散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

神代植物公園と深大寺(8)

深大寺(2)

本堂
江戸時代の本堂が慶応元(1865)年の火災で焼失した後、本尊の阿弥陀如来像は、仮に再建した庫裡に安置させ、大正8年に今の本堂を完成させた。同時に焼失した元三大師堂の方は、すぐに再建されたのに比し、こちらは再建までにかなりの時間がかかった。堂宇の重要度の違いなのだろう。
深大寺本堂_1
深大寺本堂_2
山門
元禄8年(1695年)に建てられたもので、深大寺で最も古い建造物で、常香楼とともに、慶応元(1865)年の火災でも焼失を免れた。
深大寺山門_1
深大寺山門_2
深大寺山門_3
常香楼
詳細に見ずに単に煙を身にまとっただけで終わってしまったが、なかなか素晴らしい意匠が施された小建築物のようだ。1833年(天保4年)建立。
深大寺常香楼
梵鐘(重要文化財)
永和2年(1376年)、山城守宗光なる人物が鋳造したもので、都内では港区・阿弥陀寺の銅鐘、板橋区・真福寺の銅鐘に続く古い鐘だそうだ。鐘楼に吊り下げられているのは、平成新鐘だそうだ。重要文化財の旧梵鐘は釈迦殿に収納されているとのことだ。
深大寺鐘楼と平成梵鐘
深大寺鐘楼と平成梵鐘
深大寺sanpoさんの画像を借用
平成新鐘
平成新鐘
旧梵鐘(重要文化財)
旧梵鐘(重要文化財)
国蝶のオオムラサキ
深大寺ならば、国蝶のオオムラサキの飼育が可能なのではと着目され、飼育活動が続けられているそうだ。大きくなった蝶がこの金網に入れられていた。綺麗な青紫色ではないので、メスのほうを撮ったのかもしれない。もしくは反対側から見ると美しかったのかも。
国蝶のオオムラサキ
その他、気になった建物
本坊旧庫裡
深大寺本坊旧庫裡
書院
書院だと思うが…
深大寺書院
門前の様子
門前の様子_1
門前の様子_2

以上で今回の『神代植物公園と深大寺』シリーズは終了です。最後までご覧頂き有難う御座いました。

 

神代植物公園と深大寺(7)

深大寺(1)
「深大寺」の名称は、仏法を求めて天竺(インド)を旅した中国僧玄奘三蔵を守護したとされる神「深沙大王」(じんじゃだいおう)に因むと伝える。 天平5年(733年)満功上人が法相宗の寺院として開創したと伝える。859年、天台宗に改宗する。1646年と1865年に火災に遭っており、堂宇の大半を失っている。現在の本堂は大正年間の再建である。
本尊は本堂に安置の阿弥陀三尊像。東京都では浅草の浅草寺に次ぐ古刹である。


元三大師堂
深大寺にお参りに来る人のお目当ては、此処に安置されている慈恵大師(じえいだいし)〔元三大師(がんさんだいし)〕像を拝み、それと同時に諸々の祈願を行うことのようだ。像は2mにも及ぶ巨大なものであるが、秘仏の扱いとされ、通常は見ることは出来ない。今度見られるのは、2034年になる。
元三大師堂_1
元三大師堂_2
元三大師堂_3
慈恵大師(じえいだいし)〔元三大師(がんさんだいし)〕像を安置しているのが、この大師堂です。江戸時代の大師堂は、本堂の西南(新しい手水屋の在る辺り)に東向きに建っていましたが、幕末の火災で類焼したので、本堂西の崖地を削って造成した敷地に位置を移して再建されました。
被災直後の慶応三年(1867)に、本堂をさしおいて復興されたことは、厄除元三大師がいかに多くの信者を集めていたかを物語っています。また毎年3月に行なわれる元三大師祭(だるま市)を行なうために早々に復興されたとも考えられます。いずれにしてもこの元三大師堂は本堂とならび古来より深大寺の中心的役割を果たしていた建物であると言えます。
大きさはもとのお堂と同じくらいで、正面柱間(はしらま)は三間、側面四間、周囲に縁をめぐらしています。内部はもとは奥一間が仏壇で、その中央に、火災を免れた厨子に慈恵大師像が安置されていました。現在、天蓋風の荘厳(しょうごん)があるところが、もとの厨子のあった位置です。
昭和四十九年の改造では、内部を広くするために仏壇を後退させ、厨子の部分は堂の背後に突出する建物として新築しましたが、厨子の正面は江戸時代のものをそのまま用いています。また平成元年までの数回の改造増築で、両側の政所、縁の張り出しが行われました。
元三大師像は秘仏となっており平時に拝観することはできません。25年に一度、御開帳の行事が行なわれ一般にも公開されます。
2009年は元三慈恵大師良源の1025年目の御遠忌にあたりました。50年に一度の大遠忌の半分(25年)は中開帳といわれ、深大寺では御開帳の行事が行なわれました。次は大遠忌で2034年になります。


おびんづる様
本堂の左に元三大師堂がある。その一番前の目立つ位置に賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)の像があった。どうも、いろいろな寺院におびんづる様があるようだ。謂われはご自分で調べていただくことにしたいが、善男善女に撫で回されて全身ツルツル状態。
私も負けずに頭、顔、腰、膝、…殆どくまなく撫でた感じ。

おびんづる様
釈迦堂
写真のとおりで、有難味にはやや欠ける感じだ。
釈迦堂
重要文化財の「銅造釈迦如来倚像(白鳳仏)」を安置する堂宇として昭和51年に新築されたのが、この釈迦堂。大切な仏像を火災、盗難から守るため鉄筋コンクリート造りとし、湿気の多い土地であることを考慮して高床式に作られている。四本の円柱に支えられた屋根は方形造り、銅板葺きと言われるもので、頂部に露盤・宝珠をすえている。

銅造釈迦如来倚像(重要文化財)
この像がどういうふうに扱われ、どうして再発見に至ったのか、ちょっとしたミステリーだ。
ガラスに押し当てて撮るべきだった
銅造釈迦如来倚像(重要文化財)_1
深大寺sanpoさんの画像を借用
銅造釈迦如来倚像(重要文化財)_2

1909年(明治42年)に元三大師堂の壇の下から発見されたもので、現在は釈迦堂安置。白鳳時代の作。関東地方には数少ない白鳳時代の仏像であり、顔立ち、流麗な衣文、若々しい青年を思わせる肉付けなどは、時代の特色を表している。倚像(いぞう)は、椅子に腰掛けたポーズの像を指す。日本の仏像では倚像は比較的珍しいが、白鳳時代の金銅仏にはまま見かける。
 ++++++++++++++++++++++++++++++
深大寺の分限帳(1841年)、明細帳(1898年)に銅仏の記載があり、深大寺の火災(1865年)後、本堂より先に再建された大師堂に置かれていたようです。しかし、これより先のいわれは不明で、近くの祇園寺にあったという言い伝えもあり、謎の部分が残されています。

 

神代植物公園と深大寺(6)

神代植物公園(6)
大温室内のベゴニア園
ベゴニアとは、シュウカイドウ科シュウカイドウ属に属する植物の総称らしい。いろいろ見せられると、ベゴニアって何が特徴かよくわからなくなる。
花の表示がなかったので、そのまま見ていただきたい。
ベゴニア_1
ベゴニア_2
ベゴニア_3
ベゴニア_4
ベゴニア_5
ベゴニア_6
ベゴニア_7
ベゴニア_8
ベゴニア_9
ベゴニア_10
ベゴニア_11
画像が90度ずれていたので修正 2013.07.2923:52
ベゴニア_12
ベゴニア_13
ベゴニア_14
ベゴニア_15
ベゴニア_16
ベゴニア_17
ベゴニア_18
ベゴニア_19
ベゴニア_20

 

例のビルにいる鳥

このビルに居た猛禽類だが、道路からではなかなか全体像が見えない。近寄って手を伸ばしてシャッターを押してみたが、葉っぱしか写っていなかった。残念。ノスリだろうか?あまり大きな図体ではない。
実はこの鳥さんの赤茶色のビロードのような羽根が気になって仕方が無い。触り心地がよさそうな感じで触ってみたいものだが、そんなことが許されるわけもないだろうし、危険なことだろう。
例のビルを覆う緑
例のビルに実ったゴーヤ
例のビルにいる鳥_1
例のビルにいる鳥_2

 

高校野球神奈川大会準々決勝第3試合…慶應義塾vs桐蔭学園

慶応義塾投手陣の乱調と守備の乱れが思いがけない大差になり、コールドゲームにつながった。
1回表1死満塁の好機に桐蔭先発の斎藤に後続を封じ込められたのがケチのつき始め。その裏、慶応先発の1年生高橋伶介(尾張旭市立東中)の投球が注目されたが、ボールが圧倒的に多い最悪の立ち上がり。苦し紛れの投球をねらわれた。2死後連打で1・2塁に。そこで、斎藤に走者一掃3塁打を喫した。これで、試合が決まったようなものだった。更に安打が続き、計3失点。
しかし、2回以降は1回途中から救援した亀井倫太朗(大森第六中)が立ち直りの気配を見せ、試合はそのまま進んだ。
4回表に慶応が1死満塁からダブルプレー崩れで1点を返し、今後の巻き返しが期待された。実際、斎藤もかなりアップアップの状態で、そういう雰囲気ができかけていた。
しかし、その裏、今度はそれまで平常心で投げていた亀井が力む。やっとの思いで攻撃終了の2塁ゴロに仕留めたかと思った瞬間、1塁に悪送球、本塁への送球も暴投となり、…。これで勝負は完全に決まった。

慶応は来年さらなる上位を目指すためには、投手の育成が喫緊の課題だろう。それと守備力の強化。道は険しそうに見えた。

慶應義塾のチアガールたち
ちょっと離れたところからは可愛く見えた
慶應義塾のチアガールたち_1
慶應義塾のチアガールたち_2
慶應義塾のチアガールたち_3
慶應義塾のチアガールたち_4
慶應義塾のチアガールたち_5
慶應義塾のチアガールたち_6
慶応のリラックス術
選手をリラックスさせるべく行なっているのだろうが、この試合に限ってはその甲斐がなかったようだ
慶応のリラックス術_1
慶応のリラックス術_2
慶応のリラックス術_3
桐蔭のリラックス術
反対にサイボーグ・パフォーマンスで脅かされる始末
桐蔭のリラックス術_1
桐蔭のリラックス術_2
桐蔭のリラックス術_3
TVKのインタビュー
TVKのインタビューを受けている野球部員父兄。インタビュアーがかなりの美人に見えた。
TVKのインタビュー_1
TVKのインタビュー_2
TVKのインタビュー_3
桐蔭の守備練習
土屋監督も勇退だとか
桐蔭の守備練習_1
桐蔭の守備練習_2
桐蔭の守備練習_3
慶応の守備練習
慶応の守備練習_1
慶応の守備練習_2
監督の指示を聞く慶応ナイン
監督の指示を聞く慶応ナイン
慶応先発高橋投手の投球練習
慶応先発高橋投手の投球練習_1
慶応先発高橋投手の投球練習_2
慶応先発高橋投手の投球練習_3
慶応先発高橋投手の投球練習_4
慶応先発高橋投手の投球練習_5
桐蔭先発斎藤の投球フォーム
なかなか威力のある投球で、何よりもスタミナがある感じだった。また、彼はバッティングも非凡なものがあった。
桐蔭先発斎藤の投球フォーム_1
桐蔭先発斎藤の投球フォーム_2
桐蔭先発斎藤の投球フォーム_3
桐蔭先発斎藤の投球フォーム_4
桐蔭先発斎藤の投球フォーム_5
先頭打者小原のクリーンヒット
先頭打者小原のクリーンヒット_1
先頭打者小原のクリーンヒット_2
先頭打者小原のクリーンヒット_3
先頭打者小原のクリーンヒット_4
先頭打者小原のクリーンヒット_5
慶応先発高橋の投球フォーム
ボールばかりの最悪の投球。1回もたずに降板。桐蔭打線の迫力に呑まれてしまったのだろうか?
慶応先発高橋の投球フォーム_1
慶応先発高橋の投球フォーム_2
慶応先発高橋の投球フォーム_3
慶応先発高橋の投球フォーム_4
慶応先発高橋の投球フォーム_5
慶応先発高橋の投球フォーム_6
慶応先発高橋の投球フォーム_7
慶応先発高橋の投球フォーム_8
慶応先発高橋の投球フォーム_9
1回途中からリリーフの亀井
2-3回を抑えこんだが、4回に味方が1点取り返した後に、力み過ぎの投球で自滅。
1回途中からリリーフの亀井_1
1回途中からリリーフの亀井_2
1回途中からリリーフの亀井_3
1回途中からリリーフの亀井_4

 

高校野球神奈川大会準々決勝第2試合…桐光学園vs横浜

怪物松井くんの夏はここまでだった

桐光学園は、昨夏の全国選手権で1試合22奪三振の大会新記録をつくった松井裕樹投手が準々決勝第2試合に登板。準々決勝は6回戦に相当し、シード校なので実際は5試合目だが、彼自身は3試合目の先発登板。エース温存策が裏目に出たのかもしれない。何となく、調子が上がらない感じを受けたからだ。
春の県大会で13三振を奪って完封した横浜高校が相手だ。絶対勝てる相手だと舐めて掛かっていた奢りが桐光学園の選手たちの心にあったのかもしれない。片や、打倒松井に執念を燃やす横浜。相当に松井を研究して臨んだに違いない。

桐光学園は1回表、坂本の中前適時打で1点を先取した。しかし、ボーンヘッドが響き、1点にとどまってしまう。ここが勝負の分かれ目だったかもしれない。
横浜は4回裏、高浜が松井から中越えに本塁打を放ち、同点に追いついた。この辺から桐光学園が押している感じはなくなり、完全なイーブンペースに。
桐光学園は7回表、大嶋の右翼への本塁打でまたもや勝ち越す。これで、勝負があったと思った。
しかし7回裏、松井がぴりっとしない。浅間の右越え2点本塁打を許し、2-3と逆転された。
8回、先頭打者の松井が3塁打を放つが、この絶好に同点機に追加点を奪えない。勝負はここまでだった。

横浜の試合前練習
横浜の試合前練習_1
横浜の試合前練習_2
スタンドへ挨拶
スタンドへ挨拶_1
スタンドへ挨拶_2
松井の投球練習
松井の投球練習
伊藤の投球フォーム
威圧感などは無さそうだが、大きな失点を許さずに通したのだから、好投したと評価すべきだろう。
伊藤の投球フォーム_1
伊藤の投球フォーム_2
伊藤の投球フォーム_3
伊藤の投球フォーム_4
伊藤の投球フォーム_5
伊藤の投球フォーム_6
伊藤の投球フォーム_7
伊藤の投球フォーム_8
伊藤の投球フォーム_9
伊藤の投球フォーム_10
伊藤の投球フォーム_11
伊藤の投球フォーム_12
伊藤の投球フォーム_13
最初は桐光学園が優勢だった
最初は桐光学園が優勢だった_1
最初は桐光学園が優勢だった_2
松井の投球フォーム
今回、敗れはしたがあっぱれなピッチングだったと思う。もう少しコントロールを磨いて、狙い球を絞らせないようにしたいものだ。
松井の投球フォーム_1
松井の投球フォーム_2
松井の投球フォーム_3
松井の投球フォーム_4
松井の投球フォーム_5
松井の投球フォーム_6
松井の投球フォーム_7
松井の投球フォーム_8
大嶋、本塁打を放つ
大嶋、本塁打を放つ_1
大嶋、本塁打を放つ_2
松井、浅間に本塁打を浴びる
本塁打のシーンは前の座席のバカ男がビールを注文するのに突然立ち上がったため、撮ることが出来なかった。
松井、浅間に本塁打を浴びる_1
松井、浅間に本塁打を浴びる_2
松井、3塁打を放つ
松井、3塁打を放つ_1
松井、3塁打を放つ_2

 

神代植物公園と深大寺(5)

神代植物公園(5)
大温室内の睡蓮
標識は手すりにぶら下げてあり、どれを指すかは必ずしも明確ではない。もしかしたら、関連付けの間違いがあるかもしれない。
間違いがあった場合はご指摘いただきたい。

アメリカン・ビューティー
アメリカン・ビューティー
ミセスGHプリング
ミセスGHプリング
トレイルブレイザー
トレイルブレイザー
エンチャントメント
エンチャントメント
イブリン・ランディング
イブリン・ランディング
コロラータ
コロラータ
ゼネラルバーシング
ゼネラルバーシング
グリーンスモーク
グリーンスモーク
アルバートグリーンバーグ
アルバートグリーンバーグ
ギガンティア
ギガンティア

 

円融寺

何度か取り上げた円融寺をまたもや取上げる。前にも触れたが、あまりに激しく時局批判を展開したため、幕府に睨まれ、日蓮宗を止めさせられ、天台宗の末寺に降格させられた過去を持つ。それくらいだから、大した影響力を持ったお寺さんだったようだ。

古めかしい石碑
奉大日本六十六部廻国大願成就
宝暦十四年申五月供養
武州高輪町住人…
とある。1764年、甲申の年か。250年程前の石碑だ。六十六部廻国巡礼が成った感謝の印か。250年程前は品川駅前も武州に括られた街だったんだ。
古めかしい石碑
仁王門越しの釈迦堂
少し腰をかがめてみると、仁王門越しに釈迦堂が見える。なかなか良い眺めだ。
仁王門越しの釈迦堂
仁王門(目黒区指定文化財)
仁王門
参道から階段を登ると、目の前に仁王門があらわれます。仁王門は檜と欅を用いた簡素な構成ながらも、唐風に和風を取り入れ、虹梁、蟇股、懸魚などにも様々な装飾が加えられています。
建立時期ははっきり分かりませんが、永禄2年(1559年)に仁王像が作成されるのとほぼ同時期と考えられます。ただし江戸時代の寛文期(1661-1672)と永禄期(1688-1703)の間に大改修が行なわれたため、足利時代の面影はほとんど残っていないと思われます。茅葺きだった屋根は、2007年に銅葺きに改められました。

黒仁王尊(東京都指定文化財)
風防ガラスが邪魔をして、見えるもののうまく写真が撮れない。もしかしたら、風防ガラスにレンズを接触させれば、うまく撮れるかなあ?
黒仁王尊

仁王門の両脇間に安置される木造金剛力士立像は、永禄2年(1559)に鎌倉扇ヶ谷(おうぎがやつ)の権大僧都大蔵法眼によって作られました。
この仁王尊は霊験あらたかなことから江戸時代の庶民の篤い信仰をあつめ、「碑文谷仁王」「黒仁王」など呼ばれて親しまれました。江戸後期の資料によると、行楽をかねて泊りがけで参詣する人や、お堂に篭って断食して祈願する信者もあったようで、当時の繁栄ぶりがうかがえます。

釈迦堂(国指定重要文化財)
釈迦堂_1
釈迦堂_2
釈迦堂_3
仁王門をくぐると正面に、入母屋造りのたおやかな曲線を描いく屋根をもつ釈迦堂が見えます。室町初期の建立とされ、東京都区内最古の木造建築として知られています(都内では東村山市の国宝・正福寺地蔵堂に次いで2番目)。明治44年(1911年)に国の古社寺保存法により国宝に指定され、昭和25年(1950年)に国の重要文化財に指定されました。本来の屋根は茅葺きでしたが、火災予防の見地から昭和27年(1952年)に銅葺きに改められました。しかし、唐様建築の手法に和様を取り入れた優美なすがたは今日もなお残されています。
梵鐘(国指定重要美術品)
梵鐘_1
梵鐘_2
鋳造は寛永20年(1643年)9月、作者は山城国の飯田善兵衛宗次です。高さ151センチ・口径91センチです。昭和十八年(1943年)に、国の重要美術品に指定されています。
大晦日には除夜の鐘を打つ参拝客でにぎわいます。

 

神代植物公園と深大寺(4)

神代植物公園(4)
薔薇園(2)

前回の続きで個々の薔薇を見ていく

かがやき  1970年作出 日本 HT
風変わりな感じの薔薇だ
かがやき  1970年作出 日本 HT
栄光  1978年作出 日本 HT
日本人もこういう洒落た感じの花を作出できるのか。う~~ん
栄光  1978年作出 日本 HT
ルビー・リップス  1958年作出 米国 F
作出当時の米国人の使用する口紅はこんな色合いだったのだろうか?
ルビー・リップス  1958年作出 米国 F
レッド・デビル  1970年作出 米国 HT
そんなにも妖しい光を帯びた品種と見たのだろうか
レッド・デビル  1970年作出 米国 HT
パパ・メイアン  1963年作出 フランス HT
そういう名の教皇が居たのかと思ったが、そうではなかったようだ。
パパ・メイアン  1963年作出 フランス HT
World Federation of Rose Society(世界連合バラ協会)の殿堂入りを果たしているハイブリッドティーローズです。
同協会では、3年に1回、殿堂入り品種の審議を行っており、2003年までに11種が選出されています。この品種は、1988年に6番目の殿堂入り品種として選出されました。
パパメイアンは、作出者の祖父にあたるアントワーヌ・メイアン氏の愛称であり、一家を支えてきた祖父に対する尊敬の念と感謝の気持ちを込めて命名されたものです。

フレンチ・レース  1980年作出 米国 F
フランスのレースのイメージなのか。なるほど言われてみると、そういうふうにも見えなくもない感じだ。
フレンチ・レース  1980年作出 米国 F
サン・フレーア  1982年作出 米国 F
フランスの明るさが表現されている感じだ
サン・フレーア  1982年作出 米国 F
夕霧  1987年作出 日本 HT
確かに綺麗な花だ。夕霧のイメージはこういうものなのか。
夕霧  1987年作出 日本 HT
乾杯  1983年作出 日本 HT
日本人もやるものだ。他国品種に負けないほどの強烈さだ。
乾杯  1983年作出 日本 HT
洒落た四阿と中央部の噴水
この公園は英語表記はJindai Botanical Parkというのか。
洒落た四阿と中央部の噴水_1
洒落た四阿と中央部の噴水_2
洒落た四阿と中央部の噴水_3
洒落た四阿と中央部の噴水_4

 

高校野球神奈川大会4回戦…淵野辺vs慶應義塾

5回コールドゲーム14:1で慶應義塾が圧勝

戦力等から考えて、慶應義塾が勝利することは間違いがないと思われたが、これほどまで一方的な試合展開になるとは思っていなかった。
今大会有力校は4回戦では主力温存を図っているのが特徴のようだ。慶應義塾も同様のようで、今回の先発田村君は背番号15(慶應義塾中等部)だった。スタンドから見た限りではそんなに良い出来だとは思わなかったが、ちょっと試合がだれた4回に四球と3塁打とで1点を失っただけなので、まずまずだったのかもしれない。

慶應義塾先発田村君_1
慶應義塾先発田村君_2
慶應義塾先発田村君_3
このシーンばかり。淵野辺高校には気の毒な限りだが、試合なのだから手抜きや同情は禁物だ。
得点シーン_1
得点シーン_2
得点シーン_3
慶應義塾女子高校のチアリーディングも応援に花を添えた
慶應義塾女子高校のチアリーディング_1
慶應義塾女子高校のチアリーディング_2
慶應義塾女子高校のチアリーディング_3
慶應義塾女子高校のチアリーディング_4
エールの交換
エールの交換_1
エールの交換_2
ブラスバンドの指揮者
ブラスバンドの指揮者
慶應義塾の打撃
慶應義塾の打撃_1
慶應義塾の打撃_2
斯くして試合終了
斯くして試合終了_1
斯くして試合終了_2

5回戦は、本日(7/22)午後、平塚球場で武相高校との対戦だ。シード校同士の対戦に突入することになる。

 

高校野球神奈川大会4回戦…綾瀬西vs桐光学園

昨夏、神奈川県大会でも甲子園でも大活躍し、その殆ど全てを一人で投げ抜いた桐光学園の松井裕樹投手。彼の投球ぶりを見たくて、横浜スタジアムに足を運んだ。残念ながら、主力温存策でバッテリー共に控え選手を起用。超高校級といわれる松井君の投球は見ることが出来なかった。野手ももしかしたら控え中心の起用だったのかもしれない。
守備練習でお手伝い役をする松井君
守備練習でお手伝い役をする松井君
軽く肩慣らしをする松井君
軽く肩慣らしをする松井君_1
軽く肩慣らしをする松井君_2
軽く肩慣らしをする松井君_3
円陣を組む桐光学園ナイン…大型選手ばかり。後ろ姿は早稲田大学の選手のようだ。
円陣を組む桐光学園ナイン
桐光学園の先発恩地は、立ち上がりが良くなく、2安打2失点の危ない立ち上がり。綾瀬西がもう少し一気呵成に攻め立てれば、ビッグイニングになっていたかもしれない。しかし、1回の裏に早くも同点にされ、試合は完全の桐光学園ペースに。
綾瀬西は形としては自滅したような形になったが、力の差の大きさを感じて相当なプレッシャがかかったのだろう。

初回いきなりピンチを迎える桐光学園
初回いきなりピンチを迎える桐光学園_1
初回いきなりピンチを迎える桐光学園_2
すぐに余裕で追いつく
すぐに余裕で追いつく
さらに逆転
さらに逆転
浮かない表情の綾瀬西の応援席
浮かない表情の綾瀬西の応援席
結局松井君は2回戦で相洋を相手に危ない投球を披露しただけ。口直しの投球を披露すること無く、他の投手で3・4回戦を切り抜けた。これから対戦相手のグレードが上がっていく中で大丈夫なのだろうか?肩慣らし程度のピッチングを見た限りでは、どこか故障が起きているようには見えなかったが。
終わってみれば、8回9X-2のコールドゲームで桐光学園が大勝。
終わってみれば、8回9X-2のコールドゲーム_1
終わってみれば、8回9X-2のコールドゲーム_2

 

妻との久しぶりの夕食

外食することはときどきあるが、いつもはコブ付きの外食になることが多い。久しぶりに妻と2人だけのささやかな外食を楽しんだ。
子どもたちが幼かった頃の話、最近の孫たちの様子など、他愛のない話をしながら、イタリアンを楽しんだ。
思いの外ボリュームが有り、最後はちょっと腹が膨満してしまった。知人が見たら外見は変化なしと言うだろうが。

妻との久しぶりの夕食_1
妻との久しぶりの夕食_2
妻との久しぶりの夕食_3
妻との久しぶりの夕食_4
この辺りで先客が帰り、大雨の日で次の客が来る様子もなく、店を借りきったような状態になった。内緒話など必要ないのだが、まったりとした時間が。
下の鍋だけは2人分。

妻との久しぶりの夕食_5
妻との久しぶりの夕食_6
妻との久しぶりの夕食_7

 

神代植物公園と深大寺(3)

神代植物公園(3)
牡丹園を後にして、薔薇園へと進む。イメージ的には、ヴェルサイユ宮殿の庭園を彷彿とさせる。なかなか見事な佇まいだ。
薔薇園(1)
シンメトリックに設計された沈床式庭園に植えれたバラ(春バラは409品種5,200余本、秋バラは約300品種5,000余本)の花期は年2回。春は5月下旬の頃が盛りで、秋は10月中旬からです。秋の花は小ぶりですが、色彩が鮮明です。
薔薇園(1)_1
薔薇園(1)_2
薔薇園(1)_3

個々の花を見ていこう。今回はあまり目にしないような品種を中心にセレクトして取上げることにした。

ジナ・ロロブリジタ…1997作出 フランス HT
多分往年の名女優ジーナ・ロロブリジーダをイメージした薔薇なんだろう。奔放なイタリア人女優のイメージは鮮やかな黄色だったか。
ジナ・ロロブリジタ
ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ…1998作出 アメリカ HT
ダイアナ妃が一番綺麗だった結婚直後のイメージなのだろう。
ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ
希望…1986作出 日本 HT
日本の関係者はこういうシンプルなものが好きなようだ
希望
カトリーヌ・ドゥヌーブ…1981作出 フランス HT
フランスの関係者は女優のイメージがお好きなようだ。
カトリーヌ・ドゥヌーブ
チャイコフスキー…2000作出 フランス S
チャイコフスキーはなぜクリームがかった白なんだろうか。
チャイコフスキー_1
チャイコフスキー_2
プリンセス・チチブ…1971作出 イギリス F
これも英国伝統なのかな。
プリンセス・チチブ
緑光…1999作出 日本 F
幻想的な緑白色の見事な作品だ。何枚も撮ったが、1枚も成功しなかった。実物は相当に素晴らしいのだが。
緑光

 

恵比寿西の小道にて 2013.07.17 19:23追記

恵比寿西といってもお分かりにならない方が殆どだろう。場所的にはJR恵比寿駅よりも東横線代官山駅に程近いところである。
私が時々通る小道である。用事のない人は通らなさそうな小道だが、なかなかどうして、レベルが高そうに見える。何気ない感じなのだが、かなりおしゃれな装いになっている。スタジオジブリの人が見たら喜びそうな道だ。

恵比寿西の小道にて_1
恵比寿西の小道にて_2
恵比寿西の小道にて_3
恵比寿西の小道にて_4
実はこの中に猛禽類と思われる鳥が居る。この日は生憎見かけず残念。一週間後通りかかったら居た。
恵比寿西の小道にて_5
猛禽類のペットかな
同じ道を折り返してみた
恵比寿西の小道にて_6
恵比寿西の小道にて_7
恵比寿西の小道にて_8
恵比寿西の小道にて_9
恵比寿西の小道にて_10
恵比寿西の小道にて_11
恵比寿西の小道にて_12
恵比寿西の小道にて_13

 

神代植物公園と深大寺(2)

神代植物公園(2)
ダリア園(2)

プリティー由果
ダリア園(2)_1
ジャネット
ダリア園(2)_2
月見草
ダリア園(2)_3
ダリア園(2)_4
バードジャートゥインクル
ダリア園(2)_5
ダリア園(2)_6
チェッカーズ
ダリア園(2)_7
アリス
ダリア園(2)_8
桃華
ダリア園(2)_9
祝花
ダリア園(2)_10
ダリア園(2)_11
さらさ
ダリア園(2)_12
ダリア園(2)_12
イエスタデイ
ダリア園(2)_13

 

神代植物公園と深大寺(1)

深大寺には行ったことがあるものの大分以前のことになるし、神代植物公園に至っては一度も行ったことがなかった。
たまには行ってみるのも悪く無いだろうと思い、端境期かもしれないと思いつつ、足を運んだ。


神代植物公園(1)
ダリア園(1)
ぼたん園には、牡丹や芍薬が植えられているが、残念ながら花の時期は終わっていた。その代わり近くのダリア園にダリアの花が見事に咲いていた。ダリアの花はかなり派手な印象を与えるので、人によって好き好きがあるだろう。この先、何も撮るものがない恐れも否定できなかったので、とりあえず撮ってみた。

ダイヤモンドダスト
ダリア園(1)_1
ダリア園(1)_2
南氷洋
ダリア園(1)_3
ダリア園(1)_4
シンドバッド
ダリア園(1)_5
雪乃
ダリア園(1)_6
アンティークロマン
ダリア園(1)_7
ボサノバ
ダリア園(1)_8
ダリア園(1)_9
舞蛍
ダリア園(1)_10
ゴールドラッシュ
ダリア園(1)_11
エンジェルヒップ
ダリア園(1)_12
ファンタジー
ダリア園(1)_13
花鈴
ダリア園(1)_14
スノーガーデン
ダリア園(1)_15
ルビー
ダリア園(1)_16
ルンルン
ダリア園(1)_17

 

横浜山手西洋館ほかを見て回る(11)

アメリカ山公園
横浜港開港150周年を記念して、非常に気持ちのよい空間が新たに創造された。文句なしに素晴らしく、まったりと落ち着ける。
非常に便利なことにここからみなとみらい線の元町・中華街駅改札口までエレベータで行き来できる。

アメリカ山公園_1
アメリカ山公園_2
アメリカ山公園_3
アメリカ山公園_4
アメリカ山公園_5
アメリカ山公園_6
アメリカ山公園_7
アメリカ山公園_8
アメリカ山公園_9
アメリカ山公園_10
アメリカ山公園_11
アメリカ山公園_12
アメリカ山公園_13
アメリカ山公園_14
アメリカ山公園_15
アメリカ山公園_16
アメリカ山公園_17
アメリカ山公園_18
アメリカ山公園_19
アメリカ山公園_20
アメリカ山公園_21
アメリカ山公園_22
アメリカ山公園_23
アメリカ山公園(アメリカやまこうえん)は、横浜市中区の横浜外国人墓地の北側の斜面とみなとみらい線の元町・中華街駅舎上部(東側改札口および元町口)とを一体的に整備した全国初の立体都市公園である。横浜市が開港150周年となる2009年(平成21年)8月7日に一部開園した。公園面積は約0.6ha。
    :
屋上庭園はビルの5階程度の高さであるが、マリンタワー、ベイブリッジ、横浜ランドマークタワー等を望む事ができる。遊具は無いが草木や芝生・ベンチが整備されており、お祭りやフリーマーケットが時折り開催されている。


以上で、『横浜山手西洋館ほかを見て回る』シリーズは終了です。最後までお付き合いいただきありがとうございました。

 

横浜山手西洋館ほかを見て回る(10) 2013.07.16画像追加

山手外国人墓地
基本的には何もコメントを入れず、画像のみをUPしていく。
ただ一言。日本の近代化に尽力してくれた外国人たちの魂よ、安らかに眠れ。
山手外国人墓地_1
山手外国人墓地_2
山手外国人墓地_3
山手外国人墓地_3_2

山手外国人墓地_4
St.ジョセフ廃校に伴い捧げられた記念のマリア像
St.ジョセフ廃校に伴い捧げられた記念のマリア像_1
St.ジョセフ廃校に伴い捧げられた記念のマリア像_2
マイヨ教授の墓。漢字の墓標が建てられるとは、弟子の日本人たちによほど尊敬されていた人物なのだろう。
マイヨ教授の墓_1
マイヨ教授の墓_2
オネイダ号記念碑
オネイダ号記念碑
山手外国人墓地_5
山手外国人墓地_6
山手外国人墓地_7
通りから少し背伸びすれば見える墓
通りから少し背伸びすれば見える墓
エドモンド・モレルの墓
エドモンド・モレルの墓_1
エドモンド・モレルの墓_2
エドモンド・モレルの墓_3
エドモンド・モレルの墓_4
昭和37年当時の国鉄総裁十河信二氏揮毫の墓誌
昭和37年当時の国鉄総裁十河信二氏揮毫の墓誌
E・モリスの墓…こういう目端の利く人物もいたようだ
E・モリスの墓_1
E・モリスの墓_2
Henrietta Caroline Sperryの墓
墓碑には、Henrietta Caroline Sperry The beloved wife of the Robert Samuel Maclayと記されていた。

1879年に横浜山手でキリスト教神学を教授する「美會神学校」を設立し、日本人伝道者の養成を目指した。なお美會神学校の設立の際には、ジョン・F・ガウチャーからの多額寄付があった。1883年、美會神学校は東京英学校と合併して東京英和学校(現青山学院)となり、同氏は初代総理(現在の院長職)に就任し、1887年に帰米するまでその職にあった。
Henrietta Caroline Sperryの墓
ブラウン夫妻の墓…こちらは横浜の人には有名なミッションスクール捜真学院と関東学院2校の創始者夫妻の墓だ。ネイサン・ブラウン師は日本初の新約聖書全訳を行った人物だったのか。
ブラウン夫妻の墓_1
ブラウン夫妻の墓_2

横浜外国人墓地(よこはまがいこくじんぼち、単に外人墓地とも)は神奈川県横浜市中区山手にある外国人墓地。また、それを管理する財団法人。なお、横浜市には他に3か所外国人墓地が存在する。
19世紀から20世紀半ばにかけての40ヶ国余、4400人余りの外国人が葬られている。1854年(嘉永7年)に、横浜港に寄港していたアメリカ海軍の水兵ロバート・ウィリアム(24歳)がフリゲート「ミシシッピ」のマスト上から誤って転落死したため、海の見えるところに墓地を設置して欲しいというペリーの意向を受け横浜村の増徳院の境内の一部に設置されたことに由来する。その後も外国人死者がその付近に葬られ、1861年(文久元年)に外国人専用の墓地が定められた。
基本的に内部は非公開であるが、3月から12月までの土曜日、日曜日と祝日は公開されている。また埋葬されている人々の業績を紹介する資料館を併設している。キリスト教形式の墓石が多いため意外に思われることが多いが、元々は、現在の元町にあった真言宗準別格本山増徳院の境内墓地であった。平成の初期まで、当地では増徳院による供養も行われていた。

 

横浜山手西洋館ほかを見て回る(9)

道筋にある目立ったものを撮ってみた。

カトリック山手教会
カトリック横浜司教区は神奈川県(45)、静岡県(22)、長野県(17)、山梨県(5)を担当している《括弧内の数字は教会の数》。その司教が詰めている教会を日本式にはカテドラルと呼ぶが、横浜司教区の場合は、この山手教会である。
カトリック山手教会_1
カトリック山手教会_2
カトリック山手教会_3
カトリック山手教会_4
カトリック山手教会_5
神奈川県横浜市にあるカトリックの教会。英語名はSacred Heart Cathedral(聖心大聖堂)。カトリック横浜司教区のカテドラル=司教座聖堂=大聖堂である。
現在の山下町にあった横浜天主堂が移転し、1906年現在地に創建。1923年の関東大震災で倒壊した。ヤン・ヨセフ・スワガーの設計により1933年に再建され、現在に至る。併設施設として横浜みこころ幼稚園がある。


フェリス女学院中高の庭の海紅豆
名門女子校の庭木を撮るのはちょっと勇気が必要だった。
フェリス女学院中高の庭の海紅豆_1
フェリス女学院中高の庭の海紅豆_2
フェリス女学院中高の庭の海紅豆_3

ブラフ46
個人の持ち家のようだが、外から見た感じは最高。フェリス女学院中高の真ん前にある。将来、横浜市が取得して公開されないものかと思うのだが、…。
ブラフ46_1
ブラフ46_2
ブラフ46_3
ブラフ46_4

山手聖公会
こちらは、日本聖公会の教会堂。放火などの被害にもあった。
山手聖公会_1
山手聖公会_2
山手聖公会_3
横浜山手聖公会(Yokohama Christ Church on the Bluff)は、神奈川県横浜市中区にある日本聖公会の教会堂である。日本聖公会横浜教区(主教座聖堂は同市神奈川区の横浜聖アンデレ主教座聖堂)に属する教会で、ノルマン様式の聖堂をもつ。

山手資料館
山手資料館_1
山手資料館_2
山手資料館_3
山手資料館_4
山手資料館_5
山手資料館_6
本物のガス灯で、昼間だからわからないかもしれないが、点灯している。
山手資料館_7
山手資料館_8
山手資料館_9
明治42年に建てられた横浜市に残る唯一の木造西洋館を、昭和52年に勝烈庵創業50周年事業として外国人墓地前のレストラン山手十番館庭内に移築いたしました。

 

横浜山手西洋館ほかを見て回る(8)

ブラフ18番館
下記URLのジャンプ先に記載されているとおり、いろいろな歴史を刻んできた洋館だったようだ。そして最後の使用者は山手教会の司祭たち。一番地味だけど、明るい雰囲気があるように感じた。
ブラフ18番館_1
ブラフ18番館_2
ブラフ18番館_3
ブラフ18番館_4
ブラフ18番館_5
ブラフ18番館_6
ブラフ18番館_7
ブラフ18番館_8
ブラフ18番館_9
ブラフ18番館_12
ブラフ18番館_11
ブラフ18番館_12
ブラフ18番館_13
ブラフ18番館_14
ブラフ18番館_15
ブラフ18番館_16
ブラフ18番館_17
ブラフ18番館_18
ブラフ18番館_19
ブラフ18番館_20
ブラフ18番館_21
ブラフ18番館_22
ブラフ18番館_23
ブラフ18番館_24
ブラフ18番館_25
イタリア山庭園の一郭に移築されたブラフ18番館は、関東大震災後に山手町45番地に建てられた外国人住宅です。戦後は天主公教横浜地区(現カトリック横浜司教区)の所有となり、カトリック山手教会の司祭館として平成3(1991)年まで使用されてきました。
建物は木造2階建てです。1、2階とも中廊下型の平面構成で、フランス瓦の屋根、暖炉の煙突、ベイウィンドウ、上げ下げ窓と鎧戸、南側のバルコニーとサンルームなど、震災前の外国人住宅の特徴を残しながら、外壁は震災の経験を生かし、防災を考慮したモルタル吹き付け仕上げとなっています。また、解体時の調査により、震災前に建築された山手45番地住宅の一部が震災による倒壊と火災を免れ、部材として利用されていることが判明しました。
平成3年に横浜市が部材の寄付を受け、山手イタリア山庭園内に移築復元しました。館内は震災復興期(大正末期~昭和初期)の外国人住宅の暮らしを再現し、元町で製作されていた当時の横浜家具を復元展示し、平成5(1993)年から一般公開されています。また、本館につながる付属棟は、貸し出しスペースとして市民に利用されています。


必ず目通しいただきたい。
ブラフ18番館を詳しく説明しているHPへjump


 

横浜山手西洋館ほかを見て回る(7)

外交官の家《国指定の重要文化財》(2)
ご覧のように外部から見ても内部から見ても立派な建物で、国から重要文化財の指定を受けるのにふさわしい風格を持った建物だと見た。但し、1つだけ物足りなかったのは、重量級の私が歩いたからかもしれないが、階段のステップ板や床板が少し音を立てることだ。もしかしたら、西洋建築に慣れていない大工が建てたのかもしれない。革靴で移動した時には案外大きな音がしていたのではなかろうか。
外交官の家《国指定の重要文化財》_2_1
外交官の家《国指定の重要文化財》_2_2
外交官の家《国指定の重要文化財》_2_3
外交官の家《国指定の重要文化財》_2_4
外交官の家《国指定の重要文化財》_2_5
外交官の家《国指定の重要文化財》_2_6
外交官の家《国指定の重要文化財》_2_7
外交官の家《国指定の重要文化財》_2_8
外交官の家《国指定の重要文化財》_2_9
外交官の家《国指定の重要文化財》_2_10
喫茶スペース
外交官の家《国指定の重要文化財》_喫茶スペース_1
外交官の家《国指定の重要文化財》_喫茶スペース_2
外交官の家《国指定の重要文化財》_喫茶スペース_3
イタリア山庭園
外交官の家《国指定の重要文化財》_イタリア山庭園_1
外交官の家《国指定の重要文化財》_イタリア山庭園_2
外交官の家《国指定の重要文化財》_イタリア山庭園_3
外交官の家《国指定の重要文化財》_イタリア山庭園_4
外交官の家《国指定の重要文化財》_イタリア山庭園_5
裏側から見た外交官の家
外交官の家《国指定の重要文化財》_裏側から見た外交官の家_1
外交官の家《国指定の重要文化財》_裏側から見た外交官の家_2
外交官の家《国指定の重要文化財》_裏側から見た外交官の家_3
外交官の家《国指定の重要文化財》_裏側から見た外交官の家_4
外交官の家《国指定の重要文化財》_裏側から見た外交官の家_5
外交官の家《国指定の重要文化財》_裏側から見た外交官の家_6
外交官の家《国指定の重要文化財》_裏側から見た外交官の家_7
外交官の家《国指定の重要文化財》_裏側から見た外交官の家_8
外交官の家《国指定の重要文化財》_裏側から見た外交官の家_9
外交官の家《国指定の重要文化財》_裏側から見た外交官の家_10

 

横浜山手西洋館ほかを見て回る(6)

少し離れたイタリア山庭園に向かう。ここには『外交官の家』と『ブラフ18番館』とがある。

外交官の家《国指定の重要文化財》(1)
この建物だけは他の横浜山手西洋館とかなり事情が異なる。まず、横浜山手に建てられた建物ではないということ。次に、西洋館ではあるが、建てて住んでいたのは、日本人であるということ。そういう意味では、いわゆる出自が違うのだが、細かいことは問うまい。
外交官の家《国指定の重要文化財》_1
外交官の家《国指定の重要文化財》_2
外交官の家《国指定の重要文化財》_3
外交官の家《国指定の重要文化財》_4
外交官の家《国指定の重要文化財》_5
外交官の家《国指定の重要文化財》_6
外交官の家《国指定の重要文化財》_7
外交官の家《国指定の重要文化財》_8
外交官の家《国指定の重要文化財》_9
外交官の家《国指定の重要文化財》_10


外交官の家《国指定の重要文化財》_11
外交官の家《国指定の重要文化財》_12
外交官の家《国指定の重要文化財》_13
外交官の家《国指定の重要文化財》_14
外交官の家《国指定の重要文化財》_15
外交官の家《国指定の重要文化財》_16
外交官の家《国指定の重要文化財》_17
外交官の家《国指定の重要文化財》_18
外交官の家《国指定の重要文化財》_19
外交官の家《国指定の重要文化財》_20
外交官の家は、ニューヨーク総領事やトルコ特命全権大使などをつとめた明治政府の外交官内田定槌氏の邸宅として、東京渋谷の南平台に明治43(1910)年に建てられました。
設計者はアメリカ人で立教学校の教師として来日、その後建築家として活躍したJ.M.ガーディナーです。建物は木造2階建てで塔屋がつき、天然スレート葺きの屋根、下見板張りの外壁で、華やかな装飾が特徴のアメリカン・ヴィクトリアンの影響を色濃く残しています。室内は1階に食堂や大小の客間など重厚な部屋が、2階には寝室や書斎など生活感あふれる部屋が並んでいます。これらの部屋の家具や装飾にはアール・ヌーボー風の意匠とともに、アーツ・アンド・クラフツ(19世紀イギリスで展開された美術工芸の改革運動)のアメリカにおける影響も見られます。
平成9(1997)年に横浜市は、内田定槌氏の孫にあたる宮入氏からこの館の寄贈を受け、山手イタリア山庭園に移築復元し、一般公開しました。そして同年、国の重要文化財に指定されました。室内は家具や調度類が再現され、当時の外交官の暮らしを体験できるようになっています。各展示室では、建物の特徴やガーディナーの作品、外交官の暮らし等についての資料を展示しています。また、付属棟には、喫茶スペースが設けられています。

 

横浜山手西洋館ほかを見て回る(5)

山手234番館
1棟としてはそこそこの大きさだが、そこを4戸で使うということになると、そう余裕がある感じではない。敷地全体もそれほど広くはないし、西洋館の代名詞のような前庭もない。ここを外国人向けの各戸3LDKの共同住宅としたようだが、当時の外国人には狭小の印象を持たれなかったのだろうか?関東大震災直後の住宅事情の良くなさで、何とか了解してもらったのだろうか。
前回撮影分
山手234番館_前回撮影分
今回撮影分
山手234番館_0
山手234番館_1
山手234番館_2
山手234番館_3
山手234番館_4
山手234番館_5
山手234番館_6
山手234番館_7
山手234番館_8
山手234番館_9
山手234番館_10
山手234番館_11
山手234番館_12
山手234番館_13
山手234番館_14
山手234番館_15
この空間は、採光のためにつくられたのだろうか?
山手234番館_16
エリスマン邸の斜め前、山手本通沿いに建つ山手234番館は、昭和2(1927)年頃外国人向けの共同住宅(アパートメントハウス)として、現在の敷地に民間業者によって建設されました。関東大震災により横浜を離れた外国人に戻ってもらうための復興事業の一つとして建てられ、設計者は、隣接する山手89-6番館(現えの木てい)と同じ朝香吉蔵です。
建設当時の施設は、4つの同一形式の住戸が、中央部分の玄関ポーチを挟んで対称的に向かい合い、上下に重なる構成をもっていました。3LDKの間取りは、合理的かつコンパクトにまとめられています。また、洋風住宅の標準的な要素である上げ下げ窓や鎧戸、煙突なども簡素な仕様で採用され、震災後の洋風住宅の意匠の典型といえます。
建築後、第2次世界大戦後の米軍による接収などを経て、昭和50年代頃までアパートメントとして使用されていましたが、平成元(1989)年に横浜市が歴史的景観の保全を目的に取得しました。平成9(1997)年から保全改修工事を行なうとともに、平成11(1999)年から一般公開しています。1階は再現された居間を中心に山手地区の洋館のパネル展示、2階は貸し出しスペースとして、ギャラリー展示や会議等にご利用いただけます。


えの木てい
午前11時開店なので、どうにも時間が合わなくて、恥ずかしながら入ったことがない。内部はなかなか豪華なんだそうだ。
かつて外国人居留地であった横浜山手には大正から昭和初期にかけて建てられたレトロな洋館が今でもあちらこちらに点在しています。
「えの木てい本店」もその洋館のひとつで、昭和2(1927)年日本人建築家朝香吉蔵氏が設計した英国式の洋館で当時を偲ばせる貴重な建築物としても知られています。元はアメリカン人検事が暮らしていましたが、昭和45(1970)年に現オーナーのご両親が自宅用に買い取りました。
歴史的建築物として有名なこの洋館には多くの人が撮影に訪れていました。もともとお菓子やお料理を作るのが大好きだった現オーナーのお母様は、時折そんな人々を招きいれて自家製のケーキとお茶でおもてなしをしていたのが始まりで、昭和54(1979)年、1階のリビングをカフェとしてオープンいたしました。店名は庭にある大きな榎から名づけられました。
木製の上げ下げ窓、冬は薪を焚く暖炉、150年以上も昔のアンティーク家具など、古き良き山手の雰囲気を漂わせるティールームでは、レアチーズケーキや英国風スコーンなどオープン以来のレシピをそのまま受け継ぐ人気メニューが今も健在です。

前回撮影分
えの木てい本店_前回撮影分
今回撮影分
えの木てい本店_今回撮影分_1
えの木てい本店_今回撮影分_2

 

横浜山手西洋館ほかを見て回る(4)

ベーリック・ホール
前回行ったときは、結婚式の真っ最中で、今回は結婚式の直前。なかなかタイミングが合わず、全館を見て歩くことが叶わない。
入れない部分の写真は撮ることが出来ない。雰囲気だけでも下記URLの写真で確認されたい。
もともと寄贈された建物とはいえ、マリア会は建物をよく横浜市に寄付したものだ。横浜市の話の持っていき方が、よほど巧みだったのだろうか。

べーリック・ホール(旧ベリック邸)_1
べーリック・ホール(旧ベリック邸)_2
べーリック・ホール(旧ベリック邸)_3
べーリック・ホール(旧ベリック邸)_4
べーリック・ホール(旧ベリック邸)_5
べーリック・ホール(旧ベリック邸)_6
べーリック・ホール(旧ベリック邸)_7
べーリック・ホール(旧ベリック邸)_8
べーリック・ホール(旧ベリック邸)_9
べーリック・ホール(旧ベリック邸)_10
べーリック・ホール(旧ベリック邸)_11
べーリック・ホール(旧ベリック邸)_12
べーリック・ホール(旧ベリック邸)_13
べーリック・ホール(旧ベリック邸)_14
べーリック・ホール(旧ベリック邸)は、イギリス人貿易商B.R.ベリック氏の邸宅として、昭和5(1930)年に設計されました。第二次世界大戦前まで住宅として使用された後、昭和31(1956)年に遺族より宗教法人カトリック・マリア会に寄付され、平成12(2000)年まで、セント・ジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎として使用されていました。
現存する戦前の山手外国人住宅の中では最大規模の建物で、設計したのはアメリカ人建築家J.H.モーガンです。モーガンは山手111番館や山手聖公会、根岸競馬場など数多くの建築を残しています。600坪の敷地に立つべーリック・ホールは、スパニッシュスタイルを基調とし、外観は玄関の3連アーチや、イスラム様式の流れをくむクワットレフォイルと呼ばれる小窓、瓦屋根をもつ煙突など多彩な装飾をつけています。内部も、広いリビングやパームルーム、和風の食堂、白と黒のタイル張りの床、玄関や階段のアイアンワーク、また子息の部屋の壁はフレスコ技法を用いて復元されているなど、建築学的にも価値のある建物です。
平成13(2001)年横浜市は、建物が所在する用地を元町公園の拡張区域として買収するとともに、建物については宗教法人カトリック・マリア会から寄付を受け、復元・改修等の工事を経て、平成14(2002)年から建物と庭園を公開しています。


ベーリックホールを詳しく説明しているHPへjump

 

横浜山手西洋館ほかを見て回る(3)

山手111番館を見学した後、道を引き返さず、諏訪町を下り、北方小前を右折して、ちょっと勾配のきつい坂を上り元町公園前に出た。目の前がエリスマン邸だ。この辺が山手でも一番人気の場所だろう。
エリスマン邸、ベーリックホール、山手234番館、えの木亭、横浜雙葉学園などが隣り合うように立地している。
時間が許すならば、館内にある喫茶室で暫し憩いの時を楽しむよう勧めたい。見晴らしが良くゆったりとした空間は、気持ちをリラックスさせてくれよう。


エリスマン邸
前回撮影分から
エリスマン邸_前回撮影分_1
エリスマン邸_前回撮影分_2
エリスマン邸_前回撮影分_3
エリスマン邸_前回撮影分_4
エリスマン邸_前回撮影分_5
エリスマン邸_前回撮影分_6
今回撮影分から
エリスマン邸_今回撮影分_1
エリスマン邸_今回撮影分_3
エリスマン邸_今回撮影分_4
エリスマン邸_今回撮影分_5
エリスマン邸_今回撮影分_6
エリスマン邸_今回撮影分_7
べーリック・ホールと小道を挟んで移築されているのはエリスマン邸です。
エリスマン邸は、生糸貿易商社シーベルヘグナー商会の横浜支配人として活躍した、スイス生まれのフリッツ・エリスマン氏の邸宅として、大正14(1925)年から15(1926)年にかけて山手町127番地に建てられました。設計は、「現代建築の父」といわれるチェコ出身の建築家アントニン・レーモンドです。
当時は木造2階建て、和館つきで建築面積は約81坪。屋根はスレート葺、階上は下見板張り、階下は竪羽目張りの白亜の洋館でした。煙突、ベランダ、屋根窓、上げ下げ窓、鎧戸といった異人館的要素をもちながら、軒の水平線の強調など、設計者レーモンドの師匠である世界的建築家F.L.ライトの影響も見られます。
昭和57(1982)年マンション建築のため解体されましたが、平成2(1990)年元町公園内の現在地(旧山手居留地81番地)に再現されました。1階には暖炉のある応接室、居間兼食堂、庭を眺めるサンルームなどがあり、簡潔なデザインを再現しています。椅子やテーブルなどの家具は、レーモンドが設計したものです。かつて3つの寝室があった2階は、写真や図面で山手の洋館に関する資料を展示しています。また、地下ホールは貸し出しスペースとして、昔の厨房部分は、喫茶コーナーとしてご利用いただけます。

 

横浜山手西洋館ほかを見て回る(2)

次に向かったのは、横浜市イギリス館のすぐとなりにある山手111番館。恥ずかしながら今回初めて内部を見学した。

山手111番館
外観はごく普通の洋館にしか見えないが、中に入ると贅を尽くした建物であることがよくわかった。
山手111番館_1
山手111番館_2
山手111番館_3
山手111番館_4
山手111番館_5
山手111番館_6
山手111番館_7
こちら側がバラ園側。階下は喫茶スペースになっているようだ。
山手111番館_8
山手111番館_9
山手111番館_10
山手111番館_11
山手111番館_12
山手111番館_13
山手111番館_14
二階部分は、公開日以外は立ち入れない。
山手111番館_15
こちらが前庭側
山手111番館_16
山手111番館_17
イギリス館の南側、噴水広場を挟んで立っているスパニッシュスタイルの洋館が、山手111番館です。
ワシン坂通りに面した広い芝生を前庭とし、ローズガーデンを見下ろす建物は、大正15(1926)年にアメリカ人ラフィン氏の住宅として現在地に設計されました。
設計者は、べーリック・ホールを設計したJ.H.モーガンです。玄関前の3連アーチが同じ意匠ですが、こちらは天井がなくパーゴラになっているため、異なる印象を与えています。大正9(1920)年に来日したモーガンは、横浜を中心に数多くの作品を残していますが、山手111番館は彼の代表作の一つと言えるでしょう。
赤い瓦屋根に白壁の建物は地階がコンクリート、地上が木造2階建ての寄棟作りです。
創建当時は、地階部分にガレージや使用人部屋、1階に吹き抜けのホール、厨房、食堂と居室、2階は海を見晴らす寝室と回廊、スリーピングポーチを配していました。
横浜市は、平成8(1996)年に敷地を取得し、建物の寄贈を受けて保存、改修工事をおこない平成11(1999)年から一般公開しています。館内は昭和初期の洋館を体験できるよう家具などを配し、設計者モーガンに関する展示等もおこなっています。現在、ローズガーデンから入る地階部分は、喫茶スペースとして利用されています。


この建物を詳しく説明しているHPへjump

 

横浜山手西洋館ほかを見て回る(1)

久しぶりに横浜山手西洋館を回ってみようと思い立った。
よく行くところと全く行ったことがなかったところがあった。今回はすべてを回る計画を立てた。
嬉しいことに横浜山手西洋館7館すべてで、入館料は全く徴収されない上に、写真も自由に撮って構わない扱いになっている。横浜市の観光にかける思いの程がよく分かる。

岩崎博物館(ゲーテ座記念)
開館してからかなり経つが、恥ずかしながらまだ入館したことがない。今回も先を急ぐのでパスした。此処は横浜市の運営ではないので、入館料が必要なようだ。
岩崎博物館(ゲーテ座記念)
この地は、1870(明治3)年に横浜居留地の68番地に建てられた「横浜本町通りゲーテ座」に替わり、フランス人建築家サルダの設計によって1885(明治18)年に建てられた「パブリックホール」の跡地です。当時の収容人員は350人だったそうです。
1908年(明治41年)11月に「ゲーテ座」と改名されました。
日本で初めてシェイクスピア劇を上演したところでもあるそうで、西洋人による生の西洋演劇に触れることのできる当時唯一の劇場として、日本の近代演劇史に残した足跡は大きなものがあり、小山内薫や北村透谷らが足茂く通っていたそうです。
1923(大正12)年の関東大震災によってゲーテ座は崩壊し、昭和50年代初頭までゲーテ座の正確な位置・資料等は散失不明の状況が続きました。
その後、学校法人岩崎学園の現理事長岩崎幸雄氏が自宅建築用に購入した土地がゲーテ座の跡地ということがわかり、岩崎学園の創立50周年記念事業の一貫としてこの博物館を建築。
服飾関係の資料、収集品を中心に展示する博物館として「美しさを求めて人類は... 」というコンセプトの元に、1980(昭和55)年10月に開館しました。


横浜市イギリス館
ここは目の前のバラ園が見事だ。最盛期は過ぎたものの、まだ、何とか愛でることができるくらいの花が咲いていた。館内からは横浜港などを望むことが出来、西洋館の中でも屈指のロケーションを誇る。
前庭から建物を望む
横浜市イギリス館_1
横浜市イギリス館_2
横浜市イギリス館_3
建物の玄関付近部分。この建物は横の広がりがたっぷりある構造になっている。写っているのはその一部になる。
横浜市イギリス館_4
横浜市イギリス館_5
横浜市イギリス館_6
元の総領事館の内部
横浜市イギリス館_7
横浜市イギリス館_8
横浜市イギリス館_9
横浜市イギリス館_10

横浜市イギリス館_11
横浜市イギリス館_12
横浜市イギリス館_13
横浜市イギリス館_14
横浜市イギリス館_16
イギリス館は、昭和12(1937)年に上海の大英工部総署の設計によって、英国総領事公邸として、現在の地に建てられました。鉄筋コンクリート2階建てで、広い敷地と建物規模をもち、東アジアにある領事公邸の中でも、上位に格付けられていました。
主屋の1階の南側には西からサンポーチ、客間、食堂が並び、広々としたテラスから芝生の庭につながっています。2階には寝室や化粧室が配置され、広い窓から庭や港を眺望できます。地下にはワインセラーもあり、東側につく付属屋は使用人の住居として使用されていました。玄関脇にはめ込まれた王冠入りの銘版(ジョージⅥ世の時代)や、正面脇の銅板(British Consular Residence)が、旧英国総領事公邸であった由緒を示しています。
昭和44(1969)年に横浜市が取得し、1階ホールはコンサートに、2階集会室は会議等に利用されています。また、平成14(2002)年からは2階展示室と復元された寝室を一般公開しています。

 

三渓園の財団設立60周年記念重要文化財建造物10棟一挙公開(11)

前回まで重要文化財10棟の様子を見てきた。
最後に三渓園の様子を見てみよう。


花菖蒲
三渓園の花菖蒲_1
三渓園の花菖蒲_2
三渓園の花菖蒲_3
三渓園の花菖蒲_4
三渓園の花菖蒲_5
三渓園の花菖蒲_6
三渓園の花菖蒲_7
三渓園の花菖蒲_8
三渓園の花菖蒲_9
三渓園の花菖蒲_10
三渓園の花菖蒲_11
三渓園の花菖蒲_12
三渓園の花菖蒲_14
藤棚
三渓園の藤棚_1
三渓園の藤棚_2
寒霞橋
右側は補修中なのだろうか。
寒霞橋
林洞庵
祖母も教えていた宗徧流から寄贈された茶室なのか。鎌倉に近いから縁があったのだろうか。
宗徧流林洞会から寄贈された茶室で、八畳の広間と四畳の小間からなっています。
林洞庵_1
林洞庵_2

これで、『三渓園の財団設立60周年記念重要文化財建造物10棟一挙公開』シリーズは終了です。最後までお付き合いいただきありがとうございました。

 

三渓園の財団設立60周年記念重要文化財建造物10棟一挙公開(10)

旧矢箆原家住宅

ここだけは常時開放している建築物なので、特段目新しいものはない。とは言うものの、地方出身者の私には、本当に落ち着ける場所だ。
此処の食器や調理器具を見た限りでは、質素な食事が日常食で、蕎麦や豆腐がごちそうだったのかもしれない。手のこんだ料理は専ら客用のものだったのだろう。こんな調理器具を使った手間のかかる暮らしは、現代人にはとても耐えられそうになさそうだ。
この建物の特徴は、合掌造りの二大機能である「住居」と「仕事場」のほか「宿泊施設」機能が付加されている点だそうだ。そのため、式台玄関が設けられ、当時の民家にしては類を見ないほど畳の部屋が多く、建物自体が大きくなっている。1階の玄関から左半分が、家人が通常使用しない部分だったそうだ。
もったいない話だが、客人をもてなすことは土地の有力者としての大切な役目だったのだろう。そこまでして地区の為を考えたのは、『塩硝』と呼ばれる火薬の原料を密かに作っていたことに関連するのだろうか。

旧矢箆原家住宅_1
旧矢箆原家住宅_2
旧矢箆原家住宅_3
旧矢箆原家住宅_4
旧矢箆原家住宅_5
旧矢箆原家住宅_6
旧矢箆原家住宅_7
旧矢箆原家住宅_8
旧矢箆原家住宅_9
旧矢箆原家住宅_10
もてなし用の部屋で家人が使用したわけでは無さそうだ。
旧矢箆原家住宅_11
旧矢箆原家住宅_12
旧矢箆原家住宅_13
式台玄関が設けられている
旧矢箆原家住宅_式台玄関
旧矢箆原家住宅_14
旧矢箆原家住宅_15
「ネソ」と呼ばれるマンサクの若木の結束材も効果的に使われている。
旧矢箆原家住宅_16
この階段の上に中2階の部屋があり、そこが息子夫婦の寝室だったそうだ。
旧矢箆原家住宅_17

『財団設立60周年記念重要文化財建造物10棟一挙公開』に当たっての案内記事へjump

 

三渓園の財団設立60周年記念重要文化財建造物10棟一挙公開(9)

旧燈明寺本堂

内部を見ることが出来、本当に良かった。素晴らしい本堂だったのだろう。そこに鎮座していたご本尊などは、下記URLにあるとおりだが、それらを収めるのにふさわしい堂宇だったようだ。しかし、台風により大被害を受け、解体して放置され朽ち果てる寸前だったものを、よくぞ再生できたものだ。再生保存技術の粋が込められているのだろう。だからこそ、東北大震災の長周期振動によるダメージにも耐えることが出来たのだろう。
室町時代初期の建築とされる本堂は、昭和五十七年に燈明寺から三渓園へ移築されました。
内部は、外陣を吹放しにし、内陣の周囲には、直径一・六尺もの太い柱を立て、上部の大きな虹梁とともにがっしりとした造りになっています。内陣、外陣の境は全て格子戸引違、上部を菱格子の欄間とするのは、中世密教本堂の典型的な構えです。
内陣に安置された三間の春日厨子は我が国最大で、全面、黒漆塗で、細部に施された極彩色が映えます。

旧燈明寺本堂_1
旧燈明寺本堂_2
旧燈明寺本堂_3
旧燈明寺本堂_4
内陣に安置された三間の春日厨子は我が国最大で、全面、黒漆塗で、細部に施された極彩色が映えている。そこには、十一面観音菩薩立像のレプリカが残されている。
旧燈明寺本堂_5
旧燈明寺本堂_6
旧燈明寺本堂_7
旧燈明寺本堂_8
旧燈明寺本堂_9
旧燈明寺本堂_10
旧燈明寺本堂_11
旧燈明寺本堂_12
旧燈明寺本堂_13
旧燈明寺本堂_14
旧燈明寺本堂_15

燈明寺の仏像の写真があるHPへjump

『財団設立60周年記念重要文化財建造物10棟一挙公開』に当たっての案内記事へjump

 

« »

07 2013
SUN MON TUE WED THU FRI SAT
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
メッセージボードα
Information from AzTak

11月18日(土)夜から11月19日(日)夜は、岐阜基地航空祭2017を見に出かけています。その間、私からのアクセスはできません。大変申し訳ありません。m(_ _)m

-- E N D --
.
.
プロフィール

AzTak

Author:AzTak
FC2ブログへようこそ!

定年後の時間たっぷりの輩です。写真撮影やプログラミングが趣味です。

当ブログは、リンクフリーです。

最新コメント
カテゴリ
フリーエリア
リンク
検索フォーム
リンク
QRコード
QR