散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

ヴェルニー公園、瑞泉寺、永福寺跡、鎌倉宮、荏柄天神社(4)

瑞泉寺(2)
目指すはあの森の中
鬱蒼たる森の中に堂宇や夢窓国師作庭の庭園等が展開しているんだ。いいなあ。
目指すはあの森の中
入ってすぐの花苑
シロハギがとてもきれい
シロハギがとてもきれい
楓もほんのり色づき始めた
楓もほんのり色づき始めた_1
楓もほんのり色づき始めた_2
樹木に付いた苔がすごい
樹木に付いた苔がすごい_1
樹木に付いた苔がすごい_2
樹木に付いた苔がすごい_3
樹木に付いた苔がすごい_4
いよいよあの石段の下部まで到着
初めて見たタマアジサイ。あの大きめの蕾から見慣れた紫陽花とほぼ同じような花になるのか。展開が予想外だ。ものすごい花粉などの飛び散り方だ。
初めて見たタマアジサイ_1
蕾の名残が若干残っている
初めて見たタマアジサイ_2
最初はこの状態だ
初めて見たタマアジサイ_3
初めて見たタマアジサイ_4
初めて見たタマアジサイ_5
初めて見たタマアジサイ_6
ヤブミョウガかな
ヤブミョウガかな_1
ヤブミョウガかな_2
ヤブミョウガかな_3

 

ヴェルニー公園、瑞泉寺、永福寺跡、鎌倉宮、荏柄天神社(3)

今回のメインの行き先である瑞泉寺に向かう。途中の鎌倉宮(大塔宮)まではバスに乗り、そこからゆるやかな上り坂を上って行く。

瑞泉寺(1)
歩き始め
バス終点の鎌倉宮(大塔宮)では、骨董市が開かれていた。取り敢えず先を急ぐので、帰り道でゆっくり見ることにし、その時点ではパス。
鎌倉宮(大塔宮)では、骨董市が開かれていた
鎌倉宮(大塔宮)の敷地横の道を進む
>鎌倉宮(大塔宮)の敷地横の道を進む
通玄橋
永福寺跡の前を流れる二階堂川に架けられた橋。通玄橋を渡って真っ直ぐ進めば瑞泉寺。渡らずに二階堂川沿いを進めば獅子舞から天園を経て横浜の栄区や戸塚区に通じるそうだ。
通玄橋_1
通玄橋_2
いよいよ近づいてきた
いよいよ勾配が少し急になる
いよいよ勾配が少し急になる
途中にはこんなものもあった
途中にはこんなものもあった_1
途中にはこんなものもあった_2
よく見ていなかったが、この先は車用の道だったようだ。のんびり歩いていたら細い道を車が走ってきたので焦った。
この先は車用の道だったようだ
境内に近づいたようだ。ツルボ(蔓穂)が咲いていた。
境内に近づいたようだ_1
境内に近づいたようだ_2
境内に近づいたようだ_3
総門
随分と離れたところに位置している。以前はここまでが境内だったのだろうか。数年前に改修されたばかりだそうだが、立派な鬼瓦が興味を惹く。
総門_1
総門_2
総門_3
見事な瓦だ
見事な瓦だ_1
見事な瓦だ_2
総門の先
もう間もなく瑞泉寺
もう間もなく瑞泉寺

 

ヴェルニー公園、瑞泉寺、永福寺跡、鎌倉宮、荏柄天神社(2)

この日、南極観測船『しらせ』が着桟していた。幅がかなりある割には全長がそれほどでもない。砕氷艦らしい無骨さが目立っていた。

ヴェルニー公園(09/14)
昨日まで全く姿を見せていなかった『しらせ』が着桟していた。実に久しぶりに姿を見たものだ。
南極観測船『しらせ』
この巨大なお尻を見ると、すごく大きな船舶のように思うことだろう。そのくらいの貫禄があった。
巨大なお尻_1
巨大なお尻_2
巨大なお尻_3
この角度になると長さが寸詰まりじゃないかという気がしてくる
この角度になると長さが寸詰まりじゃないかという気がしてくる
向かい合っている護衛艦『てるづき』にも引けをとらない恰幅なのだが
護衛艦『てるづき』にも引けをとらない恰幅なのだが
横に回ってみると、はっきり言って夢から醒めるような、ずんぐりむっくりの船体だ。『あれ、全長はこんなものなの?』と驚くくらい。これから出航の準備を整えて、日本の冬ではあるか南半球は夏の南極に向かう。
横に回ってみると_1
横に回ってみると_2
横に回ってみると_3
横に回ってみると_4
JR横須賀駅
以前クイズで出題されていたが、階段が皆無の駅舎だ。
階段が皆無の駅舎_1
階段が皆無の駅舎_2
階段が皆無の駅舎_3
引込線には古ぼけた運搬車両が。長崎市も真っ青の谷戸の街。この画面に入りきるくらいのところまでにしたいものだ。
引込線には古ぼけた運搬車両が_1
引込線には古ぼけた運搬車両が_2
ホームからは南極観測船『しらせ』の上部が見えている
南極観測船『しらせ』の上部が見えている_1
南極観測船『しらせ』の上部が見えている_2
南極観測船『しらせ』の上部が見えている_3
見えているトンネルは国道16号のトンネル
国道16号のトンネル_1
国道16号のトンネル_2
横須賀線の電車
横須賀線の電車

 

ヴェルニー公園、瑞泉寺、永福寺跡、鎌倉宮、荏柄天神社(1)

横須賀から横須賀線で鎌倉に向かう道中を取り上げる。
米軍側は艦船が殆んど出払い、自衛隊側は結構残っていた。此処のところのごく普通の光景だろうか。公園内のバラは旬まではもう少し掛かりそうである。


ヴェルニー公園(09/13)
米軍エリア
米軍は殆ど出払っている感じ。潜水艦は自衛隊の潜水艦。機密の塊のために、一般人が容易に近づけないエリアに常駐しているのかもしれない。後ろ向きの艦船は、アーレイバーク級ミサイル駆逐艦だと思うが、艦船名は不明。
米軍エリア_1
米軍エリア_2
米軍エリア_3
米軍エリア_4
米軍エリア_5
海上自衛隊エリア
自衛隊の艦船は比較的多く着桟していた
海上自衛隊エリア_1
海上自衛隊エリア_2
海上自衛隊エリア_3
クルーズ船は大人気
クルーズ船は大人気_1
クルーズ船は大人気_2
園内のバラ
バラの見頃は秋は10-11月というから、もう少し先だ。それでもいくつかの種の花が咲いていた。
『かがり火』1970年作出、日本、HT
『かがり火』
『紅』2003年作出、日本、FL
『紅』
『スーベニール・ドゥ・ラ・マルメゾン』1843年作出、仏、OD
『スーベニール・ドゥ・ラ・マルメゾン』_1
『スーベニール・ドゥ・ラ・マルメゾン』_2
『ラ・フランス』1867年作出、仏、HT
『ラ・フランス』
『粉粧楼』 900年代作出、中国、OD
随分古くからあるバラのようだ。5-6月に見頃としか書かれていない。帰り咲きなのだろうか。
『粉粧楼』
『ルージュ・メイアン』1983年作出、仏、HT
『ルージュ・メイアン』_1
『ルージュ・メイアン』_2
『ジュピレ・ドゥ・プリンス・ドゥ・モナコ』2000年作出、仏、FL
『ジュピレ・ドゥ・プリンス・ドゥ・モナコ』
正午にカリオンの音色が
米軍のサイレンよりははるかに気持ちが良い
正午にカリオンの音色が

 

自由が丘での夕食

自由が丘駅前の焼肉店で長女夫婦一家とのささやかな晩餐をした。お肉が美味しかったようで、孫達が元気よく食べだして一安心。

孫達の様子
孫達の様子_1
孫達の様子_2
孫達の様子_3
孫達の様子_4
いつも男のコに間違えられ憤慨しているのかなあ
いつも男のコに間違えられ憤慨しているのかなあ_1
いつも男のコに間違えられ憤慨しているのかなあ_2
こんなものを頼んだ
いつも出だしはまじめに撮るのだが、そのうちに食べるのに夢中になり、撮り漏れが出たようだ。もうちょっと食べたような記憶が。
こんなものを頼んだ_1
こんなものを頼んだ_2
こんなものを頼んだ_3
こんなものを頼んだ_4
こんなものを頼んだ_5
こんなものを頼んだ_6
こんなものを頼んだ_7
一生懸命食べる孫達
彼女たちに美味しいと思ってもらえれば、それで結構。大人も美味しいと思ったのだが、そんなことは二の次。
一生懸命食べる孫達_1
一生懸命食べる孫達_2
一生懸命食べる孫達_3
一生懸命食べる孫達_4

 

寿福寺と英勝寺(6)  2014.09.25 14:28追記

英勝寺(5)

英勝寺は花の寺でもある
境内には春から冬まで、多種多様な花が咲いて、訪れる人を和ませているようだ。今は曼珠沙華が盛りだろうか。
英勝寺は花の寺でもある
書院
受付のある庫裏の奥(山手)の一段高いところには書院があり、お茶がいただけるそうだ。気が付かなくて、写真を撮らせていただくだけで失礼してしまった。もしかしたら、抹茶提供サービスは、常時行っていることではないのかもしれない。
書院_1
書院_2
書院_3
書院_4
住職さんは、いつも書院にいて、法要は芝の増上寺や鎌倉光明寺からお坊さんが来て、勤める。終わるとお坊さんは書院に行き、御簾ごしに法要の終わりを報告し、帰られたことから、住職さんといってもやっぱりお姫さまであったのだろうという。倒幕まで同寺は発展を極めた。
竹林
この竹やぶの辺りにはかつて方丈があり、住職を務めていた水戸のお姫様が暮らしていたようだ。
竹林_1
竹林_2
竹林_3
竹林_4
すっかり見落としていたと思ったのに、『姫御殿』の表示板が写っていた。撮り手はヘボでもカメラはしっかりしていたようだ。
竹林_5
大きな手水鉢のようなものがあった。これは何だったのだろうか。
大きな手水鉢のようなものがあった
竹林_6
竹林_7
竹林_8
この洞窟のようなものは何だろうか。やぐらなのかなあ。
この洞窟のようなものは何だろうか
竹林の中の小道をぶらぶらと歩いていたら、「姫御殿跡」と書かれた札が立っていました。
この竹林のあたりは、かつて方丈(住持の住まい)があったところだったんです。住持といっても、水戸徳川家のお姫様の住まいです。大名屋敷と同じぐらいの立派さだったそうです。
英勝寺には、水戸藩からたくさんの家来や奥女中が遣わされて、尼となってもお姫様としての暮らしがしっかり守られました。お出かけする時には駕籠に乗り、お伴100人ぐらいの大行列だったそうですよ。


帰り道見かけた『結の蔵』
結の蔵_1
結の蔵_2
結の蔵_3
結の蔵_4

以上で『寿福寺と英勝寺』シリーズは終了です。最後までご覧頂き有難う御座いました。

 

寿福寺と英勝寺(5)

英勝寺(4)

唐門(祠堂門)
元の写真を拡大してみると、確かに立派な透かし彫りがなされていた。水戸徳川家の威光を見たような気がした。
祠堂門(唐門) - 平唐門、銅瓦葺き。祠堂に至る石段下の小門で、祠堂と共に建てられたと考えられる。欄間には精巧な牡丹等の透彫りが施されている。国の重要文化財。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
英勝寺の唐門(祠堂門)は、開基英勝院の墓廟である祠堂への門。ボタンの彫刻が施され、江戸時代の高度な技術をみることができる。
唐門の奥には華麗な色彩装飾の祠堂がある(鞘堂の中)。
2013年(平成25年)、仏殿・山門・鐘楼・祠堂とともに国の重要文化財に指定されている。

唐門(祠堂門)_1
唐門(祠堂門)_2
唐門(祠堂門)_3
唐門(祠堂門)_4

棟名:祠堂門
ふりがな:しどうもん
員数:1棟
種別:近世以前/寺院
時代:江戸前期
年代:江戸前期
西暦:1615-1660
構造及び形式等:一間一戸平唐門、銅瓦葺
創建及び沿革:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項:
指定番号:2597
国宝・重文区分:重要文化財
重文指定年月日:2013.08.07(平成25.08.07)
国宝指定年月日:
追加年月日:
重文指定基準1:(一)意匠的に優秀なもの
重文指定基準2:(三)歴史的価値の高いもの


祠堂
風雨から祠堂を護るため鞘堂が被せられている。その鞘堂のくすんだアクリル板を通して覗き見るだけ。祠堂そのものはすごく立派な御廟のように見える。光圀によって建てられたもので、光圀も、完成の折には来訪したようだ。鞘堂がなければ、多少色褪せてきているとはいえ、その美しさは目を瞠るものがあるのだろう。
宝形造、銅瓦葺き。方三間。英勝院の位牌を祀る建物で、徳川頼房の子、徳川光圀によって建立されたと言われる。内外は日光東照宮を思わせる鮮やかな彩色装飾が施されている。現在、祠堂は保護のため外側をさや堂によって覆われている。国の重要文化財。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
英勝寺の鞘堂の中には、開基英勝院の墓廟である祠堂がある。華麗な色彩装飾が施されている。
祠堂は、英勝院の位牌を安置する堂。
背後には、英勝院と開山玉峯清因の墓がある。
徳川光圀によって建てられもので、完成の折には光圀も来訪した。
2013年(平成25年)、仏殿・山門・鐘楼・唐門(祠堂門)とともに国の重要文化財に指定されている。

祠堂

棟名:祠堂
ふりがな:しどう
員数:1棟
種別:近世以前/寺院
時代:江戸前期
年代:寛永20年頃
西暦:1643頃
構造及び形式等:桁行三間、梁間三間、一重、宝形造、銅瓦葺
創建及び沿革:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項:
指定番号:2597
国宝・重文区分:重要文化財
重文指定年月日:2013.08.07(平成25.08.07)
国宝指定年月日:
追加年月日:
重文指定基準1:(一)意匠的に優秀なもの
重文指定基準2:(三)歴史的価値の高いもの

 

寿福寺と英勝寺(4)

英勝寺(3)
禅宗様方三間裳階(もこし)付なのか。方三間は1辺の長さが3間(約5.45メートル)である正方形ということで、1間×1間が1坪だから、9坪の広さということになるようだ。1周した感じは確かに正方形のように思えた。私もそう感じた1人だが、『おお豪華』と思わせる効果を期待したのだろう。
三代将軍家光にとっても英勝院は将軍になるよう取り計らってくれた大恩人。その恩を片時も忘れることはなかったことなのだろう。

後で調べたら、周辺の裳階の部分を受ける都合上、四面は五間の長さがあるが、(周辺の裳階の部分を除いた)中心の部分が三間なので、建造物の分類としては『三間仏堂』で、さらに、屋根が二つあるので、『二重仏殿』として分類されているそうだ。なるほど。
英勝寺の仏殿は、1636年(寛永13年)に建てられた禅宗様方三間裳階付の建物で「宝珠殿」(ほうじゅでん)と呼ばれる。
円覚寺舎利殿(旧太平寺仏殿)や、旧東慶寺仏殿(現三渓園)を参考にしているともいわれているが、両仏殿に見られるような屋根の反り上がりは見られない。
本尊は、阿弥陀如来立像。徳川三代将軍家光の寄進で運慶作といわれている。
2013年(平成25年)、山門・鐘楼・祠堂・唐門(祠堂門)とともに国の重要文化財に指定された。

 +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
仏殿 - 方三間、裳階付の禅宗様仏堂。屋根は寄棟造、瓦棒銅板葺き。棟札には寛永13年(1636年)に英勝院が建立とあるが、殿内梁牌には「寛永二十年八月 正三位権中納言源朝臣頼房敬立」の銘があり、当初英勝院が建立し、これを徳川頼房が現在の形に改築したものと考えられる。扁額は後陽成天皇の弟である曼殊院良恕法親王の揮毫。粽(ちまき)付きの円柱、貫(ぬき)の多用、詰組の組物、桟唐戸、花頭窓、石敷きの床など本格的な禅宗様になる。ただし、屋根の隅棟や軒先の線に反りがなく、屋根の形を直線のみで構成するのは独特の意匠である。軒下の蟇股は十二支の彫刻で飾る。堂内は身舎小壁に瑞鳥、天井に迦陵頻伽の彩絵を施すほか、水戸徳川家の三つ葉葵、太田家の桔梗などの装飾が施されている。国の重要文化財。
本尊 - 仏殿内部の本尊、阿弥陀三尊像は徳川家光の寄進。

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裳階(もこし)は、仏堂、塔、天守等で、軒下壁面に付いた庇状構造物。別名:雨打(ゆた)。通常、本来の屋根の下にもう一重屋根をかけるかたちで付ける。裳層とも書く。元来は風雨から構造物を保護するために付けられたもの。構造は本屋より簡素であり、建物を実際より多層に見せることで外観の優美さを際立たせる効果があるため、特に寺院建築で好んで利用された。
仏殿
外観
通用門を入るとすぐ見えてくる
仏殿外観_1
仏殿外観_2
仏殿外観_3
仏殿外観_4
仏殿外観_5
仏殿外観_6
重要文化財の山門の背後から見た仏殿。つまり、仏殿の正面。
仏殿外観_7
仏殿外観_8
重要文化財の祠堂門(唐門)越しにみた仏殿
仏殿外観_9
仏殿外観_10
仏殿の内部
引き戸を少しだけ開けられるようになっている。そこから撮っても構わないか迷った。同じ疑問を称名寺でも持ったのだが、今回は遠慮せずにフラッシュ無しで撮ることにした。正面にあるのが、徳川三代将軍家光の寄進で運慶作といわれている本尊阿弥陀如来立像だろうか。
仏殿の内部
蟇股の彫刻
十二支になっているとのことだ。馬鹿正直に撮って回ったが、確かに十二支が揃っていた。

蟇股の彫刻_1

蟇股の彫刻_2

蟇股の彫刻_3

蟇股の彫刻_4

蟇股の彫刻_5

蟇股の彫刻_6

蟇股の彫刻_7

蟇股の彫刻_8

蟇股の彫刻_9

蟇股の彫刻_10

蟇股の彫刻_11

蟇股の彫刻_12

仏殿の詳しい解説をしたお勧めのサイトにjump

棟名:仏殿
ふりがな:ぶつでん
員数:1棟
種別:近世以前/寺院
時代:江戸前期
年代:寛永20年
西暦:1643
構造及び形式等:桁行三間、梁間三間、一重もこし付、寄棟造、瓦棒銅板葺
創建及び沿革:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項:
指定番号:2597
国宝・重文区分:重要文化財
重文指定年月日:2013.08.07(平成25.08.07)
国宝指定年月日:
追加年月日:
重文指定基準1:(一)意匠的に優秀なもの
重文指定基準2:(三)歴史的価値の高いもの

 

寿福寺と英勝寺(3)

英勝寺(2)

再建がなり国の重要文化財一括指定にも間に合った山門
関東大震災で倒壊したものの、幸いにして篤志家間島弟彦氏により再建され、葛西ケ谷(鎌倉市小町:北条氏終焉の地、東勝寺があったところ)に保存されていた。その地が住宅開発されることになったのを契機に、平成13年に解体されて英勝寺に戻り、部材のままであったのにもかかわらず、神奈川県重要文化財に指定される。そして平成19年からの建築によって、平成23年 (2011年) 5月に落慶式宿願を果たすことができた。そして平成25年(2013年)8月に仏殿などとともに国の重要文化財一括指定の仲間入りをしたのか。
うーーん、あまりにもトントン拍子に事が運び、怖いくらいだ。極めて短時間で認定を受けたのかもしれないが、葵御紋が光っているこの立派さは誰にも文句を言わせないものだろう。銅版が本来の色を保っているのは、昨年葺いたばかりだからだろうか。

表側
山門表側_1
山門表側_2
楼門ではなく二重門なのだ。うーーん。金剛力士像などが置かれていそうなスペースには、当時は何があったのだろうか。
山門表側_3
はっきり撮ることができなかったが、蟇股が相当手の込んだモノのようだ。お出かけになることがあれば、しっかり見ておいていただきたい。
山門表側_4
後の生け垣と私のお尻とがせめぎあいをして、これ以上は下がって撮ることができなかった。山門と仏殿とが一直線に並んで見事な感じだった。昔も総門はあの位置にあったのだろうか。
山門表側_5
裏側
山門裏側_1
山門裏側_2
山門裏側_3
2階には『格狭間様式の花頭窓』がしつらえてある。こんなものは初めて見た。もうちょっときちんと撮れればよかったのだが。
山門裏側_4
山門裏側_5

棟名:山門
ふりがな:さんもん
員数:1棟
種別:近世以前/寺院
時代:江戸前期
年代:寛永20年
西暦:1643
構造及び形式等:三間一戸二階二重門、入母屋造、瓦棒銅板葺
創建及び沿革:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項:
指定番号:2597
国宝・重文区分:重要文化財
重文指定年月日:2013.08.07(平成25.08.07)
国宝指定年月日:
追加年月日:
重文指定基準1:(一)意匠的に優秀なもの
重文指定基準2:(三)歴史的価値の高いもの


『山門復興の報告とお礼のご挨拶』の頁へjump

 

寿福寺と英勝寺(2)

英勝寺(1)

『平成25年8月7日、鎌倉市の英勝寺に所在する「仏殿、山門、鐘楼、祠堂、祠堂門」の5棟の建造物が国の重要文化財に指定されました』という記事をみて、文化財フェチの私はとるものもとりあえず、見に行った。予想以上に素晴らしい寺院だった。あまり名前が知られていない今が、見るのには最適かもしれない。

総門かな
通常はここからは入ることができない。特別なときのみ通用が許されるのかもしれない。
ということで、一般の拝観は奥の通用門から行う。国の重要文化財に指定されたのは「仏殿、山門、鐘楼、祠堂、祠堂門」の5棟の建造物であり、総門自体は今回の文化財指定には含まれていない。

総門かな_1
総門かな_2
こんな石碑などもある
鎌倉市内の随所に見られる青年会建立の石碑だ
青年会建立の石碑
後述の通り、山門は、関東大震災後、他所に移築されていたが、平成23年に境内の旧位置に戻されたのだ。そして、平成25年8月7日に5棟の建造物がまとめて国の重要文化財に指定されたのだが、その辺の記載が一切無い。したがって、この表示板は暫く前に設置されたもののようだ。せっかくの観光資源なのだから、最新のものに記載内容を更新しておくべきだろう。
鎌倉市が作成した説明表示板
通用門から入る
通用門から入る_1
通用門から入る_2

英勝寺は、徳川家康の側室英勝院が創建した寺院で、太田道灌の子孫である英勝院が先祖ゆかりの地に寺地を徳川将軍家から賜ったのが始まりです。英勝院が水戸徳川家初代頼房の養母となった縁から、代々水戸徳川家の息女が住持を務めました。今回国指定重要文化財となった5棟の建造物は、既に県の重要文化財に指定されていましたが、江戸時代前期に建立で意匠に優れた堂宇が高く評価され、この度、国の重要文化財に指定されました。
どうもこの辺りだったのではと英勝院が聞いたということがこの地を徳川家から賜るきっかけだったようで、正確な場所は不明なようだ。それをいまさら詮索しても始まらないことだろう。

内側から見た総門
光線の加減ではっきり撮ることができなかった
内側から見た総門
鐘楼との位置関係は写真のとおり
鐘楼との位置関係は写真のとおり

鐘楼(国指定の重要文化財)
東照宮などにある鐘楼ほど大きくはないが、形状的には同様のもので、こうした形状での建築を許された事自体、大変な格式を物語っているように感じた。調べたところ、袴腰付楼閣形式という寺格の高い寺にしか見られない珍しい様式だそうで、近世の鎌倉では唯一のようだ。
鐘楼(国指定の重要文化財)_1
鐘楼(国指定の重要文化財)_2
鐘楼(国指定の重要文化財)_3

●英勝寺の国指定文化財(建造物)…仏殿、山門、鐘楼、祠堂、祠堂門

英勝寺は、鶴岡八幡宮の西方、扇ガ谷に位置する徳川家康の側室の英勝院が創建した浄土宗の尼寺である。水戸徳川家とのゆかりが深く、同家の姫が代々の住持を務めた。寛永20年(1643)の英勝院一周忌に向けて建物が整備された。仏殿をはじめとする各建物は、禅宗様と和様を自由に組合せた江戸時代前期らしい意匠を持ち、屋根の弛みも軒の反りもつけない直線的な屋根形状で統一している。山門は、関東大震災後、他所に移築されていたが、平成23年に境内の旧位置に戻された。本堂西には祠堂と祠堂門が建ち、奥には英勝院墓がある。祠堂は方三間宝形造の建物で、内外部ともに漆塗や彩色で飾る。英勝寺は、禅宗様を基調としつつ、屋根や軒を直線で構成するなど独創性のある意匠で、境内全体を統一している。江戸時代前期の主要な堂宇が、墓所と一体となって良好に保存されており、貴重である。

名称:英勝寺
ふりがな:えいしょうじ
棟名:鐘楼
ふりがな:しょうろう
員数:1棟
種別:近世以前/寺院
時代:江戸前期
年代:寛永20年
西暦:1643
構造及び形式等:桁行三間、梁間二間、袴腰付、入母屋造、瓦棒銅板葺
創建及び沿革:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項:
指定番号:2597
国宝・重文区分:重要文化財
重文指定年月日:2013.08.07(平成25.08.07)
国宝指定年月日:
追加年月日:
重文指定基準1:(一)意匠的に優秀なもの
重文指定基準2:(三)歴史的価値の高いもの




 

寿福寺と英勝寺(1)

寿福寺
寿福寺は鎌倉五山三位の寺院である。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は北条政子、開山(初代住職)は栄西というビッグネームが揃う寺院である。鎌倉五山三位という格付けも首肯できる。
本来ならば、観光客で溢れかえっていてもおかしくないところだが、ひっそり閑としている。それもそのはず。総門から中門までの参道と裏山の墓地は公開されているが、中門から内側の境内は一般公開されていない。そのため、風情のある中門から内側の境内はごく一部目にすることができるにとどまるからだ。当然、私も見ることができない。非常に残念だ。
前回はここで諦めてしまったが、考えて見れば、裏山の墓地に行く手があったではないか。
境内裏手の墓地には、陸奥宗光、高浜虚子、大佛次郎などの墓があり、さらにその奥のやぐら(鎌倉地方特有の横穴式墓所)には、北条政子と源実朝の墓と伝わる五輪塔がある。陸奥宗光、高浜虚子、大佛次郎などの墓は興味がなかったが、北条政子と源実朝の墓と伝わる五輪塔はぜひ見ておきたかった。
ということで、今回の本命である英勝寺に行く前に、隣の寿福寺に立ち寄った。

総門から中門までの様子
総門
総門
総門から中門までの参道
総門から中門までの参道_1
総門から中門までの参道_2
総門から中門までの参道_3
総門から中門までの参道_4
中門
総門から中門までの参道_5
鐘楼
鐘楼
仏堂とビャクシン
何度見てもそう思うのだが、ため息を吐きたくなるほど素晴らしい佇まいだ
仏堂とビャクシン_1
仏堂とビャクシン_2
墓地
いくつか昔懐かしいポンプがあった
昔懐かしいポンプ
何の花かな
秋海棠ではないかと思うのだが
秋海棠ではないかと思うのだが_1
秋海棠ではないかと思うのだが_2
高濱虚子の墓の墓のようだ
別に探していたわけではなかったのだが、偶然見つかった。白童女(早逝した虚子の娘りく)と紅童女(同虚子の孫)の墓も並んでいた。昭和34年まで活躍した人物の墓なので、それほど古くはない。
高濱虚子の墓の墓のようだ
北条政子の墓
北条政子の墓
実朝と政子の墓
実朝と政子の墓_1
実朝と政子の墓_2
実朝と政子の墓_3
やぐら(鎌倉地方特有の横穴式墓所)の様子
やぐら(鎌倉地方特有の横穴式墓所)の様子
ここのポンプは以前は釣瓶式の井戸だったようだ
ここのポンプは以前は釣瓶式の井戸だったようだ
手彫りの洞門
これはいいぞと思って潜ったら、大分戻ってしまう結果に。あてが外れた。
手彫りの洞門_1
手彫りの洞門_2
手彫りの洞門_3
手彫りの洞門_4

 

横浜市中区のレトロな建物(7)

最後に馬車道地区まで歩き、横浜正金銀行本店本館(現:神奈川県立歴史博物館)などを見て回った。
旧:横浜正金銀行本店本館(現:神奈川県立歴史博物館)
パリの街角に立ったかのような感じ。見事な建物だ。
建物は、歴史主義建築に属する明治30年代における代表的な洋風建築である。
横浜正金銀行本店として1900年(明治33年)に着工し、1904年(明治37年)に完成した。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の火災により建物のドームが焼失する。1947年(昭和22年)には、横浜正金銀行を引き継いだ東京銀行が発足し、東京銀行横浜支店として使用された。1964年(昭和39年)に神奈川県が建物を買い取り、建物の増築・改修工事を行い、関東大震災で焼失したドーム屋根の復元を行う。1967年(昭和42年)3月20日に神奈川県立博物館として開館する。
1969年(昭和44年)、建物が「旧横浜正金銀行本店本館」として国の重要文化財に指定され、1995年(平成7年)には敷地が「旧横浜正金銀行本店」として国の史跡に指定されている。外観のよく保存された、すぐれた意匠をもつ洋風建築であり、明治以降の建築物をともなう遺跡で国より史跡の指定をうけたのはこれが最初である。
竣工 - 1904年(明治37年)
構造・規模 - 石・煉瓦造、地上3階、地下1階、正面中央八角塔屋付、ドライエリヤ石塀附属
建築面積 - 1,998.3平方メートル

旧:横浜正金銀行本店本館(現:神奈川県立歴史博物館)外観
旧:横浜正金銀行本店本館(現:神奈川県立歴史博物館)外観_1
旧:横浜正金銀行本店本館(現:神奈川県立歴史博物館)外観_2
旧:横浜正金銀行本店本館(現:神奈川県立歴史博物館)外観_3
旧:横浜正金銀行本店本館(現:神奈川県立歴史博物館)外観_4
旧:横浜正金銀行本店本館(現:神奈川県立歴史博物館)外観_5
旧:横浜正金銀行本店本館(現:神奈川県立歴史博物館)外観_6
旧:横浜正金銀行本店本館(現:神奈川県立歴史博物館)外観_7
旧:横浜正金銀行本店本館(現:神奈川県立歴史博物館)外観_8
旧:横浜正金銀行本店本館(現:神奈川県立歴史博物館)外観_9
旧:横浜正金銀行本店本館(現:神奈川県立歴史博物館)外観_10
旧:横浜正金銀行本店本館(現:神奈川県立歴史博物館)外観_11
旧:横浜正金銀行本店本館(現:神奈川県立歴史博物館)外観_12
旧:横浜正金銀行本店本館(現:神奈川県立歴史博物館)外観_13
旧:横浜正金銀行本店本館(現:神奈川県立歴史博物館)外観_14
旧:横浜正金銀行本店本館(現:神奈川県立歴史博物館)外観_15
ドーム部分のクローズアップ
ドーム部分のクローズアップ_1
ドーム部分のクローズアップ_2
ドーム部分のクローズアップ_3
ドーム部分のクローズアップ_4
1階部分は立ち入り自由
1階部分は立ち入り自由_1
これもステンドグラスだ。普通は垂直に設置されるだろうが、此処のものは水平方向に設置されている。珍しいものだと思った。
1階部分は立ち入り自由_2
1階部分は立ち入り自由_3
神奈川県立歴史博物館の正面入り口はこちら側
神奈川県立歴史博物館の正面入り口
テラスから見たMM21
テラスから見たMM21_1
テラスから見たMM21_2
テラスから見たMM21_3
テラスから見たMM21_4

旧:川崎銀行横浜支店(現:日本興亜馬車道ビル)
うーーん、ファザード建築の典型だけど、もう少し、元の建物を活かして欲しかった気がする。
旧:川崎銀行横浜支店(現:日本興亜馬車道ビル)_1
旧:川崎銀行横浜支店(現:日本興亜馬車道ビル)_2
旧:川崎銀行横浜支店(現:日本興亜馬車道ビル)_3
旧:川崎銀行横浜支店(現:日本興亜馬車道ビル)_4
関内地区(弁天通)。この建物は八大財閥の一つ川崎財閥の中核銀行であった川崎銀行の横浜支店として矢部又吉の設計により大正11年に建てられた。
当初の建物は、ネオルネッサンス形式の3階建の石造建築である。各階の窓には異なったデザインを配し、3階部分には三角破風をのせている。石の積み上げ方にも変化をもたせ、凝った装飾はなくシンプルにまとめられている。同じ石造り建築ながら明治時代建設の隣接する神奈川県立歴史博物館(旧横浜正金銀行)に比べ、大正時代建設のこの建物には何か柔らかな風合いを感じさせるものがある。
設計者の矢部又吉は横浜生まれでドイツに学んだ建築家で隣接する旧横浜正金銀行の設計者妻木頼黄の弟子筋にあたる。師の作品に歩調をあわせつつも、個性をだした建築になっている。
建物はその後日本火災横浜ビルとなり、昭和61年には取り壊される運命にあったが、多くの人々の努力と施主の英断により歴史的建築物の保存・再生の先駆けとして平成元年外壁を保存した姿に生まれ変わった。現在は川崎財閥の流れを汲む日本興亜損害保険のビルとなっている。横浜市の歴史的建造物認定の第1号である。


以上で、『横浜市中区のレトロな建物』シリーズは終了です。最後までご覧頂き有難う御座いました。

 

横浜市中区のレトロな建物(6)

横浜市開港記念会館(ジャックの塔)(その2)
ステンドグラス(2)
2階広間のステンドグラス
今回修復を終えたステンドグラスですが、渡し船に乗る人々を描いた「呉越同舟」(左)「鳳凰」(中央)「箱根越え」(右)の三点です。
約80年前に制作された物ですが、たわみや汚れが発生し、ガラス自体の耐震性も低下していたことから、横浜開港150周年記念事業の一環として修復が行われました。

「呉越同舟」
猿回しをも含めたいろいろな階層の人が同じ船に乗りあわせているから「呉越同舟」と付けられたのだろうか。今ひとつ由来がわからない。
「呉越同舟」
「鳳凰」
「鳳凰」と横浜市のマーク「ハマ菱」。ハマ菱と日本最大の広域暴力団の代紋とを混同しないように。
「鳳凰」
「箱根越え」
西洋人が籠に乗って箱根越えをしているシーン。当時箱根は外国人保養地であり、外国人が多く訪れたと言う事情があったようだが、そうした様を再現したものだろうか。昔の日本人にも籠は窮屈な乗り物だっただろうに、手足の長い外国人が随分我慢して乗ったものだ。
「箱根越え」
館内の様子(2)
貴賓室
ドームの真下に貴賓室がある。以前は、天井に美しい模様があったそうだ。
貴賓室_1
貴賓室_2
錠聯鉄構法(ていれんてつこうほう)
バリアフリー化の一環として、エレベータを設置した。そのため、壁の一部を削ったので、端無くも壁の高度な耐震構造である錠聯鉄構法(ていれんてつこうほう)を断面で実際に観ることができるようになった。
錠聯鉄構法(ていれんてつこうほう)_1
錠聯鉄構法(ていれんてつこうほう)_2
タイリ張りの床
タイルパネルではなく、細かい小さなカットを1枚1枚埋め込んだもの
タイリ張りの床_1
当時流行った模様らしく、ここにも県庁にも同じような模様があるそうだ
タイリ張りの床_2

 

横浜市中区のレトロな建物(5)

横浜市開港記念会館(ジャックの塔)(その1)
外観
改めて説明するには及ばない優美な外観だ。前回取り上げた時に説明したように、岡倉天心生誕の地でもある。
横浜市開港記念会館外観_1
横浜市開港記念会館外観_2
横浜市開港記念会館外観_3
横浜市開港記念会館外観_4
館内の様子(1)
階段
階段_1
階段_2
小粋な照明
小粋な照明_1
小粋な照明_2
このボランティア説明員の説明を受けた。随分勉強していたようで、こちらを飽きさせないものがあった。
小粋な照明_3
時計塔への階段
時計塔への階段
ステンドグラス(1)
2階のホールと中央階段の壁面の2カ所にあります。構図は、ステンドグラスの特質をよく活かし、鉛線を自由かつ精巧につくり、各色のガラスには型板ガラスや腐蝕のものをまじえ、乳白・朱赤・金茶・茶褐・黒褐・緑・青・紫の各色を用い、墨色や灰色の加筆は最小限におさえて、明快な色ガラスの構成としています。
製作は、宇野沢組ステンドグラス製作所作です。大正12(1923)年、関東大震災により焼失しましたが、昭和2年、当初のものを尊重して復旧いたしました。これらの作品は、我が国のステンドグラスの歴史上、非常に価値の高い作品として貴重なものです。

ペリー提督ゆかりの黒船ポーハタン号などを写し取った見事なステンドグラス
戦争当時、交戦国である米国国旗が掲げられている黒船の絵であるから、これを隠して守るのに必死だったとか。具体的には灯火管制中だということで、黒い暗幕をして一切検閲者から見つからないようにしたようだ。検閲者も見て見ぬふりをしてくれたようだ。
階上から見た様子_1
階上から見た様子_2
この階段の踊り場にステンドグラスが嵌めてある
中央階段の様子
近くで見ると、ぼかしなどが確認できる。触ってみると、ガラスの厚みも微妙に違っている。重文で触っても構わない扱いというのは殆ど無く、興奮してしまう。
近くで見た様子_1
近くで見た様子_2
近くで見た様子_3
階下から見上げる
階下から見上げる_1
階下から見上げる_2

 

横浜市中区のレトロな建物(4)

神奈川県庁本庁舎
なかなか気の利いた写真が撮れていなかった神奈川県庁本庁舎。懲りもせず再挑戦してみたが、やはり跳ね返されてしまった。
やはり『キングの塔』の名にふさわしい威風堂々ぶりというのがおおかたの評価なんだろうなあ。どこから撮れば、そういう風に撮れるのだろうか。

神奈川県庁本庁舎_1
以下の2ショットは、横浜市開港記念会館の階段踊り場から撮ってみた。建物の柱が写ってしまったので、やむを得ずトリミングしてみた。
神奈川県庁本庁舎_2
神奈川県庁本庁舎_3
随所にある青銅の飾りは波をイメージしたものなのだろうか。近くに行くと、案外大きなものであることがわかる。
神奈川県庁本庁舎_4
神奈川県庁本庁舎_5
神奈川県庁本庁舎_6
神奈川県庁本庁舎_7
以下の2ショットも、横浜市開港記念会館の階段踊り場から撮ってみた。トリミングはしていないが、どうも写り方が不安定な写り方だ。もう少し落ち着いて撮るべきだった。
神奈川県庁本庁舎_8
神奈川県庁本庁舎_9

 

横浜市中区のレトロな建物(3)

日本大通りにあるレトロなビル
この3つのビルのいずれにも、全く縁がなかった。多分、これからも縁がないままだろう。立派な建物揃いなのには驚かされる。
旧:横浜商工奨励館(現:横浜情報文化センター)
旧横浜商工奨励館は、関東大震災後、横浜復興方策のひとつである商品陳列所の設置を目的として1929年(昭和4年)に設立された。46年間の幕を閉じるまで、横浜商工会議所を中心とした商業発展の基地としてその役割を果たした。しかし、第二次大戦中は軍事高揚目的に利用され、戦後は庁舎を接収された横浜税関が一時的に奨励館で執務をとるなど時代の波に翻弄された歴史を持つ。
旧:横浜商工奨励館(現:横浜情報文化センター)_1
旧:横浜商工奨励館(現:横浜情報文化センター)_2
旧:横浜商工奨励館(現:横浜情報文化センター)_3
旧:横浜商工奨励館(現:横浜情報文化センター)_4
旧:横浜商工奨励館(現:横浜情報文化センター)_5
この画像のみFREE画像を借用
横浜情報文化センター旧貴賓室
旧:横浜三井物産ビル(現:KN日本大通ビル)
文化財級あるいはそれ以上の建物と言われている。しかし、既に三井物産の手から離れてしまい、今後この建物がこのまま維持されるかの見通しは相当に暗そうである。なくなってしまうのかなあ。保存を望む声は非常に大きいのだが。
2013年10月よりビルの名称が、KN日本大通ビルに変更されました。
建物外観や内装はそのままです。
明治44年竣工。
建築家遠藤於菟の設計で三井物産横浜支店として建てられました。
日本で最初の全鉄筋コンクリート造りであり、横浜で最も古く、且つ現役のオフィスビル。
レトロなエレベーター(1号棟側)や、地下にある謎の大金庫など、当時を偲ばせる面影が随所に残されています。
また、ビルの背後にあるレンガ造りの倉庫は明治43年の築。実は赤レンガパークの赤レンガ倉庫よりも古いというのが密かな自慢。
かながわの建築物100選にも入っています。

旧:横浜三井物産ビル(現:KN日本大通ビル)_1
旧:横浜三井物産ビル(現:KN日本大通ビル)_2
横浜地方裁判所本庁舎
平成13年に新しいビルになっているが低層階部分に外観や玄関ポーチが復元されているファザード保存と言えるのか微妙なところだろう。
旧:横浜地方裁判所 本庁舎
竣工 昭和4年12月
構造概要 鉄筋コンクリート造 地上4階
所在地 中区日本大通9
設計/施工 大蔵省営繕管財局(小野 武雄)/大倉土木(現 大成建設)
外観は装飾が少ないですが、1階部分壁面や車寄せには花崗岩が使用され重厚です。建物のプランは左右対称の「日」の字型。正面中央壁の両端は、大きな半円柱となっていて特徴的です。
2階の特号法廷は現存する地裁で唯一の陪審法廷でもあります。ここで昭和18年まで陪審裁判が行われました。また戦後接収され、B,C級戦犯を裁く軍事法廷としても使用されました。
平成9年12月にて役目を終え、残念ながら解体されてしまいました。特号法廷内部は桐蔭学園横浜大学に移築保存されます。平成9年12月にお役御免となり引っ越しが終了した後、内部(主に特号法廷)が一般公開されました。
平成13年に地上13階建ての新庁舎が完成し、低層階部分に外観や玄関ポーチが復元されました。

横浜地方裁判所本庁舎_1
横浜地方裁判所本庁舎_2
横浜地方裁判所本庁舎_3
横浜地方裁判所本庁舎_4

 

横浜市中区のレトロな建物(2)

4棟連続していたビルの内の3棟のビル
横浜貿易会館
大さん橋に向かう交差点の一角にある貫禄のあるビル。デンマーク料理のレストラン「SCANDIA」など人気のテナントが入居。
関内地区(海岸通)。昭和4年に横浜貿易協会の事務所として、大倉土木の設計、施工によりに建設された。終戦後は、アメリカ第8軍綜合マシ-ンレコ-ド部隊に接収されていたが、昭和27年に解除され、現在の姿になっている。
横浜貿易協会は明治時代に生糸や絹織物、お茶などを外国商館、外国商船を相手に不利な取引を強いられていた横浜の商人が結束を固めるため、設立した団体。
海岸通りから大桟橋へと続くこの辺りには昭和のほぼ同時期に建てられたスクラッチタイル張りの一連の建物が続き、港横浜のキーポイントになっている。海岸通が大桟橋へと屈曲するコーナーに位置する横浜貿易会館は、この中では要にあたり、1階のデンマーク料理のレストラン「SCANDIA」には、今日も食事をする人の姿が絶えない。

横浜貿易会館_1
横浜貿易会館_2
旧:大倉商事横浜出張所(現:横浜海洋会館)
横浜貿易会館の隣に位置する。大倉商事横浜出張所として、貿易会館と同じく1929年に大倉土木(現在の大成建築)により建てられ、1959年に海洋会館となったのか。昭和初期に流行ったスクラッチタイルが外壁に使われているのか。さりげないオシャレビルだったようだ。
旧:大倉商事横浜出張所(現:横浜海洋会館)
昭和ビル
旧:大倉商事横浜出張所(現:横浜海洋会館)との間には、以前はキッコーマンビルがあった。横浜貿易会館から昭和ビルまで連続する四棟のスクラッチタイルのビルディングの一つだった訳だ。ビルの前に少し大きな木が植えられていて、ビルの様子がはっきり把握できないのが、少し恨めしい。真冬にでも来ないとダメなのだろうか。
昭和ビル

 

横浜市中区のレトロな建物(1)

横浜市中区のレトロな建物を見て歩きたくなり、丁度晴れた9月の初旬にいくつかの建物を見て回った。
そんなに離れたところにあるわけではないので、これから取り上げるところを全部歩いて回っても、大した歩数カウントにはならなかった。


まずは腹ごしらえ
中華街で当然千円以下のセットを注文。ここのところ、いくつかの理由から減食中だったので、いささかお腹が苦しかったが、何とか完食。味はそれなりに良かった。
千円以下のセット
中華街に行った証拠に、東の門である朝陽門を1枚
中華街に行った証拠
旧:露亜銀行横浜支店(現:ラ・バンク・ド・ロ)
2011年、チャペルや2つのパーティー会場を備える結婚式場にリノベーション。「la banque du LoA(ラ・バンク・ド・ロア)」としてオープンしたとのことだ。特に1923年(大正12年)9月1日発生の関東大震災直後の山下町は瓦礫の山だったそうだ。そんな中、ポツリと残ったのがこの建物だった。よほど堅牢に造られたのだろう。バーナード・M・ワードが英国王立建築家協会の準会員に推薦されるにあたっては、この建物が代表作品としてあげられたと言われているそうだ。気合のこもった作品だったのだろう。
お化粧直しした所為かもしれないが、ごく最近建てられた建物と言っても、殆どの人が信じてしまうだろうほどの建物だ。私も恥ずかしながらずっと以前からそう思い込んできた1人だ。その当時の人には、とんでもなく目新しく映ったことだろう。

旧露亜(Russo-Asiatic Bank)銀行横浜支店はイギリスの建築家バーナード・M・ワードの設計で、1921(大正10年)年頃建てられた。その後ドイツ領事館、法務省横浜入国管理事務所を経て警友病院別館となるが、病院の移転に伴い現在は閉鎖されている。外国資本の銀行が並び、金融活動が活発だった頃の銀行建築として残された唯一の作品である。2011(平成23)年にはブライダル施設として再開される予定である。
旧:露亜銀行横浜支店(現:ラ・バンク・ド・ロ)_0
旧:露亜銀行横浜支店(現:ラ・バンク・ド・ロ)_1
旧:露亜銀行横浜支店(現:ラ・バンク・ド・ロ)_2
旧:露亜銀行横浜支店(現:ラ・バンク・ド・ロ)_3
旧:露亜銀行横浜支店(現:ラ・バンク・ド・ロ)_4
旧:露亜銀行横浜支店(現:ラ・バンク・ド・ロ)_5
旧:露亜銀行横浜支店(現:ラ・バンク・ド・ロ)_7
旧:露亜銀行横浜支店(現:ラ・バンク・ド・ロ)_8
旧:英国領事館(現:横浜開港資料館旧館)
タマクスの木はペリー来航時から植えられていた樹木のようだが、この建物自体は関東大震災の後に建てられた建物。そんなに古いとは言いがたい建物だが、重厚な風格を有している。
有名な建物なので、写真も少なめに紹介するに留める。

旧館は、もともと英国総領事館として、1931(昭和6)年に建てられた。英国工務省が設計し、資材すべてを英国から取り寄せて建築したもの。鉄筋コンクリート造の3階建てで、一部地階が付いている。屋根は銅板葺で、石造の外観を持っている古典様式の建物だ。
紹介記事へjump
旧:英国領事館(現:横浜開港資料館旧館)_1
旧:英国領事館(現:横浜開港資料館旧館)_2

 

三崎漁港とその界隈(6)

花暮埠頭
近くで見た大島丸
実習生の姿は見当たらず、釣りをしている人の姿が目立つ。釣れるのかなあ。
近くで見た大島丸_1
近くで見た大島丸_2
近くで見た大島丸_3
第73住吉丸
地元の漁船のようだ。随分くたびれた感じだ。私のような老兵なのだろうか。少し塗料を塗り直したほうが良いと思うのだが。
第73住吉丸_1
第73住吉丸_2
第73住吉丸_3
第73住吉丸_4
第73住吉丸_5
頻繁にボートが行き交う
頻繁にボートが行き交う
第65岬洋丸
こちらも地元の漁船のようだ。前名は「第二わかば丸」。結構スタイルの良い船で、セクシーな感じに見えた。
第65岬洋丸_1
第65岬洋丸_2
第65岬洋丸_3
第65岬洋丸_4
城ヶ島大橋
城ヶ島大橋_1
城ヶ島大橋_2

北条湾
釣りをしている人はここでも多い
釣りをしている人はここでも多い
船だまりにはいろいろな船が
船だまりにはいろいろな船が_1
船だまりにはいろいろな船が_2
昔は此処に城ヶ島への渡船場があったのか。その様子を北原白秋が詠んだのか。
船だまりにはいろいろな船が_3
船だまりにはいろいろな船が_4
船だまりにはいろいろな船が_5
船だまりにはいろいろな船が_6
船だまりにはいろいろな船が_7
船だまりにはいろいろな船が_8
船だまりにはいろいろな船が_9
船だまりにはいろいろな船が_10
船だまりにはいろいろな船が_11

以上で『三崎漁港とその界隈』シリーズは終了です。最後までご覧頂き有難う御座いました。

 

三崎漁港とその界隈(5)

次は海の様子を取り上げる。
まずは、バス停の前の海を見る
目指す方向は同じようだ
目指す方向は同じようだ
港の前には、各種の観光船が待ち構えている
宮川湾海中散歩にじいろさかな号(うらり号)
大きなマグロ船が停まっている花暮岸壁を通り過ぎ、城ケ島大橋をくぐり抜け、しばらくすると神河湾の魚のポイントにつく。そうしたら、下の展望室に降りて、海中をアクリル越しに見る趣向のようだ。
宮川湾海中散歩にじいろさかな号_1
宮川湾海中散歩にじいろさかな号_2
宮川湾海中散歩にじいろさかな号_3
宮川湾海中散歩にじいろさかな号_4
宮川湾海中散歩にじいろさかな号_5
宮川湾海中散歩にじいろさかな号_6
宮川湾海中散歩にじいろさかな号_7
城ヶ島渡船『白秋』
今から約50年前、城ヶ島大橋の開通により廃止された城ヶ島渡船を再開したものだそうだ。こういうものって、一旦廃止されたら最後、二度と再開されないのが相場だろうに、うーーん。
城ヶ島渡船『白秋』_1
城ヶ島渡船『白秋』_2
城ヶ島渡船『白秋』_3
城ヶ島渡船『白秋』_4
城ヶ島渡船『白秋』_5
城ヶ島渡船『白秋』_6
城ヶ島渡船『白秋』_7
その他の船
フィッシングボート
フィッシングボート
いろいろな船が出番を待っている
いろいろな船が出番を待っている_1
いろいろな船が出番を待っている_2
いろいろな船が出番を待っている_3
いろいろな船が出番を待っている_4
いろいろな船が出番を待っている_5
いろいろな船が出番を待っている_6
水上バイクも気持ちよさそうに
水上バイクも気持ちよさそうに
遠くには大島丸が
東京都立大島海洋国際高等学校の国際航海練習船『大島丸』。何とも紛らわしいのだが、山口県大島郡周防大島町にある大島商船高等専門学校商船学科の練習船も同じ名前だ。あとで近くに行くことにする。
遠くには大島丸が_1
遠くには大島丸が_2
一応『うらり』をも紹介する
多少は広角でデフォルメされてはいるだろうが、壁面は見た通り傾けて施工してある。そういうデザインなのだろう。
三崎フィッシャリーナ・ウォーフ「うらり」内には、三浦の特産物が豊富にそろった産直センターがある。おみやげが手軽に揃いそうだ。

一応『うらり』をも紹介する

 

三崎漁港とその界隈(4)

三浦三崎に残るレトロな建築物(3)
仲崎地区
チャッキラコ昭和館のある地区
溝川酒店の蔵
雰囲気のある蔵だ。右隣りが酒店の建物のようだ。道路側には出入口がないようだ。
溝川酒店の蔵

花暮地区
久野又兵衛商店
『魚問屋 久野又兵衛』というところのようだが、今はこの建物内では営業している感じが伺えなかった。
築二百年、現在九代目、三代目が建立と書かれてあるが。他で資本投資して商売しているようだ。印象的には金持ちの家のように見える。

久野又兵衛商店_1
久野又兵衛商店_2
松月商店
レトロな建築物として、結構評価が高いようだ。でも、『少し補修をしないと…』と心配させる建物でもあるようだ。
松月商店_1
松月商店_2
レトロ風に建てられた消防署三崎分署
蔵造りを模した建築でナマコ壁風装飾も
消防署三崎分署
もう商売はしていないのかなあ
K邸と書かれてある。戦前は米穀商。母屋は出桁造、土蔵つきだな。漁港の町には船員用のお米を供給するために、コメ屋さんが多かったのだろう。
K邸

日の出地区
旧山田金物店
明治の終わり頃には飴屋だったとか。雰囲気がある建物なのに惜しいなあ。
旧山田金物店_1
旧山田金物店_2
旧山田金物店_3
岩野薬局倉庫
割と見栄えが良くしてある蔵だ
岩野薬局倉庫
秋葉大権現の階段を上った先からの写真
落ちたら大怪我以上必至の急な長い階段。見えるものがレトロな建物というわけではないが、城ヶ島大橋や城ヶ島、北条湾などがよく見える。
秋葉大権現の階段を上った先からの写真_1
秋葉大権現の階段を上った先からの写真_2
秋葉大権現の階段を上った先からの写真_3
秋葉大権現の階段を上った先からの写真_4
秋葉大権現の階段を上った先からの写真_5
秋葉大権現の階段を上った先からの写真_6

 

三崎漁港とその界隈(3)

三浦三崎に残るレトロな建築物(2)
海南地区
海南神社のある地区
『山田屋酒店』と隣接する『シェアスペースKULA』
『山田屋酒店』と隣接する『シェアスペースKULA』_1
『山田屋酒店』と隣接する『シェアスペースKULA』_2
『山田屋酒店』と隣接する『シェアスペースKULA』_3
『山田屋酒店』と隣接する『シェアスペースKULA』_4
『山田屋酒店』と隣接する『シェアスペースKULA』_5
『葉山船具店』と隣接する『蔵』という名の店
漁具・船具の商いは今でもやっていけるのかな。漁業があるかぎり、そこそこの需要はあるのかも。
『葉山船具店』と隣接する『蔵』という名の店_1
『葉山船具店』と隣接する『蔵』という名の店_2

西野地区
三崎館本店
押しも押されもせぬ堂々たる建物。お料理も美味しいのだろうと思いつつ、一人きりでは…
三崎館本店_1
三崎館本店_2
三崎館本店_3
三崎館本店_4
三崎館本店_5

 

三崎漁港とその界隈(2)

海南神社を見た後は、古めかしい建物を見たり、漁港と漁船の様子を見たりして楽しんだ。整理の都合上、レトロな建物を先に取り上げる。

三浦三崎に残るレトロな建築物(1)
チャッキラコ昭和館
旧米穀販売店宅を資料館に転用したそうだ。
その前の道をぶらぶら歩いていたら、ボランティアの人と目があってしまい、気弱な私はそのまま呼び込まれた。下知識も何もないままに入ったが、『うーーん、これはいいぞ』という感じだった。
無料で隅から隅まで見せてくれて、『写真もご自由にどうぞ』と言ってくれた。恐縮しながらも図々しく撮りまくった。

外観
外観
通りに近い方の防火扉
通りに近い方の防火扉
その内側にある防火扉
その内側にある防火扉_1
その内側にある防火扉_2
その内側にある防火扉_3
その内側にある防火扉_4
お勝手
なかなかモダンな感じだ
お勝手_1
お勝手_2
お勝手_3
お勝手_4
お勝手_5
製麺機のようだ
お勝手_6
お勝手_7
居間
居間_1
居間_2
座敷
三戸のお精霊流し
国指定の重要無形文化財のようで、指定証書が掲げられていた。当然かもしれないが、真っ先に市の指定を受け、次の県の指定を受け、最後に国の指定を受けたようだ。藁でこしらえた精霊船を最後の最後に手作りするんだ。心がこもった送り方なんだなあ。
三戸のお精霊流しは、三浦市初声町三戸地区に伝わる盆行事です。お精霊さまやキュウリ・ナスで作った馬・牛などをお墓や仏壇に飾ります。16日の早朝、「セイトッコ」とよばれる子ども達は墓前に供えられた〈おくりもの〉をマコモ等にくるみ、浜へと運びます。それから谷戸上・北・神田の三地区で計3艘のワラ製お精霊船を作り始め、各家々からお盆にお供えしたお精霊様やお供物を満載して、子ども達に曳かれ西方の海へ送られていきます。
三戸のお精霊流し_1
三戸のお精霊流し_2
三戸のお精霊流し_3
チャッキラコの衣裳のようだ
チャッキラコは、神奈川県三浦市三崎の仲崎・花暮地域に伝わる小正月の伝統行事。浜の乙女たちが繊細かつ優美な踊りを神前に奉納し、正月の到来を祝う祭礼である。参加資格は女性のみが持つ。1975年(昭和50年)の文化財保護法改正によって制定された重要無形民俗文化財の第1回指定を受け、2009年(平成21年)9月の第1回登録で、ユネスコの無形文化遺産に登録された。
チャッキラコの衣裳のようだ_1
チャッキラコの衣裳のようだ_2
雰囲気のある火鉢
狭かったので真上から撮った
雰囲気のある火鉢
店口
吊るし雛かな
吊るし雛かな
店口の梁
とても頑丈なものだった。神棚がうまく収められているのに感心。
店口の梁

蔵造りの商家をそのままに、チャッキラコの資料や三崎の昭和の暮らしが展示されている「三崎昭和館」。昔懐かしい昭和の本・玩具・レコードジャケットや映画ポスター、三崎出身の作曲家・小村三千三のコーナーには貴重な直筆の楽譜もあります。

 

三崎漁港とその界隈(1)

ソレイユの丘に行ってみるつもりだった。三崎口駅に着いたら、三崎港行きのバスが発車寸前だったので、急遽待ち時間なしの方を選択し、三崎港に向かった。なんという節操の無さだろう。

海南神社
清和天皇の治世、皇位継承争いに絡んで讒訴を蒙り左遷された藤原資盈が貞観6年(864年)、任地の筑紫国へ赴く途中で暴風によって三浦半島に漂着、当地の長に推戴された。その後資盈は房総の海賊を平定し、また福祉に努めたため地元民から崇敬され、貞観8年(866年)に資盈が没すると、地元民は祠を建てて祀った。天元5年(982年)になると、現在の地に社殿が建立され、三浦郡の総社となった。
承応2年(1653年)には正一位に列せられ、享保4年(1719年)には三浦半島の総鎮守となった。明治6年(1873年)に郷社となり、明治40年(1907年)に神饌幣帛料共進神社に指定されている。

境内の様子
境内の様子_1
境内の様子_2
境内の様子_3
境内の様子_4
境内の様子_5
境内の様子_6
境内の様子_7
拝殿
拝殿_1
拝殿_2
拝殿_3
拝殿_4
拝殿_5
本殿・幣殿・拝殿
よく見えなかったが、本殿は神明造、幣殿は切妻造、拝殿は権現造になっているそうだ。
本殿・幣殿・拝殿
由緒の説明書
郷社だったのか。それなりの歴史はあるものの、より高い社格にするまでのことはないと判断されたのだろうか。
由緒の説明書
相州海南高家神社
境内社で南房総の高家神社から分社された。「料理の祖神」として崇められる磐鹿六雁命を祭神とする。その関係で、包丁塚などもある。
境内社としては、この他に『疱瘡神社』という源為朝を祭神とする疱瘡の神があるのだそうだが、気が付かなかった。

相州海南高家神社_1
相州海南高家神社_2
頼朝公手植えと伝えられる公孫樹
頼朝公手植えと伝えられる公孫樹_1
頼朝公手植えと伝えられる公孫樹_2
頼朝公手植えと伝えられる公孫樹_3
龍神社とその上にかかる公孫樹
龍神社の上にかかる公孫樹は龍神の姿に見えるといわれている。そう言われればそうかもしれない。
龍神社とその上にかかる公孫樹
馬堀法眼善孝画伯による磐鹿六雁命の大絵馬
びっくりするほど大きな作品で、磐鹿六雁命が「料理の祖神」として崇められるのがよくわかる図案だった
馬堀法眼善孝画伯による磐鹿六雁命の大絵馬_1
馬堀法眼善孝画伯による磐鹿六雁命の大絵馬_2
神楽殿
神楽殿
こんな画が何枚か掲げられていたが、上手いのか下手なのかよくわからない感じだった
こんな画が何枚か掲げられていた_1
こんな画が何枚か掲げられていた_2

 

称名寺(3)

金堂
禅宗様。天和元年(1681年)に再建。桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、本瓦葺(再建当初は茅葺)。
金堂は、寺院で本尊を安置する仏殿。伽藍配置の中心。現在の本堂に相当するものだろう。堂内を金色に装飾したことから、あるいは仏を金人ということからこの名があるのだそうだ。称名寺金堂の本尊は、『木造弥勒菩薩立像』で、国指定の重要文化財。隣接する『神奈川県立金沢文庫』に、写真と複製の彩色された木造がある。金堂の覗き口から見たのではよくわからなかったが、この複製の像は明るいところに展示されているので、非常にわかりやすく私のような者には有難い。写真撮影禁止なので、残念ながら写真はない。複製くらい写真撮影を許可してもバチは当たらないと思うが、頭の硬い役人は聞く耳を持たないのだろうか。
金堂_1
金堂_2
金堂_3
金堂_4
金堂_5
金堂_6
釈迦堂
禅宗様。文久2年(1862年)に建立。方三間、廻縁付、宝形造、茅葺。
本尊は、京都嵯峨の清涼寺の釈迦如来立像(三国伝来の釈迦如来)を模刻したもの(国重文・清涼寺式釈迦如来)。1308年(徳治3年)、北条実時の三十三回忌に造立された。
清涼寺の釈迦如来立像は、東大寺の僧奝然(ちょうねん)が中国宋より持ち帰ったもの。

清涼寺式釈迦如来像は目黒の大円寺にもあった。あちらも国指定の重要文化財だ。そういうものなのだろうか。
釈迦堂_1
釈迦堂_2
釈迦堂_3
釈迦堂_4
称名寺境内 
称名寺は、金沢山称名寺と号し、真言律宗の別格本山として西大寺末の律院で、本尊には木造弥勒菩薩立像(鎌倉時代、重要文化財)が安置されています。
本寺は、金沢北条氏一門の菩提寺で、草創の時期は明らかにしていませんが、正嘉二年(一二五八)、金沢氏の祖と称されてぃる北条実時(一二二四~一二七六)が、六浦荘金沢の居館内に営んだ持仏堂から発したと推定されています。
その後、称名寺の基礎が定まるとともに伽藍の整備が着手され、実時の子、顕時(一二四八~一三〇一)の時代には、弥勒堂、護摩堂、三重塔などが建立され、さらに、顕時の子、貞顕(一二七八~一三三三)は伽藍の再造営を行い、元亨三年(一三二三)には、苑池を中心として弥勒来迎板絵(重要文化財)に荘厳された金を初め、講堂、仁王門など、七堂伽藍を備えた壮麗な浄土曼荼羅にもとづく伽藍を完成させました。
しかし、元弘三年(一三三三)、北条氏の滅亡により鎌倉幕府の崩壊を契機として伽藍の維持が困難となり、江戸時代に入ると創建当時の堂塔の姿を失いました。
大正十一年、称名寺の内界である中心区域が国指定を受け、更に、昭和四七年、境内背後の丘陵を含めた範囲が指定されるとともに、昭和六二年には、庭園苑池の保存整備事業が行われました。

称名寺之晩鐘
称名寺の鐘は、金沢北条氏の初代実時が、文永6年(1269)に父実泰の七回忌に寄進したもの。のちに破損していたのを、二代顕時が正安3年(1301)に改鋳した。このため、鐘には実時と顕時の二人の名が刻まれている。
梵鐘の総高は128.5cm。さほど大きくはないが、形の美しい鎌倉時代を代表する名鐘の一つで、国指定の重要文化財。
鐘を鋳造したのは、当時関東一円で盛んに造鐘した鋳物師の棟梁・物部国光と子の依光。鎌倉最大という円覚寺の洪鐘(国宝/総高259.5cm)も、杉田・東漸寺の永仁の鐘(重文)も、物部国光がほぼ同じ時期に造った名鐘である。
なお、「称名晩鐘」と呼ばれるようになったのは、元禄時代に中国の心越禅師が金沢八景詩を詠んだ以後のことになる。

称名晩鐘_1
称名晩鐘_2
称名晩鐘_3
『はるけしな山の 名におふかね沢の 霧よりもるゝ入あひの声』と書かれてあるとか。『入あひ』とは、夕暮れにつく鐘の音をいうそうだ。昔は『かねさわ』という読ませ方だったようだ。
山の中腹に建物が3つ並んでいる真ん中に小さいのが、鐘楼だろうか。手前が仁王門。その間に、阿字ヶ池があったのでは。
称名晩鐘_4
謡曲「六浦」と青葉楓
謡曲「六浦」と青葉楓_1
謡曲「六浦」と青葉楓_2
国宝の画像(FREE画像を借用)
北条実時像(国宝、金沢北条氏肖像のうち)
北条実時像(国宝、金沢北条氏肖像のうち)
金沢貞顕像(国宝、金沢北条氏肖像のうち)
金沢貞顕像(国宝、金沢北条氏肖像のうち)

内容的に貧弱で恐縮ですが、以上で『称名寺』のミニシリーズは終了です。最後までご覧頂き有難う御座いました。

 

称名寺(2)

阿字ヶ池、反橋、平橋
称名寺の金堂前の庭園は、貞顕の代に完成され、阿字ヶ池の中島に反橋と平橋が架けられた浄土式庭園となっている。関東地方では珍しい存在のようだ。
浄土式庭園は、毛越寺、白水阿弥陀堂、平等院などで見たことがあるが、どういうものを指して言うものか私にはよくわからない。いずれも非常に美しい庭園であるくらいしかわからない。平安・鎌倉期の権力者の考えた浄土のイメージなのだろうか。
現在の称名寺の庭園は、称名寺絵図に基づき昭和62年に鎌倉時代の浄土庭園造営当初の姿に復元してつくられた。と聞くと『なあんだ詰まらない』と思われる向きもあろうが、実際にそうだったのだから仕方がないことだ。新名所的なものかもしれない。

浄土式庭園
うーーん、本当に美しい庭園だ
浄土式庭園_1
浄土式庭園_2
浄土式庭園_3
浄土式庭園_4
浄土式庭園_5
反橋
かなり反りの大きな橋。少しだけ、金堂とずれていて、それを指摘する向きがあるが、どうなのだろう。
反橋_1
反橋_2
反橋_3
反橋_4
反橋_5
橋の上から見た阿字ヶ池の右側の様子
橋の上から見た阿字ヶ池の右側の様子_1
橋の上から見た阿字ヶ池の右側の様子_2
橋の上から見た阿字ヶ池の左側の様子
池の奥辺りに称名寺殿、つまり、北条実時が住んでいたようだ。また、この一画に三重塔もあったようだ。だけど、遺構はまだ見つかっていないとか。説明ボランティアの人に聞いた受け売りだが。
橋の上から見た阿字ヶ池の左側の様子
平橋
平橋_1
平橋_2
金沢四石に数えられる阿字ヶ池の美女石と姥石
夕日が落ちる池の美しさに、称名寺を訪れていた「さる姫君」が畔に近づき、足を滑らせて池に落ちてしまった。助けようとした乳母も池に落ち、二人ともに溺死してしまった。そして、落ちた二人は石となったという伝説が残されている。その石が金沢四石に数えられている「美女石」と「姥石」。現在は美女石のみが残っている。
「称名のみのりの池の美女石も今でも乳母もろともに蓮のうてなに」
他の金沢四石は、金龍院の「飛石」と琵琶島の「福石」。
阿字ヶ池の美女石

 

称名寺(1)

存在は十分すぎるほど承知しているのに、今まで一度も足を運んだことがなかった称名寺。金沢北条氏ゆかりの寺院の往時から現在までの来し方を確認してみようと思い立った。
北条氏滅亡後は、後醍醐天皇や鎌倉公方、豊臣秀吉、徳川家康ら時の権力者の庇護を受けたが、寺運は回復せず、江戸期には大きく衰退したようだ。宗教人として、この寺院を中興する器量を有した僧侶が存在しなかったのだろうか。金沢北条氏の寺院に過ぎなかったのが、寂しい限りだ。
画面が暗いのは、雨が降ったりやんだりの分厚い雲に覆われていたからで、私の印象で恣意的に暗くしたわけではない。


称名寺惣門(赤門)
称名寺の南辺を限る朱塗門。明和8年(1771年)に再建。四脚門、切妻造、本瓦葺(再建当初は茅葺)。
称名寺惣門(赤門)_1
称名寺惣門(赤門)_2
称名寺惣門(赤門)_3
赤門の内側にある参道
赤門の内側にある参道_1
赤門の内側にある参道_2
赤門の内側にある参道_3
称名寺塔頭光明院表門《横浜市指定有形文化財(建造物)》
赤門から近づくと、門の側面が先に目に入る。そのときは、駐車場に残してあった単なる古い門くらいにしか思わなかった。が、正面に回って、説明書を見てびっくり。横浜市で最古の建物だったのか。うーーん。
何の変哲もないような門ですが、寛文5年(1665年)の建立で、移築されたものを除けば現存する横浜市内最古の建造物です。横浜市指定有形文化財にもなっています。
称名寺塔頭光明院表門_1
称名寺塔頭光明院表門_2
称名寺塔頭光明院表門_3

仁王門
これは立派な仁王門だと思った。文化財の指定がないのか。200年経過くらいではダメなのだろうか。
禅宗様。文政元年(1818年)に再建。三間一戸の楼門、入母屋造、軒唐破風付、銅板葺(再建当初は茅葺)。
仁王門_1
仁王門_2
仁王門_3
本当に大きな像だ。院興という名の仏師は知らなかったので調べてみた。
http://www.rekihaku.city.yokohama.jp/news/news2-2.html
称名寺には、鎌倉時代末に造立された木造の釈迦如来立像(しゃかにょらいりゅうぞう)と金剛力士立像(こんごうりきしりゅうぞう)があります。これらの像は、体内に記されている墨書銘から、釈迦如来立像は徳治(とくじ)3年(1308年)に大仏師(だいぶっし)院保以下院吉など17名の仏師によって、金剛力土立像は元亨(げんこう)3年(1323年)に院興、院救等の仏師によって造られたことが知られています。
名前に「院」字を冠したいわゆる「院派仏師(いんぱぶっし)」は、平安時代中期の定朝(じょうちょう)を祖とする日本の仏師系譜の中で、「慶」の字がつく慶派(けいは)仏師、「円」の字がつく円派(えんぱ)仏師とともに、由緒ある正系仏師の系譜であり、室町時代まで約130人の名が知られています。…以下省略

なるほど、そんなにマイナーな仏師たちではなかったようだ。作品を見てもそのことが伺える。
安置されている仁王像(金剛力士像)は、胎内墨書により、1323年(元享3年)の院興らの作であることが判明している(県重文)。神奈川県教育委員会のホームページによれば、関東における最大の金剛力士像だという。
仁王像_1
仁王像_2

概要
金沢は、鎌倉の外港である六浦を抱え、東京湾を介した交通・軍事上の要衝、すなわち鎌倉の東の要衝であり、そこに重要な拠点として営まれた称名寺は、防御を重視した鎌倉幕府の政権所在地の造営の在り方の特徴を示す寺院です。
また、当時の称名寺は仏教教学の研究がとりわけ盛んに行われ、「金沢学校」とも呼ばれた日本における中世の大学でした。さらに、1275年に、称名寺に設置された「金沢文庫」には、教学研究のために収集された大量の文物が引き継がれています。これらは、中国伝来の美術工芸品、書籍、典籍類を主体としており、武家文化の成立に中国文化が重要な影響を及ぼしたことを示すとともに、武家文化の精華を現在に伝えています。
歴史
称名寺は、第5代執権北条時頼や第8代執権北条時宗の補佐役として幕府内部で重きをなした北条実時(1224~1276年)が営んだ持仏堂が始まりで、1267年に寺院としての体裁を整え、鎌倉時代末に実時の孫金沢貞顕(1278~1333年)によって伽藍や庭園が再造営され最盛期を迎えました。その様子を描いた『称名寺絵図並結界記』によれば、境内の中央に浄土池を配し、東西及び北に金堂や講堂他の諸堂が建ち並ぶ大伽藍が形成されていました。
現在の境内は、山門の正面に浄土池を中心とした庭園を配し、その北側に諸伽藍が並んでいます。これらの建物の北方及び浄土池の東西には、講堂他の伽藍が営まれていた平場が展開し、それらの外側は周囲の山稜部へと連続しています。
なお、前述の「金沢文庫」に引き継がれた大量の文物は、現在、境内に隣接する「神奈川県立金沢文庫」において、厳重に保管されるとともに、活発な調査研究及び積極的な公開活用が図られています。
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称名寺は、金沢山(きんたくさん)称名寺。真言律宗、別格本山。金沢(かねさわ)北条氏の菩提寺である。称名寺の創建年は明らかでないが、北条実時(ほうじょう さねとき)(1224~1276)が六浦荘の居館内に阿弥陀三尊を祀った持仏堂から発展したものという。実時は、正嘉2年(1258)に持仏堂で潅頂の儀式を受け、また翌正元元年(1259)頃に称名寺を建立したとの記録がある。実時は、鎌倉幕府二代執権北条義時の孫で、引付衆や評定衆など幕府の重職を歴任して北条得宗家を政治的に支えるとともに、学問に造詣が深く、収集した和漢の書籍を鎌倉から六浦に移し金沢文庫の基礎を作った。実時は、奈良西大寺の叡尊(えいそん)に帰依し、称名寺をそれまでの念仏宗から真言律宗に改め、下野国薬師寺の審海上人(しんかいしょうにん)(1232-1304)を迎えた。実時の子顕時(あきとき)(1248~1301)は、寺内外の土地を寄進し、本尊弥勒菩薩立像(重要文化財)を建立、顕時の子貞顕(さだあき)(1278~1333)は伽藍の再造営を行って寺の拡充・発展に尽くした。元亨3年(1323)の「称名寺絵図」は、中央の苑池を囲み、金堂や講堂、鐘楼、仁王門など七堂伽藍を備え、当時の壮麗な寺観を伝えている。特に、南の仁王門から池を東西に分けて反橋、中島、平橋を渡り金堂に至る形式は、平安中期以降盛んに築造された浄土式庭園の最後の遺例として貴重とされる。
元弘3年(1333)北条氏滅亡後は、後醍醐天皇や鎌倉公方、豊臣秀吉、徳川家康ら時の権力者の庇護を受けたが、寺運は回復せず、江戸期には大きく衰退した。
昭和53年(1978)度から10カ年にわたって称名寺庭園・苑池の発掘調査と保存整備事業が行われ、「称名寺絵図」に基づいて昭和60年度に平橋、61年度に反橋が復元され、翌年にかけて庭園の復元的整備が行われた。しかし、その後の風雨等の影響で橋が劣化・腐朽したため、平成19年度に平橋、20年度に反橋の架け替えが実施された。
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境内は国の史跡に指定され、赤門、仁王門、金堂、釈迦堂などがある。金堂前の阿字ヶ池を中心とする浄土式庭園は、1320年(元応2年)、金沢氏3代貞顕の代に整備されたもので、発掘調査を経て1987年(昭和62年)に復元された。浄土式庭園とは、浄土曼荼羅に基づいて配置された庭園のことで、平安時代末期に盛んにつくられた。塔頭としては光明院(運慶作の大威徳明王像を所蔵)と大宝院がある。

 

お面かぶり(6)

「還相」
最後に、珂碩上人の厨子、僧侶、稚児、そして壇信徒らが上品堂から本堂に帰る。これは、来迎をうけた往生人が浄土からこの世に帰り、世のためにつくすという「還相(げんそう)」を表している。このときお面は上品堂で脱ぎ、素顔で本堂に帰る。どの壇信徒の顔も何処となく晴れ晴れしく、見る人に安らぎを与えるといわれるが、どうだろうか。私はあまり撮る気がしなかったので、そのシーンを除外して撮った。
それまでは阿弥陀如来や菩薩に扮していたのに、今度は
『往生人が浄土からこの世に帰り…』という役回りに変わるのだろうか。
還相_1
還相_2
還相_3
還相_4
還相_5
浄真寺開山の「珂碩上人の坐像」を載せた厨子も
浄真寺開山の「珂碩上人の坐像」を載せた厨子も_1
浄真寺開山の「珂碩上人の坐像」を載せた厨子も_2
最後に住職が音頭を取り念仏が10回唱和された
行事を見せて浄土宗の教えが何たるかをわかってもらうという思惑があるのだろう。浄土宗の気宇壮大な宗教行事なんだなあとおもった次第。布教上の効果は大きなものがあったのではないかと思う。
最後に住職が音頭を取り念仏が10回唱和された_1
最後に住職が音頭を取り念仏が10回唱和された_2
最後に住職が音頭を取り念仏が10回唱和された_3
最後に住職が音頭を取り念仏が10回唱和された_4
最後に住職が音頭を取り念仏が10回唱和された_5
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最後に住職が音頭を取り念仏が10回唱和された_7
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最後に住職が音頭を取り念仏が10回唱和された_9
最後に住職が音頭を取り念仏が10回唱和された_10
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最後に住職が音頭を取り念仏が10回唱和された_12
最後に住職が音頭を取り念仏が10回唱和された_13
最後に住職が音頭を取り念仏が10回唱和された_14

以上で宗教行事『お面かぶり』のミニシリーズは終了です。最後までご覧頂き有難う御座いました。

 

お面かぶり(5)

2基の万灯から始まる「往生」(2)
このお面が無辺身、つまり地蔵菩薩のようだ
無辺身、つまり地蔵菩薩_1
無辺身、つまり地蔵菩薩_2
僧侶が仏を供養するため意味合いの散華(さんげ)を撒く
写真を撮っている場合じゃないので、中断して何枚か拾った。ノンビリ気楽に散華を撒いているように見えるかもしれない。でも、このstageでは、往生人にみたてられるのは住職衆僧のはずだ。他の方にはやってもらうわけにはいかない因果な役回りでもあるようだ。
僧侶が仏を供養するため意味合いの散華(さんげ)を撒く_1
僧侶が仏を供養するため意味合いの散華(さんげ)を撒く_2
僧侶が仏を供養するため意味合いの散華(さんげ)を撒く_3
僧侶が仏を供養するため意味合いの散華(さんげ)を撒く_4
私が拾った散華
散華(さんげ)
稚児も続く
こちらは無条件にかわいい感じだ
稚児も続く_1
稚児も続く_2
稚児も続く_3
住職
住職_1
住職_2
住職_3
住職_4

 

お面かぶり(4)

2基の万灯から始まる「往生」(1)
本堂で、本尊の釈迦如来像のまわりを回って、今度は、往生人にみたてた住職衆僧と開山珂碩上人の像を乗せた厨子、菩薩や導師を守る役目の稚児を加え上品堂へ向かう。これが「往生」と言われるもの。
割と本堂の近くに居たが、本尊の釈迦如来像のまわりを回っている様子などは、人垣に遮られてみることができなかった。
そして、程なく本堂から上品堂へ向かう「往生」の行列が始まる。

「往生」の行列_1
「往生」の行列_2
「往生」の行列_3
「往生」の行列_4
「往生」の行列_5
「往生」の行列_6
阿弥陀如来
阿弥陀如来_1
阿弥陀如来_2
二十五菩薩
「往生」の行列_7
「往生」の行列_8
「往生」の行列_9
「往生」の行列_10
「往生」の行列_11
「往生」の行列_12
「往生」の行列_13
「往生」の行列_14
「往生」の行列_15
「往生」の行列_16
「往生」の行列_17

 

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