少しだけ曲がって港に向かう
横浜税関本庁舎
ここにはクイーンの塔がある。税関には縁がなく、入る気にもなれないが、コピー商品など税関が摘発したものなどが見られるようだ。全く興味がないので無視。





赤レンガ倉庫
今日は離れたところから眺める気分





結構有名なお店
爺さんが覗くような店ではないので通り過ぎる


レストラン『SCANDIA』
SCANDIAだけでなく、この横浜貿易会館ビルの店全部が粋な感じだ。どこかに入ってみたいものだ。




横浜開港資料館
休館日だったので外からのみ


スケッチしている人が大勢いた

横浜天主堂跡
まだ、キリスト教が禁教だった時に、居留外国人への布教のためという名目で、ここに聖堂が建てられたのか。教会はその後1906年(明治39年)に、山手へ場所を移したのか。私が中学生になった年が、節目の年だったのか。それで『聖心(みこころ)のキリスト像』が立っているのか。まん前にみなとみらい線の元町・中華街駅の中華街側の出入口が出来てしまった。ちょっと狭苦しい感じだが、単なる跡地の案内だから仕方のないことだろう。
それにしてもキリストの顔立ちはユダヤ人のそれではなく、西欧人のそれに見えて仕方がない。そういうものなのだろうか。
1862年1月(文久元年12月)、居留外国人への布教のため、ここに、近代日本初のカトリック教会の聖堂が建てられた。
碑には当時の天主堂のレリーフも。
碑文
昭和三十七年四月二十九日 横浜市長 半井清
我が国が開国して間もない文久2年(1862年)キリシタン追害以来絶えて久しかった天主堂がこの地に創建され、キリストの聖心に献げられた。これは近代日本最初の教会であり、現在の山手カトリック教会の前身をなすものである。
このたび天主堂創建百年にあたり、ここに聖心のキリスト像を建てて、永くこの遺跡を記念する次第である。
1962年4月29日 横浜天主堂遺跡顕彰委員会



横浜税関本庁舎
ここにはクイーンの塔がある。税関には縁がなく、入る気にもなれないが、コピー商品など税関が摘発したものなどが見られるようだ。全く興味がないので無視。





赤レンガ倉庫
今日は離れたところから眺める気分





結構有名なお店
爺さんが覗くような店ではないので通り過ぎる


レストラン『SCANDIA』
SCANDIAだけでなく、この横浜貿易会館ビルの店全部が粋な感じだ。どこかに入ってみたいものだ。




横浜開港資料館
休館日だったので外からのみ


スケッチしている人が大勢いた

横浜天主堂跡
まだ、キリスト教が禁教だった時に、居留外国人への布教のためという名目で、ここに聖堂が建てられたのか。教会はその後1906年(明治39年)に、山手へ場所を移したのか。私が中学生になった年が、節目の年だったのか。それで『聖心(みこころ)のキリスト像』が立っているのか。まん前にみなとみらい線の元町・中華街駅の中華街側の出入口が出来てしまった。ちょっと狭苦しい感じだが、単なる跡地の案内だから仕方のないことだろう。
それにしてもキリストの顔立ちはユダヤ人のそれではなく、西欧人のそれに見えて仕方がない。そういうものなのだろうか。
1862年1月(文久元年12月)、居留外国人への布教のため、ここに、近代日本初のカトリック教会の聖堂が建てられた。
碑には当時の天主堂のレリーフも。
碑文
昭和三十七年四月二十九日 横浜市長 半井清
我が国が開国して間もない文久2年(1862年)キリシタン追害以来絶えて久しかった天主堂がこの地に創建され、キリストの聖心に献げられた。これは近代日本最初の教会であり、現在の山手カトリック教会の前身をなすものである。
このたび天主堂創建百年にあたり、ここに聖心のキリスト像を建てて、永くこの遺跡を記念する次第である。
1962年4月29日 横浜天主堂遺跡顕彰委員会




しばらく大通りをまっすぐ歩き続ける。素晴らしい建物のオンパレードだ。
神奈川県庁本庁舎
キングの塔が誇らしげに立つ。昭和初期に流行した「帝冠様式」建築の先駆けだ。


横浜三塔は、いずれも至近距離にあるが、次の3つである。日本大通に面した県庁分庁舎側歩道から横浜三塔が一望できるんだそうだ。今のところはという条件付きだろうが。
キング:神奈川県庁本庁舎 (昭和3年築・高さ約49メートル)
クイーン:横浜税関本庁舎 (昭和9年築・高さ約51メートル)
ジャック:横浜市開港記念会館(大正6年築・高さ約36メートル)
県庁本庁舎をちらと眺めつつ、横浜市開港記念会館に向かう。いつも素通りでは申し訳ないから、神奈川県庁本庁舎歴史展示室(6階)と屋上展望台とが気楽に見学できる平日に行くか、知事執務室なども見ることができる12月15日(日曜日)の公開日に行くかだ。どちらにしようかなあ。
横浜市開港記念会館
文句なしに美しい建物であり、それにふさわしい塔だと思う。



せっかく来たのだから内部を見学させてもらう。横浜市にある大抵の施設は無料で見学でき、写真撮影も自由。時間もたっぷりあったので、ゆっくり見させていただいた。
猪瀬踏花という画家の作品が展示してあった。

建物自体は重厚な感じだ

モダンな明かりだ

階段も素晴らしい

階段踊り場の飾り窓

階段を上りきった辺り


美しいステンドグラス



正面側の飾り窓…内と外


ちょっと奥まったところにあった美しいステンドグラス

階段も素晴らしい

建物の端に位置する素晴らしい部屋。ここは部屋の外からしか覗くことができない。



2階の小会議室の内の一つ

ジャックの塔に上るための螺旋階段のようだ


うーーん、渋い素敵な建物だ。
神奈川県庁本庁舎
キングの塔が誇らしげに立つ。昭和初期に流行した「帝冠様式」建築の先駆けだ。


横浜三塔は、いずれも至近距離にあるが、次の3つである。日本大通に面した県庁分庁舎側歩道から横浜三塔が一望できるんだそうだ。今のところはという条件付きだろうが。
キング:神奈川県庁本庁舎 (昭和3年築・高さ約49メートル)
クイーン:横浜税関本庁舎 (昭和9年築・高さ約51メートル)
ジャック:横浜市開港記念会館(大正6年築・高さ約36メートル)
県庁本庁舎をちらと眺めつつ、横浜市開港記念会館に向かう。いつも素通りでは申し訳ないから、神奈川県庁本庁舎歴史展示室(6階)と屋上展望台とが気楽に見学できる平日に行くか、知事執務室なども見ることができる12月15日(日曜日)の公開日に行くかだ。どちらにしようかなあ。
横浜市開港記念会館
文句なしに美しい建物であり、それにふさわしい塔だと思う。



せっかく来たのだから内部を見学させてもらう。横浜市にある大抵の施設は無料で見学でき、写真撮影も自由。時間もたっぷりあったので、ゆっくり見させていただいた。
猪瀬踏花という画家の作品が展示してあった。

建物自体は重厚な感じだ

モダンな明かりだ

階段も素晴らしい

階段踊り場の飾り窓

階段を上りきった辺り


美しいステンドグラス



正面側の飾り窓…内と外


ちょっと奥まったところにあった美しいステンドグラス

階段も素晴らしい

建物の端に位置する素晴らしい部屋。ここは部屋の外からしか覗くことができない。



2階の小会議室の内の一つ

ジャックの塔に上るための螺旋階段のようだ


うーーん、渋い素敵な建物だ。
墓参りとそのあとの食事の約束だが、落ち合うまでにたっぷり時間があったので、横浜の街をぶらぶら歩いてみた。
まずは日本丸を見る
いつ見ても格好が良い。私の父も海王丸で実習した口だが、『洋上でマストに上ると気持ちが良いものだ』と言っていた。そういうものなのだろうか?私には到底理解できない感覚だ。



日本丸をあとにして、大通りを歩いてみる
周辺の景観もなかなか素晴らしい
天下のMM21地区なんだから、素晴らしい景観なのは当たり前か

道沿いに行くと、古ぼけた倉庫が残っている
再開発でどう扱われるのだろうか、心配だなあ。それにしても、この白い囲い、目障りだなあ。

さらにその先にも
もっと素敵な建物が。表示を見ると『帝蚕倉庫』とある。すごく味がある。
調べてみると、生糸貿易の拠点として日本近代化の原動力となった横浜市中区の歴史的建造物のようだが、保存するのか、解体後に再建するのかで揺れ動いているようだ。




こちらは東京芸大の大学院映像研究科
北野武教授のところだな。なぜ、上野ではなくここにあるのだろう。



横浜銀行協会(一般社団法人) 横浜手形交換所
私には無縁の場所のようだ


旧東京三菱銀行横浜中央支店
旧東京三菱銀行横浜中央支店は、第百銀行横浜支店としてRC造2階の構造で昭和9年(1934)に建てられた。平成16年(2004)に、ご覧のように高層マンションとして、低層部の外壁3面に銀行時代の外観意匠を忠実に復元する形で生まれ変わった。こういうやり方は、最近の流行りだなあ。

まずは日本丸を見る
いつ見ても格好が良い。私の父も海王丸で実習した口だが、『洋上でマストに上ると気持ちが良いものだ』と言っていた。そういうものなのだろうか?私には到底理解できない感覚だ。



日本丸をあとにして、大通りを歩いてみる
周辺の景観もなかなか素晴らしい
天下のMM21地区なんだから、素晴らしい景観なのは当たり前か

道沿いに行くと、古ぼけた倉庫が残っている
再開発でどう扱われるのだろうか、心配だなあ。それにしても、この白い囲い、目障りだなあ。

さらにその先にも
もっと素敵な建物が。表示を見ると『帝蚕倉庫』とある。すごく味がある。
調べてみると、生糸貿易の拠点として日本近代化の原動力となった横浜市中区の歴史的建造物のようだが、保存するのか、解体後に再建するのかで揺れ動いているようだ。




こちらは東京芸大の大学院映像研究科
北野武教授のところだな。なぜ、上野ではなくここにあるのだろう。



横浜銀行協会(一般社団法人) 横浜手形交換所
私には無縁の場所のようだ


旧東京三菱銀行横浜中央支店
旧東京三菱銀行横浜中央支店は、第百銀行横浜支店としてRC造2階の構造で昭和9年(1934)に建てられた。平成16年(2004)に、ご覧のように高層マンションとして、低層部の外壁3面に銀行時代の外観意匠を忠実に復元する形で生まれ変わった。こういうやり方は、最近の流行りだなあ。


米軍基地側(2)
米海軍 ミサイル巡洋艦 CG67 SHILOH(シャイロー)
タイコンデロガ級ミサイル巡洋艦の21番艦で1992.7.18の就役。もちろん同様にイージス艦だ。駆逐艦も巡洋艦も自衛隊では護衛艦と称しているが、米海軍では大きさで識別している。もちろん、巡洋艦のほうが大型だ。全長が20m程違う。マニアには格好が良くない艦船と酷評されているようだ。




米海軍 揚陸指揮艦 LCC19 BLUE RIDGE(ブルー・リッジ)
第7艦隊旗艦。艦船というイメージよりも、コンピュータ分析専門の艦船というイメージ。高度な判断を下すに必要な装備がすべて用意されていると言われている。1970.11.14就役の古参艦。全長が193.2mでかなり大型の艦船ということになる。
少し遠い位置に停泊していたため、はっきり全体像が見えなくて残念だ。


本来は原子力空母G.ワシントンが停泊する専用埠頭
巨大なクレーン2基が所在無さげに見えた。G.ワシントンの全長が333mあるため、ほかの埠頭には着桟できない。

2012.08.01撮影分から



米海軍の艦船はたったこれだけしか停泊していなかった。戦闘能力のある艦船は、ミサイル巡洋艦 CG67 SHILOHのみでは、日本近海の防衛に関していささか心もとない感じだった。
米海軍 ミサイル巡洋艦 CG67 SHILOH(シャイロー)
タイコンデロガ級ミサイル巡洋艦の21番艦で1992.7.18の就役。もちろん同様にイージス艦だ。駆逐艦も巡洋艦も自衛隊では護衛艦と称しているが、米海軍では大きさで識別している。もちろん、巡洋艦のほうが大型だ。全長が20m程違う。マニアには格好が良くない艦船と酷評されているようだ。




米海軍 揚陸指揮艦 LCC19 BLUE RIDGE(ブルー・リッジ)
第7艦隊旗艦。艦船というイメージよりも、コンピュータ分析専門の艦船というイメージ。高度な判断を下すに必要な装備がすべて用意されていると言われている。1970.11.14就役の古参艦。全長が193.2mでかなり大型の艦船ということになる。
少し遠い位置に停泊していたため、はっきり全体像が見えなくて残念だ。


本来は原子力空母G.ワシントンが停泊する専用埠頭
巨大なクレーン2基が所在無さげに見えた。G.ワシントンの全長が333mあるため、ほかの埠頭には着桟できない。

2012.08.01撮影分から



米海軍の艦船はたったこれだけしか停泊していなかった。戦闘能力のある艦船は、ミサイル巡洋艦 CG67 SHILOHのみでは、日本近海の防衛に関していささか心もとない感じだった。
米軍基地側(1)
毎度変わり映えしない『軍港めぐりクルーズ』だが、今回は原子力空母G.ワシントンと何隻かの日米の艦船が、台風30号の被害地救援に向かったようで、生憎の不在。非常に寂しいことになったが、致し方のないことだろう。
日米基地の主要な係留場所はこのあたりになる。いつ撮影したのか知らないが、見事なほど艦船が出払っている。
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成、Ckt-83-1_c5a_12(2)を利用

第1号ドライ・ドックほか
ドライドック1号は日本で最初に建造された乾ドック。この乾ドックは慶応3年(1867年)3月に起工し、明治4年(1871年)に完成した。石積みでできており、砂と粘土で隙間を埋めているそうだ。建造から140年以上経った今も現役の乾ドックとして活躍している。米軍横須賀基地内にあるため、日本国の文化財には指定されていないが、本来ならば第2-3号をも含めて指定すべき第一級の土木遺産だ。
DRY DOCK #1

free画像を使用

DRY DOCK #2

free画像を使用

DRY DOCK #3

海上自衛隊の潜水艦
今回はわずか1隻のみしか停泊していなかった。遠目には小さく見えるだろうが、水面下の部分(大部分がそうだが)も含めるとかなり大きいものだ。



米海軍 ミサイル駆逐艦 DDG62 FITZGERALD(フィッツジェラルド)
アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の12番艦で1995.10.14の就役。もちろんイージス艦だ。相当大掛かりな修理中のようで、これではフィリピンには向かうわけにはいかなさそうだ。ここまでの大掛かりな修理光景はなかなか見られるものではないとのことだ。私も見た記憶がない。





米海軍 ミサイル駆逐艦 DDG63 STETHEM(ステザム)
アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の13番艦で1995.10.21の就役。もちろん同様にイージス艦だ。こちらも気づかなかったが、小修理中のようだ。

毎度変わり映えしない『軍港めぐりクルーズ』だが、今回は原子力空母G.ワシントンと何隻かの日米の艦船が、台風30号の被害地救援に向かったようで、生憎の不在。非常に寂しいことになったが、致し方のないことだろう。
日米基地の主要な係留場所はこのあたりになる。いつ撮影したのか知らないが、見事なほど艦船が出払っている。
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成、Ckt-83-1_c5a_12(2)を利用

第1号ドライ・ドックほか
ドライドック1号は日本で最初に建造された乾ドック。この乾ドックは慶応3年(1867年)3月に起工し、明治4年(1871年)に完成した。石積みでできており、砂と粘土で隙間を埋めているそうだ。建造から140年以上経った今も現役の乾ドックとして活躍している。米軍横須賀基地内にあるため、日本国の文化財には指定されていないが、本来ならば第2-3号をも含めて指定すべき第一級の土木遺産だ。
DRY DOCK #1

free画像を使用

DRY DOCK #2

free画像を使用

DRY DOCK #3

海上自衛隊の潜水艦
今回はわずか1隻のみしか停泊していなかった。遠目には小さく見えるだろうが、水面下の部分(大部分がそうだが)も含めるとかなり大きいものだ。



米海軍 ミサイル駆逐艦 DDG62 FITZGERALD(フィッツジェラルド)
アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の12番艦で1995.10.14の就役。もちろんイージス艦だ。相当大掛かりな修理中のようで、これではフィリピンには向かうわけにはいかなさそうだ。ここまでの大掛かりな修理光景はなかなか見られるものではないとのことだ。私も見た記憶がない。





米海軍 ミサイル駆逐艦 DDG63 STETHEM(ステザム)
アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の13番艦で1995.10.21の就役。もちろん同様にイージス艦だ。こちらも気づかなかったが、小修理中のようだ。


ちょっと前のことになってしまったが、妻がNGOの仕事で今月の上旬にセルビアへ1週間ほどイベントの応援に行くことになった。壮行の意味合いで、中目黒で夫婦2人きりのカジュアル・フレンチを楽しんだ。
どういうわけかスパークリングワインが好きなので、飲み物はこれを注文してみた。辛めのものにしたと思ったが、銘柄などはまったく覚えていない。

イの一番に供されたものは牡蠣だった。子供の頃は相馬の松川浦のおいしい牡蠣を売りに来たのだが、苦手で全く食べられなかった。今は食べられるようになり、大して上等なものでなくても平気で食べるようになったが、子供の頃に食べなかったのは残念なことこの上ない。今回のものは非常に美味だった。でも、最初からこのボリュームだと、満腹できないまま、帰ることになるのかいささか心配だった。

次はサーモン。鮭は子供の頃に嫌というほど食べさせられたが、いまはお金を出して買わない限り食べられない。当然嫌というほど食べるわけにはいかず、たまにしか食べない。そうするといけるものだ。これぽっちの量なので、こちらも当然完食。

パンはイカ墨を練りこんである方も美味しく頂いた。これも当然完食。

霧島鶏を使った料理だったかな?しっかり聞いたのに、簡単に忘れてしまった。(^_^;)
これも美味しかった。

本日の魚料理。自慢の一品なんだろう。真鯛かな。カリカリに焼かれた皮が美味しかった。

レモンのシャーベットだったかな

追加でワインも

肉料理も。この辺でお腹が満たされてきたが、お肉大好き人間なので、当然張り切って平らげた。

スイーツ&ドリンク


お腹パンパン、大満腹で帰宅と相成った。

どういうわけかスパークリングワインが好きなので、飲み物はこれを注文してみた。辛めのものにしたと思ったが、銘柄などはまったく覚えていない。

イの一番に供されたものは牡蠣だった。子供の頃は相馬の松川浦のおいしい牡蠣を売りに来たのだが、苦手で全く食べられなかった。今は食べられるようになり、大して上等なものでなくても平気で食べるようになったが、子供の頃に食べなかったのは残念なことこの上ない。今回のものは非常に美味だった。でも、最初からこのボリュームだと、満腹できないまま、帰ることになるのかいささか心配だった。

次はサーモン。鮭は子供の頃に嫌というほど食べさせられたが、いまはお金を出して買わない限り食べられない。当然嫌というほど食べるわけにはいかず、たまにしか食べない。そうするといけるものだ。これぽっちの量なので、こちらも当然完食。

パンはイカ墨を練りこんである方も美味しく頂いた。これも当然完食。

霧島鶏を使った料理だったかな?しっかり聞いたのに、簡単に忘れてしまった。(^_^;)
これも美味しかった。

本日の魚料理。自慢の一品なんだろう。真鯛かな。カリカリに焼かれた皮が美味しかった。

レモンのシャーベットだったかな

追加でワインも

肉料理も。この辺でお腹が満たされてきたが、お肉大好き人間なので、当然張り切って平らげた。

スイーツ&ドリンク


お腹パンパン、大満腹で帰宅と相成った。

旧富岡製糸場(2)
旧富岡製糸場案内図

現在の公開レベルでは、1時間弱の説明が終われば、見学者はさっさと帰るしかないだろう。そして次の目的地に直行ということになり、富岡市にはあまり恩恵をもたらさない感じだ。早急に整備を進め、滞在時間を長くさせるようにしていくことが肝要だろう。そうすると、必然的にここで飲食をとることになる。ビジネスチャンスが生まれることだろう。同時並行的に、製糸場の付近ももう少し飲食や土産物購入などをしたいと見学者に感じさせるような整備が必要だと思う。
繰糸所…重要文化財
①-⑥製糸場として、商品である生糸を作り出すための最も重要な建物。糸繰りをお湯で行うため、ものすごい湿気がこもったようで、湿気対策が必要だった。また、当初は電気が通じていなかったため、明かり取りの窓が必要だった。そういう観点からの設計になっている。



従来の日本の建築物では見られなかったトラス構造が採用されている。トラスとは様々な建物に利用されている構造形式の一つで、三角形をつくるように部材をピン支点で連結して構成された構造形式を言う。



⑦どうもこのように見えにくいビニールで覆われているのが不人気の大きな原因のようだ。写真だってうまく撮ることができない。どうにも目障りで仕方がない。

⑧-⑩ごく一部だけカバーを外して見られるようになっている。これだけでは、正直がっかりだ。せめて1系統くらい稼動させるべきだ。



寄宿舎
⑪昔の小学校の校舎のような外観だ。何位か味のある建物だ。
工女さんは、将来の指導者になることを期待された位置づけだったようだ。下記のように割と良い就労条件だったようだ。
勤務
朝の7時~夕方の4時半まで 実働時間 7時間45分(ただし、季節によっては勤務時間が異なる)
休日 年間76日
内訳 日曜日 50日
諸御祭日 6日
年末 12月29日~12月31日
正月 1月1日~1月7日
暑休 10日
一等工女 25円 二等工女 18円 三等工女 12円 等外工女 9円
給料は月割りで支給。別に作業服代として、夏冬5円支給される。
明治8年には4段階から8段階に変更。年功序列ではなく能率給。

西繭倉庫(西置繭所)…重要文化財
⑫東繭倉庫と同じもの。訪問時2013年11月初旬現在は、内部未公開。早急に内部を改修して、何らかの形で開放したい意向のようだ。横浜の赤レンガ倉庫のように、夢のある再生は考えられないものだろうか。

⑬-⑭西繭倉庫と副蚕場
市長の発言では、操糸場の機械を動かすのは大変なので、副蚕場に残された小規模の装置を再稼働して、見学者に見せたい意向のようだ。

⑮-⑯乾燥場
農家から集められた繭の中の蛹はまだ生きている。そのまま置いておけばやがて蛾となり穴を開けて出てきてしまう。そこで、繰糸するまでのあいだ保管できるように、熱風で乾燥させて殺蛹し、カビ発生を防止する。この工程を「乾繭(かんけん)」というそうだ。これを行う施設。


乾燥場と副蚕場の後ろに蒸気釜所(重要文化財)と鉄水溜(重要文化財)とがあるようだ。
外からは見えないのが残念。
2013.04.11付けの読売新聞に載った富岡市長の発言から
富岡製糸場は現在、東繭倉庫と繰糸場の一部だけが公開スペースだが、これを広げたい。そのためには、まず安全管理を徹底する。今年度に防災計画を策定し、今年夏の「国際記念物遺跡会議」(イコモス)の現地調査後に、西繭倉庫の修復工事をできるだけ早く始める。収蔵品の展示場や図書室、調査研究施設として活用していく方針だ。
将来的には、繰糸機も動かして製糸の工程を見てもらえるようにしたい。繰糸場の機械装置は大規模で難しいので、「副蚕場」の小規模な装置の稼働を目指す。早くても5年後になるが、長い目で整備を進める。
以上で、『軽井沢-海野宿-小諸-富岡を回る小旅行』シリーズは終了です。最後までお付き合いいただき、大変ありがとうございました。
旧富岡製糸場案内図

現在の公開レベルでは、1時間弱の説明が終われば、見学者はさっさと帰るしかないだろう。そして次の目的地に直行ということになり、富岡市にはあまり恩恵をもたらさない感じだ。早急に整備を進め、滞在時間を長くさせるようにしていくことが肝要だろう。そうすると、必然的にここで飲食をとることになる。ビジネスチャンスが生まれることだろう。同時並行的に、製糸場の付近ももう少し飲食や土産物購入などをしたいと見学者に感じさせるような整備が必要だと思う。
繰糸所…重要文化財
①-⑥製糸場として、商品である生糸を作り出すための最も重要な建物。糸繰りをお湯で行うため、ものすごい湿気がこもったようで、湿気対策が必要だった。また、当初は電気が通じていなかったため、明かり取りの窓が必要だった。そういう観点からの設計になっている。



従来の日本の建築物では見られなかったトラス構造が採用されている。トラスとは様々な建物に利用されている構造形式の一つで、三角形をつくるように部材をピン支点で連結して構成された構造形式を言う。



⑦どうもこのように見えにくいビニールで覆われているのが不人気の大きな原因のようだ。写真だってうまく撮ることができない。どうにも目障りで仕方がない。

⑧-⑩ごく一部だけカバーを外して見られるようになっている。これだけでは、正直がっかりだ。せめて1系統くらい稼動させるべきだ。



寄宿舎
⑪昔の小学校の校舎のような外観だ。何位か味のある建物だ。
工女さんは、将来の指導者になることを期待された位置づけだったようだ。下記のように割と良い就労条件だったようだ。
勤務
朝の7時~夕方の4時半まで 実働時間 7時間45分(ただし、季節によっては勤務時間が異なる)
休日 年間76日
内訳 日曜日 50日
諸御祭日 6日
年末 12月29日~12月31日
正月 1月1日~1月7日
暑休 10日
一等工女 25円 二等工女 18円 三等工女 12円 等外工女 9円
給料は月割りで支給。別に作業服代として、夏冬5円支給される。
明治8年には4段階から8段階に変更。年功序列ではなく能率給。

西繭倉庫(西置繭所)…重要文化財
⑫東繭倉庫と同じもの。訪問時2013年11月初旬現在は、内部未公開。早急に内部を改修して、何らかの形で開放したい意向のようだ。横浜の赤レンガ倉庫のように、夢のある再生は考えられないものだろうか。

⑬-⑭西繭倉庫と副蚕場
市長の発言では、操糸場の機械を動かすのは大変なので、副蚕場に残された小規模の装置を再稼働して、見学者に見せたい意向のようだ。

⑮-⑯乾燥場
農家から集められた繭の中の蛹はまだ生きている。そのまま置いておけばやがて蛾となり穴を開けて出てきてしまう。そこで、繰糸するまでのあいだ保管できるように、熱風で乾燥させて殺蛹し、カビ発生を防止する。この工程を「乾繭(かんけん)」というそうだ。これを行う施設。


乾燥場と副蚕場の後ろに蒸気釜所(重要文化財)と鉄水溜(重要文化財)とがあるようだ。
外からは見えないのが残念。
2013.04.11付けの読売新聞に載った富岡市長の発言から
富岡製糸場は現在、東繭倉庫と繰糸場の一部だけが公開スペースだが、これを広げたい。そのためには、まず安全管理を徹底する。今年度に防災計画を策定し、今年夏の「国際記念物遺跡会議」(イコモス)の現地調査後に、西繭倉庫の修復工事をできるだけ早く始める。収蔵品の展示場や図書室、調査研究施設として活用していく方針だ。
将来的には、繰糸機も動かして製糸の工程を見てもらえるようにしたい。繰糸場の機械装置は大規模で難しいので、「副蚕場」の小規模な装置の稼働を目指す。早くても5年後になるが、長い目で整備を進める。
以上で、『軽井沢-海野宿-小諸-富岡を回る小旅行』シリーズは終了です。最後までお付き合いいただき、大変ありがとうございました。
一泊小旅行の最後に世界遺産登録を目指す旧富岡製糸場に行った。
大したことはないという評価が多いようだが、私にはかなり興味があったし、それなりに見てよかったなあと思えた。一度見学する価値があるのではなかろうか。
ただ、スカイツリーの地元商店街同様、こちらも、素通りの客ばかりで、なんとかお客さんを引き止める魅力を作っていく必要があるようには思えた。その方面の対策は遅れているように思えた。世界遺産登録に燃えるのもいいが、きちんとした街づくりを行っていくこともまた、必要ではないかと思った。
旧富岡製糸場(1)
旧富岡製糸場案内図

いまのところ、国の重要文化財に下記のものが指定されている。国宝・重要文化財フェチの私には、堪えられない豪華さだ。
繰糸所(そうしじょ)
東置繭所(ひがしおきまゆじょ)
西置繭所(にしおきまゆじょ)
蒸気窯所(じょうきがまじょ)
首長館(しゅちょうかん)
女工館(じょこうかん)
検査人館(けんさにんかん)
鉄水溜(てっすいりゅう)
下水竇及び外竇(げすいとうおよびがいとう) - 竇は汚水排出のための暗渠のこと
説明を受ける前に見たもの
思った以上に客は多い
①-②午後2番くらいに到着したのだが、まだまだ見学者が相当押しかけてきていた。お隣韓国の団体も来ていた。視察団のようだった。


糸繰りの実演
③-⑥老眼には見えにくいような細い糸を取り出す作業で、周りの見学者には糸が見えていたのだろうか。


細い糸が立ち上がっているのだが、お分かりだろうか


東繭倉庫の1階
⑦まゆのような超軽量のものを置くのにしては、やけにしっかりした倉庫だった。

説明を受けながら見たもの
東繭倉庫(東置繭所)…重要文化財
⑧-⑬1階は事務所や作業所として使い、2階に乾燥させた繭を貯蔵したそうだ。




以下の2ショットは西側から見た様子


⑭フランス積み。これは誤訳だそうで正しくはフランドル積みだそうだ。

検査人館…重要文化財
⑮-⑯生糸の検査を担当したお雇い外国人の居住用に建てられたそうだ。


女工館…重要文化財
⑰-⑱こちらも工女養成の指導員となったお雇い外国人の工女のための居住用。日本人工女の居住用ではない。このクラスの人の居住用にここまでするなんて、今の常識では信じられない厚遇ぶりだったようだ。


ブリュナ館(首長館)…重要文化財
お雇い外国人の親玉だったブリュナの居住用。当時のブリュナの待遇は破格のものだったようだ。大した技術屋には思えないのに。うーーん。契約切れ以後は工女の教室として使用されていた。
私が見た感じだが、あまり優れたデザインの建物には見えなかった。当時の日本人にはハイカラな建物に見えたかもしれないが、ドサ回りで日本に来た西洋人には、急拵えの建物にしか映らなかったのではないかと思った。


大したことはないという評価が多いようだが、私にはかなり興味があったし、それなりに見てよかったなあと思えた。一度見学する価値があるのではなかろうか。
ただ、スカイツリーの地元商店街同様、こちらも、素通りの客ばかりで、なんとかお客さんを引き止める魅力を作っていく必要があるようには思えた。その方面の対策は遅れているように思えた。世界遺産登録に燃えるのもいいが、きちんとした街づくりを行っていくこともまた、必要ではないかと思った。
旧富岡製糸場(1)
旧富岡製糸場案内図

いまのところ、国の重要文化財に下記のものが指定されている。国宝・重要文化財フェチの私には、堪えられない豪華さだ。
繰糸所(そうしじょ)
東置繭所(ひがしおきまゆじょ)
西置繭所(にしおきまゆじょ)
蒸気窯所(じょうきがまじょ)
首長館(しゅちょうかん)
女工館(じょこうかん)
検査人館(けんさにんかん)
鉄水溜(てっすいりゅう)
下水竇及び外竇(げすいとうおよびがいとう) - 竇は汚水排出のための暗渠のこと
説明を受ける前に見たもの
思った以上に客は多い
①-②午後2番くらいに到着したのだが、まだまだ見学者が相当押しかけてきていた。お隣韓国の団体も来ていた。視察団のようだった。


糸繰りの実演
③-⑥老眼には見えにくいような細い糸を取り出す作業で、周りの見学者には糸が見えていたのだろうか。


細い糸が立ち上がっているのだが、お分かりだろうか


東繭倉庫の1階
⑦まゆのような超軽量のものを置くのにしては、やけにしっかりした倉庫だった。

説明を受けながら見たもの
東繭倉庫(東置繭所)…重要文化財
⑧-⑬1階は事務所や作業所として使い、2階に乾燥させた繭を貯蔵したそうだ。




以下の2ショットは西側から見た様子


⑭フランス積み。これは誤訳だそうで正しくはフランドル積みだそうだ。

検査人館…重要文化財
⑮-⑯生糸の検査を担当したお雇い外国人の居住用に建てられたそうだ。


女工館…重要文化財
⑰-⑱こちらも工女養成の指導員となったお雇い外国人の工女のための居住用。日本人工女の居住用ではない。このクラスの人の居住用にここまでするなんて、今の常識では信じられない厚遇ぶりだったようだ。


ブリュナ館(首長館)…重要文化財
お雇い外国人の親玉だったブリュナの居住用。当時のブリュナの待遇は破格のものだったようだ。大した技術屋には思えないのに。うーーん。契約切れ以後は工女の教室として使用されていた。
私が見た感じだが、あまり優れたデザインの建物には見えなかった。当時の日本人にはハイカラな建物に見えたかもしれないが、ドサ回りで日本に来た西洋人には、急拵えの建物にしか映らなかったのではないかと思った。



小諸市本町界隈
ここに何をしに行ったかというと、昼食とお土産の味噌漬けを買うためだった。小諸は、小諸城址・懐古園に何度か行っただけで、こうした宿場町の面影が残っているとは、恥ずかしながら知らなかった。予想外に味わいがある町並みだった。
街並み
①この辺りに水害被害に遭う前の小諸宿の本陣があったようだ。

②-⑩小諸市本町の街並み

この看板の字が読めなかった。








蕎麦屋『そば七』
⑪-㉓元は旅籠だったようだ。そこを借り受け、内部を改装した上で、蕎麦屋を営業しているとのこと。

向拝は当時流行った松や鳥が彫られている



我々が注文した『石臼手挽きざる(10食限定)』。あぶれた人は仕方なく、別のものを注文した。

昭和になって新たに作られた明かり取りの開口部





イギリス領カナダだって。ずいぶん古い看板だ。

『浅間嶽』だったのか。最初の字しか読めなかった。(^_^;)

㉔-㉕北国街道400年の記念ポスターのようだ
『あの夏で待ってる』の舞台だったんだ。デ・ジャブかなと思ったら、実際に見た作品だった。私がそのことを忘れていただけだった。(//∇//)


萬屋骨董店
江戸時代から13棟の蔵を持った小諸一番の米穀商と骨董商を併せて営んできましたが、明治26年連帯保証の責任を取り米穀商の鑑札を移譲、骨董屋専業になりました。
田舎の骨董屋なので取り扱う商品は骨董全般ですが、特に力を注いでいる物は、使って楽しむ生活骨董としての食器(伊万里焼等の陶磁器、輪島塗等の漆器)です。
また、最近女性の間で人気の手芸の材料としての古布、古い着物も取り揃えてあります。
12月初めに開催する恒例の書画展示即売会も人気を呼んでいます。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
明治初期の建物
萬屋骨董店店舗兼主屋(旧小諸銀行)は、平成19年10月2日国の登録有形文化財に登録されました。
御来店下されば外観ばかりでなく屋内も御覧いただけます。
旧小諸銀行の建物。銀行の創立は明治14年だが、この建物はその後建てられた。袖うだつをつけ、厚い土壁をつけた総2階の土蔵造りの建物で、棟には明かり取りの越屋根を設けている。本格的な土蔵造りで、小諸商人の財力を示すような銀行の姿をとどめている。国登録有形文化財。
㉖-㉚随分風格のあるところだ。国登録有形文化財指定も当然だろう。





味噌漬けの店
㉛-㊲グループのボスが贔屓にしている店のようだ。かなり渋い好みで驚いた。私は血圧が気になるため、買うのは遠慮した。







天機山光岳院
光岳寺は浄土宗の古刹で江戸時代に入ると徳川、松平、牧野など歴代藩主から庇護されました
山門
㊳-㊵元小諸城の足柄門を移築したもの



楼門
㊶-㊸江戸中期創建



㊹本堂

㊺-㊻赤い変わった花が


ほんまち町屋館
㊼昭和40年代まで味噌・醤油の醸造業を営んでいた旧清水屋を商家の造りをそのままに活かし、会議や展示、イベントなど多目的に利用できる施設として整備しました。
あわせて、浅間山などの眺望を活かした小公園に休憩施設、公衆用トイレを併設し、本町の情緒あふれるたたずまいに調和した施設として、平成13年7月にオープンしました。

http://matinami.o.oo7.jp/kousinetu/komoro.html記載の記事
小諸は城下町・宿場町・商業町と3ッの機能を融合させた町で、東信の藩都として栄えていた。
先ず城下町としては、長享元年(1487)大井伊賀守光忠が鍋蓋城(なべぶた)を築いたのに始まり、武田信玄、依田(松平)2代、仙石2代に続いて、6名の城主が在城の後、元禄16年(1703)牧野氏が入城して明治維新に至っている。
次いで宿場町としては、小諸は古来より交通の要衝であったが、慶長年間(1596~1615)の主要道の道路整備によって、中山道追分宿から北国街道が分岐して小諸を通っている。宿場は初め本町と市町がその役割を果たしたが、寛保2年(1742)の大水害で本町が壊滅的な打撃を受け、市町が以後宿場機能を受け持つようになった。加賀藩主前田氏を初めとして、北陸・越後・信濃の諸大名がこの宿を利用した。
商業面では、中山道碓氷峠を越えて信濃の最初の城下町であることと、いろんな道路が集まる地の利から、各地の物産が集散・流通する中心地となって、米穀商をはじめ各種の問屋が活躍した。
小諸を歩くと一番最初に気になったのは、城跡が低い所にあることだ。普通は城は高い所にあるものだが、小諸では城が下にある。江戸初期から城下町が発展し、次第に浅間山の傾斜地を通る北国街道に沿って延びていったため「坂の町」となり、結果的に城郭が低い所になってしまった。
次に気になったのは、旧本陣や旧脇本陣が宿はずれにあることだ。これも一般には宿の中心にあるものだが。これは寛保2年(1742)の大水害に起因している。元々本陣は今の本町2丁目の塩川家の位置にあったものだが、水害で流されたため、今の市町に移ってきたものだ。
さて、町並みはどうか、市町一丁目には旧本陣門と問屋場の建物・脇本陣建物が残り、造り酒屋さんの建物もあり、宿場の面影を色濃く残している。この辺りも当然中山道沿いだが、宿場町としては急坂な所だ。本陣・脇本陣前がこれほど急坂の宿場は無いのではと思う。本陣の主屋は別のところに移転していたが、本陣門に続いて問屋場の建物が残っている。妻入りの出桁造りという珍しい建て方をした建物であった。
本町筋は宿場町でも北国街道に沿った商業地である。寛保2年(1742)の大水害は思いがけない災害であった。北方を流れる中沢川・松井川が氾濫し、堰き止められたものが決壊して、土石流でことごとく破壊されたものである。私も最初は千曲川は遥か下を流れているし、どうして水害がと思ったもの。その後復興し小諸の経済の中心となった。そして今に続いて老舗の商家や問屋が多く軒を並べている。白漆喰塗込めの商家建物に混じって、黒漆喰塗込めの味噌屋さんの建物がひと際目を引いた。
ここに何をしに行ったかというと、昼食とお土産の味噌漬けを買うためだった。小諸は、小諸城址・懐古園に何度か行っただけで、こうした宿場町の面影が残っているとは、恥ずかしながら知らなかった。予想外に味わいがある町並みだった。
街並み
①この辺りに水害被害に遭う前の小諸宿の本陣があったようだ。

②-⑩小諸市本町の街並み

この看板の字が読めなかった。








蕎麦屋『そば七』
⑪-㉓元は旅籠だったようだ。そこを借り受け、内部を改装した上で、蕎麦屋を営業しているとのこと。

向拝は当時流行った松や鳥が彫られている



我々が注文した『石臼手挽きざる(10食限定)』。あぶれた人は仕方なく、別のものを注文した。

昭和になって新たに作られた明かり取りの開口部





イギリス領カナダだって。ずいぶん古い看板だ。

『浅間嶽』だったのか。最初の字しか読めなかった。(^_^;)

㉔-㉕北国街道400年の記念ポスターのようだ
『あの夏で待ってる』の舞台だったんだ。デ・ジャブかなと思ったら、実際に見た作品だった。私がそのことを忘れていただけだった。(//∇//)


萬屋骨董店
江戸時代から13棟の蔵を持った小諸一番の米穀商と骨董商を併せて営んできましたが、明治26年連帯保証の責任を取り米穀商の鑑札を移譲、骨董屋専業になりました。
田舎の骨董屋なので取り扱う商品は骨董全般ですが、特に力を注いでいる物は、使って楽しむ生活骨董としての食器(伊万里焼等の陶磁器、輪島塗等の漆器)です。
また、最近女性の間で人気の手芸の材料としての古布、古い着物も取り揃えてあります。
12月初めに開催する恒例の書画展示即売会も人気を呼んでいます。
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明治初期の建物
萬屋骨董店店舗兼主屋(旧小諸銀行)は、平成19年10月2日国の登録有形文化財に登録されました。
御来店下されば外観ばかりでなく屋内も御覧いただけます。
旧小諸銀行の建物。銀行の創立は明治14年だが、この建物はその後建てられた。袖うだつをつけ、厚い土壁をつけた総2階の土蔵造りの建物で、棟には明かり取りの越屋根を設けている。本格的な土蔵造りで、小諸商人の財力を示すような銀行の姿をとどめている。国登録有形文化財。
㉖-㉚随分風格のあるところだ。国登録有形文化財指定も当然だろう。





味噌漬けの店
㉛-㊲グループのボスが贔屓にしている店のようだ。かなり渋い好みで驚いた。私は血圧が気になるため、買うのは遠慮した。







天機山光岳院
光岳寺は浄土宗の古刹で江戸時代に入ると徳川、松平、牧野など歴代藩主から庇護されました
山門
㊳-㊵元小諸城の足柄門を移築したもの



楼門
㊶-㊸江戸中期創建



㊹本堂

㊺-㊻赤い変わった花が


ほんまち町屋館
㊼昭和40年代まで味噌・醤油の醸造業を営んでいた旧清水屋を商家の造りをそのままに活かし、会議や展示、イベントなど多目的に利用できる施設として整備しました。
あわせて、浅間山などの眺望を活かした小公園に休憩施設、公衆用トイレを併設し、本町の情緒あふれるたたずまいに調和した施設として、平成13年7月にオープンしました。

http://matinami.o.oo7.jp/kousinetu/komoro.html記載の記事
小諸は城下町・宿場町・商業町と3ッの機能を融合させた町で、東信の藩都として栄えていた。
先ず城下町としては、長享元年(1487)大井伊賀守光忠が鍋蓋城(なべぶた)を築いたのに始まり、武田信玄、依田(松平)2代、仙石2代に続いて、6名の城主が在城の後、元禄16年(1703)牧野氏が入城して明治維新に至っている。
次いで宿場町としては、小諸は古来より交通の要衝であったが、慶長年間(1596~1615)の主要道の道路整備によって、中山道追分宿から北国街道が分岐して小諸を通っている。宿場は初め本町と市町がその役割を果たしたが、寛保2年(1742)の大水害で本町が壊滅的な打撃を受け、市町が以後宿場機能を受け持つようになった。加賀藩主前田氏を初めとして、北陸・越後・信濃の諸大名がこの宿を利用した。
商業面では、中山道碓氷峠を越えて信濃の最初の城下町であることと、いろんな道路が集まる地の利から、各地の物産が集散・流通する中心地となって、米穀商をはじめ各種の問屋が活躍した。
小諸を歩くと一番最初に気になったのは、城跡が低い所にあることだ。普通は城は高い所にあるものだが、小諸では城が下にある。江戸初期から城下町が発展し、次第に浅間山の傾斜地を通る北国街道に沿って延びていったため「坂の町」となり、結果的に城郭が低い所になってしまった。
次に気になったのは、旧本陣や旧脇本陣が宿はずれにあることだ。これも一般には宿の中心にあるものだが。これは寛保2年(1742)の大水害に起因している。元々本陣は今の本町2丁目の塩川家の位置にあったものだが、水害で流されたため、今の市町に移ってきたものだ。
さて、町並みはどうか、市町一丁目には旧本陣門と問屋場の建物・脇本陣建物が残り、造り酒屋さんの建物もあり、宿場の面影を色濃く残している。この辺りも当然中山道沿いだが、宿場町としては急坂な所だ。本陣・脇本陣前がこれほど急坂の宿場は無いのではと思う。本陣の主屋は別のところに移転していたが、本陣門に続いて問屋場の建物が残っている。妻入りの出桁造りという珍しい建て方をした建物であった。
本町筋は宿場町でも北国街道に沿った商業地である。寛保2年(1742)の大水害は思いがけない災害であった。北方を流れる中沢川・松井川が氾濫し、堰き止められたものが決壊して、土石流でことごとく破壊されたものである。私も最初は千曲川は遥か下を流れているし、どうして水害がと思ったもの。その後復興し小諸の経済の中心となった。そして今に続いて老舗の商家や問屋が多く軒を並べている。白漆喰塗込めの商家建物に混じって、黒漆喰塗込めの味噌屋さんの建物がひと際目を引いた。
軽井沢山荘にて
浅間山
残念ながら噴煙は観察できなかった。平静時は右肩あたりから立ち上るのだが、風が吹いて見えない方角へ流されたのかもしれない。


山荘付近
紅葉もおしまいという感じだった。流石に軽井沢の別荘地は朝晩はかなり冷え込む。




夕食
追加なしの和定食にした。ケチな会計(私)が財布に紐を締めたかもしれない。
朝食の写真は撮り忘れた。






北国街道「海野宿(うんのじゅく)」…重要伝統的建造物群保存地区
ここは中山道ではなく、追分宿で分岐し、小諸、田中、海野、上田と続いたのか。真田氏は隣の上田に本拠を構えたけれど、そんなに離れてはいないんだ。
白鳥神社
海野氏と名跡を継いだ真田氏の氏神
案内板によると「この神社は古代天皇の命を奉じて東征の途についた日本武尊が、この地に滞在されたことから白鳥神社と称し、古代から中世の豪族、海野氏の祖と伝わる貞元親王・善淵王・海野広道公を祭神としています。
また、海野氏と、その名跡を継承した真田氏の氏神として篤く奉祀され、真田信之(幸村の兄)により松代の舞鶴山へ分祀されています。
往古より本海野の住民を始め近郷近在の人々より産土神として崇敬の念をあつめ、春と秋には例大祭が行われています」とある。歴史ある土地だったようだ。



鯨石の噴水

海野宿













本陣跡


伝統的な建物の意匠
本うだつと袖うだつ
「本うだつ」は江戸時代のもの、「袖うだつ」は明治時代のもの。袖うだつは軒下まで壁が届いていないそうだ。どうも私には区別がつかない。
海野格子、出桁、気抜き
「海野格子」と呼ばれている格子は江戸時代のもので、2階の出格子に見られます。長短2本づつ交互に組み込まれ、海野宿特有の美しい模様を織りなしています。
「出桁」は江戸時代の旅籠屋造りのもので、「気抜き」は明治時代の蚕室造りの象徴。
このショットにすべてが詰まっている。


鯱もあった


媒(なかだち)地蔵尊


木曽義仲挙兵の地
この千曲川の河畔で挙兵したようだ


海野宿のみどころ
海野宿の町並みは、江戸時代の旅籠屋造りや、茅葺き屋根の建物と、明治以降の堅牢な蚕室造りの建物とがよく調和して伝統的な家並みを形成しています。
道の中央を流れる用水、その両側に立ち並ぶ格子戸のはまった美しい家並みは、歴史のふる里をを想わせる静かなたたずまいを感じさせてくれます。
また、海野宿の産土神である白鳥境内の社そうは神社の歴史を物語り、中央にあるけやきの木は樹齢七百年を超えています。毎年4月の例祭には街道に12本の大のぼりが立ち並ぶなど、昔ながらの風習が今も受け継がれています。
11月23日(祝)には海野宿ふれあい祭が開催され、時代仮装行列や、人力車も繰りだし往時の宿場の賑わいが甦ります。
海野宿の歴史
海野宿は寛永2年(1625)に北国街道の宿駅として開設されました。北国街道は、中山道と北陸道を結ぶ重要な街道でした。佐渡で採れた金の輸送、北陸の諸大名の参勤交代のほか、江戸との交通も頻繁で善光寺への参詣客も多くありました。
寛保2年の大洪水によって隣接する田中宿が被害を受け、本陣が海野宿へ移されてからは、伝馬屋敷59軒、旅籠23軒と、たいへんな賑わいを呈していました。
明治に入り宿場機能が失われてからは、養蚕の村へと移り変わりました。
海野宿は伝統的な家並みが現在まで保存されていることから、昭和61年には「日本の道百選」に、62年には「重要伝統的建造物群保存地区」に選定を受けています。
浅間山
残念ながら噴煙は観察できなかった。平静時は右肩あたりから立ち上るのだが、風が吹いて見えない方角へ流されたのかもしれない。


山荘付近
紅葉もおしまいという感じだった。流石に軽井沢の別荘地は朝晩はかなり冷え込む。




夕食
追加なしの和定食にした。ケチな会計(私)が財布に紐を締めたかもしれない。
朝食の写真は撮り忘れた。






北国街道「海野宿(うんのじゅく)」…重要伝統的建造物群保存地区
ここは中山道ではなく、追分宿で分岐し、小諸、田中、海野、上田と続いたのか。真田氏は隣の上田に本拠を構えたけれど、そんなに離れてはいないんだ。
白鳥神社
海野氏と名跡を継いだ真田氏の氏神
案内板によると「この神社は古代天皇の命を奉じて東征の途についた日本武尊が、この地に滞在されたことから白鳥神社と称し、古代から中世の豪族、海野氏の祖と伝わる貞元親王・善淵王・海野広道公を祭神としています。
また、海野氏と、その名跡を継承した真田氏の氏神として篤く奉祀され、真田信之(幸村の兄)により松代の舞鶴山へ分祀されています。
往古より本海野の住民を始め近郷近在の人々より産土神として崇敬の念をあつめ、春と秋には例大祭が行われています」とある。歴史ある土地だったようだ。



鯨石の噴水

海野宿













本陣跡


伝統的な建物の意匠
本うだつと袖うだつ
「本うだつ」は江戸時代のもの、「袖うだつ」は明治時代のもの。袖うだつは軒下まで壁が届いていないそうだ。どうも私には区別がつかない。
海野格子、出桁、気抜き
「海野格子」と呼ばれている格子は江戸時代のもので、2階の出格子に見られます。長短2本づつ交互に組み込まれ、海野宿特有の美しい模様を織りなしています。
「出桁」は江戸時代の旅籠屋造りのもので、「気抜き」は明治時代の蚕室造りの象徴。
このショットにすべてが詰まっている。


鯱もあった


媒(なかだち)地蔵尊


木曽義仲挙兵の地
この千曲川の河畔で挙兵したようだ


海野宿のみどころ
海野宿の町並みは、江戸時代の旅籠屋造りや、茅葺き屋根の建物と、明治以降の堅牢な蚕室造りの建物とがよく調和して伝統的な家並みを形成しています。
道の中央を流れる用水、その両側に立ち並ぶ格子戸のはまった美しい家並みは、歴史のふる里をを想わせる静かなたたずまいを感じさせてくれます。
また、海野宿の産土神である白鳥境内の社そうは神社の歴史を物語り、中央にあるけやきの木は樹齢七百年を超えています。毎年4月の例祭には街道に12本の大のぼりが立ち並ぶなど、昔ながらの風習が今も受け継がれています。
11月23日(祝)には海野宿ふれあい祭が開催され、時代仮装行列や、人力車も繰りだし往時の宿場の賑わいが甦ります。
海野宿の歴史
海野宿は寛永2年(1625)に北国街道の宿駅として開設されました。北国街道は、中山道と北陸道を結ぶ重要な街道でした。佐渡で採れた金の輸送、北陸の諸大名の参勤交代のほか、江戸との交通も頻繁で善光寺への参詣客も多くありました。
寛保2年の大洪水によって隣接する田中宿が被害を受け、本陣が海野宿へ移されてからは、伝馬屋敷59軒、旅籠23軒と、たいへんな賑わいを呈していました。
明治に入り宿場機能が失われてからは、養蚕の村へと移り変わりました。
海野宿は伝統的な家並みが現在まで保存されていることから、昭和61年には「日本の道百選」に、62年には「重要伝統的建造物群保存地区」に選定を受けています。
熊野皇大神社から降りてきて、次には雲場池へ向かった。
雲場池は説明の必要がほとんどないだろう超有名な池である。旬に時期に行けば、それはそれは見事な写真が撮れることだろう。どうも3連休の頃までで見頃は終わりだったようだ。
①-⑤





⑥-⑩





⑪-⑮





⑯-⑳





雲場池(くもばいけ)は長野県北佐久郡軽井沢町の六本辻近くにある池。地元では「おみずばた」と呼ばれ、「スワンレイク」という愛称も持つ。
細長い形状からデーランボーという巨人の足跡という伝説が残るが、近世にホテル鹿島ノ森の敷地内に湧く御膳水を源とする小川をせき止めて誕生した池である。
池畔に遊歩道が廻らされるなど池の周囲は雲場池園地として整備されており、周辺に点在する外人墓地や美術館等の施設とともに軽井沢の観光コースとなっている。
雲場池は説明の必要がほとんどないだろう超有名な池である。旬に時期に行けば、それはそれは見事な写真が撮れることだろう。どうも3連休の頃までで見頃は終わりだったようだ。
①-⑤





⑥-⑩





⑪-⑮





⑯-⑳





雲場池(くもばいけ)は長野県北佐久郡軽井沢町の六本辻近くにある池。地元では「おみずばた」と呼ばれ、「スワンレイク」という愛称も持つ。
細長い形状からデーランボーという巨人の足跡という伝説が残るが、近世にホテル鹿島ノ森の敷地内に湧く御膳水を源とする小川をせき止めて誕生した池である。
池畔に遊歩道が廻らされるなど池の周囲は雲場池園地として整備されており、周辺に点在する外人墓地や美術館等の施設とともに軽井沢の観光コースとなっている。
3連休直後の11月5日(火)-6日(水)に、会社のOB会の仲間と軽井沢山荘に泊まる一泊旅行をしてきた。
行きがけの妙義山
①行きがけに妙義山を見るべく道の駅に車を止める。 なかなか、あの奇妙奇天烈な山容を写すことができない。

②-③道の駅で昼食をと考えていたが、狭く、混んでいたので、やむなくおぎのやへ向かう。ここで『峠の釜めし』と『味噌汁』のセットを注文。


腹ごしらえをしたところで、熊野皇大神社に向かう。旧軽銀座を過ぎて右折。聖パウロ教会の駐車場に車を入れるのかと思いきや、旧軽銀座そのものに入る。その後、よく分からない道を延々と上り、熊野皇大神社の近くまで来ているのだと理解した。
見晴台
まずは見晴台に行く。ここも群馬県と長野県の境にまたがる。昔風に言えば、上信国境ということになる。
④-⑤頭が飛び出したような形が妙義山


⑥右上端辺りに三角錐のようにかすかに見えるのが富士山だそうだ。相当に遠く見える。

⑦なんとか落葉せずにいた紅葉

⑧-⑨群馬県側を眺める人たち。ここからは長野県側はよく見えない感じ。


⑩-⑪県境はこんなふう


見晴台から歩いて熊野皇大神社に向かう
熊野皇大神社
軽井沢にはかなり来ているのに、この神社の存在はまったく知らなかった。知らないながらも走水神社に続いて、熊野皇大神社にやってきた。日本書紀に縁のあるというか密接な繋がりのある2つの神社を訪問できたとはなんたる幸運なことか。
案内には『日本武尊が東国平定の帰路に碓氷峠にて霧にまかれた時、八咫烏の道案内により無事嶺に達することが出来、ここに熊野の大神を祀ったと伝えられています。
碓氷嶺に立った尊は雲海より海を連想され、走水で入水された弟橘比売命を偲ばれて、「吾嬬者耶(あづまはや…我が妻よの意)」と嘆かれました。(日本書紀より)
鎌倉時代には武士団から篤い崇敬を受け、江戸時代には諸大名を始め、多くの人々が中山道を行き来しました。関東の西端に位置し、西方浄土、二世安楽、道中安全を叶える山岳聖地として、権現信仰が最も盛んとなりました。「碓氷峠の権現様は主の為には守り神」と旅人に唄われ、追分節の元唄となって熊野信仰が全国に伝わっていきました。』とある。
神社入口
⑫-⑰右側が群馬県で左側が長野県のようだ。






神門
⑱-㉑山門に対して『神門』というようだが、『熊野皇大神』と書かれてある。随身像があるから『随身門』というべきものかなあ。




石の風車
㉒-㉓追分節に「碓氷峠のあの風車 たれを待つやらくるくると」と謳われた石の風車。元禄元(1688)年建立というから相当に古いものだ。


境内の様子
㉔-㉕本宮社殿
左側から、長野県側に鎮座「那智宮」(祭神:事解男命)、県境に鎮座「本宮」(祭神:伊邪那美命・日本武尊)、群馬県側に鎮座「新宮」(祭神:速玉男命)の三社殿が並ぶ。本宮の中心で長野県(左側)と群馬県(右側)とに分かれる。


㉖-㉗本宮等を横から見る


㉘斜めから見る。境内の石畳は明暦3(1657)年築造だそうだ。

㉙新宮(群馬県側)

㉚-㉛左の高い建物が長野県側に鎮座する『那智宮(祭神:事解男命)』の本殿のようだ。その前(右横に見える)が拝殿だろう。


㉜-㉝左脇殿


㉞-㉟右脇殿


㊱樹齢800年の御神木・シナノキ

神社下にて
㊲-㊳こんなバスが走っているんだ


室町時代中期建立の狛犬なんだそうだ。残念ながら見落としてしまった。
狛犬の拡大写真へjump
行きがけの妙義山
①行きがけに妙義山を見るべく道の駅に車を止める。 なかなか、あの奇妙奇天烈な山容を写すことができない。

②-③道の駅で昼食をと考えていたが、狭く、混んでいたので、やむなくおぎのやへ向かう。ここで『峠の釜めし』と『味噌汁』のセットを注文。


腹ごしらえをしたところで、熊野皇大神社に向かう。旧軽銀座を過ぎて右折。聖パウロ教会の駐車場に車を入れるのかと思いきや、旧軽銀座そのものに入る。その後、よく分からない道を延々と上り、熊野皇大神社の近くまで来ているのだと理解した。
見晴台
まずは見晴台に行く。ここも群馬県と長野県の境にまたがる。昔風に言えば、上信国境ということになる。
④-⑤頭が飛び出したような形が妙義山


⑥右上端辺りに三角錐のようにかすかに見えるのが富士山だそうだ。相当に遠く見える。

⑦なんとか落葉せずにいた紅葉

⑧-⑨群馬県側を眺める人たち。ここからは長野県側はよく見えない感じ。


⑩-⑪県境はこんなふう


見晴台から歩いて熊野皇大神社に向かう
熊野皇大神社
軽井沢にはかなり来ているのに、この神社の存在はまったく知らなかった。知らないながらも走水神社に続いて、熊野皇大神社にやってきた。日本書紀に縁のあるというか密接な繋がりのある2つの神社を訪問できたとはなんたる幸運なことか。
案内には『日本武尊が東国平定の帰路に碓氷峠にて霧にまかれた時、八咫烏の道案内により無事嶺に達することが出来、ここに熊野の大神を祀ったと伝えられています。
碓氷嶺に立った尊は雲海より海を連想され、走水で入水された弟橘比売命を偲ばれて、「吾嬬者耶(あづまはや…我が妻よの意)」と嘆かれました。(日本書紀より)
鎌倉時代には武士団から篤い崇敬を受け、江戸時代には諸大名を始め、多くの人々が中山道を行き来しました。関東の西端に位置し、西方浄土、二世安楽、道中安全を叶える山岳聖地として、権現信仰が最も盛んとなりました。「碓氷峠の権現様は主の為には守り神」と旅人に唄われ、追分節の元唄となって熊野信仰が全国に伝わっていきました。』とある。
神社入口
⑫-⑰右側が群馬県で左側が長野県のようだ。






神門
⑱-㉑山門に対して『神門』というようだが、『熊野皇大神』と書かれてある。随身像があるから『随身門』というべきものかなあ。




石の風車
㉒-㉓追分節に「碓氷峠のあの風車 たれを待つやらくるくると」と謳われた石の風車。元禄元(1688)年建立というから相当に古いものだ。


境内の様子
㉔-㉕本宮社殿
左側から、長野県側に鎮座「那智宮」(祭神:事解男命)、県境に鎮座「本宮」(祭神:伊邪那美命・日本武尊)、群馬県側に鎮座「新宮」(祭神:速玉男命)の三社殿が並ぶ。本宮の中心で長野県(左側)と群馬県(右側)とに分かれる。


㉖-㉗本宮等を横から見る


㉘斜めから見る。境内の石畳は明暦3(1657)年築造だそうだ。

㉙新宮(群馬県側)

㉚-㉛左の高い建物が長野県側に鎮座する『那智宮(祭神:事解男命)』の本殿のようだ。その前(右横に見える)が拝殿だろう。


㉜-㉝左脇殿


㉞-㉟右脇殿


㊱樹齢800年の御神木・シナノキ

神社下にて
㊲-㊳こんなバスが走っているんだ


室町時代中期建立の狛犬なんだそうだ。残念ながら見落としてしまった。
狛犬の拡大写真へjump
アルムデナ大聖堂
①-③王宮のファサードと向かい合う位置に建てられている。
この大聖堂には入らなかったのだが、新しそうに見えた。それもそのはず。教皇ヨハネ・パウロ2世が1993年に聖別するまで、大聖堂ではなかったのだそうだ。



④アルムデナの内装(free画像を借用)

⑤Main portal of the Southeast façade of the Almudena Cathedral, Madrid, Spain(free画像を借用)

約2週間の旅もいつか終わりの時が来る。
⑥-⑦簡単な昼食で済ませる。


いよいよ帰途につく
⑧-⑨少し宿舎で時間つぶしをしたあとに、renfeのデリシャス駅から空港に向かう。30分の一本の運転間隔だが、空港直行の電車が出ていて、乗り換えなしで大変便利。


⑩車窓から

⑪副都心建設現場付近

⑫-⑬搭乗ゲートを確認し、eチケットを搭乗券に換え、荷物を預ける


⑭搭乗を待つ人たち

⑮エミレーツ航空はかなりマドリードに乗り入れているようだ

長々と引っ張りすぎた感じが否めない『スペイン巡礼旅行』でしたが、今回で終了させていただきます。最後までお付き合いいただき大変ありがとうございました。
おまけにプラド美術館収蔵の名画をどうぞ いずれもfree画像を借用
⑯『女官たち(ラス・メニーナス)』ベラスケス

⑰『着衣のマハ』フランシスコ・デ・ゴヤ

⑱『裸のマハ』フランシスコ・デ・ゴヤ

⑲『三位一体』エル・グレコ

⑳『無原罪の御宿り』バルトロメ・エステバン・ムリーリョ

今回のスペイン巡礼旅行でお世話になったSNJ日西文化協会。こじんまりした組織だが、良心的。
『SNJ日西文化協会』のHPへjump
『SNJ日西文化協会のスペイン文化研修旅行』のページへjump
今回のスペイン巡礼旅行でガイドを務めた佐々木郁夫氏は、個人でもオリジナルのツアーを受けている。愉快で頼りになる人物。
『ぼんちゃん漫遊記 in スペイン 佐々木郁夫のぶろぐ』へjump
古い絵画に興味のある方は、web上にギャラリーがあるので、そこで検索してみるのも良いかもしれない。
そのWEBサイトへjump
①-③王宮のファサードと向かい合う位置に建てられている。
この大聖堂には入らなかったのだが、新しそうに見えた。それもそのはず。教皇ヨハネ・パウロ2世が1993年に聖別するまで、大聖堂ではなかったのだそうだ。



④アルムデナの内装(free画像を借用)

⑤Main portal of the Southeast façade of the Almudena Cathedral, Madrid, Spain(free画像を借用)

約2週間の旅もいつか終わりの時が来る。
⑥-⑦簡単な昼食で済ませる。


いよいよ帰途につく
⑧-⑨少し宿舎で時間つぶしをしたあとに、renfeのデリシャス駅から空港に向かう。30分の一本の運転間隔だが、空港直行の電車が出ていて、乗り換えなしで大変便利。


⑩車窓から

⑪副都心建設現場付近

⑫-⑬搭乗ゲートを確認し、eチケットを搭乗券に換え、荷物を預ける


⑭搭乗を待つ人たち

⑮エミレーツ航空はかなりマドリードに乗り入れているようだ

長々と引っ張りすぎた感じが否めない『スペイン巡礼旅行』でしたが、今回で終了させていただきます。最後までお付き合いいただき大変ありがとうございました。
おまけにプラド美術館収蔵の名画をどうぞ いずれもfree画像を借用
⑯『女官たち(ラス・メニーナス)』ベラスケス

⑰『着衣のマハ』フランシスコ・デ・ゴヤ

⑱『裸のマハ』フランシスコ・デ・ゴヤ

⑲『三位一体』エル・グレコ

⑳『無原罪の御宿り』バルトロメ・エステバン・ムリーリョ

今回のスペイン巡礼旅行でお世話になったSNJ日西文化協会。こじんまりした組織だが、良心的。
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今回のスペイン巡礼旅行でガイドを務めた佐々木郁夫氏は、個人でもオリジナルのツアーを受けている。愉快で頼りになる人物。
『ぼんちゃん漫遊記 in スペイン 佐々木郁夫のぶろぐ』へjump
古い絵画に興味のある方は、web上にギャラリーがあるので、そこで検索してみるのも良いかもしれない。
そのWEBサイトへjump
王宮-2
『ファサードを見る』の続き
①-⑤





ファサードの反対側を見る
⑥ファサードから東側の柱廊を見る

⑦-⑧ファサードから中庭を見る


⑨王宮中庭に沿った西側の柱廊

王宮内の様子
以下はすべて撮影禁止の部分にあるものなので、free画像を借用する
⑩見事なシャンデリア

⑪玉座の間
Salón del Trono. Las pinturas del techo son de Tiepolo, mientras que las paredes están forradas con terciopelo bordado con hilo de plata.

⑫中世の武具はこういうものだったんだなと再確認した
Weapons room. Palácio Real. Madrid, Spain.

⑬これははっきり記憶がある。陶磁器の間だ。多分磁器が展示されていたものと思うが、爪で弾いてみると音でわかるが、そんなことさせてもらえる訳がない。

⑭狩猟服姿のカルロス4世の肖像画。ゴヤの作品のようだ。それにしてもこんな猟銃で当たるものなのだろうか。
Charles IV in his Hunting Clothes

⑮洗礼者ヨハネの頭を抱えたサロメ。カラバッジョの作品だそうだ。
"Salome with the Head of John the Baptist", by caravaggio (1571-1610).

⑯いまはベルサイユ宮殿にあるとなっているから、これは複製ということか。
Portrait of the Queen Marie Amelie of Bourbon-Two Sicilies, Queen of the French.

⑰カルロス4世を描いたゴヤの作品のようだが、スペイン語がわからないので何の場面か不明。
La caza del jabalí. Cartones para tapices. Óleo sobre lienzo. Real Sitio del Escorial.

⑱ストラディバリウスは確かにあった。盗まれたら大変なのにと思うような場所にあった。

マドリード王宮は、カルロス3世からアルフォンソ13世の時代まで、スペインの国王が住まいとしてきたところです。
現在のスペイン国王は、ここマドリード王宮には住んでいませんが、王宮はスペイン国王夫妻の公式住居となっており、現在でも公式行事やセレモニーに使われています。
王宮はスペインの歴史をたどってみたい全ての人に開放されていますので、部屋から部屋へ王宮絵画コレクションを眺め、その建築を楽しみながら巡ることができます。
王宮の簡単な歴史
================
マドリードがスペインの首都となるはるか以前、モハメッド1世はマゲリットの町にキリスト教徒の前進からトレドを守るための城塞を築きました。
その後、カスティージャの王たちがこの城塞を時々使うようになりますが、いわゆる旧アルカサルとして姿を変えるのは16世紀に入ってから、カルロス1世とその息子フェリペ2世の時代のことです。
2人の国王は、この旧アルカサルを恒常的な住いとしました。しかし、このアウストリア(ハプスブルグ)家の王宮は1734年の火災で焼失してしまい、フェリペ5世がその跡地に新しい王宮の建設を命じます。
最初に王宮建設の依頼を受けたのはフィリッポ・ジュヴァラですが、ジュヴァラの死後は弟子のフアン・バウティスタ・ザケッティがこれを引き継ぎ、設計を終了しました。
フェリペ5世が依頼した工事は、1738年に着工してから完成するまでに17年を要しています。
しかし、新しい王宮に暮し、装飾にも目を配った最初の国王はカルロス3世です。カルロス3世は、マドリード市のためにたくさんの修復や工事を行ったことから「市長王」の異名で知られる国王です。
王宮の装飾を担当したサバティーニの手により、ブルボン家の王宮が完成しまし、続くカルロス4世、フェルナンド7世の時代にも、時計、家具、シャンデリア、燭台といった調度品が加えられています。
「鏡の間」はカルロス4世が作らせたものです。
19世紀を通じ、王宮には近代的な要素が加えられ、それによって装飾の面でやや変化が見られました。例えば壁紙がその例で、壁紙を貼るために壁に飾られていた絵画作品のいくつかがはずされ、プラド美術館に移されています。この王宮を住いとして用いた最後の国王は、アルフォンソ13世とビクトリア・エウヘニア王妃でした。
荘厳な建築
==========
王宮王宮建物は、ベルニーニによるパリのルーブル美術館の図面に発想を得た四角い形をしており、中庭を中心に柱廊、ギャラリーがこれを取り囲み、更にアルマス広場がこれに加わります。
6階建ての建物全体にたくさんの部屋が配されていますが、主要な部屋はファサード(建物の正面)に向って開いているものです。
王宮正門はアルマス広場に面したファサードにあります。広々としたアルマス広場は柵で閉じられていますが、アルムデナ大聖堂入口とつながっており、近衛兵や軍隊のパレードを国王が閲兵するのに最適な空間です。
広場の西側建物はカンポ・デル・モロ庭園に向って、東側建物はバイレン通りを経てオリエンテ広場に向って建っています。
王宮の外観は簡素ながら堂々としたもので、柱、コーニス、モールディングを中心とした装飾の一番高い部分には欄干がめぐらされています。
ファサードに開かれた数々の窓の中では、王宮の代表的な部屋部屋のバルコニーが目を引きます。「王座の間」にあたる部分は4本の大きな柱が配されており、外からもはっきりとわかります。西側ファサードに向っては公式晩餐会用ダイニングルームのバルコニーが張り出し、普段のダイニングルームはオリエンテ広場に向っています。王宮北側は礼拝堂になっているため、バルコニーはありません。
主な部屋
========
王宮の装飾も部屋の配置も、そこに住んだ国王たちの求めに応じて年月とともに変化してきました。
いずれの国王も独特の部屋を作らせるなど、それぞれの個性を残してきましたが、中でも「王座の間」はその意味するところと豪華さで特筆に価します。
細長い形をした「王座の間」の壁は赤いビロードと銀糸で覆われ、ラ・グランハ製の鏡やコンソールテーブル、時計で飾られています。ティエポロ作の天井画が見下ろす中、「王座の間」は格式高いレセプション会場として使用されています。
その他、スペインの欧州連合加盟条約の署名が行われた「柱の間」も傑出したものです。天井画はジャキントの手によるもので、壁には17世紀のタペストリーがかけられ、ローマの胸像や旧アルカサル時代からの彫刻が飾られています。ここは公式行事が行われる場所でしたが、アルフォンソ12世によって命じられた改装で「王妃の間」に属する3部屋がアーケードでつながれ、公式宴会用ダイニングルームになったものです。
改装工事は19世紀末に行われ、装飾には16世紀のタペストリーや18世紀の中国製陶器の壷の他、メングス、ゴンサレス・ベラスケス、フランシスコ・バジェウの絵画が用いられています。
階段とフレスコ
==============
その他の主要な空間の中でも、アルマス広場から馬車用通路を通って階段へと続く入口を忘れてはいけません。70段を越える階段はサバティーニの設計によるもので、どの段も一枚の石で作られています。
丸天井を飾るのはコッラード・ジャキントのフレスコ画です。
その他王宮内には、かつてはカルロス3世の私室であった「衛兵隊の間」、18世紀末に溯る植物をモチーフとした華麗な装飾の「ガスパリーニの間」、コッラード・ジャキント作「聖母の戴冠」のフレスコ画の丸天井を持つ王室礼拝堂、ロココ風装飾をほどこしたマリア・ルイサ王妃の「高級木材の小部屋」などの部屋があります。
また、王室薬局を訪れてみるのも一興です。ここには薬草の棚、陶製の容器、ラ・グランハ製ガラス瓶のほか、王室の人々のために書かれた処方箋も残っています。
王室武具博物館は、スペイン国王、王室メンバー、そして彼らの馬が使った武器や甲冑の展示として最も貴重なものとされています。
贅を尽くした周辺
================
王宮の西側、「マドリードの川」マンサナレス川に向って下る斜面に作られたカンポ・デル・モロは、中世には祭りや騎士たちの馬上試合が行われた所でした。
最初にその改造を命じたのはフェリペ5世で、噴水が作られ木が植えられます。
当初は狩り場となりますが、その後マリア・クリスティーナ王妃によって19世紀英国風庭園に作り変えられました。当時のロマン主義的自然観にもとづいて作られたこの庭園は、小さな木立と小道が配され、トリトンの噴水と「貝の宮殿」の噴水が目を引きます。
王宮の東側に広がるオリエンテ広場の中心は、ベラスケスのデザインにもとづきピエトロ・タッカが作ったフェリペ4世像です。
これを囲むように立ち並ぶ一連の白い石の像は、もとは王宮上部に配されるべきものでした。
広場の設計は18世紀のものですが、そこにあった建物が取壊されたのはホセ・ボナパルトの短い治世の間のことです。スペイン王位を取り戻したフェルナンド7世からこの地域の都市計画を命じられたイシドロ・ゴンサレス・ベラスケスは、王立劇場を見渡し、王宮に向って半円形に開いた形の広場、柱廊、それに家屋6ブロックから成る空間を設計します。
皇太子結婚式の舞台
==================
最後に、北側ファサードに向って、かつて馬屋があった場所に、18世紀の建築家サバティーニ設計の庭園が造られます。この設計に従がって1930年に庭園を完成したのはフェルナンド・ガルシア・メルカダルです。
現在王宮では授賞式、国王の謁見、国王主催晩餐会の他、ナショナルデーのレセプション(国王夫妻がスペインの政府関係者、企業家、文壇や芸術・社交界の著名な人物を迎える行事)、毎年1月6日の軍式典(「王座の間」で王室メンバーが軍高官を迎えて行われる)、スペインに着任した各国大使の信任状奉呈式といった特別な式典が行われます。2004年には皇太子結婚式の会場にもなっています。
『ファサードを見る』の続き
①-⑤





ファサードの反対側を見る
⑥ファサードから東側の柱廊を見る

⑦-⑧ファサードから中庭を見る


⑨王宮中庭に沿った西側の柱廊

王宮内の様子
以下はすべて撮影禁止の部分にあるものなので、free画像を借用する
⑩見事なシャンデリア

⑪玉座の間
Salón del Trono. Las pinturas del techo son de Tiepolo, mientras que las paredes están forradas con terciopelo bordado con hilo de plata.

⑫中世の武具はこういうものだったんだなと再確認した
Weapons room. Palácio Real. Madrid, Spain.

⑬これははっきり記憶がある。陶磁器の間だ。多分磁器が展示されていたものと思うが、爪で弾いてみると音でわかるが、そんなことさせてもらえる訳がない。

⑭狩猟服姿のカルロス4世の肖像画。ゴヤの作品のようだ。それにしてもこんな猟銃で当たるものなのだろうか。
Charles IV in his Hunting Clothes

⑮洗礼者ヨハネの頭を抱えたサロメ。カラバッジョの作品だそうだ。
"Salome with the Head of John the Baptist", by caravaggio (1571-1610).

⑯いまはベルサイユ宮殿にあるとなっているから、これは複製ということか。
Portrait of the Queen Marie Amelie of Bourbon-Two Sicilies, Queen of the French.

⑰カルロス4世を描いたゴヤの作品のようだが、スペイン語がわからないので何の場面か不明。
La caza del jabalí. Cartones para tapices. Óleo sobre lienzo. Real Sitio del Escorial.

⑱ストラディバリウスは確かにあった。盗まれたら大変なのにと思うような場所にあった。

マドリード王宮は、カルロス3世からアルフォンソ13世の時代まで、スペインの国王が住まいとしてきたところです。
現在のスペイン国王は、ここマドリード王宮には住んでいませんが、王宮はスペイン国王夫妻の公式住居となっており、現在でも公式行事やセレモニーに使われています。
王宮はスペインの歴史をたどってみたい全ての人に開放されていますので、部屋から部屋へ王宮絵画コレクションを眺め、その建築を楽しみながら巡ることができます。
王宮の簡単な歴史
================
マドリードがスペインの首都となるはるか以前、モハメッド1世はマゲリットの町にキリスト教徒の前進からトレドを守るための城塞を築きました。
その後、カスティージャの王たちがこの城塞を時々使うようになりますが、いわゆる旧アルカサルとして姿を変えるのは16世紀に入ってから、カルロス1世とその息子フェリペ2世の時代のことです。
2人の国王は、この旧アルカサルを恒常的な住いとしました。しかし、このアウストリア(ハプスブルグ)家の王宮は1734年の火災で焼失してしまい、フェリペ5世がその跡地に新しい王宮の建設を命じます。
最初に王宮建設の依頼を受けたのはフィリッポ・ジュヴァラですが、ジュヴァラの死後は弟子のフアン・バウティスタ・ザケッティがこれを引き継ぎ、設計を終了しました。
フェリペ5世が依頼した工事は、1738年に着工してから完成するまでに17年を要しています。
しかし、新しい王宮に暮し、装飾にも目を配った最初の国王はカルロス3世です。カルロス3世は、マドリード市のためにたくさんの修復や工事を行ったことから「市長王」の異名で知られる国王です。
王宮の装飾を担当したサバティーニの手により、ブルボン家の王宮が完成しまし、続くカルロス4世、フェルナンド7世の時代にも、時計、家具、シャンデリア、燭台といった調度品が加えられています。
「鏡の間」はカルロス4世が作らせたものです。
19世紀を通じ、王宮には近代的な要素が加えられ、それによって装飾の面でやや変化が見られました。例えば壁紙がその例で、壁紙を貼るために壁に飾られていた絵画作品のいくつかがはずされ、プラド美術館に移されています。この王宮を住いとして用いた最後の国王は、アルフォンソ13世とビクトリア・エウヘニア王妃でした。
荘厳な建築
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王宮王宮建物は、ベルニーニによるパリのルーブル美術館の図面に発想を得た四角い形をしており、中庭を中心に柱廊、ギャラリーがこれを取り囲み、更にアルマス広場がこれに加わります。
6階建ての建物全体にたくさんの部屋が配されていますが、主要な部屋はファサード(建物の正面)に向って開いているものです。
王宮正門はアルマス広場に面したファサードにあります。広々としたアルマス広場は柵で閉じられていますが、アルムデナ大聖堂入口とつながっており、近衛兵や軍隊のパレードを国王が閲兵するのに最適な空間です。
広場の西側建物はカンポ・デル・モロ庭園に向って、東側建物はバイレン通りを経てオリエンテ広場に向って建っています。
王宮の外観は簡素ながら堂々としたもので、柱、コーニス、モールディングを中心とした装飾の一番高い部分には欄干がめぐらされています。
ファサードに開かれた数々の窓の中では、王宮の代表的な部屋部屋のバルコニーが目を引きます。「王座の間」にあたる部分は4本の大きな柱が配されており、外からもはっきりとわかります。西側ファサードに向っては公式晩餐会用ダイニングルームのバルコニーが張り出し、普段のダイニングルームはオリエンテ広場に向っています。王宮北側は礼拝堂になっているため、バルコニーはありません。
主な部屋
========
王宮の装飾も部屋の配置も、そこに住んだ国王たちの求めに応じて年月とともに変化してきました。
いずれの国王も独特の部屋を作らせるなど、それぞれの個性を残してきましたが、中でも「王座の間」はその意味するところと豪華さで特筆に価します。
細長い形をした「王座の間」の壁は赤いビロードと銀糸で覆われ、ラ・グランハ製の鏡やコンソールテーブル、時計で飾られています。ティエポロ作の天井画が見下ろす中、「王座の間」は格式高いレセプション会場として使用されています。
その他、スペインの欧州連合加盟条約の署名が行われた「柱の間」も傑出したものです。天井画はジャキントの手によるもので、壁には17世紀のタペストリーがかけられ、ローマの胸像や旧アルカサル時代からの彫刻が飾られています。ここは公式行事が行われる場所でしたが、アルフォンソ12世によって命じられた改装で「王妃の間」に属する3部屋がアーケードでつながれ、公式宴会用ダイニングルームになったものです。
改装工事は19世紀末に行われ、装飾には16世紀のタペストリーや18世紀の中国製陶器の壷の他、メングス、ゴンサレス・ベラスケス、フランシスコ・バジェウの絵画が用いられています。
階段とフレスコ
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その他の主要な空間の中でも、アルマス広場から馬車用通路を通って階段へと続く入口を忘れてはいけません。70段を越える階段はサバティーニの設計によるもので、どの段も一枚の石で作られています。
丸天井を飾るのはコッラード・ジャキントのフレスコ画です。
その他王宮内には、かつてはカルロス3世の私室であった「衛兵隊の間」、18世紀末に溯る植物をモチーフとした華麗な装飾の「ガスパリーニの間」、コッラード・ジャキント作「聖母の戴冠」のフレスコ画の丸天井を持つ王室礼拝堂、ロココ風装飾をほどこしたマリア・ルイサ王妃の「高級木材の小部屋」などの部屋があります。
また、王室薬局を訪れてみるのも一興です。ここには薬草の棚、陶製の容器、ラ・グランハ製ガラス瓶のほか、王室の人々のために書かれた処方箋も残っています。
王室武具博物館は、スペイン国王、王室メンバー、そして彼らの馬が使った武器や甲冑の展示として最も貴重なものとされています。
贅を尽くした周辺
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王宮の西側、「マドリードの川」マンサナレス川に向って下る斜面に作られたカンポ・デル・モロは、中世には祭りや騎士たちの馬上試合が行われた所でした。
最初にその改造を命じたのはフェリペ5世で、噴水が作られ木が植えられます。
当初は狩り場となりますが、その後マリア・クリスティーナ王妃によって19世紀英国風庭園に作り変えられました。当時のロマン主義的自然観にもとづいて作られたこの庭園は、小さな木立と小道が配され、トリトンの噴水と「貝の宮殿」の噴水が目を引きます。
王宮の東側に広がるオリエンテ広場の中心は、ベラスケスのデザインにもとづきピエトロ・タッカが作ったフェリペ4世像です。
これを囲むように立ち並ぶ一連の白い石の像は、もとは王宮上部に配されるべきものでした。
広場の設計は18世紀のものですが、そこにあった建物が取壊されたのはホセ・ボナパルトの短い治世の間のことです。スペイン王位を取り戻したフェルナンド7世からこの地域の都市計画を命じられたイシドロ・ゴンサレス・ベラスケスは、王立劇場を見渡し、王宮に向って半円形に開いた形の広場、柱廊、それに家屋6ブロックから成る空間を設計します。
皇太子結婚式の舞台
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最後に、北側ファサードに向って、かつて馬屋があった場所に、18世紀の建築家サバティーニ設計の庭園が造られます。この設計に従がって1930年に庭園を完成したのはフェルナンド・ガルシア・メルカダルです。
現在王宮では授賞式、国王の謁見、国王主催晩餐会の他、ナショナルデーのレセプション(国王夫妻がスペインの政府関係者、企業家、文壇や芸術・社交界の著名な人物を迎える行事)、毎年1月6日の軍式典(「王座の間」で王室メンバーが軍高官を迎えて行われる)、スペインに着任した各国大使の信任状奉呈式といった特別な式典が行われます。2004年には皇太子結婚式の会場にもなっています。
探したらfree画像が結構あったので、2回に分けて取り上げることにしたい。撮影禁止の場所にあるものは、これを使用させてもらうしかない。
王宮-1
①色が薄くてわかりにくいかもしれないが、こんなふうになっているようだ。

王宮東側
②-⑩オリエンテ広場側だ。









王宮の北側
⑪王室の礼拝堂があるようで、こちら側にはバルコニーなどは無いそうだ。

⑫-⑰サバティーニ設計の庭園





free画像を借用

王宮南側(正面)の外側
⑱-⑳入場を待つ人の列



㉑-㉓騎馬警官



㉔-㉕派手なシティツアーバス


㉖場違いな感じのセグウェーに乗った連中

入場する
㉗-㉘王宮中庭に沿った東側の柱廊


王宮の西側
㉙カンポ・デル・モロを望む

㉚-㉛カンポ・デル・モロの様子(free画像を借用)
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ファサードを見る
㉜-㊳宮殿の正面(これで全部ではなく次回に続く)






王宮-1
①色が薄くてわかりにくいかもしれないが、こんなふうになっているようだ。

王宮東側
②-⑩オリエンテ広場側だ。









王宮の北側
⑪王室の礼拝堂があるようで、こちら側にはバルコニーなどは無いそうだ。

⑫-⑰サバティーニ設計の庭園





free画像を借用

王宮南側(正面)の外側
⑱-⑳入場を待つ人の列



㉑-㉓騎馬警官



㉔-㉕派手なシティツアーバス


㉖場違いな感じのセグウェーに乗った連中

入場する
㉗-㉘王宮中庭に沿った東側の柱廊


王宮の西側
㉙カンポ・デル・モロを望む

㉚-㉛カンポ・デル・モロの様子(free画像を借用)
_01.jpg)

ファサードを見る
㉜-㊳宮殿の正面(これで全部ではなく次回に続く)







プエルタ・デル・ソルから王宮に向かって歩いていくと、王立劇場(オペラハウス)とオリエンテ広場とがある。通り抜けただけだが、簡単に触れておく。
王立劇場(オペラハウス)
①-②その外観。写真を見ていても想像できると思うが、ものすごく日差しが強い日だった。


③-⑥『セビリアの理髪師』が上演されていたようだ。写真を見ただけでも相当にレベルが高いことが想像できる。


次の2ショットは、偏光フィルタがあれば、多少はマシだったのだろうか


⑦ロイヤルボックス Free画像を使用

⑧Blue Hall Free画像を使用

⑨Red Hall Free画像を使用

オリエンテ広場に建つ、国の記念物指定建物「テアトロ・レアル」
1850年に開かれて以来、現在にいたるまで王立劇場の歴史は政治的変化にさらされ、困難な建設と相次ぐ改修の繰り返しでした。
1世紀半にわたる歴史を通じ、音楽ホールであっただけでなく、国会やダンスホールになったこともありました。1997年の改修で、かつてイサベル2世がこの劇場に与えようとしていた「首都にふさわしいオペラハウス」としての役割を取り戻しています。
世紀を越える歴史
1818年、マドリード市役所は市の主席建築家アントニオ・ロペス・アグアドに、将来の王立劇場の設計を依頼します。しかし様々な理由からこのプロジェクトは何度も中断し、1857年からは13年にもわたって中断を余儀なくされます。その長い歴史を通じ、王立劇場は音楽のコンサート会場となるだけでなく、火薬庫、下院議事堂、また内戦中には急ごしらえの兵営にもなりました。1850年5月7日発布の勅令は、劇場がオペラファンだったイサベル2世の誕生日に開かれるよう、完成までに6ヶ月の期間を与えるとしたもので、当時がこの劇場が本来の機能に最も近かった時代であるといえます。
投資額4200万レアルにのぼるこのオペラ劇場は、ついに1850年11月19日正式に開場します。
その夜、マドリード社交界の花たちが観客の間に姿を見せ、コントラルトのマリエタ・アルボーニを迎えドニゼッティの「ラ・ファボリータ」が上演されます。
70年以上にわたって、王立劇場の舞台にはその時々の著名なオペラ歌手が立ち、ヨーロッパのオペラ界でも主要な座を占めてきました。1863年にはジュゼッペ・ヴェルディ自らが、「運命の力」初演の準備にあたったほどです。この上演ではラグランジュとフラッシーニが歌っています。
1868年のイサベル2世亡命の後、劇場は国立オペラ劇場と名を変えなければなりませんでした。王立という名を取り戻すのは、アルフォンソ12世による王政復古後のことです。何十年もの間、劇場は次々と所有者を替え、経営者も何度も替わり、しかも1867年には火災に遭い、1925年には部分的に倒壊します。ミゲル・フレタとマティルデ・レベンガが「ラ・ボエーム」で名声を博していた頃のことですが、この作品が劇場閉鎖の前に上演された最後のものとなりました。
1996年、フアン・マヌエル・ゴンサレス・バルカルセルによる改修を経て、王立劇場はコンサートホールとして、またスペイン国立交響楽団・合唱団本部として、再びその扉を開きます。後の1977年、国の記念物指定を受け、またスペイン国営ラジオ・テレビ交響楽団と合唱団の本部となります。
その後、この劇場に本来のオペラハウスとしての役割を復活させる可能性が再び検討されるにいたり、またオーケストラのコンサート用に国立音楽ホールが建てられたこともあって、1997年に王立劇場は再びマドリードにおけるベルカント(美しい歌唱)の本拠地となります。
建物
あまりにも異なる役割を果たし、また改修を重ねてきたこの劇場の建築様式を特定するのは簡単ではありません。ロペス・アグアドとモレノによる初期の案では、劇場は2つのファサードを持つ六角形の建物として設計されていました。正門はもともと国王だけのための入口として設計されたもので、オリエンテ広場に向って円形に開いており、もう1つの規模の小さい入口はイサベル2世広場に向うものでした。
最後の改修中も、観客席中央シャンデリアの落下といった大きな問題に直面せざるをえませんでした。ゴンサレス・バルカルセルのプロジェクトを引き継いだフランシスコ・ロドリゲス・パルテアロジョは大幅な変更を加えたため、装飾、構造の両面の変更をめぐって議論を巻き起こします。
1997年10月11日、王立劇場はついにオペラ劇場として扉を開きます。
新しい屋根で芸術性の問題を解決し、練習スペースを広げることに成功していますが、劇場の真の宝は舞台そで部分で、1472㎡のスペースに18もの連結壇を連ねて複雑な舞台装置替えを可能にし、ステージやオーケストラボックスで様々な組み合わせができるようになりました。
一方、観客席も、舞台額縁や1850年の建設当時のままを再現した天井や桟敷席手すりといった歴史的な装飾を残しながらも、舞台を見やすくする設備上の改良が加えられています。
客席数は舞台装置によって1748席から1854隻まで設けられ、高さの異なる桟敷席が28、舞台脇特別席が8、そして2段構えの王室桟敷があります。桟敷席とは別に、劇場が作られた当初から一番増えたのは天井桟敷と呼ばれる最も高いところに位置する席ですが、劇場全体の概観は変わっていません。
観客専用の階である「ラ・ロトンダ」は、建物をぐるりと囲んおり、ここには国有財産やプラド美術館所蔵の作品が飾られた、色調の異なる4つの大サロンがあります。
サロンのシャンデリアはこの劇場用にラ・グランハ王立工場で作られたものです。それぞれのサロンの窓から見える通りの名(カルロス3世、ベルガラ、アリエタ、フェリペ4世)が、そのままサロンの名になっています。
独自制作を主体としたプログラム
1997年10月11日、マヌエル・デ・ファリャの2つの作品(バレエ「三角帽子」とオペラ「はかない人生」)によって劇場が新たな段階を始めて以来、王立劇場では国外の傑出した作品を招致する一方、少しずつ独自の制作作品を増やしてきました。同じ1997年10月、独自制作作品であるプラシド・ドミンゴ主演、アントン・ガルシア・アブリル作の「神の言葉」が、新王立劇場の本当のオープニングとなりました。
独自制作作品の上演にせよ、大成功を収めた作品の再演や外国作品の招待にせよ、新しい観客層を求めながら昔からのファンの要請にも応えようという劇場側の政策に貫かれたものとなっています。
オリエンテ広場
フェリペ4世騎馬像
Estatua Ecuestre de Felipe IV(エスタトゥア・エクエストレ・デ・フェリペ・クアルト)
父フェリペ3世のような騎馬像を望んでいたフェリペ4世は、同じ彫刻家ピエトロ・タッカに製作してもらうようトスカーナ大公妃クリスティーナ・ディ・ロレーナへ手紙を書くことにしました。しかしフェリペ4世は、父の像の馬が歩んでいる姿であるのとは異なり、自分の像の馬は駆けている像にすることを望みました。モデルとして、ディエゴ・ベラスケスによって描かれた2枚の肖像画(ひとつは半身像、もうひとつは乗馬している絵)がフィレンツェに送られました。当初、言い伝えによると、バランスを維持できるように2つの部分に分けて後部は頑丈に、前部は空洞にするといいというガリレオ・ガリレイの助言があるまで、タッカは王の大胆な注文をどう実現したらいいのか頭を悩ましたといいます。
⑩-⑬オリエンテ広場…騎馬像の背景にはマドリード王宮


絶対に無理な構図を撮ろうとしていた。『これを全部撮ろうなんて、それこそ徒労だよ』と言いたかった。


⑭夜景 Free画像を使用

⑮19世紀半ばに建てられた、テアトロ・レアルに隣接する高層住宅

⑯-⑰広場に並んでたつ王たちの像
この像がなんの像だかわからなかった。そういうときは一応撮っておくのに、今回は疲れていたのか失念してしまった。 Free画像を使用
広場には、20体の王たちの彫像(西ゴート王5体、レコンキスタを行ったキリスト教王国の王15体)が並んでいる。これらの像は石灰岩でつくられ、広場の中央庭園を挟み東西に分かれてたつ。
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王立劇場(オペラハウス)
①-②その外観。写真を見ていても想像できると思うが、ものすごく日差しが強い日だった。


③-⑥『セビリアの理髪師』が上演されていたようだ。写真を見ただけでも相当にレベルが高いことが想像できる。


次の2ショットは、偏光フィルタがあれば、多少はマシだったのだろうか


⑦ロイヤルボックス Free画像を使用

⑧Blue Hall Free画像を使用

⑨Red Hall Free画像を使用

オリエンテ広場に建つ、国の記念物指定建物「テアトロ・レアル」
1850年に開かれて以来、現在にいたるまで王立劇場の歴史は政治的変化にさらされ、困難な建設と相次ぐ改修の繰り返しでした。
1世紀半にわたる歴史を通じ、音楽ホールであっただけでなく、国会やダンスホールになったこともありました。1997年の改修で、かつてイサベル2世がこの劇場に与えようとしていた「首都にふさわしいオペラハウス」としての役割を取り戻しています。
世紀を越える歴史
1818年、マドリード市役所は市の主席建築家アントニオ・ロペス・アグアドに、将来の王立劇場の設計を依頼します。しかし様々な理由からこのプロジェクトは何度も中断し、1857年からは13年にもわたって中断を余儀なくされます。その長い歴史を通じ、王立劇場は音楽のコンサート会場となるだけでなく、火薬庫、下院議事堂、また内戦中には急ごしらえの兵営にもなりました。1850年5月7日発布の勅令は、劇場がオペラファンだったイサベル2世の誕生日に開かれるよう、完成までに6ヶ月の期間を与えるとしたもので、当時がこの劇場が本来の機能に最も近かった時代であるといえます。
投資額4200万レアルにのぼるこのオペラ劇場は、ついに1850年11月19日正式に開場します。
その夜、マドリード社交界の花たちが観客の間に姿を見せ、コントラルトのマリエタ・アルボーニを迎えドニゼッティの「ラ・ファボリータ」が上演されます。
70年以上にわたって、王立劇場の舞台にはその時々の著名なオペラ歌手が立ち、ヨーロッパのオペラ界でも主要な座を占めてきました。1863年にはジュゼッペ・ヴェルディ自らが、「運命の力」初演の準備にあたったほどです。この上演ではラグランジュとフラッシーニが歌っています。
1868年のイサベル2世亡命の後、劇場は国立オペラ劇場と名を変えなければなりませんでした。王立という名を取り戻すのは、アルフォンソ12世による王政復古後のことです。何十年もの間、劇場は次々と所有者を替え、経営者も何度も替わり、しかも1867年には火災に遭い、1925年には部分的に倒壊します。ミゲル・フレタとマティルデ・レベンガが「ラ・ボエーム」で名声を博していた頃のことですが、この作品が劇場閉鎖の前に上演された最後のものとなりました。
1996年、フアン・マヌエル・ゴンサレス・バルカルセルによる改修を経て、王立劇場はコンサートホールとして、またスペイン国立交響楽団・合唱団本部として、再びその扉を開きます。後の1977年、国の記念物指定を受け、またスペイン国営ラジオ・テレビ交響楽団と合唱団の本部となります。
その後、この劇場に本来のオペラハウスとしての役割を復活させる可能性が再び検討されるにいたり、またオーケストラのコンサート用に国立音楽ホールが建てられたこともあって、1997年に王立劇場は再びマドリードにおけるベルカント(美しい歌唱)の本拠地となります。
建物
あまりにも異なる役割を果たし、また改修を重ねてきたこの劇場の建築様式を特定するのは簡単ではありません。ロペス・アグアドとモレノによる初期の案では、劇場は2つのファサードを持つ六角形の建物として設計されていました。正門はもともと国王だけのための入口として設計されたもので、オリエンテ広場に向って円形に開いており、もう1つの規模の小さい入口はイサベル2世広場に向うものでした。
最後の改修中も、観客席中央シャンデリアの落下といった大きな問題に直面せざるをえませんでした。ゴンサレス・バルカルセルのプロジェクトを引き継いだフランシスコ・ロドリゲス・パルテアロジョは大幅な変更を加えたため、装飾、構造の両面の変更をめぐって議論を巻き起こします。
1997年10月11日、王立劇場はついにオペラ劇場として扉を開きます。
新しい屋根で芸術性の問題を解決し、練習スペースを広げることに成功していますが、劇場の真の宝は舞台そで部分で、1472㎡のスペースに18もの連結壇を連ねて複雑な舞台装置替えを可能にし、ステージやオーケストラボックスで様々な組み合わせができるようになりました。
一方、観客席も、舞台額縁や1850年の建設当時のままを再現した天井や桟敷席手すりといった歴史的な装飾を残しながらも、舞台を見やすくする設備上の改良が加えられています。
客席数は舞台装置によって1748席から1854隻まで設けられ、高さの異なる桟敷席が28、舞台脇特別席が8、そして2段構えの王室桟敷があります。桟敷席とは別に、劇場が作られた当初から一番増えたのは天井桟敷と呼ばれる最も高いところに位置する席ですが、劇場全体の概観は変わっていません。
観客専用の階である「ラ・ロトンダ」は、建物をぐるりと囲んおり、ここには国有財産やプラド美術館所蔵の作品が飾られた、色調の異なる4つの大サロンがあります。
サロンのシャンデリアはこの劇場用にラ・グランハ王立工場で作られたものです。それぞれのサロンの窓から見える通りの名(カルロス3世、ベルガラ、アリエタ、フェリペ4世)が、そのままサロンの名になっています。
独自制作を主体としたプログラム
1997年10月11日、マヌエル・デ・ファリャの2つの作品(バレエ「三角帽子」とオペラ「はかない人生」)によって劇場が新たな段階を始めて以来、王立劇場では国外の傑出した作品を招致する一方、少しずつ独自の制作作品を増やしてきました。同じ1997年10月、独自制作作品であるプラシド・ドミンゴ主演、アントン・ガルシア・アブリル作の「神の言葉」が、新王立劇場の本当のオープニングとなりました。
独自制作作品の上演にせよ、大成功を収めた作品の再演や外国作品の招待にせよ、新しい観客層を求めながら昔からのファンの要請にも応えようという劇場側の政策に貫かれたものとなっています。
オリエンテ広場
フェリペ4世騎馬像
Estatua Ecuestre de Felipe IV(エスタトゥア・エクエストレ・デ・フェリペ・クアルト)
父フェリペ3世のような騎馬像を望んでいたフェリペ4世は、同じ彫刻家ピエトロ・タッカに製作してもらうようトスカーナ大公妃クリスティーナ・ディ・ロレーナへ手紙を書くことにしました。しかしフェリペ4世は、父の像の馬が歩んでいる姿であるのとは異なり、自分の像の馬は駆けている像にすることを望みました。モデルとして、ディエゴ・ベラスケスによって描かれた2枚の肖像画(ひとつは半身像、もうひとつは乗馬している絵)がフィレンツェに送られました。当初、言い伝えによると、バランスを維持できるように2つの部分に分けて後部は頑丈に、前部は空洞にするといいというガリレオ・ガリレイの助言があるまで、タッカは王の大胆な注文をどう実現したらいいのか頭を悩ましたといいます。
⑩-⑬オリエンテ広場…騎馬像の背景にはマドリード王宮


絶対に無理な構図を撮ろうとしていた。『これを全部撮ろうなんて、それこそ徒労だよ』と言いたかった。


⑭夜景 Free画像を使用

⑮19世紀半ばに建てられた、テアトロ・レアルに隣接する高層住宅

⑯-⑰広場に並んでたつ王たちの像
この像がなんの像だかわからなかった。そういうときは一応撮っておくのに、今回は疲れていたのか失念してしまった。 Free画像を使用
広場には、20体の王たちの彫像(西ゴート王5体、レコンキスタを行ったキリスト教王国の王15体)が並んでいる。これらの像は石灰岩でつくられ、広場の中央庭園を挟み東西に分かれてたつ。
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いよいよスペイン滞在の最終日になった。本日の夜の便での帰国なので、日中はまるまる市内観光に当てることができる。プラド美術館には既に行ったので、まだ見ていない王宮などを見ることにした。
ソルまでMetroで行く
歩いても40分くらいで行ける距離だが、暑いし足腰も痛いままなので、Deliciasから何かと便利がよく見所も多いSolまで2号線を使っていく。運賃は1.5ユーロだ。宿舎にあった『地球の歩き方』ではもっと安い金額の定額料金だとされていたが、一体いつの金額なんだろうか。
①宿舎のすぐ前のメトロ2号線デリシャス駅。宿舎はこのストライプのあるビルだ。

②-④切符の買い方 似たようなものだろうから説明しないが、この時は同行のおじさんが迷子になっても自分ひとりで帰れるように説明していた。横文字に自信がない所為か、手が震えるようだ。



⑤メトロの乗車券

⑥メトロのホーム

⑦SOL駅

プエルタ・デル・ソル (Puerta del Sol)
スペイン、マドリードにある広場。有名で、人通りが激しい場所である。スペイン国道の起点(0km)となっている場所で、セントロにある。
⑧-⑨カルロス3世騎馬像


⑩クマとイワナシの像
マドリード市の紋章を表しているそうだ

⑪0kmを示すプラーク
これは知らなかった。どこの国だってこういうものがどこかにあるのは当たり前のことだろう。スペインの日本橋なんだ。free画像を借用

広場の様子
⑫-⑬Casa de Correos
郵便局だったようだ


⑭-⑯広場の様子



⑰広場の様子 free画像を借用
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王宮へ向かう途中の道を行く人たちのスナップ
⑱-㉓






ラス・デスカルサス・レアレス修道院 (Monasterio de las Descalzas Reales)
外から見ると、大した建物には見えなかったが、多分奥深く、重厚な建物になっているのだろうと思ったら当たりだった。
非常に残念なのは、ここも王宮もそうなのだが、写真撮影禁止なのだ。サンチャゴ・デ・コンポステラから戻ったばかりの身には、信じられないひどい扱いのように感じるがNGというからには従わざるを得ない。そういえば、プラド美術館もそうだった。こんなことをしていると、人気ガタ落ちになってしまうぞ。
英語かスペイン語のガイドがつく。そのどちらかに参加して見学することになる。もちろん、英語コースを選択したが、説明がよくわからなかった。その大きな原因は、登場人物の名前を殆ど知らないことだ。そこで話がプッツンと切れてしまう。うーーん、不勉強だった。でも、わからないながらも聞いた内容は殆ど合っていたようだった。
旦那がなくなったら息子を残して帰国…よくわからない世界だ。考えているうちに英語の説明は先に進んでしまった。
㉔ともあれ、内部の写真は一切ない。修道院の外観のみ。
英語のツアーは11:00からだそうだ。スペイン語は全く理解できないので、自動的にこちらの選択となった。

㉕-㉖それまでは外で時間つぶし


㉗コノテガシワ(児の手柏)の実もあったぞ

㉘-㉛外観はこんなふうだ。大したことはなさそうに見えたが、そんなことはなかった。屋内はもっとすごいのだが、…




㉜Interior del edificio. A la derecha, hornacina acristalada que cobija La Virgen y el Niño, cuadro de Bernardino Luini. free画像を借用

㉝Iglesia free画像を借用
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㉞Claustro free画像を借用

ラス・デスカルサス・レアレス修道院は、1559年にフアナ王女(フアナ・デ・アウストリア:1535-1573年)によって創設されたフランシスコ会の女子修道院です。
ラス・デスカルサス・レアレス修道院マドリードの中心地、カジャオ広場の裏通りにひっそりと佇むラス・デスカルサス・レアレス修道院の建つ場所は、1535年にフアナ王女の生まれた場所であり、両親スペイン王カルロス1世とポルトガル王女イサベルとその子供たち、フェリペ2世、マリア王女、フアナ王女が暮らした宮殿のあった場所でした。
夫ポルトガル皇太子ジョアン・マヌエル亡き後、後のポルトガル王セバスティアン1世(在位1557-1578年)の母である彼女は、息子をポルトガルに残し、マドリードへと戻り1557年にこのフランシスコ会女子修道院を創設しました。
この修道院に王女フアナは住み続け、王女亡き後は姉のマリア皇后が夫の死後ウィーンより帰国し、1603年にこの修道院にて亡くなるまで住んでいました。
王女は死後、彫刻家ポンペジョ・レオニ(Pompeyo Leoni)作の墓碑祈祷像と共に礼拝堂に埋葬されています。
この修道院には、彫刻家・画家であり教会の祭壇画作者ガスパール・バセラ(Gaspar Becerra)や、彫刻家で王女フアナの祈祷像作者ポンペジョ・レオニ(Pompeyo Leoni)の作品、そのほかにも貴重な美術コレクションが保持されています。
さらに、長い間閉ざされていたことにより、沢山の細かい浮彫りの壁面装飾が特徴的なプラテレスク様式や、大階段やミラグロス礼拝堂の17世紀のフレスコ画が今なお美しく保存されています。
ルーベンスが下絵を描きブリュッセルで織られたことで有名な美しいタペストリーは、聖体崇拝を表現しており、フェリペ2世の娘であり当事オランダ総督であったイサベル・クララ・エウへニア王女(Isabel Clara Eugenia)が修道院のために作らせたものでした。
イエス・キリストの復活を祝う復活祭前の聖週間(Semana Santa)の期間中、ここからガスパール・バセラ(Gaspar Becerra)作「横たわるキリスト像」の行列が行進するため、聖週間の間はこの修道院の回廊は最も厳かな場所となります。
修道院の内部は一部非公開となっていますが、観光客に開放している場所が見学できる常設展ガイドツアーでは、16世紀からの修道院の歴史と芸術作品が見学できます。
ソルまでMetroで行く
歩いても40分くらいで行ける距離だが、暑いし足腰も痛いままなので、Deliciasから何かと便利がよく見所も多いSolまで2号線を使っていく。運賃は1.5ユーロだ。宿舎にあった『地球の歩き方』ではもっと安い金額の定額料金だとされていたが、一体いつの金額なんだろうか。
①宿舎のすぐ前のメトロ2号線デリシャス駅。宿舎はこのストライプのあるビルだ。

②-④切符の買い方 似たようなものだろうから説明しないが、この時は同行のおじさんが迷子になっても自分ひとりで帰れるように説明していた。横文字に自信がない所為か、手が震えるようだ。



⑤メトロの乗車券

⑥メトロのホーム

⑦SOL駅

プエルタ・デル・ソル (Puerta del Sol)
スペイン、マドリードにある広場。有名で、人通りが激しい場所である。スペイン国道の起点(0km)となっている場所で、セントロにある。
⑧-⑨カルロス3世騎馬像


⑩クマとイワナシの像
マドリード市の紋章を表しているそうだ

⑪0kmを示すプラーク
これは知らなかった。どこの国だってこういうものがどこかにあるのは当たり前のことだろう。スペインの日本橋なんだ。free画像を借用

広場の様子
⑫-⑬Casa de Correos
郵便局だったようだ


⑭-⑯広場の様子



⑰広場の様子 free画像を借用
_10.jpg)
王宮へ向かう途中の道を行く人たちのスナップ
⑱-㉓






ラス・デスカルサス・レアレス修道院 (Monasterio de las Descalzas Reales)
外から見ると、大した建物には見えなかったが、多分奥深く、重厚な建物になっているのだろうと思ったら当たりだった。
非常に残念なのは、ここも王宮もそうなのだが、写真撮影禁止なのだ。サンチャゴ・デ・コンポステラから戻ったばかりの身には、信じられないひどい扱いのように感じるがNGというからには従わざるを得ない。そういえば、プラド美術館もそうだった。こんなことをしていると、人気ガタ落ちになってしまうぞ。
英語かスペイン語のガイドがつく。そのどちらかに参加して見学することになる。もちろん、英語コースを選択したが、説明がよくわからなかった。その大きな原因は、登場人物の名前を殆ど知らないことだ。そこで話がプッツンと切れてしまう。うーーん、不勉強だった。でも、わからないながらも聞いた内容は殆ど合っていたようだった。
旦那がなくなったら息子を残して帰国…よくわからない世界だ。考えているうちに英語の説明は先に進んでしまった。
㉔ともあれ、内部の写真は一切ない。修道院の外観のみ。
英語のツアーは11:00からだそうだ。スペイン語は全く理解できないので、自動的にこちらの選択となった。

㉕-㉖それまでは外で時間つぶし


㉗コノテガシワ(児の手柏)の実もあったぞ

㉘-㉛外観はこんなふうだ。大したことはなさそうに見えたが、そんなことはなかった。屋内はもっとすごいのだが、…




㉜Interior del edificio. A la derecha, hornacina acristalada que cobija La Virgen y el Niño, cuadro de Bernardino Luini. free画像を借用

㉝Iglesia free画像を借用
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㉞Claustro free画像を借用

ラス・デスカルサス・レアレス修道院は、1559年にフアナ王女(フアナ・デ・アウストリア:1535-1573年)によって創設されたフランシスコ会の女子修道院です。
ラス・デスカルサス・レアレス修道院マドリードの中心地、カジャオ広場の裏通りにひっそりと佇むラス・デスカルサス・レアレス修道院の建つ場所は、1535年にフアナ王女の生まれた場所であり、両親スペイン王カルロス1世とポルトガル王女イサベルとその子供たち、フェリペ2世、マリア王女、フアナ王女が暮らした宮殿のあった場所でした。
夫ポルトガル皇太子ジョアン・マヌエル亡き後、後のポルトガル王セバスティアン1世(在位1557-1578年)の母である彼女は、息子をポルトガルに残し、マドリードへと戻り1557年にこのフランシスコ会女子修道院を創設しました。
この修道院に王女フアナは住み続け、王女亡き後は姉のマリア皇后が夫の死後ウィーンより帰国し、1603年にこの修道院にて亡くなるまで住んでいました。
王女は死後、彫刻家ポンペジョ・レオニ(Pompeyo Leoni)作の墓碑祈祷像と共に礼拝堂に埋葬されています。
この修道院には、彫刻家・画家であり教会の祭壇画作者ガスパール・バセラ(Gaspar Becerra)や、彫刻家で王女フアナの祈祷像作者ポンペジョ・レオニ(Pompeyo Leoni)の作品、そのほかにも貴重な美術コレクションが保持されています。
さらに、長い間閉ざされていたことにより、沢山の細かい浮彫りの壁面装飾が特徴的なプラテレスク様式や、大階段やミラグロス礼拝堂の17世紀のフレスコ画が今なお美しく保存されています。
ルーベンスが下絵を描きブリュッセルで織られたことで有名な美しいタペストリーは、聖体崇拝を表現しており、フェリペ2世の娘であり当事オランダ総督であったイサベル・クララ・エウへニア王女(Isabel Clara Eugenia)が修道院のために作らせたものでした。
イエス・キリストの復活を祝う復活祭前の聖週間(Semana Santa)の期間中、ここからガスパール・バセラ(Gaspar Becerra)作「横たわるキリスト像」の行列が行進するため、聖週間の間はこの修道院の回廊は最も厳かな場所となります。
修道院の内部は一部非公開となっていますが、観光客に開放している場所が見学できる常設展ガイドツアーでは、16世紀からの修道院の歴史と芸術作品が見学できます。
朝から別行動に入った2人を残した我ら7人は、サンチャゴ・デ・コンポステラから再び首都マドリードに向かう。
サンティアゴ・デ・コンポステーラ空港
まずはイベリア航空機でマドリードに向かう。隣のブースの表示がダブリン行きとなっているように、小規模ながらも国際空港だ。
①搭乗受付カウンターに並ぶ

②別の便の乗客のようだ

③一応こんな設備もあったが、この時期は客がほとんどいないようだ。バカンスシーズン終了後とはいえ、やや寂しい感じがするのは否めない。

④この飛行機に乗るようだ

⑤こんな可愛い自家用機も駐機していた

マドリード・バラハス国際空港
⑥あっという間にマドリードについた。つい、乗り換えなくちゃという気になったが、今夜はまだマドリードだ。

⑦荷物をピックする

⑧ここはトランスポートサービスなどないから自分の荷物は自分で背負わなければならない

マドリード市内へ向かう
⑨renfeの切符を買う。街に出るには、Metroかrenfeかタクシーかいずれかだ。宿まで乗り換え無しで行けるrenfeを選択した。

⑩こちらはMetroの出入り口

⑪こちらはrenfeの出入り口

⑫回数券は、10回券でも1枚しか出てこない。それを繰り返し使うことになる。これはMetroもrenfeも同様の扱いだ。ここは係員がいたので、彼にやってもらえたが、普通はこの操作を自分たちで行う。

⑬あれに乗車する。成田と東京との距離ほどではないにせよ、かなり時間がかかる。のんびり行くしかない。

⑭車内は清潔で気持ちが良い

⑮開発中の副都心だそうだ。昔の新宿副都心を見ているような感じだ。

⑯近くのホテルにて。サンチョ・パンサかな?

宿舎近くの飲食店で最後の夕食
⑰-㉖私と同行のおじさんとは明日の夜発の飛行機で帰国する。従って、仲間と行動する最後の食事会になった。










㉗牛の血のチョリソー。そういうものがあることは前から知っていたが、どうにも気が進まず、ずっと敬遠していた。想像していた通りの味覚だった。スペインに来て初めて私にとってあまり好きではない味覚だったかも。まあ、何事も経験だし、食べられないほどのものではなかったが、…。

㉘最後に度数の高い『チョビット』で胃を洗浄した。そして仲間とも、都合がつけば明日の夕方に会えるかもしれないが、一応明朝にはお別れだ。名残惜しいが仕方のないことだ。
サンティアゴ・デ・コンポステーラ空港
まずはイベリア航空機でマドリードに向かう。隣のブースの表示がダブリン行きとなっているように、小規模ながらも国際空港だ。
①搭乗受付カウンターに並ぶ

②別の便の乗客のようだ

③一応こんな設備もあったが、この時期は客がほとんどいないようだ。バカンスシーズン終了後とはいえ、やや寂しい感じがするのは否めない。

④この飛行機に乗るようだ

⑤こんな可愛い自家用機も駐機していた

マドリード・バラハス国際空港
⑥あっという間にマドリードについた。つい、乗り換えなくちゃという気になったが、今夜はまだマドリードだ。

⑦荷物をピックする

⑧ここはトランスポートサービスなどないから自分の荷物は自分で背負わなければならない

マドリード市内へ向かう
⑨renfeの切符を買う。街に出るには、Metroかrenfeかタクシーかいずれかだ。宿まで乗り換え無しで行けるrenfeを選択した。

⑩こちらはMetroの出入り口

⑪こちらはrenfeの出入り口

⑫回数券は、10回券でも1枚しか出てこない。それを繰り返し使うことになる。これはMetroもrenfeも同様の扱いだ。ここは係員がいたので、彼にやってもらえたが、普通はこの操作を自分たちで行う。

⑬あれに乗車する。成田と東京との距離ほどではないにせよ、かなり時間がかかる。のんびり行くしかない。

⑭車内は清潔で気持ちが良い

⑮開発中の副都心だそうだ。昔の新宿副都心を見ているような感じだ。

⑯近くのホテルにて。サンチョ・パンサかな?

宿舎近くの飲食店で最後の夕食
⑰-㉖私と同行のおじさんとは明日の夜発の飛行機で帰国する。従って、仲間と行動する最後の食事会になった。










㉗牛の血のチョリソー。そういうものがあることは前から知っていたが、どうにも気が進まず、ずっと敬遠していた。想像していた通りの味覚だった。スペインに来て初めて私にとってあまり好きではない味覚だったかも。まあ、何事も経験だし、食べられないほどのものではなかったが、…。

㉘最後に度数の高い『チョビット』で胃を洗浄した。そして仲間とも、都合がつけば明日の夕方に会えるかもしれないが、一応明朝にはお別れだ。名残惜しいが仕方のないことだ。

自動車ショー(その2)
①-⑩前回掲載分からの続き










⑪-⑰







⑱-⑲巡礼者も疲れているだろうに、時ならぬ風変わりなイベントに興奮気味


⑳-㉑パラドールも自治体庁舎もただの背景に成り下がってしまった


㉒なんでこの大道芸人だけ客が付いているのかと思ったら、左の芸人が浮いているように見えるからだったんだ。今の今まで気がつかなかった。

われら4人の昼食ほか
㉓-㉕



㉖パエージャ・マリネーラ(Paella marinera)
漁師風パエリアというものだったかな。スペインに来た記念に食べた。非常に美味しかったが、4人でシェアするのにはちょいとばかりボリュームが足らなかったかも。

㉗-㉘食べ物屋さんのおいでおいで


㉙そのあと、後から加わったおじさんと人で甘いものを頂いた。フローズンヨーグルトだ。結構いけた。
①-⑩前回掲載分からの続き










⑪-⑰







⑱-⑲巡礼者も疲れているだろうに、時ならぬ風変わりなイベントに興奮気味


⑳-㉑パラドールも自治体庁舎もただの背景に成り下がってしまった


㉒なんでこの大道芸人だけ客が付いているのかと思ったら、左の芸人が浮いているように見えるからだったんだ。今の今まで気がつかなかった。

われら4人の昼食ほか
㉓-㉕



㉖パエージャ・マリネーラ(Paella marinera)
漁師風パエリアというものだったかな。スペインに来た記念に食べた。非常に美味しかったが、4人でシェアするのにはちょいとばかりボリュームが足らなかったかも。

㉗-㉘食べ物屋さんのおいでおいで


㉙そのあと、後から加わったおじさんと人で甘いものを頂いた。フローズンヨーグルトだ。結構いけた。

修道院を辞去したら、こんな車列が
①-⑤自走できる車は自走し、自走できない車は荷台に乗せられての入場のようだ。あとで見に行くことにして、とりあえずは見送る。





道がわからなくなってしまった
⑥ほとんど人通りのない通りもあった。
Ruela do Val de Deusという通りで、左側の高くそそり立つ壁はあのサン・マルティーニョ・ピナリオ修道院のカテドラルに向かって右側の壁なのか。

⑦道を確認するのと小用をたすためにバルに入った。もちろんスペイン語は早稲田の外語教室でスペイン語会話を履修中のご婦人と個人教授にスペイン語を習っている男性とに任せた。私は残念ながらスペイン語はまるでダメで、ここでは完全な戦力外だった。

次の修道院を目指す
⑧-⑩巡礼の道ほどではないが、結構な坂道が続く



⑪こちらではなく

⑫-⑬こちらだ


見えてきたぞ、次のサント・ドミンゴ・デ・ボナバル修道院が
⑭-⑲サント・ドミンゴ・デ・ボナバル修道院
が、何だかよくわからない。仲間が必死にスペイン語で聞いてもよくわからなかったが、訳知りの関係者が通りかかって入口に案内してくれた。どうやら、この建物の主要部分は現在はガリシア民族博物館になっていて、そこを見ていくなら有料だが、見ないなら無料だとのこと。
前述の自動車ショーに心が動いたので、早く戻るべく無料コースを選んだ。驚いたことに無料のチケットを発行してくれた。簡単に言えば下記のwikipediaの記述のとおりだ。旧サント・ドミンゴ・デ・ボナバル修道院であって、今も修道院であるわけではなかったようだ。
ほかの方のブログを拝見すると、ガリシア民族博物館に無料で入ったような記載があるが、我々と同じように答えながら、実際には博物館に入ってしまったのだろう。インチキをする意思はなかったと思うが、言葉を理解しないままに生返事で軽々しく行動するのは問題が起きてしまうこともありうる。貧乏な国スペインなのだから、少し多目にお金を置いていってもバチがあたらないと思うのだが。節約一方も時によりけりだろう。
ガリシア民族博物館(Museo do Pobo Galego)
旧サント・ドミンゴ・デ・ボナバル修道院(Convento de San Domingos de Bonaval)内、隣接する教会はパンテオン・デ・ガレーゴス・イルストレス(Panteón de Galegos Ilustres、ガリシア偉人廟)となっており、ロサリーア・デ・カストロ、アルフォンソ・カステラオなど、ガリシア民族の偉人が埋葬されている。





⑳ガリシア民族博物館

建物の中に入る
㉑-㉕旧サント・ドミンゴ・デ・ボナバル修道院を見学する





㉖アルフォンソ・カステラオの柩
こういうのがむき出しで置いてあると、ガリシアの誇る偉人も可哀想な扱いのように思えてしまった。

㉗-㉚旧サント・ドミンゴ・デ・ボナバル修道院見学の続き




㉛仕切りがあって近づけなかったのが残念

前回のフランシスコ修道会の修道院に比べるとややがっかりの感じだった。
①-⑤自走できる車は自走し、自走できない車は荷台に乗せられての入場のようだ。あとで見に行くことにして、とりあえずは見送る。





道がわからなくなってしまった
⑥ほとんど人通りのない通りもあった。
Ruela do Val de Deusという通りで、左側の高くそそり立つ壁はあのサン・マルティーニョ・ピナリオ修道院のカテドラルに向かって右側の壁なのか。

⑦道を確認するのと小用をたすためにバルに入った。もちろんスペイン語は早稲田の外語教室でスペイン語会話を履修中のご婦人と個人教授にスペイン語を習っている男性とに任せた。私は残念ながらスペイン語はまるでダメで、ここでは完全な戦力外だった。

次の修道院を目指す
⑧-⑩巡礼の道ほどではないが、結構な坂道が続く



⑪こちらではなく

⑫-⑬こちらだ


見えてきたぞ、次のサント・ドミンゴ・デ・ボナバル修道院が
⑭-⑲サント・ドミンゴ・デ・ボナバル修道院
が、何だかよくわからない。仲間が必死にスペイン語で聞いてもよくわからなかったが、訳知りの関係者が通りかかって入口に案内してくれた。どうやら、この建物の主要部分は現在はガリシア民族博物館になっていて、そこを見ていくなら有料だが、見ないなら無料だとのこと。
前述の自動車ショーに心が動いたので、早く戻るべく無料コースを選んだ。驚いたことに無料のチケットを発行してくれた。簡単に言えば下記のwikipediaの記述のとおりだ。旧サント・ドミンゴ・デ・ボナバル修道院であって、今も修道院であるわけではなかったようだ。
ほかの方のブログを拝見すると、ガリシア民族博物館に無料で入ったような記載があるが、我々と同じように答えながら、実際には博物館に入ってしまったのだろう。インチキをする意思はなかったと思うが、言葉を理解しないままに生返事で軽々しく行動するのは問題が起きてしまうこともありうる。貧乏な国スペインなのだから、少し多目にお金を置いていってもバチがあたらないと思うのだが。節約一方も時によりけりだろう。
ガリシア民族博物館(Museo do Pobo Galego)
旧サント・ドミンゴ・デ・ボナバル修道院(Convento de San Domingos de Bonaval)内、隣接する教会はパンテオン・デ・ガレーゴス・イルストレス(Panteón de Galegos Ilustres、ガリシア偉人廟)となっており、ロサリーア・デ・カストロ、アルフォンソ・カステラオなど、ガリシア民族の偉人が埋葬されている。





⑳ガリシア民族博物館

建物の中に入る
㉑-㉕旧サント・ドミンゴ・デ・ボナバル修道院を見学する





㉖アルフォンソ・カステラオの柩
こういうのがむき出しで置いてあると、ガリシアの誇る偉人も可哀想な扱いのように思えてしまった。

㉗-㉚旧サント・ドミンゴ・デ・ボナバル修道院見学の続き




㉛仕切りがあって近づけなかったのが残念

前回のフランシスコ修道会の修道院に比べるとややがっかりの感じだった。
フランシスコ修道会の修道院に向かう
途中のパラドール
昨夜パラドールの西側を見たが、こちらは東側(白壁部分は北側)。パラドールの正面は南側になる。

フランシスコ修道会の修道院についた
入り口あたりに何やらモニュメントがあった


鎖が巻かれているのかと思っていたら、太い蔓が巻きついていた

カテドラルやパラドールの方向
この道を通ってやってきたので、戻ればカテドラル(尖塔が見えている)やパラドール(右の建物の陰にある)に向かう道となる。
後述するが当日クラシックカーなどを大集結させたショーがオブラドイロ広場で行われた。その出品車が運搬されていった。
後でわかったのだが、あの赤い車は三菱のラリー仕様車だった。

棟続きの4つ星ホテルと別の教会

フランシスコ修道会の修道院と棟続きの4つ星ホテル

4つ星ホテル
同行の女性はパラドールよりこちらのほうが好みだという。何か感じるものがあったようだ。




修道院の聖堂に入る
こんなに大きく立派な聖堂があっても良いものかと思うほどの堂々たるもの。ガイドの佐々木氏が強く勧めるだけの価値あるものだった。
聖堂をまっすぐ最奥部まで進むとこんな感じ





側面の様子を見てみる
本当はもっとあったが、うまく撮れなかった分はやむを得ずカット
















聖堂の天井部分



主祭壇付近

再び入口付近から主祭壇を見る


このジオラマは昔のサンチャゴ・デ・コンポステラの様子を示しているのだろうか?


我ら4人が魅了された素晴らしい風格の修道院の聖堂だった。
途中のパラドール
昨夜パラドールの西側を見たが、こちらは東側(白壁部分は北側)。パラドールの正面は南側になる。

フランシスコ修道会の修道院についた
入り口あたりに何やらモニュメントがあった


鎖が巻かれているのかと思っていたら、太い蔓が巻きついていた

カテドラルやパラドールの方向
この道を通ってやってきたので、戻ればカテドラル(尖塔が見えている)やパラドール(右の建物の陰にある)に向かう道となる。
後述するが当日クラシックカーなどを大集結させたショーがオブラドイロ広場で行われた。その出品車が運搬されていった。
後でわかったのだが、あの赤い車は三菱のラリー仕様車だった。

棟続きの4つ星ホテルと別の教会

フランシスコ修道会の修道院と棟続きの4つ星ホテル

4つ星ホテル
同行の女性はパラドールよりこちらのほうが好みだという。何か感じるものがあったようだ。




修道院の聖堂に入る
こんなに大きく立派な聖堂があっても良いものかと思うほどの堂々たるもの。ガイドの佐々木氏が強く勧めるだけの価値あるものだった。
聖堂をまっすぐ最奥部まで進むとこんな感じ





側面の様子を見てみる
本当はもっとあったが、うまく撮れなかった分はやむを得ずカット
















聖堂の天井部分



主祭壇付近

再び入口付近から主祭壇を見る


このジオラマは昔のサンチャゴ・デ・コンポステラの様子を示しているのだろうか?


我ら4人が魅了された素晴らしい風格の修道院の聖堂だった。
いよいよサンチャゴ・デ・コンポステラ滞在最終日だ。悔いのないように張り切っていこう。
朝のバイキング後、仲間8人のうち、ご夫婦で参加の2人が日帰りで大西洋を見に出かけ、夜はパラドールに泊まるということで、先にパーティーから離れた。これで仲間は残り6人ということになった。
今日は、15:00のホテル集合まで完全にフリータイムとなる。
今日はカテドラルを眺め直して、その後、修道院巡りをすることにした
カテドラルまでの道 このとき、09:42頃





プラテリア広場付近 このとき、09:50頃
とりあえず、カテドラルを目指す。昨夜はむちゃくちゃ寒かったが、今日は朝から極上の晴天だ。
カテドラルの回廊部分は博物館になっているようだ。そしてポルティコの奥には瀟洒な店が。



カサ・ド・カビルド


時計塔

このポルティコは雰囲気があっていいなあ

キンタナ広場付近 このとき、09:51頃
ここがサンパイオ修道院だったんだ。見落としたでは済ませられない大失敗。キンタナ広場側がこんな外観。かなり大きな修道院だ。

コンガ通りからの外観(free画像を借用)

赦しの門は、聖ヤコブ年にしか開門しない




時計塔と王家の門


インマクラダ広場 このとき、09:57頃



こんな早くからご苦労様

修道院巡りをするつもりなのにここを回るのを失念した。大失敗。



フランシスコ会の聖衣をまとった人形かと思ったら、だいぶ経ってから生身の人間だと気がついた。たまには、少しだけ動かないと、銅造と誤認したままで投げ銭が期待できないのか。

ちょっと寄り道 このとき、10:00頃
何をモタモタしていたのかというと、黒曜石を扱う店の開店を待っていたのだ。3人で出発したのに、いつの間にか一人合流して4人に。



オブラドイロ広場 この時、10:18頃
週末だったので、朝早くからオブラドイロ広場にはものすごい人が集まっていた







彼らにシャッターを押してくれと頼まれた。嬉しそうな表情が印象的。ついでに私のカメラでも撮らせてもらった。

ユダヤ教の聖職者かな?

朝のバイキング後、仲間8人のうち、ご夫婦で参加の2人が日帰りで大西洋を見に出かけ、夜はパラドールに泊まるということで、先にパーティーから離れた。これで仲間は残り6人ということになった。
今日は、15:00のホテル集合まで完全にフリータイムとなる。
今日はカテドラルを眺め直して、その後、修道院巡りをすることにした
カテドラルまでの道 このとき、09:42頃





プラテリア広場付近 このとき、09:50頃
とりあえず、カテドラルを目指す。昨夜はむちゃくちゃ寒かったが、今日は朝から極上の晴天だ。
カテドラルの回廊部分は博物館になっているようだ。そしてポルティコの奥には瀟洒な店が。



カサ・ド・カビルド


時計塔

このポルティコは雰囲気があっていいなあ

キンタナ広場付近 このとき、09:51頃
ここがサンパイオ修道院だったんだ。見落としたでは済ませられない大失敗。キンタナ広場側がこんな外観。かなり大きな修道院だ。

コンガ通りからの外観(free画像を借用)

赦しの門は、聖ヤコブ年にしか開門しない




時計塔と王家の門


インマクラダ広場 このとき、09:57頃



こんな早くからご苦労様

修道院巡りをするつもりなのにここを回るのを失念した。大失敗。



フランシスコ会の聖衣をまとった人形かと思ったら、だいぶ経ってから生身の人間だと気がついた。たまには、少しだけ動かないと、銅造と誤認したままで投げ銭が期待できないのか。

ちょっと寄り道 このとき、10:00頃
何をモタモタしていたのかというと、黒曜石を扱う店の開店を待っていたのだ。3人で出発したのに、いつの間にか一人合流して4人に。



オブラドイロ広場 この時、10:18頃
週末だったので、朝早くからオブラドイロ広場にはものすごい人が集まっていた







彼らにシャッターを押してくれと頼まれた。嬉しそうな表情が印象的。ついでに私のカメラでも撮らせてもらった。

ユダヤ教の聖職者かな?


皆で食事をしながらカテドラルのライトアップを待つことにした
はじめは悠然と構えていた
ミサを終えて、プラテリア広場に人々がどっと出てくる このとき、20:29頃


徐々に周囲は薄暗くなる このとき、20:30頃

時計塔と王家の門。キンタナ広場に寄った辺りだ。

こちらはプラテリア広場

まだライトアップしなくても十分に綺麗
自治体庁舎も宵闇にとけようとしていた このとき、20:35-38頃


同様にカテドラルもそうなのだが、ライトアップしなくとも十分にきれいだ。 このとき、20:37-38頃


カテドラル美術館とサンチャゴ・デ・コンポステラ大学学長オフィス

いよいよ暗くなってきた
日本だったらとっくにライトアップを開始するだろうに、まだその気配がない。 このとき、20:39頃

ISO感度が自動で若干高く設定されたようだ。 このとき、20:39-40頃


待っている間、西の方角を眺め、サンセットの様子などを楽しむ
夕日が沈む西の方角を見た。崖下の教会がものすごく幻想的だった。 このとき、20:41頃


角度を少しずらし、教会の姿が映るように撮ってみた

西側の街並み


教会と付近の街並み

カテドラルは西日を受けて震えているかのように見えた このとき、20:45-49頃



パラドールの相当に深い奥行にも夕日が当たる

まっくらになったが
いよいよ日没だ このとき、20:53頃


真っ暗になったが、まだライトアップが始まらない。ISO感度は1200。 このとき、20:56頃

思い切ってISO感度を6400にあげた。人間の目がこれほど見えたら猫目野郎と言われそうだ。

持久戦に備える
少し暖かいものをおなかに入れ、ライトアップまで待つことに。このころ、ものすごく冷え込み、強烈な風が吹き込み、極薄の半袖姿の私はすっかり震え上がってしまった。多分、気温は10度を下回っていたと思う。うーーー、寒い。
同じように考えている連中ばかり集まってきた。暇だから、隅のところでバグパイプを演奏しているグループの演奏の評価まで始まった。

お馴染みの巡礼者のスープだ

待ちきれず、広場に戻ると、ドンチャン騒ぎだ。自治体庁舎の軒下で、陽気にやっている。 このとき、22:06頃



待ち望んだ瞬間が
ようやくライトアップが始まった。 このとき、22:22-28頃




おまけ
あーあー、長かった。異常に長い2日目も終わったと思ったのに、仲間の女性がお茶を飲んでいこうと言い張る。これに付き合った。夕食があのスープだけだったから、いいようなものだが、それでも太るなあ。

はじめは悠然と構えていた
ミサを終えて、プラテリア広場に人々がどっと出てくる このとき、20:29頃


徐々に周囲は薄暗くなる このとき、20:30頃

時計塔と王家の門。キンタナ広場に寄った辺りだ。

こちらはプラテリア広場

まだライトアップしなくても十分に綺麗
自治体庁舎も宵闇にとけようとしていた このとき、20:35-38頃


同様にカテドラルもそうなのだが、ライトアップしなくとも十分にきれいだ。 このとき、20:37-38頃


カテドラル美術館とサンチャゴ・デ・コンポステラ大学学長オフィス

いよいよ暗くなってきた
日本だったらとっくにライトアップを開始するだろうに、まだその気配がない。 このとき、20:39頃

ISO感度が自動で若干高く設定されたようだ。 このとき、20:39-40頃


待っている間、西の方角を眺め、サンセットの様子などを楽しむ
夕日が沈む西の方角を見た。崖下の教会がものすごく幻想的だった。 このとき、20:41頃


角度を少しずらし、教会の姿が映るように撮ってみた

西側の街並み


教会と付近の街並み

カテドラルは西日を受けて震えているかのように見えた このとき、20:45-49頃



パラドールの相当に深い奥行にも夕日が当たる

まっくらになったが
いよいよ日没だ このとき、20:53頃


真っ暗になったが、まだライトアップが始まらない。ISO感度は1200。 このとき、20:56頃

思い切ってISO感度を6400にあげた。人間の目がこれほど見えたら猫目野郎と言われそうだ。

持久戦に備える
少し暖かいものをおなかに入れ、ライトアップまで待つことに。このころ、ものすごく冷え込み、強烈な風が吹き込み、極薄の半袖姿の私はすっかり震え上がってしまった。多分、気温は10度を下回っていたと思う。うーーー、寒い。
同じように考えている連中ばかり集まってきた。暇だから、隅のところでバグパイプを演奏しているグループの演奏の評価まで始まった。

お馴染みの巡礼者のスープだ

待ちきれず、広場に戻ると、ドンチャン騒ぎだ。自治体庁舎の軒下で、陽気にやっている。 このとき、22:06頃



待ち望んだ瞬間が
ようやくライトアップが始まった。 このとき、22:22-28頃




おまけ
あーあー、長かった。異常に長い2日目も終わったと思ったのに、仲間の女性がお茶を飲んでいこうと言い張る。これに付き合った。夕食があのスープだけだったから、いいようなものだが、それでも太るなあ。


アラメイダ公園にて
昼食をとったり雑談をしながら、本日2回目のミサに与るまでの時間を潰した。
公園の入口付近にあった『マリア姉妹』の像。いつも連れ立って、若い人たちを眺めていたのだそうだ。実物大なんだそうだがかなり小さな像だ。

ド派手な格好で頑張っているインタビュアー

公園の中腹から見たカテドラルほか
ギザギザの塔は、大聖堂の回廊部分にあるMUSEO DE CATEDRAL(大聖堂の美術館)上部の塔だ。






地元の中学生のようだ




時間を潰したあと、本日2回目の夕方のミサに与る
今度は大香炉(ボタフメイロ)が振られることが分かっていたので、ミサ開始(19時)の1時間以上前(18時前)のかなり早めの時間に着席し、大香炉が威勢良く振られるのをよく観察できる翼廊の席を確保した。
早くからじっと待つ。翼廊の席はかなり埋まってきたが、正面の身廊(しんろう=Nave)の席はまだまばら。


大香炉(ボタフメイロ)





いざ開始 このとき、20:20頃












過去に勢い余って天井にぶつけてしまったことがあったそうだが、今回もかなりのところまで振り上げていた。


ようやく止められた。担当する人がやけどをしたりしないか心配になるほどだ。


元の高い位置に挙げられておしまい
昼食をとったり雑談をしながら、本日2回目のミサに与るまでの時間を潰した。
公園の入口付近にあった『マリア姉妹』の像。いつも連れ立って、若い人たちを眺めていたのだそうだ。実物大なんだそうだがかなり小さな像だ。

ド派手な格好で頑張っているインタビュアー

公園の中腹から見たカテドラルほか
ギザギザの塔は、大聖堂の回廊部分にあるMUSEO DE CATEDRAL(大聖堂の美術館)上部の塔だ。






地元の中学生のようだ




時間を潰したあと、本日2回目の夕方のミサに与る
今度は大香炉(ボタフメイロ)が振られることが分かっていたので、ミサ開始(19時)の1時間以上前(18時前)のかなり早めの時間に着席し、大香炉が威勢良く振られるのをよく観察できる翼廊の席を確保した。
早くからじっと待つ。翼廊の席はかなり埋まってきたが、正面の身廊(しんろう=Nave)の席はまだまばら。


大香炉(ボタフメイロ)





いざ開始 このとき、20:20頃












過去に勢い余って天井にぶつけてしまったことがあったそうだが、今回もかなりのところまで振り上げていた。


ようやく止められた。担当する人がやけどをしたりしないか心配になるほどだ。


元の高い位置に挙げられておしまい

昼のミサに与るため、聖堂内に入る
アサバチェリア門から入った

栄光の門


聖堂内を軽く見て回るが、やはり栄光の門は工事中で全体の感じがよくわからない。そのため、工事前の栄光の門の様子をfreeの画像を借用して見ていただく。



キンタナ広場にある2つの門
ついでに、こちらもfreeの画像を借用して見ていただく
王家の門(Puerta Real)

免罪の門(Puerta Santa o Puerta del Perdón)

下記から引用
http://en.wikipedia.org/wiki/Cathedral_of_Santiago_de_Compostela
The façade of the cathedral that overlooks the Quintana Square has two gates, the Porta Real (royal door) and the Porta Santa (holy door). The Porta Real, Baroque, begun under the direction of José de Vega y Verdugo by José de la Peña de Toro in 1666, was completed by Domingo de Andrade in 1700, who made some great columns that span two floors of windows, a balustrade with large pinnacles and an aedicula with an equestrian statue of Saint James (now disappeared), well adorned with decorative fruit clusters and large-scale military trophies. The kings of Spain entered the cathedral through this door, hence its name, and on its lintel is the royal coat of arms.
The so-called Holy Door (Porta Santa) or Door of Forgiveness (Porta do Perdón) is the closest to the steps, is usually closed with a fence and opened only in Jubilee Years (years when St James's Day falls on a Sunday). It was one of the seven lesser gates and was dedicated to St. Pelagius (whose monastery is just opposite). On this door niches contain the image of James and his disciples Athanasius and Theodore at his side. On the bottom and sides of the door were placed twenty-four figures of prophets and apostles (including St. James) coming from the old stone choir of Master Mateo. Inside this door through a small courtyard is the true Holy Door, which enters into the ambulatory of the apse of the church.
サンチャゴ・デ・コンポステラで2回目のミサに与る
ミサの様子は撮らないと書いたのに、自分も一部を撮っていたようだ。多分、聖体拝領終了間際の様子だったと思う。

ボタフメイロが振られるのを待つミサ参加者

閉祭の歌をリードする稀に見る美声のシスター

ミサ後に大香炉(ボタフメイロ)が振り回された
日本のカトリック教会では、イースターとかクリスマスのミサの時などに神父が香炉を振る程度。香料としては、乳香(イエスキリストの生誕の際に東方の3博士から贈られた『黄金』、『乳香』、『没薬』の内の乳香だ)が使われるようだが、結構高価で、あまり目にする機会はないはずだ。
サンチャゴ・デ・コンポステラでは、ご存知かと思うが、滑車に吊り下げられた巨大な航路が数人の男性によって振られる。かなり勢いよく振られ、その様は見事というべきものだろう。
昼のミサでは、正面席に着席したので真下に来た時しか見えなかった。次回のミサでは翼廊側に着席したので、非常に良く見えた。
火が点けられ、神父やシスターが祈りを唱える


左のエンジ色の服の奉仕者が手を離すと、中央にいる仲間が綱を引いたり緩めたりしながら勢いをつけていく。その始まりの瞬間。

かなり勢いがついてきた

ディスプレイに映し出された様子…残念ながら、もう静止操作に入ったあとだった

終了

聖堂から退場し、昼食に向かう
工事中で近寄れない栄光の門の辺り

オブラドイロの門(この内側に栄光の門がある)

そこから広場を見下ろす


こんな大道芸人も。全く動かないのだ。


ミサ参加者は三々五々散っていく



ちなみに私たち3人の昼の一部。チョリソーとサンドイッチ(こちらは前菜というか、喉の渇きを癒す程度)だったかな。他に肉が入ったパイ(こちらがメイン)を買って、大聖堂が一望できるというアラメダ公園で食べた。

アサバチェリア門から入った

栄光の門


聖堂内を軽く見て回るが、やはり栄光の門は工事中で全体の感じがよくわからない。そのため、工事前の栄光の門の様子をfreeの画像を借用して見ていただく。



キンタナ広場にある2つの門
ついでに、こちらもfreeの画像を借用して見ていただく
王家の門(Puerta Real)

免罪の門(Puerta Santa o Puerta del Perdón)

下記から引用
http://en.wikipedia.org/wiki/Cathedral_of_Santiago_de_Compostela
The façade of the cathedral that overlooks the Quintana Square has two gates, the Porta Real (royal door) and the Porta Santa (holy door). The Porta Real, Baroque, begun under the direction of José de Vega y Verdugo by José de la Peña de Toro in 1666, was completed by Domingo de Andrade in 1700, who made some great columns that span two floors of windows, a balustrade with large pinnacles and an aedicula with an equestrian statue of Saint James (now disappeared), well adorned with decorative fruit clusters and large-scale military trophies. The kings of Spain entered the cathedral through this door, hence its name, and on its lintel is the royal coat of arms.
The so-called Holy Door (Porta Santa) or Door of Forgiveness (Porta do Perdón) is the closest to the steps, is usually closed with a fence and opened only in Jubilee Years (years when St James's Day falls on a Sunday). It was one of the seven lesser gates and was dedicated to St. Pelagius (whose monastery is just opposite). On this door niches contain the image of James and his disciples Athanasius and Theodore at his side. On the bottom and sides of the door were placed twenty-four figures of prophets and apostles (including St. James) coming from the old stone choir of Master Mateo. Inside this door through a small courtyard is the true Holy Door, which enters into the ambulatory of the apse of the church.
サンチャゴ・デ・コンポステラで2回目のミサに与る
ミサの様子は撮らないと書いたのに、自分も一部を撮っていたようだ。多分、聖体拝領終了間際の様子だったと思う。

ボタフメイロが振られるのを待つミサ参加者

閉祭の歌をリードする稀に見る美声のシスター

ミサ後に大香炉(ボタフメイロ)が振り回された
日本のカトリック教会では、イースターとかクリスマスのミサの時などに神父が香炉を振る程度。香料としては、乳香(イエスキリストの生誕の際に東方の3博士から贈られた『黄金』、『乳香』、『没薬』の内の乳香だ)が使われるようだが、結構高価で、あまり目にする機会はないはずだ。
サンチャゴ・デ・コンポステラでは、ご存知かと思うが、滑車に吊り下げられた巨大な航路が数人の男性によって振られる。かなり勢いよく振られ、その様は見事というべきものだろう。
昼のミサでは、正面席に着席したので真下に来た時しか見えなかった。次回のミサでは翼廊側に着席したので、非常に良く見えた。
火が点けられ、神父やシスターが祈りを唱える


左のエンジ色の服の奉仕者が手を離すと、中央にいる仲間が綱を引いたり緩めたりしながら勢いをつけていく。その始まりの瞬間。

かなり勢いがついてきた

ディスプレイに映し出された様子…残念ながら、もう静止操作に入ったあとだった

終了

聖堂から退場し、昼食に向かう
工事中で近寄れない栄光の門の辺り

オブラドイロの門(この内側に栄光の門がある)

そこから広場を見下ろす


こんな大道芸人も。全く動かないのだ。


ミサ参加者は三々五々散っていく



ちなみに私たち3人の昼の一部。チョリソーとサンドイッチ(こちらは前菜というか、喉の渇きを癒す程度)だったかな。他に肉が入ったパイ(こちらがメイン)を買って、大聖堂が一望できるというアラメダ公園で食べた。


公設市場をあとにする

前方を歩いているのは、公設市場で買い物をした人たちだろう

ポルティコのある建物がほとんどだ。ボローニャに負けていない感じだ。

歩いていたら見たことのある広場に出た。セルバンテス広場だ。




再びカテドラルに向かう
初日に通った道を同様に進む





右はサン・マルティン・ピナリオ修道院

左はカテドラルとインマクラーダ広場とアサバチェリア門

見たこともない楽器を演奏している人


インマクラーダ広場を通り過ぎる

例のところをもくぐり抜ける


パラドール
堂々たる5つ星。目を見張るようなホテルだ。全体が『口』の字のような形状で相当に大きいようだ。
オブラドイロ広場の一角にある、世界でも最も古いホテルの一つ。15世紀には王立病院だったという建物には美しい彫刻が施されている。客室は宮殿の一室を思わせるようなエレガントさで、四柱ベッドのある部屋もある。瀟洒な回廊のある中庭や豪華なレストランも古城の雰囲気満点。




パラドールの内部
『一階部分はご自由に見学ください』とスペイン語で書いてあったとのこと。五つ星の超高級ホテルだ。ここで何をしたかというと、トイレを拝借したのだ。何せ、だいぶ前から昼のミサに着席すべく入るので、事前にトイレを済ませておく作戦だ。







オブラドイロ広場
右が自治体庁舎、中央がコレシオ・デ・サン・シェローメ(Colexio de San Xerome、現在サンティアゴ・デ・コンポステーラ大学の学長オフィスとして使用)、左がカテドラル

自治体庁舎が見える



こちらはカテドラル
これからも何回か登場するので今回はこのくらいに



この教会は、オブラドイロ広場の崖下になるが、自治体庁舎の真後ろになる位置にある。なかなか風格のある教会だ。

前方を歩いているのは、公設市場で買い物をした人たちだろう

ポルティコのある建物がほとんどだ。ボローニャに負けていない感じだ。

歩いていたら見たことのある広場に出た。セルバンテス広場だ。




再びカテドラルに向かう
初日に通った道を同様に進む





右はサン・マルティン・ピナリオ修道院

左はカテドラルとインマクラーダ広場とアサバチェリア門

見たこともない楽器を演奏している人


インマクラーダ広場を通り過ぎる

例のところをもくぐり抜ける


パラドール
堂々たる5つ星。目を見張るようなホテルだ。全体が『口』の字のような形状で相当に大きいようだ。
オブラドイロ広場の一角にある、世界でも最も古いホテルの一つ。15世紀には王立病院だったという建物には美しい彫刻が施されている。客室は宮殿の一室を思わせるようなエレガントさで、四柱ベッドのある部屋もある。瀟洒な回廊のある中庭や豪華なレストランも古城の雰囲気満点。




パラドールの内部
『一階部分はご自由に見学ください』とスペイン語で書いてあったとのこと。五つ星の超高級ホテルだ。ここで何をしたかというと、トイレを拝借したのだ。何せ、だいぶ前から昼のミサに着席すべく入るので、事前にトイレを済ませておく作戦だ。







オブラドイロ広場
右が自治体庁舎、中央がコレシオ・デ・サン・シェローメ(Colexio de San Xerome、現在サンティアゴ・デ・コンポステーラ大学の学長オフィスとして使用)、左がカテドラル

自治体庁舎が見える



こちらはカテドラル
これからも何回か登場するので今回はこのくらいに



この教会は、オブラドイロ広場の崖下になるが、自治体庁舎の真後ろになる位置にある。なかなか風格のある教会だ。

何だ公設市場かなどと言うなかれ。風情のある建物なのだから。
公設市場
朝早かったので、ぼちぼち開店準備が整ったところから店を開け始めたくらいの頃合だった。
公設市場の様子、街の隅々までしっとりして心地よさを感じます。近くにはリアス式海岸があり海の幸は豊富。建物は他の街中の建物と同様、重厚な花崗岩が使用されており霧雨の似合うケルト的な雰囲気を呈しています。
公設市場に入ってみる
こんな感じだ










建物内部は出店料が取られるので、外で商っている人も少なくない


お店を冷やかして、イチジクを買い求めたようだ。結構美味しかった。

折り返して次の棟に入る



日本のどぶろくのようなものだそうだ

こういうのが縦に中庭をはさんで2つ、横に棟を接するような形で3つ(4つかな)だから、都合6棟(もしかしたら8棟)あるようだ

ここは立ち飲みのコーナーかな

美味しそうな食材が次々と













美人の売り子さんも


奥のは鮟鱇かな

ここの魚が一番美味しそうに見えた



長くなるので途中省略
まるでユニバーサルスタジオのセットのようだ

タコゆでの実演販売のようだ
これからタコをまるごと茹でるらしい


茹でる前にぬめりをとっているようだ

公設市場と隣合う建物
公設市場のとなりは大きな建物。元は教会関係の建物だったようだが。



正面から見るとものすごく美しい建物だ

公設市場
朝早かったので、ぼちぼち開店準備が整ったところから店を開け始めたくらいの頃合だった。
公設市場の様子、街の隅々までしっとりして心地よさを感じます。近くにはリアス式海岸があり海の幸は豊富。建物は他の街中の建物と同様、重厚な花崗岩が使用されており霧雨の似合うケルト的な雰囲気を呈しています。
公設市場に入ってみる
こんな感じだ










建物内部は出店料が取られるので、外で商っている人も少なくない


お店を冷やかして、イチジクを買い求めたようだ。結構美味しかった。

折り返して次の棟に入る



日本のどぶろくのようなものだそうだ

こういうのが縦に中庭をはさんで2つ、横に棟を接するような形で3つ(4つかな)だから、都合6棟(もしかしたら8棟)あるようだ

ここは立ち飲みのコーナーかな

美味しそうな食材が次々と













美人の売り子さんも


奥のは鮟鱇かな

ここの魚が一番美味しそうに見えた



長くなるので途中省略
まるでユニバーサルスタジオのセットのようだ

タコゆでの実演販売のようだ
これからタコをまるごと茹でるらしい


茹でる前にぬめりをとっているようだ

公設市場と隣合う建物
公設市場のとなりは大きな建物。元は教会関係の建物だったようだが。



正面から見るとものすごく美しい建物だ

