散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

お会式(3)

池上駅前から線路伝いの商店街での万灯練り行列の様子…EOS M2 + EM18-55を使用(2)
いちいち説明を入れるのも興ざめだと思うので、説明はあえて入れないこととする
駅前商店街での様子…EOS M2 + EM18-55を使用_2_1
駅前商店街での様子…EOS M2 + EM18-55を使用_2_2
駅前商店街での様子…EOS M2 + EM18-55を使用_2_3
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駅前商店街での様子…EOS M2 + EM18-55を使用_2_26

 

お会式(2)

池上駅前から線路伝いの商店街での万灯練り行列の様子…EOS M2 + EM18-55を使用(1)
撮影の設定が適切ではなかったようだ。かなり暗いところで、纏振りや法華の太鼓のバチさばきの動きがかなり速いという悪条件。おまけに通行人が不意に遠慮会釈無く画面に入ってくる。もともとそういう場所で撮っているのだから仕方がないのだが。
駅前商店街での様子…EOS M2 + EM18-55を使用_1
駅前商店街での様子…EOS M2 + EM18-55を使用_2
駅前商店街での様子…EOS M2 + EM18-55を使用_3
駅前商店街での様子…EOS M2 + EM18-55を使用_4
駅前商店街での様子…EOS M2 + EM18-55を使用_5
駅前商店街での様子…EOS M2 + EM18-55を使用_6
駅前商店街での様子…EOS M2 + EM18-55を使用_7
駅前商店街での様子…EOS M2 + EM18-55を使用_8
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駅前商店街での様子…EOS M2 + EM18-55を使用_12
駅前商店街での様子…EOS M2 + EM18-55を使用_13
駅前商店街での様子…EOS M2 + EM18-55を使用_14
駅前商店街での様子…EOS M2 + EM18-55を使用_15
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駅前商店街での様子…EOS M2 + EM18-55を使用_21
駅前商店街での様子…EOS M2 + EM18-55を使用_22
駅前商店街での様子…EOS M2 + EM18-55を使用_23
駅前商店街での様子…EOS M2 + EM18-55を使用_24
駅前商店街での様子…EOS M2 + EM18-55を使用_25

 

お会式(1)

お会式と秩父夜祭とをしっかり撮れるようになれば、ある程度撮影の腕が上がったと判断できると思い、支障がない限りは挑戦を続けている。しかし、うまく撮れた記憶がまったく無い。加えて、昨年は体調不良で、お会式と秩父夜祭とをパス。久しぶりに夜間撮影に挑んだのだが、結果は見るも無残なことに。
日蓮の命日の前夜(10月12日)はお逮夜(おたいや)と呼ばれ、各地から集まった信徒団体の集まり(講中)が、行列し万灯や提灯を掲げ、纏を振り、団扇太鼓や鉦を叩き、題目を唱えながら境内や寺の近辺を練り歩く。
古来は、提灯に蝋燭を灯し、団扇太鼓を叩きながら参詣する簡素なものだった。纏を振るようになったのは、明治時代に町火消たちが参詣に訪れた事による。

万灯練り行列の前に
参加者が出発点へ向かいだした
参加者が出発点へ向かいだした
万灯練り行列の露払いというか景気付けに池上本門寺に通う子どもたち(朗子会)のパレードがある。その先導を騎馬警官が務めた。
先導の騎馬警官_1
先導の騎馬警官_2
朗子会のパレード_1
朗子会のパレード_2
朗子会のパレード_3
万灯練り行列
最初に陣取った場所は肉眼で見る分には良いのだが、照明が邪魔になったり、全般的に暗かったりで、撮影には向かない場所だった。
最初に陣取った場所は撮影には向かない場所だった_1
最初に陣取った場所は撮影には向かない場所だった_2
最初に陣取った場所は撮影には向かない場所だった_3
わが地元(目黒区中根2丁目)の立源寺はトップバッター。こちらが全く撮影に慣れないタイミングでいきなり出てきたので、あえなく全滅。仕方がないので、一番マシなものを取り上げた。同じく近くの常圓寺の分はもっと酷くしか撮れなかった。なので写真は昔の地名である『衾村』を示す纏の上部の写真のみ。
立源寺の講中
常圓寺の纏の上部
やっと撮れてもこの程度。少し湿っぽくなりすぎだった。
やっと撮れてもこの程度_1
やっと撮れてもこの程度_2
やっと撮れてもこの程度_3
やっと撮れてもこの程度_4
三条市からも駆けつけたんだ。遠方からお疲れ様だけど、本番はこれからだからね。
三条市からも駆けつけたんだ_1
三条市からも駆けつけたんだ_2

この辺で見切りをつけ、灯りのアシストが期待できる駅前の商店街に撮影場所を変更することにした。

 

浦賀の幕末前後の遺跡を回る(9)

浦賀船渠
今回(追加往訪日)は外から覗くだけだったが、ときどき探訪ツアーがあるようだ。そういう機会に内部を見学に行きたいものだ。
『浦賀ドック』として横須賀市民には馴染みの会社だった。殆どの人が船渠(せんきょ)という社名だとは知らなかったのではなかろうか。前身は、幕府の浦賀造船所で、同じ場所において1897年(明治30年)に設立された。その後変遷があり、浦賀工場自体は2003年に閉鎖された。その間、一貫して地域経済の協力な牽引役を果たしてきた。
在りし日の浦賀ドック
外から見た浦賀ドックの様子_1
浦賀造船所の外壁も一部は煉瓦造り
ドックと同じフランス積みという積み方。構内にそのまま残る昭和20年製造のクレーン。
外から見た浦賀ドックの様子_2
外から見た浦賀ドックの様子_3
外から見た浦賀ドックの様子_4
外から見た浦賀ドックの様子_5
外から見た浦賀ドックの様子_6
外から見た浦賀ドックの様子_7
外から見た浦賀ドックの様子_8
外から見た浦賀ドックの様子_9
外から見た浦賀ドックの様子_10
川間ドック跡
多分、川間ドック跡だと思う。きちんと撮っておくんだった。マリーナレストランの駐車場からよく見えるようだ。
川間ドックはかつては石川島が浦賀分工場として開設したもの。その後、浦賀船渠に買収された。wikipediaには、
現在、浦賀船渠の第1号ドック(通称浦賀ドック)は世界に4か所にしか現存していないレンガ積みドライドックのうちのひとつである。国内でも明治期のものは浦賀ドックと川間ドック跡しかなく、両者とも貴重な文化遺産である。
と記載されている。なんでこの部分ギリギリまでマリーナに売ってしまったのだろうか。
米軍横須賀基地内にあるドライドックは違うのかなあと思ったが、あちらは江戸時代建造&石積み&現役のようだ。さらに貴重なもののグレードが上のようだ。

川間ドック跡_1
川間ドック跡_2
この川間ドックは、レンガ造りのドックとして知られ、横浜のランドマークタワーのドックヤード以上の価値があるものですが、あまり知られていません。200t位の船まで建造されていました。
手前のコンクリートが少し朽ちている部分は、川間工場の擁壁だったようだ。
川間ドック跡_3

浦賀駅の階段を下ると、巨大な建物が海側の道沿いに続いています。一世紀以上にわたって約1000隻にのぼる艦船をつくり続けてきた浦賀ドックの跡地です。
平成15年(2003)に閉鎖されるまで、30mを越す高さのクレーンが空を覆い、日本丸、海王丸をはじめ、青函連絡船・大型タンカー・自動車運搬船・護衛艦などの船がこの浦賀ドックで建造され、街はドックで働く人たちでにぎわいました。
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浦賀ドック
浦賀での造船の歴史は古く、安政元年(1854)現在は暗渠となっている浦賀駅前を流れる「長川」の河口で、中島三郎助らにより日本最初の洋式軍艦である鳳凰丸が建造されました。太平洋横断直前の咸臨丸も、この河口で修理が行われました。
明治24年(1891)中島三郎助の23回忌にあたり、函館戦争の同志であった荒井郁之助が浦賀に造船所を造ることを提唱しました。榎本武揚が賛成して地元の有力者に働きかけ、明治30年(1897)浦賀船渠株式会社が創設され、2年後にはドライドックが建造されました。
浦賀船渠株式会社は、浦賀重工業㈱を経て住友重機械工業㈱となり、平成15年(2003)3月に閉鎖されました。現在、一般の見学はできませんが、「咸臨丸フェスティバル」や「中島三郎助まつり」などの際に、ドライドックを含め一部が公開されます。
昭和18年(1943)に作られ、1基のみ解体されずに残されているクレーン、明治32年(1957)に建造されたドライドックなど(いずれも浦賀生協付近からフランス積みのれんが塀越しに見ることができます)に、当時の面影を偲ぶことができます。


『廃造船所で行われる、まつり』の記事へjump
同上記事のドック部分へjump
『浦賀ドック跡』の記事へjump

締まらない最後になってしまいましたが、以上で『浦賀の幕末前後の遺跡を回る』シリーズはおしまいです。最後までご覧頂きありがとうございました。

 

浦賀の幕末前後の遺跡を回る(8)

西浦賀(7)

いよいよ最後の目的地の燈明堂跡に向かう。途中、愛宕山公園でかなり体力を消費したので、残りのエネルギーはわずか。そんなに遠いわけではなかったはずなのに、非常に辛かった。

City Marina Velasis
愛宕山公園からも見えていた手前側のマリーナ。かなり大規模な施設だ。
City Marina Velasis_1
City Marina Velasis_2
City Marina Velasis_3
City Marina Velasis_4
City Marina Velasis_5
City Marina Velasis_6
City Marina Velasis_7

燈明堂跡
燈明堂跡に行ったことがなかった。何故なのだろうかと考えたら、私が横須賀に住んでいた頃は台座くらいしか残っていなかったんだ。それを平成元年に復元したとか。道理で見たことがなかったわけだ。
燈明堂は、実に220年もの長きにわたって浦賀の海を1日もかかさず照らし続けてきたんだ。すごく頑張った施設だったんだなあ。

バス停「燈明堂入り口」付近
バス停「燈明堂入り口」付近_1
バス停「燈明堂入り口」付近_2
燈明堂跡への道
せっせと歩いたつもりだが、スピードがまったく出ない。お兄さんに簡単に追いぬかれてしまった。それでもかすかに『燈明堂』が見え出した。そうなると現金なもので、俄然やる気が起きてきた。
燈明堂跡への道_1
燈明堂跡への道_2
燈明堂跡への道_3
燈明堂跡への道_4
燈明堂跡への道_5
やっと着いた
やっと着いた_1
やっと着いた_2
やっと着いた_3
やっと着いた_4
やっと着いた_5
やっと着いた_6
浦賀の港に安全に導くために設置されていたのか。ついでにぺりーまでやってきてしまったのは、誤算だったのだろうか。
やっと着いた_7
やっと着いた_8
やっと着いた_9
やっと着いた_10
やっと着いた_11
東京湾フェリー
東京湾フェリー_1
東京湾フェリー_2
あちらの方から延々と歩いてきたんだ
あちらの方から延々と歩いてきたんだ_1
あちらの方から延々と歩いてきたんだ_2
あちらの方から延々と歩いてきたんだ_3
あちらの方から延々と歩いてきたんだ_4
へえ、三浦半島八景というのもあったんだ
平成13年11月に選定されたとか。大塔(鎌倉宮)の夜雨、灯台(燈明堂)の帰帆、大佛の秋月、長者ヶ崎の夕照、神武寺の晩鐘、猿島の晴嵐、城ヶ島の落雁、建長寺の暮雪なのか。
三浦半島八景

干鰯(ほしか)問屋について少し説明します。江戸時代の初期、関西方面、特に紀州から鰯を求めてたくさんの漁船が関東に来るようになりました。これは、近畿地方を中心に綿作が発達し、その最適な肥料が干鰯であったので、それを求めるためのことでした。そして、水揚げされた鰯を油抜きをして干し、干鰯肥料として関西方面に送り出す干鰯問屋が東浦賀に建ちはじめました。
初期に15戸あった干鰯問屋は、最盛期には倍に増え、一時期には全国の干鰯商いを独占するほどまでになっていました。こうして、干鰯問屋が拡大されれば、当然に船の出入りも多くなり、これらの船の安全を図るため、幕府は浦賀湊の入口に燈明堂を建設しました。
燈明堂の経費は、初めは幕府が負担しましたが、元禄時代からは、東浦賀の干鰯問屋が全額負担し、明治維新までその灯をともし続けました。
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浦賀港の入口に、燈明崎と呼ばれる小さな岬があり、江戸時代には「燈明堂」と呼ばれる今日の灯台のような役割をする施設があった。慶安元年(1648)幕府の命によって築造された燈明堂は観音埼灯台にバトンタッチするまで、約220年間にわたって一日も休まず夜間の海上安全の守り役として活躍したが、明治五年(1872)に廃止された。
燈明堂は、我が国の灯台史の上で極めて貴重なもので、建物は明治20年代まで残っていたが風雨で崩壊、土台の石垣だけが残されていた。平成元年その石垣の上に、現在の燈明堂が復元された。

 

浦賀の幕末前後の遺跡を回る(7)

西浦賀(6)
奉行所跡
此処が浦賀奉行所跡。今は住友重機械工業株式会社の社宅になっていた。愕然とするほど何もない跡地。少しくらい往時の痕跡を残しても罰が当たらなかったと思うが、…。此処の奉行所は極めて短命の奉行所だと思っていたのだが、なんと150年もの歴史があったようだ。初代から最後の土方出雲守まで53人が勤めたのか(奉行が2人のときもあった)。
奉行所跡_1
奉行所跡_2
奉行所跡_3
奉行所跡_4
奉行所跡_5
奉行所跡_6
昔の姿はこんなだったようだ
奉行所_昔の姿
享保5年(1720)に奉行所が下田から浦賀へ移されました。
その業務は、船改めをはじめとして、海難救助や地方役所としての仕事などを行いました。
また、文化・文政(1804~1830)のころから、たびたび日本近海に出没するようになった異国船から江戸を防備するため、海防の最前線として、さらに重要な役割を果たすようになりました。
享保5年から、江戸幕府が終わる慶応4年(1868)までの約150年間に、奉行は2人制の時期もありましたが、初代の堀隠岐守から最後の土方出雲守まで53人が勤めました。
また、奉行所には、与力10騎・同心50人の役人たちも勤めていました。
現在では、奉行所をとり囲む堀の石垣と表門の前にかかっていた石橋の伊豆石が4~5枚あるだけで、当時の様子を偲ぶことはむずかしくなっています。

陸軍桟橋
陸軍の桟橋として本来の目的は別にあったのだろう。が、終戦に際して、最後の役目は引揚船の着桟場所だったのだろう。
56万人がここから上陸したのか。引揚者はみな命からがら逃げてきたのだろう。コレラ騒ぎまであって、大混乱したことが容易に想像できる。
大したこと無い桟橋のように見えるが、それなりの大きさの船舶が着桟できる深さがあったのだろう。それにしても岸壁の長さが異常に短い。荷物など殆どなしに、身一つで逃げてきたのだろうか。

西浦賀の渡船場から川間方面に少し歩くと、通称「陸軍桟橋」と呼ばれるL字型の桟橋があります。太平洋戦争終了後、南方や中国大陸からの引き揚げ者約56万人が、懐かしい日本の地に第一歩を印したところです。
浦賀港の引き揚げの歴史を後世に伝えようと平成18年10月に記念碑が設置されました。
周辺はボードウォークが整備され、浦賀港を隔てて東叶神社を望む東屋もあり、一休みすることができます。

陸軍桟橋_1
陸軍桟橋_2
陸軍桟橋_3
陸軍桟橋_4
陸軍桟橋_5
陸軍桟橋_6
陸軍桟橋_7
対岸の東浦賀
対岸の東浦賀_1
対岸の東浦賀_2
対岸の東浦賀_3
対岸の東浦賀_4
対岸の東浦賀_5
右端に東叶神社が見える。そのすぐ後ろの山が八幡山。浦賀城址などがある山だ。上らなくて良かった。あの辺りの高いところ伝いにずーっと曲輪が続いた様だ。
6
東叶神社が見える
対岸の東浦賀_7
周辺の様子
周辺の様子_1
周辺の様子_2
周辺の様子_3
周辺の様子_4
周辺の様子_5
周辺の様子_6
周辺の様子_7
船番所跡
船番所跡
同時に此処は、その昔は、船番所跡だった。昔の姿はこんなふうだった。
船番所_昔の姿_1
船番所_昔の姿_2
陸軍桟橋の前の駐車場の地が浦賀奉行所の出先機関であった番所が置かれていたところです。
番所では、江戸へ出入りする船の荷改め(検査)を行い、それは江戸中の経済を動かすほどの重要なものでした。
その業務は昼夜を通じて行われ、三方問屋と呼ばれる、下田と東西浦賀の回船問屋100軒余が実務を担当していました。

 

浦賀の幕末前後の遺跡を回る(6)

西浦賀(5)
愛宕山公園
入口付近
以前は『浦賀園』と称していたようだ。この段階では階段をせいぜい200段も上れば到着すると思っていた。
愛宕山公園入口付近_1
愛宕山公園入口付近_2
愛宕山公園入口付近_3
上がり始めて間もなくの階段からの展望
なかなか見応えがあった。この時はまだ余裕があった。
上がり始めて間もなくの階段からの展望_1
上がり始めて間もなくの階段からの展望_2
上がり始めて間もなくの階段からの展望_3
上がり始めて間もなくの階段からの展望_4
上がり始めて間もなくの階段からの展望_5
上がり始めて間もなくの階段からの展望_6
階段は延々と続く
この時ももうすぐおしまいだと思っていた
階段は延々と続く_1
階段は延々と続く_2
途中から到着点を考えるのをやめてしまった
途中から到着点を考えるのをやめてしまった
『咸臨丸出港の碑』
これで終わりだとぬか喜びをした。この碑はサンフランシスコにある『咸臨丸入港の碑』と対を成しているとのこと。サンフランシスコにそんなものがあったかなあ。なお、碑の裏には、艦長の勝海舟をはじめ、福沢諭吉、ジョン万次郎などの乗組員の名が刻まれているそうだ。そんなこととはつゆ知らず、見ずに通りすぎた。せめて福沢諭吉先生の名前だけでも見ておくと、我が財布にあと2枚位は常時余計に入っていたかもしれないのに。
『咸臨丸出港の碑』_1
『咸臨丸出港の碑』_2
途中で断念
実際にはさらに延々と続いた。このまま頑張ると、先にいけなくなりそうだった。
さらに延々と_1
さらに延々と_2
途中で自動車道と合流した。まだまだ先が続きそうなので、一番上の地点まで上るのを断念して下に降り始めた。その途中にこんなものがあった。
標高60m地点に台座を含めて高さ40mもの巨大な龍馬像を建てるという立て札が。天辺は標高100mになるんだ。龍馬像からはこういう景色が見えるはず。龍馬もこの景色を見たかったと思う。この浦賀の地に隣接する横須賀市大津の信楽寺(しんぎょうじ)におりょうさんの墓がある。まさか、彼女を追いかけてきたわけではないとは思うが、因縁を感じてしまった。

巨大な龍馬像を建てるという立て札_1
巨大な龍馬像を建てるという立て札_2
この辺りにペリーが率いた船が停泊したようだ
この辺りにペリーが率いた船が停泊したようだ
あの山の上に浦賀城があったのか。里見水軍を見張るには具合が良かったのかもしれない。
眺望_1
眺望_2
眺望_3
眺望_4
少しだけ前の位置から望遠レンズで見た
渡船の東浦賀側乗り場近辺
渡船の東浦賀側乗り場近辺_1
渡船の東浦賀側乗り場近辺_2
渡船の東浦賀側乗り場近辺_3
渡船の東浦賀側乗り場近辺_4
義兄も利用していたマリーナ
義兄も利用していたマリーナ_1
義兄も利用していたマリーナ_2

愛宕山公園は、明治24年(1891)に開園した市内で一番古い公園です。ペリーの浦賀来航の際に交渉に当たった浦賀奉行組与力・中島三郎助の招魂碑を建立した時に、公園として整備されました。
昭和35年(1960)には日米修好通商条約の締結100年を記念して咸臨丸出港の碑が建てられています。碑の裏には、艦長の勝海舟をはじめ、福沢諭吉、ジョン万次郎などの乗組員の名が刻まれています。
与謝野鉄幹・晶子夫妻の歌碑もあり、園内から一望できる浦賀港の風景も魅力です。

 

浦賀の幕末前後の遺跡を回る(5)

西浦賀(4)
西叶神社以外の鏝絵も見る
東福寺
石川善吉の弟子の岩田辰之助の作品
木彫に彩色を施した作品のように見えなくもないかと思うが、間違いなく素晴らしい鏝絵の作品だ。昭和7(1932)年に制作したとのことだ。
東福寺_岩田辰之助の作品_1
東福寺_岩田辰之助の作品_2
東福寺_岩田辰之助の作品_3
東福寺_岩田辰之助の作品_4
東福寺_岩田辰之助の作品_5
東福寺_岩田辰之助の作品_6
東福寺_岩田辰之助の作品_7
東福寺_岩田辰之助の作品_8
東福寺_岩田辰之助の作品_9
東福寺_岩田辰之助の作品_10
獏(バク)の牙に乗る童子
東福寺_岩田辰之助の作品_11
人物を乗せた龍
東福寺_岩田辰之助の作品_12
東福寺_岩田辰之助の作品_13

東福寺には観音堂がある。建物自体は新しいものである。それで、油断してよく見ずに通りすぎてしまった。が、観音像をはじめ、見るべきものがあったようだ。
向拝には初代伊八の龍があるそうだ。見たような気がするが、写真を撮りそこねた。
また、酒井抱一作の大亀の絵馬があるが、これも写真を撮りそこねた。


浦賀コミュニティセンター分館(郷土資料館)
辰巳忠志氏の作品
石川善吉の息子の故・石川梅尾に教えてもらったというから三浦の善吉の孫弟子になる。といっても教えを請うようになってすぐに師匠が亡くなったので、実質的には独学で学んだといえるのだろう。
辰巳忠志氏の作品_1
辰巳忠志氏の作品_2
こちらも辰巳忠志『能満寺向拝の龍』
辰巳忠志氏の作品_3

関連記事が乗った頁ヘjump

コミュニティセンター分館には、当時の町並みを再現した模型も展示されていた
当時は土蔵が結構あったようだ
当時は土蔵が結構あったようだ
咸臨丸
咸臨丸
鳳凰丸
鳳凰丸(ほうおうまる)は、幕末に江戸幕府によって建造された西洋式帆船。幕末に日本で建造された洋式大型軍艦のなかで最初に竣工した。蒸気船の急速な普及のため旧式化し、実際には軍艦ではなく輸送船として使用された。
鳳凰丸
マリナー号
マリナー号

この他、浦賀奉行所とか船番所の様子を再現したものもあったが、それぞれの記事が出てくるときに合わせて紹介したい。

 

浦賀の幕末前後の遺跡を回る(4)

西浦賀(3)

西叶神社(2)
ここで取り上げた分は後日撮影した分
社殿の見事な彫刻
社殿の見事な彫刻_2_1
社殿の見事な彫刻_2_2
社殿の見事な彫刻_2_3
社殿の見事な彫刻_2_4
社殿の見事な彫刻_2_5
社殿の見事な彫刻_2_6
神紋
初め菊の御紋かと緊張したが菊葉の紋だった。東叶神社の神紋は、十六菊とのこと。東叶神社の方が畏れ多い感じだ。
菊葉の紋_1
菊葉の紋_2
漆喰鏝絵
『司馬温公甕割図』というものがあって、それを三浦の善吉が表現したものだそうだ。『破甕救児(はようきゅうじ)』の故事。そんなことまで知っていたのか。腕の良い左官職人というだけでなく、創意工夫の人であり、大変な勉強家でもあったようだ。
現在の社務所は、大正12年(1923)に発生した関東大震災の後、建てられたもので、それほど珍しい建物ではないが、玄関上部の壁画のようなものが異彩を放っている。これは漆喰鏝絵(しっくいこてえ)と呼ばれるもので、腕の良い左官職人が、鏝(こて)で漆喰を何度も塗り重ね盛り上げて、まるで彫刻のように浮き彫りにしたもの。
社務所の漆喰鏝絵の作者は、浦賀・川間の住人石川善吉。漆喰鏝絵と言えば伊豆の長八が有名で、生地の松崎には長八美術館まであるが、石川善吉は三浦の善吉と呼ばれ、長八に勝るとも劣らない腕前の持ち主だった。
浦賀は幕末から明治にかけて、廻船問屋が多く商人の町として栄え、土蔵造りが盛んで、腕の良い左官職人も多かった。その一人が石川善吉。昭和20年(1945)93歳で亡くなっているので、社務所の作品は70歳頃のものと思われる。浦賀周辺の神社仏閣には、石川善吉等の漆喰鏝絵が今でもいくつか残されています。

西浦賀の西叶神社社務所玄関欄間壁には「司馬温公」の鏝絵があります。司馬温公は中国北宋の人。ある日、友人と遊んでいる時、友人が誤って瓶の中に落ちたのを、温公が直ちに石で瓶を壊したという故事を、二間にわたって表したものである。昭和5年(1930年)に社務所建立の際、石川善吉が制作したという。
石川善吉の漆喰鏝絵作品_1
石川善吉の漆喰鏝絵作品_2
石川善吉の漆喰鏝絵作品_3
石川善吉の漆喰鏝絵作品_4
明治天皇駐輦跡
社殿の右手下に明治天皇駐輦跡(ちゅうれんあと)がある。これは、明治14年(1881)に明治天皇が観音崎砲台建設の様子を御覧になられた際、当時この場所にあった浦賀西岸学校の二階の一室に御休息されたのを記念して建てられた碑。
明治天皇駐輦跡_1
明治天皇駐輦跡_2
水屋の漱盤
参拝客がお参り前に手を清める水屋にある石の漱盤(そうばん)にも遊郭の主人・江戸屋半五郎の名が刻まれている。寄進は寛政元年(1789)と刻まれているので、大灯籠より44年前に寄進されたことになる。
半五郎は後に、世の無常を感じてか、突然、全ての財産を処分して、遊女達に分け与え解放。自らは京都青龍寺で得度。生き仏と言われた徳本上人の弟子となり仏門に帰依。深本(深心)と名乗り、全国を行脚したことで知られています。

水屋の漱盤
大灯籠
社殿の石段下には、銅製の大きな灯籠が一対ある。台石の部分には「新地町」と刻まれており、台石の上の灯籠下部には福本、江戸屋、亀屋、靍屋、玉泉屋、和泉屋の寄進者の名がある。
新地とは新しく拓かれた土地のことを指すが、遊郭の多い場所を指すこともあるので、この灯籠は浦賀の遊郭からの寄進であることがわかる。寄進は天保4年(1833)と刻まれているので、旧社殿が焼失する四年前に寄進されたことになる。

大灯籠

 

浦賀の幕末前後の遺跡を回る(3)

西浦賀(2)

古い町並み
西浦賀に来たが、すぐ西叶神社に向かうのも芸がない話だと思い、ちょっとだけ古い町並みを見て歩いた。
結構立派な建物が残っている。関東大震災で被害を受けた建物も少なくないようではあるが。

浦賀は干鰯を始め多くの品物を全国に売りさばく町として賑わい、今でも東西の浦賀に残っている15棟前後の蔵に昔の名残を見ることができます。
蔵は大切なものを盗難や火災から守るもので、壁の厚みが一尺ほどあり、耐火建物として様々な工夫がされています。
浦賀には江戸後期に造られた漆喰塗り土蔵と幕末・明治期に造られた石蔵(房州石を使用)が混在しています。
土蔵は漆喰の外壁が関東大震災で被害を受けたため周囲にトタンを巻いており、外からでは分かりにくくなっています。石蔵は比較的そのままの形が現在も残されています。

古めかしい建物も少し残っている
古めかしい建物も少し残っている_1
古めかしい建物も少し残っている_2
古めかしい建物も少し残っている_3
関東大震災の爪痕が未だに残っているんだ。石の蔵は無傷だったようだが、漆喰は一部が剥落してしまった。そこをトタンで巻いたり、放置したり。その頃には、浦賀もかなり没落していて、十分な補修を行うことができなかったのだろう。
古めかしい建物も少し残っている_4
古めかしい建物も少し残っている_5
古めかしい建物も少し残っている_6
古めかしい建物も少し残っている_7
古めかしい建物も少し残っている_8
古めかしい建物も少し残っている_9
東浦賀でも西浦賀でもよく見かけたポンプ
西浦賀のポンプ
東浦賀のポンプ
これは『鏝絵』
西叶神社がどこかを聞いた時、親切に教えてくれたおじさんにこの鏝絵のことを聞いてみた。
そのおじさんが言うには、これは新作とのこと。『由緒有るものは西叶神社にあるから、彫刻の立派さと併せて見ておくとイイ』と教えてもらった。

新作の『鏝絵』
西叶神社(1)
ここで取り上げた分は初日に撮影した分
ここに塩蔵があった
『郷社 西叶神社』と書いてある石柱の奥のある建築中の白い建物がある。そこにはつい最近まで塩蔵があったようだ。
土蔵は漆喰の外壁が関東大震災で被害を受けたため周囲にトタンを巻いており、外からでは分かりにくくなっていたとのこと。貴重な文化財も指定を受けていない限り、保存は難しいのかもしれない。

ここに塩蔵があった
参道を進む
参道を進む_1
参道を進む_2
社殿の見事な彫刻
現在の社殿は、天保8年(1837)2月1日焼失し、天保13年に再建されたもので、本殿、弊殿、拝殿は一連の権現造りである。本殿、弊殿は総檜造りで、その経費おおよそ三千両を要し、以前にも勝る社殿の建立を見るに至った。
殊にこの時、社殿内外に見事な彫刻装飾が施され、その彫刻を施したのが、安房の代表的彫刻師、後藤利兵衛義光である。この叶神社の彫刻は、彼の生涯を通しての最高作と云われ、彼の出世作となった。

社殿の見事な彫刻_1
社殿の見事な彫刻_2
社殿の見事な彫刻_3
社殿の見事な彫刻_4
社殿の見事な彫刻_5
拝殿格天井彫刻が取り上げられているページヘjump
社務所
玄関軒下にわずかに『鏝絵』が写っていた。当然、気がついてもいなかった。これがために仕切りなおしをすることにした。
社務所

 

浦賀の幕末前後の遺跡を回る(2)

東浦賀(2)&渡船
渡船
実に久しぶりに渡船に乗った。前回乗ったのがどこだったか思い出せないほどだ。向こう岸までは泳いでも簡単にいけてしまうくらいの距離だった。対岸は肉眼でもはっきり見える。
一度素通りした時に見た様子
一度素通りした時に見た様子_1
一度素通りした時に見た様子_2
一度素通りした時に見た様子_3
一度素通りした時に見た様子_4
一度素通りした時に見た様子_5
東叶神社から戻ってきた
乗り場周辺の様子
乗り場周辺の様子
客は私一人。申し訳ないことに貸切状態だった。
客は私一人
近いからあっという間に到着。到着する前に慌てて左右の景色を撮り捲った。
到着までの間に撮った左右の景色_1
到着までの間に撮った左右の景色_2
到着までの間に撮った左右の景色_3
到着までの間に撮った左右の景色_4
到着までの間に撮った左右の景色_5
到着までの間に撮った左右の景色_6
到着までの間に撮った左右の景色_7
到着までの間に撮った左右の景色_8
到着までの間に撮った左右の景色_9
到着までの間に撮った左右の景色_10
またお客に呼ばれたのか、すぐに東浦賀側に戻って行った
すぐに東浦賀側に戻って行った_1
すぐに東浦賀側に戻って行った_2

今回見て回った所
赤線が初日。青線が後日。MAPは後日再訪した際に、浦賀コミュニティセンターで頂いたものにマークを追加したもの。
今回見て回った所

西浦賀(1)
渡船の船着場近くにあった説明表示板
浦賀港は黒船が来航した時に初めて脚光を浴びたのかと思っていたが、家康の時から外国との窓口にしようとしていたのか。三浦按針にもその声掛けの役目を担わせていたんだ。そういう経緯があって、大分時が経った頃ではあるが、ペリー来航に繋がったんだ。
そこから暫くは、開国に向けての動きの中心になったのか。なるほど。

渡船の船着場近くにあった説明表示板

 

浦賀の幕末前後の遺跡を回る(1)

浦賀駅から東叶神社に行き、渡船で対岸に渡り、西叶神社、愛宕山公園、陸軍桟橋、燈明堂跡を回る計画を立てた。
『開国の足跡を辿る、歴史散策』という神奈川県の案内記事が目に止まったので、これに乗ったのだった。
なお、西浦賀には三浦の善吉らの『鏝絵』の作品が残っている。これらは、最初に歩いた時は見逃してしまったので、後日仕切りなおして、こちらも見てきた。これもあわせて取り上げることにする。

東浦賀(1)
浦賀駅から徒歩で東叶神社に向かう
徒歩で約20分という案内。大体そのくらいの時間がかかった。地図の赤い線に沿ってまずは歩き始めた。
案内図
途中にこんな事務所があった。今でも使用しているのかはよくわからなかった。
途中にこんな事務所があった_1
途中にこんな事務所があった_2
徳田屋跡
写真は跡地に建つ上原家の家屋。旅館は関東大震災で倒壊してしまったそうだ。
跡地に建つ上原家の家屋
跡地であることを示す標柱と表示板
標柱には『吉田松蔭・佐久間象山 相会処(徳田屋跡)』と書かれてあった。
標柱と表示板_1
標柱と表示板_2
イラストによればこんなふうだったようだ
イラスト
浦賀が江戸湾防衛の最前線になると、それまでの商人や文化人に加えて、 各藩の武士も浦賀の町を訪れるようになりました。
商人や文化人は、親類縁者を頼って宿泊し、各藩でも浦賀の商人と取引のあるところは、そこを頼りに宿をとりました。
では、親類も縁者もいない人はどこへ泊まったのでしょうか。
浦賀は宿場ではなかったので、船乗り以外の旅人を宿泊させることは原則として禁止されていました。しかし、身元の確かな人(通行手形などを所持している人)は、村名主のところに頼むと泊まれる家を紹介してくれ、そこに宿泊することが許されました。浦賀を訪れる人が少ないうちは、この方法で対応できましたが、数が増えてくると対応が困難になりました。
そこで登場したのが、幕府の許可を得た旅籠でした。
文化8年(1811)3月に、初めて東浦賀に3軒の旅籠が許可されました。
なお、西浦賀の記録はありませんが、同時期に許可されたものと考えられます。江戸時代後期から明治時代にかけて、浦賀で旅館の話をするときに忘れることのできない代表的なものは、東浦賀の徳田屋と、西浦賀の吉川屋です。
浦賀の旅籠の草分けである徳田屋には、多くの武士や文化人が宿泊したことがわかっています。それは旅人自身の日記などから知れることで、徳田屋の宿帳が現存していたならば、その「宿帳」だけで浦賀の文化史を語ることができたのでしょう。明治の元勲を多く輩出した「松下村塾」の塾頭である吉田松陰は、その日記に、ペリ-来航時の対応策について、徳田屋の主人からの情報をもとにして、師の佐久間象山らと協議したことを残しています。今回の黒船来航では、2年前の見聞で、日本側の防備の実情を知っているだけに、手の施しようのない状況をしきりに残念がり佐久間象山やその門下生たちと、今後の日本のとるべき方向などを語り、議論百出した様子を記しています。
このように、歴史の表舞台にも登場する徳田屋ではありましたが、万延元年(1860)の桜田門外の事件に関しては、苦い思い出もあります。井伊大老を殺害した水戸藩士の残党が立ち回るおそれがあるので、どの旅籠でも、奉行所の役人が来て、宿泊人全員の厳重な取り調べを行う手はずになっていました。その日、徳田屋に泊まった房総からの7人の客を「明朝の取り調べが済むまで止めておくように」と指示を受けていたにもかかわらず、理由は明らかではないが、なぜか出発させてしまい、奉行所から厳重な注意を受けました。
当時、徳田屋では番所の「船改め」を受けずに、房総半島へ直行できる船便を持っており、これも徳田屋の特色の一つでした。
吉川屋は明治30年代で姿を消しましたが、徳田屋は、大正12年の関東大震災まで存続しました。今は、その跡に碑が建っています。

洲崎の地名由来
これも看板だけ。三浦按針の名前が出てきたので載せた。京急の駅に『安針塚』という駅がある。その近くの逸見に住んでいた筈だが、浦賀にも屋敷があったようだ。
洲崎の地名由来

途中で渡船の東浦賀側の乗り場があったが、あとで取り上げるので一旦はパスする。

東叶神社
最初は浦賀城址を目指したのだ。東叶神社はすぐにわかったものの、城址の案内はどこにもなかった。近所のおじさんに聞いたら、城址は東叶神社の裏山の山頂とのことで、見るべきものは何もないから行くだけ無駄との事だった。根性なしの私は、これ幸いと有り難く忠告に従った。
東叶神社のHPへjump
浦賀城址が説明されている頁にjump
鳥居が見えてきた
鳥居が見えてきた
全景を撮る
道の反対側から撮った。これ以上下がると海に落ちてしまうので、いっぱいいっぱいだった。その証拠写真もある。
全景を撮る_1
全景を撮る_2
全景を撮る_3
全景を撮る_4
鳥居をくぐった
鳥居をくぐった_1
鳥居をくぐった_2
鳥居をくぐった_3
鳥居をくぐった_4
境内案内図
奥の院の辺りに浦賀城の本丸があったようだ。また、勝海舟が咸臨丸出航前に、当地で断食修行をしたと伝えられが、それも此処だったようだ。神社社屋が海抜10mで、本丸があったところが海抜50mか。昔の人は足が丈夫だったようだ。
境内案内図
源氏再興の際に移植されたと伝えられるソテツ
源氏再興の際に移植されたと伝えられるソテツ_1
源氏再興の際に移植されたと伝えられるソテツ_2
源氏再興の際に移植されたと伝えられるソテツ_3
恵仁志坂という長く急な階段を上った先に城址があるようだ。見えているのはごく一部だ。
恵仁志坂_1
恵仁志坂_2
とんでもなく大きく重そうな神輿があった。物凄く古い神輿でもあるようだ。このガラスの反射がなければよかったのだが。
とんでもなく大きく重そうな神輿_1
とんでもなく大きく重そうな神輿_2
由緒書き
源氏再興の願いが叶ったので叶神社という名を頼朝から頂いたのか。叶神社(東浦賀)は、正保元年(1644年)に西浦賀の叶神社を勧請して創建された。始まりは西叶神社の方だったんだ。
伊豆国で配流の身だった源頼朝と知遇を得た北面武士出身の僧・文覚が、源氏再興のために養和元年(1181年)石清水八幡宮を当地に勧請し創建、源氏再興成就した頼朝が文治2年(1186年)に叶大明神と尊称したと伝えられる。
由緒書き

 

旧朝倉家住宅(4)

再び、屋外に出て庭を見学させてもらう

庭の様子
復原された庭門をくぐる
復原された庭門をくぐる_1
復原された庭門をくぐる_2
復原された庭門をくぐる_3
復原された庭門をくぐる_4
復原された庭門をくぐる_5
復原された庭門をくぐる_6
道伝いに庭を歩く
道伝いに庭を歩く_1
道伝いに庭を歩く_2
道伝いに庭を歩く_3
道伝いに庭を歩く_4
道伝いに庭を歩く_5
道伝いに庭を歩く_6
いよいよ崖線伝いに下りてみる
いよいよ崖線伝いに下りてみる_1
いよいよ崖線伝いに下りてみる_2
いよいよ崖線伝いに下りてみる_3
いよいよ崖線伝いに下りてみる_4
いよいよ崖線伝いに下りてみる_5
あれは何に使ったのだろうか
あれは何に使ったのだろうか
今度は崖線伝いに上がってみる
今度は崖線伝いに上がってみる_1
今度は崖線伝いに上がってみる_2
今度は崖線伝いに上がってみる_3
土蔵が見えてきた
土蔵が見えてきた
『杉の間(表)』も見えた
『杉の間(表)』も見えた
再び土蔵が見えた
ツブと折釘とがあるんだ。さすが国指定重要文化財だけある。さらに、観音開き明かり窓にも庇などが取り付けられていて、贅沢な造りだと思った。
再び土蔵が見えた_1
再び土蔵が見えた_2
再び土蔵が見えた_3
再び土蔵が見えた_4

蔵造りの建物の壁面には漆喰を半球形に盛り上げた部分に、鉤形に折れた太い釘が突き出たものを見ることができます。この太い釘が折釘で、漆喰の盛り上がりがツブです。ツブを伴う折釘は補修作業の際のハシゴの固定など、縄をかけるために使われます。これは折釘に荷重をかけた際に、壁とは別にツブをつけておくことでツブの損傷だけで本体の壁土に亀裂が入るのを防ぐようになっています。また、折釘は鉄製なので、錆びると湿気を呼び込むため、釘が露出する部分を減らし、錆による湿気を壁土内に入れないようになっています。ツブの伴わない折釘は庇や霧除、下見板など、建物本体に後からつけた付属設備を取り付けるためのもので、いずれも蔵造り建物の壁面は釘などが打てないため、あらかじめ壁の芯に折釘を打ち付けてから壁を仕上げます。

以上で『旧朝倉家住宅』シリーズはおしまいです。最後までご覧頂きありがとうございました。

 

旧朝倉家住宅(3)

家屋内部を見る(3)
杉の間
奥と表と角の3室がある。ここが、この旧朝倉家住宅の肝となる部屋であろう。
メインは『杉の間(表)』
メインは『杉の間(表)』
軒裏というのかな。此処も杉を薄く削ったもので編んであった。
軒裏というのかな_1
軒裏というのかな_2
庭の眺めも最高。庭は崖線に従って、下った感じになっている。
庭の眺めも最高
サブというか次の間のような『杉の間(奥)』
『奥』から『表』方向を見るとこんなふう。欄間が見事。
『奥』から『表』方向を見るとこんなふう
廊下側には、こんな障子窓もあった。私には障子戸の直ぐ側にこれを配した意図が理解できなかった。
廊下側には、こんな障子窓もあった
『角の杉の間』
さっと通りすぎてしまいもったいない事をした
『杉の間(表)』の外壁。これが杉の間の由来だろうか。
『杉の間(表)』の外壁_1
『杉の間(表)』の外壁_2
ここから見る庭も風情あり
ここから見る庭も風情あり_1
ここから見る庭も風情あり_2
障子の上の飾り板。『板欄間』というようだ。
板欄間
引き戸にもきれいな絵が
引き戸にもきれいな絵が
開けてはいけないのだろうが、この先は『杉の間(表)』のようだ。
この先は『杉の間(表)』のようだ
杉の間の廊下に接した上り口
中庭へのアクセス用だったのだろう
杉の間の廊下に接した上り口_1
杉の間の廊下に接した上り口_2
中庭
中庭
突き当りは茶室など
立入禁止で細部までは確認できなかった。残念。
突き当りは茶室など_1
これは間違いなく茶室だろう
突き当りは茶室など_2
更に奥には丸窓の部屋と土蔵の扉とが見えた
更に奥には丸窓の部屋と土蔵の扉とが見えた

 

旧朝倉家住宅(2)

家屋内部を見る(2)
二階の様子
二階に上がってみる。順路を逆にたどった形になってしまったようだ。下りるべき階段を上って行った。
階段を上がったところにあった板戸に描かれた絵
2階は虎治郎氏が公職にあった際、会合などに使用されていたという広間があるのですが、この部屋の襖や廊下の板戸は日本画家によるものです。絵を描いたのは小猿雪堂という狩野派の流れをくむ日本画家だそう…
0階段を上がったところにあった板戸に描かれた絵_1
この絵以外は和風の絵柄
階段を上がったところにあった板戸に描かれた絵_2
階段を上がったところにあった板戸に描かれた絵_3
中庭側の階段と2階廊下
意外にしっかりとした階段だった。今どき重要文化財の階段を上らせてくれる建物は珍しいと思い、変なところで感激してしまった。
手摺の飾りはなかなかコジャレたものだ
中庭側の階段と2階廊下
2階和室前廊下
ガラス戸の下部の辺りに注目されたい。富士山の形のデザインになっているのがお分かりいただけるだろうか。
2階和室前廊下_1
2階和室前廊下_2
庭から見るとこんなふうだ
庭から見るとこんなふう
2階廊下から見た庭の様子
その昔は木々の向こうに富士山が望めたようだ
その昔は木々の向こうに富士山が望めたようだ
2階広間
2階広間_1
2階広間_2
2階広間_3
2階広間_4
2階広間_5
2階広間_6
広間裏の通路から見えた板戸の絵
広間裏の通路から見えた板戸の絵
2階廊下から見た『杉の間』の上部の破風の様子
下から3列目の瓦は何をするものなのだろうか。見たことがないものだった。
2階廊下から見た『杉の間』の上部の破風の様子

一階のいくつかの部屋の様子
記事作成の都合上、先に一階のいくつかの部屋の様子を取り上げる
事務室
事務室は洋間ではなかった。それでも、大金庫があるところが如何にも事務室らしい。
事務室
洋間
財閥でも華族でもないので、洋式の家屋は不要としながらも、玄関脇に一間だけ洋室を作っていた。その部屋は、折上格天井、開き窓など、贅を凝らしたものだった。
洋間_1
洋間_2
洋間_3
内玄関
こんなものもあった。勝手口ではなく、家族用の出入口ではなかったかと思う。
内玄関

 

旧朝倉家住宅(1)

旧朝倉家住宅には以前から行ってみようと思っていた。もたもたしているうちに、八嶋智人と牧瀬里穂とが案内人を務めるBS朝日の『百年名家~築100年の家を訪ねる旅』で9月のはじめに取り上げられた。これは出遅れてしまったかなと思いつつも、9月の末に知人と恵比寿で会う機会があったので、その折に案内かたがた思い切って訪ねてみた。
屋外の様子(庭を除く)
入口付近
入口付近
車庫
朝倉家住宅は大正時代の住宅だが、建築当時から車庫があったのが特徴とのこと。大金持ちのステータスシンボルとして、必要な建物だったのだろう。後に管理棟に改造されたが、現在は建築当初の姿に復元しているとのこと。
車庫
風格のある建物が見えてきた
風格のある建物が見えてきた
破風は1階と2階とで微妙にずれている。その当時の和風建築の特徴だったようだ。鬼瓦や懸魚(げぎょ)も立派だ。
破風は1階と2階とで微妙にずれている_1
破風は1階と2階とで微妙にずれている_2
破風は1階と2階とで微妙にずれている_3
家屋内部を見る(1)
必ずしも順路通りに見ていないのであしからず
玄関から応接間へ向かう廊下
廊下から見た欄間
廊下から見た欄間
板戸の絵
板戸の絵
ガラス戸などのレールは鉄製ではなく木製
知ってはいたが、実際に見るとやはり驚く
ガラス戸などのレールは鉄製ではなく木製_1
ガラス戸などのレールは鉄製ではなく木製_2
曲がった先の庭に面した2方向の廊下も実にシック
曲がった先の廊下も実にシック_1
曲がった先の廊下も実にシック_2
廊下から見た庭の一部
廊下から見た庭の一部
応接間
東南に突出している為、一日中太陽が回り込む明るい空間だった。庭もよく見え、最高のおもてなし空間だったと思われる。
襖絵
襖絵
廊下からも見えた欄間
廊下からも見えた欄間
第一会議室(中央の大広間)
私が一番つまらないと感じた部屋
経済企画庁の管轄下で渋谷会議所として使われた名残とか。こんなくだらない造作は全て取り払って、昔あったように仏間・中の間・寝間の3室に戻してほしいものだ。これを見て喜ぶ奴なんて、いそうもないのに。
私が一番つまらないと感じた部屋_1
私が一番つまらないと感じた部屋_2
私が一番つまらないと感じた部屋_3
広縁から眺める庭の佇まいは最高
それだけに会議室とのアンバランスが非常に気になる。また、もったいないことだと思う。
広縁から眺める庭の佇まいは最高_1
広縁から眺める庭の佇まいは最高_2
広縁から眺める庭の佇まいは最高_3
広縁から眺める庭の佇まいは最高_4
広縁から眺める庭の佇まいは最高_5

東急電鉄渋谷駅から僅か1駅、代官山駅から徒歩5分の場所にある国の重要文化財・旧朝倉家住宅。1919(大正8)年の建築で、東京府議会議長や渋谷区議会議長を務めた朝倉虎次郎氏の邸宅です。
財閥や華族の屋敷ではありませんので、洋館は無く和風の2階建ての住宅のみですが、随所に意匠を凝らした欄間や襖などは見所で、また付随する庭園は急峻な崖線(がいせん)という自然の地形を生かして造られた、回遊式庭園。関東大震災前から都心に残る貴重な風景です。*土蔵は関東大震災後に建て直されました。
なお戦後は人手に渡り、紆余曲折の末に経済企画庁の管轄下に。渋谷会議所として使われた後、幸いにも取り壊しを免れて2004(平成16)年に国の重要文化財に指定。現在は渋谷区が管理しています。

 

長井海の手公園『ソレイユの丘』と長井の海(7)

長井の海にて(2)
道端からの眺め
風船唐綿かな?
風船唐綿かな?_1
風船唐綿かな?_3
いよいよ富士山は霞んで見えにくく
いよいよ富士山は霞んで見えにくく_1
いよいよ富士山は霞んで見えにくく_2
カンナは気持ち良さ気に咲いている
カンナは気持ち良さ気に咲いている_1
カンナは気持ち良さ気に咲いている_2
海岸伝いに歩いているので気持ちだけ江ノ島が大きく見えるかな
気持ちだけ江ノ島が大きく見えるかな

此処は新宿港というのかな
なんということもない漁港なのだが、生まれ育ったところと似た感じで、私には心が落ち着く風景だ
新宿港_1
新宿港_2
新宿港_3
新宿港_4

長井港
水揚げするときは、此処に持ってくるようだ。それなりの設備がある。
長井港_1
長井港_2
長井港_3
長井港_4

以上で「長井海の手公園『ソレイユの丘』と長井の海」シリーズは終わりです。最後までご覧頂き、ありがとうございました。

 

長井海の手公園『ソレイユの丘』と長井の海(6)

ソレイユの丘をあとに長井の海に向かう

長井の海にて(1)
漆山港まで戻ってきた
この辺でシラスご飯でも食べるつもりだったが、母のところで朝飯を食べ過ぎたのか、腹がきつい状態がいまだ解消されず。もう少し先まで行くことにした。
沿岸漁業ってそんなに大儲けするようなものではないだろうが、のんびり暮らしていく楽しみがあるようだ。こういう生活もいいなあ。

漆山港_1
漆山港_2
漆山港_3
漆山港_4
漆山港_5
漆山港_6
少し歩きながらだとこんなふうに見える
漆山港_7
漆山港_8
漆山港_9
漆山港_10
江ノ島がだいぶ遠くのような感じに見える
江ノ島がだいぶ遠くのような感じに見える_1
江ノ島がだいぶ遠くのような感じに見える_2
ヨットは楽しいだろうなあ
ヨットは楽しいだろうなあ
富士山は霞んでしまってよく見えない
富士山は霞んでしまってよく見えない
コサギが2羽
小魚でも狙っているのだろうか
小魚でも狙っているのだろうか_1
小魚でも狙っているのだろうか_2
何度も飛び立つ仕草を見せるが飛ばない
小魚にフェイントをかけているのだろうか?
小魚にフェイントをかけているのだろうか?_1
小魚にフェイントをかけているのだろうか?_2
小魚にフェイントをかけているのだろうか?_3
小魚にフェイントをかけているのだろうか?_4
漁師さんが戻ってきた
漁師さんが戻ってきた
コサギが本当に飛んでいった
コサギが本当に飛んでいった_1
コサギが本当に飛んでいった_2
コサギが本当に飛んでいった_3
コサギが本当に飛んでいった_4

 

長井海の手公園『ソレイユの丘』と長井の海(5)

ソレイユの丘にて(5)
アルパカたちは『お散歩』の出発地点に向かう
誘導役のカウボーイも出陣
カウボーイと言ってはいけないのかも。『アルパカ・ボーイ』って言い直そう。
誘導役のカウボーイも出陣_1
こうしてみると、子供だけの遊び場じゃなさそうだ
誘導役のカウボーイも出陣_2
出発地点へいざ出陣だ
出発地点へいざ出陣だ_1
ボクはパパの後についていくからね。置いていかないよう、ゆっくり歩いてね。
出発地点へいざ出陣だ_2
出発地点へいざ出陣だ_3
ママも後から行くから大丈夫よ。安心してね。
出発地点へいざ出陣だ_4
出発地点へいざ出陣だ_5
出発地点へいざ出陣だ_6
ママのほうがまだ大きいな
ママのほうがまだ大きいな
ファミリー揃い踏みだぞ
後姿でごめんね
後姿でごめんね
もしかしたらパパよりママのほうが背高のっぽかも_2
もしかしたらパパよりママのほうが背高のっぽかも
もしかしたらパパよりママのほうが背高のっぽかも_1
本当のお散歩だ
『アルパカ・ボーイ』さんが先導だ
本当のお散歩だ_1
本当のお散歩だ_2
本当のお散歩だ_3
本当のお散歩だ_4
本当のお散歩だ_5
本当のお散歩だ_6
本当のお散歩だ_7
本当のお散歩だ_8
本当のお散歩だ_9

 

長井海の手公園『ソレイユの丘』と長井の海(4)

ソレイユの丘にて(4)
アルパカ他の動物たち
間もなく散歩にご出発だ
アルパカ
お父さんはフロスティー、お母さんは白いレイシー、子供のメルシーのファミリーのようだ。メルシーは2014年に誕生とのことだ。
アルパカの親子_1
アルパカの親子_2
アルパカの親子_3
アルパカの親子_4
アルパカの親子_5
アルパカの親子_6
ヤギさん
ヤギさん_1
ヤギさん_2
ヤギさん_3
ヤギさん_4
ヤギさん_5
羊さん
羊さん_1
羊さん_2
お散歩の準備
お父さんのフロスティー
口輪を嵌められるようだ。安全のためだろう。直前まで砂まみれになっていたので、ブラシを掛けてもらっていた。
口輪を嵌められるようだ_1
口輪を嵌められるようだ_2
一足先に枠の外にお出ましだ
一足先に枠の外にお出ましだ_1
一足先に枠の外にお出ましだ_2
一足先に枠の外にお出ましだ_3
一足先に枠の外にお出ましだ_4
『早く出ておいでよ』と言っているのかな
『早く出ておいでよ』と言っているのかな
お母さんのレイシーと子供のメルシーはおとなしい感じ
お母さんのレイシーと子供のメルシーはおとなしい感じ
お母さんのレイシーが準備完了
お母さんのレイシーが準備完了
子供のメルシーも準備完了かな
子供のメルシーも準備完了かな

 

長井海の手公園『ソレイユの丘』と長井の海(3)

ソレイユの丘にて(3)
他にも乗り物はあるぞ
観光案内では無いのだが、備忘で記録しておく。娘たちにどんな乗り物があったのと聞かれるかもしれないので。
スワン型ボート
比較的小さな人造池だから、安心して乗れそうだ
スワン型ボート_3
スワン型ボート_4
スワン型ボート_5
ゴーカート
男の子がいたらせがまれることまちがいなしだろうな
ゴーカート_1
ゴーカート_2
ゴーカート_3
ゴーカート_4

結構スピードが出るようだ。小さな子供には怖さが先立つかも。
橇_1
橇_2
橇_3
橇_4
橇_5
橇_6
橇_7
橇_8
ソレイユ号
どういうわけか、大人の乗客がいっぱい。爺さんや婆さん用なのかなあ。
ソレイユ号_1
ソレイユ号_2
ソレイユ号_3
ソレイユ号_4
ソレイユ号_5
ソレイユ号_6
ソレイユ号_8
ソレイユ号_9
ソレイユ号_10
乗馬
親子の視線の先にはアルパカが居た様子。アルパカの散歩に出遅れてしまいそうで、気が気じゃなかったことだろう。
乗馬_1
乗馬_1_2
乗馬_2
乗馬_3
乗馬_4
乗馬_5
乗馬_6

地元のミュージシャンが演奏していた
皆遊ぶのに夢中で、ここに演奏を聞きに来る客は殆どいない様子。せっかくの晴れ舞台だろうに、お気の毒な感じがしないでもなかった。すこし、子供ウケするような曲を演奏すれば違うんだろうけど、このバンドには無理だったかも。
地元のミュージシャンが演奏していた_1
地元のミュージシャンが演奏していた_2
地元のミュージシャンが演奏していた_3
地元のミュージシャンが演奏していた_4

 

長井海の手公園『ソレイユの丘』と長井の海(2)

ソレイユの丘にて(2)
体験プログラムがいくつも用意されているようだ
今回は私一人だったのでパスした。子供が来たならば、己の世界が広がる感じがすることなんだろう。
例えば、すぐ前の建物では、手作り体験教室として、パン、ソーセージ、アイスクリーム、ピザなど食の体験とキャンドルなどのクラフト体験ができるようだ。対象者は小学生くらいからなんだろうか。ものすごく楽しいんだろうなあ。

体験プログラムがいくつも用意されているようだ_1
体験プログラムがいくつも用意されているようだ_2
取り敢えず、遊具のある場所へ向かう
取り敢えず、遊具のある場所へ向かう_1
取り敢えず、遊具のある場所へ向かう_2
いろいろな遊具が有るぞ
まずはどんなふうか見てみる
まずはどんなふうか見てみる_1
まずはどんなふうか見てみる_2
まずはどんなふうか見てみる_3
自転車もいろいろ
自転車もいろいろ_1
自転車もいろいろ_2
自転車もいろいろ_3
自転車もいろいろ_4
自転車もいろいろ_5
自転車もいろいろ_6
自転車もいろいろ_7
自転車もいろいろ_8
自転車もいろいろ_9
自転車もいろいろ_10
アスレチックも楽しそう
アスレチックも楽しそう_1
アスレチックも楽しそう_2
アスレチックも楽しそう_3
アスレチックも楽しそう_4
アスレチックも楽しそう_5
アスレチックも楽しそう_6
アスレチックも楽しそう_7
アスレチックも楽しそう_8
アスレチックも楽しそう_9
アスレチックも楽しそう_11

 

長井海の手公園『ソレイユの丘』と長井の海(1)

『ソレイユの丘』へ向かう
孫達をいつか遊ばせに連れて行くために、『ソレイユの丘』はどんなか下調べをするつもりでソレイユの丘に出かけた。三崎口駅に着いたら、『ソレイユの丘』へ直行するバスは30分以上後まで無い。仕方がないので、荒崎海岸行きのバスの終点近く『漆山』までバスで行き、そこから徒歩で歩くことにした。
バス停は海の目の前だから、海抜は数m程度。どこへ行くにしても殆ど上り道であるはずだが、行き先に『丘』の字がつくからには、全コース上り道の覚悟の上で歩き出した。

漆山バス停にて
富士山がかすかに見えた。この時期は全く冠雪しておらず、富士山であることを信じていただけないかもしれないが、間違いなく富士山だ。
漆山バス停から見た富士山_1
漆山バス停から見た富士山_2
手前の丹沢山塊からすると高さが全然違う。それにしても電線が邪魔だった。
漆山バス停から見た富士山_3
漆山バス停から見た富士山_4
途中の上り坂で見た秋の空
途中の上り坂で見た秋の空_1
途中の上り坂で見た秋の空_2

ソレイユの丘にて(1)
ソレイユの丘に到着
10分ほど歩き、漸く駐車場が見えてきた。道を挟んだ反対側にも第2駐車場がある。
漸く駐車場が見えてきた_1
漸く駐車場が見えてきた_2
建物は南仏風
なるほど明るいイメージだ。お上りさんよろしく、あたりをきょろきょろ見てしまう。
建物は南仏風_1
建物は南仏風_2
建物は南仏風_3
建物は南仏風_4
建物は南仏風_5
マンゴーのスムージー
荷物を預けるための小銭がなかったので、小銭を得るために注文した。元の果実が良かったのか、なかなか美味しかった。
マンゴーのスムージー
まずはお花を鑑賞
お花畑は一応有るという程度。驚くほどの見事さではなかったかなあ。
ミニの向日葵
ミニの向日葵_1
ミニの向日葵_2
ミニの向日葵_3
ミニの向日葵_4
秋桜
秋桜_1
秋桜_2
白蝶草かな?
白蝶草かな?
秋桜と向日葵の競演
秋桜と向日葵の競演
やっぱり富士山などの様子もチェック
ソレイユの丘から見た富士山
ソレイユの丘から見た富士山
鳥が富士登山飛行中
鳥が富士登山飛行中
トランポリンで遊ぶ子どもと富士山
トランポリンで遊ぶ子どもと富士山_1
トランポリンで遊ぶ子どもと富士山_2
下は荒崎海岸だ
下は荒崎海岸だ
振り返るとこんなふう
振り返るとこんなふう

横須賀市西部、長井地区の小高い丘に位置し、21.3haの広大な敷地の中で食~農業~クラフト~動物とのふれあいなどが体験できる公園である。南フランス~プロヴァンス地方をモチーフにして作られており、石畳の道~レンガ造りの建物などが特徴となっている。園内はバリアフリーとなっており、高齢者や身障者にも配慮した造りである。駐車場は臨時駐車場を含めると約1500台収容することができ、身障者用の駐車スペースも多数設置されている。
入園料は無料だが、園内の各体験プログラム等は有料である。なお、体験プログラム(屋内実施のものを除く)や遊戯施設は屋外のものが多いため、雨天時の利用客は晴天時に比べて少ない。

環境に配慮した公園づくり
園内で出た生ごみ、動物の糞尿、落ち葉などは堆肥化され、自家菜園などの肥料として利用されている。また雨水は直接海へ流出しないよう一時的に貯め、自然浸透により処理している。
海軍基地跡地
現在公園となっているのは旧帝国海軍第二横須賀航空基地跡地で、戦後は在日米軍の住宅、日本に返還された後は航空自衛隊航空無線標識所として利用されていた。なお阿川弘之の伝記小説により、最後の海軍大将として著名な井上成美の旧居はこの公園の近隣に立地する。井上の死後(1975年没)長い期間空き家のままであったが、現在は井上が海軍兵学校長を務めていた時の生徒の関係者が住んでいる。なお、本園のすぐそばに武山駐屯地に所在する航空自衛隊第1高射群第2高射隊の飛び地(レーダーサイト)がある。

 

ヴェルニー公園、瑞泉寺、永福寺跡、鎌倉宮、荏柄天神社(12) 2014.10.08 15:20追記

荏柄天神社
荏柄天神社は、名前の通り菅原道真を祀る神社。太宰府天満宮、北野天満宮とともに日本三天神の一つ。前二社は著名だが、荏柄天神社は知る人ぞ知る神社の位置づけだろうか。
建武の中興を果たしたものの足利尊氏と衝突し、幽閉後殺害された護良親王を祀る鎌倉宮。その目と鼻の先に荏柄天神社がある。こちらは、源頼朝が鎌倉に入ると、新たに社殿を造営し、幕府の鬼門(北東)を鎮護する神として祀られた神社だ。鎌倉宮とはまったく立場を異にする。その神社同士が至近距離に鎮座しているというのは、皮肉なことだ。
鎌倉宮が近くに造営中であったり、徳川幕府からも重視された関係かもしれないが、明治維新後は冷遇されたようだ。神仏分離令で衰退し、明治6年(1873年)になってやっと村社と扱われた程度。かたや、鎌倉宮は同年に官幣中社に列格されたというのに。しかし、それだけの価値しかない神社では決してない。

鳥居の直前にこんなくぐり口が。洒落たものだ。
どうも2本のビャクシンがX字状に交差しているようだ。なおこの荏柄天神社の参道と鎌倉宮の参道もX字状に交差している。
鳥居の直前にこんなくぐり口が_1
鳥居の直前にこんなくぐり口が_2
ちょっと長めの石段
ちょっと長めの石段
菅公一千年祭記念碑
明治35年が菅原道真公の千年忌にあたったようだが、その折に建てられたものだろう。『菅公』とは、決してあの馬鹿な菅直人のことなどではない。
菅公一千年祭記念碑
謂れはこんなもの
姿絵が降ってきたのか。さぞかし鎌倉の村人は有難い印だと思ったことだろう。
謂れはこんなもの
神門
神門_1
神門_2
神門_3
拝殿
目に飛び込んでくるのは目にも鮮やかな拝殿。幣殿や拝殿は、関東大震災による倒壊で再建されたもの。
拝殿_1
拝殿_2
拝殿_3
本殿(国指定の重要文化財)
樹木の陰ではっきり撮ることができなかったが、拝殿の背後(画面左側)には本殿が有る。本殿は、三間社流造、銅板葺き。江戸幕府第2代将軍徳川秀忠が資材・資金を下賜して元和8年(1622年)に始まった大規模な修造の際、寛永元年(1624年)に鶴岡八幡宮若宮の旧本殿を譲り受け移築したものだそうだ。鶴岡八幡宮の若宮旧本殿は正和4年(1315年)の鎌倉大火の後、翌正和5年(1316年)に建立された。記録によれば、中世、近世を通じてたびたび修理が行われているが、社殿全体が再建された記録はない。移築と度重なる修理を経ているとはいえ、鎌倉地方における中世建築の稀少な遺構の一つだそうだ。
ということで、国指定の重要文化財になっている。

本殿(国指定の重要文化財)_1
反対側から撮っても樹木が邪魔になる。と言っても天神社というからには境内に梅の木はつきもので、これがなくては話にならないのだろう。致し方無しかも。
本殿(国指定の重要文化財)_2
絵筆塚
「かっぱ筆塚」を建てた漫画家清水崑の遺志を継いだ同じく漫画家の横山隆一らが建立してもの(平成元年)。横山隆一をはじめとする漫画家154人によるカッパのレリーフが飾られた筆形の塚で、毎年10月には、清水崑を偲ぶ「絵筆塚祭」が行われているそうだ。
いい加減疲れた頃に此処に来たが、この絵筆塚で癒やされたのか、ちょっと元気が戻ったような気がした。

絵筆塚_1
絵筆塚_2
2絵筆塚_3
絵筆塚_4
絵筆塚_5
絵筆塚_6
絵筆塚_7
絵筆塚_8
文化財の説明表示板
文化財の説明表示板
熊野権現社
伊邪那岐命(イザナギノミコト)、伊邪那美命(イザナミノミコト)、天宇受売命(アメノウズメノミコト)の熊野三柱神がまつられているそうだ。
熊野権現社
神輿庫
社殿の右側には、神輿庫がある。何の建物かと思うほど堂々としていた。
神輿庫
大銀杏
鎌倉市指定の天然記念物。樹齢600年と伝えられている。天神が降った場所とされているところに植えられているとか。
大銀杏

荏柄天神社本殿…文化遺産オンラインから
荏柄天神社は、鶴岡八幡宮の東方に位置している。長治元年(1104)に菅原道真を勧請し、創立されたとされ、鎌倉時代初期より幕府との関わりが記録に見える。
現存する本殿は、寛永元年(1624)の鶴岡八幡宮若宮の社殿造営に伴い、若宮の旧本殿を移築して再興されたものである。若宮は、正和5年(1315)再建後、中世を通じて維持されていることから、この本殿は14世紀に遡る可能性がある。
形式は三間社流造 、屋根は銅板葺である。内部は小組格天井とし、内法長押上の小壁に横連子を入れる。
荏柄天神社本殿は、江戸時代初頭に鶴岡八幡宮の若宮本殿を移築したもので、鶴岡八幡宮の室町時代に遡る主要社殿を伝える唯一の例として重要である。
三間社としては大型で、内外ともに細部の意匠も優れ、中世鎌倉における社殿の様式を知る上で欠くことのできない貴重な遺構である。

荏柄天神社境内…国指定文化財等データベースから
荏柄天神社は、鎌倉市中央部の東側、源頼朝が開いた幕府跡伝承地の北東約200mの丘陵先端部に位置し、谷を挟さんで約300m西側の対岸丘陵には史跡法華堂跡(源頼朝墓)が隣接している。江戸時代成立の「相州鎌倉荏柄山天満宮略縁起」によれば、長治元年(1104)8月25日に天神が降臨したことに始まるという。天保12年(1841)成立の『新編相模国風土記稿』は、幕府の鬼門鎮護のために祀られたとの社伝を採録している。周囲よりも7m程高い東西約55m、南北約50mの削平地に社殿を設けている。社殿裏は人工的に切り落とした急崖で、社殿の両側は袖状の尾根が張り出しており、鶴岡八幡宮の上宮敷地造成との共通性が見られる。
天神は、東国では八幡神とともに平将門に新皇の位を授ける神として現れ(『将門記』)、武家政権の成立に関わる神であり、弘安4年(1281)には鶴岡八幡宮の境内末社としても祀られた。貞永元年(1232)成立の『御成敗式目』の末尾に付された起請文には、幕府ゆかりの神々の最後に「天満大自在天神」として記されており、誓約に関わる神でもあった。
『吾妻鏡』での初出は建仁2年(1202)9月11日条で、大江広元が荏柄社祭の奉幣使を奉仕したとある。建保元年(1213)2月25日・26日条には、渋川兼守が荏柄社に奉じた詠歌によって、将軍実朝より罪を赦されたとある。寛元2年(1244)7月20日・8月3日条には、密通の被疑者が起請文を進めて参籠して失無しとされたとある。弘長元年(1261)5月8日の「天神坐像胎内銘文」では、荏柄神主平政泰によって朝廷と幕府の鎮護が祈願されている。
当社は鎌倉における詩歌信仰の中心であり、室町時代には鎌倉公方が正月25日に参詣し、千句の催しが行われた(『鎌倉年中行事』)。鎌倉公方足利成氏は宝徳3年(1451)9月23日の御教書で「天下安全祈祷事」を命じており、武家政権の維持に当たり、鶴岡八幡宮と対になって信仰されていた。北条氏康は天文17年(1548)に社殿造営用途のために関を寄進している。豊臣秀吉は天正18年(1590)に鎌倉に入り、鶴岡八幡宮と当社の造営を沙汰し、徳川家康は天正19年に社領19貫文余の朱印状を下して造営を命じている。
元和8年(1622)、徳川秀忠による鶴岡八幡宮造営の際に、若宮旧社殿を当社に移し、幕府の援助で本社・末社の造営が行われている。これ以後、幕府による30年から40年ごとの鶴岡八幡宮修造に併せて当社も修造され、当社は鶴岡八幡宮と並ぶ武門の神として維持されてきた。平成13年の修理の際に鎌倉市教育委員会が建造物調査を行い、当社本殿が正和5年(1316)の造営で、元和8年に当社に移築された旧鶴岡八幡宮若宮本殿であることが確認された。
荏柄天神社は幕府の鬼門鎮護の神社と伝えられており、武家の誓約を保証し、武家政権を守護する神として鶴岡八幡宮とともに信仰され、東国の天神信仰、詩歌信仰の中心でもあった。また、境内地は宗教的な環境を良好に残しており、武家の信仰形態を伝える遺跡として重要である。


以上で、12回にも亘った『ヴェルニー公園、瑞泉寺、永福寺跡、鎌倉宮、荏柄天神社』シリーズは終了です。最後までご覧頂きありがとうございました。

 

ヴェルニー公園、瑞泉寺、永福寺跡、鎌倉宮、荏柄天神社(11)

鎌倉宮

市内の少し奥まった場所とはいえ外れという程でもない二階堂の地に、鎌倉幕府を倒し建武中興を実現した人物である護良親王を祀るのか。天皇家からすれば手中に権力を取り戻す上での大功労者なのだろうが、皮肉な感じがしないでもない。鎌倉幕府は確かに瓦解したのだから、皮肉であろうがなんだろうが、史実であることは間違いがないことだ。しかし、その後、足利尊氏との対立により足利方に捕えられて東光寺に幽閉され、建武2年(1335年)の中先代の乱の混乱の中で尊氏の弟の直義の命で、家来である淵辺義博によって殺められてしまうとは、鎌倉人にとっても残念な話だっただろう。
明治天皇は大政奉還によって戻ってきた皇室を中心におく新しい国の、その頂点に立つ『天皇』としての力をはっきりと示したかったのだろうか。


境内(無料ゾーン)の様子
厄割り石
盃割り舎があり、厄割り石が置いてある。盃に「フーッ!」と息を吹きつけて、自分についた悪いものを移し、この石に投げつけて割ると、厄を払うことができるとされているそうだ。
厄割り石_1
厄割り石_2
境内では骨董市が開かれていた
骨董市
村上社と身代りさま
拝殿の右側(境内社の「村上社」)には、護良親王の部下の村上義光の像が置かれている。「撫で身代わり様」といって、なでると体の悪いところを身代わりになってくれるとされている。吉野の戦いで危地に陥ったとき、村上義光は護良親王の鎧と直垂(ひたたれ)を身にまとい、「われは護良親王なり。切腹の手本を見せようぞ!」と言うと、壮烈な最後を遂げた。というようなことがあり、つらいことを引き受けてくれる「身代わり様」として、人々の信仰を集めているとのこと。
とは言うものの、10年前の台風で倒れた境内のケヤキを使って彫られた像だとか。意外に新しいものらしい。
新しいご利益なのかなあ。商売上手なのかも。

村上社と身代りさま
拝殿
舞殿をも兼ねているようだ。今頃行われる薪能は此処で行われるのだろう。
拝殿
境内(有料ゾーン)の様子
本殿、幣殿が見える
本殿、幣殿が見える
本殿の手前にある小さな建物は境内社の『南方社』
本殿の手前にある小さな建物は境内社の『南方社』_1
本殿の手前にある小さな建物は境内社の『南方社』_2
本殿後方にある土牢への階段と門
皇室ゆかりのところである事がわかる
本殿後方にある土牢への階段と門
一段高くなる手前にあった石碑
『大塔宮御坐所』と書かれているのかと思う。右側が『人』の字で無く、『口』の字になっているので自信なしなのだが。
一段高くなる手前にあった石碑
護良親王が幽閉されていたと言われる土牢
実際にこの土牢に幽閉されていたかは疑問を呈する人も少なくないようだ。実際に幽閉されていたのは、この地にあった東光寺の一室であったという説もある。
護良親王が幽閉されていたと言われる土牢_1
護良親王が幽閉されていたと言われる土牢_2
護良親王が幽閉されていたと言われる土牢_3
護良親王が幽閉されていたと言われる土牢_4
護良親王が幽閉されていたと言われる土牢_5
護良親王が幽閉されていたと言われる土牢_6
御構廟(おかまえどころ)
此処に護良親王の首が打ち捨てられていたという
御構廟
宝物殿
神苑を通って、入り口の方へもどると、左手に宝物殿がある。ガラス越しに、鎌倉宮が蔵するさまざまな宝物を見ることができるようになっている。サービスレベルが低いなあ。明治天皇の御座所跡を宝物殿として活用しているようだ。
宝物殿_1
宝物殿_2
護良親王の騎馬像
撮影禁止扱いになっていたので、wikipediaの画像を借用
『制機先者勝』(「機先を制すは勝ち」の意味だと思う)と書かれた東郷元帥の書が置かれていた。達筆だなあ。
護良親王の馬上像

鎌倉宮(かまくらぐう)は、神奈川県鎌倉市にある神社である。護良親王(もりながしんのう)を祭神とする。建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣中社。 神社本庁の包括下には当初より入っていない単立神社。別名 大塔宮(おおとうのみや)。
祭神である護良親王は後醍醐天皇の皇子で、父とともに鎌倉幕府を倒し建武中興を実現したが、その後、足利尊氏との対立により足利方に捕えられて東光寺に幽閉され、建武2年(1335年)の中先代の乱の混乱の中で尊氏の弟の直義の命で、家来である淵辺義博(ふちべのよしひろ)によって殺められた。
武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王の功を賛え、明治2年(1869年)2月、明治天皇は護良親王を祀る神社の造営を命じた。6月14日に鎌倉宮の社号が下賜され、7月に東光寺跡の現在地に社殿が造営された。
明治6年4月16日に明治天皇は鎌倉宮を行幸、同年6月9日に鎌倉宮は官幣中社に列格した。
本殿の後方にある土手の穴が、親王がおよそ9か月間幽閉されていた土牢であるという古伝承がある。土窟で2段になっている。「鎌倉覧勝考」によれば、上段は入り口から6尺ばかりの深さで2間四方余あり、下段はさらに7、8尺下って9尺四方あり、周囲は赤い土であるといい、さらに、「太平記」に「建武元年五月二日大塔宮を足利直義うけ取鎌倉へ下し奉つて、二階堂谷に土籠を塗てぞ置参らせける」とあり、土の牢とは記されておらず、薬師堂谷の御所または牢の御所と書いているものもあり、土籠は塗りごめた土蔵であり、四面を禁錮して入れ置いたのであるから、牢の御所と称したにすぎないという。

 

ヴェルニー公園、瑞泉寺、永福寺跡、鎌倉宮、荏柄天神社(10) 2014.10.06 20:28追記

往路で存在を確認したものの、先を急ぐためにパスした『永福寺(ようふくじ)跡』に向かう

途中にて
美味しそうな梅干しだ。子供の頃、よく手伝わされたものだったなあ。見ていたら、唾液が、口中に。
美味しそうな梅干し

国指定史跡『永福寺跡』
永福寺跡周辺が「二階堂」と呼ばれているのは、この建物が二階建てで二階堂とも称されたことが由来となっているのか。なるほど。
永福寺は、源義経・藤原泰衡をはじめとする数万の怨霊をしずめ、冥福を祈るための寺院だったのか。確かに頼朝の強引なやり方を恨んでいた人は少なくなかったことだろう。だから、こういうことでもしないと枕を高くして寝られなかったのかもしれない。
頼朝は建築時には何度か顔を見せていたようだが、完成後は一度も顔を見せなかったようだ。刺客に狙われていたということもあっただろうし、怨霊に祟られる感じがして、どうにも足が向かなかったのかもしれない。

怨霊に祟られたのは京都ばかりじゃなかったようだ。
現在の跡地の様子
現在の跡地の様子_1
現在の跡地の様子_2
現在の跡地の様子_3
現在の跡地の様子_4
現在の跡地の様子_5
現在の跡地の様子_6
現在の跡地の様子_7
現在の跡地の様子_8
現在の跡地の様子_9
現在の跡地の様子_10
かなり大きな寺院だったようだ。以下の2点は湘南工科大学作成のCGイメージを借用した。
湘南工科大学作成のCGイメージ_1
湘南工科大学作成のCGイメージ_2

『鎌倉遺構探索:永福寺跡』のページヘjump
『はまれぽ』の特集記事にjump

永福寺跡(ようふくじあと)は、神奈川県鎌倉市二階堂にある史跡。永福寺は鎌倉時代初期、源頼朝が中尊寺の二階大堂、大長寿院を模して建立した寺院で、鶴岡八幡宮、勝長寿院とならんで当時の鎌倉の三大寺社の一つであった。二階建てであった事から二階堂とも称された。現在、永福寺跡周辺が「二階堂」と呼ばれているのも、この建物が由来となっている。昭和58年(1983年)から開始された調査で翼廊などが発見され、国の指定史跡となった。
源頼朝は文治5年(1185年)9月の奥州合戦を契機に、源義経・藤原泰衡をはじめとする数万の怨霊をしずめ、冥福を祈るための寺院の建立を発願。その年の12月には永福寺の建立に着手した。建立には畠山重忠ら関東の御家人の助力があった事が『吾妻鏡』に記載されている。建久3年(1192年)11月25日に本堂が完成し、落慶供養が行われた。
応永12年(1405年)の火災ののち廃絶した。
 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
頼朝が奥州藤原氏征討の際、中尊寺・毛越寺・無量光寺などを見て深い感銘を受け、鎌倉での建設を決意。滅ぼした藤原泰衡や源義経などを供養するため建久3年(1192年)建立した。
中央に二階大堂、左右に薬師堂、阿弥陀堂を配し、その前に池を配する浄土庭園になっている。
怨霊の侵入から守るため幕府の鬼門の方向である東北に建立した。応永十二年(1405年)の火災により焼失。二階大堂は、33㍍四方の二層の大きな建物で、この辺が二階堂という地名で残っている。
建設時、頼朝はしばしば現地にきて指示をしたが、建設後一度も訪れていないそうである。それは、建設時、上総五郎忠光という暗殺者が潜入していたり、弟義経の怨霊を非常に恐れていたのではないかと児島氏は言う。

 

ヴェルニー公園、瑞泉寺、永福寺跡、鎌倉宮、荏柄天神社(9)

瑞泉寺(7)
前庭の様子
鐘楼と錦屛晩鐘
鐘楼と錦屛晩鐘_1
鐘楼と錦屛晩鐘_2
鐘楼と錦屛晩鐘_3
鐘楼と錦屛晩鐘_4
安国利生塔
足利尊氏は夢窓疎石に帰依し、その勧めによって、後醍醐天皇と内乱の戦没者を弔う安国寺と安国利生塔を国ごとに建立しました。相模国の安国寺はすでになく、安国利生塔だけが瑞泉寺に移されたもののようです。
安国利生塔
半跏地蔵菩薩
半跏地蔵菩薩
今回見ることができた花
芙蓉
芙蓉_1
芙蓉_2
桔梗
季節もおしまいの頃だったようだ
桔梗_1
桔梗_2
桔梗_3
彼岸花など
彼岸花など_1
彼岸花など_2
彼岸花など_3
シュウメイギクかなあ
シュウメイギクかなあ_1
シュウメイギクかなあ_2
玉すだれかな
玉すだれかな
ミズヒキ
ミズヒキ
その他
梅など
春には梅が美しく咲くのだろう。瑞泉寺は、北側に山を背負うので、冷たい風が吹き込まず、鎌倉では一番最初に梅が咲くのだそうだ。同じ理由から、紅葉は鎌倉でも最後に見頃になるとのことだ。
梅など_1
梅など_2
梅など_3
鶴亀の石庭
ここは『鶴亀の石庭』というのだそうだ。名前も知らなければどういう意図を持って置かれたのかも知らない。そんなふうだったので、ピンぼけでも撮り直さなかったのだが。
鶴亀の石庭

今回までで瑞泉寺はおしまいとし、次回は永福寺(ようふくじ)跡を取り上げる。

 

ヴェルニー公園、瑞泉寺、永福寺跡、鎌倉宮、荏柄天神社(8)

瑞泉寺(6)
瑞泉寺庭園
遺跡の発掘調査などでも思うことだが、放置しておくと簡単に土中に埋もれてしまうようだ。そうなると、知る人ぞ知る状態に捨て置かれたのか。瑞泉寺庭園は発掘復原できて良かった。発掘復原は私が大学生になった頃のことか。そんなに昔のことじゃなかったんだ。称名寺庭園同様、よくぞ復原できたものだ。
鎌倉時代末期、夢窓疎石が瑞泉寺を興したときに作られた庭園で、境内の奥を限る錦屏山の山頂に偏界一覧亭と呼ぶ亭があり、これに登る急坂と坂の下の池とが亭の前庭となっている。これは池畔にあった方丈書院の庭園でもある。凝灰岩の岩盤をえぐり削って作り出された特殊の意匠をあらわしている。従来池をはじめ全域にわたって埋没、荒廃していたのを、昭和44~45年に発掘復原した。日本の庭園史上最も重要な位置を占める石立僧夢窓疎石の、初期の作庭遺構であり、鎌倉に残る鎌倉時代の唯一の庭園として、また書院庭園の濫觴をなすものとして貴重である。
 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
夢窓疎石の作と伝えられる本堂(仏殿)背後の庭園は、1970(昭和44)~1971(昭和45)年にかけて発掘され、復元されました。橋をわたり、十八曲がりと呼ばれる石階を上ったところに偏界一覧亭という小さな建物があります。ただし、現在、十八曲がりは立ち入り禁止。偏界一覧亭は非公開です。
凝灰岩からなる山を削った垂直な岩盤には、いくつもの洞窟がつくられています。なかでも最も大きいものを天女洞といいます。

瑞泉寺庭園が見えてきた
最初に断っておくが、超広角レンズを持参し忘れて、横への展開が有る庭園をぶつ切りでしか撮ることができなかった。それが残念でならない。
瑞泉寺庭園が見えてきた_1
瑞泉寺庭園が見えてきた_2
十八曲
画面左側の部分は『十八曲』と呼ばれる登山路。残念ながら現在は立入禁止となっている。したがってこの上にある偏界一覧亭にも立ち入ることができない。
十八曲_1
十八曲_2
十八曲_3
庭園の様子
岩壁には、水月観の道場としての「天女洞」と「坐禅洞」が掘られ、前面は貯清池となっている。
庭園の様子
既出の画像だが、こちらの部屋から見るのが一番風情があるかも知れない。もしくは、立入禁止になっている高い位置からの俯瞰も良さそうだ。
開山堂_3

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ヴェルニー公園、瑞泉寺、永福寺跡、鎌倉宮、荏柄天神社(7)

瑞泉寺(5)
瑞泉寺は、『鎌倉震災誌』の記載によれば、関東大震災によって、本堂・庫裡・総門が全壊し、夢窓国師像(現、重要文化財)ほか仏像2躯が破損したという。伽藍を構成する建造物としては、総門、山門、仏殿、書院、客殿、地蔵堂、開山堂などがあるが、いずれも、ほとんど大正以降の再建なのだそうだ。
仏殿
瑞泉寺の本堂(大雄宝殿)には、本尊の「釈迦牟尼仏」、徳川光圀が寄進したという「木造千手観音菩薩坐像」(鎌倉市指定有形文化財)、南北朝期の作品である開山の「夢窓国師像(国指定重要文化財) 」が安置されている。
仏殿
庭園側から見た仏殿、方丈など
障子を開ければ、瑞泉寺庭園がよく見えることだろう。前庭側だけが条件の良い部屋というわけではなさそうだ。
庭園側から見た仏殿、方丈など
地蔵堂
本堂の前を過ぎて左手に進むと、地蔵堂があります。もとは鎌倉でも西北寄りの智岸寺ヶ谷の智岸寺地蔵堂にあり、のち鶴岡八幡宮正覚院に本尊とされていた「どこも苦地蔵(鎌倉市指定有形文化財)」が安置されています。
「どこも苦地蔵」の名前は、貧しい堂守がよそへ行って生計を立てようと考えたところ、夢にお地蔵様が現れて「どこも苦、どこも苦」と語り、堂守は「どこへ行っても同じ」と悟って、堂守の生活を続けたという伝説によります。

地蔵堂_1
地蔵堂_2
地蔵堂_3
地蔵堂_4
開山堂
何故、目隠ししてあるのだろうか。国指定の重要文化財である『木造夢窓国師坐像』安置されているからだろうか。
開山堂_1
開山堂_2
開山堂_3
開山堂の裏側にはこんな石像が何体も置かれていた
開山堂の裏側にはこんな石像が
南院茶室・南芳庵(平成23年7月完成)
簡素な佇まいだが、非常に美しい
瑞泉寺には平成8年(1996年)に建てられた茶室・保寿庵もあったが、半解体修理工事とあるからこの茶室を建替えたものだろう。
南院茶室・南芳庵_1
南院茶室・南芳庵_2
南院茶室・南芳庵_3
庫裏
今回も御朱印帳を持参するのを忘れてしまった。持っていれば、堂々と庫裏の入り口には入ることができたものを。残念無念。
庫裏
客殿
法事の時間待ちをしていた方が僧侶に招き入れられていたが、勿論何の用事もない私が入る場所ではなかった。
客殿_1
客殿_2

 

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瑞泉寺(4)

石段を上り、漸く山門に着いた。ここで息を整えるべく、付近を観察してみた。
瑞泉寺は、鎌倉幕府の重臣である二階堂道蘊が、紅葉ヶ谷(もみじがやつ)と呼ばれる山間に夢窓疎石のために堂宇を建てたことに始まります。夢窓疎石は徳の高い僧であるだけでなく、すぐれた作庭家でもあったため、三方を山に囲まれ、西に富士山を望む地形を生かして、本堂の背後の岩山を削り、谷の水を引いて池とし、美しい庭園をつくり上げました。
瑞泉寺は室町時代に入って栄え、鎌倉五山に次ぐ関東十刹の1位に列しました。
今見る本堂、庫裏、山門、書院などの堂宇は再建されたものです。禅寺らしい簡素なつくりの中に趣きをたたえ、四季それぞれに美しいお寺となっています。「花の寺」と呼ばれながら、実は華やかに彩られる時期はなく、むしろ地味なのですが、一度訪れた人は何度もリピートする、不思議な魅力があるお寺です。


山門
関東大震災で震源地に近かった鎌倉の寺院はかなりの被害を被った。瑞泉寺も他寺院同様に大被害を免れ得なかった。山門も再建したものだ。簡素なものだが、何か味わいを感じた。
山門_1
右手前の石柱には『一覧亭復興碑』と刻まれてあるそうだ。確かに見たけど恥ずかしながら私には判読できなかった。
山門_2
この日は、『芋の露連山影を正しうす』という飯田蛇笏の句が掲げられていた。
山門_3
山門の掲額
山門には瑞泉蘭若(らんにゃ)と書かれた額が掲げられている。蘭若とはサンスクリット語で「人里離れた閑寂の地」を意味するそうだ。今でもそう思うくらいだから、鎌倉時代はそういう感じが強かったのだろう。
山門の掲額
山門付近
手水
いいなあ、この感じ。玉龍井でなくとも、湧き水には事欠かないのだろう。この水でお茶を頂くととても美味しいそうだ。間違いなくそうなんだろうな。
手水
境内案内図
南の方角に鎌倉十井の一つである玉龍井があるのか。西の方角には言わずと知れた富士山。山号は錦屛(きんぺい)山というくらいだから、東の方角に錦屛山があるのもわかる。そして、北の方角に天台山があるのか。天園ハイキングコースの辺りなんだ。
思った以上に正確な案内図だ。『偏(正しくは行人偏だそうだ)界一覧亭』を見てみたかったなあ。

境内案内図
歌碑などがあった
山崎方代の歌碑
山崎方代の歌碑_1
山崎方代の歌碑_2
松陰吉田先生留跡碑
吉田松陰と当時の瑞泉寺の住職竹院和尚は伯父と甥の関係にあったのか。世の中広いようで狭いものだ。
吉田松陰は、1854年(安政元年)、下田で密航を企てる直前に、瑞泉寺の住職であった伯父の竹院和尚に会いにきたといわれる。
企ては失敗し、松蔭は獄中で瑞泉寺を訪れた詩を詠じたいう。
「山の青々とした竹の光が窓から射し込んでくる。方丈は奥深く、錦屏山の懐に抱かれて物静かである。いま私は囚われの身となって獄中にあり、むなしく苦しみを味わっている。ある夜夢に瑞泉寺を訪ねた」
瑞泉寺山門の前に建てられた石碑は、昭和4年に建立された徳富蘇峰の筆によるもの。

吉田松陰が浦賀にきたとき、金がなくなりこの寺まで金を借りにきたというだけだという説もあるようだ。真偽の程はどうなのだろうか。
松陰吉田先生留跡碑

 

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