旧燈明寺三重塔
園内のかなり離れた位置から見てもかなり大きくそびえ立っている。だから内部は相当な広さだと思っていた。しかし、塔の内部は想像していたよりもはるかに狭かった。2枚目の画像の開口部に女性のシルエットが写っている。これとの対比で内部の大きさが理解できよう。
中に入ってみると、上層部に進入できる構造でもないことがわかる。内部は四天柱、来迎壁があり須弥壇を設けている。ご本尊かどうかは別として、仏像が祀られていたのだろう。












旧燈明寺の仏像の写真があるHPへjump
園内のかなり離れた位置から見てもかなり大きくそびえ立っている。だから内部は相当な広さだと思っていた。しかし、塔の内部は想像していたよりもはるかに狭かった。2枚目の画像の開口部に女性のシルエットが写っている。これとの対比で内部の大きさが理解できよう。
中に入ってみると、上層部に進入できる構造でもないことがわかる。内部は四天柱、来迎壁があり須弥壇を設けている。ご本尊かどうかは別として、仏像が祀られていたのだろう。












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春草廬
確かに九つの窓があった。『九窓亭』の名称のとおりなんだ。如何にも茶室然とした茶室だ。
三室戸寺金蔵院の客殿に付属する茶室で、月華殿とともに三渓園に移築されました。
織田信長の弟で、茶人の織田有楽斎の作と伝えられています。
土庇下の躙口(にじりぐち)を入ると、内部は竿縁天井を張り、点前座だけを駆け込み天井としています。周囲には、大小さまざまな九つもの窓が開けられ、本来の名称である「九窓亭」の由来となっています。












蓮華院
原三渓の構想による茶室。金毛窟よりは大きなもののようだ。これは国指定の重要文化財ではない。
もとは、現在の春草廬の位置にありましたが、 第二次世界大戦後に竹林にある茶室という構想のもとに現在の位置へ再築されました。 二畳中板(にじょうなかいた)の小間と六畳の広間、土間からなっています。
土間の中央にある太い円柱と、その脇の壁にはめ込まれている格子は、宇治平等院鳳凰堂の古材と伝えられています。 蓮華院という名は、三溪が茶会を催した際に広間の琵琶床に、奈良東大寺三月堂の不空羂索観音が手に持っていた蓮華を飾ったことに由来しています。
確かに九つの窓があった。『九窓亭』の名称のとおりなんだ。如何にも茶室然とした茶室だ。
三室戸寺金蔵院の客殿に付属する茶室で、月華殿とともに三渓園に移築されました。
織田信長の弟で、茶人の織田有楽斎の作と伝えられています。
土庇下の躙口(にじりぐち)を入ると、内部は竿縁天井を張り、点前座だけを駆け込み天井としています。周囲には、大小さまざまな九つもの窓が開けられ、本来の名称である「九窓亭」の由来となっています。












蓮華院
原三渓の構想による茶室。金毛窟よりは大きなもののようだ。これは国指定の重要文化財ではない。
もとは、現在の春草廬の位置にありましたが、 第二次世界大戦後に竹林にある茶室という構想のもとに現在の位置へ再築されました。 二畳中板(にじょうなかいた)の小間と六畳の広間、土間からなっています。
土間の中央にある太い円柱と、その脇の壁にはめ込まれている格子は、宇治平等院鳳凰堂の古材と伝えられています。 蓮華院という名は、三溪が茶会を催した際に広間の琵琶床に、奈良東大寺三月堂の不空羂索観音が手に持っていた蓮華を飾ったことに由来しています。

月華殿
心臓が少し弱ってきている方にはつらい坂を登ることになるが、三渓園でもロケーション最高の場所に建っている。紅葉の時期は最高の眺めだろう。諸大名伺候の控室であったと言われているとのことだ。秀吉の死後、家康が天下を取るまでの間、伏見城はかなりきな臭い場所だったと思うが、どんな雰囲気だったのだろうか。
初代徳川家康により、京都伏見城内に建てられたものといわれています。1918年(大正7年)に春草廬と共に移築されました。三溪が建てた金毛窟とつながっています。
障壁画は、桃山時代の画家 海北友松(かいほうゆうしょう)によるもの伝えられます。






吹き寄せの腰障子


金毛窟
月華殿に付属するように造られた原三渓の構想による一畳台目の茶室。これは国指定の重要文化財ではない。



心臓が少し弱ってきている方にはつらい坂を登ることになるが、三渓園でもロケーション最高の場所に建っている。紅葉の時期は最高の眺めだろう。諸大名伺候の控室であったと言われているとのことだ。秀吉の死後、家康が天下を取るまでの間、伏見城はかなりきな臭い場所だったと思うが、どんな雰囲気だったのだろうか。
初代徳川家康により、京都伏見城内に建てられたものといわれています。1918年(大正7年)に春草廬と共に移築されました。三溪が建てた金毛窟とつながっています。
障壁画は、桃山時代の画家 海北友松(かいほうゆうしょう)によるもの伝えられます。






吹き寄せの腰障子


金毛窟
月華殿に付属するように造られた原三渓の構想による一畳台目の茶室。これは国指定の重要文化財ではない。



聴秋閣
ここが一番公開度が低く残念だった。建物内部には入れてもらえなかった。変形の建物であることは外から見ただけでわかるのだが、何故そういうふうにしたのか内部を見ながら考えたかった。のだが、いつもより、ほんのちょっぴりだけ近づいて内部を覗かせるだけだった。それでは、私の十分とは言いがたい理解力では設計の真意を解き明かせなかった。土間には珍しい木製のタイルが貼られているのだけは確認できたが、見ればわかることばかりで寂しい限りだ。
昔は、手前の大石などがなく、小さな川になっていて、舟が付けられるようになっていたようだ。二条城に建てられた当時は一層部分は茶席としてではなく、単なる庭園建築であったと考えられるのか。なんどみても、茶室というより、納涼のための建屋にしか見えなかったのだが、あまり外れていなかったようだ。
元和九年(1623年)、三代将軍家光の命により、佐久間将監は二条城内に三笠閣という茶屋を建てました。その後、この茶屋は家光の乳母・春日局に下賜され、局の孫である稲葉正則の江戸下屋敷に移され、近代に入り、二条公邸への移築後、大正十一年に三渓園に移され、聴秋閣と改められました。
一階の茶席の構成は複雑で、土間、床の間、棚、床の間に斜めに取りつく書院、階段室からなっています。土間には珍しい木製のタイルが貼られ、くつろいだ茶の席を演出しています。
二階は実用性のない二畳ほどの小さな座敷で、外観を整える要素として織り込まれたものと考えられています。



ここが一番公開度が低く残念だった。建物内部には入れてもらえなかった。変形の建物であることは外から見ただけでわかるのだが、何故そういうふうにしたのか内部を見ながら考えたかった。のだが、いつもより、ほんのちょっぴりだけ近づいて内部を覗かせるだけだった。それでは、私の十分とは言いがたい理解力では設計の真意を解き明かせなかった。土間には珍しい木製のタイルが貼られているのだけは確認できたが、見ればわかることばかりで寂しい限りだ。
昔は、手前の大石などがなく、小さな川になっていて、舟が付けられるようになっていたようだ。二条城に建てられた当時は一層部分は茶席としてではなく、単なる庭園建築であったと考えられるのか。なんどみても、茶室というより、納涼のための建屋にしか見えなかったのだが、あまり外れていなかったようだ。
元和九年(1623年)、三代将軍家光の命により、佐久間将監は二条城内に三笠閣という茶屋を建てました。その後、この茶屋は家光の乳母・春日局に下賜され、局の孫である稲葉正則の江戸下屋敷に移され、近代に入り、二条公邸への移築後、大正十一年に三渓園に移され、聴秋閣と改められました。
一階の茶席の構成は複雑で、土間、床の間、棚、床の間に斜めに取りつく書院、階段室からなっています。土間には珍しい木製のタイルが貼られ、くつろいだ茶の席を演出しています。
二階は実用性のない二畳ほどの小さな座敷で、外観を整える要素として織り込まれたものと考えられています。




「旧天瑞寺寿塔覆堂」
江戸初期以降、盛んに造られるようになった霊廟建築の先駆けとなった建物なのか。寿塔と寿塔覆堂とが泣き別れになってしまっているのは、何とも悲しいことだが、明治の廃仏毀釈の異常な流れの中では、仕方がなかったのだろう。
権力の頂点にいた豊臣秀吉が造ったものだが、天下を完全に平定した徳川のそれと比して、かなり地味なもののように思う。そうは言うものの、信仰心は、どちらが上を行ったのだろうか。
天正十六年(1588年)、豊臣秀吉は母・大政所の病気平癒を祈って京都の大徳寺山内に塔頭・天瑞寺を創建しました。そして母のさらなる長寿を祈願して、同寺内に寿塔(生前に建てる墓塔)を建て、これを覆堂内に納めました。
天瑞寺は明治七年に廃寺となり、この覆堂は大徳寺内の瑞光寺、黄梅院を経て、明治三十五年に三渓園に移築されました。墓塔は総高九・六五尺の石造宝塔で、現在も竜翔寺(旧天瑞寺)の境内に残されています。
寿塔覆堂は方十二尺の小さな建物ですが、江戸初期以降、盛んに造られる霊廟建築の先駆けとなりました。欄間や扉などに見られる彫り物は天人、迦陵頻伽、琵琶、笙、笛、太鼓などで、仏が来迎する際の光景を表現しています。



江戸初期以降、盛んに造られるようになった霊廟建築の先駆けとなった建物なのか。寿塔と寿塔覆堂とが泣き別れになってしまっているのは、何とも悲しいことだが、明治の廃仏毀釈の異常な流れの中では、仕方がなかったのだろう。
権力の頂点にいた豊臣秀吉が造ったものだが、天下を完全に平定した徳川のそれと比して、かなり地味なもののように思う。そうは言うものの、信仰心は、どちらが上を行ったのだろうか。
天正十六年(1588年)、豊臣秀吉は母・大政所の病気平癒を祈って京都の大徳寺山内に塔頭・天瑞寺を創建しました。そして母のさらなる長寿を祈願して、同寺内に寿塔(生前に建てる墓塔)を建て、これを覆堂内に納めました。
天瑞寺は明治七年に廃寺となり、この覆堂は大徳寺内の瑞光寺、黄梅院を経て、明治三十五年に三渓園に移築されました。墓塔は総高九・六五尺の石造宝塔で、現在も竜翔寺(旧天瑞寺)の境内に残されています。
寿塔覆堂は方十二尺の小さな建物ですが、江戸初期以降、盛んに造られる霊廟建築の先駆けとなりました。欄間や扉などに見られる彫り物は天人、迦陵頻伽、琵琶、笙、笛、太鼓などで、仏が来迎する際の光景を表現しています。




三渓園の財団設立60周年を記念して、重要文化財建造物10棟一挙公開する企画が2013年6月8日(土)~6月16日(日)に開催された。重要文化財建造物全10棟の公開は4年ぶりだそうだ。4月に三渓園を訪れてこの企画を知ってから、心待ちにしていた。私は初日に出かけた。
臨春閣
4月には閉ざされていた玄関から堂々と入る。見た通りの一番乗りでこの建物に飛び込んだのは良かったが、第一屋は遠侍という性格からか、薄暗くうまく撮ることが出来なかった。何事もゆっくり構える冷静さが必要だった。



桃山時代に豊臣秀吉が建てた聚楽第の遺構と伝えられていましたが、現在では和歌山県岩出市にあった紀州徳川家の別荘 巌出御殿(いわでごてん)ではないかと考えられています。内部は狩野派を中心とする障壁画と繊細・精巧な数寄屋風書院造りの意匠を随所に見ることができます。
※障壁画は複製画で、原本は園内の三溪記念館で収蔵し定期的に展示を行っています。
部屋の境にある欄間には、波の彫刻(第一屋)や、和歌を書いた色紙(第二屋)をはめ込むなどの工夫が凝らされています。 なかでも面白いのは、第三屋「天楽の間」にある欄間で、ここには、雅楽に馴染み深い笙と笛など本物の楽器があしらわれています。
紀州から徳川家8代将軍となった徳川吉宗は幼少期、巌出御殿に遊び育ちました。
第一屋:瀟湘の間…狩野常信(1636~1713)筆
波文様の欄間…桃田柳栄(1647~1698)下絵
取次や警護の家臣が詰める遠侍



第二屋:琴棋書画の間…狩野探幽(1602~1674)筆
面会所で、南側は内苑池にかかり(巌出御殿時代は紀ノ川にせり出していたもの)、開放的な数寄屋風の造りです。






第三屋:天楽の間…狩野安信(1613~1685)筆
欄間に笙(しょう)などの楽器や百人一首の色紙形を散りばめるなど、自由な意匠から居間に用いられていたようです。




幾つかを見て回った後、再び臨春閣の前を通った。もうかなりの人が中に入っていた。スタートダッシュをきかせて大正解だった。
この見学中の人達の様子でお分かりかもしれないが、この種の建物で立ち入りが許されるのは廊下のみで、畳敷きの中に入るのは許されていない。それが今回の特別公開時のルールだった。


臨春閣
4月には閉ざされていた玄関から堂々と入る。見た通りの一番乗りでこの建物に飛び込んだのは良かったが、第一屋は遠侍という性格からか、薄暗くうまく撮ることが出来なかった。何事もゆっくり構える冷静さが必要だった。



桃山時代に豊臣秀吉が建てた聚楽第の遺構と伝えられていましたが、現在では和歌山県岩出市にあった紀州徳川家の別荘 巌出御殿(いわでごてん)ではないかと考えられています。内部は狩野派を中心とする障壁画と繊細・精巧な数寄屋風書院造りの意匠を随所に見ることができます。
※障壁画は複製画で、原本は園内の三溪記念館で収蔵し定期的に展示を行っています。
部屋の境にある欄間には、波の彫刻(第一屋)や、和歌を書いた色紙(第二屋)をはめ込むなどの工夫が凝らされています。 なかでも面白いのは、第三屋「天楽の間」にある欄間で、ここには、雅楽に馴染み深い笙と笛など本物の楽器があしらわれています。
紀州から徳川家8代将軍となった徳川吉宗は幼少期、巌出御殿に遊び育ちました。
第一屋:瀟湘の間…狩野常信(1636~1713)筆
波文様の欄間…桃田柳栄(1647~1698)下絵
取次や警護の家臣が詰める遠侍



第二屋:琴棋書画の間…狩野探幽(1602~1674)筆
面会所で、南側は内苑池にかかり(巌出御殿時代は紀ノ川にせり出していたもの)、開放的な数寄屋風の造りです。






第三屋:天楽の間…狩野安信(1613~1685)筆
欄間に笙(しょう)などの楽器や百人一首の色紙形を散りばめるなど、自由な意匠から居間に用いられていたようです。




幾つかを見て回った後、再び臨春閣の前を通った。もうかなりの人が中に入っていた。スタートダッシュをきかせて大正解だった。
この見学中の人達の様子でお分かりかもしれないが、この種の建物で立ち入りが許されるのは廊下のみで、畳敷きの中に入るのは許されていない。それが今回の特別公開時のルールだった。



東御苑(1)
道場前の出入口から東御苑に入る。目的は花菖蒲を観察すること。
同心番所
下記説明通り下乗橋で籠などから下りるのだが、脚力が衰えたものには此処から先の本丸に至る急勾配の坂は、かなり厳しかったのだろうと思う。
同心が江戸城へ登城する大名の供を監視した。以前はこの番所の前に橋があり、御三家を除くすべての大名・役人はここで乗り物から降りて徒歩で本丸へ登った。

百人番所
いったい正式な役目は何だったのか、首をかしげる感じだ。甲賀組・伊賀組・根来組の3組は忍びの集団で、博多藩黒田家に繋がる二十五騎組は、腕に覚えのあらくれ集団か。用心棒の役目が主たるものだったのだろうか。
本丸・二の丸へ続く大手三之門を警護していた門。鉄砲百人組と呼ばれる甲賀組・伊賀組・根来組・二十五騎組の同心100人が昼夜交代で警護に当たった。

外国人観光客
外国の人には都心で無料・予約なしで見ることができる数少ない場所。昔の名残が十分に感じられるようで、特に好評なようだ。



花菖蒲田(1)
此処の花菖蒲田は手入れが行き届き綺麗だということで有名だが、面積はさほどあるわけではない。




一応名前を示す立て札とともに撮ってみたが、白い花びらのものなど色飽和しているものもあり、何とか見られるものを続けて示す。


















道場前の出入口から東御苑に入る。目的は花菖蒲を観察すること。
同心番所
下記説明通り下乗橋で籠などから下りるのだが、脚力が衰えたものには此処から先の本丸に至る急勾配の坂は、かなり厳しかったのだろうと思う。
同心が江戸城へ登城する大名の供を監視した。以前はこの番所の前に橋があり、御三家を除くすべての大名・役人はここで乗り物から降りて徒歩で本丸へ登った。

百人番所
いったい正式な役目は何だったのか、首をかしげる感じだ。甲賀組・伊賀組・根来組の3組は忍びの集団で、博多藩黒田家に繋がる二十五騎組は、腕に覚えのあらくれ集団か。用心棒の役目が主たるものだったのだろうか。
本丸・二の丸へ続く大手三之門を警護していた門。鉄砲百人組と呼ばれる甲賀組・伊賀組・根来組・二十五騎組の同心100人が昼夜交代で警護に当たった。

外国人観光客
外国の人には都心で無料・予約なしで見ることができる数少ない場所。昔の名残が十分に感じられるようで、特に好評なようだ。



花菖蒲田(1)
此処の花菖蒲田は手入れが行き届き綺麗だということで有名だが、面積はさほどあるわけではない。




一応名前を示す立て札とともに撮ってみたが、白い花びらのものなど色飽和しているものもあり、何とか見られるものを続けて示す。



















皇居(5)
山下通り
我々が立っている側の反対側の景色が良いのだそうだ。紅葉の時などは最高だとのこと。



蓮池濠にぶつかる


右に進んで、宮内庁庁舎横を通る






蓮池濠に架かる橋を渡る
石垣の上に白く見えるのは富士見多聞。多分あそこからの長めは凄く良いと思う。が残念なことに、東御苑から富士見多聞のすぐ前まで行けるのだが、中には入れない。おまけにやぶ蚊がブンブン飛んでいて、めちゃくちゃ刺された記憶がある。
蓮池濠はかなり幅が広い。かつての本丸と西の丸とには大きな隔たりがあったようだ。勿論、本丸のほうが格が上だった。


これで参観は終了
東御苑に回らない人達は、桔梗門から退出することになる。

引き続きショートカットで東御苑へ向かう。お目当ては花菖蒲を見ることだ。
元枢密院庁舎は現在は皇宮警察の庁舎として使用されている。見えるのは皇宮警察のための施設ばかりだ。




以前は、皇宮警察も柔道の猛者がいたはずだが、今はさっぱり聞こえてこない。
山下通り
我々が立っている側の反対側の景色が良いのだそうだ。紅葉の時などは最高だとのこと。



蓮池濠にぶつかる


右に進んで、宮内庁庁舎横を通る






蓮池濠に架かる橋を渡る
石垣の上に白く見えるのは富士見多聞。多分あそこからの長めは凄く良いと思う。が残念なことに、東御苑から富士見多聞のすぐ前まで行けるのだが、中には入れない。おまけにやぶ蚊がブンブン飛んでいて、めちゃくちゃ刺された記憶がある。
蓮池濠はかなり幅が広い。かつての本丸と西の丸とには大きな隔たりがあったようだ。勿論、本丸のほうが格が上だった。


これで参観は終了
東御苑に回らない人達は、桔梗門から退出することになる。

引き続きショートカットで東御苑へ向かう。お目当ては花菖蒲を見ることだ。
元枢密院庁舎は現在は皇宮警察の庁舎として使用されている。見えるのは皇宮警察のための施設ばかりだ。




以前は、皇宮警察も柔道の猛者がいたはずだが、今はさっぱり聞こえてこない。

皇居(4)
伏見櫓(ふしみやぐら)
建物で江戸城の昔の面影を伝えるものは、わずかに残る櫓になります。この二重櫓は、当時の西の丸の殿舎の西南隅に建てられたもので、左右には、かなり大きな多聞も残っています。
江戸城築城の第二期(三代将軍家光の時)の寛永五年(1628年)に京都伏見城から移築したものと伝えられています。別名で「月見櫓」とも呼ばれており、皇居で最も美しい櫓と言われ櫓の高さ約13.4メートルあります。
石垣も櫓も堅牢に出来ており関東大震災でも崩れませんでした。
この伏見櫓のずーっと奥に、両陛下のお住まいの御所などがある「吹上御苑」になりますが、一般の方は入れません。
伏見櫓は正門鉄橋から非常によく見える。多分、吹上御苑からもよく見えるのだと思う。富士見櫓にしても、この伏見櫓にしても、江戸城の櫓は基本的に隅櫓(角地に建っていること)なんだと改めて思い知らされた。
かつて江戸城には20もの二重、三重の櫓があったが、富士見櫓、伏見櫓と外部からもよく見える桜田巽櫓の3つの櫓が残ったのみだそうだ。





豊明殿
「豊明殿」は中庭に面していて大きな饗宴が催されるときに使われます。室内面積は915平方メートル。宮殿のうちで、もっとも広い部屋で一棟一室となっています。
名称は昔の宮中の豊明節会(とよあかりのせちえ)にちなんでいます。三十二のクリスタルガラス製のシャンデリアが下げられ、壁面にはつづれ織りの「豊幡雲(とよはたぐも)」(中村岳陵氏原画)の仕上りとなっています。
夕空に五彩の雲がたなびくあざやかな描写は、三年の日時をかけて織り上げた、伝統工芸の技により圧倒的な迫力をみせています。床面は手織段通(杉山寧氏デザイン)が敷きこまれています。広い床面積のため、巾約7メートル、長さ約37メートルの段通が三枚はぎ合わされています。
建具は東西両側に襖、南側が明り障子。襖は本金糸から青金糸にぼかし上げて織った裂地(きれじ)張りで仕上げられています。
「豊明殿」の北側は配膳室、南側と東側と西側は廊下で、東側廊下の中央部が広くとってあり、奏樂室にも使用できます。饗宴の際には、襖をひらいて樂人が奏樂します。
内閣の組閣が行われるとき、奥の「松の間」で総理大臣は親任式、各大臣は認定式が終わりますと、玄関前の赤い(『黄色い』の間違いかと思う。赤は首相官邸の方)ジュウタンで記念撮影を行います。テレビや新聞などで報道されているのがここ(最近は、首相官邸の方の写真が使われる事が多いと思う)です。
総理大臣をはじめ主に日本人のお客様が使用される玄関で「北車寄せ」と言います。
皇居宮殿の殿舎の一つで宮中の宴会場。皇室外交が行われる舞台だ。なお、宮殿には公賓を接遇する小食堂として、豊明殿とは別に連翠(れんすい)という殿舎があるそうだ。




伏見櫓(ふしみやぐら)
建物で江戸城の昔の面影を伝えるものは、わずかに残る櫓になります。この二重櫓は、当時の西の丸の殿舎の西南隅に建てられたもので、左右には、かなり大きな多聞も残っています。
江戸城築城の第二期(三代将軍家光の時)の寛永五年(1628年)に京都伏見城から移築したものと伝えられています。別名で「月見櫓」とも呼ばれており、皇居で最も美しい櫓と言われ櫓の高さ約13.4メートルあります。
石垣も櫓も堅牢に出来ており関東大震災でも崩れませんでした。
この伏見櫓のずーっと奥に、両陛下のお住まいの御所などがある「吹上御苑」になりますが、一般の方は入れません。
伏見櫓は正門鉄橋から非常によく見える。多分、吹上御苑からもよく見えるのだと思う。富士見櫓にしても、この伏見櫓にしても、江戸城の櫓は基本的に隅櫓(角地に建っていること)なんだと改めて思い知らされた。
かつて江戸城には20もの二重、三重の櫓があったが、富士見櫓、伏見櫓と外部からもよく見える桜田巽櫓の3つの櫓が残ったのみだそうだ。





豊明殿
「豊明殿」は中庭に面していて大きな饗宴が催されるときに使われます。室内面積は915平方メートル。宮殿のうちで、もっとも広い部屋で一棟一室となっています。
名称は昔の宮中の豊明節会(とよあかりのせちえ)にちなんでいます。三十二のクリスタルガラス製のシャンデリアが下げられ、壁面にはつづれ織りの「豊幡雲(とよはたぐも)」(中村岳陵氏原画)の仕上りとなっています。
夕空に五彩の雲がたなびくあざやかな描写は、三年の日時をかけて織り上げた、伝統工芸の技により圧倒的な迫力をみせています。床面は手織段通(杉山寧氏デザイン)が敷きこまれています。広い床面積のため、巾約7メートル、長さ約37メートルの段通が三枚はぎ合わされています。
建具は東西両側に襖、南側が明り障子。襖は本金糸から青金糸にぼかし上げて織った裂地(きれじ)張りで仕上げられています。
「豊明殿」の北側は配膳室、南側と東側と西側は廊下で、東側廊下の中央部が広くとってあり、奏樂室にも使用できます。饗宴の際には、襖をひらいて樂人が奏樂します。
内閣の組閣が行われるとき、奥の「松の間」で総理大臣は親任式、各大臣は認定式が終わりますと、玄関前の赤い(『黄色い』の間違いかと思う。赤は首相官邸の方)ジュウタンで記念撮影を行います。テレビや新聞などで報道されているのがここ(最近は、首相官邸の方の写真が使われる事が多いと思う)です。
総理大臣をはじめ主に日本人のお客様が使用される玄関で「北車寄せ」と言います。
皇居宮殿の殿舎の一つで宮中の宴会場。皇室外交が行われる舞台だ。なお、宮殿には公賓を接遇する小食堂として、豊明殿とは別に連翠(れんすい)という殿舎があるそうだ。





皇居(3)
正門鉄橋(せいもんてつばし)
「宮殿東庭」を過ぎて、正門の方に鉄製の橋がありますが、ここは以前は木製の橋でした。堀が大変深いために、江戸時代には橋桁を上下二重に組んで橋の上に橋を作っていたために「二重橋」と呼ばれていましたが、現在は鉄製になりましたので「正門鉄橋」が正式名称になります。 (したがって、今は二重橋とは言いませんので、ご注意を。)
参観コースからは、正門鉄橋を渡り、正門鉄橋の上部を撮ることはできる。しかし、この橋の全体を撮るのは外側から撮るしか方法が無い。



free画像(外側から見たもの)

正門石橋(せいもんいしばし)
皇居と言うとめがねの形をした橋を思い浮かべる人も多いと思いますが、これは「めがね橋」でも、「二重橋」でもありません。「正門石橋」と言います。
江戸時代は土で出来た「土橋」でしたが、現在は石で出来た橋で、「正門石橋」が正式名称と成ります。
「正門鉄橋」や「正門石橋」ではなんだか味気ない感じがしますが、めがね橋でも二重橋でもないので注意してくださいね。
正門鉄橋から見た正門石橋。優美に見える橋だ。





正門鉄橋(せいもんてつばし)
「宮殿東庭」を過ぎて、正門の方に鉄製の橋がありますが、ここは以前は木製の橋でした。堀が大変深いために、江戸時代には橋桁を上下二重に組んで橋の上に橋を作っていたために「二重橋」と呼ばれていましたが、現在は鉄製になりましたので「正門鉄橋」が正式名称になります。 (したがって、今は二重橋とは言いませんので、ご注意を。)
参観コースからは、正門鉄橋を渡り、正門鉄橋の上部を撮ることはできる。しかし、この橋の全体を撮るのは外側から撮るしか方法が無い。



free画像(外側から見たもの)

正門石橋(せいもんいしばし)
皇居と言うとめがねの形をした橋を思い浮かべる人も多いと思いますが、これは「めがね橋」でも、「二重橋」でもありません。「正門石橋」と言います。
江戸時代は土で出来た「土橋」でしたが、現在は石で出来た橋で、「正門石橋」が正式名称と成ります。
「正門鉄橋」や「正門石橋」ではなんだか味気ない感じがしますが、めがね橋でも二重橋でもないので注意してくださいね。
正門鉄橋から見た正門石橋。優美に見える橋だ。






皇居(2)
蓮池濠を右手に見て進む
やがて宮内庁庁舎が見えてくる
皇室をサポートするお役所にふさわしい風格のある庁舎だ。
昭和10年(1935年)に建築された建物で,庁舎3階は,昭和27年(1952年)に改装され,昭和43年(1968年)の宮殿落成までの間,仮宮殿として使用されていました。
昭和の初期にこの宮内庁庁舎で1度だけ一般参賀がおこなわれました。正面玄関の赤いジュウタンの上の2階の所に平らな屋根がありますが、そこに天皇皇后両陛下がお立ちなりお手を振られたとのことです。


宮殿
宮内庁庁舎の左斜め前方の丘の上に宮殿が見えてくる。左手には坂下門がちらりと見える。
チラと見えてきた宮殿

チラと見えている坂下門

はっきり見えてきた宮殿のうちの長和殿(手前側の長い御殿)
宮殿東庭に立ち止まり、ここで説明を受ける。往きは東庭の左端を通らされたので、宮殿まではかなり遠く感じたが、非常によく見える。



宮殿で一番長い建物が「長和殿」で長さが160mあり、中の廊下の長さは100mあります。この場所で、新年1月2日と天皇誕生日の12月23日の年2回、天皇皇后両陛下と皇族方が長和殿中央バルコニーにお出ましになり国民からのお祝いを直接お受けになります。その際,天皇陛下からのお言葉があります。
「長和殿」の前の広場が「宮殿東庭」で、広さが約4500坪あり、一般参賀などの多いときには約2万人が一度に参賀できます。足元の石畳は四国香川県産の安山岩が使用されており、大変水はけの良い石で、足に優しい石です。
そして、「宮殿東庭」の石の下は駐車場になっており、約120台収容できます。
右側にある大きな塔は、「松の塔」と言われ、葉と葉の間から光が灯すように作られた照明塔です。先端にある輪は、ふしろという古代婦人の腕輪を形とった照明塔です。

長和殿前には巾2mの寒椿と山茶花の植え込みがあり、その脇にある黄色い灯篭は有田焼で11基あり、照明塔として利用されています。

宮殿の表玄関南車寄せ
左側にある大きな玄関は「宮殿の表玄関南車寄せ」で各国の大統領や大使など外国の国賓など主賓の方が利用される玄関です。

「長和殿」の左奥は「宮殿の南庭」で広い地形と芝生を利用して、大刈り込みの下は小川が流れていて流れを主としたお庭になります。小山のように見える二つの刈り込みは「南庭の大刈り込み」でいろいろな樹木が合わさって出来た刈り込みです。大変大きなもので高いところでは6mもあります。
刈り込みは職人が入り込んで、すべて手バサミで刈り込みをしています。

二重橋を見た後は長和殿の割りと近くを通った。新年祝賀の人達の先頭はこの白い線だそうだ。また、天皇陛下ほかは長和殿のテラス部分に特設されるお立ち台に立たれる。新年祝賀の人達との距離はごくわずかだ。


前方に二重橋門や伏見櫓などが見えている

蓮池濠を右手に見て進む
やがて宮内庁庁舎が見えてくる
皇室をサポートするお役所にふさわしい風格のある庁舎だ。
昭和10年(1935年)に建築された建物で,庁舎3階は,昭和27年(1952年)に改装され,昭和43年(1968年)の宮殿落成までの間,仮宮殿として使用されていました。
昭和の初期にこの宮内庁庁舎で1度だけ一般参賀がおこなわれました。正面玄関の赤いジュウタンの上の2階の所に平らな屋根がありますが、そこに天皇皇后両陛下がお立ちなりお手を振られたとのことです。


宮殿
宮内庁庁舎の左斜め前方の丘の上に宮殿が見えてくる。左手には坂下門がちらりと見える。
チラと見えてきた宮殿

チラと見えている坂下門

はっきり見えてきた宮殿のうちの長和殿(手前側の長い御殿)
宮殿東庭に立ち止まり、ここで説明を受ける。往きは東庭の左端を通らされたので、宮殿まではかなり遠く感じたが、非常によく見える。



宮殿で一番長い建物が「長和殿」で長さが160mあり、中の廊下の長さは100mあります。この場所で、新年1月2日と天皇誕生日の12月23日の年2回、天皇皇后両陛下と皇族方が長和殿中央バルコニーにお出ましになり国民からのお祝いを直接お受けになります。その際,天皇陛下からのお言葉があります。
「長和殿」の前の広場が「宮殿東庭」で、広さが約4500坪あり、一般参賀などの多いときには約2万人が一度に参賀できます。足元の石畳は四国香川県産の安山岩が使用されており、大変水はけの良い石で、足に優しい石です。
そして、「宮殿東庭」の石の下は駐車場になっており、約120台収容できます。
右側にある大きな塔は、「松の塔」と言われ、葉と葉の間から光が灯すように作られた照明塔です。先端にある輪は、ふしろという古代婦人の腕輪を形とった照明塔です。

長和殿前には巾2mの寒椿と山茶花の植え込みがあり、その脇にある黄色い灯篭は有田焼で11基あり、照明塔として利用されています。

宮殿の表玄関南車寄せ
左側にある大きな玄関は「宮殿の表玄関南車寄せ」で各国の大統領や大使など外国の国賓など主賓の方が利用される玄関です。

「長和殿」の左奥は「宮殿の南庭」で広い地形と芝生を利用して、大刈り込みの下は小川が流れていて流れを主としたお庭になります。小山のように見える二つの刈り込みは「南庭の大刈り込み」でいろいろな樹木が合わさって出来た刈り込みです。大変大きなもので高いところでは6mもあります。
刈り込みは職人が入り込んで、すべて手バサミで刈り込みをしています。

二重橋を見た後は長和殿の割りと近くを通った。新年祝賀の人達の先頭はこの白い線だそうだ。また、天皇陛下ほかは長和殿のテラス部分に特設されるお立ち台に立たれる。新年祝賀の人達との距離はごくわずかだ。


前方に二重橋門や伏見櫓などが見えている


皇居に入るには参観許可を得ねばならないが、ごく普通の人ならば、先着順でOKとなるようだ。
斯く言う私も参観許可を得たので、喜び勇んで出かけた。


参観は約1時間半でコースは「窓明館」を出て、桔梗門脇の石垣を見ながら、「富士見櫓」の前を通り、「宮内庁」を見て「宮殿」の「長和殿」と「宮殿東庭」に行き、「正門鉄橋(二重橋)」を渡りながら、「正門石橋(めがね橋)」と「伏見櫓」を見ます。再び、「長和殿」の前の「宮殿東庭」を通り、「松葉の塔」を左に入り「豊明殿」を見て「山下通り」を下り、「富士見多聞」の「蓮池」に沿って「富士見櫓」まで戻り、「窓明館」前で参観は終了します。
皇居(1)
集合は桔梗門
許可証を見せるだけの簡単な手続きだった。大丈夫なのかなあと思うほど。
定刻になり、桔梗門から入場する。高麗門形式の門をまず通り、90度曲がって渡櫓門形式の門をくぐる。






桔梗門は皇居参観者や勤労奉仕者などが出入りする門で、「内桜田門」と呼ばれていますが、昔この門の瓦に太田道灌の家紋が(桔梗)ついていたことから桔梗門と呼ばれるようになったとも伝えられています。
一旦、窓明館という休所に入って説明を受ける

いざ出発
こんなにいっぱいの人が行くのかと驚く。極めてラフな格好の人も目に付く。ちょっと前までは、サンピエトロ大聖堂でもミニスカート姿はダメだったのだが。


元枢密院庁舎
いまは何に使われているのだろうか?特に説明もなかった。=>=>その後、調べて判明した。今年から、宮警察本部庁舎として使用されているそうだ。
戦後は最高裁判所庁舎や皇宮警察本部庁舎として使用されたが、1984年(昭和59年)より長らく空き家となっていた。2006年(平成18年)より改修工事が行われ、2013年(平成25年)から再び皇宮警察本部庁舎として使用されている。
大正10年(1921年)に完成,現在の国会議事堂のモデルになった建物と言われています。
当時近世復興式と呼ばれた鉄筋コンクリート2階建ての建物で,広さは約1,740平方メートルあります。




桔梗門のすぐ傍の石垣には施工した薩摩藩の目印があった

しばらくすると富士見櫓が見えてくる
本丸の端っこから覗くのと異なり、よく見えるし、素晴らしく立派に見える。








「窓明館」を出て左側に上がっていくと、右手に立派な石垣と大きな櫓が見えてきます。
江戸城旧本丸の東南隅に位置する「富士見櫓」で、品川の海や富士山をご覧になったといわれています。現存の三重櫓は、万治2年(1659年)の再建で、江戸城本丸の遺構として貴重な存在といわれています。
天守閣が明暦3年(1657年)の大火で焼失した後は復旧されなかったので、富士見櫓が天守閣に代用されたと伝えられています。どこから見ても同じ形にみえるために、俗に八方正面の櫓とも呼ばれ、特に石垣上にせり出している石落し仕掛けのある南面の屋根が描く曲線はとても優美です。
石垣は主に伊豆の自然石でこのあたりの石垣の積み方は初期の打ち込みはぎで「野づら積み」というもので、自然石をそのまま積んでいるため、乱雑ですき間が多く崩れそうですが、積み方としては水はけもよく最も堅牢といわれていて、関東大震災でもまったく崩れなかったそうです。そしてこの石垣を作ったのは主に加藤清正公と言われています。
石垣の高さは約14.5メートル、櫓の高さは約15.5メートルになります。
斯く言う私も参観許可を得たので、喜び勇んで出かけた。


参観は約1時間半でコースは「窓明館」を出て、桔梗門脇の石垣を見ながら、「富士見櫓」の前を通り、「宮内庁」を見て「宮殿」の「長和殿」と「宮殿東庭」に行き、「正門鉄橋(二重橋)」を渡りながら、「正門石橋(めがね橋)」と「伏見櫓」を見ます。再び、「長和殿」の前の「宮殿東庭」を通り、「松葉の塔」を左に入り「豊明殿」を見て「山下通り」を下り、「富士見多聞」の「蓮池」に沿って「富士見櫓」まで戻り、「窓明館」前で参観は終了します。
皇居(1)
集合は桔梗門
許可証を見せるだけの簡単な手続きだった。大丈夫なのかなあと思うほど。
定刻になり、桔梗門から入場する。高麗門形式の門をまず通り、90度曲がって渡櫓門形式の門をくぐる。






桔梗門は皇居参観者や勤労奉仕者などが出入りする門で、「内桜田門」と呼ばれていますが、昔この門の瓦に太田道灌の家紋が(桔梗)ついていたことから桔梗門と呼ばれるようになったとも伝えられています。
一旦、窓明館という休所に入って説明を受ける

いざ出発
こんなにいっぱいの人が行くのかと驚く。極めてラフな格好の人も目に付く。ちょっと前までは、サンピエトロ大聖堂でもミニスカート姿はダメだったのだが。


元枢密院庁舎
いまは何に使われているのだろうか?特に説明もなかった。=>=>その後、調べて判明した。今年から、宮警察本部庁舎として使用されているそうだ。
戦後は最高裁判所庁舎や皇宮警察本部庁舎として使用されたが、1984年(昭和59年)より長らく空き家となっていた。2006年(平成18年)より改修工事が行われ、2013年(平成25年)から再び皇宮警察本部庁舎として使用されている。
大正10年(1921年)に完成,現在の国会議事堂のモデルになった建物と言われています。
当時近世復興式と呼ばれた鉄筋コンクリート2階建ての建物で,広さは約1,740平方メートルあります。




桔梗門のすぐ傍の石垣には施工した薩摩藩の目印があった

しばらくすると富士見櫓が見えてくる
本丸の端っこから覗くのと異なり、よく見えるし、素晴らしく立派に見える。








「窓明館」を出て左側に上がっていくと、右手に立派な石垣と大きな櫓が見えてきます。
江戸城旧本丸の東南隅に位置する「富士見櫓」で、品川の海や富士山をご覧になったといわれています。現存の三重櫓は、万治2年(1659年)の再建で、江戸城本丸の遺構として貴重な存在といわれています。
天守閣が明暦3年(1657年)の大火で焼失した後は復旧されなかったので、富士見櫓が天守閣に代用されたと伝えられています。どこから見ても同じ形にみえるために、俗に八方正面の櫓とも呼ばれ、特に石垣上にせり出している石落し仕掛けのある南面の屋根が描く曲線はとても優美です。
石垣は主に伊豆の自然石でこのあたりの石垣の積み方は初期の打ち込みはぎで「野づら積み」というもので、自然石をそのまま積んでいるため、乱雑ですき間が多く崩れそうですが、積み方としては水はけもよく最も堅牢といわれていて、関東大震災でもまったく崩れなかったそうです。そしてこの石垣を作ったのは主に加藤清正公と言われています。
石垣の高さは約14.5メートル、櫓の高さは約15.5メートルになります。
帰り道で見かけた建物
川越キリスト教会
聖公会の教会。1889年(明治22年)に最初の礼拝堂が建てられたが、1893年(明治26年)の大火により焼失。その後1921年(大正10年)に現在地に再建されたとのこと。
現在の松江町にある煉瓦造りの礼拝堂は、大正9年(1920)年に着工、翌年の大正10年(1921)4月に完成しました。設計は立教大学新築のため来日したウイリアム・ウイルソン氏、施工は清水組(現清水建設)によって行われました。建物は東西に細長い切妻造り、平屋建で、総工費1万8,644円65銭(現在の貨幣価値で約1億3,000万円)を要したといいます。
川越キリスト教会の建物は昭和54年(1979)に日本建築学会の「近代の主要名建築」の一つに選ばれ、さらに平成13年(2001)には国の「登録有形文化財(建造物)」、および川越市の「都市景観重要建築物」の指定を受けました。蔦が煉瓦の外壁を這っていることから「蔦の教会」として親しまれています。

手前の人物との関係からも分かる通り、それほど大きな聖堂ではない。むしろこじんまりしている感じだ。

原田家住宅
むかしの羽振りの良さが伺える大きな蔵造りだ。東京ならば、物凄い固定資産税がかかってしまい、積極的に商売を行わないと、維持管理は難しいのかもしれない。
松江町にある「原田家住宅」です。佐久間旅館の隣にある立派な住宅です。屋号は”足立屋”で、元穀物問屋。1896(明治29年)築、川越市指定文化財になっています。棟が高く、大きな鬼瓦、3つの観音開扉を持つ、黒塗り漆喰壁の美しい、重厚で威厳のある建物です。
『佐久間旅館』の看板は手前側のもので、蔵造りの原田家住宅とは無関係のもの。



佐久間旅館
将棋の趣味がなく全く知らなかったが、格式を誇る将棋の名人戦の会場となる名旅館とのこと。外から見ると、落ち着いた佇まいの高級旅館程度にしか見えないが、内部は本当に凄いのだろう。
奥の間は、島崎藤村の定宿、将棋の名人戦の会場としても知られる川越屈指の座敷です。明治44年建築、木造2階建ての洗練された書院造り。国の登録有形文化財に指定。


「うなぎ いちのや」
天保三年創業、一子相伝のたれを守り慶事・法事・顔合わせ等用途に合わせた席をご用意とある。入ってみたいと思った店構えだった。


以上で、今回の『川越』の記事は終了です。最後までお付き合いいただきありがとうございました。
川越キリスト教会
聖公会の教会。1889年(明治22年)に最初の礼拝堂が建てられたが、1893年(明治26年)の大火により焼失。その後1921年(大正10年)に現在地に再建されたとのこと。
現在の松江町にある煉瓦造りの礼拝堂は、大正9年(1920)年に着工、翌年の大正10年(1921)4月に完成しました。設計は立教大学新築のため来日したウイリアム・ウイルソン氏、施工は清水組(現清水建設)によって行われました。建物は東西に細長い切妻造り、平屋建で、総工費1万8,644円65銭(現在の貨幣価値で約1億3,000万円)を要したといいます。
川越キリスト教会の建物は昭和54年(1979)に日本建築学会の「近代の主要名建築」の一つに選ばれ、さらに平成13年(2001)には国の「登録有形文化財(建造物)」、および川越市の「都市景観重要建築物」の指定を受けました。蔦が煉瓦の外壁を這っていることから「蔦の教会」として親しまれています。

手前の人物との関係からも分かる通り、それほど大きな聖堂ではない。むしろこじんまりしている感じだ。

原田家住宅
むかしの羽振りの良さが伺える大きな蔵造りだ。東京ならば、物凄い固定資産税がかかってしまい、積極的に商売を行わないと、維持管理は難しいのかもしれない。
松江町にある「原田家住宅」です。佐久間旅館の隣にある立派な住宅です。屋号は”足立屋”で、元穀物問屋。1896(明治29年)築、川越市指定文化財になっています。棟が高く、大きな鬼瓦、3つの観音開扉を持つ、黒塗り漆喰壁の美しい、重厚で威厳のある建物です。
『佐久間旅館』の看板は手前側のもので、蔵造りの原田家住宅とは無関係のもの。



佐久間旅館
将棋の趣味がなく全く知らなかったが、格式を誇る将棋の名人戦の会場となる名旅館とのこと。外から見ると、落ち着いた佇まいの高級旅館程度にしか見えないが、内部は本当に凄いのだろう。
奥の間は、島崎藤村の定宿、将棋の名人戦の会場としても知られる川越屈指の座敷です。明治44年建築、木造2階建ての洗練された書院造り。国の登録有形文化財に指定。


「うなぎ いちのや」
天保三年創業、一子相伝のたれを守り慶事・法事・顔合わせ等用途に合わせた席をご用意とある。入ってみたいと思った店構えだった。


以上で、今回の『川越』の記事は終了です。最後までお付き合いいただきありがとうございました。
喜多院(2)
その他
慈恵堂…県指定有形文化財(建造物)
慈恵堂は、比叡山延暦寺第18代座主の慈恵大師良源(元三大師)をまつる堂宇です。大師堂として親しまれ、潮音殿とも呼びます。
裄行9間、梁間6間、入母屋造りで銅版葺。現在、喜多院の本堂として機能し、中央に慈恵大師、左右に不動明王をお祀りし、毎日不動護摩供を厳修しています。
川越大火の翌年、寛永16年(1639)10月に大火以後、いち早く再建され、近世初期の天台宗本堂の遺構として貴重なものです。
昭和46年度から4年間にわたり解体修理が行われました。


多宝塔…県指定有形文化財(建造物)
この多宝塔が国の重要文化財に指定されていなかったのはやや意外だったが、下記説明にあるような明治末の移築に際しての大幅改造が響いているのかもしれない。
多宝塔は、寛永16年(1639)に、山門と日枝神社の間にあった古墳の上に建立されました。その後、老朽化が進んだため、明治43年(1910)に慈恵堂と庫裏玄関との渡り廊下中央部分に移築されました。
ただし、移築に際し大幅に改造されていたので、昭和48年(1973)に現在地に移し解体修理を実施し復元しました。
総高13m、方三間の多宝塔で本瓦葺、上層は方形、上層は円形、その上に宝形造りの屋根がのります。
江戸時代初期の多宝塔の特徴が表れています。



五百羅漢
定義はまちまちで、川越が含まれていない数え方もある。どのみち、目黒の五百羅漢は含まれないようだ。
日本三大羅漢の一つに数えられています。この五百余りの羅漢さまは、川越北田島の志誠(しじょう)の発願により、天明2年(1782)から文政8年(1825)の約50年間にわたり建立されたものです。
十大弟子、十六羅漢を含め、533体のほか、中央高座の大仏に釈迦如来、脇侍の文殊・普腎の両菩薩、左右高座の阿弥陀如来、地蔵菩薩を合わせ、全部で538体が鎮座しています。
羅漢とは、阿羅漢の略称で、漢訳は応供(おうぐ)。尊敬や施しを受けるに相応しい聖者という意味です。




どろぼうはし
昔、この橋は、一本の丸木橋であったといわれ、これは、その頃の話である。
ここ喜多院と東照宮の境内地は御神領で、江戸幕府の御朱印地でもあり、川越藩の町奉行では捕まえることができないことを知っていた一人の盗賊が、町奉行の捕り方に追われ、この橋から境内に逃げこんだ。しかし、盗賊は寺男たちに捕らえられ、寺僧に諭され悪いことがふりかかる恐ろしさを知った。
盗賊は、厄除元三大師に心から罪を許してもらえるよう祈り、ようやく真人間に立ち直ることができた。そこで寺では幕府の寺社奉行にその処置を願い出たところ、無罪放免の許しが出た。その後、町方の商家に奉公先を世話されると、全く悪事を働くことなくまじめに一生を過ごしたという。
この話は大師の無限の慈悲を物語る話として伝わっており、それ以来、この橋を「どろぼうばし」というようになったということである。

仙波東照宮
実は川越で私が一番見たかったところだった。今の扱いは粗末な感じがしてならない。時代が変わったのだと感じた。
元和2年(1616年)に薨去した祭神の法要は、久能山から日光山に改葬される際の元和3年(1617年)に、江戸幕府の「黒衣の宰相」と称された天台宗の僧侶・天海によって喜多院で行われ、後水尾天皇から東照大権現の勅額が下賜され、同年にその地に天海によって創建された。1638年(寛永15年)の川越大火で焼失するが、徳川家光によって川越藩主で老中の堀田正盛が造営奉行に命ぜられ、幕府によって再建された。江戸時代を通じ社殿や神器等全て江戸幕府直営であった。
本殿には木像の家康公像が祀られている。石鳥居は寛永15年(1638年)に堀田正盛が奉納したもの。本殿のまわりには歴代の川越藩主が献燈した石灯籠が並ぶ。拝殿にある三十六歌仙絵額は岩佐又兵衛筆で知られ国宝。岩槻藩主の阿部重次が奉納した「鷹絵額十二面」は狩野探幽作で知られる。

国指定の重要文化財
本殿(附:宮殿、棟札)
瑞垣
唐門




拝殿及び幣殿
幣殿部分は拝殿の陰に隠れていて撮ることが出来なかった。




石鳥居

随身門

工事中だったため、FREEの画像を借用
その他
慈恵堂…県指定有形文化財(建造物)
慈恵堂は、比叡山延暦寺第18代座主の慈恵大師良源(元三大師)をまつる堂宇です。大師堂として親しまれ、潮音殿とも呼びます。
裄行9間、梁間6間、入母屋造りで銅版葺。現在、喜多院の本堂として機能し、中央に慈恵大師、左右に不動明王をお祀りし、毎日不動護摩供を厳修しています。
川越大火の翌年、寛永16年(1639)10月に大火以後、いち早く再建され、近世初期の天台宗本堂の遺構として貴重なものです。
昭和46年度から4年間にわたり解体修理が行われました。


多宝塔…県指定有形文化財(建造物)
この多宝塔が国の重要文化財に指定されていなかったのはやや意外だったが、下記説明にあるような明治末の移築に際しての大幅改造が響いているのかもしれない。
多宝塔は、寛永16年(1639)に、山門と日枝神社の間にあった古墳の上に建立されました。その後、老朽化が進んだため、明治43年(1910)に慈恵堂と庫裏玄関との渡り廊下中央部分に移築されました。
ただし、移築に際し大幅に改造されていたので、昭和48年(1973)に現在地に移し解体修理を実施し復元しました。
総高13m、方三間の多宝塔で本瓦葺、上層は方形、上層は円形、その上に宝形造りの屋根がのります。
江戸時代初期の多宝塔の特徴が表れています。



五百羅漢
定義はまちまちで、川越が含まれていない数え方もある。どのみち、目黒の五百羅漢は含まれないようだ。
日本三大羅漢の一つに数えられています。この五百余りの羅漢さまは、川越北田島の志誠(しじょう)の発願により、天明2年(1782)から文政8年(1825)の約50年間にわたり建立されたものです。
十大弟子、十六羅漢を含め、533体のほか、中央高座の大仏に釈迦如来、脇侍の文殊・普腎の両菩薩、左右高座の阿弥陀如来、地蔵菩薩を合わせ、全部で538体が鎮座しています。
羅漢とは、阿羅漢の略称で、漢訳は応供(おうぐ)。尊敬や施しを受けるに相応しい聖者という意味です。




どろぼうはし
昔、この橋は、一本の丸木橋であったといわれ、これは、その頃の話である。
ここ喜多院と東照宮の境内地は御神領で、江戸幕府の御朱印地でもあり、川越藩の町奉行では捕まえることができないことを知っていた一人の盗賊が、町奉行の捕り方に追われ、この橋から境内に逃げこんだ。しかし、盗賊は寺男たちに捕らえられ、寺僧に諭され悪いことがふりかかる恐ろしさを知った。
盗賊は、厄除元三大師に心から罪を許してもらえるよう祈り、ようやく真人間に立ち直ることができた。そこで寺では幕府の寺社奉行にその処置を願い出たところ、無罪放免の許しが出た。その後、町方の商家に奉公先を世話されると、全く悪事を働くことなくまじめに一生を過ごしたという。
この話は大師の無限の慈悲を物語る話として伝わっており、それ以来、この橋を「どろぼうばし」というようになったということである。

仙波東照宮
実は川越で私が一番見たかったところだった。今の扱いは粗末な感じがしてならない。時代が変わったのだと感じた。
元和2年(1616年)に薨去した祭神の法要は、久能山から日光山に改葬される際の元和3年(1617年)に、江戸幕府の「黒衣の宰相」と称された天台宗の僧侶・天海によって喜多院で行われ、後水尾天皇から東照大権現の勅額が下賜され、同年にその地に天海によって創建された。1638年(寛永15年)の川越大火で焼失するが、徳川家光によって川越藩主で老中の堀田正盛が造営奉行に命ぜられ、幕府によって再建された。江戸時代を通じ社殿や神器等全て江戸幕府直営であった。
本殿には木像の家康公像が祀られている。石鳥居は寛永15年(1638年)に堀田正盛が奉納したもの。本殿のまわりには歴代の川越藩主が献燈した石灯籠が並ぶ。拝殿にある三十六歌仙絵額は岩佐又兵衛筆で知られ国宝。岩槻藩主の阿部重次が奉納した「鷹絵額十二面」は狩野探幽作で知られる。

国指定の重要文化財
本殿(附:宮殿、棟札)
瑞垣
唐門




拝殿及び幣殿
幣殿部分は拝殿の陰に隠れていて撮ることが出来なかった。




石鳥居

随身門

工事中だったため、FREEの画像を借用

成田山川越別院
喜多院の手前にあるので、こちらも回ってみた。
成田山川越別院本行院は、埼玉県川越市にある真言宗智山派の寺院。成田山新勝寺(千葉県成田市)の別院で、通称は川越不動。毎月28日には蚤の市(骨董市)で、11月には火渡り祭(柴灯護摩)で賑わう。


喜多院(1)
慶長4年(1599年)、徳川家の尊崇が厚かった天海僧正が第27世住職として入寺し、寺号を喜多院と改めた。川越藩主となった老中酒井忠利は喜多院の再興に当たった。慶長18年(1613年)には徳川秀忠の関東天台法度により関東天台総本山と定められ、500石の寺領を賜った。寛永15年(1638年)、川越大火で山門と経蔵以外の伽藍を焼失するが、翌年、徳川家光の命で、江戸城紅葉山御殿の一部を移築した。これが今に残る客殿、書院、庫裏であり、これらを運ぶために新河岸川の舟運が開かれた。川越藩主を経て幕閣で老中にあった堀田正盛は喜多院や仙波東照宮再建の奉行を命ぜられ、天海を助けた。4代将軍・徳川家綱は200石を加増し750石・寺域48,000坪の大寺となり、徳川家に厚く保護され隆盛した。
境内や周辺には五百羅漢をはじめ、多くの史跡などが有ります。江戸城から移築された、家光誕生の間や春日局間も残っています。
国指定の重要文化財
建物内部は撮影禁止。どういう考えに基づいてこのような扱いにしているのかはわからないが、商売上手だという印象しか湧いてこない。
客殿(附:渡廊)
寛永15年(1638年)建立。「徳川家光誕生の間」がある。
FREE画像を借用

書院
寛永16年(1639年)建立。「春日局化粧の間」がある。
FREE画像を借用

庫裏(附:玄関・玄関広間・渡廊及び接続室〔合1棟〕)
寛永15年(1638年)建立
FREE画像を借用



慈眼堂(附:厨子)
下記の通り、小高い丘の上にある。この丘は7世紀初頭の古墳だそうだ。現在ならば、文化財の上に建物を建てるなど到底許されることではなかろうが、江戸の頃の話だ。それこそお上の強い意向が働いたのだろう。
慈眼堂は、慈眼大師天海をまつる御堂です。
天海僧正は、寛永20年(1643)10月2日寛永寺において入寂されました。
正保2年(1645)に徳川家光公の命によりこの御堂が建てられ、厨子に入った天海僧正の木像が安置されました。建物は、裄行3間、梁間3間の比較的小さな御堂で、屋根は中央から四方の隅へ流れる宝行造り、本瓦葺。
小高い丘の上にあり、この丘は7世紀初頭の古墳を利用しています。


山門(附:棟札)
またもや見落とした
山門は四脚門、切妻造で本瓦葺もとは後奈良天皇の「星野山」の刺額が掲げられていた。
冠木の上の斗供に表には竜と虎、裏に唐獅子の彫りものがあるほか装飾らしい装飾もないが、全体の手法が手堅い重厚さをもっている。棟札も残っており、天界僧正が寛永九年(1632)に建立したもので同十五年の大火を免がれた喜多院では最古の建造物である。山門の右側に接続して建っているのが番所で間口十尺(3.03m)、奥行二間半(4.55m)、起屋根、瓦葺の小建築で徳川中期以降の手法によるもので、県内に残るただ一棟の遺構である。
FREE画像を借用

鐘楼門(附:銅鐘)
2階建ての階上に梵鐘を吊るすこの鐘楼門は、裄行3間、梁間2間、入母屋造りで本瓦葺。
1階には袴腰と呼ばれる囲いが付き、2階の前面には竜、背面には鷹の彫刻があります。
建立年代ははっきりとしていませんが、寛永10年(1633)に東照宮の門として鐘楼門が建立されたことが「星野山御建立記」の記録にみえます。その頃、東照宮は今の慈眼堂の場所にあり、鐘楼門再建の記録もないことから寛永15年(1638)の川越大火で焼失を免れた可能性もあるといわれています。
なお、階上の銅鐘は元禄15年(1702)の銘があります。
如何にも残念な感じの佇まいだが、こちら側が一応は前面だ。龍が彫られている。

こちらが背面。鳥の彫刻は鷹だそうだ。

喜多院の手前にあるので、こちらも回ってみた。
成田山川越別院本行院は、埼玉県川越市にある真言宗智山派の寺院。成田山新勝寺(千葉県成田市)の別院で、通称は川越不動。毎月28日には蚤の市(骨董市)で、11月には火渡り祭(柴灯護摩)で賑わう。


喜多院(1)
慶長4年(1599年)、徳川家の尊崇が厚かった天海僧正が第27世住職として入寺し、寺号を喜多院と改めた。川越藩主となった老中酒井忠利は喜多院の再興に当たった。慶長18年(1613年)には徳川秀忠の関東天台法度により関東天台総本山と定められ、500石の寺領を賜った。寛永15年(1638年)、川越大火で山門と経蔵以外の伽藍を焼失するが、翌年、徳川家光の命で、江戸城紅葉山御殿の一部を移築した。これが今に残る客殿、書院、庫裏であり、これらを運ぶために新河岸川の舟運が開かれた。川越藩主を経て幕閣で老中にあった堀田正盛は喜多院や仙波東照宮再建の奉行を命ぜられ、天海を助けた。4代将軍・徳川家綱は200石を加増し750石・寺域48,000坪の大寺となり、徳川家に厚く保護され隆盛した。
境内や周辺には五百羅漢をはじめ、多くの史跡などが有ります。江戸城から移築された、家光誕生の間や春日局間も残っています。
国指定の重要文化財
建物内部は撮影禁止。どういう考えに基づいてこのような扱いにしているのかはわからないが、商売上手だという印象しか湧いてこない。
客殿(附:渡廊)
寛永15年(1638年)建立。「徳川家光誕生の間」がある。
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書院
寛永16年(1639年)建立。「春日局化粧の間」がある。
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庫裏(附:玄関・玄関広間・渡廊及び接続室〔合1棟〕)
寛永15年(1638年)建立
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慈眼堂(附:厨子)
下記の通り、小高い丘の上にある。この丘は7世紀初頭の古墳だそうだ。現在ならば、文化財の上に建物を建てるなど到底許されることではなかろうが、江戸の頃の話だ。それこそお上の強い意向が働いたのだろう。
慈眼堂は、慈眼大師天海をまつる御堂です。
天海僧正は、寛永20年(1643)10月2日寛永寺において入寂されました。
正保2年(1645)に徳川家光公の命によりこの御堂が建てられ、厨子に入った天海僧正の木像が安置されました。建物は、裄行3間、梁間3間の比較的小さな御堂で、屋根は中央から四方の隅へ流れる宝行造り、本瓦葺。
小高い丘の上にあり、この丘は7世紀初頭の古墳を利用しています。


山門(附:棟札)
またもや見落とした
山門は四脚門、切妻造で本瓦葺もとは後奈良天皇の「星野山」の刺額が掲げられていた。
冠木の上の斗供に表には竜と虎、裏に唐獅子の彫りものがあるほか装飾らしい装飾もないが、全体の手法が手堅い重厚さをもっている。棟札も残っており、天界僧正が寛永九年(1632)に建立したもので同十五年の大火を免がれた喜多院では最古の建造物である。山門の右側に接続して建っているのが番所で間口十尺(3.03m)、奥行二間半(4.55m)、起屋根、瓦葺の小建築で徳川中期以降の手法によるもので、県内に残るただ一棟の遺構である。
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鐘楼門(附:銅鐘)
2階建ての階上に梵鐘を吊るすこの鐘楼門は、裄行3間、梁間2間、入母屋造りで本瓦葺。
1階には袴腰と呼ばれる囲いが付き、2階の前面には竜、背面には鷹の彫刻があります。
建立年代ははっきりとしていませんが、寛永10年(1633)に東照宮の門として鐘楼門が建立されたことが「星野山御建立記」の記録にみえます。その頃、東照宮は今の慈眼堂の場所にあり、鐘楼門再建の記録もないことから寛永15年(1638)の川越大火で焼失を免れた可能性もあるといわれています。
なお、階上の銅鐘は元禄15年(1702)の銘があります。
如何にも残念な感じの佇まいだが、こちら側が一応は前面だ。龍が彫られている。

こちらが背面。鳥の彫刻は鷹だそうだ。


川越城本丸御殿(2)

槍の間

広間
この広間は、城内の会議を行うときに使用された部屋で、普段は、留守居役のようなものが詰めていたとのことだ。





櫛形塀
ちょっとした目隠しなのだろうか


大書院のあった辺り
この庭になっている辺り、さらに塀の向こう側にかけて、藩主の居場所などがあったとのこと。上図にある通り、全体の六分の一くらいし残っていない。めぼしいものが無いのも無理からぬ話しだ。

中の口
玄関から向かって右端。『中の口』という玄関だそうだ。


富士見櫓跡
いまは完全に離れた場所にある感じだが、昔はお濠の内側にあった。この高さではキツイが、ここに櫓があれば、多少見通しが利いたのかもしれない。

殆ど観光客が立ち寄ることは無さそうだが、地元の人達が熱心に清掃を行なっていた。その姿を喜多院の関係者たちに見せてあげたいくらいだ。


小江戸循環バス
こんなものもあったんだ

槍の間

広間
この広間は、城内の会議を行うときに使用された部屋で、普段は、留守居役のようなものが詰めていたとのことだ。





櫛形塀
ちょっとした目隠しなのだろうか


大書院のあった辺り
この庭になっている辺り、さらに塀の向こう側にかけて、藩主の居場所などがあったとのこと。上図にある通り、全体の六分の一くらいし残っていない。めぼしいものが無いのも無理からぬ話しだ。

中の口
玄関から向かって右端。『中の口』という玄関だそうだ。


富士見櫓跡
いまは完全に離れた場所にある感じだが、昔はお濠の内側にあった。この高さではキツイが、ここに櫓があれば、多少見通しが利いたのかもしれない。

殆ど観光客が立ち寄ることは無さそうだが、地元の人達が熱心に清掃を行なっていた。その姿を喜多院の関係者たちに見せてあげたいくらいだ。


小江戸循環バス
こんなものもあったんだ

川越城のイメージ

川越城中ノ門堀跡
堀割が全て埋められ、少し離れたところに本丸御殿の一部が残るのみなのでイメージしにくいと思う。上の川越城図を見ながら何とかイメージしていただきたい。
今は無き川越城の遺構「中ノ門堀跡」。室町時代(長禄元年/1457)、太田道真・道灌父子によって建てられた川越城は、江戸時代(寛永16年/1639)に川越藩主となった松平信綱によって、大拡張工事が行われました。それにより、約2倍の規模の近代的城郭になった川越城。しかしまだ天下が収まって間もない時代だったので、戦いを想定し造られたのが、この中ノ門と中ノ門堀です。





川越城本丸御殿(1)
係員に聞いたところ、代々幕府の重臣が城主となっていたため、城主が姿を見せることはごくまれであったそうだ。城主がいた辺りは取り壊されてしまっていて、残っていないとのことだ。外から見た感じも立派だったが、中も質素ながらしっかりとした造りだった。
川越城図

川越城は、長禄元年(1457)に、上杉持朝の命により、家臣の太田道真・道灌親子が築いたといわれる。
江戸時代には江戸の北の守りとして重要視され、代々幕府の重臣が城主となっていた。現存する建物は嘉永元年(1848)に時の藩主松平斉典(なりつね)が造営したもので、16棟、1025坪の規模をもっていたが、明治維新後次第に解体されていったそうだ。現在は、本丸御殿の一部として玄関・大広間・家老詰所が残り、川越藩17万石の風格をしのばせています。
玄関



使者の間
広間の左隣りの部屋。他の部屋よりは若干広い。

頑丈そうな廊下
東側の床板には、表側の通路だったので高価な欅の板が使われているそうだ。

使番詰所

番抜・老体詰所

物頭詰所

中庭側廊下
西側の床板には、裏側通路(本来は家老詰所につながる廊下ではなかった)だったので、材質を少し落として栂が使われているとのこと。欅ほどには良くは見えないのかもしれない。

先のほうに廊下の幅がが少し狭いところが見えるが、広間の床の間がはみ出した分とのことだ。

坊主当番詰

家老詰所へ
上掲の川越城図のとおりもう少し離れた場所にあったものだったようだ。


家老詰所
家老詰所は、明治6年(1873)上福岡市の福田屋の分家に移築され昭和62年まで母屋として使用されていたものである。
これをもらい受け修理復元した。
光西寺に残された平面図を見ると、この建物は本丸御殿の奥に土塀で囲まれた家老という重職の居所であり、全国的にも貴重なものである。
家老詰所廊下
畳敷きになっていた

家老用部屋
光西寺に残されている絵図には「御老中」と書かれている。
10畳敷で、床の間と床脇を備えている。
川越藩は、江戸幕府にとって有力な大名であった為に、藩主は、年間を通じて江戸に詰めており、川越藩の政務は、家老を中心として行われていたと考えられ、この部屋が、その中心であった。
床の間を背にした武士を中心として協議が進められている。


川越城中ノ門堀跡
堀割が全て埋められ、少し離れたところに本丸御殿の一部が残るのみなのでイメージしにくいと思う。上の川越城図を見ながら何とかイメージしていただきたい。
今は無き川越城の遺構「中ノ門堀跡」。室町時代(長禄元年/1457)、太田道真・道灌父子によって建てられた川越城は、江戸時代(寛永16年/1639)に川越藩主となった松平信綱によって、大拡張工事が行われました。それにより、約2倍の規模の近代的城郭になった川越城。しかしまだ天下が収まって間もない時代だったので、戦いを想定し造られたのが、この中ノ門と中ノ門堀です。





川越城本丸御殿(1)
係員に聞いたところ、代々幕府の重臣が城主となっていたため、城主が姿を見せることはごくまれであったそうだ。城主がいた辺りは取り壊されてしまっていて、残っていないとのことだ。外から見た感じも立派だったが、中も質素ながらしっかりとした造りだった。
川越城図

川越城は、長禄元年(1457)に、上杉持朝の命により、家臣の太田道真・道灌親子が築いたといわれる。
江戸時代には江戸の北の守りとして重要視され、代々幕府の重臣が城主となっていた。現存する建物は嘉永元年(1848)に時の藩主松平斉典(なりつね)が造営したもので、16棟、1025坪の規模をもっていたが、明治維新後次第に解体されていったそうだ。現在は、本丸御殿の一部として玄関・大広間・家老詰所が残り、川越藩17万石の風格をしのばせています。
玄関



使者の間
広間の左隣りの部屋。他の部屋よりは若干広い。

頑丈そうな廊下
東側の床板には、表側の通路だったので高価な欅の板が使われているそうだ。

使番詰所

番抜・老体詰所

物頭詰所

中庭側廊下
西側の床板には、裏側通路(本来は家老詰所につながる廊下ではなかった)だったので、材質を少し落として栂が使われているとのこと。欅ほどには良くは見えないのかもしれない。

先のほうに廊下の幅がが少し狭いところが見えるが、広間の床の間がはみ出した分とのことだ。

坊主当番詰

家老詰所へ
上掲の川越城図のとおりもう少し離れた場所にあったものだったようだ。


家老詰所
家老詰所は、明治6年(1873)上福岡市の福田屋の分家に移築され昭和62年まで母屋として使用されていたものである。
これをもらい受け修理復元した。
光西寺に残された平面図を見ると、この建物は本丸御殿の奥に土塀で囲まれた家老という重職の居所であり、全国的にも貴重なものである。
家老詰所廊下
畳敷きになっていた

家老用部屋
光西寺に残されている絵図には「御老中」と書かれている。
10畳敷で、床の間と床脇を備えている。
川越藩は、江戸幕府にとって有力な大名であった為に、藩主は、年間を通じて江戸に詰めており、川越藩の政務は、家老を中心として行われていたと考えられ、この部屋が、その中心であった。
床の間を背にした武士を中心として協議が進められている。


幸町(旧多賀町周辺)(2)
時の鐘
川越のランドマークともいうべき『時の鐘』。思っていた以上に急勾配で高さも高い。見た通りの立派な鐘で、旧市街地のどこにいても聞こえてくるのだろうと思っていた。正午の鐘が鳴る時間には喜多院にいたが、聞こえて来なかった。おりからの激しい雨音でかき消されてしまったのだろうか。
時の鐘は、寛永4年から11年(1627~1634)の間に川越城主酒井忠勝が、城下多賀町(いまの幸町)に建てたものが最初といわれています。
現在の鐘楼は、明治26年(1893)に起きた川越大火の翌年に再建されたもの。3層構造で、高さ約16メートル。創建された江戸時代の初期から、暮らしに欠かせない「時」を告げてきた川越のシンボルです。現在、1日に4回(午前6時・正午・午後3時・午後6時)、蔵造りの町並みに鐘の音を響かせています。
次の3ショットはFUJIFILM X20で撮った









薬師神社
時の鐘の奥にある神社。五穀豊穣・家運降昌・特に病気平癒のご利益があり眼病には著しい効果があるとされ、向かって右奥の稲荷社は出世開運合格に著しいご利益があるとされる。

時の鐘
川越のランドマークともいうべき『時の鐘』。思っていた以上に急勾配で高さも高い。見た通りの立派な鐘で、旧市街地のどこにいても聞こえてくるのだろうと思っていた。正午の鐘が鳴る時間には喜多院にいたが、聞こえて来なかった。おりからの激しい雨音でかき消されてしまったのだろうか。
時の鐘は、寛永4年から11年(1627~1634)の間に川越城主酒井忠勝が、城下多賀町(いまの幸町)に建てたものが最初といわれています。
現在の鐘楼は、明治26年(1893)に起きた川越大火の翌年に再建されたもの。3層構造で、高さ約16メートル。創建された江戸時代の初期から、暮らしに欠かせない「時」を告げてきた川越のシンボルです。現在、1日に4回(午前6時・正午・午後3時・午後6時)、蔵造りの町並みに鐘の音を響かせています。
次の3ショットはFUJIFILM X20で撮った









薬師神社
時の鐘の奥にある神社。五穀豊穣・家運降昌・特に病気平癒のご利益があり眼病には著しい効果があるとされ、向かって右奥の稲荷社は出世開運合格に著しいご利益があるとされる。


幸町(旧多賀町周辺)(1)
瀧島重蔵氏宅 屋号熊重(酒類販売店)
川越市幸町の一番街と鐘つき通りの角地に建つ熊重酒店。明治28年建造の有形文化財「滝島家住宅」。屋号を「熊野屋」とし、当初からお酒の小売店を営んでいたそうだ。
他の蔵造りでは2階の分厚い観音開扉が重厚にして防火の役割を果たしている。しかし瀧島家住宅の場合は、銅版などで仕上げ、薄くすることにより重厚感は薄れたものの、機能的な役割は十分に果たしているようだ。また、影盛を簡素にすることで、派手さを抑えた蔵造りにしている。写真を見ると、本当に質素な感じに見えるが、もしかしたら地震などには近隣では一番強い建物なのかもしれないなと思った。

近江屋長兵衛商店
川越市幸町の鐘つき通り入口に、手作り豆腐の店・近江屋長兵衛商店がある。ここはいわゆる蔵造りではないが、それなりに趣きのある家屋だ。写真を撮りそこねたが、一番街に面した一階部分の瓦屋根には、近長の文字が入った台座の上に布袋尊の像を載せてある。側面に掲げてあるイラストのとおりだ。

福田家住宅
福田家住宅は、福田家2代目が洋服店を営む為に購入した建物で、建造時は銀行だったそうだ。1階は扉両端は土蔵壁の戸袋を造り、2階は観音開扉が1つ。側面には窓すらない。銀行だった所為か防犯の検知からあえて閉鎖的に造りにしてあるようだ。
かなり小さく、今でもATMコーナーほどの大きさしかないように見える。その昔も同様の位置づけだったのかもしれない。
説明によると、川越に多い切妻造の平入ではなく、寄棟造の妻入なのだそうだ。そう言われても恥ずかしながらよくわからない。

ちょっと離れた川越市役所前
百丈(手打ちそば)
蔵造りばかりでなく看板建築もあったんだ。建物の側面に剥がれかかっているが、『つり具』の文字が見えている。
1999年7月16日、国の登録有形文化財に指定されました。百丈は、もとは湯宮釣具店として1930年に建築されました。木造3階建て、銅板ぶきの店舗併用住宅です。これは「看板建築」で、関東大震災後、東京下町を中心に建てられた、商人の粋と見栄の商店建築のことです。多くは時代の流れの中で壊されてしまったため、現存するものは貴重とされています。活用しつつ保存していることが評価されました。 蔵造りとはまたちがった川越商人の文化です。

瀧島重蔵氏宅 屋号熊重(酒類販売店)
川越市幸町の一番街と鐘つき通りの角地に建つ熊重酒店。明治28年建造の有形文化財「滝島家住宅」。屋号を「熊野屋」とし、当初からお酒の小売店を営んでいたそうだ。
他の蔵造りでは2階の分厚い観音開扉が重厚にして防火の役割を果たしている。しかし瀧島家住宅の場合は、銅版などで仕上げ、薄くすることにより重厚感は薄れたものの、機能的な役割は十分に果たしているようだ。また、影盛を簡素にすることで、派手さを抑えた蔵造りにしている。写真を見ると、本当に質素な感じに見えるが、もしかしたら地震などには近隣では一番強い建物なのかもしれないなと思った。

近江屋長兵衛商店
川越市幸町の鐘つき通り入口に、手作り豆腐の店・近江屋長兵衛商店がある。ここはいわゆる蔵造りではないが、それなりに趣きのある家屋だ。写真を撮りそこねたが、一番街に面した一階部分の瓦屋根には、近長の文字が入った台座の上に布袋尊の像を載せてある。側面に掲げてあるイラストのとおりだ。

福田家住宅
福田家住宅は、福田家2代目が洋服店を営む為に購入した建物で、建造時は銀行だったそうだ。1階は扉両端は土蔵壁の戸袋を造り、2階は観音開扉が1つ。側面には窓すらない。銀行だった所為か防犯の検知からあえて閉鎖的に造りにしてあるようだ。
かなり小さく、今でもATMコーナーほどの大きさしかないように見える。その昔も同様の位置づけだったのかもしれない。
説明によると、川越に多い切妻造の平入ではなく、寄棟造の妻入なのだそうだ。そう言われても恥ずかしながらよくわからない。

ちょっと離れた川越市役所前
百丈(手打ちそば)
蔵造りばかりでなく看板建築もあったんだ。建物の側面に剥がれかかっているが、『つり具』の文字が見えている。
1999年7月16日、国の登録有形文化財に指定されました。百丈は、もとは湯宮釣具店として1930年に建築されました。木造3階建て、銅板ぶきの店舗併用住宅です。これは「看板建築」で、関東大震災後、東京下町を中心に建てられた、商人の粋と見栄の商店建築のことです。多くは時代の流れの中で壊されてしまったため、現存するものは貴重とされています。活用しつつ保存していることが評価されました。 蔵造りとはまたちがった川越商人の文化です。


幸町から元町(旧南町周辺)(2)
大沢家住宅 屋号小松屋(履物商)
残念ながら見落としてしまった。
明治26年(1893年)の川越大火の焼失を免れた川越最古の蔵造りで、現存する関東地方最古の蔵造りでもある。国の重要文化財の指定を受けている。 現在の屋号から「小松屋」とも呼ばれている。
寛政4年(1792年)に近江国出身で呉服太物の近江屋を営んでいた豪商・西村半右衛門が建てた蔵造りの店舗建築。川越大火で例外的に焼失を免れ、そこから川越商人が蔵造りの町家を次々に建設する契機となった。昭和46年(1971年)に国の重要文化財の指定を受け、また、平成元年(1989年)より5年間を費やし大規模な修理が行なわれ、創建当時の姿に甦った。
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旧小山家住宅 蔵造り資料館
一瞥して素通りしてしまったが、よく見ておくべき建物だった。
明治26年(1893年)3月17日の川越大火の直後に建築が始められ同年12月に完工した蔵造りの商家を博物館にしたもの。煙草卸問屋だった小山文造が建てた「万文」(まんぶん)で、小山家は江戸時代から刻み煙草などを製造していた豪商で、明治時代に煙草が専売制度となると「煙草元売捌人」に指定され財を成した。
川越の象徴である蔵造りであるが、蔵造りが文化財であるという文化的な視点は昭和50年代の半ばまでの川越市の行政には全く無く、蔵造りが集中する川越一番街のある埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線の道路の拡幅を計画したり、また蔵造りの町並みが虫喰い的に破壊され高層住宅に変わっていっても何ら危機感も対策もなく、そうした市の行政の意識の低さが旧市街地がすさみ斜陽化していた原因であった。今日、川越で蔵造りの家並が残っているのは住民主導の保存運動の賜物である。


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大沢家住宅 屋号小松屋(履物商)
残念ながら見落としてしまった。
明治26年(1893年)の川越大火の焼失を免れた川越最古の蔵造りで、現存する関東地方最古の蔵造りでもある。国の重要文化財の指定を受けている。 現在の屋号から「小松屋」とも呼ばれている。
寛政4年(1792年)に近江国出身で呉服太物の近江屋を営んでいた豪商・西村半右衛門が建てた蔵造りの店舗建築。川越大火で例外的に焼失を免れ、そこから川越商人が蔵造りの町家を次々に建設する契機となった。昭和46年(1971年)に国の重要文化財の指定を受け、また、平成元年(1989年)より5年間を費やし大規模な修理が行なわれ、創建当時の姿に甦った。
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旧小山家住宅 蔵造り資料館
一瞥して素通りしてしまったが、よく見ておくべき建物だった。
明治26年(1893年)3月17日の川越大火の直後に建築が始められ同年12月に完工した蔵造りの商家を博物館にしたもの。煙草卸問屋だった小山文造が建てた「万文」(まんぶん)で、小山家は江戸時代から刻み煙草などを製造していた豪商で、明治時代に煙草が専売制度となると「煙草元売捌人」に指定され財を成した。
川越の象徴である蔵造りであるが、蔵造りが文化財であるという文化的な視点は昭和50年代の半ばまでの川越市の行政には全く無く、蔵造りが集中する川越一番街のある埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線の道路の拡幅を計画したり、また蔵造りの町並みが虫喰い的に破壊され高層住宅に変わっていっても何ら危機感も対策もなく、そうした市の行政の意識の低さが旧市街地がすさみ斜陽化していた原因であった。今日、川越で蔵造りの家並が残っているのは住民主導の保存運動の賜物である。


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幸町から元町(旧南町周辺)(1)
南町(みなみまち)は札の辻(ふだのつじ、城下町の中心として高札が立てられた場所)から見て南に当たるので、この名がつきました。現在は幸町です。その幸町一番街周辺は江戸時代から明治・大正時代にかけて川越の中心街でした。
明治26年(1893)、川越始まって以来の大火により町は壊滅的な被害を受けました。この幸町一帯もほとんど焼失しましたが、大沢家住宅をはじめ数軒の蔵造りの家は焼け残りました。焼け野原の中に歴然とその姿をとどめる蔵造り。この大火によって蔵造りが火災に強いことが実証され、復興にあたり町の商人たちはこぞって蔵造りを建て始めました。明治35年(1902)には70軒ほどありましたが戦後は次々と建てかえられ、現在は30余軒を残すだけとなっています。
『札の辻』か、東京の三田にもそういうところがあったなあ。あそこは城下町の中心だったとは思えないが。まあ、そんなことはどうでもよい。
この辺から蔵造りのオンパレード。少し離れてみるのが一番きれいに見える。近づいてみると、それなりに建物がくたびれてきているし、蔵造りの商店ばかりではないことがわかる。そうはいうものの壮観なものだ。
平日水曜日の比較的朝が早い時間帯だったので、人通りはごく少なかった。毎日がこういうふうだと干上がってしまうかもしれないが、そんなことは無さそうだ。




亀屋栄泉
亀屋栄泉は明治から川越のサツマイモを原料にしたお菓子の製造販売を続けている店。2階には『芋菓子の歴史館』という資料館がある。

次の2ショットはFUJIFILM X20で撮った


原家住宅 陶舗やまわ
一番目立つ蔵造りかもしれない。川越大火直後の明治26年に、元々呉服商を営む山本平兵衛が建てた蔵造り。NHK『つばさ」の川越市内ロケで、川越にある老舗の和菓子屋「甘玉堂」は、やまわを借りて撮影が行われたとのこと。




宮岡家住宅 屋号町勘(金物店)
「時の鐘」入口前にある江戸時代から続く刃物の専門店、通称 まちかん。建物は明治30年(1897)の建築。
小谷野家住宅 屋号深善(美術品表装店)
深善美術表具店は元文3年(1738)創業、掛軸や額縁の製造・販売をしている。建物は明治28年(1895)の建築。


次の2ショットはFUJIFILM X20で撮った







平岩・水飼家住宅 床屋「銀パリ」、本屋「太陽堂」
平岩・水飼家住宅は、元々糸繭製茶煙草問屋を営んでいたそうだが、現在は床屋「銀パリ」と本屋「太陽堂」が店を構えている。
平岩・水飼家住宅の特徴は、「蔵造りの意匠を施した町家建築」にある。

南町(みなみまち)は札の辻(ふだのつじ、城下町の中心として高札が立てられた場所)から見て南に当たるので、この名がつきました。現在は幸町です。その幸町一番街周辺は江戸時代から明治・大正時代にかけて川越の中心街でした。
明治26年(1893)、川越始まって以来の大火により町は壊滅的な被害を受けました。この幸町一帯もほとんど焼失しましたが、大沢家住宅をはじめ数軒の蔵造りの家は焼け残りました。焼け野原の中に歴然とその姿をとどめる蔵造り。この大火によって蔵造りが火災に強いことが実証され、復興にあたり町の商人たちはこぞって蔵造りを建て始めました。明治35年(1902)には70軒ほどありましたが戦後は次々と建てかえられ、現在は30余軒を残すだけとなっています。
『札の辻』か、東京の三田にもそういうところがあったなあ。あそこは城下町の中心だったとは思えないが。まあ、そんなことはどうでもよい。
この辺から蔵造りのオンパレード。少し離れてみるのが一番きれいに見える。近づいてみると、それなりに建物がくたびれてきているし、蔵造りの商店ばかりではないことがわかる。そうはいうものの壮観なものだ。
平日水曜日の比較的朝が早い時間帯だったので、人通りはごく少なかった。毎日がこういうふうだと干上がってしまうかもしれないが、そんなことは無さそうだ。




亀屋栄泉
亀屋栄泉は明治から川越のサツマイモを原料にしたお菓子の製造販売を続けている店。2階には『芋菓子の歴史館』という資料館がある。

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原家住宅 陶舗やまわ
一番目立つ蔵造りかもしれない。川越大火直後の明治26年に、元々呉服商を営む山本平兵衛が建てた蔵造り。NHK『つばさ」の川越市内ロケで、川越にある老舗の和菓子屋「甘玉堂」は、やまわを借りて撮影が行われたとのこと。




宮岡家住宅 屋号町勘(金物店)
「時の鐘」入口前にある江戸時代から続く刃物の専門店、通称 まちかん。建物は明治30年(1897)の建築。
小谷野家住宅 屋号深善(美術品表装店)
深善美術表具店は元文3年(1738)創業、掛軸や額縁の製造・販売をしている。建物は明治28年(1895)の建築。


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平岩・水飼家住宅 床屋「銀パリ」、本屋「太陽堂」
平岩・水飼家住宅は、元々糸繭製茶煙草問屋を営んでいたそうだが、現在は床屋「銀パリ」と本屋「太陽堂」が店を構えている。
平岩・水飼家住宅の特徴は、「蔵造りの意匠を施した町家建築」にある。


幸町(旧鍛冶町周辺)
仲町交差点をあとに中央通りを北に向かって進むと、左手に西洋館が2つ並んで建っている。
田中屋ビル&山吉ビル
田中屋ビルが木造二階建ての土蔵造りだと聞いてびっくり。どう見てもそのようには見えない。
田中屋
田中屋は、一見石造りの洋館に見えますが、構造は木造二階建ての土蔵造り。現在は川越アートカフェ「カフェ エレバート」です。
旧山吉デパート
4本のイオニア式大列柱と壁面の唐草模様のレリーフが印象的な建物。「まるひろ」の前身です。現在は保刈歯科医院。




徳町荻野銅鐵店
ここは、明治26年の大火直後に多くの店が蔵造りに向かう中、町家造りで再建を行った堅実派。却って印象に残った。
明治26年の大火直後に建てられた町屋造りの建物(旧北野家)。代々「釜屋小兵衛」を名乗り金物商を営んでいました。


埼玉りそな銀行(川越支店)&小林家住宅 くらづくり本舗
恥ずかしながら、これらも見落としてしまった。
埼玉りそな銀行(川越支店)
大正7年(1918年)に旧国立八十五銀行本店として建てられ、国の登録有形文化財の指定を受けています。設計は保岡勝也という方。3階建てのインパクトがある佇まいは、時の鐘と共に川越のランドマーク的な存在です。外観の見学は自由。しかし建物内部の見学は残念ながら行われていません。
小林家住宅 くらづくり本舗
埼玉りそな銀行(旧八十五銀行本店)のお隣に、明治26年建造の有形文化財「小林家住宅」があります。
呉服・太物の卸し問屋を営む2代目小林佐平が建てた蔵造りで、現在は和菓子の「くらづくり本舗」が店を構えています。
FREEの写真を借用した

仲町交差点をあとに中央通りを北に向かって進むと、左手に西洋館が2つ並んで建っている。
田中屋ビル&山吉ビル
田中屋ビルが木造二階建ての土蔵造りだと聞いてびっくり。どう見てもそのようには見えない。
田中屋
田中屋は、一見石造りの洋館に見えますが、構造は木造二階建ての土蔵造り。現在は川越アートカフェ「カフェ エレバート」です。
旧山吉デパート
4本のイオニア式大列柱と壁面の唐草模様のレリーフが印象的な建物。「まるひろ」の前身です。現在は保刈歯科医院。




徳町荻野銅鐵店
ここは、明治26年の大火直後に多くの店が蔵造りに向かう中、町家造りで再建を行った堅実派。却って印象に残った。
明治26年の大火直後に建てられた町屋造りの建物(旧北野家)。代々「釜屋小兵衛」を名乗り金物商を営んでいました。


埼玉りそな銀行(川越支店)&小林家住宅 くらづくり本舗
恥ずかしながら、これらも見落としてしまった。
埼玉りそな銀行(川越支店)
大正7年(1918年)に旧国立八十五銀行本店として建てられ、国の登録有形文化財の指定を受けています。設計は保岡勝也という方。3階建てのインパクトがある佇まいは、時の鐘と共に川越のランドマーク的な存在です。外観の見学は自由。しかし建物内部の見学は残念ながら行われていません。
小林家住宅 くらづくり本舗
埼玉りそな銀行(旧八十五銀行本店)のお隣に、明治26年建造の有形文化財「小林家住宅」があります。
呉服・太物の卸し問屋を営む2代目小林佐平が建てた蔵造りで、現在は和菓子の「くらづくり本舗」が店を構えています。
FREEの写真を借用した


大正浪漫夢通りを過ぎ、仲町の交差点から蔵造りの町並みに入っていく

仲町(旧志義町周辺)
「蔵造りの町並み」の入口ともいえる仲町交差点。その交差点角には松崎スポーツ店と和菓子の老舗・亀屋とがある。これらの建物は、蔵造りの町並みの中心部のそれにも負けないほどの風格を誇る。屋根の両端に丸く盛り上がっているカゲ盛り・鬼瓦、重厚な観音開きの扉など、蔵造りの特徴がよく見て取れる。
仲町観光案内所、亀屋山崎茶店など
仲町観光案内所…画面左端の建物
元々、呉服店を営んでいた建物(旧笠間家住宅)を修復をしてつくられた仲町観光案内所。内部は土蔵造りの建物になっており、蔵造り商家の名残を無料で見学することができる。


亀屋山崎茶店…仲町観光案内所の隣の隣の建物
明治10年(1877)に和菓子の老舗「亀屋」より分家し、山崎茶店として現在の地でお茶の商いを始めた。

山崎美術館
和菓子の老舗である「亀屋」を営む山崎家の美術品のコレクションを公開している。



仲町交差点の亀屋
先に、田中屋ビル&山吉ビルを見つけて撮影に夢中になり、この重要な蔵造りの存在に気づかなかった。大失敗をやらかしてしまった。
信州中野(長野県中野市)出身の初代・山崎嘉七が小江戸と呼ばれた川越の現在地に1783年(天明3年)に創業した老舗の菓子屋。以来、代々、武蔵国川越藩の御用を勤め、店主は苗字、帯刀御免。1847年(弘化4年)には京都嵯峨御所から「亀屋河内大掾藤原嘉永」の資格を授かる。
特に四代目の「山崎嘉七」を襲名した山崎豊は1867年(慶応3年)に川越藩の御用商人となり明治期に「第八十五銀行」と「川越貯蓄銀行」の2つの頭取を兼ねるなど豪商であった。
川越市の一番街にある本店は川越大火直後の1893年(明治26年)7月14日に建てられた豪壮な蔵造りで、店蔵と袖蔵を併せ持つ「袖蔵」形式の代表的な建築として知られる。隣接地に千本格子をはめ込んだ京風の茶店・「亀屋山崎茶店」、土蔵造りの「山崎美術館」、赤煉瓦塀、白漆喰仕上げの大蔵の「茶陶苑」など山崎家の歴史的建物が連なる。
いずれ写真は差し替えたい。
本店…同社のHP画像を使用

元町店…FREE画像を使用

仲町交差点の松崎家住宅
蔵造りの街並みの玄関口「仲町交差点」に佇む松崎家住宅。
蔵造り独特の重厚感と装飾の豪華さが相まって、蔵造りの町屋の傑作とも言われています。また、明治の入母屋造りで角店の蔵造りは極めて貴重な建物です。
建造は明治34年頃、2代目松崎徳次郎によって建てられました。松崎家は、元々砂糖商でしたが、現在は運動具店「松崎スポーツ」を営んでいます。


仲町(旧志義町周辺)
「蔵造りの町並み」の入口ともいえる仲町交差点。その交差点角には松崎スポーツ店と和菓子の老舗・亀屋とがある。これらの建物は、蔵造りの町並みの中心部のそれにも負けないほどの風格を誇る。屋根の両端に丸く盛り上がっているカゲ盛り・鬼瓦、重厚な観音開きの扉など、蔵造りの特徴がよく見て取れる。
仲町観光案内所、亀屋山崎茶店など
仲町観光案内所…画面左端の建物
元々、呉服店を営んでいた建物(旧笠間家住宅)を修復をしてつくられた仲町観光案内所。内部は土蔵造りの建物になっており、蔵造り商家の名残を無料で見学することができる。


亀屋山崎茶店…仲町観光案内所の隣の隣の建物
明治10年(1877)に和菓子の老舗「亀屋」より分家し、山崎茶店として現在の地でお茶の商いを始めた。

山崎美術館
和菓子の老舗である「亀屋」を営む山崎家の美術品のコレクションを公開している。



仲町交差点の亀屋
先に、田中屋ビル&山吉ビルを見つけて撮影に夢中になり、この重要な蔵造りの存在に気づかなかった。大失敗をやらかしてしまった。
信州中野(長野県中野市)出身の初代・山崎嘉七が小江戸と呼ばれた川越の現在地に1783年(天明3年)に創業した老舗の菓子屋。以来、代々、武蔵国川越藩の御用を勤め、店主は苗字、帯刀御免。1847年(弘化4年)には京都嵯峨御所から「亀屋河内大掾藤原嘉永」の資格を授かる。
特に四代目の「山崎嘉七」を襲名した山崎豊は1867年(慶応3年)に川越藩の御用商人となり明治期に「第八十五銀行」と「川越貯蓄銀行」の2つの頭取を兼ねるなど豪商であった。
川越市の一番街にある本店は川越大火直後の1893年(明治26年)7月14日に建てられた豪壮な蔵造りで、店蔵と袖蔵を併せ持つ「袖蔵」形式の代表的な建築として知られる。隣接地に千本格子をはめ込んだ京風の茶店・「亀屋山崎茶店」、土蔵造りの「山崎美術館」、赤煉瓦塀、白漆喰仕上げの大蔵の「茶陶苑」など山崎家の歴史的建物が連なる。
いずれ写真は差し替えたい。
本店…同社のHP画像を使用

元町店…FREE画像を使用

仲町交差点の松崎家住宅
蔵造りの街並みの玄関口「仲町交差点」に佇む松崎家住宅。
蔵造り独特の重厚感と装飾の豪華さが相まって、蔵造りの町屋の傑作とも言われています。また、明治の入母屋造りで角店の蔵造りは極めて貴重な建物です。
建造は明治34年頃、2代目松崎徳次郎によって建てられました。松崎家は、元々砂糖商でしたが、現在は運動具店「松崎スポーツ」を営んでいます。


小江戸『川越』を散策してみた。初めての行き先なので、不案内な事この上ない。後で考えると、大分見落としがあった。また、名が示すとおり、川があって栄えた街だ。その川越の街を巻くように流れる川である新河岸川を見るゆとりもなかった。何をしに行ったのかという気になってきた。そのことは置いておき、今回の散策をまとめてみた。
まずは、クレアモールを経由して、まずは、『大正浪漫夢通り』に向かう。
こんなものも
落書きではない

大正浪漫夢通り
蔵の街というより、此処は大正の雰囲気をうまく残した商店街。石畳の道も素敵だ。『大正浪漫夢通り』というネーミングもそれほど大げさではないように感じた。ところどころシャッターが閉じているのは、この日が水曜日で定休日になっている店舗があったためだ。また、私が通った時間帯がかなり早く、開店前だったという事情もあったかもしれない。

かつて「銀座商店街」と呼ばれ川越一の繁華街だったこの通りは、平成7年以後商店街あげての街づくりにより、古き良き大正時代を思わせる大正浪漫夢通り(たいしょうろまんゆめどおり)に生まれ変わりました。
大正浪漫夢通りの見所は、御影石の歩道、電線を地中化したことによる広い空、土蔵造りや洋風建築の建物です。大正浪漫夢通りでは川越名産のお土産を販売する個性豊かな店が軒を並べています。



味の店いせや
独特のアーチ形天井を持つこの建物は、昭和10年創業の手作り和菓子店いせや。1階部分が店舗と厨房で、3つの縦長窓を持つ2階と半円筒形のトンネル型屋根の3階は住宅になっているそうだ。これはこれで風格のある建物だ。

加藤家住宅
建物は、市の文化財にも指定された蔵造り。かつては、江戸時代から代々続いている老舗の和菓子屋『小松屋』だったが、現在は『酒処 里の味』という店に変わっているようだ。





川越商工会議所
びっくりするほど立派な建物だ。前身を調べて納得した。
大正浪漫夢通りの北端、丁字路角にある洋風の建物が、川越商工会議所です。昭和3年に武州銀行川越支店として建築されました。川越景観百選、国の登録有形文化財。


参考にしたHP1へjump
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参考にしたHP2へjump
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まずは、クレアモールを経由して、まずは、『大正浪漫夢通り』に向かう。
こんなものも
落書きではない

大正浪漫夢通り
蔵の街というより、此処は大正の雰囲気をうまく残した商店街。石畳の道も素敵だ。『大正浪漫夢通り』というネーミングもそれほど大げさではないように感じた。ところどころシャッターが閉じているのは、この日が水曜日で定休日になっている店舗があったためだ。また、私が通った時間帯がかなり早く、開店前だったという事情もあったかもしれない。

かつて「銀座商店街」と呼ばれ川越一の繁華街だったこの通りは、平成7年以後商店街あげての街づくりにより、古き良き大正時代を思わせる大正浪漫夢通り(たいしょうろまんゆめどおり)に生まれ変わりました。
大正浪漫夢通りの見所は、御影石の歩道、電線を地中化したことによる広い空、土蔵造りや洋風建築の建物です。大正浪漫夢通りでは川越名産のお土産を販売する個性豊かな店が軒を並べています。



味の店いせや
独特のアーチ形天井を持つこの建物は、昭和10年創業の手作り和菓子店いせや。1階部分が店舗と厨房で、3つの縦長窓を持つ2階と半円筒形のトンネル型屋根の3階は住宅になっているそうだ。これはこれで風格のある建物だ。

加藤家住宅
建物は、市の文化財にも指定された蔵造り。かつては、江戸時代から代々続いている老舗の和菓子屋『小松屋』だったが、現在は『酒処 里の味』という店に変わっているようだ。





川越商工会議所
びっくりするほど立派な建物だ。前身を調べて納得した。
大正浪漫夢通りの北端、丁字路角にある洋風の建物が、川越商工会議所です。昭和3年に武州銀行川越支店として建築されました。川越景観百選、国の登録有形文化財。


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写真工業発祥の地
この地は、明治35年5月(1902年)、小西本店(現・コニカ)が、写真感光材料の国産化を図り、研究所と工場(六桜社)を建設し、製造を始めたところである。同社は、さらにカメラの製造も始め、写真フィルムの国産化にも成功した。その後、昭和38年、新宿副都心建設事業により、八王子・日野へ移転した。今日わが国は、世界の写真王国となっているが、その礎は、この地で築かれたものである。

新宿十二社(じゅうにそう)熊野神社
新宿十二社熊野神社は、花園神社とともに、新宿の総鎮守だ。
十二社熊野神社は、室町時代の応永年間(1394~1428)に中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州の熊野三山より十二所権現をうつし祠ったものと伝えられます(一説に、この地域の開拓にあたった渡辺興兵衛が、天文・永禄年間(1532~69)の熊野の乱に際し、紀州よりこの地に流れ着き、熊野権現を祠ったともいいます)。
明治維新後は、現在の櫛御気野大神・伊邪奈美大神を祭神とし、熊野神社と改称し現在にいたっています。
氏子町の範囲は、西新宿ならびに新宿駅周辺及び歌舞伎町を含む地域で、新宿の総鎮守となっています。
社殿





神楽殿

十二社の碑(新宿区指定史跡)



その他
こんなものも残っている。


以上で、『西新宿』シリーズは終了です。
この地は、明治35年5月(1902年)、小西本店(現・コニカ)が、写真感光材料の国産化を図り、研究所と工場(六桜社)を建設し、製造を始めたところである。同社は、さらにカメラの製造も始め、写真フィルムの国産化にも成功した。その後、昭和38年、新宿副都心建設事業により、八王子・日野へ移転した。今日わが国は、世界の写真王国となっているが、その礎は、この地で築かれたものである。

新宿十二社(じゅうにそう)熊野神社
新宿十二社熊野神社は、花園神社とともに、新宿の総鎮守だ。
十二社熊野神社は、室町時代の応永年間(1394~1428)に中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州の熊野三山より十二所権現をうつし祠ったものと伝えられます(一説に、この地域の開拓にあたった渡辺興兵衛が、天文・永禄年間(1532~69)の熊野の乱に際し、紀州よりこの地に流れ着き、熊野権現を祠ったともいいます)。
明治維新後は、現在の櫛御気野大神・伊邪奈美大神を祭神とし、熊野神社と改称し現在にいたっています。
氏子町の範囲は、西新宿ならびに新宿駅周辺及び歌舞伎町を含む地域で、新宿の総鎮守となっています。
社殿





神楽殿

十二社の碑(新宿区指定史跡)



その他
こんなものも残っている。


以上で、『西新宿』シリーズは終了です。
都庁展望台
有難いことに無料でこの眺望を楽しめる。晴れた日の夜景だったら最高だと思うが、それほど見晴らしが良くない日だった。



左側の緑は新宿御苑で、右側の緑は明治神宮だ。右端に見える第2庁舎は第1庁舎より80mほど低いようだ。下から見ていたときは同じような高さだと思っていたが、意外に大きな差があった。



下の緑が新宿中央公園で、隣接するのが新宿パークタワー、やや奥の高いビルが東京オペラシティだ。


富士山は勿論、丹沢山塊も見えなかった。残念。


パークタワーで昼食
相変わらずカレー屋さんでバイキングを注文した。どれだけ食べようと1000円だ。現役時代1年程毎昼に食べ続けたら、かなりメタボになってしまった。

新宿中央公園
英訳すれば、Shinjuku Central Parkということになろうが、残念ながらそういう風格はまるで無い。
水道管路の耐震化工事
この一帯は元の淀橋浄水場跡だ。水道関連の工事は最優先で行われるようだ。


公園園内

有難いことに無料でこの眺望を楽しめる。晴れた日の夜景だったら最高だと思うが、それほど見晴らしが良くない日だった。



左側の緑は新宿御苑で、右側の緑は明治神宮だ。右端に見える第2庁舎は第1庁舎より80mほど低いようだ。下から見ていたときは同じような高さだと思っていたが、意外に大きな差があった。



下の緑が新宿中央公園で、隣接するのが新宿パークタワー、やや奥の高いビルが東京オペラシティだ。


富士山は勿論、丹沢山塊も見えなかった。残念。


パークタワーで昼食
相変わらずカレー屋さんでバイキングを注文した。どれだけ食べようと1000円だ。現役時代1年程毎昼に食べ続けたら、かなりメタボになってしまった。

新宿中央公園
英訳すれば、Shinjuku Central Parkということになろうが、残念ながらそういう風格はまるで無い。
水道管路の耐震化工事
この一帯は元の淀橋浄水場跡だ。水道関連の工事は最優先で行われるようだ。


公園園内


パスポート申請のため、都庁に出かけた。
途中渋谷での乗り換え
東横線渋谷駅が地下化されてから確かに乗り換えが大変だ。こんなんじゃ、混乱が起きることくらい容易に想定されただろうに、中途半端なインフラのままで開業してしまった東急の責任は大きいと思う。


午前10時ちょっと前になったというのに、この混雑ぶりは酷い。都内有数のターミナル駅の主要路線の乗り換え通路にしては、如何にも狭すぎる。ラッシュ時は押し合いへし合いなのだろう。現役勤め人の苦労が思いやられる。





都庁
何度見ても、立派な建物だと思う。首都の役所にふさわしい建物だと思う。右側の第2庁舎と左側の第1庁舎とは、下から見る限り同じくらいの高さのように見えるが、実は大きな差がある。次回、そのことに触れる。

この辺は東京マラソンの時には、参加者で溢れかえるところだ。




東京都はオリンピック誘致に必死になっている。スマートさなど気にしてはいられないようだ。
途中渋谷での乗り換え
東横線渋谷駅が地下化されてから確かに乗り換えが大変だ。こんなんじゃ、混乱が起きることくらい容易に想定されただろうに、中途半端なインフラのままで開業してしまった東急の責任は大きいと思う。


午前10時ちょっと前になったというのに、この混雑ぶりは酷い。都内有数のターミナル駅の主要路線の乗り換え通路にしては、如何にも狭すぎる。ラッシュ時は押し合いへし合いなのだろう。現役勤め人の苦労が思いやられる。





都庁
何度見ても、立派な建物だと思う。首都の役所にふさわしい建物だと思う。右側の第2庁舎と左側の第1庁舎とは、下から見る限り同じくらいの高さのように見えるが、実は大きな差がある。次回、そのことに触れる。

この辺は東京マラソンの時には、参加者で溢れかえるところだ。




東京都はオリンピック誘致に必死になっている。スマートさなど気にしてはいられないようだ。

ミニクルージング(4)
永代橋を再びくぐる
隅田川の河口でもくっきりはっきり見えるのだから当然だが、前方にはスカイツリーが見える





隅田川大橋をくぐる
中央区日本橋箱崎町と江東区佐賀の間で『人形町通り(水天宮通り)』が『隅田川』を渡る橋。この橋の創架は昭和54年(1979)、『首都高速道路9号深川線』建設のために『隅田川』を渡る高速用高架橋が必要になり、それに併せて一般道路用の橋も同時に架設されたもの。
上下に2段構造の橋となっており、上段部分が『首都高速道路』の高架橋、下段部分が一般道路のいわゆる『隅田川大橋』だ。





清洲橋の手前で再びUターン
中央区日本橋中洲と江東区清澄の間で『清洲橋通り』が『隅田川』を渡る橋で、昭和3年(1928)3月に創架された震災復興事業による新設橋。下流の永代橋と対をなすようにデザインされたようだ。2007年(平成19年)、都道府県の道路橋として初めて、勝鬨橋・永代橋と共に国の重要文化財(建造物)に指定された。




スカイツリー

この屋形船のおっさんたちはすっかりできあがっている感じ

隅田川大橋を再びくぐり、程なく再び日本橋川に入る。豊海橋、湊橋、茅場橋、鎧橋、江戸橋、日本橋と戻ってきた。
以上で『中央区をぶらり』はおしまいです。最期までお付き合いいただき大変有難う御座いました。
永代橋を再びくぐる
隅田川の河口でもくっきりはっきり見えるのだから当然だが、前方にはスカイツリーが見える





隅田川大橋をくぐる
中央区日本橋箱崎町と江東区佐賀の間で『人形町通り(水天宮通り)』が『隅田川』を渡る橋。この橋の創架は昭和54年(1979)、『首都高速道路9号深川線』建設のために『隅田川』を渡る高速用高架橋が必要になり、それに併せて一般道路用の橋も同時に架設されたもの。
上下に2段構造の橋となっており、上段部分が『首都高速道路』の高架橋、下段部分が一般道路のいわゆる『隅田川大橋』だ。





清洲橋の手前で再びUターン
中央区日本橋中洲と江東区清澄の間で『清洲橋通り』が『隅田川』を渡る橋で、昭和3年(1928)3月に創架された震災復興事業による新設橋。下流の永代橋と対をなすようにデザインされたようだ。2007年(平成19年)、都道府県の道路橋として初めて、勝鬨橋・永代橋と共に国の重要文化財(建造物)に指定された。




スカイツリー

この屋形船のおっさんたちはすっかりできあがっている感じ

隅田川大橋を再びくぐり、程なく再び日本橋川に入る。豊海橋、湊橋、茅場橋、鎧橋、江戸橋、日本橋と戻ってきた。
以上で『中央区をぶらり』はおしまいです。最期までお付き合いいただき大変有難う御座いました。