散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

三渓園(14)

旧矢箆原(やのはら)家住宅【重要文化財】1750年頃(宝暦年間) (2)

2階へ通じる急階段
手すりを掴まないと怖いような急勾配の階段だった
2階へ通じる急階段_1
滑り止めの切り込みが
2階へ通じる急階段_2
2階へ通じる急階段_3
2階へ通じる急階段_4
2階部分
古い民具の展示を行なっている。昔はこんなものなど無く、偏に養蚕を行うためのスペースと大家族のための寝室だったのだろう。もしくは『塩硝』と呼ばれる火薬の原料を密かに作っていたスペースだったかもしれない。
2階部分_1
2階部分_2
2階部分_3
2階部分_4
2階部分_5

2階部分_6
2階部分_7
2階部分_8
2階部分_9
2階部分_10

2階部分_11
2階部分_12
2階部分_13
2階部分_14
2階部分_15

2階部分_16
2階部分_17
2階部分_18
2階部分_19
合掌造り家屋の内部は、3階建てから5階建てとなっている。そのうち1階部分は居住空間、2階以上は寝室もしくは養蚕の作業場として利用されていた。合掌造り家屋はその妻側(切妻屋根の傾斜の無い三角形の面)がこぞって同じ方向を向いているが、これは養蚕を行う屋根裏部屋に風が通りやすいようにしている為だ。このように巨大な合掌造り家屋には、複数世帯の大家族が暮らし、家族総出で養蚕業などを行っていた。限られた土地しかないこの地、一軒の家屋に大家族が暮らすのは、分家による耕地分与を防ぐという意味合いもあった。
養蚕の他にも、五箇山や白川郷には知られざる産業があった。それは、塩硝の生産である。塩硝とは火薬の原料だ。その人目につきにくい立地柄から、また塩硝を作る材料に富んでいることから、これらの村では合掌造り家屋内部で塩硝を密かに生産し、五箇山は加賀藩に、白川郷は江戸幕府にそれぞれ献上していた。塩硝は蚕の糞に様々な干し草を加え、囲炉裏の下に埋めその熱で発酵させる。5年後、できた塩硝土を取り出し水でろ過、さらに煮詰めて塩硝を取り出す。出来た結晶は塩によく似たものとなるので、塩と偽って取引されていた。

 

三渓園(13)

旧矢箆原(やのはら)家住宅【重要文化財】1750年頃(宝暦年間) (1)
巨大な合掌造りの建物の出現に仰天した。合掌造りの建物は何回か見たことがあるが、こんなに大きいものは初めてだ。飛騨三長者のひとりの家屋敷と聞けば合点もいくが、そうは聞いてもまだ驚きは収まらない。
この建物は、岐阜県大野郡荘川村岩瀬(白川郷)にあったが御母衣ダム建設によって湖底に沈む運命となったので、矢箆原家から三渓園に寄贈され、昭和35年11月移築されたとのことだ。
この家が家計が傾いて売りに出されたわけでないと知り、漸くほっとした。しかも、重要文化財に指定されたのが、1956(昭和31)年06月28日で、その後に、三渓園に寄贈され移築されたのだ。ダム建設による水没というような事態がなければ、そのままの状態で現地に存在し続けただろうことは想像に難くない。

大きな茅葺屋根が印象的な合掌(がっしょう)造という屋根に特徴がある構造の民家です。岐阜県大野郡荘川村岩瀬(白川郷)にありましたが、ダム建設により三溪園に寄贈されることになり、1960年(昭和35年)に移築されました。屋根の妻側にある火灯窓や扇が彫られた欄間は注目されます。内部では、古い民具の展示もおこなっています。
ひとこと&みどころ
岩瀬(矢箆原)佐助は、飛騨三長者のひとりで、飛騨地方の民謡に「宮で角助、平湯で与茂作、岩瀬佐助のまねならぬ」(普通の農民は3人の真似ができない)と歌われるほどでした。


外観及び庭から見える部分
外観及び庭から見える部分_1
外観及び庭から見える部分_2
外観及び庭から見える部分_3
外観及び庭から見える部分_4
外観及び庭から見える部分_5
外観及び庭から見える部分_6
土間部分
土間部分_1
土間部分_2
土間部分_3

 

三渓園(12) 04.28 23:35画像追加

初音茶屋
明治大正の頃遠くから訪れた来園者に湯茶を振舞った茶屋。粋なサービス提供をしていたものだ。現在も観梅の時期には昔から使用していた釜で麦茶等を接待してくれるそうだ。
ここには、インドの詩聖タゴールも訪れている。また三渓の長男善一郎の友人であった芥川龍之介も訪れ、句を残している。説明表示によると、
「・・・序ながら僕は君の所へ去年の夏、矢代と二人でちょっとお庭を見にゆきました。さうして四阿のやうな所で、田舎の女のやうな人の沸かしてくれるお湯をのみました。が、どこをどうしてあすこまで辿りついたか、まるで覚えていません。

 ひとはかり うく香煎や 白湯の秋
即興のつもりで書きましたが、月並みなので弱りました。」とある。
初音茶屋_1
初音茶屋_2
初音茶屋_3
初音茶屋_4
初音茶屋_5

臥龍梅
此処は梅の名所でもある
臥龍梅_1
臥龍梅_2


横笛庵 建築年不明

現代流に言えば、『恋愛成就スポット』といっったところだろうか
横笛庵_1
横笛庵_2
横笛庵_3
04.28 23:35画像追加
横笛庵_4
寒霞橋と小川
寒霞橋と小川_1
寒霞橋と小川_2
草庵風の茶亭で素朴ながら風趣のある建物です。建物内に横笛の像が安置されていたことから横笛庵と称されています。横笛の像は、戦争の際に失われました。
ひとこと&みどころ
横笛は、高倉天皇の中宮建礼門院に仕え、平清盛の従者である斉藤時頼(滝口入道)と悲恋に終わった女性です。横笛が、他の人々の恋が実ることを願って、時頼から寄せられた千束の恋文で作った己の像は、「縁結びの像」として知られていました。(2人の悲恋話については、高山樗牛による"滝口入道"という小説が有名です。)


旧東慶寺仏殿【重要文化財】江戸時代初期
特別拝観がない限り、少し離れた位置から眺めるだけしかできない。山にはさまれた谷間の奥にあるため、そういう見せ方しか出来ないのだろう。近寄って見てみたい仏殿だけに、非常に残念なことだ。
原三渓氏の手に渡った頃は廃仏毀釈の流れの中で、さしもの東慶寺も食うに困った時期だったのだろうか。

東慶寺_1
以下はFREE画像を借用
東慶寺_2
東慶寺_3
東慶寺_4
東慶寺_5
東慶寺_6
鎌倉の東慶寺にあった仏殿で1907年(明治40年)に移築されました。禅宗様(ぜんしゅうよう)の特色を色濃く残す数少ない建物です。
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東慶寺HPの歴史年表によると明治4年(1871)に「明治政府、寺領を没収し[社寺領上地令]また縁切寺法を禁ずる」とある。すなわち廃寺だから『旧』の一文字が先頭に付いている訳で、その後明治38年(1905)に建長・円覚寺両派管長釈宗演老師が東慶寺に遷住し、駆込寺は禅の道場に変わっている。釈宗演は東慶寺中興の祖とうたわれた人物だが、ちょうどこの頃にこの仏殿が廃棄処分されている。

 

三渓園(11)

旧燈明寺三重塔【重要文化財】1457年(康正3年)建築
関東で最古の塔だそうだ。元あったところの人達からすれば複雑なところだろう。しかし、廃仏毀釈の嵐の中で廃寺の行く末は悲惨なものだったはずだ。こうして見事に再建されて、後世の人達が楽しむことが出来て幸いと考えるべきだろう。

園内のほぼ全域から、その姿を見ることができる三重塔は三溪園を象徴とする建物です。三溪園には、1914年(大正3年)に移築されました。
ひとこと&みどころ
燈明寺は江戸時代に宗派が変わった際に東明寺から燈明寺に改名されました。 瓦に東明寺と刻印されているのは、そのためです。

旧燈明寺三重塔_1
旧燈明寺三重塔_2
旧燈明寺三重塔_3
旧燈明寺三重塔_4
旧燈明寺三重塔_5
以下はFREE画像を借用した
三層とも三手先組物、二軒繁垂木
旧燈明寺三重塔_9
三手先組物と間斗束
旧燈明寺三重塔_8
内部
旧燈明寺三重塔_10
旧燈明寺三重塔_6
旧燈明寺三重塔_7

山城燈明寺を解説したHPへjump
三手先(みてさき)、間斗束(けんとづか)、二軒垂木(ふたのきたるき)等を解説したHPへjump

 

三渓園(10)

大池(3)
再び大池の前に出た。此処は三重塔の真下で、涵花亭(かんかてい)なども見えて、落ち着く風情を漂わせている。
大池_3_1
大池_3_2
大池_3_3
振り返ると三重塔が
振り返ると三重塔が

三重塔や松風閣へ向かう道
いよいよ一番高いところに登る
三重塔や松風閣へ向かう道_1
三重塔や松風閣へ向かう道_2
三重塔や松風閣へ向かう道_3
三重塔や松風閣へ向かう道_4
三重塔や松風閣へ向かう道_5

松風閣
明治初年に、原善三郎(三溪の養祖父)、三溪園一帯の土地を購入し、明治20年代に善三郎が三溪園の南端、本牧海岸寄りに山荘『松風閣』を建てた。これが三渓園の始まりだ。
説明板によれば、伊藤博文が『松風閣』と命名したとのこと。
廃墟は煉瓦造りの玄関部分。窓などに中国風の意匠が施されていた。松風閣の一室『観山の間』には、原三溪が支援し最も好んでいた下村観山の『四季草花図』の障壁画があった。関東大震災で建物とともに焼失したそうで、残念な事この上ない。

松風閣の跡_1
松風閣の跡_2
松風閣の跡_3
松風閣の跡_4
展望台
昔はこの崖下は海岸だったはずだが、今では、大規模工場がズラリ並んでいた。私が勤務していたことがある工場も見える。更には、富士山も望める。下のテニスコートではテニスに興じたこともあった。
展望台
展望台からの展望_1
展望台からの展望_2
展望台からの展望_3
富士山が見えた
展望台からの展望_4
展望台からの展望_5

 

三渓園(9)

次に取上げる『春草廬』だが、迂闊にも見落としてしまい、自前の写真がない。そのため、FREEの写真を借用させていただく。また、後半の蓮華院の写真は自前のものもあるが、竹やぶに遮られて、冴えない写真になってしまった。こちらもかなりの枚数のFREEの写真を借用させていただいた。

春草廬(重要文化財)桃山時代建築
実にややこしい話だが、この春草廬は元々は月華殿に付属して建てられていた茶室で、月華殿とともに移築されてきた。しかし、ペアだったはずのこの二つの建物は泣き別れとなり、月華殿に付属の茶室は新設された。これが『金毛窟』である。
そして、この月華殿に付属して建てられていた茶室は、当初、原三渓氏夫人の茶室として使用され、窓が九つあったので『九窓亭』と呼ばれた。信長の弟・織田有楽斉(1547~1621)が建てたものと伝えられる三畳台目の茶室である。
この建物とは全く別に『臨春閣』が大坂春日出新田にあって、『八州軒』と呼ばれていた当時、同敷地内にあった茶亭が、『春草廬』という名称だった。この本来の『春草廬』という名称だった建物は、原三渓氏が扁額とともに電力王松永安左ヱ門氏に贈与した。後年、この扁額だけが返還されたのを期に、『九窓亭』にこの扁額を掲げ、『春草廬』という名称に変更したということだ。なお、本来の『春草廬』と言われた建物は、現在東京国立博物館に寄贈されているそうだ。
複雑な話だが、ご理解いただけただろうか。


上記事情に触れたHPへjump

この藤棚の奥にある
藤棚の奥に春草廬がある
以下はFREE画像を借用
春草廬_3
春草廬_4
春草廬_5
春草廬_6
春草廬_11
春草廬_12
春草廬見取り図

蓮華院 1917年(大正6年)建築
もとは、現在の春草廬の位置にありましたが、 第二次世界大戦後に竹林にある茶室という構想のもとに現在の位置へ再築されました。 二畳中板(にじょうなかいた)の小間と六畳の広間、土間からなっています。
ひとこと&みどころ
土間の中央にある太い円柱と、その脇の壁にはめ込まれている格子は、宇治平等院鳳凰堂の古材と伝えられています。蓮華院という名は、三溪が茶会を催した際に広間の琵琶床に、奈良東大寺三月堂の不空羂索観音が手に持っていた蓮華を飾ったことに由来しています

蓮華院_1
蓮華院_2
以下はFREE画像を借用
蓮華院_7
蓮華院_3
蓮華院_4
蓮華院_5
蓮華院_6
蓮華院見取り図
こんなものもあった
下馬の標識

次回からは再び自前の写真で説明したい。

 

三渓園(8)

天授院【重要文化財】1651年(慶安4年)建築
これが原家だけの持仏堂だったとは。あまりの驚きに言葉も出てこない。
もとは、建長寺の近くにあった心平寺の地蔵堂で、1916年(大正5年)に移築されました。 建築様式は禅宗様(ぜんしゅうよう)を主体としています。
ひとこと&みどころ
三溪園では、原家の持仏堂とされました。
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この堂は、明治末年に原三渓が鎌倉より買い取り、持仏堂として使用していたものです。
由緒は明らかではありませんが、慶安四年(一六五一)の建築で、建長寺の近く巨福呂坂に面して建つ心平寺の地蔵堂と考えられています。
大衆信仰の仏堂であったらしく、禅宗様ではあっても仏殿の形式とは異なっていて、板敷きの床に、かつては縁、高欄を巡らせていました。また、内外とも黒漆塗であったということから、素木造の仏堂が多い鎌倉では、一際、目を引いていたことでしょう。

天授院_1
天授院_2
天授院天井…FREE画像を借用
天授院天井
天授院須弥壇と厨子(しゅみだんとずし)…FREE画像を借用
天授院須弥壇と厨子
天授院内部…FREE画像を借用
天授院内部

途中の道筋
月華殿などへ向かう石橋
月華殿などへ向かう石橋
写生をしていたアメリカンスクールの子どもたち
写生をしていたアメリカンスクールの子どもたち_1
写生をしていたアメリカンスクールの子どもたち_2
下り道
下り道も風情がある。というか足腰が既にきつくなっていて、『これ以上上らないで済むのは助かる』とこの時は思ったのだが、…。
下り道も風情がある
花も咲いていた
花も咲いていた_1
花も咲いていた_2

 

三渓園(7)

月華殿【重要文化財】1603年(慶長8年)建築
家康の建てたものが、まわりまわって最終的に原三渓氏のところに辿り着いた。しっかりした建物はどんな運命にも対応できるものなのだろうか。
徳川家康により、京都伏見城内に建てられたものといわれています。1918年(大正7年)に春草廬と共に移築されました。三溪が建てた金毛窟とつながっています。
ひとこと&みどころ
障壁画は、桃山時代の画家 海北友松(かいほうゆうしょう)によるものと伝えられます。
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月華殿は、大正七年に三室戸寺金蔵院の客殿を移築したものです。
三室戸寺では宇治の茶商・上林三入が慶長八年(一六〇三)に家康再興の桃山城の遺構を下賜され、それを寺に寄付したものがこの客殿と伝えています。簡素な書院造で、主室である檜扇の間にも一間の床の間がつくだけで、違い棚も書院もありません。意匠的には吹き寄せの腰障子が見所です。

月華殿【重要文化財】_1
月華殿【重要文化財】_2
月華殿【重要文化財】_3
月華殿【重要文化財】_4
月華殿【重要文化財】_5
月華殿【重要文化財】_6
月華殿【重要文化財】_7
月華殿【重要文化財】_8
月華殿の内部…FREE画像を借用
月華殿【重要文化財】_内部

月華殿と金毛窟
月華殿と金毛窟_1
月華殿と金毛窟_2
月華殿と金毛窟_3
月華殿と金毛窟_見取り図

金毛窟 1918年(大正7年)建築
何の指定も受けていないが、重文にも負けないだけの気品と風格とをを兼ね備えているようにみえる
三溪が建てた一畳台目(いちじょうだいめ)の極小の茶室です。
ひとこと&みどころ
金毛窟という名は、床柱に京都大徳寺の山門 金毛閣の高欄の架木を使用していることにちなみます。

金毛窟_1
以下の2点はFREE画像を借用
金毛窟_2
金毛窟_3

 

三渓園(6)

聴秋閣(重要文化財)

聴秋閣はすぐ傍で眺める姿も良いが、少し高いところから見る姿もまた素晴らしい。屋根が曲がった形で作られているなど、かなり凝った意欲的な意匠だ。

亭樹からみた様子
亭樹からみた様子
傍で見た様子
傍で見た様子_1
傍で見た様子_3
傍で見た様子_5
傍で見た様子_7
沢を少し上って高いところからみた様子
激戦後の力士のちょんまげのように曲がっている
沢を少し上って高いところからみた様子_1
沢を少し上って高いところからみた様子_5
沢を少し上って高いところからみた様子_8
内部の様子…FREE画像を借用
聴秋閣(重要文化財)内部の様子_1
聴秋閣(重要文化財)内部の様子_2

徳川家光が二条城内に建て、後に春日局が賜ったと伝わる建物。各部の意匠は独創性・変化に富みますが、書院造としての格や茶亭としての機能に応じて緻密に構成されています。L字型の一段下がった杢板敷きの入口は舟で漕ぎ着ける場を想像させ、当初は水辺に面して建てられたのかもしれません。江戸時代はじめの上流武士階級の風流な文化が伝わります。
ひとこと&みどころ
この建物は江戸時代の武士 佐久間将監(さくましょうげん)の作と伝わります。小堀遠州(こぼりえんしゅう)と同時代に幕府の造営・修繕に関わる作事方を務めた人物で両者とも茶の湯に深く似た境遇であったため、遠州はライバル的存在であったのかもしれません。この建物から将監の挑戦・意欲が伺えます。
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この建物の創建は、元和九年(1623)三代将軍家光が上洛するに際し、佐久間将監(しょうげん)に命じて京都二条城内に建てさせたもので、当時は三笠閣と呼ばれたようである。その後家光はこれを乳人春日局に賜り、江戸の稲葉侯(春日局の夫君)邸内に移されて明治維新におよび、明治十四年(1881)に東京・牛込若松町の二条公邸に移され、さらに大正十一年(1922)に原氏のもとに贈られ、三渓園に移されて今日に至った。

 

いわき~小野~三春(10)

国指定の重要文化財は福島県にも少なからず存在する。しかし、建物だけで7件もの重要文化財指定を受けている例は珍しいと思う。その稀有な例、飯野八幡宮を訪ねた。
文化財指定件名一覧
文化財指定件名一覧
創建から既に940年以上経過している
900年奉祝祭斎行の碑
地震の爪痕がまだ残っていた
地震の爪痕_1
地震の爪痕_2
こんなふうな位置関係
こんなふうな配置
本殿(重要文化財)
本殿のみが重要文化財指定を受け、幣殿・拝殿はいわき市指定有形文化財指定を受けている
本殿(重要文化財)_1
本殿(重要文化財)_2
本殿(重要文化財)_3
本殿(重要文化財)_4
若宮八幡神社本殿(重要文化財)
若宮八幡神社本殿(重要文化財)_1
若宮八幡神社本殿(重要文化財)_2
仮殿(重要文化財)
仮殿(重要文化財)_1
仮殿(重要文化財)_2
神楽殿(重要文化財)
神楽殿(重要文化財)_1
神楽殿(重要文化財)_2
神楽殿(重要文化財)_3
楼門(重要文化財)
楼門(重要文化財)_1
楼門(重要文化財)_2
楼門(重要文化財)_3
唐門(重要文化財)
進行方向に正対する形で唐破風が設えられるものが多いと思うが、こちらのものは、二荒山神社の唐門と同様に進行方向に対して側面が唐破風になっている。
唐門(重要文化財)_1
唐門(重要文化財)_2
唐門(重要文化財)_3
宝蔵(重要文化財)
前回見たときは、壁面に大きなクラックが入っていた状態だったが、その修復は終わったようだ
宝蔵(重要文化財)

名称: 飯野八幡宮
ふりがな: いいのはちまんぐう
棟名: 本殿
ふりがな: ほんでん
員数: 1棟
種別: 近世以前/神社
時代: 江戸前期
年代: 元和2
西暦: 1616
構造及び形式等: 桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、こけら葺
創建及び沿革:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項:
指定番号: 02140
国宝・重文区分: 重要文化財
重文指定年月日: 1983.01.07(昭和58.01.07)
国宝指定年月日:
追加年月日:
重文指定基準1:
重文指定基準2:
所在都道府県: 福島県
所在地: 福島県いわき市平字八幡小路
保管施設の名称:
所有者名: 飯野八幡宮
所有者種別:
管理団体・管理責任者名:

解説文:
飯野八幡宮は,文治2年(1186)の草創と伝え,慶長7年(1602)に現在地に遷った。
重要文化財の本殿は,大型の入母屋造社殿であるが,元和2年(1616)上棟,延宝2年(1674)と元禄16年(1703)の改造をへて,現在の形式になった。
若宮八幡神社本殿は本殿東にあり,一間社流造で,元和5年(1619)の建立である。本殿西の仮殿も,同型式で,寛文13年(1673)の建立である。
神楽殿は記録から元和9年(1623),楼門は万治元年(1658),唐門は元禄16年(1703)頃,土蔵造の宝蔵は17世紀前期頃の建立と考えられる。
飯野八幡宮の若宮八幡神社本殿ほか五棟は,江戸前期から中期にわたる一連の造営事業でつくられており,地方における社殿構成の変遷をよく示すものとして貴重である。
近世的な景観をよく維持しており,本殿とともに保存をはかる。


以上で『いわき~小野~三春』シリーズを終了します。最後までアクセスいただき大変有り難うございました。

 

いわき~小野~三春(9)

私が住んでいた地区の状況
見たとおりかなり田舎の景色だ。旧道の橋が流され、仮設の歩行用の橋が架けられている。歩いているのは私の後輩たちだろう。見知らぬ爺さんに挨拶をしてくれた。純朴さは残っているようだ。
仮設の歩行用の橋
旧道の橋が落ちてしまった
旧道の橋が落ちてしまった_1
旧道の橋が落ちてしまった_2
どこから来たのかカルガモが泳いでいた
カルガモが泳いでいた
バイパスは辛うじて落ちなかった
バイパスは辛うじて落ちなかった
近くの山もかなり崩れた
近くの山もかなり崩れた
母校の小学校
一階部分がめちゃくちゃ破壊され、学校再開には一年強を要した。校庭には砂が数cm程かぶさった状態に。
母校の小学校
永崎海岸
鳴き砂で有名だった海水浴場もかなり地盤が下がった。ここで毎日泳いでいた。
永崎海岸_1
永崎海岸_2
永崎海岸_3
中之作港
ダメージが大きかったが、その前から極度の漁業不振で寂れていたので、人的被害は少なかった。目にしたのは工事用船舶のみ。
中之作港_1
中之作港_2
中之作港_3
中之作港_4
中之作港_5
中之作港_6
中之作港_7
片隅に漸く普通の小型漁船や釣り船らしきものがあった
普通の小型漁船や釣り船らしきもの_1
普通の小型漁船や釣り船らしきもの_2
防波堤も壊れたままだ
防波堤も壊れたまま
近くの住宅跡
近くの住宅跡
江名港
中之作港よりもっと寂しい状況だった。魚市場の建屋も何もかもなくなっていた。
江名港_1
江名港_2
江名港_3
江名港_4

以上が私の中学校の学区内の状況

隣の豊間中学校の学区の状況
この地区では百人以上の方が犠牲になった。生き残った人たちも再建の気持ちが萎えてしまうような光景だ。
豊間中学校の学区の状況_1
豊間中学校の学区の状況_2
豊間中学校の学区の状況_3
豊間中学校の学区の状況_4
豊間中学校の学区の状況_5
豊間中学校の学区の状況_6
豊間中学校の学区の状況_7
豊間中学校の学区の状況_8
相当立派な屋敷だったようだ。生きていたら相当に悔しかっただろう。
豊間中学校の学区の状況_9

 

昨日の巨人-阪神戦

一昨日夜、息子からナイターを見に行こうという誘いを受けた。多分、チケットが取れないだろうと思っていたら、案外簡単に予約できた。ということで、重い腰を上げて親子で出かけたのだが、巨人ファンからすれば、最低最悪の試合内容だった。

箸にも棒にもかからなかった最低の出来の澤村
私的な問題で動揺しているところへ、中堅大田の緩慢なプレーで失点し、頭に血がのぼってしまったのだろうか?
最低の出来の澤村_1
最低の出来の澤村_2
新井vs澤村…新井には投げ勝ったのだが
新井vs澤村_1
新井vs澤村_2
離婚直後で精神の動揺が心配される澤村。連続勝利ストッパーにならなければよいのだが、という危惧がまさしく的中。投球に球威がなく、三振が殆どとれない。コントロールもままならない。先頭打者の西岡にいとも簡単に四球を与え、3番鳥谷の大飛球を大田泰示がバンザイしてしまって、先制点を奪われたものだから、カアーッと頭に血が上ったらしい。打率1割台に低迷する福留にまで簡単に中前に運ばれ、あっという間に2失点。練習を見ていたときは、全くやる気が感じられないのただのデブに見えた福留だったのに、ここしか打てないというところに投げたんじゃ…。
3回にもまたも鳥谷に打たれ、今季まだ本塁打のなかったマートンに攻めあぐねた挙句、本塁打を打たれる。早くも4点のビハインド。完全な一人相撲だった。その後、リリーフした小山も笠原もぴりっとしない。笠原が最初の打者である日高に本塁打を打たれたところで、見る気がなくなった。
原監督も投げた試合のように見えた。こういう時に活躍すると、小山も笠原も男を上げるのに、火に油を注ぐ役目しか出来ないのは情けない話だ。


好投の榎田
面構えがふてぶてしいほどで、阪神ファンには頼もしい存在なのだろう
好投の榎田_1
好投の榎田_2
好投の榎田_3
好投の榎田_4
相手先発は榎田。都市対抗で飽きるほど応援させられたかつてのエース。その前のエースの内海と比べると、ちょっと内容的には疑問符がつくような印象が私にはあるのだが、軟投型でピンチを迎えても意外としぶとい。前回の対戦でも巨人に勝ったようだ。
巨人のお馬鹿さん打線が考えなしにぶんぶん振り回すものだから、榎田の術策にはまってしまった。頭脳派にはからきし弱いし、投手はチキンハートばかりのようだ。
巨人の打撃レベルはノンプロの打者以下のレベルなのだろうか?日記には、榎田はノンプロ時代のレベルから大きな進歩を遂げたのだと書いておこう。

4回の1死満塁の場面
ボウカーが三振、村田がファインプレーに阻まれ、無得点。これで流れは一挙に阪神へ。
ピンチを迎えてマウンドに駆け寄る阪神内野手
村田の安打性の辺りは美技に阻まれてしまった

 

いわき~小野~三春(8)

小名浜港の様子
東北一の商港であり、同時に有数の漁港でもあった小名浜港。漁港の部分の今の様子を見てみた。水揚げしても買っていただけない状況は相変わらず続いているので、相当に苦しいやりくりを強いられているのだと思う。

まき網船の接舷
福島県旋網漁協所属のまき網船2隻が平成24年5月末に完成したそうだ。たまたまその船が接舷中だった。
第1寿和丸(福島県旋網漁業協同組合所属):250トン、カツオ、マグロなどを漁獲する
第8共徳丸(福島県旋網漁業協同組合所属):199トン、サバ、イワシ、アジなどを漁獲する

まき網船の接舷_1
まき網船の接舷_2
まき網船の接舷_3
まき網船の接舷_4
まき網船の接舷_5
まき網船の接舷_6
まき網船の接舷_7
まき網船の接舷_8
まき網船の接舷_10
まき網船の接舷_10

第十八共徳丸
気仙沼に打ち上げられたあの第十八共徳丸なのだろうか?あの船は確かいわきの船だったはずだ。調べてみたが、どうやら保存か解体かで話題になったあの大型魚船のようだ。
あの第十八共徳丸

普通の漁船
まき網船に比べてかなり小型だ
普通の漁船_1
普通の漁船_2

こういう船舶も
こういう船舶も_1
こういう船舶も_2

工事中
工事中の場所も少なくない
工事中_1
工事中_2

 

いわき~小野~三春(7)

白水の阿弥陀堂(国宝)
福島県に存在する唯一の国宝(建造物)
阿弥陀堂周辺の様子
紅葉の時期も見事だと聞くが、桜の時期もなかなかだ
阿弥陀堂周辺の様子_1
阿弥陀堂周辺の様子_2
阿弥陀堂周辺の様子_3
阿弥陀堂周辺の様子_4
阿弥陀堂周辺の様子_5
阿弥陀堂周辺の様子_6
阿弥陀堂周辺の様子_7
阿弥陀堂周辺の様子_8
阿弥陀堂(国宝)
阿弥陀堂(国宝)_1
阿弥陀堂(国宝)_2
阿弥陀堂(国宝)_3
阿弥陀堂(国宝)_4
阿弥陀堂(国宝)_5
阿弥陀堂(国宝)_6
阿弥陀堂(国宝)_7
阿弥陀堂(国宝)_8
阿弥陀堂(国宝)_9
阿弥陀堂(国宝)_10
阿弥陀堂(国宝)_11
阿弥陀堂(国宝)_12
池の様子
池の様子_1
池の様子_2
池の様子_3
池の様子_4
池の様子_5
池の様子_6
国宝
 阿弥陀堂
重要文化財(国指定)
 木造阿弥陀如来及両脇侍像 3躯
 木造持国天立像(寺伝広目天像)・木造多聞天立像 2躯

白水阿弥陀堂(しらみずあみだどう)は、福島県いわき市内郷白水町にある阿弥陀堂である。
平安時代末期の建築で、国宝に指定されている。国宝指定名称は単に「阿弥陀堂」。所有者は真言宗智山派願成寺で、正式名は願成寺阿弥陀堂である。また、その領域は白水阿彌陀堂境域(しらみずあみだどうきょういき)として国の史跡に指定されている。
白水阿弥陀堂は、平安時代末期の1160年(永暦元年)に、岩城則道の妻・徳姫(藤原清衡の娘)によって建立された。徳姫は、夫・則道の菩提を弔うために寺を建てて「願成寺」と名付け、その一角に阿弥陀堂を建立したのである。
御堂は、方三間の単層宝形造で屋根は柿葺(こけらぶき)。堂内の壁板には壁画が描かれていたと思われるが、現在は一部に僅にその面影が残っているのみである。内部には阿弥陀如来像を中心に、両脇侍の観世音菩薩像と勢至菩薩像、ならびに二天像(持国天像、多聞天像)の5体の仏像が安置されている。
また、阿弥陀堂は東・西・南の三方を池に囲まれており、正面に当たる南から中ノ島を経由して御堂にいたる参拝道が設けられており、更に北・東・西は山で囲まれており、阿弥陀堂を中心としたこれらの空間は、正に平安時代末期に盛んだった浄土式庭園の様を成している。これらの構造は、徳姫が奥州藤原氏の娘であることも手伝って、毛越寺や無量光院といった平泉の寺院の構造に影響を受けている。実際に、「白水」という地名は、平泉の「泉」という文字を2つに分けた物で、岩城氏の本拠地であったいわき市の「平」という地名の由来に、平泉の「平」を取った物だという説がある。
阿弥陀堂はその後、後鳥羽上皇により勅願寺とされた。江戸時代には、徳川将軍家より寺領10石を与えられるなど、歴代の為政者に保護され、現在に至っている。


仮設住宅
放射能汚染で避難を余儀なくされている楢葉町の方たちの仮設住宅がここいわき市内郷白水地区にもあった。いつになったら故郷に戻ることができるのだろうか。本当に気の毒に思う。早く自宅に戻り、暮らせるようになってほしいと心から願う。
仮設住宅

 

いわき~小野~三春(6)

いわき市石炭・化石館『ほるる』(2)
模擬坑道
相当昔の家族単位での採炭作業の様子。裸に近い恰好で作業している。
坑内の様子_1
坑内の様子_2
坑道の維持管理シーン。ビデオで説明を受けたがなかなか緻密なもののようだ。
坑内の様子_3
昔の坑道
坑内の様子_4
少し近代化された頃だろうか。やはり家族単位のようだ。
坑内の様子_5
更に、機械化が進んだ。
坑内の様子_6
更に、機械化が進んだ。
坑内の様子_7
坑内の様子_8
坑内は蒸し風呂状態で、当然湧き出る水も温泉だ。これで汗を流したようだ。
坑内の様子_9
更に続く
坑内の様子_10
救助隊
坑内の様子_11
坑内の様子_12
更に近代化が進む
坑内の様子_13
坑内の様子_14
坑内の様子_15
坑内の様子_16
坑内の様子_17
坑内の様子_18

炭住の様子(相当昔のもの)
炭住の様子_1
炭住の様子_2
炭住の様子_3
炭住の様子_4

東北大震災の痕跡(1)
『ほるる』のような立派な施設でも被害があり、大勢に影響がない部分の補修はまだ着手できていない。
東北大震災の痕跡_1
継ぎ目から雨漏りしないように、ビニールテープで応急補修したままだ。満2年経過しても、待ち行列の序列が低いものはなかなか…
東北大震災の痕跡_2

 

いわき~小野~三春(5)

いわき市石炭・化石館『ほるる』(1)
いわきの石炭は残念ながら高品位炭とは言いがたい石炭だったが、温泉と化石はどんどん出ているようだ。
いわき市石炭・化石館は、常磐炭田の採掘の歴史と、市内で発掘された化石や、地球の歴史を物語る諸外国の化石資料を展示する施設です。

フタバサウルススズキイ(フタバスズキリュウ)
いわき市の中学校を卒業して、都会のお坊ちゃん高校生生活を享受していた頃、故郷でとんでもない化石が見つかったというニュースが。それも一つ年下の地元の高校生が発見したとのこと。すごい大きなショックを感じた記憶が。
白亜紀後期サントン階(約8500万年前)に日本近海に生息していた首長竜。爬虫類双弓類プレシオサウルス上科エラスモサウルス科に属する。全長約7m。日本国内で初めて発見された首長竜として著名。発見から38年後の2006年にようやく新属新種として正式に記載された。模式標本(標本番号:NSM PV15025)は国立科学博物館に保管されており、化石のレプリカは福島県のいわき市石炭・化石館などに展示されている。
フタバサウルススズキイ_1
フタバサウルススズキイ_2

イワキクジラ
これは知らなかった。フタバスズキリュウの発見から10年後に発見されたようだ。
イワキクジラは、いわき市四倉町八日十日の四倉高等学校付近より、昭和53年に発見されました。現在まで16個体確認されていますが、いずれもヒゲクジラ類に属すると思われます。このクジラ化石の中には肋骨に大型のサメの一種であるホホジロザメの歯がささっていたのもありました。
イワキクジラ

昭和の杜六坑園
昭和22年8月5日、昭和天皇が東北地方を初めて巡幸された折りに、ここで実際にトロッコに乗られた場所で、その時のエピソードを御製として残されている。
昭和の杜六坑園_1
昭和の杜六坑園_2
昭和の杜六坑園_3
昭和の杜六坑園_4
人が出入りしたり排気をするための「連卸(つれおろし)」
昭和の杜六坑園_5
昭和の杜六坑園_6
昭和の杜六坑園_7
昭和の杜六坑園_8
主に石炭の搬出される「本卸(ほんおろし)」
昭和の杜六坑園_9
炭坑への入口、「坑口」は多くの場合2つ並んでつくられます。
ひとつは主に石炭の搬出される「本卸(ほんおろし)」、もうひとつは人が出入りしたり排気をするための「連卸(つれおろし)」と呼ばれます。
画像の坑口は第六坑の「連卸」で、人車(じんしゃ)と呼ばれるトロッコが再現されています。
結構な急角度です・・・(*_*;
この坑口から多くの作業員が地下の坑道へと降りていきました。
この第六坑にはこんなエピソードがあります。
太平洋戦争の敗戦後、傷ついた国民を慰め励ますために昭和天皇が国内を巡幸しました。
1947年、昭和天皇が東北巡幸の最初の地として訪れたのが現在のいわき市です。
その折、この第六坑に立ち寄った天皇はここから坑内へ進み、作業員を激励したそうです。
「あつさつよき 磐城の里の炭山に 働く人を 雄々しとぞ見し」
昭和天皇が詠んだ歌が、御歌の碑として園内に立っています。
当時の天皇行幸はとても大きな出来事だったそうで、現在でも古いお宅にはそのとき行われたパレードの写真が飾られていたりします。
そしてもう一つ、石炭を運び出した本卸のほうも残されています。
場所は第二駐車場奥です。

 

いわき~小野~三春(4)

競走馬の温浴治療施設…競走馬総合研究所常磐支所
JRA競走馬総合研究所常磐支所内にある競走馬のためのリハビリ施設。ここでは、過酷なレースを戦い抜いてきた競走馬たちが、馬専用の温泉に浸かり休養をとったり療養している。いわば再生のための施設だ。過去にはグリーングラス、サクラスターオー、ミホノブルボン、ファインモーション、ノーリーズン、ヒシミラクルといった重賞勝ち馬もこの施設を利用して療養を行ったそうだ。
競走馬総合研究所常磐支所_1
競走馬総合研究所常磐支所_2

馬場でのトレーニング
馬場でのトレーニング光景_1
馬場でのトレーニング光景_2
馬場でのトレーニング光景_3
馬場でのトレーニング光景_4
馬場でのトレーニング光景_5
馬場でのトレーニング光景_6
馬場でのトレーニング光景_7
馬場でのトレーニング光景_8
馬場でのトレーニング光景_9
馬場でのトレーニング光景_10
馬場でのトレーニング光景_11
馬場でのトレーニング光景_12
馬場でのトレーニング光景_13
馬場でのトレーニング光景_14
馬場でのトレーニング光景_15
馬場でのトレーニング光景_16
馬場でのトレーニング光景_17
馬場でのトレーニング光景_18
馬場でのトレーニング光景_19
馬場でのトレーニング光景_20

温浴場
湯本温泉の豊富な湯量と泉質を利用した温泉療養は、疲労回復を促進するとともに、屈腱炎・関節炎などの故障の治癒に大きな効果をあげています。
温浴場

ウォータートレッドミル
ウォータートレッドミル_1
ウォータートレッドミル_2

スイミングトレーニング施設
スイミングトレーニング施設

逍遥(しょうよう)馬道
馬をリラックスさせるためのいわば「遊歩道」で、道に敷かれている茶色いものは土や砂ではなくウッドチップ(木屑)です。ウッドチップの上を歩かせることは、砂の上を歩かせることに比べて脚に負担をかけなくて済むからです。写真では木の陰になって見えにくくなってしまっていますが、外からまる見えでは馬がリラックスできませんから、これで当たり前でしょう。
逍遥(しょうよう)馬道

厩舎
厩舎_1
厩舎_2
厩舎_3
厩舎_4
厩舎_5
厩舎_6
厩舎_7
厩舎_8
厩舎_9

JRAのトラック
JRAのトラック

常磐支所の役割
競馬関係者は、競馬の主役である競走馬の健康管理に日頃より細心の注意を払っています。しかし、競走馬は厳しいトレーニングと競走によって故障を発症することも少なくありません。競走馬総合研究所常磐支所は、これらの競走馬を環境の変化と温泉療法によって回復させること、および温泉療法の効果に関する研究を行なうことを目的とし、昭和38年5月に設立されました。
常磐支所に入所する馬の大半は、屈腱炎や骨折を始めとする運動器疾患のために休養を余儀なくされた競走馬です。これらの馬を競走に復帰させるためには、故障を治療するとともに、低下した関節や筋肉の機能、さらにはトレーニングに耐え得る体力を回復させるためのリハビリテーションが必要です。適切なリハビリテーションの実施には、獣医学的な検査によって故障の回復程度を把握し、これに応じた治療と運動を実施することが重要です。そこで当支所では、運動器疾患の診断と治療法、およびスイミングプール、ウォータートレッドミル、ウォーターウォーキングマシンなどの施設を利用したリハビリテーションに関する研究に取り組んできました。この結果、従来は困難であった屈腱炎の予後判定と治療、さらには適切なリハビリテーション・プログラムの作成が可能となり、早期の回復と再発の防止に寄与しています。
設立以来、当支所で療養した競走馬は約2700頭にのぼり、その大半がGI競走を含むレースで活躍しています。今後も、傷ついた競走馬を競馬に復帰させ、ファンの皆様により質の高いレースを提供することが、常磐支所に課せられた使命と考えています。

 

いわき~小野~三春(3)

諏訪神社(2)
神社社屋ほか
神社社屋
神社社屋_1
神社社屋_2
神社社屋_3
神社社屋_4
神社社屋_5
神社社屋_6
神社社屋_7
神社社屋_8
神社社屋_9
石碑
石碑は苔むしていて、何と書いてあるのかわからなかった
石碑

夏井諏訪神社本殿
町重要文化財
指定昭和五十年二月二十六日
○本殿 一間社流造。中備蟇股、組物出三斗、寛文五年(西暦1665年)再建
○祭神 武御名方命、下照比売命
当社の縁起によれば、光仁帝宝亀年間(奈良時代)に、当時蝦夷と呼ばれていた東北地方の伊治村の城主砦麻呂が反逆し、国司の広純公を殺害した。 またその勢いで民を殺戮し暴虐の限りを尽していた。
このため、宝亀十一年五月(西暦780年)征東使として藤原朝臣継縄郷が任命され東奥に出伺した。そして此の地に陣をとり社壇を築き杉を植え 勝敵の祈願をこめ奥地に進発し諸々の敵を破り国府につく。翌天応元年三月数度の合戦に伊沼の柵を破り賊首砦麻呂を誅して凱旋。帰京し、其の後 本社を造営したという。境内参道にある「おきな」「おうな」杉はその当時植えられたものと伝えられて居り国の天然記念物に指定されている。
小野町教育委員会
小野町観光協会


狛犬
御大典記念と書かれていた
狛犬_1
狛犬_2
社務所
社務所

諏訪の大釜
どうやら古いものではないようだ
土用入の神社神事である湯花祭に因み、神社より諏訪の名を拝受し信者の総意を以って安置した、大釜であります
大釜_1
大釜_2

磐越東線の踏切
暫くいた間に一本も列車が通らなかった。本当に大丈夫なのか心配になってきた。
磐越東線の踏切_1
磐越東線の踏切_2

夏井千本桜
残念ながらまだまだ開花には時間がかかりそうだった。瀧桜の開花が心配になったほどだった。町役場の情報では、下記の見通しだそうだ。
開花 4月15日頃
見頃 4月20日頃

夏井千本桜_1
夏井千本桜_2

 

いわき~小野~三春(2)

田村郡小野町にて(1)
小野小町の出生の地であるという伝説がある。また、リカちゃんキャッスルもある。今回はそれとは全く関係のない話題で恐縮。
諏訪神社(1)
翁スギ媼スギ
見事な御神木ぶりに仰天。2本の杉の間にはお互いを干渉し合うような枝が殆ど出ていない。こういうものなのだろうか。
翁スギ媼スギ_1
翁スギ媼スギ_2
翁スギ媼スギ_3
翁スギ媼スギ_4
翁スギ媼スギ_5
樹齢1,200年を誇る大きな杉。仲睦まじい夫婦のように寄り添って、天高くそびえ立つ巨樹は、類例があまりありません。(国指定天然記念物)
媼スギ-ばばすぎ-(左・西側)   翁スギ-じじすぎ-(右・東側) 
根囲り:約10.85メートル      根囲り:約10.6メートル
目通り幹囲:9.5メートル      目通り幹囲:9.2メートル
樹高:47.8メートル         樹高:48.5メートル


ミズバショウとザゼンソウ
神社境内にはミズバショウとザゼンソウと思しきものがあった
ミズバショウ
ミズバショウ_1
ミズバショウ_2
ミズバショウ_3
ミズバショウ_4
ミズバショウ_5
ミズバショウ_6
ザゼンソウ
ザゼンソウ_1
ザゼンソウ_2

 

いわき~小野~三春(1)

三渓園の記事を一時中断して、『いわき~小野~三春』の記事を割りこませる。いつもは時系列的に記述しているが、今回は、最後から最初に向かって記事を作成していく。

三春滝櫻
前回行ったときは満開で見事だったのだが、週末で渋滞も半端なものではなかった。今回はそれに懲りて、平日でまだ3分咲き程度のものを見に行った。混雑渋滞は確かになかったが、肝心の桜の開花が私の頭髪程度で少し寂しかった。やはり大変な思いをしてでも、満開の時期に行けばよかったかなと思った。
いわきから高速を使わずにあちこち見ながら向かったが、途中から櫻の花が全く見られなくなり、かなり心配した。やはり阿武隈高地はいわきの海岸寄りの地域に比べてかなり寒い。昨10日の気温は10℃に達せず、夜半には降雪があるという予報。来週でもまだ大丈夫そうな感じに思えた。

三春滝桜_1
三春滝桜_2
三春滝桜_3
三春滝桜_4
三春滝桜_5
三春滝桜_6
三春滝桜_7
三春滝桜_8
三春滝桜_9
三春滝桜_10
三春滝桜_11
三春滝桜_12
三春滝桜_13
このショットのみFUJIFILM X20で撮影
三春滝桜_14
岐阜県根尾村(淡墨桜)、山梨県武川村(実相寺)の神代桜と並んで、日本三大桜として有名な滝桜は、大正11年10月12日、国の天然記念物の指定を受けた名木です。
また、平成2年6月2日「新名木百選」(緑の地球キャンペーンの一環として、読売新聞社と国際花と緑の博覧会協会が指定)に認定されるとともに、人気投票による「名木ベスト10」にも選ばれています。
開花期には、四方に伸びた太い枝から、真紅の小さな花を無数に咲かせ、その様はまさに滝が流れ落ちるかのように見えることから、古来より「滝桜」と呼ばれるようになったと言われています。
滝桜は、ベニシダレザクラで、寿命の長い桜です。それにしても樹齢1,000年と言われるまで長生きしているのは、桜久保というくぼ地にあって、強風を避けることができ、日だまりの中で周りの畑の栄養分をもらっていたためであり、また、昔から人々の滝桜に対する愛護の気持ちによって守られてきたためであると思われます。
滝桜は、江戸時代のころ、すでに京の都にすむ公家や歌人の間でも評判になり、「名に高き三春のさとの滝桜 そらにもつづく花の白波」などと歌にも詠まれています。
平成17年1月15日から17日の朝にかけて湿った大雪(約60cmから80cm)が降り、この積雪によって滝桜の樹、中位から上位部で枝が折れ落下する被害にあいました。
枝の折れ口部分については、植物研究者や樹木医等の指導を受け、処理を行いました。
折れた枝の一部は、ステーションに展示してありますので、お立ち寄りの際に見学いただけます。


三春ダム「さくら湖」
なかなか美しい景観だ。
阿武隈川の支流大滝根川に建設された多目的ダムで、平成10年に竣工しました。
このショットのみFUJIFILM X20で撮影。どうも屋外の撮影が不調な感じなので、ドッグ入りさせることにした。
三春ダム「さくら湖」

 

三渓園(5)

旧天瑞寺寿塔覆堂(重要文化財)

秀吉の母の大政所が大病に罹ったとき、秀吉はその平癒祈願のため京都大徳寺内に天瑞寺建てたのが最初。功験あって母が平癒したのを喜び、母の長寿を祝って、1592年(天正20年)に石造りの寿塔を建てた。そして、その覆いを作った。それがこの建物か。(建築年は立札表記のものを使用)
こちら寿塔の覆堂が重要文化財に指定されているのに対し、寿塔の方の扱いはやや寂しい感じ。京都大徳寺内の旧天瑞寺の跡地に建てられた龍翔寺にあるという簡素な説明にとどまるし、大徳寺の方を探しても、それを売り物にしているふうもない。徳川だって相当に軽んじられているんだから、その前の秀吉関連などは、存在が確認出来るだけでも良しなければならないのだろうか。

旧天瑞寺寿塔覆堂_1
旧天瑞寺寿塔覆堂_2
旧天瑞寺寿塔覆堂_3
正面に比してやや寂しい感じ
旧天瑞寺寿塔覆堂_4
旧天瑞寺寿塔覆堂_5

1591年(天正19年)建築
豊臣秀吉が母のために建てた寿塔を覆うための建物で、現在、秀吉が建てたものと確認できる数少ないものです。迦陵頻迦(かりょうびんが)や蓮の花などの彫りの深い装飾、そりあがった屋根は、荘厳さを感じさせます。
ひとこと&みどころ
寿塔とは、長寿を祝って生存中にたてる墓で、現在、寿塔は京都大徳寺内の龍翔寺にあります。

迦陵頻伽(かりょうびんが)は、極楽にいると言われている美声の鳥で、ヒマラヤ山脈に棲息する藪鶯に似た鳥で、卵のうちから啼きその声の美しいこと聞き飽きる事がないと言われている。
やがて美女の上半身と鳥の下半身を持つように表され、美しく舞う舞楽の祖と考えられるようになった。
美しい迦陵頻伽の姿はしばしば仏具に使用される。この彫刻は飛騨の里の甚五郎作と伝えられる添え書きがあったそうである。
眠り猫の作者とは違うようですが、昔から飛騨地方には木工の匠が多かったのでしょう。

 

三渓園(4)

臨春閣(重要文化財)(2)

亭樹から眺めた様子
亭樹から眺めた様子_1
亭樹から眺めた様子_2
亭樹
臨春閣の池に掛かる橋。如何にも風情がある
ちなみに三渓園発行のパンフレットにも「亭樹」と書かれていますが、これは正しくは「亭榭 (ていしゃ)」というそうで、「榭」は屋根のある台のこと。あずまや、見晴らし台、などのことです(大辞林による)。…『榭』の字は、木偏に射をつけた文字
亭樹_1
亭樹_2
この子たちは臨春閣に尻を向けているが、そちらの方向には、聴秋閣と春草廬とがある
亭樹_3

近くから眺めた第三屋
近くから眺めた第三屋_1
近くから眺めた第三屋_2
第三屋の内部
第三屋の内部_1
第三屋の内部_2
瓢箪文手水鉢
秀吉が愛用した手水鉢だそうだ
瓢箪文手水鉢

 

三渓園(3) 2013.04.08 22:35追記

臨春閣(重要文化財)(1)

ただ立派だと言う言葉しか出てこない。なぜ、聚楽第と巌出御殿とが混同されたのだろうか?判断する材料には事欠かなかっただろうに、そのことが不思議でならない。

下記解説にあるように、右端の区画(第一屋)が『遠侍』、中程の区画(第二屋)が『面会所』、左端の区画(第三屋)が『居間』。
臨春閣のほぼ全体の様子
1649年(慶安2年)建築
桃山時代に豊臣秀吉が建てた聚楽第の遺構と伝えられていましたが、現在では和歌山県岩出市にあった紀州徳川家の別荘 巌出御殿(いわでごてん)ではないかと考えられています。内部は狩野派を中心とする障壁画と繊細・精巧な数寄屋風書院造りの意匠を随所に見ることができます。
※障壁画は複製画で、原本は園内の三溪記念館で収蔵し定期的に展示を行っています。
ひとこと&みどころ
部屋の境にある欄間には、波の彫刻(第一屋)や、和歌を書いた色紙(第二屋)をはめ込むなどの工夫が凝らされています。 なかでも面白いのは、第三屋「天楽の間」にある欄間で、ここには、雅楽に馴染み深い笙と笛など本物の楽器があしらわれています。
紀州から徳川家8代将軍となった徳川吉宗は幼少期、巌出御殿に遊び育ちました。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
臨春閣は、大正四年に三渓園に移築されました。
それまでは慶安二年(一六四九)造営の紀州徳川家の別邸・巌出御殿(いわでごてん)であろうと考えられています。
宝暦十四年(一七六四)に紀州家より泉州佐野の豪商・飯野家に下賜され、大阪・春日出新田(現在の此花区四貫島付近)に移築され、後に原氏の手に渡りました。
現在、我が国に残る唯一の大名別荘建築で、屋内の障壁画は狩野伝永徳・伝山楽・探幽らの筆になるものです。
向かって右手の玄関側より、第一屋・第二屋・第三屋の三棟の建物からなりますが、二階造の第三屋は、三渓園移築前は第一屋の右側に建てられていました。
第一屋は取次や警護の家臣が詰める遠侍、第二屋は面会所で、南側は内苑池にかかり(巌出御殿時代は紀ノ川にせり出していたもの)、開放的な数寄屋風の造りです。
第三屋は、欄間に笙(しょう)などの楽器や百人一首の色紙形を散りばめるなど、自由な意匠から居間に用いられていたようです(毎年8月1日~16日一般公開)

  
ここが本来の玄関口?
閉めきってあるので、よくわからない。多くの写真は池側からのショットばかりで、この部分に関する説明は殆ど見当たらない。
ここが本来の玄関口?_1
ここが本来の玄関口?_2
玄関口が開いたフリー画像が見つかったので追記する
玄関口が開いたフリー画像
如何にも写真向きな佇まい。少し遠目から撮ってみた。
少し遠目から撮ってみた_1
少し遠目から撮ってみた_2
少し遠目から撮ってみた_3
第一屋
遠侍の部屋ということなのかやや暗い感じ
第一屋_1
第一屋_2
第二屋
第二屋_1
第二屋_2
第二屋_3
第二屋_4
第二屋_5
第三屋
第三屋
第二屋を池側から見た様子
池に浮かぶようなしつらえになっている
第二屋を池側から見た様子_1
第二屋を池側から見た様子_2
第二屋を池側から見た様子_3

 

三渓園(2)

鶴翔閣を出て内苑に向かう。途中には睡蓮池と大池とがある。
三渓園map

睡蓮池
前回アオサギのいた池は蓮池で、こちらは睡蓮池だそうだ。最初はゴミ(失礼)かと思ったが、睡蓮の葉のようだった。季節が到来していない所為かまだくすんだ色合いだった。
睡蓮池

大池(2)
睡蓮池の前辺りから見た大池
睡蓮池の前辺りから見た大池_1
睡蓮池の前辺りから見た大池_2

旧燈明寺の三重塔
大分近くに見えてきた。重文のこの塔については別の回で取り上げる。
大分近くに見えてきた旧燈明寺の三重塔_1
大分近くに見えてきた旧燈明寺の三重塔_2

ここからは内苑

御門(横浜市指定有形文化財)
建築年は、宝永5(1708)年頃。移築は大正時代。京都東山の西方寺にあった薬医門だそうだ。かなり立派なものだ。
御門_1
御門_2
御門_3
御門_4

御門から先の様子
御門から先が三渓園の内苑になる。内苑はprivate zoneとして大事にしていたようで、外苑と扱いが異なりずっと非公開だった。
突き当りに重文の臨春閣のごく一部が見えている。右側の塀の中に白雲邸が建つ。

御門から先の様子

白雲邸(横浜市指定有形文化財)
鶴翔閣と同様に貸出施設になっているようだが、隠居所として造られただけあって、御門から続く塀によって目隠しされていて、外観さえもよく見えず、残念な限りだ。でも公開されている写真を見る限り素晴らしい施設であることは間違いないようだ。明治以降における和風建築を代表するものとされる。(毎年8月1日~16日一般公開)とのことだ。
家族と暮らした鶴翔閣から離れ、亡くなるまでのおよそ20年を夫人と過ごした住まい。自らの着想で同郷の大工山田源市に建てさせたもので、臨春閣と呼応するようL字型の間取りで中庭を作り、内苑の古建築と総合的に計画されています。吟味された材料と伝統工法に基づいた数寄屋風のつくりは、鶴翔閣と同じく和風のライフスタイルを貫いた原三溪の木造建築への深い理解が読み取れますが、椅子・テーブル席となる談話室や屋根の構造など、近代的要素を和風建築へ導入する試みもみられます。
白雲邸の門_1
白雲邸の門_2
白雲邸の門_3
白雲邸の見取り図

 

三渓園(1)

三渓園は、明治から大正時代にかけて製糸・生糸貿易で財を成した原三渓氏の個人所有の庭園だった。今でこそ、財団法人の管理に移されているが、個人がこのような国指定の名勝に指定された庭園と10件12棟(内2件2棟は財団移行後移築)にも及ぶ重要文化財の建築を集めたとは、本当に凄いものだ。一つ一つが吟味されたもので、決して成金の趣味ではないところが更に凄い。

入り口(正門)付近
あまり有り難くないグループかな?
アメリカンスクールのガキどもはぺちゃくちゃうるさいから個人的にはあまり好きではない。こういう静かなところでも、彼らはおとなしくしていられるだろうか?
アメリカンスクールの子供たちのバス
入り口(正門)
入り口(正門)_1
入り口(正門)_2
入り口を過ぎたあたりの景色
最初に目に飛び込んだ景色からして凄い。一目見て、六義園や浜離宮恩賜庭園などより凄いものだと思った。
最初に目に飛び込んだ景色

大池(1)
カワウやカルガモはともかく、渡り鳥の筈のキンクロハジロまで居て驚いた。このショットからは見えないが、少しだけ歩くと、旧燈明寺の三重塔が見えてくる。
大池(1)_1
大池(1)_2
大池(1)_3
大池(1)_4
大池(1)_5
大池(1)_6

蓮池
何か動き出す素振りを見せたので餌でもついばむのかとおもいきや、アオサギはカメラを向けている爺さんを威嚇したに過ぎなかったようだ
蓮池_1
蓮池_2

鶴翔閣
こんなに立派に見える建物だが、重文ではなく横浜市指定有形文化財だそうだ。当日は貸出中だとのことで、内部は見学できなかった。この建物は明治35年に原三渓氏が個人用の住宅として建てた建物とのこと。
鶴翔閣_1
鶴翔閣_2
鶴翔閣_3
鶴翔閣_4

 

江戸東京たてもの園(21)

W1常盤台写真場(ときわだいしゃしんじょう)

常盤台写真場は常盤台駅からすぐの場所で写真スタジオを営んでいるとのこと。その創業当時の建物が移築されている。
まず、板橋区常盤台が健康住宅地として開発された郊外住宅地だったとは、隔世の感がある。そこにモダンな街造りがなされ、この写真場もそのモダンな街の景色の一部になっていったようだ。
今でこそ古めかしい建物のように思われる向きもあろうが、当時の人には随分とモダンな建物に映り、ここでの記念写真撮影の希望が殺到したのではないかと推察される。
国民総カメラマンの時代に写真スタジオの経営は大変かもしれない。それでもアマチュアの追随を許さないノウハウで頑張っているのだろう。

当時の常盤台地区の町並み地図
当時の常盤台地区の町並み地図
常盤台写真場外観
常盤台写真場外観_1
常盤台写真場外観_2
常盤台写真場外観_3
常盤台写真場内部
常盤台写真場内部_1
常盤台写真場内部_2
常盤台写真場内部_3
常盤台写真場内部_4
常盤台写真場内部_5
常盤台写真場内部_6
常盤台写真場内部_7
常盤台写真場内部_8
常盤台写真場内部_9
常盤台写真場内部_10
健康住宅地として開発された郊外住宅地常盤台に建てられた写真館です。
照明設備が発達していない当時、最も安定した照度を得るために、2階写場の大きな窓には北側から光を採ることができるように摺りガラスがはめこまれています。
[板橋区常盤台一丁目/1937年(昭和12)]


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3月31日の様子

イースター(復活祭)の日だった。その日の様子をX20で撮ってみた。一眼レフで撮るようなわけにはいかなかった。

イースターのミサ
相当な参加者で聖堂内は溢れかえっていた。聖体を予め相当数を用意していたが、それでも足らなくなったようだ。キリストのような奇跡は司祭には起こせなかったようで、そのことを詫びたほどだった。
ミサ開始前
ミサ開始前
聖体拝領時
聖体拝領時_1
聖体拝領時_2
ミサ終了直後
ミサ終了直後_1
ミサ終了直後_2
ミサ終了直後_3

孫達も小聖堂で受洗
孫達も小聖堂で受洗_1
孫達も小聖堂で受洗_2

途中の道筋で
教会への道筋にあるお店…古い扉というわけではないが、そのように見せている
古い扉というわけではないが
源平桃
源平桃も早くに咲いた。毎年咲くのを楽しみにしている源平桃だが、今年は桜と同様にとびきり早く開花したようだ。
源平桃_1
源平桃_2
花海棠
花海棠_1
花海棠_2

 

日米親善よこすかスプリングフェスタ(7)

基地内で見かけた車両
大した車両がなくて残念な感じ
小型の乗用カート。3人が乗用していたが、かなり窮屈そうだった。
小型の乗用カート
PIZZA HUTの配達用車両のようだ
PIZZA HUTの配達用車両のようだ
小型の運搬用カート
小型の運搬用カート
車両といえば車両。はしご車だ。
はしご車

イベント会場
ものすごい混雑ぶりだ
イベント会場はものすごい混雑ぶり_1
イベント会場はものすごい混雑ぶり_2
イベント会場はものすごい混雑ぶり_3
イベント会場はものすごい混雑ぶり_4
こんなアクシデントも。さすが米兵たち。キビキビ対応して、喉をつまらせたあわてんぼうのおっさんも事なきを得たようだった。
アクシデントにもキビキビ対応_1
アクシデントにもキビキビ対応_2
アクシデントにもキビキビ対応_3
おいしそうだけど、こんな体型にはなりたくない
おいしそうだけど、こんな体型にはなりたくない_1
おいしそうだけど、こんな体型にはなりたくない_2
AFN(エイエフエヌ、正式名称:American Forces Network-米軍放送網)の特設スタジオ
まだ準備中のようで、アナウンスはしていなかった
AFNの特設スタジオ_1
AFNの特設スタジオ_2
買い込んだ食材でお花見
買い込んだ食材でお花見_1
買い込んだ食材でお花見_2

おまけ
鳶とカモメも大興奮(トリミング無し)
鳶とカモメも大興奮_1
鳶とカモメも大興奮_2
鳶とカモメも大興奮_3
横須賀中央駅前での大道芸
成年がパフォーマンス中で、少女は出番待ちなのか。
横須賀中央駅前での大道芸_1
横須賀中央駅前での大道芸_2
横須賀中央駅前での大道芸_3
横須賀中央駅前での大道芸_4
横須賀中央駅前での大道芸_5
横須賀中央駅前での大道芸_6
横須賀中央駅前での大道芸_7

以上で『日米親善よこすかスプリングフェスタ』シリーズはおしまいです。最後までアクセスいただき有難うございました。

 

日米親善よこすかスプリングフェスタ(6)

ミサイル駆逐艦マスティン(3)

艦の前方部分
やっと艦の前方部分に出た。何やら記念写真コーナーになっているようだ。
記念写真コーナー
記念写真コーナー_2
艦首
艦首_1
艦首_2
Mk 45 5インチ砲
イージス艦の主たる兵器はミサイルではあるが、汎用性が高く、即応性にも優れることから、通常型の艦砲も搭載している。『Mk 45 5インチ砲』というもので、相当に強力なもののようだ。対空戦闘、軍艦や沿岸への艦砲射撃などの用途を想定して設計されているとのことだ。
艦砲_1
艦砲_2
以下はフリーの画像を借用
本来ならばこんなふう。ゴロゴロ転がっているのは薬莢だろうか。
艦砲射撃演習
05018927.jpg
Mk 41垂直発射システム
これは何かわかるだろうか?ミサイルを垂直に発車する装置だ。当然それを誘導して目標物に当てるわけだ。それでこそ、DDG(Arleigh Burke-class guided missile destroyer)の名にふさわしいのだ。
Mk 41垂直発射システム (Mk-41 Vertical Launching System)は、世界的に広く用いられているミサイル発射システム。垂直発射方式を採用しており、スタンダード艦対空ミサイル、トマホーク巡航ミサイル、アスロック対潜ミサイルなど、幅広い種類のミサイルを運用することができる。
Mk 41垂直発射システム_1
Mk 41垂直発射システム_2
以下はフリーの画像を借用
本来ならばこんなふう…トマホーク打ち上げ
Mk 41垂直発射システム演習_1
Mk 41垂直発射システム演習_2

再び覆ってある部分に
再び覆ってある部分_01
再び覆ってある部分_02
再び覆ってある部分_03
早くも下船
早くも下船_1
早くも下船_2
海賊対策用の機銃のようだ
海賊対策用の機銃のようだ
桟橋から見ると艦上には結構な人数が
桟橋から見ると艦上には結構な人数が

 

日米親善よこすかスプリングフェスタ(5)

ミサイル駆逐艦マスティン(2)

以下はフリーの画像を借用
航海中のミサイル駆逐艦マスティン

ここから艦内に入る
通路は迷路のようであり、なおかつ極めて狭い
通路は迷路のよう_1
通路は迷路のよう_2
通路は迷路のよう_3
通路は迷路のよう_4
通路は迷路のよう_5
通路は迷路のよう_6
通路は迷路のよう_7
通路は迷路のよう_8
この艦はステルス性をもたせているため、覆っていない部分は多くないのだが、そういう覆っていない部分…何のことはない、Mk 32 短魚雷発射管などがあるからだ
パワーボートを積載していた
パワーボート_1
パワーボート_2
Mk 32 短魚雷発射管
Mk.32 SVTT (Surface Vessel Torpedo Tubes)は、アメリカ海軍が開発した水上艦装備の魚雷発射管。324mm口径であり、Mk.46やMk.50などの短魚雷を使用する。アメリカ海軍のほか、日本の海上自衛隊をはじめとして、西側諸国の海軍で広く使用されており、標準的な対潜兵装である。
Mk 32 短魚雷発射管_1
Mk 32 短魚雷発射管_2
以下はフリーの画像を借用
本来ならばこんなふう
Mk 32 短魚雷発射管使用訓練_1
Mk 32 短魚雷発射管使用訓練_2

ちょっとだけスペースのある部分に出た

ちょっとだけスペースのある部分_1
ちょっとだけスペースのある部分_2
再び覆ってある部分に
何の化粧もしていないから、ワイルドな感じが強くする
再び覆ってある部分_1
再び覆ってある部分_2
再び覆ってある部分_3
再び覆ってある部分_4

 

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