散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

日赤病院から代官山駅まで(2)

見たかったような見たくなかったような、…。気持ちの整理がつかないままに、渋谷駅-代官山駅間の高架線路跡に出てきてしまった。

東横線高架跡
私の記憶が消えてしまう。線路跡はバス専用道にでもするのかと思っていたが、私の見通しは甘かった。無残にも取り壊されつつあった。いずれ痕跡など全くないほどに整理されてしまうのだろう。見ておくなら今のうちだ。
渋谷駅に近いあたりはどうなっているんだろうか。そちらの様子も非常に気になる。

東横線高架跡_渋谷区東_1
東横線高架跡_渋谷区東_2
今までは電車で通るだけだったから気にして見たことがなかった。高架の下はどうなっていたのだろうか。都立大学駅前だと商店街になっていたりするのだが。
東横線高架跡_渋谷区東_3
JR線路を超える
渋谷と恵比寿の間には、東横線が山手線の頭上を横切る「トラス橋」が架かっている。役目を終えた今、撤去を待つだけになっていた。討ち入りを果たした後の赤穂浪士のようだ。
線路をまたぐ東横線の鉄橋はこんなだったのだろうか。何か頼りない感じがしてならない。撤去に向けての作業を始めた結果なのだろうか。

JR線路を超える_1
JR線路を超える_2
JR線路を超える_3
JR線路を超える_4
JR線路を超える_5
JR線路を超える_6
鉄橋を撤去するためには、JR電車の架線を支えている鉄橋側の吊り下げ用の碍子に代えて、架線の垂れ下がりを防止する新たな支えを此処の近くに設置する必要がありそうだ。そして、吊り下げ用の碍子をお役御免にするのか。大変なんだなあ。
JR線路を超える_7

山手線を超えるとそこは渋谷区東(本来は渋谷区恵比寿東)2丁目から渋谷区恵比寿西2丁目に。代官山駅はすぐ近くだ。

東横線高架跡
かつてはずいぶん高いところを走っていたんだ。それが今は全くの地下。その高低差たるやかなりのものだろう。
東横線高架跡_渋谷区恵比寿西_1
東横線高架跡_渋谷区恵比寿西_2
東横線高架跡_渋谷区恵比寿西_3
東横線高架跡_渋谷区恵比寿西_4
東横線高架跡_渋谷区恵比寿西_5
近くに行くととんでもなくデカイ
代官山アドレス・ザ・タワーはやっぱり大きい。同潤会アパートもそれなりに雰囲気があったけど、景色が激変するのは時の流れなのかなあ。
代官山アドレス・ザ・タワー_1
代官山アドレス・ザ・タワー_2
代官山アドレス・ザ・タワー_3
もうすぐ代官山駅
駅近くにはおしゃれな店が沢山
もうすぐ代官山駅_1
もうすぐ代官山駅_2
駅に入るための階段が見えてきた。下方面からだといっぱい上らなくてはいけないし、ちょっと足元が怖い感じだ。
もうすぐ代官山駅_3

 

日赤病院から代官山駅まで(1)

日赤病院でお見舞いをしたあと、中目黒駅か代官山駅かまで歩くことにした。歩き出したら、あまり調子が良くなさそうな感じなので、多少は近いはずの代官山駅までの歩きに切り替えた。
こんなふうに道案内させるつもりだったのに、新しく買ったasus memo pad hd7の使い方に慣れておらず、結局道案内なしで行くことにした。従って、この先はかなりぶらぶら歩いた感じ。
asusのscreen shot
だいたいはこんなコースになった。比丘橋をわたってからの道筋が少し違うのだが、大勢に影響はない。ほぼ2.0kmほどの道程。
概略コース

日赤病院(日本赤十字社医療センター)9階からの眺め
当然六本木ヒルズなどがよく見える
日赤病院(日本赤十字社医療センター)9階からの眺め_1
日赤病院(日本赤十字社医療センター)9階からの眺め_2
日赤病院(日本赤十字社医療センター)
建て替えてからえらく敷地が狭くなったような感じがしてならないが、どうなのだろうか。
日赤病院(日本赤十字社医療センター)
東京女学館
日赤の向かいにある女学校。渋谷からの路線バスは、実践女子大、國學院大、東京女学館大などに行くバス路線で、『学バス』扱いということで、170円の割安料金になる。ありがたい話だ。尤も、帰路は坂を下るコースを歩いたので、恩恵に預かったのは片道分だけ。
東京女学館
広尾3丁目
とりあえず、広尾3丁目の交差点まで来た。此処で左折する。この通りも駒沢通りになるのだろうか。
広尾3丁目_1
広尾3丁目_2
山種美術館
少し行くと山種美術館が見えてきた。山種証券(現・SMBCフレンド証券)およびヤマタネの創業者・故山崎種二が長年にわたって蒐集した美術品の寄附により1966年に開館した日本画の専門美術館だ。恥ずかしながら一度も入ったことがない。通りすがりにチラと見た感じでは、かなりのお客さんが来ているようだ。
山種美術館_1
山種美術館_2
凄い展示内容のようだぞ
山種美術館_3
山種美術館_4
広尾高校裏
まっすぐ進むと渋谷橋交差点になる。ここで右折し、都立広尾高校前を通る。
広尾高校裏
広尾高校前
高校の前には『服部南郭別邸跡』の標識があった。江戸時代の儒学者風情で別邸など持つことができたのか。ふ~~ん。
ここは渋谷区東2丁目。どういうわけか恵比寿東の恵比寿がとれてしまったようだ。何に対する東なのか知る上では付けておくべきだと思うのだが、…。

服部南郭別邸跡
代官山アドレス・ザ・タワー
途中からランドマークが見えてきた。あちらに向かっていけば、代官山駅か。
代官山アドレス・ザ・タワー
東3丁目
明治通りを渡る。流石に、明治通りだ。交通量がすごく多い。
東3丁目_1
東3丁目_2
渋谷川と比丘橋
渋谷川を渡る比丘橋(びくばし)。随分風情のある名前だ。橋はなんということもないのだが、あの『春の小川』に歌われた渋谷川にかかる橋だ。
比丘橋のしたを流れる渋谷川
何でこんな中途半端な撮り方をするのかと思われるだろうが、落書きがひどくて、唯一綺麗に見える部分のみを撮った次第だ。
比丘橋
都バス車庫
東横線の車窓からよく見えていた都バスの車庫。高層上屋は都営渋谷東2丁目第2アパート。向かいは交通局渋谷大和寮とのこと。東横線の廃止された高架線路の状況については、次回取り上げる。
都バス車庫_1
都バス車庫_2
都バス車庫_3
渋谷清掃工場
これまた車窓からよく見えていた渋谷清掃工場。正しくは『東京23区清掃一部事務組合渋谷清掃工場』というようだ。ふうっ、長ったらしい名前だ。
渋谷清掃工場_1
渋谷清掃工場_2

 

芝離宮恩賜庭園(3)

引き続き池を楽しんで歩いてみる

鯛橋のあたりを眺める
鯛橋のあたりを眺める_1
暗緑色の木の後ろ辺りに石段が見える。そこが九尺台(九盈台)ではないかと思う。明治天皇が明治八年にこの庭園に行幸された際、この台上から、海で漁民達が漁をする様子や海の眺望を楽しまれたところだそうだ。
鯛橋のあたりを眺める_2
九尺台
見落としたので、freeの画像を借用する
九尺台
また歩く
実にいろいろなものに覗かれている気が
実にいろいろなものに覗かれている気が_1
実にいろいろなものに覗かれている気が_2
花が少し咲いていた
十月桜
十月桜
梅かな
梅かな_1
梅かな_2
大山からの眺め
この大山の頂きは、庭園が一望できる園内屈指の景勝地だそうだ。確かに広角レンズを所持していれば、良い画像が撮れるかも知れない。
大山からの眺め_1
大山からの眺め_2
この石のあるところが枯滝だったかもしれない。完全に見落とした。freeの画像も見つけられなかった。大変申し訳無い。
枯滝だったかも
また歩く
この小島も基本的には人が近づけないから、鳥さんたちはのんびり寛いでいた
鳥さんたちはのんびり寛いでいた
雪見灯籠
池の畔に設置されたこの灯籠は、明治時代に迎賓のための演出にと作られたものだそうだ。当時はこの灯籠と池と、そしてその向こう側には品川の浜辺や隅田川の河口などが一望できただろう。相当な景色の良さだったはずだ。いまは残念ながらビルが眺望を奪ってしまっている。
雪見灯籠
最後に弓道場方面を眺める
なかなか枝ぶりが良い松が植えられている
枝ぶりが良い松
その他
旧芝離宮恩賜公園海水取水口跡
いまは完全に淡水化してしまったが、かつて海水を取水していた頃の遺構だ。
見落としたので、freeの画像を借用する
旧芝離宮恩賜公園海水取水口跡
石柱
忠朝が小田原藩主の頃、後北条氏に仕えた戦国武将・松田憲秀旧邸の門柱を運び入れたもの。茶室の柱として使われたと推定されているそうだ。
見落としたので、freeの画像を借用する
石柱

以上で芝離宮恩賜庭園は終了です。暫くは短いものが続く予定です。

 

芝離宮恩賜庭園(2)

引き続き池を楽しんで歩いてみる

西湖の堤
これは西湖の堤。中国東部の沿岸に位置する浙江省にある美しい湖、西湖とそこに築かれた堤を模したものだそうだ。たしかに中国風の佇まいだ。
西湖の堤_1
西湖の堤_2
西湖の堤_3
中島
西湖の堤で池を渡ると、その先にあるのは中島。仙人が住む不老不死の山、中国の伝説の蓬莱山を表しているそうだ。それにしても石をふんだんに用いているものだ。幕府の老中にして小田原藩主だった大久保忠朝の力を見せつけたところか。
中島
引き続き池の様子
中島の周囲はホシハジロの陣地だろうか
中島の周囲はホシハジロの陣地だろうか_1
中島の周囲はホシハジロの陣地だろうか_2
中島の周囲はホシハジロの陣地だろうか_3
橋を渡してない小島には、カモがたくさん屯していた
橋を渡してない小島には、カモがたくさん屯していた
こちらは木の橋がかかっている
木の橋_1
木の橋_2
池の畔の溶岩
池の畔に並べられた石は、藩地の近くにそびえる富士山の溶岩とのことだ。今では持出し禁止だろうが、当時はそんなことお構いなしだったようだ。
池の畔に並べられた石
カモさんばかり撮っていたら俺達も撮ってとばかりに
俺達も撮って
四阿
途中には四阿があった
途中には四阿があった
四阿から中島方面(真西方向)を眺めると、今は陳腐化した感のある昭和の風景の代表かもしれない東京タワーと貿易センタービルとが視界に入った。
四阿から中島方面(真西方向)を眺めると
石橋
石橋を渡ると大島。落ちても大したことにはならないとは思っても、手摺のない橋は落ちてしまいそうな気がしてやや怖い。
石橋_1
石橋_2
石橋_3
ここ(石橋の手前)からだと文化放送まで見える
ここ(石橋の手前)からだと文化放送まで見える
鯉橋
渡った先は根府川山。この石橋は鯛の形に似ているのかなあ。そう思ってみていると見えなくもないから不思議だ。
鯉橋_1
鯉橋_2
写っている鳥はツグミだと思っていたのだが、よくよく見るとムクドリかなあ。
ムクドリかなあ_1
ムクドリかなあ_2
根府川山
根府川から浜松町までうまい具合に海伝いに運ぶことができただろうから、運搬が極めて困難ということはなかっただろう。それにしても、大変な量だ。
根府川山_1
根府川山_2
根府川山_3
最奥部
東京ガスとの敷地境にある樹木。先日の雪の重みでやられたのだろうか。無残にもポキリと折れてしまったようだ。
最奥部_1
最奥部_2
最奥部から汐留方面(真北方向)を眺める。富士山が池に映るならまだしも、汐留のビル群では味も素っ気もないものだ
汐留方面(真北方向)を眺める

 

芝離宮恩賜庭園(1)

現役時代、毎日のような上から眺めていた旧芝離宮恩賜庭園。いつでも行くことができると思いながら、実際に庭園内に足を踏み入れたことがなかった。遅きに失した感がなきにしもあらずだが、何とか初めての訪問を果たした。

旧芝離宮恩賜庭園は、現存する大名庭園としては最も古いものの一つで、江戸庭園の典型である回遊式築山泉水庭園です。延宝6年(1678)四代将軍家綱から拝領した老中大久保加賀守忠朝が、約8年の歳月をかけて作庭し、「楽壽園」と命名しました。
庭園は、その後数氏を経て有栖川宮家のものとなり、明治8年(1875)に宮内庁が買い上げて、翌9年に芝離宮となりました。大正13年(1875)、昭和天皇の御成婚を記念して当時の東京市に下賜され、旧芝離宮恩賜庭園として公開されました。
面積は43,070㎡、樹木数は高木約1,900本、低木3,000株です。中心となる泉水は広さ約9,000㎡で、昔は東京湾から海水を取り入れた潮入りの池でしたが、現在は淡水の池になっています。昭和54年(1979)、文化財保護法により「名勝」に指定されています。


芝離宮恩賜庭園入り口の様子
芝離宮恩賜庭園入り口の様子_1
芝離宮恩賜庭園入り口の様子_2
芝離宮恩賜庭園入り口の様子_3
芝離宮恩賜庭園入り口の様子_4
芝離宮恩賜庭園入り口の様子_5
全体はこんなふう
園内マップ
園内マップ
旧芝離宮恩賜公園の俯瞰図
なかなか全体の感じがつかめないだろうから、上から見た感じで全体を把握いただきたい。駅前道路が北側、高速道路が東側、JR線路が西側、東京ガスビルが南側。入り口は写真左下の辺になる。
free画像を借用
旧芝離宮恩賜公園の俯瞰図
入口付近
大きな藤棚
花が咲いたらさぞかし見事なことだろう
大きな藤棚
園内からは文化放送の建屋が見える
あの平べったい部分には電波送出の仕掛けがあるのだろうか。
文化放送の建屋が見える
池の様子
少し池が見え出した
少し池が見え出した_1
少し池が見え出した_2
少し池が見え出した_3
少し池が見え出した_4
ホシハジロもいる
雄は赤味のある茶色の頭、黒い胸。雌は全身褐色で目のまわりに白っぽい線。
全長は48cmほど。湖沼や河川に飛来する冬鳥だが、北海道では一部繁殖する例もあるようだ。
浜離宮やこの芝離宮でよく見られるが、他ではどういうわけかあまり見たことがない。そしていつも首をひねって眠っているような感じ。少しはサービスしてちゃんと姿形を見せてもらいたいものだ。

ホシハジロ_1
ホシハジロ_2
他のカモさんたちとも仲良くやっているようだ。いつも思うのだが、雄に比して雌は薄汚れたような感じがするなあ。
他のカモさんたちとも仲良くやっているようだ_1
他のカモさんたちとも仲良くやっているようだ_2
他のカモさんたちとも仲良くやっているようだ_3
池は素晴らしい景観に仕上がっている感じだ
池は素晴らしい景観に仕上がっている感じだ
とりあえず、池にそって歩を進めてみよう
池にそって歩を進めてみよう_1
池にそって歩を進めてみよう_2
池にそって歩を進めてみよう_3
池にそって歩を進めてみよう_4
池にそって歩を進めてみよう_5
池にそって歩を進めてみよう_6
池にそって歩を進めてみよう_7
池にそって歩を進めてみよう_8
池にそって歩を進めてみよう_9
池にそって歩を進めてみよう_10
池にそって歩を進めてみよう_11
池にそって歩を進めてみよう_12
池にそって歩を進めてみよう_13

 

鎌倉五山ほかを訪ねる(20)

最後に長谷寺から歩いてすぐの鎌倉文学館に行くことにした。

鎌倉文学館
鎌倉文学館は、神奈川県鎌倉市長谷にある鎌倉ゆかりの文学、特に鎌倉文士をテーマにした鎌倉市立の資料館である。3階建てであるが、3階は木造であり非公開となっている。
1890年頃に侯爵前田利嗣の鎌倉別邸として建てられたが、1910年(明治43年)に火事により失われた。現在の建物は侯爵前田利為が1936年(昭和11年)に洋風に全面改築した建築物である。渡辺栄治が設計し、竹中工務店が施工している。
戦後の一時期、デンマーク公使や内閣総理大臣佐藤栄作の別荘として使用されたが、1983年に前田利建から鎌倉市に寄贈され、外観をそのままに内部の補修・収蔵庫の新築をおこない、1985年10月31日に開館した。
2000年(平成12年)3月、国の登録有形文化財となった。

2月の収蔵品展は、「生誕110年 小津安二郎」だった。小津監督が嫌いなわけではないが、文学館に行って、映画作品の展示ばかりで、他にはごくわずか、『ビブリア古書堂の事件手帖』のセル画展示があるのみ。やや期待はずれの展示内容だった。
おまけに、此処も建物内部は写真撮影禁止扱いになっていた。京都の悪しき習慣が日本全土に蔓延しているようで、到底納得出来ない。


文学館に至る道
文学館に至る道_1
文学館に至る道_2
文学館に至る道_3
文学館に至る道_4
文学館に至る道_5
文学館に至る道_6
文学館(旧前田侯爵の鎌倉別邸)
文学館(旧前田侯爵の鎌倉別邸)_1
文学館(旧前田侯爵の鎌倉別邸)_2
文学館(旧前田侯爵の鎌倉別邸)_3
文学館(旧前田侯爵の鎌倉別邸)_4
文学館(旧前田侯爵の鎌倉別邸)_5
文学館(旧前田侯爵の鎌倉別邸)_6
文学館(旧前田侯爵の鎌倉別邸)_7
美しい庭
美しい庭

染谷太郎太夫時忠邸阯
時忠は、鎌倉の大臣山(鶴岡八幡宮の裏山)に鎌を埋めたという藤原鎌足の玄孫で、東大寺の良弁僧正の父といわれ、 関東八カ国の総追捕使であった。時忠は、また由井の長者といわれ、710年、甘縄神社を創建した。
※鎌足の伝説は浄妙寺にも残されている
 +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
染屋太郎時忠ハ藤原鎌足ノ玄孫ニ當リ 南都東大寺良辨僧正ノ父ニシテ 文武天皇ノ御宇(皇紀一三五七~一三六二)ヨリ 聖武天皇ノ神亀年中(皇紀一三八四~一三八九)ニ至ル間 鎌倉ニ居住シ 東八箇國ノ総追捕使トナリ 東夷ヲ鎮メ 一ニ由井長者ノ稱アリト傳ヘラルヽモ 其事蹟詳ナラス 此處ノ南方ニ長者久保ノ遺名アルハ 彼ノ邸阯ト唱ヘラル 尚甘縄神明宮ノ別当甘縄院ハ時忠ノ開基ナリシト云フ

こんなものが、文学館から由比ヶ浜駅への帰途にあった。昭和十四年三月 鎌倉町青年團か。ずいぶん古いものになってしまった。
染谷太郎太夫時忠邸阯

以上で、『鎌倉五山ほかを訪ねる』シリーズはお終いです。最後までご覧いただきありがとうございました。

 

鎌倉五山ほかを訪ねる(19)

長谷寺(3)

最後にご本尊を拝んで、次の目的地に向かうことにすべく、上境内に足を踏み入れた。ずーっと歩き続けてきたので、いささか足が厳しくなってきた。

観音山の中腹に切り開かれた上境内
本尊である十一面観音菩薩像(長谷観音)が安置される観音堂をはじめ、主要な諸堂宇が建ち並ぶほか、鎌倉の海と街並みが一望できる「見晴台」と、傾斜地を利用した「眺望散策路」があり、鎌倉でも有数の景勝地となっております。また、眺望散策路の周辺には40種類以上約2500株のアジサイが群生しており、梅雨の季節には眺望はもとより「アジサイの径(こみち)」として散策も楽しんでいただけます。

観音堂
長谷寺の本尊は、「木造十一面観音」(鎌倉観音巡礼札所)
721年(養老5年)、開山の徳道の願いによって、一本のクスノキから二体の十一面観音像が彫られ、一体は奈良の長谷寺に安置され、もう一体は行基によって海に投げ入れられた。
その観音像が15年後、三浦半島の長井の浦に流れ着いたことから鎌倉に遷座されたと伝えられている。
しかし、現在安置されている「十一面観音像」は、徳道の時代のもとは言い難く、室町時代以降の作と考えられる。
※「十一面観音像」は、高さ9.18メートルで日本最大級。
※鎌倉時代の長谷には、地獄の情景を表す円応寺(新居焔魔堂)があった。長谷寺は、その円応寺と極楽浄土へと導く鎌倉大仏とともに浄土信仰に基づく情景を構成する寺院群の一つだったという説がある。

確かに凄い仏像である。ただ、奈良の長谷寺とのかかわり合いはどうにも胡散臭くてならない。そういう『鎌倉』への権威付けがその昔は必要だったのだろうか。
観音堂_1
観音堂_2
十一面観音像…頭の上に十一の顔を持つ観音菩薩
freeの画像を借用
十一面観音像…頭の上に十一の顔を持つ観音菩薩

阿弥陀堂
長谷寺の阿弥陀堂に安置されている「阿弥陀如来像」は、源頼朝が42歳の厄除けのために建立したという伝承から「厄除阿弥陀」と呼ばれ、鎌倉六阿弥陀の一つ。
この「阿弥陀如来像」は、もとは廃寺となった誓願寺の本尊だったという。

阿弥陀堂
阿弥陀如来像
freeの画像を借用
阿弥陀如来像

経蔵
経蔵内にある「輪蔵」と呼ばれる回転式の書架を一回転させると、全ての経を読んだのと同じ功徳があるといわれている。
現在は「輪蔵」保護のため、回転させることができるのは観音様の縁日である18日に限られている。

freeの画像を借用
経蔵内にある「輪蔵」と呼ばれる回転式の書架

出世開運大黒天
『こう云うのはあまり信じない。有難いと感じたことはない』などと言っていたから、出世競争から見放されたのかもしれないが、それもまたおのが人生。まあ、信じる人はどんどん信じて願掛けをすることだろう。
大黒堂の左手から背後の山に向かって、傾斜地を利用した眺望散策路がある。散策路の周辺には40種類以上約2500株の紫陽花が群生しており、梅雨の季節には多くの観光客が訪れ、行列ができることもしばしばだそうだ。

出世開運大黒天

見晴台からの海の眺望
長谷寺の山号「海光山」のとおり、境内からの海の眺望が素晴らしい。目の前に由比ヶ浜が広がる。あの岬の先に横須賀市や三浦市がある。その辺りに「木造十一面観音」が流れ着いたというのだ。
見晴台からの海の眺望_1
見晴台からの海の眺望_2
見晴台からの海の眺望_3

地蔵堂
長谷寺に帰依する人々の発願で建立されたという地蔵堂。現在の堂は平成15年に建て替えられたもの。
堂内には、子安・繁栄にご利益のある「福壽地蔵」が安置され、堂の周囲には千体地蔵が並べられている。
かつてこの場所には、源頼朝の「厄除阿弥陀」を安置する阿弥陀堂があったという。

地蔵堂

卍池
「卍」はインドに伝わる吉祥の徳相で、功徳円満の意味を持っています。池に座っている像は奪衣婆(だつえば)と懸衣爺(けんねおう)
奪衣婆は三途の川のほとりにいて冥途の旅人の衣服を剥ぎ取り懸衣爺に渡します。その衣服を衣領樹という木の枝に懸けその枝のしなり具合で生前の罪の軽重を判断するという伝説があります。

卍池

 

鎌倉五山ほかを訪ねる(18)

長谷寺(2)

弁天堂(弁天窟)
下の境内の放生池を過ぎた辺りに、八臂の弁財天をお祀りする弁天堂があります。伝承によればこの尊像も弘法大師の御作といい、「出世弁財天」として古来より信奉されてまいりました。なお弁天堂のさらに奥へすすむと、弘法大師参籠の地と伝わる弁天窟があり、その名にちなみ窟内壁面には弁財天とその眷属である十六童子が彫られております。
 +++++++++++++++++++++++++++++++++++++
洞窟内の壁面彫刻(二臂の弁財天と十六童子)は、昭和42年に寄進されたもので、「出世弁財天」として信仰を集めている。


弁天堂をパスして、弁天窟のみを見させていただいた。弁天窟は奈良や京都にはなく、此処のみという人もあるようだが、真偽の程は私にはわからない。が、珍しい存在であることは間違いないことだろう。此処がパワースポットであるとする向きもあるようだが、信じる人は救われるのかもしれない。

弁天窟の外
弁天窟の外_1
弁天窟の外_2

弁天窟の出世弁財天
弁天窟の出世弁財天_1
弁天窟の出世弁財天_2
宇賀神(宇迦之御魂神)
雨を降らし穀物を育て水と富にご利益のある神で弁財天と一体となった神だそうだ。暗くてよく見えなかったのが非常に残念。
宇賀神(宇迦之御魂神)
十六童子
十六童子は、弁財天の眷属。善財童子(大黒天)を除いた十五童子で表されることが多いそうだ。
善財童子(ぜんざい)
(乙護童子(おとご))
本地:大黒天
十五童子を司る神

善財童子(ぜんざい)
計升童子(けいしょう)
(悪女童子(あくにょ))
本地:大黒天
経理・経営の神

計升童子(けいしょう)
衣裳童子(いしょう)
(除哂童子(じょき))
本地:摩利支天
着衣に不自由しない神

衣裳童子(いしょう)
蠶養童子(さんよう)
(悲満童子(ひまん))
本地:勢至菩薩
蚕・繭の神、衣服の神

蠶養童子(さんよう)
筆硯童子(ひっけん)
(香精童子(こうせい))
本地:金剛手菩薩
学問成就の神

筆硯童子(ひっけん)
酒泉童子(しゅせん)
(密跡童子(みっしゃく))
本地:無量寿仏
酒の神

撮り漏れ

牛馬童子(ぎゅうば)
(膸令童子(ずいれい))
本地:薬王菩薩
動物愛護の神

牛馬童子(ぎゅうば)
稲籾童子(とうちゅう)
(大神童子(だいしん))
本地:文殊菩薩
五穀豊穣の神

稲籾童子(とうちゅう)
飯櫃童子(はんき)
(質月童子(しつげつ))
本地:栴檀香仏
食物授与の神

飯櫃童子(はんき)
金財童子(こんざい)
(召請童子(しょうせい))
本地:薬師如来
金銀財宝・商売繁盛の神

金財童子(こんざい)
船車童子(せんしゃ)
(光明童子(こうみょう))
本地:薬上菩薩
交通安全の神

船車童子(せんしゃ)
印鑰童子(いんやく)
(麝香童子(じゃこう))
本地:釈迦如来
悟りと解脱へ導く神

印鑰童子(いんやく)
官帯童子(かんたい)
(赤音童子(せきおん))
本地:普賢菩薩
法を守る神

官帯童子(かんたい)
従者童子(じゅうしゃ)
(施無畏童子(せむい))
本地:龍寿菩薩
経営の神

従者童子(じゅうしゃ)
愛敬童子(あいきょう)
(施願童子(せがん))
本地:観世音菩薩
愛情・恋愛成就の神

愛敬童子(あいきょう)
生命童子(しょうみょう)
(臍虚空童子(せいこくう))
本地:弥勒菩薩
長寿の神

撮り漏れ


窟内を手で彫った様子
窟内を手で彫った様子_1
窟内を手で彫った様子_2

他にも、いくつかの石像がある。ここに弘法大師が参籠したと伝わっているそうだ。

 

鎌倉五山ほかを訪ねる(17)

長谷寺(1)
伝承では長谷寺の創建は奈良時代とされているが、中世以前の沿革は明確でなく、創建の正確な時期や経緯についても解明されていない。
寺伝によれば、天平8年(736年)、大和の長谷寺(奈良県桜井市)の開基でもある徳道を藤原房前が招請し、十一面観音像を本尊として開山したという。この十一面観音像は、観音霊場として著名な大和の長谷寺の十一面観音像と同木から造られたという。すなわち、養老5年(721年)に徳道は楠の大木から2体の十一面観音を造り、その1体(本)を本尊としたのが大和の長谷寺であり、もう1体(末)を祈請の上で海に流したところ、その15年後に相模国の三浦半島に流れ着き、そちらを鎌倉に安置して開いたのが、鎌倉の長谷寺であるとされる。

長谷寺案内図
長谷寺の参道から
この辺から見ると、大体の配置が分かる感じだ。そろそろ足が疲れて来て、ちょっと上るのがつらそうに見えた。
長谷寺の参道から_1
長谷寺の参道から_2
人力車の横にあるけったいな感じの木は、椨(たぶ)の木。見事なほどのコブのオンパレード。
長谷寺の参道から_3
山門
昭和に復元されたそうだ。長谷寺では貴重な木造建築。他は、見た感じ皆鉄筋コンクリートの堂々とした建屋のようだ。
山門_1
山門_2
観音山の裾野に広がる下境内の様子
入山口でもある下境内は、妙智池と放生池の2つの池が配され、その周囲を散策できる回遊式庭園となっております。また、その周辺にとどまらず、境内全域は四季折々の花木に彩られ、通年花の絶えることのないその様相は、「鎌倉の西方極楽浄土」と呼ぶに相応しい風情を呈しております。
思わずうっとりしてしまうような素晴らしい景観だ。足が疲れる前に来て、斜面を上るのを厭わない状態で、時間を掛けてゆっくり楽しみたい感じだ。
下境内の様子_1
下境内の様子_2
下境内の様子_3
下境内の様子_4
下境内の様子_5
下境内の様子_6
下境内の様子_7
下境内の様子_8
下境内の様子_9
下境内の様子_10

 

鎌倉五山ほかを訪ねる(16)

長谷駅から鎌倉大仏を目指す。途中の道筋に長谷寺があるが、此処は次の目的地とし、今回の最終目的地は鎌倉文学館とすることにした。それまでに大分歩いている所為か足がかなり悲鳴を上げてはいるが、なんとか当初の目標通りに行きたい。それにしても高徳院は結構歩きでがあった。

鎌倉大仏殿高徳院
高徳院(こうとくいん)は、神奈川県鎌倉市長谷(はせ)にある浄土宗の寺院。本尊は「鎌倉大仏」「長谷の大仏」として知られる阿弥陀如来像(国宝)。山号は大異山。詳しくは大異山高徳院清浄泉寺(しょうじょうせんじ)という。開基(創立者)と開山(初代住職)はともに不詳である。
2004年(平成16年)2月27日、境内一帯が「鎌倉大仏殿跡」の名称で国の史跡に指定された。なお、大仏の造立経緯や、大仏殿の倒壊時期については諸説ある。


仁王門
当院の山号「大異山」を記す扁額が掲げられた山門は、18世紀初頭、内部に安置された一対の仁王像とともに他所より移築されたものと伝えられています。
仁王門だったのか。仁王像の存在にすら気づかなかった。何を慌てていたのだろうか。でも、見た感じ仁王像なんてなさそうだ。どうにも気になって調べてみたら、平成23年の秋に吽形像の頭部が破損したため、現在は安置されていないとのこと。阿形像とともに修復作業を行っているようだ。
それにしても、この門は他所より移築されたのか。そんな価値のある者には見えなかったけれども、私の見る目が曇っているのだろうか。

仁王門_1
確かに仁王像は不在の様子だ
仁王門_2

銅造阿弥陀如来坐像(国宝)
像高約11.39メートル(台座を含め高さ13.35メートル)。重量約121トン。
角張った、平面的な面相、低い肉髻(にっけい、頭髪部の椀状の盛り上がり)、猫背気味の姿勢、体部に比して頭部のプロポーションが大きい点など、鎌倉期に流行した「宋風」の仏像の特色を示しており、鎌倉時代を代表する仏教彫刻として国宝に指定されている。また、後世の補修が甚大な奈良・東大寺の大仏と比べ、ほぼ造像当初の姿を保っている点も貴重である。像は衣を通肩(両肩を覆う着装法)にまとう。浄土教信仰に基づく阿弥陀像が多く来迎印(右手を挙げ、左手を下げる)を結ぶのに対し、本像は膝上で両手を組む定印(じょういん)を結んでおり、真言ないし天台系の信仰に基づく阿弥陀像であることがわかる。

最初見た時から今に至るまで、鎌倉の大仏が造られた背景がよくわからないままだ。
銅造阿弥陀如来坐像(国宝)_1
銅造阿弥陀如来坐像(国宝)_2
銅造阿弥陀如来坐像(国宝)_3
銅造阿弥陀如来坐像(国宝)_4
銅造阿弥陀如来坐像(国宝)_5
銅造阿弥陀如来坐像(国宝)_6
銅造阿弥陀如来坐像(国宝)_7
大仏の後ろ姿と蓮弁
大仏の背後には、蓮弁4枚が安置されている。これらは江戸中期に蓮台の製作を企図して鋳造されたそうだ。当初全32枚の製作が予定されていたそうだが、完成をみたのがこの4枚だけのようだ。江戸中期の大仏様は、そんなに人気がない存在だったのだろうか。
大仏の後ろ姿と蓮弁
夜間照明を受けた大仏
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夜間照明を受けた大仏
大仏の内部
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大仏の内部

与謝野晶子歌碑
かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は 美男におわす夏木立かな
与謝野晶子(1878~1942年) 歌碑建立:1952年

達筆すぎて半分ほどしか読むことができない。特に『晶子』の字は、安宅の関跡の歌碑でも見たので覚えているが、初めて見たらなんと書いてあるのかまるでわからないものだろう。活字の時代に生まれてきて良かった。
与謝野晶子歌碑_1
与謝野晶子歌碑_2

観月堂
15世紀中頃、漢陽(今日のソウル)の朝鮮王宮内に建築されたと伝えられる建物で、1924(大正13)年当時これを所持されていた「山一合資会社」(後の「山一證券」)の社長、杉野喜精氏によって、東京目黒の私宅から移築・寄贈されました。鎌倉観音霊場23番札所ともなっている当山では、今日この建物の中に、江戸後期の作品とみられる観音菩薩立像を安置しています。
う~~ん、何やら風情のあるお堂だと思っていたが、そういう由緒がある建物だったのか。内部には、江戸幕府2代将軍の徳川秀忠が所持していたとされる聖観音像を安置しているのか。これまた、見てみたいものだ。
観月堂

 

鎌倉五山ほかを訪ねる(15)

鶴岡八幡宮をあとにし、鎌倉駅まで歩く。
いずれ見て歩こうかと思ったことがあったが、鎌倉の幕府はどのあたりにあったがご存じの方は案外少ないのではなかろうか。源氏三代は大蔵幕府、北条泰時は宇都宮辻子幕府、その後、各蔵幕府滅亡までは、若宮大路幕府だった。宇都宮辻子幕府と若宮大路幕府とは、私が歩いた側と若宮大路の反対側あたりになる。いずれ幕府跡も石碑が残るのみ。

興味のある方は、ここをクリック。

鎌倉駅までの道筋
三河屋本店(国登録有形文化財)
三河屋本店は、明治33年創業の酒店で、現在の建物は昭和2年に建てられました。伝統的な出桁(だしげた)造りの店構えは、若宮大路の沿道でひときわ目を引く存在です。敷地の奥にある蔵や商品の運搬に使うトロッコなど、昔ながらの商文化が大切にまもられています。
三河屋本店は、鎌倉の戦前の商店建築を代表するものとして貴重な建物です。
所在地:雪ノ下一丁目

看板は、当然かも知れないが『屋河三』と書かれている。この建物は昭和2年建築か。そんなに古めかしくは見えない。しっかり建てているから傷みが少ないのだろうか。
三河屋本店(国登録有形文化財)
三井住友銀行鎌倉支店
レトロな感じだが、結構新しいビルのようで、2007年10月の「ポロ・ラルフローレン」閉店後、新たなテナントとして三井住友銀行鎌倉支店が入ったようだ。空き屋にしておくよりは、銀行でも何でも入って、賑やかにしてくれていたほうが助かるが、少々意外だった。昔の支店跡を記念館のようにしているのかと思いきや、歴とした現役の支店のようだ。
三井住友銀行鎌倉支店_1
私自身は入ったことはないが、素晴らしい聖堂のようだ。鶴岡八幡宮に通じる若宮大路を見下ろす雪ノ下教会の聖堂外壁に貼られている聖母のモザイク画が有名。夕日を受けた聖画の輝きは一見の価値ありのようだ。
カトリック雪ノ下教会_1
若宮大路・段葛入口に建つ二の鳥居
鶴岡八幡宮から海まで続く若宮大路沿いには3つの鳥居があり、海側から一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居という。二の鳥居から三の鳥居までの間には、道の中央に、頼朝が妻・政子の安産を祈願して設けた「段葛(だんかずら)」と呼ばれる一段高く盛り土された参道がある。二の鳥居付近では幅約5メートルあるが、三の鳥居付近では約3メートルと狭くなる。遠近法を利用し、参道を実際の距離より長く見せたのだそうだ。
若宮大路・段葛入口に建つ二の鳥居

ちょっと江ノ電に
江ノ電鎌倉駅
ここから次の目的地である長谷まで歩いても大した距離ではないが、江ノ電の雰囲気を味わいたく、往復とも江ノ電を利用した。
江ノ電鎌倉駅_1
江ノ電鎌倉駅_2
江ノ電鎌倉駅_3
江ノ電鎌倉駅_4
江ノ電先頭席にて
フロントガラスはもう少し綺麗に保ってもらいたいところだ。
フロントガラスはもう少し綺麗に
途中区間(鎌倉-和田塚)
途中区間(鎌倉-和田塚)
和田塚駅
和田塚駅
途中区間(和田塚-由比ヶ浜)
途中区間(和田塚-由比ヶ浜)
由比ヶ浜駅
鎌倉文学館の最寄り駅。帰りはここから乗車した。
由比ヶ浜駅_1
途中区間(由比ヶ浜-長谷)
途中区間(由比ヶ浜-長谷)_1
途中区間(由比ヶ浜-長谷)_2
途中区間(由比ヶ浜-長谷)_3
長谷駅
此処は比較的大きな交差するスペースを持った駅。此処で下車して、大仏殿、長谷寺、鎌倉文学館を歩くことにする。
長谷駅_1
長谷駅_2

 

鎌倉五山ほかを訪ねる(14)

鶴岡八幡宮(2)

大石段
段数は61段だそうだ。お決まりの集合写真を撮っている。手早く撮ればよいものをなかなかシャッターを押せずにいる。はた迷惑になっていることを承知して協力すべきところなのに、なかなか言うことを聞かないようだ。困ったガキもいるようだ。
大石段_1
当然だが、上には本宮(上宮)がどーんと視界に入ってくる
大石段_2
大石段_3

大銀杏
平成22年(2010年)3月10日4時40分頃に、強風のために大銀杏は根元から倒れた。こうしてみると、折れた銀杏の木がいかに巨木だったかがわかろうというものだ。あの蘖(ひこばえ)が巨木になる姿は私には見ることができないことだろう。
大銀杏

倒れる前の様子
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倒れる前の様子

本宮(上宮)…重要文化財(国指定)
應神天皇・比賣神・神功皇后をお祀りする当宮の中心となるご社殿です。
若宮(下宮)とともに国の重要文化財に指定されており、年間を通じて様々な祭事が奉仕されています。
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現在の上宮は、1821年(文政4年)の火災によって焼失後、1828年(文政11年)、徳川十一将軍家斉によって造営されたもので、大正12年の関東大震災で倒壊してしまいますが、その後、修造され今日に至っています(国重文)
 +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
上宮は、広い回廊が巡らされているのが特徴です。
かつては、若宮にも回廊が巡らされていました。
現在、この回廊には神輿7基(上宮の神輿三基と若宮の神輿四基)が安置され、鶴岡八幡宮の神宝が陳列された宝物館としても利用されています。
上宮の神輿三基は、9月の「神幸祭」で二の鳥居まで渡御します。


随身門
鶴が丘八幡宮の象徴「随身門」の入り口両側には、仁王様でなく、随身(=平安時代以降、貴人護衛にあたった武人)が鎮座している。
随身門_1
随身門_2
向かって左の随身像(吽形)は矢を持って鎮座し、向かって右の随身像(阿形)は刀を持って鎮座していている。そう他の方のHPに書かれていたが、私にはどちらも弓と矢を持っているようにしか見えない。困ったぞ。
随身像_1
随身像_2
宝物殿
宝物殿
幣殿と本殿かな
幣殿と本殿かな

ちょっと珍しい婚礼
新郎が外国人で新婦が日本人。これはそう珍しいことではないが、新郎側の縁戚にある外国人女性だろうが、振り袖を着用して、列に加わっていた。履物は草履のお嬢さんとスウェードの靴のお嬢さんと。インターナショナルな挙式なんだなあと思った次第。あの紋には何がついていたのだろうか。
ちょっと珍しい婚礼_1
ちょっと珍しい婚礼_2
ちょっと珍しい婚礼_3
ちょっと珍しい婚礼_4
ちょっと珍しい婚礼_5
ちょっと珍しい婚礼_6

 

鎌倉五山ほかを訪ねる(13)  2014.02.16 15:43 画像追加

鶴岡八幡宮(1)

浄妙寺から報国寺、杉本寺と歩き、鶴岡八幡宮までやってきた。鶴岡八幡宮はあまりにも有名な神社であり、来歴をくどくどと説明する必要もないと思われるので、これを省略する。

本宮(上宮)は文政11年(1828年)に徳川家斉が再建した流権現造で、国の重要文化財に指定されている。本宮は大石段上にある。大石段は61段あり、登りきると桜門、その奥に拝殿とつながった本宮がある。石段下にある舞殿は、「下拝殿」ともいう。前面にある建築物は21世紀に入ってから増築されたもので、当初は朱塗りではなく白木造りであった。
また境内には「源平池」として、北条政子が掘らせたと伝わる池がある。源氏池には島が3つ、平家池には島が4つ浮かび、それぞれ産と死を表すという。源氏池の島には旗上弁天社がある。源平池には横切るように石造の橋が架けられ「太鼓橋」と称される。創建当時は木造で、朱塗りだったため「赤橋」と呼ばれた。北条氏の庶流・赤橋家の苗字はこの橋の名称に由来する。現在は柵で締め切られているが昭和時代までは自由に通行可能で、橋上は記念撮影のスポットとして良く使われていた。
なお、源頼朝の求めに応じて舞った静御前が源義経を慕う次の歌を詠んだとされるが、当時はまだ舞殿は建立されておらず、若宮社殿の回廊で舞ったとされている。


太鼓橋
鶴岡八幡宮の太鼓橋は、1182年(寿永元年)、源平池が造営されたときに架けられたものと考えられている。
将軍家が鶴岡八幡宮に参拝するときは、この橋で輿を下乗したという。
当時は朱塗りの板橋であったことから、「赤橋」(あかはし・あかばし)と呼ばれていた。鎌倉の古絵図にも「赤橋」と記されている。太鼓橋の両側にも橋が架けられているが、当初は左側の橋のみだった。太鼓橋の左側の池は「平家池」。「平家を踏みつぶす」という意味で架けられた橋であったらしい。後に右側の橋も架けられた。

太鼓橋_1
太鼓橋_2

旗上弁天社
源氏池の島に鎮座。周囲には源氏の二引きの白旗が多く見られる。明治の神仏分離令で一度は廃れたが、昭和55年(1980年)に文政年間の古図を元とし復元された。
道理で見たことがないと思ったが、復元はそれほど前のことではなかったんだ。
旗上弁天社_1
旗上弁天社_2
旗上弁天社_3
旗上弁天社_4
どういうわけか此処には白鳩がたくさんいる
旗上弁天社_5

直会殿
鶴のマークなんだ
直会殿

舞殿と本宮(上宮)
私の好きな構図だ
舞殿と本宮(上宮)_1
舞殿と本宮(上宮)_2
舞殿と本宮(上宮)_3

舞殿
静御前が義経を慕い、心を込めて舞った若宮廻廊跡に建ち、下拝殿とも言います。
舞殿_1
舞殿_2
舞殿_3

若宮(下宮)…重要文化財(国指定)
1180年(治承4年)、鎌倉に入った源頼朝が最初に行ったことは、先祖源頼義が創建した由比若宮(鶴岡若宮)を小林郷北山に遷座することだった。遷座した場所は、現在の若宮辺りだったと考えられている。翌1181年(養和元年)には、浅草から大工を呼び寄せ、本格的な社殿の造営に着手し、さらにその翌年には参道「若宮大路」が整備され、その中央には「段葛」が築かれた。放生池(源平池)の造営も同時に行われている。
1191年(建久2年)3月4日の鎌倉大火で鶴岡八幡宮は焼失してしまうが、頼朝はすぐさま再建に取りかかり、若宮の再建とともに本宮(上宮)を造営し、現在のような上下両宮の姿となる。
現在の若宮は、江戸幕府二代将軍徳川秀忠による造営(国重文)。それまでの社殿は、荏柄天神社に移築されている。

そうか、若宮は徳川秀忠による造営だったのか。徳川幕府の要人は鎌倉が好きだったようだ。と言うよりお江の方の影響だろうか。
若宮(下宮)…重要文化財(国指定)
若宮(右側)と舞殿(左側)
若宮(右側)と舞殿(左側)

 

鎌倉五山ほかを訪ねる(12)

報国寺を後にし、次なるは歩いてすぐ近くに杉本寺に立ち寄る。鎌倉最古の寺として有名。

杉本寺

杉本寺(天台宗)は、鎌倉最古の寺。初の大僧正となった行基の開山。
東国の旅をしていた行基は、731年(天平3年)、大蔵山からみて「この地に観音さまを置こう」と決め、自ら彫刻した観音像を安置した。
その後の734年(天平6年)、光明皇后が夢の中で受けた「財宝を寄付し、東国の治安を正し、人々を救いなさい」というお告げにより、本堂を建立したと伝えられている。

本当は素晴らしい趣がある由緒正しきお寺さんのようだが、あいにく売り物の苔生した石段は工事中で見る影もなく、おまけに威厳のある本堂も同様に工事中である。そして、鎌倉のお寺さんでは少数派なのかもしれないが堂内撮影禁止。殆ど撮るべき所がない惨憺たる有り様だった。
好意的な観光客や参拝客ばかりではない。もう少し、せっかく来ていただいた方にありがたさを感じてもらえるような工夫が欲しいものだ。


山門があった辺り
次の階段を上がった木の根元辺りに山門があったが、現在何も残っていない。現在再建復興の予定には入っているようだが、…。
山門があった辺り
仁王門
他の建物の工事のために養生してあリ、やはり写真撮影になじまない。
仁王門
運慶作と伝えられる仁王像
力強いが本物なのだろうか?
運慶作と伝えられる仁王像_1
運慶作と伝えられる仁王像_2
運慶作と伝えられる仁王像_3
運慶作と伝えられる仁王像_4
本堂
本堂の外観のみは撮影禁止にはなっていないがブルーシートを撮っても仕方が無いので諦めた。
freeの画像を借用
1024px-Sugimotodera-Main-Hall-Kamakura.jpg
本堂前の苔生した石段
苔生した石段は普段でも苔保護のため通行禁止になっているようだが、今は工事中で風情も何もあったものではなかった。
freeの画像を借用
685px-Sugimotodera_Stairs_Kamakura.jpg
現在の様子
現在の様子

その迂回路
その迂回路
鐘楼
鐘楼_1
鐘楼_2
大蔵弁財天と弁天池
大蔵弁財天と弁天池_1
大蔵弁財天と弁天池_2
大蔵弁財天と弁天池_3
タイワンリス
嘆かわしいことに鎌倉市はタイワンリスの天国のようだ。相当匹数が生息しているようだ。
タイワンリス_1
タイワンリス_2
タイワンリス_3

 

鎌倉五山ほかを訪ねる(11)

浄妙寺を最後に鎌倉五山めぐりは終了したが、2日目の旅は始まったばかりでこのまま帰ってしまうのも残念なので、いくつかの社寺を回ることにした。手始めに浄妙寺のすぐ近くの報国寺と杉本寺とを拝観することにした。

報国寺

報国寺は臨済宗建長寺派の禅宗寺院。この寺は、淨妙寺中興の足利貞氏の父・家時(足利尊氏の祖父)が開基。夢想国師の兄弟子・天岸慧広(仏乗禅師)の開山で建武元年(1334)の創建。永享の乱(1439年に起きた足利持氏の室町幕府将軍・足利義教への反乱)で関東公方・足利持氏は敗退し、永安寺で自刃した時、その長子・義久もこの寺に入って自刃した悲劇の寺である。古くから境内の孟宗の竹林で知られている。三門をくぐり右側の石段を登ると本尊の釈迦如来坐像が祀られている本堂がある。本堂の右手に迦葉堂、左手にかやぶきの鐘楼がある。数多くの文化財があるが、殆どは現在、鎌倉国宝館に所蔵されている。本尊は釈迦如来(市重文)

三門付近
三門付近_1
三門付近_2
三門付近_3
三門付近_4
迦葉堂(坐禅堂)に至る道
迦葉堂(坐禅堂)に至る道
迦葉堂(坐禅堂)
仏陀の弟子、迦葉の名をいただいた迦葉堂。日曜日には日曜座禅会が開かれているが、普段は公開されていないそうだ。
迦葉堂(坐禅堂)_1
迦葉堂(坐禅堂)_2
本堂
本堂_1
本堂_2
本堂_3
本堂_4
本堂_5
御詠歌『よきにつけ あしきにつけて み仏を たのむわが身は いざくにのため』
本堂_6
境内の様子
鐘楼
茅葺屋根の趣きのあるもののようだが、あいにく修復工事の真っ最中だった。
鐘楼
こんなものも
こんなものも_1
こんなものも_2
追悼歌
いさをしも槍も刃も 埋もれて梢に寒し 松風の音
華の世を所業つたなく 散る君に 香一片を 焚きておろがむ

こんなものも_3
こんなものも_4
本堂から三門までのスロープの様子
下りながら撮ってみた
本堂から三門までのスロープの様子_1
本堂から三門までのスロープの様子_2
本堂から三門までのスロープの様子_3
半跏思惟像
半跏思惟像_1
半跏思惟像_2

今回見ずに帰って来てしまったが、「竹の庭」が立派なようだ。ここを見落としてしまったのは非常に残念。竹林が見事な上に、右手の崖には、穴(やぐら)が掘られていて、多数の五輪塔が置かれているのが眺められる。開基といわれる足利家時とここで自刃された足利義久の墓が安置されているということだ。
freeの画像を借用
竹の庭

 

鎌倉五山ほかを訪ねる(10)

前回までの記事は1月31日のトライの時のものだった。面目ないことに鎌倉五山を一日で歩き通すことができなかった。今回以降の記事は2月5日に再度トライした時の記録である。

浄妙寺(鎌倉五山第五位)

浄妙寺(じょうみょうじ)は、神奈川県鎌倉市にある臨済宗建長寺派の禅宗寺院。山号は稲荷(とうか)山。詳名は「稲荷山浄妙廣利禅寺」という。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は足利義兼、開山(初代住持)は退耕行勇。鎌倉五山の第五位。鎌倉三十三観音第9番。
寺には婦人病に霊験のある神とされる淡島明神立像を安置することから、婦人病の祈願所とされている。境内墓地には足利貞氏の墓とされる宝篋印塔がある。

このお寺は、本尊などが非公開で、今の時期は余り見るものもなく、非常に寂しい感じだ。それでも、庭の様子が非常に美しく、花塚などもあるくらいだから、お花を大事にしているお寺さんなんだろうと思った。
積極的に案内していないので気づかなかったが、石窯ガーデンテラスとイングリッシュ・ガーデン、喜泉庵と枯山水の庭園等があるようだった。石窯ガーデンテラスは、まだ、歩き出して間もなく空腹でもなかったので、パスした。季節が良くなれば、イングリッシュ・ガーデンを愛でながらの食事も趣がありそうだ。

総門から本堂までの様子
総門から本堂までの様子_1
総門から本堂までの様子_2
総門から本堂までの様子_3
総門から本堂までの様子_4
総門から本堂までの様子_5
総門から本堂までの様子_6
総門から本堂までの様子_7
総門から本堂までの様子_8
本堂
本堂_1
はるばると まいりておがむ 観世音 ほとけのおしえ 弥陀の浄土へ
本堂_2
美しく咲いた蝋梅
美しく咲いた蝋梅_1
美しく咲いた蝋梅_2
花塚
花塚_1
花塚_2
枯山水の庭園
FREEの画像を借用
枯山水の庭園

以上で鎌倉五山を一巡したことになるが、次回以降、来たついでに寄った寺社等をも取り上げる。

 

鎌倉五山ほかを訪ねる(9) 2014.02.12 07:04画像他追加

建長寺から少し戻り、亀ヶ谷坂切通を越えて、鎌倉五山第三位の寿福寺に向かうことにする。

亀ヶ谷坂切通
大した坂ではないが、足を痛めていて、それまでもそこそこの距離を歩いてきた身には、ちょっとだけ辛かったかも。
亀ヶ谷坂切通_1
亀ヶ谷坂切通_2
亀ヶ谷坂切通_3
亀ヶ谷坂切通_4
裏側もここまで削ってしまって大丈夫なのだろうか?
亀ヶ谷坂切通_5
亀ヶ谷坂切通_6
亀ヶ谷坂切通_7
岩船地蔵堂
扇ヶ谷のJR横須賀線ガード近く亀ヶ谷坂の入口に、源頼朝の娘大姫の守本尊を祀る岩船地蔵堂がある。守本尊とされる石造地蔵尊(岩船地蔵)は、舟形光背をもつもので、岩船地蔵の名の由来となっている。1691年(元禄3年)に堂が建て替えられたときに木造地蔵尊が安置された。
岩船地蔵堂

寿福寺(鎌倉五山第三位)
寿福寺(じゅふくじ)は、神奈川県鎌倉市扇ヶ谷にある臨済宗建長寺派の寺院である。鎌倉五山第3位の寺院である。山号を亀谷山(きこくさん)と称し、寺号は詳しくは寿福金剛禅寺という。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は北条政子、開山(初代住職)は栄西である。鎌倉三十三観音第24番。鎌倉二十四地蔵第18番。境内は「寿福寺境内」として1966年(昭和41年)3月22日、国の史跡に指定された。
正治2年(1200年)北条政子建立の寿福寺の住職に招聘されているんだ。臨済宗の開祖自らが、住職になったとは、凄いことなのだろう。
総門から中門までの参道と裏山の墓地は公開されているが、中門から内側の境内は一般公開されていないそうだ。私も中門まで行き、その先は一般公開していない旨の立て札を見てがっかりした。ただ、中門から見る境内の佇まいは素晴らしい物があった。
知らなかったのだが、裏山の墓地は公開されているようだ。中門を左に行き突き当りを右に進んでみたが、本当の住宅だけのように見えたので断念。多分その先にあったのだろう。陸奥宗光、高浜虚子、大佛次郎などの墓があり、さらにその奥のやぐら(鎌倉地方特有の横穴式墓所)には、北条政子と源実朝の墓と伝わる五輪塔があったようだ。う~~ん、残念。今度行くときは、絶対見落としが無いようにしたいものだ。

総門から中門までの参道の様子
総門から中門までの参道_1
総門から中門までの参道_2
総門から中門までの参道_3
総門から中門までの参道_4
総門から中門までの参道_5
中門で無情の通せんぼ。見たかったのに残念でならない。
総門から中門までの参道_6
中門からちょっとだけ見えた境内の様子
すごく素敵な佇まいだ。
中門からちょっとだけ見えた境内の様子_1
中門からちょっとだけ見えた境内の様子_2
中門から右へも進入禁止
中門から右へは進入禁止
北条政子の墓
freeの画像を借用した
北条政子の墓

初日は足の不調でここまででおしまい。他は後日に廻った。

とは言うものの鎌倉駅まで戻る必要がある。途中に川喜多映画記念館があった。ばてていたので、館内見学はせずに通過。
川喜多映画記念館_1
川喜多映画記念館_2
川喜多映画記念館_3
川喜多映画記念館_4
川喜多映画記念館_5
川喜多映画記念館_6
川喜多映画記念館_7

 

鎌倉五山ほかを訪ねる(8)

建長寺《鎌倉五山第一位》(4)

唐門
国指定の重要文化財
建長寺の唐門は、もとは寛永三年(1626)から同五年の間に建立された芝増上寺の徳川秀忠夫人崇源院御霊屋正殿(現在、仏殿)前の中門と考えられるとのことです。正保四年(1647)に移築され、方丈(龍宝殿)の正面にあります。
正面の柱の間は4.1メートル、前の丸い柱は42センチ、後ろの角柱は36センチと、堂々とした作りです。丸い柱は、両端がやや丸められた粽(ちまき)と呼ばれる部分があり、禅宗様です。妻の部分は虹梁(こうりょう)と呼ばれるゆるやかにカーブをした梁の上に瓶のような形の大瓶束(たいへいづか)がのっています。花紋や唐草の彫り物がつき、もとは漆塗りであったという文様が残っています。

道理で唐門が立派すぎると思ったが、疑問が氷解した。最近修復が完了したようで、素晴らしい仕上がり具合だ。今年に入ってから、上野東照宮といい、建長寺といい、立て続けにいいものを見ることができた。建長寺の金ピカは、おそらく飾金具による輝きであり、上野東照宮のように金箔を貼り付けたものではないと思う。何事にも序列があるようだ。
唐門_1
唐門_2
唐門_3
唐門_4
唐門_5
龍王殿・方丈
建長寺の方丈は、「龍王殿」と呼ばれ、過去には度重なる罹災と復興が繰り返された。
1641年(寛永18年)にも再建されているが、1923年(大正12年)の関東大震災により倒潰したため、現在の建物は、総門と同じく1940年(昭和15年)に京都の般舟三昧院から移築されたもの、1732年(享保17年)建立。
本来、方丈は住職の居間であるが、現在では、11月の宝物風入や各種儀式、コンサートなどの催しなどに使用されている。
本尊は、宝冠釈迦如来。

襖絵の龍水墨画は白浪(はくろう)画伯が描いたものだそうだ。きちんと写真に収めるべきだった。
京都の般舟三昧院は、その後、経営が傾いて無断競売事件などを引き起こし、没落してしまったようだ。諸行無常の響きありの典型かも。

襖絵の龍水墨画の写真があるHPへjump
龍王殿・方丈_1
龍王殿・方丈_2
龍王殿・方丈_3
大庫裡
大庫裡_1
大庫裡_2
得月楼
庭園と得月楼
得月楼_1
得月楼_2
庭園
建長寺庭園の名勝指定の対象は、仏殿前の「柏槇(ビャクシン)の古木」と方丈裏の「池泉庭園」。
方丈背後の庭園は、蘭渓道隆の作庭とされているが、現在の庭園は、江戸時代の作庭といわれている。
発掘調査では、現在よりも大規模な庭園であったことが裏付けられているという。
「心字池」と呼ばれている由縁は、心という字を池の形としたため。
往時をしのぶことは難しいようであるが、池に橋を架け、石を置き、松を植えているところは禅寺の庭園らしさを出している。

写真に収めようと格闘していた外国人観光客
庭園_1
庭園_2
庭園_3
庭園_4
庭園_5
庭園_6
庭園_7

 

鎌倉五山ほかを訪ねる(7)

建長寺《鎌倉五山第一位》(3)

法堂
法堂(はっとう)は、法を説くための堂。
当初の法堂は、1275年(建治元年)、建長寺開基で五代執権の北条時頼十三回忌のときに創建された。
現在の法堂は、1814年(文化11年)に再建(上棟)されたもので、関東一の大きさ。
鎌倉では、建長寺の法堂が唯一のものとなった。
法堂では、涅槃会・降誕会(花まつり)・開山忌などの儀式が執り行われている。
法堂は、住職が説法をする場所であることから、仏殿のように仏像を安置しないのが通常であったが、次第に儀式を行う堂となっていく。

第2仏堂という感じがしないでもなかったが、長い年月を経る間に、法堂も性格が変わってきたようだ。仏像などがあるため、今はとても388人もの僧侶が一堂に会することは困難だろう。尤もそんなに多くの僧侶がいることはないだろうが。
法堂(はっとう)_1
法堂(はっとう)_2
法堂(はっとう)_3

千手観音像
法堂の本尊には、大悲閣にあったとされる千手観音像が祀られている。
1263年(弘長3年)、北条時頼が病となった際、その平癒を願って造立されたと考えられている。 
鎌倉観音巡礼第28番札所

千手観音像_1
千手観音像_2

釈迦苦行像
本尊前の釈迦苦行像は、釈迦が極限の苦行・禁欲(断食)をしている姿を現している。
ガンダーラ文明の遺産でラホール中央博物館に安置されている像の模造。2005年の愛知万博に陳列された後、パキスタン国より建長寺に寄贈された。

釈迦苦行像_1
釈迦苦行像_2

雲龍の天井図
平成15年、建長寺創建750年記念事業の一環として、十二所の画家小泉淳作によって描かれた。
足かけ3年に亘る大作。
小泉は京都建仁寺の天井画「双龍図」も手掛けている。
仏教において、龍は仏の教えを人々に伝えるといわれ、修行僧に「法の雨を降らす」という意味がある。

雲龍の天井図_1
雲龍の天井図_2

その他
こんなものも目についた
その他_1
その他_2
その他_3

 

鎌倉五山ほかを訪ねる(6)

建長寺《鎌倉五山第一位》(2)

巨福山建長寺境内図
巨福山建長寺境内図

仏殿
重要文化財。寄棟造で単層裳階が付く。
芝(東京都港区)の増上寺にあった、徳川秀忠夫人崇源院の霊屋(たまや)を建て替えに際し、譲渡されたもので、正保4年(1647年)に建長寺に移築されている。
もともと霊廟建築として造られたものであるので、屋根や天井などの形式が一般的な禅宗の仏殿とは異なっている。すなわち、屋根は入母屋造でなく寄棟造である。また、天井は禅宗仏殿では平板な「鏡天井」とし、龍などの絵を描くことが多いが、この仏殿の天井は和様の格天井(ごうてんじょう)である。
堂内には本尊の地蔵菩薩坐像(室町時代の作、像高2.4メートル)、もとこの地にあった心平寺の旧本尊地蔵菩薩坐像、千体地蔵菩薩立像、千手観音坐像、伽藍神像などを安置する。堂前にあるビャクシン(白槙、和名イブキ)の古木7本は開山蘭渓道隆手植えと伝えるもので、樹齢約750年といわれる。

仏殿_1
仏殿_2
仏殿_3
仏殿_4

地蔵菩薩坐像
『吾妻鏡』には、1253年(建長5年)11月25日に建長寺の供養が行われ、「丈六の地蔵菩薩をもって中尊となし、同像千體を安置」したことが記されている。
現在、仏殿に安置されている地蔵菩薩坐像は室町期のものと考えられ、像高は371.5㎝。
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禅寺で本尊が地蔵菩薩というのは珍しい。
建長寺が建てられている谷は、もとは処刑場で地獄谷とも呼ばれ、処刑された者の死後の救済のため地蔵菩薩を本尊とする心平寺が建てられていた。
そのため、地蔵菩薩を本尊としたといわれている。

地蔵菩薩坐像_1
地蔵菩薩坐像_2
地蔵菩薩坐像_3
地蔵菩薩坐像_4
右下に小さく見えているものが、伽藍神像。伽藍神像は道教の神。禅宗で取り入れて伽藍の守護神とした。
建長寺の伽藍神像は、1253年(建長5年)の創建当時か、1293年(永仁元年)の大地震後のものと考えられ、五躰が揃っているものとしては日本最古。
2010年(平成22年)6月29日、国の重要文化財に指定されている。
ちゃんと写しておかず。失敗した。逃した獲物は大きかった。

地蔵菩薩坐像_5
地蔵菩薩坐像_6
地蔵菩薩坐像_7

 

鎌倉五山ほかを訪ねる(5)

建長寺《鎌倉五山第一位》(1)

建長寺は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗建長寺派の大本山である。山号を巨福山(こふくさん)と称し、寺号は詳しくは建長興国禅寺(けんちょうこうこくぜんじ)という。
鎌倉時代の建長5年(1253年)の創建で、本尊は地蔵菩薩、開基(創立者)は鎌倉幕府第5代執権北条時頼、開山(初代住職)は南宋の禅僧蘭渓道隆で、第二世は同じく南宋の兀庵普寧である。鎌倉五山の第一位。境内は「建長寺境内」として国の史跡に指定されている。


総門
天明3年(1783年)の建立。1943年に京都の般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)から移築されたものである。
なお、般舟三昧院は後土御門天皇によって建立された皇室ゆかりの寺院で、もと伏見(京都市伏見区)にあり、現在は京都市上京区今出川通り千本東入るに所在する。総門に掲げられた「巨福山」の額は建長寺10世住持で書の名手である渡来僧・一山一寧の筆と伝える。「巨」字の第3画目の下に、余分な「点」が書き加えられているが、この点があることによって字に安定感が出ているとされる。

1943年とは、随分微妙な時期に京都から移築してきたものだ。
総門_1
総門_2
総門_3

三門
安永4年(1775年)の建立で、2005年に重要文化財に指定されている。
銅板葺きの二重門(2階建て)で、関東大震災で倒壊し、再建される。初層には仁王像などを置かず、門扉も壁もない吹き放しとしている。上層には宝冠釈迦如来像や銅造の五百羅漢像などを安置する(上層は非公開)。

円覚寺のそれが簡素な感じに作られているのに比し、こちらはお金をかけて作られたものという感じが強くする。
三門_1
三門_2
三門_3

梵鐘
三門右手の鐘楼に架かる。国宝。高さ約2.1メートル。建長寺創建当時の数少ない遺品の1つとして貴重である。建長7年(1255年)、鋳物師物部重光の制作。銘は蘭渓道隆が撰(作文)し、筆を執ったもので、文字は陽鋳(字形が彫り込まれるのではなく立体的に浮き出している)となっている。撞座の位置が高い点など、全体に復古的な作風を示す鐘である。銘文中の「建長禅寺」は、日本における「禅寺」の語の初見とされている。
円覚寺のそれは正安3年(1301年)に造られているので、建長寺のほうがほぼ半世紀早くに造られたことになる。
梵鐘_1
梵鐘_2
梵鐘_3
梵鐘_4

 

鎌倉五山ほかを訪ねる(4)

浄智寺(鎌倉五山第四位)(2)

布袋和尚像
鎌倉江ノ島七福神の内の布袋尊。和やかな笑顔に接すると思わずこちらも温かい気持ちに満たされるような気がした。
布袋和尚像_1
布袋和尚像_2
布袋和尚像_3

龍淵荘
茅葺き屋根の素朴な茶室「龍淵荘」。豊かな緑の谷戸を背に、深閑とした風情は、禅の侘び寂びを感じさせる。
茶室「龍淵荘」

仏殿(曇華殿…どんげでん)
曇華殿の曇華は優曇華(うどんげ)からきているとのことです。仏教では三千年に一度花が咲くといわれ、花が咲くときには金輪王または如来が現れるといわれています。きわめて珍しいことの譬えから、貴重なお堂、重要な仏様を祀るお堂という意味で名づけられたとのことです。
仏殿(曇華殿…どんげでん)
三世仏
南北朝時代のもので、わが国に伝わる三世仏の中でも造立年代の早いもの(県重文)。
左から阿弥陀如来(現在)、釈迦如来(過去)、弥勒菩薩(未来)で、いずれも袖と裾を台座から垂らした宋風の像。

かなり古いものなのに、なにゆえ、国指定の文化財に扱われないのだろうか。凡人にはなんとも分かりかねる。並び方も、同様によくわからない。
三世仏_1
三世仏_2
三世仏_3
三世仏_4
三世仏_5

花が美しい寺だそうだ
蝋梅
蝋梅
三椏
三椏

 

鎌倉五山ほかを訪ねる(3)

浄智寺(鎌倉五山第四位)(1)

浄智寺は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院。臨済宗円覚寺派に属する。鎌倉五山第4位。山号を金峰山(きんぽうざん)と称する。本尊は阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒如来の三世仏で、それぞれ過去・現在・未来を象徴する。境内は「浄智寺境内」として国の史跡に指定されている。
鎌倉五山第四位にして、鎌倉三十三観音の31番(聖観音)、鎌倉・江ノ島七福神の布袋和尚、鎌倉十三仏霊場の6番(弥勒菩薩)といろいろお参りする対象があるお寺さんのようだ。
境内は「浄智寺境内」として国の史跡に指定されているが、最初からなかなかに魅力的だ。


総門前の甘露の井の辺り
『甘露の井』は左端にチラと見えているが、此処は道路工事の影響で水脈が途切れがちなようで、どうにもきれいな感じはしなかった。しかし、庫裏の裏側には『新しい甘露ノ井』が存在する。元の甘露ノ井と水脈を同じくし、飲用として使用されているようだ。見落としてしまって残念。
そのことよりも、総門、鐘楼門と続く緩やかな上り坂がなんとも情緒豊かな感じに見えた。

総門前の甘露の井の辺り_1
総門前の甘露の井の辺り_2
総門前の甘露の井の辺り_3
総門前の甘露の井の辺り_4
総門
総門
鐘楼門へ続く坂
鐘楼門へ続く坂_1
鐘楼門へ続く坂_2
鐘楼門へ続く坂_3
鐘楼門へ続く坂_4
楼上に鐘楼をもつ鐘楼門
上層の軒には石川丈山の書といわれる扁額、(右から読んで)「山居幽勝」《仏の世界にあって、深く静かですばらしい地にある(いる)、といった意味でしょうか》が架かっています。
何度か聞いてやっと漢字だけはわかった。意味はちんぷんかんぷん。
鐘楼門_1
鐘楼門_2
棟門
浄智寺の棟門は、拝観の受付を入ってすぐの右手、書院や庫裏に向かうところにあります。おとずれる人にはあまり注目されないようですが、葵門と呼ばれ、扉に葵の紋がついており、上品さが感じられる門です。江戸時代後期(18世紀後期)とされています。
「梅花樹下」と書かれた額があります。

ずーっと、ミツウロコばかり見てきたのに、いきなり鮮やかな葵の御紋が目に入りいささか驚いた。
棟門_1
棟門_2
棟門_3

 

鎌倉五山ほかを訪ねる(2)

円覚寺(2)
境内案内図
境内案内図

選仏場
元禄12年(1699年)建立の茅葺き屋根の建物。坐禅道場である。内部には薬師如来立像(南北朝時代)を安置する。仏殿が再建されるまでは、この堂が仏殿を兼ねていた。その後、坐禅道場は、舎利殿のある正続院に移され、現在の選仏場には南北朝時代の薬師如来がまつられている。
一時仏殿の代役を努め、今再び、第2の仏殿のような位置づけにあるようだ。
選仏場_1
選仏場_2
薬師如来立像…南北朝
木造、像高160.6cm、衣紋を深く深く掘り出し、袖下を長く垂らす姿で、穏やかなお顔である。
選仏場_3
薬師如来
薬師如来
観音菩薩
これは半跏思惟像とはいえないものなのだろうか。
観音菩薩

居士林
済蔭庵は第58世曇芳周応(どんぽうしゅうおう)の塔所。本尊は不動明王。現在は居士林、すなわち在家信者のための坐禅道場となっている。建物は牛込(東京都新宿区)にあった柳生流の剣道場を、昭和3年(1928年)柳生徹心居士より寄進され移築したものである。
柳生流の道場だった建物を移築したのか。凄いものだ。
居士林_1
居士林_2

方丈
「方丈」とはインドの維摩居士の居室が一丈四方であったことに由来しています。本来は住職の居間であるわけですが、現在は各種法要の他、坐禅会や説教会、夏期講座等の講演会や秋の寶物風入など、多目的に使われています。
方丈_1
方丈_2
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方丈_10
方丈_11
方丈_12

佛日庵
佛日庵はその開基 北条時宗を祀る寺院で、時宗はこの場所に小さな庵をむすび禅の修業を行いました。
開基廟
開基廟_1
開基廟_2

梵鐘(国宝)
仏殿東方の石段を上った小高い場所にある鐘楼に架かる。寺では「洪鐘」と書いて「おおがね」と読ませている。北条貞時の寄進によるもので、正安3年(1301年)、鋳物師物部国光の制作。高さ2.6メートルを超える大作である。
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~江の島弁財天の加護~
鋳造を頼まれた物部国光は、大きな鐘のため二度の失敗を繰り返すが、北条貞時が七日七夜江ノ島弁財天に参籠したため、その加護によって三回目の鋳造で成功したのだという。

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洪鐘を吊す鉄環は、刀匠正宗の作と伝わる(参考:刃稲荷 正宗工芸)。
鐘楼にかけられている鰐口は、鋳物師瀬戸永歓(せとえいかん)が製作したもので、1540年(天文9年)の銘が刻まれている。

国宝の梵鐘は小高い丘の上にある。そこには弁天堂もあり、見晴らしが良い。鐘楼は強烈な逆光で見えにくいかもしれないが、かなり傷んでいた。
梵鐘(国宝)_1
梵鐘(国宝)_2
梵鐘(国宝)_3
見えにくいが『皇帝万歳 重臣千秋 風調雨順 国泰民安』と刻まれてある。
梵鐘(国宝)_4
梵鐘(国宝)_5
洪鐘弁天堂
北条貞時は、洪鐘鋳造の成功に感謝して弁天堂を建立した。
弁天堂には、江ノ島にあった弁財天が円覚寺の鎮守として祀られている。この弁財天は弘法大師の作ともいわれ、江ノ島の弁財天とは夫婦弁天と呼ばれている。
61年ごとに行われる「洪鐘祭」で、夫婦弁財天が出会うこととなっている(最近では昭和40年に行われた)。

洪鐘弁天堂
街並みを遠望できる
街並みを遠望できる_1
街並みを遠望できる_2

舎利殿(国宝)
神奈川県唯一の国宝建造物で、境内の奥に位置する塔頭・正続院の中にある。この正続院の中には一般観光客は入ることができない。一般観光客が立ち入ることができないならば、何故に国宝指定をするのか理解に苦しむ所だが、そうなっていた。
この写真のみfree画像を借用した
円覚寺舎利殿
円覚寺正読院_1
円覚寺正読院_2
円覚寺正読院_3

円覚寺の多くの宝物は11月の宝物風入のときに拝観できる。それ以外の時期は鎌倉国宝館に寄託されている。
鎌倉観光の有名ドコロであることは確かだが、今でも積極的に禅を普及させようと努力している。宗教本来の目的を追求している生きた寺のようだ。

 

鎌倉五山ほかを訪ねる(1)

ある方のブログを拝見して、久しぶりに鎌倉を歩いてみたいと思った。
手始めに鎌倉五山を訪ねてみようかと思った。北鎌倉を起点として円覚寺から始めた。

鎌倉時代末期頃より幕府が制定した京都と鎌倉の寺院で構成される五山制度が変化して、室町時代に京都の南禅寺を別格上位とする京都五山と鎌倉五山の寺格が固定された。

円覚寺(1)
円覚寺は神奈川県鎌倉市山ノ内にある寺院。山号を瑞鹿山(ずいろくさん)と称し、正式には瑞鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)と号する。臨済宗円覚寺派の大本山であり、鎌倉五山第二位に列せられる。本尊は宝冠釈迦如来、開基は北条時宗、開山は無学祖元である。なお、寺名は「えんがくじ」と濁音で読むのが正式である。
鎌倉時代の弘安5年(1282年)に鎌倉幕府執権北条時宗が元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建した。北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護された。
JR北鎌倉駅の駅前に円覚寺の総門がある。境内には現在も禅僧が修行をしている道場があり、毎週土曜・日曜日には、一般の人も参加できる土日坐禅会が実施されている。かつて夏目漱石や島崎藤村もここに参禅したことが知られる。


総門
瑞鹿山の額が掲げられている。
開山国師(無学祖元禅師)が仏殿開堂落慶の折、法話を聞こうとして白鹿があつまったという奇瑞から瑞鹿山(めでたい鹿のおやま)とつけられたといわれます。
総門_1
総門_2
総門_3

山門(三門)
夏目漱石の『門』にも描かれた。楼上には十一面観音、十二神将、十六羅漢像が安置されている。現在の山門は、天明年間(1781~89年)、第189世誠拙周樗によって再建されたもの。山門は「三門」とも呼ばれ、三解脱門の略。涅槃に至るまでに通過しなければならない三つの関門、空・無相・無願を表す。
「円覚興聖禅寺」の額は伏見上皇の勅筆と伝えられている。

山門(三門)_1
山門(三門)_2
山門(三門)_3
山門(三門)_4
山門(三門)_5

仏殿(大光明宝殿)
1964年(昭和39年)に再建された鉄筋コンクリート造の建物。もとの仏殿は1923年(大正12年)の関東大震災で倒潰し、その40年後に再建された。禅宗様の建築様式で、本尊は宝冠釈迦如来坐像。仏殿の扁額「大光明宝殿」は、後光厳天皇の勅筆と伝えられる《1378年(明和4年)》
仏殿(大光明宝殿)_1
仏殿(大光明宝殿)_2
宝冠釈迦如来坐像
丈六の釈迦如来像は、廬舎那仏ともいわれ、頭の部分だけが鎌倉時代に作られたもの。脇侍は梵天と帝釈天といわれている。仏殿が再建されるまでは、仏殿西側の選仏場に安置されていた。
胴体は江戸初期に補造されたようだ。文化財指定は無しのようだ。なお、上記の説明文中にある『丈六』の意味が、恥ずかしながらわからなかったので、調べた。
《釈迦の身長が1丈6尺(約4.85メートル)あったというところから》1丈6尺。また、その高さの仏像。座像の場合は半分の8尺に作るが、それも丈六といい、また、丈六より大きいものを大仏という。
宝冠釈迦如来坐像_1
宝冠釈迦如来坐像_2
宝冠釈迦如来坐像_3
天井画
仏殿の天井画は、前田青邨監修、守屋多々志揮毫の「白龍の図」
白龍の図

 

新年会

私が会計をやらさせられている会合の新年会が南青山であった。
健康維持のため、渋谷から歩いた。


会場に行くまでに見かけたお店
ヒカリエを出たすぐのところにある土佐料理の店『祢保希』
別会場での新年会がなければ、こちらの方が良かったかも。活字にすると『祢保希』だが、それでもなお何と読むのかわからない感じだ。
祢保希
Farmer's Market
国連大学前で開催していた。いつもものすごい数のお客さんが来ている人気のイベントだ。
Farmer's Market
ベリー・カフェ 青山本店
というお店らしい。思わず、唾液を飲み込む感じだ。厨房には果物屋さんも真っ青というくらいのフルーツが用意されていた。
ベリー・カフェ 青山本店
コリオリ青山
高級腕時計を中心としたセレクトショップだそうだ。私には縁がなさそうだ。
コリオリ青山

新年会で出された料理
アルコールが入っていたので、全てを撮ったか不明。若い人ではもしかしたら足らないくらいの量かもしれないが、私にはちょうど満腹になるくらいの量だった。
味は非常に良かった。が、関西の方にはどう見えるのかはちょいと自信なし。

新年会で出された料理_1
新年会で出された料理_2
新年会で出された料理_3
新年会で出された料理_4
新年会で出された料理_5
新年会で出された料理_6

 

上野界隈にて(6)

月の松
歌川広重『名所江戸百景 上野山内月のまつ』で取り上げられた松の復元版。見事なものだ。
当時人気を博した松は明治初期の台風でやられてしまったようだ。それが、2012年の12月に150年ぶりに復活したと、ひところ話題になった。私は、その後も何度かこの前を通っているのに気づかなかった。随分遅れて確認したものだ。「寛永寺清水観音堂」からは、広重が描いた画のようにみえるようだ。

月の松_1
月の松_2
Freeの画像を借用
広重_月のまつ

うえの華灯路浮世絵行燈
なかなか味な演出をするものだ。
うえの華灯路浮世絵行燈_1
うえの華灯路浮世絵行燈_2
うえの華灯路浮世絵行燈_3
うえの華灯路浮世絵行燈_4
うえの華灯路浮世絵行燈_5
うえの華灯路浮世絵行燈_6
うえの華灯路浮世絵行燈_7
うえの華灯路浮世絵行燈_8
うえの華灯路浮世絵行燈_9
うえの華灯路浮世絵行燈_10
うえの華灯路浮世絵行燈_11
うえの華灯路浮世絵行燈_12
うえの華灯路浮世絵行燈_13

旧寛永寺五重塔
この塔はもともと上野東照宮の一部として建てられたが、明治になってから神仏分離令により寛永寺の所属となり、さらに昭和33年に同寺より東京都に寄付がなされ、現在では上野公園の管理下にある。塔は寛永8(1631)年に建立されたが、同16年3月に花見客の失火により焼失、現在の塔はその後直ちに再建されたものである。
不思議なことに今は上野動物園が管理者となっている。こちらも五重塔の下部を修復中のようだ。
旧寛永寺五重塔_1
旧寛永寺五重塔_2

大石鳥居(上野東照宮)
1633年(寛永10年)酒井忠世建築奉納。国指定重要文化財。明神型鳥居。
石材には備前の御影石が使用されています。
基礎工事が万全だったため、関東大震災の折にも少しも傾かなかったことで有名です。

国指定重要文化財であるのを知らないのか、殆どの人が注意を払わずに通り過ぎていく。かわいそうに。
大石鳥居(上野東照宮)

水舎門(上野東照宮)
慶安4年阿部重次建築奉納
外人さんが喜んで記念写真を撮る姿が目につく。こちらのほうが撮りやすいからかな。
水舎門(上野東照宮)_1
水舎門(上野東照宮)_2

以上で、『上野界隈にて』のシリーズを終了させていただきます。最後までお付き合いいただき、大変有難うございました。

 

上野界隈にて(5)

上野東照宮(3)

社殿
1651年建築。国指定重要文化財。
参道側から拝殿、幣殿(石の間)、本殿の三つの部屋からなる権現造りです。
拝殿にある東照宮額は後水尾天皇の真筆で純金、壁画は狩野探幽作で桃山期の豪華雄大な画風による唐獅子が描かれています。
幣殿は、松に鷹、鳳凰に牡丹の彫刻や、狩野派の壁画で華やかに彩られています。
本殿には家康公、吉宗公、慶喜公、寒松院(藤堂高虎)、天海僧正の御神体が安置されております。

以前は200円の拝観料を支払えば社殿内部に入るってじっくり見ることができたようなのだが、私が行った時は、拝観料は一挙に500円に値上げされ、扉が閉まっていて、社殿内部に入ることはできなかった。取り扱いが以前とは変わったのだろうか。尤も内部に入ることができても写真を撮ることはできないと思うが。せいぜい拝殿の外から長くて明るいレンズで内部の様子を撮るくらいなのだろう。
そういう事情だから、上記の後水尾天皇の真筆で純金の東照宮額は見ることができなかった。残念。


手前から、本殿、幣殿、拝殿
境内はかなり狭い。現代の建坪率並みだ。社殿を裏側から見た感じだ。
手前から、本殿、幣殿、拝殿
本殿と幣殿
工事はまだ一部続行中だった。しかし、本殿の裏まで手を抜かずに金箔が貼られているとは驚きだった。
本殿と幣殿
拝殿横から見た本殿
家康の遺体は何処に埋葬されているのだろうか。久能山なのか、日光の東照宮なのか。そして、ここ上野東照宮のご神体とは一体何を指すのだろうか。わかっているようでわからないことだらけだ。
拝殿横から見た本殿
本殿の上部
葵の御紋のオンパレードだ
本殿の上部
拝殿の正面
幣殿の扉が閉まっていて、内部の様子を窺い知ることはできなかった。残念至極。代わりと言っては何だが、金箔が貼られた眩いばかりの扉が拝めたわけだ。
拝殿の正面_1
拝殿の正面_2
拝殿の正面_3
拝殿の正面_4
拝殿の外観
拝殿の外観_1
拝殿の外観_2
拝殿上部の飾り
唐獅子と牡丹。定番のものなのだろう。
拝殿上部の飾り_4
拝殿上部の飾り_1
拝殿上部の飾り_2
拝殿上部の飾り_3
拝殿上部の飾り_5
拝殿上部の飾り_7
拝殿上部の飾り_8
拝殿上部の飾り_9
拝殿上部の飾り_10
拝殿上部の飾り_11
拝殿上部の飾り_12
拝殿の左側面
引き戸ではなく、蔀戸がついていた
拝殿の左側面_1
拝殿の左側面_2
幣殿と思われる部分
本殿と拝殿とには高欄が設置されているが、幣殿にはこれがないようだ。大きな収納物の出入口でもあるからなのだろうか。
幣殿と思われる部分

 

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02 2014
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7月3日(月)夜-6日(木)朝は、弘前市に個人旅行中のため、私からのアクセスは遅れます。大変申し訳ありません。m(_ _)m

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Author:AzTak
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定年後の時間たっぷりの輩です。写真撮影やプログラミングが趣味です。

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