散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

観音崎界隈を歩く(1)

川崎市立日本民家園のシリーズが長くなりそうなので、途中で少し別のものを差し挟みたい。最初に茗荷谷のモニュメントを取り上げた。次なるは、『観音崎界隈を歩く』のミニシリーズを差し挟む。
観音崎の表記は、灯台名だけは『観音埼』を使うようだ。

走水神社
以前にも取り上げた『古事記』『日本書紀』にも登場するエピソードに関わり合いがある神社である。
当社の創建年代等については火災などにより明らかでない。社伝では、日本武尊が東征の途上に当地から浦賀水道を渡る際、自分の冠を村人に与え、村人がこの冠を石櫃へ納め土中に埋めて社を建てたのが始まりという。
『古事記』『日本書紀』では、日本武尊が相模から上総に向かった際にどこを通ったか具体的な地名についての言及はないが、『日本書紀』は、景行天皇53年10月条に景行天皇東国巡狩のことを載せ、東海道を海路より淡水門に渡ったと記されている。この際も地名は記されてはいないが、古代の東海道は当地から浦賀水道を渡って上総国に入ることから、景行天皇は当地から淡水門に向かった見られ、日本武尊が東征において浦賀水道を渡る際も当地付近を通ったと考えられる。
上総国へ船出した日本武尊は、海上で暴風雨に遭い、弟橘媛が海へ身を投じて暴風雨を鎮めた。数日後、海岸に弟橘媛の櫛が流れつき、村人は旗山崎(御所ヶ崎)に社を建てて櫛を納めたとされる。この社が弟橘媛を祀る橘神社であったが、明治18年(1885年)に旗山崎が軍用地になり走水神社境内へ移され、その後明治42年(1909年)に合祀された。

境内の様子
参道工事中だが、それでも十分に美しい
参道工事中だが、それでも十分に美しい
本殿に至る階段はかなり急である。横須賀の地なので仕方の無いことだ。
本殿に至る階段はかなり急である
弟橘媛命舵の碑
弟橘媛命は日本武尊が思い続けた人だったのだから、相当な美しさだったのだろう。こんな感じの人だったのかなあ。
弟橘媛命舵の碑_1
弟橘媛命舵の碑_2
浦賀水道航行安全を祈願して奉納されたもののようだ
弟橘媛命舵の碑_3
万葉集の和歌の碑
草枕 旅の丸寝の紐絶えば 吾が手とつけろ これの針(はる)もし
草を枕の旅のごろ寝で袴の紐が取れてしまったら、私の手だと思って縫い付けて下さい。この針を持って。
万葉集の和歌の碑_1
万葉集の和歌の碑_2
弟橘媛命記念碑
1910年、東郷平八郎、乃木希典らが建立。恒久王妃昌子内親王筆。恒久王妃昌子内親王とは、明治天皇第六皇女常宮(つねのみや)昌子内親王、竹田宮恒久王妃のこと。この碑をまた見たくてここに来た。
さねさしさがむのをぬにもゆるひの
 ほなかにたちてとひしきみはも
 勲一等昌子内親王書

さねさし相模の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて問ひし君はも
相模の小野で炎に囲まれたとき、火の粉が御自分に掛かっていることにも気に留めず、ひたすら私の身を案じて下さった貴方‥‥‥弟橘比売命
弟橘媛命記念碑
弟橘媛命記念碑付近からの展望
第2海堡などが見える
第2海堡などが見える
手前の入り江は防大の艇庫
手前の入り江は防大の艇庫
本殿
本殿_1
本殿_2
弟橘媛命記念碑を見に行く人たち
若い女性たちもいた
若い女性たちもいた
再び境内の様子
参道
海へ一直線
海へ一直線
包丁塚
包丁塚

 

川崎市立日本民家園(9)

前回までで中部地方の民家が終わり、今回からは関東地方の民家ゾーンに入る。どんなものが登場するか、興味津々で歩を進めた。

(11)作田家住宅(さくだけじゅうたく)《関東の村》
国指定重要文化財と書かれてあったが、外観を一目見て、大したことが無い家だと早合点してしまった。
ところが、内部に入ってみると、びっくり。それなりの格式を備えていた。

国指定重要文化財
旧所在地:千葉県山武郡九十九里町作田
建物区分:漁家(網元の家)、分棟型
構造形式:主屋=寄棟造、茅葺、桁行13.0m、梁行11.1m、風呂場及び便所付属 土間=寄棟造、妻入、茅葺、桁行11.5m、梁行5.6m
建築年代:主屋=17世紀後期、土間=18世紀後期
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イワシの地引網漁で栄えた網元の家
この建物はイワシ漁で栄えた九十九里にありました。漁具小屋は海岸近くにあり、この家そのものは内陸に立地していたため、漁村の家の雰囲気はありません。 外観は二棟が軒を接しているように見えます。これを分棟型と呼び、クリの木の半割丸太をくり抜いた大きな雨樋が二つの屋根をつないでいます。居室部は囲炉裏のある広いカミがまず目に入ります。床の間の前身である押板(おしいた)や仏壇を備え、網元としての生活に使われた格式のある部屋です。その上手は畳敷の部屋がつづき、座敷としては最高の扱いとなっています。背後には便所と風呂が付属し、座敷と同様に上層民家の接客部分を伝える貴重な建築です。

外観
外観_1
板の外壁が白く見えるのは、何らかの塗料を塗布したのだろうか
外観_2
屋内
ニワ
大戸口を入った辺り。この建物は『分棟型』であり、画面左端の上の方(照明灯の背後)にクリの木の半割丸太をくり抜いた大きな雨樋が、縄でくくりつけられて二つの棟の屋根をつないでいるのだが、おわかりになるだろうか。おわかりでないときは、直後に入れたイラストを参照いただきたい。
梁の松材の組み合わせは見事なものだ。

ニワ
分棟の雨樋
棟と棟の間に取り付けられた木製の雨樋
分棟の雨樋
ニワの片隅には竈がしつらえてあった。後ろは背戸口というのだろうか。
ニワの片隅には竈が
その背後にあるのは『カスワク』。イワシのかすを肥料にするために入れておく木枠だったようだ。饐えた臭いが充満し相当にくさかったのではなかろうか。
カスワク
チャノマ
ニワから見て右側の部屋。このチャノマにもカミ二も囲炉裏の真上に火棚を吊ることはしていないようだ。あれは、茅葺き屋根の維持管理に必須アイテムかと思っていたが、平屋だし、必須とまではいかなかったのだろうか。
チャノマ
カミ
ニワから見て左側の部屋。主たる居住空間だったと思われる。奥にはゲンカンとナカノマとが見える。押板は認識しないままに出てきてしまったようだ。残念。
カミ
ゲンカン、ナカノマ、オク
ゲンカンの様子がどうにも思い出せない。何を見ていたのだろうか。困ったものだ。
ゲンカン、ナカノマ、オク
フロバ、ベンジョ
廊下を伝っていった先には、フロバやベンジョもあった。一応は、屋敷内にあったといえるのかなあ。
フロバ、ベンジョ_1
フロバ、ベンジョ_2
カミの様子
ナカノマ越しにカミを見る
カミの様子
オク
本格的な客間だったようだ
オク
作田家間取り
作田家間取り

(12)沖永良部の高倉(おきのえらぶのたかくら)
関東の建物ゾーンに入ったと書いたばかりだが、ここだけは、例外。遠く離れた沖永良部からの移築とのことだ。
ネズミ等の侵入を防ぐため、柱の頭部を鉄板で巻いているそうだ。ネズミ返しの一点繋がりで、スペインの巡礼路で見たオレオという穀物倉庫のことを思い出してしまった。

川崎市重要歴史記念物
旧所在地:鹿児島県大島郡和泊町
建物区分:倉
構造形式:寄棟造、茅葺、桁行2.7m、梁行2.5m
建築年代:19世紀後期

沖永良部の高倉

 

茗荷谷の公園にて 2014.06.28 11:10 画像追加

川崎市立日本民家園のシリーズが長くなりそうなので、途中で少し別のものを差し挟みたい。まずは茗荷谷のモニュメント。
実はある方のブログ『manis sekali、cantik sekaliな写真日記』で紹介されていた。一角獣のモニュメントに興味があったので、我が家からは少し遠いが、重い腰を上げて茗荷谷の筑波大の正門前まで見に行った。
行った甲斐があってなかなか面白い作品群だなと思った。その割には写真のできが良くないのはご愛敬。


『神話空間への招待』
 - カイザースラウテルン広場 -


文京区とドイツのカイザースラウテルン市との姉妹都市提携のシンボルの一つとして造られたようだ。一角獣、魚、アンモナイト、カタツムリ、銀杏の葉があるとのこと。銀杏の葉は帰宅後にやっと気づいた。それまで、気づかずに踏みつけていたようだ。
モニュメント作品群_1
モニュメント作品群_2
子供たちの遊具にもなっているようだ。銀杏の葉は見つけられただろうか。
モニュメント作品群_3
モニュメント作品群_4
案外大きい一角獣。『アレ、パパがいなくなっちゃったぞ』…子供の顔つきが変わった。その仕草がかわいいなあ。
モニュメント作品群_5
モニュメント作品群_6
モニュメント作品群_7
モニュメント作品群_8
うっかりしてカタツムリの画像を忘れていました。(_ _)
モニュメント作品群_9
モニュメント作品群_10

 

川崎市立日本民家園(8)

(9)野原家住宅(のはらけじゅうたく)《信越の村》
渡し籠が真っ先に目に入った。こんなもので、目が眩むような谷を自力で往来するのか。考えただけで、ここにはとうてい住むことはできないと震え上がってしまった。
神奈川県指定文化財
旧所在地:富山県南砺市利賀村利賀
建物区分:農家(組頭の家)、合掌造
構造形式:切妻造、一重三階、各面とも庇付、茅葺、桁行17.5m、梁行10.6m
建築年代:18世紀後期
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迫力満点の梁がみられる合掌造の家
「越中五箇山」とは、庄川本・支流域の五つの谷(赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀谷)を中心とした地域の総称です。野原家は庄川支流域の利賀(とが)谷にあった合掌造で、庄川本流域の合掌造とは間取りや構造に違いがあります。
まず間取りですが、庄川本流系が四間取りを基本とするのに対して、広間型三間取りとなっています。大戸口を入ると、土間前半はウマヤ、後半は台所と作業場を兼ねたニワです。ウマヤ前方の細い通路は外便所に通じていました。オエは日常生活の中心となる場で、囲炉裏を二つ設けています。
中央の巨大な梁を「牛梁」、ここから前後に架け渡した曲がりの鋭い梁を「チョウナ」といいます。迫力あるその様子は合掌造民家の大きな見どころです。

外観
外観_1
大戸口とは直角にマヤの脇を通って外便所に出入りする出入り口(表示板の背後)もあった。名称はなんというのだろうか?
外観_2
外観_3
内部
大戸口から入った様子
大戸口(おおとぐち)・厩口(うまやぐち)・背戸口(せどぐち)という風に、いろいろな出入り口の名称があったようだが、そのうちの大戸口から入った辺り。手前右はマヤ。奥まったところがニワ。
大戸口から入った辺り
渡し籠
ピントが合っていなくて恐縮だが、吊り下げられているのが、谷から谷へ人間を渡す働きをしたカゴ。『渡し籠』というようだ。高所恐怖症の私には、何とも怖い乗り物だ。しっかり捕まっていないと転落死間違いなしの状況なのだろう。
渡し籠
渡し籠のイラスト
オエ
庄川本流系が四間取りを基本とするのに対して、こちらは広間型三間取りで、オエが広くなっている。そのために囲炉裏も2つある。
オエ
チョウナ梁(根元の曲がった材を使用)が見事だ
チョウナ梁_1
チョウナ梁_2
外側から見たオエとザシキ
外側から見たオエとザシキ
ザシキ、ブツマ、ナンド
手前がザシキ。板囲いのところがナンド。襖の奥がブツマ。右の板張りがオエ。
ザシキ、ブツマ、ナンド
ブツマ
ブツマ
機織りをもしていたのだろうか
機織りをもしていたのだろうか
野原家の間取り
野原家の間取り

(10)山下家住宅(やましたけじゅうたく)《信越の村》
残念ながら工事中で、内部を見ることができなかった。従って外観写真のみ。
神奈川県指定重要文化財
旧所在地:岐阜県大野郡白川村長瀬
建物区分:農家、合掌造
構造形式:切妻造、一重三階、茅葺、桁行18.2m、梁行10.9m、正面庇付、石置き板葺
建築年代:19世紀前期
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民家園唯一の、白川郷の合掌造民家
この合掌造は、川崎駅前で観光料亭に利用されていたものを、民家園に再移築したものです。このような経緯から、復原せず、料亭時代の改造を活かした箇所が少なくありません。二階へ上がる階段も料亭時代のものです。
外観は切妻造、平入り(現状は妻入り)、庇部分の屋根を石置き板葺きとするなど、典型的な白川系の合掌造です。
合掌(叉首:さす)とは、屋根の骨組みとなる斜め材をいいます。特に白川から五箇山にかけての民家は、巨大な合掌を急勾配にかける工法で知られ、それを強調して「合掌造」という呼び方がひろまりました。高大な屋根裏は幾層にも区切られ、養蚕や冬期間の食糧や薪などの貯蔵場として利用されました。
一階は座敷三室がL字に配置されています。これを「鍵座敷」といい、一番奥の部屋は仏間と床の間を備えた一番格式の高い最上部の部屋でした。

外観
外観_1
外観_2
外観_3
外観_4
外観_5
外観_6
外観_7

 

川崎市立日本民家園(7)

(8)山田家住宅(やまだけじゅうたく)《信越の村》
煙硝を製造していたらしい家。地域で最後に残った家屋だったのか。ボランティアの方が懇切丁寧に案内してくれたけれども、「チョウナ仕上の家」として語りつがれていたという話はしてくれなかった。見た限りでも、チョウナで削ったような跡が残る板や柱はないように思う。もしかしたら、曲がった柱のことなのだろうか?それならかなり丁寧に話してくれた。チョウナ(手斧)のように曲がった梁を利用した造りを『チョウナ造り』というようだから、それのことかな。
神奈川県指定文化財
旧所在地:富山県南砺市桂(かつら)
建物区分:農家、合掌造
構造形式:切妻造、一重三階、茅葺、桁行14.9m、梁行9.5m
建築年代:18世紀初期
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蓮如上人が泊まったという言い伝えのある古い合掌造り
この住宅があった桂集落は、秘境といわれた五箇山でも特に辺境にありました。桂に一番近い集落は国境を越えた加須良(飛騨)でした。そのため山田家は切妻造の外観など、五箇山にありながら飛騨白川の影響を受けたと考えられています。高度成長とともに過疎化が進行して昭和45年に解村し、現在は桂湖というダム湖に沈んでいます。
山田家は、桂にあって「チョウナ仕上の家」として語りつがれていました。「蓮如上人が泊まった」という言い伝えもあり、年代の古い合掌造りとして重要な民家です。
大戸口を入るとマヤのある土間、その奥にウスナワという低い板の間が続いています。ウスナワは流しを設けた台所兼作業場です。水は懸樋でとり入れていました。
一番奥の畳敷きの部屋は正式な座敷です。五箇山は浄土真宗の盛んな地域で、上手には大きな仏壇が設けられています。

外観
外観_1
外観_2
外観_3
外観_4
床が高いのが特徴
外観_5
外観_6
内部
オマエと仏壇
オマエと仏壇
出入り口(大戸口)から覗いた様子
立派な廊下が印象的
立派な廊下が印象的
ウスナワ
低い板の間。単に台所と言うだけではなく、作業場としての利用があったのかもしれない。そうでなければ、通常は土間で十分だっただろう。オイエの床との高さの差に驚かされる。
ウスナワ
オイエ
床下には極秘中の極秘、煙硝の半製品が隠してあったようだ。それも、1つの家で全行程をこなすのではなく、各家庭で各工程を分業して担当していたようだ。
オイエ
仏壇
立派な仏壇だ
立派な仏壇だ
チョウダ
当主夫婦が暮らしていたようだ。内側から心張り棒をすると、他の者が入ることができない。財産管理、子孫繁栄に励むためのプライバシー確保などの意味合いがあったのかもしれない。
チョウダ
こんなものをいただいた
おみやげ_1
おみやげ_2
おみやげ_3
山田家の間取り
山田家の間取り

 

川崎市立日本民家園(6)

(7)江向家住宅(えむかいけじゅうたく)《信越の村》
続いての国指定重要文化財は合掌造りの家だ。前回の佐々木家住宅と同様に『床上公開』と呼んでいるサービスが行われていなかった。こちらは、佐々木家住宅程には採光性がよくなく、自然光だけではやや薄暗く寂しかった。その分、上がって近くでじっくり見たかったのに、希望が叶わずちょっと残念だった。
また、佐々木家住宅のような屋根ではなく、同じようにかやぶき屋根でも、縞のある葺き方をしているようだ。

国指定重要文化財
旧所在地:富山県南砺市上平細島
建物区分:農家(組頭の家)、合掌造
構造形式:切妻造、妻入、茅葺、一重三階、桁行19.6m、梁行8.5m
建築年代:18世紀初期
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田の字型の間取りを持つ合掌造りの家
富山県の五箇山地方は、岐阜県の白川地方とともに合掌造で知られています。しかし、それぞれ特徴があり、五箇山でも庄川本流と支流の利賀谷(とがだん)とでは違いが見られます。
この建物は庄川本流系で、「妻入」「正面に茅葺の庇を付けた入母屋造風」「田の字型の四間取り」といった特徴を持っています。床上には、下手に囲炉裏のあるデイとオエ、上手にオマエとヘヤが並んでいます。デイは接客用、オエは日常生活の場、ヘヤは寝室、オマエは正式な座敷です。
このオマエは畳敷きで、浄土真宗が盛んな地域のためブツマ(仏間)が設けられています。

外観
外観_1
外観_2
外観_3
外観_4
外観_5
行き過ぎてから気づいたのだが、屋根の中程に採光のために妻側ではなく平側にも開口部をもうけたようだ。
外観_6
内部
入ったすぐ右手のウマヤ、左手のニワ、奥がオエ
薄暗くて、肉眼ではなかなか見えにくい感じだ
入ったすぐ右手のウマヤ、左手のニワ、奥がオエ
ウマヤ
ウマヤ
ミソベヤ
ミソベヤ
オエ(日常生活の場)
囲炉裏とその上に火棚が吊られているのが目を引く。火の粉が上がるのを防ぐとともに、濡れたものの乾燥などに使った。
オエ(日常生活の場)
ニワ
炊事をするだけだったらえらくだだっ広いと思ったが、隅の方で紙漉きなどの作業も行う水回りのスペースだったようだ。
台所の流し場には石の水舟が使われている。ちょっと贅沢。

台所の流し場_1
台所の流し場_2
カミスキワクとカミスキフネ
カミスキワクとカミスキフネ
手前がデイ(接客用)で奥がオマエ(正式な座敷)
手前がデイ(接客用)で奥がオマエ(正式な座敷)
デイ(手前)とオマエ(左隣)とオエ(奥)
デイ(手前)とオマエ(左隣)とオエ(奥)_1
デイ(手前)とオマエ(左隣)とオエ(奥)_2
オマエ
畳敷きで、浄土真宗が盛んな地域のためブツマ(仏間)が設けられているそうだ。ブツマは見えにくかったのか気が付かなかった。
オマエ
江向家の間取り
江向家の間取り

 

川崎市立日本民家園(5)

道祖神
見ての通り文字碑の方だ。この道祖神は群馬県沼田市にあったもので、享和元年(1801年)に建てられたもののようだ。
道祖神

(6)佐々木家住宅(ささきけじゅうたく)《信越の村》
川崎市立日本民家園を順路に従って巡回すると最初に出会う国指定重要文化財だ。概して軒が高いので、採光性は抜群だ。カブト造りにもしてあるので、さらに採光性は良くなっている。フラッシュを使用しない写真撮影を心がけたので、室内が明るくて非常に助かった。
他の殆どの古民家にはボランティアの人がいて、説明してくれて、床に上がり写真も撮れた(『床上公開』と呼んでいる)のだが、ボランティアの人たちの都合が付かなかったのか、その日のこの家屋では当該サービスが行われておらず、当然防火の観点から囲炉裏に火が入っていなかった。上がってじっくり見たかったのに、ちょっと残念だった。

旧所在地:長野県南佐久郡佐久穂町畑
建物区分:農家(名主の家)
構造形式:寄棟造、一重、一部中二階、茅葺、桁行24.1m、梁行7.3m
建築年代:享保十六年(1731)、延享四年(1747)に座敷普請
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建築工事の古記録が残る名主の家
この建物は名主の家で、長大で軒が高く、中二階の採光のために屋根の東側を「かぶと造」としています。こうした外観の特色のほか、普請帳(ふしんちょう)や記録によって家の歴史がわかる点で重要な民家です。
まず、享保十六年(1731)の新築願から建築した年がわかり、寛保三年(1743)の普請帳から千曲川氾濫の影響によって移築されたことがわかりました。延享四年(1747)の普請帳は座敷の増築を伝えています。上手の二室(マエデノザシキとオクノザシキ)がこれにあたり、客用の便所や風呂を備えていることからも、村内で相当な地位についたことがわかります。農家ですが紺屋を営んだ時期があり、中二階は村の寺子屋としても使われていました。


外側面
かぶと造
かぶと造とは、基本的には寄棟造あるいは入母屋造の屋根のうち、妻(建物の短手)側の屋根を切り上げた形式で、東日本各地に分布する。これだけ切り上げてあれば、十分な採光が可能だろう。
東側のみがカブト造りになっている。

外側面(東側)
川崎市立日本民家園HPの写真を借用
西側は普通の屋根になっている
外側面(西側)
軒下
大八車もあった
外側面(軒下)
正面
出入り口枠にある木の囲い部分は、男性用小便所だそうだ。ちょっと、ここで小用を足す勇気は出そうにない。
正面_1
縁側にはひさしが付いている
正面_2
室内
チャノマとオカッテ
どちらの部屋にも囲炉裏がある
チャノマとオカッテ
ナカノマとザシキ
ナカノマからは畳の間だ
ナカノマ_1
ナカノマ_2
フロバ
来客が湯を浴びる場で浴槽があったわけではないようだ。
フロバ
ドマからみたウマヤ
ドマからみたウマヤ
ドマからみたオカッテ
ドマからみたオカッテ_1
ドマからみたオカッテ_2
ドマからみたオカッテ_3
ドマからみたオカッテ_4
中二階の部屋へ至る階段
この部屋の採光のために東側がカブト造りになっていたのだ。
中二階の部屋へ至る階段
ミソベヤ(味噌部屋)
味噌部屋が用意されているとは、さすがに信州だけのことはある
ミソベヤ(味噌部屋)
佐々木家の間取り
佐々木家の間取り

 

川崎市立日本民家園(4)

石造物あれこれ
いずれも佐久穂町にあったもののようだ。
道祖神
風化してしまって、良くわからなかった
道祖神
庚申塔
これだけははっきりわかる
庚申塔
馬頭観音
よく見えないけれども結構恐ろしげな表情のようだ。
馬頭観音

(5)水車小屋(すいしゃごや)《信越の村》
久し振りに本物の水車を見た。いったい国内に現存しているものはいくつほどあるのだろうか。川崎市重要歴史記念物。
19世紀の巧みな動力源
水車は使用目的によって二種類に分類できます。ひとつは灌漑などで水を上げるのにつかうもの、もうひとつは動力として用いるものです。
この水車は後者で、米つき、粉ひき、蕎打ちなどに利用していました。
水車を動力に用いる場合、水が車輪に掛かる高さによって上掛け式、胸掛け式、下掛け式に分けることができます。上掛け式と胸掛け式の場合は水をみちびく樋が必要になりますが、下掛け式の場合は水流に直接車輪をひたします。本園の水車は上掛け式で、車輪の直径は約3.6m。傷んだ場合に修理がしやすいよう車輪は建物本体から外せるようになっています。

外観
水車小屋の外観_1
水車小屋の外観_2
水車小屋の外観_3
水車小屋の外観_4
本物だとわかる精緻な構造
本物だとわかる精緻な構造_1
本物だとわかる精緻な構造_2

岡信孝氏石造物コレクション
六地蔵
六地蔵_1
六地蔵_2
弘法大師
プレートには『巡礼道道標』とある。それは間違いが無いと思う。弘法大師の道案内とはユニークだ。文面は『古佛順礼○』とあるようだ。巡礼ではなく順礼とあり、次には字があるのか無いのか、わからない。
弘法大師
地蔵菩薩
享和二戌年(1802年)と書いてあるようだ
地蔵菩薩_1
地蔵菩薩_2
地蔵菩薩_3
馬頭観音
馬頭観音_1
寛政三亥年 (1791) 年)と書いてあるようだ
馬頭観音_2
馬頭観音_3

 

川崎市立日本民家園(3)

(3)佐地家の門・供待(さじけのもん・ともまち)《宿場》
残念ながら主屋の移築はなく、棟門と呼ばれる形式の門と供待のみの移築にとどまったようだ。うっかりして供待を見損ねた。川崎市重要歴史記念物指定。
お供が控えた武家屋敷の門
この建物は、もと名古屋城の東南にあり、禄高二百五十石の武家屋敷の出入口でした。主屋は名古屋に残されたため、現在は旧三澤家住宅を主屋に見立てて配置しています。
門は棟門(むなかど)と呼ばれる形式です。両袖部に突出している小屋根は、提灯を吊るすためのものです。供待はお供が主人の帰りを待つための施設で、内部は土間、門番部屋、囲炉裏のある板の間(供待)からなっています。供待が一つの建物として建てられるのは珍しい事例です。屋敷外は漆喰仕上げとして城郭風であるのに対し、内側は中塗りまでとして軒裏も木部を露出させた簡素な仕上げにするなど、体面を重んずる武士の家らしさが現れています。

外側から見た様子
見た感じは非常に立派だ。
外側から見た様子_1
外側から見た様子_2
外側から見た様子_3
門をくぐった様子
奥に見える家屋あたりに主屋があった
門をくぐった様子
門番部屋
間違いなく畳敷きの小部屋だったのだろうか?板張りの部屋に過ぎなかったような気がしてならない。
門番部屋
主屋側から見た様子
主屋側から見た様子

(4)三澤家住宅(みさわけじゅうたく)《宿場》
ちょっと驚かされた建物だった。何に驚かされたかは言わないでおこう。神奈川県指定重要文化財。
宿場で薬屋を営んだ板葺き屋根の家
この建物は、中山道から分かれる伊那街道の宿駅、伊那部宿(いなべじゅく)にありました。農業を主とし、代々組頭をつとめてきましたが、江戸時代の末に製薬・売薬業を始めて成功しました。
外観上の特徴は、石置板葺(いしおきいたぶき)のゆるい切妻造屋根と上手の門構え、それから式台玄関です。板葺の屋根は良材に恵まれた山間部の地域性によるものです。間取りにはこの宿場の半農半商的性格が現れています。通り土間(とおりどま)で大戸口(おおどぐち)から敷地奥へつなぐのは町屋の特徴です。一方、土間後部をウマヤとし、囲炉裏のあるオオエを中心に構成する点はこの地方の農家と共通しています。

正面
正面
右外側面
右外側面
ミセ
薬屋が薬種を保管するために用いた箪笥である百目箪笥が見える
ミセ_1
ミセ_2
階段箪笥もあった
階段箪笥
トオリとウマヤ(奥に見える囲い部分)
トオリとウマヤ(奥に見える囲い部分)
大釜専用の竈のようだ
大釜専用の竈のようだ
囲炉裏
囲炉裏やウマヤがあり、農家の特色をも併せ持つ
囲炉裏
特徴的な外観
外観上の特徴は、石置板葺のゆるい切妻造屋根と上手の門構え、それから式台玄関など。如何だろうか。
特徴的な外観_1
特徴的な外観_2

 

川崎市立日本民家園(2)

(1)鈴木家住宅(すずきけじゅうたく)《宿場》
神奈川県指定重要文化財。残念ながら現在は耐震工事中で、見学できなかった。故郷、福島県の住宅とは珍しい。見てみたかった。修復が終了したころに、再訪したいものだ。
川崎市立日本民家園HPの画像を借用
鈴木家住宅(すずきけじゅうたく)《宿場》
奥州街道の馬宿
この建物は、奥州街道の宿駅、八丁目宿の旅籠(宿屋)でした。南部駒を白河(福島県)方面の競り市(せりいち)に出す馬喰(馬商人)や、馬を世話する馬方を泊めた馬宿(うまやど)で、馬は土間に、馬方は中二階に、馬喰や武士は一階の座敷に宿泊しました。
街道に面した前部は、中二階造として旅籠の営業に当てています。 揚戸(あげど)、格子窓、日除けの板暖簾(いたのれん)、 深い軒の出など、宿場の民家の特徴が良く現れています。 後部は通り(とおり)土間に沿って奥に長くのび、左手に家族の生活の場であるチャノマ、カッテ、ニワ、右手に馬をつなぎとめておくマヤが並んでいます。
見どころポイント!
土間のマヤには14頭の馬をつなぐことができました。
狭い間口を活かすため、入口は引き戸ではなく開き戸に、正面の板戸は上に収納する揚戸になっています。


(2)井岡家住宅(いおかけじゅうたく)《宿場》
神奈川県指定重要文化財。外からは大した家に見えないが、中に入るとすごさがわかる。全てが移転されていれば、もっと驚かされたことだろう。
狭い間口を活かした奈良の商家
この建物は奈良の柳生街道に面した商家でした。古くは油屋を営み、のちに線香屋としてその製造販売を行っていました。
外観は正面に庇を設け、吊上げ式の大戸、格子、揚見世(あげみせ)を備えており、商家の面影を伝えています。また、柱などを塗り込んだ外壁や、瓦葺屋根は、防災を考慮した町屋の特徴をよく現しています。内部は一方を通り土間(とおりどま)とし、居室部は土間に沿って縦一列に三室を並べ、「つし」と呼ばれる中二階(物置)を設けています。正面左側のミセは商いの場で、右側のシモミセは品物の取引に、折りたたみ式の揚見世は品物の陳列に使われました。
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この家は囲炉裏がなく、かまどで生活をしていました。なお、中央の大かまどは荒神(火の神)を祭るもので、正月の餅つきのとき以外は使いません。

0279井岡家住宅(いおかけじゅうたく)《宿場》の外観
桶が2つおいてあるところは揚見世と呼ばれる折りたたみ商品陳列台
井岡家住宅(いおかけじゅうたく)《宿場》の街道から見た感じ_1
井岡家住宅(いおかけじゅうたく)《宿場》の街道から見た感じ_2
しもみせ
しもみせ_1
しもみせ_2
昔の建物は裏庭などが相当大きかったようだ。青線から下の部分が移築されたようだ。
青線から下の部分が移築された
庭竈は、土間につくりつけたかまどをいうが、江戸時代、奈良地方で、正月の三が日、入り口の土間にかまどをつくり、その周辺に一家の者が集まって飲食した風習をも言うようだ。飾り立ててあるところを見ると、後者の意味になるのかもしれない。
庭竈
外からは想像できないほど立派な室内だ
外からは想像できないほど立派な室内
みせ
みせ
中庭側から見た様子
中庭側から見た様子
屋根は桟瓦で、一部に本瓦を使っている。左右の棟に2列ずつと、中央に4列。豪勢なものだ。
屋根は桟瓦で、一部に本瓦を使っている

 

川崎市立日本民家園(1)

以前から行ってみたいと思っていた川崎市立日本民家園に行ってみた。小田急に出て行くのではかなり時間がかかるなと思って、正直なところ腰が引けていた。ところがアクセス方法を調べたら、溝の口駅から川崎市営バスで行くことができるとわかり、一転して行く気満々になった。
江戸東京たてもの園にも引けをとらない規模で、こういうものが大好きな私には、嬉しい施設だった。
画面が少々暗く見えるかもしれないが、本当に小雨交じりのどんよりした日だった。他の方の迷惑にならないようフラッシュの使用は差し控えてある。
国指定重要文化財、県指定重要文化財、市指定重要歴史記念物、国指定重要有形民俗文化財など、文化財の塊だった。


入り口付近
先客がかなりいた。中学生の社会科の屋外授業や老人会の施設見学会などのようだった。
入り口付近_1
入り口付近_2
エントランス
エントランスには、民具などの展示と解説が。見なくてもわかる内容だったので、軽く確認して、先を急いだ。
エントランスの展示_1
エントランスの展示_2
エントランスの展示_3
エントランスの展示_4
エントランスの展示_5
エントランスの展示_6

見た順番に紹介していく。番号は、川崎市立日本民家園のHPのそれと合わせる。

(0)原家住宅(はらけじゅうたく)
トップバッターは地元川崎市の住宅で、川崎市重要歴史記念物に指定のもの。お金をかけたしっかりした住宅であることがよくわかる。しかし建ち上がるまで22年も要したというのは、時間がかかりすぎだなあ。待っている内に死んでしまいそう。
木造建築技術が高度に磨かれた明治時代の豪壮な民家
この家は川崎市中原区小杉陣屋町に所在した大地主の主屋です。
原家の伝承によると、当住宅の建築は22年を要し、驚くほど慎重に家づくりを行ったことが伺われます。
主屋はケヤキ材をふんだんに使用した木造・二階建て・桟瓦葺き・延べ117坪(387㎡)の大規模住宅で、南に面しています。
2階に入母屋造りの大振りな屋根をかかげ、1階は正面の式台(格式ある玄関)に唐破風(からはふ)屋根設けたり庇(ひさし)屋根も瓦葺きとするなど、重厚で格式を備えた外観が特徴といえます。
内部1階は正面向かって左手(西側)に土間・台所の作業空間、その右手(東側)に前後2列・左右3列の居住空間があり、2階は家族の生活空間となります。
1階は天井が高く、柱も太く、丈の高い差鴨居(さしがもい)が多用されており、豪快な空間構成が印象的です。一方2階は室の大きさと天井高が適度に抑制され、生活部分としての落ち着いた空間を作り出しています。
木工技術に関してはすべてに渡って精度が高く巧妙であるといえます。大振りな屋根は出桁造(だしげたづくり)による二軒(ふたのき)構造でしっかり支えているように見えますが、実際は屋根裏の跳木(はねぎ)や梁が荷重を負担し、出梁(だしばり)(腕木)は見せかけのつくりとなっています。また、柱の前後左右に差鴨居が取り付く場合の「四方差し(しほうさし)」技法や、欅の厚板を用いた縁板が反ったり隙間を生じたりしないような複雑な加工など、目に見えない部分で多大な配慮が認められます。

原家住宅_1
原家住宅_2
原家住宅_3
原家住宅_4
原家住宅_5
土間から室内を見た様子
土間から室内を見た様子
土間の隅にあったオトコベヤ
土間の隅にあったオトコベヤ
アガリマ
非常に立派な日本家屋だ。差鴨居の高さには驚かされる。間仕切りの板戸はケヤキの一枚板か。うーーん。
アガリマ
ザシキ
ザシキ_1
ザシキ_2
ロクジョウ
ロクジョウ
イマ・ブツマ前の廊下
イマ・ブツマ前の廊下
ブツマ
ブツマ
イマ
イマ

 

近所の様子(5)

九品仏浄真寺(3)

本堂
本堂。仁王門を入て右の方にあり。11間四面の堂にて西に向へり。龍護傳と扁額す。これも阿慶の筆なり。本尊丈六の釈迦如来を安ず。開山珂碩上人手づから彫刻する所なりと云。左右に善導円光大師の木像を安ず。
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本堂には上人のほりあげた釈迦牟尼仏を中心に、右に善導大師、左に法然上人の像を安置している。中でも右側にある珂碩上人像は乾漆製の芸術価値の高いものである。堂の隅には、ぴんずる尊者像がある。本堂は総欅造りで、昭和42年修築し、かや茸屋根を銅茸にかえた。

本堂_1
本堂_2
通常の宗教行事にはこれより小型の数珠を用いているそうだ。
本堂_3
ご本尊
開山の珂碩上人が彫り上げたという釈迦如来像。大仏である。
ご本尊の釈迦如来像_1
ご本尊の釈迦如来像_2
ご本尊の釈迦如来像_3
本堂の左側
五劫思惟阿弥陀如来坐像
阿弥陀如来の異形のひとつで、経説によると四十八の大願を成就するために永い間、剃髪をすることもなく坐禅・思惟していたので、このような髪形になったという。
五劫思惟阿弥陀仏とは、阿弥陀仏がまだ法蔵菩薩だった時代、衆生を救うために菩薩行に励まれた後の姿です。その時間が「五劫(ごこう)」。そのくらい長い時間、じっと思惟をこらして修行した結果、菩薩から阿弥陀如来になるのですが、まさにその瞬間を現した姿なのです。
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木造五劫思惟阿弥陀如来坐像
世田谷区指定有形文化財(絵画・彫刻)
江戸時代
像高120cm
この像は、阿弥陀如来がすべての人々を救おうと「五劫」という長い期間にわたる修行中の姿を表現しています。特徴的な頭部は長い修業をしたために伸びた頭髪をあらわしたものです。
平成元年の解体修理の際に胎内から発見された文書により本像の制作には珂碩上人(かせきしょうにん)の弟子・珂憶上人(かおくしょうにん)が関係したことが分かりました。これにより浄真寺の伽藍が完成した元禄11年(1698)から、珂憶上人が没した宝永5年(1708)までの間に本像が造られたものと考えられます。

木造五劫思惟阿弥陀如来坐像ほか
乾漆珂碩上人倚像
見落としたようなので、世田谷区のHPの画像を借用
乾漆珂碩上人倚像
世田谷区指定有形文化財(絵画・彫刻)
江戸時代 元禄5年(1692)頃
像高136.5cm
本像は浄真寺を開いた珂碩上人の肖像で、椅子に座った姿から倚像と呼ばれています。顔の表情、数珠を握る姿など全体に写実的で、真に迫った感じが伝わってきます。乾漆造という奈良時代に盛んに用いられた技法で制作されており、江戸時代の作例としては珍しいものです。この像は上人の最晩年を現したものと考えられています。
乾漆造は、粘土で原型を造り、その上に麻布と漆を何層かに塗り固め、整形し、最後に粘土を抜き取って造る方法。

お面かぶり
3年に1度行われる世田谷の九品仏・浄真寺の行事「お面かぶり」。お面かぶりは正しくは「二十五菩薩来迎会」といい、東京都の無形民俗文化財に指定されている行事。人が亡くなったら、阿弥陀様が25人の菩薩様をしたがえて西方浄土からお迎えにきてくれる様子を行事化したもの。
これが、今年行われる。是非とも行ってみたいと考えている。

その他
総門へ至る道
総門へ至る道
天皇陛下お手植えの松
天皇陛下お手植えの松_1
天皇陛下お手植えの松_2
大銀杏
大銀杏
大カヤ
大カヤ

 

近所の様子(4)

九品仏浄真寺(2)

梵鐘と鐘楼
梵鐘は東京都指定の有形文化財だ。加えて、鐘楼の立派さが目を引く。相当にお金がかかっていそうだし、美しい姿をしている。
鐘は、宝永5年(1793)世田谷領の深沢、谷岡又左衛門の寄進で、作は、神田鍛冶町の河合兵部郷藤原周徳である。堂屋も欅造りで欄間には十二支がはられ、北に子、南に午がほられている。
鐘と鐘楼_1
鐘と鐘楼_2
三仏堂
本堂と向かい合って、三つの仏堂が並んでいる。堂ごとに丈六の阿弥陀佛三体づつを安置している。すべて珂碩上人と弟子珂憶上人の合作といわれているそうだ。大仏とは、「丈六(1丈6尺=約4.85m)以上の大きな仏像を言うようで、これが大仏になるのか、暫し考えたがわからなかった。帰ってから調べたら、坐像の場合はおよそ3m弱ということになるようだ。ということで、九品仏すべてが大仏で、本堂のご本尊釈迦如来坐像と合わせて10体の大仏様があると言うことになるようだ。
三佛堂。本堂の向ひにあり。三宇並びてたてり。何れも9間に6間の堂にて、堂ことに丈六の阿弥陀佛三体づつを安置す。すべて九体なるにより、通じて九品佛堂ともとなへり。中央の堂に上品上生上品中生上品下生、北の堂に中品上生中品中生中品下生、南の堂に下品上生下品中生下品下生と云額を扁す。いづれも当山二世項憶上人の筆なりと。
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浄真寺開山の珂碩上人は江戸霊巌寺(江東区)にあって、1664年に弟子の珂億上人に援けを得て釈迦如来像1躰と阿弥陀如来増像9躰の造仏に着手し4年後に完成をした。しかし、仏堂が洪水の被害を受けて別の土地(九品仏浄真寺の事)に新しく開山し、巨像を移すことになった。仏像は寄木造で像高2.74mから2.87mとなっている。

下品堂
下品堂_1
下品堂_2
下品堂の前から上品堂と中品堂とを見る
下品堂の前から上品堂と中品堂とを見る
上品堂
上品堂_1
上品堂_2
上品堂_3
上品上生
これでいきたいものだ。まかり間違っても、ずっと手前の閻魔様のところで引っかかったりはしたくないものだ。
上品上生_1
上品上生_2
上品中生
上品中生_1
上品中生_2
上品下生
上品下生_1
上品下生_2
上品堂3仏像が並んだ様子
上品堂3仏像が並んだ様子
阿弥陀如来の印相(栗隈山まんぷく寺のHPから転記)
生前の信心深さ(品)と善行の数(生)を上中下のそれぞれ三段階に分け、その人にあった極楽浄土へ阿弥陀さんは導いてくださるそうです。その九つとは以下の通り…
 上品上生 上品中生 上品下生
 中品上生 中品中生 中品下生
 下品上生 下品中生 下品下生

阿弥陀如来印相イラスト
中品堂
中品堂_1
中品堂_2

 

近所の様子(3)

九品仏浄真寺(1)

広い境内の本堂の対面に3つの阿弥陀堂があり、それぞれに3体合計9体のそれぞれ印相の異なった阿弥陀如来像が安置されている。この9体はそれぞれ、上品上生(じょうぼんじょうしょう)、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生という、浄土教における極楽往生の9つの階層を表しており、これをあわせて九品(あるいは九品往生)という。この九品の仏から、浄真寺は通称「九品仏」と呼ばれている。
このような九体阿弥陀は、他に京都の浄瑠璃寺にしかない。


九品仏駅
自宅から歩いても25分程度だが、午後からボランティア活動があったので、電車で出掛けた。改札口を出たところが踏切の内部だというのが、他の駅と大きく違うところ。
九品仏駅
参道
風情のある参道だ
参道_1
参道_2
参道_3
『禁銃猟 警視廰』
随分古い標識だ。背後を見たら明治30年に寄付されたようだ。帰宅して確認したら32年となっていた。そうだったのかなあ。
禁銃猟 警視廰_1
禁銃猟 警視廰_2
総門
総門_1
扁額『般舟場(はんじゅじょう)』
般舟とは、般舟三昧のことで、常に行道念仏して、現前に諸仏を見奉るをいうそうだ。
総門_2
総門_3
閻魔堂
閻魔堂
閻魔像
閻魔像
葬頭河婆
葬頭河婆
ツーショット
ツーショット
東門
東門_1
東門_2
東門_3
仁王門(紫雲楼)
仁王門(紫雲楼)_1
仁王門(紫雲楼)_2
仁王門(紫雲楼)_6
仁王門(紫雲楼)_7
紫雲楼と書かれている。この日は直下の戸が開けられていなかった。
仁王門(紫雲楼)_3
過去の撮影分から。一対の仁王像、楼上に阿弥陀如来と二十五菩薩像が安置されているほか風神・雷神の像もあるそうだ。
仁王門(紫雲楼)_4
仁王門(紫雲楼)_5

 

近所の様子(2)

天台宗経王山文殊院圓融寺
撮影時は日差しが強烈すぎて、国指定重要文化財の釈迦堂などはフィルタの用意なしには撮影しにくい状況だった。そのため一部は撮影条件が良かった昨夏のデータを使用してUPする。

東門と境内へ続く道
東門と境内へ続く道_1
東門と境内へ続く道_2
阿弥陀堂
正面
阿弥陀堂_1
背面
阿弥陀堂_2
釈迦堂(国指定重要文化財)
釈迦堂の建立は室町時代初期といわれ、東京都区内では最古の木造建築である。都内では2番目に古い。ちなみに都内最古は東村山市の国宝・正福寺地蔵堂とのことだ。
唐様に和様の美を取り入れた単層、入母屋造りの美しい屋根の線を見せている。中世建築の資料として貴重なこの建物は、国指定重要文化財である。

正面
釈迦堂(国指定重要文化財)_1
釈迦堂(国指定重要文化財)_2
釈迦堂(国指定重要文化財)_3
側面
釈迦堂(国指定重要文化財)_4
斜め後方から
釈迦堂(国指定重要文化財)_5
仁王門
仁王門_1
仁王門_2
仁王門_3
掲額など
掲額など
山門
この山門は、昭和26年(1951年)に品川御殿山の原邦造邸から移築されたものです。銘によると、天保4年(1833年)、元播磨国美嚢郡三木和田の某寺の山門として工匠黒田重兵衛常久、瓦匠勝清の手によって作られたものでしたが、明治33年(1900年)3月、原邦造氏の先代六朗氏の還暦記念に際して邸宅に移され、さらに邦造氏の好意によって圓融寺に移されました。まさに山門三遷して所を得たといえます。江戸期の建築としては屈指の名門に数えられます。
現在の山門は、平成元年の記念事業として屋根が修復され、袖塀が造築されています。

山門
圓融碑
日源上人五重塔の手前にある大きな石碑は、文化功労賞者の豊道春海(豊道慶中)氏の筆によるものです。中央の「融」の字を○で囲み、右端に「無礙天真」と書かれています。
「圓」は、まるく、あまねく、尽きないという意味で、「融」は、とけこむ、やわらぐという意味があります。また「無礙」とは妨げのないことをいい、「天真」とは天から与えられた人間の純粋な本性のことです。
したがって「圓融無礙天真」とは、天から与えられた人間の自己本来の姿は何事にも妨げられることがなく、大宇宙の中に融け入って自由であるという意味です。

圓融碑
日源上人五重石塔
仁王門をくぐった左手に、小さな五重塔のような石塔があります。これは圓融寺の前身である日蓮宗法華寺の開基日源上人(~1315)の供養塔です。五重石塔といえば笠石(屋根の形をした石)が重なったような造りのタイプが一般的ですが、この石塔は大変珍しく、軸石と笠石が別々の石で構成され、しかも軸石の一つ一つに高さがあるため、高さ約4.4メートルという雄大な塔身をほこっています。各軸石には上から「妙」「法」「蓮」「華」「経」と刻まれています。
また最下層の軸石には、造立の縁起が記されており、それによると、供養塔の建立時期は、寛永13年(1636年)8月で、遺骨が塵土に託しているのを惜しんで建てられた経緯が刻まれています。この時期は日蓮宗法華寺代十世日瑞上人の頃にあたります。
さらに法華寺が天台宗に改宗されると、この供養塔は再び荒廃がすすみ、文化11年(1814年)7月16日に当寺に参った十方庵釈敬順の記録によると、茫々たる草中に苔むして、上部の三重は崩れて側に転がっていたそうです(『遊歴雑記』より)。
しかし、供養塔の銘文には、同年8月に天台宗法華寺の第14世住職海順法印と村民たちによって再興されたとあるので、釈敬順が訪れた半月ほど後に今日見えるような五重塔に修復されたことが分かります。
昭和55年(1980年)には、目黒区指定文化財になりました。

日源上人五重石塔

遅まきながら、下記2品を追加注文した。
Kenko カメラ用フィルター PRO1D WIDE BAND サーキュラーPL (W) 52mm コントラスト上昇・反射除去用
KING バッグアクセサリー color collection カメララッピングクロス ブルー

 

近所の様子(1)

近所を小一時間、所用で歩くついでに、目についたものを撮ってみた。梅雨の合間の強烈な日差しで、汗まみれになったが、健康維持のためにはその方が良いかもしれない。

見事なツタがあるお宅
太く濃緑色のツタと淡い緑のノウゼンカズラだろうか
見事なツタがあるお宅_1
見事なツタがあるお宅_2
今井聖書館講堂
この講堂は無教会派の内村鑑三の活動拠点だった建物で、東京府の道路整備計画ため取り壊しを余儀なくされたため、1935年に当地に移築された。此処は教会ではなく、あくまでも聖書の講義を行うための講堂だったのだ。
以前書いた記事にjump
今井聖書館講堂_1
今井聖書館講堂_2
今井聖書館講堂_3
今井聖書館講堂_4
立源寺
寛永元(1624)年、元は日蓮宗の有力なお寺だった圓融寺(当時の寺名は法華寺)の住僧、遠聲院日運が開基した寺院。圓融寺は断乎不受不施を主張して止まなかったため、徳川幕府ににらまれ、天台宗へ改宗させられた。丁度この頃法華寺北之坊に住して不受不施派の学頭若しくは別当的立場に在った日運上人が、この地に隠居所として小庵を結んだのが立源寺の始まりである。
立源寺のHPには、幕府は新寺建立をも禁止していたが、僅かに小庵から山寺にすることは認められた等から察するに、開基遠聲院日運上人は政策に対する一時の方便として小庵を設け、実は不受不施派新寺建立の思いを秘めて、法華寺末として当山を建立したようだ。

立源寺_1
立源寺_2
鐘楼の屋根裏が結構凝ったものになっていた
立源寺_3
立源寺_4
途中で見かけた花
小さなクチナシの花
小さなクチナシの花
ランタナ
ランタナ

蓮は咲いていたものがなかった
蓮_1
蓮の葉に残った水玉をみるのが何故か好き
蓮_2
花壇の花
花壇の花_1
花壇の花_2
花壇の花_3
花壇の花_4

 

ヴェルニー公園~横須賀しょうぶ園(7) 一部花名訂正_06/14/ 20:15

横須賀しょうぶ園(5)
管理棟右横の『しょうぶ苑』(5)
八ヶ岳(江戸系)
八ヶ岳(江戸系)
晴間の響(江戸系)
晴間の響(江戸系)
八乙女(江戸系)
八乙女(江戸系)
酔美人(江戸系)
酔美人(江戸系)
雪姫(肥後系)
吉江524号(江戸系)
吉江524号(江戸系)
吉江524号(江戸系)
貝細工(伊勢系)
貝細工(伊勢系)
吉江520号(江戸系)
吉江520号(江戸系)
吉江499号(江戸系)
吉江499号(江戸系)
万代の波(江戸系)
万代の波(江戸系)
三光錦(肥後系)
三光錦(肥後系)
秀紫(江戸系)
秀紫(江戸系)

ここまでで、管理棟右横の『しょうぶ苑』は終了とし、少し間をおいて、中央部の『しょうぶ苑』を取り上げる。

 

EOS M2の試し撮り(その3)

ウォーキングで行った大圓寺が新しいカメラではどんな風に写るか試してみた。

行人坂
前回も書いたが、ものすごい急坂だ。
行人坂_1
行人坂_2
行人坂_3
行人坂_4
大圓寺
大圓寺石仏群
大圓寺石仏群_1
大圓寺石仏群_2
大圓寺石仏群_3
とろけ地蔵尊
目を凝らしてみてみたが、やはり目鼻立ちなど全くわからない。
とろけ地蔵尊_1
とろけ地蔵尊_2
本堂
外国人が熱心に祈っていた。祈る姿が美しいので感心した。
本堂_1
本堂_2
阿弥陀堂
『西運(吉三)発願本尊阿弥陀堂』と書かれてあった。吉三は単なる美男子であっただけではなく、心の優しい人だったようだ。それにしても、隔夜日参り一万日の行を27年と5ヶ月かけて成し遂げたとは凄いことだ。
江戸時代、本郷の八百屋の娘お七は天和2年(1682)の火事の際、自宅を焼かれしばらくの間、駒込の円林寺に仮住まいしており、その時に寺小姓の吉三に恋したという。お七が十六、吉三が十八でした。
恋こがれたお七は、吉三に逢いたさに翌年自分の家に放火したために、江戸市中を引き回しの上、鈴が森の処刑場で火刑に処せられた。
その後、一方の主人公「寺小姓吉三」はお七の処刑後、僧となり名を「西運」(さいうん)と改め諸国を行脚、後に大円寺の下隣りの明王院(現・雅叙園)に入ってお七の菩提を弔うため、往復十里(約40km)の道のりを浅草観音まで夜から明け方に掛けて鉦を叩き念仏を唱え、隔夜日参り一万日の行を27年と5ヶ月かけて成し遂げ、お七が夢枕に立って成仏したことを告げられたことから、「お七地蔵尊」を造った。また、西運は多くの江戸市民から浄財の寄進を受け、これを基金に寺前の行人坂に敷石の道を造り、坂下の目黒川に石の太鼓橋を架け社会事業の数々を行った。
明王院は明治13年に大円寺に吸収され、大円寺の境内に阿弥陀堂として祀られています。

阿弥陀堂

結構、良く撮れるものだと思った。暫く、これをメイン機にしていく気になってきた。

 

EOS M2の試し撮り(その2)

三味線と長唄の発表会を聞きに、国立小劇場に行った。
三味線の腕前は、なかなかのものだった。合間に踊った日本舞踊は、大してうまくはない感じ。
そして、観客のマナーは非常に残念な感じ。
劇場内の写真撮影は禁止だと再三言われているのに、無視して撮るおばさん。演奏中なのに下らないおしゃべりをやめないおばさん。こんなものなのかなあ。


途中、ヒカリエでの昼食
桜えびと春キャベツのパスタを注文した。最近のイタリアンは少し塩味を利かせるのが流行なのだろうか。それともこの素材の組み合わせだと、こういう風になるのかなあ。料理としてはcosi cosiだった。
前菜
前菜
メインディッシュ
メインディッシュ_1
メインディッシュ_2
そして国立劇場へ
妻はわずかの時間も無駄にしたくないらしく、こちらの伝統芸能情報館へ
伝統芸能情報館
行ったという証拠に
行ったという証拠に_1
行ったという証拠に_2

あまりにもテストにならなすぎた。本当は、昨日も撮影に行こうと思っていたのだが、自宅付近の電車事故(飛び込み自殺)でかなり長いこと電車がストップしていて、次までの時間を考えて断念した。
またの機会にしよう。

 

ヴェルニー公園~横須賀しょうぶ園(6)

横須賀しょうぶ園(4)
管理棟右横の『しょうぶ苑』(4)
諏訪御寮(江戸系)
諏訪御寮(江戸系)
金冠
金冠
岩戸神楽
岩戸神楽
桃源(伊勢系)
桃源(伊勢系)
水の光(江戸系)
水の光(江戸系)
恋慕椿(肥後系)
恋慕椿(肥後系)
初紅(江戸系)
初紅(江戸系)
町娘(江戸系)
町娘(江戸系)
小雪路(江戸系)
小雪路(江戸系)_1
小雪路(江戸系)_2
日輪
日輪_1
日輪_2
紫山(江戸系)
紫山(江戸系)
愛知の輝
愛知の輝_1
愛知の輝_2
桃児童(江戸系)
桃児童(江戸系)
初鏡(江戸系)
初鏡(江戸系)_1
初鏡(江戸系)_2

 

EOS M2の試し撮り(その1)

マイカメラを手にしてからの年数は相当に長い。そのわりには全く進歩していない。それどころか、体力と低下で、高価で重いシステムを抱えての撮影行がきつくなり、ある程度の価格でそこそこレベルを実現する重くないカメラが欲しくなった。
適当なものはないか探してきた。気になったのがFUJIFILMのX-E2とCANONのEOS M2だった。当初は、後者にはあまり関心が無かったのだが、トリプルレンズセットがやけに気になった。ヨドバシに行き、買いもしないのにじっくり触りまくり、感触を確かめた。


そして注文し、品物が届いた。開封の儀式などは一切行わないので、そういったたぐいの写真はない。
そして試し撮り。日吉に行き、慶応のキャンパスで何枚か撮ってみた。


最初はEF-M18-55mm F3.5-5.6 IS STMで撮影
日吉駅
いつの間にか市営地下鉄も走っているんだ。たいていは慶応の学生なんだろうけど、チャラい感じのあんちゃんが多いなあ。
日吉駅
キャンパス入り口近辺
前の信号を一度に渡ることができないんだ。結構、まじめに登校する感じだ。
前の信号
道の右側は高校に行く道。とっくに授業が始まっているからノコノコ登校する馬鹿者はいなかったようだ。
道の右側は高校に行く道
大学側は凄い人だ。二時限に向けて登校してきた連中かなあ。
大学側_1
大学側_2
大学側_3
大学側_4
こちらは陸上競技場
見違えるほど立派になっていた。桐生選手としのぎを削る山縣選手を見ようと待ち構えているのかなあ。
短距離ばかりでなく長距離にも力を入れて、箱根駅伝に出場しないものかと思うのだが、…。

陸上競技場
記念館
突き当たりの建物。随分古ぼけてきた感じだ。
記念館
第二校舎
昔からある白亜の校舎だ。しかし、何が入っているのかよくわからない。一度も足を踏み入れたことがない。
第二校舎
第一校舎
慶應義塾高等学校の校舎として使用されている。石原裕次郎、加山雄三なども古い卒業生だ。いつの間にか防空壕の入り口は撤去されたようだ。
第一校舎_1
第一校舎_2
第一校舎_3
第一校舎_4
第一校舎_5
第一校舎_6
第一校舎_7
第一校舎_8
第一校舎_9
第一校舎_10
第一校舎_11
慶應義塾高等学校の体育館
慶應義塾高等学校の体育館
慶應義塾高等学校の他の施設
多目的グランドはいつの間にか人工芝のグランドに変わっていた。
多目的グランド
『蝮谷』と呼ばれる体育会のいくつかの部の施設があるところへ通じる道
『蝮谷』へ通じる道
新しい校舎部分は何に使用しているのだろうか
新しい校舎部分は何に使用しているのだろうか
随分ぼろい建物が残っているんだ。あまり記憶にないが。感じとしては、どこかのクラブの部室かなあ。
随分ぼろい建物が残っているんだ_1
随分ぼろい建物が残っているんだ_2

藤山雷太氏の胸像
息子の愛一郎氏は記憶しているが、雷太氏は直接は知らない。が、あまりにも有名な実業家にして政治家だった人物。
藤山雷太氏の胸像
藤山記念館
藤山記念館
後輩たち
少し長い休み時間に、こうして大した用事も無いのに、大学側に行く。私もそうだった。高校は男子校なので、年上の女性でもいるだけで気分が華やぐのだろうか。
後輩たち

ここからはEF-M11-22mm F4-5.6 IS STMを使用
今回は、EF-M22mm F2 STMは使用しなかった。
来往舎という建物だそうだ。
来往舎_1
来往舎_2
その向かいの校舎
校舎は第二校舎を除いて、殆ど建て替えられてしまったようだ。このあたりは、古ぼけた校舎があったような記憶が。
来往舎の向かいの校舎

EF-M11-22mm F4-5.6 IS STMはかなり良さそうな感じ。
EF-M18-55mm F3.5-5.6 IS STMも良さそうな感じ。
カメラ本体はそれほど悪くない感じ。
これからいろいろ撮ってみないとわからないというのが正直なところだ。

 

ヴェルニー公園~横須賀しょうぶ園(5

横須賀しょうぶ園(3)
管理棟右横の『しょうぶ苑』(3)
三河八橋
しょうぶ苑には八つ橋とおぼしきものがわたされていて、その近くに『三河八橋』が植えられていた。なんという演出だろう。ただし、私には、何故、この花が三河八橋と名付けられたのかはわからないままだ。
三河八橋_1
三河八橋_2
新舞子(肥後系)
新舞子(肥後系)
磯辺(肥後系)
磯辺(肥後系)_1
磯辺(肥後系)_2
霧ヶ峰(江戸系)
霧ヶ峰(江戸系)_1
霧ヶ峰(江戸系)_2
清少納言(江戸系)
清少納言(江戸系)_1
清少納言(江戸系)_2
美吉野(伊勢系)
美吉野(伊勢系)
朝戸開(江戸系)
朝戸開(江戸系)_1
朝戸開(江戸系)_2
涼夕(肥後系)
涼夕(肥後系)
追風(江戸系)
追風(江戸系)
水車
八橋と共にしょうぶ園の雰囲気を引き立たせるための小道具なのかな
水車

 

ヴェルニー公園~横須賀しょうぶ園(4)

横須賀しょうぶ園(2)
管理棟右横の『しょうぶ苑』(2)
盛んにウグイスが啼いて、『じいさん、花菖蒲が泣いてしまうから、ちゃんと撮んなきゃダメだよ』と冷やかしているかのようだった。かなり結構な数の個体が至近距離で啼いている感じだった。
葵の上(肥後系)
葵の上(肥後系)_1
葵の上(肥後系)_2
長井小紫(江戸系)
長井小紫(江戸系)
爪紅
爪紅_1
爪紅_2
爪紅_3
翠映(江戸系)
翠映(江戸系)_1
翠映(江戸系)_2
蛇の目傘(江戸系)
蛇の目傘(江戸系)_1
蛇の目傘(江戸系)_2
蛇の目傘(江戸系)_3
吉江610号(江戸系)
吉江610号(江戸系)
花曇(江戸系)
花曇(江戸系)_1
花曇(江戸系)_2
桃園(肥後系)
桃園(肥後系)
ついでに
近くには大楠山(おおぐすやま)がある。ちょっと歩いてみたい山だ。
大楠山は、横須賀市西部にある海抜241.3mの山。三浦丘陵の一角をなし、三浦半島最高峰として知られる。関東100名山の第100番目だそうだ。

FREEの画像を借用した
大楠山

 

ヴェルニー公園~横須賀しょうぶ園(3)

6月3日(火)に、まだ早いとは思ったが、一度見ておきたいと思っていた横須賀しょうぶ園に行ってみた。日本有数の規模を誇る7000平方メートルのしょうぶ田に植えられたハナショウブが売りのところだ。位置的には三浦半島のど真ん中。ウグイスをはじめとする野鳥の啼き声が凄かった。花菖蒲を愛でる以外にも、この近隣で野鳥観察をする楽しみもありそうだった。

横須賀しょうぶ園(1)
しょうぶ園の案内図
しょうぶ園の案内図
管理棟右横の『しょうぶ苑』(1)
入ったすぐのところ
花の飾りが色鮮やかで目を引いた。
花の飾りが色鮮やか
アジサイはこれからだそうだが、なかなかきれいなようだ。
アジサイはこれから
少し広く見るとこんな感じ
まだ盛りとはいえない開花状況だった。
少し広く見るとこんな感じ_1
少し広く見るとこんな感じ_2
少し広く見るとこんな感じ_3
少し広く見るとこんな感じ_4
少し広く見るとこんな感じ_5
少し広く見るとこんな感じ_6
青岳城(江戸系)
青岳城(江戸系)
薫君(肥後系)
薫君(肥後系)
鳳凰冠(江戸系)
鳳凰冠(江戸系)_1
鳳凰冠(江戸系)_2
ピンクフロスト
ピンクフロスト
涼夏
涼夏

 

ヴェルニー公園~横須賀しょうぶ園(2)

ヴェルニー公園(2)
園内のバラ(2)
わたらせ      HT 1977年 日
わたらせ
ブルー・パフューム HT 1977年 独
ブルー・パフューム
ブルー・ライト   HT 1995年 日
ブルー・ライト
つるバラのゲートもいいな
つるバラのゲートもいいな
アンジェラ     CL 1984年 独
アンジェラ
つるサマースノー  CL 作出年国不明
つるサマースノー
港内で見かけた鳥さん
こちらはマガモかな?
マガモかな_1
マガモかな_2
マガモかな_3
マガモかな_4
カワウかな?
海だからウミウと思いたいところだが、カワウのようだ
カワウかな_1
カワウかな_2
カワウかな_3
カワウかな_4
本日の艦船(2)
アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦「マッキャンベル」(USS McCampbell, DDG-85)
アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦「マッキャンベル」
海上自衛隊の護衛艦『いかづち』(JS Ikazuchi, DD-107)
海上自衛隊の護衛艦『いかづち』

次回からは、横須賀しょうぶ園の様子を取り上げます。

 

ヴェルニー公園~横須賀しょうぶ園(1)

『目黒ウォーキングと昼食会』の写真が不出来だったので、撮り直しをする前に、次のシリーズを先行させることにする。
前回ヴェルニー公園のバラは咲きかけくらいだった。やや物足りなさを覚えたので、もう一度行ってみた。が、今度は少し遅すぎたようだった。盛りの時を見計らって行くのはなかなか難しいものだ。

ヴェルニー公園(1)
子規の句碑
『横須賀や只帆檣(はんしょう)の冬木立』
明治21年(1888年)8月、正岡子規は夏期休暇を利用して、友人とともに汽船で浦賀に着き、横須賀・鎌倉に遊んだ。碑の句は、横須賀港内に連なる帆檣(ほばしら)の印象を詠んだもので、句集『寒山落木』に収録されているそうだ。
子規の句碑
園内のバラ(1)
シャルダン・ドゥ・フランス  FL 1998年 仏
シャルダン・ドゥ・フランス
ヘルムット・コール・ローズ  HT 1996年 独
ヘルムット・コール・ローズ
ルージュ・メイアン      HT 1983年 仏
ルージュ・メイアン
ザ・プリンス         ER 1990年 英
ザ・プリンス
ローズ・ヨコハマ       HT 2000年 日
ローズ・ヨコハマ
光彩             HT 1987年 仏
光彩
ニコロ・パガニーニ      FL 1993年 仏
ニコロ・パガニーニ
本日の艦船(1)
アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦「フィッツジェラルド」 (USS Fitzgerald, DDG-62)
アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦「ステザム」 (USS Stethem, DDG-63)

紛らわしいことに艦船番号63というのが2艦あり、もう一つはタイコンデロガ級ミサイル巡洋艦カウペンス (USS Cowpens, CG-63) だ。長さは巡洋艦の方が当然大きいのだが、この位置からではわからない。前から見た形状からステザムと判断した。
「フィッツジェラルド」 &「ステザム」 _1
「フィッツジェラルド」 &「ステザム」 _2
「フィッツジェラルド」 &「ステザム」 _3
海洋観測艦『すま』
「ステザム」の横には海上自衛隊の海洋観測艦『すま』が停泊していた。潜水艦以外が米軍側に停泊することはあまりないのだが、何の用件があったのだろうか。海洋観測艦の主任務は、海底地形や底質、磁気雑音などの対潜戦に影響を及ぼす自然環境のデータ化だそうだ。
海洋観測艦『すま』

 

目黒ウォーキングと昼食会(5)

持って行ったレンズがしょぼかった。あまり、まともな写真が撮れていないので、途中は大幅省略する。

海福寺の本堂
黄檗宗のお寺さんは、東京では殆ど出会えそうにない。これは思いがけず珍しいものに出会ったぞ。これから本腰を入れて撮ろう。そう考えていた矢先に幹事の仕事で次の目的地へ先行してしていく羽目に。四脚門や鐘楼などは撮れずじまいだった。
海福寺の本堂_1
海福寺の本堂_2
海福寺の本堂_3

蟠龍寺の花
行人坂にあった称明院を、1710年に増上寺の霊雲上人が浄土宗の戒律を復興する為に現在地に移し、そのとき改名再建されたのが蟠龍寺だそうだ。途中に『不許辛肉酒入山門』の結界石があるので、このあたりに山門があったと思われる。熱中症になりかけた頭で、『不許辛肉酒入山門』ってどういうことだ。そんなに浄土宗の本来の戒律は厳しかったのだろうか、などと考えている内に、辞去してしまった。京都の法然院では『不許葷辛酒肉入山門』とあるそうだ。
寺社に入るのに酒をあおったり、肉をたらふく食べてから出掛ける馬鹿者もいないと思うが、…。
ともあれ、きれいな花たちが印象に残った。

蟠龍寺の花_1
蟠龍寺の花_2
蟠龍寺の花_3
蟠龍寺の花_4

目黒川
佇まいは最高なのだが、何分にも水の色が不気味だ。青い池じゃあるまいし、この薄気味悪い色は何故だろう。
目黒川_1
目黒川_2

 

目黒ウォーキングと昼食会(4)

都合上、順番を変えて紹介する。最後の食事会の前に行ったのが大圓寺。

大圓寺

江戸初期・寛永年間(1624)、この付近で住民を苦しめていた悪人どもを放逐するため、江戸幕府は奥州(山形県)湯殿山より高僧行人・大海法印を勧請して寺を開いた。法師は悪者どもを一掃し、その功績で、寺には「大円寺」の寺号が与えられという。寺には大日如来堂が建立され、多くの行人たちが周辺に住み修行するようになったため、前に位置する急坂は、「行人坂」と呼ばれるようになったと云われている。
山門を入ると、境内左手のがけに沿い幾段にも並ぶ石仏群がある。釈迦三尊像、五百羅漢像などから成る520体ほどの石仏像は、昭和45年、都有形文化財に指定されている。

大圓寺_1
大圓寺_2
大圓寺_3
大圓寺_4
大圓寺_5
大火犠牲者供養の羅漢像
大火犠牲者供養の羅漢像_1
大火犠牲者供養の羅漢像_2
行人坂火事延焼図
行人坂火事延焼図
振袖火事、車町火事と並んで江戸三大火のひとつである明和9年(1772年)の行人坂火事は、この大円寺が火元といわれている。この寺にとっては不名誉な話であるが、事実のようだ。同寺から出た火は、折からの強風により、たちまち白金から神田、湯島、下谷、浅草までを焼き尽くす大火となった。特に城中のやぐらまでも延焼したので、大円寺は以後76年間も再建を許されなかった。
再建が許されたのは、江戸時代後期の1848年(嘉永元年)になって薩摩藩主島津斉興の帰依を得て、その菩提寺として漸くのことだった。さらに、明治に入り隣接した明王院がこの寺に統合されている。

釈迦如来像
この寺のご本尊は、建久4年(1193年)に造られた清涼寺式釈迦如来立像(寄木造り・高さ162.8センチメートル)で昭和32年に国の重要文化財に指定されている。
永観元年(983年)奈良東大寺の僧「ちょう然(ちょうねん)」が、宋に渡った折、当地で見た天竺渡来の釈迦像に大いに感動した。僧はその像の模刻を日本に持ち帰り、京都嵯峨のお堂に安置した。お堂はやがて清涼寺となった。清涼寺式と呼ぶのは、こうしたいきさつによる。清涼寺の釈迦像は美しいが故に盛んに模刻され、現在は大円寺のほか、鎌倉の極楽寺などにも安置されている。

清涼寺式釈迦如来立像はこの建物の中に安置されているようで、行ったときには拝見できなかった。清凉寺式釈迦如来像の典型作であるとともに、制作年代の判明する清凉寺式釈迦如来像としては最古の作品として貴重だとのことだ。
清涼寺式釈迦如来立像
とろけ地蔵
大火の炎熱で解けたものと思ったが、全く違っていた。(^_^;)
江戸時代に漁師が海から引き上げたもので、名前のとおり、顔や手が溶けたような姿をされているお地蔵さまで、昔から悩み事をとろけさせ、解消してくれるありがたいお地蔵様といわれ、信仰を集めているそうだ。知らなかった。

とろけ地蔵_1
とろけ地蔵_2
薬師如来
薬師如来は、病気などに苦しむ衆生を救ってくださる仏様。身体の悪いところに金箔を貼り、真言「おん、ころころ、ぜんだりまとうぎ、そわか」を唱えて祈願すると、病気平癒のご利益を授けてくださるといわれているそうだ。病気に苦しむ人は少なくないようだ。
薬師如来_1
薬師如来_2
お寺さんの向かい
このお寺さんの向かいにホリプロがある。目の前の坂は急坂として名高い行人坂。延長は150mで、平均勾配は約15.6%だそうだ。凄いものだ。
お寺さんの向かい_1
お寺さんの向かい_2

 

目黒ウォーキングと昼食会(3)

目黒不動尊瀧泉寺(2)
大本堂
本尊は目黒不動明王。秘仏扱いとなっている。12年に1度のご開帳の時を待つか、お札でその姿を想像するしか無い。
大本堂_1
大本堂_2
お札の姿、つまりご本尊の姿に似た感じの『護衛不動尊』
お札の姿に似た感じの『護衛不動尊』
大本堂裏手の様子
大本堂裏には、不動明王の本地仏として『大日如来像』が安置されている。大日如来を中心にして四隅を四天王が固めている。
化身の方がご本尊として大本堂内に大事に収められていて、本来は大事なはずの本地仏の『大日如来像』の方が雨露に晒されている。何だかおかしな感じがしないでも無い。

大日如来像_1
大日如来像_2
持国天 - 東勝神洲を守護する。乾闥婆、毘舎遮を眷属とする。
持国天

増長天 - 南瞻部洲を守護する。鳩槃荼、薜茘多を眷属とする。
増長天
広目天 - 西牛貨洲を守護する。龍神、毘舎闍を眷属とする。
広目天
多聞天 - 北倶廬洲を守護する。毘沙門天とも呼ぶ。原語の意訳が多聞天、音訳が毘沙門天。夜叉、羅刹を眷属とする。
多聞天
鐘楼
石段を登って右側にある。やはり、戦後に再建されたものだという感じが否めない。もう少し、古ぼけた感じに見せる技術は無かったのだろうか。
鐘楼

 

目黒ウォーキングと昼食会(2)

いつの間にかFC2にUPLOADするファイルサイズの上限が2MBに変更になっていたようだ。今回から従来のファイルサイズの倍程度に上げてUPLOADしてみた。腕前が良くないのは相変わらずだが、多少は見た感じが違うだろうか。
フルサイズの画像データには思い切りすごさを見せつけられるようになるかもしれない。


権八・小紫の『比翼塚』
目黒不動尊瀧泉寺の門前にある。『比翼塚』という言葉が、今でも残っている。好きあって死んだ男女や、仲のよかった夫婦を合葬した墓あるいは記念碑をそう呼ぶのだそうだ。こちらは、有名な権八・小紫の『比翼塚』だ。さらに、この近くには、小紫の身を案じた三浦屋の下女『かむろ』の悲しい話も残っている。
そこには『新東京名勝・選外十六景 目黒不動』の碑も立っている。選外にしか扱われなかった腹いせで、敷地内には立てさせなかったのだろうか。

権八・小紫の『比翼塚』_1
権八・小紫の『比翼塚』_2
むかし、ここには普化宗東昌寺がありました。
江戸の初め、鳥取藩士平井権八は父の同僚本庄助太夫を殺害して江戸に逐電。吉原三浦屋の遊女小紫と馴染となって金に困り、浅草日本堤で通行人から金銭を奪い辻斬り殺人強盗を重ねました。
ある時、この寺の住僧随川にかくまわれ、尺八を習いました。改心した権八は死ぬ前にもう一度両親に会いたいと思い、虚無僧となって郷里鳥取に帰りましたが、すでに両親とも他界していました。観念した権八は江戸に戻って自首し、鈴ヶ森で処刑されました。
随川によって遺骸は東昌寺に葬られましたが、そこへ小紫が吉原から抜け出てきて権八の墓の前で後追い心中しました。人々は二人を哀れみ建てられたのが、この比翼塚です。
平井権八の話は、浄瑠璃や歌舞伎に脚色され、白井権八のモデルとなりました。
また、江戸に出奔して行く美貌の若侍白井権八が、鈴ヶ森で大勢の雲助にからまれて、やむなく切り払って立ち去ろうとした時、江戸の侠客幡随院長兵衛が駕籠の中から権八を呼び止める「お若えの、お待ちなせえやし」の名科白はご存知と思います。正当防衛とはいえ人を斬ったのを見られた権八はうろたえますが、長兵衛は口外しないと安心させ「いつでも尋ねてごぜえやせ。陰膳すえて待っておりやす」と江戸での再会を約束する名場面です。
実際には権八が生れるころに長兵衛は、旗本奴の水野十郎左衛門に殺されています。


目黒不動尊瀧泉寺(1)
仁王門
いかにも戦後、鉄筋コンクリートで再建されたという感じがありありの残念な外観だ。
仁王門
垢離堂
青龍大権現をまつる
垢離堂_1
垢離堂_2
前不動堂
東京都指定有形文化財。戦災に焼かれた諸堂の中にあって、勢至堂とこの前不動堂が、江戸時代からの建築物として残る。敷地の端っこにあった二つの堂宇のみが残ったのか。何度行っても、その隣の勢至堂の方は見落としている。何故だろう。
前不動堂
独鈷の瀧
お寺の名称・瀧泉寺の名の由来ともなっている。慈覚大師が仏具である独鈷を投げたところ、その場所から霊泉が流れ出した、という伝承があり、現在も枯れることがないのだという。また、江戸時代には、周囲の村々の田畑をも潤したのだとか。これだけあちこち掘り返していて、水脈が未だに枯れないとは不思議なほどだ。
独鈷の瀧_1
独鈷の瀧_2
独鈷の瀧_3
独鈷の瀧_4
独鈷の瀧_5
水かけ不動明王
こちらもご本尊の不動明王像に似ているのかなあ。
水かけ不動明王
恵光照無量
ずーっと読めずにいた。思い切って寺の人に聞いてみた。
私の智慧は、このように光の如く、尽きることがなく、寿命が尽きることがない。それは、永きにわたり、修行して、そうした光を得たからである。…というようなことらしい。
画像を拡大して読んでみると、
明治四十年六月寄付 滝場修繕工事 京橋区鎗屋町 大鐵
と書かれてあった。

恵光照無量_1
恵光照無量_2

関東三十六不動霊場札所・江戸三十三観音霊場結願札所・山手七福神札所
『目黒不動尊ご詠歌』 清らけき 目黒の杜の獨鈷瀧 災厄難を除ける不動尊
『聖観世音ご詠歌』  身と心 願ひみちたる不動瀧 目黒の杜におはす観音
目黒不動尊は、天台座主第三祖慈覚大師圓仁が開かれた関東最古の不動霊場です。
日本最古の土板(縄文時代)が発掘された境内は、往古より霊域であります。
大同三年、十五歳の慈覚大師は、伝教大師最澄のもとへ赴く途上、当地に立寄られ、霊夢を見ました。
面色青黒く右手に降魔の剣を提げ左手に縛の縄を持つ誠に恐ろしい形相の神人が枕上に現れて『我この地に迹を垂れ魔を伏し国を鎮めんと思ふなり。来つて我を渇仰せん者には諸々の願ひを成就させん。』と告げられました。
夢覚めた後その尊容を自ら彫刻されたのが、御本尊目黒不動明王です。
堂宇建立を決意された大師が、法具の獨鈷を投じると、そこに泉が湧出。「獨鈷の瀧」と名づけられたこの霊泉に因んで、当山を「瀧泉寺」と号されました。
貞観二年には清和天皇より「泰叡」の勅額を賜り、爾来「泰叡山」と称します。
寛永年間には、徳川家光公の帰依を受け、堂塔伽藍が復興されました。
目黒で鷹狩りをした際、愛鷹が行方しれずになり、三代将軍は自ら目黒不動尊御宝前に額づき、祈願。すると忽ち鷹が本堂前の松樹(鷹居の松)に飛び帰りました。
この霊験を目の当りにした家光公は瀧泉寺を篤く尊信することとなり、大願成就の報恩に、諸堂末寺等併せて五十三棟に及ぶ大伽藍を造立します。
歴代の将軍が折々に参詣する宏壮な堂塔は『目黒御殿』と称され、庶民も列を成して詣でる江戸随一の名所となりました。
青史に名をとどめる傑士が多く参堂し、さつまいもの栽培を広めた「甘藷先生」こと蘭学者・青木昆陽が当山の墓地に眠り、毎年10月28日には先生の遺徳を偲ぶ『甘藷まつり』が開かれます。
二宮尊徳は報徳仕法の成功を祈誓し、西郷隆盛は主君島津斉彬公の当病平癒のために日参。東郷元師は日本海海戦の勝利を立願しました。
その所願は円満成就し、いよいよ不動尊信仰は隆昌を極めました。
開創以来千二百餘年を閲する今日も変ることなく、鎮護国家並びに萬民豊楽を祈念して、護摩供が毎日厳修され、毎月28日の目黒不動尊大縁日には、門前や境内に露店が並び、多くの参拝者が訪れます。

 

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