散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

赤坂迎賓館見学(2)

はじめに断っておくが、今回の一般見学の許可条件は館内撮影厳禁である。したがって、館内の写真は1枚もない。ものすごく豪華で、ヨーロッパの宮殿にもひけをとらないものである。撮影できないことは残念でならない。

本館正面(1)
正面から見ると半円状に大きく湾曲した建物で、後方が見えないために、薄い建物のように見えるかもしれない。実際は、相当な奥行きがあるゆったりとした建物だ。
本館正面(1)_1
本館正面(1)_2
本館正面(1)_3
本館正面(1)_4
本館正面(1)_5
本館正面(1)_6

中門
前方に小さく白く見えているのが正門。また、正門に向かって中門の右横にはヘリポートが用意されている。
中門_1
中門_2
中門_3

この先が正門
中門の隙間から撮ってみた。相当に広いエリアだ。
この先が正門

東京の元赤坂にある現在の迎賓館の建物は、東宮御所として1909年(明治42年)に建設された。鹿鳴館などを設計したお雇い外国人建築家ジョサイア・コンドルの弟子にあたる宮廷建築家片山東熊の設計により、元紀州藩の屋敷跡(明治6年宮城火災から明治21年の明治宮殿完成までの15年間、明治天皇の仮御所が置かれていた。)に建てられた。しかしそのネオ・バロック様式の外観があまりにも華美に過ぎたことや、住居としての使い勝手が必ずしも良くなかったことから、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)がこの御所を使用することはほとんどなかった。嘉仁親王が天皇に即位した後は離宮として扱われることとなり、その名称も赤坂離宮と改められた。
その大正天皇の皇子・皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)と良子女王(後の香淳皇后)との婚儀が1924年(大正13年)成ると、その後の数年間、赤坂離宮は再び東宮御所としてこの一家の住居となったが、裕仁親王が天皇に即位した後は離宮として使用されることも稀になった。終戦時には高松宮宣仁親王が昭和天皇に、皇居を出て赤坂離宮へ移り住むことを提案したが、天皇は使い勝手が悪く経費がかさむとして拒否している。
第二次世界大戦後、赤坂離宮の敷地や建物は皇室から国に移管され、国立国会図書館(1948-61年)、法務庁法制意見長官(1948-60年)、裁判官弾劾裁判所(1948-70年)、内閣憲法調査会(1956-60年)、東京オリンピック組織委員会(1961-65年)などに使用された。
その後国際関係が緊密化して外国の賓客を迎えることが多くなり、またそれまで迎賓館として使用していた東京都港区芝白金台の旧朝香宮邸(現・東京都庭園美術館)は手狭で随行員が同宿できないといった支障があったため、1962年(昭和37年)に当時の池田勇人首相の発意によって新たに迎賓施設を整備する方針が閣議決定された。
これを受けて、池田とその後任の佐藤栄作首相の在任時に政府部内で検討を重ねた結果、旧赤坂離宮を改修してこれを迎賓施設とすることが、1967年(昭和42年)に決定された。こうして5年の歳月と108億円(工費101億円、内装費7億円)をかけて、本館は村野藤吾、和風別館は谷口吉郎の設計協力により、1974年(昭和49年)3月に、迎賓館が完成した。新装なった迎賓館に迎えた最初の国賓は、現職のアメリカ合衆国大統領として初来日したジェラルド・フォードだった。
2006年(平成18年)から2008年(平成20年)にかけて、大規模な改修工事が行われている。
2009年(平成21年)12月8日、旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)として国宝に指定、明治以降の文化財としては初の国宝となった。

 

赤坂迎賓館見学(1)  2013.08.30 22:06一部修正

赤坂迎賓館への道中
この先が正門
この道は結構幅広く長さもある。門の前に公道が真横に走り、そこから正門、エントランス、中門、前庭、迎賓館、後庭と一直線に続く。普通に見ても、遠く霞んで見える感じだ。正門に行けばわかると思うが、賓客は、この道からまっすぐに進入するのだろう。
この先が正門_1
道の脇は小公園になっている。この近くに用事があって何回か通ったことがあるが、付近に民家はなく、遊ぶ人を殆ど見かけたことはない。それでも日本国の体面を保つためだろうか、手入れが行き届いている。
この先が正門_2
この先が正門_3
学習院初等科
VIPも通う学校だから、夏季休暇中で無くとも警戒は厳重なようだ。この学校側が新宿区四谷で、迎賓館の方が港区赤坂になる。
学習院初等科
正門前
正門前の様子。今回の一般公開は西門から入るので、この門は閉ざされたままだ。歩道と路面とは段差があるし、ガードレールもある。実際に使用するときはどういうふうにするのだろうか?前の道路の通行を遮断し、道に直角に仮設のスロープを設け、ガードレールを取り外すんだと思うが、…。外国の賓客と天皇陛下とが此処でお会いになられるときは、天皇陛下が出迎える立場なのかと思っていたのだが、全く逆なんだそうだ。飽くまで外国の賓客のための施設であり、折から宿泊中の賓客を天皇陛下が訪ねるということなんだそうだ。その後調べたところ、そういう場合と、賓客を天皇陛下が出迎える場合と、両方あるようだ。
正門前_1
正門前_2
正門前_3
来場者チェック
通常は通用門として使用されていると思われる西門から入場する。かなり厳しい来場者チェックぶりだ。米軍のイベント入場、皇居参観などよりかなり厳重だ。入場者リストと、参観許可証、身分証明書による確認をまず行う。その後で、モノも人間もそれぞれ金属探知機をくぐる。
来場者チェック_1
来場者チェック_2

 

自由が丘での外食

自由が丘での外食

ここのところたまたま外食が続いたが、この日もたまたま自由が丘で外食を楽しんだ。

HINATA KITCHENというところで食べた。洋風居酒屋という感じ。
HINATA KITCHEN
まずはビールで喉を潤す
あれまあ、ラベルをぼかすなんてNHK並みの技を駆使した写真(これをピンぼけという)になってしまった。麒麟のハートランドを注文した。
まずはビールで
プロジェクタの映画を楽しみながら
音声は無しの字幕のみ。面白い筋だったが、後方で外国人客が盛んにまくし立てていて、何となくそちらにも聞き耳を立てたりして、どうにも集中できなかった。
プロジェクタの映画を楽しみながら
最初と2番めの皿
最初の皿
2番めの皿
追加の地ビール
陽気な英語ペラペラの店主がお勧めの『湘南ゴールド』。私は残念ながらビールの味利きができるほど上等な舌を持ち合わせていない。でも勝手に美味しい地ビールだと評価した。金賞受賞ビールに迎合したわけではない。
追加の地ビール
3-4番めの皿
3番めの皿
我が家では、絶対にイカの塩辛に化けるところだが、こういう料理もなかなかイケるという我が夫婦の一致した評価だった。
4番めの皿
追加で注文した皿。4番目の皿に残した汁で作ったリゾット。
ものすごく美味しかった。お腹がかなりきつくなっていたが、勢いで平らげた。
追加で注文した皿
最後の皿
最後の皿

番外
当日は多摩川の花火大会の日。ほろ酔い気分で自宅ビル屋上から眺めた。流石に7kmも離れていると、風、酔いによるふらつきなどで、手持ち撮影は厳しかった。
自宅屋上から見た多摩川花火_1
自宅屋上から見た多摩川花火_2
自宅屋上から見た多摩川花火_3
自宅屋上から見た多摩川花火_4

 

京都小旅行(16)

高台寺から『夢二カフェ 五龍閣』に向かう。名前のとおり、現在は飲食スペースとなっているが、建物が素敵で写真撮影も構わないようなので、ここで昼食をいただきながら写真撮影を行おうと考えた。

『夢二カフェ 五龍閣』
清水寺へ向う清水坂を上がり、左に産寧坂の分かれ道をすぎて間もなく、右手の奥に、昔から清水順正として知られた大きなレトロな洋館があります。ここは「五龍閣」と名づけられた建物で、国の登録有形文化財になっています。
この建物は最近まで湯豆腐で有名な「清水順正」として使われていましたが、2009年11月に「五龍閣」として改装し、この1階に清水寺順正が経営する「夢二カフェ」がオープンしました。
この建物は、もとは、清水焼から事業を起こし、義歯や碍子で財を成した明治の企業家であった松風嘉定の邸宅として、大正10年(1921)頃までに建てられたとされています。設計者は、明治・大正期の著名な建築家で、京都大学建築科を創設したことでも知られている武田五一です。
1階の「夢二カフェ」には暖炉や、ステンドグラス、竹久夢二の絵などがあり、大正時代のレトロな雰囲気にあふれています。


外観
気が付かなかったけれども鴟尾付きの館だったんだ。
『夢二カフェ 五龍閣』_外観_1
『夢二カフェ 五龍閣』_外観_2
『夢二カフェ 五龍閣』_外観_3
『夢二カフェ 五龍閣』_外観_4
『夢二カフェ 五龍閣』_外観_5
『夢二カフェ 五龍閣』_外観_6

店内
『夢二カフェ 五龍閣』_店内_1
『夢二カフェ 五龍閣』_店内_2
『夢二カフェ 五龍閣』_店内_3
『夢二カフェ 五龍閣』_店内_4
『夢二カフェ 五龍閣』_店内_5
『夢二カフェ 五龍閣』_店内_6
『夢二カフェ 五龍閣』_店内_7
『夢二カフェ 五龍閣』_店内_8

料理
豆腐サラダ
豆腐サラダ
箸の包み紙
箸の包み紙
別途注文のサイダー
別途注文のサイダー
京野菜のパスタ
妻が絶賛していた
京野菜のパスタ
京野菜のカレー
なかなか美味しかった
京野菜のカレー
階上の様子
『夢二カフェ 五龍閣』_階上の様子_1
『夢二カフェ 五龍閣』_階上の様子_2
『夢二カフェ 五龍閣』_階上の様子_3

『夢二カフェ 五龍閣』のHPへjump

以上で『京都小旅行』の連載は終了です。最後までご覧いただき大変有難うございました。

 

京都小旅行(15)

高台寺(2)

中門
方丈などから開山堂へ向かうための門。『重關』と書いてあるようだが、その意味が全くわからない。 『關』は『関』の旧字体のようだ。
中門_1
中門_2

開山堂…重要文化財
開山堂内部の写真がある頁へjump
書院の東方、庭園内に建つ入母屋造本瓦葺きの禅宗様の仏堂。慶長10年(1605年)の建築。元来、北政所の持仏堂だったもので、その後、中興開山の三江紹益の木像を祀る堂となっている。堂内は中央奥に三江紹益像、向かって右に北政所の兄の木下家定とその妻・雲照院の像、左に高台寺の普請に尽力した堀直政の木像を安置している。この堂の天井は、秀吉の御座舟の天井と、北政所の御所車の天井を用いたものという。
開山堂_1
開山堂_2
開山堂_3

臥龍池
臥龍池

臥龍廊
開山堂と霊屋(おたまや)を結ぶ屋根付きの階段、龍の背に似ているところからこの名が付けられた。
臥龍廊_1
臥龍廊_2
臥龍廊_3

霊屋…重要文化財
霊屋内部の写真がある頁へjump
開山堂の東方、一段高くなった敷地に建つ、宝形造檜皮葺きの堂。慶長10年(1605年)の建築。内部は中央の厨子(平素、扉を閉じている)に大随求菩薩(だいずいぐぼさつ)像を安置し、向かって右の厨子には豊臣秀吉の坐像、左の厨子には正室・北政所の片膝立の木像がそれぞれ安置されている。厨子の扉には秋草、松竹など、須弥壇には楽器などの蒔絵が施されている。厨子の目立たぬところに蒔絵の作者の名が線描きされておりその点でも貴重。寺に所蔵される、北政所所用と伝える調度品類にも同じ様式の蒔絵が施され、これらを高台寺蒔絵と称している。高台寺蒔絵の特色は、金の平蒔絵(文様部分の漆を盛り上げずに、平滑に仕上げたもの)を主体に秋草などの絵画的な文様を描くことである。なお、北政所は自身の像の約2メートル下に葬られている。
霊屋_1
霊屋_2

傘亭・時雨亭…重要文化財
利休の意匠による茶席であり伏見城から移建したものである。傘亭は竹と丸木が放射状に組まれ、カラカサを開けたように見えることからその名があり、正式には安閑窟と呼ばれる。時雨亭とは土間廊下でつながっている。
傘亭
時雨亭
傘亭・時雨亭

巨大な鬼瓦?
2012年は辰年であり、その時に方丈前庭に飾られたモニュメントの一部なのだろうか?支えるためにある竹と比較してみると、巨大さがわかると思う。
巨大な鬼瓦?_1
巨大な鬼瓦?_2
参考になりそうな記述のあるHPへjump

勅使門
方丈の南正面に位置する。大正元年(1912年)に方丈とともに再建された。
勅使門_1
勅使門_2
勅使門_3

高台寺表門…重要文化財
どうにも見つけられないと思ったら少し離れた場所にあるらしい。以前はこの表門の辺りも寺域だったようだが、現在では『これは何』という感じのようだ。

 

京都小旅行(14)

高台寺(1)
臨済宗建仁寺派の寺院ということは、あの建仁寺の末寺になるんだ。まあ、仏殿が再建されなかったくらいだから、歴史を彩ってきた寺院とはいえども、大本山には成り得なかったのだろう。
高台寺(こうだいじ)は京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は鷲峰山(じゅぶさん)、寺号は詳しくは高台寿聖禅寺と称する。豊臣秀吉の正室である北政所(高台院)が秀吉の冥福を祈るため建立した寺院であり、寺号は北政所の落飾(仏門に入る)後の院号である高台院にちなむ。釈迦如来を本尊とする禅宗寺院であるとともに、秀吉と北政所を祀る霊廟としての性格をもった寺院である。


高台寺の境内図
高台寺_境内図

天満宮
高台寺天満宮は、北政所ねねが、慶長十一年(一六〇六)に高台寺を創建した際、日頃崇拝していた綱敷天満宮の祭神菅原道真公を勧請して高台寺の鎮守社としたもの。左前方に写っているのが『なで牛」。その後方にチラと見えているのが『マニ車』。
高台寺天満宮

庫裡
庫裡_1
庫裡_2

遺芳庵
方丈・書院の背後にある田舎屋風の茶室で、近世初期の商人で趣味人であった灰屋紹益が夫人の吉野太夫をしのんで建てたものという。一畳台目の小規模な茶席で、炉は逆勝手向切りとする。吉野窓と称する、壁一杯に開けられた丸窓が特色である。京都市上京区にあった紹益の旧邸跡から明治41年(1908年)に移築したもの。建築様式の点から、紹益と吉野太夫が生きた近世初期まではさかのぼらず、後世の人が2人を偲んで建てたものと推定されている。
遺芳庵_1
遺芳庵_2

偃月池・観月台・庭園
観月台…重要文化財
横浜の三渓園にある『亭榭』がそっくりだと思えて仕方が無い。秀吉大好き人間の原三渓氏がこの観月台を模して作ったのだろうか。
三渓園にある『亭榭』を取り上げた頁にjump
檜皮葺きの四本柱の建物であり、三方に唐破風をつけた屋根の下から観月するための建物である。
観月台_1
観月台_2
観月台_3

庭園…史跡及び名勝
庭園は、開山堂の臥龍池、西の偃月池を中心として展開されており、小堀遠州の作によるもので、国の史跡・名勝に指定されている。偃月池には、秀吉遺愛の観月台を配し、北に亀島南の岬に鶴島を造り、その石組みの見事さは桃山時代を代表する庭園として知られている。
庭園_1
庭園_2
庭園_3

書院
方丈の背後に建つ。写真にある提灯でわかるかもしれないが、百鬼夜行展を開催していた。私はどうもこういうものが苦手だ。撮影は禁止になっていた。写真で思い出さないで済んで良かったかも。
年月を経た物は霊が宿るとされ、捨てられた道具がお化けなどに姿を変えて夜行進することを百鬼夜行と呼んだ。高台寺のある場所はかつての葬送の地だったことなどから、企画された。
書院_1
書院_2

方丈
方丈の内部や前庭は実に実に見事なものなのだが、撮影は禁止になっていた。本当に残念でならない。あとで検索してみると、前庭の写真はたくさんUPされていた。方丈の内部のみが撮影禁止だったようだ。撮っておくんだった。
庫裏の右手に建つ。大正元年(1912年)の再建。創建当初の方丈は文禄の役後に伏見城の建物を移築したものであった。

偃月池・庭園越しの方丈
偃月池・庭園越しの方丈

 

京都小旅行(13)

いよいよ高台寺に向かう。午前中から猛烈な暑さのため、途中の八坂神社などはすべてパスした。

ねねの道
高台寺と圓徳院との間に昔から存在する一直線の平坦な(石畳の)道だ。正しくは高台寺道という。ねねの道と呼ぶのは、北政所「ねね」ゆかりの寺、高台寺と園徳院があることから。こちらのほうが通りがよさそうだ。
googleの航空写真で確認してみたが見事なほどに真っ直ぐな道だった。

ねねの道_1
ねねの道_2
ねねの道_3
ねねの道_4
ねねの道_5
この写真のみ反対側から撮った
ねねの道_6
確かに向かって左が北になり円山公園や知恩院に行く道になり、向かって右側が南になり、高台寺や清水寺の方向になる。
ねねの道_7

圓徳院
圓徳院は、京都市東山区にある高台寺(臨済宗建仁寺派)の塔頭のひとつ。本尊は釈迦如来。名勝庭園と、豊臣秀吉の正室・高台院(北政所)が晩年を過ごした寺として知られる。
なかなか洒落た佇まいだなと思いつつ、写真を撮りそこねた。

以下の3画像はFREE画像を借用
長屋門
圓徳院_長屋門
唐門
圓徳院_唐門
方丈
圓徳院_方丈

石塀小路
名前のとおりに石の塀が続くところまでは行かずに、途中で引き返した。この石畳は、市電の軌道に敷かれていた石のリサイクルだとのこと。
石塀小路_1
石塀小路_2
石塀小路_3
石塀小路_4

台所坂
上り下りがついて回るのが東山区の特徴か
台所坂
台所門
今で言う通用門のようなもののようだろう
台所門
高台寺に向かう雰囲気が出てくる
121-122.jpg

 

京都小旅行(12)

いよいよ第2日目。天気予報では前日を上回る酷暑だと盛んに言っている。なかなか出掛ける気にならず、かなりまったりしてから漸く腰を上げた。四条烏丸までバスで行き、そこから八坂神社の辺りまでバスを乗り継いで行こうと思った。

永楽屋にて
四条烏丸でバスを降りたら、少しだけ買い物をしたいから待ってくれということで、妻について永楽屋に向かった。
永楽屋にて_1
永楽屋にて_2
少々買い物をしていたら、奥からおかみさんらしき人が出てきて、冷たいお茶を出された。有難くいただく。お茶だけかと思いきやお菓子付きだった。お菓子は好物の『琥珀 栗』の方をいただく。あまりに申し訳なく、更に少しだけ買い足す。
永楽屋にて_3

少し元気があったので、八坂神社方面に向かって歩いて行くことにする。

道筋のスナップ
東華菜館
今日は昼食の心づもりがあったので、外側から見るだけで失礼した
東華菜館_1
東華菜館_2
その向かい側は先斗町
この先斗町ももう少し先の花見小路も、まとめてまるっきり縁がない。(泣)
先斗町
鴨川納涼床
よく見ると納涼床の下部に水を流しているようだ。そして、京の七夕の看板も。
鴨川納涼床

南座
妻がよく行くところだ。顔見世の時にはまた行くのだろうか。
南座_1
南座_2
向かい側に位置していた北座
北座は四条通りの拡張に伴い、明治26年に閉館した。現在、『レストラン菊水』『大阪へ京阪特急』の看板のあるビルあたりに北座の建物が建っていたようだ。昔は、それこそ道を挟んで南座と北座とが勢力を争っていたようだ。
今は、北座の看板は井筒八ツ橋本舗の入っているビルに掲げられている。冗談で掲げているのだと思う向きも少なくないのでは。辛口の人には北座の看板を掲げる以上、もう少し在りし日の北座の姿を思い起こさせるビルにしてほしいものだという話があるようだ。

北座の看板が掲げられているが

鍵善にて
先ほどお茶を飲んだばかりなのに、買い物のついでにまた休憩。
鍵善_1
鍵善_2
鍵善_3
鍵善_4
鍵善_5

この後、もう一軒で買い物。いつになったら目的地に向かうのだろうか。既に相当な水っ腹状態。多分、この後、猛烈な発汗に繋がるのだろう。

 

京都小旅行(11)

ホテルのお店での夕食

あまりに外が暑く、13:30にはホテルに戻ったが、妻が戻っていないためチェックインできず、一人で喫茶室などで2時間半ほど時間を潰した。チェックイン後に汗を流し着替えてリラックスはしたものの、外に出る気にならず、仕方なくホテルのダイニングカフェ&バー『ロンド』での夕食に変更した。

『“お箸”でいただく京風ディナー』コースを注文した
全体イメージ

持ち帰り用のお箸とお箸袋
この食事をいただくための箸はもちろん別に用意されている。
持ち帰り用のお箸とお箸袋
おばんざい風 小鉢オードブル
おばんざい風 小鉢オードブル
日替り野菜のスープ
日替り野菜のスープ
本日の魚の味噌焼き、ご飯、お漬物
ここでご飯が出てきた。そういうものなのかなあと思いながら食べた。
本日の魚の味噌焼き_ご飯_お漬物
牛フィレ肉のソテー 胡麻風味ソース
ご飯は既に食べ終えていたので、ご飯なしのおかずのみだ。東北育ちの朴念仁には、不思議な感じだった。
牛フィレ肉のソテー 胡麻風味ソース
和風デザート、食後のお飲み物
和風デザート_食後のお飲み物

お金持ちの夕食はできないし、バテて食欲もわかない状態だったので、簡単に済ませた。

 

京都小旅行(10)

御寺泉涌寺(3)

浴室
床下に鉄釜があり、沸かした湯で蒸し風呂となる。僧が仏前に仕える前に身を清めるのに使用したようだ。
下り参道右側にある切妻式の建物が浴室である。明治30年(1897)現在地へ移建されたが、寛文期再興の建物である。
浴室

泉涌水屋形(京都府指定文化財)
三渓園の旧天瑞寺寿塔覆堂(重要文化財)と似た形だと思ったが、どうだろうか?
浴室の東南山裾には寺名の起源となった名泉が、今も尽きることなく涌き出ている。それを覆う屋形は、仏殿と同じ寛文期の建物である。
泉涌水屋形

清少納言歌碑
1974年の建立で、吉野石に刻まれている。『夜をこめてとりのそらねをはかるともよに逢坂の関はゆるさじ』(百人一首)と書かれているとのことだが、苔生していて字が見えなかった。尤も見えても読めなかったかもしれないので、それで良かったのかもしれない。
清少納言歌碑

月輪陵
近づけるのか否か不明だが、酷暑と疲労困憊とで確認する元気さえ湧かなかった。
歴代天皇らの25陵、5灰塚、9墓が営まれている
FREE画像を借用した
月輪陵

総門
どうにもガテン系の人たちが邪魔だが、彼らの休み時間に後から私がきたのだから仕方が無い。
総門

東福寺から泉涌寺へ近道をしようとして道に迷い、通常のアクセス方法ではなく、雲龍院のすぐ近くの急坂を上って、下記の墓所を通って、大門へ向かった。普通に歩いていたら見ることがなかったものだろう。

皇族の墓
皇族の墓_0
梨本宮守脩親王墓(左側)
皇族の墓_1
桂宮淑子内親王墓(中央)
皇族の墓_2
久邇宮朝彦親王墓(右側)
皇族の墓_3

宮家の墓地
朝彦親王墓・淑子内親王墓・守脩親王墓の対面道を挟んだ反対側にある。被葬者は宮家の一員ではあるが、当主ではなかった方たち。
被葬者:賀陽宮邦憲王(後伏見天皇二十世皇孫)、賀陽宮妃好子(邦憲王妃)、久邇宮家多嘉王(後伏見天皇二十世皇孫)、久邇宮家妃静子(多嘉王妃)、久邇宮家賀彦王(後伏見天皇二十一世皇孫)、久邇宮家発子女王(後伏見天皇二十一世皇孫)、久邇宮家光子女王(後伏見天皇二十一世皇孫)

宮家の墓地_1
宮家の墓地_2

 

京都小旅行(9)

御寺泉涌寺(2)

泉涌寺本坊
泉涌寺本坊は、霊明殿、御座所そして海会堂の3つの建物とそれらをつなぐ御座所庭園によって構成されている。仏殿側からは、塀及び門によって隔てられている。
じっくり見たかったのだが、記録的な酷暑と疲労困憊とで、更に特別拝観部分に入る元気が出なかった。


霊明殿
天智天皇と光仁天皇から昭和天皇(南北両朝の天皇も含む)に至る歴代天皇皇后の尊牌(位牌)を安置する。1884年の再建。

霊明殿唐門
霊明殿唐門_1
霊明殿唐門_2
霊明殿唐門_3
霊明殿と御座所車寄
霊明殿と御座所車寄
御座所車寄へ繋がる門
御座所車寄へ繋がる門_1
御座所車寄へ繋がる門_2
右奥が勅使門、そして左側が御座所車寄、中央奥が霊明殿。位置関係かわかりにくく恐縮だが、勅使門と御座所車寄とは一直線に並び、霊明殿は少し奥の位置になる。
御座所車寄へ繋がる門_3
勅使門
勅使門はいろいろなところに残されているだろうが、この勅使門は一番使用頻度が高いものなのではなかろうか。勅使門の背後には御座所車寄が待ち構えている。
勅使門_1
勅使門_2
勅使門_3
勅使門_4
御座所庭園
FREE画像を借用
御座所庭園

御座所
仏殿・舎利殿の背後に建つ。安政年間(江戸時代末期)に建立され、明治天皇が使用していた旧御所の御里御殿を1884年に移築したもの。女官の間、門跡の間、皇族の間、侍従の間、勅使の間、玉座の間などがある。玉座の間は、天皇皇后が来寺した際に休息所として使用する部屋である。平成期(1989年-)に入ってからは、即位報告(1990年)、平安建都1,200年記念(1994年)、在位10年の報告(1999年)などの際に今上天皇が泉涌寺を訪れ、この部屋を使用している。
特別拝観ゾーンでは、庭園以外は撮影禁止だそうだ。
御座所

海会堂(かいえどう)
御座所に接して建つ土蔵造の仏堂。屋根は宝形造。元は宮中にあり、「黒戸」と呼ばれていた仏堂を明治元年(1868年)の神仏分離令発布を機に泉涌寺に移築したものである。かつての天皇、皇后、親王らの念持仏(守り本尊)20数体が安置されている。
特別拝観ゾーンでは、庭園以外は撮影禁止だそうだ。

 

京都小旅行(8)

次に向かったのは、JR東海『そうだ、京都行こう 2009年 初秋 泉涌寺編』で更に一段と知名度が上がった皇室の菩提寺である御寺泉涌寺だ。

御寺泉涌寺(1)
泉涌寺 (せんにゅうじ)は、京都市東山区泉涌寺山内(やまのうち)町にある真言宗泉涌寺派総本山の寺院。山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来の三世仏。
平安時代の草創と伝えるが、実質的な開基(創立者)は鎌倉時代の月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)である。東山三十六峰の南端にあたる月輪山の山麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)泉涌寺」と呼ばれている。


大門(重要文化財)
慶長年間(江戸時代初頭)造営の御所の門を移築したもの。張即之筆による山号「東山」(とうざん)の額が掲げられている。ここから境内へは緩やかに下っていく。CMでご存知かと思う。
大門(重要文化財)_1
大門(重要文化財)_2

仏殿(重要文化財)
やはり徳川の勢いがあった時に再建されただけあって、相当に豪華な建物だ。視界にはいった途端、『おおっ、これはすごい』と思わず唸ってしまった。確かにCMで全国に『どうだ』と問いかけたくなる貫禄があった。それでもまだ重要文化財止まりだ。
当初の伽藍は応仁の乱でほとんど焼失し、現在の諸建造物はそれ以降建立のものである。
大門から参道を下って正面の仏殿は、寛文8年(1668)徳川四代将軍家綱によって再建され、現在伽藍の多くはこの時整備されている。
仏殿は一重もこし付入母屋造り本瓦葺き、唐様建築の代表作で、国の重要文化財である。

仏殿(重要文化財)_1
仏殿(重要文化財)_2
仏殿(重要文化財)_3

舎利殿(京都府指定文化財)
何故、仏殿と文化財の指定が異なるのだろうか。部外者には理解し難いところだ。仏殿は同時期に再建されたもので、こちらは、京都御所の建物を移築改装したものという違いはあるが。
舎利殿は、釈迦の仏牙舎利を奉安する貴重な霊殿である。慶長年間、京都御所の建物を移築改装したもので、仏殿と同時代に現位置へ移された。開山俊芿律師が熱願された舎利を、弟子の湛海律師が安貞2年(1228)に宋朝より将来し遷座した。現在同時に将来された韋駄天像・月蓋(がつがい)長者像(共に重文)とともに内陣に奉祀されている。
蔀戸(しとみど)と火灯窓とが目立つ
舎利殿(京都府指定文化財)_1
舎利殿(京都府指定文化財)_2
舎利殿(京都府指定文化財)_3
舎利殿(京都府指定文化財)_4

 

京都小旅行(7)

臨済宗大本山東福寺(4)

東福寺日下門…京都府指定文化財 桃山時代
紛らわしいのだが、この門とは別に、東福寺月下門(月華門)がある。月下門は重重要文化財指定のもので、鎌倉前期の建築物。
見た感じが全く違うので、実物を見れば文化財としての扱いの差も納得できるはずだ。と書いたものの、月下門の方は毎度見落としていて、未だに実物を拝んでいない。

東福寺日下門

東福寺臥雲橋…京都府指定文化財 弘化4(1847)年
通天橋を望むことができる橋。ここからの眺めも乙なものだ。
東福寺臥雲橋_1
東福寺臥雲橋_2
東福寺臥雲橋_3

東福寺偃月橋(えんげつきょう)…重要文化財 桃山時代
今回もパスしてしまった。相当にすごい橋のようだ。
本坊より塔頭、龍吟・即宗両院に至る三ノ橋渓谷に架かる単層切妻造・桟瓦葺きの木造橋廊である。1603年に再建、1967年に重要文化財に指定され、日本百名橋にも選ばれている。
FREE画像借用
東福寺偃月橋(えんげつきょう)

東福寺塔頭の瓦
塔頭の瓦がユニークで面白い感じだった。いくつか撮ってみた。
塔頭(たっちゅう)は、本来、禅寺で、祖師や大寺・名刹の高僧の死後、その弟子が師の徳を慕って、塔(祖師や高僧の墓塔)の頭(ほとり)、または、その敷地内に建てた小院である。塔の中で首座にあるところから「塔頭」と呼ぶ説もある。
それから転じて、寺院の敷地内にある、高僧が隠退後に住した子院のことも塔頭と呼ぶようになった。
塔中(たっちゅう)、塔院(とういん)、寺中(じちゅう)、院家(いんげ)とも。

一華院
東福寺の塔頭、一華院(いっかいん)。普段は非公開なのだそうだが、晩秋の特別お茶席の際には、お抹茶とお菓子をいただきながら依稀松の庭を眺めることができるようだ。通りかかった際に、可愛らしい瓦があり、思わずカメラを向けてみた。
東福寺の塔頭、一華院
同聚院
東福寺の塔頭、同聚院(どうじゅいん)。寛弘3年(1006)に藤原道長が40歳の祝賀に当って丈六の五大明王を造らせたが、内4体は焼失した。残る1体が同聚院に祀られているそうだ。もちろん、重要文化財だ。
東福寺の塔頭、同聚院_1
東福寺の塔頭、同聚院_2

 

京都小旅行(6)

臨済宗大本山東福寺(3)
今回記事説明用には昨2012年4月21日撮影の写真を使用する。
取り上げる4件いずれも、何ら文化財の指定を受けていない。その理由は建築後の経過年数が短いことに尽きるのだろう。
近代に入って明治14年(1881年)にも大火があり、寺院実務遂行上不可欠の建物である仏殿、法堂、方丈、庫裏などがこの時焼失した。現在の本堂、方丈、庫裏などは明治以降の再建だ。また、通天橋は1959(昭和34)年、台風によって倒壊したものを1961(同36)年、再建したもの。


本堂(仏殿兼法堂)
巨大な木造建築だ。今すぐ文化財の指定を受けてもおかしくないほどの風格だ。
1881(明治14)年焼失後、1934(昭和9)年再建。起工から竣工まで17年を要し復興させた昭和の木造建築中最大の建物です。入母屋、裳階(もこし)付単層本瓦葺、正面七間・側面五間。三門にならった大仏様の組物と角扇垂木。禅宗唐様の桟唐戸・礎盤・鏡天井。裳階の窓は和様の連子窓、破風の妻飾りは法隆寺南大門風と、多様に様式が組み合わされています。
内部は禅式床瓦敷とし、正面須弥壇上に本尊釈迦立像、脇に摩訶迦葉尊者 阿南尊者、四天王を安置。天井の画龍は堂本印象氏の作、龍の大きさは体長54m・胴廻り6.2mに及んでいます。

本堂(仏殿)_1
通天橋から本堂(仏殿)へと続く渡り廊下
本堂(仏殿)_2
本堂(仏殿)_3

方丈
恩賜門と庭園とがあまりにも有名。何度か行っているのに、この中を見たことがない。次回は是非、見逃さないようにしたいものだ。
1890(明治23)年再建。南正面の前庭には昭憲皇太后の寄進とつたえる向唐破風の方丈表門があります。恩賜門ともいい、小型ながら明治期唐門の代表作です。
方丈
方丈恩賜門

庫裡
1881(明治14)年の火災で焼けたため1906(同39)年起工、1909(同42)年竣工しました。切妻を正面とする禅宗式寺院の典型的な形で、白壁に配された縦横の構架材が印象的です。
内部では一切の寺務が執り行われ、行事のときの食事の用意もここで行われています。
方丈唐門とともに、昭憲皇太后の恩賜建築です。

庫裡

通天橋
秋は紅葉見物で非常に込み合う。まさしく天を通る感じの橋だ。
仏殿から開山堂(常楽庵)に至る渓谷(洗玉澗;せんぎょくかん)に架けられた橋廊です。1380(天授6)年、春屋妙葩(しゅんおくみょうは;普明国師)が谷を渡る労苦から僧を救うため架けたとつたえられ、歩廊入口には同国師の筆になる「通天橋」の扁額をかかげます。
南宋径山(きんざん)の橋を模し、普明国師が通天と名付けました。
その後、第四十三世住持、性海霊見が修造し、長廊を架したともいわれますが、その後も幾度か架け替えられ、現在のものは、1959(昭和34)年、台風によって倒壊したものを1961(同36)年、再建したものです。
 
通天橋_1
通天橋_2
通天橋_3
通天橋_4
通天橋からみた臥雲橋
通天橋からみた臥雲橋

 

京都小旅行(5)

臨済宗大本山東福寺(2)

私見だが、東福寺が宗教活動上で一番重視している一角だと思う。

禅堂…重要文化財 南北朝
おそらく東福寺としては最重要の建物として位置づけている建物だろう。
1347(貞和3)年再建。別称、僧堂、選佛場ともいう座禅専修の道場です。中世期より現存する最大最古の禅堂で、桁行七間、梁間四間、単層、裳階(もこし)付切妻造。鎌倉風の花頭窓と格子窓、弓形の木を並べた波欄間、鏡天井。身舎(もや)中央には二重虹梁(こうりょう)と大瓶束(だいへいづか;下の細まった円い短柱)。その豪壮な姿に、往時の隆盛をしのばれます。
掲げられている扁額「選佛場」は宋国径山万寿寺(きんざんまんじゅじ)の無準師範の筆です。明治火災後、仮本堂とした改造がみられます。

禅堂_1
禅堂_2
禅堂_3

東福寺殿鐘楼…京都府指定文化財 室町後期
東福寺には鐘楼が2つ存在し、西側がこの鐘楼、東側には寛文11(1672)年に建立された東福寺大鐘楼がある。いずれも京都府指定文化財。
東福寺殿鐘楼に吊り下げられていた重文の銅鐘は収蔵庫に収納されているようだ。代わりの鐘が下げられているのか否かは確認できなかった。

禅堂の北、経蔵前に位置する西の鐘楼です。
この中の銅鐘(重文)は鐘身1.4m、口縁外径1m、厚さ8.5cmの大鐘で、蓮華門の撞座のすぐれた点より平安初期を下らざる鋳造とみられます。もと西寺の遺物を九条道家が求め、当寺に寄進しました(現在は収蔵庫に収納)。

手前が東福寺殿鐘楼
東福寺殿鐘楼と経蔵

経蔵…京都府指定文化財 江戸
私の大好きな建物。
門、禅堂、東司などとともに旧観を残す宝形造りの瀟洒な建造物。
開山の聖一国師(円爾弁円)は宋からの帰朝の際一千余りの典籍を持ち帰り、我が国文教の興隆に多大な貢献をしました。当寺には今なお、宋代の書跡や貴重な書物が多数所蔵されています。

経蔵_1
経蔵_2

 

京都小旅行(4)

伏見稲荷大社から伏見街道を上って東山区に入る。次に目指したのは東福寺だ。

臨済宗大本山東福寺(1)
東山月輪山麓、渓谷美を抱く広々とした寺域に、由緒ある大伽藍が勇壮に甍をならべ佇む....
東福寺の名は、「洪基を東大に亜(つ)ぎ、盛業を興福に取る」と、奈良の二大寺にちなんで名付けられました。
諸堂の完成は1271(文永8)年。
以来、京都五山文化の一角を担う禅林・巨刹です。

東福寺境内図

東福寺南大門…京都府指定文化財 桃山
南参道の入り口にある門。六波羅門までの間にいくつかの末寺がある。
東福寺南大門
東福寺六波羅門…重要文化財 鎌倉
大した門ではないといつも思うのだが、これでも歴とした重要文化財指定の門だ。矢庇のあとが残っているそうだ。いつも確認を忘れてしまっている。
南正面に立つ本坊伽藍の最南端にある惣門です。
もと北条氏の六波羅政庁にあったものを移したと伝えられており、この名があります。1333(元弘3)年の戦の矢庇のあとが残っているといわれています。

東福寺六波羅門

東福寺勅使門…京都府指定文化財 桃山
六波羅門と直角をなす門で、現在は閉ざされています。勅使参向の際、その出入に使用した門です。
東福寺勅使門

東福寺三門…国宝 室町
三門は空門・無相門・無作門の三解脱門の略。南都六宗寺院の中門にあたります。東福寺は新大仏と呼ばれるような巨大な本尊を安置するなど南都二大寺に影響を受け、この三門は大仏様(天竺様)、禅宗様(唐様)、和様をたくみに組み合わせた建造方式となっています。
五間三戸、重層入母屋造、両脇に階上へのぼる山廊を設けた、日本最大最古の遺構です。
応永年間(1394-1428)、足利義持の再建で、1977(昭和52)年、大修理が完成しました。

今回は特別公開がなされていなかった。実を言うと、この三門はなかなか高く、高所恐怖症の私は三門楼上に上ってみたいようなみたくないような…
三門楼上 山廊から階上へ上れば、壮麗な極彩色の世界がひらかれています。楼上内部は二本の柱があるほかは広々として、須弥壇(しゅみだん)中央に宝冠釈迦如来、左右に月蓋長者、善財童子・十六羅漢像が安置されています。正面縁の大額「妙雲閣」の筆は足利義持のものです。中世建築ではめずらしい一面の極彩画は、画聖兆殿司(明兆)およびその門人寒殿司の筆と伝えられています。
東福寺三門
正面から池越しに見る
東福寺三門を正面から池越しに見る
三門前の池に咲いていた蓮の花
東福寺三門前の池に咲いていた蓮の花

東福寺東司…重要文化財 室町
今は臭いなど立ち込めることはないが、往時は大変なものだったと思う。
三門を入ってすぐの左側、選仏場の南に位置する禅宗式の便所で、通称百雪隠(せっちん)といいます。室町時代唯一の東司の遺構として貴重なもので、桁行七間(約35m)、梁間四間(14m)、一重切妻造の建造物です。化粧屋根裏の廂、鏡天井、正背面の切妻飾りは身舎が二重虹梁大瓶束となっており古い禅宗様を現しています。禅僧は用便も修行であり、東司へ行くにも厳しい作法が定められていました。
東福寺東司

 

京都小旅行(3)

伏見稲荷大社(2)
前回書くのを忘れたが、伏見稲荷大社に参拝したのは今回が初めてだ。いつでも行けるはずだと思うと、意外に行かないままになったりするものだ。この歳になると、流石に困った時の神頼みをしなくても済むようになり、素直に参拝できる感じになったのかもしれない。
2012年1月8日・1月15日にBS朝日で放送された『知られざる物語 京都1200年の旅』の『新年に詣でる 伏見稲荷の謎』などを見るとはなしに見ていたので、初めて訪れるような気がしない。

『知られざる物語 京都1200年の旅』
番組予告文から
「お稲荷さん」で親しまれている「稲荷神社」の総本宮「伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)」。毎年、三が日で250万人以上が初詣に訪れ、その人数は京都にある神社や寺院の中で最も多いと言われています。なぜ「お稲荷さん」は、ここまで人々を惹きつけるのでしょう?伏見稲荷大社の起源をたどりながら、その謎に迫ります。
境内を歩くと、まず目に付くのが、稲荷神社のシンボルとも言える「キツネ」の像。宝物庫の鍵をくわえたキツネ、口から清らかな水を流すキツネなど、様々な姿の像が見る者を楽しませてくれます。このキツネ=稲荷神社の神様、と思っている人も多いようですが、そうではなく、実は「稲荷神社の神の使い」なのです。
稲荷神社の神は「稲荷大神(いなりおおかみ)」とも呼ばれ、奈良時代、稲荷山(いなりやま)に降り立ち、そこに社を建てたのが伏見稲荷大社の始まりだと伝わります。稲荷大神は、商売繁盛、家内安全、病気平癒など、あらゆる御利益を持つ守護神として信じられていますが、もともとは五穀豊穣を司る「農耕の神」。昔から農業に携わる人々に広く親しまれてきたのです。
かつて稲荷大神が降り立ったとされる稲荷山。色鮮やかな朱色の鳥居が立ち並ぶ「千本鳥居」を抜け、山道を進むと…そこには、勝負の神、目の病を癒すという神など人々に身近な社が多く点在しています。さらに、山中の至る所で目にすることができるのが、石で作られた「お塚」。これは、お稲荷さんを詣でる人たちが、心の拠り所として奉納したもの。その数は、実に1万基以上。それほど、たくさんの人々に信じられてきたことを示しています。そして…無数にあるお塚の中に、松也さんと深いゆかりのある人物のお塚を見つけました。果たして、その人物とは?
また、他にも華やかな祇園の町中にある稲荷神社、デパートの屋上にある稲荷神社など、生活の中に溶け込んだお稲荷さんも訪ねます。そして、いつの時代も変わらず心の支えとなっている「人々とお稲荷さんの神秘のつながり」をひもときます。


千本鳥居
日付を見るとそれほど古いものは見当たらなかった。よく見ると、少し朽ち始めたものもあったが、総じて建立時の勢いを保っているものが殆ど。何年以上かが経過すると、お焚き上げのようなことをするのだと思うが、どれくらい年数経過で行うのだろうか。つまらないことが気になった。
トリイとは「通り入る」の意味で、神の聖地・聖域を表します。
そして朱色は魔よけを意味し、古代より生命力のある神聖な色とされ、特に稲荷神の神徳である豊穣を象徴する色として稲荷神社の建造物に用いられています。
鳥居の納年は近年のものがほとんどで、お山全体では数万基に及ぶそうです。

千本鳥居_1
千本鳥居_2
千本鳥居_3
千本鳥居_4

奥社奉拝所
大抵の人がここまでは足を運ぶはず。私はもう少し先まで歩いてみた。
奥宮より朱塗りの長い千本鳥居を潜りぬけると、奥社奉拝所が現れます。
命婦谷(みょうぶだに)と称されるところで、稲荷山三ケ峰が、この社殿の背後にあり、一般には奥の院と呼ばれています。
この神社はお山の神々を遥拝(ようはい)するために設けられたもので、社殿は室町時代・明応年間(1500年頃)の創建であります。
奥社(奥の院)背後の山肌に祀られた「稲荷大神」は注連縄が架けられた大きい岩が神である。

奥社奉拝所_1
奥社奉拝所_2
以下2点はFREE画像を借用
奥社奉拝所_3
奥社奉拝所_4

おもかる石
かなりばてていたので、願い事も思い浮かばないままに持ちあげてみた。結構重く感じた。願い事をしてもいなかったのでショックはなかったものの、自分の筋力の低下に驚いてしまった次第だ。
灯籠の前で願い事を祈念して石灯籠の空輪(頭)を持ち上げそのときに感じる重さが自分が予想していたよりも軽ければ願い事が叶い重ければかなわないとする試し石で、一般には「おもかる石」の名で親しまれている
おもかる石

伏見人形窯元 丹嘉
伏見街道を東福寺方面へ上っていくと、お店が見えた。気になったのだが、ヘロヘロ状態でお店に飛び込む勇気も出なかった。
関連記事があるHPへjump
伏見人形窯元 丹嘉_1
伏見人形窯元 丹嘉_2
伏見人形窯元 丹嘉_3

 

京都小旅行(2)

新幹線から降りたら、かつて経験したことのないほどの暑さが待ち構えていた。あとで分かったのだが、この日は38.2度で、翌日は39.0度だった。なるほど暑いはずだが、京都の寺社巡りを始めたばかりで弱音を吐く訳にはいかない。
予定を少し変更して、JR奈良線に乗りまず伏見稲荷大社に向かう。

JR奈良線車両
JR奈良線稲荷駅

伏見稲荷大社(1)
伏見稲荷大社は、全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本社だ。初詣客は関西で一番。堂々たる神社なのに、国宝や重要文化財がわずかしか無い。そこだけが不思議でならない。

楼門
推論程度に留める人と、断定口調でいう人とがいるようだ。
☆以前の楼門は応仁の乱により焼失し、現存のものは再建に尽力した秀吉の寄進によるものらしい。
☆1589年(天正17年)に豊臣秀吉が母・大政所の病気平癒を祈って造営した入母屋造りの楼門です。

伏見稲荷大社楼門_1
伏見稲荷大社楼門_2
伏見稲荷大社楼門_3
口を開いた阿(あ)形の左大臣
口を開いた阿(あ)形の左大臣
口を閉じた吽(うん)形の矢大臣
口を閉じた吽(うん)形の矢大臣

外拝殿(舞殿)
内拝殿は一般のお参りに使われ、外拝殿は2月の節分祭の時、ここから豆がまかれる。
外拝殿(舞殿)_1
外拝殿(舞殿)_2

内拝殿
一般のお参りに使われる。
内拝殿_1
内拝殿_2

御茶屋(重要文化財)
伏見稲荷大社にある御茶屋は、国の重要文化財建造物。江戸時代初期、御所にあった古御殿のひとつで、寛永18年(1641)に、当時、院の非蔵人として仕えていた当社祠官羽倉延次が、後水尾院より賜ったものである。七畳の主室は、床、付書院、違棚を設けた書院造りであるが床柱や漆塗りの框などには数寄屋風の意匠がうかがえる。(非公開)
御茶屋の写真があるHPへjump

本殿(重要文化財)
応仁の乱で焼失した後、明応3年(1494年)に再建。五間社流造、檜皮葺き
本殿(重要文化財)

権殿(かりどの)
社殿を改築、修理する時に御神体を一時的に奉安する社殿
権殿(かりどの)

玉山稲荷社
こういうものでも、末尾に引用した解説のとおりで、末社扱いのようだ。
御祭神:玉山稲荷大神
玉山稲荷社は遠い昔に、稲荷大社から宮中鎮守として勧請(分霊)されました。
その後、江戸時代の1705年に東山天皇の命で修学院村の玉山に移ります。
明治維新では東京遷都となり、宮中の方が玉山稲荷社をお世話できなくなり、明治7年11月に伏見稲荷神社境内の権殿に仮遷座されます。その翌年には伏見稲荷の末社となり現在に至ります。

玉山稲荷社

本殿左後方にある末社群
長者社…祭神:秦氏(当大社旧社家)祖神
長者社…祭神:秦氏
荷田社…祭神:荷田氏(当社旧社家)祖神
荷田社…祭神:荷田氏(当社旧社家)祖神
五社相殿社(左から蛭子社・猛尾社・若王子社・日吉社・八幡宮社)…
  祭神 蛭子社:事代主神、猛尾社:須佐之男大神、若王子社:若王子大神、日吉社:大山咋神、八幡宮社:応神天皇

五社相殿社
両宮社…祭神:天照皇大神、豊受皇大神
両宮社

表参道沿い、本殿に向かって左手にある末社群
左から、熊野社…祭神:伊邪那美大神、藤尾社…祭神:舎人親王、霊魂社
左から、熊野社…祭神:伊邪那美大神、藤尾社…祭神:舎人親王、霊魂社

現在は摂末社に関する規定は特にないが、一般には、摂社はその神社の祭神と縁故の深い神を祀った神社、末社はそれ以外のものと区別され、格式は本社>摂社>末社の順とされる。本社の境内にあるものを境内摂社(けいだいせっしゃ)または境内社、境外に独立の敷地を持つものを境外摂社(けいがいせっしゃ)または境外社という。

明治から戦前までの近代社格制度では、官国幣社の摂社は以下のいずれかを満たすものとされ、それ以外は末社とされた。
 本社の祭神の后神・御子神等、系譜的に連なる神を祀る神社
 本社の祭神の荒魂を祀る神社
 本社の地主神(祭神が現在地に遷座する前に当地に祀られていた神)を祀る神社
 その他、特別の由諸がある神社

 

京都小旅行(1)

ひょんなことから妻が大阪に歌舞伎を見に行くことになり、ついでに京都見物でもしようということになった。
その歌舞伎の自主公演が大阪の文楽劇場で行われ、それに間に合うようにかなり早い出発となった。


坂東竹三郎傘寿記念の自主公演
私が行ったのではなく、妻が行った。その間、私は京都の社寺仏閣の見物初日を楽しんだ。私は無粋な方で、以前から歌舞伎にはあまり興味が無いということになっている。恥ずかしながら否定するほどの根拠もない。
妻は、ひょんなことから竹三郎氏夫人と知り合いになり、自主公演に誘われたようだ。縁浅からぬ仁左衛門や猿之助も出演するとあっては、誘いを断るわけもない話だ。


坂東竹三郎は関西歌舞伎の流れを汲むベテランの歌舞伎役者で、関西歌舞伎の灯を絶やさぬようもう何十回も自主公演を行なってきたようだ。今回の傘寿記念公演は、自主公演最後ということもあって、片岡仁左衛門や市川猿之助も出演して、熱演したとのことだった。
仁左衛門はもう70歳になるが、今でも立派な二枚目役者で、ほれぼれするような舞台だったようだ。一方、猿之助は小さい頃、竹三郎のおじさん(歌舞伎界ではこういう言い方をするようだ)に可愛がってもらっていた縁がある。今までのような声だけのゲスト出演ではなく、スケジュールをやりくりして舞台に上がった。たった2日の舞台だが、完璧に仕上げてきて、関係者にさすがだと唸らせたようだ。
そして主催の竹三郎氏。直前まで体調不良で入院をしていたようだが、それを押しての舞台。流石に大ベテランの気合の入った舞台は素晴らしかったようだ。


8月10日(土)・11日(日)、大阪の国立文楽劇場にて「傘寿記念 坂東竹三郎の会―四世尾上菊次郎三十三回忌追善―」公演が行われます。
竹三郎の師匠でもあり、十三世仁左衛門らとともに関西歌舞伎復興に尽力した四世尾上菊次郎の三十三回忌追善として、約4年ぶりに竹三郎が自主公演を開催します。
珍しい上演となる『夏姿女團七』は人気演目『夏祭浪花鑑』の書替狂言で、団七女房のお梶が大活躍、敵役が舅義平次ではなく、お梶の母おとらとなります。もう一本は『東海道四谷怪談』。出演者は若手を含め、多彩な顔ぶれがそろいました。


坂東竹三郎_1
坂東竹三郎_2
坂東竹三郎自主公演ポスター
妻が頂いたもの

 

江戸東京たてもの園にて(4)

小寺醤油店

前回記事にjump

前回も書いたが、この小寺醤油店は、味噌や醤油、酒類を商っていた。而して看板は『小寺醤油店』となっている。今だと専門店の少ない順から、醤油、味噌、酒だろう。なぜ、需要が圧倒的に多い酒店としなかったのだろうか?主人のこだわりがあったのだろうか?調べてみたら、創業者が醤油造りの蔵元で修行したためのようだ。醤油・味噌は以前は小規模の蔵元で造られていたものの流通比率が結構あったのかもしれない。
建物の側面に一切開口部がないのは、今の東京の建て込んだ状況と同じだ。この頃からそうだったのだろうか?母屋の右隣りに立つ袖蔵は、鉄筋コンクリート造2階建だそうだ。

前回は、この袖蔵の方を見落としてしまった。それで今回冒頭に近い順番で取り上げることにした。土蔵とばかり思っていたのだが、鉄筋コンクリート造りだったとは。

小寺醤油店_1
庇の下の腕木とその上の桁が特徴の〈出桁造り(だしげたづくり)〉がこの建物のみどころだそうだが、よく見えるようには撮れなかった。m(_ _)m
直射日光が差し込まないようなそんな造りになっている。間口を広くとって、お客様が入りやすく工夫してあるようだ。

小寺醤油店_2
小寺醤油店_3
小寺醤油店_4
味噌、醤油、酒の一時保管には適した蔵のようだ。
小寺醤油店_5
小寺醤油店_6

始めたばかりの江戸東京博物館のシリーズですが、一旦中断して、次回からは京都一泊旅行の記事を何回か挟みます。

 

江戸東京たてもの園にて(3)

高橋是清邸

前回記事にjump

びっくりするほど大きな家でも小さな家でもない。時の総理大臣にもなった人物だが、大蔵大臣としての活躍のほうが人々の記憶に残る。そして、二・二六事件において、赤坂の自宅二階で青年将校らに暗殺されるという非業の最期を遂げた。
まれに見るほど政治家としての資質が優れた人物であり、こういう人物を闇に葬った理不尽のほどは残念でならない。
横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾(現・明治学院大学)にて学び、1867年(慶応3年)に藩命により、勝海舟の息子・小鹿(ころく)と海外へ留学した。然し、横浜に滞在していたアメリカ人の貿易商、ユージン・ヴァン・リードによって学費や渡航費を着服され、更にホームステイ先である彼の両親に騙され年季奉公の契約書にサインし、オークランドのブラウン家に売られる。
そういう驚くようなキャリアからのし上がってきた。


玄関側の様子
高橋是清邸_1
庭側の様子
高橋是清邸_2
1階玄関脇廊下。光っている部分は、物入れの天板。
高橋是清邸_3
仏間
高橋是清邸_4
1階和室
高橋是清邸_5
1階和室
高橋是清邸_6
2階和室
高橋是清邸_7
2階廊下。ガラス戸は当時はかなりの贅沢品だったようだ。
高橋是清邸_8
『不忘無』
上述のとおり奴隷に近い生活を強いられた苦い経験がある。その時のことを常に忘れずにいたかったのだろう。『無を忘れず』…極めて異色の座右銘だ。
この座右の銘がかけられている和室が彼の書斎兼寝室だった。暗殺された部屋でもある。

高橋是清の座右の銘
孫娘とくつろぐ姿
暗殺される謂われなど何もなかったのに
高橋是清の在りし日の写真

 

遂に顔を合わせた

『遂に顔を合わせた』と大げさなタイトルをつけたが、やっと正面からあの鳥さんを見ることができた。
少し羽根が傷んでいたのが気になったが、『何だ、爺さんか。見世物じゃないんだから、さっさと行ってくれ』とでも言っているかのようだった。
未だに鳥の名前はわからないままだ。


あの鳥さんの正面からのショット_1
あの鳥さんの正面からのショット_2
あの鳥さんの正面からのショット_3

 

江戸東京たてもの園にて(2)

旧自証院霊屋(きゅうじしょういんおたまや)

昨年12月に詳しく記事を書いているので、そちらをも参考にしていただきたい。
前回記事にjump

自証院霊屋は、三代将軍徳川家光の側室であった「お振りの方(おふりのかた)」を祀った霊廟。江戸時代初期の慶安5年(1652)、新宿・市ヶ谷の円融寺自証院に建てられた。側室であったがゆえに家光と同じ場所もしくは近くの場所にと言うことはできなかったのだろうが、それが幸いしてこちらの方は空襲による焼失を免れた。
旧自証院霊屋_1
旧自証院霊屋_2
旧自証院霊屋_3
旧自証院霊屋_4

 

宴会での食事

仲間たちとの暑気払いで頼んだ『涼風懐石』料理。自分でできるわけもないのに、記録して真似をしてみたい。そういう見果てぬ夢を持ちながら、撮りつつ食べた。

先付け
文銭蛸と独活の梅肉和えだった。以前は独活が苦手だったのに、いつの間にか普通の食することができるようになった。
先付け
椀盛
これは大したことがないだろうと思っていたら、意外にもすごかった。
薄い餅の下に、鱧の湯引き、うずら丸、茗荷、などいくつかの素材が入っていて、楽しめた。この段階では早くも満腹という御仁はおらず、他からの御下賜品はなかった。ちょっと残念。

椀盛
造り
オレンジを器とし、その中に鮪や鯛などのお造りが。撮影の都合上、このように置いた。
造り
焼肴
サーモンを洋野菜とともに焼いたもの。と言っても、洋野菜には下味がついていて、美味しかった。
焼肴
強肴(しいざかな)
他のメンバーの焼肴までもらって食べてしまった。強肴としては、牛のヒレを炙ったものが供された。もちろん大好物。
強肴(しいざかな)
煮物
射込テーブルクイーン(舌を噛みそうな名前だが、ハデハデしく見えるもの)とバイ貝の蒸し煮、スナップエンドウ。
意外に美味しかった。

煮物
食事・香の物・留椀
茶碗の中に何が入っているかよくわからないような写し方をしてしまったが、焼きモロコシご飯だ。
これは3人分食べた。

食事・香の物・留椀
水菓子
この日はパパイヤとぶどうだった。
水菓子

以上だが、我々の支払う価格の割りには、上質で美味しいものだった。もちろん御下賜品を含めて完食したのだが、続いて引っ張りこまれた二次会で効いてきてしまった。腹が膨満状態でかなり厳しかった。

 

江戸東京たてもの園にて(1)

江戸東京たてもの園には、昨年12月に行った。
1)その時が初めてで見落としがあったので、完全を期したい。
2)夏になると『蓮華升麻』が咲くということを教えてもらった。これをどうしても見たかった。
3)その時は移築中の建物ができたので、どうしても見たかった。

以上の理由から、この夏の暑い盛りに再訪した。

まず、一番目のお目当ては『蓮華升麻』を見ることだった。


蓮華升麻
この花はこの道の大家makiraさんに存在を教えていただいた。
該当頁にjump
奥多摩の御岳山に行けばある程度まとまって見ることができるらしい。私が勘違いしていただけなのだが、『木曽御岳山に行くのはちょっと無理かなあ』と思っていた頃に、江戸東京たてもの園に少しだけだが咲くと教えられた。
ということで出かけた。

どうも様子がおかしい。一向に見当たらない。係員に聞いたところ、年々歳々、その数が減り今年はわずか1株のみだとのことだ。
教えられた場所でやっと探し当てたが、非常に撮りにくいいところにあった。背丈がごく低く花自体もかなり小さい。本当に可愛い花なのに、残念ながらうまく撮れなかった。

蓮華升麻_1
蓮華升麻_2

 

恵比寿西界隈の店

近くを通るので気になっている店だが、どうも私には全く縁がない店のようだ。

ミュージックプラザ
ミュージックプラザは、東京都渋谷区にある本格的バイオリン専門・弦楽器専門店なんだそうだ。バイオリンの弓だけでも7桁以上の高級品などを扱っていそうだ。
このレリーフはアポロンなのだろうか。

ミュージックプラザ店舗
ミュージックプラザ店舗に掲げられているレリーフ_1
ミュージックプラザ店舗に掲げられているレリーフ_2

GARNI tokyo
シルバーアクセサリーブランド『GARNI』の東京店のようだ。
ロゴを見ただけでセンスの凄さを感じる。私が通る時間帯はまだ開店前のようだ。
近くにこの店が経営するイタリアンの店があるようだが、そちらなら…。

GARNI tokyo_1
GARNI tokyo_2

 

金王八幡宮  2013.08.05 20:24加筆

渋谷区渋谷3丁目にある『金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)』を一度は訪ねてみたいと思っていた。少し時間があいたので、思い立って出かけてみた。

平安時代末期、現在は大繁華街になっている渋谷の地に渋谷城が築かれた。後三年役で戦勝したにあたって、源義家は河崎基家の功績を認めた。そしてそれは、彼の崇拝する八幡神の加護なりとして、渋谷城内に八幡神を勧請したとのことだ。
八幡通り(旧鎌倉街道)、青山通り、宮益坂、道玄坂(旧大山街道)を中心とする、渋谷、青山の總鎮守として崇められている。
源義家が勧請した八幡宮、八幡神社は、この『金王八幡宮』にかぎらず、東国に少なからず存在するようだ。
時代が変遷し、渋谷城は戦国時代に北条軍により焼き払われてしまい、金王八幡宮境内に本丸跡を留めるだけのようだ。

源義家が、後三年役の勝利は河崎基家(渋谷の祖)の崇拝する八幡神の加護なりと渋谷城内に寛治六年(1092年)に勧請した。基家の子、重家は堀河帝より渋谷の姓を賜り、これが渋谷の地名の発祥とされる。重家の子、渋谷金王丸は武勇に勝れ源義朝・頼朝に仕えた。境内の金王桜は、頼朝が金王丸の誠忠を偲び名付け植えた。
 ++++++++++++++++++++++++++++++++++
社伝によれば1092年(寛治6年)現在の渋谷の地に渋谷城を築き、渋谷氏の祖となった河崎基家(渋谷重家)によって創建されたとされる。江戸時代には徳川将軍家の信仰を得、特に3代将軍徳川家光の乳母春日局は神門、社殿を造営したとされる。なお、江戸時代末期まではこの神社に隣接する東福寺(天台宗)が別当寺であった。当初は渋谷八幡と称していた。社名にある「金王」は、重家の嫡男常光がこの神社に祈願して金剛夜叉明王の化身として生まれたことにより金王丸と称したことによるとされる。

大鳥居
京都嵯峨野の野宮神社と同様に黒の鳥居なんだ。珍しい色だと思う。あとで調べてみたら、大神神社、生田神社、松蔭神社、霧島神宮、釧路厳島神社などにも黒い鳥居があるようだ。
金王八幡宮大鳥居_1
金王八幡宮大鳥居_2
外観
金王八幡宮外観
門と社殿(どちらも渋谷区の有形文化財)
1769年と1801年に作られたとする二説があるそうだ。
金王八幡宮の門と社殿
社殿
徳川家光が三代将軍に決定したお礼として乳母の春日局と教育役の青山伯耆守忠俊が1612年に奉納した総漆塗りの社殿。江戸時代初期の建築様式をとどめる都内でも代表的な建築物。400年を超す由緒のある建物が未だに渋谷区の有形文化財指定にとどまるのは、度々の修理が災いしているのだろうか?
金王八幡宮社殿_1
金王八幡宮社殿_2
金王八幡宮社殿_3
社殿に奉納された狛犬
社殿に奉納された狛犬_1
社殿に奉納された狛犬_2
神楽殿
神楽殿
金王丸影堂
金王丸の木像は、3月最終土曜日に斎行される金王丸祭で御影堂の開帳があり、特別公開されるそうだ。
保元の乱出陣の折、自分の姿を彫刻し母に残した木像が納められ、更に金王丸が所持した「毒蛇長太刀」も保存されております。
金王丸影堂_1
金王丸影堂_2
金王丸影堂に奉納された狛犬
金王丸影堂に奉納された狛犬_1
金王丸影堂に奉納された狛犬_2
渋谷土佐守重家には、はじめ子がなく、夫婦そろって八幡宮に祈願を続ける中、金剛夜叉明王が妻の体内に宿るとの霊夢を見せ立派な子が生まれたので、金剛夜叉明王の上下の二字を戴いて「渋谷金王丸常光」と名付けたといわれます。
玉造稲荷社
玉造稲荷社_1
玉造稲荷社_2
御嶽社
御嶽神社は、「開運」「商売繁昌」の神として、特に客商売を営む人々の信仰を広くあつめており、本社は武州御嶽神社です。
御嶽社
御嶽社前に移設された狛犬
社前の狛犬一対と西参道の鳥居はかつて実践女子学園の校内にあった「香雪神社」のものを移設したものです。
御嶽社前に移設された狛犬_1
御嶽社前に移設された狛犬_2
神輿倉庫
神輿倉庫
別当寺
かつての別当寺だった渋谷山東福寺。金王八幡宮に隣接している。
かつての別当寺だった渋谷山東福寺

 

ある日の野球観戦(3)

3回裏の攻撃
3回表、橋本の好返球で2塁走者の3進を阻止しヤクルトの攻撃を抑えた巨人。1点ビハインドの3回裏、そろそろ少なくとも同点に追いついておきたいところだ。内海凡退後、長野・橋本の短長打で1死2・3塁のチャンスをつくるが、次打者坂本は敢え無く三振。格好ばかり気にして頼りない3番打者だ。4番阿部は敬遠気味の四球。どの塁でもフォースプレイでアウトになるし、5番の村田との勝負のほうが抑えられる確率が高いと判断したのだろう。それがヤクルト側には裏目に出た。村田はタイムリーの2塁打を放ち、2点を取り逆転。なおも、2死2・3塁のチャンスが続く。しかし、次打者ロペスが凡退し、3回裏の攻撃終了。

全体にピントが甘くて申し訳ない

長野の短打
かなり調子を落としている感じだったが、このヒットで気を良くしたのか、この日は安打3本の固め打ち
長野の短打_1
長野の短打_2
長野の短打_3
橋本の2塁打
超美技で気を良くしたのか、2安打2四球と気を吐いた。
橋本の2塁打_1
橋本の2塁打_2
橋本の2塁打_3
橋本の2塁打_4
橋本の2塁打_5
坂本は敢え無く三振
せっかくのチャンスが潰えそうになる
坂本は敢え無く三振_1
坂本は敢え無く三振_2
坂本は敢え無く三振_3
阿部と勝負するか否かの相談。きわどいところを突くが無理には勝負しない選択としたようだ。
阿部と勝負するか否か_1
阿部と勝負するか否か_2
村田のタイムリー2塁打
『俺を舐めるんじゃない』とばかりにすごい打撃を披露した
村田のタイムリー2塁打_1
村田のタイムリー2塁打_2
村田のタイムリー2塁打_3
村田のタイムリー2塁打_4
オーロラビジョンには村田のタイムリーのリプレイが
村田のタイムリー2塁打_5

 

ある日の野球観戦(2)

巨人先発の内海
力投型だが、立ち上がりは身体が突っ立った感じで、調子は良くなさそうに見えた。1回は3人で抑えたものの、球速が上がらず、各打者に際どいコースを簡単に見送られてしまう。すぐにでも捕まりそうな悪い予感。その予感が2回に早くも的中。畠山に本塁打を浴びる苦しい立ち上がりだった。
巨人先発の内海_1
巨人先発の内海_2
巨人先発の内海_3
巨人先発の内海_4
巨人先発の内海_5
巨人先発の内海_6
巨人先発の内海_7
巨人先発の内海_8
巨人先発の内海_9
巨人先発の内海_10
巨人先発の内海_11
巨人先発の内海_12
巨人先発の内海_13

ヤクルト先発のロマン
構えたらすぐ投げる小気味の良い投球だ。上半身の強さが目立つ感じだ。いつでも打てそうに見えたが、タイミングが取りづらかったのか、巨人打線は打ちあぐんでいた。
ヤクルト先発のロマン_1
ヤクルト先発のロマン_2
ヤクルト先発のロマン_3
ヤクルト先発のロマン_4
ヤクルト先発のロマン_5
ヤクルト先発のロマン_6
ヤクルト先発のロマン_7
ヤクルト先発のロマン_8
ヤクルト先発のロマン_9
ヤクルト先発のロマン_10
ヤクルト先発のロマン_11

畠山の先制本塁打
安定しない投球の内海に対し、彼の苦し紛れの配球を読んだのだろう。強振して本塁打を放った畠山。
畠山の先制本塁打_1
畠山の先制本塁打_2
畠山の先制本塁打_3
畠山の本塁打に湧くおなじみのヤクルトの応援光景
畠山の本塁打に湧くおなじみのヤクルトの応援光景

 

ある日の野球観戦(1)

7月30日(火)の巨人対ヤクルト戦を友人と見に行った。
既に終了している一戦だが、何日か経過しているので、簡単にさらっておく。

試合は4対1で巨人の勝ち。巨人ファンには勝てばいいんだと考える人も少なくないだろうが、現在最下位に沈んでいてまったく元気がないヤクルト相手にかなりの苦戦で、こんなふうで良いのかなと思わせる試合内容だった。

城之内邦雄氏がいた
古い野球ファンには懐かしい『エースのジョー』だ。試合開始前のドームの外でのイベント。当日は菅野智之デーということで、ドラフト1位ルーキーの菅野について、エースのジョーの評価を聞くというような趣旨だったようだ。
まずまず頑張っているが、もう一回り成長するには、中5日の間に必ず走りこみの日を入れて身体を鍛えてほしい。それが大きく羽ばたくための財産になる。そういう主旨の発言をしていた。
無駄口をきかない謹厳実直な人なんだという印象を改めて強く抱いた。元祖トルネード投法の彼は、現在73歳だそうだが、背筋がピンと伸びた格好の良いおじさん(おじいさんには見えない)だった。
城之内邦雄氏インタビューシーン_1
城之内邦雄氏インタビューシーン_2
若いインタビュアーよりも姿勢が良い
城之内邦雄氏インタビューシーン_3
城之内邦雄氏インタビューシーン_4

ドームの外側の様子
東京ドームそのもの
ドームの外側の様子_1
野球殿堂博物館
ドームの外側の様子_2
野球殿堂博物館入場を待つ観客の列
ドームの外側の様子_3

試合前
田中浩康
私の好きな渋い感じの選手
田中浩康
ヤクルト主砲のバレンタインと畠山
体つきからもわかると思うが、ともにとてつもない長距離砲だ
ヤクルト主砲のバレンタインと畠山
巨人先発の内海の遠投
この段階では私には好不調のほどがわからなかった
巨人先発の内海の遠投_1
巨人先発の内海の遠投_2
巨人先発の内海の遠投_3
巨人先発の内海の遠投_4
巨人先発の内海の遠投_5
巨人先発の内海の遠投_6
巨人先発の内海の遠投_7
巨人先発の内海の遠投_8
巨人先発の内海の遠投_9
巨人先発の内海の遠投_10
巨人先発の内海の遠投_11
巨人先発の内海の遠投_12
巨人先発の内海の遠投_13
ミスタージャビットの内のジャバ(次男:背番号555)
ミスタージャビットの内のジャバ(次男:背番号555)
チーム・ヴィーナス所属のチアガール
チーム・ヴィーナス所属のチアガール_1
チーム・ヴィーナス所属のチアガール_2

 

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