散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

再び浦賀を歩く(5)

マリーナのレストランで昼食
お昼だったし、十分撮らせていただいた感謝の気持もあったので、此処で昼食を食べた。美味しかったし、たまたま同行させていただいた方との話も楽しく、贅沢な時間を過ごせた。
マリーナのレストランで昼食_1
マリーナのレストランで昼食_2
マリーナのレストランで昼食_3
燈明堂
向かう道筋で
レストランでたっぷり休憩を取り、元気回復。道端にはまたもや八重咲きの日本水仙が。
向かう道筋で_1
こちらも彩りが綺麗だなと思って撮ってみた。アオキの実かな。
向かう道筋で_2
燈明堂
燈明堂_1
燈明堂_2
燈明堂_3
天正18年(1590年)の、徳川家康の江戸城入城後、江戸を中心とした水運は急速な発展を見せるようになった。水運の発展に伴い、東京湾入り口に近く、浦賀水道に面する入江である浦賀は港として大きく発展し、浦賀港に入港する船の安全を図る必要に迫られた。また浦賀水道を通行する船の増大は、夜間に浦賀水道を通過する船の安全策を講ずる必要性も高まってきた。
慶安元年(1648年)、江戸幕府は浦賀港入り口の岬に和式灯台である燈明堂を建設した。燈明堂は篝火ではなく堂内で油を燃やすことによって明かりを得ており、堂内には夜間は燈台守が常駐していた。当時は夜間に明かりがほとんどなかったこともあって、燈明堂の明かりは対岸の房総半島からも確認できたと言われている。建設当初は江戸幕府が燈明堂の修復費用を負担し、当時の東浦賀村と浦賀港の干鰯問屋が灯火の費用を負担していたが、元禄5年(1692年)以降は浦賀港の干鰯問屋が修復費用も捻出するようになった。
海に突き出た岬上にある燈明堂は、台風などの暴風や大地震による津波によって建物や石垣が崩されることがあった。しかし東京湾を通行する船の安全を守る役割を果たしていた燈明堂は、建物が破損してもただちに仮設の燈明堂を建設し、明かりが絶えないように努力がなされた。

燈明堂から浦賀方面を望む
浦賀湾は天然の良港のようだ。江戸時代から盛んに利用されていたのも首肯できる。
浦賀方面を望む_1
左側が川間ドック跡になる。浦賀ドックとは目と鼻の先で壮烈な受注競争を展開していたようだ。
浦賀方面を望む_2

以上で、『再び浦賀を歩く』シリーズは終了です。最後までご覧頂きありがとうございました。

 

再び浦賀を歩く(4)

川間ドック跡
この川間ドックは、浦賀船渠の設立とほぼ同時期に東京石川島造船所が浦賀分工場として設立した施設。激しい受注合戦の展開がおき、それに伴う経営の悪化で共倒れが懸念される状況に陥った。その後、浦賀船渠が買収し、以後、同社の川間分工場になった経緯がある。
この経緯は、田町にあった千代田瓦斯と浜松町にあった東京瓦斯との関係に似ているかもしれない。
世界に4カ所しか現存していないとうレンガ積みドライドックの内の一つで、そのうちの2カ所が日本国内にあり、いずれも明治期に造られた横須賀市内の浦賀ドックとこの川間ドック跡とである。

マリーナに買収されて、水を入れた状態になっている
入渠及び出渠するときは、水がある状態にするが、その他の時は、水が抜かれた状態で作業を行う。だからこそのドライドックなのだが。大型船などがなかった明治半ばの構築物だが、それなりに大きなものだ。
川間ドック跡_1
川間ドック跡_2
川間ドック跡_3
川間ドック跡_4
川間ドック跡_5
川間ドック跡_6
川間ドック跡_7
川間ドック跡_8
川間ドック跡_9
川間ドック跡_10
レンガ積みのドライドックだということが一番わかるショット
川間ドック跡_11
川間ドック跡_12
川間ドック跡_13
マリーナ
優雅なマリン・ライフを楽しんでいる人も少なからずいるんだなあ
マリーナ_1
マリーナ_2

(株)東京石川島造船所が、大型船の建造修理のため、当時、取締役会長であった渋沢栄一の提案により、明治二十八年(1895)十月に浦賀分工場として建設に着手し、同三十一年に営業を開始しました。同三十五年には浦賀船渠(株)が買収し、以後、同社の川間分工場になりました。
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1894年(明治27年)に中島三郎助の意志を継ぎ、荒井郁之助・榎本武揚・塚原周造が中心となり、1897年(明治30年)に浦賀船渠が設立され、かつての浦賀造船所と同じ場所に工場が建設された。同時期に同じ浦賀に建設された東京石川島造船所の浦賀分工場との間で、艦船建造・修理の受注合戦が繰り広げられたという。この競争はダンピング合戦を生み、両社の経営を悪化させた。ほどなくして石川島の浦賀分工場を浦賀船渠が買収、自社工場とすることで決着した。

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川間ドックとを取り上げた記事(2)へjump

 

再び浦賀を歩く(3)

西浦賀の蔵など
関東大震災の被害をトタン板で巻いたりして、少し寂れてしまった感じが否めない
西浦賀の蔵など_1
西浦賀の蔵など_2
西浦賀の蔵など_3
西浦賀の蔵など_4
UFOパプリカ
民家の軒にあったUFOパプリカ。味は普通のパプリカと変わらないようだが、形が何ともユニークだ。
UFOパプリカ

湾口近くの桟橋に出てみた
手前側には割と大型の船舶
手前側には割と大型の船舶_2
手前側には割と大型の船舶_3
対岸には東叶神社や明神山などが
対岸には東叶神社や明神山などが
手前側も対岸側も共に見える
対岸まで泳いでいけそう。そう思うくらい幅は狭い感じ。
手前側も対岸側も共に見える

陸軍桟橋など
陸軍桟橋はL字型のごく小さな桟橋。これで、多数の引揚者を運んできたとは、意外なほどだ。太平洋戦争終了後、南方や中国大陸からの引き揚げ者約56万人が、懐かしい日本の地に第一歩を印したところだ。確かにその通りなのだが、引揚船内でのコレラの大発生などで、無念なことに祖国を目の前にして、あるいは、上陸を果たしたものの、命を落とす人が多数居た。
今はそんなことも知らずにのんびり、釣り糸を垂れているお気楽人が少なくないようだ。

陸軍桟橋など_1
陸軍桟橋など_2
昔は此処に船番所があり、少し奥まったところに浦賀奉行所があった。この模型のあるところが午前中休館だったので、前回撮影分を使用する。
船番所
浦賀奉行所
昭和20年(1945年)8月15日、太平洋戦争は終結。ポツダム宣言により海外の軍人、軍属及び一般邦人は日本に返還された。ここ浦賀港も引揚指定港として、中部太平洋や南方諸地域、中国大陸などから56万余人を受け入れた。引揚者は敗戦の失意のもと疲労困憊の極限にあり、栄養失調や疫病で倒れる者が続出した。ことに翌21年、華南方面からの引揚船内でコレラが発生。以後、続々と感染者を乗せた船が入港。このため、旧海軍対潜学校(久里浜長瀬)に設けられた浦賀検疫所に直接上陸、有史以来かってない大防疫が実施された。この間、祖国を目前にして多くの人々が船内や病院で亡くなる悲劇があった。昭和22年5月浦賀引揚援護局の閉鎖で、この地の引揚業務も幕を閉じる。私たちは再び繰り返してはならない戦争により悲惨な引揚の体験を後世に伝え、犠牲となられた方々の鎮魂と恒久の平和を祈念し、市制百周年にあたりここに記念碑を建立する。

 

再び浦賀を歩く(2)

西叶神社
源氏再興の願いが成就した頼朝が、文治2年(1186年)に『叶大明神』と尊称したと伝えられる神社か。本当に縁起が良い神社なんだなあ。拝殿の彫刻装飾も社務所の鏝絵も出色のものだ。旧郷社の社格だというのに、この豪華さは何なのだろうか。
社務所入口の鏝絵
こちらは石川善吉の作品。『司馬温公の甕割り』を描いたものだそうだ。鏝で仕上げたとは思えぬほどの精細な作品なのに、本当に感心する。
西浦賀の西叶神社社務所玄関欄間壁には「司馬温公」の鏝絵があります。司馬温公は中国北宋の人。ある日、友人と遊んでいる時、友人が誤って瓶の中に落ちたのを、温公が直ちに石で瓶を壊したという故事を、二間にわたって表したものである。昭和5年(1930年)に社務所建立の際、石川善吉が制作したという。
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干鰯問屋(ほしか)と廻船問屋で栄えた浦賀には、土蔵造りが盛んであったことから漆喰壁を塗る左官職人も多く、中でも川間(西浦賀)に住む石川善吉は「三浦の善吉」として「伊豆の長八(入江長八)」とともに、全国的に知られる漆喰細工の名人でした。浦賀には善吉とその息子吉蔵(9代目)、梅尾(10代目)の作品が残っています。また、岩田辰之助、岩田徳太郎兄弟の作品も残っています。
鏝絵『司馬温公の甕割り』_1
鏝絵『司馬温公の甕割り』_2
鏝絵『司馬温公の甕割り』_3
拝殿と向拝の龍
向拝の龍などは、後藤利兵衛義光の代表作と言われる。この人も、幕末から明治にかけて活躍した名工だったようだ。見どころは『向拝の龍』だけではない。うっかり撮り漏らしてしまった。
拝殿と向拝の龍_1
拝殿と向拝の龍_2
拝殿と向拝の龍_3
遊廓の主人で僧侶に転身した江戸屋半五郎が寄進した水屋の石の漱盤
江戸屋半五郎は、この地で娼家を経営していたが、世の無常を知り、芸妓、娼婦を解放。深本と名乗って諸国の霊場をめぐった人物。晩年、浦賀に戻り文化六年(1809)四月、念仏を唱えつつ、この世を去ったそうだ。
江戸屋半五郎が寄進した水屋の石の漱盤

叶神社(西浦賀)は、誉田別尊と、比売大神、息長帯比売命(神功皇后)を祭神とする。
伊豆国で配流の身だった源頼朝と知遇を得た北面武士出身の僧・文覚が、源氏再興のために養和元年(1181年)石清水八幡宮を当地に勧請し創建、源氏再興成就した頼朝が文治2年(1186年)に叶大明神と尊称したと伝えられる。
現在の社殿は、天保8年(1837年)に焼失し、天保13年(1842年)に再建された。権現造で、彫刻装飾は安房国千倉の代表的な彫刻師であった後藤利兵衛義光の作。


東福寺
鏝絵
こちらの鏝絵は、西叶神社に飾られている鏝絵の作者石川善吉の弟子に当たる岩田辰之助の作品。こちらも見事な出来栄えだ。
本堂の外壁に鶴、龍、唐獅子、亀などのみごとな鏝絵8点があります。昭和7(1932)年に岩田辰之助(1893-1955年)が制作したものです。
一見すると彩色された木彫とみまごう出来ですが、これは漆喰細工です。辰之助37歳の時の傑作になります。
辰之助は、喜兵衛を父に代々左官を家業としてきた家系に生まれています。
喜兵衛は石川善吉(1855-1945年)と同時代に浦賀で活躍していました。また、兄に徳太郎(1893-1955年)がいて、辰之助は兄弟で東浦賀の法幢寺(ほうだいじ)に「唐獅子」の鏝絵を遺しています。
徳太郎、辰之助兄弟の鏝絵の師匠は石川善吉と言われます。

東福寺の鏝絵_1
東福寺の鏝絵_2
東福寺の鏝絵_3
東福寺の鏝絵_4
東福寺の鏝絵_5
東福寺の鏝絵_6
東福寺の鏝絵_7
八重咲きニホンズイセン
こういうのもあるんだ。いっぱい水仙を見てきたのに、今まで気づかなかった。同行したこの方に教えてもらった。そういえば、以前にmakiraさんのブログで拝見したような。
八重咲きニホンズイセン_1
八重咲きニホンズイセン2
八重咲きニホンズイセン3
こんな石像も
こんな石像も

このお寺は、徳川家康が江戸に入城した折に、三浦半島の代官となった長谷川七左衛門長綱によって改宗され、禅宗のお寺になりました。
江戸幕府から御朱印地二石をもらっており、浦賀奉行も就任すると必ず仏参しました。
本堂には江戸時代中期を代表する画家・酒井抱一が描いた大きな「亀」の絵馬があります。
本堂より一段低いところある観音堂の観音菩薩は「海難よけの観音様」として信仰されており、次のような伝説があります。
江戸時代の初期、西浦賀紺屋町にあった淡路屋治兵衛の回船が上方から荷物を積んで浦賀に向かっている時に、時化にあい、船が沈みそうなりました。船頭はじめ乗組員が日頃から信仰する観音様に助けを求めていると、不思議なことに船の舳先に観音様が現れ、それと同時に海は穏やかになりました。船頭や乗組員は、観音様が自分たちの命を救ってくれたとして、浦賀に入港すると東福寺に観音像を安置しました。

 

再び浦賀を歩く(1)

1月25日に『中島三郎助まつり』が開催された。この機会を逃すと日本初のドライドックを見逃してしまうとばかりに息せき切って駆けつけた。だが、期待していたイベント内容ではなく、仕方がないので予定を大幅に変更せざるを得なかった。運がよいことに、たまたまドライドックを撮りに来ていたハイエンド・アマチュアの方と一緒に、代替のコースを回ることにした。
今回はすべてEOS M2で撮影した。割りと健闘してくれた。
浦賀ドック跡
『中島三郎助まつり』
浦賀駅前で信号待ちをする『中島三郎助まつり』に向かう人達
『中島三郎助まつり』に向かう人達
構内に入る
構内に入る_1
構内に入る_2
思惑が外れたようだ。今回のイベントはすべてこの建屋内で行われた。
今回のイベントはすべてこの建屋内で行われた
歴史を感じさせる建屋と設備
歴史を感じさせる建屋と設備_1
歴史を感じさせる建屋と設備_2
歴史を感じさせる建屋と設備_3
歴史を感じさせる建屋と設備_4
歴史を感じさせる建屋と設備_5
歴史を感じさせる建屋と設備_6
何やら演し物が
何やら演し物が_1
何やら演し物が_2
浦賀はこんな感じ
浦賀はこんな感じ
なんとかドライドックが見えないものか藻掻いた
小高い丘から見えないかと粘ってみたがNGだった
小高い丘から見えないかと粘ってみたがNGだった_2
小高い丘から見えないかと粘ってみたがNGだった_3
小高い丘から見えないかと粘ってみたがNGだった_4
小高い丘から見えないかと粘ってみたがNGだった_5
小高い丘から見えないかと粘ってみたがNGだった_6
小高い丘から見えないかと粘ってみたがNGだった_7
道路の小高い箇所からもNG
巨大なクレーンが見える。何となく、ディズニーランドのようだ。割と好きな光景だが。
道路の小高い箇所からもNG_1
道路の小高い箇所からもNG_2
道路の小高い箇所からもNG_3
ついにやったパパラッチの真似
なんとかドライドックが見えたが、片手で撮るのは我がひ弱な筋力の限界だ。これ以上粘るとカメラを傷つけてしまいそう。
ついにやったパパラッチの真似_1
ついにやったパパラッチの真似_2
ついにやったパパラッチの真似_3

幕府の浦賀造船所
浦賀での造船の歴史は1853年(嘉永6年)のペリー来航までさかのぼる。この時江戸幕府は「大船建造の禁」を解いて浦賀造船所を設置、直ちに軍艦の建造を始め、7か月を掛けて国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」を建造した。これは浦賀奉行所与力の中島三郎助らに軍艦の建造を命じたことが始まりである。また1859年(安政6年)には日本初のドライドックが完成し、アメリカへ向かう咸臨丸の整備が行われている。しかし小栗忠順らにより、横須賀港に製鉄所を建設することを決定し(後の横須賀造船所、横須賀海軍工廠)、艦艇建造の中心は横須賀へ移り、浦賀造船所は1876年(明治9年)に閉鎖された。
浦賀船渠
1894年(明治27年)に中島三郎助の意志を継ぎ、荒井郁之助・榎本武揚・塚原周造が中心となり、1897年(明治30年)に浦賀船渠が設立され、かつての浦賀造船所と同じ場所に工場が建設された。同時期に同じ浦賀に建設された東京石川島造船所の浦賀分工場との間で、艦船建造・修理の受注合戦が繰り広げられたという。この競争はダンピング合戦を生み、両社の経営を悪化させた。ほどなくして石川島の浦賀分工場を浦賀船渠が買収、自社工場とすることで決着した。

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現在、浦賀船渠の第1号ドック(通称浦賀ドック)は世界に4か所にしか現存していないレンガ積みドライドックのうちのひとつである。国内でも明治期のものは浦賀ドックと川間ドック跡しかなく、両者とも貴重な文化遺産である。

 

久しぶりに盛り場を歩いた

実に久しぶりに渋谷から南青山辺りを歩いてみた。お店がどんどん変わってきている。あまりにも速い変化のテンポに愕然とする。現役時代のように、もう少し出歩かないと、『ここは何処』と途方に暮れそうな感じだった。
まずは渋谷駅前
御存知の通り、渋谷駅は大規模再開発の工事真っ最中で、これからどんどん変わっていくことだろう。その一時的な様子かもしれない。
黄色いクレーンが立つところがかつての東横線のホームで、その前の柵の辺りを渋谷川が流れている。もう流れそのものは見えないかもしれない。

渋谷駅前_1
銀座線を最終的にどういうふうに収めるのだろうか。あの辺りにホームができると便利なのだが。
渋谷駅前_2
渋谷駅前_3
渋谷駅近辺の様子
いつも同じ写真。工夫が足りなかったかなあ。
渋谷駅近辺の様子_1
渋谷駅近辺の様子_2
青学近辺の様子
子ども劇場、国連大学、青山学院大学などが並ぶ一等地。青学には今年の箱根駅伝の覇者だったことを示す誇らしげな横断幕が。
青学近辺の様子_1
青学近辺の様子_2
青学近辺の様子_3
青学近辺の様子_4
青学近辺の様子_5
青学近辺の様子_6
青学近辺の様子_7
表参道の辺り
この辺はPRにはうってつけの場所らしい。大きな看板がズラリ。谷内画伯の画も負けていない。
表参道の辺り_1
表参道の辺り_2
表参道の辺り_3
『傘の穴は一番星』という作品
表参道の辺り_4
表参道の辺り_5
表参道の辺り_6
おなじみの紀伊國屋ビル
よくぞ折れてしまわないものだと、見る度に思う。ちょっと意地の悪い撮り方だったかもしれない。
おなじみの紀伊國屋ビル_1
おなじみの紀伊國屋ビル_2
おなじみの紀伊國屋ビル_3
おなじみの紀伊國屋ビル_4
私の好きなビル
なぜか、このゴチャゴチャした感じが好きだ
私の好きなビル
今回のごちそう
新年会だった。またもやお金の心配をしながらの宴会だった。本音を言えば、会計はあまりやりたくない。
今回のごちそう_1
今回のごちそう_2
今回のごちそう_3
今回のごちそう_4
今回のごちそう_5
今回のごちそう_6
今回のごちそう_7
今回のごちそう_8
反省会の途中
さすが南青山はおしゃれな街だ。素敵な店が並ぶし、街行く人もおしゃれが決まっている。
反省会の途中_1
反省会の途中_2
さすがはNHKの施設。『マッサン』などのポスターが貼られていた。
さすがはNHKの施設

 

浅草寺~川治温泉~東武ワールドスクウェア(12)

だいぶ中断があったが、暫く振りに再開する。今回は東武ワールドスクウェアのヨーロッパ・ゾーンの建物の内のスペインの建物を取り上げる。

東武ワールドスクウェア(6)
ヨーロッパ・ゾーン(4)
カサ・ビセンス
バルセロナにあったのか。全く知らなかった。ガウディ作品らしいといえば、その通りの作品だと思う。
カサ・ビセンスはスペインのバルセロナにある、アントニ・ガウディが初期に手がけた重要な建築物の1つ。レンガやタイル工場の社長であったマヌエル・ビセンスとその家族の住居として建設された。マヌエル・ビセンスは1895年に死去、1899年にはアントニオ・ジョベル医師の手に渡った(この人物は2013年現在の所有者の祖父)。改修および増築を経て、1969年にスペインの歴史芸術モニュメントに認定された。2005年にはユネスコの世界遺産に登録された。
1883年から1885年または1889年にかけて建設され、バルセロナのグラシア地区に現存している。このガウディの初期作品の外観はムデハル様式の影響を受けている。

カサ・ビセンス_1
こちらが本物…FREE画像を借用
カサ・ビセンス_2
グエル公園
これぞガウディの才能の発露とでも言うべき公園だと思う。
グエル公園(カタルーニャ語:Parc Güell, 英語:Park Guell)は、スペインのバルセロナにある公園で、バルセロナの街が一望できる。1984年にユネスコの世界遺産に登録された。アントニ・ガウディの作品群の1つである。
施主のエウゼビ・グエイ伯爵(スペイン語読みではグエルとなる)とアントニ・ガウディの夢が作り上げた分譲住宅で、1900年から1914年の間に建造された。彼らが最も傾注していた芸術はリヒャルト・ワーグナーの「楽劇」で、ガウディは同じ芸術センスを持つグエル伯爵の下で、自然と調和を目指した総合芸術を作り上げようとした。この頃、バルセロナでは工業化が急速に進んでおり、それに対してガウディとグエルはこの場所に、人々が自然と芸術に囲まれて暮らせる、新しい住宅地を作ろうとした。しかし、ふたりの進みすぎた発想と自然の中で暮らす価値観は、当時理解されなかった。結局、広場、道路などのインフラが作られ60軒が計画されていたが、買い手がつかず、結局売れたのは2軒で、買い手はガウディ本人とグエイ伯爵だけであったという。グエイ伯爵の没後に工事は中断し、市の公園として寄付される。現在はガウディが一時住んだこともある家が、ガウディ記念館として公開されている。中にはガウディがデザインした家具なども集められて展示されている。
グエル公園の入口に建つ門衛の小屋と東屋をみてサルバドール・ダリは「砂糖をまぶしたタルト菓子のようだ」と評した。「ギリシア劇場」と名付けられているテラス、大階段に鎮座する人気のトカゲ、敷地中央にあるホール天井の円形モザイク装飾等、粉砕タイルを使用してのデザインはガウディの助手ジュゼップ・マリア・ジュジョールの貢献が大きい。

グエル公園_1
グエル公園_2
こちらが本物…FREE画像を借用
グエル公園_4
アルハンブラ宮殿
残念ながら行ったことがない。一度はイスラム勢力に支配権を奪われ、それをレコンキスタでカトリック勢力が奪い返した曰く因縁のある宮殿であり、城塞でもある。
アルハンブラ宮殿_1
アルハンブラ宮殿_2
アルハンブラ宮殿_3
こちらが本物…以下3点はFREE画像を借用
アルハンブラ宮殿_4
アルハンブラ宮殿_5
アルハンブラ宮殿_6
サンタ・エウラリア大聖堂
せっかくのカテドラルなのに、市内にサグラダ・ファミリアがあり、そちらばかりが注目される。信徒には静かな祈りの場があって、有難いことなのかもしれない。とは言うものの、由緒ある大聖堂なのだ。
サンタ・クレウ・イ・サンタ・エウラリア大聖堂 (La Catedral de la Santa Creu i Santa Eulàlia)は、スペイン、バルセロナにあるカトリック教会の教会建築。バルセロナ市民からは単にラ・セウ(La Seu)と呼ばれる。バルセロナ大司教座が置かれている。
かつてこの場所には原始キリスト教の教会があった。この建物は西ゴート王国時代にも使われた。教会最古の遺跡部分は現在バルセロナ市歴史博物館に保存されている。986年、アル=マンスールによるバルセロナ占領で教会は破壊された。1058年、ロマネスク様式に立て替えられた。現在の建物はバルセロナ伯ジャウマ2世(アラゴン王としてはハイメ2世)時代の1298年に建設が始まり、およそ150年後に完成したゴシック様式建築である。聖十字架及びバルセロナの守護聖人である聖エウラリア(伝承によると、ディオクレティアヌス帝時代のキリスト教徒大迫害で殉教)に献堂された。聖エウラリアの遺骸は当時のバルセロナ司教フロドイによって地下納骨堂に埋葬された。ファサードは1888年のバルセロナ万博にそなえ改装されたネオゴシック様式である。本堂と回廊は完全に同じ様式で統一されている。最長部で90フィート、横が40フィートある。本堂と5つの側廊の高さが等しく、交差廊は先端が短い。大聖堂内の回廊では、13歳で殉教した聖エウラリア(es)にちなみ、13羽の白いガンが飼われている。

サンタ・エウラリア大聖堂_1
サンタ・エウラリア大聖堂_2
こちらが本物…FREE画像を借用
サンタ・エウラリア大聖堂_4
サグラダ・ファミリア
いまから45年前に見た時は、まだまだ工事中という感じだったが、最近では工事が進んでいるようだ。ガウディという建築家の類まれなる才能を強く強く感じたものだった。これだけは、バルセロナに出かけて本物を見ることをお勧めしたい。サグラダ・ファミリアはバシリカとなったものの、カテドラルは、サンタ・エウラリア大聖堂のままなのだろう。
サグラダ・ファミリア(カタルーニャ語: Sagrada Família)は、日本語に訳すると聖家族贖罪教会(カタルーニャ語: Temple Expiatori de la Sagrada Família)という正式名称を持つ、スペインのバルセロナにあるカトリック教会のバシリカである。日本語では聖家族教会と呼ばれることも多い。
サグラダ・ファミリアは、カタロニア・モダニズム建築の最も良く知られた作品例であり、カタロニアの建築家アントニ・ガウディの未完作品である。バルセロナ市のシンボルであるこの建物は、綿密に構成された象徴詩的なシンボロジーと共に、パラボリックな(放物線状の)構造のアーチや、鐘楼に据えられた自然主義と抽象主義の混在する彫刻などで、大胆な建築様式を誇っている。2004年の統計によれば、サグラダ・ファミリアはアルハンブラ宮殿やマドリッドのプラド美術館を抜いてスペインで最も観光客を集めたモニュメントとなり、2008年には270万人を集めた。生前のガウディが実現できたのは地下聖堂と生誕のファサードなどであるが、これらは2005年にユネスコの世界遺産に登録された。 贖罪教会なので、作業の財政は喜捨に頼っている。そのために、別々の箇所を同時に建設することはできなかったのだが、1990年代以降は訪問者の流れと作品の世評の高まりが財政状況を好転させた。
2010年11月7日に教皇ベネディクト16世が訪れ、ミサを執り行い、聖堂に聖水を注いで聖別。サグラダ・ファミリアはバシリカとなった。ミサには司教達を含む6500人が参列し、800人の聖歌隊が参加した。

サグラダ・ファミリア_1
サグラダ・ファミリア_2
こちらが本物…FREE画像を借用
サグラダ・ファミリア_3

 

鷹取山を歩く(9)

最後は磨崖仏と追浜駅方面を目指す
まずは磨崖仏を目指す
こちらも山頂の絶壁同様に厳しいなあ
こちらも山頂の絶壁同様に厳しいなあ
ここでもロッククライミングの準備中
ここでもロッククライミングの準備中
また少しだけ上る
その後、暫くはアップダウンのある道が続く
暫くはアップダウンのある道が続く_1
暫くはアップダウンのある道が続く_2
暫くはアップダウンのある道が続く_3
暫くはアップダウンのある道が続く_4
ひょいと前方を見たら、比較的低い岩壁を登攀中の人が見えた
比較的低い岩壁を登攀中の人が見えた
磨崖仏
どんどん下った先にやっと見えてきた。『弥勒菩薩尊像』だそうだ。別に、『釈迦如来像』の磨崖仏もあったそうだが、こちらは小学校建設のために取り壊されたらしい。付近のやぐら内にあるという壁画は存在さえも知らず、当然見つけられなかった。道筋では無さそうだとのことだ。
磨崖仏_1
磨崖仏_2
磨崖仏_3
磨崖仏_4
磨崖仏_5
標高139mの鷹取山は、垂直に切り立った岩石が特徴で、「湘南妙義」の別名があります。
岩山には、巨大な弥勒菩薩尊像が彫られています。横須賀市在住の彫刻家、藤島茂氏が昭和35年から約1年かけて製作したもので、像高約8m、像幅約4.5mもあります。
別に、釈迦如来像の磨崖仏もありましたが、昭和40年に鷹取小学校建設のために破壊されています。
付近のやぐら内には、壁画も描かれています。

いよいよ下山
磨崖仏の左脇の小道から抜ける
磨崖仏の左脇の小道から抜ける_1
磨崖仏の左脇の小道から抜ける_2
磨崖仏の左脇の小道から抜ける_3
磨崖仏の左脇の小道から抜ける_4
至るところで練習する人がいるようだ
至るところで練習する人がいるようだ_1
至るところで練習する人がいるようだ_2
至るところで練習する人がいるようだ_3
至るところで練習する人がいるようだ_4
帰心矢の如し
どんどん下る
どんどん下る_1
どんどん下る_2
住宅街がはっきり見えてきた
住宅街がはっきり見えてきた
駅方面の表示
あくまでも方面へ至る道でしか無い。ここからは、追浜駅までは約40分程かかるのではないだろうか。
駅方面の表示_1
駅方面の表示_2
駅方面の表示_3
駅方面の表示_4
こんなところに横須賀市の水道設備があった
横須賀市の水道設備_1
横須賀市の水道設備_2
横須賀市の水道設備_3
横須賀市の水道設備_4
最後の最後に急階段を降りる
急階段を降りる_1
急階段を降りる_2
漸く平地に降りてきた
歩くと駅まで30分かかるとのこと。バスの時刻表を見ると、日曜日のこの時間は最悪。2時間ほど無い。しかたがないので京浜急行追浜駅まで歩くことにした。
漸く平地に降りてきた

以上で、『鷹取山を歩く』シリーズはおしまいです。最後までご覧頂きありがとうございました。

 

鷹取山を歩く(8)

いよいよ頂上へ
鎖場を上り切った
もうちょっとで一旦平坦な道にになる。そう思ったのだが、甘かった。
鎖場を上り切った_1
鎖場を上り切った_2
鎖場を上り切った_3
鎖場を上り切った_4
鎖場を上り切った_5
鎖場を上り切った_6
鎖場を上り切った_7
道が2つに分かれる
やや上の方の道では先ほどのパーティーが何やら装備中。ヘルメットなどの安全装備を緊張の面持ちで着けていた。そうか、道理で歩き慣れているはずだ。
先ほどのパーティーが何やら装備中
私はロッククライミング等する気はないので、一旦下って上る道を進む
一旦下って上る道を進む_1
一旦下って上る道を進む_2
一旦下って上る道を進む_3
おおーっ、頂上だ
見えてきたぞ。すごい圧倒的な断面だ。
すごい圧倒的な断面だ_1
すごい圧倒的な断面だ_2
と思って足元を見たら、このご婦人がいた。ベテランのご様子。泰然自若としている。そして、今まで見えなかった東京湾側の景色が一望できるではないか。
と思って足元を見たら
少し前に出ると、もっとはっきり見える。右側が横須賀市で左側が横浜市だ。
少し前に出ると
本当の頂上展望台
本当の頂上展望台_1
本当の頂上展望台_2
この右手に階段があって、そこから上ることができるようだ。体力的にはなんということはなかったが、我がキチン・ハートがゴー・サインを出そうとしなかった。正直に言えば、怖くて行く気がしなかった。
本当の頂上展望台_3
本当の頂上展望台_4
ちなみに頂上展望台からはこんなふうに見えるようだ。長浦港辺りで、海上自衛隊の艦船が多く停泊している。FREE画像を借用
頂上展望台の眺望
こちらも頂上からの展望だと思う。但し、1970年代のもので、石仏などが見える。FREE画像を借用
1970年台の眺望
付近の様子
付近の様子_1
付近の様子_2
付近の様子_3
付近の様子_4
付近の様子_5
付近の様子_6
付近の様子_7
付近の様子_8
付近の様子_9
付近の様子_10
付近の様子_11
付近の様子_12

 

鷹取山を歩く(7)

いよいよ鎖場だ
先に行ったパーティーが屯していた理由はすぐにわかった。鎖場を前にして、リーダーから各自が注意を受けていたのだった。『…なお、鎖は1つのスパンを2人以上でつかむことは避けるように。…』というような訓示があった。皆が半ばまで上るまで、時間潰しをする。
これから彼らが上るんだ
神妙な面持ちでリーダーの注意に耳を傾けている。それにしても、皆足が長いなあ。
神妙な面持ちでリーダーの注意に耳を傾けている
待っている間に反対側を見下ろしてみる。あちらは田浦の辺りかなあ。
待っている間に反対側を見下ろしてみる
後方の景色を楽しんでいる内に静かになったと思ったら、かなり先まで上っていた。結構、女性メンバーが多い感じ。逞しいものだ。
気づいた時は、かなり先まで上っていた_1
気づいた時は、かなり先まで上っていた_2
自分が上るときの参考にすべく見ていた
此処は足元がステップ状になっていたので、まだ足を踏み出しやすそう
此処は足元がステップ状になっていたので、まだ足を踏み出しやすそう_1
此処は足元がステップ状になっていたので、まだ足を踏み出しやすそう_2
最後の人も上りだすぞ。もう少し間を空けて上がろう。あの階段の上までは大丈夫だ。
もう少し間を空けて上がろう_1
もう少し間を空けて上がろう_2
もう少し間を空けて上がろう_3
私も上り始める
階段があるところまでは、まだマシだった。そこから先が怖かった。もともと半分以上まで行ってから上がり始めたのだが、腰が引けている私が逡巡している間に、見えないほど先に行ってしまった。みんな速いなあ。
私も上り始める_1
私も上り始める_2
私も上り始める_3
私も上り始める_4
ミニ単独行になってしまった
あーあ、ここを一人で上るのか。あのパーティーのすぐ後ろをついていけばよかった。足をどこに置くべきか迷うばかりで、写真を撮る余裕など全くなかった。非常に怖かったけど、何とか上ることができた。次回はウォーキングシューズではなく、トレッキングシューズを着用しよう。
ミニ単独行になってしまった_1
ミニ単独行になってしまった_2
ミニ単独行になってしまった_3
振り返るとこんな感じ。大したこと無いじゃないかと笑われそうだが、必死に鎖にしがみついて上った。
ミニ単独行になってしまった_4

 

鷹取山を歩く(6)

尾根と思しきところを歩く(2)
その後も歩きにくい道が続く。此処は踏ん張りどころだと思って頑張った。
歩きにくい道
歩きにくい道_1
歩きにくい道_2
歩きにくい道_3
まれに歩きやすいところも
まれに歩きやすいところも_1
まれに歩きやすいところも_2
でも、また歩きにくい道に
その繰り返しかなあ
でも、また歩きにくい道に_1
でも、また歩きにくい道に_2
でも、また歩きにくい道に_3
でも、また歩きにくい道に_4
でも、また歩きにくい道に_5
でも、また歩きにくい道に_7
でも、また歩きにくい道に_8
鎖場がこのくらいだと楽なのだが、そんなはずはないと思う。第一、此処は下りだ。
鎖場がこのくらいだと楽なのだが
やはりごつい岩石が行く手に
少し身を捩ってくぐり抜けた。ふうーっ。
少し身を捩ってくぐり抜けた_1
少し身を捩ってくぐり抜けた_2
少し身を捩ってくぐり抜けた_3
少し身を捩ってくぐり抜けた_4
少し身を捩ってくぐり抜けた_5
写真を撮っていたら後続のパーティーが
ゆっくり、写真を撮りたかったので、先に通ってもらった
写真を撮っていたら後続のパーティーが_1
写真を撮っていたら後続のパーティーが_2
依然として細い道
立ちくらみなど起こす体質ではないが、しっかり気を張って
依然として細い道_1
依然として細い道_2
依然として細い道_3
依然として細い道_4
先ほど道を譲ったパーティーに追いついた
写真を撮りながらなのに、何で追いついたんだろうと思った
先ほど道を譲ったパーティーに追いついた_1
先ほど道を譲ったパーティーに追いついた_2
先ほど道を譲ったパーティーに追いついた_3
先ほど道を譲ったパーティーに追いついた_4
追いついた理由はこれだった
追いついた理由はこれだった_1
追いついた理由はこれだった_2
振り返ってみると、案外厄介なルートだった
振り返ってみると、案外厄介なルートだった
またもや追いつく
またまた写真を撮りながらなのに追いついた。いよいよ差し掛かったようだ。
またもや追いつく

 

鷹取山を歩く(5)

尾根と思しきところを歩く(1)
ちょっとハードな道が続く。後で思い返せば、此処から暫くが頑張りどころだった。

また土の道になった
それでも結構急だぞ
また土の道になった_1
また土の道になった_2
また土の道になった_3
また土の道になった_4
また土の道になった_5
また土の道になった_6
何となく展望が開けていそう
しかし、すごいごつい石だなあ。期待していたこの場所からの横須賀方面の眺望はそれほどでもなかった。
何となく展望が開けていそう_1
何となく展望が開けていそう_2
何となく展望が開けていそう_3
何となく展望が開けていそう_4
何となく展望が開けていそう_5
何となく展望が開けていそう_6
横横道路が右下にかすかに見える
横横道路がかすかに見える
こういうのを見ると、気が引き締まる。地中に根を張った大きな樹木でさえも倒れてしまう。結構厳しい傾斜のようだ。
こういうのを見ると、気が引き締まる
岩石の割合が高くなってきた
何せ短足の身なのだ。足を踏ん張らなくちゃいけないところが続くと大変になってくる。
岩石の割合が高くなってきた_1
岩石の割合が高くなってきた_2
少し見通しが効くようになった
かなり尾根が細くなっているようだ。転落には要注意かも。
少し見通しが効くようになった_1
少し見通しが効くようになった_2
いきなりこの展望が
池子の原生林と米軍電波塔。そして、名越切通しと火葬場の煙突。その先には霊峰富士が。大切岸の洋館は相当に大きいんだ。
いきなりこの展望が
足元はこんなふう
足元はこんなふう

 

鷹取山を歩く(4)

神武寺を後にする
これからいよいよ上り坂にかかってきたと感じる道が続いた。ごつい石がちょっと恐怖感を増幅させる。何も考えずに、黙々と上り続ける。
六十六部供養塔
六十六部廻国供養塔は、本当に日本全国いたるところにあるようだが、ここ神武寺の境内にもあった。六十六行者の始まりを考えれば、お膝元のこの場所にあっても不思議ではないと思われる。忍びの者の先駆けなのかなあ。
六十六部廻国供養塔とは、六十六部行者と呼ばれる諸国を遍歴する行者に結縁して建立された供養塔のことをいう。
六十六部廻国巡礼とは、法華経を書写して全国の六十六カ国の霊場に1部ずつ納経して満願結縁する巡礼行をさし、この巡礼に従事する行者を六十六部行者、六部行者、廻国聖などと呼んだ。中世後期、鎌倉時代末から室町時代にかけて、諸国を巡礼した六十六行者により、経巻を入れた金銅製の経筒が経蔵に奉納されたり、あるいは土中に埋納された事例が、文献上、あるいは考古学的な発掘調査により、実際に確認されている。このような六十六行者の淵源は、法華経を持して諸国を遍歴した源頼朝の前身である頼朝坊、北条時政の前身である箱根法師などに求められると伝承され、行者は彼らの末裔に連なるという。

六十六部供養塔
また上り坂だ
この辺りは階段道が続く。非常に楽ちんだ。途中からはただの石畳の道になるが。
また上り坂だ_1
また上り坂だ_2
また上り坂だ_3
また上り坂だ_4
また上り坂だ_5
また上り坂だ_6
また上り坂だ_7
また上り坂だ_8
また上り坂だ_9
また上り坂だ_10
また上り坂だ_11
また上り坂だ_12
また上り坂だ_13
また上り坂だ_14
平べったい石碑のようなものが光っているようだ。お化けが出るような場所ではない。
また上り坂だ_15
漸く、石の道でなく土の道になった
振り返ってみれば、この辺が一番ゆるやかな傾斜だったようだ。土の道なのに、少し大きめの石がゴロゴロしている感じになってきたなあ。
漸く、石の道でなく土の道になった_1
漸く、石の道でなく土の道になった_2
漸く、石の道でなく土の道になった_3
漸く、石の道でなく土の道になった_4
直前までのショットの通り、見た目は平坦な道。尾根を歩いているようだが、両脇はかなりの傾斜地だ。落ちたら大怪我をしそうだ。
見た目は平坦な道_1
木々の切れ間から遠くの街が見えるようになってきた
見た目は平坦な道_2
これで厳しいところは終わりなのかと思っていたのだが
考えてみれば、鎖場などはまだ登場していない。もうちょっと厳しいところが待っているに違いない。舐めてかからないよう気を引き締めた。それにしても、でかい石だなあ。どうして落下しないのか不思議なほどだ。
これで厳しいところは終わりなのかと思っていたのだが_1
これで厳しいところは終わりなのかと思っていたのだが_2
これで厳しいところは終わりなのかと思っていたのだが_3
まだまだ岩場が続いていた
まだまだ岩場が続いていた_1
まだまだ岩場が続いていた_2
まだまだ岩場が続いていた_3

 

甥の結婚式

2ヶ月ほど前に甥の結婚式があったばかりだが、今回は、その甥の兄の結婚式があった。

教会は同じカトリック碑文谷教会で
結婚式はこんなふう。幸せいっぱいの様子だ。教会の分は富士のx-20で撮影。
結婚式はこんなふう_1
結婚式はこんなふう_2
結婚式はこんなふう_3
結婚式はこんなふう_4
結婚式はこんなふう_5
結婚式はこんなふう_6
結婚式はこんなふう_7
結婚式はこんなふう_8
結婚式はこんなふう_9
結婚式はこんなふう_10
ついでに教会の様子はこんなふう
教会の様子はこんなふう_1
教会の様子はこんなふう_2
挙式は代官山のASOにて
若い人に人気のお店。此処が結婚式の披露宴をも受け付けているとは知らなかった。ここからは、電池切れで、急遽、姉のコンデジで撮影。画質がかなり違うものだと思った。
代官山のASOにて_1
代官山のASOにて_2
代官山のASOにて_3
代官山のASOにて_4
歌手のLOCO(ロコ)さんが、NHKお~いにっぽん島根県のうた「だんだん」を熱唱。新婦の地元松江で活躍中のようだ。
代官山のASOにて_5
代官山のASOにて_6
代官山のASOにて_7
負けじと石垣島のパフォーマー『たいらファミリー』が熱唱。物凄くパワフルだった。彼らのところで、2人が出会ったのだそうだ。
代官山のASOにて_8
代官山のASOにて_9
代官山のASOにて_10
代官山のASOにて_11
代官山のASOにて_12
代官山のASOにて_13
代官山のASOにて_14
代官山のASOにて_15
本来ならば私の弟が努めなければならないところだが、昨春死去した。ということで、新婦のお父様がその役を行ってくれた。末っ子の一人娘を遠隔の地に嫁に出すのは、ほんとうに寂しいことだろうと思う。
代官山のASOにて_16

 

鷹取山を歩く(3)

神武寺
鎌倉の杉本寺の寺伝によれば、杉本寺は天平6年(734年)行基が十一面観音を安置して創建したのに始まるという。これに対し、神武寺の縁起によれば、神武寺は神亀元年(724年)、聖武天皇の命で行基が創建し、平安時代、円仁が再興したという。10年ほど杉本寺より古いのだ。1590年(天正15年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に諸堂が焼失するが、1598年(慶長3年)に薬師堂が再建された。その後、他の堂宇も再建され現在に至っているそうだ。小田原攻めって、こちらまで影響があったのか。うーーん。
仏像などはともかくとして、建物だけでも、国宝もしくは国指定の重要文化財にしてもよさそうに思うが、そういう扱いになっていないのはどうしてなのだろうか。
アクセスが大変だからだろうか、参拝客は少ない。


客殿宝珠殿および庫裏
客殿宝珠殿は阿弥陀三尊を祀る本堂。庫裏をも含めて、一般客は立入禁止扱い。庫裏の屋根の上でちょろちょろ動くものが見えたので、目を凝らして見たら、リスだった。おそらくタイワンリスなのだろう。本堂の柱などをかじらなくても、周囲にドングリなどがたくさんあるので、被害は少ないのかもしれない。
客殿への通路は狭い切通しの岩壁で、一面にイワタバコの群落があるのか。イワタバコは逗子市の天然記念物に指定されているのだそうだ。
私にはどれがイワタバコなのかよくわからなかった。
客殿宝珠殿_1
客殿宝珠殿_2
客殿宝珠殿は障害物が多くてよく見えなかった。残念だ。
客殿宝珠殿_3
総門
装飾など殆どない、至ってシンプルなもの。柱などはかなり傷んでいる感じだ。この格好で300年近くもよく持ち堪えたものだ。
総門は、もとは東逗子駅付近の踏切を渡った所にあった。第二次世界大戦中に表参道の登り口に移された後、昭和50年に現在地に移されている。1733年(享保18年)の建築物といわれている。

総門_1
総門_2
御浦札第一番の石碑
おそらく三浦札所めぐりの第1番札所ということなのだろう。今に残る札所めぐりでは無さそうだが、はて?
御浦札第一番の石碑
鐘楼
1859年(安政6年)に建てられた。もともと、薬師堂の前に鐘楼門があったが、楼門を建てるため、弘明寺へ移築されたと伝えられている。梵鐘は第二次世界大戦で供出され、現在吊されているのは昭和25年に鋳られたもの。「神武寺の晩鐘」は「逗子八景」の一つに数えられている。
鐘楼_1
鐘楼_2
鐘楼_3
鐘楼_4
六地蔵
鐘楼から楼門に至る上り道の曲がるところにある。やっぱりあるところにはあるものなんだ。
六地蔵_1
六地蔵_2
楼門
1761年(宝暦11年)建立
楼門_1
楼門_2
楼門_3
薬師堂
薬師堂は、慶長3年(1598年)造立上葺棟札のある建造物で、神奈川県の重要文化財。本尊は薬師三尊(逗子市重要文化財)。秘仏とされ33年に一度開帳されている(毎年12月13日の煤(すす)払いの日の午前中にも開扉が行われる)。薬師三尊の他、十二神将像、行基菩薩像を安置。
薬師堂_1
薬師堂_2
薬師堂_3
『女人禁制』の石柱があったのか。気が付かなかった。
薬師堂_4
薬師堂_5
薬師堂横の地蔵堂
薬師堂横の地蔵堂_1
薬師堂横の地蔵堂_2
境内に聳える「なんじゃもんじゃ」の木
かながわ名木100選に選ばれている。ホルトの巨木は樹齢400年だそうで、「なんじゃもんじゃの木」とも呼ばれている。そうだったのか。
「なんじゃもんじゃ」の木_1
「なんじゃもんじゃ」の木_2
「なんじゃもんじゃ」の木_3

神武寺は神奈川県逗子市にある天台宗の寺院である。逗子八景の1つ。山号は医王山。詳しくは医王山来迎院神武寺(いおうざん らいごういん じんむじ)という。
周囲は鷹取山と同様、第三期の凝灰岩の岩場に囲まれ、森林の中にあるため気温が低く、従って相対湿度が高いため、シダ類や昆虫が多い。
縁起によれば神亀元年(724年)、聖武天皇の命で行基が創建し、平安時代、円仁が再興したというが、定かでない。
『吾妻鏡』承元3年(1209年)5月15日条には、源実朝がこの日「神嵩と岩殿観音堂」に参詣したことが見える。このうち「神嵩」は神武寺、「岩殿観音堂」は岩殿寺を指す。
薬師堂
本尊の薬師三尊像は秘仏で、正式の開帳は33年に一度とされているが、毎年12月13日の煤払いの日の午前中にも開扉が行われる。

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『相模国三浦郡神武縁起』によると、神武寺(じんむじ)は、724年(神亀元年)、聖武天皇の命によって、行基が十一面観音・釈迦如来・薬師如来を彫刻し祀ったことがはじまりだといわれている。
その後、857年(天安元年)、慈覚によって中興され天台宗に改宗された。
『吾妻鏡』の記録によると、源頼朝も崇敬し、北条政子の安産祈願に神馬が奉納している。
また、三代将軍源実朝は、1209年(承元3年)、神武寺と岩殿寺を参詣した。
1590年(天正15年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に諸堂が焼失するが、1598年(慶長3年)に薬師堂が再建された。
その後、他の堂宇も再建され現在に至っている。
神武寺は鷹取山とともに「かながわの景勝50選」。
~御産加持の命~
『吾妻鏡』によれば、源頼朝は、1192年(建久3年)8月9日、北条政子が産気づいたことから、鶴岡八幡宮と相模国の神社仏寺27ヶ所に神馬を奉り経をあげさせた。無事に産まれたのがのちの三代将軍実朝。27ヶ所の中に神武寺も含まれ、他に大山寺、霊山寺(日向薬師)などの名が見られる(参考:政子安産の祈願所)。

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1209年(承元3年)
5月15日 丁未
  神嶽並びに岩殿の観音堂に御参り。御還向の間、女房駿河の局の比企谷の家に渡御す。
  山水納涼の地なりと。
1590年(天正15年)
8月9日 己酉 天晴、風静まる
  早旦以後に御台所御産の気あり。御加持は宮の法眼、験者は義慶房・大学房等。鶴岡、
  相模の国の神社・仏寺に神馬を奉り、誦経を修せらる。所謂、
    福田寺(酒匂)    平等寺(豊田)    範隆寺(平塚)
    宗元寺(三浦)    常蘇寺(城所)    王福寺(坂下)
    新楽寺(小磯)    高麗寺(大磯)    国分寺(一宮下)
    弥勒寺(波多野)   五大寺(八幡、大會の御堂と号す) 寺務寺
    観音寺(金目)    大山寺        霊山寺(日向)
    大箱根        惣社(柳田)     一の宮(佐河大明神)
    二の宮(河匂大明神) 三の宮(冠大明神)  四の宮(前祖大明神)
    八幡宮        天満宮        五頭宮
    黒部宮(平塚)    賀茂(柳下)     新日吉(柳田)
  先ず鶴岡に神馬二疋(上下)、千葉の平次兵衛の尉・三浦の太郎等これを相具す。そ
  の外の寺社は在所の地頭これを請け取る。景季・義村等奉行たり。巳の刻に男子御産
  なり。鳴弦は平山右衛門の尉季重・上野の九郎光範なり。和田左衛門の尉義盛引目役
  に候ず。小時、江間の四郎殿・三浦の介義澄・佐原の十郎左衛門の尉義連・野三刑部
  の丞成綱・籐九郎盛長・下妻の四郎弘幹(悪権の守と号す)、以上六人御護り刀を献
  ず。また因幡の前司・小山左衛門の尉・千葉の介以下の御家人、御馬・御劔等を献ず。
  御加持・験者等これを給わる。八田兵衛の尉朝重・野三左衛門の尉義成・左近将監能
  直御馬を引く。加賀の守俊隆別禄(衣)を取る。次いで阿野上総の妻室(阿波の局)
  御乳付けとして参上す。女房大貳の局・上野の局・下総の局等御介錯たるべきなり。
  次いで御名字定め有り。千萬君と。

 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
JR東逗子駅の踏切を渡ってまっすぐに行くと、右手に「天台宗神武寺」と刻まれた鷹取石でできた石柱が建っています。ここが表参道の入口です。
神武寺までの登り坂は、杉や桧の植林や雑木林に囲まれた道で、逗子層と呼ばれる泥岩が岩肌を現わし、石畳のように凸凹しています。やがて山門ですが、直前で池子参道(京急神武寺駅から逗子中学校裏、逗子ホームせせらぎ横を登ってくる道)が左手より渓谷を登り詰めて合流してきます。
神武寺は神亀元年(724年)に建てられた国分寺の一つで、僧行基の開創と伝えられる天台宗の古刹です。客殿への通路は狭い切通しの岩壁で、一面にイワタバコの群落があります。イワタバコは逗子市の天然記念物に指定されており、初夏には可憐な花を見せてくれます。
岩壁の上に建つ鐘楼は、四方の柱に精緻な龍の彫刻が施された華やかな建物です。さらに上段に本堂(薬師寺)があります。境内の周辺の木々は大樹が多く、本堂前にあるホルトの巨木は樹齢400年「なんじゃもんじゃの木」とも呼ばれています。本堂左手から頂上を目指す急勾配の斜面に「従是右奥之院女人禁制」の石碑があります。明治の始めまでは女人禁制でした。今では自由に歩けますが、山伏、修験者の荒修業の道場だった往時が偲ばれる碑です。
登り詰め、いくつも並ぶ大盤石をぬって岩上の展望台に立つと、伊豆、三浦、房総半島が眺望できます。この先は巨石の間を抜けていくとやがて一体の岩山となり、垂直の岩壁(戦前まで利用された石切場の跡)の鷹取山が現れます。

 

鷹取山を歩く(2) 2015.01.16 07:15追記

引き続き、表参道を歩き神武寺を目指す
まだまだ先に行ってからだが、途中では富士山の雄姿が見えた
当分はこういうひらけた展望は無理だ。一歩一歩上っていくしかない。多分、白い煙突は名越切通しのところにあった火葬場の煙突だと思う。ポコっと見える家は、大切岸の洋館かなあ。
途中で見えた富士山
ここから路面が自然石の道に変わる
鷹取山は関東大震災が発生するまでは採石場になっていた山だった。石がゴツゴツしているのは当然かもしれない。
ここから路面が自然石の道に変わる_1
ここから路面が自然石の道に変わる_2
ここから路面が自然石の道に変わる_3
ここから路面が自然石の道に変わる_4
大分ゴツゴツが目立つように
大分ゴツゴツが目立つように_1
大分ゴツゴツが目立つように_2
まだ、『表参道』の一部なので、それなりに道が整備されている
それなりに道が整備されている_1
それなりに道が整備されている_2
少し険しくなってきたぞ
少し険しくなってきたぞ_1
少し険しくなってきたぞ_2
少し険しくなってきたぞ_3
少し険しくなってきたぞ_4
少し険しくなってきたぞ_5
少し険しくなってきたぞ_6
少し険しくなってきたぞ_7
少し険しくなってきたぞ_8
少し険しくなってきたぞ_9
少し険しくなってきたぞ_10
少し険しくなってきたぞ_11
少し険しくなってきたぞ_12
少し険しくなってきたぞ_13
少し険しくなってきたぞ_14
表参道の終点
表参道の終わりに公衆トイレが見えてきた
公衆トイレが見えてきた
漸く神武寺に到着だ。やれやれ。ウォーミングアップにはちょうどよかったかなあ。
漸く神武寺に到着だ
京急神武寺駅方面への道
裏参道なのだそうだ
京急神武寺駅方面への道_1
京急神武寺駅方面への道_2

 

鷹取山を歩く(1)

名越切通しを歩いたら、ついでだから同じような山道を歩いてみたくなった。思い浮かんだのが、鷹取山。
大した高い山ではないのだが、結構見どころの多い山で、山頂付近では今もロック・クライミングの練習をする人達の姿が見られる。
今井通子さんもその昔は此処で練習をしたのだそうだ。

見どころ_1
見どころ_2
今回は、東逗子駅から神武寺を経由して、ハイキングコースを歩き、途中の展望のきくところから富士山の雄姿を仰ぎ見る。更にゴツゴツとした大石が多い中を進み、恐怖心に駆られる鎖場をも通り、ついには山頂に。そして向かう先は、当然下り道。但し上り降りがあるのだが。コースの終わり近くで磨崖仏を見て、追浜駅に至るコース。これに挑戦してみた。

鷹取山(たかとりやま)は、神奈川県横須賀市北部の逗子市との境にある海抜139メートルの山。三浦丘陵の山の一つ。
 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
明治から昭和の初期にかけて石材を採取したため生じた垂直に切り立った岩石が特徴の鷹取山は、その姿を群馬県の妙義山にたとえ、「湘南妙義」の別名があります。この奇観の中で、巨大な弥勒菩薩尊像の姿も目を引きます。この弥勒菩薩尊像は、逗子市在住の川口満氏に依頼により、横須賀市在住の彫刻家藤島茂氏が昭和40年頃に製作したものです。山頂からの眺めも抜群で、休日にはハイキングを楽しむ人でにぎわいます。
鷹取山公園での岩登りは禁止です。但し鷹取山安全登山協議会指導員の指導に従い、決められた事項を遵守して行う場合はこの限りではありません。岩登りをする場合は鷹取山安全登山協議会への登録が必要です。


ヴェルニー公園にて
当日の出発地は横須賀。横須賀駅から横須賀線で東逗子駅まで行くことにした。その途中の、ヴェルニー公園から見た様子。今のところ、何もいざこざが起きていないようで、日米の艦船が停泊していた。
駆逐艦『ラッセン』
こちらは米海軍の第7艦隊に所属する駆逐艦。大したことは無さそうに思われるかもしれないが、泣く子も黙る超強力なイージス艦だ。
駆逐艦『ラッセン』_1
駆逐艦『ラッセン』_2
駆逐艦『ラッセン』_3
護衛艦『ひゅうが』
海上自衛隊のひゅうが型護衛艦の1番艦。流石に空母のG.ワシントンには敵わないものの、周囲を圧するような巨大な護衛艦だ。
護衛艦『ひゅうが』_1
護衛艦『ひゅうが』_2
護衛艦『ひゅうが』_3

東逗子駅から歩き始める
まず、横須賀線の踏切を渡る
まず、横須賀線の踏切を渡る
踏切を渡ったところにある地図を見る
『沼間2丁目』の表示の辺りにある表参道を通って、まずは神武寺を目指すんだな。原宿の表参道じゃないのは勿論のことだ。
踏切を渡ったところにある地図を見る
少しだけ坂道を上る
少しだけ坂道を上る
此処が入り口
天台宗の古刹『神武寺』への表参道であり、鷹取山の登山口でもある。
此処が入り口
暫くは、整備された歩きやすい道が続く
この時は、今回は楽勝だなと思った。でも、とんでもない思い違いだと後ほど思い知らされることになるのだが。
暫くは、整備された歩きやすい道が続く_1
暫くは、整備された歩きやすい道が続く_2
暫くは、整備された歩きやすい道が続く_3
暫くは、整備された歩きやすい道が続く_4
暫くは、整備された歩きやすい道が続く_5
暫くは、整備された歩きやすい道が続く_6
暫くは、整備された歩きやすい道が続く_7
暫くは、整備された歩きやすい道が続く_8

 

名越切通しを歩く(7)

法性寺
境内の様子
奥の院の更に山の上にある仏教施設
真下の奥の院まで行ったが、これは怖そうなので、確かめずにパス。後で調べたら、『山王権現祠』のようだ。怖いはずだ、周辺一帯を岩石採掘のために削ってしまったのだから。塔みたいに岩が残っているだけなのだ。
日蓮避難の法窟がある岩山頂上にある法性寺鎮守。法窟手前、日朗廟所正面に鳥居と参道石段があり、頂上に小祠と、左右に題目石碑、五重塔が置かれている。比叡山麓の日吉大社を本社とし、山王信仰に基づき日本全国に祀られた末社のひとつ。伝承によれば法性寺建立前よりこの地に山王社が祀られており、日蓮も名越路を通り鎌倉に入る際には必ずその社を拝んだとされる。古来、山王神の神使は猿とされている。この岩山はもともと尾根筋と連続していたものが、間が人工的に掘り下げられた結果、取り残されたものと考えられる。岩山の尾根側の崖面下にもやぐらが掘られている。
奥の院の更に山の上に_1
奥の院の更に山の上に_2
奥の院の更に山の上に_3
大切岸の下になるところ
墓地から見た。此処も石切り場だったのだろう。
大切岸の下になるところ
奥の院
祖師堂
境内山上にある。現祖師堂は大正13年1923年建立。法華経勧持品第十三を読経する日蓮の等身大坐像が安置されている。
祖師堂_1
祖師堂_2
日朗菩薩御廟所
祖師堂前、向かって右手にある四面堂で、堂内に石塔を納める。
日朗菩薩御廟所
御避難の法窟
祖師堂向かって左側の岩山に、祖師堂に面して開いた石窟(やぐら)があり、これが、松葉ヶ谷法難の際に日蓮が避難した場所であると伝えられている。法窟内には、題目が刻まれた石塔(五輪塔)が安置されている。この五輪塔には、観応3年(1352年)の日朗三十三回忌に、九老僧の一人、日輪が諷誦文を手向けたと伝えられる。なお、山を越えた松葉ヶ谷の安国論寺境内にも、同法難時に避難したとする「南面窟」と呼ばれる小洞窟がある。
御避難の法窟
境内の様子の続き
本堂に下る急坂
本堂に下る急坂
もしくはこちらの少しゆるやかな坂
曲がって長さが長い分、若干勾配は緩やかだった。山号にちなんだ白猿の石像もあった。
少しゆるやかな坂_1
少しゆるやかな坂_2
少しゆるやかな坂_3
本堂
扁額には『日朗菩薩墳墓霊場』と書かれてあるようだ。
本堂
本堂前
逗子の街
逗子の街
水仙も
水仙も
山門
横須賀線が名越のトンネルに入る直前に車窓から右手に見える山門だ。一度よく見ておきたいものだと思っていたが、念願がかなった。
山門
日蓮が鎌倉の松葉ヶ谷で焼き討ちに遭った際(松葉ヶ谷法難)、3匹の白猿が日蓮を助けこの寺にある岩窟に案内したという。
日蓮は弟子の日朗に寺を建てるようにいったが、日朗はその前に亡くなってしまったという。
奥の院前のお堂には、日朗の墓がある。


横須賀線のトンネル
ちょっとつらい思いをして通ってきた名越切通し。今はその真下を横須賀線のトンネルが走る。並行するように名越トンネル群の小坪隧道が走る。おばけがでるという話が昔から有るようだ。
「トンネルの真上に火葬場があってね、それでときどき車の脇を、おばあさんの生首が飛ぶんだって」(浅田次郎『夕暮れ隧道』より抜粋)
横須賀線のトンネル
こちらは道路の小坪隧道…Free画像を借用
小坪隧道

ここを線路伝いに歩けば、まもなく逗子駅に到着する。
以上で、『名越切通しを歩く』シリーズはおしまいです。最後までご覧頂き、ありがとうございました。

 

名越切通しを歩く(6)

大切岸(おおきりぎし)
こんな感じだが、カメラワークが良くなかったのか迫力が出なかった。残念。
大切岸_1
大切岸_2
大切岸_3
大切岸_4
大切岸_5
大切岸の前面広場には
春を思わせる花が咲いていた。此処は暖かい逗子なのだ。
大切岸の前面広場には_1
大切岸の前面広場には_2
その先は、無常にも通行禁止
工事関係者がいるのに無視して進入する訳にはいかない。衣張山を経て釈迦堂口切通しへ歩いて行く遠大な計画はご破算となってしまった。途中に工事中の予告表示などがなかったから、がけ崩れなどの緊急の工事だったのかもしれない。
無常にも通行禁止_1
無常にも通行禁止_2
仕方なく引き返す
仕方なく引き返す
断崖絶壁が
ほぼ垂直に切り取られているのが、お分かりいただけるだろうか。うーーん、怖い。更に奥にある瀟洒な洋館は、どうやって建てたのだろうか。決して小さくはない家屋だ。それより何より、あそこに行くには急峻な崖を徒歩で行くしか無いと思われる。何故あそこに建てたのだろうか。
断崖絶壁が_1
断崖絶壁が_2
大切岸の評価をめぐって(逗子市教育委員会HP)
大切岸は、長さ800m以上にわたって高さ3〜10mにもなる切り立った崖が尾根に沿って連続する遺構で、従来から、鎌倉幕府が三浦一族からの攻撃に備えるために、切通の整備と一体のものとして築いた、鎌倉時代前期の防衛遺構だと言われてきました。
しかし、平成14年度に発掘調査したところ、大切岸は、板状の石を切り出す作業(=石切り)の結果、最終的に城壁のような形で掘り残されたもの、つまり石切り場の跡だということが確認されました。
石切りが行われた時期ははっきりわかりませんが、堆積している土砂の上層に、江戸時代、宝永4年(1707年)の富士山噴火による火山灰が含まれていますので、それより古い時代であることは確実です。
14〜15世紀の鎌倉では、建物基礎や溝の護岸、井戸枠などに切石が盛んに用いられていますので、名越の山中で大規模に石切りが行われたのも、その頃が中心ではないかと考えられます。
ただ、この結果のみをもって、大切岸に防御的な目的は一切なかったと即断することはできません。『吾妻鏡』の記事に見られるように、鎌倉は敵の攻撃を防ぐのに適した地形=要害と認識されていました。あくまでも推測ですが、このように大々的な石切りを行なっても、鎌倉の街を取り囲む尾根を安易に掘り割ることはせず、あえて城壁のような崖を残したのかも知れません。


法性寺方面へ下る
途中の絶壁
先ほどの大切岸と法性寺との分岐点まで戻り、法性寺の寺域につながる急坂を下ることにした。怖くて腰が引けているのか、構図など考える余裕など無し。何だかよくわからない画になってしまった。そんなこんなで、やっとの思いで降りて来た。
今考えれば、曲がりなりにも簡易の階段があるのだし、そう怖がる必要もなかったのだが。

途中の絶壁_1
途中の絶壁_2
途中の絶壁_3
途中の絶壁_4
途中の絶壁_5
途中の絶壁_6
途中の絶壁_7

 

名越切通しを歩く(5)

再び、名越切通しのてっぺんと思しき分岐点まで戻った。ここから大切岸を目指す。下りだけかと思ったら、暫く上るのだった。

大切岸に向かう
分岐すると平場があり、ちょっと上っていく感じに
とは言うもののスレほど長い上り道ではない予感が。道はこの辺りだけ最近になって付け替えたようだ。名越切通しのメインルートでは全く他の人と出会わなかったのに、この道に入った途端、何人かの人と出会う。不思議なものだ。
分岐すると平場があり、ちょっと上っていく感じに_1
分岐すると平場があり、ちょっと上っていく感じに_2
この辺は道を付け替えたのかなあ
分岐すると平場があり、ちょっと上っていく感じに_3
分岐すると平場があり、ちょっと上っていく感じに_4
分岐すると平場があり、ちょっと上っていく感じに_5
分岐すると平場があり、ちょっと上っていく感じに_6
分岐すると平場があり、ちょっと上っていく感じに_7
金網の右下は『まんだら堂やぐら群』だったかもしれない。怖かったので、覗く勇気が出なかった。(^_^;)
分岐すると平場があり、ちょっと上っていく感じに_8
分岐すると平場があり、ちょっと上っていく感じに_9
この辺から下る
この辺から下る_1
路傍の石を見ると、名越切通しのメインルートのてっぺん辺りにあった置き石は、長い期間人の足て踏まれたために地表に露出した山の一部なのかもしれないと思った。
この辺から下る_2
再び分岐点の標識が
此処で法性寺に下りるか、大切岸方面に進むかだ。迷うことなく後者を選択。
再び分岐点の標識が_1
再び分岐点の標識が_2
チラと見えた法性寺の墓地
落ちたら死んじゃうぞ
落ちたら死んじゃうぞ
イキナリ迂回路か
迂回しないと相当に怖いところだ。手摺も何も無いのだ。ここから落ちたら助からないだろう。右端のヒョロ長い樹木は崖下から伸びてきているもの。
イキナリ迂回路か_1
イキナリ迂回路か_2
迂回路にあった鎌倉市指定の石像建造物石廟2基(逗子市との境界辺りになる)
鎌倉市指定の石像建造物石廟2基_1
鎌倉市指定の石像建造物石廟2基_2
鎌倉市指定の石像建造物石廟2基_3
ごく短い迂回路は終わり
逗子の街が見える
逗子の街が見える
やっぱり、あの絶壁は怖い
やっぱり、あの絶壁は怖い。垂直に切り立っている。
見晴らし台が整備されていた
そうなのだが、安全を考慮して内側のロープが張ってあるので、見晴らしは正直っていよくない。せめて、踏み台のようなものを要ししてくれたら言うことはないのだが。
見晴らし台が整備されていた
大切岸が見えてきた
大切岸が見えてきた

 

名越切通しを歩く(4)

今回は名越切通しメインルートの第1切り通しまでを取りあげる

名越切通しメインルートの第1切り通しまで
まんだら堂やぐら群から名越切通しのメインルートに戻る
少し岩盤が露出したような道を通る。スペインの巡礼路のように長期の通行で、土の層が薄くなってしまったのかもしれない。
少し岩盤が露出したような道を通る_1
少し岩盤が露出したような道を通る_2
少し岩盤が露出したような道を通る_3
第1切通しの直前でまたもや分岐点
第1切通しの直前でまたもや分岐点_1
第1切通しの直前でまたもや分岐点_2
第1切通しの直前でまたもや分岐点_3
第1切通しの直前でまたもや分岐点_4
小坪階段道
こちらの道は、小坪方面に出るようだ。出たところで大きな楽しみは無さそうなのでパス。
小坪階段道
第1切通し
最狭隘部
最狭隘部_1
最狭隘部_2
更に下る
更に下る_1
更に下る_2
振り返るとこんなふう
振り返るとこんなふう
表示と説明板
表示と説明板_1
表示と説明板_2

もうこれ以上行っても、亀ケ岡団地に出るだけで面白そうではない。引き返して、大切岸の方へ向かうことにする。

再び第1切り通しを抜ける
再び第1切り通しを抜ける_1
再び第1切り通しを抜ける_2
再び第1切り通しを抜ける_3

 

名越切通しを歩く(3)

今回分では、名越切通しのメインルートを歩き、途中少しだけ入ったまんだら堂やぐら群をみるところまでを取りあげる。

取り敢えずは下る
こんなふうに下る
まだ、名越切通しのメインルートを歩く。取り敢えずは下り坂。やや急な下り坂だ。下り坂は有難いが、その分、法性寺・大切岸に戻るには上り道になるわけだ。(;´д`)トホホ…
メインルートを歩く_取り敢えずは下り坂_1
メインルートを歩く_取り敢えずは下り坂_2
メインルートを歩く_取り敢えずは下り坂_3
メインルートを歩く_取り敢えずは下り坂_4
突如、右手に建物が
どうやら火葬場のようだ。こんな山奥に追いやられているのか。別にあるだろう自動車が進入出来る道の突き当りになると思われる。
突如、右手に建物が
名越切通しの説明板
吾妻鏡の天福元年(1233年)8月18日条に初めてその名が出てくるのか。下記文言を読んでみると、変なことで名前が出てきたようだ。吾妻鏡の記述であるから、当然のごとく鎌倉時代か。相当な古さなんだなあ。
8月18日 庚寅
早旦、武州江島明神に奉幣せんが為出で給うの処、前浜死人有り。これ殺害せらる者なり。仍って神拝を遂げ給わず、直に御所に参り給う。即ち評定衆を召し沙汰を経らる。先ず御家人等をして武蔵大路・西浜名越坂・大倉横大路已下方々を固めしむ。途路に候し犯科者有るや否や、その内の家々を捜し求むべきの由仰せ下さるるの間、諸人奔走す。而るに名越辺の或る男直垂の袖を洗う。その滴血なり。恠しみを成し岩手左衛門の尉これを生虜り、相具し御所に参る。推問の刻、所犯の條遁れる所無し。これ博奕人なり。仍って殊にその業を停止すべきの由下知すと。

名越切通しの説明板
名越切通しの説明板_trim
まんだら堂やぐら群
もう少し行くと何やら標識が
もう少し行くと何やら標識が
ここがまんだら堂やぐら群への分かれ道のようだ。こちらが昔の葬祭場。すぐ手前が現在の葬祭場か。火の玉が飛んだりするちょっと怖い場所だったのかなあ。
まんだら堂やぐら群への分かれ道のようだ_1
まんだら堂やぐら群への分かれ道のようだ_2
通せんぼ
先ほどの標識にあった『閉鎖中』の文言はこういうことだったのか。何とも邪魔なことだ。
通せんぼ
金網越しに見たまんだら堂やぐら群
金網を乗り越えるのは流石に気が引けた。仕方なく、金網の間から撮ってみた。平成26年度(2014年度)中を目途に、やぐら群の常時公開を目指した整備事業が進められているそうだ。でも、もうすぐ年度が終わってしまうぞ。
金網越しに見たまんだら堂やぐら群_1
金網越しに見たまんだら堂やぐら群_2
金網越しに見たまんだら堂やぐら群_3
金網越しに見たまんだら堂やぐら群_4
金網越しに見たまんだら堂やぐら群_5
金網越しに見たまんだら堂やぐら群_6
金網越しに見たまんだら堂やぐら群_7
金網越しに見たまんだら堂やぐら群_8
金網越しに見たまんだら堂やぐら群_9

逗子市教育委員会説明文
まんだら堂やぐら群とその周辺
「まんだら堂」の名が確認できる最も古い文献は、文禄三年(1594年)の検地帳です。しかし、そこには畠の地名として記されているのみで、「まんだら堂」がどんな建物だったのか、いつまで残っていたのかなど、詳しいことは全くわかっていません。
まんだら堂やぐら群は、一つひとつは2m四方程度と小規模で構造も単純なものが多いですが、150穴以上の存在が確認されている有数のやぐら群で、これだけまとまったやぐらを良い状態で見ることのできる遺跡は鎌倉市内にも少なく、たいへん貴重です。やぐらの中に並ぶ五輪塔は、後の時代に動かされているものが多いので、中世の姿そのままとは言えませんが、主に火葬した骨を納めるなどして供養するために建てられたものです。葬られたのは、武士や僧侶が多かったと考えられていますが、経済力を蓄えた商工業関係者なども含まれていたでしょう。
これまで、史跡整備のための情報収集等を目的として、部分的に発掘調査を行ってきましたが、平成13、14年度に実施した調査では、尾根の岩盤を大きく削って造った崖にやぐらを掘り、発生した大量の残土(岩くず)で前方の谷を埋め立てて平場を造っていることがわかりました。北西方向の鎌倉側を向いたやぐら群の前面平場では、柱穴などの遺構や、かわらけなどの遺物も多く発見されていますが、現在のまんだら堂入り口付近の平場では、遺構、遺物ともごく僅かしか出土していません。また、やぐら付近や周辺の平場などでは遺体を火葬したと思われる跡も各所で確認されています。ここで荼毘に付された方のお骨がやぐらに納められたのかも知れません。
出土した遺物から見たかぎりでは、鎌倉時代の後半(13世紀末頃)から平場の造成とやぐらの掘削が行なわれ、室町時代の中頃(ほぼ15世紀いっぱい)まで供養などが行なわれていたものと考えられます。
切通路の周辺に点在する平場も、中世に山を削って造られたものが多いようですが、それらが切通の防衛のために使われたものかどうかはわかりません。
平成18年度の発掘調査では、尾根上の岩盤をコの字形に粗く切り整え、その中央に切石を敷き並べた遺構が発見されました。この切石敷遺構の西側からは斬首されたと考えられるヒトの頭蓋骨1個が埋められた楕円形の土坑も発見されています。この遺構は、五輪塔などの石塔を据えるための基礎だった可能性が考えられます。あるいは、訳あって処刑された名のある方を供養するための施設だったのかも知れません。

 

名越切通しを歩く(2)

いよいよ昔ながらの道を歩くことになる。急坂は暫く続く。取り敢えずは置き石があるところを目指す。そして、次に切通しの最高点を目指す。

置き石があるところを目指し、次に切通しの最高点を目指す
険しい道が続く
その昔誰かが開削した道なのだろう。それでなければ、こんな道が都合よく続くはずがなかろう。
険しい道が続く_2
険しい道が続く_3
険しい道が続く_4
漸く最初の標識が見えた
この道で間違いがないということだけを確認した。これでも有ると無いとでは大違いだ。名越切通し・法性寺・大切岸にも、まんだら堂やぐら群にも行くつもりだ。但し、まんだら堂やぐら群に閉鎖中の文言が書き加えられているのが気にかかる。
漸く最初の標識が見えた_1
漸く最初の標識が見えた_2
更に上り道は続く
広角レンズで撮っているので、大した勾配ではないように見えるかもしれないが、かなり急な勾配だ。
更に上り道は続く_1
更に上り道は続く_2
更に上り道は続く_3
更に上り道は続く_4
漸く『階段道』から『堀割道』に変わる
鎌倉古道の特徴のようだ
漸く『階段道』から『堀割道』に変わる_1
漸く『階段道』から『堀割道』に変わる_2
漸く『階段道』から『堀割道』に変わる_3
取り敢えずは最初の目標物である置き石が見えてきた
この巨大な岩石をどうやってここまで運んできたのだろうか。そもそも鎌倉側からも逗子側からも歩くだけでも相当にきつい道なのに。敵対勢力が通りにくくするためにわざと置かれたようだが、…。
最初の目標物である置き石が見えてきた_1
最初の目標物である置き石が見えてきた_2
漸く名越切通しの最高地点と思われるところに到達
そうなのだろうか。只管上がってきたが、一旦は下り道になるようだ。ヤレヤレ。
漸く名越切通しの最高地点と思われるところに到達_1
漸く名越切通しの最高地点と思われるところに到達_2
漸く名越切通しの最高地点と思われるところに到達_3
後でここまで戻らないと、法性寺・大切岸には行けないようだ
ここまで戻らないと、法性寺・大切岸には行けないようだ
道を覚えるために見る。ふう、また上るようだ。実は上ったところにかなり広い平場がある。ここから、真下を通る敵(頼朝の時代は重臣だった三浦氏の軍勢が北条氏には脅威に転化したと言われる)に攻撃を加えたようだ。
道を覚えるために見る

 

名越切通しを歩く(1)

鎌倉七口とは三方を山に囲まれた鎌倉への陸路の入口を指すもので、一般に言われるのは以下の7つ。
1)極楽寺坂切通し
2)大仏切通し
3)化粧坂
4)亀ヶ谷坂
5)巨福呂坂
6)朝比奈切通し
7)名越切通し(なごえきりどおし)

現状の鎌倉七口は、巨福呂坂が新道となり痕跡だけ残して消滅。極楽寺坂切通しも普通の車道となり、明治時代以前の趣を残しているのは大仏切通、朝比奈切通、名越切通の3か所で、多少趣を残しているのが化粧坂と亀ヶ谷坂切通だ。

思うところがあり、1月5日に鎌倉駅から歩いて、『まんだら堂やぐら群』を経由して、名越切通しを第一切通しまで歩いた。そして、ちょっとだけ戻って、『大切岸』を見て、法性寺を経由して、逗子駅まで歩いた。その様子を少しずつ区切りながら取り上げていく。

鎌倉駅から名越切通しに入った辺りまで
案内記事は若宮大路を下馬で県道鎌倉葉山線(311号)に左折し、そのまま名越踏切に進むというものだった。ちょっとだけ案内と違う道を歩いたら、初端から迷子になってしまった。
若宮大路
若宮大路
近道したつもり
横須賀線のガードをくぐって下馬まで行くべきだったが、手前の道のほうが近そうに見えた。それが大間違いだった。材木座の辺りをうろちょろするはめに。
横須賀線のガード
滑川にはカルガモが居た
滑川にはカルガモが居た
本来ならば通らない道筋にあった辻薬師堂。大したお堂ではないと軽く見たのだが、実際はなかなか由緒有るもののようで、収蔵物は鎌倉国宝館に収蔵されているくらいのようだ。
この薬師堂は、建久元年(1190年)に、源頼朝が二階堂(現在の鎌倉宮あたり)に建立した医王山東光寺(一説に、二階堂行光が承元3年・1209年に永福寺の傍らに建立)の境内にあったものといわれる。後醍醐天皇の皇子護良親王が幽閉され、後に足利直義のために生害されたのが、東光寺である。南北朝時代には関東十刹の一とされた。
その後宝永元年(1704年)、薬師堂は、大町名越御嶽(名越切通しの近く)にあった古義真言宗長善寺に移された。長善寺は、奈良時代の神亀年間に由比の長者染谷太郎時忠の建立といわれる古刹。その後、大町辻に移り、延宝2年(1674年)5月には、水戸光圀も訪れている。江戸末期に焼失したが、薬師堂だけは残ったという。明治期の横須賀線敷設工事に伴い、現在地に移設された。

本来ならば通らない道筋にあった辻薬師堂
迷い込んだ住宅街。天地うろちょろすると不審者に見られそう。
迷い込んだ住宅街
『名越踏切』
漸く本来のコースの出発点である『名越踏切』に到着。かなり余計に歩いてしまった。途中に有名な安国論寺があったが、帰りに寄ろうと考えた。でも一気に逗子駅まで歩いたので、目論見は崩れてしまった。
『名越踏切』
名越踏切を渡ったらすぐの小道を左折
名越踏切を渡ったらすぐの小道を左折_1
名越踏切を渡ったらすぐの小道を左折_2
名越踏切を渡ったらすぐの小道を左折_3
『日蓮乞水』
『日蓮乞水』については、引用文の説明の通り。日蓮の鎌倉での活動の拠点となったのが、名越の松葉ヶ谷で、長勝寺、安国論寺、妙法寺といった日蓮が草庵を結んだ地とする寺院が並んでいるそうだ。日蓮は、横須賀から鎌倉に入るに際して、これから行こうとする名越切通しを通ったそうだ。現代の60半ばの爺さんが息も乱さずに上る道を、壮年期の在りし日の日蓮が上り降りできない筈はない。楽々越えていったのだろう。
大町大路のJR横須賀線名越踏切を渡り、名越切通へと通じる道には、鎌倉五名水の一つ「日蓮乞水」がある。
1254年(建長6年)、日蓮は名越切通を越えて鎌倉に入ったという。その折、水を求めた日蓮が、持っていた杖で地面を突き刺したところ水が湧き出したとされる。
『新編鎌倉志』には、「日蓮乞水は名越切通に達する路傍の小さな井戸を云う 昔日蓮が房総より鎌倉に来る時 此処にて清水を求めしに俄かに湧出せしとなり 大旱にも涸れる事なしとぞ、鎌倉五名水の一なりと云う」と記されている。
石碑には、「南無妙法蓮華経日蓮水」と刻まれている。現在は、井戸の形をしているが、元は湧き水であって、穴があいているだけであったという。

『日蓮乞水』_1
『日蓮乞水』_2
『日蓮乞水』_3
『名越坂踏切』
『日蓮乞水』のすぐそばにある。ここから『名越切通し』に入っていく。横須賀線を上を跨ぎ切るまでは、何とか現在の道になっている。但し、傾斜は『名越切通し』に入ってすぐにかなりきつくなる。
『名越坂踏切』_1
すぐ右折する
『名越坂踏切』_2
いよいよ急坂に入る。右側の小径だ。
いよいよ急坂に入る_1
いよいよ急坂に入る_2
いよいよ急坂に入る_3
いよいよ急坂に入る_4
いよいよ急坂に入る_5
これで急坂は終わりかななどと甘い考えがよぎった。そんな甘いものではなかった。
急坂は終わりかななどと甘い考えがよぎった
ここだけは人工的な道だ。昔の道が崩れてしまったのだろうか。転落したら、死んでしまうだろうなあ。それでも振り返ると富士山が見える。線路は下りだけが見えているが、上り線路は若干海側を走る。決して単線ではない。
ここだけは人工的な道だ_1
ここだけは人工的な道だ_2
ここだけは人工的な道だ_3
ここだけは人工的な道だ_4
ここだけは人工的な道だ_5
ここだけは人工的な道だ_6
ここだけは人工的な道だ_7
ここだけは人工的な道だ_8
此処が狭くて怖い。身体を横にして通り抜ける感じ。鉄パイプの下は急峻な崖だ。
此処が狭くて怖い
そのすぐ先にはこんな石仏が
こんな石仏が_1
こんな石仏が_2
人工的な構築物はここまで。これから先は昔のままの峠道だ。
人工的な構築物はここまで

名越切通しは、鎌倉と三浦半島を結ぶ要路のひとつであり、戸塚宿から鎌倉を経て浦賀へ続く浦賀道の一部でもあった。
切通しを含む名越路(名越坂とも)は、より南側にある小坪路とともに、かつては鎌倉から三浦半島へ連絡する数少ない陸路であった。鎌倉側の地域名ともなっている「名越」の名は、この道が峻険で「難越」(なこし)と呼ばれたことに由来すると言われる。

 

浅草寺~川治温泉~東武ワールドスクウェア(11)

東武ワールドスクウェア(5)
ヨーロッパ・ゾーン(3)


今回は、フランスのものを取りあげる。エッフェル塔と凱旋門とは、意識して撮らなかったので、あしからず。

シャンボール城
名前は知っていたが、行ってみたことがない。こんな感じだったのか。壮麗な城だ。終了後屋が始まりだったのか。かつてのフランス国王の権勢の程を思い知らされる。大きすぎて、持て余したのだろうか。所有者も次々に変わっていったようだ。
シャンボール城(Château de Chambord)はフランスロワール=エ=シェール県のシャンボールにある城。ロワール渓谷に点在する城のうち、最大の広さを持つ。フランス王フランソワ1世のために建てられた。
どうにもNYの建物が目障りだ。失敗の構図だった。
シャンボール城_1
シャンボール城_2
FREE画像を借用
シャンボール城_3

ヴェルサイユ宮殿
誰もが魅了される美しい宮殿と庭園とだろう。あまりに大きく、私には全体像がつかめないでいた。今回見ても、まだ、理解できないほどだ。私のイメージ構成力が無さすぎるのだろう。
ヴェルサイユ宮殿(仏語:Château de Versailles)は、1682年にフランス王ルイ14世が建てたフランスの宮殿(建設当初は離宮)である。
パリの南西22キロに位置する、イヴリーヌ県ヴェルサイユにある。主な部分の設計はマンサールとル・ブランによっておこなわれ、庭園はアンドレ・ル・ノートルによって造営された。バロック建築の代表作で、豪華な建物と広大な美しい庭園で有名である。

ヴェルサイユ宮殿_1
ヴェルサイユ宮殿_2
ヴェルサイユ宮殿_3
ヴェルサイユ宮殿_4
ヴェルサイユ宮殿_5
ヴェルサイユ宮殿_6
ヴェルサイユ宮殿_7
ヴェルサイユ宮殿_8
ヴェルサイユ宮殿_9
ヴェルサイユ宮殿_10
ヴェルサイユ宮殿_11
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ヴェルサイユ宮殿_12

サクレクール大聖堂
サクレクールと名がつく聖堂はかなりの数にのぼる。最も著名なのが、パリにあるこの聖堂だろう。情けない話だが、比較的短い歴史を刻んだに過ぎない明るい感じの大聖堂という印象しか残っていない。
モンマルトルのサクレ・クール大聖堂 (Basilique du Sacré-Cœur de Montmartre) はフランスのパリ市内モンマルトルの丘の頂にそびえる教会堂。ロマネスク様式・ビザンティン様式のバジリカ大聖堂。ギベール・パリ大司教が計画を提唱し、アバディが設計を担当した。1889年にいち早く完成していたエッフェル塔と共にパリ市内を見晴らせる観光名所で、両建造物とも19世紀後半に構想された比較的新しいものであるにも関わらず、今やパリになくてはならない存在になっている。
第三共和政の憲法が発布された1875年に、フランスの新しい政体の門出を祝う意味合いを籠めて、政府による直接的な支援を受けて建設がはじまった。当時は普仏戦争とそれに続くパリ・コミューンによって命を失ったフランス市民を讃える公共建造物としても考えられていたが、年月が過ぎるにつれてその位置づけが自ずと変容してしまう。実際に着工したのは1877年で、約4000万フランの費用と40年の歳月をかけ、1914年に完成したものの、礼拝のために開放されたのは第一次世界大戦の終わり、1919年のことであった故に、この大聖堂は皮肉にも普仏戦争以来のドイツに対する復讐の象徴として多くのフランス人から捉えられた。

サクレクール大聖堂_1
サクレクール大聖堂_2
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サクレクール大聖堂_3

ノートルダム大聖堂
ノートルダムの名前がつく聖堂は、これまた、世界中にかなりある。その中で最も有名なのが、パリのそれだろう。殆どの人が地上から見ると思うが、少し下がったセーヌ川の船から見る感じが私は好きだ。『我らが貴婦人』とはまた何と含蓄のある名前なのだろう。
パリのノートルダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Paris) はゴシック建築を代表する建物であり、フランス、パリのシテ島にあるローマ・カトリック教会の大聖堂。「パリのセーヌ河岸」という名称で、周辺の文化遺産とともに1991年にユネスコの世界遺産に登録された。現在もノートルダム大聖堂は、パリ大司教座聖堂として使用されている。ノートルダムとはフランス語で「我らが貴婦人」すなわち聖母マリアを指す。
ノートルダムの敷地は、ローマ時代にはユピテル神域であったが、ローマ崩壊後、キリスト教徒はこの地にバシリカを建設した。1163年、司教モーリス・ド・シュリーによって、現在にみられる建築物が着工され、1225年に完成した。ファサードを構成する双塔は1250年に至るまで工事が続けられ、ヴォールトを支えるフライング・バットレスは12世紀に現様式に取り替えられた。最終的な竣工は1345年。

ノートルダム大聖堂_1
ノートルダム大聖堂_2
ノートルダム大聖堂_3

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ノートルダム大聖堂_4
ノートルダム大聖堂_5

このシリーズは終了したわけではないが、次回から『名越切通しを歩く』シリーズを先に取りあげる。

 

浅草寺~川治温泉~東武ワールドスクウェア(9)

東武ワールドスクウェア(3)
ヨーロッパ・ゾーン(1)


今度はエジプトからいきなりヨーロッパに移動する

パルテノン神殿
古代ギリシア時代に建設された建造物。本物は、2500年ほど経過するのか。見た感じのとおりにできている印象。おそらくここだけは、45年前に見た時と印象が変わらないように思う。これが黄金率というものかと思いながら見たような記憶が。
パルテノン神殿(希: Παρθενών, ローマ字: Parthenon)は、古代ギリシア時代にアテナイのアクロポリスの上に建設された、アテナイの守護神であるギリシア神話の女神アテーナーを祀る神殿。紀元前447年に建設が始まり、紀元前438年に完工、装飾等は紀元前431年まで行われた。パルテノン神殿はギリシア古代建築を現代に伝える最も重要な、ドーリア式建造物の最高峰と見なされる。装飾彫刻もギリシア美術の傑作である。この神殿は古代ギリシアそして民主政アテナイの象徴であり、世界的な文化遺産として世界遺産に認定されている。
パルテノン神殿_1
パルテノン神殿_2
パルテノン神殿_3
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パルテノン神殿_4
コロッセオ
2度見ているはずなのに、コロッセオとコンスタンティヌスの凱旋門とが隣接している記憶などどこかに行ってしまった。その一方で、暑くてたまらず、ジェラートを買い求めたしようがない記憶はある。何と頼りない恥ずかしい記憶だろう。
古代ローマの建造物。この時代にこんな巨大な建造物をつくった技術力は驚嘆に値する。被写体としては最高だと思う。しかも内部に立ち入ることができる。凄いものだ。
こちらの展示物は、俯瞰することができるので、実物よりある意味では優れているかもしれない。

コロッセウム(ラテン語: Colosseum, イタリア語: Colosseo コロッセオ)は、ローマ帝政期に造られた円形闘技場。英語で競技場を指す colosseum や、コロシアムの語源ともなっている。建設当時の正式名称はフラウィウス円形闘技場(ラテン語: Amphitheatrum Flavium)。現在ではローマを代表する観光地である。
コロッセオ_1
コロッセオ_2
コロッセオ_3
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コロッセオ_4
ピサの斜塔
ピサの斜塔 (伊語: Torre di Pisa) は、イタリアのピサ市にあるピサ大聖堂の鐘楼であり、世界遺産「ピサのドゥオモ広場」を構成する観光スポット。此処も行ったことがない。たまたま参加するツアーの行き先に含まれる可能性はなくはないが、個人的には行きたいとは思わない。
ピサの斜塔_1
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ピサの斜塔_2
サン・ピエトロ大聖堂
サン・ピエトロ大聖堂(伊語:Basilica di San Pietro in Vaticano)は、世界中に展開するカトリック教会の総元締めの大聖堂。バチカン市国にある。サン・ピエトロ大聖堂はもともと使徒ペトロの墓所を祀る聖堂とされ、キリスト教の教会建築としては世界最大級の大きさを誇る。床面積2万3千平米。北に隣接してローマ教皇の住むバチカン宮殿、バチカン美術館などがあり、国全体が『バチカン市国』としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
世界中でも最も著名な建造物の一つ。大聖年に見たのが最後だなあ。

サン・ピエトロ大聖堂_1
サン・ピエトロ大聖堂_2
サン・ピエトロ大聖堂_3
サン・ピエトロ大聖堂_4
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サン・ピエトロ大聖堂_5
サン・ピエトロ大聖堂_6
ミラノ大聖堂
ミラノに行ったことがないので、残念ながらドゥオーモも見たことがない。商売でミラノによく行く友人の話では、非常に素晴らしいとのことだ。『お前もクリスチャンの端くれならぜひ行ってみることだ』と言われ続けている。返す言葉がないのが悔しい。
ミラノ大聖堂_1
ミラノ大聖堂_2
ミラノ大聖堂_3
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ミラノ大聖堂_4
サン・マルコ大聖堂
『サン・マルコ寺院』という呼称は好きではないので、『サン・マルコ大聖堂』と表記する。司教座聖堂でなかった時期が長いというのならば、『サン・マルコ聖堂』と称するのが適当かと思う。でも、既に200年以上も前から『大聖堂』なのだが。いつまで経っても『法王』と称しているのと一緒で、センスが無いこと甚だしい。
名前が示す通り、福音記者マルコにささげられた、ヴェネツィアの大聖堂。ヴェネツィアのど真ん中に位置する。浸水騒ぎと糞害とがとても気になる。

サン・マルコ大聖堂_1
サン・マルコ大聖堂_2
以下2点はFREE画像を借用
サン・マルコ大聖堂_3
サン・マルコ大聖堂_4

 

浅草寺~川治温泉~東武ワールドスクウェア(8)

東武ワールドスクウェア(2)
エジプトゾーン

アメリカゾーンは興味なしでパスし、行ったことのないエジプトゾーンに飛ぶ。エジプトの情勢が不安定になる前に行っておけばよかったと後悔するが、今更悔いても始まらない。
このゾーンでは、エジプトはギザの砂漠にある三大ピラミッドが展示のメインのようだ。隣接するスフィンクスとともに、エジプトを象徴するイメージと位置づけているらしい。私には、行ってみたいような行きたくないような、気持ちが定まらない不思議な観光地であり観光資源だ。

3大ピラミッドの揃い踏み
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三大ピラミッド
メンカウラー王のピラミッド
高さ65.5m(現在の高さ62m)、底辺105m、勾配51度20分と三大ピラミッドのうち最も小さく、他の2つのピラミッドと比較して長さで半分、体積で8分の1ほどの大きさである。
メンカウラー王のピラミッド_1
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メンカウラー王のピラミッド_2
カフラー王のピラミッド
カフラー王のピラミッド(Khafre's Pyramid)とは、エジプトのギーザにある古代エジプト・古王国時代第4王朝のファラオ、カフラー王のピラミッドである。三大ピラミッドのうちクフ王のピラミッドに次ぎ2番目の大きさであるが、クフ王のピラミッドより高い台地に建てられているため、人の目には一番高く見える。
高さ143.87m(現在の高さ136m)、底辺:215.29m、勾配:53度10分。四角錐の頂上部分には石灰石の化粧石が残っている。参道の入り口には、スフィンクスがピラミッドを守護するように建っているが、スフィンクスの建てられた時代には諸説ある。

カフラー王のピラミッド_1
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カフラー王のピラミッド_2
カフラー王のピラミッドとクフ王のピラミッド
カフラー王のピラミッドとクフ王のピラミッド
クフ王のピラミッド
ギザの大ピラミッド(ギザのだいピラミッド、英語:Great Pyramid of Giza)とは、ピラミッド建築の頂点とされる「クフ王のピラミッド」である。エジプトのギザに建設された。世界の七不思議で唯一現存する建造物である。このピラミッドはエジプト第4王朝のファラオ、クフ王の墳墓として紀元前2540年頃に20年以上かけて建築されたと考えられている。完成時の高さ146.6mは、14世紀にリンカン大聖堂が完成するまで世界で最も高い建造物であった。
クフ王のピラミッド_1
クフ王のピラミッド_2
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クフ王のピラミッド_3
スフィンクス
ギザの大スフィンクス(Great Sphinx of Giza)は、巨大なスフィンクスの石像である。古代エジプトの古王国時代に作られ、カイロ郊外、ギザのギザ台地の、三大ピラミッドのそばにある。
一般には単に「スフィンクス」と呼ばれることも多い。現代アラビア語では「أبو الهول(Abu al-Haul)」で、「畏怖の父」の意味。発音は標準アラビア語でアブ・ル・ハウル(Abul-Haul)、エジプト方言ではアブル・ホール(Abul-Hool)となる。

スフィンクス_1
スフィンクス_2
カフラー王のピラミッドとスフィンクス
カフラー王のピラミッドとスフィンクス_1
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スフィンクス_2

もう一つの展示物は、アブ・シンベル大神殿だ。ナルホド、こちらも迫力は3大ピラミッドに引けをとらないかもしれない。

アブ・シンベル大神殿
世界遺産が創設されるきっかけとなった偉大なる歴史遺産なんだな。うん、実に風格があるぞ。
アブ・シンベルからフィラエまでのヌビア遺跡群(Nubian Monuments from Abu Simbel to Philae)は、エジプト南部のナイル川流域にある、古代エジプト文明の遺跡。
アブ・シンベル神殿のオリジナルは、砂岩でできた岩山を掘り進める形で作られた岩窟神殿。大神殿と小神殿からなる。建造主は新王国時代第19王朝の王、ラムセス2世。大神殿は太陽神ラーを、小神殿はハトホル女神を祭神としている(小神殿は最愛の王妃ネフェルタリのために建造されたものでもある)。
建設後、長い年月の内に砂に埋もれていたが、1813年にスイスの東洋学者ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルトによって小壁の一部が発見され、1817年にブルクハルトの知人であったイタリア人探検家ジョヴァンニ・バッティスタ・ベルツォーニによって出入り口が発掘された。
1960年代、ナイル川にアスワン・ハイ・ダムの建設計画により、水没の危機にあったが、ユネスコによって、国際的な救済活動が行われた。1964年から1968年の間に、正確に分割されて、約60m上方、ナイル川から210m離れた丘へ、コンクリート製のドームを基盤とする形で移築された。現在ではアスワン・ハイ・ダムの建設によってできた人造湖のナセル湖のほとりにたたずんでいる。この大規模な移設工事がきっかけとなり、遺跡や自然を保護する世界遺産が創設された。アブ・シンベル神殿は世界遺産の象徴的な遺跡で、文化遺産として登録されている。

アブ・シンベル神殿_1
アブ・シンベル神殿_2
以下の2点は、free画像を借用
アブ・シンベル神殿_3
アブ・シンベル神殿_4

如何だろうか。似ているといえば似ているようなそんな感じかなあ。やはり自分の目で実物を確かめてきたほうが良さそうだ。

 

浅草寺~川治温泉~東武ワールドスクウェア(7)

鬼怒川支流の男鹿川
男鹿川の流れと河原
すぐ上流には五十里湖が有る。高校1年のときの修学旅行で立ち寄ったところだ。川治温泉はそのすぐ下流だったのか。この川も鬼怒川だと思い込んでいたが、実際には支流の男鹿川だったんだ。
男鹿川の流れと河原_1
男鹿川の流れと河原_2
男鹿川の流れと河原_3
男鹿川の流れと河原_4
男鹿川の流れと河原_5
男鹿川の流れと河原_6
男鹿川の流れと河原_7
男鹿川の流れと河原_8
上流の五十里ダム。修学旅行で立ち寄ったところなのにまるで記憶に無い。Free画像を借用
上流の五十里ダム
薬師湯の露天風呂
あのよく見える方は男女混浴の露天風呂なのか。だから開放的なんだな。入浴中だとカメラを向けられないところなんだ。
薬師湯の露天風呂
下流方向
鬼怒川との合流地点辺り。そこまでが男鹿川ということになるのだろう。
鬼怒川との合流地点辺り
合流地点のすぐ上流には川治ダムがある。こちらは鬼怒川だ。Free画像を借用
合流地点のすぐ上流には川治ダムがある
この辺りの地図
この辺りの地図
『川治仙閣堂』のようだ
急階段を上る。転落しないかと心配でならなかったほど。古くはこのお堂の下にお湯が湧いていたそうだ。
最初はここが温泉神社かと思ったが、全く別のところにあるようだ。

『川治仙閣堂』
よく見えないけど双体道祖神
よく見えないけど双体道祖神
川治金精神(こんせいしん)の由来
ははは、行者はこんなものをみつけたのか。もうちょっと別のマシなものを見つけたのかと思ったけど、…。読み方は、『こんせい・しん』なんだろうな。
今は五十里の湖底に没し去りましたが、会津旧街道の山路に深く登りはじめようとするところに由ありげな羽黒行者が住みて厳しい修行を行っていたそうであります。或る日この行者が男鹿川を見下す断崖の一角で無念無想の行に入っているとき遥かな川原に瑞運の立ち昇るのを霊感し、まっしぐらに馳せると川原の石くれに一体の金精神の混ざっているのを見出したので行者はこの奇蹟に感激して直ちにこれを己が伏屋に勧請したのが即ち行者塚の由来として語り伝えられて来たものであります。享保8年(1723)8月の五十里湖決壊で埋没していたものが建設省五十里ダム管理所の河川工事中発見され金精神であることが判明した次第であります。
川治金精神(こんせいしん)の由来

東武ワールドスクウェア(1)
栃木県日光市鬼怒川温泉にある世界各国の遺跡や建築物を再現したミニチュアパーク。世界21の国と地域から100点以上の遺跡や建築物を25分の1規模で、約14万体の人形と共に再現しているそうだ。
時期も時期だけに人出はそれほど多くはなく、寂しい感じが否めないが、展示物のレベルはかなりのものだった。展示してあるものの半分ほどは実物を見たことがあるものだったが、何しろ、自分の目の高さから見た経験ばかり。ガリバーのような感覚で見たことなど無いから、見た感じは、それなりに新鮮だった。

現代日本ゾーン
国会議事堂
こんなものかなあ
国会議事堂
旧帝国ホテル
何度かは見た筈なのに、どんな感じだったか思い出せない。なんで、『現代日本ゾーン』にあるのだろうか。
旧帝国ホテル_1
旧帝国ホテル_2
旧帝国ホテル_3
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旧帝国ホテル_4
東京駅
これだけは、新しいものに合わせたのかな
東京駅_1
東京駅_2
東京駅_3
東京駅_4

 

浅草寺~川治温泉~東武ワールドスクウェア(6)

いよいよ川治温泉に向かう

浅草を後にする
吉幸
津軽三味線と邦楽を聴ける会席、浅草2丁目「和えん亭 吉幸」というところだ。津軽三味線の素晴らしい音色が聞こえてくる。このまま、ここに入ってみたい気になった。
吉幸_1
吉幸_2
こちらもお馴染みの神谷バー
電気ブランで有名な日本最初のバー。本館の建物は国の登録有形文化財。アーケードの庇の上を撮らないといけなかった。大失敗だった。
一人にて酒をのみ居れる憐(あは)れなる となりの男になにを思ふらん (神谷バァにて) 萩原朔太郎
神谷バー_1
神谷バー_2
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神谷バー_3
もっと有名かも
もっと有名かも
鉄道に乗る
東武特急
やや垢抜けない感じ
東武特急
車窓から
水墨画のような景色がとても良かった
車窓から_1
車窓から_2
車窓から_3
野岩鉄道に乗り換える
割と洒落た列車なのに驚く
割と洒落た列車なのに驚く_1
割と洒落た列車なのに驚く_2
運転席脇からの眺め
運転席脇からの眺め_1
運転席脇からの眺め_2
運転席脇からの眺め_3
龍王峡駅
龍王峡駅_1
龍王峡駅_2
川治湯元駅
もう少しで会津なんだなあ。足を伸ばしてみたかったけど、個人旅行じゃ無し、仕方がない。
川治湯元駅_1
川治湯元駅_2
夕食はこんなもの
標準的な宴会料理だろう。アルコールの注文もこのくらいなら、予算範囲内かな、などと考えながら飲み食いする。会計役は因果なものだ。
岩魚の塩焼きがまだ載っていない御膳
岩魚の塩焼きがまだ載っていない御膳
岩魚の姿造り
岩魚の姿造り
岩魚の塩焼き
岩魚の塩焼き
鯛釜飯
鯛釜飯_1
鯛釜飯_2
地鶏鍋
地鶏鍋
ビーフシチュー
ビーフシチュー
鬼子蔵汁(きしぞうじる)
なかなかイケる感じだった
鬼子蔵汁(きしぞうじる)
献立
献立

 

年末年始

年末年始の記録です。どこかに行こうかと途中までその気になっていたのですが、結局は何もしていないで過ごしました。

大晦日
夕食
いつも出前の寿司と饂飩と蕎麦とちょっとしたおかずに決めている。紅白歌合戦を見ないので、至って淡々と日本酒を飲みながら、かつ、食べる。
大晦日夕食_1
大晦日夕食_2
ついで
母のところへおせちを届けに行って、ダイエー・ショッパーズ・プラザを撮る。このロゴもついに見納めなんだなあ。驕れる者は久しからずだったのかなあ。…という感慨にふける。次に見るときはイオン・ショッパーズ・プラザになっていて、イオンのロゴにかわっているんだ。
大晦日ついで
元日
朝のミサに出た
元日の朝のミサに出た_1
まだ、降誕節だから、こういうものがふさわしい画だろう。今回初めてPhotoshop Elements 13を使用してみた。使い慣れないので、何処がマシになったのか説明できないくらいのお化粧をしただけ。(^_^;)
元日の朝のミサに出た_2
元日の朝のミサに出た_3
戻って朝食
おせちとお雑煮とをいただく。が、その前にお屠蘇をいただく。
元日の朝食_1
黒豆以外は自家製。ローストビーフの火の通りが良すぎたのはご愛嬌。
元日の朝食_2
娘の大好物だ
元日の朝食_3
九州のアゴの出汁が利いた雑煮をも食してみたいが、そんな面倒なことを言うと、…。元日くらい心安らかにいきたい。
元日の朝食_4

この後、ニューイヤー駅伝を見たが、応援していた日清食品が5区で優勝絶望の差になってしまったので、TV観戦打ち切り。同郷の柏原選手がやっと復帰したのだけが、私にとっての収穫か。

 

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8月7日(月)は、早朝から長時間外出のため、私からのアクセスは遅れます。大変申し訳ありません。m(_ _)m

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