行動していた。良からぬ手合が暗躍していたのだろうか。海上保安庁との業務区分はどうなっているのだろうか。
警察の船_4
警察の船_5
警察の船_6
警察の船_7
警察の船_8
警察の船_9
警察の船_10
警察の船_11
港湾局の船
港湾局の船が何をする船なのか、私にはわからない
港湾局の船_1
港湾局の船_2
象の鼻
象の鼻_1
象の鼻_2
米海軍のミサイル追跡艦
ノース・ドックには、米軍の艦船が停泊していた。USNS Howard O.Lorenzen(T-AGM-25)という米海軍のミサイル追跡艦。就役は2012年1月10日のかなり新しい艦船。海軍軍人と民間技術者の手でアメリカ空軍の支援を得た任務を実施するそうだ。それだけ特殊な任務なのだろう。横須賀基地ではなく、此処が事実上の母港のようだ。極東海域で中国人民解放軍海軍の潜水艦の活動が活発化していることへの対応の一環だそうだ。
一度見たら絶対に忘れないだろう、風変わりなスタイルだ。ねずみ色でもないんだ。ノース・ピアには先輩に連れられて、すぐ近くのショットバーに行った時に眺めた記憶があるが、随分昔の事になってしまった。普通の人は近づかないところのはずだ。

米海軍のミサイル追跡艦_1
米海軍のミサイル追跡艦_2
後日行った時に撮影した分。船首の向きが反対になっていた。実際に出港することもあるようだ。
米海軍のミサイル追跡艦_3
以下はfree画像を借用
米海軍のミサイル追跡艦_4
米海軍のミサイル追跡艦_5
米海軍のミサイル追跡艦_6

 

横浜の港と洋館とを見て歩く(7)

ジャックの塔(横浜市開港記念会館)(2)
前回記述したとおり、関東大震災の修復工事が竣工した時は、まだ、この塔のある建物しか存在しなかった。それだけ由緒ある建物である。
素晴らしい外観
素晴らしい外観
自慢のステンドグラス
自慢のステンドグラス_1
自慢のステンドグラス_2
自慢のステンドグラス_3
自慢のステンドグラス_4
ドーム部の復元まで設置されていた屋根飾り
ドーム部は震災後の修復工事では復元されず、漸く復元したのは平成元年のことだそうだ。それまでの間、この屋根飾りが設置されていた。
ドーム部の復元まで設置されていた屋根飾り_1
ドーム部の復元まで設置されていた屋根飾り_2
ドーム直下の1階部分
ここからも出入りできたようだ
ドーム直下の1階部分_1
ドーム直下の1階部分_2
2階部分は応接室になっている
2階部分は応接室になっている
接収時には女性士官が使用していたエリア
接収時には女性士官が使用していたエリア
もう一つのステンドグラス
戦時中は暗幕で覆って取り壊し命令を受けないように守った。そして、接収後にこれを見た米軍の士官が感激し、この建物は綺麗に使って、お返ししようと約束したという。
もう一つのステンドグラス_1
もう一つのステンドグラス_2
此処に設置してある階段
もう一つのステンドグラス前に設置してある階段

 

横浜の港と洋館とを見て歩く(6)

横浜には3つの有名な塔がある。それも港からよく見えるところに。今回はそれを取り上げる。横浜三塔の愛称は、昭和初期に外国人船員がトランプのカードに見立てて呼んだことが由来と言われている。

横浜三塔
このアングルからは二塔だ
このアングルからは二塔_1
このアングルからは二塔_2
このアングルからは二塔_3
かろうじて三塔揃い踏みだが、お分かりいただけるだろうか。位置の関係上、ジャックの塔が小さく見える。
かろうじて三塔揃い踏み_1
かろうじて三塔揃い踏み_2
かろうじて三塔揃い踏み_3
かろうじて三塔揃い踏み_4
キングの塔(神奈川県庁)
堂々たる風格。キングの称号にふさわしい。
「キング」神奈川県庁は、五重塔をイメージさせるスタイルで、昭和初期に流行した帝冠様式のはしりといわれています(1928年竣工)。
キングの塔(神奈川県庁)_1
キングの塔(神奈川県庁)_2
クイーンの塔(横浜税関)
私にはどうでもよい位置づけなのだ。でも海端にあるので、存在感は半端じゃ無い。
「クイーン」横浜税関は、イスラム寺院風のエキゾチックなドームが特徴です(1934年竣工)。
クイーンの塔(横浜税関)_1
クイーンの塔(横浜税関)_2
ジャックの塔(横浜市開港記念会館)(1)
私はこれが一番好き。なにゆえにジャックの位置づけなのだろうか。ちなみにこの建物が一番古く、関東大震災でかなりの被害を被った。震災復旧工事が竣工したのは1927年(昭和 2年)で、それでも他の2塔の建物よりも古い。
「ジャック」横浜市開港記念会館は、東南隅に時計塔、西南隅に八角ドーム、西北隅に角ドームを配しています(1917年竣工)。
ジャックの塔(横浜市開港記念会館)_1
ジャックの塔(横浜市開港記念会館)_2
ジャックの塔(横浜市開港記念会館)_3

 

横浜の港と洋館とを見て歩く(5)

横浜第2合同庁舎
関東大震災後の1926年(大正15年)にいち早く再建された横浜生糸検査所。その建物は、あの遠藤於莵が設計した。この庁舎の低層階部分は、その外観を復元したようだ。すごく立派な佇まいだ。
横浜第二合同庁舎は横浜市中区北仲通にある、行政機関が入居している庁舎。元は1926年(大正15年)に再建された横浜生糸検査所。1990年(平成2年)に横浜市認定歴史的建造物として認定されている。1995年(平成7年)に高層棟の建設を含む大改築が行われ、その際に旧生糸検査所の外観を復元した造りになっている。名称に「第二」とついているのは、すでに山下町に合同庁舎が存在したためである。
横浜第2合同庁舎の低層階部分_1
横浜第2合同庁舎の低層階部分_2
横浜第2合同庁舎の低層階部分_3
ワールド・ポーターズ
万国橋側からみた様子。見る位置によって、随分趣きが違う建物だ。
ワールド・ポーターズ
サークル・ウォーク
丸く横断歩道ができている。丸く歩く分、多少遠回りさせられるかもしれないが、誰も文句を言わないようだ。
サークル・ウォーク
赤レンガ倉庫
赤レンガ倉庫が見えてきた。昔は、相当汚い感じだったのだが、見違えるほどになった。レンガ造りの建物は、雰囲気が良いなあ。
1号館
赤レンガ倉庫_1号館_1
赤レンガ倉庫_1号館_3
奥にベイブリッジが見えるのだが、どうだろうか。
赤レンガ倉庫_1号館_4
勢揃い
右側の1号館は、関東大震災で約30%損壊の被害があった。その分2号館に比して、長さが短くなっている。
赤レンガ倉庫_勢揃い_1
赤レンガ倉庫_勢揃い_2
赤レンガ倉庫_勢揃い_3
赤レンガ倉庫_勢揃い_4
赤レンガ倉庫_勢揃い_5
2号館
レンズフードの装着ミスで隅がケラれてしまった。新しいレンズで慣れていなかったことはあるにせよ、何たる凡ミスをしてしまったのだろう。自分ではケラレの事象が起きていることには気づいていたものの、原因には気づいていなかった。あとで、シグマのサポートに聞いて理解した次第。注意しなくては。
赤レンガ倉庫_2号館

 

横浜の港と洋館とを見て歩く(4)

近づいてくるに連れ、かなり大きな帆船であることがわかる。画面が相当に暗いのは夜間だからではない。今にも降り出しそうな空模様だったが、途中から本格的に雨が降り始めた。カメラやレンズに支障が起きなくてよかったほどだ。
日本丸Ⅱ世の横浜入港(2)
近づくにつれ、迫力のある姿に引き寄せられるものを感じる。一人前の海の男になるのはかなり大変なようだ。
船首を押しているのはKURAMAで、船尾を押しているのはKUROGANEだ。そろそろ頑張りどきかな。
近づくにつれ、迫力のある姿に_1
近づくにつれ、迫力のある姿に_2
船首像「藍青」が確認いただけただろうか
近づくにつれ、迫力のある姿に_3
近づくにつれ、迫力のある姿に_4
近づくにつれ、迫力のある姿に_5
近づくにつれ、迫力のある姿に_6
近づくにつれ、迫力のある姿に_7
近づくにつれ、迫力のある姿に_8
近づくにつれ、迫力のある姿に_9
近づくにつれ、迫力のある姿に_10
それにしてもうまく接岸させるものだ。タグボートの実力はすごい。
うまく接岸させるものだ_1
うまく接岸させるものだ_2
うまく接岸させるものだ_3
うまく接岸させるものだ_4
うまく接岸させるものだ_5
うまく接岸させるものだ_6
うまく接岸させるものだ_7
うまく接岸させるものだ_8
うまく接岸させるものだ_9
うまく接岸させるものだ_10
うまく接岸させるものだ_11
うまく接岸させるものだ_12
緊張した顔がズラリ。学生が相当数、乗り込んでいるようだ。その昔、私の父も同じ立場だったのかな。
女子学生も少なからずいるようだ。海の女の卵もいるわけだ。
緊張した顔がズラリ_1
緊張した顔がズラリ_2
緊張した顔がズラリ_3
緊張した顔がズラリ_4
緊張した顔がズラリ_5
緊張した顔がズラリ_6
船首像「藍青」が少しは見えるかな
緊張した顔がズラリ_7
緊張した顔がズラリ_8
緊張した顔がズラリ_9

土曜日に出港するそうだ。今、大さん橋に行けば、この日本丸Ⅱ世をじっくり見ることができる。

最後にfree画像で展帆時の姿をご覧頂きたい。
日本丸の展帆_1
日本丸の展帆_2


 

横浜の港と洋館とを見て歩く(3)

日本丸Ⅱ世の横浜入港(1)

このシリーズは、時系列順に取り上げる予定だったが、どうも日本丸Ⅱ世の入港シーンを先にしたほうが良さそうと判断し、昨3月9日に入港した時の様子を先に散り上げることにする。12時に大さん橋に着桟ということで、ほぼ時間通りに姿を表した。
ベイブリッジをくぐり、防波堤を巻くようにして、進入してきた。凛としたその姿は遠くからでも痺れる感じだった。

背後の自動車運搬船と比べるとかなり小さい感じだが、向こうが巨大なだけで、日本丸Ⅱ世もそれなりの大きさではある。
背後の自動車運搬船と比べるとかなり小さい感じだが
レインボーブリッジやベイブリッジにマストがつかえないように高さを決定したそうだ。QEⅡのような大騒ぎはなく、余裕を持って通過と相成った。
余裕を持って通過と相成った_1
余裕を持って通過と相成った_2
余裕を持って通過と相成った_3
黒く見える防波堤を巻くように進む
黒く見える防波堤を巻くように進む
ここからはタグボート2隻体制
ここからはタグボート2隻体制_1
ここからはタグボート2隻体制_2
ここからはタグボート2隻体制_3
着桟のため、90度左方向に旋回する
90度左方向に旋回_1
90度左方向に旋回_2
90度左方向に旋回_3
90度左方向に旋回_4
90度左方向に旋回_5
90度左方向に旋回_6
90度左方向に旋回_7
90度左方向に旋回_8
いよいよ近づいてきた
いよいよ近づいてきた_1
いよいよ近づいてきた_2
いよいよ近づいてきた_3

 

横浜の港と洋館とを見て歩く(2)

赤レンガ倉庫方面へ向かって歩く
シーカヤックハウスとアニヴェルセルみなとみらい横浜
此処でもシーカヤックを楽しんでいる人がいるんだ。スクールになっているのだろうか。
シーカヤックハウスとアニヴェルセルみなとみらい横浜
途中の運河部分で何やら工事中
途中の運河部分で何やら工事中
遊戯施設
カップヌードルパークというようだ。日清食品も頑張っているなあ。
カップヌードルパーク
ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル
ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル
貨物引き込み線の名残り
貨物引き込み線の名残り_1
貨物引き込み線の名残り_2
貨物引き込み線の名残り_3
北仲に残るレンガの建造物
こちらは、どうみても倉庫だったようだ
北仲に残るレンガの建造物_倉庫_1
北仲に残るレンガの建造物_倉庫_2
北仲に残るレンガの建造物_倉庫_3
北仲に残るレンガの建造物_倉庫_4
こちらは、事務所棟かな
北仲に残るレンガの建造物_事務所棟_1
北仲に残るレンガの建造物_事務所棟_2
北仲に残るレンガの建造物_事務所棟_3
北仲に残るレンガの建造物_事務所棟_4
横浜アイランドタワー低層部(ヨコハマ創造都市センター)
横浜ではファザードを残すというやり方がかなり流行っているようだ。次回取り上げる『横浜第2合同庁舎』の低層階部分も、かつての『横浜生糸検査所』の外観を復元したものだ。
東側先端のトスカーナ式オーダーの列柱を特徴とする重厚な外観の低層部は、1929年(昭和4年)築の歴史主義建築である旧第一銀行横浜支店(1980年以降は横浜銀行本店別館)のバルコニー部分を曳家工法で移築して組み込み、同時にそれ以外の外観部分をファサードで形態復元した。2003年(平成15年)度には横浜市認定歴史的建造物に選定されている。
横浜アイランドタワー低層部(ヨコハマ創造都市センター)

 

横浜の港と洋館とを見て歩く(1)

全て一日で歩きたかったが、ちょっと早めに戻る必要があったので、港は2月末に、洋館は3月初めに見て回った。

ランドマークと日本丸
両方共10時からの受け入れのようだ。30分以上待たされることになるので、展望や船内見学を楽しむのはいずれ別の機会にする。つまり外観の写真のみ。
ランドマーク
真下から見ると首が痛くなるほど。観音埼灯台からも西新宿の超高層ビルからもはっきり見える。あと数十年すると、ごく普通の高さになるのか、それとも、見るも無残なスラム化したビルに成り下がるのか、私にはわからない。今現在は瀟洒なビルだ。
ランドマーク_1
ランドマーク_2
日本丸
いつ見ても美しい姿だ。相当長いこと、大規模な修繕を行っていないはずだから、いずれ長期のドック入りが必要かもしれない。そのときは、このドックが昔ながらのドックの働きをするのだろうか。
日本丸_1
日本丸_2
日本丸_3
日本丸_4
日本丸_5
日本丸_6
日本丸_7
1号ドックだったところに繋留されているようだ。
日本丸_8
日本丸_9
日本丸_10
日本丸_11
free画像を借用
日本丸_12

 

林試の森公園にて

品川区と目黒区とにまたがる林試の森公園に河津桜を見に行った。全部で十数本程度だろうが、綺麗に咲いていた。

レンテン・ローズ
公園に向かう途中で見かけた。1mほどの台高さのところに植えてあり、撮りやすかった。
レンテン・ローズ_1
レンテン・ローズ_2
レンテン・ローズ_3
門を潜るとこんな感じ
カロリナポプラ(左奥)とヒマラヤスギ(右手前)らしい
門を潜るとこんな感じ
白樺かな
足の調子が今ひとつだったので、確認には行かなかった。後で歩いているうちに調子が戻ったのだが。
白樺かな
ヒヨドリのようだ
池の周囲が工事中だったので、せせらぎで鬱憤を晴らしていたようだ。あんなに傍若無人だと、メジロが嫌がるわけだ。
ヒヨドリのようだ_1
ヒヨドリのようだ_2
カルガモかな
まだ成鳥ではないようだ。こちらも成鳥ほどの図々しさはなかった。
カルガモかな
河津桜が咲いていた
文句無しに綺麗だ。土日は愛でる人がかなり押しかけてきそうだ。ソメイヨシノはあと2週間位後かなあ。
河津桜が咲いていた_1
河津桜が咲いていた_2
三つにわかれたプラタナスの巨木
この角度だと二つにわかれたようにしか見えないが、角度を変えてみると根本から大きく三つにわかれている。そのいずれもがかなり太い。相当年数が経過しているのだろうか。
三つにわかれたプラタナスの巨木
コウヨウザン(広葉杉)
江戸末期に渡来したと書いてある。その時期に、どうやって渡来したのだろうか。
コウヨウザン(広葉杉)_1
コウヨウザン(広葉杉)_2
コウヨウザン(広葉杉)_3
プラタナスの並木
巨木揃いなのだ。そう見えないかもしれないが、相当に太い幹だ。
プラタナスの並木_1
プラタナスの並木_2
プラタナスの並木_3
プラタナスの並木_4
プラタナスの並木_5
欅など
右側が欅で、左側は、各種の樫の木だった。樫の木は色々種類があるようだ。
欅など
ウバメガシ
ウバメガシ
赤樫
ここのは自然教育園の巨木ほどは大きくはなかった
赤樫
ツクバネガシ
ツクバネガシ
イチイガシ
イチイガシ
センペルセコイア
高さ100m、幹の太さ20mだって。してみると、まだまだ成長途上の若木のようだ。
センペルセコイア_1
センペルセコイア_2
復元された水車
通水してくれれば有りがたかったのに。省エネ対策中なのかなあ。
園内中央を南北に小さい谷地形が走る。これは、かつて小山台を流れていた品川用水(玉川上水の分水)を羅漢寺川に通水していた名残であり、当時を偲ばせる水車が復元されている。
復元された水車_1
復元された水車_2
復元された水車_3
復元された水車_4

 

自然教育園と庭園美術館(3)

東京都庭園美術館
東京都庭園美術館は、東京都港区白金台にある都立美術館である。自然教育園と隣接している。
旧朝香宮邸(きゅうあさかのみやてい)とも呼ばれる。2011年より改修工事のため長期休館だったが、2014年11月22日にリニューアル開館した。というものの、庭園はまだ、リニューアル工事中で立ち入ることができない。
それを承知で高い入園料を支払って見学するのはどうしようかなと考えていた。行ってみると、中に入らない人は、入場無料の扱いだった。
旧朝香宮邸の建物内部には入ることができないものの、写真撮影が不可(年に一度の「建物公開」のときは、館内撮影も可能)なようで、今回はここまででよかったかなと思った次第。
確か、白金プリンス迎賓館の時代に、何かで入ったことがあるのだが。あれは何だったのだろう。

入り口からの進入路の様子
確かに後続が門から邸宅の車寄せまで進む際に気品が感じられる佇まいだ。進行方向へ向かって右側が庭園美術館の庭園部分。早くリニューアル工事を終えて、再オープンさせないものかと思う。
入り口からの進入路の様子_1
入り口からの進入路の様子_2
入り口からの進入路の様子_3
入り口からの進入路の様子_4
入り口からの進入路の様子_5
入り口からの進入路の様子_6
入り口からの進入路の様子_7
入り口からの進入路の様子_8
入り口からの進入路の様子_9
入り口からの進入路の様子_10
旧朝香宮邸
さすがに宮様のお住まいだっただけのことがある品格を備えている。いつか建物内部も拝見してみたいものだ。
旧朝香宮邸_1
旧朝香宮邸_2
旧朝香宮邸_3
旧朝香宮邸_4
旧朝香宮邸_5
旧朝香宮邸_6
旧朝香宮邸_7
旧朝香宮邸_8
旧朝香宮邸_9
旧朝香宮邸_10
旧朝香宮邸_11
旧朝香宮邸_12
旧朝香宮邸_13
旧朝香宮邸_14

以上で『自然教育園と庭園美術館』のミニシリーズはおしまいです。最後までご覧頂き有り難うございました。

 

自然教育園と庭園美術館(2)

自然教育園(2)

今回は、自然教育園の中の『武蔵野植物園』を見る。もう少しするとカタクリが見られると思うが、節分草や雪割一華などが終わってしまいそうで、とりあえず今観察できるものを見に行った。

武蔵野植物園
節分草
前にも書いたとおり、極めて小さな花だ。よく見ないと気が付かない恐れが多分にある。
節分草_1
節分草_2
節分草_3
福寿草
本当に華やか。春の妖精の名にふさわしい。まだ少し早いとは承知しているが、カタクリをも見たくなった。
福寿草_1
福寿草_2
福寿草_3
福寿草_4
雪割一華
こんなか弱そうなものが雪を割って咲き出すのだろうか。すごい生命力を秘めているようだ。
雪割一華_1
雪割一華_2
ムベ
『宜なるかな』のムベ。あけびの仲間だそうだ。
ムベ

水鳥の沼に向かう道
すごいえぐられ方
すごいえぐられ方
大蛇(おろち)の松
大蛇に近寄ったことなどないが、多分こんな感じかと。ものすごく威圧感のある松だ。
この大きな松は江戸時代、松平讃岐守(まつだいらさぬきのかみ)の下屋敷の面影を残す松の一つです。樹齢約300年、いつの頃からか、大蛇の松と伝えられています。
大蛇(おろち)の松_1
大蛇(おろち)の松_2

水鳥の沼
カルガモやサギなどの水鳥が遊びに来るという沼なのだが、私はこの沼では一度も水鳥の姿を見たことがない。名前を返上したほうが良いくらいでは。
水鳥の沼

館跡の道
宿り木かな
宿り木なのだろうか。それともまた生きていて、枝が出たのだろうか。
宿り木かな
館跡
白金長者の館跡らしい。昔から白金には金持ちが住んでいたのだろうか。
館跡_1
館跡_2
館跡_3
館跡_4

 

自然教育園と庭園美術館(1)

今季、福寿草は何とか見ることができたものの、節分草と雪割一華とにはお目にかかっていない。これを見たいものだと考えた。近くで観察できるとしたら、自然教育園だ。ついでに他の花をも見ることができれば、さらに嬉しい。そう考えた。
更についでといえば、隣接する東京都庭園美術館も昨年末にリニューアルオープンしていたんだ。こちらも見たい。


自然教育園(1)
路傍植物園
お出迎えの花達
この時期はほとんど何も無い。このエリアの福寿草も節分草も、やや元気がなかった。敷地奥の『武蔵野植物園』のエリアまで行かないとダメなようだ。
お出迎えの花達_1
お出迎えの花達_2
お出迎えの花達_3
シイの巨木
シイの巨木
土塁の様子
土塁の様子
赤樫の巨木
赤樫の巨木
ひょうたん池近辺
物語の松
その昔に手を入れて見事な枝ぶりにしたことが覗える。初代の松平讃岐守は1642年に高松藩主になった。その時の直後だとすると373年ほど経過する。少なくとも350年は経過する松なのだろう。立派な松だ。
この老松は江戸時代、松平讃岐守(まつだいらさぬきのかみ)の下屋敷の面影を伝えるものです。近くのひょうたん池などとともに、回遊式庭園であったと思われています。
物語の松
ひょうたん池
ひょうたん池と物語の松などで回遊式庭園をなしていたと思われているようだ。しかし、あまりに自然のままにしてあり草の勢いに負けてしまうのか、昔の庭園のイメージは想起しにくい。それでも、ひょうたん池が美しいことは間違いがないことだ。その名の通り、瓢箪の形をしているようだ。そうだったかなあ。
ひょうたん池では各種の野鳥が観察できると書いてはあるが、殆ど目撃したことがない。開園後の時間帯では遅すぎるのだろうか。学芸員はそれまでの時間帯に観察するのだろうが。

ひょうたん池
水生植物園
これは、季節が早過ぎた。惜しくもなんともないほどに。水生植物が見えてくると、楽しいエリアなのだが。
水生植物園_1
水生植物園_2
昨季の名残り
昨季の名残り_1
昨季の名残り_2
ツグミとキジバトかな
ツグミとキジバトかな
ふきのとうは薹が立つほど
ふきのとう
森の小径
自然教育園だけあって、ありのまま
森の小径_1
森の小径_2
森の小径_3
森の小径_4

 

葉山と浦賀(8)

浦賀
浦賀に行ったのは、『近代造船の先駆者たち ~浦賀と横須賀~』という講演会を聞きに行くのが目的だった。
造船所の建設から、船の建造に至るまでの間に活躍した多くの技術者たちの姿を浦賀のまちの発展の様子を交えながら紹介します。
講演会は非常に面白い内容だった。これはこれで大満足。そして、その後に、産業遺産の見学があったのだ。
ところが、こちらの撮影分はのWEBなどへ公開はしないでほしいという所有者の意向があり、せっかく撮影したデータが使用できない。
横須賀市の対応が一向に前進しないことを恨めしく思った次第だ。


他で撮った写真をいくつか取り上げる。

浦賀行政センターでの展示から
船番所の模型
浦賀奉行所の出先機関という位置づけになる。今で言えば、海上保安庁のような感じかな。船を陸に揚げたり海に浮かべたりをまめに行っていたので、長保ちしたようだ。そして、マメに修繕を繰り返しもしていたので、その後の浦賀における船舶建造及び船舶修理の下地が出来上がっていったようだ。
船番所の模型
干鰯問屋の模型
浦賀に繁栄をもたらせた干鰯。問屋にはこんな風にして保管されていたようだ。
干鰯問屋の模型_1
干鰯問屋の模型_2
幕末の西浦賀の街の模型
現在より、建物が密集している。私のイメージでは江戸の下町のような感じに見える。
幕末の西浦賀の街の模型_1
幕末の西浦賀の街の模型_2
幕末の西浦賀の街の模型_3
浦賀奉行所の模型
下田から移ってから幕府の大政奉還まで、かなり長いこと設置されていた。こちらを元の土地に復元し、ドライ・ドックを買収すれば、大変な観光遺産になるのだが。どちらも交渉相手は、住友重機械工業株式会社か。
浦賀奉行所の模型
日米の帆船
日米の帆船_1
日米の帆船_2
日米の帆船_3
FREE画像を借用した
鳳凰丸
辰巳忠志氏作の鏝絵
現役の鏝絵職人さんの作品だ
辰巳忠志氏作の鏝絵

敷地外から見た浦賀ドック
敷地外から見た様子。当然だが、遠いので様子ははっきりはわからない。
敷地外から見た浦賀ドック_1
敷地外から見た浦賀ドック_2
敷地外から見た浦賀ドック_3
敷地外から見た浦賀ドック_4

以上で『葉山と浦賀』シリーズは終了です。最後までご覧頂き、有り難うございました。

 

葉山と浦賀(7)

葉山(6)

海に向かって右側の眺め
江ノ島や葉山マリーナなどが見える
海に向かって右側の眺め_1
海に向かって右側の眺め_2
海に向かって右側の眺め_3
堀口大学の石碑
『花はいろ 人はこころ』…こころの最初の字は『古』の草書体。原典は『人に』という作品だそうだ。
花はいろ そして匂ひ
あなたはこころ
そして やさしさ

堀口大学の石碑
マリンスポーツは楽しそう
マリンスポーツは楽しそう_1
マリンスポーツは楽しそう_2
こちらは個人レッスン中
インストラクタの声が大きかった。私のところまで聞こえてきた。かなりの熱血指導ぶりだった。これなら数回程度で、独り立ちできそうに見えた。
こちらは個人レッスン中_1
こちらは個人レッスン中_2
こちらは個人レッスン中_3
こちらは個人レッスン中_4
こちらは個人レッスン中_5
こちらは個人レッスン中_6
こちらは個人レッスン中_7
こちらは個人レッスン中_8
こちらは個人レッスン中_9
こちらは個人レッスン中_10
こちらは個人レッスン中_11

本当はもっともっと歩きたいのだが、午後に浦賀での用事があるので、葉山の散歩はこれまでにした。今度は、もっとスッキリ晴れた日に来たいなあ。

 

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