散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

秋の日本民家園(15)

21.菅の船頭小屋
雨で増水した時には、鉄の輪に棒を入れ、担いで避難したとのこと。取るに足らない小屋だが、当時は重要な役目を果たしていたようだ。
菅の船頭小屋_1
菅の船頭小屋_2
菅の船頭小屋_3
運び出す様子のイラスト
運び出す様子のイラスト

22.工藤家住宅
前回は完全に見落としてしまった。その分、今回はしっかり見てきたかったのだが、『床上げ公開』の対象になっておらず、細部は見ることができずじまいだった。もう1回は通わなくてはいけないのかなあ。ドマなどから見た限りでは、囲炉裏はたった一つ。セントラルヒーティングといえば聞こえは良いが、寒くはなかったのだろうか。
見た通りの典型的な南部曲屋。現存する曲屋では最古の一つらしい。曲屋はずっと昔から存在するのかと思っていたが、比較的近世近くになって誕生したものとのこと。その中では最も初期のもの。比較的経過年数が短いのに国指定の重要文化財に指定されたのは、曲屋発生期の素朴で古式な姿をとどめているからなのだろうか。

外観
外観_1
右奥がザシキで角の手前がシタザシキ
外観_2
突き出した左端がマヤ
外観_3
家屋内部
工藤家住宅の間取り
工藤家住宅の間取り
マヤ
何か雑然とした感じに見えたが、昔もこんなふうだったということなのだろうか
マヤ
ニワとダイドコ
土足でも温まり易いように、ニワのすぐ近くに囲炉裏を設置したようだ。でも囲炉裏があるのはこの間だけなのかなあ。『南部』というと何か暖かいイメージをされるかもしれないが、南部藩のあった土地のことで、実際には相当に寒い土地だったはずだ。夜はグズグズせずに寝るしか無い状況だったと思う。
それと囲炉裏の火は夜間はどうしたのだろうか。気になることだらけだ。

ニワとダイドコ
ジョウイとチャノマ
竹簀子の天井さえもない。確かに暖められた空気が隅々まで届きやすいとは思うが、それにしても囲炉裏が少なすぎでは。
ジョウイとチャノマ
カッテノマとジョウイとチャノマ
カッテノマとジョウイとチャノマ
ザシキ
濡れ縁まである特別な間だったようだ
ザシキ_1
ザシキ_2
シタザシキとザシキ
シタザシキは予備の客間だったようだ
シタザシキとザシキ
ナンド
家族の寝室
ナンド
小さな小屋
味噌蔵だったのだろうか
小さな小屋

国指定重要文化財
 旧所在地:岩手県紫波郡紫波町舟久保
 建物区分:農家(名主の家)、曲屋
 構造形式:寄棟造、茅葺、桁行19.2m、梁行11.1m/南面に馬屋突出、寄棟造、茅葺、桁行7.6m、梁行6.3m
 建築年代:宝暦(1751〜1763)頃
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馬と共に暮らした南部の曲屋
主屋の前に馬屋を突出させたL字型の民家は、旧南部藩領(岩手県)に多いことから「南部の曲屋(まがりや)」として知られています。これは、南部馬の飼育が盛んになる江戸時代中期に工夫された形式と考えられます。宝暦頃に建てられた工藤家は現存最古の曲屋の一つといえます。民家園の中で一番敷地面積の広い家です。
主屋には天井がありません。この地方はもともと天井のない家が多く、厳しい冬場は囲炉裏の火で家全体を暖めながらすごしました。ダイドコの囲炉裏はニワからも利用することができます。ダイドコとジョウイは日常生活の場、ナンドは寝室です。ザシキは床の間も備えた特別な部屋で、この広い家で唯一畳が敷かれています。
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見どころポイント!
 曲がった部分は馬屋になっていました。
 土間境にある囲炉裏は、土足のまま踏み込んで暖まれるようになっていました。

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工藤家住宅の旧所在地は岩手県紫波郡紫波町である。この工藤家の形式でもある「南部の曲屋」は、盛岡を中心とする旧南部藩領という、比較的限られた地域内に分布する特異な民家形式である。L字型の平面を持ち、突出した土間の先端にウマヤを置くが、こうした内厩の形式は北国の民家のものである。特に春の短い東北地方北部では、農耕のためには、牛よりは動きの俊敏な馬を使う方が都合がよかったが、馬は癇が強く、その飼育は牛よりもずっと難しい。そこで厩を屋内に設け、馬の健康状態を常に把握できるようにしたのである。
しかし現在知られている曲屋の形式が誕生したのは意外に新しく、早くとも18世紀前期ごろであろうと考えられている。それ以前はこの地方でも単純な長方形平面の、いわゆる直屋の形式で、古い家ではこれに曲がり部分を増築して曲屋としているのである。そうしたなかで、工藤家は当初から曲屋として造られたものであり、その創建期の18世紀中期は、曲屋としては最も早い時期に属している。時代が降るにしたがって、この曲がりの部分が大きくなり、また屋根の形も入母屋や兜造として意匠を凝らすようになるが、工藤家では厩も小さく、そして単純な寄棟屋根を乗せるのみで、曲屋発生期の素朴で古式な姿をとどめている。
工藤家の間取りはなかなか複雑である。ニワに張り出した、大きな囲炉裏を持つダイドコロと、それに続くジョウイが日常生活の中心で、ナンドは寝室、ザシキは客座敷であったことはわかるが、他の部屋の使われ方はあまり明瞭ではない。例えば、カッテはその呼び名からは炊事関係の部屋のようだが、実際にはダイドコロとのつながりが悪く、むしろ寝室的な造りである。またチャノマも、居間的存在であるジョウイとの関係が曖昧である。シモザシキはその名からはザシキの次の間のようであるが、移築前にはその外に面する部分をクチナンド・ネドコという2室に仕切って寝室として使用していたから、もともと寝間的な部屋であった可能性もある。
建物の外周は土壁だが、内部間仕切には板壁を使う。しかしどの間仕切も内法より上には壁がない。そして天井はどの部屋にも張らないから、家全体がひとつながりの空間のようである。このように、外部に面する開口部を極力少なくするほかは、冬の厳しい寒さへの対処はほとんどなされていない。
平面の寸法は6.3尺を1間にして、梁行には1間、桁行には1.25間(7.87尺)を基準に柱を割り付けている。そして梁行梁もこの柱割にしたがって7.87尺ごとに整然と配られその上に扠首が架けられる。しかし桁行梁は、上屋柱筋のほかには主要な間仕切り位置に置くのみである。主体部は4周の半間を下屋とするが、上屋・下屋境の柱を省略しない箇所も多く、例えばシモザシキやチャノマの内部には独立柱が立つという、古めかしい構造を見せている。
以上のように、工藤家住宅は当初から曲屋として建てられたものとしては最古の部類に属するものであり、また外観や間取りにも古式を残していて、曲屋の発生と展開を考えるうえでたいへん貴重な遺構である。

 

秋の日本民家園(14)

16.清宮家住宅
江戸初期の建築ではないかと推定される、この日本民家園でも最古の古民家だそうだ。しかしながら、私には該当箇所がどこか全くわからないが、後代の改造が激しく、旧状の不明な箇所がかなりあるようだ。そういう事情があるからなのか、神奈川県指定重要文化財にとどまっているようだ。
外観
外観_1
外観_2
前回撮影分
芝棟のイチハツが綺麗だった
外観_3
家屋内部
清宮家の間取り
清宮家の間取り
開口部は南側の大戸口など3箇所のみで、確かに屋内は少し暗いかもしれない
家屋内部_1
家屋内部_3
前回撮影分
今回は『床上げ公開』がなされていなかったので、奥の方の撮影ができなかった。前回撮影した分だが、こんな感じだった。
前回撮影分_1
前回撮影分_2
前回撮影分_3
この付属の什器『車長持』は貴重品だ。大火の際に道を塞ぐ結果になってしまい、その時以降は製造を禁止されたものだとのこと。
前回撮影分_4
前回撮影分_5
付属の小屋
古民家時代のものではない
付属の小屋_1
付属の小屋_2

神奈川県指定重要文化財
 旧所在地:神奈川県川崎市多摩区登戸
 建物区分:農家
 構造形式:寄棟造、茅葺、桁行13.6m、梁行8.2m
 建築年代:17世紀後期
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棟に花が咲く古い様式の民家
この建物は、当園にほど近い多摩区登戸にありました。
屋根は頂上を土の重さで押さえ、その土が落ちないよう草花が植えてあります。これは「芝棟(しばむね)」と呼ばれ、武蔵国西部の素朴な農家の姿を伝えています。
間取りは、囲炉裏(いろり)のあるヒロマを中心に上手をデエ(座敷)とし、それぞれの裏に寝室と考えられる小部屋を設けています。これは、神奈川県の古式な民家に限られる形式です。また土間の梁には曲がった太い材が使われ、デエとデエドコ(土間)の境は格子で仕切られています。なお、この家はデエドコに勝手口(かってぐち)がありません。これは、家の前の小川に流しが設けられていたためです。
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見どころポイント!
 屋根にはイチハツという花が植えてあり、5月には花が咲きます。
 園内で一番古いと考えられる家で、非常に閉鎖的な造りです。

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旧清宮家住宅は神奈川県内では屈指の古民家である。あるいは江戸初期まで溯るのではないかとされているが、後代の改造が激しく、旧状の不明な箇所がかなりあるのが惜しまれる。
全体の造り及び外観上の大きな特徴は、きわめて閉鎖的で開口部が極端に少ないこと(逆にいえば壁が多いこと)、そして近世民家特有の縁側がないこと、である。旧所在地(川崎市多摩区登戸)から6kmほど離れた川崎市麻生区金程には17世紀末の建築とされる旧伊藤家住宅(日本民家園に移築)があったから、これと比較してもなお古式と思われる点を次に列挙してみる。
1)津久井郡・三浦郡を除く県内の古民家は、伊藤家を含め広間型3間取が一般的だが、当家は整形4間取であった。この間取りは幕末期に一般化するが、それとの違いは裏側の2室の梁行がわずかに1間しかないこと、そしてヒロマと裏部屋との境の中央に柱が立つこと、さらにこの境に南面する押板を設けること、である。
2)土間とヒロマとの境は、一般には何の仕切りもなく開放的である。一方、伊藤家では4間のうち中央2間に腰壁を立ち上げ、やや閉鎖的である。当家ではさらにこの腰壁の上方に格子を入れ、また後方1間も板壁で塞ぐなど、一段と間仕切を厳重にしている。こうした腰壁と格子による間仕切は江戸初期を降らないとされる関家住宅(重文、横浜市港南区勝田町)に共通する構えである。
3)ヒロマ前面をシシマドと呼ばれる格子窓とするのは17世紀末以前の古民家に共通するが、伊藤家では片壁に板戸と障子を引き込むのに対し、当家では板戸のみで障子はない。これも古風である。
4)土間側からヒロマ境をみると、ヒロマの床を支える根太の木口がそのまま見えるのは素朴で、かつ古めかしい。
5)構造は正統的な四方下屋造に近いが、小屋組の扠首に棟束を併用するのは、この地方ではごく古い時期にのみ見られる手法である。棟束には桁行梁行両方向に小屋貫を通すが、こうした束や貫は小屋裏を利用するためには邪魔な存在であるから、次第に扠首だけで支える構造に変化したのだろう。
6)土間境の柱は他の柱よりもひとまわり太くするのが通常で、伊藤家の場合も例外ではない。これは必ずしも構造的に不可欠というわけではなく、家を立派にみせるための、いわば意匠の面からの要求で、時代が降るにしたがって次第にその太さを増すようになる。しかし、当家の土間境柱は他の柱と同一太さであり、時代の古さを感じさせる。
7)軸部に使用される貫は、床上部では伊藤家の3本に対して2本、土間廻りでは4本に対して3本と、いずれも少ない。貫は柱相互をつないで、礎石の上に立てられる柱を直立させるための部材だから、柱を直接地中に埋め込んで固定してしまう掘立柱構造の場合には不必要だった。したがって貫数の少ない当家の構造は、掘立柱時代の名残とも考えられる。
以上のように、旧清宮家住宅は17世紀中期以前に遡り得る貴重な民家であり、近世民家の発展過程を考える上で欠かせない存在である。


ここから先、番号通りでない取り上げ方をする。見て歩いた順番だ。

23.菅原家住宅
合掌造りの住宅の姿の良さがよく言われるが、こちらの住宅の『ハッポウ造』と呼ばれる独特のフォルムも負けず劣らず美しい。
こちらが神奈川県指定重要文化財にとどまるのは、やはり経過年数の問題なのだろうか。

外観
棟(ぐし…棟とは屋根の頂点部分や屋根と屋根が交わる部分で、雨仕舞いの重要な部分)に三角形に組んだ千木(クラ)を載せることから『グシグラ』と呼ばれる棟飾りが付いている。この屋根棟が珍しいし、美しい。また、妻側の『高ハッポウ』だけでなく、平側にも『ハッポウ』があった。
外観_1
『ハッポウ造』の象徴である高ハッポウが目立つ
外観_2
外観_3
家屋内部
菅原家住宅の間取り
菅原家住宅の間取り
アマヤ
アマヤ_1
アマヤ_2
ナヤとモノオキ
間取り図にはそう記載されているが、ナヤと言うよりはウマヤのように見える
ナヤとモノオキ
モノオキとイナベヤ
イナベヤって何をするところだろうと思ったら、『穀物などを貯蔵するところ』と書かれた説明書きがあった。稲部屋ということなのかな?
モノオキとイナベヤ
イナベヤ
ナガシ
トイは栗の木を彫って作った樋で、流しに水を供給するものだったようだ。
ナガシ
おそらく『無双窓』になっていると思われるが、確認未済で今ひとつ自信がない。開放したままでは冬期は寒くて仕事にならなかったと思う。
ナガシの裏側
オメ
食事の準備をしたり食事をしたりする間
オメ
シモデ
シモデ
カミデイ
カミデイ
デイ
デイ

神奈川県指定重要文化財
 旧所在地:山形県鶴岡市松沢
 建物区分:農家(肝煎の家)
 構造形式:寄棟造(高ハッポウおよびハッポウ付き)、妻入、一部二階、背面庇付、茅葺、桁行15.8m、梁行9.6m
 建築年代:18世紀末期
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屋根に高窓のある豪雪地帯の家
湯殿山麓の田麦俣(たむぎまた)集落やその周辺には、ハッポウ造と呼ばれる独特の民家が分布しています。養蚕のために二層三層をつくり、屋根に高窓(ハッポウ)を設けて採光の工夫をしたその姿は、非常に特徴的です。
菅原家住宅もこのハッポウ造の民家で、高い軒や板壁で囲った外観などに豪雪地域の家づくりがうかがえます。
豪雪は間取りにも影響しています。大戸口前のアマヤ(前室)をはじめ、ニワ(土間)に物置やイナベヤ(板敷)を設ける点などは、雪の多い冬場の暮らしを考慮した工夫です。
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見どころポイント!
 雪に濡れたものを脱げるよう、入り口にアマヤを設けています。
 積雪時にも立て付けが悪くならないよう、敷居に車が設けてあります。

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古来より霊山としての信仰を集めた出羽三山の湯殿山・月山を東にひかえた、山形県東田川郡朝日村の田麦俣は、美しい外観を持つ「ハッポウ造」民家のふるさととしてよく知られている。菅原家住宅は同じ朝日村だが、田麦俣とは谷ひとつを隔てた大鳥川沿いの松沢に所在していた。同じ村のうちでも、田麦俣の民家とは外観も間取りも異なり、むしろ南に隣接する越後の朝日山麓の民家に親近性を持つといわれる。
 菅原家は代々肝煎を勤めたと伝える有力農家で、その主屋は18世紀末頃の建築と推定されている。妻側に設けられた入口の上部2階はセガイで持ち出し、高ハッポウと呼ばれる開口部を設ける形が、この家の外観の最も大きな特徴である。この地方は有数の豪雪地帯で、高ハッポウは積雪時の出入口としても利用したようである。また、屋根の平側にも開口部(ハッポウと呼ぶ)を設け、小屋裏の採光と換気に役立てている。急勾配の屋根の棟上に置かれた、神社の置千木を思わせるようなグシグラも特徴的である。
 土間への出入口は妻側に設けられたアマヤの奥に置かれる。アマヤは今でいう風除室、あるいは雪よけのための施設だろう。床上は4室からなり、表(南)にデイ(シモデ)・カミデイの2室の客座敷を置く。田麦俣ではこれらは妻側に置かれるから、両者は異なる系統の間取りである。カミデイは唯一の畳敷の部屋で、床の間の隣りにアミダサマが設けられるのもこの家の特色である。村の人々がここに集まって、大きな数珠をみんなで繰回しながら念仏を唱える、いわゆる百万遍念仏を行ったというから、肝煎という家柄ならではの施設であったのだろう。竿縁天井を張るが、竿縁が床の間に直交する、いわゆる床刺しであるのが珍しい。デイの裏側のオメエはこの家の中心で、大きな囲炉裏の上にはアマダナが設けられ、衣類の乾燥や、食物をいぶして保存するためなどに用いられた。ウーヘヤは寝室で、ここには低い中2階が設けられている。ウーヘヤを除く部屋の天井は高く、デイ及び土間は根太天井、オメエは竹簀子天井である。また壁は土壁を用いず、すべて板壁である。
 構造は4周の半間幅を下屋とし、チョーナ梁を用いるのは合掌造と同じである。オメエの上部を除いて板敷の2階が造られ、一部は3階とする。高ハッポウのある妻側2階は床が一段低いが、これは積雪時の出入りを考慮してのことだろう。田麦俣の特徴ある多層民家の形成は、明治期に入って養蚕が盛んになり、そのために必要な床面積を増やすために2階・3階を設け、そしてそこの換気や採光のための開口部が必要となったため、ハッポウや高ハッポウが造られた結果とされている。菅原家も多層民家ではあるが、建立時期は田麦俣のハッポウ造よりも古く、そのため高ハッポウも小さい。平側のハッポウも旧状にならって取り付けられているが、創建時にあったか否かは明らかでない。
 以上のように、菅原家住宅は同じ村内でありながら田麦俣の民家とはやや異質な多層民家であり、また高ハッポウを持つ民家としては古く、この地方の養蚕と民家の形式の関係を知るうえで重要な遺構である。

 

秋の日本民家園(13)

15.北村家住宅
およそ330年ほど前(江戸時代初期)の家屋か。民家としては、こうした保存策がなければとても維持できない経年物件だ。
確かに採光性の良い住宅ではあるが、竹簀子の床に厚いムシロを敷いただけの床か。広瀬家の『土座』のときも、『案外快適』との説明を受けたが、こちらも同様の説明だった。うーーん、そうなのかなあ。

外観
スッキリした外観
スッキリした外観
前回撮影分
立派な濡れ縁があった
立派な濡れ縁があった
家屋内部
北村家の間取り
北村家の間取り
ダイドコロ
ダイドコロ_1
ダイドコロ_2
ヒロマ
竹簀子にムシロを敷いただけの床であることが明白な状態になっている。尻が痛くならなかったものか心配。板張りの床にするする経済力がなかったとは思えない。それほどこの竹簀子床は評価できるものだったのだろうか。
ヒロマ
オク
仏壇と床の間がつくものだったようだ。天井は竹簀子。採光性は十分。
オク_1
オク_2
ヘヤ
撮っている側が開口部。向かって左側が押入れだとか。
ヘヤ

国指定重要文化財
 旧所在地:神奈川県秦野市堀山下
 建物区分:農家(名主の家)
 構造形式:寄棟造、茅葺、桁行15.6m、梁行8.9m
 建築年代:貞享四年(1687)、墨書
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貞享四年の墨書が残る古民家
この建物で特筆されるのは、建築年代がはっきりしていることです。加えて、建築としても非常に優れており、日本で最も重要な民家の一つといえます。建築年代は、柱の先端に墨で記されていました。これを墨書といい、理兵衛という大工の棟梁の名前も明らかになっています。
日常生活の場であるヒロマは、竹簀子と板の間を使い分けています。竹簀子には必要に応じてムシロを敷きました。上手のオク(正座敷)には床の間が付き、ヘヤ(寝室)は畳敷で押入も備えています。このほか、ヒロマとオクに濡縁が付くなど、同じようなつくりの旧伊藤家住宅に比べ、発達した様子を示しています。
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見どころポイント!
 竹簀子床には厚いムシロを敷いて生活していました。
 江戸時代初期の民家としては、非常に明るく開放的な造りです。
 ヒロマとダイドコロ(土間)の間の柱には、ウロコのような模様があります。これは、カンナが普及する前のチョウナという刃物で削った跡です。

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北村家住宅の旧所在地は大住郡鍛冶谷村(秦野市堀山下)で、名主の分家と伝えている。解体移築の際に柱枘より墨書銘が発見され、貞享4年(1687)の建築であることが判明した。これは、建立年時の明らかな民家としては、東日本では茨城県出島村の椎名家住宅延宝2年(1674)に次いで古い。また建築を手掛けたのも同村及び近在の大工であり、こうした面からも当地方民家の代表例とするにふさわしい。
年代的には、旧伊藤家住宅よりやや早いが、逆に進んだ面も見られるので、両者を比較しながら見てみたい。
まず、外観は伊藤家よりかなり開放的である。ヒロマの前面は中央1間を格子窓(シシマド)とするが、その両側の柱間には掃き出し戸を入れてここから直接出入りができるようになっている。しかし向かって右側1間は半分を壁として、板戸と障子を片引とするのに対し、左側1間は引違戸としていて、やや統一感に欠ける。古風な格子窓から掃き出し戸に変化する、その過渡期の姿を示しているのだろう。また、縁側もオク(デイ)のみでなく、ヒロマの前面にも設けられて、江戸中期以降の一般的な民家の姿にさらに近づいている。
オク(デイ)には簡略なものながら床の間がつくのも新しい傾向である。しかしまだ天井は張られていない。ヘヤには押入が登場し、また妻側2間を開口部とするのは随分と進んだ形式である。
一方で、ヒロマと部屋の境には古風なオシイタ(押板)が設けられている。これは清宮家にはあったが伊藤家ではすでに消失している。もっとも、大住郡の平塚市近辺では幕末期まで押板は残るから、地方的な特徴なのかも知れない。押板の用途は必ずしも明確にされていないが、棚のうしろを板壁にするのが普通だから、この壁に札や絵などを掛け、宗教的な行事に使われることが多かったらしい。また、ヘヤの入口は清宮家と同じく、敷居を床よりも一段高くする納戸構えの形式である。
ヒロマの床は伊藤家と同じく竹簀子である。そして土間・ヒロマ境の長押上部の小壁も土壁の代わりに細い丸竹を縦に並べ、あるいはヒロマの竹簀子天井、竹の垂木、土間の外周保護のための割竹の腰壁(ササラバメという)など、竹を随所に使用している。手に入れやすく、また加工のしやすい竹が、当時の民家にとっては重宝な建築材料であったことを教えてくれる。
構造は標準的な四方下屋造。小屋組は扠首に棟束を併用し、束同志を貫で緊結する古式な構造である。柱材は胡桃を主とするが、桁行の梁を受ける各室境の柱に丈夫な欅を用いるのは構造上の配慮であろう。柱は木太く、骨組みはがっしりしている。
 以上のように、北村家住宅は開放的な造りとともに押入や棚の造り付け、障子の全面的使用など、当時の一般よりも進んだ形式を見せている。そして均整のとれた外観もあわせて、17世紀末の平均よりはかなり上質の民家として高く評価されている。
(注)柱枘の墨書には「貞享四年□月吉日 相州堀山下村 大工者鍛冶谷村理兵衛 平沢村源兵衛」「当村木引七兵衛」「貞享四年丁卯二月吉日 大工当流理兵衛」などがある。

 

秋の日本民家園(12)

14.太田家住宅
こちらは『作田家住宅』とは違い、明らかに分棟型とわかる佇まい。一体この中で、何をしていたのだろうかと思うほどだだっ広いドマが見学者の度肝を抜く。
国指定重要文化財を打ち上げ花火で燃やしてしまうなんて、とんだ大馬鹿者がいたものだ。茅葺屋根の取り扱いに通じていた職員がいなかったため、表面上鎮火したように見えても、実は鎮火しておらず、再発火で大きな焼損被害になってしまったようである。you-tubeの映像を見た限りでは、主屋は全焼と言っても過言ではない状態。国の重要文化財指定返上を検討しなくればいけないほどの大きな焼損被害。再発させることが無いよう十分な管理をお願いしたい。
外観
南側
外観_南側
南南西側
外観_南南西側
南東側
外観_南東側
分棟の繋ぎ目部分
栗の木の樋が少し朽ちかけていた。取り換えが必要かもしれない。
分棟の繋ぎ目部分
家屋内部
太田家の間取り
太田家の間取り
ドマ
かなり広い。片隅にウマヤが2区画分あるが、それでもなお広い。ここでどのような作業を行っていたのだろうか。
ドマ_1
ドマ_2
ドマ_3
ドマ_4
ドマ_5
ドマ_6
ヒロマとザシキ
十分に広いが、ドマには敵わない。形も方形ではなく、変形のもの。これも何故なのだろうか。どうにも気になる。
ヒロマとザシキ_1
ヒロマとザシキ_2
ヒロマとザシキ_3
ヒロマとザシキ_4
ザシキ
畳敷きで一応は竹簀子の天井がある立派なもの。撮影した側から直接出入りしたようだ。市の教育委員会の資料には、『天井は竹簀子で、床の間もなく、客間としての形式が整えられていない』と書かれてある。確かにその通りだが、客間にそこまでのしつらえが必要なものだったのだろうか。
ザシキ

国指定重要文化財
 旧所在地:茨城県笠間市片庭
 建物区分:農家(名主の家)、分棟型
 構造形式:主屋=寄棟造、茅葺、桁行9.6m、梁行8.3m/土間=寄棟造、妻入、茅葺、桁行10.0m、梁行8.3m
 建築年代:主屋=17世紀後期/土間=18世紀後期
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家の中に雨どいのある二つ屋根の家
この建物は二棟が軒を接して建つ、分棟型(ぶんとうがた)の民家です。大戸口(おおどぐち)を入ると広い空間がひろがっています。ドマの右手がウマヤ、左手が主屋(おもや)です。主屋は日常生活の場であるヒロマ、寝室であるヘヤ、そして畳敷きのザシキに分かれます。ザシキは正式な部屋で、この部屋に客人が訪れる際には土庇(どびさし)が出入口となりました。
広い土間では、雑穀などの農作業も行われていました。
なおこの家には、突出する馬屋(うまや)や囲炉裏(いろり)の位置 など、南部地方の曲屋(まがりや)と類似する点があります。江戸時代後期には茨城県や栃木県でも曲屋が作られており、この家はその影響を受けた分棟型といえます。
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見どころポイント!
 家の中に雨どいがある分棟型民家です。といが詰まると家の中に雨水があふれました。
 大戸の上に掛けてあるのは、慶応4年に明治政府が出した「五榜の掲示」の一枚です。

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太田家住宅の旧所在地は茨城県笠間市片庭で、近世初頭にはすでにこの地に居住し、また名主の家柄と伝える旧家である。太田家住宅の大きな特徴は、棟方向を別にするふたつの屋根を接続して一軒の家を構成していることである。このような煮炊きをする竈を置く釜屋(土間)と居住部分に、別々に屋根をかける形式は分棟型または釜屋建などと呼ばれ、八丈島や南西諸島などに多く分布することから、かつては南方系の住居形式と考えられてきた。しかし太田家の茨城県中西部、あるいは栃木県宇都宮市の周辺にも昔はこうした家が存在したことが確認されるに及んで、このような解釈は再考を迫られることになった。
太田家の外観は、ひとつの屋根の下に土間も居住部も含む周辺の農家とは大きく相違しているが、間取りは基本的にはそれらとなんら変わるところがない。いわゆる広間型3間取の一種である。土間がかなり広いが、これは土間部分だけ一度建て替えられているからで、解体時の発掘調査によれば、当初の土間は桁行2.5間程度の小さなものであった。
主屋は17世紀末頃の建築、土間は18世紀後期頃と推定されている。
居住部はヒロマとザシキ、ヘヤの3室からなるが、日常生活の中心であるヒロマと土間との間には何の仕切りもなく、ひとつながりの空間である。そしてヒロマ前面を格子窓とするのはこの時期の関東地方の古民家に共通する構えである。ザシキは唯一畳敷の接客間だが、天井は竹簀子で、床の間もなく、客間としての形式が整えられていない。ヘヤは寝室で、ヒロマ側に入口を設けるほかは壁で閉ざされる。
別棟の土間は前面が主屋より前に出ているが、これはこの地方の民家に共通する形である。つまりこの地方では土間の厩の部分が前に出て、全体の平面がL字型になる。いわゆる曲屋の形式が一般的である。太田家の土間が建て替えられた時期には曲屋が一般化していたため、当家でも平面の形状はこれにならったのであろう。
主屋と土間とは年代が違うため、その構造もかなり相違している。例えば、主屋は棟束併用の扠首構造であるのに対し、土間では棟束は用いない。そして主屋では前面の半間を下屋とするため、前面より3尺入った位置に上屋根を立てるというきわめて古式な構法を見せている。また各室境や外周には1間ごとに柱を立て、柱の省略が全く行われていないし、ヘヤの内部には使用上邪魔になるはずの独立柱が2本残されたりしているなど、かなり古風である。これに対し、土間は内部に柱を全く立てないし、また梁行梁を二重に組み、桁行梁との交点は大栓で固定するという、進んだ構法が採られている。
なお、主屋部は土壁だが、土間廻りは板壁である。主屋と土間が接する部分の屋根には大きな谷ができるが、ここには大きな樋を設けて雨水を処理している。
このように太田家は分棟の形式を今に伝える貴重な遺構であり、かつ茨城県のこの種の民家では最も古く、この地方の民家の発展を知るうえで欠かせない存在である。
平成2年7月29日、生田緑地内で打ち上げられた花火が屋根に落下し、主屋のヘヤを中心に焼損したが、復旧修理工事が行われ、平成4年10月31日に竣工した。

 

秋の日本民家園(11)

『沖永良部の高倉』へ向かう道
少しずつ上っている。何の事はない切り通しだが、ちょっと雰囲気があって好きだ。
『沖永良部の高倉』へ向かう道

12.沖永良部の高倉(おきのえらぶのたかくら)
ネズミを寄せ付けないための仕掛けなど、スペインの巡礼路にあった穀物倉庫『オレオ』を思い出した。
『沖永良部の高倉』_1
『沖永良部の高倉』_2
川崎市重要歴史記念物
 旧所在地:鹿児島県大島郡和泊町
 建物区分:倉
 構造形式:寄棟造、茅葺、桁行2.7m、梁行2.5m
 建築年代:19世紀後期
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高倉といえば東大寺の正倉院校倉(あぜくら)が有名ですが、沖縄・奄美諸島、九州南端、八丈島など黒潮の流れに沿った地域には、柱の上に茅葺屋根をのせた高倉が分布しています。
珊瑚礁岩の礎石に立つ円柱は、イジュという毒性のある木を用い、頭部を鉄板巻きにして鼠などが登らないよう工夫をしています。中は穀物などの貯蔵庫として利用し、出入口には一木でつくった梯子をかけました。
倉下(くらんた)と呼ばれる床下は風が抜けるようになっており、内部の湿害を防いでいます。この場所は子どもの遊び場、休憩所、籾摺り場などにも活用されました。
なお、高倉手前にある石碑は「石敢当(いしがんとう)」といいます。沖縄から九州南部にみられ、邪気を払う神として道路の突き当りや門・橋など祭られます。
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見どころポイント!
 ネズミ等の侵入を防ぐため、柱の頭部を鉄板で巻いています。
 倉の下は子どもの遊び場や休憩所になっていました。


六地蔵
六地蔵
日本では、地蔵菩薩の像を6体並べて祀った六地蔵像が各地で見られる。これは、仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたものである。六地蔵の個々の名称については一定していない。地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の順に檀陀(だんだ)地蔵、宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障(じょがいしょう)地蔵、日光地蔵と称する場合と、それぞれを金剛願地蔵、金剛宝地蔵、金剛悲地蔵、金剛幢地蔵、放光王地蔵、預天賀地蔵と称する場合が多いが、文献によっては以上のいずれとも異なる名称を挙げている物もある。像容は合掌のほか、蓮華、錫杖、香炉、幢、数珠、宝珠などを持物とするが、持物と呼称は必ずしも統一されていない。
日本では、六地蔵像は墓地の入口などにしばしば祀られている。中尊寺金色堂には、藤原清衡・基衡・秀衡の遺骸を納めた3つの仏壇のそれぞれに6体の地蔵像が安置されているが、各像の姿はほとんど同一である。


13.広瀬家住宅
前回は初めての訪問だったので、『土座』に驚いたのだが、さすがに2度めだったので、驚きはしなかった。
前回訪問時は『床上げ公開』をしていたが、『床が無くても床上げ公開とはこれ如何に』と思った。今回は、その『床上げ公開』もなかった。『床上げ公開』ボランティアの説明員の話では、意外に『居心地が良い』ということだったが、囲炉裏に火が入っていないと、どうにも寒々とした感じが拭えなかった。

外観
屋根の頂上はイワヒバを植えた「芝棟(しばむね)」になっている。決して雑草ではない。イワヒバは若干紅葉するようだが、紅葉しているか否かよくわからなかった。
芝棟以上に南側の軒が異様に低いのが印象的。風の強い山の斜面にあったためらしいが、腰をかがめないと入ることができないほどだ。

外観_0
外観_1
外観_2
外観_3
家屋内部
広瀬家の間取り
広瀬家間取り
『イドコ』
日常生活の中心の場。土座になっている。
『イドコ』
『ザシキ』『ナカナンド』
『ザシキ』は土座で、『ナカナンド』は板張り。板張りにしたのは、何か湿気てはいけないものを置いておいたりする理由からなのだろうか?
『ザシキ』『ナカナンド』
『ドジ』
かなり広い。何かここで作業をしていたりしたのだろうか。
『ドジ』
『ウマヤ』
『ウマヤ』_1
『ウマヤ』_2

神奈川県指定重要文化財
 旧所在地:山梨県甲州市塩山上萩原
 建物区分:農家
 構造形式:切妻造、茅葺、桁行14.5m、梁行8.9m
 建築年代:17世紀末期
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芝棟と土座のある甲州民家
甲府盆地の民家は切妻造(きりづまづくり)の妻壁(つまかべ)に柱を見せ、屋根中央を「突き上げ二階」とする形式が知られています。この家も移築前はそのような姿でしたが、調査の結果、当初は二階がなかったことがわかりました。屋根裏を養蚕(ようさん)に利用しはじめたことにより、突き上げ二階としたのです。
構造は、内部の四本の太い柱を中心にして組み立てられています。これは「四つ建(よつだて)」と呼ばれるもので、甲州の古式な手法です。屋根の頂上はイワヒバを植えた「芝棟(しばむね)」になっています。内部には土間(どま)と並んでイドコと呼ばれるムシロ敷の居間があります。床板を張らないこのような床を「土座(どざ)」といい、ムシロの下は地面をつき固め、茅束(かやたば)が敷き詰められています。
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見どころポイント!
 風の強い山の斜面にあったため、軒が低くなっています。
 居間には床板を張らず、地面の上に茅束とむしろを敷いて暮らしていました。

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「芝棟」とは茅葺屋根の棟仕舞の一種です。茅葺屋根は軒から上に(棟)に向かって葺きあげていきますが、葺き終わり(屋根の一番上)に、芝土をのせて、その重さで屋根を押さえると同時に棟からの雨漏りを防ぎます。芝土だけでは不十分と、乾燥に強く根張りのよい植物を植えて、補強することもあります。それが「芝棟」です。

 

秋の日本民家園(10)

11.作田家住宅
トンネルをくぐると、そこは『信越の村』ゾーンから、『関東の村』ゾーンに変わっていた。
いままで登場しなかった網元の家。干鰯(ほしか)を売り物にしていたのか。ここで生産した干鰯は浦賀の問屋が売り捌いたのだろうか。
分棟型の家屋で、クリの木の半割丸太をくり抜いた大きな雨樋が二つの屋根をつないでいるのが大きな特徴。前回見学時には雨樋を見そこねた。その反省を踏まえて、今回はしっかり見てきた。それと、クネクネよく曲がった木材を本当にうまく使った梁の渡し方は、感心するほどだった。
しかし、1棟の建物だとばかり思っていた建物が実は分棟型だったとは、川崎市の学芸員も驚いたことだろう。そして、分棟型に復原するにあたっては、相当に苦心したことだろう。主屋と土間との取り合わせ部分の雨水の処理法などは、これから取りあげる『太田家住宅』のそれを参考にしたということだ。

外観
真東側
真東側
南側
『差茅補修』の真っ最中だった。分棟の接続部分には大きな雨樋があるがお分かりだろうか。
南側
南西側
南西側_1
帰途に見たら、屋根の上に補修用の材料がたくさん載っていた
南西側_2
分棟型の家屋で二つの屋根をつなぐクリの木の半割丸太をくり抜いた大きな雨樋
外に出ている部分。多分、この反対側から雨水を落とすようになっていると思う。
大きな雨樋の外に出ている部分
家屋内部
作田家の間取り
作田家の間取り
カミ
カミ_1
カミ_2
『カミ』部分の屋根
梁が迷路のようぬ組み合わされている。ユーモラスな感じだ。
『カミ』部分の屋根
『チャノマ』部分の屋根
こちらも『カミ』と同じような塩梅だ
『チャノマ』部分の屋根_1
『チャノマ』部分の屋根_2
分棟になっている『ニワ』部分の屋根
伝馬船の艫があるところが海辺の屋敷らしい
『ニワ』部分の屋根
分棟型の家屋で二つの屋根をつなぐクリの木の半割丸太をくり抜いた大きな雨樋
二つの屋根をつなぐクリの木の半割丸太をくり抜いた大きな雨樋_1
二つの屋根をつなぐクリの木の半割丸太をくり抜いた大きな雨樋_2
同上イラスト
大きな雨樋のイラスト
『ナカノマ』『オク』
欄間もしつらえてあるようだ
『ナカノマ』『オク』_1
『ナカノマ』『オク』_2
『オク』
『オク』
手前が風呂で奥が便所。客用だ。
手前が風呂で奥が便所
『ニワ』
鰯の処理をする道具のようだった
鰯の処理をする道具のようだった

竈
茅葺屋根の補修中だったが、その説明が展示されていた。『差茅補修』というやり方のようだ。
『差茅補修』というやり方の説明

国指定重要文化財
 旧所在地:千葉県山武郡九十九里町作田
 建物区分:漁家(網元の家)、分棟型
 構造形式:主屋=寄棟造、茅葺、桁行13.0m、梁行11.1m、風呂場及び便所付属 土間=寄棟造、妻入、茅葺、桁行11.5m、梁行5.6m
 建築年代:主屋=17世紀後期、土間=18世紀後期
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イワシの地引網漁で栄えた網元の家
この建物はイワシ漁で栄えた九十九里にありました。漁具小屋は海岸近くにあり、この家そのものは内陸に立地していたため、漁村の家の雰囲気はありません。外観は二棟が軒を接しているように見えます。これを分棟型(ぶんとうがた)と呼び、クリの木の半割丸太(はんわりまるた)をくり抜いた大きな雨樋(あまどい)が二つの屋根をつないでいます。居室部は囲炉裏(いろり)のある広いカミがまず目に入ります。床の間の前身である押板(おしいた)や仏壇(ぶつだん)を備え、網元(あみもと)としての生活に使われた格式のある部屋です。その上手は畳敷(たたみじき)の部屋がつづき、座敷としては最高の扱いとなっています。背後には便所と風呂が付属し、座敷と同様に上層民家の接客部分を伝える貴重な建築です。
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見どころポイント!
 居間の梁は松の曲材を巧みに組み合わせており、見事な造形美を見せています。
 屋根が二つあり、間には大きな丸太を2つに割って作った雨樋があります。

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江戸期の房総・九十九里浜は鰯漁で賑わい、生産された干鰯(ほしか)は速効性の肥料として、江戸近郊の農家をはじめとして遠く四国や紀伊方面などでも珍重された。作田家は佐久田村(千葉県山武郡九十九里町作田)の名主で、同時に鰯漁の網元を勤めた有力な家柄であった。作田家の主屋は17世紀末頃の建築と推定されているが、こうした財力を反映して当時の民家としては相当大規模である。
移築前は周辺の農家と同じく、ひとつ屋根のいわゆる直屋の形式であったが、調査の結果、かつては分棟型であったことが判明し、現在はそのように復原されている。直屋に改造した時期は18世紀末頃だったらしく、その時に土間棟はすっかり建て替えられ、材料もすべて新材に替えられた。しかし発掘調査によって土間の規模は当初から変化のないことが判明したので、建て替え時の柱や梁を再用して、土間を別棟の形式に復原している。また、この地方にはすでに分棟型の民家形式は全く残されていなかったので、主屋と土間との取り合わせ部分の雨水の処理法などは前述した太田家住宅など、茨城県の分棟型民家を参考に整備された。
作田家の間取りは、漁家とはいっても農家のそれとなんら変わるところがない。移築前の形式にならって土間の妻側に3室の板敷のシモベヤが復原されているが、これらの部屋は漁具の置場や漁夫の寝場所として使用したというから、ここだけが漁家らしい特徴ということになろう。
千葉県には関東の民家の主流である広間型3間取の伝統がない。いくつかの間取りのタイプがあるが、それらに共通するのはヒロマの背面にナンド(寝室)を置くことで、これは客座敷の背後に寝室を置く広間型3間取とは明らかに系統を異にしている。この型の間取りは茨城や栃木、群馬にも散見されるが、まとまって分布するのは神奈川県の三浦半島のみである。三浦半島の観音崎と房総の富津との間は浦賀水道を隔ててわずか10kmほどしか離れていないから、海路によって住文化を共有したのだろう。
作田家住宅は床上6室と土間とからなる。家の中心はカミで、桁行が4間もあり、家柄を反映してきわめて広い。日常的な接客の場で、前面の3間を格子窓とするのはこの時期の関東の古民家に共通する構えである。カミとナンドとの境には仏壇と押板とが並ぶ。押板は仏壇とともに宗教的祭祠の場だったのかも知れない。チャノマは囲炉裏を中心に日常生活が営まれる所で、もっと古い時期にはおそらくカミとの仕切りはなかっただろうと推測されている。
ゲンカンは特別の出入口で、畳が敷かれるが、後世の式台構えのような武家住宅的な体裁を伴わない、農家らしい素朴な玄関の形式である。ゲンカンからナカノマ、オクはひと続きの接客空間で、床の間を備え、また面積的にもたいへん充実しているが、まだ天井はなく、過渡的な形態である。客用の風呂・上便所は幕末期の嘉永4年(1851)頃のものである。
構造は、梁行が5間と広いため、二段に組んだ梁行梁の上にさらに二の小屋を組んで、1本の扠首の長さを短くしている。すべて下から見渡せる梁組は豪壮で、やや細身ながら曲がりくねった梁を自在に組み上げた大工の腕は見事である。差物の使用も時期的にかなり早い。
以上のように、作田家は千葉県上総地方に残された唯一の分棟型民家であり、かつ網元という特異な家柄と、それに見合う豪壮かつ高質な居宅で、民家史上貴重な存在である。

 

秋の日本民家園(9)

9.野原家住宅
江向家、山田家、野原家と五箇山の合掌造りの家屋が続けて登場している。五箇山の合掌造りとして似ている点、異なっている点、それぞれがあるとのこと。私としては、一番心惹かれる骨太の合掌造りだ。深い谷を渡るための人力ロープウェーというべき渡し籠を使わなければアクセスできない環境下で、よくぞ建て上げたものだと感心してしまう。富山県利賀芸術公園の写真を見ても、相当に大変そうなところだと思う。
国指定の重要文化財として扱われていないのは、隣の山田家と同様に、経過年数が浅いからなのだろうか?

外観
外観_1
トオリ
外便所への通路なのか。冬場は本当に寒かっただろう。江向家では外便所とは記載されていなかったが、山田家、野原家と同様の外便所だったのだろうか。五箇山でも他では、妻側に大戸口が設けられる地区があるが、こちらは小さな出入口のみ。大戸口は平側に設けられた。
外観_2
外観_3
ちょっぴり紅葉が
外観_4
外観_5
外観_6
家屋内部
野原家の間取り
野原家の間取り
大戸口を入ったばかりのところでマヤの前
大戸口を入ったばかりのところでマヤの前
マヤ
恐怖の『渡し籠』が吊るされていた。こんなんじゃ、怖くて…。
『渡し籠』_1
『渡し籠』_2
こんなふうに使っていたようだ
『渡し籠』_3
オエ
この間が大きく、その結果、田の字になっていない独特の三間構造。巨大な梁の『牛梁』と、ここから前後に架け渡した曲がりの鋭い梁の『チョウナ梁』が目を瞠る。『チョウナ梁』をうまく収めてあるものだと感心してしまう。
オエ_1
オエ_2
オエ_3
オエ_4
ザシキ
畳敷きになっている
ザシキ
ブツマ
ブツマ_1
ブツマ_2
ニワ
土間でやることがないので、ニワは狭くなっているとのことだ。何かするとすれば、囲炉裏のあるオエの方で行ったのだろうか。
ニワ_1
ニワ_2

神奈川県指定文化財
 旧所在地:富山県南砺市利賀村利賀
 建物区分:農家(組頭の家)、合掌造
 構造形式:切妻造、一重三階、各面とも庇付、茅葺、桁行17.5m、梁行10.6m
 建築年代:18世紀後期
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迫力満点の梁がみられる合掌造の家
「越中五箇山」とは、庄川本・支流域の五つの谷(赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀谷)を中心とした地域の総称です。野原家は庄川支流域の利賀(とが)谷にあった合掌造で、庄川本流域の合掌造とは間取りや構造に違いがあります。
まず間取りですが、庄川本流系が四間取りを基本とするのに対して、広間型三間取りとなっています。大戸口を入ると、土間前半はウマヤ、後半は台所と作業場を兼ねたニワです。ウマヤ前方の細い通路は外便所に通じていました。オエは日常生活の中心となる場で、囲炉裏を二つ設けています。
中央の巨大な梁を「牛梁」、ここから前後に架け渡した曲がりの鋭い梁を「チョウナ」といいます。迫力あるその様子は合掌造民家の大きな見どころです。
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見どころポイント!
入って右手の渡し籠は、深い谷を渡るための人力ロープウェーです。
広間天井の太い梁を「牛梁」、ここから前後に渡してある曲がった梁を「チョウナ梁」といいます。
江向家、山田家、野原家を比べてみましょう。同じ五箇山の合掌造でも様々な違いがあります。

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野原家住宅の旧所在地は庄川が東に分岐した利賀川の流域(富山県東礪波郡利賀村)に位置するが、同じ五箇山でも庄川本流に沿って山ひとつ隔てた平村や上平村の合掌造とはかなり趣を異にしている。利賀谷の合掌造は白川村の切妻造とは違って、妻飾の大きな入母屋造である。これは基本的には五箇山全域の合掌造に共通するが、一方で入口は土間の平側につくいわゆる平入で、これは同じ五箇山の平村や上平村の妻入(妻側に入口がつく)とは異なっている。間取りも、土間沿いの部屋を前後2室に分ける上平村の民家に対して、利賀村では仕切りのない大きな一室としている。屋根の形式こそ似てはいるものの、両者はむしろ別系統の民家と考えられている。
野原家の大戸口を入ると、狭いトオリに面してマヤ(厩)があり、その奥が流し場や農機具などを置く場所に使われるニワである。土間が狭いのは平野部の民家と異なって屋内での農作業が少ない、山間の農家に共通する特色である。土間とオエの境は中央部と背面半間を除いて、板壁によってしっかりと仕切られる。冬の冷え込みのきつい山地農家ならではの構えである。広いオエにはふたつの囲炉裏が切られる。

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富山県の南西部に位置し、岐阜県に接する。標高1,000mを越える山々に囲まれた村域は南北に細長く、庄川の支流である利賀川、神通川の支流である百瀬川が縦断する村。
非常に急峻な峡谷地形であり、河川の間は険しい山塊に遮られる。同じ村内でも別流域間のアクセスは困難であり、新楢尾トンネルにより村としての一体性が保たれている。村外へのアクセスも峡谷を抜けるために困難で、県内で唯一アクセスが困難な自治体である。
村の中心部は利賀川流域である。

 

秋の日本民家園(8)

8.山田家住宅
火薬の原料となる塩硝を作っていた実は裕福な家だったのか。こちらは、前回は囲炉裏に火を入れての床上公開があったのだが、今回は残念ながらなかった。
仕方がないので、家の周りからしつこく撮ってみた。

屋外の様子
屋外の様子_1
屋外の様子_2
屋外の様子_3
屋外の様子_4
屋外の様子_5
手前の小さな家作は、肥料小屋を兼ねた便所
手前の小さな家作は、肥料小屋を兼ねた便所_1
手前の小さな家作は、肥料小屋を兼ねた便所_2
懸樋
懸樋
屋内の様子
山田家の間取り
山田家の間取り
ウスナワ
ウスナワとオイエとの段差は凄い。床がかなり高くなっているのは、火薬の原料となる塩硝を作っていたためではないいかと言われている。此処に隠し持っていたのだろう。
前回撮影分
ウスナワ
囲炉裏
前回撮影分
囲炉裏
仏壇
床上げ公開時は襖を開けていてくれた
前回撮影分
仏壇_1
仏壇_2
マヤ
マヤ
オイエ
厳寒の地だというのに、この部屋にしか囲炉裏はない。塩硝を作っていた関係からなのだろうか。
オイエ
家の外から、デイ、オイエを見る
家の外から、デイ、オイエを見る

神奈川県指定文化財
 旧所在地:富山県南砺市桂(かつら)
 建物区分:農家、合掌造
 構造形式:切妻造、一重三階、茅葺、桁行14.9m、梁行9.5m
 建築年代:18世紀初期
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蓮如上人が泊まったという言い伝えのある古い合掌造り
この住宅があった桂集落は、秘境といわれた五箇山でも特に辺境にありました。桂に一番近い集落は国境を越えた加須良(飛騨)でした。そのため山田家は切妻造の外観など、五箇山にありながら飛騨白川の影響を受けたと考えられています。高度成長とともに過疎化が進行して昭和45年に解村し、現在は桂湖というダム湖に沈んでいます。
山田家は、桂にあって「チョウナ仕上の家」として語りつがれていました。「蓮如上人が泊まった」という言い伝えもあり、年代の古い合掌造りとして重要な民家です。
大戸口を入るとマヤをのある土間、その奥にウスナワという低い板の間が続いています。ウスナワは流しを設けた台所兼作業場です。水は懸樋でとり入れていました。
一番奥の畳敷きの部屋は正式な座敷です。五箇山は浄土真宗の盛んな地域で、上手には大きな仏壇が設けられています。
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見どころポイント!
 床下が高いのは、火薬の原料となる塩硝を作っていたためと考えられています。
 左手にある小さな合掌造りは、肥料小屋を兼ねた便所です。

 

秋の日本民家園(7)

7.江向家住宅(えむかいけじゅうたく)
今回も囲炉裏に火を入れての床上公開がなかった。前回はあったような気がしていたが、記憶違いだったようだ。少なくとも、もう1回は行かないと完全には見ることができなさそうだ。ということで、ちょっと覗くだけしかできなかった。
こちらも、国指定重要文化財。五箇山の庄川本流系の合掌造りだそうだ。他とどういう違いがあるのかは浅学な私にはわからない。ただただ立派な建物だと驚嘆しながら眺めるばかりだ。
この日本民家園では中心的な建物のようだ。見てきたばかりの佐々木家住宅が優雅な感じなのに対し、こちらはかなり雄々しい感じを受ける。『豪雪、かかってこいや!!』って挑発しているかのようだ。


正面からの様子
ここで初めて縞々の茅葺き屋根を見た。今まで見てきた茅葺き屋根はすべてスムーズに切り揃えてあって、こうした葺き方には本当に驚いた。男性的な感じがする。
正面からの様子_1
正面からの様子_2
正面からの様子_3
正面以外の外観
下部の茅が少し痛々しい感じになってきているなあ。そろそろ吹き替えがあるのだろうか。その際には見てみたいものだ。
正面以外の外観_1
正面以外の外観_2
正面以外の外観_3
前回撮影分から
正面以外の外観_4
建物の南側の軒下
正面以外の外観_5
屋内の様子
江向家の間取り
江向家の間取り
ウマヤ
ウマヤ
ミソベヤ
ミソベヤ
ニワ
中奥には炊事場。石の水舟がある立派なもの。左奥は紙漉きの設備。その手前は竈。一つしかなかったのだろうか?煮込みとか保温は囲炉裏に持って行って行ったのかもしれない。
ニワ_1
ニワ_2
紙漉きと竈
紙漉きと竈
オエとデイ
それぞれに囲炉裏がしつらえてあった。囲炉裏の上には火棚を吊って、防火と煙の拡散と乾燥などの役割を負わせたようだ。デイの梁を見ると、曲がった材木を苦もなく使いこなしていることがよく分かる。
オエとデイ_1
オエとデイ_2
機織り機
機織り機
ブツマ
床上げ公開をしていなかったので、手をいっぱいに伸ばして撮った。立派な仏間のように見える。
ブツマ_1
ブツマ_2

国指定重要文化財
 旧所在地:富山県南砺市上平細島
 建物区分:農家(組頭の家)、合掌造
 構造形式:切妻造、妻入、茅葺、一重三階、桁行19.6m、梁行8.5m
 建築年代:18世紀初期
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田の字型の間取りを持つ合掌造りの家
富山県の五箇山地方は、岐阜県の白川地方とともに合掌造で知られています。しかし、それぞれ特徴があり、五箇山でも庄川本流と支流の利賀谷(とがだん)とでは違いが見られます。
この建物は庄川本流系で、「妻入」「正面に茅葺(かやぶき)の庇を付けた入母屋造風」「田の字型の四間取り」といった特徴を持っています。床上には、下手に囲炉裏(いろり)のあるデイとオエ、上手にオマエとヘヤが並んでいます。デイは接客用、オエは日常生活の場、ヘヤは寝室、オマエは正式な座敷です。このオマエは畳敷きで、浄土真宗が盛んな地域のためブツマ(仏間)が設けられています。
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見どころポイント!
 急勾配の大屋根は、手を合わせた形から合掌造と呼ばれます。2階3階は養蚕などに使われました。
 いろりの上の大きな棚は、火の粉が上がるのを防ぐとともに、濡れたものの乾燥などに使いました。

 

秋の日本民家園(6)

6.佐々木家住宅
正面入口から進むと、最初に登場する国指定重要文化財の建物。大きいし、きれいな建物であるのに驚かされる。ナカノマからザシキ、オクザシキとL字型に配置された3室からなる接客の場が形成された。その形状から『鍵座敷』と呼ばれる。東日本の上層農家で多くみられる形式の屋敷なのだそうだ。
屋外の様子
中二階の採光のために屋根の東側を「かぶと造」としている
屋根の東側は「かぶと造」
縁側には、券売所にも吊るしてあった枯露柿があった。こちらの方が似合うが、信州と甲州とで喧嘩しないものだろうか。
縁側には、券売所にも吊るしてあった枯露柿があった_1
縁側には、券売所にも吊るしてあった枯露柿があった_2
縁側には、券売所にも吊るしてあった枯露柿があった_3
縁側には、券売所にも吊るしてあった枯露柿があった_4
奥の建物も国指定の重要文化財。仲良く枯露柿を吊るしていた。
奥の建物も国指定の重要文化財de仲良く枯露柿を吊るしていた
屋外に設置してある男性用小便器
屋外に設置してある男性用小便器
佐々木家の間取り
佐々木家の間取り
ドマからみた屋内の様子
村の寺子屋としても使われていた中二階への階段
中二階への階段
ミソベヤ
ミソベヤ
ウマヤ
ウマヤ
ドマの天井
ドマの天井
オカッテの囲炉裏
オカッテの囲炉裏
ドマからオカッテ、チャノマなどを見た様子。煙で先がよく見えない。
ドマからオカッテ、チャノマなどを見た様子
チャノマから上がってみた屋内の様子
機織り機。豪農でも質素な生活を送っていたようだ。
機織り機_1
機織り機_2
チャノマ
こちらの囲炉裏は主に暖房用のものだったのだろうか。火棚などを設置しないところを見ると、木炭を使用したのかもしれない。
チャノマ
ナカノマ
接客用のナカノマ、マエデノザシキ、オクザシキの三間がL字形になっていて、『鍵屋敷』と呼ばれたのか。畳の間はやはり贅沢なものの位置づけだったのだろう。
ナカノマ
マエデノザシキとオクザシキ
マエデノザシキとオクザシキ
オクザシキ
オクザシキ
マエデノザシキの外から、ナカノマ、チャノマ、オカッテを見る
マエデノザシキの外から、ナカノマ、チャノマ、オカッテを見る

国指定重要文化財
 旧所在地:長野県南佐久郡佐久穂町畑
 建物区分:農家(名主の家)
 構造形式:寄棟造、一重、一部中二階、茅葺、桁行24.1m、梁行7.3m
 建築年代:享保十六年(1731)、延享四年(1747)に座敷普請
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建築工事の古記録が残る名主の家
この建物は名主(なぬし)の家で、長大で軒(のき)が高く、中二階の採光のために屋根の東側を「かぶと造」としています。こうした外観の特色のほか、普請帳(ふしんちょう)や記録によって家の歴史がわかる点で重要な民家です。
まず、享保十六年(1731)の新築願から建築した年がわかり、寛保三年(1743)の普請帳から千曲川(ちくまがわ)氾濫の影響によって移築されたことがわかりました。延享四年(1747)の普請帳は座敷の増築を伝えています。上手の二室(マエデノザシキとオクノザシキ)がこれにあたり、客用の便所や風呂を備えていることからも、村内で相当な地位についたことがわかります。農家ですが紺屋を営んだ時期があり、中二階は村の寺子屋としても使われていました。
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見どころポイント!
 入口の便所は男性の小用で、土足のまま使えるようになっていました。
 風呂場は来客の行水用で、浴槽はありませんでした。

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佐々木家住宅の旧所在地である八ヶ岳の東、千曲川の流れに沿った長野県南佐久郡八千穂村は山あいの高冷地で、決して豊かな土地柄ではなかった。佐々木家は旧上畑村の名主を交替で勤める有力農家であった。当家には普請に関する古文書が多数伝えられ、それによって現主屋の新築に至る経緯から、その後の移築、そして増築の過程がかなり克明にわかる、きわめて珍しい例である。
享保16年(1731)、当家より代官所宛に、家屋が破損したので古材を用い、また不足の分は自山の唐松を伐り出して新築したい旨を記した「普請願書」が提出された。この願い出は許可され、早速普請に取りかかったものと思われるが、現主屋を見る限り、主要部材に古材は用いられていないから、決して贅沢な家屋でないことを強調するためにこうした表現が使われたのであろう。ところが新築10年後の寛保2年(1742)、千曲川の大氾濫によって上畑村は大きな被害を受け、その結果村をあげて山寄りの高台に移転することになった。佐々木家は幸い流出を免れたが、翌年他の村民とともに新しい土地へと移転した。この時、主屋は解体して移築したようである。そして延享4年(1747)に座敷の妻側に2室続きの客座敷を増築した。民家園への移築にあたってはこの延享4年の状態に復原されている。
さて、創建当初の規模は現状からザシキ及びオクザシキを取り除いたものと考えればよい。つまり床上4室からなる整形4間取(田の字型平面)を基本としていた。オカッテも現在のように広くはなく、おそらく囲炉裏を中心とした後半部だけが土間に張り出していたものと想像される。したがって今のナカノマが当初の客座敷で、その妻側には床の間が設けられていた。そして延享4年の増築工事によって接客空間が格段に充実する。つまり増築されたオクザシキには床の間のほかに違棚が設けられ、そしてナカノマからザシキ、オクザシキとL字型に配置された3室からなる接客の場が形成された。こうした形式は鍵座敷と呼ばれ、江戸時代後期の東日本の上層農家で多くみられる形式であるが、当家は南佐久地方における鍵座敷成立の時期を明らかにするものとして貴重である。なお、客座敷に付属する形で上便所や風呂場が設けられたのは、当家が名主という立場上、代官所の役人などを接客する機会が多かったことを示すのだろう。
増築の結果、桁行は14間という長大なものになった。屋根は茅葺の寄棟造だが、土間の妻側は兜造にしている。兜造は群馬県や埼玉県西部など、養蚕の盛んな地方に多くみられるが、佐久地方の兜は厩の上部を下男部屋などに用いるために中2階を設け、そこに光を採り入れるための工夫であったから、これらとは少々系統を異にしている。また、床上部の前面及び背面には石置き板葺屋根の庇を設けている。
当家の構造上の特徴は、差物を多用して柱の省略がかなり進んでいることである。特にオカッテとチャノマ・コザシキの境には長さ4間という長大な差物を用いており、これは他の八千穂民家にも見られない特色である。
以上のように、佐々木家住宅は創建から移築・増築までの過程が詳細に判明する数少ない民家であり、また当初の南佐久地方の最も進んだ間取り及び構造技法を有する、たいへん貴重な民家である。

 

秋の日本民家園(5)

ここから信越ゾーン。次回から、国指定の重要文化財が登場するが、今回はその序章といった位置づけ。

水車小屋の前の道端にあった道祖神・庚申塔・馬頭観音(旧所在地は長野県南佐久郡佐久穂町)
道祖神
村の入口や道の辻などにまつり、悪いものが入ってくるのを防ぐ境界の神様。村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されている。古い時代のものは男女一対を象徴するものになっている。而、この道祖神は一対になっているような痕跡はあるものの、それ以上ははっきりはわからない。
道祖神
庚申塔
60年に一度、夜通し行われる庚申講の記念として建てられることが多い。万延元(1860)年のものだそうだ。フットボールではなかったようだ。
庚申塔
馬頭観音
死んだ牛馬を供養するため、道端にたてられることが多い。風化していてはっきり見えないからそうは感じないかもしれないが、憤怒の形相はかなり怖く感じる。
馬頭観音

石塔の前辺りから、宿場ゾーンを見下ろす
正面入口からは船越の舞台に向かってほぼ上り道となる。最後まで休まずに歩くと、さすがに息が切れる。晩秋の景色というには少し早いかも。
石塔の前辺りから、宿場ゾーンを見下ろす

5.水車小屋
私の大好きな水車小屋。近くで見ると、観光用の偽物ではなく、立派な実用の水車だったことがわかる。
水車小屋_1
水車小屋_2
水車小屋_3
左から、粉挽き1・精米臼2・わら打ち1だそうだ。理工系の才能が欠落している私には歯車などを見てもよく理解できないが、粉挽き用の石臼は上部のみがゆっくり回転するのだろう。
その右側の搗き臼は、杵の方が上下するようだ。水車の軸に直結している『なで棒』を反時計回りに動かす。そして杵の方に有る『はご板』に接触し杵を押し上げる。もう少し軸の回転が進むと、羽子板との接触が外れ、その瞬間に杵が落ちて、下の臼にある米などを搗く仕掛けのようだ。動作させるときは杵を穴に通し、直立させて使うはずだ。
そして、杵に引っ掛けてあるのが『輪』だ。何をするかは下記URLを参照されたい。
自分で撮った写真だが、暗くて不鮮明。もう少し、綺麗に撮るようにしなくては。

水車小屋_4
水車小屋_5
参考までに昭和記念公園にあった水車を示す
『粉挽き用の石臼』は左端。かなり工夫した歯車の形状になっているようだ。使用しない時は、臼を左側にずらしているようだ。
右側の2つは『搗き臼』と思われる。『なで棒』や『はご板』、『輪』が確認いただけただろうか。こちらは、使用しない時は、杵を高い位置に上げ、『なで棒』と『はご板』とが接触しないようにしているようだ。

昭和記念公園にあった水車_1
昭和記念公園にあった水車_2

『搗き臼』を解説した頁にjump

平面図(手前から粉挽き1・精米臼2・わら打ち1)
平面図
断面図(歯車を用いた動力の伝わり方)
断面図
立面図(流水が水車の上にかかる上掛式)
立面図

川崎市重要歴史記念物
 旧所在地:長野県長野市大字上ケ屋
 建物区分:水車小屋
 構造形式:寄棟造・妻入り、茅葺、桁行4.5m、梁行4.2m
 建築年代:19世紀中期
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19世紀の巧みな動力源
水車は使用目的によって二種類に分類できます。ひとつは灌漑(かんがい)などで水を上げるのにつかうもの、もうひとつは動力として用いるものです。
この水車は後者で、米つき、粉ひき、蕎打ちなどに利用していました。
水車を動力に用いる場合、水が車輪に掛かる高さによって上掛け式、胸掛け式、下掛け式に分けることができます。上掛け式と胸掛け式の場合は水をみちびく樋(とい)が必要になりますが、下掛け式の場合は水流に直接車輪をひたします。本園の水車は上掛け式で、車輪の直径は約3.6m。傷んだ場合に修理がしやすいよう車輪は建物本体から外せるようになっています。
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見どころポイント!
 粉挽き、米つき、わら打ちの3つの機能が備わっています。
 水車に水を導くための樋(とい)があります。

 

秋の日本民家園(4)

4.三澤家住宅(2)

座敷内部に上がってみた。屋根などの外見からは想像出来ないほどに立派なのだ。何故に石置き板葺きの屋根にしたのかが不可解ではある。川埼市の解説では、板葺の屋根は良材に恵まれた山間部の地域性によるものだとしているが。
まずは内部の様子をご覧頂きたい。

三澤家住宅(2)_2
三澤家住宅(2)_3
三澤家住宅(2)_4
式台玄関がしつらえてあったんだ。凄い格式だったとうかがい知れる。
三澤家住宅(2)_5
この欄間のデザインは富士山と三保の松原。世界遺産と風景だが、百数十年前の家屋のデザインに使用されていたとは。
三澤家住宅(2)_6
三澤家住宅(2)_7
室内側からは全体デザインを撮りにくいので、室外側から撮ってみた
三澤家住宅(2)_8
三澤家住宅(2)_9
三澤家住宅(2)_10
百目箪笥
三澤家住宅(2)_11
大きめの版木があった。こんな大きな版木を何に使ったのだろうか。
三澤家住宅(2)_12
三澤家住宅(2)_13
薬種商だったということがよく分かる
三澤家住宅(2)_14
三澤家住宅(2)_15
三澤家住宅(2)_17
三澤家住宅(2)_18
三澤家住宅(2)_19

 

秋の日本民家園(3)

3.佐地家の門・供待(さじけのもん・ともまち)
禄高二百五十石の武家屋敷の出入口。当主はそれなりの格の武士だったのだろう。供待の用意が有るのはそれほど特別なことではないのかもしれない。でも実情は相当に無理をしていたように思うのだが、どうだったのだろう。

『武士の給料』を説明した頁にjump

確かに母屋の移設がなく、門と供待だけなのだが、かなり貫禄があるように見える。内部は見かけほどではなさそうだが。
佐地家の門・供待_1
佐地家の門・供待_2
佐地家の門・供待_3
門番が出入りする引き戸
佐地家の門・供待_4
門番部屋はかなり薄暗い。私では務まりそうにない。
佐地家の門・供待_5
供待は、冬はとても寒そうだ。囲炉裏の回りに陣取って動かなかったのかもしれない。
佐地家の門・供待_6
佐地家の門・供待_7
佐地家の門・供待_8
まだ紅葉を鑑賞するには早かったかなあ
佐地家の門・供待_9

川崎市重要歴史記念物
 旧所在地:愛知県名古屋市東区白壁
 建物区分:武家屋敷付属建物
 構造形式:門=棟門、桟瓦葺、塀=延長10.5m、桟瓦葺供待=入母屋造、桟瓦葺
 建築年代:19世紀初期
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お供が控えた武家屋敷の門
この建物は、もと名古屋城の東南にあり、禄高(ろくだか)二百五十石の武家屋敷の出入口でした。主屋(おもや)は名古屋に残されたため、現在は旧三澤家住宅を主屋に見立てて配置しています。
門は棟門(むなかど)と呼ばれる形式です。両袖部に突出している小屋根は、提灯(ちょうちん)を吊るすためのものです。供待(ともまち)はお供が主人の帰りを待つための施設で、内部は土間(どま)、門番部屋、囲炉裏(いろり)のある板の間(供待)からなっています。供待が一つの建物として建てられるのは珍しい事例です。屋敷外は漆喰(しっくい)仕上げとして城郭(じょうかく)風であるのに対し、内側は中塗りまでとして軒裏(のきうら)も木部を露出させた簡素な仕上げにするなど、体面を重んずる武士の家らしさが現れています。
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見どころポイント!
 屋敷の外は白い漆喰仕上げ、内側は漆喰を塗らず簡素な仕上げとなっています。
 入口の小部屋は門番が使っていました。


4.三澤家住宅(1)
今回取り上げるのは往きに撮った分。戻るときに『床上公開』で撮った分は、次回取り上げる。前回は屋根から煙が抜けるのがよくわかったが、今回はあまり目立たなかった。
石置板葺のゆるい切妻造屋根が何とも目を引く
三澤家住宅(1)_1
三澤家住宅(1)_2
三澤家住宅(1)_3
三澤家住宅(1)_4
三澤家住宅(1)_5
三澤家住宅(1)_6
三澤家住宅(1)_7
三澤家住宅(1)_8
三澤家住宅(1)_9
三澤家住宅(1)_10
三澤家住宅(1)_11
内部がかなり立派なのに、屋根はかなり粗末なように見えた。伊那辺りの降雪量はさほどではなかったにしても、平べったい屋根で大丈夫だったのだろうか。除雪の時に石が邪魔になるような感じもする。こうした理由は何だろうか?
三澤家住宅(1)_12
三澤家住宅(1)_13
前回撮影分から。煙が抜けるのが目立った。
三澤家住宅(1)_14

神奈川県指定重要文化財
 旧所在地:長野県伊那市西町
 建物区分:商家(薬種問屋→旅籠)
 構造形式:切妻造、石置板葺、一重、一部二階、桁行13.6m、梁行12.7m
 建築年代:19世紀中期
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宿場で薬屋を営んだ板葺き屋根の家
この建物は、中山道(なかせんどう)から分かれる伊那(いな)街道の宿駅、伊那部宿(いなべじゅく)にありました。農業を主とし、代々組頭(くみがしら)をつとめてきましたが、江戸時代の末に製薬・売薬業を始めて成功しました。
外観上の特徴は、石置板葺(いしおきいたぶき)のゆるい切妻造(きりづまづくり)屋根と上手の門構(もんがま)え、それから式台玄関(しきだいげんかん)です。板葺の屋根は良材に恵まれた山間部の地域性によるものです。間取りにはこの宿場の半農半商的性格が現れています。通り土間(とおりどま)で大戸口(おおどぐち)から敷地奥へつなぐのは町屋(まちや)の特徴です。一方、土間後部をウマヤとし、囲炉裏(いろり)のあるオオエを中心に構成する点はこの地方の農家と共通しています。
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見どころポイント!
 栗の板を使った屋根は横木と石だけで押さえてあります。
 展示してある看板は、薬屋と旅館を営んでいたときのものです。

 

秋の日本民家園(2)

1.鈴木家住宅
前回本年6月に行った時には、耐震工事中で見ることができなかった我が故郷福島県の旅籠で馬宿でもあった建物。今回は何とか見ることができた。でもフルオープンの状態ではない。早く耐震工事を終了させ、もう少し往時の様子を想像できるくらいにしてほしいものだ。
福島市松川町というと松川事件の起きたところだが、それよりずっと昔の建物で使われたのもずっと前だろう。白河に向かって松川に泊まるということは、明らかに他県からの客だったのだろう。馬喰や馬方や馬が泊まる商いが成立するくらいに、白河で行われる競りは規模が大きかったのか。知らなかった。
脇道に逸れるが、スペインの巡礼路でも、馬に乗ってサンチャゴ・デ・コンポステラを目指す人がいる。そこには、馬を受け入れる宿が同様に有るんだろう。ペットの同伴などという生易しいものではないので、自ずと泊まる宿は限定されるのだろうが。

鈴木家住宅_1
鈴木家住宅_2
正面の板戸は上に収納する揚戸になっているのか。上の収納する仕掛けには気づかなかった。このままでは寒そうだと思っただけだった。(^_^;)
鈴木家住宅_3
揚戸イラスト
ここに馬が最大14頭繋がれていたのか。かなりうるさかったのではなかろうか?
鈴木家住宅_4
入口は引き戸ではなく内側に片側が開く開き戸だったのか。最初から開いていたので、全く気づかなかった。馬さんも出入りするのだから、引き戸では幅が狭すぎたのだろう。ナルホド
鈴木家住宅_5
鈴木家住宅_6
紅葉はまだまだ先のようだ
鈴木家住宅_7
鈴木家住宅_8
鈴木家住宅_9
鈴木家住宅_10
鈴木家住宅_11
神奈川県指定重要文化財
 旧所在地:福島県福島市松川町本町
 建物区分:旅籠(馬宿)
 構造形式:前部=寄棟造、茅葺、桁行 10.6m、梁行 6.9m/後部=入母屋造、茅葺、桁行10.4m、梁行5.2m
 建築年代:19世紀初期
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奥州街道の馬宿
この建物は、奥州街道の宿駅、八丁目宿の旅籠(はたご=宿屋)でした。南部駒(なんぶごま)を白河(福島県)方面の競り市(せりいち)に出す馬喰(ばくろう=馬商人)や、馬を世話する馬方(うまかた)を泊めた馬宿(うまやど)で、馬は土間(どま)に、馬方は中二階に、馬喰や武士は一階の座敷に宿泊しました。
街道に面した前部は、中二階造として旅籠の営業に当てています。揚戸(あげど)、格子窓(こうしまど)、日除けの板暖簾(いたのれん)、深い軒(のき)の出など、宿場の民家の特徴が良く現れています。後部は通り(とおり)土間に沿って奥に長くのび、左手に家族の生活の場であるチャノマ、カッテ、ニワ、右手に馬をつなぎとめておくマヤが並んでいます。
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見どころポイント!
 土間のマヤには14頭の馬をつなぐことができました。
 狭い間口を活かすため、入口は引き戸ではなく開き戸に、正面の板戸は上に収納する揚戸になっています。


2.井岡家住宅
間口は狭いが奥に長く続く構造だったようだ。その一部を移設したと前回説明を受けた。そのとき、屋根も素晴らしいと聞いたのだった。今回は説明担当のボランティアの人がいなくて、単に見ただけ。
前回撮影分から3ショット
井岡家住宅_前回撮影分_1
井岡家住宅_前回撮影分_2
井岡家住宅_前回撮影分_3
井岡家住宅_1
井岡家住宅_2
井岡家住宅_3
荒神(火の神)を祭るという大かまど。物凄く貫禄がある。正月の餅つきのとき以外は使わなかったとはもったいない話だ。
井岡家住宅_4
贅沢な瓦なのだが、うまく撮れなかった
井岡家住宅_5
前回撮影分から。屋根は桟瓦で、一部に本瓦を使っている。左右の棟に2列ずつと、中央に4列だ。本瓦葺きは寺院などで見られるようだ。川崎市の解説では桟瓦葺きとなっている。
井岡家住宅_前回撮影分_4
神奈川県指定重要文化財
 旧所在地:奈良県奈良市高畑町
 建物区分:商家
 構造形式:切妻造、桟瓦葺、一重、一部二階、桁行7.9m、梁行12.7m
 建築年代:17世紀末期~18世紀初期
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狭い間口を活かした奈良の商家
この建物は奈良の柳生街道(やぎゅうかいどう)に面した商家でした。古くは油屋を営み、のちに線香屋としてその製造販売を行っていました。
外観は正面に庇(ひさし)を設け、吊上げ式の大戸(おおど)、格子(こうし)、揚見世(あげみせ)を備えており、商家の面影を伝えています。また、柱などを塗り込んだ外壁や、瓦葺(かわらぶき)屋根は、防災を考慮した町屋(まちや)の特徴をよく現しています。内部は一方を通り土間(とおりどま)とし、居室部は土間に沿って縦一列に三室を並べ、「つし」と呼ばれる中二階(物置)を設けています。正面左側のミセは商いの場で、右側のシモミセは品物の取引に、折りたたみ式の揚見世は品物の陳列に使われました。
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見どころポイント!
この家は囲炉裏がなく、かまどで生活をしていました。なお、中央の大かまどは荒神(火の神)を祭るもので、正月の餅つきのとき以外は使いません。
敷鴨居(しきがもい)の溝には、開閉に必要な分だけを彫る「突き止め」という古い手法が用いられています。

 

秋の日本民家園(1)

実は『紅葉の日本民家園』というタイトルにしたかったのだが、まだ若干早かったようだ。
季節のものなので、時期遅れにならない内に、順番を繰り上げて取り上げることとする。今回はすべてEOS M2で撮影した。


日本民家園の案内図
日本民家園の案内図

本館券売所
いきなり見事な干し柿に度肝を抜かれた。甲州市の枯露柿なんだそうだ。美味しそうだが、まだ渋が残っていそうだ。
本館券売所_1
本館券売所_2
本館券売所_3

0.原家住宅
この民家園の文化財としては、最低ランクの『川崎市重要歴史記念物』という扱いである。それは経過年数がほかよりは新しいという理由からなのだろう。が、実は最も豪華な建物ではないかと考えている。そう見えなかったとしたら、私の写真の腕前の所為だろう。
1階の間取り(公開)
1階の間取り(公開)
2階の間取り(非公開)
2階の間取り(非公開)
原家住宅_2
原家住宅_1
原家住宅_3
原家住宅_4
原家住宅_5
原家住宅_6
原家住宅_7
原家住宅_8
原家住宅_9
原家住宅_10
原家住宅_11
原家住宅_12
原家住宅_13
原家住宅_14
原家住宅_15
原家住宅_16
原家住宅_17
建築時の写真を見てもすごい家屋だったことがよく分かる
原家住宅_18
原家住宅_20
原家住宅_21
原家住宅_22
原家住宅_23

木造建築技術が高度に磨かれた明治時代の豪壮な民家
この家は川崎市中原区小杉陣屋町に所在した大地主の主屋です。
原家の伝承によると、当住宅の建築は22年を要し、驚くほど慎重に家づくりを行ったことが伺われます。
主屋はケヤキ材をふんだんに使用した木造・二階建て・桟瓦葺き・延べ117坪(387㎡)の大規模住宅で、南に面しています。
2階に入母屋造りの大振りな屋根をかかげ、1階は正面の式台(格式ある玄関)に唐破風(からはふ)屋根設けたり庇(ひさし)屋根も瓦葺きとするなど、重厚で格式を備えた外観が特徴といえます。
内部1階は正面向かって左手(西側)に土間・台所の作業空間、その右手(東側)に前後2列・左右3列の居住空間があり、2階は家族の生活空間となります。
1階は天井が高く、柱も太く、丈の高い差鴨居(さしがもい)が多用されており、豪快な空間構成が印象的です。一方2階は室の大きさと天井高が適度に抑制され、生活部分としての落ち着いた空間を作り出しています。
木工技術に関してはすべてに渡って精度が高く巧妙であるといえます。大振りな屋根は出桁造(だしげたづくり)による二軒(ふたのき)構造でしっかり支えているように見えますが、実際は屋根裏の跳木(はねぎ)や梁が荷重を負担し、出梁(だしばり)(腕木)は見せかけのつくりとなっています。また、柱の前後左右に差鴨居が取り付く場合の「四方差し(しほうさし)」技法や、欅の厚板を用いた縁板が反ったり隙間を生じたりしないような複雑な加工など、目に見えない部分で多大な配慮が認められます。

 

赤坂見附界隈

弁慶濠と弁慶橋
桜が開花した頃が綺麗なんだろうなあ。人混みが嫌いな私は気後れしてその時期には行ったことがない。
弁慶濠は江戸城の外濠の一部だが、ほぼ往時の形のまま現存している。傍らを首都高速新宿線が走る。濠の名は明治期に架けられた弁慶橋から命名されたもの。
弁慶濠と弁慶橋_1
弁慶濠と弁慶橋_2
弁慶濠と弁慶橋_3
弁慶濠と弁慶橋_4
弁慶濠と弁慶橋_5
弁慶濠と弁慶橋_6
弁慶濠と弁慶橋_7
赤坂プリンスホテル旧館(旧李王家邸)
保存されることが決まって、曳家もなされた。今はお化粧直しの真っ最中なのだろう。いつも遠くから見るだけだなあ。全く縁がなかった。きっとこれからもだろう。
赤坂プリンスホテル旧館(旧李王家邸)_1
赤坂プリンスホテル旧館(旧李王家邸)_2
赤坂プリンスホテル旧館(旧李王家邸)_3
Freeの写真を借用
赤坂プリンスホテル旧館(旧李王家邸)_4
1930年、韓国皇太子として生まれ、朝鮮併合後には日本の皇族に準じた扱いを受けていた李垠の邸宅として造営された建物を引き継いで開業した。建物は木造2階建の洋館で、宮内省内匠寮の北村耕造、権藤要吉らが設計し、清水組(当時)により施工された。
日本の敗戦後には李垠も臣籍降下したことから、建物の大部分は参議院議長公邸などとして使用された後、1952年に国土計画興業(後のコクド、及びプリンスホテル)がこれを取得した。客室35室が整備され、1955年に赤坂プリンスホテルとして開業した。
元は四角い中庭を囲む形の建物で、後に西側が撤去されている。デザインはチューダー様式を基調としている。白い壁と濃褐色の木材との対比が落ち着いた印象を与えている。玄関ホールのスクリーン、階段の手摺り子など随所にねじり柱が施されている。談話室などには和風の網代天井も用いられている。現在、1階の大食堂はチャペルとして使用されている。2階のレストランは大幅に改装されているが寝室や書斎などの内装は造り付けの調度品も含めて当初の状態で残され、レストランの個室などに使用されている。1階がバー「ナポレオン」や結婚式場、2階がフレンチレストラン「トリアノン」などとなっていた。


『 じわりと毎秒1ミリ、赤プリ旧館をまるごと動かす 驚異の工事現場シリーズ 』の記事へjump

ホテルニューオータニ『鶴の間』
超巨大なバンケットルーム。総面積が2,452平米だそうだ。私が出席した何日か前には出雲大社のボンボンの結婚式の東京での披露宴がここで行われたとか。そちらに出席したかったが、そういう晴れがましい席に呼ばれることなどあるわけがない。
ホテルニューオータニ『鶴の間』_1
ホテルニューオータニ『鶴の間』_2
部屋は立派だったが、主催者がちょっと料理をケチったかなあ。あまりに出席者が多く、司会者が締める時間が1分違うだけで相当な金額になるんだとか。それでも政治家の資金集めパーティよりはマシなのかも。当然ながらしっかりと飲んで食べた。
供された料理_1
供された料理_2
供された料理_3
供された料理_4
供された料理_5
供された料理_6

赤坂見附(あかさかみつけ)とは、いまの東京都千代田区紀尾井町・平河町にあたる地に存在した、江戸城の「江戸城三十六見附」のひとつ、及び現在の赤坂見附の跡地や東京メトロ赤坂見附駅付近一帯を指す地名である。
見附とは主に城の外郭に位置し、外敵の侵攻、侵入を発見するために設けられた警備のための城門のことで、江戸城には外濠および内濠に沿って36の見附があったとされている。赤坂見附はそのうちのひとつで、他に現在に名を残すものとしては四谷見附(四谷)、市谷見附(市ヶ谷)などがある。
赤坂見附は枡形門の形式で、これは江戸城の田安門、清水門などと同じである。現在の赤坂見附址にはこの城門は存在しない。現在見られる赤坂見附の遺構は、紀尾井町の国道246号沿いに残る石垣である。
この赤坂見附跡の西側には弁慶堀が水を湛え、赤坂見附交差点は国道246号(大山道)と外堀通りの交点となっている。

 

田浦 秋の見学会(4)

掃海艦『はちじょう』の艦内を見る(3)
甲板上から見た長浦港の様子
すぐ目の前に見えるのは処分を待つだけの潜水艦
機密の塊のために、安易にスクラップに出すようなことはできないのだ。その先にある艦籍番号152は護衛艦『やまぎり 』。
処分を待つだけの潜水艦ほか
巡視船『たかとり』
小笠原海域での中国漁船団による大規模な珊瑚密漁取り締まりにも出かけるクラスだろう。中国漁船団は領海侵犯や資源が枯渇しようがどうしようがお構いなしの無法ぶりのようだ。殆んど休みなしの出港で疲れ果てていることだろう。
巡視船『たかとり』
巡視艇『ゆうづき』&『うらゆき』
『ゆうづき』は『うらゆき』の後方に停泊。沿岸警備が主任務のようだ。
巡視艇『ゆうづき』&『うらゆき』
油船YG201号270t型&油船YO29号490t型
長浦港内の艦艇に給油するための船舶
油船YG201号270t型&油船YO29号490t型

これで、掃海艦『はちじょう』の艦内見学を終え、巡視艇『ゆうづき』を見るべく下船した。
移動のために岸壁を歩いていたら、珍客オオバンがいた。私は不忍池で見たことがあるだけ。オオバンも移動中だったのだろうか。

オオバン_1
オオバン_2

巡視艇『ゆうづき』
本年3月末に竣工し、6月に就役したばかりのピッカピカの巡視艇だ。掃海艦『はちじょう』から移ってきたので、より狭小な船体に驚く。
乗組員は8人で、64トン、全長27メートル、速力25ノット以上。
先代より約10ノット速くなり、日本語、英語、中国語、韓国語の4カ国語に対応する防災情報などの表示装置が新たに設置された。そうは言っているものの、『停戦命令表示装置』以外の何物でもないのだろう。
また、暗闇でも姿を認識できる夜間監視用装置、海底の形状を立体的に表示でき、沈没船の捜索時などに用いられる海中捜索装置も搭載された。
言ってみれば、若干ハイテク度が上がったということになろう。

『ゆうづき』&『うらなみ』
全くの同型で就役も同時。奥の『ゆうづき』が今回の見学対象の巡視艇。
『ゆうづき』&『うらなみ』
『ゆうづき』の内部
『ゆうづき』の内部_4
『ゆうづき』の内部_5
『ゆうづき』の内部_6
『ゆうづき』の内部_7
『ゆうづき』の内部_8
『ゆうづき』の内部_9
投石防護網格納箱
中国船の荒くれぶりに対応すべく備えてあるとのことだ
『ゆうづき』の内部_10
『ゆうづき』の内部_11
『ゆうづき』の内部_12
『ゆうづき』の内部_13
『ゆうづき』の内部_14
『ゆうづき』の内部_15
停船命令表示装置
日本語、英語、中国語、韓国語の4カ国語に対応する表示装置なのだそうだ。
停船命令表示装置

ことなみ型巡視艇(ことなみがたじゅんしてい、JCG PC Kotonami class)は、海上保安庁の巡視艇の一種である。分類上はPC型巡視艇で、船形は23メートル型。
平成22年度(2010年度)予算で最初の2隻の建造予算が計上され、2012年3月に就役した。本型により、老朽化した航路哨戒用の23メートル型巡視艇のしきなみ型と、特23メートル型巡視艇のあきづき型を代替する。
船体は防弾仕様の軽合金製で、波による動揺を抑えるため喫水線近くの船体側面にフィンが設置されている。また、夜間監視装置、停船命令表示装置を装備している。


おまけ
レンガ造りの倉庫
『横須賀造修補給所N-4倉庫』の表示あり。旧横須賀海軍軍需部第三計器庫だったようだ。
レンガ造りの倉庫_1
レンガ造りの倉庫_2
レンガ造りの倉庫_3
レンガ造りの倉庫_4
かなり古い建物と引き込み線
引込線のレールも残っていた。七釜トンネルから、このエリアに複雑にレールが伸びていたんだろう。
かなり古い建物と引き込み線

以上で、『田浦 秋の見学会』シリーズは終了です。最後までご覧頂きありがとうございました。

 

田浦 秋の見学会(3)

掃海艦『はちじょう』の艦内を見る(2)
曳航掃海具巻揚装置
相当な深さまで沈めるのだろう。巻取り装置もかなり大型になっている。
曳航掃海具巻揚装置
S-7機雷処分具2型
下記説明は、S-7機雷処分具全般の説明。当初、中深度用に開発された、これは、その後、深深度用として開発されたS-7・2型だ。当然のことながらノウハウの塊だろうし、高価なものだと思う。
中深度の円筒型機雷処分具で、航走体先端に超音波水中映像装置やマジックハンド式のマニピュレーターを持つ。全長は3.8m、重量は約500kg。艇の探知機が深い海底に機雷らしきものを発見した際、確認と処分のために使用される。超音波映像装置やテレビカメラによって目標に近づき、艇のモニターで目標の形状や種類の確認を行い、係維機雷であればカッターでワイヤーを切断、沈底機雷であれば爆雷を投下して時限式のほか音響指令で爆発させ機雷を処分する。
掃海艇「うわじま」型に搭載されているほか、深深度用としてS-7・2型を掃海艦「やえやま」級に搭載している。後継の処分具としてS-10が開発されている。

S-7機雷処分具2型_1
甲板も勿論鉄板ではなく木の板を使用している
S-7機雷処分具2型_2
S-7機雷処分具2型_3
説明図
説明図
機雷捜索
説明図
機雷捜索説明図
掃海具揚収クレーンほか
船尾にある蟹の足みたいな機械装置が掃海具揚収クレーン。白く見えるのが、曳航掃海具のフロート(浮標)。黄色いのが、深深度用S-7・2型機雷処分具で、その上のクレーンがS-7用クレーン。そして、何より船体外板は木造船であることが示している。
掃海具揚収クレーンほか
水中処分員用の装備
機雷のすぐ近くまで行くのだろうから、神経を使う作業になるのだろう
水中処分員用の装備_1
水中処分員用の装備_2
水中処分員用の装備_3
水中処分員用の装備_4
水中処分員用の装備_5
水中処分員用のゴムボート
水中処分員用のゴムボート_1
水中処分員用のゴムボート_2
兵装
JM-61-M20mm多銃身機銃 × 1基
戦闘用の艦船ではないので、その種の装備はないが、今どきは海賊が横行するような物騒な状況なので、自衛のために最低限の兵装を施している。バルカン砲というものだ。
JM-61-M20mm多銃身機銃_1
JM-61-M20mm多銃身機銃_2
JM-61-M20mm多銃身機銃_3
説明図
説明図
ジャイロコンバス・信号探照灯・双眼鏡
ジャイロコンバス・信号探照灯・双眼鏡
ブリッジ内部
すごい人だかり。どんな船舶であっても、常に人気のエリアのようだ。
ブリッジ内部_1
ブリッジ内部_2
ブリッジ内部_3
ブリッジ内部_4
階段は非常に急勾配
私の真下に位置するのは非常に危険。ついでに言えば、艦船見学にスカート姿で来るのは、本当にやめてほしい。
階段は非常に急勾配_1
階段は非常に急勾配_2

 

田浦 秋の見学会(2)

海上自衛隊が世界でもトップレベルと言われているものが2つある。一つは潜水艦関連の技術。もう一つは掃海関連の技術。
イラン・イラク戦争においては、ペルシア湾にタンカー航行妨害用の機雷が敷設された。
湾岸戦争においてもイラク軍がクウェート沖合いに機雷を約1,200個敷設した。戦後に日本を含む国際部隊が掃海作業を行っている。とりわけ、紅海やペルシア湾には機雷が数個敷設されただけで、原油価格が大きな影響を受け世界経済が激しく動揺するため、近時テロ目的の機雷が各国により非常に警戒されている。
初めての海上自衛隊派遣に関して、賛否両論の激しい意見が飛び交った。私は危険性の高い機雷掃討に、世界トップレベルにある海上自衛隊が参加して安全性確保に寄与したことは、金銭のみの支援などとは比べ物にならない大きな国際貢献だったという立場に立つ。


掃海艦『はちじょう』の艦内を見る(1)
乗員63名の世界最大級の木造船舶。他の艦船のように鋼板を使用すると、どうしても磁気を帯び、磁気を検知するタイプの機雷、磁気をも作動条件の一つとしている複合型機雷、の餌食になってしまう。そのため、掃海艦艇は従来から木造船である。2016年就役予定の次期開発型は、負荷を軽減すべく、FRP船舶となる予定。
やえやま型掃海艦は深深度の機雷に対応できる機能を持つ。味方の潜水艦が安心して通行できるようにするわけだ。

掃海艦『はちじょう』_1
掃海艦『はちじょう』_2
随分、多数の見学者が乗船しているなあ
掃海艦『はちじょう』_3
掃海艦『はちじょう』_4
掃海艦『はちじょう』_5
『つしま』
はちじょうの反対側に停泊していた。艦体右側を見るのに都合が良いので、何枚か撮ってみた。
『はちじょう』と同型艦。大きさ的には取るに足らない艦船だが、2011年10月、バーレーン沖ペルシャ湾にてアメリカ合衆国とイギリス共催による多国間掃海訓練に日本として初参加した実績を持つ。

掃海艦『つしま』_1
掃海艦『つしま』_2
掃海艦『つしま』_3

「はちじょう」は、中期防衛力整備計画に基づく平成2年度計画掃海艦303号艦として、日本鋼管鶴見造船所で建造され、1991年5月17日起工、1992年12月15日進水、1994年3月24日に就役の後に第2掃海隊群第51掃海隊に配属された。
 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
潜水艦隊のための航路啓開を主任務としており、従来の掃海艇では対処不可能な深深度に敷設された機雷への対処能力が付与されている。従来の海上自衛隊掃海艇と同様、磁気反応型機雷を避けるため木造であり、アメリカ海軍のアヴェンジャー級とともに、世界最大級の木造船舶となっている。


機雷の種類
機雷の種類
A-海中,B-海底,SS-潜水艦
1-浮遊機雷
2-浮遊機雷
3-係維機雷
4-短係止機雷
5-沈底機雷
6-CAPTOR機雷/魚雷射出型機雷
7-上昇機雷

機雷の作動方法
機雷の作動方法として大きく分けると触発機雷 (Contact mines) と感応機雷 (Influence mines) の2つに分けられる。触発機雷は艦船が接触することにより爆発する機雷で、触角機雷および水中線機雷などがある。ヘルツ式触角を用いた触角機雷は現在でも見ることができる。感応機雷は艦船の航行により発生する船舶特性により機雷が感応して作動する機雷で、触発機雷に比べると広い危害範囲を持っている。
過去には、感応機雷には艦艇の磁気により乱れた地磁気に感応する磁気機雷、艦艇の出す音響に感応する音響機雷、艦艇が航行することにより発生する負水圧を感知する水圧機雷、船体とスクリューなどの異種金属間で発生する電流を捉えるUEP機雷などが開発され、21世紀の現在では、これら複数のセンサーからの情報に基づく高度な起爆条件が設定できる複合機雷が主流を占める。

ロシア帝国の係維機雷。突起に触れると爆発する古典的な触発機雷。
ロシア帝国の係維機雷
曳航掃海具のフロート(浮標)
これらが『浮き』だなんて、釣り師の人が驚くような感じだが
曳航掃海具のフロート(浮標)_1
曳航掃海具のフロート(浮標)_2
曳航掃海具のフロート(浮標)_3
曳航掃海具のフロート(浮標)_4
曳航掃海具のフロート(浮標)_5
曳航掃海具のフロート(浮標)_6
複合掃海説明図
感応(磁気・音響)掃海というもの。『71式音響掃海具S-2改』による磁力発生と『85式磁気掃海具S-6』による音響発生との挟み撃ちで感応型の機雷を爆破させる。
複合掃海説明図
深深度係維掃海説明図
要は潜水艦を標的とする機雷をどう掃討するかの説明だ。係維掃海と機雷掃討とが一緒に描かれているが、よくわかりにくい。下記URLのほうが理解しやすそうだ。
深深度係維掃海説明図
機雷探知機AN/SQQ-32
可変深度式のソナー
機雷探知機AN/SQQ-32の写真は無し
説明図
機雷探知機AN/SQQ-32の説明図
SQQ-32VDS巻揚げ装置
SQQ-32VDS巻揚げ装置_1
SQQ-32VDS巻揚げ装置_2

上掲写真の説明図では掃海の仕組みが今ひとつ理解できなかったと思う。もう少しわかりやすい解説ページを見つけた。
比較的よく分かるのではないかと思われる解説ページヘjump

 

田浦 秋の見学会(1)

今回は横須賀市が主催するイベントに参加してみた。CANON EOS M2とFUJI X20とで撮影した。

七釜トンネル
JR田浦駅の下りホームとつながる七釜トンネルは、JR横須賀線の人気のトンネルの一つだ。明治、大正、昭和と3代のトンネルがあり、顔だちがそれぞれちがう。
一番古いのは中央のトンネル(下り線)で、横須賀線開通の明治22年に完成。その後、電化により大幅に改造されてしまった。次は大正13年の複線化により増設されたみごとなレンガ造りである(上り線)。一番新しいトンネルは、昭和18年の戦時中に、海軍の要請で造られた軍需輸送専用の引込み線でコンクリート製だが、いまは廃線となっている。この地は字「失鎌」だが、蒸気機関車の「釜を失う」をきらい、当て字の「七釜」に変えたと伝えられている。
 
田浦駅ホームから見た七釜トンネル
右端が一番古そうに見えるが、真ん中が一番古い。見かけが若干新しく見えるのは、横須賀線が電化に対応するときに、大幅な改造工事を行ったためである。
田浦駅ホームから見た七釜トンネル_1
田浦駅ホームから見た七釜トンネル_2
田浦駅ホームから見た七釜トンネル_3
陸橋上から見た七釜トンネル
陸橋上から見た七釜トンネル_1
陸橋上から見た七釜トンネル_2

七釜トンネルの説明
七釜トンネルの説明
昭和のトンネルを見学する人の列
鎌を失うほどの雑草が生えていた土地なので、『失鎌』という地名がついたという。当時ほどではないにしても、今も雑草が凄い。
昭和のトンネルを見学する人の列_1
昭和のトンネルを見学する人の列_2
昭和のトンネルを見学する人の列_3
見学地点まであと一歩のところまで進んだ
見学地点まであと一歩のところまで進んだ
首を長くしている次の番の人達
首を長くしている次の番の人達
今回の見学対象である専用線(廃止線)のためのトンネル
近くで見ると意外に広い。同じトンネル内に複線が走るものだったんだ。
近くで見ると意外に広い_1
近くで見ると意外に広い_2
昭和58年ころの写真
当時の写真をみると、確かに複線だということがわかる。通勤や通学の横須賀線を使っていたはずなのに、トンネルの様子などはまるで記憶が無い。
昭和58年ころの写真
レールがかろうじて見える
『失鎌』という地名を彷彿とさせる雑草の勢いかな
レールがかろうじて見える
見学の様子
参加者は興味深そうに見て、説明を真剣に聞いていた。主催者はしてやったりと思ったことだろう。
見学の様子_1
見学の様子_2
七釜トンネルと反対側(鎌倉・逗子側)の田浦トンネル
見えている右側が明治のトンネルで、物陰になって見えていない左側が大正のトンネル
田浦トンネル_1
陸橋上からから見た田浦トンネル
両方のトンネルとも見えている
田浦トンネル_2
田浦トンネルの説明
田浦トンネルの説明

1)横須賀線は明治22年6月に開業
2)田浦駅は明治37年5月に開業
3)大正9年に沼間~田浦間複線化(旧来の線路が下り線、新しい線路が上り線となった)
4)大正13年に田浦~横須賀間複線化
5)大正14年電化工事
 a.上り線は直前に開通した線路で、トンネルは電化工事に対する備えができていた
 b.下り線はトンネルの改築が必要だった
  アーチ部分を改築したのは『吉倉』『七釜』『田浦』のトンネルで、他のトンネルはレールの位置を低くして、断面形状を確保し、垂直壁面とした。

 

増上寺~二天門~御成門~台徳院霊廟惣門_with_東京タワー(6)

芝東照宮
ずっと安国殿が端の方にあったので気になっていたのだが、下記のような経緯があったのか。黒本尊は大殿の真後ろにあったようで、そう考えれば、安国殿の位置も納得できる。
以前の東照宮の建物を見てみたかったが、皆戦災でやられてしまったようである。現在の社殿は非常に可愛らしいものだ。

芝東照宮_1
芝東照宮_2
芝東照宮_3
芝東照宮(しばとうしょうぐう)は、東京都港区にある東照宮。祭神は徳川家康。神体は徳川家康寿像。旧社格は郷社。日光東照宮、久能山東照宮、上野東照宮と並ぶ四大東照宮の一つとされる。
芝公園の一角にあり、元来は増上寺内の社殿であった。徳川家康が慶長6年(1601年)に還暦を迎えた記念に自らの像を刻ませた「寿像」を、自身が駿府城に於いて祭祀していた。元和2年(1616年)家康は死去に際して「寿像」を祭祀する社殿を増上寺に建造するよう遺言した。同年10月に着工し翌元和3年(1617年)2月に竣工した。この社殿は家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道大居士」より「安国殿」と呼ばれた。これが芝東照宮の起源である。
その後、3代将軍家光により寛永10年(1633年)に新社殿が造営され、旧社殿は開山堂となった。寛永18年(1641年)には移転改築がなされた。駿府城より移築された惣門、福岡藩主黒田忠之が寄進した鳥居、本殿の周囲に拝殿、唐門、透塀が造営され豪奢な社殿が整った。
明治初期に神仏分離令により、増上寺から切り離されて芝東照宮となった。明治6年(1873年)郷社に列した。本殿は大正4年(1915年)、当時の古社寺保存法に基づき特別保護建造物(現行法の重要文化財に相当)に指定された。しかし、昭和20年(1945年)5月25日の東京大空襲により「寿像」と神木のイチョウを残し、あとは全て焼失した。昭和44年(1969年)現在の社殿が再建された。


芝丸山古墳
丸山貝塚
丸山貝塚_1
丸山貝塚_2
反対側の平地には石蕗がたくさん咲いていた
石蕗がたくさん咲いていた
中段の踊り場状の広場に進む
中段の踊り場状の広場に進む_1
中段の踊り場状の広場に進む_2
中段の踊り場状の広場に進む_3
円山随身稲荷大明神
円山随身稲荷大明神_1
円山随身稲荷大明神_2
古墳の表示
確かに古墳の表示はあるのだが、もこもこと膨らみのようなものが古墳なのだろうか。樹木が邪魔をして、全体像がわかりにくい。
古墳の表示_1
古墳の表示_2
前方部
前方部というが本当に方形になっているのか、よくわからなかった。とりあえず、前方部の墳丘への階段を上る。
前方部の墳丘への階段
前方部の墳丘上にある虎の像
前方部の墳丘上にある虎の像_1
前方部の墳丘上にある虎の像_2
大野伴睦の句碑
虎の像の台座部分に、花崗岩と思しき石の板に「鐘がなる春あけぼのゝ増上寺」とあった。それは辛うじて読むことができたのだが、句の前と後ろとにも何か書いてあるようだった。こんな見難いままに放置してあるところを見ると、大した価値はないのだろうと、勝手に判断した。
よくよく見ると前の文字は『万木』らしい。伴睦の雅号かな。

大野伴睦の句碑
後円部への道
くびれ部には先ほど見た円山随身稲荷大明神が鎮座している。どうにも古墳の上を歩くのには抵抗があるのだが、そこを通らないことには先に行けないので致し方無い。
後円部への道
後円部
こちらは確かに上の部分も円形だった
こちらは確かに上の部分も円形だった
『瓢形大古墳』の表示
確かに前方後円墳というよりも瓢単形に見える。学者先生も私と同じように認識したようだ。
坪井正五郎の標識の石があるが、文字は風化して読み取りにくい。「瓢形大古墳、外部遺物・埴輪、石槨・無シ、遺体・不詳、副葬品・鏃其他鉄器・馬歯」と記されている。
『瓢形大古墳』の表示
『伊能忠敬測地遺功表』
明治22年に伊能忠敬の功績を顕彰して東京地学協会が建てたが、戦災で失われ、昭和40年に再建された。
『伊能忠敬測地遺功表』_1
『伊能忠敬測地遺功表』_2
『伊能忠敬測地遺功表』_3

赤羽橋に出るべく前方部側に戻って、階段を降りた。

芝公園のテニスコートがあった。首都高の出入口脇にある。
芝公園のテニスコート_1
芝公園のテニスコート_2
案外急な階段だ
案外急な階段だ

妙定院
赤羽橋から自宅へバスで帰るべく歩いていた時に、妙定院の前を通りかかった。何やら非常に立派な佇まい。通りから見えた熊野堂もほんとうに美しい感じ。特別公開を実施中だったのだが、帰宅を急いでいたので、今回は内部拝観はパスした。いずれかの機会に行ってみたいものだ。
寺社建立厳禁の当時に、官許により家重公の霊牌所として、一宇が創建されたとは、本当に凄いことだ。

高僧の誉れの高かった定月大僧正(1688~1771)が増上寺第四十六世住職であった宝暦十一年(1761)六月十二日、九代将軍家重公が薨去。幕府は遺言に従い、将軍の帰依信仰が篤かった定月大僧正に大導師を依頼、七月十日増上寺本堂において葬儀が盛大に厳修されました。この徳により、宝暦十三年(1763)十一月、家重公(惇信院殿)の御中陰の尊牌(白木の位牌)をお守りするため、寺社建立厳禁の当時に、官許により家重公の霊牌所として、一宇が創建されたのでした。
定月大僧正は明和三年(1766)十一月、増上寺住職を辞職、麻布一本松の隠居所に移られましたが、さらに明和七年(1770)十一月、山下谷に移られ、幕府より二百石を賜り、さらに翌年十一月、御本丸大奥老女方より、惇信院殿霊廟永代御供養料・仏具荘厳・水引・打敷・御膳具・御供養具などの寄進を受け、惇信院殿霊廟御念持仏も移されたのでした。こうして、定月大僧正は名実ともに妙定院の開山となられたのです。
その後、十代将軍家治公(浚明院殿)の尊牌も安置されました。
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熊野堂と浄土蔵(国の登録有形文化財)
土蔵造りの熊野堂は寛政八年(一七九六)に妙定院の鎮守として建立されました。熊野三社大権現を本尊としています。上土蔵は文化八年(一八一一)建立で、妙定院の収蔵品を守り続けてきました。
二棟は戦災を免れ、創建期以来の江戸の記憶を伝える建造物として、平成十三年に国の登録有形文化財となりました。近代工法では再現できない技法と意匠を伝承するものと評価されています。
熊野堂は開山定月上人から、第二世仰願上人、第三世宝観上人へと建立の願いが連綿と受け継がれた瞑想空間として、昔口の姿に復元されました。
また上土蔵は妙定院古記録より判明した意匠を採用するとともに、第十三世貞賢上人ゆかりの昭和本堂の建築彫刻と須弥壇を内部に移設しました。「浄土蔵」と新たに命名され、伝来の仏像・彫刻を展示する空問として再生されています。

妙定院_1
妙定院_2
妙定院_3
妙定院_4

東京タワー
色々なところからタワーがよく見える。今でもお好きな方は数多くいるようだ。
東京タワー_1
東京タワー_2
東京タワー_3

以上で『増上寺~二天門~御成門~台徳院霊廟惣門_with_東京タワー』のシリーズは終了です。最後までご覧頂きありがとうございました。

 

結婚式の様子

甥の結婚式ミサの様子。一切撮らないつもりで臨んだのだが、途中で気が変わり姉のコンデジを借りて何枚か撮ってみた。
聖堂内は少し照明が暗め。コンデジではかなり厳しい撮影状況だったかもしれない。
結婚式の様子_1
結婚式の様子_2
結婚式の様子_3
結婚式の様子_4
結婚式の様子_5
結婚式の様子_6
結婚式の様子_7
結婚式の様子_8
結婚式の様子_9
結婚式の様子_10

若い二人が幸せな家庭を築くことができますように。

 

増上寺~二天門~御成門~台徳院霊廟惣門_with_東京タワー(5)

徳川家墓所(3)
旧霊廟で増上寺にあったもの
徳川秀忠(1579年 - 1632年、家康の三男)増上寺 台徳院霊廟…増上寺の南側
現存する建築物
1-1)台徳院霊廟 惣門 [国指定重要文化財]
建立当初は現在地より西寄りにあり、1959年に45メートル東方へ曳家された。入母屋造八脚門で、全体を朱塗とし、装飾的要素のない簡素な門である。徳川家霊廟では、奥にある建物ほど華美な装飾が施されるようになっていた。門内に安置する金剛力士(仁王)像は、もと埼玉県川口市の西福寺にあったもので、1948年に浅草寺に譲渡され、さらに1958年頃に現在の惣門に移された。
これでも装飾性が低いのかなあ
台徳院霊廟 惣門_1
台徳院霊廟 惣門_2
金剛力士像は元々は別の寺のものだったのか。堤さんがそうしたのだろうか?
台徳院霊廟 惣門_3
台徳院霊廟 惣門_4
台徳院霊廟 惣門_5
惣門跡と水路跡
惣門跡
水路跡
以下の3棟は、ホテル建設に際し、埼玉県所沢市の狭山不動尊(西武ドーム前)に移築されている。これらの画像の撮影は出向く機会がなく未済。
1-2)勅額門
1960年に埼玉県所沢市に移築された。切妻造四脚門。
1-3)丁子門
1960年に埼玉県所沢市に移築された。一間平唐門で、北隣の崇源院(秀忠夫人)霊牌所への通用門であった。
1-4)御成門
1960年に埼玉県所沢市に移築された。切妻造妻入で、桁行2間、梁間1間とする。切妻造で妻入(屋根の破風のある側を入口とする)の門は珍しい。内部天井は格天井の中央部を円形の鏡天井とし天人像を描くことから、この門には「天人門」の別称がある。
注)この御成門は、旧台徳院霊廟(増上寺の南側で、江戸城からは遠い位置になる)の御成門であり、将軍が増上寺に入るときに使用した御成門は、これとは別のものと思われる。
焼失した建物で写真等が残っているもの
1-5)左右の水盤
左右の水盤
1-6)奥院中門・玉垣・宝塔覆屋
奥院中門・玉垣・宝塔覆屋

徳川家宣(1662年 - 1712年、家光の三男甲府城主綱重の長男)増上寺 文昭院霊廟…増上寺の北側
 (12代将軍家慶(慎徳院)・14代将軍家茂(昭徳院)・14代将軍家茂正室(静寛院)合祀)
現存する建築物
2-1)旧文昭院霊廟奥院中門
現在の増上寺徳川家墓所入口にある鋳抜門がそれである。残念だが、それ以外には現存するものは残っていない。
旧文昭院霊廟奥院中門
焼失した建物で写真等が残っているもの
2-2)文昭院霊廟勅額門
文昭院霊廟勅額門_表側
文昭院霊廟勅額門(フェリーチェ・ベアト撮影)
2-3) 文昭院霊廟中門(フェリーチェ・ベアト撮影)
文昭院霊廟中門(フェリーチェ・ベアト撮影)
2-4)文昭院霊廟水盤舎(フェリーチェ・ベアト撮影)
文昭院霊廟水盤舎(フェリーチェ・ベアト撮影)

徳川家継(1709年 - 1716年、家宣の四男)増上寺 有章院霊廟…増上寺の北側
 (9代将軍家重(惇信院)合祀)
現存する建築物
3-1)現存する有章院霊廟 二天門 [国指定重要文化財]
門の両脇には、広目天と多聞天が祀られているため二天門と言われます。北廟には、文昭院(6代家宣の法号)の霊廟もあり、その門には、持国天と増長天が祀られていて、2門あわせて仏法を守護する四天王が祀られていました。左が西方を守護する広目天、右が北方を守護する多聞天(別名毘沙門天)です。
柵で仕切られていて、それ以上に近づくことはできない。塗装は随所が剥げ落ち老朽化が激しい。いやしくも黄に指定の重要文化財なのだから、もう少し補修を積極的に行って、取り返しがつかない結果に陥らないようにすべきと思った。四天王を形成するための文昭院霊廟の二天門は残念ながら焼失してしまったようだ。
有章院霊廟二天門_1
有章院霊廟二天門_2
有章院霊廟二天門_3
有章院霊廟二天門_4
有章院霊廟二天門_5
有章院霊廟二天門_6
焼失した建物で写真等が残っているもの
3-2)有章院霊廟
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1720年(享保5年)、吉宗が御霊屋建立禁止令を出した。それ以降大規模な霊廟は建築されず、寛永寺か増上寺のいずれかの霊廟に合祀し、宝塔か霊牌所が建立されたそうだ。

御成門
狭山不動尊に移築された国指定重要文化財の『御成門』とは別物。姿形がまるで違う。あちらは、台徳院霊廟の御成門であり、ここで取り上げる『御成門』は、増上寺の裏門であった御成門である。
裏門の位置づけだったが、将軍が参詣する際に使用されたので『御成門』と呼ばれるようになった。この門は、初めは現在の御成門交差点のところにあったが、明治25年、現在の日比谷通りが建設された際に、現在地に移転された。
関東大震災や戦災をくぐりぬけた貴重な建物。その割には、かなり傷みが激しく、何らかの文化財に指定して、きちんと補修をしたら良いのにと思う。

御成門_1
御成門_2
御成門_3
寄りかかったら倒壊しそうだった
御成門_4
このいい加減な表示は何を意味するのだろうか
御成門_5
御成門_6

 

増上寺~二天門~御成門~台徳院霊廟惣門_with_東京タワー(4)

徳川家墓所(2)
現在の徳川家墓所(2)
現在の徳川家墓所の宝塔の位置図
6代家宣夫妻(文昭院・天英院)
青銅製
6代家宣夫妻(文昭院・天英院)_1
6代家宣夫妻(文昭院・天英院)_2
6代家宣夫妻(文昭院・天英院)_3
パネル写真から
パネル写真から_6_1
パネル写真から_6_2
パネル写真から_6_3
7代家継(有章院)
石塔。家継は夭折したため、正室はいない。婚約者は八十宮吉子内親王だった。
7代家継(有章院)_1
7代家継(有章院)_2
パネル写真から
パネル写真から_7

吉宗が御霊屋建立禁止令を出した。このことにより、以降大規模な霊廟は建築されず、寛永寺か増上寺のいずれかの霊廟に合祀し、宝塔か霊牌所が建立された。ということで、以下の将軍は、独自の霊廟を持たない。

9代家重(惇徳院)
石塔。家重の正室であった増子女王は家重の将軍就任前に薨じたため、御台所とは称されていないそうで、寛永寺に葬られているとのことだ。
9代家重(惇徳院)_1
9代家重(惇徳院)_2
12代家慶(慎徳院)
石塔。家慶の正室喬子女王は寛永寺に葬られているとのことだ。
12代家慶(慎徳院)_1
12代家慶(慎徳院)_2

14代家茂(昭徳院)
石塔
14代家茂(昭徳院)_1
14代家茂(昭徳院)_2
家茂夫人和宮(静寛院)
青銅製。彼女だけは特別扱いなんだなあ。皇室に敬意を表したということなのだろうか。11代家斉の正室・広大院、13代家定の最初の正室・天親院などは、合祀塔に入っている。それからすれば、破格の扱いだ。
家茂夫人和宮(静寛院)_1
家茂夫人和宮(静寛院)_2

合祀塔
石塔。家宣の父・綱重(清揚院)、5代綱吉の生母・桂昌院、11代家斉の正室・広大院、13代家定の最初の正室・天親院、家宣の側室・月光院、家斉の側室・契真院、家慶の側室である見光院・殊妙院。
その他計35名の将軍家ゆかりの子女が合祀されている。合祀以前はそれぞれ宝塔・墓が独立していた。現在の合祀塔は、もとは月光院に在った。

合祀塔_1
合祀塔_2

 

増上寺~二天門~御成門~台徳院霊廟惣門_with_東京タワー(3)

水盤舎 【港区指定文化財】
もと徳川綱重(徳川家光三男・清揚院)の霊廟にあったもので、戦災を免れたものを現在の増上寺境内に移築。お参りする前に手を洗う場所。増上寺の裏手にあった清揚院霊廟そのものは、明治期に解体された。
水盤舎_1
水盤舎_2

大梵鐘
除夜の鐘のTV中継で撞かれる梵鐘だ。戦後再建された鐘楼堂は別として、大梵鐘の方は何らかの文化財には指定されているだろうと思っていたのだが、指定を受けていないようだ。そのことに驚いた。大梵鐘は、延宝元年(1673年)にあまりの大きさに七回の鋳造を経て完成し(東日本で最大級といわれている)、江戸三大名鐘の一つに数えられているもの。
4代将軍徳川家綱の命で造られた梵鐘で、その音は遠くは木更津(千葉県)、熊谷(埼玉県)まで響いたとか。高さは1丈(約3m)、重さは4000貫(約15t)!!
 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
朝と夕べ、六度ずつ響くその鐘の音は、時を告げるだけではなく、人を惑わす百八の煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと導く六度の誘いでもあります。江戸時代の川柳に読まれた鐘の音は、遠く木更津や熊谷までも響いたとされています。「西国の果てまで響き芝の鐘」の川柳は、周辺に有馬家や島津家など西国の大名屋敷があったため詠まれたといわれています。

大梵鐘_1
大梵鐘_2

徳川家墓所(1)
戦災にて焼失した旧徳川家霊廟は、現在の大殿南北(左右)に建ち並ぶ壮麗なものであった。それは消失前の写真、焼損せずに残ったいくつかの建物などから、明らかなことだ。昭和33年夏、文化財保護委員会が中心となって、発掘された土葬の遺体は、綿密な調査が行われた後、東京・桐ヶ谷にて荼毘にふされ、現在の墓所に改葬された。
現在の墓所の正面右側には、2代秀忠公の宝塔がある。焼失前の宝塔は霊廟室内に祀られ、大変大きなものだった。しかし、他の将軍のそれとは異なり、極めて豪華ではあったものの木造であったため、戦災で焼失した。現在は内室崇源院の石造宝塔に合祀されている。

墓所の位置図

現在の徳川家墓所(1)
現在の徳川家墓所の宝塔の位置図
徳川将軍家墓所鋳抜門
現在も残る鋳抜門は、文昭院殿霊廟(六代将軍徳川家宣公)の宝塔前『中門』だったもの。左右5つずつの葵紋、昇り龍・下り龍が鋳抜されているのが特徴。
徳川将軍家墓所鋳抜門_1
徳川将軍家墓所鋳抜門_2
徳川将軍家墓所鋳抜門_3
徳川将軍家墓所鋳抜門_4
徳川将軍家墓所鋳抜門_5
2代将軍秀忠夫妻(台徳院・崇源院)
台徳院宝塔は前述のとおり戦災で焼失したため、崇源院宝塔(石塔)に合祀されている。まさか、こんなふうに扱われ、下々の者から写真に撮られるとは、本人も予想だにしなかったことだろう。
2代将軍秀忠夫妻_1
2代将軍秀忠夫妻_2
2代将軍秀忠夫妻_3
パネル写真から
パネル写真から_1
パネル写真から_2

 

増上寺~二天門~御成門~台徳院霊廟惣門_with_東京タワー(2) 11/06 19:23追記

大殿(本堂)
金色に輝く鴟尾(しび)が何とも印象的。戦災で焼失後の再建は昭和49年とかなり年月が経過してからである。増上寺といえども、大殿(本堂)の再建は容易ではなかったのだろうか。だいぶ以前に増上寺に行ったきりという方は、もしかしたら、この建物は見ていない可能性がある。見たのは、昭和二十七年(1952年)に建てられた仮本堂だったかもしれない。
大殿などの位置は、しっかりと考えて建てているようだ。

大門から大殿本堂に至る道のりは、穢土(えど)(我々の世界)から極楽浄土に至る世界を表している。三門をくぐり煩悩を解脱し、大殿阿弥陀仏の元へと向かう。ご本尊阿弥陀仏が鎮座する大殿は西方極楽浄土の如き、方角を西に位置する。よって大殿内の荘厳は極楽の世界を視覚的にも表現した造りとなっています。
 三門から大殿:距離にして約48間。阿弥陀仏の48願。
 大門から三門:約108間。三門をくぐり108の煩悩から解脱します。

参道から大殿前に至る階段:18段。阿弥陀仏の本願、第18願。
大殿(本堂)_1
大殿に登る階段:25菩薩をあらわし、25の階段となっています。
大殿(本堂)_2
大殿(本堂)_3
大殿(本堂)_4
free画像を借用
大殿(本堂)の内部

安国殿
見た感じでは、安国殿が参拝者の向かう先の首位のようだった。何しろ、家康が必勝を祈願して戦場に必ず持参したという恵心僧都の作と伝えられる秘仏黒本尊(阿弥陀如来)が祀られているからだ。縁起が良いことこの上ない。あやかりたいと思うのが当然なんだろう。
旧安国殿は現在の芝東照宮の位置にあったようだ。なぜ、こんな端の方においていたのだろうか?そう疑問がわいたのだが、以前は黒本尊は大殿の真後ろにあったようで、安国殿の位置はそれほど重要ではなかったようだ。

安国殿_1
安国殿_2

光摂殿(こうしょうでん)
本当はこの大広間天井絵を見るのが増上寺に行った主目的だった。その割には『こうしょうでん』と読ませるとも知らず、何をか況んやなのだ。
光摂殿は僧侶の修行道場施設として建てられているようで、その使用実態から考えても、何時行ってもその大広間天井絵を自由に目にすることができるということではないようだ。私が行った日も、僧侶の研修が行われているとの事だった。それでも、春の天井絵特別公開(4月)や港区民まつり(10月)などの際に見ることができるらしい。

外観だけを見たのでは、がっちりつくってある仏教施設にしか見えず、それ以上の豪華施設にはどうしても見えない。ところが実は凄いのだ。
光摂殿(こうしょうでん)_1
光摂殿(こうしょうでん)_2

今春公開時の写真付きの案内記事へjump

この光摂殿大広間の格天井には、平成九年より、東京都庭園美術館名誉館長の鈴木進先生監修のもと、日本画壇を代表する故小倉遊亀画伯・故上村松篁画伯をはじめとする百二十名の日本画家がそれぞれ一作品づつ「四季の草花」をテーマに、約三年の歳月を費やして描かれた作品が奉納されております。数ある天井絵の中でも、これだけ多くの先生方の作品を一同に御覧頂ける素晴らしさは他に類を見ず、歴史に残すべき寺宝となりました。天井絵百二十枚に併せて襖絵、杉戸絵も奉納され、日本画による百華が花開いております。

経蔵(東京都指定建造物)
1605(慶長10)年築。1800(寛政12)年に現在地に移築されたもので、木造の八角形の輪蔵と、増上寺が保有する貴重な経典を保管。三門とともに、都内の建築としては最古級の存在。
家康公から寄進された国の重要文化財、宋版・元版・高麗版の三大蔵経を収蔵しておりました(現在は収蔵庫に移管)。

経蔵(東京都指定建造物)_1
経蔵(東京都指定建造物)_2
経蔵(東京都指定建造物)_3
経蔵の裏側にある平べったい建物
経蔵の裏側にある平べったい建物

旧方丈門(黒門) [区指定文化財]
御成門交差点付近の芝公園・みなと図書館・御成門小学校一帯にあった増上寺方丈の表門…ということは、北側から北廟・増上寺・南廟・方丈というふうに展開していたようだ。本当に広い敷地だったようだ。そこの門だったのか。
御成門交差点付近の芝公園・みなと図書館・御成門小学校一帯にあった増上寺方丈の表門であった旧方丈門であります。三代将軍家光公の寄進・建立とされ、慶安年間(1648~1652)の建立とされております。明治時代に増上寺方丈に北海道開拓使の仮学校や海軍施設が置かれ、その後芝公園となったおり、鐘楼堂脇に移築したものを、昭和五十五年(1980年)に当山通用門として日比谷通り沿いに移築しました。
旧方丈門(黒門)_1
free画像を借用
旧方丈門(黒門)_2

増上寺は、明徳四年(1393年)、浄土宗第八祖酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって開かれました。
場所は武蔵国豊島郷貝塚、現在の千代田区平河町から麹町にかけての土地と伝えられています。
室町時代の開山から戦国時代にかけて、増上寺は浄土宗の東国の要として発展していきます。
安土桃山時代、徳川家康公が関東の地を治めるようになってまもなく、徳川家の菩提寺として増上寺が選ばれました(天正十八年、1590年)。家康公がときの住職源誉存応(げんよぞんのう)上人に深く帰依したため、と伝えられています。
慶長三年(1598年)には、現在の芝の地に移転。江戸幕府の成立後には、家康公の手厚い保護もあり、増上寺の寺運は大隆盛へと向かって行きました。
三解脱門(さんげだつもん)、経蔵、大殿の建立、三大蔵経の寄進などがあいつぎ、朝廷からは存応上人へ「普光観智国師」号の下賜と常紫衣(じょうしえ)の勅許もありました。
家康公は元和二年(1616年)増上寺にて葬儀を行うようにとの遺言を残し、75歳で歿しました。
増上寺には、二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公の、六人の将軍の墓所がもうけられています。
墓所には各公の正室と側室の墓ももうけられていますが、その中には家茂公正室で悲劇の皇女として知られる静寛院和宮さまも含まれています。
現存する徳川将軍家墓所は、本来家宣公の墓前にあった鋳抜き(鋳造)の中門(なかもん)を入口の門とし、内部に各公の宝塔と各大名寄進の石灯籠が配置されています。

 

増上寺~二天門~御成門~台徳院霊廟惣門_with_東京タワー(1) 11/04 09:21追記

ちょっと思い立って、10月下旬に増上寺を見に行った。一番見たかったのは『光摂殿大広間天井絵』だったが、これは機会がなければ無理だろうと思っていた。
ということで、本音としては、週末に特別公開している徳川家の現在の墓所を見て、ついでに国指定重要文化財の台徳院霊廟惣門や有章院霊廟二天門をも見てこようという内容だった。
台徳院霊廟惣門を見そこねてしまったので、11月初旬に追加で見て回った。


大門
増上寺の総門。勤務先から遠いわけではなかったので、この辺まで時々昼食を食べに行ったり、散歩しに行ったものだった。私には馴染みの門。立て札などあまり見ていなかったのだが、右側には『黒本尊 勝運・交通安全 ご祈願』とあった。全然気づいていなかった。安国殿安置の「黒本尊阿弥陀如来」が、徳川家康の念持仏であり、出陣の際は、戦勝を祈願し共に戦場に赴いたと伝えられているそうだ。幾多の危難を逃れ勝利を得ることができたのも黒本尊さまの功徳の賜物ということらしい。以後「勝運黒本尊」として徳川家のみならず人々の信仰を現在に至るまで集めてきたのだそうだ。知らなかった。(^_^;)
当山の総門・表門にあたり、地名の由来になっている門です。現在のものは国道の通行整備のため、昭和十二年(1937年)に原型より大きく、コンクリート製に作り直されたものですが、旧大門は慶長三年(1598年)に江戸城の拡張・造営にあたり、増上寺が芝に移転した際、それまで江戸城の大手門だった高麗門を、徳川家康公より寺の表門として譲られたものでありました。その旧大門は大正十二年(1923年)の関東大震災により倒壊の恐れが生じたため、両国・回向院に移築されましたが、昭和二十年の空襲により焼失しています。
大門_1
大門_2
大門_3
初代安藤広重が最晩年に描いた『芝神明』と『増上寺』の複製レリーフ
近寄ってしげしげと見るとたしかに広重の作品だった。金属単色のレリーフなので、遠くからではよくわからない。
初代安藤広重が最晩年に描いた『芝神明』と『増上寺』の複製レリーフ
大門のすぐそばにあった公衆トイレ
なかなかおしゃれだ
大門のすぐそばにあった公衆トイレ

廣度院表門および練塀(こうどいんおもてもんおよびねりべい)…登録有形文化財(建造物)
すごく雰囲気のある薬医門と練塀だ。今も住職は、増上寺の高僧だった人なのだろうか。特に観光客を呼びこむこともしていなかったので、ちょっとばかり懐具合が気になった次第。
増上寺境内の子院の一間一戸の薬医門と塀である。練塀は底部に間知石を置き、芯柱を用いずに土と瓦を交互に積み上げて壁体とする構造で、現在では用いられることがない。数多くの子院が集まって形成していた特異な都市景観を知るよすがとなっている。
廣度院表門および練塀

境内案内図
境内案内図

三解脱門(さんげだつもん)[国指定重要文化財]
増上寺交差点は箱根駅伝のコースだ。大手町の読売新聞東京本社出発してから3.6kmだそうだ。この辺は脱落者など出ずに、高速で駆け抜けるところなんだろうなあ。お正月の駅伝は91回目か。駅伝だけでなく色々な世相を見てきたんだろう。
戦災をまぬがれた建物の1つで、元和8年(1622年)建立の二重門(重層で、各層に屋根が付く門)。
この門をくぐると、三毒(3つの煩悩、即ち貪、瞋、癡)から解脱できるとされる。
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増上寺の表の顔として、東京都内有数の古い建造物であり東日本最大級を誇るこの門は、当山の中門にあたり(表門は大門)、正式名称を三解脱門といいます。徳川幕府の助成により、幕府大工頭・中井正清とその配下により建立。元和八年(1622年)に再建されました。増上寺が江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されています。三解脱門とは三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門のことです。建築様式は三戸二階二重門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味され、美しさを見せています。二階内部(非公開)には、釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されています。

三解脱門_1
三解脱門_2
三解脱門_3
この吊灯篭のような金属製のオブジェの下部には、どうやら『魚市場』と書かれているようだ。粋だなあと感じ入った次第。
三解脱門_4
三解脱門_5

 

お会式(6)

池上駅前線路伝い商店街での万灯練り行列の様子…EOS 60D + EF-S 55-250を使用(3)
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以上で『お会式』のシリーズはおしまいです。はっきりしない写真ばかりで申し訳ありませんでした。

 

お会式(5)

池上駅前線路伝い商店街での万灯練り行列の様子…EOS 60D + EF-S 55-250を使用(2)
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お会式(4)

池上駅前線路伝い商店街での万灯練り行列の様子…EOS 60D + EF-S 55-250を使用(1)
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