散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

浅草寺~川治温泉~東武ワールドスクウェア(5)

その他、浅草寺境内で目についた堂宇等

影向堂(ようごうどう)
本堂は内部も撮影可なのに、こちらは一転して撮影不可。がっかりだ。生れ年(干支)ごとの守り本尊が八躰とはどういうことか気になったが、すぐにわかった。
中尊の聖観世音菩薩(縁日18日)の左右に、子年:千手観音(縁日17日)、丑寅年:虚空蔵菩薩(縁日13日)、卯年:文殊菩薩(縁日25日)、辰巳年:普賢菩薩(縁日14日)、午年:勢至菩薩(縁日23日)、未申年:大日如来(縁日28日)、酉年:不動明王(縁日28日)、戊亥年:阿弥陀如来(縁日15日)ということで、八躰の守り本尊なんだ。

観音さまのお説法やご活躍に不断に協力されている仏さま方を「影向衆(ようごうしゅう)」とお呼びし、これらの仏さまをおまつりするお堂。
旧影向堂は、現淡島堂で二天門の脇にあった。現在のお堂は、平成6年(1994)、浅草寺中興開山慈覚大師円仁さまのご生誕千二百年を記念して建立された。鉄筋コンクリート寄棟造り、錣(しころ)屋根本瓦葺。内陣須弥壇中央に聖観世音菩薩、その左右に生れ年(干支)ごとの守り本尊八躰をまつる。
堂内には浅草名所(などころ)七福神の内の大黒天をお祀りし、また浅草寺の御朱印所も併設されており、ご朱印をお求めになるご信徒の方々も大勢お参りになる。

影向堂(ようごうどう)_1
影向堂(ようごうどう)_2

弁天堂
少しだけ離れた位置にあるためか、誰もお参りしている人はいなかった。関東三弁天の一つに数えられるというのに、もったいないことだ。弁天堂も時の鐘も独り占めすることができた。
本堂の東南、弁天山と呼ばれる小高い丘に建つお堂におまつりする弁天さまは、白髪のため「老女弁財天」と呼ばれ、「江の島」(神奈川県藤沢市)、「布施」(千葉県柏市)とともに関東三弁天の一つに数えられる。縁日の「巳(み)の日」にお堂の扉を開き、法楽が営まれる。
お堂に向って右手前の鐘楼の鐘は、元禄5年(1692)第5代将軍徳川綱吉(1646~1709)の命により下総国関宿藩主牧野成貞が金200両を寄進、改鋳されたものである。江戸時代の「時の鐘」の一つで、松尾芭蕉(1644~94)の句「花の雲 鐘は上野か 浅草か」で有名な鐘である。
鐘楼は昭和20年(1945)3月の東京大空襲で焼失し、昭和25年(1950)に再建されたものであるが、鐘は幸いにも無事に残り、現在でも毎朝6時に役僧によってつき鳴らされる。

弁天堂_1
弁天堂_2
弁天堂_4
説明板のすぐ後ろの石に彫られているようなのだが、殆ど判別できなかった。もしかしたら、まるで関係ないところを見ていたのかもしれないが。
弁天堂_5
こちらは、日本舞踊花柳流の関係の石碑。二代目家元花柳壽輔を顕彰する内容のようだ。
弁天堂_3

石橋
いったい東照宮はいくつ作られたのだろう。私が知っているだけでも、上野、芝、浅草と都内にある。浅草のものは残っていないが。その今はない東照宮の神橋として造られたものなのか。単に古いということだけでなく、なかなか味わいのある石橋だ。
現存する都内最古とされるこの石橋は、元和4年(1618)浅草寺に東照宮(現存せず)が造営された際、参詣のための神橋として造られたものである。寄進者は、徳川家康の娘振姫の婿、紀伊国和歌山藩主浅野長晟(広島浅野家藩祖)である。
この石橋は昭和23年(1948)、文部省より重要美術品に認定されている。

石橋_1
石橋_2
石橋_3
石橋_4
石橋_5
石橋_6

二天門
目にしたけど、けばけばしく見えたので、近くまで行ってみて撮履帯とは思わなかった。よく調べたら、国指定の重要文化財だった。何たる深く。撮り逃して残念でならない。
Free画像を借用
二天門_1
二天門_2
重要文化財。本堂の東側に東向きに建つ、切妻造の八脚門である。元和4年(1618年)の建築で、第二次世界大戦にも焼け残った貴重な建造物である。この門は、本来は浅草寺境内にあった東照宮(徳川家康を祀る神社)への門として建てられたものである(東照宮は寛永19年(1642年)に焼失後、再建されていない)。現在、門の左右に安置する二天(持国天、増長天)は上野の寛永寺墓地にある厳有院(徳川家綱)霊廟から移されたものである。平成22年(2010年)、改修により創建当初の様式に戻された。

 

浅草寺~川治温泉~東武ワールドスクウェア(4)

宝蔵門と五重塔のツーショット
なかなか撮った感じが良いので、被写体に選ぶ方が多いのではなかろうか
宝蔵門と五重塔のツーショット_1
宝蔵門と五重塔のツーショット_2
宝蔵門と五重塔のツーショット_3
宝蔵門と五重塔のツーショット_4
宝蔵門と五重塔のツーショット_5

宝蔵門
浅草寺の山門にして、浅草寺の什宝物を収蔵する宝蔵門でもあるのか。ご本尊の観音像でさえ、かなりの焼損が有るようだ。他の仏像も推して知るべし。什宝物を収蔵する容れ物は立派なものの、中身はやや寂しいのではなかろうか。旧仁王門には、文殊菩薩像、多聞天・持国天、墨絵の雲龍(天井)、鳳凰及び迦陵頻伽があったようだ。これに対して、現在の宝蔵門には、釈迦如来像(平安時代)、四天王像 (持国天・増長天・広目天・多聞天)、風神・雷神像がある。
昭和37年に作られた仁王尊像をよく見ておくのだった。阿形像のモデルは力士の北の湖、吽形像のモデルは明武谷と言われているそうだ。

『応永縁起』によると、安房守平公雅(たいらのきんまさ)が武蔵守に補任された天慶5年(942)、その祈願成就の御礼として建立された。
以来、数度の火災により炎上するも、その都度再建された。
鎌倉時代から江戸初期にかけては、あまり変化はなかったが、その後、徳川家光により再度の寄進建立が行われ、本堂と仁王門が慶安2年(1649)12月23日落慶、元禄5年(1692)に京都の曼殊院門跡(まんしゅいんもんぜき)良尚法親王ご染筆の「浅草寺」の扁額がかけられた。その後、昭和20年(1945)3月10日の戦災に遭うまで平穏無事だった。
現在の門は浅草寺の山門として、内部三層のうち上部二層に近代的防災設備を施した収蔵室を設け、浅草寺の什宝物収蔵の宝蔵門として大谷重工業・ホテルニューオータニ創始者の大谷米太郎氏のご寄進により復興再建された。

大提灯
高さ 3.75m・幅 2.7m、重さ 450kg。 日本橋小舟町奉賛会より平成26年 (2014)10月奉納掛け換え(4回目)
吊灯籠
高さ 2.75m、重さ 1.000kg 銅製。魚がし講より昭和63年(1988)10月奉 納掛け換え(2回目)
宝蔵門_1
宝蔵門_2
宝蔵門_4
大わらじ
高さ 4.5m・幅 1.5m、重さ 500kg、藁 2,500kg使用。山形県村山市有志より平成20年(2008)10月奉納〔昭和16年(1941)の初回以来、7回目〕。わらじは仁王さまのお力を表し、「この様な大きなわらじを履くものがこの寺を守っているのか」と驚いて魔が去っていくといわれている。
昭和16年、村山市出身の松岡俊三代議士が護国の象徴として納めたのが始まり。
同じく村山市出身の彫刻家村岡久作が宝蔵門復元時に仁王像を彫ったのを記念して2度目の奉納をしてから、ほぼ10年に一度ずつ奉納している。

宝蔵門_3
宝蔵門_5
宝蔵門_6

五重塔
五重塔もまた、仏塔の一つか。塔の最上層にはスリランカ・アヌラーダプラのイスルムニヤ寺院から招来した仏舎利を安置しているとのこと。魂も入っているわけだ。
五重塔とは、お釈迦さまのご遺骨を奉安する仏塔の形式の一つである。
浅草寺の五重塔は、天慶5年(942)平公雅(たいらのきんまさ)が本堂と共に建立したのを初めとして、その後数度倒壊、炎上に遭ったが、その都度再建された。
徳川3代将軍家光により本堂・仁王門などと共に建立された国宝五重塔は、太平洋戦争の戦火により、昭和20年(1945)3月10日、他の伽藍とともに惜しくも焼失した。戦後、浅草寺は十方ご信徒各位のご信助を得て、本堂、雷門、宝蔵門と伽藍復興に邁進し、牌殿・書院・他付属施設を備えた新様式の五重塔院を再建するに至った

五重塔_1
五重塔_2
五重塔_3
五重塔_4
五重塔_5
ライトアップされた五重塔
Free画像を借用。非常に綺麗だ。
ライトアップされた五重塔

 

浅草寺~川治温泉~東武ワールドスクウェア(3)

浅草寺本堂
浅草寺は、前回取り上げた浅草神社に祀られている檜前浜成・竹成兄弟が見つけた観音様を祀る寺院。推古天皇36年(628年)と伝えられ、都内最古の寺院である。
外観
堂々たる堂宇だ。当時の国宝だった3代将軍徳川家光建立の旧本堂は戦災で消失した。現在の堂は昭和33年(1958年)に再建されたもので、鉄筋コンクリート造。それは普通に考えつくことだが、屋根がチタンの瓦になっているというのは考えつかなかった。白っぽい瓦だとは思ったものの、チタンとは。数年前からなのか。
外観_1
かなりの急勾配の屋根だ。これほどまで高くする理由は何だったのだろうか。
急勾配の屋根
煙を浴びてご利益がありそうかな?
外観_2
志ん橋大提灯
歌川広重の名所江戸百景『浅草金竜山』に描かれた大提灯と同じデザインに戻したようだ。現在、「志ん橋」大提灯は本堂(観音堂)に掛かっている。広重が描いた時は、雷門にかかっていたようだ。新橋の方々からの奉納提灯で、平成16年12月に制作し寄進されたとのことだ。
歌川広重の名所江戸百景『浅草金竜山』
外観_3
向拝の聯(ごはいのれん)が見える
大提灯の両脇に白い字で書かれているのが、向拝の聯。豊道春海(ぶんどうしゅんかい)の書で、向かって右側が『実相非荘厳金碧装成安楽刹』、左側が『真身絶表象雲霞画出補陀山』と書かれているそうだ。寛政9年(1797)の筆とのこと。読むことができないし、意味を解釈することも勿論できなかった。
真如(しんにょ)の世界はとても形などに表すことはできないが、見事に整えられた伽藍や自然の景観の妙は、それこそ仏の浄土「安楽刹」であり、観音さまの世界「補陀落(ふだらく)」である、という意味(浅草寺の堂塔伽藍・境内浄域のことを表す)。
外観_4
見事な菰樽の積み重ね
一樽頂いて帰りたいほどだ。〆ていくらになるだろう、などと考えてはいけないんだろう。
東南アジアの人たちは『自撮り』が大好きなようだ。ナルシストが多いのだろうか。

外観_5
本堂内陣
本堂内陣_1
御宮殿(ごくうでん)
紛れも無い祈りの場だった
中央の金色に輝くのが御宮殿。写真に撮るのはおろか、見てはいけないように思わないでもないが、おおらかなものだ。最初に行った時には、多くの僧侶が経を唱えていた。2日後に開扉法要が行われたのか。こんなものではない僧侶の数だろうし、参拝客の数だろう。うーーん、残念。
内陣中央にはご本尊聖観世音菩薩を奉安する御宮殿(ごくうでん)がある。御宮殿内には、ご秘仏本尊聖観世音菩薩、慈覚大師作のお前立ご本尊(12月13日お開扉)の他、徳川家康、徳川家光、公遵法親王などの護持仏であった観音像が奉安されている。御宮殿の左右には梵天・帝釈天の二天がまつられ、またご本尊の脇侍(きょうじ・わきじ)としては内陣右奥に不動明王、左奥には愛染(あいぜん)明王がまつられている。
本堂内陣_2
本堂内陣_3
本堂内陣_4
本堂外陣
写真の撮影を禁止してはいないようで、皆さん盛んに写真を撮っていた。私も負けじと撮らせていただいた。
本堂外陣_1
本堂外陣_2
正面額
『施無畏(せむい)』と書かれてあるそうだ。暫くにらめっこしたものの、読むことができなかった。
深見玄岱筆〔享保12年(1727)奉納〕
観音さまは経典において、「施無畏者」とも呼ばれ、人々の不安や恐怖を取り除き、「畏れ無きを施して」下さる。「施無畏」とは、観音さまのおはたらきそのものを意味する。

本堂外陣_3
外陣の聯
こちらは辛うじて読むことができたものの、…。
野口雪江(のぐちせっこう)書で〔寛政9年(1797)の筆〕
「仏身円満無背相 十方来人皆対面」
誰でも、どこから来た人でも分け隔てなく救いの手を差し伸べてくださる、という意味(浅草寺のご本尊観音さまのことを表す)。

本堂外陣_4
天井絵
中央:川端龍子(かわばたりゅうし) 画「龍之図」 縦6.4m・横4.9m
左右:堂本印象(どうもといんしょう) 画「天人之図」 縦6.4m・横4.9m

天井絵_1
天井絵_2
奉納の羽子板
助六所縁江戸桜だ。実に立派なものだ。
奉納の羽子板

本尊の聖観音像を安置するため観音堂とも呼ばれる。旧堂は慶安2年(1649年)の再建で近世の大型寺院本堂の代表作として国宝(当時)に指定されていたが、昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失した。現在の堂は昭和33年(1958年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造である。外陣には川端龍子(かわばたりゅうし)筆「龍の図」、堂本印象筆「天人散華の図」の天井画がある。
内陣中央には本尊を安置する間口4.5メートル、高さ6メートルの宮殿(くうでん、「厨子」と同義)がある。宮殿内部は前の間と奥の間に分かれ、奥の間に秘仏本尊、前の間には「お前立ち」の観音像が安置される。宮殿の扉の前には「御戸張」と称する、刺繍を施した帳(とばり)が掛けられていて、時々デザインの違うものに掛け替えられている。毎年12月13日に開扉法要が行われ、短時間開扉されるほか、特別な行事の際などに開扉が行われる場合があるが、その際も参拝者が目にすることができるのは「お前立ち」像のみで秘仏本尊像は公開されることはない。宮殿の手前左右には脇侍の梵天・帝釈天像、宮殿の裏には秘仏本尊と同じ姿という聖観音像(通称裏観音)、堂内後方左右の厨子内には不動明王像と愛染明王像[3]を安置する。
2009年2月から2010年12月にかけて、「平成本堂大営繕」が行われた。屋根の葺き替えは昭和33年(1958年)の再建以来50年ぶり。宝蔵門の改修工事でも用いたチタン成型瓦を採用。使用色も2色から3色に増やし、より粘土瓦に近い風合いを醸し出している。

 

浅草寺~川治温泉~東武ワールドスクウェア(2)

浅草神社
拝殿・幣殿・本殿が国の重要文化財に指定される堂々たる神社であり、例大祭は『三社祭』として全国的にその名を知られる存在なのに、社格は『郷社』だったのか。うーーん。

拝殿
現存の社殿は徳川家光の寄進で慶安2年(1649年)に完成したもの。拝殿・幣殿・本殿が国の重要文化財だ。そうとは知らなかったので、拝殿だけを撮って失礼してしまった。残念至極。
拝殿_1
拝殿_2
拝殿_3

鳥居から拝殿に近づいてみる
神社という存在は東南アジアの人には珍しいのだろうか。かなりの比率で日本人ではない人達が居た。
鳥居から拝殿に近づいてみる_1
鳥居から拝殿に近づいてみる_2
鳥居から拝殿に近づいてみる_3
鳥居から拝殿に近づいてみる_4
鳥居から拝殿に近づいてみる_5

仲見世宝蔵門前の氏子各町神輿連合渡御の様子(Free画像を借用)
仲見世宝蔵門前の氏子各町神輿連合渡御の様子

浅草神社は、東京都台東区浅草の浅草寺本堂右隣にある神社である。通称は三社権現、三社様。5月17日の例大祭は三社祭という。
社伝によれば、推古天皇36年(628年)、檜前浜成・武成の兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていたところ、網に人形の像がかかった。兄弟がこの地域で物知りだった土師真中知に相談した所、これは観音像であると教えられ、二人は毎日観音像に祈念するようになった。その後、土師真中知は剃髪して僧となり、自宅を寺とした。これが浅草寺の始まりである。土師真中知の歿後、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知・浜成・武成を神として祀ったのが当社の起源であるとしている。
実際には、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、三人の子孫が祖先を神として祀ったものであると考えられている。ご神体として一般の人間(漁師と僧侶)を祀っている為、神社の格としては江戸一低いといわれている。
明治の神仏分離により浅草寺とは別法人になり、明治元年に三社明神社に改称、明治5年に郷社に列し、明治6年に現在の浅草神社に改称した。
社殿は浅草寺の本堂の東側にある。現存の社殿は徳川家光の寄進で慶安2年(1649年)に完成したもので、昭和36年に拝殿・幣殿・本殿が国の重要文化財に指定された。

 

上の孫娘とのクリスマス・イブ

上の孫娘が公共の場でも大分おとなしくできるようになってきたので、彼女だけを連れてクリスマス・イブのミサに与ってきた。その時の様子。
帰宅してからは待ちきれない様子だったので、3人で先に食事を。今回は、妻が忙しくしていたので、外で買い求めたものですませた。


カトリック碑文谷教会(サレジオ教会)にて
聖堂の前で
<カトリック碑文谷教会(サレジオ教会)にて_1
聖堂内部の様子。欧米の教会に比べると見劣りがするが、キリスト教国ではない日本の教会だから、こんなものだろう。負けていないとすれば、今回の写真には入っていないが後方にかなり大きなパイプオルガンが設置されていることだろう。伴奏が聞こえないという心配はない。
カトリック碑文谷教会(サレジオ教会)にて_2
カトリック碑文谷教会(サレジオ教会)にて_3
こちらを大きく撮ればよかった
カトリック碑文谷教会(サレジオ教会)にて_4
こちらは、復活祭に適した画だった。どう考えてもクリスマス向きではなかった。
カトリック碑文谷教会(サレジオ教会)にて_8
カトリック碑文谷教会(サレジオ教会)にて_9
何やら眠たそうで先行きが心配
カトリック碑文谷教会(サレジオ教会)にて_5
カトリック碑文谷教会(サレジオ教会)にて_6
カトリック碑文谷教会(サレジオ教会)にて_7
もうすぐ始まる
カトリック碑文谷教会(サレジオ教会)にて_10
カトリック碑文谷教会(サレジオ教会)にて_11
カトリック碑文谷教会(サレジオ教会)にて_12

ミサの間の写真は無いのであしからず

自宅に戻って
お腹が空いて待ちきれない様子。待たずに食事を始めることにした。
自宅に戻って_1
自宅に戻って_2
自宅に戻って_3
自宅に戻って_4
自宅に戻って_5
自宅に戻って_6
自宅に戻って_7
自宅に戻って_8

 

浅草寺~川治温泉~東武ワールドスクウェア(1)

11人で1泊旅行をした。集合は早かったが、皆で早昼を食べ、暫し自由時間に。そのかなり長い自由時間の最後に、会計なので、アルコールとかつまみとかを用意しなくてはいけなかったが、それでも見て回るには十分な時間があった。これまで殆ど、奥のほうまで入ったことがなかったが、今回はたっぷりの時間があったので、細かく見て回ることができた。

被官稲荷
いきなり馴染みのないものを取り上げるようで申し訳ない。が、最も印象に残ったのが、この被官稲荷の名称と稲荷の覆い屋だった。
社殿と覆い屋
被官稲荷は、浅草寺境内に隣接する浅草神社の末社としてその境内に祀られている。
被官とは官を被る、ということから、就職・出世にご利益ありということになるのだろうが、サラリーマンではない今は私には全く縁がない話だ。でも、知る人ぞ知る神社らしく、平日の雨がしとしと降る天気にもかかわらず、結構、お参りに来ている人がいるのに驚いた。
それよりも何よりも大正期に建てられたという風変わりな覆い屋が、すごく興味を引いた。
覆い屋は、あるものを風雨から護るものだろう。それにもかかわらず開口部が異常に多い。『何だ、この建屋は』と思うほどだ。

社殿と覆い屋_1
社殿と覆い屋_2
左側面から見た様子
左側面から見た様子
歌舞伎役者もお参りに来て、奉納したようだ
吉右衛門と時蔵
吉右衛門と時蔵
歌六と米吉
歌六と米吉
この鳥居のうちの一つは新門の辰五郎が寄進したもののようだ
この鳥居のうちの一つは新門の辰五郎が寄進したもの

創建
安政元年、新門辰五郎の妻が重病で床に伏したとき、山城(現、京都府南部)の伏見稲荷神社に祈願したところ、その効果あって病気は全快しました。そして、同二年、町の人がお礼の意味も込め、伏見稲荷神社から祭神御分身を当地に勧請しました。その後、小社を創建し、被官稲荷神社と名付けられ、現在浅草神社の末社としてその境内に祀られています。名称の由来は不明ですが、被官とは官を被(こうむ)る、ということから、就職・出世と解せばよいでしょう。被官稲荷神社正面の鳥居は新門辰五郎により奉納されたものです。
社殿
このお社は安政二年に創建されたもので、一間社流造といわれております。社殿は杉皮葺で、創建以来のものであり間口1.5メートル、奥行約1.4メートルと小さいが、覆屋を構えて保護しています。覆屋は大正期の建築物でしょう。また、社殿は先の関東大震災、東京大空襲にも奇跡的に焼け残った大変貴重な建築物です。

 

秋の瑞泉寺~報国禅寺~杉本寺(7)

杉本寺
行基が開基の堂々たる歴史を誇る鎌倉屈指の古刹。相当に古く、鎌倉では勿論最古の寺院。それでも室町以降の歴史ははっきりしないようだ。『だから関東の寺院はダメなんだ』と三文安に扱われそう。
前回行った時にはタイワンリスがかなりいたが、今回は見かけなかった。駆除に成功したのだろうか。

12月に再訪した時の紅葉
12月に再訪した時の紅葉
本堂
堂内はさして広くはないが、物凄く雰囲気がある。残念ながら撮影禁止で、その様子をお伝えできない。
本堂_1
本堂_2
本堂_3
本堂_4
本堂_5
本堂_6
本堂_6
本堂_7
仁王門
仁王門_1
仁王門_2
仁王門_3
千社札がところかまわず貼ってある。見苦しいったらありゃしない。
仁王門_4
仁王門_5
苔の石段
保護のため、立入禁止扱いになっている。苔の保護なのか、鎌倉石の階段の保護なのか。どちらなんだろう。
苔の石段_1
苔の石段_2
五輪塔群
五輪塔群
弁天堂
弁天堂_1
弁天堂_2
鐘楼
鐘楼

杉本寺は天台宗の寺。鎌倉幕府が開かれる500年近くも前の平安初期の天平六年(734)に創建された鎌倉最古の寺。天平三年(731)、関東地方を歩いていた行基菩薩が、鎌倉の大蔵山から町を眺め「ここに観音様を置こう」と思い、自ら彫刻した十一面観音像を安置した。
その後、光明皇后の恩召により、行基が本堂を開創した。文治5年(1189)11月23日の夜、火災が起こったが本尊3体が大杉の下で火を避けられたので、それにより杉の本の観音と今日まで呼ばれたと「吾妻鏡」は伝えている。その後、建久2年(1191)9月18日に源頼朝が再興し以前の三尊像を内陣に安置し、別に立像7尺の十一面観音像を寄進した。


ここで、これ以上粘ると3連休の中日の混雑で苦しめられそうと判断し、大混雑のバスを利用せずに徒歩で鎌倉駅を目指した。
鶴岡八幡宮辺りからは観光客がごった返していて、先に進むのが大変な状況だった。初詣のときも段葛の通行止めを続行するのだろうか。ごった返す人で事故が起きなければよいのだが。


以上で『秋の瑞泉寺~報国禅寺~杉本寺』シリーズはおしまいです。最後までご覧頂きありがとうございました。

 

秋の瑞泉寺~報国禅寺~杉本寺(6)

ついでに凝りもせず、またまた瑞泉寺にも行ってみた。12月07日だというのに、やはり紅葉はまだだった。

瑞泉寺
報国寺に負けない竹林
報国寺に負けない竹林
こんなものは如何
見事な寄生木ぶりだ。堂々と発色している。
こんなものは如何_1
こんなものは如何_2
楓の紅葉は最も遅く、水仙の開花は最も速いという評判は本当のようだ。11月に来たときも水仙は既に開花していた。
こんなものは如何_3
こんなものは如何_4
庭園の紅葉もまだまだ
庭園の紅葉もまだまだ_1
庭園の紅葉もまだまだ_2
庭園の紅葉もまだまだ_3
庭園の紅葉もまだまだ_4
庭園の紅葉もまだまだ_5
庭園の紅葉もまだまだ_6
庭園の紅葉もまだまだ_7
吉野秀雄歌碑
『死をいとひ 生をもおそれ 人間の 揺れ定まらぬ こころ知るのみ』
吉野秀雄歌碑
久保田万太郎句碑
『いつぬれし 松の根方ぞ 春しぐれ』
久保田万太郎句碑_1
久保田万太郎句碑_2

 

秋の瑞泉寺~報国禅寺~杉本寺(5)

11月の往訪時には行く予定がなかった旧華頂宮邸。建物内部の特別公開はずっと先のようだが、庭園は公開されていて、無料で入ることができるようだ。『これはおいでおいでしているんだ』と勝手に判断して行ってみた。
旧華頂宮邸
この邸宅を建てた華頂博信侯爵は、はるか昔に臣籍降下した人物。世間知らずの私が知る由もなかった人物。でも残された邸宅は立派だった。
堂々たる建物
東西の側面は斜面で遮られ、南北に開けた敷地になっていた。その正面(北側)は庭木で丸見えを避けた感じにしていた。私が建て主であってもそうするだろうと思う。
堂々たる建物_1
堂々たる建物_2
堂々たる建物_3
堂々たる建物_4
堂々たる建物_5
南側は広い庭になっていた。こちら側には木などは植えず、陽光が燦々と差し込む設計になっていた。
堂々たる建物_6
堂々たる建物_7
堂々たる建物_8
堂々たる建物_9
堂々たる建物_10
堂々たる建物_11
堂々たる建物_12
堂々たる建物_13
堂々たる建物_14
堂々たる建物_15
東側側面。通用口などはこちら側のようだ。
堂々たる建物_16
再び正面。少し東側よりからだと、強烈な逆光を遮ることができた。
堂々たる建物_17
堂々たる建物_18
堂々たる建物_19
庭にて
まだまだきれいな感じ
まだきれいな感じ_1
まだきれいな感じ_2
これからかな
これからかな_1
これからかな_2
途中で見たイソギク
途中で見たイソギク

華頂博信《かちょうひろのぶ、1905年(明治38年)5月22日-1970年(昭和45年)10月23日》
日本の皇族、政治家、海軍軍人。1926年(大正15年)10月19日に勲一等旭日桐花大綬章受章、12月7日に臣籍降下し、華頂の家号を賜り侯爵として華族に列せられた。この際、実兄である華頂宮博忠王の死により断絶していた華頂宮家の祭祀を継承した。
鎌倉市には1929年(昭和4年)に建設された華頂博信侯爵邸がある。1996年(平成8年)に鎌倉市が土地と建物を取得し、通称旧華頂宮邸として庭園部分が一般に公開されている。


 

秋の瑞泉寺~報国禅寺~杉本寺(4)

途中で『秩父夜祭』のシリーズを割りこませたので、ちょっと季節外れになってしまった。このままではちょっと物足りなかったので、12月初旬にも追加で出掛けてみた。

報国禅寺
こちらも紅葉には少し早い感じだった。が、行きにくい感じの瑞泉寺と違って、ものすごい人が既に押しかけてきていた。
この寺は、鎌倉時代から室町時代に至る時期の歴史に大きく関わる寺で、1439年に起きた足利持氏の室町幕府将軍・足利義教への反乱『永享の乱』で、関東公方・足利持氏は敗退し、一旦断絶した。1447年に持氏の子成氏が幕府から鎌倉公方就任を許されて復活。後に幕府と対立した成氏が、1455年に下総国古河を本拠として「古河公方」と名乗るようになった(享徳の乱)。この乱によって鎌倉府は消滅し、…というようなことで、鎌倉は歴史の表舞台から消えていく。
文豪川端康成はこの近く(浄明寺宅間ヶ谷)に住み、この報国寺をよく散歩していたそうだ。
旧華頂宮邸と釈迦堂切通しとがやはり近くにあるそうだ。いずれは、こちらにも足を伸ばしてみたいものだ。

山門付近
山門付近_1
山門付近_2
山門付近_3
山門付近_4
リンドウが咲いていた。実に久しぶりに見た。
リンドウが咲いていた_1
リンドウが咲いていた_2
本堂
本堂_1
本堂_2
本堂_3
建長寺派管長柏樹庵吉田正道老師の揮毫の扁額かな
建長寺派管長柏樹庵吉田正道老師の揮毫の扁額かな
鐘楼
鐘楼_1
鐘楼_2
新田義貞鎌倉攻めの際の由比ガ浜での戦死者の埋葬の塚
『元弘3年5月の北条一族と新田勢が合戦の折り、両軍戦死者の遺骨を由比ヶ浜よりこの地に改葬す。 昭和40年秋』と碑面に書かれてあった。その上には、追悼歌が。『いさをしも槍も刃も 埋もれて梢に寒し松風の音 華の世を所業つたなく散る君に香一片を焚きておろがむ』
1333年(元弘3年)5月22日、新田義貞は稲村ケ崎から鎌倉に攻め込んだ。鎌倉の地で激戦が繰り広げられた末、東勝寺に逃げ込んだ北条高時をはじめとする北条一族約870余名が自刃したことで鎌倉幕府が滅亡したんだ。
由比ガ浜での戦死者の埋葬の塚_1
由比ガ浜での戦死者の埋葬の塚_2
竹の庭
入ってすぐの楓。少しだけ色づいた感じ。
入ってすぐの楓
竹林はこんな感じ
竹林はこんな感じ
ささやかだが、石庭が有る
ささやかだが、石庭が有る_1
ささやかだが、石庭が有る_2
ささやかだが、石庭が有る_3
やぐら(お墓)。こちらの矢倉には足利家時と、ここで自刃した足利義久の墓が安置されているそうだ。
やぐら(お墓)_1
やぐら(お墓)_2
竹林内部の様子
竹林内部の様子_1
竹林内部の様子_2
竹林内部の様子_3
竹林内部の様子_4
竹林内部の様子_5
竹林内部の様子_6

以降は12月初旬に撮影したもの

石像
石像_1
石像_2
抹茶どころ
そういえば、此処は茶道宗偏流の家元稽古場のほど近くなんだ。バスで乗り合わせていた客にも、門人と思しき女性が何人か乗っていたなあ。
抹茶どころ_1
抹茶どころ_2
あの水流は自然に流れ落ちてくるものかなあ。自然に落ちてきても不思議ではないロケーションだが、…。
抹茶どころ_3
抹茶どころ_4
抹茶どころ_5
抹茶どころ_7

報国寺は臨済宗建長寺派の禅宗寺院。この寺は、淨妙寺中興の足利貞氏の父・家時(足利尊氏の祖父)が開基。夢想国師の兄弟子・天岸慧広(仏乗禅師)の開山で建武元年(1334)の創建。永享の乱(1439年に起きた足利持氏の室町幕府将軍・足利義教への反乱)で関東公方・足利持氏は敗退し、永安寺で自刃した時、その長子・義久もこの寺に入って自刃した悲劇の寺である。古くから境内の孟宗の竹林で知られている。三門をくぐり右側の石段を登ると本尊の釈迦如来坐像が祀られている本堂がある。本堂の右手に迦葉堂、左手にかやぶきの鐘楼がある。数多くの文化財があるが、殆どは現在、鎌倉国宝館に所蔵されている。本尊は釈迦如来(市重文)

 

秩父夜祭'14(15)

笠鉾・屋台行列(3)
かなり立ち続けるのが辛くなってきた。でも残るはあと2台。もうひと頑張りだ。

5番手の中町屋台
先ほど神社に向かって進んできた3台の屋台のうちの一台だ。最大級の屋台だそうだ。
5番手の中町屋台_1
5番手の中町屋台_2
5番手の中町屋台_3
5番手の中町屋台_4
5番手の中町屋台_5
5番手の中町屋台_6
『蝋燭掛』まで用意されているようだ
『蝋燭掛』まで用意されているようだ
屋台上でも燃え尽きてしまいそうなそうな蝋燭を交換している
屋台上でも蝋燭の補給が_1
屋台上でも蝋燭の補給が_2
屋台上でも蝋燭の補給が_3
屋台上でも蝋燭の補給が_4
屋台上でも蝋燭の補給が_5
5番手の中町屋台_7
5番手の中町屋台_8
5番手の中町屋台_9
5番手の中町屋台_10
5番手の中町屋台_11
5番手の中町屋台_12
5番手の中町屋台_13

殿を進む本町屋台
先ほど神社に向かって進んできた3台の屋台のうちの一台だ。お金持ちの町会の豪勢な屋台だ。
殿を進む本町屋台_1
殿を進む本町屋台_2
殿を進む本町屋台_3
殿を進む本町屋台_4
殿を進む本町屋台_5
殿を進む本町屋台_6
殿を進む本町屋台_7
殿を進む本町屋台_8
殿を進む本町屋台_9
殿を進む本町屋台_10

以上、笠鉾・屋台行列の6台は全て通り過ぎた。潮がスーッと引いていくようだ。観客も大移動を開始する。
この時点で始まっているだろう団子坂の引き上げが見ものだが、今回は端から諦めて掛かった。

ということで、今年の私の秩父夜祭見学はおしまい。『秩父夜祭'14』シリーズも終了です。最後までご覧いただき有難う御座いました。

 

秩父夜祭'14(14)

笠鉾・屋台行列(2)
非常に寒くなってきたけど、交通規制とものすごい人並みで途中で失礼するわけにはいかない。覚悟を決めて6台全てが通過するまで、ここで頑張ることにした。

3番手の宮地屋台
さきほど、準備状況を秩父神社で拝見した屋台だ。あのときは、静かなものだったが、いまは猛り狂った感じだ。日中の屋台では、日本舞踊が舞われるようだが、夜はご覧のように男臭い屋台に大変身。
3番手の宮地屋台_1
女性たちもなかなかチャーミングだ
3番手の宮地屋台_2
3番手の宮地屋台_3
3番手の宮地屋台_4
3番手の宮地屋台_5
3番手の宮地屋台_6
3番手の宮地屋台_7
3番手の宮地屋台_8
3番手の宮地屋台_9

4番手の上町屋台
先ほど神社に向かって進んできた3台の屋台のうちの一台だ。方向転換には唯一キリンでジャッキアップして旋回させるという。しっかりと見ておくのだったが、今更後悔しても始まらない。多分、人混みの中では何をしているのか殆んどわからないことだろう。
4番手の上町屋台_1
4番手の上町屋台_2
4番手の上町屋台_3
4番手の上町屋台_4
4番手の上町屋台_5
4番手の上町屋台_6
4番手の上町屋台_7
4番手の上町屋台_8
4番手の上町屋台_9
4番手の上町屋台_10
4番手の上町屋台_11

 

秩父夜祭'14(13)

笠鉾・屋台行列(1)
神幸祭のあとを、提灯とぼんぼりを付けた6台の笠鉾・屋台の巡行が、中近笠鉾、下郷笠鉾、宮地屋台、上町屋台、中町屋台、本町屋台の順で続く。秩父夜祭というと笠鉾・屋台の巡行や冬の花火に目を奪われがちだが、これらは秩父神社例大祭の付祭(つけまつり)であり、神賑(しんしん・かみにぎわい)の行事として位置づけられている。

先陣を務める中近笠鉾
観衆が固唾をのむ中、堂々の登場であるから、注目度は非常に高い。囃子手も緊張の極地だろう。
いきなりギリ回し最中の最後尾を見せて申し訳ない。笠鉾が寸詰めして見かけの大きさが屋台と殆ど変わらないが、見かけ上の最大の特徴は後幕が無いことだろう。
屋根の上に白い布が見えている。あれを身体に括り付けて、転落を防止している。
中近笠鉾_7
中近笠鉾_8
正面にいる4人が囃子手。一生に一度しか努められない晴れの役。相当に入れ込んでいることだろう。
中近笠鉾_9
中近笠鉾_10
中近笠鉾_11
中近笠鉾_1
中近笠鉾_2
中近笠鉾_3
中近笠鉾_4
中近笠鉾_5

2番手の下郷笠鉾
笠鉾が先に行くように決められている。本来はこちらが華やかに映るから、そう決められたのだろうか。
花形の囃子手がこちらは6人なのだろうか。なりたい希望者が多く、選ばれるのは相当の貢献度が必要なようだ。
下郷笠鉾_1
下郷笠鉾_2
下郷笠鉾_3
下郷笠鉾_4
下郷笠鉾_5
下郷笠鉾_6
下郷笠鉾_7
下郷笠鉾_8
下郷笠鉾_9
下郷笠鉾_10
下郷笠鉾_11
こちらも笠鉾の見かけ上の特徴になっているが、後幕がない。笠鉾か否かの見分けポイントだ。
下郷笠鉾_12
下郷笠鉾_13
下郷笠鉾_14
下郷笠鉾_15


 

秩父夜祭'14(12)

御神幸行列
まずは御神幸行列の一行がしずしずと登場してきた。この後に、笠鉾・屋台の巡行が続くが、あくまでも祭のメインはこちらの御神幸行列である。笠鉾・屋台の巡行は、秩父神社例大祭の付祭(つけまつり)、神賑(しんしん・かみにぎわい)の行事なのだ。
御神幸行列_1
御神幸行列_2
御神幸行列_3
御神幸行列_4
御神幸行列_5
御神幸行列_6
御神幸行列_7
御神幸行列_8
御神幸行列_9
『天下泰平』の明かりが消えているようにみえる。天下泰平でなくなると大変だ。
御神幸行列_10
御神幸行列_11
御神幸行列_12
御神幸行列_13
御神幸行列_14
御神饌と大幣かな
秩父夜祭で秩父神社にお供えされる神饌田の稲穂が御神饌。それを翌年の『御田植祭』の『種籾まき』で用いるのだそうだ。
御神幸行列_15
御神幸行列_16
御神幸行列_17
御神幸行列_18
御神幸行列_19
ここで行列は一時停止
御神幸行列_20
御神幸行列_21
御神幸行列_22
御神幸行列_23
御神幸行列_25
御神幸行列_26
御神幸行列_27
御神幸行列_28
御神幸行列_29
行列が再び動きだした
御神幸行列_30
御霊が遷された神輿
実に静かな担ぎ方だ。通常の神輿のように、大声を発したり、揺らしたりすることは、絶対に行わない。御霊が遷された神輿を担がせていただくのであるから当然なのかもしれない。
御神幸行列_31
御神幸行列_32
御神幸行列_33
御神幸行列_34
神馬が続く
鎌倉幕府から神馬が奉献されて、以後、今日まで例大祭の神事として、神馬奉献祭が執行されているそうだ。由緒正しき存在のようだ。
御神幸行列_35
御神幸行列_36
御神幸行列_37
御神幸行列_38
御神幸行列_39

3日夜は神幸祭となり、午後6時半頃に御神幸行列が秩父神社を出発する。先頭は、先導大麻、大榊、猿田彦、日月万燈、楽人、錦旗、御手箱、太刀箱の列である。次に氏子町会の供物・高張提灯の長い列が続く。その後ろに、御神饌、大幣、そして御霊が遷された神輿、宮司、大総代、2頭の神馬が続く。笠鉾・屋台行列は御神幸行列の後であり、秩父神社を午後7時頃から順次出発する。
御旅所への到着は、御神幸行列が午後8時頃、笠鉾・屋台行列はその後、午後10時頃にかけてである。御旅所の手前に団子坂があり、笠鉾・屋台がそれぞれ一気に曳き上げられる。同時に、煙火町会による奉納花火や観光協会主催の花火の打ち上げも行われ、団子坂の曳き上げや御旅所に整列する頃が祭りの最高潮となる。

 

秩父夜祭'14(11)

いよいよメインの御神幸行列とそれに続く笠鉾・屋台の巡行開始が迫ってきた。
予定を確認したら、既に神社境内や近辺で見ていた3台以外の残る3台は笠鉾・屋台の巡行に向かうべく秩父神社に向かってくる姿を見ることができることがわかった。まごまごなんかしていられない。のんびり休憩モードを打ち切り、再び街頭に立つ。


御神幸行列とそれに続く笠鉾・屋台の巡行開始直前の様子
我々も小休憩に入る直前に、屋台や笠鉾の様子を確認した。直前の静けさが不気味に思えるほどであった。
準備は整い、出発前の小休憩中だろうか
準備は整い、出発前の小休憩中だろうか_1
準備は整い、出発前の小休憩中だろうか_2
宮地屋台はカレンダー販売を行っていた
宮地屋台はカレンダー販売を行っていた
笠鉾・屋台の巡行に参加すべく秩父神社に向かってくる屋台3台
本町屋台
本町屋台_1
本町屋台_2
本町屋台_3
本町屋台_4
本町屋台_5
本町屋台_6
上町屋台
上町屋台_1
上町屋台_2
上町屋台_3
上町屋台_4
上町屋台_5
上町屋台_6
上町屋台_7
上町屋台_8
上町屋台_9
上町屋台_10
上町屋台_11
中町屋台
中町屋台_1
中町屋台_2
中町屋台_3
中町屋台_4
中町屋台_5
中町屋台_6

 

秩父夜祭'14(10)

夜の支度
下郷笠鉾が秩父神社前で準備をしていた
夜の支度で大忙し_1
夜の支度で大忙し_2
夜の支度で大忙し_3
夜の支度で大忙し_4
夜の支度で大忙し_5
夜の支度で大忙し_6
同行の仲間が中を覗いたところ、座布団の先のスペースが掘りごたつ状態になっていたそうだ。お囃子の連中が腰掛けて太鼓などを叩いたりするスペースだ。右下の人の足が見えている。車輪の大きさがわかるかもしれない。
夜の支度で大忙し_7
ぼんぼりや提灯にロウソクをセットしていた
夜の支度で大忙し_8
夜の支度で大忙し_9
夜の支度で大忙し_10
夜の支度で大忙し_11
夜の支度で大忙し_12
笠鉾の下部
青竹は何に使うのだろうか?
夜の支度で大忙し_13
夜の支度で大忙し_14
洋蝋燭だけでなく和蝋燭も使うようだ。髭のおじさんが抱えている太いのは和蝋燭のようだ。
夜の支度で大忙し_15
大分、準備が整ってきたようである。本来の正装で見てみたいものだが、今年も簡略装備で行くようだ。
夜の支度で大忙し_16
説明板
夜の支度で大忙し_17
夜の支度で大忙し_18

神社境内でも
既に出発が早い屋台や笠鉾が入っていた。一番手の中近笠鉾(右)と三番手の宮地屋台(左)だ。ここで御神幸行列に続く笠鉾・屋台の巡行用の装備を行うようだ。二番手の下郷笠鉾は先ほど見た通り、すぐ前の敷地で装備の真っ最中だった。
笠鉾は、屋台と変わらない高さで抑え、花飾りも装着しない。笠鉾関係者にすれば本当に悔しいことだろう。
中近笠鉾(右)と宮地屋台(左)_1
中近笠鉾(右)と宮地屋台(左)_2
中近笠鉾
中近笠鉾
宮地屋台
宮地屋台_1
宮地屋台_2
宮地屋台_3
夜7時、「神幸祭」の行列が秩父神社を出発し、約1キロメートル南にある御旅所へしずしずと渡御する。
その後を、提灯と雪洞を吊り下げた6基の笠鉾・屋台の巡行が続くのだが、その順番は中近笠鉾を筆頭に、下郷笠鉾、宮地屋台、上町屋台、中町屋台と続き、しんがりは本町屋台と決まっているそうだ。


秩父神社神楽
神楽殿では、秩父神社神楽が演じられている。国の重要無形民俗文化財なのだそうだ。ずっと見ていたかったが、暫しの休憩を取らないと足腰がしびれてきた。
秩父神社神楽_1
秩父神社神楽_2
秩父神社神楽_3
「秩父神社神楽」(国の重要無形民俗文化財)は、現在、一幕一座形式で三十五座を演目とし、秩父神社の附属芸能として神代神楽と称され、主に、神社境内にある神楽殿で上演されます。
この神楽は一般の里神楽と同様、黙劇ですが、演目の中に演劇的な表現が多いのが特徴となっており、関東一円に分布する江戸神楽とは異なる構成と系統を示しており、高天原神話から出雲神話に至るまで、古典神話を題材にきめ細かく組み立てられています。
寛永年間(1624~43年)、江戸の能役者によって舞のくずれを正してもらったと伝えられ、静的で優雅さを保ちながら、軽妙な滑稽味を含んでいます。
使用する楽器は、大太鼓、小太鼓、鞨鼓、笛からなり、大太鼓、小太鼓は一人で交互に打ち込み、鞨鼓は一人で打ち、笛は二丁から三丁で演奏します。
演目は、第七座「天岩屋戸開き」を中心にして三十五座。曲目は、「出」、「神コウラ」、「大内」、「能サガリ」、「岡崎」、「祥殿」、「神祥」、「力太鼓」、「両国ハヤシ」、「カマクラ」など19曲からなります。
また、演目のうち第十八座「代参宮」は、夏の秩父川瀬祭りと冬の秩父夜祭で、それぞれの御旅所で演じられます。これは、面をつけない二人舞で、古風を残す代表的な神楽といわれています。
秩父神社神楽の上演の期日は、2月3日(節分祭)、4月4日(お田植祭り)、7月19・20日(秩父川瀬祭り)、9月27日(番場諏訪神社祭礼)、12月2・3・6日(例大祭)です。

 

秩父夜祭'14(9)

市内曳行も一段落したようなので、少し遅めの食事をとりながら、番場町界隈を歩いてみることにした。

十三番札所と団子坂
秩父三十四箇所の十三札所である旗下山慈眼寺と御旅所に入る最後の急坂である団子坂と御旅所になる広場とをみた。今回は御旅所の近くに行って見ることは諦めていたので、こんな坂なんだということを連れの2人に見せた感じ。
慈眼寺
団子坂の後方に位置し、境内は臨時の有料観覧席になる。お寺さんも商売をしなくてはということだろうか。
慈眼寺_1
慈眼寺_2
慈眼寺_3
団子坂
お祭りであることを示す大きな幟がたっている
団子坂_1
秩父線の架線は、屋台や笠鉾が通過する時間帯には一時取り外される
団子坂_2
最後の最後に立ちはだかる急勾配
曳き綱以外に真綱・増綱を張り、万全の態勢を整えて上るようだ。公式の有料観覧席からは、お囃子と掛け声はかなり前から聞こえているのになかなか姿を表さない。急勾配の真下辺りで、綱を増やして、体制を組み直すのかもしれない。
最後の最後に立ちはだかる急勾配_1
最後の最後に立ちはだかる急勾配_2
2012年撮影分から。引き綱だけでなく何本かの綱が引っ張られているのがわかる。囃子手も精一杯大きな声で、曳き手の士気を鼓舞する。
最後の最後に立ちはだかる急勾配を上りきった

御旅所になる広場
この広場に屋台や笠鉾などが集結する。この時点ではのんびりしたものだが、既にごくわずかだけ有る自由観覧スペースは立錐の余地無く埋まっていた。後数時間、頑張るようだ、ご苦労様。
御旅所になる広場
2012年撮影分から
本当は実に壮麗な感じなのだが、私の腕が追随できなかった
大集合した様子

番場町をぶらつく
お酒の看板
なかなかクラシックな看板だ
お酒の看板
クラシックな建物
片山医院
片山医院
岩田医院
岩田医院
(国)登録有形文化財
松本教室主屋 1棟 【建築年代:昭和4年】
木造2階建、切妻造、桟瓦葺、平入、建築面積152㎡で、正面に下屋を設ける。
桁行8間の真壁造(まかべづくり)である。1・2階とも開口部が多く、軒は2階正面を出桁造とする。
当初は旅館として建てられたもので、旧秩父往還に西面し、近代秩父の商業の繁栄を物語る町屋建築のひとつである。
(登録基準:国土の歴史的景観に寄与)

松本教室主屋
武甲酒造柳田総本店店舗 1棟 【建築年代:江戸時代後期】
秩父往還に東面して建つ。木造2階建、切妻造(きりづまづくり)、鉄板葺、平入で、正面に桟瓦葺(さんがわらぶき)の下屋庇(げやひさし)を設ける。
1階正面には開放的な構えとし、2階は横長の開口部に繊細な格子戸を立て込む。
全体的にたちが低く、屋根勾配も緩やかで、市内でも数少ない江戸期の佇まいをみせている。
(登録基準:国土の歴史的景観に寄与)

武甲酒造柳田総本店店舗
小池煙草店 1棟 【建築年代:昭和初期】
角地に建つ木造2階建で、通り側の壁を高く立上げ、背面側に鉄板葺の片流れ屋根を架ける。通り側は隅を丸めて連続とした壁面とし、コーニス・モールディング・窓周りの縁取りなどと、その他の壁面を色や仕上げで分ける。
装飾性に富んだ昭和初期の店舗兼用住宅である。
(登録基準:造形の規範)

小池煙草店_1
小池煙草店_2
薗田家住宅主屋 1棟 【建築年代:明治末期】
明治末期に武甲山麓の民家の部材を用いて建設したと伝える。
東面して建つ木造総2階建、南北棟の切妻造(きりづまづくり)、桟瓦葺(さんがわらぶき)、平入で、平面は基本的に整形4間取とする。
正面の東面中央に式台を備え、入母屋造(いりもやづくり)屋根の玄関を突出し、社家らしい雰囲気のある外観をみせる。
(登録基準:国土の歴史的景観に寄与)

薗田家住宅主屋
薗田家住宅表門 1棟 【建築年代:天保年間】
敷地東辺にある。1間1戸四脚門形式で、屋根は南北棟の切妻造(きりづまづくり)、桟瓦葺(さんがわらぶき)、間口3m、袖塀付で南妻に潜戸(くぐりど)を設ける。
長方形断面の親柱から垂木まで欅材をふんだんに用いた丁寧なつくりである。南北には桟瓦葺屋根付の板壁を延ばす。
風格のある屋敷正面の構えをかたちづくっている。
(登録基準:国土の歴史的景観に寄与)

薗田家住宅表門
宮前家住宅主屋  1棟 【建築年代:昭和5年】
建築家・山田醇(やまだじゅん)の設計になる木造2階建、瓦葺の住宅である。
中央部が東西棟の切妻造(きりづまづくり)の2階建、西と東の1階の部分が南北棟の切妻造で、破風(はふ)を多用した変化のある外観を構成する。
外観は建具等を含め洋風を基調とするが、内部は和風となり、和洋が巧みにまとめられている。
(登録基準:造形の規範)

宮前家住宅表門 1棟 【建築年代:昭和5年】
西側が通りに面した敷地西辺のほぼ中央に在る。間口2mの小規模な1間1戸棟門で、軒は木舞打(こまいうち)の一軒疎垂木(ひとのきまばらたるき)、切妻造(きりづまづくり)、桟瓦葺(さんがわらぶき)の屋根を架ける。
主屋の和風意匠とよく通じており、内法差物(うちのりさしもの)や親柱の隅面を名栗仕上げとするなど、要所に繊細な造形がみられる。
(登録基準:造形の規範)

宮前家住宅

 

秩父夜祭'14(8)

2011年撮影の上町屋台と本町屋台とのすれ違い(2)
右側の露店が邪魔になって、真ん中寄りギリギリを通らざるをえない。本当に厳しい状況だ。
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(2)_1
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(2)_2
いよいよ出します伝家の宝刀。お互いの足でそっと押し合うのだ。
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(2)_3
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(2)_4
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(2)_5
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(2)_6
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(2)_7
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(2)_8
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(2)_9
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(2)_10
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(2)_11
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(2)_12
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(2)_13
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(2)_14
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(2)_15
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(2)_16
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(2)_17
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(2)_18
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(2)_19
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(2)_20
無事すれ違った。でも露店との距離はギリギリだ。
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(2)_21
それーっ、行くぞ!!威勢のよい気合が掛けられる。
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(2)_22

2011年撮影の荒川の川霧と武甲山の山霧が背景になった様子
何とも風情があって好きだ。毎年こうならないものかと思うが、そうはいかないのだろう。
荒川の川霧と武甲山の山霧が背景になった様子_1
荒川の川霧と武甲山の山霧が背景になった様子_2


 

秩父夜祭'14(7)

上町屋台
中町屋台の後方に見えていた屋台。今回の当番町会で『屋台芝居』を上演していたようだ。どうも遅かりし由良之助だったようで、後片付けをしていた。なお、この屋台のみがギリ回しではなく、キリンと呼ばれるジャッキを使用した方向転換を行う。
後片付けの様子
組み立て直せば、下にあるような立派な屋台に早変わりするのだ。釘などは一切使わない屋台。模様替えは割と早くに完了するようだ。
後片付けの様子_1
後片付けの様子_2
役者たち
役者たち_1
役者たち_2
役者たち_3

2011年撮影の上町屋台と本町屋台とのすれ違い(1)
おそらく日中の市内曳行の時にのみ見られる醍醐味の有るシーン。夜は、こうならないようにスケジュールが組まれていた。
もう少しですれ違いに入る。固唾をのむ時間が続く。
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(1)_1
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(1)_2
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(1)_3
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(1)_4
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(1)_5
少しずつ、少しずつ、お互いの屋台が接近していく
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(1)_6
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(1)_7
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(1)_8
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(1)_9
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(1)_10
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(1)_11
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(1)_12
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(1)_13
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(1)_14
さて、このあと何をするか。そこがすれ違いの最大の見所だ。
上町屋台と本町屋台とのすれ違い(1)_15

上町屋台は四つ棟造り(よつむねづくり)の屋根と登り勾欄が附設された比較的新しい形の屋台で、ギリ廻し(方向転換)には唯一キリン(キリンジャッキ)でジャッキアップして旋回させるという。
後方から見上げると、屋根が大きく広がっており、四方の唐破風とあいまって豪華絢爛である。

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4台の屋台の中で、一番大きな屋根を持つ。後幕は、鯉の滝登り。運行組織は「い組」と呼ばれ屋台町会の中での屋台のすれ違いは見ものである。

 

秩父夜祭'14(6)

中町屋台
もう少し早く到着していれば、ここでもギリ回しが見えたのに。終わって、引き返す寸前だったようだ。
中町屋台_1
後方にチラと見える屋台は何かと思うことだろう。いずれわかる。
中町屋台_2
中町屋台_3
中町屋台_4
中町屋台_5
中町屋台_6
中町屋台_7
鬼板がものすごい。手力雄命(タヂカラオノミコト)が天岩戸開きをして天照大神が現れるシーンを題材にしたものだそうだ。
中町屋台_8
中町屋台_9
中町屋台_10
水引幕は、緋羅紗(ひらしゃ)に波と亀を刺繍したものだそうだが、本当に亀が乗っているような感じ。凄いものだ。
中町屋台_11
中町屋台_12
この日の後幕は『鯛』をあしらった後幕。超高価な後幕を2枚所有しているとは何とも豪儀なことだ。
中町屋台_13
中町屋台_14
中町屋台_15
目立たないけれど実はこの人達が重要な役目を果たしている。屋台が蛇行しないように制御しているのだ。
中町屋台_16
中町屋台_17
中町屋台_18
中町屋台は、秩父屋台の中では最大級で、日本の神話を題材とした大きな鬼板(おにいた)が屋根に取り付けられ、正面に登り勾欄(こうらん)を付けた新しい様式の屋台である。水引幕は、緋羅紗(ひらしゃ)に波と亀を刺繍(ししゅう)したもの。後幕は青地羅紗に巨大な鯛が踊る豪華な刺繍が施されている。
鬼板:破風に取り付けられる鬼瓦の代りに用いる木製の棟飾り。
勾欄:高欄のこと。宮殿・社寺・廊下・橋などの端の反りまがった欄干。
水引幕:劇場で舞台前面の上方や相撲で4本柱の上などに横に張る細長い幕。
緋羅紗:緋(深紅)の羅紗。羅紗は羊毛で地の厚く密な毛織物。室町末期頃から江戸時代を通じて南蛮船、後にオランダや中国の貿易船によって輸入され、陣羽織・火事羽織・袋物などに用いた。今は毛織物全般もいう。

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4台の屋台の中で最も大きな屋台。屋根の鬼板(彫り物)は大きく美しい。下方(運行組織)は中町屋台保存会青年部が運行している。6町会の中で唯一、恵比寿の幕、鯛の幕の2枚の後幕を持ち、12月2日、3日と違う後幕を見ることができるのもこの町会の特徴である。

 

秩父夜祭'14(5)

本町(もとまち)屋台
過去にこの屋台の転倒事故があった。笠鉾ではなく屋台の方だったとは意外なことだが。その後は安全を期して行われていることなのだろう。
本町屋台_1
もうすぐ曳行が再開のようだ。曳き手にも気合が入りだした。
本町屋台_2
休憩時に何か演じていたようだ。そのご婦人が退出する。
本町屋台_3
本町屋台_4
本町屋台_5
本町屋台_6
本町屋台_7
いよいよ出発のようだ。囃しの人達も持ち場につく。
本町屋台_8
本町屋台_10
本町屋台_11
出発!!屋台が動き出した。
本町屋台_12
本町屋台_13
本町屋台_14

この屋台は、登り勾欄のない古い形をとどめており、以前は二重勾欄と呼ばれる勾欄が2段ある珍しい屋台形式だったが、大正3年(1914)の転倒事故以後、現在の姿になったという。
本町(もとまち)は市街地の中心部にあり、昔から経済的にも恵まれ、夏冬二台の屋台を所有しているという。屋台の彫刻や装飾にも財力を傾け、金箔押の上に彩色するなど贅を尽くした造りとなっている。舞台天井には墨絵の雲龍図が入る。江戸随一といわれた縫師玉孫の名がある。
本町屋台の彫刻には一切人物が登場しない。水引幕は緋羅紗に波と飛龍の刺繍。後幕には青地羅紗に達磨(だるま)などの玩具を乗せた宝船「玩具宝船」が刺繍されている。半纏の背中は○に「本」の字か「達磨」の二字。

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本町地区の所有する屋台。後幕が子供の玩具でその中にあるだるまが特徴的であり 運行組織は達磨会と呼ばれる。明治・大正時代までは二重勾欄をもつ屋台であったが転倒事故後今の勾欄になる。

 

秩父夜祭'14(4)

今回の記録ではなく、2012年10月に行われた重要文化財指定50周年記念特別曳行時の記録から、本来の姿で行われた時のギリ回しの様子を紹介する。

下郷笠鉾のギリ回しの様子
秩父神社境内にて
笠鉾が高く、バランスをとるのが非常に難しいし、重要になる。特にギリ回しにおいては、凄い緊張感が見てとれる。
下郷笠鉾のギリ回しの様子_1
支えのロープの張り具合で、緊張感がうかがい知れるというものだ
下郷笠鉾のギリ回しの様子_2
ギリ棒のセット中。見守る人達の表情も真剣そのものだ。
下郷笠鉾のギリ回しの様子_3
下郷笠鉾のギリ回しの様子_4
ギリ棒のセットがうまく行ったようだ。安堵感が広がる。
下郷笠鉾のギリ回しの様子_5
下郷笠鉾のギリ回しの様子_6
下郷笠鉾のギリ回しの様子_7
笠鉾を回転させる。相当な力仕事に見える。
下郷笠鉾のギリ回しの様子_8
下郷笠鉾のギリ回しの様子_9
下郷笠鉾のギリ回しの様子_10
下郷笠鉾のギリ回しの様子_11
下郷笠鉾のギリ回しの様子_12
笠鉾の回転に合わせて、ロープを持つ人達も回る。これがあるので、観客は少し離れてみてもらうことになる。
下郷笠鉾のギリ回しの様子_13
下郷笠鉾のギリ回しの様子_14
下郷笠鉾のギリ回しの様子_15
下郷笠鉾のギリ回しの様子_16
下郷笠鉾のギリ回しの様子_17
下郷笠鉾のギリ回しの様子_18
下郷笠鉾のギリ回しの様子_19
下郷笠鉾のギリ回しの様子_20
下郷笠鉾のギリ回しの様子_21
下郷笠鉾のギリ回しの様子_22
下郷笠鉾のギリ回しの様子_23
今度はギリ棒を外すため、もう一度笠鉾を傾ける。平気な顔をしているが、笠鉾に乗っている人も大変だと思う。
下郷笠鉾のギリ回しの様子_24
下郷笠鉾のギリ回しの様子_25
下郷笠鉾のギリ回しの様子_26
下郷笠鉾のギリ回しの様子_27
下郷笠鉾のギリ回しの様子_28
下郷笠鉾のギリ回しの様子_29
下郷笠鉾のギリ回しの様子_30
幕の中に囃子の人の手がチラと見える。太鼓や笛はあの中に入り込んで演奏を行う。迫力のある音が響くわけだ。ずーっと入りっ放し。尿意との戦いが厳しそうだ。
下郷笠鉾のギリ回しの様子_31

 

秩父夜祭'14(3)

中近笠鉾のギリ回し
中近笠鉾が小さく見えるだろうが、それは敢えて小さくしているからだ。下の方に本来の姿を載せたので確認頂きたい。ギリ回しとは、上町(かみまち)屋台を除くすべての屋台や笠鉾が90度方向転換を行うやり方だ。折り返しのため180度回転させたようだ

武甲酒造・柳田総本店先の路上でのギリ回し
まずは笠鉾を浮かせてギリ棒を笠鉾の重心位置にセットする。この高さの時は行わないが、本来の高さの時は、転倒防止のために四方に伸びたロープで必死に支える。
中近笠鉾のギリ回し_1
中近笠鉾のギリ回し_2
中近笠鉾のギリ回し_3
中近笠鉾のギリ回し_4
中近笠鉾のギリ回し_5
中近笠鉾のギリ回し_6
必要な角度分回転させる。通常は90度だが、今回は折り返しなので180度。
中近笠鉾のギリ回し_7
中近笠鉾のギリ回し_8
中近笠鉾のギリ回し_9
中近笠鉾のギリ回し_10
中近笠鉾のギリ回し_11
中近笠鉾のギリ回し_12
中近笠鉾のギリ回し_13
中近笠鉾のギリ回し_14
中近笠鉾のギリ回し_15
中近笠鉾のギリ回し_16
中近笠鉾のギリ回し_17

この後のギリ棒外しのシーンは省略するが、それから徐ろに出発することになる。

2012年10月に行われた重要文化財指定50周年記念特別曳行時の記録から
笠鉾本来の高さになっている
笠鉾本来の高さになっている様子_1
笠鉾本来の高さになっている様子_2
笠鉾本来の高さになっている様子_3

中近傘鉾は、屋台町6町のうち、秩父神社西方の中近(なかちか)が受け持つ傘鉾型の屋台で、屋根の上に御幣(ごへい)と神木(しんぼく)である榊(さかき)が立てられている。中近は、祭のときに行政上の中村町(なかむらまち)と近戸町(ちかとまち)があわさって連合町会「中近」となったもの。
現在の笠鉾は三代目で、明治13年(1880)に造られた名工・荒木和泉の作という。構造は八棟造*(やつむねづくり)の屋根の上に、3層の笠を立てた大型の笠鉾で、勾欄に龍が巻き付いている。大正3年(1914)の電線架設以来、鉾を立てずに曳行され、現在は笠も取り外して運行される。

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中村町・近戸町の2町会が管理する笠鉾。御神幸祭の際に最初に曳行する(そのため、山車を引く際の運行組織は一番組の名称がつけられている)。秩父夜祭の中では一番古い歴史をもつ山車で、初代は屋台・2代目は笠鉾であった。現在の屋台笠鉾形式ものは3代目である。
屋台のギリ廻し
京都・祇園祭の辻回し(つじまわし)と呼ばれる山鉾の90度方向転換作業は、秩父では「ギリ廻し」と呼ばれ、一つの見所となっている。長さ約7m、幅20cmの二本の角材を屋台の前後どちらかに差し入れ、馬(支点になる台)を梃子に約20人が呼吸を合わせて角材に体重をかけ車輪を持ち上げる。
屋台の片方が20度ほど浮き上がったところで、屋台の下にギリ棒(心棒)を置き、台車の回転中心をギリ棒に嵌め込み、屋台がギリ棒に乗って浮き上がったところで、屋台の各部に何人かづつぶら下がり、水平を保ちながら、みんなで押して90度旋回させた後、再度二本の角材で車輪を浮かせてギリ棒を取り去り、もとの四輪車となって曳行する。
なお、上町(かみまち)屋台だけは、キリンと呼ばれるジャッキ(キリンジャッキ)で屋台を持ち上げて旋回させるため、二本の角材で車体を傾ける作業は見られない。


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秩父夜祭'14(2)

まずは秩父神社に向かった。ここに行かなければ、私の秩父夜祭見物が始まらない。

宮入していた宮地屋台に出会った
ギリ回しをして、屋台正面を神門前に付けた。そして、一同最敬礼で玉串を奉奠し、お祓いを受けた。その後のシーンは見なかったが、少し屋台を下げ、再び、ギリ回しをして、神社を出発するはずだ。ギリ回しは大変な作業なのだが、次回取り上げたい。
宮入していた宮地屋台_1
宮入していた宮地屋台_2
宮入していた宮地屋台_3
宮入していた宮地屋台_4
宮入していた宮地屋台_5
宮地屋台は秩父最古の歴史を有し、登り勾欄のない古い形をとどめ、秩父屋台の中では最も端正な形をしているといわれる。水引幕は緋羅紗に飛鶴の刺繍。
後幕には青地羅紗に赤い髪の3匹の猩々が刺繍されている。天井には飛天が極彩色に描かれている。秩父屋台の天井は原則として墨絵の雲龍なので、宮地屋台は異色の存在である。

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宮地地区(上宮地・中宮地・下宮地)の屋台。この地域は秩父神社に習合される前の妙見宮があったところとされ(現在は妙見塚)でそのために宮地(みやじ)と呼ばれる。秩父夜祭の屋台の中では最古の歴史をもち、かつ登り高欄がないなど最も古い原型をしている。御神幸祭の際には3番目に曳行される山車でそのため他町会の屋台と違い曳踊りでは必ず三番叟が上演される。妙見七ツ井戸の伝説に従い、屋台倉から3日の神社への宮入までに七回曳踊りを行う風習があるなど妙見菩薩に最も縁が深い山車である。

神幸行列に欠かせないもの
本当に不可欠のものは、この時点では表に出されていない
当然のことながら神輿
あとでわかると思うが、通常の祭とは全く違う静かな担ぎ方を行う
神輿
神馬
2頭用意されていた。神幸行列の最中もむずかったりしない、本当におとなしい馬だった。
神馬_1
神馬_2

秩父神社社殿
社殿は徳川家康による造営で、本殿・幣殿・拝殿が一つにまとめられた権現造の形式である。左甚五郎の作とされるものを含む多くの彫刻で飾られている。
家康が中興したので、正面に虎の絵が描かれている
社殿正面_1
2012年撮影分から
社殿正面_2
見事だと言われる彫刻の数々
『子宝 子育ての虎』
『子宝 子育ての虎』_1
2012年撮影分から
『子宝 子育ての虎』_2
左甚五郎作と言われる『つなぎの龍』
本物の鎖で括られている。何故そうなっているかが興味の有る方は、検索して見られたら如何だろう。
『つなぎの龍』_1
『つなぎの龍』_2
『北辰の梟』
あんなふうに首を回したら、…
『北辰の梟』
『お元気三猿』
『お元気三猿』
『瓢箪から駒』
『瓢箪から駒』

 

秩父夜祭'14(1)

秩父夜祭ダイジェスト
どんな祭りなのかイメージを持っていただきたい。そういう考えから、あえて詳細の説明は行わない。
今回取り上げた分は、EOS M2で撮影した。周囲を見回すとフルサイズ機に高級レンズを付けたカメラ・システムがずらり。引け目を感じながらも撮りまくった。
秩父神社にて
秩父夜祭ダイジェスト_4
秩父夜祭ダイジェスト_5
秩父夜祭ダイジェスト_1
秩父夜祭ダイジェスト_2
秩父夜祭ダイジェスト_3
秩父夜祭ダイジェスト_8
ギリ廻し
秩父夜祭ダイジェスト_9
秩父夜祭ダイジェスト_10
夜の様子
秩父夜祭ダイジェスト_6
秩父夜祭ダイジェスト_7
秩父夜祭ダイジェスト_11
秩父夜祭ダイジェスト_12
秩父夜祭ダイジェスト_13
秩父夜祭ダイジェスト_14
秩父夜祭ダイジェスト_15
秩父夜祭ダイジェスト_16

 

秋の瑞泉寺~報国禅寺~杉本寺(3)

永福寺跡
前回も見た永福寺跡。室町時代に入ってからの鎌倉は、もうかつての栄光の日々の面影は薄く、永福寺も焼失後は怨念の向け先である源頼朝が没後久しかったので、為政者たちに顧みられることがなかったようだ。
今回もその永福寺跡に立ち寄ってみた。整備工事がほそぼそと続いているようだ。
永福寺跡_1
永福寺跡_2
少し高いところから見てみる
永福寺跡_高い位置から見た様子
護良親王の本当の埋葬場所は、あのこんもりとした山のようだ
護良親王の本当の埋葬場所は、あのこんもりとした山のようだ
かなり整備が進んでいる。鎌倉市の資力をもってすれば、堂宇の再建も無理ではないと思うのだが、…。貴重な観光資源にもなりそうだ。そのような欲が湧いてくる状況だ。
鎌倉市の資力をもってすれば

源頼朝は文治5年(1185年)9月の奥州合戦を契機に、源義経・藤原泰衡をはじめとする数万の怨霊をしずめ、冥福を祈るための寺院の建立を発願。その年の12月には永福寺の建立に着手した。建立には畠山重忠ら関東の御家人の助力があった事が『吾妻鏡』に記載されている。建久3年(1192年)11月25日に本堂が完成し、落慶供養が行われた。
応永12年(1405年)の火災ののち廃絶した。


鎌倉宮を素通りし、荏柄天神社の参道を逆に進み、金沢街道に面した一の鳥居をくぐる。そこで左折し、金沢街道を報国禅寺方面へ向かう。

報国禅寺方面へ向かう
荏柄天神社の一の鳥居
荏柄天神社の一の鳥居_1
この親子の向う方向に二の鳥居があり、その先の山上に荏柄天神社がある。
荏柄天神社の一の鳥居_2
歌ノ橋
由緒ある橋のようだが、二階堂川の流量は微々たるもので、ごく短く小さな橋。石碑がなければ殆どの人が気づかないほどだと思う。
歌ノ橋_1
歌ノ橋_2
歌ノ橋_3
歌ノ橋は、金沢街道の二階堂川に架かる橋で鎌倉十橋の一つ。
1213年(建暦3年)、二代将軍源頼家の遺児千寿丸を将軍に据えようとする企てが露見した。この企てはのちに和田合戦の原因となるが、謀叛を企てたとして捕まった者の中に渋川刑部六郎兼守という者がいた。
兼守は、無実の罪を晴らすために十首の和歌を荏柄天神社に奉納した。その和歌がどのようなものであったかは伝わっていないが、和歌を手にとってみた将軍源実朝が感動し無罪放免となったという。
感謝した兼守が、その御礼として二階堂川に架けた橋がこの「歌ノ橋」と伝えられている。
 
現在の位置を確認
鎌倉街道と滑川とはもつれ合うようにして並んで存在する。この図では、『至鎌倉宮』と書かれているあたりから鎌倉街道に入り、二階堂川を歌の橋を通って渡り、現在地は大懸橋のところだ。つまり杉本寺の真ん前である。
現在の位置を確認_1
滑川が少し蛇行している
現在の位置を確認_2
はなの橋
ここを渡って報国禅寺に向かう。浄妙寺も近いが、今回はパスした。
はなの橋
橋の袂の石像
右から2つ目の石像が何ともユーモラスだ
橋の袂の石像_1
橋の袂の石像_2
橋の袂の石像_3
橋の袂の石像_4

 

秋の瑞泉寺~報国禅寺~杉本寺(2)

瑞泉寺(2)
山門をくぐる
やはり、前庭の楓などは青々としたままだ
やはり、前庭の楓などは青々としたままだ
赤いものは全く見えない
赤いものは全く見えない_1
赤いものは全く見えない_2
前庭の鶴亀の石庭
落ち着いて見ると、なかなかいい感じだ
前庭の鶴亀の石庭
『紅葉がまだで、ごめんね』と謝っていたかのようだった。実は、水仙も咲きだしていたのだったが、見事なピンぼけでアウト。
『紅葉がまだで、ごめんね』と謝っていたかのようだった
大宅壮一評論碑「男の顔は履歴書である」
有名なものだ。久保田万太郎句碑「いつぬれし待つの根方ぞはるしぐれ」の方は見落としてしまった。
大宅壮一評論碑
こうしてみると少しは赤色もあるかな
こうしてみると少しは赤色もあるかな
おまちかねの瑞泉寺庭園
今回は超広角レンズの傾向を忘れなかった。それでも立ち入りを許されている場所からは、ちょっと迫力が足りないかもしれない。
瑞泉寺庭園_1
瑞泉寺庭園_3
瑞泉寺庭園_4
瑞泉寺庭園_5
瑞泉寺庭園_8
振り返ると楓の木が有るのだが
瑞泉寺庭園_6
石像も並んで庭園鑑賞と洒落こんでいるようだ
瑞泉寺庭園_7
男坂を下りる
紅葉していたらさぞかしきれいなことだろう
男坂を下りる_1
男坂を下りる_2

 

秋の瑞泉寺~報国禅寺~杉本寺(1)

3連休中日の23日(日)に、まだ早いかもしれないが、鎌倉に近い横須賀にいたし、天気も良かったのでダメ元で瑞泉寺の紅葉を見に出かけた。寺のある一帯は紅葉ヶ谷(もみじがやつ)と呼ばれる谷戸に位置している。見ることができれば、眼福があったというものだ。しかし、懸念は不幸にも的中し、紅葉など微塵も始まってもいなかった。気を取り直して、瑞泉寺~報国禅寺~杉本寺を歩いてみた。

瑞泉寺(1)
途中の様子
通玄橋は欄干に楓のデザインがあったが、周囲に紅葉の兆しはない。かなり心配になってきた。
通玄橋
民家の庭先に少し紅葉があった。もしかしたらと期待が…
民家の庭先に少し紅葉があった
惣門の鬼瓦
惣門の鬼瓦
境内に入る
紅葉の代わりにこんなものがお出迎え
紅葉の代わりにこんなものが_1
紅葉の代わりにこんなものが_2
男坂と女坂
うーん、緑一色だ。紅葉のトンネルのはずだったのだが。そのままの状態で山門に着いた。
男坂と女坂_1
男坂と女坂_2
男坂と女坂_3
男坂と女坂_4
男坂と女坂_5
男坂と女坂_6
男坂と女坂_7
男坂と女坂_8
男坂と女坂_9
山門付近で
手水で清める。石像が『ごくろうさん』とばかりに迎えてくれたのだが。
山門付近で_1
山門付近で_2
今日の句は虚子の作品だった。『静かなる月日の庭や石蕗の花』
今日の句は虚子の作品だった
こんな石像もあった
こんな石像もあった_2
吉野秀雄歌碑「死をいとい生をもおそれ人間の ゆれ定まらぬこころ知るのみ」
達筆なのかなあ。読みにくい字のように思えたが。
吉野秀雄歌碑
山崎方代歌碑「手の平に豆腐をのせていそいそといつもの角を曲がりて帰る」
こちらの方が若干読みやすい感じ
山崎方代歌碑
松陰吉田先生留跡碑
松陰吉田先生留跡碑

 

秋の日本民家園(18)

20.船越の舞台
何度見ても驚くものだと思う。最後の最後にこの舞台に至る上り坂は長く急勾配で、見に行く気を萎えさせかねないほどだ。でも、我慢していってみると、見事な舞台が眼前に。
船越の舞台の断面図
船越の舞台の断面図
舞台の真裏
舞台の真裏
奈落への入り口
奈落への入り口
正面に見えるのが回り舞台を回す仕掛け
正面に見えるのが回り舞台を回す仕掛け
垂れ下がっている棒を人が掴んで回した。イラスト通りだとすると、棒は4本だが、薄暗くて勘定し損ねた。
垂れ下がっている棒を人が掴んで回した
随分頑丈に作ったようだ
随分頑丈に作ったようだ
回り舞台の断面図
回り舞台の断面図
舞台正面側
舞台正面側_1
舞台正面側_2
舞台のクローズアップ
時々公演をする都合があるのか、照明用のランプが見える。その昔は、夜間の公演に際しては、ロウソクを使ったのだろうか。西洋でも、バロック時代の大作曲家たちは、演奏会の照明用にろうそくを使った。そのロウソク代を工面するのが大変な仕事だったと聞いている。日本ではどうだったのだろうか?薪能みたいなことをしたのだろうか?
舞台のクローズアップ_1
舞台のクローズアップ_2
舞台のクローズアップ_3

重要有形民俗文化財
 建物区分:歌舞伎舞台
 構造形式:正面入母屋造、背面切妻造、桟瓦葺、一部二階、桁行9.1m,梁行10.8m/側面出語付、桟瓦葺/背面庇付、桟瓦葺、桁行10.8m、梁行2.7m/側面楽屋付、切妻造、桟瓦葺、桁行5.3m、梁行7.3m
 建築年代:安政四年(1857)、墨書
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回り舞台を備えた漁村の歌舞伎舞台
この舞台は、もと志摩半島の漁村の神社境内にありました。建てられたのは江戸時代末期の安政四年(1857年)です。
屋根は正面が入母屋造、大棟(おおむね)には凝った鬼瓦を配しています。これに対し背面は切妻造で、鬼瓦も小さく単純です。こうした外観は、正面性を重視する舞台建築の性格をよくあらわしています。なお、鬼瓦や軒先瓦につく「若」の字は、舞台建築に若者組という伝統的青年組織が関わったことを記念するものです。
舞台両側の張出し部は出語りといい、上手(正面に向かって右側)は芝居の語り手の席、下手は寄付金を扱う会計係の席です。
舞台装置としては、直径三間(5.4m)の回り舞台、スッポン(せり上がり)のある花道、高所作業用の簀子(すのこ)等、歌舞伎芝居のために必要なものはほとんど備えています。
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見どころポイント!
 瓦の「若」の文字は、舞台の建築に若者組が関わったことを示しています。
 建物地下の奈落(ならく)は、回り舞台を回すための空間です。


付け足し
紅葉の様子
紅葉の様子_1
紅葉の様子_2
紅葉の様子_3


かなり長くなってしまいましたが、以上で『秋の日本民家園』シリーズは終了です。最後までお付き合いいただき、大変有難うございました。

 

秋の日本民家園(17)

18.蚕影山祠堂(こかげさんしどう)
前回は工事中で全く様子を窺い知ることができなかった。興味津々見たのだが、想像以上に格好が良かった。
正面から見た様子
見えているのは覆堂(さやどう)に当たる部分。覆堂といえば、横浜市の三渓園に国指定重要文化財の『旧天瑞寺寿塔覆堂』がある。向こうは、豊臣秀吉が母のために建てた寿塔を覆うための建物なので敵うはずもないのだが、こちらもなかなかの威風を誇る。
正面から見た様子
覆堂内部の様子
覆堂の厳しさではなく、こちらこそ、養蚕の神「蚕影山大権現(こかげさんだいごんげん)」を祭った宮殿(くうでん)で、意味あるもの。徒や疎かに考えてはいけないのだろう
覆堂内部の様子
「鷹」の場面の彫刻のイラスト
「鷹」の場面の彫刻のイラスト
「舟」の場面の彫刻のイラスト
「舟」の場面の彫刻のイラスト
側面から見た様子
小さいながら芝棟がしつらえてあり、イチハツが植えられていた。
側面から見た様子

川崎市重要歴史記念物
 旧所在地:神奈川県川崎市麻生区岡上 東光院内
 建物区分:宮殿および覆堂
 覆堂=正面入母屋造、背面寄棟造、茅葺、桁行4.6m、梁行2.7m
 建築年代:文久三年(1863)、宮殿棟札
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養蚕信仰を今に伝えるお堂
この建物は川崎市麻生区の東光院境内にあったもので、養蚕(ようさん)の神「蚕影山大権現(こかげさんだいごんげん)」を祭った宮殿(くうでん)と、その覆堂(さやどう)から成っています。覆堂の茅葺屋根は、頂上を土と草で固める芝棟(しばむね)で、春にはイチハツが咲き誇ります。宮殿は正面に唐破風(からはふ)を設けた春日造風の社で、浮き彫りの彫刻を施しているのが特徴です。
中でも注目に値するのは、金色姫(こんじきひめ)伝説を表現した側面の彫刻です。金色姫は天竺(てんじく、現在のインド)に生まれ、四度の大苦難ののち、馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)の化身として日本に養蚕を伝えたといいます。この 彫刻は養蚕の起源を説くもので、四度の大苦難は蚕の四回の休眠(食事をせず動かなくなる脱皮前の時期)を象徴しています。
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見どころポイント!
 内部の宮殿の両側面には養蚕の神様である金色姫の苦難の物語、獅子・鷹・舟・庭の4場面が彫刻されています。
 屋根にはイチハツという花が植えてあり、5月には花が咲きます。


19.岩澤家住宅
岩澤家住宅があった清川村は、神奈川県の北部に位置する県内で唯一の村。県内の市町村では最も人口が少ない。宮ヶ瀬ダムのある村で、現在は結構観光でも有名なようだが、昔は本当に山奥の谷あいの村の辺鄙な農村だったことだろう。昔は、炭焼きを中心に、焼畑農業や林業を仕事にしていたというから、相当に生活が厳しかったのではなかろうかと思う。名主の家でも、他の名主の家ほど贅を尽くせなかったのではないかと思うのだが、見た感じは同じようにみえる。もしかしたら、林業で栄えていたのだろうか?
外観
茅葺屋根が撓んでいるように見えて、気になって仕方ないのだが、大丈夫なのだろうか。どうも支えの竹が折れているようだ。豪雪に耐える仕様になっていないようで、ドカ雪でやられたのかもしれない。
大戸口の右側は竹で外側を覆っているようだ。あまり見たことがないものだ。土壁に縦方向の竹を貼ってあるとのこと。

外観
家屋内部の様子
岩澤家住宅の間取り図
岩澤家住宅の間取り図
ダイドコロ
ダイドコロ_1
右手に鎮座するのは、「ホイロ」というお茶作りに使う道具。木枠の底に和紙を張り、火鉢などにかざして海苔・茶などを乾燥させる道具とのこと。手もみの茶を作るのに使ったのだろうか。
ダイドコロ_2
ザシキ
ザシキ
デエとヘヤ
床の間の前身といわれる押板とは、『ヘヤ』の表示の右手のことを言うのだろうか?少し引っ込んだスペースになっていたか、記憶に無い。(^_^;)
デエとヘヤ

神奈川県指定重要文化財
 旧所在地:神奈川県愛甲郡清川村煤ヶ谷
 建物区分:農家(名主の家)
 構造形式:入母屋造、茅葺、桁行14.5m、梁行7.3m
 建築年代:17世紀末期
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茶畑に囲まれた山間の農家
この建物は、名主もつとめた農家の家でした。谷間の斜面に敷地をひらき、江戸時代は炭焼きを中心に、焼畑農業や林業を仕事にしていました。
屋根は、典型的な入母屋造(いりもやづくり)です。間取りは、「ザシキ(居間)」「デエ(座敷)」「ヘヤ(寝室)」からなる広間型三間取りです。しかし、園内に移築された他の神奈川県内の古民家には見られない特徴がいくつかあります。まず、デエの正面を半間後退させ、ここにザシキへの出入口を設けています。また、デエには押板(おしいた、床の間の前身)を備え、ヘヤにはザシキからだけでなくデエからも出入りできるようになっています。
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見どころポイント!
 デエにある押板は床の間の前身といわれ、古い家の特徴の一つです。
 入口右手の道具は「ホイロ」といい、お茶作りに使います。

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岩澤家住宅の旧所在地は丹沢山塊東麓の山あいの地、神奈川県愛甲郡清川村煤ヶ谷である。相模川の支流・小鮎川の段丘上に立地し、名主も勤めた家柄という。現在の主屋の建立年時を示す資料はないが、17世紀末頃と推定されている。屋根は移築前は寄棟造だったが、入母屋造に復原されている。
間取りは神奈川の古民家の主流である広間型3間取で、土間(ダイドコロ)と床上3室からなる。生活の中心であるザシキは桁行2.5間が通例だが、当家は3間で、これは上層農家の格式を示すものである。ザシキの前面2間を格子窓とするのはこの時代の関東の古民家に共通する。デエは客座敷だが、床の間はなく、かわりにヘヤとの境に押板を設ける。県内の古民家では、押板はザシキとヘヤ境のザシキ側に付けられるのが通例だから、この形式は特異である。また土間の妻側に格子窓を設けるのも類例が少ない。主屋表側の外壁はデエの部分だけ半間後退させ、上屋柱筋に建具を入れている。こうした構えは、この半間幅の下屋を客座敷の玄関として扱ったことによるらしい。正面上部の2間とばしの枕梁に製材した木を用い、しかもそれを虹梁に似せたり、あるいはこの枕梁の中央に乗る下屋の繋梁を同じく虹梁型にするのも、客座敷の出入口の格式付けのためだったのだろう。ただ、出入口の装置として不可欠な式台や縁の痕跡は発見されなかったので、座敷から直接外に出る形に復原されているが、おそらく低い置縁のようなものが据えられていたのではないかと思われる。このデエも含め、天井はすべて竹簀子天井で素朴である。
四周の半間幅を下屋とする構造だが、県下に一般的な四方下屋造とは異なっている。通常の四方下屋造ではやはり四周の半間幅を下屋とするものの、上屋柱の立つ位置は下屋柱筋より1間内側である。これに対し、岩澤家では下屋柱筋より半間内側に上屋柱を立てるから、上屋・下屋の違いがきわめて明瞭である。こうした構造は東北地方などに多くみられるが、県内では津久井郡や愛甲郡北部にわずかにみられる古式の構造で、四方下屋造の祖形と考えられている。また、柱がすべて手斧仕上というのも、この時期の民家としては古めかしい。
梁は太く、梁組は豪快だが、虫害等による再用不能の材も多く、移築修理時にかなりの梁が新材に置き換えられている。そのうちザシキ上部の2本の梁行梁は当初材で、一本の木を半割にして使用している。小屋組は通常の扠首構造で、棟束は両妻側から9尺入った位置に2本だけ立てている。
土間周りとヘヤの、外に面する壁は土壁だが、他の外壁は板壁という使い分けも珍しい。土間周りも上部小壁は板壁である。間仕切も同じく板壁である。
以上のように、岩澤家住宅は神奈川の他の地域にはみられないいくつかの特色を有し、また四方下屋造というきわめて整備された構造が形成されてゆく過程を知るうえでも大変貴重な遺構である。

 

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