散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

葉山と浦賀(5)

葉山(4)
小型ヨットで海へ繰り出すぞ
小型ヨットで海へ繰り出すぞ_1
コクピット内に収納されている『センターボード』を取り出し、水面に浮かんでから水中に下ろすんだ。船底に差し込んで艇の横流れを抑える板のことを『センターボード』という。
小型ヨットで海へ繰り出すぞ_2
小型ヨットで海へ繰り出すぞ_3
小型ヨットで海へ繰り出すぞ_4
小型ヨットで海へ繰り出すぞ_5
小型ヨットで海へ繰り出すぞ_6
小型ヨットで海へ繰り出すぞ_7
小型ヨットで海へ繰り出すぞ_8
こんな疲れることをしている御仁もいた
こんな疲れることをしている御仁もいた
マリンスポーツはやっぱり楽しそうだなあ
マリンスポーツはやっぱり楽しそうだなあ_1
マリンスポーツはやっぱり楽しそうだなあ_2
こうしてみると結構広いのかなあ
こうしてみると結構広いのかなあ
森戸神社が見えてきた
森戸神社が見えてきた
ははは、こんなところに置いているんだ。これを盗む不届き者もいないか。
こんなところに置いているんだ_1
こんなところに置いているんだ_2
こんなところに置いているんだ_3

 

葉山と浦賀(4)

葉山(3)
海岸沿いに歩いてみる。突き当りの森戸神社までかなり長い海岸線だ。
しらすを茹でるのかなあ
しらすを茹でるのかなあ
防波堤では釣りをしている人が。此処ではほとんど大物は釣れそうになさそうな気がするが。
防波堤では釣りをしている人が
沖合では楽しそうだなあ
沖合では楽しそうだなあ_1
沖合では楽しそうだなあ_2
沖合では楽しそうだなあ_3
沖合では楽しそうだなあ_4
沖合では楽しそうだなあ_5
マリーナなどに係留しない小型ヨットはこんなふうに準備をするようだ。海水浴シーズンは海水浴客の邪魔にならないのだろうか。
マリーナなどに係留しない小型ヨットはこんなふうに準備をするようだ_1
マリーナなどに係留しない小型ヨットはこんなふうに準備をするようだ_2
マリーナなどに係留しない小型ヨットはこんなふうに準備をするようだ_3
こいつはどうするのかと思っていたら、程なく作業が始まった。なるほど、こんなふうに行うのか。
こいつはどうするのかと思っていたら_1
こいつはどうするのかと思っていたら_2
こいつはどうするのかと思っていたら_3
こいつはどうするのかと思っていたら_4
こいつはどうするのかと思っていたら_5
こいつはどうするのかと思っていたら_6
こいつはどうするのかと思っていたら_7
こいつはどうするのかと思っていたら_8
こいつはどうするのかと思っていたら_9
あれ、まだ説明が続いている
あれ、まだ説明が続いている
海辺の家もいいなあ。潮風にやられそうな気がしないでもないが。
海辺の家もいいなあ_1
海辺の家もいいなあ_2

 

葉山と浦賀(3)

葉山(2)
鐙摺バス停前からの眺め
江ノ島はなんとか見えるが、富士山は全く見えない。残念でならない。
鐙摺バス停前からの眺め
日影茶屋のお店
料亭の方もいいけど、こちらも非常にいい感じだなあ。カップル向けかなあ。
レストラン ラ・マーレ・ド・茶屋
レストラン ラ・マーレ・ド・茶屋
パティスリー ラ・マーレ・ド・茶屋 葉山本店
パティスリー ラ・マーレ・ド・茶屋 葉山本店
日影茶屋
でもやっぱりこちらが本命かなあ。その昔、アナキストとしてならした大杉栄が神近市子に刺された事件があったところだ。
日影茶屋_1
日影茶屋_2
日影茶屋_3
日影茶屋_4
葉山マリーナ
葉山マリーナ_1
葉山マリーナ_2
海辺に出てみる
待ちきれなくて葉山マリーナの横から海岸に下りる
待ちきれなくて葉山マリーナの横から海岸に下りる
沖合にはヨットが見えるものの、主役の富士山がお隠れのままだ
沖合にはヨットが見えるものの、主役の富士山がお隠れのままだ
ぐるりと周辺を見てみる
ぐるりと周辺を見てみる_1
ぐるりと周辺を見てみる_2
ぐるりと周辺を見てみる_3
ぐるりと周辺を見てみる_4
ぐるりと周辺を見てみる_5

 

葉山と浦賀(2)

葉山(1)
新逗子駅から葉山を目指し、歩き始める。この日は快晴なのだが、富士山は全く見えず。無風なのが災いしたようだ。富士山が見えないことは行く前から覚悟してはいたが、それでも悔しい。
田越川
きれいな川で、私の大好きな川だ
田越川_1
田越川_2
六代御前の墓
六代御前は鎌倉ではなく逗子で処刑されたのか。この辺りは、血なまぐさい話とは無縁の高級住宅地なのだが、当時は、名越切通しの外側の郊外だったのだろう。清盛の曾孫まで処刑しなくても良かったのではないかと思うのだが、頼朝は弟も追い出したような人物だったから、…。六代の死により、清盛の嫡流は完全に断絶したことになったようだ。平氏は平正盛から数え始めるのか、知らなかった。(^_^;)
六代御前の墓_1
六代御前の墓_2
六代御前の墓_3
六代御前の墓_4
六代御前の墓_5
六代御前の墓_6
六代御前の墓_7
六代御前の墓_8
六代御前[平六代(高清)]は、平維盛の子で平清盛の曾孫にあたる。
六代は、壇ノ浦の合戦後、源頼朝に命じられて平氏残党の探索をしていた北条時政によって捕らえられるが、文覚の助命嘆願によって助けられた。その後、出家して「妙覚」と名乗っていたという。
しかし、頼朝が亡くなり、文覚が「三左衛門事件」で流罪となると、六代も捕らえられ、1199年(正治元年)、田越川で処刑されたという。

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六代という名は平正盛から数えて六代目に由来するという。
正盛→忠盛→清盛→重盛→維盛→六代御前


さらに、葉山に向けて歩き続ける。すると途中にこんなものがあった。

六十六部供養塔
神武寺の境内にも六十六部供養塔があった。ここにも残っているようだ。至近距離とはいえ、あちらは山の中。残っていてもおかしくはないが、こちらは住宅地。よくぞ残っていたものだと思う。
六十六部供養塔
富士見橋と渚マリーナ
名前の通りこの橋から富士山がくっきりはっきり見えるのだろう。見えたらよかったのだが。
そして、こんな海からは少し引っ込んだところにマリーナがあるんだ。どうやって水に浮かべるのかと思ったが、田越川から出すようだ。なるほどねえ。利用料金をチェックしてみたが、予想通り相当な額なんだ。

富士見橋と渚マリーナ_1
富士見橋と渚マリーナ_2
富士見橋と渚マリーナ_3
此処で、クレーンを使用して吊り降ろしたり、吊り上げたりするようだ。海は左側でヨットは不可のようだ。
富士見橋と渚マリーナ_4

 

葉山と浦賀(1)

午前中に葉山を歩き、午後に浦賀に行って、講演会とレンガ造りのドライ・ドックの見学とを行った。最初に断っておくが、ドライ・ドック見学時の写真は、施設所有者の意向で、HPなどへのアップロードを禁じられている。ということで、珍しくよく撮れた写真なのに、その分は使用できない。横須賀市が積極的に物件取得に動くべきなのに、何をもたもたしているのだろうか。

葉山(0)
実は1週間前のバレンタインデーにも葉山に出かけた。この時は、まれに見る好天だったのだが、予備の電池を忘れたり、事故があったりして、富士山の様子を記録したものがパーになってしまったりした。その後、天気の良い日が来ず、この失敗をリカバリできないままだ。
その時、撮った写真で何枚かかろうじて残ったものが次のもの。

田越川
田越川_0
瀟洒な建物
瀟洒な住宅
日影茶屋
ちょっと見ていたら、お客さんが続々詰めかける。ちょうど昼食時だということもあろうが、本当に人気のある食事処のようだ。建物も風格がある。一度は食事に寄ってみたいものだ。
日影茶屋_0_1
日影茶屋_0_2
日影茶屋_0_3
日影茶屋_0_4
鐙摺山にて
日影茶屋の真ん前の小山が鐙摺山(旗立山)。急勾配を上がっていくので、恐怖感がないわけではないが、非常に見晴らしが良い。
説明板があったので、漸く『伊東祐親入道供養塚』だと分かった次第。
伊東祐親入道供養塚_1
伊東祐親入道供養塚_2
富士山はこんなふうに見えた。望遠でも相当枚数撮ったのに、…。
富士山_0

旗立山(伊東祐親供養塔)
1180(治承4)年に源頼朝が挙兵。それに呼応した三浦党が小浜から出港し、その帰りに畠山軍と由比ヶ浜で小競り合いしたとき、この小山に旗を立てて気勢をあげたことから「旗立山」の名がついたという。
小田原北条氏と戦った三浦道寸がこの山から敵を偵察したので、軍見山ともいう。伊東祐親(すけちか)を祀ったとされる供養塔がある。
伊東祐親は、東国における親平家方豪族として平清盛からの信頼を受け、1159(平治元)年の平治の乱に敗れて伊豆に配流されてきた源頼朝の監視を任される。
頼朝が勢力を盛り返して坂東を制圧すると、逆に追われる身となり、富士川の戦いの後捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられる。頼朝の妻・北条政子が懐妊した機会を得て、助命嘆願があり、一時は一命を赦されたが、祐親はこれを潔しとせず「以前の行いを恥じる」と言い、自害して果てた。
子孫には、富士の巻狩りの場で仇討をした曾我兄弟がいる。

 

帝釈天~山本亭~矢切の渡し~スカイツリー(13)

山本亭を後にして、江戸川河川敷に向かう。寅さんの映画にも出てくるし、あの矢切の渡しもある。天気の良い日であれば、映画の舞台のように最高の行き先なのだろうが、あいにくどんよりした肌寒い日だったので、少し残念な感じだった。

江戸川河川敷
河川敷に行くために柴又公園を上がる
河川敷に行くために柴又公園を上がる_1
河川敷に行くために柴又公園を上がる_2
そのまま河川敷に出る
そのまま河川敷に出る_1
そのまま河川敷に出る_2
画面やや左寄りの河畔に樹木があるところが『矢切の渡し』
そのまま河川敷に出る_3
随分とモグラが活躍しているようだ
随分とモグラが活躍しているようだ
矢切の渡しを見る
正直がっかりした。もう少し、しっかりつくってあるのかと思いきや、掘っ立て小屋的なイメージ。それも、この時期は週末しか営業していない。二重に残念。
矢切の渡し_1
矢切の渡し_2
矢切の渡し_3
矢切の渡し_4
矢切の渡し_5
対岸の様子
対岸の様子_1
対岸の様子_2
河川敷の様子
河川敷の様子_1
河川敷の様子_2
河川敷の様子_3
河川敷の様子_4
河川敷の様子_5
『葛飾や桃の籬も水田べり』…水原秋櫻子の句のようだ。
籬は「まがき」で、垣根のこと。現代の東京都葛飾(かつしか)区というと、私などには工場のたくさんある地帯というイメージが強い。が、句の葛飾は、江戸期以来の隅田川より東の地域全般の地を指している。近代に入ってから、東京、千葉、埼玉に三分割された。昔の東京の小中学校からは遠足の地として絶好だったらしく、少年時の作者も何度か遠足で訪れた土地だという。そのときから作者は葛飾の風景に魅かれ、吟行でも再三訪れており、この地に材をとった句をたくさん作っている。なかでもこの句は、さながら絵に画いたように美しさだ。いや、こうなるともう俳句ではなくて、一枚の風景画だと言ったほうがふさわしい気すらしてくる。葛飾句についての秋桜子のコメントが残っている。「私のつくる葛飾の句で、現在の景に即したものは半数に足らぬと言ってもよい。私は昔の葛飾の景を記憶の中からとり出し、それに美を感じて句を作ることが多いのである」。胸の内で長い間あたためられてきた葛飾のイメージは、夾雑物がすべて削がれて、かくのごとく桃の花のように見事に開いたのであった。『葛飾』(1930)所収。
『葛飾や桃の籬も水田べり』
もう一度山本亭を眺める
もう一度山本亭を眺める_1
もう一度山本亭を眺める_2

スカイツリー
帰途、乗り換えの押上駅はスカイツリーの真下なので、ついでに眺めてみた。見ていたら首が痛くなった。
スカイツリー_1
スカイツリー_2
スカイツリー_3
スカイツリー_4
スカイツリー_5

以上で、『帝釈天~山本亭~矢切の渡し~スカイツリー』はおしまいです。最後までご覧頂きありがとうございます。

 

帝釈天~山本亭~矢切の渡し~スカイツリー(12)

山本亭(3)

外に出て建物の外観を見ることにする

土蔵付近
かなり大きい。山本氏がこの屋敷を購入した時にはすでに存在していたという土蔵。立派な佇まいだ。
土蔵_1
土蔵_2
なかなかすごい外観だ
なかなかすごい外観だ
防空壕跡
防空壕跡
茶室
貸し切り施設の扱いになっているようだ。お茶会を行うのに申し込むというような使い方をするわけだ。私には縁がなさそうだ。
茶室_1
茶室_2
洋間(鳳凰の間)の辺り
洋室内部は残念ながら見落としてしまった。外から見ただけでも、この一画は、すごくモダンな洋館だとわかるものだ。見落としたのはかえすがえすも残念。手前は厨房のようだ。
洋間(鳳凰の間)の辺り_1
洋間(鳳凰の間)の辺り_2
洋間(鳳凰の間)の辺り_3
旧玄関付近
旧玄関付近_1
旧玄関付近_2
旧玄関付近_3
どういうわけか鴟尾もおいてあった。お城や大寺院でもないのになぜ?普通に考えれば、この屋敷の屋根に据え付けられていたのだろう。
鴟尾もおいてあった
洋風長屋門
長屋門が洋風であるだけではなく、ステンドグラスまであった。これにはびっくり。
洋風長屋門_1
洋風長屋門_2
洋風長屋門_3
洋風長屋門_4
洋風長屋門_5
洋風長屋門_6
洋風長屋門_7
洋風長屋門_8

 

帝釈天~山本亭~矢切の渡し~スカイツリー(11)

山本亭(2)

主庭から少し奥まっている方の3間続きの和室
玄関に近い方から、星(8畳)、月(8畳)、花(10畳)
主庭から少し奥まっている方の3間続きの和室_1
主庭から少し奥まっている方の3間続きの和室_2
ここで茶菓子を頂いて、少し休憩をとった。考えてみたら、柴又で腰を下ろしたのはこの時だけだった。どうしても、個人行動の時は、過度に歩きまわる傾向があるようだ。
ここで茶菓子を頂いて、少し休憩をとった
玄関
冬だから、玄関の戸は締め切られていた。開けてあれば玄関前の植え込みもフレームに収められるのに。
玄関_1
玄関_2
玄関の間
飾ってある花菖蒲の絵は、後年になって描いたものではないだろうか。この絵に見入って記憶が曖昧なのだが、ここから唯一の洋室である鳳凰の間に行くことができるはずだが、なぜ入らなかったのだろうか?
花菖蒲の絵
地下室に続く一画
立入禁止なのでガラス戸越しに撮影。庭は坪庭。右側が少し潜っているように見えないだろうか。あとで外から眺めることとする。後で見たのに、写真の撮り方が不十分だった。
地下室に続く一画_1
地下室に続く一画_2
主庭
2012年度のジャーナル オブ ジャパニーズ ガーデニング(米国の日本庭園専門誌)が発表したランキングでは5位のようだ。足立美術館、桂離宮、湯村-常磐ホテル、御所西 京都平安ホテルに次いだ。これってすごい評価なのかなあ。もう少し丁寧に見ておくのだった。
この時期、雪吊りが施されていたが、かなり変わった雪吊りだった。兼六園のそれとは随分違う。

主庭_1
主庭_2
主庭_3
主庭_4
主庭_5
主庭_6
主庭_7
受付の後方には雛飾りがおいてあった
禄宝作『桃山雛』と書かれていた。おそらく地元葛飾区にある工房の作品なのだろう。なかなか姿形が良い感じに見えた。
雛飾り

 

帝釈天~山本亭~矢切の渡し~スカイツリー(10)

帝釈天から山本亭へ向かう。柴又帝釈天の敷地沿いに歩を進めると、山本亭が見えてくる。家屋と土蔵とがまず最初に目に飛び込んでくる。
山本亭が見えてくる

山本亭(1)
イベントが行われない日だったためか、客は私一人。貸切状態で、ゆっくり見て回ることができた。
山本亭平面図
山本亭の入口付近
山本亭の入口付近_1
山本亭の入口付近_2
山本亭の入口付近_3
玄関をくぐったところ
玄関をくぐったところ
控えの間
部屋の様子
控えの間_部屋の様子_1
控えの間_部屋の様子_2
欄間は内側から見るとすごく素敵
控えの間_欄間_1
控えの間_欄間_2
土蔵入り口
土蔵入り口_1
土蔵入り口_2
廊下
かなりゆったりしている。行った時には気づかなかったが、廊下が暗くならないように工夫がしてあったようだ。
廊下
水屋
お茶室は独立した建物があるので、ここに水屋がある理由は何なのだろうか。ここでも、来客用にお茶を点てたりしたことがあったのだろうか。
水屋
電話室
随分古めかしい電話機が残っていた。ただし、もともと此処にあったものか、どこか別のところから展示用に持ち込んできたものかはわからない。おそらくは後者だろう。
電話室_1
電話室_2
主庭に迫り出している方の3間続きの和室
旧玄関に近い方から、鳥(10畳)、雪(8畳)、風(8畳)
主庭に迫り出している3間続きの和室_玄関に近い方から、鳥(10畳)、雪(8畳)、風(8畳)
欄間はこんなふう
主庭に迫り出している3間続きの和室_欄間_1
主庭に迫り出している3間続きの和室_欄間_2
火鉢も残されていた
主庭に迫り出している3間続きの和室_火鉢_1
主庭に迫り出している3間続きの和室_火鉢_2

庭園
建物は木造2階建て(1階120坪、2階15坪、地下防空壕、土蔵、長屋門)で、庭園は270坪で縁先の近くには池泉を、背後には緑濃い植え込みと築山を設けて滝を落とすという典型的な書院庭園です。
昭和初期における庭園様式を現在まで残した稀有の例で、同様の例は旧安田邸、徳富邸があります。
滝は池の最も遠い部分の入江奥に設けられ、庭園に奥行の深さと心地好い滝の音を作り出しています。
また限られた池水面をより広く見せる手法として、池の諸方向に入江を設け、池岸を多様に変化せしめています。 米国の日本庭園専門誌「Sukiya Living(数寄屋リビング)/ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」が実施した日本庭園のランキング調査の結果、山本亭の庭園が2013年5位にランクインしました。
このランキングは、全国900カ所以上の旧所名跡、旅館、旧別荘を対象としています。順位が発表された2003年以降、山本亭は7位以内にランクインし続けています。
歴史
山本亭は、合資会社山本工場(カメラ部品メーカー)の創立者、故山本栄之助氏の自宅でした。山本宅は浅草の小島町一丁目にありましたが、 大正12年の関東大震災で被害を受け、製瓦業者の屋敷跡(当地)に移転して来ました。
大正15年から昭和5年まで増改築を重ね山本家四代に亘り、昭和63年まで居住していました。現在は葛飾区が保存していて、平成3年4月から一般に公開されました。
山本亭の土蔵は、栄之助氏が屋敷跡を取得した当時からあり、改修は行われていますが築造年は判明しておりません。現存する建物の中で一番古い建造物となります。
大正15年から昭和2年頃、東棟の玄関・廊下を改修し、西棟および蔵前廊下の新築をして、二世帯住宅の形となりました。
昭和5年、東棟の湯殿を火災で焼失。その頃居宅の改修が施され、鳳凰の間を新築、ほぼ今日の状態と同じになりました。
和洋折衷様式の特異な長屋門は、昭和5年から8年に住居兼用であった古い長屋門を取り壊し新築されたものです。

 

帝釈天~山本亭~矢切の渡し~スカイツリー(9)

柴又帝釈天(8)
邃渓園(すいけいえん)
前回述べたように、邃渓園は大客殿前に広がる池泉式庭園で、昭和40年(1965年)、向島の庭師永井楽山翁の設計により完成した。庭園への立ち入りは禁止されているが、大客殿から眺めるだけではなく、周囲に設けられた回廊からも眺めることができる。
もう江戸・東京にはこんな豪勢な庭園は望むべくもないだろうと言われる庭園だそうだ。


大客殿からの眺め
邃渓園は、もともとは大客殿から眺めることを想定して作られた庭園。だから、大客殿からの眺めが良いように意図している。
大客殿からの眺め_1
大客殿からの眺め_2
大客殿からの眺め_3

昭和59年(1984年)に庭の外周に回廊が設けられ、回廊に沿って視点を変えて庭を楽しめるようになったそうだ。それ以前に庭園を見ただけの人は再訪するだけの価値が有るのではなかろうか。

回廊からの眺め
回廊を回り始める
回廊を回り始める_1
回廊を回り始める_2
回廊を回り始める_3
大客殿からはよく見えなかった部分がよく見える
大客殿からはよく見えなかった部分がよく見える_1
大客殿からはよく見えなかった部分がよく見える_2
大客殿からはよく見えなかった部分がよく見える_3
大客殿からはよく見えなかった部分がよく見える_4
大客殿もすごく形が良い建物であることがわかる
張り出した部分があることがよく分かる。庭園への立ち入りは禁止されているが、特別な賓客の来訪があった時には、あの階段から庭に立ち入るのだろうか。
大客殿もすごく形が良い建物であることがわかる
更に先へ進む
更に先へ進む_1
更に先へ進む_2
更に先へ進む_3
ここにも御神水があった
ここにも御神水があった_1
ここにも御神水があった_2
回廊の終わりが近くなった
回廊の終わりが近くなった_1
回廊の終わりが近くなった_2
回廊の終わりが近くなった_3
回廊の終わりが近くなった_4
回廊の終わりが近くなった_5
ここで邃渓園見学はおしまい
ここで邃渓園見学はおしまい

以上で、長々と取り上げてきた柴又帝釈天を後にする。次回は山本亭を取り上げる。

 

帝釈天~山本亭~矢切の渡し~スカイツリー(8)

柴又帝釈天(7)

彫刻ギャラリーを後にして、渡り廊下を渡り大客殿に向かう。この渡り廊下もまた、すごいのだ。

渡り廊下
左右の欄間にも彫刻がなされている。細かいところを見落としてしまったが、左右の内と外とにあるようだ。m(_ _)m
渡り廊下
本堂に行かずに左折して大客殿を目指す
『これより先は禁煙』の表示あり。ということは、ここまでは喫煙可なのだろうか?そうではなくて、一層の注意を促したのだろう。若干舌足らずの点は否めない。
左折して大客殿を目指す
庭園の回廊の終着点
庭園の回廊の終着点
振り返ると本堂の奥殿が見える
振り返ると本堂の奥殿が見える

いよいよ大客殿に入る

大客殿
信徒の接待所として、昭和4年(1929年)に大工棟梁鈴木源治朗設計で建てられたのが『大客殿』。なんと総檜造りの超豪華和風建築だ。一方、昭和40年(1965年)に大客殿の前庭を改修して造られた池泉式庭園が『邃渓園(すいけいえん)』。邃渓園は向島の名庭師・永井楽山翁が最後に手がけた庭園で、邃渓園の名は滝の風情が幽邃(ゆうすい)であることから命名されたそうだ。楽山翁は戦前からこの庭園を手掛け、92歳で没するまで心血をそそいだといわれているとのこと。東京には、これ以上の庭園はできないのかもしれない。
当初は、大客殿から見るために造られたが、昭和59年(1984年)に庭の外周に回廊が設けられ、回廊に沿って視点を変えて庭を楽しめるようになったそうだ。

大客殿入り口
大客殿には早くも『邃渓園』の扁額が掲げられているが、ややフライング気味ではないかと思う。そそっかしい人は、この建物が『邃渓園』だと誤解する人が出てくるかもしれない。
大客殿入り口
大客殿に入ったすぐのところ
屏風に描かれた文字はもちろんちんぷんかんぷん。漢詩のようだが、わからないものはわからない。完全にスルーしようとしたが、よく見ると『妙法連蓮華経観世音菩薩普門品 第二十五』と書いてある。
大客殿に入ったすぐのところ_1
大客殿に入ったすぐのところ_2
http://www1.parkcity.ne.jp/chaichan/chai/hokke_note.htm#hon25の説明
観世音菩薩を念じれば、なんでも叶う・・・、実は、観世音菩薩みたいになりましょうということらしい・・・。
・・・南無観世音菩薩を唱えれば、三毒(貪(欲張り)・瞋(我による怒り)・痴(目先の愚かさ))、四苦(生・老・病・死)、 七難(火難・水難・風難・剣難・鬼難・獄難・盗難)を滅し、さらに願う通りの子を得ることができるという・・・。
しかし、こんな拝み信仰じゃ、いままで序品から説かれていた法華経は、なんだったのかということになりますね。 これらの観音力は、確かにこの品に書かれています。でも、浅い理解なのです。
本当は、無尽意菩薩が偉大な救済力(観音力)をもつ観世音菩薩を供養しようとして、 瓔珞(首飾り)をさしあげましたが、しかし、受けとっても、首にかけず、それを2つにして、釈尊と多宝如来に捧げました。 これは、偉大な救済力である観音力の元は、真理を教えられた釈尊と、 その真理を証明された多宝如来のおかげであるということの表明なのです。
つまり、救いの本質は、ある外側の力によって目の前の苦難から逃れることではなく、久遠実成の本仏のみ心に沿い、 そこに周囲との調和がうまれ、みんなが救われることにあるのです。
また、観世音菩薩普門品の観世音とは、世の人々の声(音)を見(観)分けることで、菩薩とは、手本として仰ぐべき方で、 普門とは、相手に応じていろいろ姿(三十六身)をかえて、平等に真理の門に引き入れることです。
とにかく、観世音菩薩を念じれば、なんでも叶う・・・ではなく、真に観世音菩薩を念じるとは、慈悲をもって苦しみあえぐ人の声(世音)を感知し聞き入れ(観)、 観世音菩薩のようになりましょうということです。

大客殿の廊下
カーペットが敷いてあるので気づかなかったが、畳敷きの廊下のようだ。ここからでもガラス戸越しに邃渓園が眺められるが、一番よい場所が少し張り出していて、そこからゆっくり眺められるようになっている。無料の給茶設備もあるのだ。もちろんガラス戸を開けて、縁側にまで出ることができる。通路の反対側には、『帝釈堂法華経絵巻原型彫刻』と書かれた板と『帝釈堂法華経絵巻原型彫刻』そのものが掲げてあるが、お分かりいただけるだろうか。
通路の反対側に
大客殿を回廊から見た様子
大客殿を回廊から見た様子
横山大観筆『群猿遊戯図』(彫刻下絵)と書かれた説明書きの屏風絵があった
どうも横山大観の絵であるはずがないというのが定評のようだ。四代伊八・信明が描いた下絵のようだ。これで胴羽目を彫るつもりだったのに、病死してしまったようである。ということで、胴羽目にはどこを探しても『群猿遊戯図』はない。
横山大観筆『群猿遊戯図』(彫刻下絵)と書かれた説明書きの屏風絵_1
横山大観筆『群猿遊戯図』(彫刻下絵)と書かれた説明書きの屏風絵_2
こちらの屏風絵は私には作者が誰かわからなかった。他の方の説明によれば、複数の作家の名前が書かれてあるという。室内立入禁止の状況なのに、望遠レンズででも見たのだろうか。
こちらの屏風絵は私には作者が誰かわからなかった
『帝釈堂法華経絵巻原型彫刻』
胴羽目の10枚の彫刻の下絵のように読むのが順当な解釈か。疑うわけではないが、いろいろな情報を総合すると、後日作られたミニチュア版のようだ。表示が正しくないような気がしてならない。
『帝釈堂法華経絵巻原型彫刻』_1
『帝釈堂法華経絵巻原型彫刻』_2
『帝釈堂法華経絵巻原型彫刻』_3
頂経の間
『日本一大南天の床柱』と書かれている立て札があった。 滋賀県の伊吹山にあった樹齢約1500年の南天の自然木を使用しているようだ。そのことを疑う気持ちはみじんもないが、『床柱』って、一体どういうものを指すものか、こんがらがってきた。上の構造物を支えなくても床柱なのだろうか。
頂経の間_1
頂経の間_2

柴又帝釈天題経寺大客殿
帝釈天大経寺は寛永年間に創建された日蓮宗の寺院で境内には、文花・文政の頃の帝釈堂をはじめ、明治以降に建てられた諸堂が多く現存する。北側の和風庭園に面した大客殿は、信徒の接待所として設計された建物で昭和4年(1929)に完成した。この年には釈迦堂拝殿の造営も行われている。
建物は木造、平屋建、総檜造りで、屋根は入母屋、桟瓦葦き。ガラス障子の広縁を巡らし、縁の正面中央に張り出した部分を設けているところが外観上の特徴である。建物内部は四部屋からなる書院造りで、一番奥の頂経の間が上段の間である。天井には杉の一枚板を鏡板に用い、折上げ部分に漆を塗っている。また、床の間には、近江の伊吹山山麓にあった「日本一」と言われる大南天の床柱がある。
東京都選定歴史的建造物
所在地:葛飾区柴又7-10-3
設計者:大工棟梁 鈴木源治郎
建築年:昭和四年(1929)
東京都生活文化局

 

帝釈天~山本亭~矢切の渡し~スカイツリー(7)

柴又帝釈天(6)
彫刻ギャラリー(3)
胴羽目を右、奥、左と見て回った後、階段を降りて『花鳥図』を見た。今度は左、奥、右と反対向きに見て回ることになる。
春夏秋冬と規則正しく並んでいるのかと思ったが、そうではなかった。春1点、夏4点、秋3点、冬2点になっている。春は篦鷺(へらさぎ)と花菖蒲の図案か。篦鷺を見たことがないので、恥ずかしながら私にはそれでは春を感じることができなかった。これは旧暦の頃の季節分けなのだろうが。取り上げた順番は、見て回った順番通りで、私の都合ではない。
胴羽目の上方は十二支と天人、下方は千羽鶴が彫られ、高欄(縁)より下の部分には今回取り上げる花鳥と亀が彫られている。四代伊八・信明の施工と思われれるそうだ。
『四代武志伊八・信明』高石仙蔵とは、有名な彫刻師『波の伊八』の四代目であり、大変な名人であったそうだ。胴羽目の彫刻に関わっていなかっただけで、他にはことごとく関与していたとのこと。


『鴛鴦、椿と水仙(冬)』
花鳥の下に亀が彫られているのをご確認いただけただろうか。波の間に間に見つけられるはずだ。
『鴛鴦、椿と水仙(冬)』
『家鴨、芭蕉と芙蓉(夏)』
『家鴨、芭蕉と芙蓉(夏)』
『雁、葦(秋)』
『雁、葦(秋)』
『鴨、菊と薄(秋)』
『鴨、菊と薄(秋)』
『海燕と鷗、小菊(夏)』
『海燕と鷗、小菊(夏)』
『篦鷺、花菖蒲(春)』
『篦鷺、花菖蒲(春)』
『鸊鷉、梅(冬)』
鸊鷉はかいつぶりなのか。鳰の方は、鳰の湖という相撲取りがいたので知っていたが。こちらの字は読むことができないし書くことができそうにない。
『鸊鷉、梅(冬)』
『白鷺、樫(秋)』
『白鷺、樫(秋)』
『鵜と翡翠、猫柳(夏)』
『鵜と翡翠、猫柳(夏)』
『雲雀と鴫、蓮華と沢瀉(夏)』
沢瀉って水生植物なのか。知らなくてごめんね、猿之助さん。
『雲雀と鴫、蓮華と沢瀉(夏)』

 

帝釈天~山本亭~矢切の渡し~スカイツリー(6)

柴又帝釈天(5)
彫刻ギャラリー(2)
前回に引き続き、胴羽目にある彫刻作品から5点の作品を載せる。柴又帝釈天には数多くの木彫があるが、中でも帝釈堂内陣の外側にある10枚の胴羽目彫刻は文化財として価値が高いと言われている。
二天門は、加藤勘造氏やその弟子たちを中心に施行された。その中に氏の息子である加藤寅之助氏がいて、後に法華経説話彫刻の一部を仕上げることになったそうだ。この加藤寅之助氏の発案で、東京の少壮彫刻師に依頼、下絵は法華経の「絵解きの図」を参考に、高山英州師が描いたとのこと。

第十二:提婆達多品(だいばだったほん)『千載給仕の図』
第十二:提婆達多品(だいばだったほん)『千載給仕の図』_1
第十二:提婆達多品(だいばだったほん)『千載給仕の図』_2
第十二:提婆達多品(だいばだったほん)『千載給仕の図』_3
第十二:提婆達多品(だいばだったほん)『龍女成佛の図』
第十二:提婆達多品(だいばだったほん)『龍女成佛の図』_1
第十二:提婆達多品(だいばだったほん)『龍女成佛の図』_2
第十二:提婆達多品(だいばだったほん)『龍女成佛の図』_3
彫刻の参考にした図案だったのだろうか?free画像を借用した
第十二:提婆達多品(だいばだったほん)『龍女成佛の図』の参考図かな
第二十三:薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)『病即消滅の図』
第二十三:薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)『病即消滅の図』_1
第二十三:薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)『病即消滅の図』_2
第二十三:薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)『病即消滅の図』_3
第二十:常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつほん)『常不軽菩薩受難の図』
第二十三:薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)『法華経功徳の図』

第二十:常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつほん)『常不軽菩薩受難の図』等_1
第二十:常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつほん)『常不軽菩薩受難の図』等_2
第二十:常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつほん)『常不軽菩薩受難の図』等_3
第二十六:陀羅尼品(だらにほん)『法師守護の図』
第二十六:陀羅尼品(だらにほん)『法師守護の図』_1
第二十六:陀羅尼品(だらにほん)『法師守護の図』_2
第二十六:陀羅尼品(だらにほん)『法師守護の図』_3

 

帝釈天~山本亭~矢切の渡し~スカイツリー(5) 2015.02.15 17:11画像追加

柴又帝釈天(4)
彫刻ギャラリー(1)
いよいよ彫刻ギャラリーに入る。胴羽目には10枚の彫刻がある。その内の3枚は右側にある。奥に4枚、左側に3枚だったと記憶している。
右側にある3枚
以下は各作品を撮ったもの。羽目の彫刻だけでなく、直上の欄間の彫刻をも併せて撮った。私にはまるで理解できないが、妙法蓮華経二十八品からのもののようだ。検索のキー項目になりそうな情報を記したので、興味のある向きは、各自で検索してみていただきたい。
第一:序品(じょほん)『塔供養の図』
第一:序品(じょほん)『塔供養の図』_1
第一:序品(じょほん)『塔供養の図』_2
第一:序品(じょほん)『塔供養の図』_3
第三:譬喩品(ひゆほん)『三車火宅の図』
第三:譬喩品(ひゆほん)『三車火宅の図』_1
第三:譬喩品(ひゆほん)『三車火宅の図』_2
第三:譬喩品(ひゆほん)『三車火宅の図』_3
第五:薬草喩品(やくそうゆほん)『慈雨等潤の図』
第十:法師品(ほっしほん)『法師修行の図』_1
第十:法師品(ほっしほん)『法師修行の図』_2
第十:法師品(ほっしほん)『法師修行の図』_3
第十:法師品(ほっしほん)『法師修行の図』
第十:法師品(ほっしほん)『法師修行の図』_1
第十:法師品(ほっしほん)『法師修行の図』_2
第十:法師品(ほっしほん)『法師修行の図』_3
第十一:見宝塔品(けんほうとうほん)『多宝塔出現の図』
第十一:見宝塔品(けんほうとうほん)『多宝塔出現の図』_1
第十一:見宝塔品(けんほうとうほん)『多宝塔出現の図』_2
第十一:見宝塔品(けんほうとうほん)『多宝塔出現の図』_3
彫刻の参考にした図案だったのだろうか?free画像を借用した
第十一:見宝塔品(けんほうとうほん)『多宝塔出現の図』はこれをイメージしたものかな?

帝釈堂内殿の外部は東・北・西の全面が装飾彫刻で覆われており、中でも胴羽目板の法華経説話の浮き彫り10面が著名である。これは法華経に説かれる代表的な説話10話を選び視覚化したもので、大正11年(1922年)から昭和9年(1934年)にかけて、加藤寅之助ら10人の彫刻師が1面ずつ分担制作した。この羽目板の上方には十二支と天人、下方には千羽鶴が表され、高欄(縁)より下の部分には花鳥および亀を浮き彫りで表す。これらの彫刻を保護するため、内殿は建物ごとガラスの壁で覆われ、見学者用の通路を設け、「彫刻ギャラリー」と称して一般公開している(「彫刻ギャラリー」と大客殿、庭園の見学は有料)。
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帝釈堂の木彫について
帝釈堂の内外には、数多くの木彫がほどこされているが、特に帝釈堂内陣の外側にある十枚の胴羽目彫刻は、仏教経典の中でも最も有名な「法華経」の説話を選び出して彫刻したものである。
この法華経説話彫刻は、当山題十六世観明院日済上人の発願になるもので、篤信者鈴木源次郎の丹識協力を得て、大正末期より昭和九年に至る十数年の歳月費やして完成したものである。因みに大正十一年、まず加藤虎之助師が「法師守護の国」を完成したが、師の発案によって残りの九枚を東京在住の名人彫刻師に以来することが決まり、大きな欅の彫刻材が各師のもとに運びこまれた。しかるに大正十二年、折からの関東大震災に遭って彫刻材を焼失したのである。そこで改めて欅の原材を全国に求め、昭和初年ようやく巨大な欅材を得て、本格的な木彫工事が始められたのである。従って、得難い彫刻材と言い、木彫技術についても希有のもので文化的価値の極めて高いものである。
法華経説話彫刻を中心に胴の最上段には「十二支の国」その下に「天人国」「説話彫刻図」「千羽鶴図」階下には「花鳥図」最下段には「亀図」が彫刻されている。作者は複数の彫刻師によって刻まれたが、ことに、「千羽鶴図」「花鳥図」「亀図」等は、千葉県鴨川出身の名人高石仙蔵師の彫りに成るものである。
従来、木彫は、風雨塵埃にされされ、金網等があり鑑賞しにくかったので、この度、堂周りに、新たに廻廊をめぐらし、総ガラス張りの「彫刻ギャラリー」を完成したのである。願わくは参詣各位において充分に鑑賞されることを望むものである。
帝釈天題経寺大十八世 望月日翔

 

帝釈天~山本亭~矢切の渡し~スカイツリー(4)

柴又帝釈天(3)
正面の彫刻に別れを告げ、彫刻ギャラリーに進む。此処から先はまもなく有料ゾーンになる。
拝殿正面の彫刻
拝殿正面の彫刻
まだかろうじて無料ゾーンの渡り廊下
ここから祖師堂本堂方面に行くのは無料なのだ。彫刻を見たり、祖師堂本堂を側面から見たりできる。渡り廊下に関しては、後の回で取り上げる。
まだかろうじて無料ゾーンの渡り廊下

彫刻ギャラリーを見たいので、ここは直進する。そして、彫刻ギャラリーと大客殿と庭園との拝観料400円をを支払う。
どうもよくわからないのだが、無料ゾーンの拝殿の奥に幣殿と本殿とがあるようだ。まるで、神社のようなあり方だ。更に本殿には内殿もある。実に複雑。いずれにしても内部に入ることができるわけではなく、本殿の周囲にズラリと設えてある胴羽目10枚を見るのだ。それを見るために、渡り廊下が設けられていて、外気を遮断するために外側には透明のガラス板が張られている。これで、夏冬とも気持よく、見学できるようだ。
外からも、ガラス板越しに見ることができなくはないが、やはりかなり遠いようで、400円を出し惜しみするのは、しないほうが良さそうだ。


幣殿部分の彫刻
ここは売り物の胴羽目10枚の彫刻ではない。が、負けず劣らずすごい。望遠レンズも持参したのに、不精してアップで撮らなかった。大失敗だった。
欄間
竹林の七賢人らしい。まあ、なんとなく七賢人などが写っている。(^_^;)
頭貫
見たとおり、獅子頭だ。その数がものすごい。至るところにあるのだ。
花頭窓
龍の彫刻が施してあった。随分おしゃれな窓だ。
幣殿右側の彫刻
幣殿部分の彫刻_右側_1
これから見る彫刻ギャラリーは階段を上がって10枚の胴羽目の彫刻を見る。左側まで見たら側まで見たら、階段を降りて、花鳥風月の彫刻を見る。そして、再び階段を上がり、渡り廊下から、大客殿や庭園を見るという順序になる。
幣殿部分の彫刻_右側_2
戻ってきて、もう一度撮ろうとしたら、『ここは撮影可能なんですか』と聞くおじさんがいた。しっかり撮ろうと思っていたのに、心が乱されて連続してピンボケ写真になってしまった。
幣殿部分の彫刻_右側_3
幣殿部分の彫刻_右側_4
この2ショットは、正確には拝殿裏の部分になると思う
幣殿部分の彫刻_右側_5
幣殿部分の彫刻_右側_6
幣殿左側の彫刻
幣殿部分の彫刻_左側_1
幣殿部分の彫刻_左側_2
幣殿部分の彫刻_左側_3
幣殿部分の彫刻_左側_4
幣殿部分の彫刻_左側_5
絵馬
いずれも風雨にさらされていた時期が長いようで、かなり傷んでいた
『祈願によって帝釈天が出現し、御神水が湧き出る様子』を描いた明治32年(参拾貳歳と書いてあるように見える)の絵馬
明治32年(と書いてあるように見える)の絵馬
『帝釈天板本尊出現』を描いた明治2年の絵馬
これで帝釈天の人気がググッと上がったという板の本尊が出現した様を描いたのか。ありがたがる善男善女をも描き込んでいるわけだ。
明治2年の絵馬

 

帝釈天~山本亭~矢切の渡し~スカイツリー(3)

柴又帝釈天(2)

1912年(明治45年・大正元年)に出版された夏目漱石の『彼岸過迄』の『須永の話』の二と十三都に帝釈天絡みの話が出てくる。漱石が活躍していた頃の帝釈天はどんなだったのだろうか。帝釈天堂本殿は、胴羽目を除き、明治四十年の完成なので存在し、祖師堂や釈迦堂ももちろんあった。
それ以外は、まだ存在しなかったはずだが、どんな佇まいだったのだろうか。その『彼岸過迄』の出版前後から、帝釈天の堂宇は今のような形に大きく変わっていったようだ。


以下では漱石も一部は見たかもしれない今の様子をご覧いただく。

帝釈堂
帝釈天堂本殿は、胴羽目を除き、明治四十年の完成だそうだ。そして内殿が大正四年、胴羽目十枚は昭和九年の完成だそうだ。更に拝殿が、昭和四年の完成。わずかに昭和に食い込んではいるが、なかなか年数を経た堂宇になっている。彫刻の見事さが評価される寺院でもある。詳細については、末尾にあるURLで確認していただきたい。
帝釈堂_1
帝釈堂_2
帝釈堂_3
帝釈堂_4
帝釈堂_5
帝釈堂の扁額『喜見城』
帝釈尊天がおわします帝釈堂の正面、堂々たる扁額に光る金文字は「喜見城」。遥かな高みの仏の天の忉利天にそびえる帝釈天の居城、喜見域を現世で拝礼する唯一の場が当山の帝釈堂に他ならない。
帝釈堂_6
帝釈堂_7
帝釈堂_8
帝釈堂_9
二天門を入った境内正面に位置する。手前の拝殿と奥の内殿から成り、ともに入母屋造瓦葺で、拝殿屋根には唐破風と大ぶりの千鳥破風を付す。内殿は大正4年(1915年)、拝殿は昭和4年(1929年)の完成。内殿には帝釈天の板本尊を安置し、左右に四天王のうちの持国天と多聞天(毘沙門天)を安置する(四天王の残り2体は二天門に安置)。内殿外側には全面に浮き彫りの装飾彫刻が施されている。
彫刻ギャラリー
これは次回以降に丁寧に取り上げさせていただく予定

祖師堂(本堂)
明治21年に建てられたそうだ。ちなみに祖師堂の奥殿も同年に建てられたそうだ。帝釈堂ができる以前は、こちらが帝釈堂だった。帝釈堂ができたあとに、大修理を施して祖師堂にしたとのこと。
祖師堂_1
祖師堂_2
祖師堂_3
祖師堂_4
帝釈堂の向かって右に建つ。帝釈堂と同様、入母屋造の拝殿と内殿が前後に並んで建つ。こちらが日蓮宗寺院としての本来の本堂であり、本尊は大曼荼羅である。

釈迦堂(開山堂)
このお寺にあって最古というが、江戸時代末期の事のようだ。他とそれほど差があるわけではなさそうだ。
釈迦堂(開山堂)
江戸時代末期に建立された、寺内最古の建築であり、奈良時代作という釈迦如来立像と、開山日栄、中興の祖日敬の木像を安置する。

水舎(向かって右側)
この水舎は昭和初期の作だそうだ。さり気なくおかれているようだが、なかなか立派な設えになっている。すべての建物が手を抜かずに作ってあるのにびっくり。
なお、向かって左側には、明治時代に作られたと言われる御神水・浄行菩薩がある。こちらは撮り漏らしてしまった。

水舎(向かって右側)
御神水
FREE画像を借用した
御神水

彫刻についての詳しい説明があるHPへjump
柴又帝釈天に関する詳しい説明があるHPへjump

 

訳の分からない検索ソフトがインストールされてしまい焦った 2015.02.12 00:52大幅追記修正

一昨日から新PCを使用できるように悪戦苦闘していた。実は、まだ、移行作業が完了したわけではないのだが、必要なものから導入し始めて、基本的な範囲の使用に差し支えない状態になったので、新しいマシンを使い始めた。ところが嫌な問題が発生した。
『trovi』などの訳の分からない検索ソフトがインストールされてしまい、汗をかきかきこれの削除に挑戦しなくてはいけないことに相成った。
ところが、これらの検索ソフトを削除を簡単に削除させない『Search Protect』というものが介在しているらしい。普通にやったのでは、『一昨日来い』と跳ね返されてしまう。無害なのだが、使用者のイライラ度を爆発させる大悪質ソフト。無害だということで、これをスルーさせてしまうマカフィーのアンチウィルスソフトに恨みを覚える。一ヶ月の無料試用ができるが、怒り心頭に発して他のウィルス対策ソフトを注文。まあ、他のソフトでも同じ扱いだったかもしれないが。

今回はFireFoxで行ったが、InternetExplorerでも同様な手順を踏むのではないかと思う。やけに細かい話になるが、同様のことでお悩みの方の参考になるかもしれないと考え、備忘のメモを書きまとめてみた。

まずは、『IObit Unlockerを』使用したりして、『Search Protect』をアンインストールする。この詳細手順は省略する。
これでOKだと思ったのだが、非常に気になる事態が依然して残る。

Firefoxの『新しいタブ』をクリックするとTroviが残っている。Troviという検索ソフトがまず始めにありの状態なのだ。中国製の検索ソフトでないだけマシかもしれないが、非常に不愉快。その一方で随分ねちっこく頑張るものだと一定の評価はしたい。でも存在を許す訳にはいかない。
http://www.trovi.com/?gd&ctid…というような長い長い文字列が入っている。
ここではたと困った。いろいろ調べた末に、下記URLをみつけた。これの特に後半部分を参考にさせていただいた。
http://www.ai-f.biz/920weblogs/14072917.html

ここからハラハラ・ドキドキの書き換え作業に入る。

1) URLが入っているところに、既存のものに代えて、 about:config と入力し、Enterキーを押す。
ScreenShot_2_1
2) 「動作保証対象外になります!」という警告ダイアログが表示されるので、怖いけれども、[細心の注意を払って使用する]をクリックし、「about:config」を開く。
警告ダイアログが表示された状態
ScreenShot_1
[細心の注意を払って使用する]をクリックしたとき
ScreenShot_2
3)検索ボックスに browser.newtab.url と入力。
敵陣に乗り込むべく検索ボックスに browser.newtab.url と入力したとき。設定の値には、http://www.trovi.com/?gd&ctid…という長い長い文字列が入っている。
ScreenShot_2_2
4) browser.newtab.url の設定をダブルクリックすると入力窓が出る。
browser.newtab.url 設定をダブルクリックすると入力窓が出る。入力窓には既存の入力内容が表示されている。
ScreenShot_2_3

5) URLに「trovi」が入力されているので、まずこれを削除する。
6)『新しいタブ』をクリックした時に表示したいURLを入力して「OK」をクリックする。

 例示では、
 http://www.yahoo.co.jp
 とあったが、yahooは好みじゃないので、googleのそれにした。
 https://www.google.co.jp
 googleが介在するのがやはりうざったいと感じたときは、これを空白にしてみる
ScreenShot_5
ScreenShot_6

そうすると、あの忌々しい検索ソフトが介在しなくなった。やっと元に戻って非常に気分が良い。但し、今のところウィルス対策ソフトのチェックがなされていないので、アンインストールしたはずの『Search Protect』が再び入り込んでしまう。そうすると、もう一度同じことを繰り返さなければならない。新たに購入したウィルス対策ソフトは大丈夫だろうか。

 

帝釈天~山本亭~矢切の渡し~スカイツリー(2)

柴又帝釈天(1)

今回は、外から見える建築物から取り上げたい。江戸の民衆から支持を受けたありがたいお寺さんだったとか。それが廃仏毀釈の嵐が吹いた時期にも勢力を維持していくことができた大きな要因だったようだ。

二天門
四天王のうち、増長天および広目天の二天を安置し、門の名はこれに由来するそうだ。残る持国天と多聞天(毘沙門天)の二天は門をくぐった先にある帝釈堂に安置されている。情けない話だが、仁王門のようだがと思いつつも確認せずに済ませ、念のいったことに帝釈堂の二天をも見損じてしまった。次回訪問時にはしっかり見てきたいものだ。
二天門_1
二天門_2
二天門_3
二天門_4
二天門_5
明治29年(1896年)の建立。入母屋造瓦葺の楼門(2階建て門)で、屋根には唐破風と千鳥破風を付す。柱上の貫などには浮き彫りの装飾彫刻を施す。初層左右には四天王のうちの増長天および広目天の二天を安置し、門の名はこれに由来する。二天像は平安時代の作とされ、門の建立時に同じ日蓮宗の妙国寺(大阪府堺市)から寄贈されたものである。
西門
何の説明も見つけられなかった。二天門ほどではないが姿よしの門だ。惜しむらくはあの白札だ。雰囲気を損ねていただけない。
西門_1
西門_2
南大門
西門と同様に説明なしだが、若干西門よりは大きい感じ。名前からすると奈良のお寺さんを思い出してしまう。
南大門_1
南大門_2
大鐘楼
袴腰付きの鐘楼。それだけで圧倒される。よほど古いものとおもいきや、昭和30年のものだというから驚く。それでも築後60年を経過すると、渋みが出て貫禄十分。梵鐘は、吉田兼好の徒然草に登場した妙心寺の名鐘「黄鐘調(おうしきちょう)」と似た響きを持つようで、昭和の銘鐘の名が高いということだそうだ。虎さんの映画でも鳴っていたというが、どんな音色だったか記憶がない。(^^ゞ
大鐘楼_1
大鐘楼_2
大鐘楼_3
昭和30年、名匠、林亥助棟梁によって完成された総欅の大鐘楼。高さ約15m、四手先の豪壮な桝組と木彫を施し、関東一の鐘楼と言われる。
揃い踏み
関東の寺院ではなかなか見ることができない眺めだ。京都のお寺さんのような感じだった。
揃い踏み_1
揃い踏み_2
揃い踏み_3

柴又帝釈天(しばまたたいしゃくてん)は、東京都葛飾区柴又七丁目にある日蓮宗の寺院の通称である。正式名称は経栄山 題経寺(きょうえいざん だいきょうじ)である。旧本山は大本山中山法華経寺。親師法縁。なお、「帝釈天」とは本来の意味では仏教の守護神である天部の一つを指すが、日本においてはこの柴又帝釈天を指す場合も多い。
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縁起によれば、題経寺の創建は江戸時代初期の寛永6年(1629年)で、開山は中山法華経寺(千葉県市川市)19世の禅那院日忠とされている。なお、寺の説明によれば、実際に寺を開いたのは日忠の弟子にあたる題経院日栄であるとされる。本堂右手にある釈迦堂(開山堂)に日栄の木像が安置されていることからも、この日栄という僧が実質的な開山であると思われる。
題経寺の中興の祖とされているのが9世住職の亨貞院日敬(こうていいんにっきょう)という僧であり、彼は一時行方不明になっていた「帝釈天の板本尊」を再発見した人物であるとされている。日敬自ら記した縁起によれば、この寺には宗祖日蓮が自ら刻んだという伝承のある帝釈天の板本尊があったが、長年所在不明になっていた。それが、日敬の時代に、本堂の修理を行ったところ、棟木の上から発見されたという。この板本尊は片面に「南無妙法蓮華経」の題目と法華経薬王品の要文、片面には右手に剣を持った帝釈天像を表したもので、これが発見されたのが安永8年(1779年)の庚申の日であったことから、60日に一度の庚申の日が縁日となった。それから4年ほど経った天明3年(1783年)、日敬は自ら板本尊を背負って江戸の町を歩き、天明の大飢饉に苦しむ人々に拝ませたところ、不思議な効験があったため、柴又帝釈天への信仰が広まっていったという。柴又帝釈天が著名になり、門前町が形成されるのもこの時代からと思われる。近隣に数軒ある川魚料理の老舗もおおむねこの頃(18世紀末)の創業を伝えている。

 

帝釈天~山本亭~矢切の渡し~スカイツリー(1)

たまには、東京の名所も見ておきたいと考えた。殆んどの日本人が知っているだろう『柴又の帝釈天』を見てみることにした。そして、すごい味わいがあると言われる山本亭をも。
月曜日の午前10時だから、人通りは少なかった。でも、暫くすると、お客さんがどんどん到着する感じだった。観光バスやマイカーで来る人は、どうしても到着が少し遅くなるようだ。

都立大学駅から東横線で渋谷駅に行き、改札口を出ずにメトロ半蔵門線で押上駅まで行く。そこから京成押上線(ジョルダンの案内では京成本線と記載されていたが、押上駅のところは押上線が正しい。多分、途中から本線になるのだろう)で京成高砂駅に行く。そこで一旦改札をでて、10mほど先の改札から、京成金町線に乗り換えて柴又駅に行く。イヤになるほど面倒だった。

まずは柴又帝釈天を目指す
目指す先には、こんなお堂がある
これは帝釈堂で本堂ではない。普通のお寺さんの場合は、本堂に参拝するのだろうが、ここの場合は帝釈堂に対して参拝するようだ。
そして『瑞龍の松』は植木職人が入ってお手入れ中。見事な枝振りだ。

目指す先には帝釈堂が
京成押上駅
ここは、スカイツリー前でもある。帰りに少し立ち寄ることにする。もちろん、スカイツリーに上ったりはしない。私の趣味ではない。
京成押上駅
柴又駅
相当にローカルな駅だ。池上本門寺近くの池上駅よりも、まだ小さな感じかも。
柴又駅_1
柴又駅_2
柴又駅前
柴又駅_1
寅次郎の銅像もある。これがなくちゃ話しにならないのだろう。日曜日などは人がいっぱい居て、撮るのも大変なことだろう。
柴又駅前_2
柴又駅前_3
柴又駅前_4
帝釈天参道
行きには無粋な工事車両が駐車していたので、帰りにも撮った。帰りに撮った時には、随分空模様が怪しい感じになっていた。常夜灯は渥美清が寄贈したようだ。
帝釈天参道_1
帝釈天参道_2
山田洋次監督が書いた字のようだ。あの有名なセリフだ。
山田洋次監督が書いた字のようだ
反対側には『帝釈天王安置』の石塔があった。この先に帝釈天王が安置されているという予告の標識なのだろうか。
『帝釈天王安置』の石塔
お店が続く
お店が続く_1
お店が続く_2
お店が続く_3
映画でもお馴染みの団子屋さんかな
お店が続く_4
月曜の朝一番なのでお客さんの姿はまばら
お店が続く_5
あっという間に帝釈天に到着
二天門が見えてきた。相当にすごいぞ。
二天門が見えてきた

 

ちゃんこ料理を食べた

南米ボリビアに宣教師として35年赴任している神父様が帰国中で、彼を囲んでちゃんこ料理を食べた。
ちょっと前に都立大学駅前にもできたので、調度良い機会だったので利用してみた。
17時に予約していたが、そんな時間から入るお客さんは稀なようで、これからの時間帯が混むのだろう。
非常に美味しいがボリュームなどは壮年向きで、カニクリームコロッケは手を付けずに持ち帰ることにした。幕内コースでなくて十両コース程度で十分だったかも。

飽食の国日本では考えられない南米最貧国ボリビアの現状。身につまされる話ばかりだ。
店の外観
和菓子の名店『ちもと』の隣。『芝松』は緑が丘駅前にある人気店の分店。
店の外観_1
店の外観_2
出された料理
大きなカニクリームコロッケは食べずに持ち帰りにした
カニ
白子
きゅうり
刺し身
焼き鳥
メインのちゃんこ鍋
コンロの火をつける
ちゃんこ鍋に火をつける
でも食べるよりも話に夢中
食べる方よりも話しの方に熱が入った様子
鍋が食べ頃に。予想通り、非常に美味しかった。でも自分たちより、ゲストに喜んでもらえる食事にしなくちゃ。
鍋が煮え立った

 

釈迦堂口切通~瑞泉寺~頼朝の墓~宝戒寺(7)

宝戒寺(2)

本堂
北条一族鎮魂のための寺なんだなあ。頼朝などはこの時点で完全に過去の人になっていたのだろう。頼朝は、鶴岡八幡宮と島津氏が建てたお墓で偲ぶしか無いのだろう。寂しい話だ。
北条一族鎮魂とどういう関係があるのか不明だが、本尊は、木造地蔵菩薩坐像。1365年(貞治4年)、仏師憲円の作で、国指定の重要文化財。

本堂_1
本堂_2
本堂_3
本堂_4
本堂_5
本堂_6
本堂_7
本堂_8
本堂_9
本堂_10
撮影禁止なので、free画像を借用
本堂内部

境内の様子(2)
德崇大権現堂
鎌倉幕府執権北条高時公を德崇大権現として祀っている。北条高時公が自刃し鎌倉幕府が滅亡した5月22日に、鎮魂のため、德崇大権現として祀っているご神像を本堂にお迎えし、供養を行うのだそうだ。
北条一族を鎮魂するための寺であるならば、此処はもう少し大きなものにしても良かったのではなかろううか。

德崇大権現堂_1
德崇大権現堂_2
德崇大権現堂_3
大聖歓喜天堂
秘仏である大聖歓喜双身天王(歓喜天・聖天様)を祀っている。木造歓喜天立像は、国指定の重要文化財。
これまた何のために此処に祀ってあるのか、私にはよくわからない。

木造歓喜天立像:秘仏で一般には公開されていない。歓喜天は聖天(しょうでん)とも称し、象頭人身の2神が相抱擁する形に造形される。歓喜天像は一般に小像が多いが、宝戒寺像は像高155cmに及ぶ大作として珍しい。川端康成の妻は自ら聖天信者を名乗り、行者の予言でこの像の存在を知り、ノーベル賞受賞前に足しげく参詣していたという。
大聖歓喜天堂_1
大聖歓喜天堂_2
梵鐘
梵鐘
宝篋印塔
1333年に滅亡した北条氏並びに鎌倉合戦東勝寺戦没諸精霊を供養する慰霊塔
写真を撮り漏らしてしまった。これがあってこその宝戒寺だというのに、なんとも間の抜けた話だ。

以上で『釈迦堂口切通~瑞泉寺~頼朝の墓~宝戒寺』シリーズは終了です。最後までご覧いただき大変有難うございました。

 

釈迦堂口切通~瑞泉寺~頼朝の墓~宝戒寺(6)

宝戒寺(1)
宝戒寺の門前
『北条執権邸旧蹟』の石碑
寺域は北条義時以来の歴代の鎌倉幕府執権の屋敷地跡
『北条執権邸旧蹟』の石碑
宝戒寺の説明板
後醍醐天皇も寝覚めが良くなかったのだろうか。頼朝が建てさせた永福寺と同様の性格の寺院のようだ。
宝戒寺の説明板
通路の敷石が立派
萩の花が咲く季節には相当きれいなことだろう。八角形の敷石には意味があるのだろうか?…撮り漏らしたのでFREE画像を借用
通路の敷石が立派
山門かな
山門かな

境内の様子(1)
境内に入ってすぐのところにあったモニュメント
『北』の字をデザインしてあるのだろうか。洒落たデザインだ。
境内に入ってすぐのところにあったモニュメント
聖德太子堂
聖德太子を祀る必然性がよくわからないが、ともかくも此処にお堂がある。姿形がとても格好良い。
聖德太子堂_1
聖德太子堂_2
庭にはいくつかの花が
花の寺と言われるだけあって、この寺にも福寿草や蝋梅などの花が咲いていた。福寿草は咲き始めかな?
福寿草_1
福寿草_2
福寿草_3
蝋梅は、見慣れているものより、色味が薄い感じ。違う種類なのだろうか?
蝋梅_1
蝋梅_2
東久邇宮お手植えの柏槇
東久邇宮お手植えの柏槇_1
東久邇宮お手植えの柏槇_2
東久邇宮お手植えの柏槇_3

宝戒寺(ほうかいじ)は、神奈川県鎌倉市にある天台宗の寺院。山号は金龍山。詳名を金龍山釈満院円頓宝戒寺と称し、本尊は地蔵菩薩。萩の名所として知られ、「萩の寺」とも呼ばれる。
宝戒寺は鶴岡八幡宮三の鳥居前の道(横大路)を右に行った突き当りに位置する。寺域は北条義時以来の歴代の鎌倉幕府執権の屋敷地跡と伝える。
『吾妻鏡』によれば、鎌倉幕府最後の執権・北条高時は、1333年(元弘3年)5月22日、新田義貞の軍に追い詰められて葛西ヶ谷(かさいがやつ、宝戒寺の裏山)の東勝寺(鎌倉市)で自害、一族郎党870余名も運命を共にし、鎌倉幕府は滅亡した。宝戒寺蔵の1335年(建武2年)3月28日付の足利尊氏寄進状に、同寺は「北条高時の慰霊のため、その屋敷跡に後醍醐天皇が建立した」旨の記述があり、後醍醐天皇が天台宗の高僧・円観慧鎮を開山としてこの寺を造営しようとしていたことは事実と思われる。しかし、実際の造営は、後醍醐天皇による建武の新政が崩壊し、同天皇が没した後に足利尊氏らによって行われたと推定されている。
建武2年寄進状から17年後の1352年(観応3年)に作成された足利尊氏寄進状案には、宝戒寺の造営料として上総国武射郡小松村(現千葉県山武市)と、出羽国小田島庄(現山形県東北部)の土地を寄進するとあり、この頃ようやく宝戒寺の造営が本格化したことがわかる。「惟賢灌頂授与記」という文書によると、2世住持の惟賢によって灌頂(密教の重要な儀式の1つ)が宝戒寺で初めて行われたのが1354年(文和3年)であり、この頃にようやく寺観が整ったものと思われる。

 

釈迦堂口切通~瑞泉寺~頼朝の墓~宝戒寺(5)

大江広元、島津忠久、毛利季光の墓
墓が3つ並んでいる。左から、毛利季光、大江広元、島津忠久の墓だ。写真を丹念に見てもらえばわかると思うが、大江広元の墓と彼の四男の毛利季光の墓とは行き来が自由にできるが、島津忠久の墓はそういうわけにはいかない。階段も別である。下まで降りて登り直すのも業腹だから、蟹の横歩きをしたが、ちょっと冷たい扱いのように思えた。階段の下まで行くと、大江広元の墓と毛利季光の墓とに行くための階段には鳥居があり、島津忠久の墓に行くための階段には鳥居がない。毛利と島津とは仲が良くなかったのだろうか。
そう考えたのだが、これらの墓はすべて島津家が建造したようだ。相手を立てるそういう家風だったのかもしれない。
3つの墓の集合写真
かろうじて、3つの墓が写っている。これ以上は下がることができない。
3つの墓の集合写真
大江広元の墓
亀趺(キフ)というらしい。時々見かけるが、格式が高い墓にしかないものなのだろう。
大江広元の墓_1
大江広元の墓_2
大江広元は、源頼朝の政務の側近として「政所別当(長官)」を務めた人物。この墓は、1823年(文政6年)、長州藩によって建てられたもの。十二所にも大江広元のものと伝わる墓がある。 
毛利季光の墓
毛利季光の墓_1
毛利季光の墓_2
大江広元の四男季光は、愛甲郡毛利庄を相続しして「毛利氏」を名乗った。1247年(宝治元年)の宝治合戦で毛利氏はほとんど滅んでしまうが、季光の四男経光の家系が後世にのこり、戦国時代に中国地方を統一した毛利元就の祖となった。
島津忠久の墓
毛利家側にはあった亀趺が島津家側にはなかった。敢えて横並びにしなかったのは、考え方の相違によるものなのだろうか。
島津忠久の墓
島津忠久は、九州島津氏の祖で、源頼朝の子ではないかとされているが定かではない。江戸時代には、島津藩主や家臣が墓参したという。現在の墓は、1779年(安永8年)に修造されたもの。源頼朝の墓とともに島津重豪が整備したといわれている。
島津忠久の墓の端から見た様子
邪魔が入り、向こう側との行き来ができない
島津忠久の墓の端から見た様子
島津忠久の肖像画…FREE画像を借用
島津忠久の肖像画
階段も別々
『島津家の人達は怒らないのだろうか』と思ったが、この墓を作ったのは島津家だったようだ。大大名になっても、頭を低くしていたのだろうか。
階段も別々_1
階段も別々_2
階段も別々_3
北条義時法華堂跡
先ほどの崖の上から見えた平場。ここで三浦一族と共に島津忠久と毛利季光とが自刃したのか。この一角には、三浦一族のやぐらもあるようだ。wikipediaには、島津忠久は『安貞元年(1227年)6月18日の辰の刻、脚気と赤痢により死去(『吾妻鏡』)』と書かれている。
平成17年、源頼朝墓東隣の山の中腹から北条義時のものと考えられる法華堂跡が発掘された。調査の結果、1辺が8.4メートルの正方形の三間堂であったと推測されている。
義時の法華堂は、遺言によって建立されたとされ、『吾妻鏡』には、「故右大将家法華堂の東の山上をもって墳墓となす」と記載されている。故右大将家とは源頼朝のこと。

北条義時法華堂跡_1
北条義時法華堂跡_2
北条義時法華堂跡_3
北条義時法華堂跡_4
大蔵幕府の方へ下りる階段
大蔵幕府の方へ下りる階段

室町、江戸を生き抜き、明治維新を成し遂げた薩長の祖が並んで眠る場所
鎌倉幕府の基盤整備に多大な貢献を果たした貴族、大江広元の墓と伝わるやぐらがあります。階段を登るとまず大きな平場があり、ここは北条義時の墓があったといわれる場所です。平場の左手には北条氏によって滅ぼされた三浦泰村一族の墓があります。
平場の奥、鳥居をくぐって急勾配の階段を登るとやぐらが3つ並んでいます。左から、毛利季光、大江広元、島津忠久の墓となっています。
大江広元は、兄である中原親能が源頼朝と親交があり早くから頼朝の臣下となった縁で京都より招かれました。
頼朝の右腕として活躍し、幕府制度の基盤整備や京男たちが渦巻く朝廷との交渉などに活躍しました。頼朝没後も北条氏を中心とする数多くの政変を巧みに避け、1148年に生まれ1225年に没するまで77歳という長寿を全うしました。
広元の墓と並んで右に島津忠久の墓もあります。島津氏の祖といわれる人物です。母は源頼朝の側室、比企能員の妹、丹後局。このことは頼朝の落胤であるという言い伝えが生まれる根拠になっていますが、この伝説は現在では真実ではないとされています。
大江広元の左隣に眠る毛利季光は大江広元の子。毛利元就を生んだ毛利氏の祖です。島津、毛利、明治維新を成し遂げる薩長の祖が並んで眠る場所でもあります。

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源頼朝の墓所の右奥の山腹に玉垣に囲まれて3つのやぐらの墓がある。真ん中に鎌倉幕府の要職を務めた大江広元の墓がある。左右には北条対三浦の戦い(宝治合戦)に、三浦に与して法華堂で三浦一族と共に自刃した島津忠久と毛利季光(大江広元の四男)の墓がある。島津も毛利も後にも手を結んで行く事になった。島津忠久は薩摩藩主・島津氏の祖である。比企義員の娘・丹後局(頼朝の愛妾とも言われた)が生んだといわれている。したがって、島津家の系譜も忠久を「頼朝の庶子」としている。墓の下方に三浦一族の墓もある。
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亀趺(キフ)とは台石の一種で、石碑を載せる台石を大亀の形にしたものである。
亀趺は、もともと中国の貴族階級の風習だったのが、江戸時代に日本でも取り入れられた。
亀趺は功績や功徳などを刻んだ石碑を載せるものが多いが、鳥取藩主池田家の墓碑のように墓石を載せるものもある。
亀趺の亀は贔屓(ひいき)といい、龍の九子のうち龍になれなかった一子で、巨大な亀の形に似た想像上の霊獣だとされる。
「贔屓(ひいき)」は「贔屓にする」などと用いられる「贔屓」である。
贔屓は「一生懸命努力して力を出すさま」を意味するとされるが、それが「特別に便宜を図ったり、力添えをする」意味に使われるようになった。

 

釈迦堂口切通~瑞泉寺~頼朝の墓~宝戒寺(4)

源頼朝の墓
頼朝の死には謎が多いようだが、兎にも角にも建久10年(1199)1月に死去したことは間違いがないようだ。そして、現在の白旗神社になっているところが、大倉法華堂であり、そこに葬られたそうだ。そして、江戸になって、島津氏によって、現在の場所に墓が建てられたという。
建久9年(1199)12月27日源頼朝は、御家人の稲毛重成の亡妻の供養のために、相模川にかけた橋の完成祝いに出掛け、その帰り稲村ガ崎で落馬した。その落馬が原因で、翌年の建久10年(1199)1月13日に53歳で亡くなった。大倉法華堂(現在の白旗神社)に葬むられた。現在の墓は白旗神社のすぐ横の階段を登った所にあり、江戸時代に島津氏によって建てられたもので、高さ186cmの五層の石塔である。
建久6年(1196)から頼朝が亡くなった正治元年(1199)までの3年間、鎌倉幕府の公式記録「吾妻鏡」から頼朝の死亡に関する記録が抜けている(仏事の記録はあり)。頼朝の死は謎に包まれていると言われている。

頼朝の墓
頼朝の墓_1
頼朝の墓_2
頼朝の墓_3
頼朝の墓_4
白旗神社
白旗神社
源頼朝顕彰碑
『君出でて 民もしづまり 九重の 塵もをさまる 世とはなりにけり』とあった
源頼朝顕彰碑
「法華堂跡」の石碑
「法華堂跡」の石碑
「法華堂跡」は、大倉幕府跡の裏山にある源頼朝墓を中心とする史跡。
「法華堂」とは、1189年(文治5年)、源頼朝が聖観音像を本尊として建立した持仏堂のことで、1191年(建久2年)には、文覚に命じて京都で描かせた阿弥陀三尊像が掛けられた。
平治の乱で源頼朝が帯びていたという源氏重代の太刀「髭切」)も持仏堂に納められていたという(現在は京都の北野天満宮の所蔵(一条戻橋の伝説))。
持仏堂は、頼朝の死後「法華堂」と呼ばれるようになり、現在、源頼朝墓が建てられている場所が法華堂の跡だといわれている。
『吾妻鏡』によれば、本尊の聖観音像は、頼朝が京都の清水寺から下されたもので、挙兵の際、髷の中に納めていたものだという。


『元祖島津豊後守忠久石塔道』
表示の石塔
頼朝の墓の脇にこれが建っていた。『元祖島津豊後守忠久石塔道』と書かれてあった。どう考えても元々の道標のようだ。
『元祖島津豊後守忠久石塔道』
ちょっと厳しい道
見回してみると道らしきものはこれしか無い。『えーっ、これを上るの』と思ったが、確かめない訳にはいかない。仕方がないので、上った。
手すりも何も無い急な階段。露出している木の根を掴みながら、この坂を登り切った。そうすると、獣道のような道があった。崖下には少し広い平坦な土地があり、その先には最初に鎌倉幕府が置かれた『大蔵幕府』の辺りが見える。

ちょっと厳しい道_1
ちょっと厳しい道_2
ちょっと厳しい道_3
大江広元、島津忠久、毛利季光の墓と思しきやぐら
キジバトらしき鳥が道案内をしてくれた。心細い思いで歩いた先にやぐらが見えた。大江広元、島津忠久、毛利季光の墓だろう。よく見ると、下から、かなり長い階段が伸びてきているではないか。何も危ない思いをする必要はなかったようだ。
大江広元、島津忠久、毛利季光の墓と思しきやぐら

 

釈迦堂口切通~瑞泉寺~頼朝の墓~宝戒寺(3)

瑞泉寺(2)
瑞泉寺庭園
驚いたことにアオサギが居た。このアオサギが強いアクセントになっていた。夢窓国師もびっくりしたことだろう。
瑞泉寺庭園_1
瑞泉寺庭園_2
瑞泉寺庭園_3
瑞泉寺庭園_4
瑞泉寺庭園_5
瑞泉寺庭園_6
瑞泉寺庭園_7
前庭の花はごくわずか
前庭の花はごくわずか_1
前庭の花はごくわずか_2
石碑など
大宅壮一『男の顔は履歴書である』
大宅壮一『男の顔は履歴書である』
安国利生塔
足利尊氏は、後醍醐天皇の菩提を弔うため、夢窓疎石の勧めで全国に安国寺を建て利生塔を置いた。安国寺と利生塔は、国ごとに一寺一塔が設置され、相模国では、鎌倉山ノ内に設置されている。
安国利生塔
『如對南屏』の石碑
意味合いは私にはわからない。南屏晚鐘に対するが如く(南屏晚鐘に匹敵する)…とはちがうのかなあ。
『如對南屏』の石碑
前庭の石庭
前庭の石庭_1
前庭の石庭_2
狢、石碑、石仏
瑞泉寺に留守番のおじいさんと、おばあさんがいました。瑞泉寺の下にもお寺がありましたが、その寺にもおじいさんがいましたそのおじいさんは、夜になると、ときどき瑞泉寺のお爺さんの家へ行き、ごちそうになって帰ります。ある晩、瑞泉寺のおじいさんの家の戸をたたくものがありましたので、戸を開けると下のおじいさんが立っていました。留守番のおじいさんはすぐに家の中へ入れて火にあたらせてあげました。するとそのおじいさんは、ついいねむりをして火の前で化けの皮をぬいでしまいました。なんとそれはむじなではありませんか、おどろいたおじいさんは、そのむじなのおなかを焼火ばしでつついて殺してしまいました。そのむじなは、毎晩おじいさんに化けて瑞泉寺に来てはごちそうになっていた悪いむじなだったのです。しかし、死んでしまえばやはりかわいそうなので、おじいさんはお寺の前に墓を作ってやりました。その墓石が、今あるむじな塚なのです。石段を登りきったすぐ左手の茂みの中におわんを伏せたような形をしています。
狢、石碑、石仏_1
狢、石碑、石仏_2
狢、石碑、石仏_3
男坂
男坂_1
男坂_2
男坂_3
石畳
石畳

 

釈迦堂口切通~瑞泉寺~頼朝の墓~宝戒寺(2)

釈迦堂口切通を後にして、次は花を愛でることを期待して瑞泉寺に向かった。

瑞泉寺(1)
鎌倉でも随一の花の寺と言われているのに、今回は本当に端境期にぶつかってしまったようだ。
道端には、八重咲き日本水仙が
その気になってみると結構あったようだ
道端には、八重咲き日本水仙が
程なく瑞泉寺の総門に
程なく瑞泉寺の総門に
境内に入る直前に天園ハイキングコースの入口がある
ここから建長寺経由北鎌倉駅まで2時間30分か。入り口からこんなに狭いんだ。今回は山道歩きの気分じゃないから、パスしておこう。
天園ハイキングコースの入口_1
天園ハイキングコースの入口_2
天園ハイキングコースの入口_3
花は何も無さそうな雰囲気だ
大丈夫かなあ。前回来た時は皇帝ダリアなどの花が見えたのだが。
花は何も無さそうな雰囲気だ
いつもの階段が待っていてくれる
いつもの階段
女坂の近くには竹林が
この裏側辺りを天園ハイキングコースが通っているのかなあ。最初からイキナリ急な坂道になるようだ。大変そうだ。
この辺りを天園ハイキングコースが通っているのかなあ
女坂
女坂
山門手前
享保年間のものらしい庚申塔があり、苔生した手水がある
享保年間のものらしい庚申塔
苔生した手水
山門
今回の句は虚子の『鎌倉や冬草青く松緑』という句だった
山門_1
山門_2
ごく普通の山門のようにみえるかもしれないが、形がビシッと決まっている。私には格好良く見える
山門_3
前庭の木はすっかり葉を落として寂しそう
前庭の木はすっかり葉を落として寂しそう_1
前庭の木はすっかり葉を落として寂しそう_2
本堂他の堂宇
本堂他の堂宇_1
本堂他の堂宇_2
本堂他の堂宇_3
本堂他の堂宇_4
本堂他の堂宇_5
本堂他の堂宇_6
本堂他の堂宇_7

 

釈迦堂口切通~瑞泉寺~頼朝の墓~宝戒寺(1)

釈迦堂口切通
釈迦堂口切通通行止めになったままだと聞いてはいたが、どうしても釈迦堂口切通を見たいという気持ちが抑えられなかった。行けるところまで行ってみようと思った。
この辺りの案内図
この辺りの案内図
釈迦堂切通しは、鎌倉時代の面影を良く伝えてくれる切通しである。切通しとい言うより洞門の様である。谷戸の名は鎌倉幕府三代執権・北条泰時が父・二代執権北条義時の霊を慰め様と釈迦堂を建立した事による。この切通しは大町方面に通じる。この切通しは鎌倉の外の地域とを結ぶ切通しではないため鎌倉七切通し(七口)には数えられてはいない。釈迦堂は洞門の北側入り口の西方にあったといわれ、字名が釈迦堂として残っている。一帯は北条時政の屋敷跡である。
今回は杉本寺前でバスを下りた。乗り物になったのはこの時だけ、それ以降は全て歩いて回った。
歩き出し
滑川が大きく蛇行している。この流れに沿って暫く歩く。
歩き出し_1
歩き出し_2
歩き出し_3
上杉朝宗及氏憲邸阯
まあ、邸宅跡と言われても何があるわけでもなし。そんなものかと思う程度だ。
大御堂橋から左に折れて、直進すると上杉朝宗及氏憲邸跡の鎌倉青年会の碑がたっている。このあたりが上杉朝宗及氏憲邸があったところと考えられる。上杉朝宗(ともむね)は憲藤の子で鎌倉公方の足利氏満、満兼の二代に渡って執事として仕え、犬懸上杉家の祖となった。その子の氏憲も執事となり、出家して禅秀と名乗った。しかし、主君の足利持氏が執事を上杉憲基に譲るようにしたことから、持氏と対立するようになり、ついに応永二十三年(1416)に反乱をおこす。当初、禅秀には持氏に不満を抱く足利義嗣、満兼も味方したが、足利義教の京都の幕府は、持氏支援を多くの武将たちに命じたため、たちまち禅秀たちは追い詰められ、禅秀は雪ノ下の鶴岡別当坊で自害した(上杉禅宗の乱)。
上杉朝宗及氏憲邸阯_1
上杉朝宗及氏憲邸阯_2
上杉朝宗及氏憲邸阯_3
ここから山の方に入る
のはずだったのだが、…
ここから山の方に入る
『田楽辻子のみち』
実はこの矢印が直進になっていると誤認して直進してしまった。いつまでたってもつかないのでおかしいと思っていたら、大御堂橋まで歩いていた。帰りはここに出たほうが良さそうだ。この道は『田楽辻子のみち』という道だそうだ。
田楽辻子の道は,鎌倉時代からこのように呼ばれていたと推される小道です。道沿いの釈迦堂前に田楽師が住んでいたことからこのように呼ばれたと伝えられています。辻子は通り抜けのできる小道のことで、十字路を辻といいます。
田楽辻子の道_1
田楽辻子の道_2
田楽辻子の道_3
田楽辻子の道_4
田楽辻子の道_5
田楽辻子の道_6
戻って、山の方に入る
ここから切通まで300mほどのようだ
戻って、山の方に入る_1
戻って、山の方に入る_2
戻って、山の方に入る_3
戻って、山の方に入る_4
戻って、山の方に入る_5
此処から先は舗装道路でなくなる
此処から先は舗装道路でなくなる_1
此処から先は舗装道路でなくなる_2
警告表示の先
行けるところまで行ってみる。やや歩きにくいが、子供の頃歩いた田舎の山道のようだ。
行けるところまで行ってみる_1
行けるところまで行ってみる_2
行けるところまで行ってみる_3
行けるところまで行ってみる_4
行けるところまで行ってみる_5
再び警告表示
再び警告表示
釈迦堂口切通の様子
通ることができるようになっていたので、引き返すつもりで先に行ってみる
釈迦堂口切通の様子_1
釈迦堂口切通の様子_2
釈迦堂口切通の様子_3
釈迦堂口切通の様子_4
釈迦堂口切通の様子_5
釈迦堂口切通の様子_6
釈迦堂口切通の様子_7
釈迦堂口切通の様子_8
切通しの先
切通しの先

 

恵比寿・代官山にて

いつもと違う道を歩き、目についたものを撮ってみた。

恵比寿・代官山の目立つ建物
建物そのものより、空の青さが印象的だった
目についた建物_1
恵比寿駅を出て渋谷駅に向かうすぐの線路際にある目立つビル
目についた建物_2
恵比寿西の裏道
目についた建物_3
目についた建物_4
目についた建物_6
代官山のランドマーク。元の同潤会アパートだが、見違えるようになった。
目についた建物_7
道端に咲いていた黄色い水仙
私が見ていないだけだろうが、久しぶりに黄色いのを見た
黄色い水仙
代官山駅
外から見るとこんな感じ。見えている電車は地下から出てきたばかり。
代官山駅_1
見えている電車は地下に入る直前
代官山駅_2
ホームに安全装置ができたようだ。だが、まだ設置したばかりで、正式使用はまだだった。
代官山駅_3
代官山駅_4

 

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